tag:blogger.com,1999:blog-11291392190416655362024-02-20T15:54:52.477+09:00低体温小説庭園オリジナル百合小説倉庫俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.comBlogger28125tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-38493815690530179952014-12-08T23:30:00.000+09:002017-10-17T23:45:14.842+09:00当ブログについて<br />
<b>※新作長編着手。がんばるぞい</b><br />
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当ブログは、俄雨が執筆したオリジナル小説の公開を目的としたブログです。<br />
現在は百合小説メインです。 <br />
東方系二次創作をメインとしたブログは下記のリンク。 <br />
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現在公開中の作品 <br />
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<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/02/school-lore.html">長編 「心象楽園/School Lore」</a> <br />
(近未来日本を舞台にした学園百合伝奇小説)百合<br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/05/blog-post_12.html">短編 「藤堂藤子の恋愛事情」</a><br />
(逃げるヒトと逃げられるヒトと迫るヒト。容量120kb程度)百合<br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/05/blog-post_25.html#more">掌編 「ある日の家呑みで」</a><br />
(お酒を交えて。大人になってしまった二人。容量30kb程度) 百合<br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/07/blog-post_7407.html">不定期連載 「こんてにゅーわーるどおーだー!」</a><br />
(異種族同性友愛交流小説。一篇50kb程度)百合<br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/12/blog-post_1.html">長編 「私の幼い女王様」</a><br />
(二十歳の引きこもりと十歳の少女の物語。容量300kb程度)百合 <br />
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リンク(当方)</div>
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<a href="https://twitter.com/niwaka346">ツイッター</a>(同人、アニメ)<br />
<a href="https://twitter.com/niwakaame2">ツイッター</a>(主に百合全般)<br />
<a href="http://niwakassblog.blog41.fc2.com/">基本的に後ろめたいブログ(東方系)</a></div>
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リンク(お世話になっている方)<br />
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<a href="http://www.newvel.jp/">NEWVELさま</a><br />
(オリジナルWEB小説リンクサイト)<br />
<a href="http://www5d.biglobe.ne.jp/~coolier2/">Coolierさま</a><br />
(東方同人作品投稿サイト)<br />
<a href="http://www.dabun-doumei.com/rank.cgi?mode=r_link&id=18092">駄文同盟.comさま</a><br />
(創作系検索サイト) <br />
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自己紹介とか↓ </div>
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<a name='more'></a><br />
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主に東方系で同人活動をしながらオリジナルも始めたりする。</div>
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読者数零の悪夢から十年そろそろ克服したのでブログなどを始めました。</div>
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【過去の主な活動】</div>
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同人小説<br />
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<br /></div>
阿求考(新書104P)<br />
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咲夜考(B5 80P)<br />
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<br /></div>
八雲考(B6 124P)<br />
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Witch of Life(B6 160P)<br />
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<br /></div>
死せる君の箱庭(B6 92P)<br />
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空想浄土(B6 170P)<br />
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<br /></div>
にんふぉまにあっくす【R-18】(B6 120P)<br />
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東風谷早苗友人録(B6 86P)<br />
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同人漫画(脚本)</div>
NYMPHOMANIA【R-18】(作画wi-z B5 56P)<br />
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その他なんか沢山。創想話にたぶん20くらいあった気がします。</div>
俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com17tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-51058589039634419522013-12-24T23:00:00.000+09:002013-12-24T21:01:55.317+09:00私の幼い女王様 について<br />
<br />
<b>もくじ</b><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html">1、『日々』</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html">2、『信心』</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/12/blog-post_15.html">3、『亡国』</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/12/blog-post_4608.html">4、『肯定』</a><br />
<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
――当たり前の幸福という虚妄は、人間における精神病の一種である。</div>
<div style="text-align: center;">
その価値基準は定まらず、何処にあるか解らず、何によって齎されるかも不明であり、現実感はなく、しかし漠然として意識に刷り込まれた、拭いきれない厄介な病だ――</div>
<br />
<br />
<br />
<br />
あらすじ↓<br />
<br />
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<br />
<a name='more'></a><br />
<br />
<br />
旗本竜子は引きこもりであった。外の世界を断ってもう二年半になる。<br />
進歩はなく未来はなく、幸福も夢も無い彼女だったが、ただ唯一、自身を認めてくれる存在がいた。<br />
隣に住む十歳の少女、水木加奈女である。<br />
とても子供とは思えない知性を持つ彼女は、竜子を臣下か下女か、民か信者のように扱うのだ。<br />
一切の社会に属さず、心に傷を持った竜子にとって、加奈女との交流こそが営みであり、彼女と対話する機会が設けられるベランダこそが世界であった。<br />
<br />
二十歳の引きこもりと十歳の少女。そして一人の来訪者による、理性と愛情、そして信心の物語。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-85497078871495640982013-12-24T21:00:00.000+09:002014-12-04T21:40:50.806+09:00私の幼い女王様 4、肯定<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"> </span><br />
<span style="line-height: 27px;"> 4、肯定<br /><br /><br /> 大人になりたかったあの子、大人になれなかった私、そして大人になりたくなかったあの人。私達三人が思い描いた理想というのは、思いの外陳腐で、解りやすく、しかし、果てしなく遠いものだった。<br /> 当たり前の幸福という虚妄は、人間における精神病の一種である。その価値基準は定まらず、何処にあるか解らず、何によって齎されるかも不明であり、現実感はなく、しかし漠然として意識に刷り込まれた、拭いきれない厄介な病だ。<br /> この病から逃れる術も、治療法も、特効薬も存在しない。私達は命果てるその日まで、形の無い幻影を追い続けることになる。<br /> 私は命を大切にせよという名言や標語が大嫌いだ。セットで語られるのはいつも幸福である。<br /> その定義も曖昧なままに持て囃される命は宝などという意味不明な主張は、聞くたびに殴りつけたくなるものだ。<br /> そもそも、それは大体自分の為だからだ。<br /> 近しい人の命を守りたいのは、自分が悲しみたくないからである。死んだ人間に悲しみも何も無い。相手に生きて欲しいという希望は悉く自分勝手であり、救いようのないエゴの塊だ。<br /> そしてその考えそのものが、私であった。<br /> どうやら本来はそれで正しいらしいが――私は嫌で、気持ち悪くて、その苦悩に耐えられず自らの命も天秤にかけたのである。<br /> 彼女の本当の想いは、実際のところ何一つ解らない。そもそも、私の想いだって解らない。愛とは何なのかなどという問いまで行きつき、それに答えを出そうと必死になるほど、解らない。<br /> 彼女の死が齎したものはただ一つ、私はごく一般的な人類と同じように、幸福探索病を患い続けろという現実のみである。<br />「んぐっ……くああ」<br /> コーヒーを啜ってから、私は椅子の背もたれで伸びあがる。欠伸を一つし、改めて後ろを振り返る。<br /> 実に寂しい。何も無いだだっ広いリビングだ。家具らしいものと言えば何だか高そうな五人掛けのソファーにテーブルぐらいなものである。私はリビングの端に設けられた事務デスクでパソコンに向かい合っている状態であるから、その空間における虚無度は果てしない。<br /> それにしても、慣れない作業というのは思っていた以上に苦痛なものだ。思わず思考が関係ない方向に飛びだしたので、一端頭を切り替える。<br />「んー……自動車の新車……システム問題あり……あー……ハナエ株持ってたかな……」<br /> 複数用意されたパソコンを弄りながら、国内外のニュースを集めてはブログにあげて行く。<br /> 時事ニュース、事件事故ニュース、面白ニュース、エンターティメント、アニメゲームの計五つのブログをひっきりなしに更新する仕事であるからして、作業はかなりの量になる。集めたニュースに関連するアフィリエイトを探して張りつけるだけで午前は終わってしまう。<br /> 時計を見れば既に十三時を回っていた。私は携帯を取り出し、ハナエに連絡する。<br />「もしもし」<br />『はいはい』<br />「お腹すいた」<br />『用意してあるから、おいで』<br />「うん」<br /> 携帯を切り、鏡を見て前髪を整えてから、私は事務所を後にする。<br /> およそ30秒でハナエの家に到着した。<br /> ハナエが倉庫にしようとしていた部屋で、私は仕事らしい何かをしている。単なるアフィリエイト稼ぎであるからして会社に所属している訳でも、社会に出ている訳でもないが、定時が決まっており、お手伝い料という名の給料も出るので、感覚としてはバイトである。<br /> 部屋に上がり込むと、直ぐにトマトの匂いに気が付く。リビングではタンクトップにエプロンという姿のハナエが私を待っていた。<br /> 可愛らしい。抱きつきたくなる。<br />「まるで新妻」<br />「それはアンタもだ」<br /> どうやらパスタらしい。ネットでレシピを引いて作った割には、見た目も良い。しかし良く考えれば、彼女は少し前まで家の事を全てやっていたのだから、出来て当然なのかもしれない。<br />「美味しそう。やっぱり上手だね」<br />「まあなあ。食べて見て」<br />「頂きます」<br /> 席に付き、食事にありつく。このような生活を始めてから、もう二か月ほどたっただろうか。私とハナエは半ば同棲のような形を取っている。いや、ほぼ結婚だろうか。生憎制度上無理なので、世知辛くはあるが、これはこれで満足のいく生活形態であった。<br />「この前裸で中華鍋振るってたじゃん」<br />「油跳ねる跳ねる……やっぱ裸エプロンで作るならインスタント食品がいい」<br />「雰囲気が無さ過ぎるだろそれ」<br />「えっち」<br />「解った解った。今度は私がやるからさ」<br />「揚げ物が良い」<br />「最悪じゃねーか」<br /> そんな会話をしながらパスタを突く。味は可もなく不可もなく、なんともハナエらしい味である。基本外食で済ませていたのだが、やはり女二人でいるなら料理ぐらいしなきゃな、などと提言したハナエに乗り、現在は二日交代で料理をしている。<br /> 私達の関係性をどう説明すべきか、なかなかに困った問題だった。<br /> 母は許容しているが、父は予想通り難色を示した。自分の娘が同性愛者で孫の顔は拝めないと解った時の父の顔といったら、何だか忘れられないものがある。<br />『……な。ん? ええとだな、つまり、女が好きだと?』<br />『まあ、そうなるんでしょうか』<br />『お前が閉じこもった原因は、当然理解を示すが……父として、ううん、ミチ』<br />『良いじゃありませんか。ハナエさん、とても良い人ですよ。アナタからすれば、不思議な事かもしれませんけれど』<br />『それで良いのか、お前』<br />『引きこもりの娘が外に出るようになったのも、未来を見るようになったのも、ハナエさんが居たからです。両親としては、娘の幸せを第一に考えるべきだと思います』<br />『ははは。ああ、ええとですな。体面上の話をしたところで、なかなか納得して貰えるもんじゃないと思う訳ですよ、お母様。とにかく、私はタツコが好きです。愛してます。私がこの子を幸せにします』<br />『……は、ハナエ、それは恥ずかしい……』<br />『――親父達にどう説明する』<br />『そういうプライドが、娘を不幸にしたのだと、私は思います。この子は誰の子ですか。私達の子でしょう。お父様達にどれほどの関係がありますか』<br />『……ミチ、私がそれで納得すると思うか?』<br />『ええ。プライドが高くて、狭量ですけれど、私の旦那は決断出来る人です』<br />『う、ううむ……』<br /> 父の判断は保留だった。父はプライドの高い人物であるし、何より世の中の規範からはずれたり、当たり前の事が出来ない人間を極端に嫌う。確かに私の例もそれに当てはまるかもしれないが、流石に性の差の問題ともなると、父も一概に判断出来なかったのだろう。<br /> 父としてどのような気持ちだろうか。娘としては一抹の申し訳無さもあるが、父の望むような人生は恐らく、今後も訪れないだろう。<br /> 状況としては保留、状態としては同棲であるから、無難な位置である。<br />「そういや、澪さんには最近あったか」<br />「うん。何でも結婚するとかで」<br />「あー……まあ、思う所は私達以上にあっただろう」<br /> つい三日前の事だ。実家に戻った所、澪が訪ねて来た。マンションの部屋を引き払い、結婚して家庭に入るという。彼女の話では以前から懇意にしてくれたお客さんで、会社社長らしい。会社といっても小さな町工場で、大してお金は持っていないけれど、などと笑いながら話していた。<br /> 娘を失った悲しみを埋める事、流石に夜のお仕事だけでは未来が観えなくなった事……娘の存在が結婚の障害として立ちはだかっていた事、それを、彼女は包み隠さず話してくれた。<br /> 酷い話だろう。<br /> だが現実、何時死ぬか解らない娘を引き取りたいという男がどれほどいるだろうか。愛は確かに様々な障害を乗り越えるかもしれない。しかし絶対ではない。澪も悩んだ事だろう。<br />「感情っていうのは凄いパワーでさ、現実を踏み倒してでも理想を追求しようとしたりする。だが残念ながら、大体はその感情に自身の力が追い付いていない、そして周りはその理想を理解し、許容したりしてはくれない。どんな不幸を被ろうと戦い抜こうって決意があっても、運が向かねばそれまでだ。澪さんはまさに、体現してしまった人だろう。いやだね、まだ二十代でさ、こんな夢の無い話したくないね……まあ、幸せになれると、良いな。心から、そう思う」<br />「ハナエは、私にとっての現実なの。カナメは、私にとっての理想だった」<br />「そうだな。でも別に、その気持ちを捨てる必要はないさ。胸に抱き続けての、信仰心だ」<br />「ハナエは、優しいね。理屈臭いけど」<br />「酷い事言うなあ」<br />「褒めてるの。そんな貴女が良いから」<br /> ハナエが目をパチクリとさせてから、照れ隠しに笑う。なんだかんだと女の子な彼女が、私は本当に可愛らしく思えた。<br /> ……今この場を、この食卓を私は恐らく幸福と思うだろう。そしてハナエも恐らく、そう思うに違いない。<br /> たいそうな事である。贅沢な話だ。だが私には、それを申し訳なく思う気持ちがある。そして、そんな事を考える自分が、また嫌なのだ。<br /> 目の前の幸福を受け取れない。差し出された素敵なものを、素敵と言ってあげられない。<br /> 私の精神構造は決して変わる事はなかった。<br /> 二十歳にもなって心が入れ換わる訳がない。犯罪者が根本から更生するなど私は一切信じていない。同様に私は変わりようがない。<br /> 水木加奈女は私と居て満足であっただろうか。私は恐らく満足だった。<br /> では彼女が死に、残された私はどうなる。<br /> ハナエは現実なのだ。現実は理想に直接結びついこそいるが、現実は常に足掛かりか土台である。ハナエが私の女王と、神となる事はないだろう。<br /> 私の満ち足りた世界というのは、水木加奈女あってこそだった。そこをハナエに挿げ変えた所で、ものが違うのだから、座りが悪くて当然である。<br /> 苦悩の末に至った『水木加奈女』という理論だ。そうそう捨てられるものではなく、代替えを探してしまうのも、また仕方の無い事なのかもしれない。<br /> ハナエはカナメの変わりでも良いというだろう。言うだろうが、私が納得しないのでは意味が無い。<br /> そもそも彼女を代替えにし……<br />「タツコ」<br />「あっ――あ、う。ごめんなさい」<br />「最近安定してきたと思ったが、まだ呆けるな」<br />「うん。良くなったとは思うの」<br />「頑なに病院には行かないのな」<br />「あそこはダメ。悪化する」<br />「ま、そうだろうなあ。食器、そのままでいいぞ。お茶入れるから、テレビでも見てな」<br />「うん」<br /> 言われるまま、私は席を立ち、ソファに腰かけてテレビをつける。大して面白くも無いコメンテーターの偉そうな物言いを鼻で笑いながら、私は手近な所にあった鏡を取る。<br /> 髪が延びた。一度決心して美容院に行ったのだが、もうその時も散々だ。常にハナエが隣に居ないと、他人に触られる不快感と恐怖に潰されてしまうのである。ハナエに手を握って貰いながら髪を整えて貰うという、美容師も苦笑いのものだった。<br /> 親しくなれば否定感も生まれないというのは解りきった事なので、その女性の美容師さんと懇意になるのが、目下私がビジュアルを維持する為の努力となる。<br />(……あの時は必死だったしなあ)<br /> カナメと顔を合わせる為に髪を切った事を思い出す。つい最近の事であるのに、もう数年も経ってしまったかのような懐かしさがあった。<br /> 頭からビニールを被って顔に美顔パックをして……何とも恥ずかしい。<br />「はいお茶」<br />「ありがと」<br /> ハナエが隣に腰掛け、私を肩から抱く。ハナエは寂しがり屋だ、同棲するようになり、ますますそれが身にしみる。<br />「お茶飲めない」<br />「タツコ、なんか良い匂いする」<br />「オーデコロンかな。好き?」<br />「うん。アンタに合う匂い」<br />「そっか」<br /> 私は猫をあやすようにしてハナエを可愛がる。彼女は私に触られるのが好きだ。手を伸ばし、首筋から肩にかけて撫で、腰に回す。そうすると、ハナエはいつも幸せそうな顔をする。<br /> 理屈臭く、女性らしい感性を置いてけぼりにした人だ。根本的な部分は優しさに飢えており、執拗で、子供っぽい。恐らく何もかも、生活環境が齎し、形成したものだろう。<br /> こんな寂しがりの彼女こそ、家族を増やすべきなのだろうが、生憎私達は子供が作れない。そして彼女はその分、私に強く依存する。当然彼女の依存は私にとって都合が良い。しかし依存が深まれば深まるほど、もし離れてしまったら、もし気持ちが無くなってしまったらといった将来への不安が大きくなるのだ。<br /> 私達は後世に何一つ残す事なく、消え果つる運命にある。互いが手塩にかけて愛し、共同の理想を思い描くべき子供は、齎されないのだ。<br /> 子供というのは、ある種契約の具現化である。これが無い私達は、一般的な異性愛者達よりも、強い繋がりを必要とされる。ハナエのいう「愛だけではどうにもならないもの」の一つだ。<br />「……ねえハナエ、ペット飼おう」<br />「んあ、なんだそれ。思いつかなかったな。おお、いいぞ。何が良い?」<br />「犬が良いかな。おっきいの」<br />「レトリーバーとかかな」<br />「雌ね」<br />「ああ、犬も雄は嫌か――」<br /> 勿論、犬畜生を人間の子供と同等の扱いをするつもりも、考えもない。ただ、そこに居て、私達の寂しさを、虚しさを、一時でも和らげ、理想に近づけてくれるだけで良いのだ。<br />「子供の代わりか?」<br />「代わりというか、穴埋め」<br />「子供自体は、用意出来ない訳じゃないぞ」<br /> つまるところ、ちゃんとした機関から提供を受ける、もしくは適当に見繕って植えて貰うという意味だろう。<br />「勘弁して」<br />「そんなに嫌か? アンタは身体強くないだろうから、私でも良いし……」<br />「貴女の中に、あんなものが入るなんて、想像するだけでも吐き気がする」<br />「バンクからでも……」<br />「嫌」<br />「解った解った。そう怖い顔するなよ。これは一つの可能性だ。女に産まれたからには、その身には子供を育む機能が備わってる。男みたいに出して終わりじゃないんだ。遺伝子的な繋がりは薄まるかもしれないが、パートナーとして親として、一緒に子供を育てる未来も十分有り得る。つまりだな――」<br />「お断り」<br />「……解った。じゃあ犬飼うかな。近いうち、保健所でも覗きに行こう」<br />「うん」<br /> 否定的な私の頭にまず過ったのは、澪の顔だった。そして自分の幼さに気が付かされる。<br /> 子供が子供を産んだ結果が、水木澪という人物である。恋愛脳とも呼ぶべき熱病にかかった彼女は、一切の後先を考えず望まれない子を産んだ。男には逃げられ、両親には見放され、彼女は娘を抱いて家を出た。金を持った男に縋りながら生きる様を、逞しいと感じるか、愚昧と罵るか、それは人それぞれだが、私にはとても良い選択であったとは思えない。<br /> しかも、産んだその子は身体が弱かった。二重、三重の苦を背負いながら生きて来た彼女は確かに強い女性かもしれないが、産み落とされた子からすれば堪ったものではない。<br /> 産まれながら父はなく、男に抱かれる母を見ながら、病苦に呻き喘いていたのだ。<br /> 加奈女の短命さが澪の所為であったとは決して言わないが、あの環境に置かれていた加奈女の事を考えると、どうあっても頭が痛い。<br /> 別段と、子供の在り方について哲学するつもりはないのだ。人間も動物、動物ならば繁殖する。そこに難しい理を置いては、人間は直ぐ様滅び去るだろう。<br /> しかしながら人間である我々は、多少なりとも動物とは異なる慈しみを持って、子供を作るべきではないのかと思う。そういう意味で、澪はそれを事欠いただろう。<br /> ではそれを私達に照らし合わせた場合どうか。<br /> 恵まれた事に日々食うに困る事はまず無い。<br /> 温かい家があり、私達二人がいて、育つだけならば申し分ない環境だ。<br /> だがもう少し奥の部分、私達の意識が、足りないように思う。これは間違いなく澪に劣る点だ。<br /> 精子提供を受けてハナエが孕んだとして、果してハナエが母らしく振る舞えるだろうか。<br /> 他人の雄の精子で孕んだハナエを、さて私が良い顔をして居てあげられるだろうか。<br /> これに近しい悩みは、もしかすれば若い夫婦ならば誰しもが抱く悩みかもしれないが、私達の場合同性であり、子供に対してある種享楽的価値を見出そうとしている節がある。<br /> 挙句の果てに、私は心が強くない。<br /> これでは産まれて来る子供も可哀想だ。<br /> 更に悩みは続く。その子は大きくなり、物心ついた時、父が居ない事実を気にし始めるだろう。イマドキ片親など珍しくもなかろうが、親が両方女だと知れた場合、子供を取り巻く環境はどうなるだろうか。<br /> 気にするな、では済まない。どれだけ論理的な説明を用いても、理を介さない子供には諭す意味もない。<br /> そういったもの全てひっくるめて、くじけないような子供に、私達は育てられるだろうか。<br /> 共同の理想を思い描けるだけの子に出来るだろうか。<br /> 子供とは、つまるところ責任そのものなのである。<br /> その覚悟無き私は、やはりきっと、子供なのだ。<br />「また難しい事考えてただろ」<br />「私、ハナエが居れば良い。あと犬」<br />「はいはい……あ、そろそろ就業時間だぞ」<br />「あ。うん。じゃあまたあとで。あ、お給金だけど、税金とか……」<br />「税理士つけるから気にするな。引きこもりが時間通り働けてるだけでも快挙だ」<br /> 頬にキスをして、私はまた自分の仕事場に戻る。<br /> 幸福なるものが迫れば迫るほど、私は恐怖に慄く。何不自由ない生活と、愛しい人のいる世界にいながら、私は今日も漠然とした幸福なるものを、探している。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /><br /> 私は一つ、ハナエに隠している事がある。<br /> それを知らせてしまえば、彼女はとても心配するだろう。伝えた所で何とかなるものでもない。ただ苦しみを増やすだけであるから、私は黙していた。<br /> その夜は寝つけず、私は大きなダブルベッドから抜け出す。ベッドの上ではハナエが気持ちよさそうに眠っている。彼女は今、幸せを感じているだろうか。私の本心がそれに応えてあげられないのが非常に残念だ。<br /> 素肌にガウンを羽織り、キッチンでお茶を沸かすと、それを二つ持ち、バルコニーに出る。わざわざハナエが設えてくれた白塗りのガーデンチェアに腰かけ、此方と、向こう側に一つ、カップを置く。<br /> それはつい一か月ほど前からだ。私には有る筈の無いものが観えるようになっていた。<br />「冷えますね」<br />「そうね、もう冬の足跡が聞こえてくるわ」<br /> 関東の気温は十五度程度だが、そろそろ急激に冷え込む頃だろう。そうなると、こうしてバルコニーやベランダに出ている時間は短くなる。それが良いか、悪いかは、解らない。<br />「今日は何か、気がかりになるような事は、ありましたか」<br />「貴女の現状を果して社会復帰というのかしら。言わないわね。ま、それで満足ならば私は何も言う事はないけれど」<br />「私も正しいとは思えませんけれど、では何が正解なのかと問われて、答えられません」<br />「そうね。一先ず貴女が平穏無事で居られるならば良いんじゃないかしら」<br /> 彼女は――カナメは、真っ直ぐ瞳を此方に向けて、そのように言う。<br /> 彼女が何なのか。当然幽霊ではない。イマジナリーフレンド……一種ではあろうが、彼女は私の投影ではない。彼女は私に都合の良いように振る舞ったりはしないし、かといって此方を傷つけるような事を進んで発言したりもしない。<br /> カナメを失ったという喪失感から私の眼前に疑似化した事は間違いないだろうが、自意識が明確となって、物事を客観的に見つめる事が出来るこの歳で、まさかこのような事象に見舞われるとは思わなかった。<br /> 私は確実に、この彼女が幻覚であるという事を理解している。彼女が脳内から漏れ出した思考の廃棄物である事は確定的だ。だが、彼女はあまりにもリアルに私の前に現れた。<br /> 愛しい人の形を模した彼女を、私は粗末に扱う事が出来なかったのだ。<br /> 故にこうして、それは『そうして在るもの』とし受け入れている。<br />「気の無いお返事ですね」<br />「当然でしょう。貴女は私のものなのに。私は何時でも貴女を見ているわ。眼の前であんなにいちゃつかれたら、不満の一つも上がるでしょう。それに、貴女達のセックスってネチッこいのよね。私は母と見知らぬ男が交わる姿をずっと見て来たけれど、何かしら、同性だとあんなナメクジみたくなるの?」<br />「他人のレズセックスなんて覗いた事がありませんので、比較しようがありません。生憎出して終わりでもないので」<br />「へえ。慣れたものねえ。でも結局、子供が出来る訳でもないし、ただ気持ち良くてやっているのかしら? 子供の私には理解出来ないわねえ」<br />「……根本として、人恋しさがあるでしょう。触覚的な刺激が、私の脳は快感と判断します。それが好きな人ならば、尚の事。お互いに肌を合わせる事自体は、理解していただけるかと」<br />「ええ、そうね。私も思ったわ。貴女を抱きしめた時、恋心というのはかくも虚しく切ないもので、また温かいものなのだと。その延長にあるのかしら」<br />「繁殖行為ではないので、自慰に近いかもしれません。いえ、そもそも性処理目的のものは、全て自慰なのでしょう。都合良く気持ち同じ人間が二人いて、求めあうだけです」<br />「でも求めあえるって素晴らしい事だわ。私にも肉があれば、試してみたいところなのだけれど」<br />「……」<br />「笑う所よ、自嘲するところよ。コイツは何を言っているんだと」<br />「笑うなどと」<br />「――『私』は『貴方の私』という『自覚』よ。この私は正しく幻影で、形が無く、体温はなく、オリジナリティはどこにもない、全て妄想の産物。私が都合のよい事を言わないのは、貴女が言わせないから。私が貴女を傷つけないのは、貴女が傷つけさせないから。水木加奈女に極力近づけた、脳内物質の悪戯」<br />「はい、承知しています」<br /> ……紅茶を啜る。カップを覗くと、空の月が映った。音は無く、静かで、無駄がない。私を虐げる者は無く、私を庇う者は無く、ただ理想だけが目の前に、偉そうな顔をして座っている。<br /> この時ばかり、私は心の安寧を手に入れていた。<br /> それが心の障害によって齎された防衛反応だったとしても、この世界は最適化されている。<br /> 観る。想う。そしてただ、涙ばかりが流れるのだ。<br />「貴女は幻影の前ですら泣くのね。これは、当然私が発言するから、つまり貴女の頭の中にある事だけれど、結局、何が正しいかなんて考える必要がないのではないかしら。貴女のその涙は、自分がマトモな人間ではないからといった疎外感や恐怖から来るものでしょう。自分勝手を自負するならば、その認識こそもっと自分勝手にすればいいのよ」<br />「……つまり、どういう事でしょう」<br />「貴女の頭の中の事でしょう。ああでも、出力方法が違うから、自身でも把握できない部分があるのかしら。まあ、簡単に言えば、何で周りの規範なるものにしたがって生きようとするかという事よ。そもそも同性愛者って時点で規範の外でしょう。貴女が何かしらの規範に則って生きた所で誰も喜ばないし、貴女は不幸になるばかりだわ。貴女と、そしてハナエがただ幸せになる事だけ考えれば良い。気が付いた時には、私なんてものも消えて無くなるでしょう」<br />「しかし」<br />「いいの。別に私が居ようが居なかろうが、そこは問題ではないわ。私自身を気に病むから悪いの。貴女は今の貴女を受けれる事が必要だと思うのよ。ここに貴女を虐める人はいないわ。むしろ、愛してくれる人が傍にいる。貴女のお父様だって、なんだかんだときっと認めるわ。認めず、娘を幸せにしてくれる人を蔑ろにする父なんて、それこそさっさと縁を切った方が良いでしょう。悩むかもしれないわ、傷つくかもしれないわ。でも、規範とか常識とか、そういう罰則に至らないようなものに気を取られて不幸になるのは、馬鹿よ。気にするな、なんて貴女にはとても実践出来ないでしょうが……」<br />「気にするから、悩むのでしょうね。そう、何でもかんでも、悩む必要の無い事を、悩み続ける。どうでもよい人の言葉、人の生きる意味、恋する意味、愛とは何なのか、自分とは何なのか、正しい想いとは何なのか、人を思いやる真理とは何処にあるのか。誰もそんな事、気にして生きていないのに、馬鹿みたいに、何度も何度も考えて、私には出来ないと、解らないと、憂鬱になる」<br />「本当にどうしようもない子ね、貴女は。ええ、私はそんな貴女が大好きよ。ずっとそうしているなら、そうしていなさい。そうでないというのならば、超越なさい」<br /> そのような言葉を残して、彼女は私の視界からいなくなった。<br /> 紅茶を啜る。すっかり冷たくなっていた。<br />「うわさっぶ。タツコ、何してるんだ」<br />「あっ……」<br /> ハナエの声が聞こえ、私はあわてて、対面に置いたカップを此方に寄せる。変な勘ぐりはされたくない。<br />「ハナエ、起きたんだ」<br />「夜中の二時だぞ。こんな寒いのに……なんだ、カップ二つも揃えて」<br />「二杯飲もうと思って」<br />「減ってないな」<br />「こっち、まだ飲みきってなくて」<br />「後から淹れれば……いや、まあ、好きずきだな。余ったなら飲む」<br />「冷たいけど」<br />「いいよ」<br /> そういって、カナメに用意した紅茶を、ハナエが飲む。それは現実感の上書きである。<br />「ごめんな」<br />「どうしたの、謝って」<br />「ちょっと不思議だったから、気になって。強く言った」<br />「いいよ、そんなの」<br />「中入ろう。寒いったらない」<br />「うん」<br /> カップを預かり、それをキッチンに置いてから、ベッドに戻る。<br /> ハナエはガウンを脱いで待っていた。<br /> ……数時間前も、その、したばかりなのだが、まだ足りなかっただろうか。私が寄りそうと、彼女は私を抱きしめてそのまま倒れこむ。<br /> 互いに手を握り締め、見つめ合う。ハナエは寂しそうな顔をしていた。気の強めな彼女がそのような顔をする度に、私の胸は締め付けられ、このヒトの生命を握っているのだと、強く実感させられる。<br /> 彼女は現実だ。彼女の肉体が、声が、私の頭の中に思い描かれた理想より余程雄弁に語る。<br />「どうしたの」<br />「祖母が入ってる介護施設から連絡があったね。祖母が逝ったそうだ」<br />「そんな、急に」<br />「急と言っても、ここ暫く体調を崩してたんだ。肺炎だそうだ。ちなみに、老人は肺炎で死ぬ事が多い。老化して他に様々患って免疫が落ちると、肺炎にかかって亡くなる確率が高くなるそうだ。まあ一般的な死に方だな。若い頃は病気一つしなかったらしいから、怖いもんだよ、老いは」<br /> ハナエが私を抱きしめる。私も何も言わず、抱きしめ返した。<br /> 碌でもない両親の下に産まれ、その支えは祖父と祖母であった。祖父は先に逝き、祖母に縋り、母のように慕っていた事だろう。<br />「……体調を崩していたなら、見舞いに行けば……」<br />「アンタも解るだろう。不安だった。衰える婆ちゃんを観るのも、その間アンタをここに置き去りにするのも、怖かったんだ。一緒に行くって選択肢は無かった。アンタはカナメを失ったばっかりだ。そんな頻繁に、人の泣き顔も、葬式も、見たくないと思ったから」<br />「――私の」<br />「自分で選択したんだ。アンタが気負う事じゃない。といったって、アンタは気負うだろうが。でもこうなったら、喋るしかないだろう。不安な気持ちさせたくないけど、こればっかりは。ごめんな」<br />「やめて、謝らないで……」<br /> カーテンが開け放たれた窓から青い月明かりが射しこむ中、身を起こし、ただ抱きしめあう。不安が顔に、身体に、動作ににじみ出ている。唯一家族と言える祖母を失ったハナエの気持ちを、残念ながら今なら理解出来た。理解出来てしまったのだ。<br /> こんなもの、理解しない方が良い。そうしない方が幸せだ。けれども、感受性の塊である私達は、いざ同情出来てしまう出来事に面した場合に齎されるその悲愴を、絶望的なまでに共用してしまう。<br /> 共依存のまだ、サワリだ。今後さて、これがどこまで深化し、更なる絶望を生みだすのだろうか。今は傷を舐めあっているだけで事足りるかもしれないが、果ては見えない。<br />「明日、行くよ。うん、ごめん、私一人で行くから」<br />「でも」<br />「ごめんな。一週間、我慢してくれるか。電話なら何時でも出る。夜中だろうと出る」<br />「――ううん。お別れ、してきて。私の事も、宜しく言ってあげてね」<br />「ああ。ごめんな。ありがとう、タツコ」<br /> ハナエをベッドに横たえ、頬にキスをする。彼女の頭を胸に抱き、子供をあやすようにして髪を撫でる。<br /> 彼女は泣きながらも、幸せそうに笑ってくれた。<br /> 私は、彼女を幸福に出来る。私は、彼女に必要とされている。それはまるで私がカナメを欲したように、私の存在が彼女の生命を握っているからだ。<br />「人間って、幸せって、何なんだろうな――婆ちゃんは、幸せに死ねたかな。私の所為で、辛い思い、しなかったかな。後悔、なかったかな――」<br />「大丈夫だよ」<br />「……独りにしないで……」<br />「うん、うん……」<br /> 愛しいという気持ちが膨れ上がる。同時にその愛しさこそがエゴであるという罪悪を覚える。<br /> そんな考えに意味はないと知っている自分が居る。しかしその考えに意味が無いと考える自分に罪悪を覚える。私はどうにもならない思考の袋小路に蹲り、ただ救済者を待つ愚か者でしかない。<br />「おやすみ。愛しているわ」<br /> 愛している。都合の良い言葉である。私はこの言葉が、大嫌いだった。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /><br /> 誰も彼もが孤独を抱えて生きている。使い古された言葉だが、付け加えるなら、貴賎はあるのだ。唯一、そればかりが私の優越感なのかもしれない。<br /> 安っぽい寂しがり、やすっぽい自己顕示に、安っぽい自殺願望。私を見てと叫んで回るうちは、まだ健全である。まだ観て欲しい、気にしてほしい、大切にしてほしいという欲求を人様に告げる事が出来る、知らせる事が出来るからだ。<br /> だが私は、私という人達は、それすらも許されていない。内側に抱え込み抱え込み、生きる事も死ぬ事もままならず、鬱屈とした精神を澱として心に淀ませ続けるのである。<br /> 人よりも不幸だ。そう思いこめる心こそが病であり、誇れもしない矜持である。<br />「タツコ。大武さんの事だが」<br /> ハナエが発って三日。私は実家に戻っていた。思考にふけるあまり食欲も無かったのだが、父が食卓を囲みたいというので、私は仕方がなく部屋を出て来た。ハナエが数日いないだけでこの有様であるから、母も見かねたのだろう。<br /> 父はいつも通りだ。自分の疑問は素直に口にする。相手への配慮がとても少ない。世渡りが出来るタイプの人間ではないものの、嫌味なほど有能である故に、父は要職についている。<br /> そもそも父が企業会長の息子であるという事実は、勤め先には暫く隠されていた。<br /> 自分の力で何処まで出来るのか、背景無しに、おべっか無しに実力を認めさせるのだと、とても強い志を持つ人である。<br /> 苦手と言えば苦手だ。私とは正反対である。<br />「なんでしょう、お父様」<br />「気の迷いとか、勘違いなんてものじゃ、ないんだな」<br />「つまり、私が同性愛者である事は間違いないか、という事でしょうか」<br />「ああ。生憎と理解出来んのでな」<br /> 父が食事中話す、という事はそれだけで重みがある。父は何事も事務的であるし、食事時は食事をする為の時間だと思っている節がある。わざわざ呼び付けて一緒に飯を食おうなどというのだから、この言葉にもそれなりの含みがあるのだろう。<br /> 当然私の回答は変わらない。<br />「はい。非生産的で、常識人のお父様からすれば、酷い不都合かと思いますけれど、お父様の娘は男が嫌いです。いえ、男が嫌いだからハナエが好きというのも違います。好きになった人は彼女だったんです。本当に、心からそう思える人なんて――」<br /> ハナエと、そして亡くなってしまった彼女だけだった。<br />「あれから暫く考えた。本当に正しい事なんていうのは、長い人生で、一度たりとも観た事はない。出会った事もない。何もかも不確定で、手にとれず、正しいと思いこんだ事が間違いだったなんてのも、いつものだ。しかしその中でもな、やはりお前と大武さんの関係については、理解し難かった。法律上何処にも保障されない、子供も出来ない、保険だって受け取れん。どこにメリットがあるのか」<br />「メリットで、人を好きになりますか、お父様」<br />「ミチと結婚したのは、メリットがあるからだ。そして異性だ。その過程で家族への想いが産まれた事を、俺は一切否定しない。それはミチも承知している」<br />「叩きましたがね、私は」<br />「ん、んん。腰を折るな」<br />「ふふ。はいはい」<br />「……お前達の関係に、親が介入するなんてのは、当然古い考えだ。だがどうあっても親としては不安なんだ。まあ、ウチなんていうのは、弟が継げばいい、お前が我が家の末代だったとしても、それは承諾しよう。だが将来、子供がない事を嘆くような真似はするなよ。どこからも援護がないと、喚きたてるんじゃないぞ。世界はマジョリティで出来ている。お前達は、マイノリティだ。キツイ言い方だが、法律上保障されていない限りは、どうする事も出来ん」<br />「承知しています」<br />「……ミチ」<br />「あのね、タツコさん。お父様は恥ずかしがって口に出来ないそうですけれど、つまるところ、世の中は何も保障してはくれないけれど、おれが支えてやるから、好きにしなさいと言いたいそうなんです」<br />「いや、そのだな。それは少し語弊が」<br />「同じ事でしょう。タツコさん。何かと厳しい社会で、心が強くない貴女が、弱い立場になろうとしている事を、心配しているんです」<br />「――お父様」<br /> 父は私が視線を向けると、ソッポを向いてしまった。余程恥ずかしかったのだろう。<br /> 父はカタブツで、非常識を嫌い、何事も真っ直ぐを見つめる人だ。私という曲がった存在について、悩んでいたのかもしれない。<br /> こういう人が世の中を渡って行こうとした場合、一体どれほどの努力が必要なのか、社会経験のない私には想像もつかないが、容易でない事は確かだろう。<br /> 責任ある立場として、企業会長の息子として、一人の娘の父として、様々な想いがあったに違いない。父は口が悪いというよりも、思った事を素直に口にしすぎる。私をこき下ろす為に言い放った暴言のように思える言葉も、今考えれば、ただ純粋にそう思ったから言っただけだろう。<br /> 勿論、それが歪を産み、勘違いを量産するだろう事は確かだが、彼は実力でそれを解決してきた。<br /> 私という不可解な存在に対する疑問と懊悩、そして一定の結論が、今なのかもしれない。<br />「……家族だ。家族は支え合って生きる。こればかりは、今も昔もない。式を挙げたくなったら言え。親父達も全部説き伏せて、雁首そろえさせてやる」<br />「し、式?」<br />「籍は入らんが、形式ぐらい要るだろう。何も心配するな」<br />「あ、はは――あの、お父様」<br />「なんだ」<br />「……有難うございます」<br /> 誰も彼もが孤独を抱える中、それを癒す為に用意するのがパートナーであり、家族だ。衣食住だけでは足らず、より良く健全に生き延びる為に、ヒトは愛する人を用意する。<br /> 種が反映し、頂点として君臨し続けるのは、全てこの知能と社会性にある。<br /> 父のこの行いに、メリットは存在しない。むしろ不都合ばかりだ。しかしそれでも不都合を抱え、解決に走ろうとする姿こそが、家族に対する愛情なのかもしれない。<br /> 損得で割り切れない感情。そんなものが、果して私に存在しただろうか。<br /> 父に礼を言い、食卓を後にした私は、そのまま自室に戻る。<br />(幸福と希望と、不幸と絶望が、両面からやってくる。私が望まなくても)<br /> 何気なく彼女の気配を感じて、私はかつての王国の跡地へと足を踏み入れた。肌を刺すような冷たさに身を震わせながら、私はいつもの椅子に座る。<br />(私が望まなくても、部屋を出たあの日から、私の人生が紡がれていく)<br /> 隣には隔て壁。既に隣の部屋は引き払われており、澪もいない。<br />「よかったわね、タツコ」<br /> 暫くすると、そんな声が聞こえてくる。<br />「……」<br />「どうしたの、浮かない顔ね。お父様も認めてくれたじゃない。あのカタブツからしたら、相当の決断よ。世の中、なんだかんだ、家族には支えられ、関わり続けて行くの。それがうっとうしい事もあれば、助けられる事も多々ある。勿論、自分勝手な貴女がそれを承服するかどうかは、また別だけれど」<br />「いえ。嬉しくは、あります。家族が増えれば、ハナエも喜ぶ。あの子には家族が必要なんです。私だけがどれだけ愛した所で、彼女は絶対に満たされない」<br />「あら、嫉妬? 自分さえ居てあげれれば良いって」<br />「いいえ。むしろ、安心しているんです。家族の結びつきが強くなれば、彼女が私だけに、私が彼女だけに頼る事も無くなる。精神衛生上、互いに有益です」<br />「そう。では何が不満なのかしら。まあ、世の中の全てに不満と疑問を持つ貴女だから、その疑問も仕方ないでしょうけど」<br />「愛ってなんでしょう」<br />「難問ね」<br /> これは妄想。虚像。自問自答に他ならない。自分の知らない答えを自分が知る由も無い。果てしなく無意味だと自覚しながら、私は言葉を紡ぐ。<br />「私の、家族に対する想い。これは恐らく、単なる利害だと思います」<br />「ええ。親が居ないと生き辛いものね。私も良く知っているわ」<br />「私の、貴女に対する想い。これも恐らく、単なる利害だと思います」<br />「ええ。ただ利害は一致したわ。互いに与え受け取って出来あがった、美しい利害よ。それを愛と呼ぶのならば、間違いないわ。ただ、貴女が抱いていた感情は、私とは違ったかもしれないけれど」<br />「私の、ハナエに対する想い。これはもっともっと、利己的で、自分勝手で、美しくないものだと、思います」<br />「そうかしら。これもまた利害が一致しているわ。互いに幸せを目指そうという同志よ。これを愛と言わないのならば、もう何がなんだか解らないわ。それが疑問なの? いいえ、そんな事を考える貴女が嫌なのね」<br />「……父は、自分を曲げてでも娘の意見を親族に通してくれるそうです。それは、父にとって不利益しかない。あれだけ非合理な事が嫌いな父が、です」<br />「娘だもの。勿論碌でもない父親も沢山いるでしょうが、貴女のお父様は父としての責任を貫き通そうとしているのよ。筋が通っているわ。男らしいじゃない?」<br />「それは愛ですか。責任ですか」<br />「貴女は子供を親の責任の具現と言うでしょう。だからきっと責任よ」<br />「責任だけで、自身の立場を危うくするんでしょうか」<br />「そう。じゃあきっとそれが、言葉にも、数値にも出来ない、家族の愛というものじゃないかしら」<br />「……そう、なんでしょうか」<br />「愛にも種類があるわ。そして愛には責任が伴うの。離して考えられるものじゃない。貴女はそんな下らない事を悩み続けて悲劇のヒロインを演じ続ける自身に酔っぱらっている。そうでしょう」<br />「はい」<br />「――愛が全部美しいとは限らない。愛の無い関係から慈しむ心が産まれる事だってある。愛のある関係から絶望がにじみ出る事もある。お父様が認めるなら、それで良いじゃない。線引きは大事よ。あとは貴女とハナエが、どうやって上手く生きて行くか。本当の幸福を手に入れられるか」<br />「そんなもの――どこにあるのでしょうか。ハナエは、気が付いているんです。私の気持ちが未だ、貴女に傾いている事を。あの寂しそうな表情も、時折見せる嫉妬の顔も、全部全部、貴女に向けられるものです」<br />「まだ貴女は、ハナエを見くびっているのね。あの子の気持ちは、そんなに安くない――死んだ今なら、言えるかしら。私の貴女への想いも、決して安くは無いわ」<br /> 遠くを観る。そこには、引きこもっていた頃の世界が広がっていた。<br /> 安っぽい絶望を抱えた引きこもりの女と、絶望的な状況にありながら未来を見据えた少女の世界だ。<br /> 私は、水木加奈女が羨ましかった。そして尊敬していた。<br /> 私があの子程のバイタリティに溢れていたのならば。<br /> 私が何事も悩まずハキハキと言葉を紡げたならば。<br /> 私が理想を体現しようと努力するだけの精神を抱えていたのならば。<br /> 全て手に入らないものを持ったカナメに、憧れていたのだ。<br />「羨ましかった。妬ましかった。それ以上に、私は、貴女が尊かった。貴女に導かれたかった。貴女に従いたかった。こんなダメな私でも、貴女の為になれるならと、そんな気持ちになる事が出来た。貴女は私の心の全部を持って行って、それで私は満足していた。けど、持って行ったまま、貴女は、カナメ、貴女は、私の気持ちを返してくれなかった。弄ぶだけ弄んで、勝手に死んで、ふざけた話が、あったもんです。こんな事を考えている自分もまた、頭に来る」<br />「そうね。謝罪のしようもないわ。でも、言ったでしょう。そして感じているでしょう。私は貴女のもの。貴女は私のもの。変化する筈だった信仰心は、晴れて不変のものへと進化したわ。貴女はただ、私という存在を記憶の片隅に置き続けるだけで良い。たまに思い出して、そんな子が居たな、そんな思い出があったな、あの頃に比べれば、今はなんて幸せなのだろうと、そのように、考えれば良いだけ。その為の装置でしょう、墓も、仏壇も、宗教も」<br /> 遺骨が納められた墓の前で泣き崩れる澪の姿が、脳裏から離れない。<br /> 澪と、私と、ハナエ、たった三人の葬儀は、終始澪の泣き声で埋め尽くされていた。<br /> 私といえば、淡々としたものだった。綺麗に死に化粧された彼女を前にしても、火葬されてスカスカの骨になった彼女を前にしても、墓の中に収められた彼女を前にしても、解りやすい感情は表には出なかった。<br /> 涙は枯れ果てていたのかもしれない。世の理不尽に無言の怒りを突き立てていたのかもしれない。<br /> もはや概念となり果てた水木加奈女という存在を胸の内に秘め、私だけがそのロジックに従って生きるのだ。<br /> 私は彼女のもの。彼女は私のもの。<br /> 所有ではなく、隔離。<br /> どこにも出す事のない、私が死ぬその時まで抱えて生きて行く、法理だ。<br />「タツコ、惨めで愚かで、不幸が無いと生きて行けず、幸福がないと死んでしまう頭の悪い貴女」<br />「……はい」<br />「さあ、手を伸ばして、タツコ」<br />「――……」<br />「そして虚しい想いをするといいわ。私は、そんな悲惨な顔をする、貴女が大好きだから」<br /> 言われるまま――いいや、自主的に、手を伸ばす。隔て壁の隙間に、有る筈のないカナメの手を探る。<br />「え」<br /> その手が何かに触れた。当然彼女の手ではない。壁に張り付いているのだろうか。感触を頼りに掴むと、それが紙である事が解る。ほんの少しだけ躊躇い、私は壁に張り付いた紙をはがした。<br /> それは封筒である。安っぽい茶封筒で、中には飾り気の無い便せんが数枚入っていた。<br />「あっ――う」<br /> 茶封筒には『竜子へ』と書かれている。<br /><br />『竜子へ 直接手渡すのが憚られたので、母に託しました。渡し方も指定しています。きっと貴女は馬鹿だから、気が付いてしまうでしょう。気が付かなければ、それだけ私の存在が貴女にとって薄れていて、貴女の精神が健全に向いている証拠でしょうが、これを見ているという事は、現状で不健全極まりない、とても悲惨で私の大好きな竜子であると、疑いようの無い事と思います』<br /><br />『まず、幾つかバラさなければいけない事があります。私が貴女に語った学校生活は、全て嘘です。虚弱体質でマトモに授業も受けられない私は、当然の如くクラスメイトから馬鹿にされ、罵られる毎日でした。貴女が想像する輝かしい私などというものは、存在していないのです。不要にも授かってしまったこの知性も、生かされる事はなく、ただ悩みだけを産み続ける、不毛の産物でした。馬鹿ならばどれほど良かったかと、思い悩んだものです』<br /><br />『家に居る事が多く、気が付けば発作に襲われ、未来は無く、将来は想像出来ず、夢も希望も無く、ただ淡々と毎日を過ごしていました。母は常に私の味方をしてくれましたが、それは母としての責任から来る、何の味気もない優しさなのだと考え、不必要な憂鬱感だけを抱えて生きる、酷い子供でした』<br /><br />『そんなある日、私は一つのおもちゃを見つけました。ベランダに出た折、隣から物音が聞こえたのです。こんな昼間から何者かと思って声を掛けてみれば、それはなんと、二十歳にもなって社会に適合出来ない、正しく底辺存在の酷い酷い貴女でした。不幸で可哀想な私よりも社会的に惨め極まる存在が居たのです。私はとても興奮しました。馬鹿にしてやろうと思い立ち、弄ってみれば尚の事面白い。十歳の私にヘタクソな敬語を使って話す貴女には、ほとほと笑わせて貰いました』<br /><br />『愉快な娯楽を見つけた私は、何時になく楽しそうにしていた様子で、母からも表情が明るくなったと安心されました。まさか娘が年上を弄って遊んでいるとは思いもしなかったでしょうが、私にとって貴女は最高のおもちゃであり、馬鹿に出来て、見下せて、優越感に浸るにはもってこいでした』<br /><br />『しかし、何時の日からでしょうか。女王と平民、神と信者。そのような関係が続いていた所、私は貴女に特別な感情を抱くようになりました。それもそうです、何せ、私とマトモに会話をしてくれるのは、貴女だけ。私を敬ってくれるのは、貴女だけ。私を本当に大切に想ってくれるのは、貴女だけだったのですから。だから私は、貴女の理想で居ようと決意しました。貴女が私を必要としてくれるように努力しようと、嘘を吐き続けようと考えました。そして貴女は、私と会話している間、とても幸せそうにしてくれていた。私の存在意義を、貴女が認めてくれました』<br /><br />『どうしようもない気持ちでいっぱいでした。たった十年しかない生でしたが、貴女と会話を交わしている時間が、もっとも幸福だったのです。何故貴女と会話するだけで幸福なのか、それについて強く考えました。そしてその答えが出た時、酷い不安に駆られたのです。私は、貴女が必要だった。貴女は、私が必要になってしまった。私はいつ死ぬか解らない身なのに、貴女を束縛し、雁字搦めにしてしまったのです。きっと貴女は馬鹿で優しいから、それでも良いと言うでしょう。でも貴女の本心は依存に塗れ、人として不出来で、社会性は無く、私無しで今後生きられる訳がないと、そのように確信していました』<br /><br />『何もかも、私の不徳なのです。愚かさ故の事象なのです。そのように心配していても、私は貴女を手放したくなかった、もっと依存して貰いたかった。もっと必要として欲しかった。貴女が隣に居れば、私は貴女を守るという決意が産まれると思いました。この身はもう、医療ではどうする事も出来ない病に冒されていたので、縋る所といえば、生きがいぐらいしかなかったのです』<br /><br />『私は、本当に、心の底から、貴女が欲しかった。貴女を守りたかった。貴女を迎えに行きたかった。貴女を愛していました。貴女だけが、この幼い身をヒトとして見てくれていました。大人として見てくれました。迎えに行けなかったのが、無念でなりません』<br /><br />『私の想いは全て、華江に預けました。彼女は貴女が想っている以上に、貴女を愛しています。きっと幸せにしてくれるでしょう。彼女も幸せを欲しています。幸せにしてあげてください。母には悪い事をしました。今になって謝る事も出来ませんが、母にも優しくしてあげてください』<br /><br />『母は泣いてくれました。無償の涙でした。母だから、家族だからなんて言葉ほど、信用ならないものはありませんが、私は母の涙も、貴女の涙も、その寂しく虚しい、孤独な人達が本当に流す涙であったと、信じて疑いません』<br /><br />『死の際、今に至り、愛する心とは何なのか、幸福とは何なのか、解りました』<br /><br />『相手を想う気持ちを悟り、相手の欲するものを見返り無く提供し、そして互いに満足出来る状態こそが、唯一無二、掛け替えのない、本当の愛であり、幸福なのだと思います』<br /><br />『私は、この世で最も幸せな人間でした。貴女のお陰です。貴女とずっと幸福で居られず、ごめんなさい』<br /><br />『どうか生きて、幸せになってください。 水木加奈女』<br /><br />「はっ……ハハッ」<br /> 悩むに悩み、自己陶酔し、自身の精神異常を疑いながら、その実、何もかもを手に入れていたのだ。<br /> 幸福も絶望も、夢も希望も、一切合財、彼女との関係の中に育まれていたし、あの子は、真の意味で私を必要としてくれていた。<br /> 人を想う気持ち何たるかを理解した上で、私との関係に全てを注ぎこんでくれていたのだ。<br /> 存在意義そのものが、私を肯定し、私を慈しんでいたというのに、私は、一体何をしていた?<br /> 私の何もかもを彼女に預け、返却してくれないと喚き散らし、欲しかった何もかもが私の内に全て仕舞い込まれていた事実を無視し、彼女の望みを叶えるでなく、抱えて死のうとしたのだ、私は。<br /> 面倒くさいと切り捨てたのだ。<br /> 見たくないと口にしたのだ。<br /> 自身の価値を自身でつける事なく、他人に委ね、その責任も押し付けて、ハナエすら道連れにしかけた。<br /> こんな私を救った所で、彼女達に得るものなんかないのに。<br /> こんな私に縋った所で、他の人よりも幸せになれる訳がないのに。<br /> それでも、あの二人は、ハナエは、カナメは、私を光と仰いだのだ。<br />「全部全部、知ってましたよ。知ってたんです。でも、私は、自己評価出来ないんです。貴女の気持ちが本当だって、ホンモノだって、どれだけ実感しても――ッッ」<br /> 立ち上がり、ガーデンチェアを持ち上げる。<br /> 力の無い私の、しかし感情に任せた一撃は、薄い隔て壁を容易く打ち破った。静かな住宅街に破壊音が響き渡る。<br />「はあ……はあ……ああ、くそったれぇ――ッ」<br /> 自己嫌悪で死にたくなる。<br />「くそぅ――……」<br /> そしてその自己嫌悪すら許容してくれる二人の深い慈悲に、嗚咽が漏れる。<br /> ガラガラと崩れた壁を押しのけ、隣のベランダに上がり込む。そこには彼女が立っていた。<br /> こんなにも薄かったのか。私が殴るだけで割れてしまうほど、私達の世界は近かったのか。<br /> まるで私とカナメだ。<br /> 近すぎる。そして遠すぎる。<br /> この『御簾』は、そのような距離だったのだ。<br />「何か解ったかしら」<br />「頭に来ました」<br />「そう。怒った顔、素敵よ、タツコ」<br />「泣いているんですか」<br />「泣きもするわ。だって私、もう居ないのだもの。でも、不安じゃない」<br />「何故です」<br />「解っているでしょう。私は貴女、貴女は私なのだから。私という信仰概念は、私という思い出は、貴女と共にあるわ。こう言ってしまうと、何だか陳腐だけれど、でも、人間だもの。私を必要としなくなったその時、貴女に本当の幸せが訪れると、良いわね」 <br /> もう答えるものか。これは、独り言なのだ。だから答えず、顔を覆い隠すほかなかった。<br />「タツコ、おい、どうした!?」<br />「……転んでしまって。頭をぶつけたら、割れちゃいました」<br />「だ、大丈夫なのか。いくら緊急時に割るといっても、弱すぎやしないだろうか」<br />「ええ、大丈夫です。柔らかかったので、大した傷もありません」<br /> ベランダに飛び出してきた父に適当な言い訳をつけ、私は笑った。それはどんな笑みだっただろうか、自分でも良くわからない。<br />「お前――」<br />「……はい、なんですか、お父様」<br />「い、いや。なんだか、月明かりの所為か。妙に、大人に観えたものでな」<br />「嫌ですよ、お父様。私、もう、二十歳ですよ」<br />「あ、ああ」<br />「さ、中に入りましょう。お隣も居ませんし、修理は明日呼びましょう。大きな音を立てて、ごめんなさい」<br />「無事なら良い。しかし、お前も間抜けな事をするものだな」<br />「私も人間ですから。人間なんです。人間に、なってしまいましたから」<br /> 小首を傾げる父を宥め、部屋から追いだす。薄暗い部屋の真中に座り込み、ただ茫然と携帯を握りしめる。<br /> 連絡は――いや、必要ないか。場所は解っている。カナメ亡きあと、私という厄介者を喜々として引き受けてしまった馬鹿ものが居る。<br /> 私はまだ、彼女に言っていない事があった。私は『責任』を果していない。<br /> 彼女の帰りを待っていられないし、電話口に話せるほど、軽い言葉ではない。<br /> 手紙を胸に抱き、私は微笑んだ。<br />「愛していました」<br /> 彼女はここに居た。そしてもう何処にもいない。彼女はそれを是とした。<br /> 後悔と無念を抱きながらも、幸福のまま逝った彼女に、蛇足は必要なかろう。あとは彼女の望む通り、煩悶し、懊悩し、のた打ち回りながらも、私は幸せにならなければいけないのだ。<br /> それを体現しうるのは、後にも先にも、大武華江なる変人しかいない。<br /> 鏡で顔を確認し、いつも持ち歩いているバッグと上着を引っつかむ。カナメの葬式で着た喪服をクリーニングのタグが付いたまま紙袋に突っ込む。そしてもう一つ。<br /> 私宛に綴られた物とは別、付け加えられたもう一枚の手紙を確認する。はじまりは『どうせ別にしても、貴女は読むでしょうから』で始まる、実に頭に来るハナエ宛のものだ。それを鞄に仕舞い込み、私は部屋を後にする。<br />「お母様、お父様、私、少し出ます。やっぱり、ハナエが心配です」<br />「あら、そうなのですね。そうだと思いました」<br />「タツコ、俺達は必要か?」<br />「いえ。有難うございます。では、行ってきます」<br />「はい。あちら様に粗相のないようにしてくださいね」<br />「――なあミチ」<br />「はい?」<br />「うちの娘は、あんなにも元気が良かったか?」<br />「何言っているんですか。昔のタツコさんは、あんなカンジだったでしょう?」<br /> 玄関を出る。<br /> あの時は嘔吐した。<br /> 近所の人に挨拶をする。<br /> あの時は戦々恐々としていた。<br /> タクシーを拾う。<br /> 男の人と同じ空間にいるなんて考えられなかった。<br /> 人と話す。<br /> つい数か月前まで、そんな事もう出来ないと、諦めていた。<br />「どちらまで」<br />「駅まで」<br /> これから人混みに紛れ、新幹線のチケットを取り、他人の隣に座って数時間ゆられるのである。当時は想像しただけで吐き気を催すようなものだったが、今に至り、最早そんなもの、悩むにも値しなかった。<br /> 何も怖れる事はないのだ。<br /> 私は何もかもを手に入れていたのだから。何もかも知っていたのだから。<br /> ただそれを無視していたのだ。<br /> 私が不幸でなければ、ハナエもカナメも、愛してくれないと、信じていたから。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /><br /> ハナエの実家は東北の政令指定都市にある。両親とは縁を切っている為、実家そのものに用事は無いが、ハナエの祖母が入居していた介護施設はそう遠くない場所に存在した。<br /> 電車で二十分、新幹線で一時間半、またタクシーで二十分と、産まれて初めてと遠出である。目的意識の方が強かった為何ともなかったが、今思い出すと少し具合が悪い。<br /> とはいえ、もうここまで来たのだ。自分には当たり前の事が出来るという自信にも繋がる。<br />「もしもし」<br />『ああ、タツコ。どうしたの』<br />「来てるの。どこ行けば良い」<br />『――は?』<br />「だから、貴女のお婆様が入っていた介護施設まで来てるの。どこにいるの?」<br />『ちょ――な、なんだそれ? アンタ、え、電車乗って来たのか? 大丈夫なのか?』<br />「うん。それは良いの。私は良い」<br />『――なんだ。どうした。声、自信あるな。おかしいな』<br />「おかしくないよ。それで、どこに行けば良い」<br />『……これから出棺だ。裏手から回ってくれ。そっちに行く』<br /> 電話を切り、指示通り裏手門に回る。五分もせずハナエが迎えにきた。<br /> カナメの葬儀の時は洋装であったが、今の彼女は喪服の着物に身を包み、髪も結い上げている。本来元気の良い筈の彼女だが、数日会わない間に、大分と窶れたように見えた。<br />「馬鹿だな。何で来たんだ――んん?」<br />「どうしたの」<br />「いや。タツコ、だよなあ」<br />「他の誰かに見えて?」<br />「ま、まあ良いや。車分乗するから、あの一番後ろのに乗ってくれ」<br /> 指差された方向を見ると、やがて施設のヒト数人が棺を担いでやってくる。<br />「ご両親は」<br />「嫌だったけど呼んだよ。呼んだけど来なかった」<br />「お父様は」<br />「賭け事に忙しいそうだ」<br />「お母様は」<br />「他の宗教の葬儀なんて出れるかだと。爺さんの葬儀も嫌がってたな」<br />「凄いね、絵にかいたような碌でなし」<br />「全面的に同意する他ないのが我が親ながら悲しい限りだよ」<br /> 疲れた顔をするハナエを宥め、出棺の手伝いをする。<br /> 施設の人だろうか、皆涙を流してそれを見送っていた。涙をわざわざ流さなければならない程の人物であった事が容易に見て取れる。<br />「こっからは坊さんと担当者二、三人だけで、小さいものになるよ。人混み嫌だろう」<br />「それは良い。お婆様、慕われてたんだね」<br />「人懐っこい人でさ。でも芯が通ってるから、あのカタブツのじい様の嫁なんてやれてたんだろうさ。後ろの車、乗って」<br />「うん」<br /> 霊柩車の後ろにつけられた車に乗る。運転は葬儀会社のヒトだ。見送りが脇に並び、ハナエの祖母に別れを告げる。<br /> 動き出した車に揺られながら、十分ほどだろうか、何も喋らずに私はただハナエの手を握っていた。<br /> ハナエはどんな気持ちで居るだろうか。親のように慕った祖母の死に対しての悲しみは当然あるだろうが、こんな時にも顔を出さない両親をどう思っているだろうか。勿論、縁を切ったのはハナエだ。だが自分達の面倒を見て来た祖母の死に際して言葉の一つもないというのは、何か徹底した冷たさがある。<br /> もう本当に、どうでも良いのだろう。人間の冷酷で自分勝手な面を直に観ているようだ。<br />「そんなんじゃダメだよ。お父さんもお母さんも、連れてこないと。私、ひっ捕まえてくるから、火葬は待ってあげて」<br />「よしてくれよ」<br />「そんな事言いだす人いるのかな」<br />「冗談かギャグだけだろう」<br />「どれだけ近くてどれだけ御世話になった人でも、一度関係が断たれると、まるで他人のようになるんだね」<br />「煩わしかったんじゃないか。家族だから、なんて言葉程当てにならないものはないな」<br />「貴女はでも、家族が幸せであれる世界が良かった」<br />「そりゃそうだ。家族が不幸で好ましい人間なんぞサイコパスだけだろ」<br />「貴女の新しい家、何もかも、家族分用意されてた」<br />「……そりゃそうだ。私は幸せになりたかったんだから」<br /> 彼女の抱える闇は深い。<br /> どれだけ自由に出来るお金と時間があっても、家族は帰って来ないし、一度崩壊した家庭を繕えはしないのだ。大人という自我が形成されて久しい人間の精神は、ちょっとやそっとでは入れ替わったり、改善したりはしない。両親を説き伏せようと、一か月後には元通りである。<br /> もう彼女に、彼女が望んだ温かい家庭という幸せは絶対に訪れない。<br />「そういえば、なんで来たんだ。まだ聞いてなかったな」<br />「貴女の泣き顔を見に来たの」<br />「嘘つけ。笑わせるな」<br /> 二十分ほど車を走らせ、小高い山を登った先に火葬場があった。木々に囲まれており、規模としては大きくないが、真新しい。<br />「ヒトを焼く場所って、改めて考えると不思議ね」<br />「公衆衛生、土地事情、それが一番良いだろう。不自然だと思うか?」<br />「ううん。生きる人の為だものね」<br />「……そう。葬式も、火葬も、これから生きる人の為なんだよ」<br /> 待ち時間もなく、整えられていた通り葬儀が進む。<br /> 大理石で囲われた前部屋の真中にポツリと棺桶が据えられた光景は、ついこの前初めて経験した、カナメの火葬と光景が被ってしまい、私は首を振る。<br /> なんとも大仰な袈裟を羽織ったお坊様が経文を唱える中、私はハナエの悲しみについて考えていた。<br />「では、ご家族の方」<br /> 葬儀社の人に促され、ハナエの祖母の顔を覗く。ハナエは首を振り、棺桶の中に写真を数枚入れた。恐らく、祖父のものだろう。そしてもう一枚は、自分のものだ。<br />「もういいの」<br />「ああ、散々泣いたから」<br /> 火葬が済むまで待ち時間がある。<br /> 私は控室に、ハナエは喫煙所へと別れる。控室といっても個別に用意されているものであり、親族がない密葬では私一人だ。<br /> つい最近もこうして、火葬を待つ時間があった。彼女は骨と皮ばかりで身体も小さかったので、やけに早く終わったと記憶している。<br /> どれだけの人生があろうと、終わってしまえば白い骨だ。残るものといえば、人の記憶のみである。<br /> 人の価値がどこで決まるか、それはどれだけの人間に覚えていて貰っているかだろう。勿論絶対的な価値観ではないが、死してなお生きるという意味においては揺るぎないものである。<br /> 語り尽くされた、書かれ尽くされた人の死についての哲学だが、やはり、どれだけ頭をこねくり回したところで、目の前に現れた現実は悉く過酷だ。<br />『……タツコちゃんとお話するようになってからかしら。カナメは、とても明るくなったのよ。なんだかそれがね、私には、死ぬ前に燃え上がる、蝋燭の灯のように観えたの。あの子、最期まで、貴女が健在か、馬鹿な事はしていないかと、心配していたわ』<br />『そう、ですか』<br />『あの子、貴女がとても好きだったのね。貴女も、うちの子が好きだった。変だなんて言わないわ。恋だもの。性別も年齢も関係ないの。互いに必要だと思えたのなら、きっとそれが最も、真実に近い想いなのだと思う。私は、生憎、得られなかったけれど』<br />『カナメちゃんを産んで、育てて、澪さんは後悔していますか』<br />『――少しだけね。もっと健康に産んであげられたなら良かった。申し訳無い気持ちで、一杯よ。でも、あの子、幸せそうだったから。ありがとう、タツコちゃん』<br /> 私は感謝される謂われなどない。まさにエゴが調和した、みすぼらしい愛の形である。<br /> 偶然によって齎されたものだ。図らず手に入れた関係だ。だが、そういったものに宿る感情こそが、計算尽くの打算的な関係以上の関係を作りあげるのかもしれない。<br /> 理想が現実を超越した先にある未来は尊いが、理想が現実を駆逐してしまった場合は真っ当ではない。<br /> 私は一歩踏みとどまった。駆逐される前に、現実を知ったのだ。<br /> 彼女という存在は理想だが、その理想こそが私に惨い世界を齎し、そこで歩めとのたまっている。<br /> 私は笑った。<br />「大武華江様……あら、ええと、御友人の」<br /> 葬儀社の女性が頭を下げて入ってくる。大人一人の火葬だ、もっとかかる筈であるから、終わった訳でもあるまい。<br />「旗本です。何か」<br />「大変申し訳ございません。どうやら機械が不調らしく、少し時間がかかる様子でして……」<br />「……そうですか」<br />「ええと、その――」<br />「大武さんに伝えておきます」<br />「はい。申し訳ございませんが、お待ち頂くようお願いいたします」<br /> 何ともお粗末な話だが、不調というならば仕方が無い。まさか遺体を『早く焼け』なんて冗談でも口に出来るものでもない。<br /> 私は鞄を持ち、ハナエが向かった喫煙所に足を運ぶ。<br /> 部屋には数人の男性がいるだけで、しかしハナエの姿が見当たらない。私は踵を返して、外へと出る。どうせ彼女の事だ、影でこっそり吸っているのだろう。<br /> 建物の周囲をぐるぐると回ってみたが、ハナエの姿が見当たらなかった。<br /> 御手洗いにでも消えたのかと疑っていると、裏手に小路があるのが解った。周囲は森林に囲まれているが、整備されているらしく歩くのに不自由はしない。<br />「ハナエー?」<br /> やがて建物の煙突が少し小さく見える距離まで来た。そこは少し開けた遊歩道のようになっており、先に小川が流れているのが見て取れる。<br /> ハナエはそこで蹲っていた。<br />「良い人って、恵まれず逝くよね」<br />「運命を決める神様とやらがいるなら、そいつは糞ったれだな」<br /> ハナエが立ち上がる。顔は真っ赤だった。折角の綺麗な顔は、涙に濡れ、化粧も滲み、酷い有様である。<br />「八つ当たり」<br />「アンタだってそうだろう。カナメの死の怒りを、有りもしないものにぶつけただろう」<br />「もう良いの」<br />「良い訳があるか」<br />「良い筈でしょう。だって貴女、カナメが邪魔だったでしょう」<br /> ハナエはそれを聞き、バツの悪そうな顔をして伏せた。<br /> 解っていた事だ。<br /> ハナエにとってカナメは何でもない、私の知り合いでしかない。彼女がカナメに抱く感情なんてものはたかが知れるのだ。まして、自分の好きな女性の心を全部持って行った少女であるから、むしろ憎しみを持っていたとしても、私は驚かない。<br />「私は嬉しい。私から大切なヒトが減り、貴女から大切なヒトが減った。その分私は貴女に、貴女は私に想いを注ぎこめるでしょう」<br />「――本気で言ってるのか?」<br />「冗談で心打ち砕かれた人に暴言なんか吐かない」<br />「幾らアンタでも、怒るぞ」<br />「怒って良い。ぶっ飛ばしてくれて構わない。嘘は吐いていないから」<br /> 彼女の手があがる。私は小さく眼を瞑った。<br /> しかしその手が振り下ろされる事はなかった。<br />「……そうだよ。私は、カナメが邪魔だった。死んでくれて助かったとすら思った。私は独占欲が強いから、アンタが他の奴に持って行かれる事なんて想像もしたくなかったね。でもそれがさ、まさか、何もかも持って行かれた後で、アンタはまんま抜け殻だったなんてな」<br />「お見舞いにいった時、カナメと何を話したの」<br />「ああ。『タツコは私が面倒をみるから、お前はさっさとおっ死ねクソガキ』って言ったんだ。そしたら、あのガキなんて言ったか解るか? 『邪魔をしたわ。もう直ぐだから、少し待っていてね』ってよ。はははっ、冗談じゃないっつの。なんだそれ。十歳の子供にさ、気遣われたんだぞ、私は!!」<br />「あの子らしい」<br />「窘められたんだよ。私は、あのガキよりも沢山持ってる。時間もお金も、余裕もだ。無知は罪で、無能は犯罪だって悟って、頑張って頑張って、幸せになりたくて。親も切り捨てて、婆ちゃんまで施設においてけぼりにして、自由を手に入れたんだ――それがどうだ? 私は好きな女の子一人満足させてやれずに気を揉んでいた。何故この子は私に振り向いてくれないのか。私の何処が不満なのか。蓋をあけてみたら、もうガキに全部持って行かれた後だったんだよ。胸糞悪いったら無いだろう? 私はさ、アンタが好きだったから、何でもしてやりたいと思って、尽くそうと思ってたのに、当の本人は私を見向きもしない。アンタの価値観は全部カナメが定めてた」<br />「酷い話があったものね。そんな話を聞いたら、私も暴言を吐きそう」<br />「ああそうだな。私はカナメを呪ったぞ。アイツの死を一日千秋の想いで待ち焦がれたんだ。冗談じゃない。アンタは私のだ。あんな、枯れ枝か干物みたいなガキにアンタをやれるか。で、死んでみたらどうだ? 相変わらずだよ。アンタは私を見てない。カップ二つ用意して、ぶつぶつとアイツと喋ってるんだ。死んだ筈のアイツとさ!! 怒り心頭だ。ふざけるんじゃねえぞ、馬鹿女、糞淫乱の雌豚め。小児性愛者の上に精神障害者か、救いようがねえぞクソムシ」<br /> 私はただ、彼女から浴びせられる罵倒を甘んじて受け入れていた。彼女の言葉は尤もなのだ。何一つ批判出来ない。彼女にはそのように思われていて当然である。<br /> 何も与える事なく、ただ奪い去って死んだ少女に怒りを覚え、恋した女は異常者だ。<br /> 自分がどれだけ心血を注ごうと振り向いてすらくれないのである。<br /> そんなもの、誰だって怒り狂う。<br /> 私が否定していたのならば、それは単なるハナエの粘着質だが、私はハナエの好意を受け入れていたのだ。<br />「……なんか反論しろよ。なんか反論してくれよ。これじゃあ、私が馬鹿みたいじゃないか……」<br />「いいの。知っているから。全部全部、知っていて、その罪悪も受け入れて、私は居るから」<br />「そうか。アンタ、そうだったな、糞ったれなんだった。ゴミクズで、心が弱くて、一人じゃ何にも出来ない社会不適合者で、支えられてなきゃ何時でも死んじまう、虚弱生物だった」<br />「うん」<br />「……頭に来て、腹が立って、心の中で恨み辛み呪詛怨嗟、カナメの奴にぶつけたよ。そしてアンタにもだ。でもさ、どんだけそう思っても、私はアンタが好きだった。アンタがカナメを見続けようとも、支えて行こうと思った。あのクソガキに、任されちまったしさ。そうだよ、アイツはたった十年しか生きられなかったんだ。クソ詰まらん人生で、頼る所はアンタだけだった。アンタに頼られる為に努力して生きて、満足に死んだんだ。私は、結局お人よしで、寂しがりの、馬鹿者なんだよ」<br />「ハナエ。私ね、貴女が好きよ」<br /> 私は数度頷き、懐からハナエ宛に書かれた手紙を取り出す。<br /> 書きだしを見て、ハナエがギョッと眼を剥いた。遺言は存在しない事になっていたからだ。<br /> 何故ハナエがそこまで驚く必要があるのか、答えは明白である。<br /> ハナエは、あの少女が恐ろしかったのだ。<br /> 努力して自由を手に入れたハナエを見下す、持たざる者である筈の少女が。<br /> 少女の存在が、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が、ありありと感じられる。<br /> しかし私は首を振った。<br /> ハナエはしぶしぶ手紙を受け取ると、それに目を走らせる。<br /> ――そして手紙を握り締め、歯を食いしばった。<br />「何もかも、カナメ様はお見通しってか。嫌になっちまうな」<br />「本当にね。私も、嫌になっちゃう」<br />「――人間って何なんだ。幸せってどこにあるんだ。私達は、どこに行けば良い」<br />「全部、ここにあるよ。見ないふりをしているだけ」<br />「アンタには、見えたか?」<br />「うん。少しだけね。本当に、少しだけ」<br /> ハナエを抱きしめる。彼女は泣いていた。<br /> 自身の人生に、自身の家族に、祖父の死に、祖母の死に、ままならない現実に、恨みをぶつけ、憎み、しかし追い求めてしまう幸福という虚妄に踊らされ続けている事実にだ。<br />「私――私は、ほんの少しだけ、幸せであれば良かったんだ。家族が居て、楽しい時に笑えて、悲しい時に涙出来て、いろんな事があっても、乗り越えて行ける、そんな当たり前の幸せが欲しかったんだ――こんな筈じゃなかったんだ。アンタを罵るつもりも、アイツを憎むつもりも、そんなの、違うって解っていても、私は――私は――」<br />「ハナエ」<br />「タツコ、ごめん、違うんだ、私――お願いだから、嫌いにならないで――」<br />「大丈夫。大丈夫だよ、ハナエ。私、ここにいるよ。いつも有難う。こうして居られるのも、全部貴女のお陰だよ。こんな最悪な私でも、愛してくれる貴女が大好き」<br />「タツコ――?」<br /> 本心から、そう思えたのだ。<br /> この虚しい人と乗り越えられる未来が、今初めて見えていた。<br /> このヒトは馬鹿だ。<br /> 馬鹿で寂しがり屋で、どうしようもない。私と同じ、身体だけ大きくなった子供だ。<br /> こんな彼女を理解してあげられるのは、祖母亡き今、私だけなのである。<br /> そしてこんな私を心から理解し、互いに歩んでくれる人は、このヒトだけなのだ。<br /> 愛には責任が伴う。<br /> 愛と表現すべきか否か、怪しいものまでひっくるめて、肯定しなければいけない場合すらある。それだけ、人間と人間を真に繋ぐものは、重たく、辛く、悲しく、虚しく、耐えがたいものなのである。<br /> 私は、それを嫌ったのだ。<br /> そんなものは背負えないと思っていたからこそ、何も信じてあげられなかったのだろう。<br /> だが、このヒトは一緒に悩んでくれる。一緒に背負ってくれる。<br /> 何もかも、カナメが身をもって、死をもって、教えてくれた事だ。<br />「大丈夫。私も支えてあげる。ハナエ、私と一緒にいて。私と苦労して、私と悲しい目にあって、私と辛い気持ちになって、悩んで、抗って」<br />「でも、アンタはカナメが……」<br />「信心は、胸の奥にある。でも、貴女はここに居るもの。私をこんなにも好いてくれる貴女が。私を光と仰いでくれる貴女が居るもの。見てあげられなくてごめんなさい。でもこれからは、違うから」<br />「信じると思うか、今更。異常者のアンタの言葉。そんなの、酷い話だ、酷い女だ、アンタは……」<br />「ごめんね、でも、お願い。私と一緒に、幸せになって――愛してるの。貴女を」<br /> それが嬉しかったのか、悲しかったのか、ハナエは泣き崩れてしまった。私は一まわり大きな彼女の身体をしっかりと受け止める。<br /> これで良かったのだと思う。これしかなかったのだと思う。<br /> 今はただ、目の前の手に触れられる現実だけを見ていなければいけない。<br /> それが責任だ。<br />「頼りないかもしれないけれど。貴女が私を必要としてくれるのならば」<br />「本当に? 独りにしないでくれるか? 私を、私を見てくれるのか?」<br />「うん」<br /> 私達は人間だ。あまりにも弱く出来ている。しかしその弱くどうしようもないその気持ちを慰めるものが、家族を含めた他人なるものだ。<br /> 知性と社会性故に地球を支配した種族は、知性と社会性故にその心を滅ぼす事がある。殊更酷かったのが私達だ。<br /> 他の人達よりも、少しおかしくて、少し壊れて産まれ育ってしまった。<br /> ヒト以上に業を背負い、ヒト以上に悲しみを背負い、ヒト以上にヒトを恋しがる。正しくどうしようもない、人類の廃棄物である。<br /> しかしそれでも、私達は人間になりたかった。人間でありたかった。どれだけ世の中を疎ましく思おうとも、それは単なる嫉妬でしかない。どうにかして認められて、生きて行きたいからこそ抱く感情だ。<br /><br />『華江へ ただ一度だけ顔を合わせた貴女へこんなものを書くのは間違っているでしょうが、生憎書かざるを得ない程、貴女と私と、そして私達が愛してやまない彼女は、似通っていました。恐らく貴女も彼女に光を見たのでしょう。薄暗い檻の中に閉じこもった、小さく愚かで間抜けで馬鹿な彼女に、希望を見てしまった事でしょう』<br /><br />『同族故に私は貴女を嫌悪し、憎悪し、そして同時に、どうしようもない程の同情と、羨ましさを感じています。貴女は私を嫌ってください。私も貴女を嫌います。そしてだからこそ、私を神と、女王と仰いだ馬鹿者に、苦言を呈し、問題を提訴し、彼女に現実を見せてあげる事が出来ると思います』<br /><br />『貴女は私よりも沢山のものを持っている。何も持たない私ですが、けれど私はただ唯一、欲しかったものを手にする事が出来ました。そして自己満足にも死に逝くのです。羨ましいでしょう。そして私も貴女が羨ましい。貴女には私が出来なかった事が、これから出来る』<br /><br />『愛しい人と、悩み、悶え、苦しみ、嘆き、笑い、悦び、生きて行く事が出来る』<br /><br />『タツコをお願いします。羨ましい貴女』<br /><br />「行こうタツコ。歩こう。私達は生きてるから」<br /> 遠くの煙突から死出の煙が上がる。火葬が始まったのだろう。<br /> 否応なしに襲いかかる絶望を回避し、幸福である事の嫌悪を乗り越え、いつか本当に心の底から笑う為に。<br />「うん」<br /> 私は小さく頷いて、ハナエの手をとった。<br /><br /><br /><br /> 了</span>俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-21597995953026720652013-12-15T21:18:00.000+09:002013-12-17T19:25:25.336+09:00私の幼い女王様 3、亡国<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"> </span><br />
<span style="line-height: 27px;"> 3、亡国<br /><br /><br /> 私という人間が何から構築されているのか、改めて思い知る一ヶ月間だった。<br /> 錆ついた歯車を研き、油を注す作業は経験にないほどの苦痛であったが、その中で得たものは、私が真人間に戻って行く経験と実感であり、同時に恐怖と幸福だった。<br /> 薄暗いものになる筈だった未来は、俄かに光明が射している。私はそれに対して必死に手を伸ばすのだ。<br /> 今の私には、わずかながらに私がある。まだまだ人は怖いし、視線も少し恐ろしいけれども、それらに怯えて自らを見失うような機会は、この一か月で極端に減った。<br /> 前向きになった私には、母と父がいる。そしてハナエが支えてくれる。<br /> そして何よりも、私にはカナメがいるのだ。<br /> 私は、ほんの少しだけでも、笑って歩けるようになっただろうか、普通の女に戻れただろうか、カナメに認められる人間になれただろうか。<br />『彼女に逢ってきます』<br /> ハナエに対してそのようにメールを送る。<br />『はいはい』<br /> 素気なく、そのように返って来た。<br /> これが終わったら、自分の携帯を買おう。幾らでも使えというが、やはり他人の物だ、気兼ねしてしまう。<br /> 外に二人で出られるようになったら、どうしようか。年齢差十歳とはいえ、女同士なら何とかなる世の中だ、ある意味女で良かったと思う。カナメと二人で外を歩く姿を思い描き、私は微笑む。<br /> 思い立ち、すかさず鏡を見た。<br />「うん。自然な笑顔」<br /> 作り笑いではなく、苦笑いでもない。私が本来欲しかった笑顔だ。<br /> 今回は以前のように化粧は崩れていないし、吐瀉物臭くもない。あの日を思い出すと、何とも嫌な気分になるが、同時にあれが私のターニングポイントとなった。<br /> 外に出る。たったそれだけの事で、私は前に進めたのだから。<br />「お母様、少し出ます」<br />「解りました。何時頃戻りますか?」<br />「夕方前には」<br />「解りました。気をつけてくださいね」<br />「はい」<br />「タツコさん」<br />「はい?」<br />「本当に、良かった。そんな笑顔ですもの、もう、大丈夫ですね」<br />「私、笑っていますか」<br />「ええ。とっても可愛らしい。大武さんにも、御礼を言ってあげてください」<br />「あはは……まあ、そうですね。では」<br />「はい。いってらっしゃい」<br /> 出掛けると言っても、隣に行くだけだ。そしてあわよくば一緒に外出して、この前見つけたパーテーション区切りのある喫茶店で、美味しいケーキを食べよう。視線も気にせず、楽しめるに違いない。<br /> 一カ月ぶりだ。彼女はどうしていただろうか。まだ私の王でいてくれているだろうか。私はまた、ヘタクソな敬語で話して、彼女も偉そうに返してくれるだろうか。<br /> あのコミュニケーションが、私は愛しくて堪らない。<br /> 姿見で自身を確認し、日傘を持ち、ドアノブを回す。強い光が差し込み、透き通るような青空が望めた。<br /> そのまま直ぐ隣の部屋へ赴き、数間おいてから、インターホンを鳴らす。<br /> 時間は十六時過ぎ。カナメの母は既に外出している筈であるし、カナメも承知の上でこの時間を一か月前に指定したのだろう。<br /> 少し呼吸が乱れ、心拍数があがる。<br /> ドアが開いた。<br />「……どちらさま?」<br /> ……。私は多少呆気にとられたが、冷静を装って対応する。<br /> 出て来たのは、大人の女性。カナメの母だ。<br />「――あ、隣の、旗本です。カナメちゃんは……」<br />「あらら。旗本の娘さん。娘に聞いてるわ。仲良くしてくれてるって」<br />「い、いえいえ。此方こそ、遊んで貰っているようなものなので……」<br />「上がって。お話したいし」<br /> 年齢は、二十歳後半ぐらいだろうか。カナメがいう話では、店のナンバーワンという事である。今日は非番なのだろうが、薄めだがメイクはしている。<br /> やはり美しい人だ。この母にしてあの娘なのだろう、もはや遺伝子を疑いようも無く、彼女の母である。<br /> 部屋着なのか薄手のシャツを着ているだけだが、そのフォルムは酷く女性的で、同時に扇情的だ。男性が堪らなく思うのも仕方ないだろう。<br /> 化粧だけでは繕えない大きな瞳に形のよい鼻、唇がまた少しぶ厚く色っぽい。正しく大人の女性である。<br />「はい、失礼します……」<br /> 彼女に付き従い、私は日傘を傘立てに立て、家の中にお邪魔する。<br /> リビングへ行くと、ソファにかけるよう促された。<br />「こんな歳の離れたお友達が居るなんてね。幾つ?」<br />「二十歳です」<br />「若い。羨ましい限り」<br />「いえ、この若さ、どこにも活かせていないので」<br />「あはは。まあ、活かした所で良い事はあんまりないわ。はい、紅茶で良かった?」<br />「有難うございます」<br /> 出された紅茶に何も入れず一啜りする。紅茶にミルクと砂糖を入れると、当時夜中に飲んでいた紅茶を思い出してしまう為避ける。<br /> それにしても、どうやらカナメは不在のようだ。学校だろうか。珍しい話だが、私とは違って小学生なのだから、やる事もあるだろう。<br />「私はお酒失礼するわね」<br />「ええ、どうぞ」<br /> そういって、彼女が持ち出したのはウィスキーの瓶だ。お酒の知識はまるで無いので、それがどのようなものかは解らない。私には一生縁が無さそうである。<br />「聞いてるかもしれないけど、カナメはだいぶ若い頃の子だから、右も左も解らないまま育てちゃって、ちょっと変な子になっちゃってね」<br /> そのように、おどけた調子で言う。雰囲気がハナエに近い為、他の人よりも接し易い。私は言葉を選びながら返答する。流石に娘さんの下僕ですなんて口が裂けても言えない。<br />「……凄くしっかりしたお子さんです。物言いが大人で、精神的にも早熟かと」<br />「それ、ガッコの先生にも言われたわ。自立もやりすぎるとアレね。手がかからないのは良いのだけれど」<br />「月並みですけれど……でも、大変でしたでしょう」<br />「世間一般で言えば、不貞の子だしね。でもさ、私は当時、その人が凄く好きだったのよ。奥さんも居たんだけど……学校の先生でさ」<br />「……す、凄まじいですね」<br />「あっはっは。話のネタにはなるわね。私が子供せがんだの。結婚なんてしなくて良いから、貴方の子供が欲しいって。あの人への愛さえあれば、私の世界は幸福に満ちるって、そんな幻想抱いて……煙草良い?」<br />「ええ」<br /> 細身の煙草を取り出し、火を点ける。薄い紫色が部屋の上部を漂う。<br /> なんとなくではあるが、カナメにもある程度聞いていた話だ。<br /> 若くして子供を授かり、学校から、親から、周囲から糾弾されたという。もしかしたら、それが独身相手ならば、また違っただろうが……相手は人の夫だ。しかも教師であるからして、問題にならない訳が無い。<br />「夢見る乙女は一歩間違うと、とんでもないわ。私は堕すのを拒んで、カナメを産んだの。元から自分で責任を取るつもりではいたけど、先生はそのまま居なくなっちゃったし、両親からも責められる毎日で、嫌気がさして、カナメ抱えて逃げ出したのよ」<br />「ど、どうやって暮らしていたんです?」<br />「優しく声をかけてくれる人の所。経産婦とはいえ若いでしょう、狙って来る人は沢山いるし、おこずかいも貰えたし、まあ、転々と過ごしていたのよ。そんなある日、まさかの御老人に拾われてね。ああ、七十も過ぎて性欲旺盛だなあなんて思ったけれど、毎日お話してほしいって言われて、でっかい家にあげられてさ」<br />「それは……幸運、だったのでしょうか」<br />「資産だけあって、家族の居ない人だったわ。寂しい老後に耐えられなかったらしいの。娘と孫が一緒に出来たみたいだって、凄く喜んでいた。それが五年くらい前かな。二年くらい御世話になって、ご老人が亡くなってね、どこから湧いてきたのか、親戚だって奴らが遺産分与に揉めて揉めて。私の処遇もどうするかってなって。その中の若い人に、うーん、買われた、のかしら。シモの御世話をする代わりに、生活保障をしてもらうカンジ。愛人契約ね」<br /> 解ってはいたのだが……その十年間の中に詰まっている人生の濃さが、私とは比べ物にならない。<br /> 彼女が抱えるものは正しく負の塊だ。最悪の選択肢を行き、最悪を掴まされ続ける人生である。大人びた女性の魅力の中に窺える憂いは、そういったモノが反映されているからだろう。<br /> 若く、美しく、未婚で、しかし未亡人のような風格だ。<br />「……では、今は?」<br />「ああ。夜働ける歳になったから、契約をご遠慮願って、ひとりだちしたのよ。そこからがまた、女の嫉妬と確執にまみれた地獄だった訳だけど……聞くと今までの話より胸糞悪いから止めた方がいいわよ、あははっ」<br />「あ、あはは……」<br />「ま、色々あったの。三年連続ナンバーワン。私の源氏名を知らなかったら、あちらの界隈じゃモグリなのよ。……とはいえ、流石にそろそろ年増だけれど」<br />「そんな。とても、お美しいです」<br />「ありがと。私ね、男の人を幸せにする才能があるらしいのよ。愛人だった人も、笑顔で手切れ金をくれたわ。凄く幸せだったって。貢いでくれる人も、みんな笑顔。不況だっていうのに、このマンションも、ポンっとくれた。ただ心残りといえば、やっぱり先生を幸せに出来なかった事かしら」<br />「そういえば、お名前を窺っていませんでした。私は、タツコです。旗本竜子」<br />「あら、そうね。水木澪よ。源氏名はいる? お店来たらサービスするわよ。女でも歓迎するわ」<br />「い、いえ。私には少し早いです。それに私、人前が苦手で」<br />「そんな綺麗な顔しているのに、苦手なのね。そんな事もあるかしら。彼氏もいないの?」<br />「お、男嫌いで……」<br />「あらら。あはは。そうなの。アレもなんだが、男は苦手みたいだし。やっぱり物心ついた時から大人の汚い所見ているからかしら?」<br /> 澪が美しく笑う。冗談だろうが、しかし、どうやらカナメもあまり男は好かないようだ。<br /> 私の周りに居る女性というのは、どうも悉く男にトラウマがあるように思える。<br /> 澪が三本目の煙草に火を点ける。<br /> そうだ。彼女の話に夢中になっていたが、カナメはどうしたのだろうか。<br />「あの、澪さん。あ、お母様と呼ぶよりも、澪さんと呼んだ方が、しっくり来ますね」<br />「ええ。この名前好きなの。親が唯一くれた満足行くプレゼントね。それで、何かしら?」<br />「カナメちゃんは」<br />「うん?」<br /> 今、何かが、かけ違っている気がする。<br /> 澪は不思議そうな顔をしている。何故そんな、ここに居る事がおかしいような、顔をするのだろうか。<br />「――あの」<br />「あの子、貴女に話さなかったのかしら……」<br />「な、何か、あったんですか?」<br />「ええ。一か月前から、入院しているわ。心臓の調子が悪くて。持病は、知ってるわよね」<br />「え、ええ……そ、そんな……」<br /> 頭の中を、あの時の記憶が巡る。<br /> 何か引っかかりがあった筈だ。しかし、私は私が前を向くのに必死で、それを深く考えていなかったように思える。<br /> 今まで顔を見せろなんて言わなかった。だがあの時は執拗に私に逢いたがっていた。<br /> 出会った後も、そうだ。<br />『死に物狂いで努力する。生き残る。戦うわ』<br />「あ、あ……」<br />「……タツコちゃん。大丈夫?」<br />「ぶ、無事、でしょうか。カナメ、ちゃんは」<br />「……」<br /> 何故。<br /> 何故そこで押し黙る。そこは、大した事無いと、言う所ではないのか。<br /> 御世辞にも良い状態には無いのか? 入院していると言っても、どこに。どの部屋に。まさか、そんなに緊急を要する状態なのか。<br /> 目が泳ぐ。鼓動が速くなる。呼吸が荒くなる。<br /> 突然の衝撃に『自身』が揺るぐ。<br />「ちょっと、タツコちゃん?」<br />「あ、あの、いえ。その」<br />「そ、そんなに驚くとは思わなくて。あの子、貴女の前じゃ余程隠していたのね……ソファ、横になっても良いわよ?」<br />「だ、大丈夫です。あの、それで、カナメちゃんは」<br />「……御医者様にも、長く無いってずっと言われ続けてきたのよ。もう、手は尽くし終わっているの」<br /> もう、手を尽くし終わっている。<br /> つまり、手術した所でどうにもならないという事だろうか。<br /> 外科手術を繰り返しても負担をかけるばかり、体力がない所為もあって強い薬も使えない、と。<br /> つまり。<br /> つまり。<br /> つまり、彼女は、もう――死ぬのか。<br />「助かりようが無いと、そう、言う事ですか」<br />「移植手術に耐えられる力はないし、ドナーも見つからないもの。幾らお金積み上げた所で、どうにもならないわ」<br />「そんな――」<br />「ねえ、タツコちゃん。こんな事を聞くのもなんだけれど」<br />「は、はい」<br />「あの子の……何かしら? その反応、お友達じゃないわ」<br /> それで無くとも困惑しているのに、今、そのような問いを私にかけるのか。幾らなんでもあんまりだ。<br /> ただ、確かに、他人から見れば私の反応はいささか異常だろう。幾ら可愛がっていた幼い知り合いが瀕死だからと、不安でもなく、緊張でもなく、体調に変調をきたすような他人はなかなかいないだろう。<br /> 私は自身の動揺を人様に隠せる程器用な人間ではない。<br /> 返答に詰まっていると、澪は煙草をもみ消し、グラスに残っていたお酒を一気にあおる。<br />「覆りようが無いわ。あの子は、死ぬの」<br />「希望は」<br />「あの子が五歳の頃に、私は希望を捨てたわ。貴女は、あの子に希望を観たの?」<br /> 澪の視線が迫る。<br /> その通りだ。<br /> 私は彼女に希望を見ていた。<br /> 薄暗く未来の見えない箱の中に居た私にさした一条の光だ。蜘蛛の糸だ。彼女は神であり仏であり私の女王様なのだから。<br /> 終わらない終わりの道を延々と回り続けていた私に差し伸べられた御手であり、道しるべなのだ。<br /> それを、今失えというのか。<br /> 彼女はどうだ。水木加奈女はどうなのだ。<br /> たった十年、たった十年の生でその幕を閉じる、それはあまりに理不尽ではないか。死ぬべき人間なんて沢山いる筈だ。あっちにもこっちにも、今すぐ死んだ方が世のためになるような奴ばかりだ。なのにどうして美しく可憐な彼女がたった十年で死ななければならないのか。誰か代わりになれないのか。<br /> 私、私が――私が代わりに……、なれる訳も……、ない。<br /> そしてそんな考えは恐らく――母である澪も、同じなのだろう。<br />「そうね、代われるものなら、代わりたいわね」<br />「――私、引きこもりだったんです」<br />「なんとなく、聞いてるわ」<br />「あの子に、顔が観たいと言われました。あの子は何処とも繋がりを持たない私の、唯一の掛け替えの無い希望でした。あの子の望みならなんでも叶えてあげたい。辛いけど、苦しいけど、酷い目も観たけれど、それでも、あの子が喜んでくれるならと、外に出るようになりました」<br />「うちの娘が、ワガママを言ったわ」<br />「いえ。その、お母様の前で、話すような事じゃ、無いのかもしれませんけれど。私、友達じゃあありません……その関係性を、なんと表現したらいいか、解りませんが……あ、あの、決して、やましいものでは」<br /> 俯く。<br /> 自分がどうしたらいいのか、どこに考えの重きを置けばいいのか、解らない。<br /> そしてこのヒトに、どんな顔をして良いのか、どう返せばいいのかも、解らない。<br /> 齎される現実に対して、私はあまりにも無力であり、同時にその理不尽な無力さは、非現実感すら醸し出す。<br /> カナメが死ぬ。良く分からない話だ。<br />「いつか来る日だとは思っていたのよ。でも、いざその時が来てみると、実感がないわ。あの子、決して苦しい振りはしないの。どんなに辛くても、ギリギリまで我慢する癖があるのか。だから、今日もね、貴女が来た時、あの子が病院からひょっこり、戻って来たんじゃないかって、思ってしまって」<br /> 彼女は大人びていて、孤高で、崇高で、気高い。母の前ですら、気丈として居ただろう姿が、ありありと思い描ける。彼女は私に対しても、辛い姿などついぞ見せた事が無かった。<br /> 痛みや苦しみを押し殺してでも、毎日私に顔を出してくれていたと考えると――居た堪れない。<br />「面会者名簿に、貴女を登録しておく。あの子、きっと貴女に弱った姿なんて見せたくないでしょうけれど……いつ……」<br /> いつ居なくなってしまうか解らないから。<br /> いざ、言葉に出そうとしたのだろう。そしてその言葉が、自身に迫る現実を描かせたのかもしれない。<br /> 澪が顔を覆い隠す。私にはそんな彼女に、何もしてあげる事は出来ない。何せ、自分でも、手いっぱいだ。<br />「ごめんなさい……」<br />「――病院は、どちらでしょう」<br />「……近くの大学病院よ。解るかしら」<br />「はい。昔、御世話になりましたから……今日は、御暇します」<br />「また、来て頂戴。子供を疎ましく思っている男じゃ、御話し相手にならなくって」<br />「解りました……失礼します」<br /> 深々と頭を下げ、私は水木家を後にする。<br /> 日傘を手に取った所で、このまま自分の部屋に戻るべきかどうかを考えた。<br /> 今、一人になるべきではないような気がする。<br /> 今一人になってしまったら、きっと私は考え込む。<br /> 答えが出ないと解っていても、終わりの無い問答を繰り返すだけだ。<br /> 携帯を手に取り、短縮で彼女に電話をかける。<br />『もし』<br />「今何処」<br />『あ、新居新居。改装も済ませたから。モノが無さ過ぎて不安なんですけど』<br />「場所教えて」<br />『来るの? 何もないぞ?』<br />「助けて」<br />『解ったそこに居ろ、動くな。直ぐ迎えに行くから。どこだ』<br />「家」<br />『解った。遠く見ろ、深呼吸しろ、無駄な事考えるな』<br />「うん」<br />『切るぞ。変な事考えるなよ』<br /> 慌ただしく、バタバタと音を立てて、通話が切れる。<br /> また彼女に迷惑をかけてしまうだろう。彼女はそれで良いと言う。私に罪悪感がない訳でもないが、今この状態を打破しようと思ったら、受け入れてくれる他人に縋った方が良い。<br /> 肉親では駄目だ。肉親は肉親なのだ。<br /> 娘というアドバンテージそのものを受け入れている事実と、私という個人を受け入れている事実は、まったくもって異なるのである。<br /> 他人の優しさにしがみ付く間抜けさを噛みしめながら、それでもなお生きる為と割り切る、そんな面倒くさいロジックが私には必要だった。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /><br /> それから彼女は五分もしない間にやってきて、私を車で拾い上げた。一体自宅をどこに構えたのかと思えば、車で三分ほどの近所のマンションである。<br /> 私は、私が思っていた以上に顔色が悪いのか、私を見たハナエの表情は険しかった。<br /> 扱いはまるでお姫様である。駐車場に車を止めると、わざわざ外に出て私側のドアを開けて手を差し伸べてくる。<br /> 素直にその手をひかれ、彼女が居を構える地上十五階の部屋に案内された。<br /> 大きなマンションなのだが、一つの階に部屋が二つしかない。玄関をくぐると、ウチとはまるで違った長さの廊下があり、部屋の数もウチの倍はある。<br /> 恐縮しながらリビングへと赴くと、一人暮らしにはあまりにも不相応で立派なシステムキッチンが据えられており、そのデザインもかなり近代的だ。<br />「珍しいか?」<br />「うちの倍くらい広い」<br />「まあそこそこしたしな。二階もあるぞ」<br />「一人で住むの?」<br />「何にしても、狭い部屋はもうたくさんなんだよ……あ、これ合鍵な」<br /> そういって、ウサギのストラップがついた鍵を渡される。ちなみに二つだ。いつでも使えという事か。<br />「私、彼女じゃないけど」<br />「アンタ以外ウチ来ないしなあ。好きに使いなよ。愛人の家だと思って」<br />「なんで鍵二つ?」<br />「言ったろ。部屋二つ買ったって」<br />「隣?」<br />「そう。倉庫にしちゃ少し大きすぎたかな。まあ、気兼ねなく騒げるから良いか。あ、住むなら住んでいいぞ」<br />「うち、あるし」<br />「だはは。そうだった。ま、一人で居たい時もあるだろう」<br /> 窓際に据えられたソファに腰掛け、外を望む。<br /> 高級マンションらしく、その眺めは絶景だ。ここからでも繁華街、その先にある隣町の大きなタワーも、まるで近所のように近く見えた。<br /> ここが、自由を手に入れた彼女の城なのだろう。<br />「独りは寂しいでしょ」<br />「独りになる為に出て来たからなあ。でもまあ、アンタが隣にいるなら、それに越した事もないね……どした。何かあったか?」<br /> ハナエが隣に腰掛ける。私は、そのまま彼女の胸に縋りついた。<br />「――タツコ?」<br />「逢いに行ったの」<br />「ああ、聞いた。それで、アンタの神は、どうなってた」<br />「――もう、助からないって」<br />「なんだって……?」<br /> ハナエに説明を省いていた部分から、カナメとの馴れ初めに至るまで、私は全て説明した。<br /> 私は、初めて他人に慰めを要求したのかもしれない。<br /> そもそも、このような話を聞いて理解してくれる人物は限られるのだ。状況は違えど心証的に似たような境遇を経験した彼女ならば、私の戯言を馬鹿にせず聞いてくれる。<br /> 私の話を聞いている間、ハナエはずっと頭を撫でてくれていた。他人に触られる事も嫌がった私だというのに、彼女に対してはそれがない。どれだけ否定しようと、やはりハナエは特別なのだ。<br /> このヒトに慰めて貰いたい。このヒトに同情して貰いたい。このヒトに優しい言葉をかけて貰いたいのだ。<br /> 私は今、神を失おうとしている。<br />「――悲惨だな。どうしてこう、世の中は絶望で溢れかえってるんだろうか。世の中の笑っている奴らが、実は全部演技なんじゃないかって、私はずっと思ってたよ」<br />「幸せってどこにあると思う」<br />「生み出せ、とか、自分で掴めとか、そんな無責任な事は言えんな。どうあがいても不幸の方が容易くやってくるんだ。私の場合は、下品な話だが、お金が全ての解決方法だった。そして、私は自分から、不幸を買いに出てる」<br />「私の事?」<br />「幸福か?」<br />「ううん」<br />「だよな。でも、アンタは幸いな事に、家族には恵まれてる。そこに私をプラス出来たら良いんだがね」<br />「助かる」<br />「それはよかった。他にしてほしい事あるか?」<br />「不貞と思わないで」<br />「うん?」<br />「抱きしめて。なんかもう、なんか、訳、解らなくて――」<br />「ああ、いいさ。勿論。カナメちゃんには申し訳ないが、私はアンタに縋られて幸せだよ」<br />「最悪」<br />「まったくだ」<br /> 愛しければ、直ぐ様命の危うい想い人の所に駆けつけるのが正解だろうか。<br /> 健全な体を持ち、健全な精神を宿した人ならば、そうだろう。<br /> だが私はあまりに弱い。軟弱にも程がある。支えを失おうとしている今、その支えに無理矢理縋った所で、誰も彼にも迷惑千万である。<br /> 死という覆りようの無い現実に立ち向かうにしても、私はそんなものを目の前で見せつけられて、立っていられる自信がない。そしてどれだけ近くで彼女を想った所で、彼女は健康にはなりはしないのだ。<br /> 頑張ってとか、死なないでとか、あきらめちゃ駄目とか、身勝手すぎる話だ。<br /> そういう奴に限って、自分が一番大事に違いない。<br /> 解っている。心の底でどう思っているかなど、他人は一々勘ぐらない。だとしても、私はダメだ。泣き喚いて、本人に辛そうな顔を見せつけて、死に逝く貴女より私が一番可哀想だと表現するような絶望的な感性は持ち合わせていない。<br />「面会謝絶って訳じゃないんだろう。アンタが落ち着いたら、見舞いに行こう。私も付きそうから」<br />「貴女も来るの」<br />「私の顔見たら、死ねないと思うかも知れんぞ。アンタを取られたくなくて復活するかもしれんし」<br />「何それ」<br />「……もうどうしようもなくなった人間が医学の埒外で元気になるとすれば、それは精神とか根性とか、そんなもんしかなくなるんだよ。だから、絶望的な状況に陥った本人や家族は、オカルトみたいな健康法に縋ったりするんだ。それが精神安定の助けになりゃいいが、まあ総じて功は奏さない」<br />「駄目じゃない」<br />「手は尽くしきったって満足感はあるかもな。本人も、家族も、親しい人も」<br />「それは……ただの自己満足じゃないの」<br />「大前提として、生きてる人間が大切なんだ。死に行く人間を思いやるのも大切かもしれんが、今を生きてる人間がそれにつられて不健康になったり不運になったりしたら、これから死ぬ奴だって気が気じゃないだろう。アンタはそういうの嫌いそうだが、見舞いなんてそんなもんだ。私は元気ですって見せなきゃない。外に出れるようになっただろう。その子もそれを望んだんだ」<br />「きっと、弱った姿なんて見られたくないにきまってる」<br />「だろうな。でも愛しい人の姿を見ずに逝くのは、きっと辛いぞ」<br />「まだ、死んでない」<br />「解ってるんだろう。なら言うな」<br /> 私は人の死に目にあったことはない。祖父母は健康そのものであるし、身内の誰かに不幸が起こった事もない。一年に一度逢うかどうかも解らない親戚の死ならば実感しようもないかもしれないが、精神的に依存した部分のある人物の死がどのようなものかなど、まったく想像もつかないでいた。<br /> 今まで喋っていた人間が居なくなるというのは、どのような感覚なのだろうか。<br />「……貴女の御爺さん」<br />「ああ。最初は良く解らなかったな。あれだけの頑固者が喋らなくなるなんて、意味不明だった。んでも出棺して、火葬して、骨だけになって。納骨する段階で、やっとこのヒトが死んだんだって解った。想い出とか、色々溢れて来て、ずっと婆ちゃんに縋ってた。そんな段階でも――うちの両親は、自分の事ばかりだったな。ああ、思い出すと腹が立つ……幾ら生きている人間が大前提だったとしても、だ」<br />「悔いたことは」<br />「もう少しお喋り出来てればなって、それだけだよ」<br /> 私とカナメの関係は、会話が主体だった。互いの顔も知らない状態での他愛ない会話こそがその全てであっただろう。逢わなかった一か月は、今後もっと仲良く出来るという期待があったからこそのものであるからして、今後一生そのような機会が設けられないとするならば、それは私自身のアイデンティティの喪失である。<br /> 彼女と共に歩む未来を思い描けない私にどれほどの価値があろうか。<br />「ハナエ」<br />「なに?」<br />「もう少し、お話したいの」<br /> 腕に縋り、彼女を見上げる。<br />「え? あ、ああ、うん。勿論良いが……そうか、実感無さ過ぎるんだな」<br />「意味が解らない」<br />「……あまり宜しくないな。現実を否定するあまりに統合失調症やら解離性同一障害になんてなられたら堪らん」<br />「また病気が増えるのは、嫌」<br />「恐らく、耐えがたいぞ。アンタはその子に依存してる。自身を保とうと思ったら、他に依存先を見つけるか、それに打ち勝つ精神を身につけるか、そもそもそんな現実は起きていないと否定するかのどれかだ。アンタがそれに打ち勝つような強固な精神を持ってるとも思えんし……なんなら私に依存してみるか?」<br />「ヒトを代替えにするなんて、きっと畜生の所業」<br />「ああ、そういう自覚はあるのな。まあ、頭おかしくしたり、自殺するよりはマシかな。なあタツコ」<br />「うん」<br />「私はカナメって子を知らない。知ってるのは、カナメって子を頼みにするアンタだ。私はアンタを助けたい。幸せになって貰いたい。もしカナメって子がアンタを心から愛しているとするならば、きっと私と気持ちは同じだろうさ」<br />「あ、愛って……」<br />「だって好きだもの。恩人で、弱くて、人前でおどおどしてて、支えてあげないと死んじゃうんじゃないかって庇護欲に駆られるアンタが。その子だって、アンタを支えたいからこそ、迎えに行くって言ったんだろう。幸せにしたいから。不幸で不憫で愚かなタツコを」<br /> 流されていると、思う。<br /> そうだ、ハナエはカナメを知らない。当然、重視するのは自身と私の関係性だろう。ハナエにとってカナメは、私を得ようと思った場合障害でしかない。こうして親身に話をしてくれるのだって、自分の好いたヒトが俯き加減で不幸な顔をしているのが嫌だからだ。<br /> このヒトは優しい。<br /> 理屈臭いけれど、私の求める回答を与えてくれる。だから、彼女が何を考えていようとも、私はその優しさに流される。それに、この慰めは私自身が望んだものだ。<br />「あっ……」<br />「可愛い声」<br /> 首筋にキスされた。耳元で囁かれる。鼻を宛がわれ、匂いを嗅がれる。<br />「――」<br /> 無言で同意を求められ、私は小さく頷いた。<br /> 彼女の手が、私の内腿に添えられた。くすぐったく、しびれるような感覚に、呼吸が荒くなる。滑らかな手付きが、冷え込んだ私の心を、ゆっくりと包む。<br />「うっ……ふっ……くふっ……」<br />「ちゃぁんと女の子してるじゃん。大丈夫、服、着たままで良いよ。ちょっと、恥ずかしい所弄るかもしれないけど……」<br /> ソファの上に横たえられ、私は顔をそむけず、彼女を見据える。<br /> 嬉しそう、だけど、どこか悲しそうな雰囲気が含まれていた。<br /> 失意の中、家族を捨ててまで幸せを掴もうとしたヒト。幸せになってまた、不幸を買い漁る彼女。<br /> 愛しい人を失おうとしている今、他人に慰めを求める私は、なんて酷い女なのだろうか。ハナエが私を好いているという事実を良い事に、心の穴埋めの代替えにしようとしている。<br /> まさに畜生だ。私が死んだ方が良いに決まっている。<br /> けれど、私が死んだらカナメが悲しむ。ハナエも悲しむ。<br /> だから私は――私が死なない方法を、とっている。<br />「……好きにしてほしいの。私に貴女へ語る愛はないけれど、私は貴女が必要だから」<br />「自覚のあるクズは性質が悪い事この上ないねェ……」<br />「嫌い?」<br />「それに答えろってか。酷い女だ。ほら、力抜いて。任せておいて」<br />「……どうするの?」<br />「まあ、好きにするさ。これが対価だってなら、有難く頂く。妄想の一部が現実になるのは、心地良い限りだ」<br />「妄想の中の私は――どんな私なの」<br />「再現してくれるって?」<br />「うん」<br />「無理」<br />「なんで」<br />「妄想の中のアンタは、私の事大好きだから」<br />「んあっ……やっ……はずかし……」<br /> 私はきっと不貞にも、その言葉に顔を真っ赤にして、いやらしい顔をしているのだろう。<br /> 病床に伏せる彼女に想いを馳せながら、自身の不幸に陶酔しながら、慣れた手つきのハナエによる責めに、抱くだけで罪悪感に駆られるような悦びがあるからだ。<br /> この細い身を、この面白くない体を、優しく、好意的に、嬉しそうに、楽しそうに弄られている現実は、もはや嫌悪や羞恥を通り越して快感ですらあった。<br /> 私を否定しないでくれる。私を深く受け入れてくれる。私の欲しい慰めを授けてくれる。私には、ハナエが女神に見えていた。それはカナメに抱く感情とは別種だ。信仰すべき神というよりも、都合の良い神様である。私の宗教はきっと、多神教だったのだろう。<br /> 人の都合で信仰は移り替わる。教義は二転三転し、終いには信者同士で争って派閥が産まれ、どの神を重視するべきかすら異なってくる。<br /> 今欲しい利益を、今授けてくれる神を、私は新たに生み出してしまったに違いない。<br /> 嗚呼、本当に、最悪だ。<br /> 私はこの、悲惨で凄惨な感情に酔っぱらっている。それを文句ひとつ言わず受け入れてくれる彼女に、私は心すら預けようとしていた。<br />「く、うぅ……」<br /> ハナエが私を後ろから抱え、下着の上から下腹部を擦り始める。まるで未知の感覚だった。そもそも私は、自慰すら殆どしないタイプの人間だ。自分で弄らないものを、他人様に弄られているかと思うと、体が火照り、頭が呆けて来る。<br /> こんな事をされてしまうのか。<br /> これから更に弄られるのか。<br /> ハナエの身体を弄る事を強要されてしまうのか。<br /> それは――どんな感覚なのだろうか。<br />「たぁつこ」<br />「……うん」<br />「私にも……して」<br /> 耳を食まれ、囁かれる。<br /> 甘く、脳を融かすような興奮した声色が、私の現実感を向こうに追いやった。<br /> ソファに腰かけ、下着を脱ぎ去ったハナエの前に座り込み、私は静かに、顔を埋めた。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> <br /> 元から高台に開かれた場所の地上十五階だ、その視界の広さといったら実家のベランダとは比べ物にならない。ここからならば隣町も、自分の住むマンションも、そしてカナメが入院している病院も良く見えた。<br /> ここはベランダ、というよりもバルコニーだろう。<br /> 白く綺麗に塗装された床に壁、天井はなく建物から突き出した形になっている。右手奥には一段高くなったウッドデッキがあり、そこにはバーベキューセットの据え付けられた木製の椅子と机が並んでいる。<br /> 壁際に作られた煉瓦の花壇が小洒落ていて、園芸趣味がなくとも進んで花に水やりをやりたくなる雰囲気がある。<br /> そもそもここは、端から端まで歩くのに七秒もかかる。どんなマンションだと、無粋にも値段を計算してしまった。<br /> ハナエの趣味は解らないが、半分以上引きこもりの彼女には不要に感じられてならない。<br /> 当然私にも分不相応だ。<br /> バルコニーからリビングを覗く。ハナエは運び込んだ自作のパソコンを五台、サーバーを二台、その他端末複数でネトゲとソシャゲと情報収集とデイトレードに勤しんでいた。その顔たるやいなや、本当に幸せそうである。きっと今頃ネットでは、悪の大魔王が帰って来てしまったと戦々恐々の事だろう。<br /> 人を最も駆り立てるものが何なのか、良く分かる。どうあがこうと私達は生物だ。生きているからには、死なない為の努力が必要になる。<br /> 彼女の場合、覚悟と勢いと運が、ケタ外れていたのだろう。坐して死ぬならば、この不幸な世界に一矢報いようという覚悟は格好良いのだが、本人がアレでは締まらない。<br />「広い」<br /> カナメが占有し、私が住まう領地とは比べ物にならない。ここは一人には広すぎる。<br /> ハナエは狭い場所がイヤだと言っていた。そしてリビングに据えられた家具や揃えられた食器、それら全て、五人分なのである。<br /> 恐らく、ハナエの家族分だ。<br /> 死した祖父、高級介護ホームにいる祖母、金を叩きつけた父と母、そして自分の分。<br /> 自由になりたいと願った彼女は、心の奥にまだ、幸せな家族の絵画が飾ってあるのだろう。<br />「ん」<br /> 自分用に買い替えた携帯を覗く。メールが一件、澪からのものだ。<br />『面会許可が下りました。二人分申請したので、逢いにいってあげてください』<br /> そのように綴られている。最近の病院はどこも防犯の為、入院者との関係性を明確にしなければ面会も叶わない。特にカナメの場合は生死の狭間にいるようなものだ、判断も慎重になったのかもしれない、あれから四日経っている。<br /> 携帯を握りしめてから、ポケットに仕舞う。<br /> どうしたものか。<br /> あれから、一向に実感が湧かないままなのだ。カナメが消えてしまう、死んでしまうと言われても、涙の一つも出てこない。ハナエは『そんなものだ』とは言うのだが、臣下として、民として、王が臥せている事実に対して悲しめない状況が不敬であるような気がしてならない。<br /> 勿論、彼女の眼の前で泣き喚くような真似はしたくないが、それでも、私は私が間違っているのではないかという疑念を払拭出来ずにいる。<br /> 最初こそ、病床のカナメを目撃して立っていられるかと疑問に思ったが、このような精神状態ならば、思いの外普通にいられるのではないだろうか。<br /> 善し悪し別に、取り乱すような真似をしないのならば――<br />「タツコ、顔怖いぞ」<br />「ハナエ」<br />「どした」<br />「面会許可、出たの。車出してくれる」<br />「……良いのか? 覚悟決めたか?」<br />「どういう事?」<br />「元から痩せたんだろう。今だって、生きて喋ってるのが不思議なくらいだって、澪さんも言ってただろ。これから逢うカナメちゃんは、アンタの知ってるカナメちゃんと、だいぶ違うかも知れんぞ」<br />「ガリガリは見慣れてる……いや、見たくないけど……」<br /> この前、久々に自分の体を見た。その久々というのが、ハナエと一緒にお風呂に入っている時なのだが、自分が思っていたよりずっと、私は普通だった。<br /> 私の顔から身体まで、何もかも褒めて煽てるハナエの所為もあったかもしれないが、私の頭の中で描いていた私自身の身体のビジョンと、まるで違うものがそこにはあった。<br /> 思いこみ、自己嫌悪、鏡の忌避、そういったものが作りあげた負のイメージが『痩せすぎて悲惨な私』を現実に当てはめていたのだと、ハナエは言う。まあ勿論、痩せ気味なのは変わらないし、胸も無いが。<br /> それで他人からの視線恐怖が緩和するかと言えば、そこまで急激な変化はないだろうが……私の身体は、しっかりと女の子で、ちゃんと機能していると実感出来た事は、収穫である。<br />「栄養剤で生きているような状態じゃ……まあ、逢いに行くというのなら止めないし、車も出す」<br />「あまり脅かさないで」<br />「現実だからな」<br /> 私は手帳を開き、彼女から貰った写真を取り出し、ハナエに見せる。彼女はそれを受け取ると、目を見開いた。<br />「細い、が、あの親から産まれたってだけはあるな……将来は美人だったろうに」<br />「なんだか、言い方に棘がある」<br />「アンタが、これから死ぬ人間に逢いに行く顔してないからだよ」<br />「お爺さんが亡くなった後も暫く自覚なかったって、貴女も言ったじゃない」<br />「モノが違いすぎるな。比べられん」<br />「あまり、不作法な態度を取りたくないの」<br />「無理に抑えてるんじゃなくて、本当に現実感がないんだ。まあ、いいさ。車回すから、戸締りお願い」<br />「――」<br /> 投げられた鍵を受け取る。彼女は飄々としたものだ。<br /> それも当然、彼女はカナメに逢った事はなく、真っ赤な他人である。では私はどうなのか。<br /> 今こうして平静を保っているが――ハナエの話を信じるならば、私は取り乱すらしい。<br /> この平静が防衛反応から来るものなのか、はたまた、本当になんとも思っていないのか……私は首を振る。<br /> 家の戸締りを済ませ、表に出る。<br /> 真新しいエレベーターに乗り込むと、途中で別の階の住人と乗り合わせた。私は小さく会釈する。<br />「最近来た十五階の方?」<br />「あ、友人です。えっと、宜しくお願いします」<br />「いいえ。ご丁寧にどうも。十五階を丸ごと買い取ったっていうから、どんなお金持ちが来たのかと思って」<br />「あはは……あまり、省みない人なので」<br /> 一階に辿り着くと、乗り合わせた富豪らしきオバサマが先に出て行く。また小さく会釈すると、カンジの良さそうな笑みを返してくれた。<br />(……耐性付いたなあ……)<br /> エレベーター乗り合わせを死ぬほど怖れた私はもう、どこにもいなかった。<br /> 玄関で待っていると、やがてハナエが車を回してくる。助手席に乗り込んでシートベルトを締め、自動式の正門が開くのを待った。<br />「他の階の人とあったの」<br />「へえ。ご近所づきあいとかしないからなあ」<br />「普通に話せた」<br />「その成長ぶりを教えてあげられるといいな」<br /> ハナエの表情から、感情を読み取る事は出来ない。ただ私は、彼女の横顔見て、ふと感謝したくなった。<br />「ハナエ」<br />「なに?」<br />「ありがと」<br />「アンタは……クズな自覚はあるクセに、タラシだって自覚はないんだなぁ」<br />「何それ。酷い言い方」<br />「ああ、私みたいなフェム好きには、きっつい子だ、全く」<br /> ちょっと何を言っているのかよくわからないが、ハナエもまんざらではなさそうなので、良しとする。<br /> 何にしても、彼女の手助けは嬉しい。一か月前の不信感はほぼ払拭されたと言っても過言ではないだろう。<br /> 彼女との会話、彼女との生活、彼女との交わりの中で、殊更強い感情を私に抱いている事だけは間違いなく確信出来た。同時にそれは私のリハビリに繋がったし、不貞にも繋がったのだが――まあ、良いだろう。<br /> 彼女は私を欲しがっているし、私も彼女の助けが欲しい。実にウィンウィンである。外から見た場合の体裁など、気にしている場合でもないのだから、問題ない。<br /> 発進した車から眺める景色も、もうだいぶ慣れたものになって来た。基本的な足はハナエの車であるからして、何処へ行くにもコレに乗る事になる。繁華街は時折暗い感情に襲われるものの、もう少し人口密度の低い場所や普通のお店ならば、繕ってではあるが、涼しい顔を出来る。<br /> しかしこれから向かう場所はどうだろうか。<br /> 近くの大学病院はそこそこの規模を誇り、周辺でも指折りである。<br /> 過食に陥った当時、個人開業医に紹介を貰い、私はその大学病院の心療内科に通院していた。<br /> 神経性大食症と診断された頃には、もう胃も食道もボロボロ、歯も一部融けた為、差し歯が幾つかある。幸いと言って良いかどうか解らないが、悲観して自殺に走るような真似はしなかった。<br /> 代償行為として嘔吐に走ったのは、個人的には不本意である。<br /> 自身の身体に対するコンプレックスによるストレスから無茶食いを始めたと診断されたが、本来は吐く気もなかった。栄養はそのまま溜めておきたい、そう思う反面、肉体的に受け付けなかったのだろう。無駄だ無駄だと解っていても、私は買いこんだ食品を夜中起きだしてむさぼり食うような真似を繰り返した。<br /> 暫くの入院の後、母が徹底した栄養管理を行うようになる。人前に出る事がなくなった所為もあるだろうが、私の過食は以降無くなった。<br /> とはいえ、過食云々を抜きに私は元から良く食べる。痩せの大食いである。<br /> 引きこもっている時期は一切病院など近づかなかった為、本当に久しぶりだ。<br /> 六分ほど車に揺られていると、やがて白亜の城のような大学病院が目に入る。<br />「久しぶり」<br />「ああ、過食ん時御世話になったのな」<br />「来客用駐車場は右。入院病棟入口も直ぐ近くにあるから」<br />「あいあい」<br /> 駐車場に入るなり、私は手鏡で自身を確認する。髪を直していると、ハナエに笑われてしまった。『普通の女の子っぽい』というのだから、酷い話である。<br /> そうだ。私は普通の女の子に戻ろうとしている。女の子……というには、少し時間が進みすぎたものの、まだ女の子を名乗るぐらいの場所には居たいのだ。何せ私の青春は土留め色である。<br />「見舞い品……とかは持ち込めないか」<br />「花も駄目だって」<br />「ああ、いよいよなんだな」<br /> 入院病棟に足を踏み入れると、消毒の匂いと配給食の匂いが混じった『病院』としか言いようの無い香りが漂って来て、私は顔を顰める。白塗りの壁、ワックスがけされてのっぺりとした床には道標の線があり、多色に渡って奥へと伸びている。<br />「どうも。えーと、見舞いなんだけど」<br />「はい、お名前を」<br /> 入口にある守衛室で面会者照会が行われ、問題なく通される。<br />『200~220病室』の線に従い、私達は足を進めた。<br />「普通病棟なんだな」<br />「終末医療病棟もあるのだけれど」<br />「――否定したのかな。そっちだと、面会手続きが面倒とか、そういうので」<br />「……なるほど」<br /> 途中にある院内売店などに目をやっていると、何だか当時を思い出してしまい、複雑な気分になる。入院当初買い食いをしようとして怒られた覚えがあった。<br />「この売店に置いてる塩茹卵、美味しいよ」<br />「まさか病院で美食語られるとはな。まあ後で買うか」<br /> エレベーターで二階に上がり、目的の病室、200を目指す。200は奥まっており、個室だ。<br />「すみません。水木さんの見舞いなんだけど」<br /> 二階のナースステーションで看護師に声をかける。澪からも、そのまま見舞いには行かず、一端ナースステーションに声をかけてくれという話だった。<br />「水木さん。ああ、カナメちゃんね。許可下りてるって事はお知り合いなんでしょうけど……ずいぶん年上ねえ」<br /> 四十代半ばほどの看護師が小首を傾げる。大体予想はしていたが、確かに、客観的に見れば二十代の女性二人が十歳児の見舞いに来るのは不思議である。続柄はなく、学校の先生でも、塾の先生でもない。<br />「ま、その辺りは詮索しないでよ、お姉さん。色々あるんだ。あの子見て、わかんない?」<br />「あー……ま、そうね。じゃあ案内するわね」<br /> ハナエの言い方は多少気になるが、それを否定出来ないのも確かだ。カナメは特殊すぎる。<br /> 先を進む看護師に付いて行き、とうとう私は彼女の病室の前に立った。<br />「元から痩せていたけれど……だいぶやつれてね。もしかしたら、見られるのがいやって否定するかもしれないけど、その辺りも、解ってるのよね?」<br />「ああ。取り敢えずこの子だけだな。私はココにいるから、看護師さん、アポとってアポ」<br />「解ったわ。水木さーん、失礼しますねー」<br /> 先に看護師が中に入る。二分ほど待っていると、看護師が中から出てきて、小さく頷いた。<br />「帰る時も声をかけてね」<br />「はい。有難うございます」<br /> 引き戸に手をかける。<br /> ――そこで漸く、いや、とうとうか、私は躊躇いを覚えた。<br /> この中には、私の神がいる。私の女王がいるのだ。謁見を許可されたのだから、向こうに否定感はないかもしれない。だがもし、私が動揺し、恐れ、悲しんでしまった場合、彼女は私をどう思うだろうか。<br /> 本当に、私が想像していた以上に酷かったら――。<br />「アンタは、その子のなんだ?」<br />「……臣下。民であり、そして信者」<br />「背負いまくりだな。アンタさんがどんな状態で出てきてもさ、私がいるから」<br />「うん」<br /> 引き戸を開け放つ。何の音も無く、戸はすんなりと開いた。私は少し伏せ目がちに入室する。<br />「――嬉しいわ。来てくれたのね、タツコ」<br /> 嗚呼。<br /> なんて事だ。<br /> 彼女の声が、たった一言が、彼女との思い出と、彼女に貰った想いと、彼女に対する心を、一気に呼び覚ます。<br /> 視線を上げる。<br /> 窓は開いていた。<br /> 風に揺らめくカーテンが妙に印象的だ。<br /> 彼女は影になり、まるで後光が差しているようである。それはいつか夢に見た光景でもあった。<br /> 目が慣れると、彼女の全貌が露わになる。<br />「カナメ様。タツコです。御加減は――あ、あぁ……ああぁ……ああぁあ――……」<br /> そのシルエットは、最早枯れ枝だ。一か月前に見た彼女の面影はどこにもなかった。<br /> むしろ、今、何故生きているのか、それが疑問に思える程の、非人間的な痩せ具合である。<br /> 私の平静な心なんてものは、本当にただの作りものでしかなかったのだ。<br /> 全ては想定妄想自我を守る為の逃避行動でしかなかった。<br /> ゆっくりと歩き近づき、管に繋がれ、頬はコケ、皮と骨だけになった、我が愛しき女王に触れる。<br /> 手の甲の血管が異常に浮きあがり、青黒い筋が生々しい。<br /> 美しかった肌は張りが無く、人工皮でも撫でているようだ。<br /> 心臓の病と聞いた。病気の所為なのか、薬の副作用なのか、それとも、食べる事も出来ない故にこうなってしまったのか、私には解らない。ただ確実な現実として、絶対的な絶望だけが目の前にある。<br />「酷い有様でしょう。本当に頑張ったのよ。頑張ったのだけれど、どうしようもない事も、あるみたいなの」<br />「嘘です――こんなの――そんな――そんな……」<br />「貴女は私の為に悲しんでくれるのね」<br />「悲しいも、何も……」<br />「解るわ。タツコは何も言わなくて良い。貴女の事、全部解るもの。貴女がどんな気持ちでここに来たのか。貴女がどんな気持ちで過ごして来たのか。入院一か月で落ち着くと落ち着くと思ったのだけれど、悪化したわね。酷いでしょう、これが現実なの。まだ、口は達者なのだけれど、食べると吐いてしまうし、鼓動も弱まって来ていて、発作も短くやってくる。もう、半月も持たないわ。今こうしているのも、不思議なんだと言われたの」<br />「……」<br />「無理に話す事もない。聞いて頂戴。これが最期になるかもしれないのだから」<br /> 彼女は、自身に迫る死を目前として、平静としていた。貧困児もかくやという装いでいながら、その口調はシッカリとしており、そして威厳に満ちていた。<br /> 貧者というよりも、悟りを開いた仏陀と言った方が良いだろう。確かにどうしようもなくあるのだが、彼女は彼女の矜持を決して失っていないのだと解る。<br />「顔、明るくなったわ。体つきも少し変わったかしら。外に出られるようになったのね」<br />「――はい。まだまだ、ですが。お買い物も、食事も、外で、出来ます。他人とも、少し、お話出来るようになりました。一重に、カナメ様のお陰です」<br />「ふふ。まだ、そう、まだ、貴女はこんな女児に、そんな言葉を使うのね」<br />「カナメ様は、カナメ様です」<br />「実に良く出来た、私の可愛い下女ね」<br />「……」<br />「……うん。ずっとずっと、貴女の傍にいたかったわ。でも、無理だって想いもあった。私をここまで慕ってくれる貴女が、ただ絶望の中に沈み行くなんて、想像もしたくなかった……だから、ごめんなさいね、無茶を言って、顔を見せてとか、外に出ましょうなんて」<br />「いいえ。貴女様のお陰です」<br />「そう。良かったわ。タツコ、手を頂戴」<br />「はい」<br /> そのように言われ、私は手を差し出す。彼女は私の手の甲を愛しそうに撫で、微笑む。枯れ枝となった彼女の笑みは、あまりにも儚い。小突いたらそのまま死んでしまうのではないかと思えて、手が震える。<br />「もう少し、早く一緒になるべきだったかしら。私、処女のまま死ぬわ。私を愛してくれる貴女に捧げるべきだったのに……あら、でも、流石に不味いかしら。そうよね、私、子供だもの」<br />「そんな――」<br />「タツコ」<br />「はい」<br />「私、幸せよ」<br /> どうして。<br /> どうして、彼女はそんなに大人なのだろうか。いや、大人なんて曖昧なものじゃあない。彼女はあまりにも、人間として完成していた。<br /> その人生に対する姿勢、滅び逝く自身への悟り、人に対する思いやり、残された人への気遣い、それらは例え満足な人生を送って来た人間とて、到底到達出来る領域にはないだろう。<br /> 彼女は何故ここまで完成してしまったのか。何故早熟にして滅びねばならないのか。もし寿命を定める神がいるとするならば、そいつは間違いなく糞っ垂れのゴミクズ野郎である。<br />「……無理かもしれないけれど、あまり、気を病んではダメよ。私は貴女の人生のお荷物にはなりたくないの。タツコ」<br />「はい……」<br />「迎えに上がれなくて、ごめんなさいね……そういえば、タツコ、もう一人、来ているわよね」<br /> そういってカナメが視線をドアに向ける。私はどうするべきか迷ったが、カナメは小さく頷いた。ドアに寄り、少し開いてハナエを呼ぶ。<br /> ハナエの表情は複雑だ。<br />「こりゃまた、酷いな。大武華江だよ。はじめまして」<br />「見苦しい所を見せてしまって、申し訳無いわ。加奈女よ。タツコが、御世話になっているわ」<br /> ハナエがベッドの傍に寄り、パイプ椅子に腰かける。私は一歩引いて二人を見守った。<br /> 酷く、不自然な組み合わせだ。私が頼みにした人と、私が頼りにした人の邂逅である。<br />「私の事は?」<br />「お母様から大まかには聞いてる。全く酷い女よね、タツコは。私が入院している間、他の女を作るなんて」<br />「ああ、なんかヘテロからすると果てしない間違いを感じる日本語だが、現実だから仕方ないな。その、なんだ……」<br />「いいえ。むしろ安心したの。この子一人じゃきっと、酷い事になりそうだもの」<br />「達観してるな。まるで子供と話してる気がしない。タツコが頼みにするのも、解る」<br />「タツコ、少し席を外してくれるかしら。このヒトと、お話があるわ」<br />「で、でも」<br />「お願い」<br /> そのように言われ、私は少しだけ躊躇ってから、部屋を出る。廊下側の窓からは中庭が見て取れた。中庭は緑生い茂る、一種のリハビリスペースなのだろう。若者や老人が何人も見受けられる。<br /> 私の視線は中庭の端に移る。五歳ぐらいだろうか、小さな男の子と、若い看護師がゴムボールを投げて遊んでいた。目を凝らすと、その看護師は当時、私を担当していた人だと解る。小児科に移ったのか、気まぐれで子供の相手をしているのか――名前は忘れてしまった。<br /> 当時、栄養失調で余計やせ細った私を笑った人だ。だが、嘲笑った訳ではない。何事にも大らかで、気持ちの大きな人であった。<br /> 心の病を軽く見る訳ではないが、見渡して見て、自分がどれだけ恵まれているか実感するといいと、そのように言われた。<br /> ここの別棟には終末医療施設も備えられている。彼女に付き従って、私は色々な、もう助からない人々を目にした。自分が一番この世で最も悲観すべき人生に居るという考えを、多少和らげるに繋がっただろう。<br /> 生憎そのあと引きこもってしまった為、完全に生かされた訳ではないが――安直な死という現実から逃避する事実には、繋がったかもしれない。引きこもりも、いわば防衛反応だっただろう。<br /> 私は、私が一番大事だ。<br /> 死ぬのは恐ろしいし、死ぬ間際になったって、私は生を渇望するだろう。<br /> 私の行動原理は、人一倍の生への執着なのかもしれない。<br /> 入院中、私は一人の女の子に出会った。私は声を出すのがいやだったため、会話は彼女が一方的だった。<br /> もう治らないと言われた。でも頑張れば、なんとかなるんじゃないか。そんな話をしていたと思う。<br /> たった一度だけの、会話にもならない会話だ。今になるまですっかりと記憶の片隅に追いやられていたような思い出である。結局彼女がどうなったのかは、知らない。私はその前に退院して、目出度く引きこもりとなった。<br /> 彼女はどうしてるだろうか。頑張ってなんとかなっただろうか。<br />『――もう無理なんだって。まあ、その時は、その時かな。頑張るけど、死にたくないけど――』<br /> 私は死にたくなかった。死なない為の努力といえば――自身の心を守る事だった。<br /> しかし結局、それは出口の見えない穴倉の中で、ひっそりと死を待つようなものであったと気がつかされたのだ。<br /> 誰かに助けてほしかった。<br /> 私を守ってくれる人が欲しかった。<br /> 傍に居て、幸せにしてくれる人を渇望していた。<br /> そして、カナメは現れた。<br /> だがそのカナメは、今、死に逝こうとしている。<br /> 私の希望の光は、風前の灯なのだ。<br />「タツコ、もういいって」<br /> ドアが開かれ、ハナエが顔を出す。<br />「タツコ」<br /> 私は、廊下に伏せていた。<br /> こんな時だって、結局自分が一番だったのだ。その醜悪な精神性に、吐き気がした。<br /> 私は彼女に何一つ与えていない。<br /> 私は彼女に何もしてあげられなかった。<br /> 気持ちばかりでは何の意味もない。<br /> 彼女を救ってあげる事なんて出来ない。<br /> そんな考えが何周もして、結局自身の生命維持に危機感を覚え始める辺りが、そのふざけた甘ったれぶりを露骨に表している。<br />「タツコ、立てるか?」<br />「私、こんな時でも、私が、一番で。カナメ様に、何もしてあげられなくて、悔しくて、でも、何よりも、彼女を失った後の自分が、一番怖くて――」<br />「そんなもんだよ。全身全霊で他人様の事考えてやれる奴なんかいやしない。ほら、立って」<br /> ハナエに肩を借りて立ち上がる。私は私がどんな顔をしているのか解らなかった。<br /> 改めてカナメの前に立つ。私はただ、頭を下げた。<br />「ハナエ、タツコを宜しくね」<br />「まあ、程ほどに」<br />「タツコ」<br />「――はい」<br />「今日は有難う。顔を見れてよかったわ。それと、お見舞いはこれで最後にして」<br />「えっ……あ、そ、そんな」<br />「これ以上は、きっと喋られないわ。寝たきりの私なんて、貴女は観たいかしら」<br />「でも」<br />「私は、幸せな記憶とともに滅び去るわ。貴女も、そんな女の子が居た程度でいて頂戴。辛くなったら、ハナエに縋りなさい。貴女は、弱い子だから。きっと罪悪感ばかり抱えて生きるのでしょうから」<br /> 全部全部、見透かされているのだろう。私の浅はかさを知りながら、それでも優しくしてくれるのだ。<br /> 十歳の彼女は間違いなく突然変異であり、故に刈り取られる魂なのかもしれない。<br />「じゃあ、ね」<br /> これ以上会話を続けさせない為か、カナメは布団に潜り、目を閉じてしまった。それを無理矢理起こすなんて真似は私には出来ない。私は、常に彼女の掌の上だ。<br />「タツコ、行こう」<br />「カナメ様……」<br />「……」<br />「カナメ様――」<br /> ……。<br /> ……。<br /> せっつかれ、病室を出る。私は殆ど上の空だった。<br /> 病室を出てからハナエの家に戻るまでの記憶がイマイチ薄い。<br /> 気がついた時には、私はソファの上で天井を見上げていた。脳が、考える事を否定したのだろう。考えれば考える程に、心労はまして行く。引きこもりの切欠となったあの出来事以上に、思い返せば思い返すだけ、胸が締めあげられて英気を絞り取られるような気がした。<br />「ハナエ」<br />「んー?」<br />「どのくらいの駄目さ加減までなら、許容してくれるかな」<br />「ものによるな」<br />「じゃあ縋っても良い」<br />「それは勿論」<br />「じゃあ頼りにして良い」<br />「いいよ」<br />「依存しても?」<br />「度合いによるかな」<br />「なんかもう、なんか、何も、考えたくない……ハナエが居なかったら、とうに死んでるかも」<br />「お願いだから心配されたくて自傷するとか、メール一日五百件とか、そういうのは勘弁な」<br />「なにそれ、面倒くさい。痛いの嫌い」<br />「そういうアンタで安心したよ」<br />「ああでも――死にそう。死ぬかも。私死ぬかも」<br />「あのなあ……――じゃあ死んでみるか?」<br />「え?」<br /> ハナエは真顔で、そのような事を言う。私は意味が良く分からず、目を瞬かせた。<br /> ハナエが胸ポケットから小さい袋に入った何かを取り出す。それはカプセルに見えた。<br />「昔裏側のアレで見つけて二つ購入したんだ。一錠でスッキリ一発でイけるやつ」<br />「……薬事法違反なんじゃ……」<br />「死ぬ人間がそんな事気にすると思うのか、アンタは」<br />「それも、そうだけど。でも、それ、何?」<br />「だからスパッと死ねる奴だ。ほら、一錠やる」<br /> 袋からカプセルを取り出し、彼女は私の掌に乗せる。おもむろに立ちあがった彼女は、暫くの後にお酒の入った瓶とコップを持って現れた。<br />「なんで、こんなもの」<br />「何時でも死ねるって思うと、案外世の中楽になるもんだ。今は必要ないが、お守りみたいに持ち歩いてる」<br />「卑屈な前向き」<br />「ほら、飲みなよ、死ぬんだろう」<br /> コップになみなみ注がれたお酒を寄こされる。私はカプセルとハナエの顔を往復して見る。<br /> ……本気で言っているのだろうか。<br />「死にたいんだろ、早くしろ」<br />「あ、や、あの――わ、私は――」<br />「アンタの信奉する神は死ぬ。それは間違いなく確定事項だ。そしてアンタはその支えを無くし生きる意味を失うという。じゃあ先に彼女が死ぬかアンタが先に死ぬかなんていうのは瑣末な問題だ、現実は揺るがない。首を吊る訳でも電車に跳ねられる訳でもないんだから、痛く無く済む。ぐでんぐでんに酔っぱらってたらそれこそ楽だろうさ。ほら、死になよ」<br />「で、でもそれじゃあ――ハナエが、捕まっちゃうでしょう」<br />「そりゃないね。私もあと追うから」<br />「な――なんで。貴女は、死ぬ事ないでしょう」<br />「え、やだよ。お金幾らあっても、アンタが居ないんじゃ」<br /> ――私は、暫くの沈黙の後、テーブルに薬を置く。ただ手元のグラスからお酒だけをあおった。<br /> 強すぎる。喉が焼けるようだった。<br />「うげっほ、げほっ……なにこれ……」<br />「うわ、んな度数の酒一気に行く奴があるか――水飲んで吐け、それこそ自殺だぞ」<br />「死なす為に寄こしたんでしょ!!」<br />「風邪薬だ馬鹿!!」<br />「――う、ううう……えぇぇぇ……」<br /> ハナエに無理矢理引っ張られ、思い切り水を飲まされ、トイレにぶち込まれる。<br /> 自分から喉に指を突っ込んで吐くのは、過食の時以来だった。何度か指を入れていると、胃から朝食が込み上げる。<br /> 強いアルコールと胃液が喉を傷つけるのが解った。<br /> 洗面所で口を濯ぎ、表に出る。ハナエは疲れた顔をしていた。<br />「粘膜から吸収した分は酔っぱらうだろうな。水飲んで寝てろ」<br />「なにそれ」<br />「……何が」<br />「……なんでそんな試すような事、したの」<br />「どれぐらいアンタが命を軽んじてるか知ろうと思ったんだよ。相変わらずのヘタレで安心したが」<br />「――」<br />「……なあ。タツコ」<br />「何」<br />「好き。愛してる」<br />「今、言う事なの?」<br />「カナメと話したろう。私は、あの子から、アンタの全部を預かった」<br />「私、貴女の所有物じゃない」<br />「そうか。なら、落ち着いたら出てってくれ」<br /> 目を、見開く。<br /> 何か今、最も聞きたくない言葉を聞いたような気がするのだ。<br />「何、それ。出て行けって」<br />「言葉の通りだよ。もうウチ来るなよ。預かりはしたが、守る義理なんてないんだ」<br />「――そ、そんな。ま、守って、くれるって――」<br />「私の勝手だろう、そんな事。アンタは外に出られるようになったし。大人なんだから、一人でなんとかしろ」<br />「私の事――嫌いになったの」<br />「アンタは私を好きじゃないだろう」<br /> 何一つ、反論出来ない。震える手を抑え、私は視線を逸らした。<br /> そもそも、彼女が義理だてする理由は何一つないのだ。<br /> 私の助言で投資が成功して、成り上がる元手が手に入った、ただそれだけであって、以降彼女が幸福を手にするまでの経緯に、私が関わった訳ではない。<br /> 彼女は自ら現れて、私の世話を焼いた。私のワガママを全部聞いてくれた。好きじゃ無くても良いから、傍に置いてほしいと言った。<br /> そうだ。<br /> 繋がりなんてものはほとんどない。<br /> いや、現実に、どれだけ互いを好きあっていようと、契約の無い間柄など、そんなものなのかもしれない。<br /> 私はハナエを頼りにした。今の私があるのは、彼女が飽きず私に付き合ってくれたからである。<br /> 私はハナエに恩義を感じつつも、何一つ返してはあげられないでいた。身体を重ねたのだって、彼女の望みではなく、私が慰めを欲したからである。<br /> ……あの日から毎日、私はハナエに慰めを求めていた。ハナエの手つきは優しくて、キスは温かかった。こんな面白くも無い身体を愛しいと彼女は言ってくれた。耳元で何度も、好きだと言われた。<br /> それに対して、私は何も返してあげていない。<br /> 私はハナエに頼るだけ頼って、彼女を何一つ満足させてあげていない。<br /> 元はハナエが迫った関係だが、許容すればそれは同意である。そこには責任が生じる。<br /> 私は義務を果たしていない。<br /> つまるところ、ハナエが一方的に関係の清算を求めた所で、私の反論など実もない虚しい無責任者の遠吠えなのである。<br />「う、嘘。や、やだ。は、ハナエ?」<br /> だが……私の精神というのは、ハナエという支えあってこそ、ある程度の平静があるものなのであると、実感させられている。カナメが死に、ハナエの支えが無くなった場合、その先に待ち受ける私の絶望は、ただ自身の心の中をグルグルと回り続け、澱を溜めこみ続けるだけなのだ。<br /> 防衛反応が働く。<br /> 私は誇りなど無く、恥も外聞も無く、猫なで声で、ハナエに縋りついた。<br />「う、嘘。嘘っていって。ハナエ――わ、私。ね? な、何でもする、何でもするから――」<br />「白々しい」<br />「さ、支えてくれるって、守ってくれるって――い、言ったじゃない。私、だから、あ、安心して――あ、貴女がいなかったら、ど、どうすれば、いいの。お、お願い、取り消して、お願い――」<br />「お断りだね」<br />「そんな、そんなぁ――嗚呼、やだ、す、捨てないで。貴女が望む事なら、何でもするから……」<br />「――本当に?」<br />「ほ、本当! 本当、絶対嘘なんてつかない」<br />「じゃあ、私の事、好きだって言ってくれる?」<br />「言う。好き、ハナエ、好きよ?」<br />「どのくらい好き?」<br />「す、すごく好きよ。貴女がいなければ、私、い、生きていけないもの。さ、寂しいでしょう? わ、私が傍にいるわ。一緒に、幸せになりましょう?」<br />「『カナメ』よりも好きかい?」<br /> その、質問は。<br /> 果して正常な精神をした人間として、許されるものだったのだろうか。<br /> 生命を預けた愛すべき彼女よりも自分を好いているかという質問である。彼女だって解りきった事である筈だ。それを、あえて、今この場で、告白させる気なのか。<br /> いや、いや、いや。<br /> 私がハナエを振りまわしたのだ。彼女から来て、私から依存したのだ。私だってハナエは好きであるし、好きだという言葉自体に嘘はない。だが、カナメよりもと比べられた場合はどうだ。<br /> ――ハナエの片頬が、少し引きつっているように見える。<br /> 嗚呼、そうなのだ。ハナエは、今、私がどのような状態で、どこにも逃げれない事を全部知っていて、口に出させる気でいるのだ。<br />「――あ、う」<br />「どうなの、タツコ」<br />「は、ハナエ、ハナエが……一番好き」<br /> ハナエの顔が綻ぶ。これまで、見た事のないような優しい笑顔だった。逆に、その裏が疑わしくなる程の、私好みの、素敵な顔だ。<br /> 肩を抱かれ、唇を奪われる。私は否定する事もなく、口を開き、歯を退けた。同時に彼女のざらつく舌が入ってくる。<br />「はっん、くっ――んっ」<br /> いつもより強く、息が荒く、激しい。<br /> 吐いたばかりなのに、などと考えてしまう。それは、恥ずかしさというよりも、彼女に嫌がられないかという配慮だった。私の精神は、自身を守る為に、ハナエを選択しようとしている。カナメは自分を気にするなと言い、ハナエは全て預かって来たという。もしかすれば、この選択はカナメの望み通りなのかもしれない。<br /> しかし、何につけても私の事しか考えていない私は、どうあってもクズである。<br />「解った。じゃあ、ずっと傍にいてよ。一杯愛したげるから。ほら、服脱いで」<br />「や――あ、で、でも。ふ、服は――」<br />「……」<br />「ぬ、脱ぐ」<br />「うん。良い子」<br /> ハナエは嬉しそうだった。酷く酷く、嬉しそうだった。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> <br /> 私はあまり、ゲームが得意な方ではない。<br /> クリックするだけ、ボタンをタイミング良く押すだけ、というならまだしも、格闘ゲームはまず勝ち目がないし、ネットゲームでもドロップ運は無い方なので、強い装備も揃えられない為、いつも溜まり場で喋っているだけである。<br /> 特にアクションゲームは苦手だった。ハナエに押し付けられたゲームはアクション性が強く、大きな敵を倒しきれず、時間切れで失敗に終わってしまう。<br /> 別に訓練しようとは思わないし、上手くなろうなんて気は毛頭ない。<br /> ただ、ひたすらに単純な作業をしていれば、気が紛れたからだ。<br /> ネットに触れるのも、ここ数日拒んでいる。ニュースサイトを開けば死亡事故、芸能人の病死、学校の虐め問題に、SNSの馬鹿晒しの事ばかりで、なんとも気が滅入る。<br />「――あ、駄目だ。また負けた。硬い。攻撃通らないや」<br /> 折りたたみ式の携帯ゲームをたたんでベッドに投げ、同時にスマートフォンを手に取って弄る。<br /> ホーム画面にはメールが二件とあった。二件ともハナエだ。<br /> 私は慌てる。<br /> 基本的に、お互い時間に縛られない生活にある為、緊急を要するような物事が殆ど無い。私がメールをすれば十秒で返信が来るものの、私はそれに付き合う気はなかった。<br /> だが今は困る。彼女を待たせたくない。冷や汗をかきながらメールを開く。<br />『今日暇?』<br />『あ、寝てんのかな。昼食い行こう。前の個室。それじゃなきゃ別んとこ』<br /> まるで男性のようなメールの素っ気なさだ。<br />『行く。迎えに来て』<br /> そのように返信する。返信は直ぐ来たので、一安心する。<br /> 私はあの日、本心は別としても、体面上私の全てを彼女に捧げてしまった。ハナエは全部承知の上で私をカナメから引き剥がしにかかったのだ。当然頼るもの無くばまともに生きられない私が、否定出来る筈もなく、ハナエの思い通りに物事は進んだ。<br /> 酷いと思う反面、安心もしている。悩み続ければ確実に自壊する程度の精神しかない私にとって、ハナエの強引さは何も決められない私にとって都合が良いのだ。<br /> 思う所はある。<br /> ――彼女の本質にある部分、これは、多少看過出来ないかもしれない。<br /> そもそも、私の知っている、出会う以前の彼女というのは、執拗で執念深く、敵と見たら許さないような人間であった筈だ。実際逢って会話をしているうちに、それがネットだけの人格なのだと思い込まされていたが、さて、本当のところはどうなのか。<br /> 三日前の事を思い出す。あのタイミングでの告白の強要、私が逃げられない事を知っての強引ぶりは、ネット上でのhananaを思い起こさせる。<br />「……」<br /> 時刻を見る。そろそろ昼に差し掛かる頃だ。一度ベランダに視線をやってから、私はリビングへと赴く。<br />「お母様」<br />「はい、なんでしょう」<br />「お昼、食べてきます。今日は人混みに耐性をつける訓練です」<br />「なんだか、いつも大武さんに御世話になっていて、申し訳ありませんね」<br />「大丈夫です、そういう事、気にする人ではないので」<br />「大武さんとは、どうなの?」<br />「どう、とは」<br />「いえね。大武さん、以前うちに来た時、貴女の事をとても気に入っている様子だったから――」<br /> それが男性に対する話ならば誰もが納得するだろうが、生憎彼女は女性だ。挙句私の現状といえば、とても一言で説明出来るようなものではない。<br /> そもそも、私のパートナーとしてハナエを見ている母が意外で仕方が無い。<br />「あ、えっと。良く、してもらっていますよ。とても良いお友達です」<br />「別に、良いんですよ。私、貴女が幸せなら、無理に異性を勧めたりしませんし、お父様にも説明しますから」<br />「お、お母様って、妙に性に対して寛容なんですね。知りませんでした」<br />「ずっと女子校でしたでしょう。男なんて嫌だって子もいましたし……まさか娘が、とは、思いませんでしたが」<br />「いやあのその、男性は確かに苦手ですけれど、ハナエはその」<br />「隠さなくても。だって、タツコさん、もう子供ではないでしょう?」<br /> バレるものなのだろうか。自分では普通にしているつもりでも、私がもう処女でない事は、他の人から見てあからさまなのだろうか。判断基準が解らない。母のカマカケ、という可能性もあるが……実際、否定肯定、どちらにしても母の反応は同じであるような気がする。<br />「とても、人間関係が複雑になりつつあって、何でもかんでも、話せないと言いますか……」<br />「なる、ほど。あ、ごめんなさいね、詮索するような真似をして。ここ最近落ち込んでいる様子でしたから、何かあったのかと」<br />「……暫くしたら、自動的に解ると思います。では、行ってきますね」<br />「はい、気をつけて。戻る前に電話をください。いってらっしゃい」<br /> 最近はこのような調子だ。二年半も引きこもった娘が積極的に外へ出ようとしている所を、止める母はいない。大武……ハナエも母から信用されている様子なので、彼女の下へ赴く事に対して、否定感はないのだろう。これが男ならば多少も心配するだろうが、幸か不幸か、子供は出来ない。よほど悪い遊びに興じているとするならば、あのように敏い母だ、直ぐ気が付くだろう。<br /> 健全とは言い難いが、私達の関係は誰に迷惑をかけるものでもない。<br /> 逢って、お話して、お食事して、セックスするだけだ。<br /> これを恋人と言わず何と言うだろうか。私もその関係を客観的に見た場合の判断を承服してはいるが、了解は出来ていない。<br /> ……、ああ止めよう。気分が下がる。<br /> 切り替える。私はハナエに会った瞬間から、彼女のタツコだ。<br />「はーなえ」<br />「や。おはよ、タツコ」<br />「一度貴女の家行きましょ」<br />「あら、このままメシ食わないの?」<br />「ん。えっちしたいから」<br />「むっ……でも腹減ったしなあ」<br />「解った。じゃあ先にご飯ね。貴女のマンションに戻ったらしましょ。最近コツが解って来たの。ディルドって少し苦手だし、おもちゃ無しでしたいな」<br />「女同士だとどうしてもな」<br />「頑張るから、ね? ね?」<br />「ああ、解った」<br /> 自分がどれほど愚かで、どれほど間抜けで、どれほど阿呆なのか、良く理解しているつもりだ。そしてハナエが、後ろ暗い感情を隠し持っている事も、解っている。だとしても、私はこうしてあざとく、馬鹿らしく、彼女好みの女を演じて、それに陶酔して、全部忘れて、彼女に縋りつかなければいけない。<br /> そうしなければ私は私を保てない。この姿が本来の私であるかどうかなど問題ではない。この肉体が、この精神が、死を恐れるあまりに、どれほど滑稽であろうと生き延びる術を求めている。<br /> この私は、面白い。まるで他人だ。もう既に、彼女の前で幾ら裸を晒そうと恐ろしくは無く、むしろ興奮すら覚える。彼女と逢う時は外出時こそ上着を羽織っているが、家を出た瞬間から肌の露出が増える。<br /> 隣にハナエさえ居てくれれば、不必要に怯える事もないのだ。<br /> それを快復とは言わないだろう。完治とも程遠い。完全に、精神を別個にした逃避である。<br /> それでも良い。何でもいい。<br /> 私はこのヒトに愛して貰わなければいけないのだから。<br />「――あっ」<br />「どした」<br />「……喋り方、変えた方が良い?」<br />「いつものぶっきら棒なカンジ、好きだよ」<br />「そう。じゃあ、そのまま」<br />「なんだよ。カスタマイズしてるんじゃないんだから……」<br />「貴女の好きな方が良いの」<br />「別に良いよ、無理しなくて」<br />「無理じゃない」<br />「いつものタツコが良い」<br />「じゃあそうする」<br /> ハナエの好ましい私、それこそが今あるべき私だ。そこに『カナメ』という要素は介在しない。ハナエもカナメについて言及は避けていた。私も話題に出したりはしない。<br /> ハナエに『強要』された時、あれほど葛藤したというのに、いざ全てを許してしまえば、堕ちるのも早かった。そして、悩みを心の隅っこに追いやるのも、あっという間であった。<br /> 自身の生命に関わる恐怖は、何もかもを委縮させる。その恐怖に打ち勝ち、前に進める者は限られているのだ。生憎私にはそんな強靭な精神は備わっていない。私は私を守る事を優先した。そして、周りがそれを許容してくれている。<br /> 私はそれが悪だと感じている。客観的にみたら、なんて身勝手で薄情な人間だろうと罵るに違いない。<br /> だが、これは私に限った事なのだろうか、本当に絶望が目の前にあり、そこに最低限の逃げ道が用意されていた場合、人はわざわざ恐怖に突っ込んで行くだろうか。<br /> まさか。行くまい。人はそれを自殺と言う。<br />「信号、止まった」<br />「そら、止まるだろうさ。ぶっ飛ばして捕まってられるか」<br />「キスして?」<br />「い、いやあ――ほら、隣にも車止まってるしだな……」<br />「いいじゃない別に」<br />「恥ずかしがり屋って訳じゃないんだよなあアンタ……ああもう、ほら」<br />「ん」<br />「……うわ、はずかし。事故ったらどうするんだよったく」<br /> 恥ずかしそうに頬をかくハナエが可愛らしい。最近、彼女の扱いにも慣れて来た。私はどうしても受け手に周りがちだったが、肌を重ねるとは言葉を重ねるよりも雄弁なのか、彼女がどういったものを好み、どういった行動が喜ばれるのか自ずと解るようになった。<br /> 何事も大きく出る彼女ではあるが、その心に抱えるものは殊の外繊細である。<br /> 隣で寝ている時は、必ず手を握ってあげる。<br /> 腰掛ける時は必ず寄りそってあげる。<br /> ふと寂しそうにしている時に優しい言葉をかけてあげる。<br /> もしかすればありがちな事かもしれないが、世の恋人同士、夫婦でも、なかなか出来ずに距離が離れると聞く。ハナエという寂しがりは、こういったスキンシップが一番大事だ。<br /> まだ付き合いも長くない為、今後どういった形になって行くのか、それは解らないが、ハナエに関しては焦らす事なく、与えてあげるのが正解だろう。私も焦らせる余裕がないので、丁度良い。<br />「何食う?」<br />「お肉」<br />「ステーキプレートあったな。海鮮サラダもつけるか」<br />「私身体細いし、体力つけないと」<br />「運動しろ。精力ならほら、三丁目のスッポン鍋でも」<br />「乙女が二人でスッポン鍋ってどんな苦行なの」<br />「私は良いけどね。そういや、タツコって料理出来るのか?」<br />「もう暫く作って無いけれど、高校生の頃はお母様に習っていたから、たぶん」<br />「例えば?」<br />「中華料理好きだよね。大体出来ると思う。今度作りましょうか」<br />「じゃあ裸エプロンで」<br />「中華で裸って。火傷が怖いから、もう少し簡単なもの作る時に……」<br />「あ、してはくれるんだ……」<br />「うん、勿論」<br />「大体の夢が叶いそうだなあ――」<br /> 街中のコインパーキングに車を止め、繁華街を行く。<br /> 初めて二人でここに来た時は痛い目を見たが、今の私には大した問題もない。未来など思い描く必要がないのだ。楽しそうにしている人達、笑っている人達、充実した生活を営んでいるような人達を見ても、自身の不遇と劣等感に苛まれたりはしない。<br /> 手を伸ばし、ハナエの腕を組む。昔、腕組みをして歩いている女性二人組は一体どれほど仲が良いのかと疑問に思った事もあったが、今ならば理解出来た。勿論、それが全部ではないにしろ、相手に一定以上の信頼と好意を抱いているのは間違いないだろう。<br /> まあ私の場合、もっとえげつないものだが。<br />「そういえば、貴女って胸、幾つあるの」<br />「85だけど。Dだよ。ブラみなかった?」<br />「えっちな下着だなってのは解った」<br />「趣味で黒いのが好きなんだよ。野暮ったいのはちょっとねえ。アンタのは可愛いの多いな」<br />「薄くて小さいし」<br />「そう卑屈そうな顔するなよ。他の誰に見せる訳でもないだろう? 私が好きだから良いんだよ」<br />「そうか。そうだね。他の人に見せないもの。じゃあ後で下着見にいきましょ」<br />「じゃあえっちなの選ぶかな」<br />「ふふ。うん。もう隠れてないのとか、ギリギリ隠れてるのでも良いよ」<br />「――ふむ」<br /> ハナエはわざとボーイッシュであったり、メンズに近い服装をしているが、もっと女性らしい装いをすれば、当然男性も寄ってくるだろう。私よりも身長が高いと言っても170手前であるから、男性と並んで不釣り合いという事もない。<br /> 私は未だ、彼女の性遍歴を聞いていなかった。他の女性と比べた事はないが、彼女は上手だと思う。攻めるのも受けるのも好ましい体位で対応してくれるし、初心者の私に配慮するような事が何度かあった。私は日々彼女と心地良くなれる方法を模索しているような段階である。<br /> 当然彼女は処女ではなかったし、積極性も私とは異なる。彼女は家の事ばかりで外に気持ちを向けている暇がなかった時代があるので、考える所その前、つまり高校生も頭か、その前に経験済みという事になるだろうか。しかも、その絡みは恐らく『えっちしちゃったの』程度のものでは絶対にない。<br /> 故に、多少聞くのが恐ろしい部分があった。しかし、好奇心もある。彼女は以前、どのようなヒトと付き合っていたのだろうか。それは男か、女か。<br />「ついた。あ、どーも」<br />「いらっしゃいませ。いつものお席が空いておりますので、そちらへどうぞ」<br />「はいはい。じゃあ早速。コーラとビールとプレート二つ。サラダとスープもつけて」<br />「畏まりました」<br />「ゆっくりでいいよ」<br /> 店に到着するなり注文を申し付ける。あれ以降何度か訪れており、私の食いっぷり故の金払いが良い為か、何かと配慮してもらっている。本来カップル席に女性二人など入らないのだが、今は顔パス状態だ。<br /> いつも通り私が奥、ハナエが手前に座る。<br />「んじゃ、ちょいと外に」<br />「あ、ハナエ。いつも席を外すけど、別にここでもいいよ」<br /> 煙草とライターを持って外に出ようとするハナエを引き止める。親しくなれば気にもしなくなるのかと思いきや、喫煙に関してはいつも席を外す。自宅に居ても、彼女は外でしか吸わない。<br />「煙草臭いし」<br />「キスで慣れちゃった」<br />「服に匂いつくし、不健康だし」<br />「そこまで言うならだけど……不思議」<br />「あー……うーん。その、ねえ」<br /> なんとも歯切れの悪い。いつものように論理的に捲し立てるか、適当を言って誤魔化す訳でもなく、言葉に詰まっている。そもそも二十も頭の割に吸い慣れている雰囲気がある。十代からの習慣なのかもしれない。<br /> 彼女の手に握られたライターに目をやる。銀色で厳ついジッポは、到底女性が持つものではない。<br />「いつから吸ってるの?」<br />「あんま良くないけど、高校からかな。あ、ヤンキーじゃないんだぞ?」<br />「……あ、解った。隠れて外で吸うのが好きなんだ」<br />「解るもんかな。部屋だと逆に吸った気しなくて」<br />「ウチは誰も吸わないけど、そういうのって誰かに勧められて、ってのが多いよね。家族?」<br />「――いいや。前の彼女」<br /> そういって、ハナエは椅子に腰かけ、灰皿を手繰り寄せる。煙草を取り出して火をつけ一服すると、なんともアンニュイな表情をする。私は彼女の、こういう表情が好きだった。その横顔は非常に魅力的で、何か吸い寄せられるものがある。<br /> しかし、バツが悪そうだった理由が解った。<br />「いつか聞こうとは思っていたけれど、やっぱり前も彼女なんだ」<br />「あん時はノンケだったんだけどねェ……聞くの? 本当に?」<br />「気になるけど。話して嫌な気分になるもの?」<br />「いや。恥ずかしい思い出だし、タツコヤキモチ妬くでしょ」<br />「貴女の恥ずかしがる顔って好き」<br />「参ったね。あー……うん。バイト先の先輩だったヒト。当時は25だったかな。好きなインディーズバンドが一緒でね。一緒にライブ見に行ったり食事行ったりしてたら、何時の間にかホテルにまで行っててね」<br />「……案外流されやすいんだ」<br />「え、遠征ライブに付いて行ったんだよ。お金もないからネカフェに泊まろうって言ったんだけど、二人でファッションホテルの方が安上がりだし休めるって言われてだな……そしたらそのまま押し倒されて、私処女だったのになあ……」<br /> なんとも気恥かしそうに語る。友達だと思っていたら狼だったのだ、警戒心を無くした自身の愚かさも恥じているのだろうが、そこまで後悔している様子はない。<br />「――無茶苦茶上手でね。なんというか、堕とされたというか、引きこまれたというか。恥ずかしい話だが、ドハマリしてな。それこそまー、暇あればいちゃついていたというか、バイトの空き時間に倉庫とか、トイレとか、そんな所でもしたな。うわ、何言ってんだろ私」<br />「へえ」<br />「なんで面白そうな顔してるんだアンタは」<br />「それで、その人とは?」<br />「……高校生にして色々教わってさ。男役もさせられて。煙草も、吸ってた方がカッコイイって言うから、始めたの。このライターも貰いもの。ゴッツイし重いのに。その人は、何でも楽しくするヒトでね、私とも、楽しいからシテただけで、本気じゃなかったんだろうさ。バイト止めてからは音信不通、空中分解……挙句私は地獄の介護に大突入だからさ」<br /> ハナエは中ほどまで吸った煙草をもみ消す。やはり室内では吸った気がしないのかもしれない。<br /> しかしなるほどだ。そのような出来事があったら、普段の振る舞いもなんとなく理解出来る。メンズ寄りの格好も、元はその人物の所為なのだろう。というか、彼女を構成しているものの基礎は、全てそのヒトなのだ。<br />「納得したか? まったくの恥さらしだが」<br />「煙草吸うのもえっちが上手なのも納得した」<br />「そう嬲るなよ。もう付き合いの無いヒトなんだ。それを言ったら――」<br /> ハナエが良いかけ、止める。続く言葉は想像出来たが、追及はしない。ただキスだけを求めた。<br /> ここは良い。個室であるし、誰の目も無い。<br /> 少し煙たい味のするキスだ。いつもと違ったシチュエーション故に、想像力が広がる。<br />「ここでシてみる?」<br />「あのな……誰か来るかもしれんだろ。あられも無い姿見られて失神するのアンタだぞ」<br />「来なきゃしても良いんだ。……ハナエ、えっち好きだもんね」<br />「仕込まれちゃったしな。調教済みとでも言うかな。酷い話だ。だからねー……一人身の時は辛くて辛くて。今は、アンタがいるけど」<br />「私達、碌でもないね」<br />「同意する。碌でもない。碌でもない同士、仲良くやろうな、タツコ」<br />「んふふ。うん。好き。愛してる、ハナエ」<br /> 好きだの、愛しているだの、実に都合の良い言葉である。その下地に有るあらゆる感情も思惑も、簡略化し、機能的に繕う事が出来る。故に私はこの言葉に頼る事が多い。惨めな私を覆い隠すのに、これほど便利なものは無いからだ。<br />「ちょい、御手洗い」<br />「ん、トイレでする?」<br />「あのなあ……」<br />「いってらっしゃい」<br /> 手を振って送り出す。私は携帯を取り出して弄り始めた。<br /> ハナエという人物を解っていたつもりでも、やはり知らない事実を持ち出されると考える所が増える。<br /> ハナエがハナエたる所以である所の、前の彼女には、一応感謝しておこう。勿論、今現れてハナエにちょっかいを出すというのならば大否定する所だが、今のハナエを構築した事実については評価して然るべきだ。<br /> 大武華江なる奇特な人物あっての私だ、もし彼女が私の前に現れなかったらと、考えるだけでも怖気が走る。<br />「失礼します」<br />「あ、はい」<br /> 廊下と小部屋を区切る戸が叩かれ、私はビクリとする。料理が運ばれて来たのだろうか、二人前にしてはやけに早い。飲み物も同時に持ってくるように指示してある筈なので、それもないだろう。<br />(あ、お冷とおしぼりが無いや)<br /> ハナエばかり見ていて気にも留めなかった。<br /> 頭を下げて入って来たのはいつもとは違うウェイターである。その手にはやはりお冷とおしぼりが握られていた。<br />「済みません。御持ちするのが遅れてしまって……ん?」<br /> 何が、ん、なのか。<br /> 誰にでもそうだが、特に男性に視線を合わせたりしない私だ、直接顔を見る事はない。だが、その何か調子づいた『ん』が、非常に聞き覚えがあったのだ。<br /> 思わず、顔を上げてしまった。<br /> その時、私は迂闊だった。<br /> 大量の視線がない場所ならば多少は安全だとタカを括っていたのかもしれない。ハナエが居る事への安心感から、ここ最近は帽子もサングラスも無く、顔を晒した状態で居た。更にここは個室であり、なおかつ『知り合い』なんてものが近くにいるとは考えなかったのだ。<br />「――あれ、旗本」<br />「――あ、う、あ」<br /> ウェイターは私が誰なのか気が付き、私の苗字を呼ぶ。私も彼が誰なのか解った。<br />『あの時』私の陰口を叩いていた人の、一人だ。鏑木という。<br /> 鏑木の好奇な目線が突き刺さる。その口元は笑っていた。<br /> 私は眼を見開き、動揺のあまり携帯を取り落とす。<br />「はっは。おいおい。なんだ、外出れるようになったのか?」<br />「あ、や、あ、あの。か、鏑木……くん」<br />「そうだよ鏑木だよ。高校ん時よぉ、あれからお前来なくなって、みんなどうしたのかなー、なんて言ってたぞ。こっちはこっちで疑われてさ、えらい高校生活だったぜ」<br />「あ、うあ……あ」<br /> 言葉が紡げない。<br /> 全身から冷や汗が噴き出て、顔面が蒼白となるのが見ずとも解る。まさしく血の気が引いている。しかし相反して心臓は異常なほど脈打ち、急激に血液を押し出す。<br /> まるで心臓発作だ、私は胸元を抑えて蹲る。<br /> 口元が、あの時のままだ。<br /> 薄暗く笑い、人の事を暗に罵り、他人をこき下ろして自身の優越性を示し、くだらない自尊心をひけらかし、話が出来る自分という自己顕示に酔う、ゴミクズの典型だ。<br /> なんで居る。<br /> なんでここに居る。<br /> どうしてこのタイミングで出会う。<br /> いや、おかしくない。だってここは近所だ。同級生がその辺りに居たっておかしくは無い。彼が一目で気が付くほど、そして私はきっと変わっていないのだ。<br /> じゃあ、では、私は、観られていたのか。<br /> 他の同級生にも観られていたのか。<br /> 歩いている所を見ながら、私の悪口を言っていたのか。<br /> 私を見ながら笑っていたのか。<br /> 私をダシにその汚い口でツバを飛ばしながらゲラゲラと笑っていたのか。<br />「は――はなえ……」<br /> 彼女の名が口からこぼれる。鏑木が何事かぶつくさ呟いている。視線が泳ぎ、脳がぐるぐると回り出し、意味が解らなくなる。<br />「おい。てかココ、カップル席だよな。なんだ、彼氏なんて出来たのか」<br />「あ、あの、あ、いっ――」<br />「――その棒きれみたいな身体で。モノ好きがいたもんだな」<br /> その言葉がトリガーだったか、否か。急激な心的ストレスが消化器を煽っているのが解った。最悪な出来事の前兆だが、私に逃げ場はない。彼を突き倒して走り抜けるような体力はなく、そしてまともに動ける体調でもない。<br /> それは必然として齎された。<br />「あっ……あう……うっっげえぇ……ッ」<br />「うわ、お、おいおい、何してんだお前……ッ」<br /> 撒き散らした。<br /> 手で押さえる事も出来ず、テーブルの上が私の吐瀉物に塗れる。<br /> 呼吸が乱れ、均一に呼吸する事が叶わない。<br /> 短く、断続的に、しかし色濃く確実なフラッシュバックが繰り返し、脳の中を無茶苦茶にする。<br /> 全身が震えだした。こうなってはもう、私自身ではどうする事も出来ない。<br /> とにかく、どこかに行って欲しい。<br /> 私に近寄らないで欲しい。<br /> なんで現れた。<br /> よりにもよって何で当事者がここに居る。<br /> 私に構わないで。<br /> 私に触れないで。<br /> 私を見ないで。<br /> 全部全部お前の所為なのに。<br /> 全部全部お前等が悪いのに。<br /> 私が精神を患ったのも、私が引きこもったのも、私が男嫌いになったのも、何にも自信が持てなくなったのも、コンプレックスが大きくなったのも――こんな私に――お前達がしたのに――ッ!!<br />「退け!! タツコッ!!」<br />「あっ、あぐっ……あぐっ……あ、うわあぁっああっ……ああっああっ、あうぅぅぅ……ッッ」<br />「手前ェ何した!? おう答えてみろ!!」<br />「な、なに、何って。高校ん時の、知り合いだから――」<br />「知り合いぐらいでこんなになるかクソが!! 何言った!? タツコに何言った!!!」<br />「な――にも……」<br />「クソ、いいから上司呼んで来いゴミカス!! タツコ、ゆっくり呼吸しろ、ああ、ごめん、油断した……」<br /> 呼吸が苦しい。気管に吐瀉物が詰まったのだろうか。それとも、不整脈で血流が滞っているのか。<br /> 私には、判断出来ない。<br /> ハナエの顔が霞む。黒くなって行く視界の中に、私は一瞬だけ、カナメの笑顔を思い浮かべた。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 小さい頃、母は私に『大きくなったら何になりたいか』と、聞いた。<br /> もしかすれば、大体の家庭で行われる、他愛ない親子の会話なのかもしれないが、私にとってその質問はこの歳になってしまった今ですら、時折想起しては溜息を吐かざるを得ない、しかし他愛の無い、どこも印象に残る事のない、意味薄くも心に残る会話だった。<br /> 何故それが未だに残っているのか、当然理由は解らない。脳のきまぐれ、としか言いようがないだろう。<br /> だが私はそれをいつも思い出す。<br /> そして今の自分を見て、溜息を吐くのだ。<br /> 大人になれば当たり前のように働いて、当たり前のように結婚するものとばかり思っていた。<br /> 子供はいつも純粋で、疑う事を知らず、そのくせ子供である事を否定したがる、正しく無垢で愚かな動物である。そんな動物でしかない私も他と変わらず、一般的な人間の理想的な歩みを当然と考えていた。<br /> だがどうだ。<br /> 大人になれば動物は自然と人間になり、人間らしい理性の下人間社会の中で人間として生きて行くのだという漠然とした考えは本来、動物は人間になりえるという可能性を前提とした教育者達の怠慢であり、親達の見通しの甘さであり、価値観を均一化された社会が齎した本当の意味での虚妄的理想でしかないという事を、その身に刻み、思い知る事になる。<br /> 私は大人以前に、動物でも人間でもないのだ。<br /> 勿論、これは極論だろう。私はそれを前提に、良く考える。<br /> 大半が一応は人間になるのだ。いちいち私のような小粒を拾い上げて世話をしてくれる社会など逆に恐ろしい。きっとそんな社会はユートピアを模したディストピアである。<br /> 私は私を助けてと、大きな声で社会に訴えたりはしない。そんな力も、そんな精神も、そんな体力も、そんは発言力も、そんな組織力も、持ち合わせてはいないからだ。<br /> だからこれは、自己責任である。私は自己責任の下、今こうしているのだ。虚妄的理想から大きく外れてしまった私ははぐれ者であり、親以外からの恩恵を受ける事は出来ず、自立できない私にはタイムリミットが存在し、刻一刻と絶望は歩いて近づいてくる。<br /> 打開策を。<br /> 社会に触れる事すら嫌悪した私には、選択肢は訪れない。<br /> 閉じた可能性の中を、ぐるぐると回り続けるだけだ。少しでも進んだ先に待ち受けるのは、薄暗い未来でしかない。そんな未来が恐ろしくて、ぐるぐると回り続ける。<br /> 外に。<br /> 外に出る事すら嫌悪した私には、選択肢は訪れない。<br /> 終わった可能性を悔やみながら、あったかもしれない未来に想いを馳せながら、希望とは遠い絶望の淵をギリギリで歩いて渡るのである。<br /> では――では、今はどうか。<br /> やっと円環を歩き回る事に疲れ、その先へと歩み始めた今はどうか。<br /> 薄暗く、まだ道は遠く、足元も覚束ないが、ずっとずっとその先に、私には光が観えた。ベランダに出たあの日、私にはその光の兆しが訪れていたのだ。<br /> たった一人の、十歳の少女によって齎された淡く美しい光に、私は歩みを進めようとしていた。<br /> 途中、右から左からと、私を脅かすものが現れては、歩みを止められてしまうが、これらを乗り越えた先に彼女がいるのだと思えば、ずっと気持ちが楽だった。<br /> 手を伸ばす。<br /> 届かない彼女に届く為に。光の向こう側で、彼女は笑顔を湛えている。<br /> ……笑顔で居た筈なのだ。<br /> 光の肖像が崩れ落ちる。やがてそれは、枯れ枝となり果てた少女の肖像と挿げ変えられた。私の手は落ち、膝は地面に付く。<br /> 我が光は、我が神は、我が女王は、朽ちて果てるのである。<br /><br />「う、あ、ああっ……」<br />「タツコさん、タツコさん」<br />「――あっ……うっ……お、お母様――」<br />「事前のお話からですと、急激なストレスから来る悪影響を遮断しようと……ああ、目を醒まされましたな」<br />「あ、あの、お医者様……」<br />「大丈夫です。一応精密検査は受けて貰いましょう。今日明日は止まって行ってください」<br />「ありがとうございます……」<br /> ぼやけた視界に頭を振り、上半身を起こす。なんとなくだが、大体の状況は掴めた。<br />「――おはようございます。お母様。どうやら、ご心配をかけたようで」<br />「どうしてこうなったか、覚えていますか?」<br />「はい、なんとなく……うっ……あの、ここって」<br />「近くの大学病院です。以前も御世話になった。あ、次回からは女医さんにお願いする事になっていますから、安心してくださいね」<br />「……ハナエは」<br />「敷地内は禁煙だからと、先ほど外に……大武さんが近くにしてくださって良かった」<br /> 母はほっと胸を撫で下ろして安心しているようだ。私といえば、まだ頭の中がぐるぐると回っている。<br /> ここは――彼女が入院している病院か。ベッドの番号を見ると、220とあった。<br />「私の携帯は」<br />「はい。どうぞ。ここは通信出来るそうです」<br /> 頷き、ハナエに電話をする。余程気を揉んでいたのか、ワンコールで彼女が出た。<br />『タツコ、大丈夫か?』<br />「うん、大丈夫。今日明日は、お泊まり」<br />『良かった。しかしどうする、訴訟でも起こすか。あいつタダじゃ済まさん。ああ、タツコは証言台に立つ必要がないよう計らうから――』<br />「いい。もういいの――もう、いいの」<br />『そう、か。アンタがそう言うなら。落とし前だけつけさせてくるよ。あそこメシは旨いからな――』<br />「ごめんね、面倒をかけて。今日は、引き上げて、休んで」<br />『今から行くが』<br />「……お願い。ごめん。お願い――」<br />『わかった。思う所もあるだろうが――その、あのな、タツコ』<br />「解る。何もしない」<br />『なら、良い。じゃあ、お休み』<br /> 通話を切る。静かな個室だ、会話は母に丸聞こえだろう。<br />「大武さんから粗方お話は聞きました。同級生に逢ったんですね」<br />「笑ってしまいます。私、当時と対して顔も変わっていないって事ですよね」<br />「二年半程度で、変わりませんよ。何を言われたか知りませんが、気にする必要なんてありません」<br />「やっぱり、男性はダメみたいですね。ごめんなさいお母様、孫の顔は見せられません」<br />「……そのぐらいの事が言えるのですから、大丈夫みたいですね。ウチに戻ります。お父様にも説明しませんと。今日明日はゆっくり休んでください」<br />「はい。ご迷惑おかけしました」<br /> 入院セットだろう、母は紙袋を傍らに置き、頭を下げて出て行った。<br /> 母がいなくなると、病室は途端色を失う。元から白ばかりなのは当然だが、空気が重い。窓の外を望むと、住宅地の光がチラホラと見える。時間はもう八時を回っていた。<br />「六時間近く寝てたのかな――」<br /> 身体をベッドに横たえる。部屋の匂い、シーツの手触り、音の少ない空間の雰囲気、その全てが当時を思い起こさせる。<br /> 私が図らずしも道を踏み外してしまったのは彼等の所為だが――やはり、そればかりでは無いのだ。<br /> 自覚していながらも、懸命に自身の身の細さを否定し、コンプレックスをひた隠し、見ないように見ないようにと努力して来たのだ。彼等の『彼』の私に対する拒絶は、そのスイッチでしかない。<br /> 本来鬱屈していた精神を無理矢理真っ直ぐに矯正しようとした結果、まるでバネのように弾けてしまった。<br /> 本当にただ、それだけの事なのだ。<br /> 私のような精神構造をしている者の悪い記憶は、時間を追うごとにどんどん悪くなる。冷静に振り返れば、もしかしたらもっと、彼等の言葉とてヤンワリしたものだったかもしれないが、今となって、現実が存在して、振り返ってどうにか出来るものではない。わざわざ思い出し、超越しようとして具合が悪くなれば本末転倒である。<br /> 私は頑張っていた。<br /> 頑張りを否定された結果があれだ。だから、私は励ましが嫌いだった。<br />「ううっ」<br /> 鏑木の顔が脳裏をよぎり、頭を振る。独りは不味い。独りはいけない。要らない事が沢山思い出されてしまう。もう独りは嫌なのだ。気分が下がり、憂鬱で、惨めでたまらなくなる。<br /> 私は即座に携帯を手に取り、ハナエへの短縮ダイヤルを押す、その手前で止まる。<br /> 先ほど突っ返したばかりだ。きっとハナエは気にしないだろうが、私は気にする。<br /> つい六時間前までならば、私はそのダイヤルを回したに違いない。だが自覚してしまった。<br /> 元から自身が馬鹿な人間であると解っていても、それを改善する事によって産まれる弊害を怖れて、ヒトは認識を止める。目前のメリットだけを得ようとする。私はそのようにした。ハナエにそれを求めた。<br /> だが自身が馬鹿であるという認識が心の奥底まで沁み込み、滲んでいる今の私には、そのような『馬鹿な行為』は出来ない。<br /> これは、誰が許可するから良い悪いでは、ないのだ。<br />「嗚呼」<br /> なんて虚しく、汚い女なのだろうか、私は。<br /> 独りになりたくて引きこもり、独りで居るのに飽きてカナメを求め、カナメがいなくなったらハナエに慰めを求めた。人間の孤独感などそんなものだと割り切るには無理がある。そも、精神的に誰かに依存していなければ外に出る事も出来ない者など、人間とは呼ばないのだ。<br /> そうだった、私は動物でも人間でもない卑しい生物だった。しかし、それを肯定出来ないで居る。<br />「助けて……」<br /> またそうやって弱い顔を作る。媚びた姿勢を取る。か細い声を上げる。<br /> 私は世の中から溢れてしまった。復帰する努力を無駄と踏んで自らを閉じ込めた。本当は助けて貰いたかったくせに、頼るのが恥ずかしく、頼り相手も見つからず、頼る先に齎される選択肢が恐ろしく、全てを否定しようとしていたではないか。<br /> 母が、カナメが、ハナエが、手を差し伸べてくれたにも関わらず、私はその期待に応えられなかった。何一つ彼女達に対価を支払わなかった。支払っていたとしても、とてもではないが満足などさせてあげられるようなものではなかった。<br /> 今更助けてなど、オコガマシイ限りだ。<br /> 自己顕示を、自己承認を、求めるただそれだけの為にヒトを求めている。相手には何も齎さない。<br /> 布団を被り、ただ孤独に震える。ここは嫌な場所だ。<br /><br /><br /><br /> 悶絶するような不可避の自虐から逃れるようにして意識を絶ってどれほど経ったか。携帯を手に取ると、時刻は十一時を回っていた。電気も何時の間にか消されており、カーテンの隙間から街灯の明かりだけが細々と降り注ぎ、此方を照らしている。<br /> 気持ちは先ほどよりもだいぶ落ち着いたように思える。もしかすれば血糖値の低下が余計不幸な思考を呼びこんだのかもしれないと考え、私は母の置いていった紙袋を漁る。<br /> 紙袋の奥底には飴玉の袋が入っていた。複数種類の中からソーダ味を選んで口に運ぶ。昼食を取る前に嘔吐し、以降何も口に入れていない。<br /> 本当なら誰か来るまで寝ていたいのだが、休まりすぎた身体が睡眠を許容しないだろう。また暗い中要らない思考を巡らせる恐怖を感じた私は、直ぐに枕元の電灯のスイッチを入れる。<br /> ベッドの上で脚を抱え、中空に目をやり、飴玉を舐めながら呆然とする。また不幸な私を演じている。<br />『不幸な私』というのは、自己防衛の不完全形だ。<br /> 誰かしらが心配してくれる。可哀想な私を慰めてくれる。しかし同時に鬱屈とした精神はどんどんと心を抉って行く。家族を失った訳でも、不治の病にかかった訳でもないのに、何もかもに絶望し、夢は無く、未来は無く、虚無的な空気に支配され、やる気もなく、上の空で、ただ毎日を無為に過ごすようになるのだ。<br /> 引きこもっていた当初はそれで良かった。まだ外の誰かが心配してくれていた。だが高校も退学する形になり、身近なヒトはどこかへと消え、高校の時の嫌な思い出だけが自家中毒が如く拡充されて行くようになると、不幸な私も通用しなくなる。ではどうするか、それから先、どうやって自己を防衛するか。<br /> 答えは簡単で、もっともっと何も考えないようにする事である。<br /> それが正答である筈はない。時間は有限であり、私も歳をとって行く。恐らくあのまま何の変化もなければ、感情の波によって産まれる躁を切欠に、鬱へ戻るその瞬間、ベランダから飛んだだろう。<br /> 鬱だからとヒトは死なない。そもそもそんな事をやる気力もないからだ。まして私は私が一番大事だった。故の自己防衛によって齎された引きこもりである。<br /> そのような意味で、カナメは私の恩人であった。<br /> 私は彼女に希望を見出し、それに縋りつき、未来を見ようとした。カナメがずっと健在ならば、それでも良かっただろうが、私は――持ちあげられすぎた。いや、勝手に盛り上がりすぎてしまった。<br /> カナメによって産まれ出た希望が今まさに地に落ちようとしている。同時に持ちあがった私の気持ちは、同じくして地面に叩きつけられようとしている。<br /> 鬱ではなかなかヒトは思い切らない。<br /> だが、持ちあがった精神がまた不幸な私へと変化しつつある今は、その限りではないのだ。<br /> 私には『辛うじて動く気力』があるのだから。<br />「……――」<br /> こんな弱い自分が許せなかった。<br /> こんな弱い自分を後悔ばかりして、決して未来に繋げようとしなかった自分が悔しかった。<br /> 悔しさばかり溜めこんで何もできない私がもどかしかった。<br /> 折角差し伸べられた手を満足に掴む事が出来なかった自分に腹が立つ。<br /> その腹立たしさをバネに出来ない、自分の弱さが許せなかった。<br /> 思考回路の袋小路に差し掛かる。答えなんてものはない。ただただ、自虐に自虐を重ね、自虐を理解している自分を悔いて、弱い自分を祟るのである。<br /> 私は、もっと馬鹿ならば良かった。<br /> 何も考えず、流されて、言葉を意に介さず、あっけらかんとし、無意味に笑える人間ならば良かった。<br />「…………はは」<br /> 歯を使って糸を解れさせ、繊維に沿ってシーツを破く。<br /> いつか見た自殺支援サイトの画像を思い出しながら、私は静かに準備を始めた。単純な作業だ。細く裂いたシーツを編むだけである。器用貧乏だけが取り柄の私には、造作もない。<br /> 己の首を括る縄を編んでいると、やがて色々な事が脳内に浮かんでは消えて行く。<br /> 一番古い記憶は幼稚園の頃だ。<br /> 私は昔から器用だったし、美的センスもあったのだろう、誰の手も借りず一人で描いた絵が、市のコンクールで大賞を取った。皆はうんと褒めてくれた。父や母は当然、大人の人達が皆喜んでくれた。<br /> 小学校の低学年の頃。<br /> 勉強はそこまで得意ではなかったけれど、文章にセンスがあると褒められた。私の書いた短編小説は誉ある賞を受賞したらしく、未だに小学校の誇りとして誰でも閲覧できるようになっている。勿論皆褒めてくれた。私の未来を誰も憂いたりはしなかった。<br /> 小学校の高学年の頃。<br /> 初めて好きな男の子が出来た。大人しく、普通の子だ。私から何かアクションをかけた記憶はない。それは子供の淡い思い出としてただ保管されるだけの、儚いものだ。彼は直ぐ転校してしまい、私は母に泣き付いた。母はゆっくり私を諭し、慰めてくれる。いつか――ずっと貴女にふさわしいヒトが出来るからと、そのように言われたのが、何よりも印象深く残っている。<br /> 中学校の二年生の頃。<br /> 生理が止まってしまった。体重が軽すぎる、肉体的に弱すぎると指摘されたのは、思春期の私にはあまりにもショックだったのを、良く覚えている。母は食事を変えたり、体質改善を促す健康関連のグッズや、出所の怪しい医学博士の書いた本などを集めて必死になってくれた。父はこれに無理解で、暴言に近い言葉を吐かれた。あの時ほど、母が怒った姿を私は見た事がない。<br /> 誰にも相談出来る訳がなく、酷く憂鬱な日々を過ごした。三か月もした頃にはまた戻ったが、やはり、体重や体調が改善するような事にはならなかった。<br /> 思えば、私は中学のあの頃から、何一つ変わっていないのかもしれない。<br /> 高校の頃。<br /> 最初は思いの外順調であった。むしろ、私の周囲は明るく、世界は開けていたようにすら思える。私なる人物の没落は、本当に、たった一つの行動、たった一つの言葉で、回避できたのだろう。<br /> あの時、彼等の言葉を無視していたならば。<br /> もしくは、出て行ってぶん殴っていたのならば、今よりももっと、女の子でいられたのかもしれない。私はただの女の子としていられたのかもしれない。未練がましく、しかしどうしてもその後悔だけは消えなかった。<br /> 普通の私、無難な道筋、当たり前の人生。そんなもの、本当に手に入れている人間がいるのだろうか。普通というのは、この上なく恵まれているのかもしれない。だから、つまるところ私の希望というものは、果てしない高望みだったのだ。<br /> 何も映画のヒロインのような人生を望んだ訳ではない。<br /> 白馬の王子様は現れず、代わりに現れたのは高級車に乗ったハスッぽい女の人である。<br /> まあそれだって、十分に幸運なのだろう。何せあの人は私の言う事を何でも聞いてくれる。私の事を一番に愛してくれる。彼女に縋りついていれば、私はきっと飢える事も憂う事も無い。未来の事は解らないが、当面幸せであれるだろう。<br /> だが、違うのだ。<br /> 未来がどうとか、今がどうとか、そういう問題ではない。<br /> 幾ら彼女が愛してくれようと、私は私の形が崩れてしまっては、それまでなのである。<br /> 私を形成していたもの、私の存在理由は水木加奈女にあった。<br /> いつか、ハナエは私に信心について語っていた。<br /> 信仰対象が儚く消え去るようなものであった場合、いざ終末を迎えた際、私の信心は宙に浮かび、それらによって齎される不幸を回避するべく逃げた先に、納得出来る絶対安住などないのだと。<br /> 事実その通りだったのかもしれない。ハナエは確かに逃げ場所を用意してくれていた。彼女も私を愛してくれていた。しかし私はそれに上手く答えられていない。彼女の優しさが、私には安住足りえなかったのだ。<br /> 求め求め、縋りつきながら『これじゃあない』と切り捨てる。<br /> ああ最悪だ。<br /> だから、もう、畜生、私は私を私で何度自己肯定しようとも、自分勝手のクズなのだ。<br /> もうやめろ、もう死んでしまえ。<br /> 良いんだ、元から自分勝手なのだから、残されたヒトの気持ちなんぞ考える必要性がない。これから死に逝く人間が後の事など考えたって不毛なだけだ。<br /> 私は私が大事だ。<br /> これ以上心を痛めつけて苦しむぐらいならば、もう本当に、何も考えられないよう、脳の活動を止めた方がマシである。<br />「……」<br /> 編みあげたものを引っ張って確認する。どうせ私のような枯れ枝だ、そこらへんに引っかかったって首ぐらい吊れるだろう。何よりも器用な私が作ったのだ、簡単には外れまい。<br /> 辺りを見回し、縄をかけられる場所を探す。しかしどうも取っ掛かりとなる部分が見当たらない。ベッドの縁に括りつけても首は締まるだろうが、ヘタレの私だ、苦しくなって外す可能性もある。<br /> 私は紙袋に縄を放りこみ、部屋を出る。場所によっては患者がドアを開くとナースコールが発生する所もあるようだが、ここにはそのようなものもない。<br /> 廊下に出て視線を巡らせる。探す必要もなかったか、私の部屋の直ぐ隣には非常階段がある。幸い難しい細工も無く開くようになっていた。<br /> 鍵を外して外に出ると、冷たい夜風が私の肌を撫でる。階層が低い為眺めが良いとは言えないが、遠くの街明りは辛うじて見える。そもそも、これから死ぬのに目立っては困る。<br /> ただ、やはり、もう少し雰囲気が良い所が好ましいと、その時は思ったのだ。<br /> 重たい身体を引きずり、階段を昇って行く。階段を上った先が処刑台とは、まさにそれらしいなと、漠然と考えた。<br />「……こんなに昇れるなら、別に縄じゃなくても良かったなあ」<br /> 地上六階にまで上がると、それは相当な高さになる。一応転落防止用に非常階段は堅牢な作りとなっているのだが、人一人がはみ出す隙間ぐらいは存在した。<br /> 何だか乾いた笑いが漏れる。<br /> あれほど自身を守りたがっていたのに、あれほど暗に助けを求めていたのに、いざここまで来ると、そんなものは一切合財何の意味もなかったのだと、実感出来た。あとは死ぬだけとなると、本当に気が軽くなるのかもしれない。<br /> 毎日こんな気持ちで居られたのならば、私は苦悩せずに済んだだろうに。<br /> それと同時に涙が零れて来る。<br /> 私とは一体何だったのだろうか。<br /> なんでこんなにも気持ちが軽いのに、こんなにも悲しいのだろうか。<br /> まだ私は私を保てると思っているのか。<br /> まだ私は私が幸せになれると思っているのか。<br /> そんな都合の良い話があってたまるか。<br /> ヒトは私よりもずっと努力している。<br /> あるヒトは、辛い仕事に従事し、上司の小言に耐え、取引先の怒号に頭を下げ、家に帰って溜息を吐く。<br /> あるヒトは、明日を生きる為に身体を売り、理不尽な要求に耐え、苦しくとも笑っている。<br /> あるヒトは、食べる事にも事欠き、笑顔も無く、小さな幸福も無く、ただ虚無的に毎日を生きている。<br /> あるヒトは、ままならない国家に産まれたが故に、生まれながらに地獄を味合わされている。<br /> 相対的に見れば当然、私は幸福だ。<br /> 明日食べる事に困らず、理不尽な要求を突きつけられる事はなく、むやみに身体を売る事はなく、当たり前にして居れば普通に生きていける国と家庭に産まれた。<br /> ただ、その対比に価値はおそらく、ない。<br /> どんなに恵まれた環境にあろうと、悲痛と苦痛と劣等感に苛まれ、後悔と羞恥に晒された身と心は、決して人間として生きるだけの強さを持ってはいないのだ。<br /> 明日生きるだけでは、何一つ満たされない。<br /> 自己に対する否定的意見は一切許容出来ない。<br /> その性質は寄生的で、責任を感じていると思うばかりで何一つ責任を取っていない。<br /> 虚言こそないものの、その自尊心は異常に強く、弱さを繕っているだけで……本当は他人様の事など、何とも思っていないのでは、ないか。<br /> 私は漸く気が付く。<br /> 私は、明確な病気などではなかったのだ。その性質は、悉く精神異常者のそれである。<br />「なんて可哀想な私。なんて可哀想――ああ、こんな私を救わない世の中は、なんて酷い世界なんだろう」<br /> 七階の踊り場まで来て、足を止める。<br /> 涙で前が良く見えなかった。己の筆舌にし難い精神性に、また自己憐憫が襲う。<br /> もう何もかも支離滅裂だ。<br />「――じゃあ、私は何だったのかしら」<br /> そのような声が聞こえて来るのも、仕方が無いのかもしれない。<br /> 私は顔を伏せたまま、それに答える。<br />「自分が一番好きだからです。何を犠牲にしようと、私が傷つかない方がよかった。隣で暮らしている十歳児が、楽しそうに声を掛けた来たんです。正直馬鹿らしくありましたが、演技しているうちに、それが真に迫ったと言いましょうか。まあ、何にせよ、貴女の為じゃない。私が楽しかったから」<br />「――良いじゃない、それで。何か後悔する事があった? 例えそれが何もかも、全部貴女の為だったとしても、相手も満足なら、それで良いんじゃないかしら」<br />「そうでしょうか。それは相互の利益に繋がったんでしょうか。それであの子は満足だったんでしょうか。私にはそれを確認する術がない。齎された言葉とて信用出来ない。それすら演技かもしれない。私はあの子に依存の限りを尽くしました。そう演じている事で、私の均衡が保てましたから。彼女は重たくなかったんでしょうかね。私がそれやられたら、ウンザリしますけど」<br />「――そうねえ。おかしなヒトだとは思ったけれど、私は心地良かったわ。貴女みたいな馬鹿なヒトがいると、弱い自分を覆い隠せたもの。だから、互いにそれで良かったのだと思うわ。貴女の感情に偽りはないでしょう。例え全部自分の為だったとはいえ、それを苦に、貴女は今からその縄で首を括るのだから」<br />「結局誰の言葉も、私の感情すらも、信じられないんです。ハナエはそれを和らげてくれましたが、そんなものは、私の精神異常の隙間を多少埋めただけで、真人間に戻るようなものじゃあない。そもそも、こんなもの、きっと直せない。可哀想でしょう、何一つ信用していないんです、私」<br />「――不様ねえ。その不様さが、私は好みだったわ。なんて弱くて愚かで馬鹿な子なのかと思って。本当に、心の底から貴女を見下していたのよ。そんな見下される位置にいる貴女が、大好きだったの。愛していたわ。底辺をはいずり回って救済者を求める、自分では何一つマトモに出来ない塵っ滓」<br />「それを愛と呼ぶんですか……貴女は」<br /> 顔を上げる。そこには何も無い。何もいない。私はただ、独りで喋っていたのだろうか。<br /> いや。<br />「――呼ぶわ。私は下々を愛でて、初めて女王なのよ、タツコ」<br /> 八階に到達する。丁度頃合いの手すりを見つけ、そこに縄を括る。<br />「――愛しているわ、タツコ。私の短い生涯で、もっとも愛した貴女」<br /> 踏み台は要らない。<br /> 階段を上って高い位置に吊るし、下から跳ねて首を吊ればそれで済む。<br />「――貴女は、光だった。影に住んでいたのに、私には、光に見えたの」<br /> 括り終えた。階段を降り、首つり縄を真上に仰ぐ。先ほどから人の気配はない。例え病院とて、見つかった頃には間に合わないだろう。中途半端になると、下半身不随なんて面倒な事になる。<br /> 死ぬなら一発だ。<br />「――貴女には、幸せになって、貰いたいの。私の愛でた、一番愚かな貴女には」<br /> 縄を掴む。首を振る。頭をひねる。<br />「勝手な――」<br /> 首を掛ける為に跳ねあがるも、上手くかからない。<br /> 飛び上がった拍子に、ポケットから何かがこぼれ落ちた。<br />「あっ――」<br /> 鉄の足場だ、携帯が落ちれば、それ相応の音が鳴る。<br /> ガンッという音、そして同時に着信があった。落ちた拍子に静音設定が解除されてしまったのか、何の飾り毛も無い、無機質な着信音が非常階段に鳴り響く。<br /> 同時に階下で鉄を叩きつけるような音が響く。ドアを開ける音だろうか、静かな病院では、あまりにもけたたましい。<br />「こっちか!! タツコ!!」<br />「あっ――あ、う、うそ――」<br />「上か!? おい、こら、タツコ!!」<br />「うそぉ……うそ、なんで、そう……」<br /> 落胆だけが広がる。私はその場に座り込んでしまった。<br />「――馬鹿ねえ」<br /> 耳元で、彼女の声が囁かれ、やがて消えて行った。私はただ呆然として中空を見上げている。<br /> ガツンガツンと、おおよそ女の子が立てない音を立てて、ハナエがやってくる。<br /> 息を切らせ、顔を真っ赤にし、目元に涙を沢山溜めて、ハナエは私を掴みあげて立たせると、壁に押し付けた。<br />「はあ、はあ――、ふう。ああ、だからさ、もう。アンタさ」<br />「……――」<br />「タツコ」<br />「うん」<br /> 瞬間、何が起こったのか良く分からず、また床にへたり込む。頬が異常なまでに熱かった。<br /> ひっ叩かれたのだろうか。非常階段に乾いた音が残響する。正しく目が覚めるような一撃であった。<br />「死のうとしたのか」<br />「うん」<br />「なんで死のうと思った」<br />「面倒くさくて」<br />「何が面倒だった」<br />「全部」<br />「具体的にどれだ」<br />「あの子が死ぬ事と、貴女を好きでいる事、貴女に好かれる事」<br />「私、そんなに迷惑だったか?」<br />「ううん……好きなの。凄く。それに、あの子も好きだったの。でも、何よりも、自分が一番好きだった」<br />「辛いか」<br />「……解らない。自分が嫌いな事も、自分が好きな事も、他人の言葉が気になる事も、他人を本来何とも思ってない事も、父も母も、アイツラも、あの子も、貴女も、何がどう大切で、どれを一番重視して、最良な自分は何かと考えて、でも答えは出なくて、ああもう、わけわかんなくて、それでも考えて、堂々巡りして、面倒くさくて、それが辛かったのか、それすらも、解らない」<br />「なんて悲しい生き物なんだ、アンタは」<br />「蔑んでくれるの?」<br />「そらそうだ。私より上だったら困るだろう。弱くて愚かで馬鹿なアンタを保護している自分が好きなんだ、私は」<br />「もう一度打って」<br /> ハナエは、無言でもう一発、私の頬をひっ叩いてくれた。<br /> じんわりとした痛み、熱さと同時に、悲しみと充実感が同時にやってくる。<br /> 未知の感情だ。私はそういえば――誰かに何かをきつく叱られた事があっただろうか。まして、人に殴られるような事があっただろうか。記憶にはない。<br />「どうした、嬉しそうにして」<br />「もしかしたら、本当に、嬉しいのかもしれない。私、人にぶたれた事ないから。本気で叱られた事なんて一度もないの」<br />「そうか。それでアンタは満足なんだな。いつでも言え、いつでも叩いてやる」<br />「私」<br />「うん」<br />「価値を、自分で決められないんだと、思う。だからいつも考えが宙ぶらりんとしていて、浮ついてて、形がなくて、雲みたいで、そんな自分が嫌で、そんな自分が正しいと思う自分も嫌で――だから、私は、あの子にも、貴女にも、私の価値を勝手に決め付けてくれる価値観を、欲したのかも、しれない」<br />「そうか。じゃあ死ぬなよ」<br />「うん」<br />「アンタは私の。それで動かない。いいな」<br />「うん」<br />「元の所有者も、そろそろ逝くぞ」<br />「――うん。さっき、話したの」<br />「そうか。というかな、あの子が逝くってんで、呼ばれたんだ。電話出ないアンタが何しているのかと思ったら、こんな縄まで作りやがって、馬鹿、阿呆、間抜け、クソほど頭悪いなアンタは」<br />「ごめんなさい」<br />「ほら立て。いくぞ」<br />「――うん」<br /> 私の手を引いたハナエは、階段を降りようとしたところで立ち止まる。振り返り、少し上がって私の作った縄を解き、それを紙袋に突っ込む。<br />「アンタの両親が心配する。これは、無かった事にするからな」<br />「……」<br />「アンタが死んだら、私がどうすればいいのか解らなくなる。アンタは、自分勝手な馬鹿で、もしかしたら、他人に全く必要とされていないと思ってるのかもしれないが、偉くでっかい間違いだ」<br />「貴女は――私が必要? 貴女は、美人だし、お金もあるし、私みたいなゴミクズを、わざわざ拾わなくても、隣には誰かが居て、必要としてくれるでしょう」<br />「信用ならんもん隣に侍らせて楽しいかよ。まあそういう意味で、今日は裏切られたぞ。人間追い詰まると何しでかすか解らないっての、すっかり忘れてた。お願いだから、死んだりしないでくれ。私に、あの女王様との約束を果たさせてくれ。私から、アンタを奪わないでくれ。どんだけアンタが愚かだって、私には必要なんだ。私の為だ。私のエゴで、死んで貰いたくないんだ。頼む、後生だ、タツコ」<br /> ハナエは、目元に涙を溜めて懇願する。私はきっと阿呆のような顔をしていただろう。生きてくれ、私と幸せになってくれと、涙ながらに欲されているのだ。私という存在が、人様の生命を握った瞬間だ。<br />「ごめんなさい」<br /> 恐らく、その言葉は過去どのごめんなさいよりも、真に迫ったものだっただろう。産まれて初めて、ごめんなさいに含まれる意味合いが溢れる程の謝罪だった。<br /> 私の為に必死になってくれる彼女の生命すら、犠牲にしようとしたのだ。<br /> 理解と実感は別物である。どれだけ頭で解っていようと、物事の理を実体験無しに図る事は出来ないように、脳内で幾ら他人などどうでもよいと考えていても、その他人が目の前で泣き出しはじめては、理屈など吹き飛んでしまう。<br /> 私の根元にある精神構造が変わったりはしないだろうが、今までよりもずっと深い感情を得られたような気がするのだ。<br />「オカルトとか、信じちゃいないが。お前、あの子に止められたぞ」<br />「……うん」<br /> 階段を降り、カナメの病室へと足を向ける。今しがた逃げ出したというのに、今度は向き合わねばならないのだ。カナメが容体を悪化させなければ、私はハナエが止める間も無く死んだだろう。<br /> 先ほど、私は何者かと対話した。<br /> オバケとか、幽霊とか、そんなものは生憎観た事はないが、死せる彼女がその精一杯を用いて私を止めたというのならば、私はそれをどう受け取るべきなのだろうか。<br /> 妄想だったとしても、その妄想は何故齎されたのか。<br /> そんなもの、解りきっているのかもしれない。<br /> 薄暗い廊下を進むと、看護師とすれ違う。以前見舞いに来た時取り次いでくれた人だ。彼女は私達の顔を見ると、静かに頭を下げる。ナースステーションでは数人が慌ただしそうに何かしらの準備に走っているのが観えた。<br />「死に目にあえなかったか。アンタがくだらない事してるから」<br />「うん」<br /> 廊下の突き当たり、そこはドアが開いており、中から光が漏れていた。丁度最期の別れの時間なのだろう、医者が部屋から出て来る。会釈し、私達は病室に入った。<br />「澪さん」<br />「――あ、タツコちゃん……今しがた……」<br />「……カナメ様」<br /> ――今まで生きていた事が嘘のような、それはそれは、虚しい死体であった。<br /> 見舞った時よりもさらに窶れ、以前の面影すらない。あの美しかった少女が、本当にただの物体となり果てていた。<br /> しかし、これは世辞ではなく、盲信から来る賛辞でもない。彼女の死体は威厳に満ちていた。<br /> 両手を胸に組んだ彼女の姿はどこか神々しく、気高い。その顔も窶れてはいたが、どこか満足げなのだ。<br /> 聖人もかくやという趣きに、私は胸が熱くなる。<br /> 彼女は最期まで女王で居てくれたのだ。<br />「……澪さん。この写真。御遺影にしてあげてください。私の為に撮ってくれたそうなんです。凄く、良い笑顔なんです。私、この子に、この子に救ってもらったんです。この子が居たから、この子の為にと、外に出たんです」<br /> 手帳から、カナメの写真を取り出して澪に手渡す。放心したような彼女はその写真を手に取ると、胸に抱いた。<br />「ごめんなさい。澪さん、嘘を吐きました。私、カナメ様を特別に思っていました。大人になったら、私の事を迎えに来てくれるって言ってくれたんです。私にはそれが希望でした。夢でした。未来でした」<br /> ただ、言葉を紡ぐ。<br />「最初は演技だったんです。でも彼女と会話を交わしているうちに、私は彼女に尽くす為に産まれて来たんだと思いました。何でもない私をずっと気にかけてくれていました。ずっと慕ってくれていました。私もその恩返しがしたかった。彼女に愛され、私も愛してあげたかった」<br /> ただ、言葉を紡ぐ。<br />「まさか、こんなにやせ我慢していたなんて、思いもせず。私は外に出て、引きこもりを治す努力をして、人間関係も、少しだけ広がって、別の女性に、好きだと言われて。カナメ様がありながら、他の女に靡くなんて不貞だと思っていましたけれど、私は私を愛してくれる人が皆好きでした。助けてくれる人が、好きだったんです。自分が一番大事だったんです」<br />「――タツコちゃん、貴女――」<br />「カナメ様が助からないと聞いて、私は私を守る為に、このヒト――ハナエに縋りつきました。優しい人だから。カナメ様を失う絶望すら和らげてくれるから。カナメ様は嫉妬どころか、ハナエに全て、預けてしまった」<br /> 手を胸に組んだカナメに手を添える。<br /> その肉には、元から血が通っていなかったかの如く、温かみは感じられなかった。<br /> そうだ。<br /> 水木加奈女なる突然変異の女性は、死んだのだ。<br />「カナメ様は、私を弄って楽しんでいただけだと思います。大人で引きこもりで不甲斐ない私を見下して楽しんでいたのだと。でも、冗談で、私をあんなに愛しそうに、抱きしめてはくれないと、思いました。冗談で、あんな顔をして、真剣に私を想ってくれはしないと。こんなにも酷い人間を、この子は慈しんでくれた――それは、何故です、何故、貴女は――」<br /> 床に崩れ落ちる。<br /> もう耐えられなかった。<br /> 悲しみはもっと後にやってくるとハナエは言っていたが、そんなものはヒトによるのだろう。あからさまな現実が私を貫くのだ。<br /> 私の存在が、カナメを少しでも幸せに出来ただろうか。<br /> 泣き縋る。たった数カ月、たった一度の触れあいで得た思い出が何度となく脳裏をかすめる。<br /> あの世界こそが最初の世界であった。<br /> あのベランダこそが私とカナメの許された場所であった。<br />「ああっ――あああぁっ――――なんでぇ――なんで貴女はぁっ……!!」<br /> 好奇心と渇望によって生み出された王国が終焉を迎える。<br /> たった一人の女王と、たった一人の民が治めた王国は、今をもって崩壊したのだ。<br /><br /><br /><br /> つづく </span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-66944756174648836022013-12-08T22:20:00.000+09:002013-12-08T22:26:11.257+09:00私の幼い女王様 2、信心<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: inherit;"> </span></span><br />
<span style="line-height: 27px;"> 2、信心<br /><br /> <br />「……本当に良いんですか?」<br />「が、頑張ります」<br />「でもその、無理はしないように」<br />「いってきます。一時間で帰らなかったら、救援を願います」<br />「ええ。いってらっしゃい」<br /> お化粧に、帽子、サングラス、厚手の服に、腕には長い手袋。脚は見えないようにニーハイソックスを穿いている。逆に怪しい人に見えなくもないが、観られていると感じられるよりは余程ましだろうという結論に達した為、このような格好をしている。<br /> 私はこれから近場のスーパーに夕食の買い出しに向かうのだ。<br /> 一週間ほど前、玄関を出ただけで吐いたのは記憶に新しいが、私は私が思っている以上に、あの日の決意が固い様子だった。<br /> まずは散歩やら、夜間に人目がない所から、などという逃げの意見が頭の中を廻ったのは当然なのだが、昨日の事、それについて友人に相談したところ、笑われてしまった。<br /><br /> hanana:夜間徘徊www老人かwww老人かwww<br /> ryu:貴女に相談した私が馬鹿だった。<br /> hanana:引きこもり仲間減るの辛いわー。辛いわー。んでもさぁ、折角やるならもう少し踏み出した方がいいんじゃねーのって思うんだけど。<br /> ryu:やっぱりそうかな。具体的にはどういう。<br /> hanana:買い物じゃね。食品買い出し。適切な距離に人間がいて、大した会話も要らないぜえ。<br /> ryu:その発想はあった。が、怖い怖い<br /> hanana:じゃあ引きこもろう。<br /> ryu:それもヤなのでその提案で行こうと思う。<br /> hanana:買い物とか超こえええ。まあそれ出来たら繰り返してみりゃいいじゃん。愛しい人とは逢えたんでしょ。なら余裕よ余裕。<br /> ryu:い、愛しい人とか。違うし。いや、違わないけど。いや、その<br /> hanana:はいはいごちそうさま。人の幸せが憎いったらないわ。人の幸福で今日も飯が不味い。<br /> ryu:ハナナも外出たら?<br /> hanana:ご勘弁をwwww拙者真性で御座るからwwwあ、サングラスと帽子とか被ればいいよ。<br /> ryu:なんだかんだ、助言はくれるんだね。ありがとう。<br /> hanana:よ、よせよ<br /><br /> とまあ、このようなやり取りがあった。<br /> 彼女は馬鹿にしているようで、思いの外身になる助言をくれる。真性の引きこもりになる前はギリギリの状態で外に出ていたらしいので、その経験を元に、多少の同情があるのかもしれない。<br />(よし。出る。私外出る。これから出る。直ぐ出る。やれ出る。出る時出て出た出るのです……)<br /> 一重に精神疾患と言っても、傾向が似ているからそのように個別の病名を診断されるだけであって、個々人が症例の全てに当てはまる訳でもないという話も彼女から聞いた。<br /> 原因となる病原体が一定の害を齎しているものとは異なる為だという。<br /> そもそも私は病院に行っていないし、自分がどのような精神の病に分類されるかなど知る由も無い。<br /> その人物がどのような経緯で人の視線を恐怖したり、その人物がどのような経験をして人を怖れたりするのか、医者がそこまではっきり解る筈がなく、本人とて曖昧な場合がある。<br /> 更に言えば、自分が深刻な病を抱えていると思い込んでいるだけで、本当はもっと軽微なものなのかもしれない。<br /> 私などそれに当てはまった可能性がある。<br /> 私は診断などしていないし、ハナから外に出る事は諦めていた。故に自分がどの程度人の視線を恐ろしく感じ、男性に恐怖を抱いているかなど、改めて度合いの再確認などしていなかった。<br /> そうそう。そうだ。そうに違いない。<br /> 私はもしかしたら本当は全然怖くないのかもしれない。<br /> 脳の皺の薄い私が、ありったけ自身を説得する理論武装を固めてから、ドアノブを握り締めて、外へと出る。<br />(そんな訳ないでしょう……)<br /> 気持ち悪い。私は込み上げて来るものを呑みこむ。<br />「タツコさん、無理は……」<br />「す、すごい大丈夫です。行きます」<br /> 心配する母に見送られながら後ろ手でドアを閉める。<br /> 今日は曇り、頭に来るような日光はなりを顰めている。一歩一歩進みながら、いつ他の部屋のドアが開かれるかと怯えながら、漸くエレベーターにまで辿り着く。<br /> 下ボタンを押して二分。<br /> ここで問題が発生した。中に人がいる。<br /> この私が、エレベーターで、他人様と二人など、耐えられるだろうか。いや、きっと無理だ。<br /> ドアが開く。中から中年のオバサマが出て来る。<br /> 私は――小さく会釈をして横に逸れてから、一目散にエレベーターへと乗り込んだ。<br />(ぶはっ。そうか、降りたんだ。良かった。うん)<br /> 乗り合わせるような悲劇は起こらなかった。これは幸いである。<br /> ここは六階であるからして、流石にモヤシの私に階段の上り下りは酷だ。<br /> 問題なくエレベーターは一階に辿り着いた。私は秘密兵器を取り出し、それを小さく掲げる。<br />(あ……本当に幾分か楽かもしれない)<br /> hananaの助言は見事に功を奏している。陽は無いが日傘。これだ。<br /> 私はとても肌が弱い人という設定上にあるので、不意に誰かに突っ込まれても安心だ。彼女の謎の気づかいが実に有難い。<br /> マンションの前で暫く立ちすくみ、鼓動と呼吸を整える。<br /> 近くでは小学生の男の子があちこちと走りまわっており、マンション敷地の出口付近ではオバサマが二人、話し込んでいる様子だった。長い間ここに立っているのは得策ではないとして、私は歩みを進める。<br /> 日傘で顔を隠しながら、呼吸が荒れない程度の速足だ。<br />「あらこんにちは」<br /> そしてここでも問題が起こる。まさかの挨拶である。<br /> マンション内での近所付き合いを大切にしているらしく、母も良くマンションの会合には参加している。そして何より、挨拶というのは防犯の意味もあるのだ。知らない人物を発見し、即座に回覧して子供たちの安全を守ろうという、殊勝な心がけであるが、私からしたら厄介極まりない。<br /> 無視。<br /> これは選択肢として有り得ない。リハビリにならないし、不審者扱いは面倒だ。<br /> 笑顔で挨拶。<br /> これもない。二年半前の私とは違い、そんな愛想を振り撒けるような性格にない。<br />「こ、こんにちは……」<br /> 結局、日傘で顔を隠し、聞こえるか聞こえないか程度の挨拶、が妥当だ。<br />「えっと」<br /> 疑われた。こんな恰好では仕方があるまい。<br />「あ、は、旗本の」<br />「あ、旗本さん所の娘さん」<br />「す、すみ、すみません。肌が、よわ、弱いもので……」<br />「あらそーなのねえ。大変ねえ若いのに。お買いもの?」<br />「きょ、今日は……陽が、出ていないので」<br />「雨降るらしいから、気を付けてね」<br />「あ、ありがと、ございます。で、では」<br /> 小さく頭を下げ、そそくさと退散する。<br /> 怪しい人物と疑われたかもしれないが、旗本の娘である事は間違いないので、後で母に話をあわせるよう説明するべきだろう。<br /> 道路側に出て、壁に背を寄せ、溜息を一つ吐く。<br /> だいぶドモってしまったものの、必要最低限の会話は出来た筈だ。<br /> 進歩どころの話ではない。クラゲが脊椎動物に進化するくらいの過程を経たのである。<br /> hananaには『心因性のドモリは出るかも。まあ会話繰り返して精神的に安定したら減るんじゃね』などと軽く言われた。なんだか、何でもかんでも彼女に見透かされているようで多少気持ち悪いが、経験者曰く、と付けると含蓄がある。<br /> 気を取り直し、近所のスーパーへと足を進める。<br /> 流石に突然声をかけて来るような人間が跋扈している界隈ではないので、密閉空間でいつ他人様とエンカウントするか解らないマンション内よりも気楽だった。<br /> 外界の方が個人は孤独とは、良く言ったものである。今の私には有難い。<br />(あー……小さく息を吸ってー……吐いてー……)<br /> 人とすれ違う度に心臓が強く血液を押し出す為、呼吸も乱れやすくなる。信号など特に恐ろしい。こんなところで立ち往生してしまった場合どれだけ注目されるのかと考えるとまた気持ち悪くなるので、小走りで抜ける。<br />(早く冬にならないかな)<br /> 冬になれば、思い切り厚着出来る。気休めではあるものの、今よりも精神的に楽になるだろう。<br /> そうだ、気休めでも良い。外に出る事を意識出来ている時点で、私は進歩を獲得しているのだ。<br /> 様々と想いを巡らせながら歩いて六分ほどだろうか。目的のスーパーが観えて来る。<br /> スーパー八百一はここが高級住宅街に開発される前からある八百屋で、再開発の波に乗って高級志向のスーパーへと経営転換した、この地区でも名のある小売店である。<br /> 他のスーパーとラインナップは変わらないが、そのどれもがワンランク高く、値段も高い。<br /> 例えば水。<br /> 天然水など二百円も出せばボトルで買える筈だが、ここに置いているものは八百円もする。<br /> 肉は全部国産であるし、野菜も特約農家、乾物などは皇室御用達なんてものも並んでいる。<br /> イマドキそんな経営でやっていけるのかとも思うのだが、物事なんでもニーズは存在しているらしく、高いものから売り切れるのが常であるらしい。<br /> うちと言えば、ずっとこの地区で暮らしている為、ここが御用達だ。<br /> 一流企業の部長様であり、祖父も会社会長である父などは、元から安いものは口にしないので、母も昔はその価値観の違いに頭を悩ませたという。<br /> 母とて父と似たような境遇だが、母方はだいぶ倹約的な発想のようだ。<br /> 私も私で母の作るもので育った為、舌が肥えていけない。<br /> ファストフードだって食べるが、美味しい美味しいとがっついた記憶は無いに等しい。過食していた頃は買い物の殆どが食べ物であったが、その時口にしていたものも、大体ランクが一つ二つ高いお店のテイクアウトである。<br /> 過食期はこのスーパーにもだいぶ御世話になった。ここで売られている出来あいの幕の内弁当(三千五百円)は、いつも夜食のお供だった事を思い出す。<br />(思い出すだけでも吐きそう)<br /> 食べては吐き、食べては吐き、さて何度繰り返した事か。贅沢な身の上である。<br />(さて……)<br /> 私は意を決してスーパーの敷地内に入る。<br /> まだ買い出しの時間には早い為、人はまばらだ。国産品の良いものを野獣の如く求めて走る奥様方の群れに突撃する勇気などないので、都合が良い。<br /> 日傘をたたみ、帽子を眼深に被って入口をくぐり、籠を抱える。<br /> ポケットからメモを取り出して買い物の内容を確認する。<br /> 生姜焼き用厚切り豚肉二パック、煮物用牛肉二パック、合挽肉二パック。<br /> 生姜一つ、韮二束、大根一本、人参一袋、ほうれん草一束、モロヘイヤ一束。<br /> 梅干し一パック、エクストラバージンオリーブオイル一瓶、オイルサーディン二缶。<br /> 恐らく家にないものだけを買い足す目的の買い物なのだろう。しかしながら、モヤシの私にはいささか重い荷物のような気がしてならない。<br /> だが、最後に付け加えられた一行で納得した。<br />(名前を出せば届けて貰えます)<br /> なるほど、宅配してくれるらしい。<br /> が、つまりそれは会話が一つ増えると言う事である。母は酷い人だ。<br /> とはいえ、七難八苦与えたまへとのたまったばかりであるからして、このぐらいこなせねば未来がない。<br /> 私は買い物台車を引っ張って来て、籠を乗せる。ガシャンと物音がたち、私一人で驚いて辺りを見回す。誰も気にしていない事を確認してから、買い物を始める。<br /> 何にしても、注目されるのだけは勘弁願いたい。<br /> ストレスがかかりすぎて店内で嘔吐ぶちまけなんて真似をしたら、私はその場で自殺しかねないので、意地でも堪える必要がある。<br /> 警戒しながら野菜コーナーに周り、韮と大根とニンジン、ほうれん草とモロヘイヤを確保する。辺りに気を配りながら買い物をしなければならない私は、動作一つ一つが心労だ。もしぶつかりなぞしたら、パニックを起こしそうである。<br /> 順調に見えた買い物だがしかし、生姜、生姜はどこだろうか。<br /> パックか袋に入っていたと記憶するが、冷蔵根モノの棚に見当たらない。では豆苗やサヤエンドウ、ミョウガや大葉などの薬味が並んでいる所だろうか。しかし見当たらない。<br /> 近くにバイトらしき店員がいる。<br /> 声をかけろと。<br /> 私から。<br /> 無理な相談だ。女性ならまだしも、男性である。<br /> 視線を巡らし、あちこちと探しまわるも、見当たらない。<br />「何かお探しですか?」<br />「ひゃいッ」<br /> 冷蔵棚の前で留まっていると、店員に声をかけられた。私は跳ねあがるようにして振り向いて後ろに下がる。<br />「ああああああ……ッ」<br />「大丈夫ですか?」<br />「あの。あ、しょ、生姜は」<br />「棚ー……にありませんね。バックヤードを確認しますので、少々お待ち下さい」<br /> 店員が頭を下げて去るのと同時に、私は壁によって身を預ける。<br /> 不意打ちはいけない。覚悟して話しても引けてしまうのに、唐突に声をかけるのは反則である。<br /> 父以外の男性の顔をまともに見るのも久々だ。<br /> 呼吸を整えながら、辺りに気を配る。変な目で此方を見ている人はいない。<br /> それもそうだ、店員と会話したぐらいで気にする人間などいる訳がない。<br /> 鏡を取り出し、自身の顔を確かめる。<br /> 大丈夫、身が細すぎるなんて誰も思わない。顔だって変じゃない。大丈夫だ。<br />「お待たせしました。午後の品だし前だったようで。此方で宜しいですか」<br /> 私はコクコクと頷き、それを受け取るでなく、籠を指差す。彼はそれを察して籠に生姜を入れてくれた。<br />「では、ごゆっくりお買いものください」<br /> 頷く。彼はまた仕事に戻って行った。流石に高級スーパーなだけあって、バイトも丁寧だ。<br /> 私は気を取り直して、買い物を続ける。<br /> 精肉コーナーは問題なく、全て揃っていた。<br /> 加工品コーナーで塩分高めの梅干しを獲得してから、調味料棚でオリーブオイルを、缶詰め棚でオイルサーディンを見つけ、一応の目的を達成する。<br />(……これは)<br /> レジに向かう通路の途中、お菓子棚が目に入った。過食期に大量に買い込んだ記憶がある。<br /> お菓子に関しては『甘くてカロリーが高い』というだけを理由に買ったので、味は気にしなかった。<br /> 何となしに、その頃常食していた袋入りのチョコを手に取る。<br /> 瞬間嫌な感覚が過る。<br /> そのビニール袋を握った感触、ガサガサという音、同時に味と匂いが想起され、私は口元を押さえる。<br />(これ駄目な奴だ……ッ)<br /> 何か、何か吐けるものは無いか。<br /> いや、そもそもこんなところでぶちまけてしまったら、私はどうにかなってしまうのではないか。<br /> 酸っぱい水が込み上げて来る。何か頭もぐらぐらと揺らぎ始め、床に蹲る。<br /> 私の心的外傷、とまでは言わないまでも、嫌な思い出を想起するトリガーはハッキリしていない。そもそも思い出すようなものには近づかない環境にあった所為で、自身の弱点がまるで解らないのだ。<br /> 過食期は、弁当を食べて、砂糖を沢山いれた紅茶をがぶ飲みして、寝ながらこのチョコを口に放り込むような生活をしていた。大体、これを食べた後は、夜中に起きあがって嘔吐していたのである。<br /> 迂闊。<br /> だが、どうする。<br /> 今更後悔していられない。<br /> 思考がぐるぐると頭の中を回る。<br /> まさか商品の袋に吐けない。<br /> 精肉パックを別個にする為の薄いビニール袋……は、私は生憎つけなかった。<br />「ちょい、だいじょぶ?」<br /> そして、このタイミングで人に話しかけられる。顔を覆う為にしていたサングラスがポロリと落ちて、顔が晒されてしまう。私はよっぽど酷い顔をしていたのか、私を観た女性は一瞬顔をひきつらせる。<br />「あ、ゲロか、こりゃ大変だ。えーと……あ、これ、エコバッグ」<br /> 私は猛烈に首を振る。人様のエコバッグにぶちまけられない。<br />「いいから、安ものだから。でも耐水だから、多少なら大丈夫。ほら。端に寄って」<br /> 私は彼女に促され、柱の影に寄ってしゃがみ込み、ペコペコと頭を下げながらエコバッグを拝借する。<br /> 彼女は私を隠すように立ってくれている。なんて優しい人か。<br />「ぅぉげ」<br /> ――非常に醜く汚い音が周囲に響く。死にたい。死にたい度が最高潮だ。<br />「一先ずー……荷物預けるか。店員さん、これ買い物中だから端寄せててー」<br />「え、あ、はい。あの、どうかされましたか?」<br />「女の子のデリケートなもんだよ察してくれ。御手洗い何処」<br />「あ、左様ですか。この通路の右手奥で御座います」<br />「あんがと」<br /> 女性に肩を抱かれたまま、私は御手洗いに退散する。<br /> 何度も何度も頭を下げながら、個室に引きこもってそれから二度ほど戻す。<br />「うぅぅぅ……ッ」<br /> 洗面台の前に立っていると、己の情けなさが悔しくて涙が出る。まさかチョコの袋掴んだだけでこうなるとは、流石に回避不能のアクシデントだ。<br /> 外に出ている間、これから特に食に関するものについて、気をつけねばならないものが沢山出て来るだろう。常に何かに気を使い続ける生活は、考えるだけで憂鬱だ。<br /> 薄暗い気持ちがドンドンと私の心を侵食し始める。<br /> 私は頭を振り、ポケットから手帳を取り出して眺める。<br />(大丈夫、大丈夫……大丈夫です、カナメ様。タツコは大丈夫です……)<br /> カナメからもらった写真だ。この子の笑顔を見ていると、嫌な気分が散る。<br /> そうだ。私は彼女を支えに生きている。これから彼女の為に生きるのだ。これぐらいで躓いては居られない。<br /> 口を濯ぎ、口元のメイクを直す。サングラスは……先ほど落としただろうか。仕方がない。<br /> 御手洗いから出ると、丁度アレ塗れのエコバッグをゴミ箱に突っ込む彼女の姿が観えた。私が近づくと振り返り、暗さ一つない顔でケロリとしている。<br />「いや、大変だね。ツワリ? それとも風邪気味とか。あるよねー。なんか匂い嗅いじゃってオエーってなる奴。私中学んときさー、風邪気味なのに学校行って教室でぶちまけてさー。以降渾名がゲロ江なんだよね。あ、大丈夫、男子は全員ぶん殴ったから。あはは」<br />「……弁償します」<br />「良いって。気にしないでよ」<br /> 何とも、豪胆な人だ。<br /> ポニーテールにまとめた茶髪、シャツに短い皮のジャケットを羽織っており、下は細身のジーパンだ。観るからに生きている世界が違う感じのする、活発な女性である。<br /> 健康的な体躯である。実に羨ましい。<br />「でも」<br />「いいって。あ、そうだそうだ、代わりといっちゃなんだけど、道教えてくんない?」<br />「……どこでしょう」<br />「工藤不動産って知らない? 実はこっち越して来たんだけど、ネットで決めちゃってさ。現地がどこかわっかんないんだよねー」<br />「……携帯電話で、地図とか」<br />「地図読むの超下手なんだなっコレが」<br /> カラカラと笑う女性を前に、私は躊躇っていた。<br /> さてどうしたものか。<br /> 工藤不動産ならば、記憶にある場所だ。ここから道案内してくれというのならば出来なくもないが、現在ミッションの遂行中である。一時間経って戻らねば母がやってくる。<br /> そもそも、悪い人には観えないものの、ついていって何かしらに巻き込まれたら怖い。<br /> が、恩義もある。彼女がいなかったとしたら、私は一体どれだけの醜態をさらしただろうか。<br />「お買いもの、済ませてからでも、良いでしょうか」<br />「勿論! いや助かる助かるー。あ、お名前聴いておこうかな。私は大武華江」<br />「旗本竜子です。その、もう良いですか。あの、会話するの、苦手で」<br />「あら、そうなの。可愛いのにコミュニケーション取れないと大変だな」<br />「かわ」<br />「あン?」<br />「――いえ。あの、少々お待ちください」<br />「あいよー。あ、これサングラス」<br />「どうも」<br /> 買い物台車を置いて来た場所に戻り、回収してからそそくさと会計を済ませる。<br /> あんな事があった後、レジの店員が若い女性であった事、うちの母を良く知っていた事で、実にスムーズに配達手配も終えた。<br /> 嘔吐危機に比べれば、女性との会話など辛いうちに入らないのだなと、嫌な形で認識が改まる。<br /> 外に出てみると、華江は喫煙場所で携帯を弄っているのが見て取れた。私が近づくと、彼女が笑顔で私を出迎える。<br />「おつかれさん。車で来てるんだけど良いかな」<br />「あの、少し。待って下さい。母に、電話、しないと」<br />「そっか。ここそういう所だったなー。あ、悪いね、成り金みたいなもんでさ、あぶく銭でここに家買ったのよ。あぶくっつっても相当でかいあぶくなんだけど。あ、じゃあ携帯どうぞー」<br />「済みません」<br /> 華江に携帯を借り、家に電話する。数コール後母が出る。<br />『はい、旗本でございます』<br />「お母様ですか。タツコです」<br />『あら……携帯電話から……?』<br />「はい。その、道案内を頼まれまして。買い物は終えましたので、大丈夫です。一時間過ぎるかと思いましたので、電話しました」<br />『道案内……あの、大丈夫ですか?』<br /> 華江に目を向ける。彼女はすぐ察したのか、携帯を受け取って調子の良い声で話し始める。<br />「あ、こりゃどうもお母様。実はですね、縁あってお知り合いになりまして。近所の不動産まで案内してもらう事になりましてね。あ、怪しいものじゃありませんよ。じゃあ携帯番号と、ええ、名前と、住所……はいはい。大武華江です。あ、タツコちゃん。御母さん相当心配してるし、車のナンバー控えて教えてあげて?」<br /> そのように言われ、指されれた車の番号を控える。母は私が外で人と話す事自体を疑っていた様子だ。当然といえば当然である。<br />「お母様。間違いありません。はい」<br />『えーと。晩御飯は、要りますか?』<br />「えっと。道案内を終えたら、直ぐ帰りますので」<br />『解りました。気を付けてくださいね』<br /> 私は電話を切り、大きく溜息を吐く。まさしく初めて外に出た小学生が如き扱いである。まったくもって不甲斐ない。どこの世界に二十歳で外出許可を取る大人がいるのか。いるか。ここに。<br />「なんか、ずいぶん特殊だねえ」<br />「心配かけて、育ちましたので」<br />「お嬢様だったなあ。ま、いいか。取り敢えず道案内お願いねー」<br />「はい」<br /> 華江に促され、早速車に乗り込む。<br /> 私は車に詳しくないが、これが相当高級なセダン車である事ぐらいは直ぐに解った。国産車であるが、確かスポーツカーコンセプトで、小首を傾げるような値段だった筈だ。<br /> 二十代前半に見えるこのヒトが乗るには、いささか似つかわしくない。しかもこの住宅街に住むとなると、借家とはいえ結構なお値段になってしまう。それを下調べせずネットで決めるというのだから、その適当さ加減が彼女の資産の怪しげな額を提示する。<br />「マンションですか」<br />「そうそうマンション。安かったから、倉庫含め二部屋買ったの」<br />「……」<br /> 賃貸ではないらしい。私は頭を押さえる。この辺りのマンション一部屋、安くても三千万くらいだ。<br />「取り敢えず予約だけして、これから不動産とお話なのよさ。まあ間違いなく買うから良いんだけど」<br />「資産家なんですね」<br />「人生数周遊び倒すぐらいにはねえ」<br />「次右です」<br />「あいあいさ」<br /> 彼女はずいぶんと楽しそうだ。私より少し上程度で、これほどまでに人間には格差があるのかと思い知らされる。彼女はきっと悩みの一つも無いだろう。<br /> 汚い話だが、世の中の悩みは大体お金で解決してしまう。お金で乗り越えられないものといえば、不治の病か人の死ぐらいだろう。<br /> 私はこのコンプレックスがあるけれど、それだけお金が有り余っていたら、悩むのも馬鹿らしくなるかもしれない。<br />「次左です」<br />「あいよ……ところでタツコちゃん」<br />「はい」<br />「実は、この辺りに知人の家があるって聞いてるんだよね。確か歳が近くてさ、もしかしたら知り合いかもって思ったんだけど」<br /> 昔の事は思い出したくないので、振られて困る話題のナンバーワンと言える。<br /> 中学ぐらいまでならまだしも、高校ともなると確かに近所だが、当時から引きこもっていた私が彼等彼女等の中でなんと噂されていたかなんて考えると、身の毛もよだつ。<br /> 当然記憶の片隅程度にしか私の印象など無いだろうが。<br />「私、二十歳ですけど」<br />「そうなの? 私二十三だけど」<br />「――凄く大人に見えます」<br />「老けてるって事?」<br />「い、いえ。なんだか、人生の差を感じるというか」<br />「だはは。まあ言われる。おとなしい格好苦手でさ。見た目もハスッぽくしちゃうんだよねえ。あ、元ヤンとかじゃないぞ?」<br />「それで、その人は」<br />「ああ。何でも重度の引きこもりらしくて。ここ最近はリハビリにいそしんでるらしいね」<br /> 私は――ちらりと彼女に視線を向ける。<br /> 何か横隔膜辺りから持ちあがってくるような、嫌な感じを覚える。<br /> ネットの知り合いか。<br /> しかしながら、常に会話している子といえば、数人しかいない。<br /> 一番親しい彼女は真性の引きこもりで、外など出る訳がない。<br />「ええと――その――」<br />「そうそう。日傘と帽子被って、サングラスでもかけてみれば出歩けるんじゃないかって、助言したっけねえ。まさか馬鹿正直にそんな格好するとは。一発で解った」<br />「うっ……」<br /> 彼女も此方に視線を向け、ニンマリと笑う。私はまるで、狐につままれたかのような気分だ。<br /> ああ――目に見えない人間を信用してはいけないのだ。嘘なんて幾らでも吐ける。<br />「は、ハナナ」<br />「おいす、リュウちゃん。んふふふふっ」<br /> 車がコンビニの駐車場で止まる。私の思考回路も止まりそうだった。<br /> 彼女が此方に顔を近づけ、まるで舐めまわすように観る。私は自身の身体を両手で抱きしめて、顔を逸らす。<br /> 直接的に自分の住所を告げた覚えはないものの、どのあたりに住んでいるかという話はした記憶がある。まさかそれだけで目星をつけた訳ではあるまいが、過去のチャットログから幾つか推測出来る点を拾い上げて、ここを特定したのだろうか。<br />「うーん……出来が良いなあ……」<br /> 私の知るhananaという人物は、良く言えばマメ、悪く言えばおせっかいでシツコイ。<br /> 彼女に目を付けられた人物が、悉くチャットを去って行ったのは、あらゆる方面から嫌がらせを受けた所為ではないか、というのが私の推論だ。<br /> 良く話せば実に友好的で、あらゆる情報を提供してくれるのだが……。<br />「そ、そんな見ないで」<br /> 私はどこで間違えただろうか。まさか、相手の車の中でオフ会をやるハメになるとは考えなかった。<br />「想像と違ったな。もう少しネガで、いまいちパッとしない子かと思ったんだけど」<br />「ひ、引きこもりじゃなかったの……?」<br />「ぶはっ。ネットの人間の話を真に受けちゃだめだよ。まあ確かに引きこもり気味かもしんないけどね。働く必要ないし。ああでも、運が良いってのは本当だよ」<br />「どういう……」<br />「生きる為に大博打に出たら大当たりしたの。ああ、でも、リュウちゃんに話した私の境遇、あれは嘘じゃない。以前はそうだった」<br /> 彼女は嬉しそうだ。何がそんなに嬉しいのだろうか。まさか、私を笑いに来た訳ではあるまい。<br />「い、一体、何が目的」<br />「支援に来たの。私はリュウちゃんに恩義があるから」<br /> そんな。まるでMMORPGのボス戦で苦戦している所に駆け付けた増援でもあるまいに。<br /> 確かに、彼女とネットゲームなどしていると、良く助けられる。アイテムにもレベル上げにも苦労した記憶はない。しかし、これは現実だ。現実で、わざわざこんなところまでやってきたのか。しかも、拠点まで構えて?<br /> そんな人間いてたまるか。私はいぶかしむようにして彼女を睨む。<br />「あ、ちょ。そんな顔しないで。怪しい奴じゃ御座いませんって」<br />「ハナナ、貴女、少し怖い」<br />「良く言われる。でも本当なんだよ。いやその、目星つけてストーカーしたのは本当だけど……」<br />「ぐ、偶然じゃないの」<br />「そんな偶然が起こる程、日本は狭くない。チャットのログ一年分からリュウちゃんの実家特定して、んで昨日のチャットでほら、外出るって言ってたから、張ってたの。直ぐわかった……ああ、そんな顔しないでよ」<br />「す、ストーカー」<br />「ま、まあまあ落ち着いて。とって食おうなんて訳じゃないんだ。私は恩を返しに来たの」<br />「そんな、恩なんて売りつけた覚え、ないけれど」<br />「聞いて、リュウちゃん」<br /> そういって、彼女は私の手を握り締める。非常に恐ろしいのだが、私の非力な腕ではどうする事も出来ない。暫くもがいていると、彼女が泣いているのが解った。<br /> どういう事か。<br />「……私、あんまり性格良くないから。ワガママだし。友達も少ないし。ネットですら嫌われる始末だし。でも、リュウちゃんは邪険に扱わなかっただろう? リュウちゃんと話すのばっかりが楽しみだったんだよ」<br />「だから、引きこもってようなんて」<br />「それはそれで寂しいけど。でも、外に出れるようなったら、私と会える機会が出来るじゃん。リュウちゃん辛そうだったし。あの、無茶苦茶かもしんないけど、社会復帰手伝えるなら、手伝おうと思ったんだよ」<br />「そんな事までしなくても。ネットで会話したぐらいで、そこまで恩義感じる必要なんてないのに」<br />「ずっと薄暗い環境に暮らしてたんだ。リュウちゃんだけが頼りだったんだ。今こうしているのも、リュウちゃんのお陰なんだって。あ、き、気持ち悪いか、ご、ごめん」<br /> 彼女の言う事は、あまり論理的ではない。<br /> あらゆる物事が、私という人間に無理矢理結び付けられているだけであって、私が彼女の幸福に寄与した覚えはなく、事実も無い。<br /> ただ、考えるに。それは、私のカナメに対する感情に似たものがあるのかもしれない。<br /> カナメは何もしていない。そこに居てくれただけだ。そのカナメを神の如く敬って憚らない私は、今のハナナに似ている。理由づけは何でもいいのだ。自身を保つに必要であったと、そう判断する気持ちのみである。<br />「め、迷惑……かなあ……」<br />「い、いや、その……驚きの方が大きくて。手を離して」<br />「あ、ご、ごめん」<br />「印象、違うね。もっとこう、酷い感じかと思った」<br />「そう? どんな感じに見える?」<br />「怖い人」<br />「……」<br />「連絡するなり、他の手段があったでしょうに」<br />「私と逢ってくれなんて話、リュウちゃんが受ける?」<br />「受けない」<br />「だよねえ。ま、ほら。その、便利屋かなんかだと思ってよ」<br />「便利屋?」<br />「そうそう。多分、外に出るにしても、何かしら困る事があるだろう。お金かかる事も、人数合わせも、一人で入れない所行く時も、何にでも使えるよ?」<br />「そんな、モノじゃあるまいに」<br />「それでいいんだって。リュウちゃんの社会復帰手伝わせて」<br /> 私は……彼女にハンカチを差し出す。ハナナはそれを受け取ると、なんだか子供のように嬉しそうに笑って、目元を拭う。<br /> 彼女は、自身の境遇を嘘ではないと言った。<br /> つまるところ、その出来あがった資金でもって、自身を取り巻く不幸を全て払いのけたのだろう。それもここ最近の出来事のように思える。彼女はそんな素振りを一切見せず、私と話していた訳だ。<br /> その中で、彼女は私との会話を、とても強く重視していたのだろう。ベランダでカナメと会話する私と同じように。隔てるモノは壁か電話線かの違いである。<br /> だからもしかすると、今のハナナは、初めてカナメと出会った私と、同等の感情を抱いているのかもしれない。確かに、それならば、突然泣きだしてしまうのも、頷けた。<br /> 私も本当につい最近、そのようなものを味わったばかりだ。<br />「便利屋とか、そういうのは、良い。でも、お友達なら都合が良いかもね」<br />「じゃ、じゃあ。直接逢って話したり、なんか、どこか、どこでもいいや、出掛けたりしても、いい?」<br />「ま、街の中はまだ怖い――今日なんて、初めて買い物に出たのに……」<br />「だからさ、私とリハビリしよう。車あればどこでも行けるし。家も近所になるしっ」<br />「ま、まあそうだけど」<br />「よしよし、じゃあパッパとお家買いに行きますか! あ、不動産解らないのも本当なんだよね」<br />「……駐車場出て左」<br />「あいよっ」<br /> 私は小さく溜息を吐く。ハナナは上機嫌そのものだ。<br /> まさか初めての買い物で『こんな彼女』に遭遇するとは。私は、私が動く度に主目的とは別の出来事が起こる身の上にあるのかもしれない。<br /> 彼女の存在が、私にとって良いものではれば良いが、ハナナという時点で不安だ。電話線の先から現れた彼女が齎すものは、果して幸か不幸か。彼女の近くでは、大人しいリハビリなどあったものではないような気がする。<br />「そこです。駐車場は手前」<br />「あいよっと。……到着。いや、ありがと。あ、そうだ。えーと、ペンと、紙と」<br />「何?」<br />「連絡先。暫くは近くのホテルに滞在してる。そうだ、連絡大変だし、私名義で携帯買おう」<br />「え……いや、それは」<br />「買っておく。好きに使っていいから」<br />「なんでそこまで」<br />「なんでって?」<br />「だって。ネットでお話ししていただけなのに」<br />「光」<br />「光? 回線?」<br />「あはは。違う違う。荒んで、何もかも嫌になって、塞ぎこんでいる所で、私はリュウちゃんに出会った。私がそう思っているだけ。だから、気にしないで。ああ、もしよかったら、リハビリがてらにホテルまで来てよ。そこで携帯渡すから。あ、家までどうする? タクシー代だすけど」<br />「歩いて帰れる距離だから、良いよ」<br />「そっか。ふふ。じゃあ、またね、リュウちゃん。あ、タツコがいい?」<br />「タツコで」<br />「じゃあタツコもハナエって呼んで」<br />「……うん。また」<br /> 彼女が不動産の建物に入って行くのを見守ってから、私は歩き始める。ここから自宅までは歩いて五分程度だ。スーパーとは反対側である。<br /> 歩きながら、彼女の事を考える。すっかり呑みこまれてしまった。真性引きこもりだと思っていた人が、気が付いたら目の前に現れてパトロン宣言した、という謎めいた状況に頭を抱える。<br /> それこそ、近くに人が通ろうとも心臓一つ揺るがない程に、ハナエの出来事が大きすぎて、周りの事がどうでも良くなっている。<br />(もしかして私……そうだね。やっぱり、思っていた通り、自覚しようとしていた通り、周りの人なんて、他人を何とも思っていない。わざわざ通行人の身体を舐めまわすように観る奴なんて、そうそういない)<br /> 自己相対化というか、自意識と現実の擦り合わせが行われている。<br /> 脳内でどれだけ考えようとも、所詮は絵空事、何事も実践があってこそ、更なる発展があるのだ。<br /> 私の心と、私の周囲の差が、物凄い速度で埋められているような気がする。つい一週間までまで外に出る事など考えもしなかった一方通行の人生に、突如として数兆通りの選択肢が生まれたのだ。世界が広がる不安は大きいものの、同時に期待が少なからず産まれる。<br /> 女の子でいられなかった私が、それらを踏み拉いて、その先に向かう。なるべくなら幸福な道を選ぼうと、今必死になっている最中だ。<br />(カナメ様、私頑張りますから)<br /> 彼女の笑顔を想像し、心が明るくなる。<br /> 一週間前にしたあの約束を、私は絶対に破りたくない。<br /> カナメによって私が社会から守られる為に社会に立ち向かうという、本末転倒な、しかし一番正しい選択肢を私は選んだ。カナメと同じ時間、同じ世界を生きる為には、今が必要不可欠なのである。<br /> 彼女が愛しい。<br /> 彼女の傍に居たい。<br /> これからずっとだ。<br /> だが、今は逢えない。<br />『貴女を守りたいのは山々よ。でも、きっと貴女は弱い子だから、すぐ縋ってしまう。それでは何時まで経っても立ち上がれないわ。最初の一か月。その間だけは、顔を合わせず、ベランダでも会わないようにしましょう』<br />『そんな――私、もっと、ずっと、カナメ様のお傍にいたい』<br />『辛いのは私も同じよ。でも、我慢して頂戴。私の望みなの』<br />『――わかり、ました』<br /> ここ一週間、私はカナメと話していない。日課の時間になっても、ベランダの女王が現れる事はなかった。<br /> ただ、思うのだ。<br /> 彼女は少しの間離れてしまうが、私の心には確固とした信心が根付いている。彼女を慕い敬う心が、私の脆弱な精神を救ってくれる。今日とて何度彼女にお世話になったか解らない。宗教というものがいまいちピンとこない典型的日本人であった私だが、今ならばその意味がしっかりと理解出来る。<br /> 彼女は国であり、王であり、神であり、教義なのだ。<br /> 私はそれを守る義務がある。<br />「ただ今戻りました」<br /> 私の初外出は終えられる。戻ると、母がスリッパをパタパタとさせて現れた。その顔は不安に彩られていたが……私の顔を見て、ホッと胸を撫で下ろしている。<br />「御帰りなさい。荷物はもう届いていますよ。おつかれさまです」<br />「はい。一度吐きましたが、他は大丈夫でした」<br />「お茶にしましょう」<br />「はい……あの、お母様」<br />「なんでしょう」<br />「有難うございます」<br /> その時どんな顔をしていたのか、私には解らない。ただ、母は酷く嬉しそうに私を抱きしめてくれた。今まで感じた、母に対する劣等感は無いに等し。素直に、母を抱きしめ返す。<br /> 拙い一歩だが、ベランダの民である私は、とうとう外に出たのだ。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /><br /> これから毎日外に出るとして、ではやはり目的地が必要になる。<br /> 遠く無く、近すぎず、行って帰って『私は外に出て来た』という実感が抱けるぐらいの距離が好ましい。しかしそうなると、やはり公共交通機関の利用が不可欠となる。<br /> あの狭苦しい空間に身体を密着させて乗るような真似が、今の自分に出来る筈もないので、これは却下だ。<br /> とはいえ、歩いて行ける距離などタカが知れるし、それでは本格的な外出にはならない。密着するような混み合った状態で乗る事を避けたとしても、狭い空間に複数の人間がいると思うと、心細くなってしまう。まして公共交通機関では突如の吐き気に対処出来ない。<br /> そんな様々な不安を抱えて暮らしていく訳にはいかないので、私はスーパーでの嘔吐を教訓に、数種類の食べ物と、嘔吐に至るのではないかと思われる状況を再現し、何度か試行を繰り返した。<br /> 結果食べ物としては『出来あいの弁当』『大入りの安いチョコレート』『ポテトチップス』は高確率で駄目だった。<br /> また状況としては『知らない他人に密着』『薄着で外出』『人の多い飲食店の滞在』などがあげられる。<br /> 他人に密着は言わずもがなだが、肌露出もしくは身体のラインがみえる薄着はNG、飲食店や喫茶店で長い間居ると、まるで誰かが私をジッと監視しているかのように思えて気持ち悪くなる。<br /> この実験中相当に身体に負担をかけた気もするが、以前のように突如として不幸に見舞われる可能性が減ると考えれば、仕方の無い労力だ。<br /> これらを踏まえた上で、少し遠出出来れば、今のところは恩の字だ。<br />(とはいえ、易々とはいかないしねえ)<br /> 手元のメモを見てから、日傘を少し外してビルを見上げる。<br /> 私の家から歩いて十分、駅前繁華街近くにあるホテルだ。正直繁華街に近づくのは憚られたのだが、喫茶店実験の折に一度訪れているので、これが二回目になる。いや、正確に言えば、幼い頃から来てはいるので、引きこもって以降二回目、だろう。<br /> あと数度通えば流石の私も慣れるに決まっている。そうあって欲しい。<br /> 日傘をたたんで正面から入る。ビジネスホテルではあるのだが、その雰囲気はただ来て寝るだけ、という程簡素ではない。<br /> フロントも立派であるし、掃除が細かく行き届いているのか待合の机と椅子など証明に反射して光って見える。そのまま入って大丈夫という事だったので、私はフロントに一瞥してからエレベーターに向かう。途中から誰も乗り合わせない事を祈りながら五階に上がった。<br /> 五階の一番奥、510号室の前に立ち、私はドアをノックする。<br /> 暫く待っていると、鍵がガチャリと開く音がしたので、私はそのまま中に入る。<br /> 細い通路を行くと、大きなベッドが観えた。その上では黒い下着を身に付けたハナエが、大の字になって寝ている。来客に応対する態度としてどうなのか。彼女は羞恥心が足りないのかもしれない。<br /> まあそれはそれとして、良い下着だ。<br /> デザインも凝り過ぎず、かつ扇情的である。私と違って彼女の胸は平均より少し大きく、そんなものが付いていたら誇らしいだろうなあと羨ましくなる。<br />「ハナエ」<br />「もう少し……」<br />「チェックアウトとかは?」<br />「長期滞在だから……あー」<br /> 鍵を開けるだけで気力を使い果たしたのか、動く気配がない。<br /> 据え付けの机に目をやると、ノートパソコンが三台も並び、外付けモニタが二つ、外付けHDDが三つ、高そうなヘッドホンやイヤホンがあちこちに散らばっている。まるで自宅のような様相だが、彼女の旧自宅はもっと凄まじいのだろう。<br /> 基本的に彼女は、MMORPGを三つ、戦略シミュレーションを二つ、ソーシャルゲームを四つかけ持ちし、その全てで毎日ルーチンワークをこなしている道楽人だ。しかもその全てで上位ランカーとして君臨しており、ユーザー名も統一されている事から『ルーターhanana』『升糞女』『妖怪粘着』『真性ヒキニート皇帝』などという痛烈かつ反論しようもない渾名を幾つも持っている。<br /> 最近は転居の予定がある為、かなり規模を縮小している様子だ。掲示板なども覗いてみたが、hanana不在を喜ぶ輩は沢山いた。平和で良い事である。<br />「今何時」<br />「14時だけど」<br />「半、半まで寝よ。タツコも一緒に寝よう」<br />「嫌」<br />「そんな。でもほら、ベッド一つしかないし……私の隣しか空いてない感」<br />「寝る事前提なのが変なの」<br />「はぁい……」<br /> 彼女はもそもそと起き出して髪のセットを始めたので、どこかに出かけるのかもしれない。携帯電話を貸すから来て、とチャットで言われたので来てみたものの、それだけには留まらないらしい。<br /> 私は窓のカーテンを開けてから窓際の椅子に腰かけて外を眺める。<br />「あ、携帯。それ」<br /> 指差したベッドの枕元には、真新しいスマートフォンがあった。手に取って起動すると、壁紙がハナエの写真になっている。私は直ぐにデフォルトの壁紙に戻す。<br />「なんで写真なんて」<br />「いつでも傍にいる感じがして安心すると思ったんだよ」<br />「不安なんだけれど」<br />「あちゃあ」<br /> 携帯を持つのは一年ぶりだ。<br /> それまでは高校時代から使っていたものを持っていたが、無駄だとして私から解約を願い出た。ネットならパソコンがある。<br /> これは高スペックを謳う最新機種だろう。無駄の無い作りで、私のように飾り気の無い人間には好ましい。<br />「本当に良かったの?」<br />「新規契約で一度に二つ契約するとオマケでついて来る奴だから、タダみたいなもんだ。それにどうせ、タツコはあんまり通信しないっしょ。パソコンあるし、会社勤めてないしね」<br />「まあ、そうだけど。ありがと」<br />「うひょ……タツコさんデレるんですね」<br />「どちらかといえば、貴女に対しては辛辣な方」<br />「あっそう。私の番号とその他便利そうな番号、あと普段使うだろうニュースサイト、掲示板、まとめサイト、面白サイトなんかのブックマ、んで使えるアプリ、全部突っ込んでおいたからすぐ使えるよ。あ、欲しいアプリあったら勝手に買って良いから。暗証番号これね」<br />「う、うん」<br />「んふふ」<br />「どうして笑うの?」<br />「いやあ。なんか信じられなくて」<br /> ハナエは眉を描きながらそんな事を言う。信じられないのは此方も一緒だ。どこの世界に恩義を返そうとしてマンション買って移住までしてくる馬鹿ものが居るだろうか。海外面白ニュースでもあるまいに。<br />「それは私もだよ」<br />「私ほら、友達いないし。寄って来る奴は金目当てだし。そんな人間がさ、こうしてアンタと話してると思うと、滑稽でさあ。この数年で修羅場潜っちゃって、あんま人信用してないんだよね」<br /> 突如として大金が舞い込んだ人物には、知らない血の繋がった兄弟、知らない親戚、知らない隣人、知らない宗教、知らない慈善団体がこぞって現れるという。<br /> その蟲のような輩を捌いて捌いて、彼女は疲れてしまったのだろう。確かに彼女はネット上でも疑り深かった。<br />「ましてほら、私結構良い女でしょ。ちょっとイイモノ身につけてると男が群れる群れる。めんどくっさいったら無くて、こんなチョットハスッぽい格好してたりするのよさ」<br />「それは、心中察するね」<br />「なんで、お金はあるけどずっと一人身か、この際女の子かな」<br />「あ、そういう」<br />「あら、ビアンはお嫌いで……てか、タツコもそうじゃなかったか?」<br /> 厳密にそうだとは言い切れないものの、男は勘弁願いたいので、そう疑われてもしかたないだろう。まして私の信奉する彼女も女性である。<br />「ハナエなら、ま、苦労しそうにないか」<br />「さて。結婚ってのは、大義名分上次世代を残す為かもしれないけど、本来はどちらかといえば互いに財産を共有して共に生きて行く為の契約という意味合いの方が強い。子供は二の次だよ。それは怪我をした時、病気になった時、老後、それらにおいて発生するどうしようもないお金と労力負担を軽減出来る契約さね。私はほら、もう社会からドロップアウトしてるし。だから、隣にお嫁さんが居ようと、愛人がいようと、悩む事はないかもね。金銭的に面倒みれるから」<br /> 普通の人間には、考えこそすれど実践出来ない人生観である。<br /> 私など言うに及ばず、小金持ちやちょっと成功した人間でも届かない。彼女はまるっきり私達の居るラインから外れているのだ。<br /> いつか、カナメと話した『大人』の事を思い出す。<br /> これが大人かといえば――恐らく違うのだろう。これは大金を持った子供だ。<br /> ただ、そんな彼女に恩恵を受けている私がどうかと言えば、間違いなくそれ以下となる。<br />「まあ問題といえば、友達も嫁さんも、金じゃ買えない事かな」<br />「持ち逃げされたら嫌だしね」<br />「その通り。元から育ちが良い子なら良いだがね……ねえ、育ちの良い子」<br />「遠慮します」<br />「うわ、フられた……辛い。死のう」<br />「え、ちょ」<br />「あははっ。ま、それはいい。で、ご飯食べに行くけど、食べるだろ?」<br />「話した通り、あんまり人の居る所は」<br />「個室」<br />「……じゃあ頂きます」<br />「うっし。出来た。どう?」<br />「うん」<br />「ん。じゃ、行きますか」<br /> ハナエに連れられ、近くの繁華街にまで繰り出す。私はおっかなびっくりだ。<br /> 日傘を差し、なるべく人の視線が当たらないように先を進む。ちなみにサングラスはしていない。何にしても視界が悪いし、あまり隠しすぎるのも宜しくないと指摘を受けたからだ。<br /> ハナエは私の直ぐ前を堂々と歩いている。あのように歩けたら、さぞかし気持ちが良かろう。<br /> 街を歩いていると、やはり若い人たちを見かける。<br /> 私と同年代位の子達が、仕事に、遊びに、大学にと向かう姿が目に入るたびに、自身のおかれた立場の弱さを痛感する。<br /> 私は何処にも属していない。<br /> 属していないという事は自由だが、誰も守るものが背景にない事、社会的に認められていない事を意味する。<br /> あの子は、どんな人生を夢見ているのだろうか。<br /> あのカップルは、これからどんな未来を描いているのだろうか。<br /> あの楽しそうな人達は、数年後も笑って人生を謳歌しているだろうか。<br /> 私はどうなのだろうか。<br /> 私に未来はあるのだろうか。<br /> こんな調子で何時になったら当たり前の生活を送れるのだろうか。<br /> 送れないまま五年、十年と経った時、私はカナメにどんな面を下げて逢えば良いのだろうか。<br /> 胸の奥が黒く滲む。<br /> 脳が圧迫されるような気がする。<br /> 指が震え始めた。<br /> 私は近くの整備された花壇の縁に腰かけ、身体を抱きしめる。<br />「タツコ、どした」<br />「ちょっと、ごめん」<br />「辛いか、人多いところ」<br />「うん」<br />「もう一、二分だから。ほら、手貸して」<br /> 私はほんの少しだけ躊躇ってから、ハナエの手を借りて立ち上がる。<br /> 見上げると、彼女の顔は酷く優しかった。<br />「私は怖いかい?」<br />「ううん」<br />「じゃあ、もすこし頼りなよ。私はアンタの味方だから」<br /> 手を繋がれながら歩く。先ほどよりも、幾分か楽だ。<br /> まるでカナメ以外に心を許しているようで申し訳ない気持ちもあるが、今の私には頼れる人物が彼女しかいない。<br /> 彼女が腹の中で何を考えているのか、その真意は解らないものの、私を貶めて得るメリットなど彼女には何も無い。友達の居ない私に協力してくれる彼女は、やはり貴重なのだ。<br /> そうだ、焦る必要はない。<br /> ここ一週間と少しで、私は見違えたではないか。<br /> 外に出るどころか、家族に顔を合わせる事すら憚られた私が、今こうして繁華街を歩いているのだ。焦って功を急いで、自滅するような道を辿っては本末転倒である。<br />「ほいついた。あ、個室ってカップル用なんだよね。カップルってことでいい?」<br />「い、致し方なし」<br />「あい」<br />「いらっしゃいませ。二名様で宜しいですか」<br />「個室で。あ、いらん詮索しないでね」<br />「畏まりました。此方へどうぞ」<br /> そのお店は繁華街の表に出ている、普通のお店だ。木造でシックな雰囲気が漂い、照明も仄暗い。<br /> 店員に従って奥まで行くと、ドア付きの部屋が幾つも並んでいた。飲み屋ならこういった作りもあると知識では知っていたが、普通の飲食店にあるとは思わなかった。<br />「ごゆっくりどうぞ」<br />「あ、ちょいまち。決まってるから。私ビール。タツコは?」<br />「こ、コーラで」<br />「肉食えるよね。ポークプレート一つと、あとチキン&チップス。おっけい?」<br />「……はい。少々お待ち下さいませ」<br /> 慣れた風のハナエは得意げだ。何度か来ているのだろう。<br /> 個室は三畳ほどで、テーブルが壁についており、二人掛けの長椅子があるだけだ。<br /> 私が奥に座り、ハナエが手前に腰かける。下のスペースに荷物を置くと、ハナエは小さく溜息を吐く。<br />「少し焦った。あんな感じなんだね」<br />「うん。でも、大丈夫」<br />「そっか。次、辛くなったら言ってな」<br />「ごめんね」<br />「良いって。頼られる為に居るんだから……あ、ちょいと一服してくる」<br />「うん」<br /> そう言って、ハナエは鞄から煙草を取り出して個室を出て行く。<br /> 別にここで吸っても良かったのだが、彼女は配慮したがる人らしい。ネット上で暴虐の限りを尽くす彼女は、現実では思いの外謙虚な様子である。やる事は滅茶苦茶だが。<br /> 私は預かった携帯を弄りながら、普段アクセスしている猫画像ブログを探す。流石にデフォルトの壁紙では味気ないし、まさかハナエの顔を壁紙には出来ない。検索すると直ぐに見つかった為、その中から好きな三毛猫画像を繕う。<br /> 画像を編集して携帯画面に合わせてセットし、私は少し遠くに離してそれを眺め、満足する。二十歳としてどうなのかとは思いつつも、最近の携帯はなんでも出来るもんだなと感心する。<br />「お待たせしました。ビール中ジョッキとコーラです」<br />「……あ、あ、りがとうございます」<br /> 先ほどとは違うウェイターが飲み物を運んでくる。少し驚いたが、問題ない。ただ男性からものを直接受け取れないので、テーブルに置くよう暗に指示する。<br /> 知らない人間との接触は恐ろしく、特に男性は顕著である。<br /> ハナエなどは他人も同然だったが、やはり知人としての認識が私にはあるらしく、嫌悪感はなかった。しかし肉親でも父などは否定感も出るだろう。<br /> 私が外に出て考える事といえば、やはり線引きである。<br /> 具合が悪くなる状況と種類は幾つか存在し、そのどれもが耐えがたいものではあるが、明確な違いがある。<br /> 他人との接触、視線からの恐怖、先ほどのような妄執と自己相対化から来る自己嫌悪は、大体眩暈がして動悸が激しくなる。<br /> 変わって食品類に対する嫌悪、過去の想起などは吐き気が強い。此方も動悸がある。<br /> 過去の想起、視線恐怖、自己嫌悪はほぼ同列と思っていただけに、ここ数日の実験は気持ち悪いながらも意外な発見があった。<br /> 自分が何に怯え、何に対処すれば良いのか解るという事は、それだけで武器になる。<br />「ただいまっと」<br />「おかえり」<br />「昼ビール昼ビール」<br />「駄目人間っぽい」<br />「あー、働かないで飲むビールは美味しい」<br /> ハナエが戻り、駆け付け一杯をあおる。生憎私はアルコールを口にした事がない。まして苦いと言われるビールを美味しそうに飲む彼女が不思議でならない。私はコーラをストローで吸いながらそんな姿を眺める。<br /> それにしても、確かにここは人の視線が無くて有難いのだが、カップル席というだけあって狭い。机の下に広がっている空間が実に無駄である。私は極力ハナエに触れないように、壁際に身を寄せる。<br />「んあ。接触恐怖もあるんだっけ」<br />「他人に触らせた事がないから解らない。ハナエは大丈夫みたいだけど」<br />「私と喋る時は、案外ハキハキ喋るね。初対面の時は敬語だったし、ドモってたし」<br />「……だから純粋に、知人で女性なら大丈夫なんだと思う」<br />「それで、色々試してみたんでしょ、どうだったの」<br /> ハナエに実験結果を請われ、私が苦手なものについて説明する。<br /> ハナエは精神科医でも専門家でもないが、ネット辞書で引いて来たような解釈を齎す為、彼女の見解は重宝する。恐らく引いて来たのだろう、調べる手間がない、というだけかもしれない。<br />「んー……視線、怖い?」<br />「顔は、慣れた。顔、変?」<br />「いいや。それで変だったら世の女性の七割方が残念なことになるから、言わない方が良いぞ」<br />「わかった。でも、身体に視線を向けられるのはちょっと」<br />「身体を見ているって、何で解るのさ」<br />「……ええと、その、解らないけど」<br />「だからね、誰も見てやしないし、チラリと見られたぐらいで本人は絶対気が付けないよ。ああ、胸とか尻とかガン見されると気が付くけどね。アンタは全身布で隠れてるし、男性はジロジロ見ないんだよ、そういう露出の少ないフェミニンな服」<br />「そうなんだ」<br />「むしろ見てるのは女。この際ハッキリしておくか。男ってのは、女のファッションなんてどうでもいいの。胸とパンツとふとももが見えるか見えないかで判断してると言っても過言じゃない。人のファッションジロジロ見て相手の格付けをするのは女なんだよ」<br />「確かに、人の服装は気になるかも。凄く露出の多い服は下品だなって思うし、同時に羨ましくあるけど」<br />「それはアンタが自分の身体にコンプレックス持ってるから、肉付き良い女に目が行くんだわな。そういう意味でアンタの視点は男に近いな」<br />「男って、そんなに、胸とか、お尻とか、好きなのかな」<br />「顔が悪くても身体が良ければ妥協するぐらいには好きらしいよ。対して私等……まあ私もアンタもビアンだけど――」<br />「いや、ビアンとかそういうのでは……」<br />「まあまあ――男見る時、どこ見るさ。顔、髪型、身につけてるものだろう。終着点としては同じなんだよ。『繁殖に適しているかどうか』だ」<br />「はんしょ……」<br />「この女は良い子産めるか、この男は私と子供を養えるか。一概じゃないけどさ。まあ何だ、そんだけ肌露出ないと、そもそも目に留まってないかもな、はははっ」<br /> 女性として大問題であるが、男に好かれる気はないのでそれで良いだろう。<br /> 女が女の服装を気にするというのは、確かにあるものの、それだって自身と近い立場にいるような人間を見るのであって、いちいち通り縋る人間と自分を見比べてはいまい。<br /> 頭では解っていたが、具体例を出されて説明されると、心に落ち着くものがある。当然それが私自身の精神に反映されるかといえば、違うだろうが。<br />「先生」<br />「たった三つ上だぞ、失礼な」<br />「じゃあ女性が女性を好む場合は?」<br />「あー……」<br /> 何となしに、ふざけて聞いてみる。私は同性愛に対して造詣が深くない。ビアンというくらいならば私よりもそういった知識があるのでは……とも思ったが、質問して気が付く。異性愛者が異性を好きな理由をいちいち調べないだろう。同性を当然と好いている人間も同じである。<br /> しかし律義にも、この人はわざわざ首を傾げて頭をひねって考えてくれている。<br />「――繁殖に加担しない、という時点で種の保存的に論外だからな。これはどっちの同性愛も同じだ。ただしかしながら、それが動物的で無いとも言いきれない。猿の一種だけど、これは自身の被害を避ける為、そして争いから来るコミュニティの崩壊を防ぐ為に、同性だろうとセックスするんだ。私に敵意はありませんと」<br />「さ、猿が?」<br />「結局は人間も、自身の存続の為にやらかすし、自身の存続に関わるからこそ自身を守ってくれる可能性のある人を大切にしようとする訳だから、同性愛も異性愛も、子供を残さないという点以外は、同じなんじゃなかろーか」<br />「博識な事で」<br />「いや、私は専門家でも何でもないし、拾ってきた知識を自己見解と交えて話してるだけだから、真に受ける事はないぞ。子供残さないって致命的だしな」<br />「そういうの、変だって意識、ある?」<br />「ないよ。人間何十億いるんだよ。むしろ人減らしたいぐらいだ。いいだろ、こういうの居ても」<br /> はははと笑い、ハナエがジョッキを空ける。<br /> そんな話をしていると、やがて料理が運ばれてきた。ハナエはもう一杯注文して、お酒のツマミを齧りながら、私の他愛ない質問に答えてくれる。<br /> 彼女としても、私としても、その答えが真実であるかどうかなど、さして気にしてはいないのだ。私が質問し、彼女が答え、私が一人で納得するだけの事である。<br /> まるでその関係は、私とカナメを逆転させたようなものであると気が付いたのは、ポークプレートをペロリと平らげた辺りだった。<br />「美味しい?」<br />「うん」<br />「食べるね、結構」<br />「食べるの、好きだし。過食の頃は、思い出したくないけど」<br />「今は無いんだ、その影響」<br />「引きこもっている間に無くなったから、その治療は出来たのかも、引きこもり期間」<br />「ふぅん」<br />「声、変じゃない?」<br />「変だったら変って突っ込んでるなあ」<br />「よかった」<br />「……ああ、嘔吐繰り返して掠れたか。余程酷く無い限り、そら戻るさ。複合的な理由で引きこもったんだろうが、今のアンタは何も変じゃない。ま、私に言われたくらいで安心したりはしないだろうけど」<br />「――ううん。ありがとう」<br />「……」<br /> 客観的な意見が増えれば、それだけ私の自信につながる。特効薬的効果を期待するもので無い事ぐらいは承知だ。兎に角今の私は積み上げて行く他ないのだ。<br /> 最初は尻ごみしたが、ハナエの存在はもしかすれば、私にとって掛け替えのないモノになるかもしれない。久しぶりに他人らしい他人からの知人であるからして、カナメとは一線を画す。<br /> 多少気になる事があるとするならば、本気かふざけてか、私に気があるような素振りを見せる事ぐらいだろうか。<br />「私、ご飯食べてる子見てるの好きなんだよ」<br />「ふうん」<br />「うわ、気の無い返事」<br />「気があったらどうするの」<br />「それ相応に対処するさね。恩義もあるけど、なんだったら親しくなりたいだろう?」<br />「それは、まあ。親しいの度合いにもよるけど」<br /> 昔から、女の子とは仲が良い。<br /> 恋愛云々抜きで、男の子と比べた場合やはりどうあっても私における友好度は女の子の方が高い。<br /> しかしながら悲しいかな、私が引きこもって以来、仲が良いと思っていた子は見舞いにこそ数度現れたものの、それ以上踏み込もうとする子はいなかった。<br /> 何度かメールも寄こしたが、早く元気になってね、程度でそれ以降の関係も無い。<br /> 軽薄さがにじみ出る。そういったものを実感すると、やはり女性の友情というものが、どれだけ体面に比重を置いた関係であるかが、はっきり解ってしまう。<br /> 勿論、私も悪いのだ。悪いが……。<br />「どした。嫌な事思い出したか?」<br />「……私が引きこもった時……いや、いい。私のエゴだ」<br />「誰も助けてくれなかったってか」<br />「なんで解るの」<br />「そんな顔してたから。ま、こればっかりはな。相手の家庭に踏み込むのは憚られるし、問題が問題だっただろう」<br />「ハナエだったら、どうしたと思う?」<br />「当事者じゃないから答えられない。何、私だったら助けに行くとか、言って欲しかった?」<br />「言い方がキツい」<br />「終わった可能性を、引き摺るのは止めなよ。今の私は、助けるから」<br /> そっと手を触れられる。<br /> 否定しようかとも思ったが、弱い私は彼女の優しさに絆されてしまったのかもしれない、振り払わず、そのままにする。<br /> ネット上ではあれだけの怪人物ぶりを発揮しているというのに、現実の彼女は優しく、気遣いが出来て、とても社会不適合者とは思えない。<br /> 彼女の言葉を真に受けるのならば、それは私に好かれたいからだとも判断出来るものの、私のような人間に手を出して彼女が得るモノの少なさを考えると、納得出来なかった。<br /> 心が損得勘定だけで構成などされていない事ぐらいは十分承知しているし、人の好みも千差万別で、もしかしたら本当に私の事を好いているのかもしれないが、私は釈然としない。<br /> 恩義に報いると言われても、打ち消せないだけの違和感があった。<br /> 私は流されやすい人間だ。<br /> その流されやすさがリハビリに役だっている内は笑っていられるかもしれないが、笑えない方向に転んだ場合のリスクを考えると、多少恐ろしい。<br />「まだ何か食う?」<br />「ううん。いい」<br />「うし、じゃあ行き先決めよう。折角外だし。あ、喫茶店行く?」<br />「も、もう少しレベル上がってからでいいかな。そこは即死する可能性があるから」<br />「盾にでも何にでもなるんだけどな。ま、尊重しよう。ならホテル戻るか」<br />「戻ってどうするの」<br />「家帰っても暇だろう。会話リハビリでもしようじゃない」<br />「貴女の口から聞くと、なんでもいかがわしく聞こえるの」<br />「そら、タツコの頭がピンク色だからだろうねェ……あ、そうだ。ゲームの新作発売してたんだ」<br />「何の」<br />「携帯ゲーム。ほら。でかいモンスター狩る奴」<br />「ああ……でも、携帯ゲーム持ってないけど」<br />「今から買いに行けばいいよ。買い物リハビリも出来て丁度いいや。街中歩くけど、大丈夫か?」<br />「――辛くなったら、その、頼るかも」<br />「うんうん。なんだ、可愛い顔して」<br />「うるさい」<br />「えっへっへ。じゃ、行きますかね」<br /> 会計を済ませ(ハナエは有無を言わさず全部自分で払う)て、また外に出る。<br /> 彼女が主体で動き、何でも彼女が手配して、私が与えられ付き従う様が、まるでペットのようだなと、何となしに思う。<br /> とはいえ、昔から主体性がある人間ではなかった。どちらかと言えば、与えられる側である。<br /> 私が提供したものは、常に愛想だ。同時に親切心である。<br /> 価値に換算出来るものに対して、価値に換算出来ないもので返すという人生だ。考えれば、私という人間が友人だと思っていた人々に振り撒いていた価値は、彼女達が望む見返りに見合わなかったのかもしれない。<br /> どうすれば正しい価値を提供出来たのか、引き摺るというよりも、今後の為にも考察しておく必要があるだろう。私はどうあっても、人として足りないのだから。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 呆けたまま窓の外を見る。外は雨が降りしきっていた。<br /> 昼から降り始めたこの雨はやむ気配を一切見せず、道路に川を、低地に池を作り始めていた。窓からは学校帰りの生徒達が憂鬱そうに下校する姿が見える。<br />「タツコ、サインペンって持ってない?」<br /> 自習室で一緒に勉強していたキョウコが言う。<br /> 私は鞄から太いペンなどが入っている筆箱を漁るも、見当たらない。<br />「あ、教室に置いてきてしまいました」<br />「あらら」<br />「サインペンなら、確かそこの棚にあったと思います」<br />「んあ、あったあった。私これ書いたら帰ろうかと思うけど、タツコどうする。雨凄いけど。迎えとかは?」<br />「ありませんね。今から教室から筆箱をとってきて、それから帰ります」<br />「そっかー。んじゃね」<br />「はい。また明日」<br /> 荷物を片づけ、自習室を出る。明日は小テストがある為、今日は帰ってからも勉強だ。<br /> 高校二年生の冬。<br /> もう将来の事を考えて勉強に勤しむ人も増えて来た。ここは普通科で、偏差値も高くないありきたりな高校であるから、何にしても、ガツガツやる人間は少ない。<br /> 私などは普通を絵に描いたような人間である為、将来も漠然としているし、彼氏もいない故に未来予想図のようなものを夢想的に描いたりもしない。<br /> 時折、自分がツマラナイ人間だと思う。<br /> 突出した才能はないし、美貌が殊更優れている訳でもなく、多少痩せすぎているというコンプレックスもある。私は面白味を求められると対処しようがない人間だ。<br /> ただいつも、それはそれで良いじゃないかという結論で落ち着くのだ。<br /> 普通が一番、目立つ事無く、持て囃される事無く、問題無く恙無く歩める人生は、思いの外望んでも手に入らないものだと、祖母に聞いた事があったからだろう。<br /> 贅沢な身の上だ。<br /> 普通に生きて、普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に人生を全うする。その上で必要なパートナーだが……。一応、気になる人物はいる。<br /> 中学からの同級生で、瀬能というクラスメイトである。<br /> 彼も絵に描いたような普通で、特筆すべき点が見当たらない。<br /> 勉強は中、運動も中、顔も中、女子の仲間内での評価も中、そういった意味で、今後の人生設計に役立っていただきたい人物だ。<br /> 周りに彼氏がいるから自分も、というバイアスが多少なりともかかっている自分は、実にイマドキの若者の例に漏れない、つまらなさ具合である。<br /> だからつまるところ、大恋愛だとか、彼を思うと胸が苦しいのとか、そんな事は一切ない。<br /> 私は乙女として何かしらの要素が欠けているのだろう。人間誰しも自分が一番可愛いとはいえ、私の自己愛は普通より強いのかもしれない。<br /> 一つの情緒が偏る事によって何かが欠乏する事実は、私という人間を形成する上で非常に大きな影響があっただろう。<br /> 普通が良い。<br /> そうだ、平均で、均整がとれて、平等で、凹凸が無く滑らかな球体のような人生が、好ましい。<br /> だからこの自己愛は、少し余計なのだ。<br /> 降りしきる雨音に混じり、廊下には自身の足音と、吹奏楽部の試奏が遠くから響く。私はこれから教室に向かい、筆箱を取って、家に帰るのだ。今日ぐらいはタクシーを使っても、怒られないだろう。<br /> 教室が迫る。教室のドアは開いており、中から少しだけ明りが洩れていた。<br /> ふと、足が止まる。何故止まったのか自分でもわからない。<br /> 酷いデジャヴュに襲われて、私は壁に手をついた。<br /> この先に行ってはいけない。行ってしまったら、普通でいられなくなってしまう。<br /> 何の根拠も無い不安、意味不明な焦燥感が心の大半を埋め尽くす。<br /> 私は一歩足を進める。<br /> しかし一歩進めると、まるで足は鉛のように重くなった。<br /> もう一歩進める。<br /> すると今度は身体が鉄になってしまったように動かなくなる。<br /> 頭の奥底で、誰かが呼ぶ。そっちに行ってはいけないと引き止める。<br />「――あ」<br /> 廊下の先、その先には、本来何があっただろうか、良く覚えていない。<br /> しかし今私が観ているものは光であり、荒唐無稽で、しかし確固とした存在感を示していた。<br /> 光の中に影が一つ浮かぶ。それは幼い少女の形をしていた。<br /> 今の私が知る筈もない人。<br /> 未来の私が愛してやまない人の影だ。<br /> 私は教室を目指す事を止め、光に向かって歩み始める。するとどうだ、重かった筈の身体はまるで鴻毛の如く軽くなるではないか。<br /> 光に向かって、少女に向かって手を伸ばす。<br /> 教室を通り過ぎ、その先にいる彼女に手を伸ばす。<br /> もう少しでその手が触れ合おうとした、その時。全ての光が遮断され、私は真っ暗な場所へと落とされた。<br /> 声の無い私の絶叫が、その暗黒に全て呑みこまれて、私も消えた。<br /><br /><br /><br /> ……。<br /> ……。<br />「……うわ」<br /> 身体を起こす。酷い寝汗をかいていた。<br /> 携帯電話に手を伸ばして時間を確認すると、既に午前十時を回っている。引きこもってからも規則正しい生活を送っていた私からすると、かなりの寝坊である。普段は八時には目を醒ましている。<br /> 目を擦りながら廊下に出ると、丁度洗濯物を干そうとしていた母に出くわす。<br />「おはようございます」<br />「おはようございます。朝食の時間になっても起きていない様子でしたから、声をかけようか迷って」<br />「すみません。まだ、ありますか」<br />「ええ。整えてから、食べてください」<br /> 私が引きこもりを止めると決断してから三週間が経つ。<br /> 私は時折嘔吐したり、精神的圧迫から妄執に囚われて鬱に引きこまれたりしながらも、順調にリハビリを繰り返していた。<br /> 私が外に出るようになってからというもの、何もかもが目に見えて好転しているように思う。<br /> 母は以前よりずっと明るい顔をするようになったし、父も少し無理をして帰宅して食事を共にするようになった。同時にそれは家族の会話が増えるという事であり、コミュニケーションは健全に保たれていた。<br /> この三週間で、私が母と父にどれだけ心配されていたか、改めて思い知る事になった。<br /> 親の心子知らずと初めて言った人も、もしかしたら同じような境遇だったのかもしれない。<br /> 洗面所で顔を洗い流しながら、先ほど見た夢を思い出す。<br /> 学校生活の夢を見るなど、久々だ。ただやはり夢は夢、整合性は無く、私の暗い性格に合わせたような薄暗さであった。<br /> 夢の中にまでカナメが出て来る辺り、実に度し難い精神性である事は疑いようも無い。<br /> 彼女とコミュニケーションを取らなくなってもう三週間だ。<br /> 今、彼女は何をしているだろうかと考えると、何故だか少し不安だった。時折、様子を見に行っても良いのではないか、などと考えてしまうほどであるが、約束は守らねばならない。<br />「そういえば、今日はお友達が、いらっしゃるとか」<br /> リビングでスクランブルエッグを突いていると、洗濯物を干し終わった母が話しかけて来る。その通り、今日は彼女が来る。<br />「お構い無くどうぞ。あれは気を使われると難しい顔をする人ですので」<br />「そうはいっても、タツコさんがお友達を連れて来るなんて、高校生の頃だってありませんでしたし」<br />「大丈夫です。恐らく外に食べに出るので、お昼は良いです」<br />「そうですか。解りました」<br /> ただ単に、彼女は携帯ゲームのマルチプレイを面と向かってやりたいだけなのだ。ネットで良いじゃないかと進言したのだが、ネット中毒の彼女がそれを否定するというのだから頭を抱えてしまう。じゃあホテルで良いかとと言えば、今度はウチに来るというのだから腹が痛い限りだ。<br /> 自宅に人を呼ぶのは恐らく中学生以来であるからして、これは旗本家的珍事である、母が気を使いたがるのも頷けた。<br /> しかし、今日は寝坊だ。こういう日に限って寝過ごすというのだから、私の緩み加減が窺える。<br /> これも、精神的に余裕が出来たからこそなのだろうか。<br /> とにもかくにも準備である。食器を下げて早速支度に取りかかる。<br /> 部屋に戻って服を着替える。今日は秋にしては少し気温がある為、あまり厚着はしたくないのだが、肌を露出させる事にまだまだ抵抗がある。薄手のモノを選び、せめてもの清涼感対策として色は明るめのものを選ぶ。<br /> 髪を弄りながら整えていると、多少の引っかかりを覚えた。<br /> 流石に素人が整えただけあって不揃いが多い所為だろう。しかし美容室は厳しいのが現実だ。ハナエに相談してみるのも良いだろう。<br />「ん……まあこんなカンジかなあ」<br /> 三週間毎日手入れをするようになってから、当時の勘が戻って来たとみえて、朝の支度も手慣れたものになってきた。やはり何事も習慣化である。<br /> 携帯を確認すると、そろそろそちらに行くという旨のメールがあった。<br /> 毎回の話だが、彼女は自分に自信があるらしく、写真を添付してくる。投げキッスからちょっとエッチなものまでだ。まったくもって恐ろしい。<br /> しばらく手持無沙汰にしていると、やがてインターホンが鳴る。<br /> 母が受け答えて正面玄関をアンロックして直ぐ、彼女はやってきた。<br />『あいや、どうもどうも。大武です。あ、これどうぞ。詰まらないものですが。いえいえいえいえ』<br /> 彼女の調子の良い口調が聞こえる。あれが本当に引きこもりをしていたとは思えない。実際のところ最初から嘘を吐かれていた訳であるし、彼女の経歴とて嘘塗れかもしれない。<br /> とはいえ、彼女の過去が私に何か関連するかといえばしないので、追及はしない。<br />「こんこーん。しつれいします」<br />「口で言うんだ」<br />「お。いたいた。うわ、何も無い部屋」<br /> 失礼千万な話だが、実際私の部屋は必要最低限のものしか置いていない。<br /> 引きこもっていようと生憎育ちは良いのだ、あちこち散らかしていたりはしない。<br />「地べたに座るなり、椅子に腰かけるなり、好きにして」<br />「友達の家って久しぶりー。あ、なんかタツコの匂いする」<br />「へ、変態」<br />「変態頂きました。よっこらせっと」<br /> ハナエは小脇に抱えた肩掛けカバンを放り投げると床に直接腰かける。残念ながら来客を想定しない我が家に座布団なる気のきいたものは存在しない。<br /> ハナエは辺りをキョロキョロと見回してから一人納得して私を見る。<br />「ここに二年半も隠れてたのか」<br />「確かに、改めて考えると、面白味の無い部屋だし、良くもまあ二年半も居たと思う」<br />「ま、いいんじゃない。まだ若いし。仕事してないったって、江戸時代の若者なんて定職持っている方が珍しかったんだ。女なんてもっと。強要される自立への反逆と考えるとカッコイイな」<br />「詭弁すぎる」<br />「人が資源である我が国では、労働こそが全てだからね。不真面目になった日本ってどんなもんだろうか。まあ、にしたって労働時間多すぎると思うがね」<br />「それで、社会時事について話に来たの?」<br />「恋愛トークの方が良い? えっちな話でも良いけど、お酒が無いな」<br /> ケラケラとまあ、調子の良いものだ。とはいえ、からかわれているという事もない。これほど話していて苦にならない人間もいないだろう。私はずっと他人様に敬語調で喋っていたし、この口調はほぼハナエにしか使わない。チャットではこの口調だったからだ。<br /> 私は携帯を手に取り、未だ部屋をキョロキョロと見ているハナエの写真を撮る。<br />「うわ、なに?」<br />「なんとなく」<br />「写真ならいつも差し上げちゃってるじゃない。自分で撮ったのが欲しいって、やだな、愛されてるのかしらん」<br />「勘弁して」<br />「ぶふふ。ああそうだ、私も撮って良い?」<br />「悪用しないでね」<br />「するかい。アンタの認識改善だよ」<br /> そういってハナエは私に立つように指示する。<br /> 私は部屋の真中に立ってシャッターを切られるのを待つのだが、人様に写真を撮られるなど一体いつブリだったか、気恥かしいったらない。<br /> ハナエは携帯ではなく、タブレット端末を持ち出した。<br />「撮れた。可愛い可愛い。宝物にするかね」<br />「で、撮ってどうするの」<br />「まあまあ」<br /> ハナエのタブレットを脇から覗きこむ。<br /> 彼女のアルバムにはファッションモデルの全身像が沢山収められている。何がしたいのかイマイチ解らない。<br />「えーと、写真切り抜いて、白背景にあわせて……おう出来た」<br />「私のコラージュとか、悪質すぎやしない?」<br />「これらの写真と並べてみるぞ。ほれ」<br /> ファッションモデルが並ぶ中、私の切りぬきコラ写真も並べられる。パッと見るとそんなに違和感はない。自分が自分であるという認識を持たなければ、モデルの中の一人と言われても納得するだろう。<br /> なるほど、だから認識改善か。<br />「うは、自分でやっといてなんだが、違和感なさすぎて吹く」<br />「スラング出てる」<br />「失敬。しかしさ、自分で痩せすぎてるって言うけど、並べたら対して変わんないだろ?」<br />「んー……そうかな。でもほら、二の腕とか棒きれみたいだし」<br />「ほらこれ。これアイドルな」<br />「ほそ」<br />「細い細い。自分でも経験ないか? 痩せてるって女の子達に持て囃されただろ」<br />「まあ……うん。あるね」<br />「自身を客観的に見つめるってのは、酷く難しい事だ。それがトラウマならなおさら。ここ最近、自分の全裸を見た事は?」<br />「ない。怖いもの」<br />「だあよね。まあでも、少しずつ直視出来るようにしないと、辛いぞ。いざ裸にならなきゃならない事態は、生きている上で必ずあるだろうしな」<br />「人前で裸になることなんて」<br />「好きな人とエッチする時服着てするのか。マニアックだな」<br />「出来れば電気消した上で服着たまま触れないでしたい」<br />「それはえっちじゃないですタツコさん」<br /> 身体を人様に許すような事態、果して未来にそんな事があるかどうかは別として、確かに困るだろう。服を着ている状態ですらコレなのだから、裸なんてもってのほかだ。羞恥心ではなく恐怖である。<br /> 裸にならないにしても、服を選ぶ時とて辛いだろう。<br /> 何にせよ、クリアしなければいけない問題が多い。<br /> カナメには、一か月ほど離れてみようという提案を受けて現在いる訳だが、私の成長はどの辺りから合格ラインなのだろうか、そこを聞くのを忘れていた。<br /> 一先ず、外には普通に出られる。飲食店は厳しいものの、人通りの少ない所を歩いて回る分には問題ない。<br /> いきなり男性に話しかけられたりしない限りは、買い物も可能だ。その他諸々は、ハナエと試行錯誤中である。<br />「でもほら、アンタの愛しい人とは、最終的にそうなる訳だろう?」<br /> カナメが何の躊躇いも無く私に裸を見せた事は鮮烈に記憶している。ではいざ私が脱げと言われた場合、カナメの前で脱げるだろうか。<br /> ……いやそもそも、相手は十歳である。色々と不味い。<br />「十年は、待たなきゃいけないかな」<br />「……えっとな。チャットでさ、十歳とか言ってたけど」<br />「十歳だよ。あ、詮索はしないで。不可侵なの」<br /> ハナエが小首を傾げて眉を顰める。当然の反応と言えよう。<br /> 言うつもりは無かったが、別段と隠す必要性もないので喋ったまでだ。<br /> だが、どうも。ハナエの反応がいつもと違う。非常に複雑な表情だった。<br />「タツコの心の支えが、子供?」<br />「悪い?」<br />「いや、いいけど。差支えなかったら、どんな人物像かぐらいは聞いても良いかい」<br /> どう説明するべきだろうか、少し躊躇う。<br /> 仕方なく、私が彼女と出会った経緯から、現在に至るまでの概要を説明する。細かいところは当然省いた。<br />「なるほど。外に出ようと思ったのも、今こうしているのも、その子のお陰っと」<br />「ハナエから見て、私は少し成長したかな」<br />「一般人名乗るにゃ早いが、まあ引きこもってるよりは余程だな。ふーん、しっかし、ロリコンだったとは」<br />「そういう話はしないで」<br />「現実問題として、生き難いだろ。手出したら犯罪だしな。あ、だから十年か」<br />「あまり茶化さないで。どうあろうと、私の拠り所なの」<br />「いっちゃなんだが、その信心は壊れやすいぞ」<br /> ハナエはそう言ってから、私の座っているベッドの隣に腰かける。<br />「尊敬してるとか、凄く好きとか、聞く限りではその次元にない。アンタの話だと、宗教のそれに近い」<br />「まあ、否定しないけど、何が悪いの」<br />「信心というものは、大体不変のものを信仰する事から産まれる。我が国ならば自然そのもの、もしくは既にこの世に無く六道から脱した仏様。西洋ならばキリストのオッサン、もしくはヤハウェ。他の神様だって大体概念となり果てて、人間が認識する限りは存在する、という変わらないものばかりだ。それは解るな」<br />「まあ、うん」<br />「凄く好きとか尊敬してるとかなら、いざ幻滅されるような事されても、まあ立ち直りが出来る。他の依存する対象を探せばいいだけだ。だが信心は違う。己の心の拠り所、己の在り方そのものを定義するそれは、他に代えが利かないんだ。アンタ、その子が変質してアンタの抱く信心の定義から外れて、信仰するに値しなくなった場合、他の神様拝めって言われて、拝めるか?」<br />「極論すぎて、比べられないよ、そんなの」<br />「そうでないぞ。そもそも少女というのは成長する。一か月も観なかったら他人かもしれない。引きこもりを面白がって弄っている間は良かったが、他に楽しい事を見つけた場合、すぐ乗り換える。アンタはその心の拠り所を、宙ぶらりんにするだけになるぞ」<br />「そんな言い方ないでしょう」<br /> 彼女の言いようが乱暴に感じて、思わず声を上げる。しかし彼女の表情は揺るぎない。<br />「私はアンタに敵対しようとか、アンタの好きなものを引っぺがそうとか、そんな事の為に言ってる訳じゃない。私みたいなボンクラの話を、信じて聞いてくれとも言わない。ただ、留めるだけ留めておいて欲しいんだよ。なあ」<br />「逢った事もないのに、そんな事いう人」<br />「おかしいと思わないか。なんでそんなに激昂する必要があるのか。後先見えてるか?」<br /> そのように言われ……私は、一端自身の態度を客観的に見つめる。<br /> 私が信じる彼女を馬鹿にされたような気がしたから、怒った。それは良い。<br /> ただ、それでこの人と敵対して、何の得があるかと言われれば、皆無である。<br /> 彼女自身も別段と、カナメを馬鹿にしている訳ではなく、カナメを信仰する私について語っているだけだ。<br /> 一つ大きな溜息を吐く。<br />「ごめん。うん。違うね」<br />「素直で良い子だなあ。自身を省みる事が出来るのは、良い事だ。世の中それが出来ない奴で溢れてる。アンタと並べる訳じゃないが、私の母親の話だ」<br />「……何」<br />「私の母親はとある宗教に入れ込んでね。大事故にあった後も、信心を理由に長期的な治療を拒んで、歩けなくなった。家族大崩壊の理由だって大体ソレさね。私は全部に見切りを付けて、下ろしてきた大枚顔面に叩きつけて、出てきてやった。良いか、金が無い事も不幸だが、信心で周囲が見えなくなった人間は、それだけで不幸を齎すぞ」<br /> どこか思いつめたような表情で語る彼女の言葉に、嘘は感じられない。へらへらとした彼女には、似あわない表情だ。<br /> 彼女の言い分は解る。勿論、私のカナメに対する信心が私の家族を崩壊させるとも思えないが、彼女の経験上、それだけ心配しているのだろう。<br /> 私はカナメが愛しいし、彼女の望みならば全て叶えたい。<br /> しかしそれは、そうだ、彼女が居てくれると信じているから、彼女が私を迎えに来てくれると信じているからこそだ。<br /> カナメを信心するあまり、彼女がただの人間で、そして少女であるという事がすっぽり抜けていたように思う。この心を捨て去るのは厳しいだろうが、確かに、考慮しなければ今後、手ひどい目に逢うかもしれない。<br />「――その」<br />「この世の中、絶対は無い。気持ちなんて直ぐ裏切られる。心なんていつ砕けるか解らない。それは、アンタが一番知ってる筈だ。そうだな……あとは、急に近づいて優しくしてくれる奴も警戒した方がいいな?」<br />「それ貴女じゃない」<br />「あはは。うん。まあ、私も信用しちゃ駄目だぞ。そんな奴部屋に入れるなんてもっての外だし、ましてベッドに並べるなんて、淑女のする事かね……あだっ!?」<br /> 私は、無言で彼女をベッドから下ろす。彼女はふざけた調子でフローリングに転がって行った。<br />「はは。そもそも、アンタの何処を貶めて私に得があると思うかね。むしろ、恩を売って取り入った方が得多いからな」<br />「どういう事」<br />「そんなん、アンタは身一つしかないでしょ。御金は私の方が持ってるんだし」<br />「それ、私が好きってこと?」<br />「ま、隠してもしょうがないな。いや、毎回言ってるよな。そうだよ。それ以外に何かあると思うの?」<br />「理由が解らない」<br />「好意は論理からしか産まれないのか?」<br /> 彼女は小首を傾げる。さも当然のように、そのような事を言うのだ。まして同性からである。<br /> 私は、目が泳ぐ。<br /> どこに視線をあわせたら良いか解らず、手も足も落ち着かず、震えてしまう。<br /> 何か、今まで覚えた事もない感情に揺るがされているような気がしてならない。<br /> ちょっと待ってほしい。<br /> 何で今そんな事をいうのか。どうしてそうなるのか。<br />「うわ、動揺するタツコ可愛いなぁ」<br />「ば、う、ウソでしょ。止めてよ。マトモに見られなくなるでしょ」<br />「軽い気持ちで良いさ。実際それだって二の次なんだよ。邪魔だってなら、私は消える覚悟さ……あ、ベランダで一服しても良いかな。灰皿はある」<br />「……どうぞ」<br /> ハナエが煙草と携帯灰皿を持ってベランダに出て行く。私は彼女が一服する姿を、窓越しに眺めていた。<br /> 産まれて初めて、面と向かって、人に好きだと言われた。この場合、カナメは含まれないだろう。あれは愛してやまないが、モノが別である。<br /> ハナエは人だ。神でも王でもない。<br /> チャットで知り合って、無理矢理逢いに来て、無理矢理私の世話を焼いて、私もまんざらでなく居る。彼女は無償で何かを求めていた訳ではなく、私を求めていたのだ。<br /> 人に求められる事が、過去どれだけあっただろうか。比べるモノが無さ過ぎる。<br /> それに今、別段と、悪い気がしないのも事実である。<br /> ハナエは都合が良い。<br /> ハナエは優しいし、色々教えてくれる。<br /> 時折鼻に付く言い方もするが、何もかもが好ましい人間など、居る訳がない。そういう鼻に付く点を加味したとしても、私は彼女が、嫌いではない。<br /> なんだか酷い罪悪感がある。<br /> これではまるで、金持ちを良いように使う悪女ではないか。<br /> 複雑な感情が混じり合い、脳をチリチリと焦がす。胸元も何だか熱く、私は服で仰ぐ。<br /> 窓越しに見える彼女は、二本目に火を点けた。もしかすれば、彼女なりに、今の告白は踏み込んだもので、動揺があり、それを誤魔化しているのではないか。<br /> 全部憶測で、全部妄想だ。<br /> ただ、私は……鏡を見る。<br />「……なんで嬉しそうにしてるの、私。馬鹿」<br /> まさかここまで『出来あがった』人間であるとは、思いもしなかった。<br /> 女に好きと言われて顔を真っ赤にして喜ぶ馬鹿だとは思わなかった。<br /> 自分に幻滅する。<br /> 酷い話だ。<br /> 私にはカナメがいるのに、他の女にウツツを抜かして舞い上がるなんて、実に浮気者である。<br /> 私は立ち上がり、ベランダに出る。ハナエは三本目に火を点けた所だ。<br />「煙たいよ」<br />「別に」<br />「ふっ。ん。何かあった?」<br />「自分の家のベランダに出たら駄目なの?」<br />「……あー……その。なんだ」<br />「良い。言わないで。私、貴女とは付き合わないから」<br />「そっか。実に、残念無念だ」<br />「厳密には、付き合えないの。私には十年後、救済が舞い降りるのだから」<br />「中東の某宗教じみた話だ。死後に処女が待ちうける奴」<br />「私が好き?」<br />「――うん」<br />「じゃあ好きなままで居てよ。私の救済、降りてこないかもしれないから」<br />「あっちゃー。保険か。その考えは無かったわ。まさかのストック扱いだわ。二号だわ」<br />「都合の良い人。優しい人。それに酷い人」<br />「好きなもの手に入れようと思ったら、あるもの使うだろ」<br />「部屋、入って」<br /> ハナエを部屋に入れる。私はベランダのカーテンを閉め切り、部屋の鍵をかける。<br /> 電気を消して、ハナエの前に立つ。<br />「……タツコ?」<br />「私、弱いから。私が貴女と付き合えなくても、貴女がいないと、不便なの」<br />「う、うん」<br /> 彼女に背を向ける。私は、震えた手つきで、自分の服に手をかけた。<br /> 迷っても、考えても、言葉にしても、伝わるものではないと思ったからこその、行動である。<br /> 頭がぐらぐらする。<br /> 恐怖と、羞恥心で押しつぶれそうになるが、しかし、私にはコレしかないのが現実なのだ。<br /> この先、外からの協力なく、私のような精神薄弱の引きこもりが、外を大手を振って歩ける訳がない。<br /> 彼女は私を好きだと言う。<br /> 私だって嫌いではないが、私は彼女に心を許してはあげられない。<br /> 彼女の一部でも望みを叶えて、私の社会復帰に協力してもらおうとするならば、支払うものがなければいけない。<br /> 無茶だと解っている。<br /> こんなのおかしいだろう。<br /> でも仕方がない。<br /> 私は弱いのだから。<br />「あ、ちょ、タツコ、む、無理すんなって」<br />「死ぬほど恥ずかしいし、怖い。こんな貧相な身体、見せつけられても、困るかもしれないけど、貴女の言う通り、私はこの身体しかないの。こんな身体でも、都合の良い貴女を引き止められるなら」<br />「いい、良いから……滅茶苦茶震えてるぞ。やめろ」<br /> 振り返る。彼女の目に、私の身体はどのように映っているだろうか。<br />「やる事、極端だよな、案外」<br />「だって、他に差し出せるものがない……うっ……うう……」<br />「どこの借金取りだ私は……ああもう、良いから、服着ろ服」<br />「でも」<br />「いいってば! 都合良くいてやるから!!」<br /> ハナエが服を拾い、私に預ける。全裸のまま、こんなに人が近くにいるのは、初めてだ。<br /> ハナエは、ほんの少しだけ悲しそうな目をしてから、そのまま私を抱きしめる。私なんかとは違う、ずっと女性らしい身体だ。<br /> カナメに裸のまま抱きしめられた事を思い出す。<br /> あの抱擁は、生涯忘れ得ない、私のあらゆるものを許すものだった。ハナエのこれは、どうだろうか。<br /> ……上手く、考えられない。<br />「言ったろう。救われたのは、私なんだ。それを返しに来てるだけだよ。アンタが嫌だ、邪魔だと言わない限り、手伝うさ。だから私を、そんな、安い女だと、思わないでよ」<br />「……け、結構高かったんだけど……」<br />「そういう意味じゃないよ。アンタの身体はシミ一つなく綺麗なもんだ。アンタぐらいの痩せてる奴、どこにでも居る。だからそう卑下すんな」<br />「で、でも。しないのでしょう?」<br />「親いるだろうが……ましてそんなガチガチで何楽しめるんだよ……ああもう、じゃあ、一つだけ貰うから」<br />「な、なに?」<br /> ハナエの顔が迫る。私は目を瞬かせた。ほんの一瞬だけ、唇が重なる。<br />「これだけ貰う。どうせ初めてだろうし、やったね」<br />「……酷い。カナメ様のモノだったのに……」<br />「身体は良いのかよ……ああもう、なんだか、アンタ、愛しい程馬鹿だな……贅沢で、ワガママで、とんでもない女だよ」<br />「ごめん」<br />「いいさ、いいよ」<br />「……うん」<br /> カナメとは、やはり違う。母とも違う。もっともっと、異なる接触だった。<br /> 私はハナエに諭され、服を着る。やはり緊張と恐怖からか、そのあとも暫く震えが止まらなかった。しかし、隣に腰かけたハナエが、私の手を強く握ってくれている。<br /> 恐ろしかった他人の手が、今は心強く感じられる。私自身のクズっぷりすら許容しようという彼女の、その利害を超える感情を不可思議に思いつつも、頼れるものがまだ近くにいてくれるという、実に都合の良い条件が私の精神を安定させる。<br /> もし、これがネットで男女の体験談として乗っていたのならば、私はきっと『酷い女だ』と口にしただろう。他人様の条件に見合わない条件を提示して相手を引き止めるクズだ、一体どんな教育を受けたらそんな事が口に出来るんだろうか、お里が知れる、などと呆れたかもしれない。<br /> だが、今、それが自分なのである。<br /> なるほどだ。弱い人間ならではの、酷さなのだろう。<br />「落ち着いたか?」<br />「うん」<br />「無茶するね。ついこないだまで顔見せるのだって嫌がったクセに、まさか裸晒すとは」<br />「ごめん。貧相で」<br />「だからやめろって。綺麗だよ凄く。私は好き」<br />「えっち」<br />「もーどっちだよ……ひでェ女だよ……」<br />「捨てないで」<br />「あのさ、ワザと言ってるだろ」<br />「……ふふ」<br />「ミイラ取りがミイラになるとはよく言ったもんだな……アンタは自覚ないかもしれんが、ありゃずるいぞ」<br />「他の人に出来る自信は一切ない」<br />「ま、特別に見て貰ってるって事で、今は納得しておくか。機会は窺うにしても。恩人だから、アンタは」<br />「改めて、聞いてもいいかな。なんで、恩義なんて感じてるの」<br />「ちょっと長い話になるな。良いなら話すが」<br />「時間あるもの」<br />「そうだった……そうだな。時間、手に入れたんだ。余るぐらい」<br /> ハナエは物憂げに言う。<br /> 握っていた私の手を離し、彼女は私の後ろに回る。話している間、顔を見られたくないのかもしれない。<br />「くっついても?」<br />「いいけど」<br />「今はアンタを縋らせたけど、これ話す場合、私が縋る事になるな」<br /> 後ろから手を回された。彼女の額が私の背中につく。<br /> 私がこれから聞こうとしている話がどのようなものなのか、察しが付いた。詮索するつもりはなかったが、それがどうしても彼女のウィークポイントを通過してしまうようだ。<br /> 私は、回された手に手を添える。<br />「爺さんが居た間は、良かった。昔堅気でおっかなかったけど、家族を誰よりも大切にする人だった。入り婿の親父のケツを叩いて、弱気な母ちゃん励まして、気の強い婆さんと仲良くやっていたんだ」<br /> それは、聞いた事がある。チャットで話していた通りの事だろう。<br />「ある時、親父が事業で失敗してね。職を失った親父の為に、爺さんは昔のツテを頼って働き口を探してくれた。やっと雇ってくれる所が見つかって、親父も改めてやる気になった、丁度その時、母ちゃんが事故にあった」<br />「どのくらいの、怪我だったの」<br />「両足を骨折したんだ。だからまあ、大怪我といえばそうなんだが……さっき言った通り、母ちゃんは宗教ハマっててね。心の弱い人だったから、拠り所が必要だったんだろう。爺さんから何度咎められても脱会しなかった。それからが、地獄の始まりだよ」<br /> ハナエが震えているのが解る。彼女の体温が、少しずつ服越しに伝わって来た。<br />「医療に関する定義が酷く面倒な宗教でさ、大怪我だってなんか、ほら、あるだろ、変な力。自然治癒が一番だとか謳いやがってね。母ちゃんもそれ信じて、自宅療養を続けたんだ。私はそれを遠目に見ていたんだけど、今度は爺さんが倒れた。爺さんが倒れると今度は親父が腐りやがって、仕事が合わないだのなんだのと文句言い始めて、結局辞めやがって。もう解るだろう。マトモな人間は、婆ちゃんと私だけになった。婆ちゃんだって歳だ。家族の世話を、私が焼くようになった」<br />「悲惨」<br />「まさにさ。爺さんは倒れたまま逝き、親父は呑んだくれ、母ちゃんは今度傷口から黴菌が入って感染症起こして、両足切断。なんだそりゃと、なんなんだと。意味わかんないよと。学校もマトモに行けなくなって、退学して、家族の面倒み始めたが最後、もう抜けられない煉獄だよ。私には、公的支援とか、相談所とか、そういう頭もなかった。日々介護と掃除洗濯。料理は辛うじて婆ちゃんがやってたけど、婆ちゃんだって無理出来ない。毎日高いビルを見上げては、あそこから落ちたら楽になるんじゃないかっておもったさ」<br />「……ハナエ」<br />「……いつ寝れるかも解らなくて、仮眠をとるか、ネットを弄ってるか、介護するか、そんな生活続けてたんだ。引きこもりじゃなくて、引きこもらなきゃいけない状態だった。勿論クソ鬱憤溜まる訳で、そのはけ口が、まあ、ネトゲだったり、ソシャゲだったりした訳だな……そんな折だ。二年ぐらい前だな。チャットしてたら、アンタが入って来た」<br /> 引きこもって半年辺り。私自身の境遇がどっちにもつかず、頭を悩めていた頃だろう。なんでそのチャットに入ったのか、その理由は良く分からないが……私の事だ、おそらく、誰でも良いから、会話がしたかったのだろう。<br /> チャットで出会った当初から、ハナエは傍若無人だった。<br /> 他の人が居ない時、二人で会話したのを覚えている。個人の情報を交換したのも、その辺りだった筈だ。<br />「ネットに疎い感じだったし、メディアリテラシーも無さそうだし、話聞いてりゃお嬢様みたいだしさ。不遇煮詰めたような環境にいた私からすりゃ、恰好の攻撃対象だろ。んでも、何言っても軽くいなされるもんだから、改めて自分振り返って、馬鹿らしくなってな」<br />「なんか、当初はもっとキツかった記憶がある。ただ、顔も観えないヒトの言葉は、痛くも痒くもなくて」<br />「なんだ、ある種強靭だな、その精神。まあほら、アンタは恵まれてても、引きこもりだろ。なんか逆に同情しちゃってね。慰めとか、共感とか、そんなもん求めた訳じゃないが、アンタとチャットしてる間は、凄く気が紛れた。それから、ネトゲにも誘ったし、いつアンタがログインしても解るように追っかけたりしてたな」<br />「ネットストーカーっぷりはそこから」<br />「いやあうん、その、済まない。アンタと他愛ない話の一つでもしてないと、駄目になるような気がしたんだ。抜けられない介護と、自由の無い苦痛、一切見えない将来への展望。そういうの全部、忘れたかった。自分に人間らしい生き方が存在しないなんて現実、見たくなかった」<br /> ……。<br /> 彼女からすると、私という存在はやはり、私におけるカナメとの関係性に似るのだろう。<br /> 逃避先と言ってしまえば悲惨だが、少しでも生きようと思うならば、辛すぎる現実から目をそむける事も必要になる。誰も彼もが、押し迫る不運と対峙出来る程強くないのだ。<br /> 私達はそういったものに真正面から対峙するよう仕向けたりはしないし、同情も、共感もしない。そんな立場にないからだ。ただ出来る事があるとするならば、それは『そこにいること』である。<br /> 私はハナエの手を解き、彼女を正面に据える。彼女は酷く辛そうな顔をしていた。<br />「ごめん。良いよ別に、無理して話さなくて」<br />「アンタは無理したろ。私は私の立場を明確にしようと、こうしてるんだ。アンタは光なんだ。光の一つも届かないような場所にいた私が持てた唯一の希望だったんだ。アンタと話してたから、少し前向きになれた。一度、お金の話をしたろう」<br />「うん」<br />「何もかも、私の不運を覆そうと思ったら、やっぱりお金が必要になる。溜めてた小遣いを元手にして、私は打って出た。どうせそのまま居ても死ぬだけだからさ。それで、一世一代の大勝負だ。一応まだ未成年だったんで、親に無理矢理同意書書かせて。で、どこの株買うかって事になってね。それで、アンタの親父さんの会社にしたんだ」<br />「――え?」<br />「私には経済的な知識なんぞ無かったから、本当に運だな。買ってから暫くして、丁度親父さんの会社、先進技術の廉価実用化に成功したろう。市場需要も相まって爆上げだよ。上手いタイミングで売り抜けてね。なんか神がかってた気がする。笑っちゃったよ。数週間で何もかも覆すだけの資産が出来あがった時は、震えが止まらなかったね。私には、アンタが神様に見えたんだ。幸運以外の何ものでもない……また、そこからが大変だったけど」<br />「娘が大金を手にしたら……」<br />「ああ。親父がタカり、母親は教団に収めろとか言いやがる。通帳とカードと印鑑を身体に巻き付けて寝てたよ。それから一年間、法律に経済に勉強してさ、お金もあったし、社会福祉事務所やら、弁護士事務所やら相談持ちかけて、兎に角縁を切ろうと必死だった。最終的には、親父と母親に念書書かせて札束ぶつけて、婆ちゃんにはランクの高い介護施設に入って貰って、私は家を飛び出した。扶養義務はあるが、養うだけの金は叩きつけて来た。これで文句言うなら出る所出る。借金作った所で子供に支払う義務はない。相続が発生した場合は即破棄だ。もう、私はアイツ等に縛られて生きたりはしない。自由に生きる。人間らしい時間を手に入れたんだ」<br /> ハナエの表情に光が戻る。彼女の憂いは既に過去のものなのだ。<br /> 直系血族である場合、その扶養義務は果てしなく重たいが、働かず食いつぶし、娘の扶養を放棄した両親等が彼女に強いた苦痛を考えれば、法的救済措置も観えて来るだろう。その辺りは、ハナエが切り抜けて来た所だ。<br /> 嘘ではこのような話はしない。するメリットがない。彼女は地獄からの生還者だ。<br /> 私も漸く合点が行く。私自身に自覚がないのも当然だ。私が齎したものとは言い難いが、少なくとも私の存在が、彼女の手助けとなったと言える。<br />「そこからは、もう好き勝手だ。私はアンタが愛しくて堪らなかった。引きこもりに喘ぐなら喘ぐで、傍で陰ながら支えるつもりだった。でも外に出るって言う。じゃあ勿論、私は助けなきゃいけない。勝手な話だけど、これを、今さっき、アンタも肯定してくれた。私はもう十分貰ってるんだ。だから、何でも言ってほしい。私は、アンタ降りかかる火の粉も、万難も、全て排する覚悟で居るから」<br />「ありがとうって、言った方が良い?」<br />「言われると嬉しい。でも此方こそだ」<br /> 彼女の話が終わると、なんだかむずがゆい空気になる。私は恥ずかしくなり、顔をそむけた。<br /> そうだ。虚しい話なのである。例え産みの親だろうと育ての親だろうと、それが絶望を齎す存在ならば害悪でしかない。<br /> 吐いて捨てる程度のプライドしかなかった父と、その心を全て他人に委ねてしまった母の間に産まれたハナエには、何もかもを無為にするだけのお金が必要だった。<br /> 到底実現し得ないであろう脱出を彼女は試み、そして成功したのである。<br /> 家族とは何なのか。信じる心とは何なのか。ハナエの存在が、改めて考えさせてくれる。<br /> 生きる為の信心は全てを破壊した。愛すべき家族はとても愛せるモノではなくなった。その時、自分だったらどうするだろうか。<br /> 同情も共感も出来ない。ただ現実として受け入れるばかりだ。物事は、テンプレートでは処理出来ない。だからこそ、ハナエは心に留めるだけ留めておいてほしいと言ったのだろう。<br />「……飯、食いに行くか。何食う?」<br />「カロリー高いの」<br />「肉だな。ホテルの食い放題行くか」<br />「えっ……人の前でご飯よそうとか、怖い」<br />「他人の前で全裸になれる奴が何言ってんだ。ほら、行くぞ」<br />「えー……ハナエだからこそなのに」<br />「ん、んん。なら次は震えないで脱げ。手出しようがないわ、あんな小動物みたいなの」<br />「酷い」<br />「本当の事だろ。ほら、リスみたいに口にためこむんだろ。行くぞ」<br />「うん。馬鹿」<br />「うっさいわ……ふふっ」<br /> ハナエは今、きっと幸せなのだろう。彼女の絶望に比べれば、私の悩みなど微々たるものだ。だというのに、ハナエは決して私を軽く見たりはしない。人の心の痛みを知る人間だからこそ、なのだろうか。<br /> カナメに、心の中で謝る。<br /> 申し訳無い。<br /> でも私には、この人が必要だった。<br /> きっときっと、当たり前の人間として、貴女の前に顔を出せるようにするから。<br /> きっときっと、成長したと言ってもらえるようにするから。<br /> だから、ほんのしばらく、許してほしいのだ。<br /> ああ、だけれども。<br /> 鏡に映った幸せそうな私の顔が憎らしい。<br /> <br /><br /><br /> つづく</span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-64925340216149587842013-12-01T20:49:00.000+09:002013-12-01T20:49:36.208+09:00私の幼い女王様 1、日々<span style="font-size: small;"></span><br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"> </span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> 1、日々<br /><br /><br /> 世界との隔たりを感じたのは小学生の頃だった。<br /> 私はその頃から身が細く、骨と皮ばかり目立ち、クラスメイト達からは薄くて平たい五十センチ定規のようだと罵られ、両親からは病気を疑われ、教師からはネグレクトを心配された。<br /> 元から太らない体質のようで、それは中学生になっても変わらなかった。生理も来るのが遅かったし、二次性徴期特有の女子の肥満も、私にはむしろ羨ましく思えたものだ。<br /> 体型の変化が収まる高校生になってからは、その身の細さを女性に羨ましがられる一方、男性としては魅力を感じられない身体らしく、好きだった男の子に『棒きれが歩いているようだ』と陰口を叩かれて以来、私は過度な食事を取るようになった。<br /> 過食と嘔吐を繰り返し、気がついた時には病院だ。<br /> 胃液で喉が焼け、しわがれた声を自分で聞いた時、私は二度と喋ろうとは思わなかった。<br /> 以降、学校には行かず、家に引きこもったままだ。<br /> 社会に悪意など無く、世界は自分など気にしていない。そんな事は百も承知だ。ただ私はもう、人に見られたくはなかった。家にやってくる宅配便にすら逢いたくはなく、両親もここ一年顔を見ていない。<br /> 両親の実家は裕福で、自分達が住んでいるマンションの一室を購入したのも二十代だ。<br /> 私の部屋は直ぐベランダに出られるようになっていて、隣の部屋ともベランダは繋がっている。そこは既に木材とダンボールで塞いであるので、そちらから両親が来る事はない。<br /> 父は殆ど諦めている様子だった。しかし母は懸命で、食事を持ってくる際は必ず五分程度、ドア越しに会話をするように努めてくれている。<br /> 母は私と違って、とても女性的な身体をした人だ。<br /> 胸が大きく、私を産んだ後も体型維持に必死だったようで、ウエストは引き締まり、お尻も魅力的らしく、良く親戚の人達に安産型であると言われながら、苦笑いしていたのを、良く覚えている。<br /> そして続いて紡がれるのが、私への罵りである。その都度母は怒っていたが、その表情はどこか諦めにも似たものが混じっていただろう。<br /> 私はどんなに頑張ろうと太らないし、生理も不順だ。胸などまな板か洗濯板か、ストンと落ちた先には肋骨がある。皮から浮かびあがるそれを見る度に憎らしく、私は自分の身体をじっくり観察するような真似はしない。元から体毛も薄く、下腹部どころか脇も生えた覚えが無い。<br /> 起伏はなく体毛も少ない身体は、まるで蝋人形かフィギュアである。苛立たしく、風呂場の鏡は割ってしまった。<br /> 自身の姿を確認するものは部屋にはない。きっと頬もコケ、貧相な有様だろう。<br /> ただ、肌が真っ白、という程ではない。日光には当たるようにと母に言われ、私は一日一時間、必ず外に出るようにしているからだ。<br /> 今日もその時間が迫っている。<br /> 私はベランダの戸を開き、雨戸を引き下げる。人が二人並ぶのがやっとの広さしかないベランダに出ると、据え付けてある白塗りのガーデンチェアに腰かける。<br /> 時刻は午後一時。秋の空は雲一つなく、宇宙が透けるようにして蒼い。<br /> このベランダこそが、私にとって唯一の外界との接点だ。<br /> 閑静な住宅街にあるマンションの一室だ。昼間の音と言えば、子供がはしゃぐ声や、遠くからのテレビの音、時折聞こえる不愉快な50ccオートバイのエンジン音程度で、騒がしさはない。五階のここから人の姿が目に映る事も無い。外に出ると言っても、このベランダは所詮ベランダで、外の世界とは言い難い。<br /> しかしこれでも進歩したのだ。<br /> 以前は陽の光すら嫌だった。理由は『代謝が良くなりそう』だからである。<br /> 母がわざわざ買ってきた椅子に腰かけながら、青い空を望む。<br /> 時折視界の端に映る鳥や飛行機を目で追いかけ、また戻してはぼんやりと一時間を過ごす。<br /> 貧相な身体に宿った貧相な発想しかない私には、それ等に何かしらの文学的要素を感じたり、インスピレーションを齎されたりするような事も無く、ただ作業としてこの一時間を受け入れている。<br /> 外はまだ恐ろしい。<br /> 人の視線が怖い。<br /> 喋った声がまだしわがれているのではないかと不安になる。<br /> 彼等彼女等は、きっときっと私なんてものを意識しないに違いない。そもそも、当時通っていた学校では、そこまで否定的に扱われていた訳ではない。あの男子生徒とて、ネタの一例として私の名を上げただけだろう。<br /> 全部解っている。<br /> みんな私には興味なんてないし、嫌悪感なんて持っていない。<br /> 私の一挙動を気にしている奴なんていうのは、それこそ母のみだ。<br /> 解っている。<br /> それでも、私には外に踏み出すだけの勇気が、自信が、身体が、無かった。<br /> いつものように、白痴が如く空を見上げていると、やがて隣の部屋のベランダ戸が開く音がした。時刻は一時半だ。この時間になると、隣に住んでいる家族の娘が一人でベランダにやってくる。<br /> その子はあまり身体が強い子ではなく、しょっちゅう早引きをして帰ってくる。四時間で授業を終えるのだという。<br />「いるの、竜子(たつこ)」<br /> 火災時の避難用防火扉越しに、少女の声が響く。透き通っていて、小鳥がさえずるような声だ。<br /> 彼女が呼ぶ強そうな名前は私の名前だ。祖父がつけたのだが、私では竜ではなく、精々肋骨の浮いたタツノオトシゴである。<br />「はい、神奈女(かなめ)様」<br />「私が出て来たら、ちゃんと挨拶なさい」<br />「済みません」<br /> 強い口調で今年二十歳になる私を叱りつけるのは、カナメという小学校四年生、十歳の少女だ。この数年で久しぶりに出来た、肉のある知り合いである。<br /> 友人と言えば専ら顔を合わせない、向こうに人がいるかどうかも怪しいSNSやチャット、ネットゲームでの友人である。自身を晒す必要が一切ない為、コンプレックスを抱える私としては有難い。それが社会的なコミュニケーションと言えるかどうかは別として、少なくともその薄っぺらい精神性を保つだけの役割は果たしてくれている。<br /> しかし隣に住むカナメは、実際に声を出さなければ会話が出来ない。キーボードでは喋られないのだ。<br />「今日は天気が良かったわ。少しはしゃいだら、直ぐ具合が悪くなって、まったく不便な身体だわ」<br />「御自愛くださいませ」<br /> 彼女と滑稽なコミュニケーションを交わすようになったのは、今から三か月ほど前の事である。<br /> 暫く空き部屋になっていた隣の部屋に越して来たのは、母と子の二人だ。<br /> お世辞にも安くはない家賃であるから、その家の年収を気にしてしまうのは仕方が無い事だろう。<br /> 当然外には出ない私の情報は全て母からである。母の話では、髪が茶色で、化粧が濃く、明らかに夜のお仕事をしている人だという。ただ、色眼鏡を掛けて見ても、偏見に満ちた視点から観察しても、うちの母曰く相当の美人であるらしく、隣の部屋も『パパ』に買ってもらったのではないか、という事だった。<br /> そんなお水の女が引き連れていたのが、この加奈女だ。<br /> いつものように日課としてベランダに出ていたある日の事、左隣の部屋のベランダ戸が開け放たれた音を聞き、私は身構えた。聞こえて来るのは母子の声だ。<br />『今日からここで暮らすのよ。カナメはもう十歳だから、大人のレディだもの。一人で留守番も出来るわね』<br />『当然じゃない。ママは何も心配しなくていいわ。ママは忙しい人だもの』<br />『理解のある娘で助かるわ。ああでも、ここは五階だし、ベランダに出る時は気をつけてね』<br />『ええ。生憎低身長なの、ここは超えられないわ』<br />『ふふ。じゃあ、お隣さんに挨拶してくるから』<br /> あまりに異質な会話に、私は耳を疑った。<br /> 会話内容自体は精査する必要も無く単純明快なのだが、十歳の娘は口調が妙に大人びており、演技がかっている。不思議な家族も居たものだなと、その日の日記に書き記したのは記憶に新しい。<br /> その日から毎日、カナメは学校から帰ってくる度にベランダに出ている様子だった。<br /> 子供とはいえ相手は人間、私は恐ろしくてしかたない。外に出る度に、あちらが出てくるタイミングが被らないようにと願った。<br /> しかし、流石に毎日同じような習慣を持っていたら、被らない方が不自然だ。私が日光浴をしていると、とうとうそのタイミングが訪れる。<br /> 私は隣のベランダ戸が開く音を聞いて身を固くした。自分は石造であると自己暗示をかけ、決して動かないようにと努める。<br /> けれども、私という人間はやはり上手く出来てはいない。そんな時に限って大きなくしゃみをしてしまった。同時に、災害避難用の隔て板の先から物音が聞こえて来る。<br />『誰かいるの?』<br /> 当然私は答えない。子供でも人間との会話は恐ろしい。<br />『答えてよ。居るのでしょう。そっちに乗り込むわよ』<br /> 乗り込むのだけは勘弁してほしかった。どうあってもそれは避けたかった。顔も身体も観られたくなどない。それならば、しわがれているかもしれない声を出した方がマシである。<br />『はい』<br />『いるじゃない。お隣さんね。最近越して来たわ、カナメよ。宜しくね』<br />『……タツコです。宜しくお願いします』<br />『何よ、大人っぽい声ね。年上よね、当然。他の大人と態度が違うわ、何している人?』<br />『何もしていません』<br />『あー。聞いた事あるわ、趣味でも強要された訳でもなく、家の中に居る人っているらしいし。貴女もその類かしら』<br />『御推察通りです』<br />『ここで何してるの』<br />『日光浴を』<br />『ああ、家の中にばかりいると、腐るものね。殊勝な心がけよ、タツコ』<br />『有難うございます』<br />『ここが貴女にとっての外の世界なのね』<br /> 本当に不思議な子だった。<br /> 突然話しかけて来たかと思えば、母親と会話するような調子を崩さず、私と対話する。とても年不相応な物言いと、年相応の声が酷いギャップを生み、私の中に不思議なカナメ像が形成されて行く。<br /> それから三か月、私達はこのベランダでこのような実の無い会話を繰り返している。<br /> 立ち場として、常にカナメが上だ。私は彼女が学校で得て来た情報を有難く賜る立ち場にいる。年が十歳離れていようと、外に出ている彼女の方が断然偉いからだ。私はそんな卑屈な状況を、思いの外納得して受け入れている。<br />「ねえ、タツコ」<br />「はい、カナメ様」<br />「そろそろ、顔ぐらい見せてくれても良いんじゃないかしら。平安貴族の女性だって、三か月も男に迫られて毎日会話してたら、チラッと見せてくれるそうよ?」<br /> 一体どこで得る情報なのだろうか。小学四年生にしては高尚で、そもそも私にはそれが正しいのかも解らない。<br /> 彼女というのは実に不可思議な少女で、ゲームやアニメ、漫画と言った小学生が好みそうなものを一切知らない。母親に止められいるのかと思いきや、むしろ母はそれを買って来ては与えるものの、本人が好んで読んだりはしない様子だ。<br /> 会話の内容は専ら学校での出来事と、恋愛と、人の死生と、哲学にもならない答えの無い問答だ。<br /> 私も彼女も、未だ顔を合わせていない。カナメが覗こうと思えば、当然いつでも覗ける距離にある。隔て壁ギリギリに椅子などを置いて、ひょこっと顔を出すだけで、私の顔は窺えるだろう。<br /> けれど彼女は私が本当に嫌がるような事はしなかった。<br />「ごめんなさい、カナメ様。私は醜女(しこめ)で、枝のようにか細い身体です。とても人様にはお見せ出来ません」<br />「それは私が判断する事じゃないかしら。話では、貴女は自分の家の鏡を割って歩いたそうね。もう、暫く自分の顔も観ていないのでしょう?」<br />「貞子を知っていますか」<br />「ああ、昔のホラームービーね。最近もリメイクやオマージュが沢山あると聞いているわ、母から」<br />「正しくあのような姿です。カナメ様に怖れられてしまっては、私は一体誰とお話すれば良いのでしょう」<br /> そこだ。<br /> 私はこんな状態を、今や楽しみに、それどころか生き甲斐にしている。相手は顔も観えない十歳児だが、それは確実に肉を持った人間であり、ここは外であり、会話はコミュニケーションであり、これは社会なのだ。<br /> 今のところ、私にとっての社会はここにしか存在しえない。もしカナメが私の容姿を恐れて、二度とベランダに出てこなくなるような状況に陥ったとしたら、それは相当の後悔となる。<br />「いじらしい子ね。そんなに私に嫌われるのが嫌なの? たかが十歳児よ」<br />「たとい世間が貴女様を十歳児の子供と罵ろうとも、私にとっては掛け替えのない女性です。どうか、御容赦ください」<br />「私は悲しいわ、タツコ」<br /> それにしても、今日はヤケに食い下がる日だ。とりわけ聞き訳が良い訳でもないのだが、一度嫌と言えば直ぐ引き下がるのが常であっただけに、これは意外である。<br /> なんだか久しぶりに心臓が激しく動いている。今にでも、カナメが隔て壁の脇から顔をひょっこり覗かせてくるのではないかと思い、私は腕で顔を隠す。<br />「ねえ、タツコ」<br />「はい」<br />「貴女が自分の容姿を気にして、外に出なくなったのは聞いたわ。そして貴女が、そんなものは誰も気にしていないという認識を持っている事も、聞いたわ」<br />「はい、そうです」<br />「私が言うのもなんだけれど、このままではずっと変わらのではないかしら。タツコ、貴女は変化が恐ろしいの、それとも今に満足しているの?」<br />「解りません。少なくとも、貴女様とお話している時間が、私にとっての全てです」<br />「あら、嬉しい事を言うのね。でも騙されないわよ。ねえタツコ」<br />「はい」<br />「私はまだ十歳だわ。大人になるにはまだしばらくかかるの」<br />「左様ですね?」<br />「悲しくも家の中でしか生きられなくなった貴女を迎えに行くには、もう十年は必要だわ。その間もずっと引きこもっているのかしら。十年は長すぎやしないかしら。私が迎えに行くまでに、貴女はもう少し外に目を向けられないのかしら」<br />「――それは、その、どういった意味でしょうか」<br /> 不覚にも、顔が赤くなってしまった。<br /> こんな子供に迎えに行く、などと戯れに言われて、乙女が如く胸を高鳴らせるなど、人間としてどうかしているとしか言いようが無い。挙句彼女は女の子だ。<br /> 引きこもりすぎて感性が壊れてしまっている、そう判断されるかもしれないが、こんな気持ちを他人に抱くのは初めてだ。<br /> 頬を撫で、鼓動を抑えるようにしていると、やがて、隔て壁の隙間から、小さな手が出て来る。<br /> 手を伸ばして、その小さな手を握り締める。<br />「周りの人が、貴女の父が、どんなふうに言おうとも、私はずっと貴女の味方よ。いきなり変われなんていうのは酷だわ。けれども、少しずつ外へと眼を向けるよう、努力しましょう。貴女は私の可愛い下女よ。そしていつか、私に顔を見せて頂戴――ああ、そうそう。これ、わざわざ電気屋さんのプリント機で印刷してきたの、携帯写真」<br /> 一度手が引き下がり、次に出て来た時、そこに握られていたのは一枚の写真だった。<br /> 正面から撮られたもので、撮影者は母だろうか。<br /> 受け取って眺めた瞬間、私の呼吸が止まる。<br />「どうかしら、良く撮れているわよね」<br />「……カナメ様、ですか」<br />「そうよ」<br />「お美しゅうございます。本当に、見惚れるほど」<br /> 茶色がかった長い髪を前で切り揃え、お嬢様のような白いワンピースを着ている。撮影は夏だろうか。うっすらと日焼け跡が残っており、年相応のヤンチャさが見て取れる。<br /> 大きな目に長い睫毛、主張しすぎない鼻に、ピンク色の唇にはリップがひかれている。<br /> しかしながら……そんな美しい容姿があっても、その身は異常に細い。<br /> 十歳にしては妙に肉付きが悪く、脚などまるで腕から移植したようだ。<br /> その痩せ具合がどこか自分に似ており、私は虚しくなる。<br />「生まれつき心臓が悪いって話したわよね。あまりはしゃげないのよ。食べていない訳ではないのだけれど、食も細いったらないわ。そうね、下品にもいつか牛丼を一人でかっ込むような真似をしてみたいわ」<br />「カナメ様には似あいません」<br />「願望よ願望。それで、どう?」<br />「どう、とは」<br />「貴女の主人は貴女の眼鏡にかなうかしら。好ましいというのなら、直接見せてあげてもいいわ。当然、同時に貴女を見る事になるけれど」<br />「それは、その」<br />「貴女が一番信じているのは誰かしら」<br />「……母と、貴女様です」<br />「そうね。母は大事だわ。私も母が大好きなの。でも、母は身内よ。なんだかんだと、家族が一番可愛いの。だから、客観的な評価は下せないわ」<br />「――はい」<br />「私は他人よ。まず一番最初の他人から、評価を受けて見たらどうかしら。それが貴女の自信につながるかもしれない」<br /> 言葉に詰まる。理路整然と語る彼女の論理的思考が、とても子供ではない。勿論彼女自身の打算も見受けられるが、話の流れとして自然であった。まさかこんな所に誘導されるとは、私も考えなかった。<br /> 直接『主人』の御尊顔を拝んでみたい。今はただ、手を握る事しか出来ない小さい彼女を、この薄い胸板の中に収めて見たいと、そんな欲求が持ちあがる。<br /> 自分はきっと間違った存在だ。今初めて顔を知った、隣に暮らす幼女に、畏怖と尊敬を抱いている。<br /> それは家族に抱くようなものではなく、確実に他人、人様に対する気持ちだ。<br /> 三ヶ月間毎日、こうして語り続けたカナメという少女が、一体私のどれほどの割合を占めているかなど、解りきった事である。<br /> 引きこもりでレズビアンで児童性愛者など、お笑いにもならない、が、私にとっての救済は彼女だ。<br />「少し、考えさせてくださいまし。タツコは、弱い人間故」<br />「知っているわ。だから、私を強い人間にして。弱い貴女を守れるような大人になりたいの。貴女を守るという決意が出来るだけのものが、欲しいのよ」<br />「勿体無いお言葉です」<br />「タツコ。私の可愛いタツコ」<br />「……はい」<br />「また、明日ね」<br /> そういって、彼女は部屋の中に戻って行った。<br /> 気持ちはある。前向きになろうという意思だって、無い訳ではない。ただ、その一歩が、もはや既に枷なのではないかとすら、思えるのだ。<br /> その他人の、あの子に、否定されてしまったとしたら、否定しないまでも、否定する事を我慢されてしまったとしたならば、きっと私は二度と立ち上がる事が出来ないだろうから。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 目の前には、部屋の奥から引っ張り出して来た鏡があった。<br /> 祖母から譲り受けた手鏡で、漆塗りのかなり使いこまれたものではあるが、どこか気品を感じさせるものである。当然それは伏せたままで、自分を映してはいない。<br /> 私の部屋は六畳で、床はフローリングだ。南向きにベランダがあり、北はクローゼット、西にパソコンデスクがあり、東にベッドと、必要最低限のものしか置かれていない。そんな部屋の真中に座り、私は鏡と対峙していた。<br /> 最後に自分の姿を確認したのは何時だっただろうか、いまいち記憶がはっきりしない程昔である。少なくともここ一年は見ていない。<br /> そもそも鏡なるものを意識するのも不愉快で、自身の姿を確認するものがこの世に有る事すら頭の片隅に追いやっていた。パソコンのディスプレイに反射防止フィルムが張ってあったのは幸いである。<br /> それだけ否定していながら、今更になって鏡などを持ちだしたのも、当然彼女の影響だ。<br /> もし本当に、彼女に自身の顔を晒さなければいけなくなった時、幾らなんでも数年ほったらかしの自身の顔をそのまま晒す訳にもいかない。焼け石に水ではあるが、一応は整えた状態にした方が良いだろう。<br /> 幸い、これでも『こうなってしまう前は』普通に女子高生をしていたのだ、化粧だってしたし、そもそもは顔にコンプレックスを持っている訳ではなく、身体に持っているものである。<br /> ただやはり、暫く整えていない顔がどんなものなのか……それを確認するのは、勇気がいる。<br /> これも部屋の奥からほじくり返したものだが、高校入学当時の写真を持ちだした。額におさまった私は、これからの高校生活にそれなりの期待を持った表情で、母と父に挟まれ笑っている。<br /> この当時と同じ顔、だろうか。手で触っても解るように、恐らく少しヤツレているだろう。しかし流石に、まだ二十歳だ。心労こそあれど厳しい仕事に付いている訳でもないから、過労で酷い顔をしている訳もない。<br /> 私は意を決して手鏡を握り締める。<br /> 眼を瞑り、手鏡をひっくり返し、薄目でチラリと窺う。<br /> 如何に。私はどんな顔をしていただろうか。<br />「――くっ……うっ……」<br /> 右目をうっすらと開けて確認。まだ大丈夫だ。<br /> 左目をうっすらと開けて確認。そこそこいけるだろうか。<br /> ゆっくりと両目を見開き、手鏡を確認する。<br />「……うん。少し、やつれてる」<br /> ヤツレている、が、そこまで酷くは無い。<br /> 高校入学当時の写真を見比べればやはり肉は薄くなっているものの、道端を普通に歩いている同世代と比べた所で、きっとそん色はないだろう。恐らくそうだ。<br /> 目の下に多少のクマも見受けられるが、これは隠し様がある。問題は化粧品だが……。<br /> 生憎、高校当時のものがそのまま箱に詰められてクローゼットの中だ。数年前のものを使うのは憚られる。<br />『タツコさん』<br /> 様々と想いを巡らせていると、ドアの向こうから母の声が聞こえた。私は手鏡を床に置き、そのままドアへと向かう。<br />「はい、お母様」<br />『お食事を持ってきました。今日は赤尾の煮付けなんですけれど』<br />「はい。好物です」<br />『――タツコさん?』<br /> 母が不思議そうな声を漏らす。いつも通りにしているつもりだが、どこか違って聞こえるのかもしれない。<br /> 母は常に甲斐甲斐しく、私の事を面倒見てくれている。その接し方はほぼ一定で、幼いころから変化は無い。私は母の優しさに触れる度に、自身の不甲斐なさを省みては虚しくなる。<br /> 話し方もずっとこうだ。良いところの娘で、小学生からずっと女子校に通っていた。短大を出た後祖父の勧めで見合いをして、今の父と結婚した。<br /> 家族関係は良好だった。<br /> 母は甲斐甲斐しく、父は良く働く。しかしその家族に罅を入れてしまったのが、私なのだ、申し訳無い気持ちは当然あるものの、どうしようもない。<br />「どうしましたか、お母様」<br />『いえ。少し、声が明るく聞こえたもので。良い事がありましたか?』<br />「……ほんの少しだけ前向きになろうと思いました」<br />『それは、良かった。どうです、部屋から、出てみては』<br />「まだ、ちょっと」<br />『そうですか……何か、協力出来る事があったら言ってください。お母さんはタツコさんの味方です』<br />「有難うございます。あの、お母様」<br />『はい、なんですか』<br />「申し訳無いのですが、お化粧品を、買ってきて貰えませんか。薄めで細かいパウダーファンデと、アイブロウと、ブラウンのアイライナー。薄桃のグロスと……そのほか化粧水や日焼け止め、一式なのですが。あと、髪を切る用の、安いものでいいです、鋏と、すき鋏、それに、ええと、髪止めと、ワックスでいいかな、緩いものを……。自分で割っておいてなんですが、置き鏡があると、嬉しいです」<br /> そのように伝えると、暫く母からの返答は無かった。ドアの向こうから啜り泣く声が聞こえる。<br /> この二年半、外に出るような態度を一切見せなかった私が、あまりにも意外な発言をした為に驚いているのか、自身の努力が実りつつあると、そう感じているのか、解らないが、悲しい気持ちではないだろう。<br />『……パウダーや日焼け止め、化粧水なら私のものがあります。他の物は、今からですと近くのお店では、安ものになってしまいますが……それでもいいなら、直ぐにでも、用意しますね』<br />「お母様」<br />『ほんの少しでも進展しているのなら。貴女の気持ちが少しでも和らいでいるのなら。お母さんは無理強いなんてしません。また、貴女の可愛い顔を見せてくださいね』<br />「はい、お母様。ごめんなさい。愛しています」<br />『ええ。お食事して、待っていてくださいな』<br /> 思わず涙がこぼれてしまい、私は袖で目元を拭う。私はこんなにも優しく、娘の事を考えている母を困らせ続けて来たのだ。<br /> 母はどんな時だって私の味方だった。私が悲しい想いをすれば慰めてくれたし、良く出来れば褒めてくれた。<br /> ――どうしてこんな事になってしまったんだろう。<br /> ドアを開け、トレイに乗せられた夕食を引き取る。<br /> ご飯を食べながら、こぼれ落ちて来る涙が止められない。私の身体は栄養の一切を溜めこまないように出来ている。病気といえば違うし、貧血になるかといえば違う。兎に角肉にならないのだ。贅肉にも筋肉にもならない。口から入った栄養素は、脳味噌を動かす必要最低限だけを取り込み、殆どがそのままするりと大腸へと抜けて行く。<br /> どんな不規則な生活をしようと、とんでもない時間にお菓子を食べて甘い飲み物を飲もうと、体重が増える気配はなかった。<br /> その結果、過食と嘔吐による栄養失調、胃液で喉が焼け、歯が溶けるなどした。<br /> 今鏡を見ると、栄養失調を起こしていた頃よりも断然健康に見える。生憎胸にも腹にも尻にも肉はないが、一番酷かった時期を考えると、私は健康そのものなのかもしれない。<br /> あの時、私は精神的にも弱っていた。勇気を振り絞って学校に出て行って、陰口を叩いた男の頬でも引っぱたいていたのなら、こんな事にはならなかっただろうに。<br /> でも駄目だ。それは過去であり、振り返れば苛立たしさと悲しさしか起こらない、不毛な記憶だ。これに立ち向かってよい事はない。精々頑張ったところで、トラウマで動悸が起こり、嘔吐するだけである。<br /> 私は悪意に弱すぎる。そして身体が細すぎる。<br />(はあ)<br /> 私は食器を片づけてからパソコンの前に向かう。高校当時から使っているものであるから、相当に型落ちしたものだ。とはいえ、有名メーカーの当時でいうフルスペックノートを購入した為、スペックに頭を悩ませた事はない。恐らくお願いすれば、明日にも新しいパソコンを買ってもらえるだろう。<br /> 今考えると、こういう所が普通のお家とは違うのだろうな、とぼんやり考える。<br /> 私は恵まれた方だ。<br /> インターネットでネットゲームやチャットを繰り返していると、自分と似たような境遇にありながら、もっと悲惨な状況下に身を置いている人物を見かける。それが嘘か本当か解らないが、いつ顔を出してもいる為、真っ当な職に付いていない事は確かだろう。<br /> 私が知る内で一番酷い境遇の人物は「hanana」というハンドルネームの人物だ。<br /> hananaは私と同じぐらいで、引きこもり歴が五年を超えている。<br /> 酷い視線恐怖症の持ち主で、以前はサングラスとマスクを掛けていれば外には出られたそうだが、今は完全に無理だそうだ。<br /> 実家暮らしで父は酒乱、母は要介護、娘は引きこもり、身体が動く祖母が一人で面倒を見ていると言う。<br /> 父はマトモな稼ぎがなく生活保護を受けており、母は意識こそしっかりしているものの、事故で下半身が動かなくなってしまった。軍人気質で気骨溢れた大黒柱であった祖父が他界してからというもの、ますます家庭内は悪化の一途を辿り、一寸先が正しく闇であるという。<br /> 耳を塞ぎたくなるような状態にありながら、ネット上のhananaは実に元気が良い。<br /><br /> hanana:竜ちゃんハッケンwwww<br /> ryu:おはよ<br /><br /> チャットを立ち上げてログインすると、早速hananaが話しかけて来る。彼女は一日中複数のコミュニティに入り浸っており、複数のチャンネル、ネットゲームにログイン状態で居る。リアルラックと忍耐力が売りで、ほぼ無課金状態で高額アイテムをそろえるなどという真似をやってのける、ネット上での有名人物である。<br /> 彼女はそれを鼻にかける為、当然慕う人間よりも敵の方が多い状態だ。<br /> 私は比較的仲の良い部類に入る。そもそもネットゲームはサワリ程度でドップリはつからず、チャットの延長として用いている。なので、どことも争わないのだ。<br /><br /> hanana:ねえ竜ちゃん、結局あのネトゲやらないの?<br /> ryu:んー。皆で狩りとか、拘束されて疲れちゃうし。<br /> hanana:装備あげるよ? レベリング手伝うし。<br /> ryu:リアルと一緒で無職キャラのままチャットしてればいいよw<br /> hanana:え、なにそれ怖い。ま、何? 私より復帰の望みありそうだから引き込もうとしてるんだけどww<br /><br /> 嘘か誠か。彼女はこういう事を平気で言う。私は彼女にだいぶ気に入られているらしく、兎に角良く弄られる。ネットゲームで一人狩りを楽しんでいても、彼女はどこからともなく現れて、敵を引き連れて私のレベル上げを手伝おうとするのだからどうしようもない。<br /> 一度ハッキングを疑ったが、そんな形跡もない。<br /> 顔の見えない相手というのは、無味乾燥であれば恐ろしくも何ともないが、いざそれが色を持って現れると、底知れぬ恐怖を味わう事になる。<br /><br /> ryu:母上様に、メイクセット一式そろえて貰えるようお願いした。<br /> hanana:えーwww外出るの? 無理しない方がいいって絶対www外怖wwww怖www<br /> ryu:まだ出れないけれど。逢いたい人がいて。<br /> hanana:ネット彼氏?<br /> ryu:リアルだよ。女の子。<br /> hanana:うはwwビアンだったのwwwwwww<br /> ryu:十歳<br /> hanana:おまわりさんコイツです<br /> ryu:冗談wまあその、リハビリ的なもの。<br /> hanana:そっか。外は怖い大人が沢山いるから気を付けるんだよ。<br /> hanana:友達減っちゃうの悲しいけど。私嫌われてるし。このチャットだって前は沢山いたのにね。<br /> ryu:自重知らないからね、貴女<br /> hanana:知っててやってるから性質悪いんだねえwwま、頑張りなさい頑張りなさい。<br /><br /> それからhananaの発言が途切れる。興味を失ったのだと思い、私はニュースサイトの閲覧を始めた。<br /> 私が社会に出なくとも、世界は常に回って行く。そんな事誰もが解っていても、人間はやはり自身こそが主役だ。その乖離は激しい。<br /> 私は世界から切り離されている。いや、切り離している。<br /> 私が生み出すものは蝶の羽ばたきにも満たない社会影響であり、私が抱くものは空虚で無意味な、どこにも発散される事のない薄暗い感情のみだ。<br />『タツコさん』<br /> デスクに手を乗せたまま呆けていると、やがてドアの外から母の声が聞こえる。聞こえるなり私は立ち上がり、ドアの前に正座する。<br />「はい、お母様」<br />『用意しましたよ。化粧箱に全て入れておきました。私の使っていたものですけれど、ホットカーラーやドライヤーも用意しましたから、良かったらどうぞ』<br />「……有難うございます、お母様」<br />『いいえ。お洋服は……厚手のものを、明後日までには用意しておきますね』<br />「何から何まで、申し訳ありません」<br />『私は貴女の母ですから』<br /> 用意されたものを一式受け取り、私は一緒に食器を差し出す。ほんの少し開いたドアの隙間から、母の嬉しそうな顔が覗けて見えた。私の視線に気が付いた母がふと此方を見る。即座に顔をそむけてしまった。<br /> 母親相手に顔も見せないなど……解っていても、こればかりは仕方がない。<br />「何も、おかしくなんてありませんよ」<br />「――、ご、ごめ、ごめんなさい。すこし、少し、整えますから……その、近いうちに」<br />「まあ。本当ですか」<br /> 機嫌がよさそうに食器を下げ、母がリビングに戻って行く。跳ねあがった心臓を抑えるようにしながら、私はドアを閉めて背を預けた。<br /> なんとも不甲斐ない。<br /> 母でこの調子では、愛すべき彼女に見せる顔など本当にあるのだろうかと疑問を抱かざるを得ない。<br /> 息を整えて、母から譲り受けた化粧箱と、他一式を確認する。<br /> 滑らかな黄土色のナイロン袋に入っているのは化粧水、乳液と日焼け止め、化粧下地などだ。母のもの、とはいうが、あの人は年齢の割に若い為に、使っているものも若者向けだ。着飾れば三十前半といっても皆が頷くような人であるから、私とはデキが違う。<br /> 一方のポーチを確かめる。<br /> 此方に入っているのはリキッドとパウダーファンデのコンパクト。グロスが各色揃っており、アイブロウもマスカラも、注文通り薄めのものが入っていた。<br /> アイライナーとアイシャドウは使わないものの、筆やビューラーと一緒になってまとめてある。<br /> 恐らく母が予備で持っていたものだろう。統一感は無いものの、私からすれば十分だ。<br /> 両手で小さく抱えるぐらいの化粧箱はどこから持ってきたのだろうか。髪留めやピン、小さいヘヤアイロンや付け睫毛などの小物が揃えてある。<br /> 私は久々の化粧道具を目の前にして、眩暈がした。あの頃はこれよりももっと大きな、自分専用のものを持っていたかと思うと、身が細い身が細いと言いながらも、結構自信を持って女の子をしていたのだなと、意識の違いを思い知らされる。<br />(あれから二年半か……)<br /> 私が家からでなくなったのは、栄養失調からの回復後、暫く様子見という意味を含めて自宅療養を始めた頃だ。そして家から出られなくなったと気が付いたのは、それから三週間後である。<br /> 普段通り制服を着て学校に行く。その当たり前が、私には出来なくなっていた。<br />(本当に出来る? 私に? 二年半も自分の部屋に居たのに?)<br /> ――化粧箱をパソコンデスクの上に置くと、そのままベッドに横になる。<br /> 客観的にみれば大した事のない、しかし当時の私からするとあまりにも酷な、あの情景が思い浮かぶ。こうなると私は、布団を被ったまま思い返さぬようにと堪え、何者かに怯えるかのように身動きもとらず、じっとしている事しか出来なかった。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 日傘をさしながら、ベランダで外の景色を眺める。毎日変わり映えのない情景だけに、多少の変化でも直ぐ気が付く事が出来た。<br /> 二本向こうの通りにあるマンションの六階に、新しい入居者が来たようだ。<br /> 毎日同じ時間に通る筈の散歩のお婆さんが見当たらない、体調が悪いのだろうか。<br /> 一本先のアパートの窓が全開だ。昼間からお盛んな事で、行為が丸見えである。良い身体の女性だ。<br /> 同じ通りの右正面、三階建ての一軒家。奥さんが来客に応対して迎え入れるが、セールスマンには見えない。あそこは旦那様が単身赴任をしていた筈だから、恐らくそういう事だろう。<br /> 私は双眼鏡を傍に置き、改めて椅子に座る。一時も過ぎた頃から、外を双眼鏡でのぞいて回っている人間があとどのくらいいるだろうか。もしかしたら、私も監視されているのかもしれない。<br /> でも許してほしいのだ。今のところ、私にはここしか外が無い。勿論誰にも言わないし、悪い事も良い事も、どこに漏れる心配もないのだから。<br /> やがて隣のベランダ戸が開く音が聞こえる。スリッパを引きずるような音で、直ぐカナメであると解った。<br />「おはようございます」<br />「ちゃんと挨拶出来たわね。おはよう、タツコ」<br /> カナメが隔て壁に寄りそう音が聞こえ、私もそちらに近づく。彼女も向こう側に椅子を置いているらしく、私達は壁を隔てて背中合わせをしている状態だ。何故こんな事をするのかと言えば、カナメの要請を受けたからである。<br /> 手しか触れられないのは寂しいので、せめて壁ごしでも密着できるようにしたいという。気恥かしい話だが、少しマセタ甘えん坊と捉えれば可愛いものだ。問題は私がそうは思っていない事である。<br />「今日は何かありましたでしょうか」<br />「隣の席の恵子が、筆箱を忘れたのよ」<br />「はい」<br />「私は鉛筆と消しゴムを貸したのだけれど、シャーペンが良いというの」<br />「なんとも不敬な子ですね」<br />「仕方ないから私のお気に入りを貸したわ。戻って来たら芯が二本も減っていたけれど」<br />「ケイコさんはなんと」<br />「まあでも、笑顔を貰ったから、それでチャラよ」<br />「カナメ様は御心が広い方です」<br /> 昨日はだいぶと変則的だった。普段はこうして、まず学校で何が起きたかを聞き、私が受け答えをする。その内容は重要視されず、私と彼女が会話をする切っ掛けこそが大事なのだ。<br /> 会話自体を忘れかけていた私は、彼女のお陰で会話の他愛なさを思い出した。長い間引きこもっていると、『どういう話題で話しかけよう』なんていうくだらない妄執に取りつかれる事がある。<br />「タツコ、今日はどんな加減かしら」<br />「良好です。お気遣いありがとうございます」<br />「いいのよ。私も今日は調子が良いわ。元から昼上がりの日だったの」<br />「左様ですか。記憶が確かならば、昼で切りあげというのは、妙に楽しい気持ちになるものです。カナメ様は、他の子と遊んだりはしないのでしょうか」<br />「遊ぶとなると、ゲームをするでしょう。私はああいうの苦手なの。外ではしゃぎ回る体力もないしね。ああ、安心して頂戴。嫌われているとか、教室八分にされているとか、そんな事ないわよ」<br />「存じ上げています」<br /> 身体が弱い彼女は、学校こそ行くものの、他の子と遊んだりはしない。彼女の話が本当かどうか、それを確認する術はないものの、いつも私に報告するカナメ像は、クールな一匹狼だ。時折周りと戯れてはそれを反省する節がある。<br /> 早すぎる中二病、とも思ったのだが、彼女の意見はハッキリしているし、変に幻想を抱くような事はしない。口ばかりの自尊心かと思えば、そうでもない。一度通知表を見せて貰った事もあるが、体育以外は全て平均以上、特に算数と国語は得意な様子だ。<br /> 彼女は周りと違う事を自覚し、それを体現しながら、周囲から邪険に扱われないよう振る舞っている。<br />「それに、貴女とお話しなきゃいけないわ。何よりの楽しみを、すっぽかせないでしょう」<br />「有難うございます」<br /> 私は声色で彼女の機嫌と体調を把握する。<br /> 彼女の言う通り、本当に調子が良く、機嫌も上向きである。こういう時はいつも、少しだけ鼻息が荒い。ただ興奮するようなものではなく、鼻から空気がスゥと抜けるようなニュアンスがどこかにある。<br /> 顔が解らないと、こんな事ばかり気にしてしまう。<br />「私ね、少し考えている事があるの」<br />「どういった事でしょう」<br />「大人よ、大人。タツコは私よりも十歳年上で、法律上は大人よね」<br />「不甲斐ない大人ですが、法律上はそうです」<br />「そうそう。大人っていうのは、自身の生活を自身で支えられるようになってから名乗れという風潮があるけれど、そんなの核家族化した現代においての話であって、昔は複数人の親族で家を支えるのが当たり前だったでしょう。私この良く分からない大人の定義、凄く嫌いなの」<br />「現代では自立が大人の指標のようなものなので、仕方がない事だと思います。それにやはり、大人を名乗るなら、自身で食べていけるぐらいでないと、世間が厳しいですし、そのような先入観で育てられた現代人は、自身で食べていけない事を後ろめたく感じると思います」<br />「貴女はそうなってしまった経緯に詳しいかしら」<br />「いえ。自主自立は欧米的価値観であるという事ぐらいしか。日本は家長制度がありましたし。儒教国はそうかもしれません。それで、カナメ様はどこが不満なのでしょう」<br />「私はお父様がいないわ。だから大人の男というと学校の教師ぐらいしか知らない。でもそんな人達も案外子供っぽいでしょう。収入はあるかもしれないけれど、精神的にどうなの、と聞かれた場合答えられるのかしら」<br />「なるほど」<br /> 細かい事は良く分からないが、兎に角大人というものの意味が漠然としているから、納得する答えが欲しい、もしくはそれで私と会話したい、というだけだろう。<br /> 私もそんな議論しても答えが出ないようなものに対しての造詣など深くない為、上手く答えられるかは解らないが、カナメが納得しそうな理由はいくつか思い浮かぶ。<br />「近年まで女性が職についていなくても、扱いは家事手伝いでしたが……良く分からない社会学者がニートと名付けて、それが広まり、無職イコール社会的に一切地位の無い人、のようなイメージが先行してしまったように思います。私などは正しくごく潰しで、精神的にはどうか解りませんが、社会的には子供でしょう」<br />「じゃあ、貴女が家事手伝いをするようになれば、多少はマシに見られるかしら? 違うわよね」<br />「出来あがってしまったイメージというのは、そう簡単に取り払えるものでは有りません。私が手伝いをしたところで、大人として未成熟と見られたままでしょう」<br />「貴女の実家は良いところよね。見合い話とかないのかしら。流石に妻ともなれば、家に居ようと大人扱いでしょう」<br />「以前はありました。ただ、この通りですので。それに、男性は」<br /><br />『あの棒きれみたいな女、どこの男が付き合うんだよ』<br />『触ったら折れそうだよな。ゴツゴツしてそう』<br /><br />「……男性は、しばらく良いです」<br />「ま、そんな言葉が返ってくるんじゃないかと思ってたわ。結局男によって地位が決められるのよね。悲しい話だわ。でも、それをなんとかしようっていう女性が少ないのも事実じゃないかしら?」<br />「と、いうと」<br />「私の母は夜のお店で勤めていて、人気だから、色々な人からお話を聞くのよ。そこで会社のお偉いさんが『女性管理職を増やしたいのだが、なりたがる人がいない』というらしいの」<br />「……たぶん、責任が増えるからじゃないでしょうか。女性は安定志向になりがちで、抱え込む様な仕事をしたがるのは、ごく一部なのかもしれません」<br />「そういう考えって、どこから来るのかしら。常識? 教育? 社会情勢? 諦め?」<br />「複合的な要因が多いので、なんとも。勿論『家庭におさまる』という常識が未だ強いのは、あると思いますが。ええと、それで、大人というものですが。カナメ様はどのような人が大人だと思うのでしょうか」<br />「お母様は大人だと思うわ。あと、やっぱり子供がいると、大人と思えるわね」<br />「私などはどうでしょう」<br />「――ふむ。お友達、という事もないわ。同年代とも思えないけど、でも、大人って言われると、違うわね」<br />「つまるところ、結局、背負っているものが、あるか、ないか、ではないでしょうか。一概に何を背負っているか、なんてことは解りませんが、やはり守るべきもの、貫き通すべきものを持っている人は、違うと思います」<br />「大人は、大変ね」<br /> そういって、カナメは黙りこんでしまった。納得したのだろうか。<br /> こういった問題は、何かと衝突しやすい。他の誰かと議論しろ、なんて言われた所で私は逃げるだろう。チャットだろうと掲示板だろうと願い下げだ。カナメだからこそ付き合うものである。<br />「私はどうかしら」<br /> 唐突にそのように言われ、私は視線を宙に泳がせた。<br /> カナメは……子供らしくないが、何かを背負うには小さすぎるし、小学生だ。<br /> しかしながら、彼女と会話していると、私は何とも水槽を漂うクラゲにでもなったような虚無感がある。私と彼女を比べた場合、何かを必死に背負おうとしているカナメの方が、余程大人なのだ。<br />「私よりも、大人だと思います。ただ、社会がそれを認めてはくれないでしょう」<br />「ふふ。貴女らしい答え。私、そういうカンジ、凄く好きよ」<br />「ハッキリとした答えの方が、好ましいのでは?」<br />「生憎外でハッキリしすぎると、煙たがられるものなのよ。社会適正は貴女の方が上ね」<br /> 隔て壁の隙間から、細く小さな手が伸びる。私はそれを握り締めた。<br /> とても冷たい。私の手よりも幾許かは健康に見えるが、それでも他の子に比べてしまえば細いだろう。そんなか細く小さな手で、彼女は背負おうとしている。恐らくは、自身の誇りを、そして、私をだ。<br /> 彼女は孤高だ。<br /> たった一人の家臣であり下女であり民である私を守ろうとする、ベランダの女王である。<br /> こうして手を触れる事すらも畏れ多い筈なのだ。<br /> 私は常に、彼女から許され、与えられる立場にある。社会不適合者の妄想と罵られようと、意思薄弱者の逃避と言われようと、こればかりは、私は譲る気など一切ない。<br /> 私という人間を認め、私の存在を保障し、私の精神衛生を守り、私に意味を与えてくれる彼女は国であり王であり、法を敷く神である。<br /> 初めて出会って打ちのめされて以来、私の心は彼女に服従している。<br /> 十歳児にして聡明で、誰よりも大人になる事を望んでいる彼女を、私は慕い続けたい。そしてなるべくならば、彼女の要請にも、答えてあげたい。民ならば、尽くさねばならない。<br /> 今まではその奉仕は会話であり、問答であり、こうした触れあいであった。当然それでは足りぬと解っていても、私にはどうする事も出来なかったのだ。<br /> 私は彼女の顔を直接見たことがない。彼女もまた、私を見たことがない。<br />「私は、立派な大人になりたいわ。貴女を虐げる人から守れる人間になりたいの。でも、その望みを叶えるには、時間がかかりすぎる。その間、貴女と離れてしまうかもわからない。貴女は泣いていたわ」<br /> 思い出す。彼女に出会って一か月経った頃の事だ。<br /> 彼女や母との会話で心が明るくなる半面、外に対する興味と同時に、嫌な思い出が想起されるようになった。それは上向きになる精神と対になり、下方へ修正しようとする。<br /> 行動、言動が過去の出来事に結びついて想起される、人間である限りは避けられない脳の働きは、逃避中の私にとって絶大な威力をもって迫りくるのだ。<br /> ……あの日は酷い土砂降りだった。<br /> ベランダを超えてやってくる雨を傘で受けながら、私は隔て壁の端で蹲っていた。日に日に高まる自信と、それを押しつぶそうとする保身の心にもがき苦しむ。そんな日は部屋に引きこもっていれば良いものを、私は外に出ていた。<br /> おそらくカナメに救いを求めたのだろう。しかし、彼女はいつもの時間になっても現れなかった。<br /> 降りしきる雨の空を眺めながら、思い出したくも無い過去を追想し始める。こうなってしまうと、どうする事も出来ない。呼吸が止まりそうになり、心臓がドクドクと脈打つ。<br />『なんでお前が』<br />『聞いてたのか』<br />『だってよ、瀬能、ほら、返事してやれよ』<br />『旗本さん……その』<br /> 彼等との会話がリフレインし、脳と心臓が押しつぶれて一緒になってしまいそうだった。座っているのに眩暈がし、椅子から落ちそうになる。<br /> 傘がベランダの床に落ち、雨が直接私の肌に当たる。<br /> 頭を抱え、身悶えし、そのまま飛び降りたくなるような後悔と絶望が襲う。<br /> もう終わった事、などという慰めは何一つ意味はない。私のような人間は小さい事を何時までも、昨日の事のように覚えていて、思い返すたびに絶望的な気分になる。<br /> 助けてほしい。ワガママである事は重々承知している。辛いのならば誰かに相談すればよかった。けれど私にはそんな甲斐性も無く、ただ笑顔で人様に振る舞う事しか出来なかった。<br /> 己の細い身を呪う。<br /> 己の小さい心を呪う。<br /> 自責の重圧は決して消える事なく、終わる事なく、私を圧迫し続ける。<br />『タツコ、タツコ』<br /> そうだ。だから私には、救済者が必要だった。面と向かって慰める訳でも、同情する訳でなく、まるですっかり私の面倒くさい欲求を汲み取るような、そんな都合の良い救済者を求めていた。<br />『タツコ、泣いているのね。好きなだけ泣くと良いわ。私は決して慰めない。同情したりもしないわ。私にはそんな資格も経験も無いのだから。でも傍には居させて頂戴。私に出来る精一杯はこれしかないの。さあ、手を伸ばして。私の手を触れて。貴女の私はここにいるわ。今日は遅れて、ごめんなさいね』<br /> 隔て壁の隙間から伸びる細く、神々しいその御手は、正しく福音である。<br /> 私はただそれに縋りつく事だけを望みここに居た。<br /> 彼女は安っぽい言葉で慰めたりしない。<br /> 知りもしない辛さを分かとうともしない。<br /> 彼女はそこに居て、私の存在を認めてくれる。<br />「タツコ、どうしたの」<br />「あ、えと。何でもありません。失礼しました、カナメ様」<br />「いいのよ。ずいぶん愛しそうに私の手を握るものだから、少しドキドキしたけれど」<br /> 頬を撫で、意識を現実に振り戻す。私の手には確かな感触があった。<br /> 人の手だ。それは幼く、細く、頼りなく見えるかもしれないが、私にとっては唯一無二の救済だ。この細い手が愛しい。この先にいる彼女が愛しいのだ。<br />「あの日の事を思い出していました。情けないお話です」<br />「馬鹿を言っちゃいけないわ。私は、貴女に必要とされる人間になりたいのよ。だからこれは、実に好ましい事だわ」<br />「有難うございます。本当に、有難うございます、カナメ様」<br />「ええ。いつでも言って。こんなか細い手が貴女の為になるならば……」<br /> 何かを言いかけて、カナメは手を引いてしまった。多少不思議に思ったが、長い間壁に張り付いていたら、腕も疲れるだろうと納得する。<br />「……それで、最近はどうかしら。少しは、顔を見せる気になった?」<br />「お母様に、化粧道具とお洋服をお願いしました」<br />「まあ、本当に? 外に意識を向けるだけでも、余程の進歩だわ、貴女も賢明になったのね」<br />「近いうちに、はい。頑張ろうと、思います。顔は元から、視線恐怖症でも、ありませんし。ただ、ブランクがあるので、なんとも」<br />「……急いてしまったかしら」<br />「とんでもない。カナメ様のご厚意あってこその、私です。いつかはそのような日も来るのではないかと、考えていました。ただその、相変わらずあまり肌は晒せないので、ご容赦ください」<br />「ふふ。何も裸になれなんていってないわ? 見せてくれるというのなら喜んでみるけれど。ま、そう構えない事よ。私だって人様に見せられる程、健康的な身体はしていないわ。腕も脚も細いし、肋骨は浮いているし、今後胸なんて出るのかしら」<br />「お母様を見て、私も小さい頃同じような事を考えました」<br />「貴女のお母様、とても女性的で美人よね。お父様も美丈夫」<br />「逢った事が、あるのですか」<br />「ええ。貴女、私をどこの住人だと思っているの? ネットでも夢の国でもなく、隣の家よ?」<br />「左様でした」<br /> 小さい笑いが起こる。あまりにも現実からかけ離れた彼女が、まるで別世界の生物のように思えてしまうのも、全てはこの隔て壁故だろう。<br /> この薄い壁の向こうには、身は細かれど可憐な乙女が居る。我が女王が坐しているのだ。<br />「少し、ワガママを聞いて貰っても良いでしょうか」<br />「何かしら。貴女から何か求めるなんて、初めてね」<br />「大変不敬な事だとは承知の上です。もし、私の精神が恐怖よりも貴女に対する敬愛が上回り、あらぬ行動をとってしまったとしても、許して貰いたいのです」<br />「それは、私と顔を合わせて、貴女が感極まってしまった場合の事、で良いのかしら」<br />「――はい」<br />「むしろ望ましいわ。そうして頂戴……今日は、この辺りで失礼するわね。タツコ」<br />「はい」<br />「……急かしてごめんなさい」<br /> スリッパを引きずる音、そしてベランダ戸が閉まる音が聞こえ、私は眼を瞑る。<br /> 確かに彼女は最近急いていたかもしれない。だが、それが私に対する好意の現れであると考えると、酷く気恥かしい。私は両手でだらしない顔を隠す。<br /> もし、彼女に顔を合わせ、そして彼女が受け入れてくれたのなら、私にはもう、怖いものなど一つも無くなるのではないか、そんな期待がある。<br /> 当然それと同等の不安もあるが、あの愛らしい彼女をこの両手に抱けるとしたならば、きっときっと、私は前に進める気がするのだ。<br />「これは」<br /> これは、どのような『よろこび』なのだろうか。<br /> どのような『不安』なのだろうか。<br /> 私は、今後彼女と――どう在りたいのだろうか?<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /><br /> 私はベッドの下の収納からゴミ袋を取り出し、机の上に乗せる。母が持ってきた置き鏡は、確かリビングにあったものだ。そこそこの大きさがあり、バストアップまでしっかりと収まる。<br /> それを恐る恐る覗きこみながら、私はまず髪を切る準備を始めた。最後に切ったのは三か月前、工具鋏で適当に切り揃えただけであるから、その野性味あふれる頭髪加減は筆舌に尽くし難い。<br /> クローゼットから小さめのレジャーシートを持ちだし、それを自分の足元に敷き、ビニール袋の底に穴を開けて、頭から被る。<br />「……なんとも滑稽な」<br /> 生憎美容院でチャラチャラとお姉さま方と会話しながら髪を切れるようなスキルは持ち合わせていない。不格好でも自分でやった方がマシだ。<br /> 部屋の端からちゃぶ台を持ってきて広げ、置き鏡を据え、その前に座る。<br /> 恐る恐る鏡を覗きこみ、徐々に耐性と姿勢を整える。<br /> カナメには貞子のようになっていると言ったが、あながち外れでもない。ゴムを外すと、私の髪は腰に届く程あり、何か河川敷の雑草地帯を連想させる。後ろ髪は後に回し、まずは前髪に取りかかる。<br /> 眉を通り越しているならまだしも、量が多いのでこれは邪魔だ。<br /> 慎重に鋏を縦に入れながら量を減らして行く。<br /> 部屋には普段聞き慣れない、ジョリ、ジョリ、という音だけが響く。<br /> そんな事をしていると、酷く自分が馬鹿のように見える。どうせ外に出る気も無い癖に、体裁など整えてどうするつもりなのか。たった一人の隣に住む女児に顔を見せる為にやっているのだから、考えれば考えるほど何とも言えない気持ちになる。<br /> 少し、梳こう。<br /> 前髪を人差し指と中指に挟み、梳き鋏を入れて行く。あまり梳きすぎるとマヌケに見える為、これはほどほどだ。納得行く薄さにまで整えて、次は揉みあげに取りかかる。<br /> 私は何かと器用だ。具体的なものに特化はしている訳ではないが、手作業で下手を打った記憶は無いに等しい。中学時代の美術だって家庭科だって、筆記も実技も満点だった。<br />「セミロングぐらいでいいよねえ……」<br /> 傍らにある高校時代の写真を眺めながら、当時を再現するようにして伸びきった揉みあげを切り取る。パッツリと揃えてしまわないように、その手元は慎重そのものだ。<br /> ざらざらと頭から被ったゴミ袋を伝って、私の髪が床に落ちて行く。<br />「ん……器用で良かった……あー……」<br /> 改めて鏡を見る。前側ならば何とでもなるが……やはり、後ろ髪はそうも行かない。精々梳いて減らす程度で、毛先を揃えるなんて真似は難しい。しかし他に頼るのも、引けてしまう。<br /> 母にお願いすべきだろうか。しかしそれでは顔を合わせるどころの話ではない。ましてスッピンでは。いや、どちらにせよ、久しぶりに顔を見せる母にお願いするのは、気が向かない。<br />「うー……うー……」<br /> 置き鏡とにらめっこしながら、自身の顔をまじまじと観察する。どうする。母にそこまで躊躇っていて、一体誰に顔向け出来るというのか。私はいつから顔面に対する視線恐怖症など患ったのか。閉鎖空間での自室警備はやはり精神を悪化させ続けるのだろう。<br /> 身体どころか顔まで見せたくないとなれば、今後生きて行けない。未来など考えるだけでおぞましいものの、こんなちっぽけな恐怖感に身を捩り続ける人生など真っ平御免だ。<br />(大丈夫、少しヤツレただけ……母だって何とも思ってない。むしろ、ほら、おとといは嬉しそうにしてた。私の顔は怖くも酷くもない。私は普通。私は普通。私は普通私は普通――)<br /> 散々と悩み、私はゴミ袋を被ったまま、手に鋏と櫛を持ち、顔に美顔パックを当てたまま、部屋を出る。<br /> リビングまでの距離が妙に遠く感じられた。私は母の後姿を確認すると、半身を壁に隠して声をかける。<br />「お、おか、お母様……お願いが、あります」<br />「――た、タツコさん? まあ、なんて格好?」<br />「す、済みません。可及的速やかに、この事態を解決したいのですが……」<br /> リビングでテレビを見ていた母は、その目を見開いて我が娘の奇行に驚いている様子だ。それもそうだ。鋏と櫛とゴミ袋を装備して顔面は美顔パックである。夜道で出会ったとしたら間違いなく走って逃げたくなるだろう。母も少し顔が引きつっている。<br />「え、ええ」<br />「後ろ髪を、少し切っていただきたく……」<br />「解りました。ええと、敷くもの……新聞紙ですね」<br /> 母は頷くと、直ぐに準備を始める。私は敷かれた新聞紙の上に正座し、鋏と櫛を手渡した。<br /> まるでこれから首を切り落とされるかのような気持ちだ。<br />「どこまで切りましょうか。お母さんは、長い方が好きですけれど」<br />「セミロングくらいに……して頂けると、有難いです」<br />「かしこまりました、お客様」<br /> そういって母が私の髪に鋏を入れ始めた。ここ暫くでは考えられない大決断をした私は、ずっと心臓が早鐘の如く鳴り響いている。胸に手を当て、ゆっくり呼吸しながら成り行きを見守る。<br />「……懐かしいです。昔は私が切っていましたものね。洒落っ気が出てからは美容院ばかりでしたから、少し寂しかったんです」<br />「ご迷惑をおかけしています……」<br />「いいえ。それにしても、タツコさん」<br />「はい、お母様」<br />「――何か、心変わりするような事がありましたか。勿論、私はとてもうれしいのですけれど」<br /> 母の疑問はもっともである。昨日まで毎日変わり映えのない引きこもりを続けていた私が、突然外に意識を向けるような素振りを見せ始めたら、誰だってそう思うだろう。<br /> ただそれはやはり外部的な感覚だ。<br /> 内部的、つまり私やカナメの意識から行けば、意外とはいえひっくり返って驚く程でもない。純粋のそういった感情を口に出さず、母にも話さずいたからだ。<br /> 二年半、殆どを家の中で暮らして来た私が抱く感情と言えば、両親や祖父母に対する罪悪感であり、世界から乖離して行く焦燥感であり、未来に対する漠然とした不安であり、思い通りにならな自分に対する憤怒に憎悪だ。<br /> 外に出るくらい何ともない――そういった当然の意識の中に暮らしている人間からすれば、部屋から出ない人間の心理など理解不能だろう。私とて最初はそう思っていたし、引きこもり初期も、一か月もすれば落ち着くものだと考えていた。<br /> だが日数を追うごとに、薄暗い室内で育まれてしまった仄暗い感情が肥大化してしまうのだ。<br /> 社会から離れてしまった自身を、周りがどう感じているのか。<br /> こんな細い身の人間は、外に出てまた嘲笑されるだけなのではないか。<br /> 初期段階はこの程度だが、そういった意識が段々と外へ足を向ける気力を奪って行く。<br /> こんなに長い期間引きこもった人間、外に出た瞬間笑われるのではないか。<br /> 暫く人と話していない。会話とはどうするものだったのか。<br /> 発声を忘れた。冗談のようだが、本当に忘れた。<br /> そもそも、私の声は未だしわがれているのではないのか。自身で発した声を聞くのも怖い。<br /> 相変わらず肉は増えない。むしろ減ってさえいると思える。<br /> 肌はきっと真っ白だ。柳の下の幽霊も裸足で逃げ出すだろう。<br /> 中期辺りから、自身に対する認識を極度に恐れ始める。周りの人間が全て敵に見えるのだ。私はこの辺りから父とも母とも会話を交わさなくなり、軽度の鬱状態にあった。<br /> 幸いだったのは、それが重篤化しなかった事だろうか。<br /> 躁鬱ではなく、低さを一定に保っている為、自殺など考えなかった事、引きこもりに偏重して例え夜でも外に身を晒すような真似はしたくなかった事、痛いのが極度に苦手だった事だ。<br /> 結果自室に引きこもる幽鬼が出来あがった訳だが、大事にはならなかった。<br /> そして何より、母が諦めを抱きながらも、決して私との会話を途切れさせないよう努力してくれたのは大きいだろう。母との会話が、私の一応の人間性を保たせ、母の提案である日光浴が私の精神の加減を整えていたのだと思う。<br /> そして、彼女の存在だ。<br />「――隣の子」<br />「……ああ、水木さんの娘さんかしら」<br />「とても、良い子で。あの、お母様、私、声、変じゃありませんか」<br />「ええ。綺麗な声です」<br />「よかった。その、カナメさ……カナメちゃんは、とても大人びていて、良い子です」<br />「ベランダで会話しているのですか?」<br />「聞かないで貰えると……」<br />「そこで仲良くなったんですね」<br />「はい。まだ、顔を合わせた事はありません。でも、あの子がどうしても、私の顔を見たいと」<br />「そうですか……」<br />「お母様?」<br />「いいえ、なんでもありません。このぐらいで良いですか、タツコさん」<br /> 母はそういって会話を止め、私に鏡を差し出す。私の器用さは母譲りだ。丁度好みの長さに切りそろえられており、私は少し嬉しくなって頷く。<br />「外に出るようになったら、もう少し延ばしましょう。お母さん、髪の長い子が好きなんです。機能的じゃないって、お父さんは言うんですけれど」<br />「お父様は、効率主義ですから」<br />「シャワー、使って流してください」<br />「はい。有難うございます、お母様」<br />「……ふふ。こんなに貴女と触れあったの、何時ぶりかしら」<br /> 髪を梳いて整えてから、母は私を背中から抱きしめる。母のふくよかな身体が温かく、同時に虚しい。<br /> 何故私はこの人の娘なのに、こんなにも貧相な体つきなのだろうか。父だってガタイが良いし、双方の両親もまたこんな体つきの者は一人も居ない。<br /> 私は一体どこから来た人間なのだろうと、良く考える。<br />「骨ばっていて、痛いですよ」<br />「そんな事ない――そんな事、絶対にないです」<br />「――お母様?」<br />「貴女は、私の宝物です。私の可愛い可愛い娘なんです。卑下したりしないで。貴女はどこもおかしくなんてない――」<br /> 母の啜り泣く声が、心臓を圧迫する。まるで臓腑を握り締められているようだ。全身の血管が開き、汗が噴き出す。<br /> 母を泣かせてしまった。こんなにも優しい母を泣かせてしまったのだ。きっと今回ばかりじゃない。母は私の知らない所で、様々な重圧に耐えて、涙を流しているに違いない。<br /> ――何をする訳でない、何もしないからこそ――私は母を悲しませている。<br /> 自然と流れた涙を拭おうと顔に手を当てると、美顔パックが床に落ちる。私はそのまま両手で顔を覆った。<br />「お、お風呂。お風呂に、入ってきます。お、お母様」<br />「うん……うん」<br />「私――私、頑張ります。まだ、時間は、かかるかもしれませんけど……わ、私、お母様、ごめんなさい。お母様に、笑顔で居て貰えるよう、頑張りますから」<br />「不甲斐ない母でごめんなさいね」<br />「そんな事有りません。お母様がいなかったら、私きっと、とっくにこの世に居ません」<br /> 抱きしめる母の手をそっと退け、私は立ち上がって風呂場へと向かう。<br /> きっと限界が来ているのだ。<br /> 母も、娘を支え続ける事に、きっと疲れきっている。<br /> 明確な解決策は一つしかない。私がまた、当たり前のように外を歩む未来である。<br /> これは転機だ。<br /> 母と、カナメに齎された、これを失ってしまった先には何も無い、それほどの、転機に違いない。<br /> 将来への不安が明確な形を持って現れている。<br /> 二十歳という区切り、ここを逃した先に、きっと私の幸福など存在しない。<br />(ほんの一歩でも、踏み出さないと)<br /> 期待されているのだ。当然重たいが、この程度を背負えず生きていける訳がない。機会という機会を引きこもる事によって潰した私は、同時に自身も押し潰して来た。吐き気がするような将来なる漠然とした恐ろしいものから逃げる為であった筈なのに、それはまるで真綿で首を絞めるようなものである。<br /> 丁度、その真綿も圧し切り、私の細い首は折れかかっているのだ。<br /> 母に、カナメに、このたった二人に認めて貰うだけで良い。今はそれで良い。<br />(たったそれだけでいいから、ほんの少しでいいから)<br /> 服を脱いでバスルームに入る。ごく一般的な、シャワーと湯船がついた風呂場だが、唯一おかしい点といえば、鏡に暗幕がかけてある事だろう。私は私の体を見るのが嫌で、家の鏡を割った事がある。特に風呂場は念入りに細かく割砕いた前科があった。<br /> 流石に風呂場に鏡がないのは不便なので、今は暗幕がかけてある。<br /> 風呂というのは自身の細い身を直視してしまう為憂鬱だが、そうも言っていられないので、さっさとシャワーを被る。<br /> 高校の頃から変わらず使っている、取り寄せ限定のシャンプーとトリートメントは、何だかその匂いを嗅ぐ度に昔の事を思い出す。良く油分を落とす、だとか、しっかり成分を沁み渡らせる、だとか、そういった事は考えず、切ったばかりの髪を洗い流す。<br /> しかし一瞬、不思議な事だが、自身の髪を流し終わった後、自然と鏡を探してしまった。暗幕のかけられた鏡を見つめてから、自身の腹部に目をやる。<br /> 体が観える。客観的に見えてしまう。それは、止めよう。今、折角前向きな気持ちに水を差しかねない。<br /> ボディソープで凹凸の無い、いや、骨と皮で凹凸が出来た体を洗いながら、鏡を割った時の事を思い出す。<br /> そんな滑稽な真似をする娘を見ながら、父は何も言わず、淡々と割れた鏡を片づけていた。<br /> 父は常に、私がこうなってからというもの、私に対して何も言わない。<br /> ただ無表情で、言葉の一つもかわさない。しかしそれは無言の圧力で、本心ではどのように思っていたのかは解らない。<br /> 母も父については何も言わなかった。私がまともだった頃は仲が良かった二人も、私が引きこもると同時に父も仕事が忙しくなり、すれ違いが続いている。<br /> また、あの時のようになれるだろうか。大人の人間関係は、そんな簡単に戻ったりはしない。例え娘がまともになったところで、引き摺るだろう。<br /> けれど、切っ掛けにはなるのではないか。私がたった一歩踏み出すだけで、機会は産まれる筈だ。私はたったそれだけの事すらしてこなかったのだから。<br /> 風呂からあがって体を拭き、着替えてから私は洗面台に向かう。普段なら通り過ぎるだけの洗面台も、今日はそうも行かない。<br /> 化粧水を付けて顔を整えるなんて真似をしたのは久しぶりだ。<br /> 幸いかどうか、肌が荒れるような生活はしていなかったし、日光浴をする間も日傘をさしていたのでシミ一つない。多少コケた頬を嫌々撫でながら、私は自室に戻る。<br /> 部屋に戻ると早速置き鏡と睨めっこを始める。心なしか、昨日よりも顔が明るいような気がした。<br /> 眉は昨日切り揃えた。産毛も剃ったし、輪郭を邪魔する余計な毛も切ったので、サッパリとしたものである。少し手を加えるだけで自分でも見られる顔になったという事実は、やはり嬉しい。<br /> ドライヤーをかけながら高校当時の写真と見比べる。痩せはしたが、その雰囲気は大差ない。<br /> 乾ききった所で髪をピンで止めてから、私は顔を弄り始める。<br /> 日焼け止めを薄く塗り、パウダーファンデを薄く叩くだけで発色が良くなる。左右に顔を振りながら調子を確かめ、昨日減らした眉をアイブロウで描いて行く。<br /> あまりインパクトの強い顔ではないし、濃い目の色が似あう顔でもないので、化粧は最低限だ。幾ら外に出るのが怖いとはいえ、顔が別人になってしまっては塩梅が良くない。<br /> アイシャドウとて最低限、マスカラはどうするべきか悩んでから、止める事にして、ビューラーで持ち上げる。睫毛は元から長い方だ。<br /> 高校当時は外に出るとなると少し強く化粧したものだが、今となってはそれが滑稽だったのではないかと少し心配になる。<br />「グロス……は、うーんこれかなあ……」<br /> 肌色に近いピンク。無難だろう。まさか真っピンクを付ける訳にもいかないし、私の顔には合わない。<br /> 当時のメイク法を思い出しながらであるから、一つ一つ時間がかかってしかたない。勿論急かされている訳ではないけれど、これが二年半のギャップかと思うと少し憂鬱になる。<br />「……先に服着れば良かった」<br /> 有る程度整えた後、自身がパジャマのままである事に気が付く。髪を後回しにして、私はクローゼットから高校当時に来ていた私服を引っ張り出して並べる。秋口であるからして、そこまで厚着は出来ないものの、私は肌を晒したくない。<br /> 私の趣味、母の趣味は大体合致している為、自分で購入した服も、母が購入して来た服も、大体がどこかお嬢様風味で安っぽさがない。私の安っぽい顔から考えると多少ギャップはあるものの、高校当時はそれで満足していたので、クローゼットに収められているものは、シックだけれどワンポイントが強烈なものか、ヒラヒラが多いものか、どちらかだ。<br /> 当時とはだいぶ意識の違う今、どれを選ぶべきか。<br />「これは……ウエストがはっきりしすぎ。これは、胸が。こっちはお尻。……あ、ワンピ」<br /> クローゼットとは別に据えられた服が数着ある。これは母が買って来たものだ。<br /> 少し大き目で黒を基調にしたワンピース。スカートの縁と襟、袖に白い細目のフリルが付いている。ウエストこそ締まっていないものの、やはり胸は気になるので、これはパットで何とかしよう。<br /> ブラは……2サイズ大きいものだ。パットを固定出来るものを選んで胸に詰め込み、これを収める。昔から、これをするたびに虚しい気持ちになる。<br /> 中に白いシャツを着て、そこにワンピースを被り、足のラインを何とかする為、膨張色の白ニーハイソックスを穿く。<br />「あ、案外いけるかな……こんなに整えたの、凄い久しぶりだし……」<br /> 姿見がないのでいまいち全体像がはっきりしないものの、酷いものではないという確信があった。<br /> 改めて置き鏡の前に座り、母が寄こした髪留めの中から、黒い鼈甲のものを選ぶ。桜の柄が幾つもちりばめてあり、恐らく祖母から譲り受けたものだろうと解る。<br /> 年季が入っているものの、高級感があるのは流石良いところの娘だ。<br />「……う、む。全身が解らない」<br /> 柔らかめの香水を薄くつけてから、自身の服を翻しつつ、どうなっているか確かめる。置き鏡では全体が観えない為、玄関の姿身を確認するしかない。<br /> 私はそっと部屋を出て廊下を行き、母を気にしながら玄関にまで赴く。<br /> ぎゅっと目を瞑ったまま姿見の前に立ち、ゆっくりと開いて自身の姿を見定める。<br />「――うん。うん。うん――うん」<br /> どうだろうか。自身の記憶にある、あの頃だろうか。やはり細い。それは仕方ない。あの頃だって細かった。しかし、髪ぼさぼさでパジャマで疲れた顔をした私とは、かけ離れたものになっている。<br />「あら、タツコさ――」<br />「お、お母様」<br />「――ちゃんとお化粧も覚えていたんですね。服も、良く似合っています」<br />「は、はい」<br />「身体のラインが隠れるから、丁度良いと思ったのですが、どうですか」<br />「え、ええ。大丈夫です」<br />「……可愛いですよ。ほら、こっちに来て、良く見せてください」<br /> 母に連れられ、リビングに赴く。<br />「え」<br /> そこには……朝になって帰宅した父の姿があった。<br /> 私は息が止まりそうになる。私が化粧をしている間に帰って来たのだろうか。<br /> 父は此方を見ると、その目を見開いた。<br />「タツコ、か」<br />「は、はい。お父様……その、あんまり、見ないでください」<br />「何を言うか。ミチ、これは?」<br />「外に出る努力を、するそうです。アナタ、見てあげてください。ほら、うちの娘は、こんなに可愛らしい」<br />「――」<br /> 父の言葉が恐ろしい。<br /> 父は私に対して、何も言わなかった。その無言の圧力が、恐怖以外の何ものでもなく、どんどんと怖れだけが肥大化していったように思える。<br />「タツコさんは、変なんかじゃありません。少しだけ臆病になってしまっただけです。あの時、私達はこの子を支えてあげられませんでした。もっと上手く立ちまわれていたのなら、娘を部屋に閉じ込めるような真似はせずに済んだ筈です。アナタも、それを後悔していたじゃありませんか」<br />「そう、だが」<br />「アナタのプライドが高いのは、知っています。でも、お願いです。今なんです。やっと顔を出してくれた、この子に、この子に報いるのは、今なんです」<br /> 父と母の間に、どのような事があったのか、引きこもっていた私には解らないし、母もそれを語らなかった。ただ良好で無かった事は確かであるし、それは私が原因である事は理解していた。<br /> しかし、もっと明確な、具体的な、私と喋らなかった理由がある。<br /> 父はプライドの高い人だ。<br /> 生まれながらにして何不自由なく暮らしてきて、勉強も出来た。仕事とて順調である。<br /> 家柄が良く、学歴が良く、妻は美しく、自身もまた美丈夫だ。<br /> そんな彼が受けた唯一の傷。<br /> 人生における汚点、それが、私だ。<br />「……願いです。アナタ。この子を見てあげてください。アナタの子です。私達の可愛い娘なんです」<br />「――ミチ」<br /> その汚点を、外に晒したく、なかったのだろう。<br />「タツコ。久しぶりに、顔をみたな」<br />「……はい」<br />「その。母さんに似て、お前は美人だ」<br />「お、お父様?」<br />「俺は、お前にどう接してやるべきなのか、まるで解らなかった。言い訳でしかない。勿論解っている。だから許してくれとは言わん。俺は父親として、娘のお前に向き合おうとしなかった」<br />「お父様はその、良く出来たヒトですから」<br />「ああ。生憎劣等感なんぞ理解出来ん。それが元でな、部下にも嫌われっぱなしだ」<br /> 何においても上の方上の方を歩んで来た父だ、下の考えを理解しろという方が無理なのかもしれない。まして二十歳になって引きこもる娘の精神性など、どれほど考えた所で共感は不可能なのだ。<br /> ただ父が懸命なのは、それを解っている事だろうか。<br /> だからこそ……余計な事を言わず、娘と会話すれば衝突か、傷つけるかどちらかだと理解した上で、あのような態度をとったのかもしれない。<br />「アナタ」<br />「だが。前を見るというのなら、引っ張り上げるぐらいの心持はある。やる気のない人間を幾ら盛り立てた所で意味がないというのは、誰でも解る事だ……いつでも言え、外に出たくなったら、働く場所ぐらい用意する。勉強がしたいのなら、夜間に通え。私に出来る事は、働き口の紹介か、金を出す事ぐらいだ」<br /> 引きこもって以来、久しぶりに父の声を聞き、父の顔を見た。<br /> 強い口調ではあるが、悪意はなく、むしろ自責すら感じさせるものがある。私をこうしてしまったと、心の底では後悔しているのかもしれない。<br /> 全部私が悪いのに。<br />「ごめんなさい、お父様」<br />「いい。結果を出せ……いや、これがいかんのかな、すまん」<br />「ううん。そんなこと、ありません。私は、お父様が立派な人で、尊敬しています」<br />「タツコさんは、良い子ですから。ねえ、アナタ」<br />「――ああ。お前は可愛い、私達の娘だ、タツコ」<br /> 私は、いま、一体、どんな立場に立っているのか、良く分からなくなってしまった。<br /> 本当に、昨日まで部屋から出る事すら怯えていた人間だったのだろうか。<br /> 門は常に開かれていて、周りの人達は元から何も拒んでなどいない。社会は私など気にしておらず、そんな悪意は満ちていない。<br /> 全部解っていた筈だ。それを理解した上で引きこもっていた。なのに表へと出ようとしなかったのは、きっと自身のくだらない自尊心が、本当の意味で理解などしておらず、自分可愛いあまりに周りを犠牲にしてまでくだらない精神性を保とうとしただけなのかもしれない。<br /> 父と母が、私の肩を抱く。<br /> 折角化粧をしたのに、涙で流れ落ちてしまう。<br />「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」<br /> <br /> <br /> <br /> ※<br /><br /><br /><br /> その日、二年半ぶりに家族で食事をとった。<br /> 父はテレビを見ながら食事をするような人でも、喋りながら食べるような人でもないというのに、今日ばかりは父が私に何度となく話しかけた。<br /> 内容は父らしい。最近噂になっているSNSでの犯罪暴露をどう思うか、一体どんな精神性があったらそのような莫迦な行いをするのか、若い子達を指導するのに一番効果的な方法は何か、若者のコミュニティ形成が自分の頃とどう違うのか――大体は、若者に対する問題である。<br /> 私は社会に属していないので体感的な意見は一つも言えないものの、客観的な立場から若者を見る若者、という意味を気にしていたらしい。<br /> まだ父と喋り慣れていない為、だいぶ途切れ途切れな会話となってしまったが、父はそれでも納得してくれた。母は終始、そんな話を横で聞きながら笑顔で居た。<br /> 明日の朝食の仕込みをする母の横で洗い物をしながら、私はぼんやり考える。<br /> こんなにも、容易い事だったのだ。<br /> 勿論、私は家族に恵まれていたからこそ、まだいささかの緊張はあるものの、こうして家族に顔向け出来ている。<br /> しかし恵まれているかどうかなど、一端離れた場所から窺わねば、思いの外解らないものなのである。<br /> 世の中には筆舌に尽くし難い家庭環境を抱えた人々が暮らしている中、私という人間が幸いにも組み込まれた家族というのは、それらに比べれば驚くほど裕福で、幸福なのだろう。<br /> 特に父だ。父は食事の後、問題があったとかでまた直ぐ会社に戻ってしまった。<br /> 昔から厳しい人であった。ルールが守れない、社会不適合、そういった人間を悉く見下していたので、引きこもった私など、本当に害悪としか見ていないものだとばかり考えていた。<br /> 当然腹の内など解ったものではないが、ちゃんとした言葉で、私という娘の立ち位置をハッキリと認めてくれた事は、私と、そして父にとっても幸いだっただろう。<br /> 形だけだっていい。本心でどう思っていようと、構わない。どうあろうと、彼はちゃんと娘として、会話してくれたのだから。<br />「洗い物、終わりました」<br />「はい、ありがとう。お茶、飲みますか」<br />「頂きます」<br /> パジャマで、髪ぼさぼさではなく、整えて、化粧をして、着替えた状態で食卓にいる今が、不思議でならない。ブックスタンドに立ててあった女性誌を手に取って食卓で眺める、なんて行為を自然としていると、まるで高校生の頃に戻ったような感覚がある。<br /> そうだ。何も特別なものはない。私はあの時までちゃんと、女の子だったのだから。たった二年半で、その全てが崩れさる筈がない。<br />「どうぞ」<br />「ありがとうございます」<br /> 母からコーヒーを受け取り、フレッシュを二つ、角砂糖を三つ入れて掻き回す。昔からこういった飲料に混ぜる砂糖やミルクの量は多い。<br /> 母が前に座り、機嫌の良さそうな顔を向ける。<br />「お父さん、ちゃんとお話してくれましたね、タツコさん」<br />「はい。……少し慣れませんけれど、でも、今までがまるで、嘘のように前向きです」<br />「お着替えしたり、お化粧をしたり。少しでも社会に関わろうという姿勢が、気持ちを盛り上げるのだと聞いた事があります。私は専業主婦ですけれど、こうして毎日お化粧もしますし、お洒落もします。それはやっぱり、いつでも外に出られる、という意識と自信が付くからですし、お父さんにブサイクな所を、見られたくないといった気持ちでもあります」<br />「お母様は元から美人です」<br />「気を抜くと、何時の間にか歳をとってしまうものだと、お母様から教わりました。私だってもう四十も前半ですからね。幸い、若いと言ってもらえますけれど」<br />「大変な事ですね、女性を、保っているというのは」<br />「はい。お父さんは体格が良くて顔も良い、私には勿体無いくらいの旦那様です。お見合いですから、ライバルが出現する間もなく結婚してしまいましたけれど、本当だったら取り合いになったでしょう。今だってそうかもしれない。だから、気は抜けませんよ」<br />「――お父様は、その。浮気とか」<br />「……んふ。あれで、奥手なんですよ。私が初めてだったそうです。私もでしたから、初夜はなんとも、気恥かしかったのを、良く覚えています……って、娘にする話じゃあありませんね」<br />「いえ」<br />「ただ、慣れというのは恐ろしいもので、普段だったらやらない事も、慣れて来ると意識が散漫になったり、ルーズになったり、マンネリ化してしまったり、するものです。だから、私はお父さんに飽きられないように、四方八方手を尽くしているんですよ。女性というのは、兎に角、面倒な事柄が多いんです」<br />「ごめんなさい。そこに、私の面倒事まで加えてしまって」<br />「……今日は、安心しました。お父さんからもちゃんと言葉を貰えた。本音かどうかは別としても、あの人は口にした事を曲げたりはしません。プライド、高いですからね。ねえ、タツコさん」<br />「はい」<br />「これから、少しずつ外に出る訓練をしましょう。人に見られても大丈夫となったら、学校に通えるようにするのも良いですし、就職というのならば、お父さんが何とかしてくれます。結婚だったら、恐らく、おじい様が直ぐにでも」<br />「あ、や、あ、そ、その……男性は、ちょっと」<br /> 口にしてから、しまったと思う。コーヒーを一口してから、小さく母の顔を窺う。<br />「……やっぱり、男性が怖いんですね。いえ、解っていた事ではあります。過食の原因が原因でしたし」<br />「面倒な娘で済みません……」<br />「いいえ。貴女が一番幸せになれる手段を、探してください。私も当然、お手伝いします……そういえば、お隣の水木さんのお子さんですけれど」<br />「あ、はい。カナメさ……カナメちゃんですね」<br />「どうしますか。まだそんな遅い時間でもありませんし、この流れで、顔を合わせに行くのは」<br /> 壁掛け時計に目をやる。時刻は七時半だ。恐らくカナメの母は働きに出ているだろう。カナメはあの年よりずっと幼い頃から夜は一人で過ごして来た。そんな環境が、今の『あんな』彼女を作りあげてしまったのだろうか。<br /> しかし、今か。それは、どうなのか。<br /> 確かに、外に出て変な格好ではない。だが、二年半のブランクは、玄関から外へ足を踏み出す事を良しとするだろうか。<br />「勿論、無理強いなんてしませんけれど」<br />「い、いえ。折角です。少し、その、ええと、五分戻らなかったら、迎えに来てください」<br />「サバイバルに出掛ける訳でもないでしょうに……」<br /> そう、それが普通の感覚だ。けれど私からすれば、玄関の外に踏み出すなど未踏破のジャングルに装備なしで突っ込む様なものである。しかし、せめて玄関の外ぐらいには行けないと、今後お話にならない。<br /> 私はコーヒーをぐいっと煽ってから、勢い良く立ち上がる。ゴミ袋をまとめてある箱からスーパーの袋を取り出すと、それをいつでも開ける状態にしてポケットに詰め込んだ。<br />「それは、何を?」<br />「精神的圧迫に堪えかねて、吐き気を催す可能性が」<br />「そう、ですか」<br /> 母の心配そうな目線を背に受けながら、私は玄関にまで赴く。姿見でもう一度身嗜みを整えてから、下駄箱から高校の頃まで履いていた靴を取り出し、二年半ぶりに足を通す。<br /> 玄関の扉に手をかける。自分でも驚くほどに、心臓がバクバクと音を立てていた。<br /> ノブを捻る。ほんの少し隙間風が入り、私の服を揺らす。瞬間閉じる。<br />「うわ……うわ……うわ……」<br /> 外ならいつも出ていたではないかと、己を説得する。<br /> そうだ、ベランダと大差ない。ただ、もしかしたら帰宅した同じ階の人と遭遇するかもしれない、というだけの事だ。面識はあるかもしれないが、大丈夫、私の事など気にしていない。気にしていない。気にしていない。気にしていない。気にしていない。<br /> もう一度ドアノブを捻る。隙間風が入る。<br />「うう」<br /> ツバを呑みこみ、上がって来るものに耐えながら、私はドアを玄関戸を開け放った。<br />「……ッ」<br /> 込み上げる。慌てて戸を閉め、ゴミ袋を顔の前に構える。<br /> 先ほど食べた夕食が丸々出てしまった。酸っぱくて、臭くて、気持ち悪くて、嫌になる。<br /> 過食していた頃が想起され、尚更嫌な気分になる。<br /> 突如襲い来るフラッシュバックに、私は頭を抱えた。<br />「た、タツコさん」<br />「ぐぅー……うぅぅ……大丈夫です。大丈夫」<br />「大丈夫な訳がありますか、戻ってください」<br />「こ、これ。このままだとこれ繰り返さなきゃいけないんです」<br />「……と、いうと」<br />「これを、玄関の前に来るたびに繰り返して……『今日はダメだった……』『また明日がある……』なんて言い始めるに決まっているんです……私、そうやってずっと逃げて来たんですから」<br />「け、けれど。顔、真っ青ですよ。無理は……」<br /> 背中をさする母の手のぬくもりが、今の自分にとっては恐ろしいほどの誘惑である。母の許しが全てを許してしまうからだ。<br />「お母様は、優しいです。凄く優しくて、綺麗で、ふくよかで、私の理想の女性です……私は、お母様みたいになりたかった。でもなれません。貧相で、小さい精神しか持ち合せて無くて、卑屈で、棒きれです」<br />「……」<br />「こんな人間です。でもお母様は優しいので、逃げ道を作ってくれます。それに頼ってしまう。でも、もう、いいんです。立ち止まる事に、手を貸さなくて、いいんです、お母様。なんかもう、本当に、嫌いなるぐらい滑稽ですけれど、私今、必死なので、今逃げると、どうせまた次の日次の日と先延ばしにします。先延ばしにして、玄関まで来て、また吐いて……そういうの、駄目なんだと思います」<br />「タツコさん……」<br />「玄関を出る出ないで、自身の将来とか、展望とか、そういうの語るには、虚しすぎますけれど……今、今出ます」<br /> ゴミ袋の口を縛り母に預けてから、口元を袖で拭う。買ってもらったばかりで汚れてしまって申し訳ないが、そんな事も言っていられない。<br /> 今を逃すと、虚弱精神の私は同じ事を繰り返す。<br /> 繰り返した先にあるものはいつもの諦めだ。<br /> どうせ私は玄関の外にも出れず、愛しい人に顔向けも出来ないような人間であると悪い方向に達観してしまう。<br /> それでは駄目だ。<br /> もう追い詰まっているのだから。<br /> 追い詰まったのならどうにか、別の行き先を見つけねばならない。<br /> そしてその行き先は、また薄暗い穴倉のような部屋では駄目なのだ。<br /> いつまでもベランダの民では、カナメの期待にも沿えない。<br /> 鼻を啜る。<br /> 涙目になりながら、もう一度玄関戸を押し開く。<br />「くふっ……ぐっうう……」<br /> こみ上げて来るものを飲みこみ、開け放たれた戸の先に、足を踏み出す。もう一歩踏み出す。<br /> 戸がバタンと閉じられた。<br />「うへ、うわ、気持ち悪い」<br /> 秋の夜風に当たりながら、空を見上げて、そのように呟く。都会が近く、星も見えなかったが、気分は兎も角、いつもよりも、なんとなく綺麗に見えた。<br />「タツコさん……?」<br /> 後ろで戸が開き、母が顔を覗かせる。私は顔をぐちゃぐちゃにしながら、一生懸命笑顔を繕った。<br />「外です……ベランダより、広い。ああ、誰か来そうで、おっかないです、お母様」<br /> 視線を隣の部屋の玄関戸に向ける。ほんの数メートル先に、愛しい彼女がいるのだ。<br /> 今、私は二年半ぶりに外に出ている。<br /> 自身を雁字搦めにした妄執の鎖を思い切り引きちぎって外に出て来たのだ。<br /> 代償は、何と易い事か、服一着と嘔吐一回だ。<br />「ははは」<br /> 思わず笑う。<br /> 私が外に居る。<br /> それが当たり前だったのに。<br /> 私はちゃんと女の子をしていたのに。<br /> 普通に恋して、普通に高校生をしていたのに。<br /> 私の精神が、私の体が細いばかりに、こんな事になってしまった。<br />「私、私、お母様。私ね、女の子なんです。女の子、だったんです。何時の間にか、二十歳になって、法律上、もう大人になってしまって。でも、私は背負うものが一切無くて、ただ飯ぐらいのごく潰しで、社会的に一切認められていない、社会調査で引きこもり率を零コンマ引き上げているだけの、塵芥です……私、私、もう少し、女の子でいたかった。もう少し子供で居たかった。普通でいたかった。普通で、普通に、大人になりたかったよぅ……」<br /> 膝から崩れ落ちる。もう限界だった。足が完全に嗤っている。<br /> 折角新調してもらった服は嘔吐で少し汚れて、地面にしゃがみ込んだ所為で埃まみれになる。化粧をしたのに涙で流れ落ちて、口紅だって擦れただろう。<br /> 今の自分を鏡で見られる自信がない。<br />「タツコさん。良く頑張りましたね。今は戻り……あら」<br /> 母が私の肩に手を触れる。私も手を借りて立ち上がろうとした時、母の動きがピタリと止まった。<br /> 誰か来たのだろうか。<br /> 私は恐る恐る顔を上げる。<br />「――タツコ?」<br /> 声のした方に咄嗟に目をやると、そこでは、十歳程度の小さな少女が、玄関戸から顔を出していた。<br /> 隣の家だ。<br /> 隣に住んでいる十歳の少女といえば、彼女しかいない。<br /> そしてそれは見覚えがある。ついこの前、写真を貰った、彼女しかいない。<br />「かな」<br /> 思わずカナメ様、と言いかけて口を噤む。私は大急ぎで母にジェスチャーを送る。<br />「え、と。つ、都合が良かったですね、タツコさん。お母さん、中で控えて、ますから」<br />「す、すびません」<br /> 小さな音を立てて戸が閉まる。私は顔を上げられず、地面に座ったまま彼女の反応を窺う。<br /> やがて彼女は玄関から出て来ると、私の傍によって、私の肩を抱く。<br />「なんてこと。まるで夢を見ているようだわ。隣で何事か物音がしたから出て来たら、タツコが居たの」<br />「か、カナメ様でいらっしゃいますか……わた、私、その、……ああ、カナメ様が穢れます。その手を解いてくださいまし」<br />「嫌よ。なんか、少しにおうけれど」<br />「うぐ……そ、外に出る時、粗相しまして……」<br />「そう。頑張ったのね。私に逢いたくて、出てきてくれたのかしら……顔をあげて。良く見せて」<br /> カナメの手が私の顔に添えられる。色々と人に見せられない状況だが、カナメに言われては仕方がない。素直に顔を上げる。カナメの顔が、実に良く見えた。<br /> 言っていた通り、身は細く、まるで小学校の頃の私を見ているようだ。<br /> 違う点といえば、私とは比べられない程、可愛らしいという事だろう。私が登山道に立てられた標識の棒きれなれば、彼女は高嶺に咲く山百合である。<br />「まあ。お母様に似ているわね。本当に身は細いけれど、貴女、何も変じゃないわよ? 服も似あってる」<br />「す、少し、頑張りました。ああ、お美しゅうございます。カナメ様。この気持ち、どう表せば良いのか、私では語彙が足りません……ああ、信じられない。カナメ様……カナメ様……」<br /> どうしようもなく涙がこぼれて来る。<br /> ここが外である事を忘れてしまうほど、私はカナメに夢中になっていた。<br /> いつも触れあっている彼女ではあるが、たった一枚の防火壁は悉く分厚かった。私のか細い腕ではそれを割る事も叶わないと思っていたのに、今こうして彼女の腕の中に私がある。<br /> なんと光栄な事だろう。<br /> なんと嬉しい事だろう。<br /> 目の前にカナメがいる。私の愛した彼女がいる。私の愛しい女王様がいるのだ。<br /> 私はそのまま、地面に頭を垂れる。<br />「……旗本竜子でございます。お初に、お目にかかります……」<br />「頭を上げて頂戴。こんなところ、誰かに見られたらそれこそ社会抹殺よ」<br />「し、しかしぃ……」<br />「いいから。タツコのお母様、タツコのお母様?」<br /> カナメが声を上げる。すると、玄関からひょっこり、バツの悪そうな顔をした母が顔を覗かせる。<br /> それも当然だろう。隣に住んでいる十歳児に頭を下げて許しを請う二十歳児が自分の娘なのだ。<br />「はい……」<br />「ごめんなさいね。色々と特殊なの。タツコのお母様。この子、少し預かっても?」<br />「え、ええ。た、タツコさん」<br />「は、はい……その、お見苦しい所を……その……なんと説明して良いか……」<br />「い、いいえ。お、お母さんはずっと起きているから、何時でも、戻って来て大丈夫です」<br />「解りました……その、後で説明しますので……」<br />「じゃあ、少し預かるわ」<br /> 私はカナメに引きずられながら、水木家にあげられる。<br /> 他人の家などいつぶりだろうか。高校生の頃も、あまり人様の家に上がり込んだりはしなかった。<br /> 入ると直ぐに、人の家特有の、自分の家とは違った不思議な匂いを感じるものだ。カナメの家は恐らく母の所為か、少し香水の匂いが強いように思える。カナメに腕を引っ張られ、どこに連れて行かれるのかと思うと、洗面所に立たされた。<br />「私のメイクセットを貸すわ。あと、口もゆすぎなさい。ウエットティッシュは棚の上にあるから」<br />「ご迷惑おかけします」<br />「そんなの良いのよ、どうでも。そのままの顔見せるのが嫌なら、整えなさい」<br />「はい」<br /> 洗面所の鏡と向かい合い、カナメから借りたメイクセットで目元口元を何とかする。小学生が持っているものにしては本格的なものが揃っているのは、母の影響か。<br /> 母子家庭で母がお水ならば、そんな事もあるだろう。統計的にどう、なんて計れるものではないが、殊更体面を気にする職業であるからして、娘にも気は使うのかもしれない。それに、カナメは母を尊敬している。<br />(……凄い。人様の家に居る。しかもお隣さんの。カナメの。な、何してるんだろう、私)<br /> 水で口を濯ぎながら、鏡を見て思う。<br /> 今日は五、六年間で起こりそうな出来事が全て詰め込まれていた。そもそも私の二年半など、元から動きが無かったようなものなので、まるっきり空白である。<br /> 化粧をして、身なりを整えて、母に顔を出し、父と話をして、家族で食事し、隣の家にあげられている。<br /> そんなの、どこの誰でも一日でやりそうなものだが、私はそういった一般には含まれていない。脳の処理がいまいち追いつかず、時折思考停止しそうになる。<br /> 顔こそ見ずに話しているが、他人と向き合うなど、そもそも自分に出来るものだったのだろうか。<br /> ついさっきマンションの通路に出ただけで胃の内容物をぶちまけたクセに、人の家で口を濯いでいるのである。<br /> 決意一つでこうも上手く進むものか。<br /> ……いや、と考える。<br /> やはり普段のリハビリが効いていたのかもしれない。そして何よりも、本当に直ぐ傍に、逢いたかった彼女がいる事実が、恐怖感による尻ごみよりも、前に進む事を是としたのだろう。<br />「カナメ様、あの」<br />「こっち。私の部屋」<br />「あ、は、はい」<br /> カナメに連れられ、彼女の部屋の前に立つ。扉には『かなめの部屋』という木製の可愛らしい表札がかけられている。<br /> 部屋に入ると、そこは簡素な部屋だった。<br /> 失礼な話だが、もっととびっきり非常識な部屋だとばかり考えていただけに、これは拍子抜けである。<br /> 部屋の真ん中には折りたたみのテーブルが出され、お茶も用意してあった。相変わらず子供らしくない手際の良さだ。<br /> 私はテーブルの前に腰かけ、小さく辺りを逡巡する。<br /> 小学生が使うような木製の勉強机ではなく、金属パイプのパソコンデスクが部屋の右端にあり、ノートパソコンと勉強道具が一式並んでいる。<br /> 左にはベッドがあってカナメが腰かけている。ぬいぐるみの一つも見当たらない。<br /> 部屋の正面を占拠するのは本棚だ。原色が効いた漫画本は一切見てとれず、大体がハードカバーの学術書のようなものばかりである。本屋の人文書の棚を眺めているようだ。<br /> 確かに、おかしさは無かったが、年相応かといえばだいぶ違うだろう。イマドキ漫画本の一冊も無い小学生の部屋があるものだろうか。受験戦争時代の子供でもあるまいにだ。<br /> しかもこれは母が強要したものではなく、本人の趣向に沿っている筈である。<br /> ひっそりとカナメを見る。彼女は、酷く嬉しそうに微笑んでいた。<br />「あの」<br />「なあに」<br />「ご機嫌が、宜しい様子で」<br />「当然よ。私のタツコが逢いに来てくれたのよ。これを喜ばないとしたら、私はこの世の楽しみなんてあったものではないわ」<br />「そんなに」<br />「そんなによ。あ、お茶どうぞ」<br />「あ、はい。いただきます……」<br /> 味など解ったものではない。世間一般の女性で言えば、好きな人の部屋に初めてあげられた状態である。私とカナメの関係性がソレに当たるかといえば違うかもしれないが、愛してやまないという点で言えば同じかもしれない。<br /> カナメはいつもの調子だ。私は隔て壁の向こう側からする音で彼女の動作や仕草を推測するだけの生活を送って来たが、今まさに、視覚として目の前にある事実は、緊張と同じくらいの感動がある。<br /> カナメは視線を外す事なく、ずっと此方を見ている。顔は良い。もうなんだか慣れて来た。だが体の方はあまり視線を向けて欲しくはない。<br />「わ、私。楽しいでしょうか」<br />「楽しいわ。なんだかオドオドしてて。十歳児に窘められるってどんな気分?」<br />「解りません。緊張しちゃって」<br />「そう。そりゃ、そうよね。人の視線の無い生活を二年半も送って来たのだもの」<br /> そういって、カナメが立ち上がって傍に寄る。彼女は私の隣に座ると、床に置いた手に手を重ね、下から私の俯いた顔を覗きこむ。<br /> 可愛らしい。陳腐だが、天使とはこの子の事かもしれないと、なんとなく思う。<br /> 壁越しではない。彼女の体温が、全体で感じられる。あまり、私の体には触れてほしくないけれど、でも、けれど、カナメならば、そうだ――。<br />「あら、思いの外、否定しないわね。跳ねあがって避けるかと思ったのに」<br />「今、私は、カナメ様に、認められているでしょうか」<br />「うん? ああ、当たり前すぎて何とも思わなかったわ。そうね。確かに痩せてるけど、そのぐらいだったら別にあちこち何処にでもいるでしょ。あら、そっか。そうよね。私に認めて貰いたかったのだものね」<br /> 頭がくらくらする。<br /> そうだ。今日は色々と在りすぎて、一番の目的を達成した事も流れの中に収めてしまっていた。<br /> カナメが、私の顔を見て、体を見て、普通に接してくれている。私はとうとうこの子に認められて、なおかつ、体にまで触れさせている。自分で観るのも嫌な体にだ。<br /> 実感すると嬉しさと緊張で逆に吐き気がする。私はツバを三回程飲みこみ、不器用にカナメへ笑いかける。<br />「無理して笑う必要ないわよ?」<br />「あの、でも。私その、やっと、カナメ様のご希望に添えたかと思うと、嬉しくて」<br />「うふふ。そうね。良く頑張ったわ。私ね、凄くうれしいのよ。本当に、たった十年しか生きていないけれど、今までで、一番嬉しいの。貴女に逢いたかったわ。ねえ、タツコ」<br />「はい」<br />「抱きしめても良いかしら。嫌なら止めるわ?」<br /> この細い身を抱きしめるのか。触れるだけでは飽き足らず、抱きしめるのか。<br /> 昨日母に背中から抱きしめられた時は大丈夫だった。ただ、あれは母だ。柔らかく温かく、私を一番に心配してくれている、母だからである。<br /> ではカナメはどうなのか。<br /> 私はカナメに向き合い、手を握り締める。背中を冷や汗が伝うような気がした。<br />「怖いならやめましょ」<br />「い、いえ!」<br />「わ、びっくりした。大きな声出せるのね?」<br />「す、済みません。いえ。今日はその、出来る事は全部しようという覚悟でありましたので、その、ええと、是非、ああ、でも、私細いですし、骨ばってますし」<br />「そんなの私も一緒よ」<br /> 何を思ったのか。カナメがワンピースをいそいそと脱ぎ始める。<br /> 私が止める間もなく、彼女は裸になってしまった。<br /> 何かこう、法律上、大変宜しくないような状況である気がしなくもない。しかしながら私にはそれを止める権利はない。彼女は自分の部屋で自主的に服を脱いだだけである。淫行ではない、決して。<br />「酷いものでしょう」<br /> 彼女はそのように言う。私は息を呑んだ。<br /> ――病的である。<br /> 例えるならば、白磁の花瓶だろう。それがシックリと来る。<br /> 前後に凹凸は無く、ウエストは悲しく括れている。<br /> 浮き出る肋骨が酷く生々しい。この体は脆弱に出来ているという事実を突き付ける。<br /> まるで幼いころの私――いや、それより酷いか。顔がコケていないのが不思議なほどである。<br /> そして、この胸に穿たれた傷跡。<br /> 腹腔鏡手術痕か、かなり小さくはあるが、その白く肉の薄い身体では目立ちすぎる。<br /> だが――そのあまりの繊細さが、異様に美しく思えてしまうのは、彼女が彼女だからだろうか。<br />「そんな事ありません。美しいです、カナメ様」<br />「まあ。女児の身体を見てなんて言い草。貴女、ホンモノねえ?」<br />「あ、いや、その、そういった、意味はその」<br />「くふふ。いいの。有難う。きっと貴女ぐらいだわ、この身体に共感してくれる人は」<br />「あの、風邪をひきますから、服を」<br />「いいわよ、これで。それで、抱きしめても良いのかしら?」<br />「――はい」<br /> ここまでされては、嫌だとも言えない。此方が返答すると、カナメはゆっくり膝をついて、体重を預けて来る。どうしたものかと思ったが、私がアクションを起こさないのも無礼であるような気がしたので、その細い身の背中へと手を回す。<br /> 本当に細い。私が力んだだけで折れてしまう、まるでガラス細工を胸に抱くような慎重さを要する。<br /> ただ、その身体は温かかった。手に彼女の体温が沁み込んで行く。子供は体温が高いというから、その所為かもしれない。<br />「ああ、本物だわ。本当のタツコが今、私の腕の中にいるのね。いえ、この場合、私が小さいから、貴女の腕の中にいるのかしら。でも、なんだかおかしいわ。酷くドキドキして、胸が苦しいの」<br />「ご、ご自愛くださいまし」<br />「違うわ。心臓の所為じゃない。こんなことってあるのかしら。おかしいわね、なんだか、本当に」<br /> 抱きしめて、改めて彼女の懐の深さを知る。確かに、形としては彼女を抱きしめているのだが、その精神的な部分で言えば、私は彼女に抱きしめられている。<br /> 母に抱きしめられた時は、劣等感ばかりが前面に出てしまっていた。母に対する想いは変わりないが、その肉体から来るどうしようもない否定感は、多少なりとも私を傷つける。<br /> しかしカナメは違った。彼女の骨ばって筋ばった身体は、けれども私を否定せず包み込んでくれる。同じくして不健康な身体をしているといった同類意識とはまた違う、言葉では言い表せない安心がある。<br /> 抱擁とはこれの事を言うのだと、私は彼女の甘い香りを嗅ぎながら、ぼんやりとした頭で考える。<br />「こんな事、あるのですね」<br />「あるのね。驚くべき事だわ。タツコ、どう、怖い?」<br />「いいえ……まるで、元からこうする事が決まっていたような、安らぎがあります。何故、もっと早く、こうしなかったのかと、今になって疑問に思うほどに――不敬な私をお許しください」<br />「許すわ。全部許すわ。私は貴女に同情したりしないけれど、私は常に貴女の味方よ。子供で、頼りないけれど、こんな私が貴女を幸せに出来るならば、それほど幸福な事実はないわ」<br />「勿体無いお言葉です」<br /> カナメがそっと離れる。観れば、彼女は顔が赤かった。羞恥から来ているものだとすると、私もまた気恥かしい。<br />「カナメ様、服を……」<br />「少し暑いから、これぐらいが心地良いけれど」<br />「私が耐えられません」<br />「あらやだ、タツコったら。うふふ」<br /> いたずらっぽく笑ってから、服を着始める。<br /> 彼女に受け入れて貰ったという高揚感、彼女の抱擁による興奮が、今まで悩んでいたものの大半を吹き飛ばしたような気がするのだ。<br /> 勿論錯覚だろう。また次の日にはドアの外に出るのが辛いに決まっている。ただ、今までと違った未来が、可能性が、彼女によって齎されたのは紛うことの無い事実だ。<br /> 決断のタイミングというのは常に難しい。<br /> 正当ばかりを得ている人間なんて存在しない。特に私のようなこれと言って特徴もなく、酷い劣等感を抱えているような人間が選ぶ道は、一般人のそれよりも高確率で悲惨だろう。だが、今においては、これが一番正しい。常に恐怖と後悔を抱き続ける私にして、後の憂いを一切感じないのだ。<br /> こんな事は今まで無かった。<br /> カナメは着替え終わると、さも当然のように私の膝の上に乗り、その背を預ける。私また何の躊躇いもなく、彼女を背中から抱きしめた。<br />「これではまるで恋人ねえ」<br />「カナメ様は、良く、このような事をされるのですか」<br />「いいえ。初めてしたわ。母にもしないわよ」<br />「ではなぜ」<br />「んー。じゃあこうするわ。命令。椅子になりなさいな」<br />「え? あ、はい。どうぞ」<br />「したいからした、でいいわね」<br />「左様ですか」<br /> 何でも良い。カナメが望む事を、今ならなんでも叶えられる。這いつくばって足を舐めろというのなら、むしろ喜んでやろう。私は元から捨てる程度のプライドなど持ち合わせてはいないのだ。<br /> この時間が酷く幸福であった。<br /> 対話自体はいつもと変わらないが、声は近く、触覚があり、ぬくもりがある。カナメが質問し、私が適当な返答をする。カナメは難しそうな顔をして私に振り返り、私は小首を傾げてそれをまた適当にいなす。<br /> カナメはそれに満足し、笑う。私もそれに合わせて、笑う。<br /> 腕が絡み、指が絡み、何時の間にか私達は、二人で床に寝そべり、向かい合っていた。その手は合わさったまま、ぎゅっと握りしめられている。<br /> 満ち足りている。これが欲しかったのだ。私という脆弱な人間の、私の面倒な精神を、同情するでなく、悲しむでもなく、ただ受け入れて、温めてくれる救世主が欲しかったのだ。<br />「カナメ様」<br />「なあに、タツコ」<br />「凄く幸せです」<br />「そう。私は、貴女の心を支えるに足りたのね」<br />「貴女がいなければ、私はずっと引きこもったままだったに違いありません。貴女に一目逢いたくて、己を奮い立たせて、前を向きました。貴女が居たからこそ、貴女が私に言葉をかけてくれたからこそ、今こうしていられます」<br />「あんまり言われると、照れるわ。私は別に、純粋に貴女の顔が観たかっただけだもの」<br />「それだって構いません。あの、カナメ様」<br />「ええ、何?」<br />「私、貴女が愛しくてたまりません。どうしたらもっと、貴女に近づけるでしょうか」<br />「十分近いわよ。こうして手を握り合っているじゃない」<br />「――ずっとお傍に置いて頂きたいのです。私、可能な限り、全ての要求に答えられるよう、努力します。だから――あの、捨てないでください……」<br /> 感極まっていた所為か、はたまたそれが本心だったからか。私も、良く分からないが、兎に角、彼女と離れるような未来が描けないでいた。<br /> 相手は十歳児で、私よりも十歳下で、小学生だ。そんな女児の裸を見て美しいと言い、精神的依存ともとれる発言を繰り返し、あまつさえ捨てないでと喚く二十歳の私は、相当に気狂いだろう。<br /> 挙句の果てに彼女は女の子だ。<br /> そこに性愛があるか否か、判断しかねるものの、当然『そうしても良い』と許されるのならば、私は喜んで『そう』するに違いない。<br />「前にも言ったわ。私は、必ず貴女を迎えに来る。大人になって、一人前になったら、本格的に貴女を召し抱えるの。私は働くわ。貴女はお家にいて、私に尽くして頂戴。やうやうしく扱いなさい。神の如く崇め奉りなさいな。それで貴女が満たされるのならば」<br />「是非、是非に。そうしてくださいまし」<br />「でも、時間がかかるの。働いて食べて行くまでに、時間が。大人になるには、時間がかかるの。だから、貴女はその間に、私に尽くす為の全てを学べばいいわ。するとなると、貴女はどうしても、外に出なきゃいけなくなる。そうでしょう」<br />「はい。御尤もです」<br />「死に物狂いで努力する。生き残る。戦うわ。だから貴女も、戦いなさい。貴女を笑う奴なんて、平手で引っ叩いてやればいい。貴女を邪魔する奴なんて、蹴散らしてしまえば良い。貴女を脅かす奴なんて、押しのけてやればいい。何も心配要らないわ。貴女には私がいるから。将来が不安? 未来が観えない? 辛くて苦しい世界では生きていけない? そんな憂いは抱く価値もないわ。貴女の価値は全て、私に集束するのだから」<br /> 彼女という存在。彼女という保護。彼女という秩序。<br /> それ等の恩恵を受けて、私は生きていても良いのだという。<br /> 閉塞感だけが支配した私の心に穴が穿たれたような気がした。カナメを慕う事で自分を保つといった保守的な価値の中には、同時にカナメを慕う事によって自身の未来に対する不安を解消するといった意味も内包されていたのだと、今になって気が付く。<br /> そうだ。<br /> この子さえ居ればよい。この子さえ認めてくれればよい。他の誰だって気にする必要がないのだ。<br /> 水木加奈女を崇拝し生きる事によって、私の人生は灰色から輝かしいものへと変容する。<br /> この愛しい彼女の傍に居続ける事こそが、私なのだ。<br />「タツコ、泣いているの」<br /> 熱いものが込み上げてきて、耐えられなかった。たった一人の人を、たった一つの物事を信じるだけで、こんなに幸福になれるなど、思いもしなかったからだろうか。<br />「ごめんなさい。お見苦しい所を」<br />「可愛らしい子。いいわ、幾らでも泣きなさい。あの時みたいに。あの時は、抱きしめてあげられなかったけれど、今ならこうしてあげられるもの。全ては、貴女の決意の賜物よ」<br /> それからの事を、私は良く覚えていなかった。<br /> 私が溜めこんだ薄暗い気持ちの、その全てを吐き出すかのように、私は彼女の胸の中で泣き叫んだ。<br /> 生まれつきのコンプレックス、好きだった人に言われた一言、結果普通ではいられなくなってしまった事、それから生み出された後悔の二年半、その全てをだ。<br /> カナメは終始私の頭を優しく撫でていてくれた。それが優しくて、嬉しくて、けれど、決して虚しい気持ちにはならなかった。人の優しさに触れる度に覚える劣等感の一切を感じなかったのだ。<br /> 私は彼女の為に生きて行こうと、新たに決意するには、あまりにも十分だった。<br /><br /><br /> つづ</span>く<br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-35891332726556398202013-07-14T22:36:00.000+09:002013-07-14T22:36:06.442+09:00こんてにゅーわーるどおーだー! について<br />
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<b>もくじ</b><br />
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4月<br />
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<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/07/blog-post_4.html">1、『継続世界の百合まみれ』</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html">2、『非正規雇用と非実在的実在子』</a><br />
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あらすじ↓<br />
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<span style="line-height: 27px;">並行世界が衝突して百年。<br /> 世界、特に大日本帝國は衝突側世界『イリアーネ』の住人達と共存共栄し、かつてない栄華を誇っていた。<br /><br /> 大帝都の山奥に切り開かれた学院都市『私立聖イリミカリッジ女学院』高等部魔法専科の新一年生、カナン王国ミナリエスカ大公爵家の日本分家産まれのエルフ『佐藤・ミナリエスカ・悦子』は、これから始まるいつも通りの、しかし新しい高等部での生活に胸を高鳴らせていた。<br /><br /> しかし何を間違ったか、突如自らをレズだと名乗って憚る『大仙宮寺宗左衛門丞美々美花』(だいせんぐうじ むねざえもんのじょう みみみか)に捕まった挙句脅され、無理矢理『地球同性友愛文化研究部』略して『エス研』に入部させられてしまう。<br /><br /> 華やかになる筈であった高校生活は、三日目にして破綻。<br /><br /> 同部に所属していた実家同士が停戦中のダークエルフで似非関西人『豊臣・マナエスカ・神無月』<br /> 幼馴染で日本原生神族、単眼の『天目一箇六合江』(あまのまひとつくにえ)<br /> 女の子にしか興味のないサキュバス『エトル・コトミル・桜木』<br /> 美々美花に一目惚れしてしまった竜亜人の『ミーアナイト・ドラコニアス』<br /><br /> などなど、様々な『人類』が寄ってたかって適当に部活を楽しみ始める。<br /><br /> 果して悦子はこの変人達が跋扈する世界(部活)で生き残る事は出来るのか。<br /><br /> 異種族の存在が当たり前になった世界の、異種族同性友愛交流小説。<br /><br /><br /><br /><br /> 不定期連載。<br /><br /> ナンバリングされた話さえ読めば、大体何処から読んでも読めるように書いていく予定です。<br /><br /><br /><br /><br /><br /> 登場人物<br /><br /><br /><br /> 大仙宮寺宗左衛門丞美々美花(だいせんぐうじ むねざえもんのじょう みみみか)<br /><br /> 大政治家にして大財閥の大仙宮寺の長女。<br /> 並行宇宙衝突後百年、ファンタジーな種族が街に溢れかえる光景も当たり前なった。大仙宮寺家は並行宇宙衝突地域(コネクト2)の管理を任されている。<br /> そんな事はどうでもよく、女子校に入ったミミミカだったが、どうやら本人はエス文化を夢見ていたらしい。しかしこの女子校にそんなものは存在せず、とても腹立たしい思いをしていた。<br /> ならもう無理矢理にでも作ってしまえと、本人は淑女(気に入った美少女)を集めて一大派閥を作ろうと目論み「地球同性友愛文化研究会(エス研)」を立ち上げる。<br /> 無茶な性格で、細かい事は気にしない。美少女が大好物である。<br /><br /><br /><br /> 佐藤・ミナリエスカ・悦子(さとう みなりえすか えつこ)<br /><br /> 並行宇宙衝突側世界、通称『イリアーネ』(最大大陸の名前を世界名としている)から移住してきたエルフ公爵貴族『ミナリエスカ家』の女性が、日本の佐藤一郎さんと結婚、世界で初めて異世界人との婚姻として注目された。<br /> ミナリエスカ公爵家は日本政府と正式な軍事同盟を結び、イリアーネ大陸カナン王国ミナリエスカ領には日本帝國軍も駐屯している。<br /> そんな話はどうでもよく、ミナリエスカは貴族ではあるがごく一般的な女子高生であったが、ミミミカの毒牙にかかり、無理矢理部に入部させられる。<br /> 別に同性愛者ではない(と思っているだけ)性格はともかくとしてミミミカは美人だと思っている。<br /> ちなみにエス上の妹がいる。<br /><br /><br /><br /> 豊臣・マナエスカ・神無月(とよとみ まなえすか じゅうがつ)通称カンナ<br /><br /> 大関西なんでやねん帝國王家豊臣家の三女。<br /> 目下の目的は国家名の改名である。本人はそもそも東京産まれなので、関西弁はエセだ。<br /> イリアーネの大公爵貴族、マナエスカ家とノリと勢いで軍事同盟を結び独立した大阪、大関西なんでやねん帝國であるが、マジで冗談にならないような魔法概念武装を誇っており、大日本帝國ミナリエスカ同盟軍は軍事衝突後和平を結び、現在は不可侵である。<br /> そんなことは本当にどうでもよく、マナエスカはレズであった。ミミミカと意気投合し、エス研を立ち上げる。<br /> ダークエルフの血が濃く、銀髪に真紅の瞳、浅黒い肌を持つ。<br /><br /><br /><br /> 天目一箇六合江(あまのまひとつ くにえ)<br /><br /> 単眼。大日本帝國華族、天津家分家。<br /> 日本帝國と原生種族サイクロプス族との仲介外交官を歴任する天目一箇家の長女。サイクロプス族はミナリエスカの軍事部門を担当している為、ミナリエスカとも親交がある。<br /> マナエスカとの軍事衝突以来、マナエスカは苦手らしい。<br /> それはどうでもよく、好きな人の前では新式ツンデレになってしまうようだ。<br /> ミミミカに弄られてばかりいるエス研メンバー。<br /> 怪力で、軽く壁を殴っただけで家が倒壊するなど日常茶飯事。<br /> 美々美花に好意を寄せているが、一度思いっきり殴り飛ばした所為でちょっと負い目を感じている。<br /><br /><br /><br /><br /><br /> 順次登場人物追加。</span><br />
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俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-33815662088664136712013-07-14T22:34:00.001+09:002013-07-17T17:38:29.478+09:00こんてにゅーわーるどおーだー! 2、非正規雇用と非実在的実在子<br />
<a name='more'></a> <span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> 西暦2020年<br /> または創世歴25020年<br /> または合同歴100年<br /><br /><br /> 4月25日 16時<br /><br /><br /><br /> 大仙宮寺はお金を持っている。円で、ドルで、元で、ユーロで。<br /> そんなもの、日本人であるならば誰でも知っている。彼等は莫大な資産と権力を背景にして日本の政治と経済に食い込む怪物だ。<br /> ただ、その末端がどうかというと、そうでもない様子だ。<br />「なに貴女、カリッジマネーは?」<br />「無いわ。全然ないわ。スカンピンよ」<br />「……どゆこと?」<br /> 私、天目一箇六合江に対して、大仙宮寺宗左衛門丞美々美花は、偉そうな顔で両手をアメリカ人の様に広げ、はふん、と鼻息を吐いた。<br /> いや、幾ら持っていないからと、サッパリありません、という事はないだろう。どうやって暮らす気でいたのか。<br />「まあ聞きなさい、六合江。私がここに来た時の事は話したわよね?」<br />「あ、うん。無理矢理抜け出して来たとか。でも、それじゃあお金どうするつもりだったの?」<br />「違うのよ。ここは大体学院専用のカリッジマネーカードで支払いをするでしょう」<br /> そうだ。ここは皆実家を離れた生徒が暮らしている。お金はカリッジマネーカードに入金され、必要な分だけ使うよう制限を受けているのだ。<br /> 勿論一般人も暮らしているので、現金払いも出来るけれど、それは少し離れた一般人向けの区画商店街に向かわねばならない。<br />「一つ、外で取り敢えずの分しか入金してこなかったわ。そしてカリッジマネーは生徒間でやり取りは出来るけど、学院内から入金出来ない。銀行も生徒は使えないし。そうでしょ」<br />「うん」<br />「一つ、私は現金を持ってやって来たの。そして降ろした分は……使ったわ」<br />「幾ら持ってきていたの」<br />「三百万だっけ」<br />「うん。殴りたい……何をどうしたら、学院で現金三百万も使い切れるの?」<br /> 私は呆れて溜息を吐く。<br /> マナエスカは大爆笑しながらベッドに転がり、エトル・コトミル・桜木は目をパチクリさせていた。桜木はまだ、コイツがどんな生物なのかいまいち知らないから仕方ない。<br />「それには深い訳があるのよん」<br />「近くに工房を借りたんですよ。魔法研究用の。物凄い豪華な機材をそろえた」<br /> 悦子が呆れたようにいう。<br />「工房? 貴女、工房を持つほどの魔法士だったの?」<br />「あら、説明してなかったかしらん? ま、いいわ。あの寮も住み心地良くて良いのだけれど、やっぱり自由に出来る部屋が欲しいわ。魔法研究部屋は寮に持つには手狭だし、迷惑だしね。爆発したら責任持てないわ。で、ちょっとよさそうな貸し工房があったから、そこに機材をブチ込んだのよ。ちなみに寝心地の良いベッドもあるから、いつでも来て良いわよ?」<br /> ミミミカが工房を持つほどの魔法士であるとは知らなかったけれど、まあ確かに、あのスキルを見るなら納得だ。別に高校で勉強などせずとも、そのまま大学に行けるだろう。<br /> 魔法工房はお金がかかる。機材、実験素材、薬品から本から、兎に角金食い虫だ。<br />「ま、私のお金は良いわ。それより問題があるのよ」<br />「問題?」<br /> 私は目をパチクリとさせる。問題といえば、コイツそのものが問題であるような気もする。<br />「実はこの部……部費がまだ降りておりません!!」<br />「……で?」<br />「で、とはお言葉ね。大変な事よ?」<br />「そもそも、この部って何するの。ミミミカが女の子集める部じゃないの?」<br /> 私がそのように言うと、桜木が此方を見る。何だか嬉しそうだ。<br />「ねえ美々美花姉様。姉様が可憐な乙女を集めているのは知っていますけれど、部費なんて無くとも、姉様の美貌があれば、大体目的は達成されるんじゃありませんの?」<br /> まあ確かに。<br /> 自分が可憐かどうかは別にして、私も桜木もマナエスカも、ミミミカ目当てで入部したようなものだ。悦子は嫌そうな顔をしているけれど、その割に毎日部活には顔を出している。女の子を集めるのが目的なら、もう達成しているようなものだ。全員美人だし。<br /> しっかしライバル多いな……。<br />「違うわ違うわ。確かに集めるのも目的だけれど、そう、異種族間での同性交遊の素晴らしさを広めるのが真の目的なのよ。例えばほら、エトル」<br />「はい姉様」<br /> 桜木が椅子を寄せて美々美花にくっつく。直ぐ様手を取って撫で始める辺り、何とも手慣れている。サキュバスのクセに女にしか興味がないというのはどうなんだろうか。<br /> 桃色がかった金髪のウェーブとでっかい乳を揺らす姿が何ともあざとい。胸元開けすぎじゃないか。なんだそのおっぱい。畜生。<br />「ねえエトル。アンタってどうしてそんなに魅力的なのかしら。こうしているだけで、胸がドキドキするわ。あら、爪が綺麗ね。私ったら手仕事が多くて、どうしても荒れてしまうの」<br />「そんな事ありませんわ。姉様の手だって白くて柔らかい。こんな手で素肌を触れられたら……わたくし、きっと胸が高鳴りすぎて、気絶してしまいますもの」<br />「んふ。そうなの、敏感な子なのね?」<br /> そういって、美々美花の手が桜木の胸元に宛がわれる。しっとりと濡れて張りつめた風船でも触るような手つきで撫でると、桜木がビクリと身体を跳ねあげる。<br />「あ、ちょっ!」<br />「貴女達、部室の真ん中でおっぱじめる気ですか? 全く下品ですね」<br /> 私が突っ込もうとしたところ、悦子が不機嫌そうに言う。<br /> 二人はというと、二人ともこうなる事を予測していたように『あーあ、とめられちゃった』と含み笑いしている。遊ばれたのが気に食わなかったのか、悦子がソッポを向いてソファに乗っていたクッションを抱きしめる。<br />「とまあ、こんな具合で」<br />「ただのエロじゃない。それをどうするって?」<br />「配信」<br />「は?」<br />「配信するわ。日本に、世界に」<br />「ああ、貴女サニティ低いんだっけ……」<br /> ミミミカの正気度が低いのは皆知っている通りだ。一般常識とか良識なんてものが、自己の欲望の下にある。<br />「人を狂人呼ばわりとは、言うようになったわね、六合江。そうそう最近あっち系の魔道書を手に入れてね。ほら、あいついるでしょ、あいつの親父呼びだして」<br />「危ないからやめて。それに、出会って三週間程度だし態度変わらないわ」<br />「でも、そんなツンツンしたところが凄く可愛いわねえ、ねえエトル?」<br />「ええ。ああいう子、ベッドの上で泣かせてみたいですわね?」<br />「え、ミミミカ、六合江泣かせてもええのん?」<br />「だーーーあーーもーーー。馬鹿馬鹿レズ!! 貴女等もう、どうしてそう頭の中が桃色なの!! 高校生よ? 高校生でしかも女ばっかり引っ掛けて、何する気なの!?」<br />「配信」<br />「まぐわい」<br />「漫才コンビ結成」<br /> 駄目だコイツ等。マトモに話が進まないし、話の内容も常軌を逸している。<br /> 女の子同士がいちゃつく姿を配信して、同性友愛推進になんぞなるか。良くておかずだ。いや何考えてるんだ私。<br />「あら、六合江ったら顔真っ赤。可愛い。可愛いわー」<br />「う、うっさい」<br />「くふふ。まあ、今のは少し度が過ぎたかもしれないけれど、極端に表現するとアレよ。現状でも、プラクシムヒュムノ、サキュバス、原生神族と揃って、そこに敵対しているミナリエスカとマナエスカが、偶発的にも同時に存在する部の、友好的な姿を配信する事で、今以上に仲睦まじいプラクシムワールドとイリアーネの恒久的平和に貢献出来ると思うわ」<br />「むう」<br /> ミミミカの頭の中は別として、まあ確かに、頷けない話ではない。特に反発しあうミナリエスカとマナエスカが仲良さそうにしている姿を見れば、世の中の人は驚くだろう。<br /> しかしその映像を撮影するとなると、多少問題がある。<br /> それは実家同士の問題であるし、そして彼女達個人の問題だ。<br />「なあなあ、ミナリエスカ。こっち来てー?」<br />「嫌ですよ。なんでマナエスカとくっつかなきゃならないんですか」<br />「ええやないの別に。うち、ミナリエスカと仲良くしたいな思とるよー?」<br />「私は別に思ってません」<br /> 仲が悪いか……と言われればそうでもないかもしれないけれど、やはりミナリエスカとしての矜持や、今までの教育がマナエスカとの交遊を阻んでいるのだろう。<br /> これだけ美しい二人だ。<br /> エルフとダークエルフ、その手を取り合って見つめ合う姿など……想像すると……その、酷く良い。凄く良い。是非見たい。凄く見たい。が、強要もさせられない。<br /> 幸い、悦子は部活には参加しているし、今後見守って行くのもありだろう。<br />「えーと、で、何の話だったっけ。ああ、部費だっけ、ミミミカ」<br />「そうそう。私、工房の機材揃えるのに頭がいっぱいで、部活にかける分の費用を忘れていたの。厳密に言うと、もっと早く部費が出るものだと思っていたのよ。でもそれがない。というわけで」<br /> ミミミカがカリッジマネーカードを出す。お前等も出せ、という事か。<br />「生憎、生活費以上の雑費はないよ」<br />「ごめんなさい姉様。わたくし、この前好きな子にプレゼントを買ったばかりで」<br />「あ、ウチタコ焼き機新調したんや。今度持ってくるで」<br />「参考書分しかありません」<br /> 全滅、まさかの全滅である。ミミミカがカードを引き、胸ポケットに仕舞い、項垂れた。<br /> まあ、金持ちが揃いも揃って金が無い、というのは予測しなかったかもしれない。<br /> 天目一箇家は娘にも厳しいので、余計な金など預けないし、厳格なミナリエスカが、必要以上のお金を娘に預けない。<br /> マナエスカに関しては本当に高いタコ焼き機でも買ったのだろう。<br /> 桜木についてコメントはない。こいつ、何人恋人いるんだ。<br />「ま、次の月までもう少し。それまで我慢じゃない? それは良いとして、その間、スカンピンの貴女はどうやって生活するの、この無節操無計画レズ」<br />「おうふ。辛辣ね。もうこれは……身体を……売るしか……」<br />「あ、姉様。お幾ら? どこまで出来ますの? 指は? 指はいれても?」<br />「六合江、私の相場っていくらかしら?」<br />「しるか!! あほ!! 鼻にピーナッツ詰めて死ね!!」<br />「それは嫌な死に様ね……何か方法はないかしら。ミラネ大天使に縋るのも恥ずかしいわ」<br /> ミラネ・ミラネ・死織エス研顧問なら、まあ二つ返事でお金ぐらい貸してくれるだろうけれど、何でそれが恥ずかしいのか。お前の生き様の方が余程恥ずかしいわ、というツッコミを飲みこむ。<br />「寮費とか授業料とか、参考書代とか、魔道書代とか、そういうお金は?」<br />「粗方まとめて現金で全部学院長に叩き付けたわ。大学卒業するまで困らないでしょ。問題は生活費ねえ。学外に出て入金してくるのは面倒だわ」<br />「じゃあつまり、部費は兎も角今後暫くの生活費を何とかしなきゃいけないって事ね」<br />「有体に言えばそうなるわねえ」<br /> ミミミカがぼんやりと答える。誰かに借りるのが一番早いだろうけど、借りるのは恥ずかしいと。では自分で稼ぐ他ない。学院内で正式なバイトはほぼ存在していないものの、得る手段はある。<br />「ミミミカ、貴女、魔法士としてはどのくらいの実力なの?」<br />「えっ」<br /> 私の話に、何故か悦子が反応する。<br /> 彼女は暫く此方を見た後、プイッと顔を反らせてしまった。拗ねた顔が昔から可愛らしい奴である。<br />「ああ、四大元素基礎魔法は第五節まで出来るわ。身体強化魔法に関しては応用七節、防御結界なら十節」<br />「うん、そういう冗談はいらない」<br /> 何言ってんだこいつ、と私は眉を顰める。<br /> 何処の世界に失われたエンシェントマギクスの十節など唱えられる人間がいるのだ。そもそも四大元素基礎魔法五節なんていったら、帝国大学の教授だってまず扱える奴はいない。<br />「――あ、あはは。そうよね、ごめんなさい。ま、四大元素基礎なら三節、身体強化なら二節、防御結界なら五節っていうのは本当よ。治癒魔法も一通り出来るわ、優秀でしょう?」<br />「五節……まあ、貴女なら。そう、じゃあ、ご飯食べに行きましょ、おごるから」<br />「んふふ。部費のお話をしてたら、なんでか六合江にナンパされたわ。どう、悦子、羨ましい?」<br />「はいはい。じゃあ今日は解散ですね」<br />「ウチは部室で寝てるで」<br />「わたくしも御食事にお付き合いしますわ」<br /> というわけで、鍵はマナエスカに預け、私とミミミカ、桜木は第十二校舎を後にした。<br /><br /><br /><br /> 4月25日 16時30分<br /><br /><br /><br /> ログハウスのような作りの高等部第三学食『土竜(もぐら)の鼻先亭』は、放課後だというのになかなかの混み合いを見せていた。<br /> 量が多くなかなか味が良い事、デザートも各種取り揃えがある為、消費が多い大型種族や甘いもの好きには好んで利用されている。<br /> 様々な種族が思い思いの食事に密談にと耽る中を抜け、私達はカウンター席に付く。<br />「土竜の鼻先は初めて来たわ。普段は竜の逆鱗亭なの」<br />「高級志向? お金も無いのに」<br />「それにしても、なんだか、儀式杖や儀式剣装備が多いわね。竜鱗装備に、ミスリルプレート? みんな重武装」<br />「ま、理由があるの」<br />「オバ様、このチョコパフェはありますの?」<br />「ミミミカ、好きなの頼んで良いわ」<br />「あらそう。気前が良いのね。好きになっちゃいそう。じゃあクラブサンドとアイスコーヒー」<br />「はいはい……オバ様『土竜肉メニュー』」<br /> そのように言うと、六十手前のオバ様がカウンターに置いてあるメニューとは違うメニューを取り出して差し出す。<br />「なぁにそれ。料理名が面白いのね。なになに『学院地下ピクス・マリーヌでの鉱石採取』『魔竜穴での観察動画撮影』あら、生産者表示もあるのね、消費者に優しいわ」<br />「何処の産地直送有機農業だ。料理名じゃないわ。お仕事の名前と依頼主」<br />「説明を求めるわ、六合江」<br /> つまるところ、この土竜の鼻先亭は学院生徒が課題代行や協力を求めて集う場所だ。<br /> 基本的にはフロア内にかけてある掲示板での募集が主で、そちらは宿題の代行や家庭教師、果ては恋人募集(女同士だけど)まで様々な依頼が書きこまれている。対価は大体カリッジマネーだ。<br /> ただ、表に出し難い課題や、困難な課題はオバ様に申請して受ける事になっていた。これは課題裏メニューである。<br />「好きな課題を選ぶといいよ」<br />「なるほど。それでここに連れて来たわけねえ。いいわ、身体で稼げるのなら、後ろめたくもないし」<br />「まあ、代行依頼している方は後ろめたいでしょうけれど、案外これで回っているの、教師も黙認。あ、あんまり周りに話してはダメ」<br />「ええ、二人だけの秘密ね。私、そういうの大好き」<br />「いや桜木もいるけど」<br />「ん? にゃに? パフェおいひいれすわ」<br />「よし、ではどれが良いかしら。この天才超美少女大仙宮寺宗左衛門丞美々美花が、あらゆる課題をパパッと迅速かつ丁寧でしかもなんか淫靡でねっちょりしたカンジに仕上げて見せるわ。あと依頼主を口説きましょう」<br /> ミミミカのスペックを考えると、一年、二年の課題程度ならば楽勝だろう。ただ三年生のものとなると、面倒が増える。何せ深い区画での探索が多いからだ。<br /> この学院の魔法専科は他の学校と比べるまでもなく、かなり高等な教育と実技を伴う。<br /> コネクト2の衝突門維持システムを間借りした、イリアーネに限定接続する転移結界を運用しており、ここから直接イリアーネの古代遺跡や探索に向く土地への移動が可能になっている。<br /> ちなみに学院地下に関しては、これは元からあったものだ。大東京の地下に張り巡らされた大迷宮であり、その一部区画がこの山奥にまでかかっている。<br />「これなんてどうかしら?」<br /> そういって指差した先の依頼は『火吹きバシリスクの撃退』とあった。<br />「ふむ……んん?」<br /> 妙だ。<br /> イリアーネ原生の生物である火吹きバシリスクの撃退、これはまあ、無い事もない。<br /> しかしそういったものの撃退は、そもそもイリアーネの洞穴に火吹きバシリスクが陣取っており、なおかつそれらは管理する側、文部科学省の特別保健班や学院の教師たちがやるものである。<br /> しかも撃退場所が『学院地下、小人の穴倉』となっている。<br /> 依頼主はアンノウン。<br />「……クサいわ」<br />「私、食事処で放屁したりしないわよ?」<br />「違うわ馬鹿。火吹きバシリスクはイリアーネにしか居ない。なのに依頼場所が学院地下、小人の穴倉となると、少し変なの。召喚失敗か、生物実験で手に負えなくなった? しかも依頼主が解らない。オバ様、これの報酬は?」<br />「預かってるよ。達成確認で渡すように言われている。依頼者に対する言及は不要とのこと」<br /> 撃退で三万、殺害で五万、生け捕りで十万だ。<br /> 高額である。こんなもの、生徒に依頼しようとした馬鹿な教師がいるのだろうか。ただ、このオバ様も受ける依頼は危険なものほど精査している筈なので、その辺りは配慮しているだろう。<br /> まあ、火吹きぐらいならば、多少治癒と防御結界が得意な人間を連れていけば大事には至らない。<br />「ま、なんでもいいわ? トカゲでしょう?」<br />「三年生が部隊編成しても手こずる相手よ。貴女一人でどうにもならない。なんとかしようと思うなら、まあパーティを募るのも良いでしょ。取り分は減るでしょうけどね」<br />「一人でも大丈夫よん?」<br />「暗黙の了解で、探索や採取は一人はダメなの。貴女一人で万が一やられた時、誰が回収するの」<br />「万が一もないけれど。いいわ、じゃあ六合江が前衛ね?」<br />「いえ? 私は貴女にお金の稼ぎ方を教えに来ただけ。なんで私がトカゲの相手なんて」<br />「……そうね。六合江に危ない目は見せられないわ。じゃあエトル、後衛お願い出来るかしら?」<br />「ええ、トカゲぐらいなら。後ろはお任せになって、姉様」<br /> 桜木がアッサリと了承する。<br /> 二人ともニコニコと、これからデートに行くわけでもあるまいに、なんだって腹立たしい。<br /> 確かに、ミミミカは見た目清楚であるし、黙っていればまるで宝石だ。その相方がまた、色気に満ちて美人な桜木ともなると、並んでいるだけで観ている方がドキドキするだろう。<br /> これが他人様なら『ああ、いいわね』で済むかもしれないけれど、ミミミカが他の女とイチャイチャしているところをみると、もうほんと、イライラする。<br />「ちょっと」<br />「あら、どうしたの、ふふ」<br />「私も行くわ。前衛で良い。殴ればいいわよね。オバ様、装備」<br />「あいよ」<br /> オバ様に声をかけると、後ろのバイトが裏手に回り、私の装備一式を持って現れる。<br />「あら、じゃあわたくしも。お願いしますわ」<br /> またまた後ろのバイトが裏手に回り、今度は桜木の装備一式を持って現れた。<br />「桜木、貴女」<br />「御世話になっていますのよ、ここ。何せ、わたくしお付き合いしている方が大勢いますでしょ、そうなると、やっぱり経費がかさみますの」<br /> シレっとした顔でとんでもない事を言いやがる。しかもその持ちだした装備は……所謂淫魔族御用達、あちこちと肌が丸見えの、魔法透衣だ。<br /> パチン、と桜木が指をはじくと、背景が何故かピンク色のキラキラした空間になり、妙にポップで希望溢れる音楽が流れ始める。<br /> 普段生活している時よりも頭と背中の悪魔めいた羽が大きくなり、唇には何故かルージュが引かれ、多少化粧が濃くなる。<br /> タートルネックになった黒い水着のような上着に、スカートとニーハイソックスの間が絶妙で、パンツが見えそうで観えない。<br /> どこの魔法少女だお前は。<br />「どこの魔法少女よ貴女は。バンク持ちか。てか装備がエロすぎて朝には流せない」<br />「アダルトアニメ用ですわね。お好みでしたらローパーなども召喚致しますけれど」<br />「いいです。で、ミミミカ、装備、ここで揃え……」<br />「オバ様、この儀式剣、ツケでいいかしら。報酬の一部を後でお支払いするわ。それと魔血石と、レガシ教の対魔札、緊急脱出用の転移羽は二人が持っていて。私自身の装備はそうね、まあ制服のままでもいいわ」<br />「適応力たっかいわね貴女。お金出すから、せめて対火装備ぐらいしなさい。ちなみに儀式剣は装備しないと意味が無いわ」<br />「装備っと。それ必要な助言だったの?」<br />「必要なの」<br /> ミミミカの適応力はまあおいといて、三人ではいささか心細い。<br /> 前衛は私一人で十分としても、せめて補助が欲しいところだ。<br /><br />「"我が名にひれ伏せ""水精霊の御名は我に及ばず""いいからさっさと力を貸せっていっているでしょ""この大馬鹿精霊が"」<br /><br /> などと、ミミミカが詠唱を始める。<br /> 罵倒、屈服系四節だ。こんな乱暴な魔法詠唱があったものだろうか。<br /> いぶかしんでいると、アッサリ大精霊は説き伏せられ、いやむしろ好意的に具現化し、私達の身体を対火防御膜が覆う。<br />「ちなみに精神値5も消費しないわ。大丈夫でしょ、お金かけなくても」<br />「見上げたデタラメさね、貴女」<br />「姉様って、本当はもしかして、物凄いお方なんですの?」<br /> 一先ずオバ様から携帯食を預かり、ミミミカはクラブサンドをお持ち帰りに包んで貰う。<br /> 名簿に名前を明記し、万が一に備える。正式なものではない為、これはもしもの時の救助者名簿だ。<br /> 五時間連絡が途切れると、教師たちが苦い顔をして救出に来る。<br /> バイトがいそいそと裏口の用意をし始めたので、私は手元のコップの水を飲み干してから、指を弾き装備を済ませる。<br /> 前衛型、対衝撃、対熱、対冷特化の万能装備だ。<br /> 大きな手甲を二つ有しており、前面からの攻撃を受けながら、相手を殴り飛ばす事だけを目的としている。<br /> 竜鱗製で少し値段は張ったけれど、ここでの依頼で全て回収済みである。<br />「あら、裏口からいけるのね、便利だわ。これが裏口入学ね?」<br />「それは貴女の事でしょう。それにあまり利用しない方が良い。急場しのぎだし。痛い目は見ない方が良いに決まってる」<br />「でもわたくしは、外での出会いもあるかもしれませんし、そう、出会い系ですわ」<br />「もうヤダこのパーティ。ちなみに、夜中までかかるけど、良いね」<br />「大丈夫よん。さて、行きましょう。で、トカゲって美味しいのかしら!?」<br />「バシリスクの毒で死なないなら、まあ食べてもいいんじゃないかしら。大体、毒だったらミミミカの方が余程ありそうだし」<br />「フグの卵巣だって漬ければ食べられるそうよ。ねえ、エトル?」<br />「ええ。いつか味見してみたいものですわ」<br />「はあ……ほら行くよ馬鹿ども」<br /> 土竜の鼻先亭の裏口から、私達は学院地下、小人の穴倉へと向かって進み始める。<br /> まあ多分、何事もないとは思うけれど……どうだろ……なんか少し不安になってきた。<br /><br /><br /><br /> 4月25日 17時17分<br /><br /><br /><br /> 長い地下階段を下り、石造りの壁、岩肌がむき出しの地面を伝って奥へと進んで行く。<br /> 大体この周辺はイリミカリッジ開校以来探索し尽くされている為、周囲二十キロ程度は全て整備済みだ。等間隔に据えられた燃焼蒼石の光がほの明るくダンジョンを照らしている。<br /> 私達が目的とする場所はここから三キロほど先にある『小人の穴倉』と呼ばれる区画で、広いホールに無数の横穴が掘られており、人が生活していた形跡が見つかった古代遺構だ。<br />「三キロは少しあるわね。転移するわ、いいわね、六合江」<br />「……三人を抱えて転移なんて、出来る訳ないじゃない」<br />「はい? え? 出来ないものなのかしら?」<br />「三人以上は四節必要でしょ」<br /> 基本的に魔法は、四節以上の詠唱を必要とするものは大魔法に分類される。転移ならばなおさらだ。<br /> 高位の魔法士になればこれを短縮する事も可能だけれど、それは余程魔法研究に熱心なものか、精霊に愛されているものだけだ。<br /> 更に高位となると、その短い一節に四節分を込め、七節まで唱える怪物も存在していると言う。私の知っている限り、そんな事が出来るのはリッチのクリオテッセ・ヴァルプルギスぐらいだ。<br />「"とべ"」<br />「ふぉあっ」<br />「きゃっ」<br /> いきなり手を繋がれ、身体が軽くなる。<br /> 気が付いた時には、既に別の場所に転移していた。何が起こったのかよくわからず、手元の自動追記地図と、GPS携帯端末を見比べる。<br /> ……穴倉まで二百メートル地点まで近づいた。<br />「えー……マジ……えー……短縮一節とか……えー……」<br />「凄い……凄いですわ、姉様」<br /> 何事も動じない桜木が、驚きの声を上げて目を見開いている。私も私で、呆気にとられてしまった。<br /> アタックガーディアのパッシブスキルに驚かされたのは記憶に新しいけれど、これは、そんな問題を通り越している。<br /> このヒトは――、一体何者なんだろうか?<br />「あん。そんなに褒めても何も出ないわよ?」<br />「夜中か明け方までかける予定だったものが、たった一言で短縮されるなんて、ちょっとヤバすぎて引くわ、ミミミカ」<br />「姉様は一体どれほどの力を秘めているのでしょう?」<br />「……あ。えと。その。あは、あははは! いやあ、魔法得意なのよねえ。さ、パパッとトカゲ倒して、パパッと帰りましょう。そして配信用のパソコンと機材を買いましょう」<br /> そういってミミミカが前を進んで行く。ミミミカの力量についてはまた今度考察するとして、取り敢えず早く帰れるに越した事はない。<br /> ミミミカは当然生け捕り狙いだろう。ともなると捕獲魔法か捕獲用の罠が必要になるけれど、その辺りは考えているのだろうか。<br /> 一般的に火吹きバシリスクといえば小中型モンスターで、体長は五メートルから十メートルとされる。この狭い区画を行ったり来たり出来る体型ではない為、小人の穴倉のホールに陣取っていると考えて間違いないだろう。<br /> 大きな路地があるなら、そこに引きこんで退路を絶って弱らせる。無いのならば分散して私がオトリになって、ミミミカと桜木が弱らせる方法を取るのが一番だ。<br />「作戦陣形だけど、ミミミカは何か考えている?」<br />「バーッときたらドカッとやってパパッと捕えればいいわ?」<br />「相談した私が間違いだった。桜木は?」<br />「火吹きバシリスクならば、イリアーネで一度戦った事がありますわ。視界はとても広いですけれど、動かないものに対しては反応がありませんの。六合江さんがヘイト稼ぎに動きまわって、わたくしと姉様が攻勢魔法を仕掛ける、という方法が定石ですわ。問題と言えば、バシリスク系は毒や石化を使いますから、注意しないといけませんわね」<br />「至極まっとうな意見を貰えてとっても嬉しいね。という事だから、攻撃魔法に専念なさい、ミミミカ」<br />「そう。私は初心者だから、経験者の貴女達に従うわ。頼りにしているわね、六合江、エトル」<br />「うっ……む、うん」<br />「え、ええ……」<br /> 普段見せない謙虚な態度にドキリとする。<br /> ミミミカは儀式剣の調子を確かめながら何でもなさそうにしているけれど、お前のそういう所が私にとって果てしない攻撃力を誇っているのだと、顔面を殴りながら言ってやりたい。<br />(ねえ六合江さん)<br />(な、何)<br />(普段のテンションの高い姉様も良いですけれど、あの物静かな態度を取る時の表情と雰囲気、たまりませんわよねえ?)<br />(う、うっさいな……だからなに?)<br />(今日は最大のライバルであるミナリエスカ様がいらっしゃいませんわ。わたくし、これでも空気が読める女ですの。今日の所は、譲って差し上げても宜しいんですのよ?)<br />(なんで悦子が……てか、譲るって何を)<br />(くふふ……気づいている癖に……可愛らしい。その大きな眼球で表す微細な表情、このわたくしが見逃す訳がありませんわ。ああ、御礼は眼球舐めさせてもらえればそれで)<br />(い、嫌よ変態)<br />(だってわたくし、まだ単眼族のそういう所、弄った事ありませんの。気になって気になって……)<br /> コイツの性遍歴は一体どうなっているんだろうか。知りたくも無い。<br /> だが、しかし、まあ、その、なんだ。<br /> ゆ、譲ってくれると言うのならば、吝かではない。私自身、あまり好きな人に対して優しくしてあげられないし、そもそもミミミカの周りには美人が多すぎて、自分は埋没してしまう。<br /> 少しでもポイントを稼げるなら、それに越した事もない。<br /> あざとい気もするけど、身体的にも性格的にも素直になれない自分を自覚していると、何とも面倒くさいものだと悩む分のデメリットの方が大きいので、仕方ない。<br />(チョコレートミックスパフェ、特盛り)<br />(手を打ちましょう。頑張って下さいましね)<br /> やがて洞窟の奥から、天然光が見て取れるようになった。ここは地表の浅い場所だ。けれど、もう夕方であるから天然光と言っても微量だ。<br /> 昼間ならば、フロアは何条もの光が天蓋から降り注ぎ、白く細かい砂が光る場所で、冒険をする生徒にとっては良い観光場所となっている。<br /> だからこそ、そんな場所に火吹きバシリスクが陣取っているとなれば、早急な対処が必要とされたはずだ。 依頼者は、はてさて、何を考えているのやら。<br />「……ミミミカ、ストップ」<br />「はい止まった」<br />「トラップね。人用じゃないわ」<br /> 小人の穴倉に入る手前、五十メートル付近のところで、トラップカウンターが警鐘を鳴らす。<br /> それはアラウネが吐き出す糸に魔力を込めたもので、センサーであると同時に接触物に対して電撃を齎す、ポピュラーなトラップだ。<br /> 大仰に何層も仕掛けられており、良く眼を凝らすと、隠すつもりがなかったのだと解る。<br /> 先に来た人たちが張り巡らせたのだろうか。<br />「反応痕がない。未使用」<br />「ここにおびき出そうとして、失敗したのか、それとも、もうフロアで捕獲済みなのか、はたまた……討伐者が既にやられたか、ですわね」<br />「ふうむ。これ、解除出来るかしら」<br />「数が多い。出来るけど、だいぶ音が鳴る。ひっそり近づきたいから、避けたいわ」<br />「じゃ、横穴でも掘りましょうよ」<br />「音がなるでしょ、迂回しましょ。魔法使う精神値が勿体無い」<br /> マトックスキルを使えば出来ない事もないだろうけど、あまりダンジョンを荒らしたくないし、音がなれば向こうに気がつかれる可能性がある。<br />「まどろっこしいわね……」<br />「転移で大分時間を短縮しているのだから、それぐらい仕方ない。ここから歩けば五分で回れるわ」<br /> ミミミカが溜息を吐く。こればかりは仕方が無い。右手に迂回し、別のルートを辿る。<br /> この辺りは既に知りつくされている場所であるから、迷うなんて話はまずあり得ない。地下水流れる場所を飛んで渡り、もうひとつの出口近くまでやってくる。<br />「……あれ、人じゃないかしら」<br /> ミミミカが眉を顰める。小人の穴倉出口付近に、人らしき影が倒れているのが観えた。<br />「桜木、私の装備は音がなる。飛びながら、音を消して近づける?」<br />「ええ、お安い御用ですわ」<br /> 桜木を放ち、暫く様子を見る。彼女は念動魔法を使って人を中空に持ちあげると、ゆっくりと此方にまでやって来た。器用なものだ。<br />「エトル、繊細な魔法を使うのねえ」<br />「ええ、補助が多いんですの。なので、だいぶ慣れましたわ」<br />「で、さて……」<br /> どうやら学院生徒である様子だ。満月のマークが記されたピンバッチを襟首につけている為、三年生であると解る。<br />「まかせて。"治癒の大神我を仰げ""私が手を貸せって言ってるんだから""文句なんて有ろう筈もないわ"」<br /> ミミミカが前に出て治癒魔法を施す。相変わらず神様に対しても命令口調だ。治癒の大神といえばウムガイやサキガイだろう。<br /> 先ほど防御膜を張った時はイリアーネ式、今回は日本式だ。<br /> 魔法は四元素の精霊や神、その他力のある種族の概念存在となった者達に力を借りる形式と、自らの魔力を消費して状況を顕現させる二通りがある。どちらも難易度としては似たり寄ったりである為、より精神力消費の少ない神頼みの方が好まれる。<br /> ミミミカは少なくとも二系統の魔法を使い分けるのだろう。<br />「くぅ……うっ……あ」<br />「凄い、意識回復するまでやれるもんなんだ、素直に感心する」<br />「たぶん全回復じゃないかしら。このままフルマラソンも出れるわよ。私凄いでしょう」<br />「はいはい、無茶苦茶ね貴女。で、ええと、三年の先輩ね、いまどんな状態だか解る?」<br /> 三年生はイリアーネヒュムノだろう。装備は中程度の装備で、バシリスク相手ならば納得出来るものだ。前衛型、高機動装備だ。<br /> 緑色の頭を振り、治癒を施したミミミカに縋る。いや、縋る必要はないだろう。いいから状況を喋って欲しい。<br />「あ、す、済みません。あの、今は何時の、何時ですか」<br />「今は四月二十五日の、夜十八時よ。貴女、一人なの?」<br />「いえ、パーティを組んで、この辺りにあるモコモコヒカリゴケを取りに来たんです」<br />「あら、なんだか可愛い名前のコケねえ。てかそれ日本に生えてるものなのかしら?」<br />「この地下ダンジョンは、イリアーネとの関係性も示させているから、地上とは違った生態の生物もたまにあるの、特に植物は。魔法実験の材料になる。それで、どうしたの」<br />「はい。小人の穴倉で休憩をしようとしたのですけれど、どうも何か、大きなモンスターが放たれていた様子で……私は罠を張って逃げて、穴倉の中に隠れた子達を助けようとしたら、返り討ちに……もう三時間は経っている筈です……」<br /> なるほどと、私とミミミカ、桜木が頷く。<br /> 彼女達は課題難度の低い植物採取に出て、不幸に出くわしたのだ。<br /> 元からバシリスクを相手にするつもりではなく、恐らくこの子だけ、普段からダンジョンを行き来していて装備が整っていたのだろう。皆もそれに頼ったに違いない。<br /> そんな寄せ集め、バシリスク相手ではひとたまりも無い。<br />「怪我人は。死人なんて居ないわよね」<br />「みんな、逃げて隠れた筈です。どうやら動かなければ、反応が無い様子で」<br />「実は、それを退治する課題を預かってきているの。というわけで、退治する。桜木斥候、ミミミカは攻勢魔法を三つ、二節まで練って待機。出来るよね」<br />「寝ざめに知らない美少女が隣で寝ていた時に出来るベストな対応を取るよりも楽よ、リアルで」<br />「なんだその謎難易度。先輩はここにいて」<br />「うん、ありがとう……あ、あの、治癒してくださった方」<br />「何かしら、先輩」<br />「あ――くあ、あの、あ、ありがとう――」<br />「くふふ。可愛らしいわねえ……お外に出たら、食事なんてどうかしら。あとエッチも」<br />「え、ええ?」<br />「ほら行くぞこの馬鹿色魔。あ、それは桜木の方だった……まあいいや、行くよ」<br /> 斥候に桜木を放ち、私は入口近くで、ミミミカは私の後ろでモゴモゴと詠唱する。<br />("我が腕は鉄火の如く""我が心臓は清流の如く")<br /> 身体強化魔法を二節唱えて備える。そのままでも恐らくヤれるだろうけれど、念は押した方が良い。<br /> 二分ほどして桜木が戻ってくる。彼女は指先で引き下がるように指示した。どういう事だろうか。<br /> その指示に従い、一度先輩が休んでいる場所まで戻る。<br />「どうしたのよ、桜木」<br />「バシリスクじゃありませんでしたわ」<br />「どういう事」<br />「……あれ、地竜ですわよ。今は寝ていましたけれど」<br />「地竜だあ……?」<br /> どういう事だろうか。オバ様が明記を間違ったのか、そもそも依頼者が騙したのか。<br /> バシリスクと地竜では、カメレオンとコモドオオトカゲ程の違いがある。<br />「良く有る事なのかしら?」<br />「無い。こりゃ、依頼ミスかな……」<br />「地竜なんて」<br />「え?」<br /> 先輩が口を開く。彼女は首を振っていた。<br />「地竜なんて居ませんでした。あの、サキュバスさん、どのくらいの大きさでしたか?」<br />「十五ですわね」<br />「ありえません。私達が観たのは、五メートル程度です」<br />「さあてキナ臭くなってまいりましたぁっと……」<br /> まさか、カメレオンがコモドオオトカゲに急速進化する筈もない。どんな熱量があったらそんな事になるのか。けれど、先輩が嘘を吐く理由も見当たらない。<br /> ただ、絶対あり得ない、という事はないだろう。ここは日本最大の魔法専科を抱える学校だ。<br /> 幾つかの理由を考える。<br /> 基本的に竜種は、居付いた土地に合わせて急速な進化を繰り返して来た。その速度は他の生物とは違い、二世代でその地に適合する形になる。故に竜種はかなりの種類が存在し、うちの部に所属しているミーアナイト・ドラコニアスなども一応竜種と判別される。<br /> ともかく、竜種は進化が早い。バシリスクが地竜にまでなったと、本当にそうならば、魔法、魔法薬、マジックアイテム、グリモワールの影響を考えなければいけない。<br />「時間魔法」<br />「ミミミカ、そんな大禁呪、どこの誰が扱うの」<br />「知り合いにいたけれど、まあこんな高校には居ないわよね」<br />「当たり前でしょ。ヴァルプルギスだって有り得ない。ともなると、魔法薬か……マジックアイテム。先輩、探索中に何か、アイテムらしきものを見つけたりはしましたか?」<br />「――あ、ああ。実は、未発見区画があったんです。そこに綺麗な玉があって……何処になくしたのかな」<br /> 恐らくそれだろう。あまり無い可能性とはいえ、現実が目の前にあるのならばそう判断せざるを得ない。<br /> 未発見区画……こんな学院から三キロしか離れていない場所で、まだそんな場所がある事も驚きだけれど、そんな危なそうなものをやすやすと触ってしまう先輩達の迂闊さも驚きだ。<br />「本来なら退却。でも、先輩の仲間がいるとなると、悠長な事言ってられない。ミミミカ、貴女一人で飛んで、完全武装の専科の教師連れて来て」<br />「んー。それこそ悠長なことかもしれないわねえ」<br /><br />『ゴガァァァァァァァァァッッッ……』<br /><br /> ミミミカが言うと同時に、小人の穴倉から咆哮が聞こえる。<br /> ――同時に、女生徒の悲鳴が響き渡った。<br /> これは不味いかもしれない。<br /> 地竜となると、バシリスクよりも鼻が効く。此方の存在も勘づかれただろう。こんな狭い通路に火など吐かれたら、私達はたちまちローストチキンだ。<br />「うし。いいわ」<br />「何が」<br />「六合江、大変申し訳ないのだけれど、私の作戦を聞いてくれる?」<br />「何か良い策があるの?」<br />「六合江、エトル、先輩。作戦は一つよ。これから私が行う事を、誰にも口外しないで。あと……その、これを見た後も、友達で居て欲しいわ」<br />「――はい?」<br />「……解りましたわ、姉様」<br />「え? あ、う、うん」<br /> 私は小首を傾げ、エトルと先輩が頷く。<br />「五節防御魔法をかけるから、アンタは奴の気を引いて。エトル、アンタは私達が交戦している間、先輩のお友達を確認、救出して、先輩もお願いよ」<br />「精神値、間に合うの?」<br />「ええ。アンタが地竜の気を引いている間、私は水と空の元素五節、二元素二種を四つ全部唱え切るわ。流石に私のせん滅魔法を食らって立ち上がれるモンスターも居ないでしょう」<br />「……ねえ、ミミミカ、もしかしてさ、部室で言ったのって、冗談じゃないの?」<br />「私、冗談苦手なのよね」<br /> 儀式剣を構え、ミミミカが前面に立つ。長い髪をなびかせる姿が、あまりにも頼もしい。<br /> イリアーネに伝わるヒュムノの英雄の姿が投影され、私は目を擦った。<br />「"我が力をもって親愛なる者へ""あらゆる災禍からその身を守りたまへ""閉じよ""塞ぎ""満たせ"」<br /> 自己魔力詠唱五節。<br /> 正気の沙汰ではない。その呪文は確実に私とミミミカに反映される。心の底から満ちるような力があり、今ならば、どんな怪物でも正面切って殴り飛ばせそうだ。<br />「"疾走""加速""スレイプニル"」<br /> 自己魔力詠唱三節。エトルと先輩に魔法が反映される。<br /> 私は何か、冗談を見ているようだ。<br /> そうだ、これは、きっとアニメのワンシーンである。<br /> フィクションに出て来る魔法少女達は、現実の人間では有り得ないような、圧倒的魔力で敵を倒して行く。平然と五節六節の魔法を使いこなし、強大な敵を討つのだ。<br /> こんなバカな事があるか。<br /> 詠唱五節と詠唱三節を、フィードバック無しで行使出来る人間なんて、数が限られる。<br /> それこそ、儀式術者階位、もしくはヴァルプルギス家の人間ぐらいだろう。<br />「エトル、先輩、風より早く走りなさい。六合江、アンタは私の魔法を信用して。せん滅魔法には合計二十節かかる。二分頂戴」<br />「に、二分でそんなこと――」<br />「――ごめんね、六合江。私、怪物で」<br /> ミミミカが先陣を切って走りだし、私もそれを追いかける。<br /> フロアに出た瞬間に散開、ミミミカは足を止め、私が動き回る。<br /> フロアは約四方六十メートル程の広さがあり、高さもかなりある。天蓋から降り注ぐべき光はもうない、今は夕方だ。私は燃焼蒼石を三つ程上空に投げ上げ、最大出力で辺りを照らす。<br />「ぐあ……でっかあっ!!」<br /> 十五メートル級地竜。二本の太く短い角を持ち、羽は持たない。岩のような硬質な鱗におおわれており、それが燃焼蒼石の光を受けて銀色に鈍く輝く。面長の顔にはバシリスクであった頃の面影が見て取れる。隆起した背中はプラクシムのトリケラトプスを思わせた。<br /> 問題は尻尾だ。奴の突進はまだかわせても、尻尾の追撃が恐ろしい。<br /> ……幸い、尻尾は短い。これならば股の間を抜けて逃げる事も可能だろう。<br />「くはっ……こいつは……ひっどいねえッ」<br /> 全身がふるえる。<br /> 恐れよりも、久々の大物を目の当たりにして、武者震いしているのかもしれない。<br /> 私の奥底に流れる天神の血が、地祇との間に齎された戦争の記憶を呼び覚ます。<br />「ミミミカ!! 詠唱開始!!」<br />「合点よ!!」<br />「さあ来なさいオオトカゲ!! そのドタマ、真っ二つにカチ割ってやるッ!」<br /> 赤い眼が此方を捉える。凄まじいプレッシャーだ。<br /> イリアーネは人類が土地を征服するまで、このような怪物がどこにでも跋扈していたと聞く。彼等彼女等は、こんな怪物とやり合い、たたきのめし、自分達の住む土地を勝ち取って来たのだ。<br />「ゴアッ!! ゴアッ!!」<br /> 威嚇が来る。その象よりも太い足で、地竜は地面を蹴飛ばした。<br />「ふんっ」<br /> 岩肌が削られ、散弾のように飛んで来る。筋力強化、防御魔法、そして手甲のお陰で当然無傷だ。<br /> 何も食らっている必要は無い。私から飛び込めばいい。<br />「つぁぁぁりゃあああっっっ!!!」<br /> 疾走、即座に地竜の顎の下にまで潜りこみ、地面を蹴りあげて飛び上がる。<br />「ゴゲッ、ガガガッ!!」<br /> どんな生物であれ、そいつが脳を司令塔とした生物であるならば、頭部に打撃を受けて痛くない奴など存在しない。私の装備はイリアーネで最も硬いと言われる竜の鱗から削り出した大手甲だ、地竜如きが防げる訳もない。<br />「ゴガガッ」<br />「ふは、タフいわね。桜木!! そっちは!!」<br />「全員無事ですわ! 退避します!」<br />「了解!! ミミミカ、あと何節!?」<br />「十節!!」<br />「はやっ!! うらっしゃああッ!!」<br /> 脳内物質が過剰に分泌されているのが解る。負けられない相手であるし、何よりも、ミミミカが観ている。彼女の前で無様な姿は見せられない。バシリスク相手なら最悪私一人でも何とかなった筈だ、それがこんな相手では、桜木が此方に配慮している暇もない。<br /> 私一人でも立ちまわらなければ。<br />「ゴガァ!!」<br /> 地竜は思い切り息を吸い込むと、燃焼気管から燃焼液を吐き出し、歯をガチガチと鳴らして火種を作る。<br />「皆気を付けて!! 火吐くわよッ!」<br /> それはまるでツバを飛ばすようなものだ。<br /> 火炎弾が放物線を描いて周囲に撒き散らされる。距離を取られては不味い。<br />「アチチッ」<br /> 燃え盛る炎をかわしながら足を狙いに行く。<br /> こんなでかい生物だ、その足にかかる負担は計り知れないだろう。<br /> 地竜の踏みつけを避けながら足元にもぐりこみ、その丸太のような太い足を思い切り蹴たぐる。<br />「ガッ、ガゴッ!! ゴアアアァァァッッ!!」<br />「うがっ……五月蠅い!」<br /> 地竜の絶叫に耳を塞ぐ。対音装備など持ち合わせていない。<br /> 脚を引きずりながら地竜が私から距離を取り始める。<br />「ゴガァァァァッ!!」<br />「チッ……学習能力あるわねっ」<br /> マトモにやり合っても勝てないと踏んだのか、奴は咆哮で此方の聴覚を責め始める。<br /> あの巨大な生物の肺活量と声帯を考えると、それは最早音響兵器だ。しかも小人の穴倉全体に共鳴し、何層にもなって耳朶を揺るがす。<br />「ぐっ、ぐうぅぅ……ッ」<br /> まさに、脳から足の先まで、全身に響き渡るような咆哮だ。対テロ鎮圧に音響兵器が用いられる理由が良く分かる。どれだけ目の前に危機が迫っていようと、全身にこんな波長を浴びせられて、まともに思考、行動出来る人間などいないに違いない。<br /> これは不味い。私は防御を固める。<br /> 瞬間、咆哮が止んだと思うと――奴は物凄い勢いで突撃を仕掛けて来た。<br /> ドドドドと地面を鳴らし、まるで大型トラックそのものだ。<br /> 問題は、そいつがみっちり積荷を積んでいて、速度が半端ではないという事だろう。<br />「ヤバっ……」<br /> 目の前に、大質量の怪物が迫る。私は手甲を構えたまま踏ん張りを効かせて衝突に備える。<br /> 奴の角と、私の竜鱗装備が激突する音が穴倉に響き渡った。<br /> 何が起こったのかよくわからない。<br /> 重力がない。<br /> 違う。<br /> 体重がない。<br /> 違う。<br />「うわわわわッ」<br /> 浮いている。<br /> 幸い防御結界の影響で私自身にはダメージが通ってないけれど、どれほど浮いているのか、下で詠唱を続けるミミミカが小さく見えるほど、上空に放り出されていた。<br /> 突き上げを食らったのか。<br />「な、なんで、浮き上がらせて――」<br /> 身体を捻り。大きな眼を目いっぱい開き、奴を見る。<br />(私をボールにする気!?)<br /> 驚くべきことに、奴はただの体当たりでは仕留めきれないと踏んでか、後ろに下がって私が落下してくるのを待っている。足で地面を蹴り、落下タイミングをはかっているのだ。<br />(跳ねて轢き潰す気か!?)<br /> 先ほどの衝突で防御壁は明らかに削られている。一度は命拾いしたものの、二度目があるとは思えない。幾らなんでも、この高さから落下しただけでもマズいというのに、完全無防備の空中浮遊状態で跳ね飛ばされたら、私は絶対無事では済まない。<br /> 物凄い勢いで脳内を思考が駆け巡る。<br /> どうする。<br /> 何をすればいい。<br /> どうしたら落下を免れる。<br /> 落下したとしてもどうやって衝撃を和らげる。<br /> どうやって奴の体当たりをかわす!?<br /> このままでは――!!<br /> ぎゅっと目を瞑る。<br /> もしかしたら、彼女なら、こんな状態をも覆してくれるのではないかという夢物語が――逃避的に思い描かれた。<br /> しかし現実的に、それは無理だ。<br /> 彼女は詠唱の真っ最中で、他の呪文など唱えられる状況にない。<br /> 桜木は先輩達を保護する為にだいぶ離れてしまっただろう。<br />「ミ、ミミミカぁ……」<br /> 引き絞るような声が漏れる。<br /> それでも、彼女に縋るしかない、自分の情けなさに涙した。<br />「――はぁい、子猫ちゃん」<br />「ぬ、えぇぇぇ!?」<br /> 何がどうして、そうなるのか。<br /> 絶望的な考えが一気に吹っ飛ぶ。<br /> ミミミカが手を伸ばし、私を落下三メートル手前で奴の突進ラインから引きはがすように浮遊させたのだ。<br /> 奴はタイミングを逸したままブレーキも聞かず、穴倉の壁にぶち当たる。<br /> ドガンッ!! という音がフロアに響き渡り、地震の如くあちこちから天井の岩盤が落ちて来る。<br />「ミミミカッ」<br />「んふふ」<br /> 彼女は全速力で駆け付け、私を攫うようにして抱いて地竜から距離を取る。<br /> 詠唱中ではなかったのか。<br />「念動ぐらい、詠唱無いわよ。もうあと一節。詠唱ってタスク処理出来るの、知ってた?」<br />「な、何それ――?」<br />「さて、まあまあよくも私の可愛い愛人を弄んでくれたわねえオオトカゲ」<br /> 私を地面に降りして、ミミミカが地竜へ悠然と、傲岸不遜に、唯我独尊に、優雅に歩み迫る。<br /> 儀式剣を煌めかせ、不敵な笑みを浮かべていた。<br />「オイタがすぎるわ。どんな理由があったか知らないけれど、アンタはここにいちゃいけないの。何せね、私の可愛い女の子達が、怪我しちゃうかもしれないでしょう? それじゃあ困るの。キズモノにされて嬉しい奴なんて変態だけだわ。あ、私が傷つけるのはいいけど。というわけで、六合江を傷付けたアンタには、標本にでもなってもらうわ」<br />「ゴガアッ!! ゴガアアァァッ!!」<br /> 地竜がたじろぐ。<br /> ミミミカの周囲を漂うのは、紫色の濃密な魔力の胎動だ。奴の本能が、目の前の者と敵対する事について、警鐘を鳴らしているのだろう。<br /> 私はただ、そんな光景を呆けて眺めていた。<br /> あんなものは、見たことが無い。<br /> 私はお国の巫女だ。力の強い術者は沢山見て来た。<br /> 敵を滅ぼす為に長けた者、人を守る為に長けた者、何かを生み出す事に長けた者、そのどれもが、何処でもお目にかかれないような怪物たちだった。<br /> けれど、彼女は。大仙宮寺宗左衛門丞美々美花は、そういった範疇にすら居ない。<br />「――凄い」<br /> ただそのように漏れる。<br />「"齎されしは死の極光。汝を包むは太古の氷焉"」<br />「ゴガアアアアアアアアアアァァァァァアッッッッ!!!」<br /><br />「大仙宮寺宗左衛門丞美々美花式!! 複合二十節!! 大氷獄魔法ッッ!! 一生寝ていなさいッッ!!」<br /><br /> 彼女が儀式剣を高らかに掲げると、上空から四条の光が降り注ぐ。それらは輝く結晶を生み出し、光を集めて地竜の一点に絞られる。<br /> 気温差で莫大な量の冷気が吹きあがり、周囲を包み込んだ。<br /> 轟音と吹雪と閃光。<br /> 目の前には、イリアーネ神話の大戦が表現されていた。<br /> ミミミカは、此方に背を向けて堂々とした姿を晒している。やがて煙が無くなると同時に、巨大な氷塊が鎮座しているのが観えた。<br /> あの大質量の生物を、あの一撃でだ。<br />「ふぅぅー……いやあ、久々にカマしたわあ。こんだけ頑張ったのって何時ぶりかしら……六合江、怪我は?」<br />「――……」<br />「……んと。うん。ごめんね、気持ち悪いわよね、こんな力」<br />「その」<br />「ううん。何も言わないで。私、嫌われるの慣れてるけど、やっぱり面と向かって言われると、結構ショックなのよん?」<br />「凄い」<br />「ああ、凄い寒いわね」<br />「凄いわ。何それ? 貴女、本当にヒト?」<br />「どうなのかしら。遺伝子的には、一応人類らしいわ」<br />「凄い」<br />「うん」<br />「カッコイイ……」<br />「うん?」<br />「やだ……嘘……なにそれぇ……ミミミカ、貴女、格好良すぎる……」<br /> 駄目だ。<br /> ミミミカの顔が見れない。今見たら私は、今まで以上に彼女が欲しくなってしまう。<br /> もう、どうしてそんな力があるのかとか、どんな理由でここに居るのかとか、そんなものはどうでもよくなってしまう程、私はミミミカが好ましくて仕方が無い。<br />「六合江」<br />「さ、触らないで。な、殴っちゃうから」<br />「嫌わないでくれるの?」<br />「ど、どこどうやったら、命の恩人嫌うのよ。ばばバ、バカじゃないの?」<br />「気持ち悪くない?」<br />「私は、別に――そんな風には、思わないわ。ちょっと強すぎるきらいはあるけど、変態的な魔法士なんて、何人も観た事あるし……」<br />「友達でいてくれるの? あわよくば愛人でいてくれる?」<br />「ぜ、前者は否定しないわ。こ、後者は、考えさせて」<br />「じゃあ、手を取って」<br />「駄目。殴っちゃうから……それに、不甲斐なくて、恥ずかしいし……」<br /> 否定しても、ミミミカは手を伸ばして来た。<br /> 私は昔から、好きな人程暴力的に接してしまう性質で、幾ら仲が良い友達でも、必ず距離を取るようにしてきた。ただの暴力ならまだ救いようもあったかもしれないけれど、私の暴力は救いようが無いほど強烈だ。<br /> 手を握られたりしたら恥ずかしい。褒められると耐えられなくなる。お陰で、私の実家や私の寮の部屋は、合金製の壁で覆われている。<br /> 全部自ら望んだものだ。その中に自分を閉じ込める事で、人を傷つけないようにして来た。<br /> それは逃げだと思う。解っている。<br /> でも、このヒトを見た時、私は初めて、そんな檻を打ち破ってでも、彼女に触れてみたいと思った。<br /> そして今、その想いは更に強まってしまっていて、けれど、触れられないジレンマに苦しむ。<br />「よいしょっと」<br />「わ、わあああっっッ」<br />「うしコイやっしゃおらぶえぇぇぇーーーッッ」<br /> 私の大手甲全力右ストレートがミミミカを吹き飛ばす。<br /> またやってしまった……。<br />「ああああ、貴女がいきなり!! 掴むから!!」<br />「ぷっふ。大丈夫よ、六合江。私頑丈だから」<br />「うう……ッ」<br />「大丈夫。アンタに悪意がないのなら、私は幾らだってアンタの拳を受けるわ。ま、かわせる時はかわすけど」<br />「でも」<br />「友達は、何かに見返りを求めたりしちゃいけないし、困ったら手を差し伸べて当然であるし、辛い想いをしたら、一緒に悩んであげるものだって、本で読んだわ。それが理想でしかない事ぐらい、超絶頭のいい私は解っているけれど、でも、私はそんな理想が好きなのよ」<br />「な、何それ」<br />「アンタは確かに吹っ飛ばされたしちょっとマヌケなカンジになってしまったかもしれないけれど、私達はパーティでやっていて、アンタ一人で戦っていた訳じゃない。それに、アンタは私の言葉を信じてくれたから、ああやって突っ込んで隙を作ってくれたのでしょう。だからアンタは、何も恥ずかしい事なんてないわ。信頼を下にした勝利よ。そして私を嫌わないでくれているというのならば、それに答えねばならないわ」<br />「なんでそう、スラスラとこっ恥ずかしい台詞が浮かぶの。馬鹿」<br />「それは私が私だからよ。はい、手」<br /> もう一度差し出された手を、おっかなびっくり掴む。ミミミカは嬉しそうだ。なんでそんなに、まるで何も知らない子供のような笑顔が出来るのだろうか。<br /> 私はこんなにも暴力的でマヌケなのに。<br />「な、殴りたい……殴りたい……」<br />「深呼吸よ、はい、ヒッヒッフー……」<br />「産まんわ!! 何も産まんわ!!」<br />「お、案外繋げているわよ」<br />「……はあ……なんかも、莫迦らし……」<br />「大事が無くてよかった」<br /> 乾いた笑いが漏れる。ミミミカの手は、冷凍極大魔法の所為か、だいぶ冷たかった。<br /><br /><br /><br /> <br /> 4月25日 19時<br /><br /><br /><br /><br /> 未探索領域、という場所には心惹かれたけれど、生憎私は精神値が不味い。ミミミカの冷凍魔法はミミミカの承認が無ければ解凍不能という事で、私達は地竜をそのままに土竜の鼻先亭へと引き返した。<br /> 一応証拠の写真や、そしてあのバシリスクを地竜たらしめたであろう『玉』も回収した。これはどんな影響があるか解らない為、ミミミカがガッチガチに封印している。<br /> 報酬を受け取って一端引き下がろう、という話だったのだが……私達は土竜の鼻先亭の別室に案内されていた。<br /> 一応、考えなかった訳ではない。そもそもあんな所にバシリスクがいるのがおかしいのだ。<br />「――大変……申し訳ありませんでした……」<br /> 黒髪のプラクシムヒュムノの三年生が、地面に頭を擦りつけて謝っている。<br /> どうやら希少なグリモワールを手に入れ、それをなるべく迷惑のかからない場所で『教師同伴で』実験した結果、イリアーネから竜種を招いてしまったという。<br /> この人はどうも気が動転して、隠すべき事を隠せていない様子だ。まさか自分の行いがここまで迷惑をかけるとは思っていなかった為、あわてて顔を出したのだろう。<br />「いいのよ。貴女は何も悪くないわ。突然あんなものが出て来たら驚くもの。問題は教師ね。どこにいったの、その無責任」<br /> 珍しくミミミカが強い口調で迫る。<br />「あっ――せ、先生は悪くないんです……」<br />「そんな事無いでしょう? 監督責任があるわ。まさか金だけ出してひっそり終わらせるつもりだったのかしら。だとすると、アンタが出て来たのは不思議ねえ? 依頼者は追及不要とあったし」<br /> 捕獲後は証拠をオバ様に提示して請け負い側は引き下がる、という話だった。故に不自然なのだろう。<br />「もしかして、遭難してた先輩達の話を聞いたのかな。土竜の鼻先亭で先に帰って来た先輩達の話を聞いて、申し訳無くなって出て来た。これじゃない、ミミミカ?」<br />「なるほどねえ」<br />「……その、この事は先生や他の人には……」<br />「駄目。ウチの六合江が危険な目にあったの。偶発的とはいえこれは追及しなきゃならないわ。筋は通してこそ大人よ。私、そういう曲がった事大嫌いなの」<br />「……でも、私……」<br /> 教師(ちなみに女しかいない)とふしだらな関係にあるのかと思ったけれど、この表情はどちらかといえば……虐められているか、単位を握られているか、どれにせよ良い関係にはないだろう。<br /> この人は魔法が得意ではない様子だ。ともすると……グリモワールの実験を『した』のではなく『付き合わされた』のではないのか。<br />「ねえ貴女。この際ブチまけちゃいなさい。ここに居る大仙宮寺宗左衛門丞美々美花魔法士は曲がった事が大嫌いで女が好きで、死ぬほど強いわ。頼れる所頼るといい」<br />「あら、そんな評価になったのね、私。いいわ、私可愛い女の子に頼られるの大好き。ねえアンタ、考えなかったの? この不祥事がバレたら、その人だいぶ咎められちゃうわ。そうしたら、アンタをどうにかしようとう教師は居なくなる。気弱なのも可愛いけれど、言う事言わないと良いように使われるわよ?」<br />「わ、私のした事ですし……」<br />「嘘ね」<br />「連れて来たよ」<br /> 話が進まない中、オバ様が一人の女性を連れてやってくる。<br /> 金髪にピチピチのスーツを着た、獣亜人、恐らく狐か。魔法専科の教師だろう。趣味は悪いけど、美人だ。<br /> 魔法専科とはいえ物凄く広く、人数も多い上に職員室は七つ程あるので、全く知らない教師が居ても不思議ではない。<br />「面倒ね。依頼費出してるじゃない、全く……ああ、御苦労様、貴女達が退治したのね」<br />「"拘束""金剛不動"」<br /> ミミミカが――詠唱二節。<br /> 私は突如の事で呆気に取られた。<br /> 出て来た教師が即座に地面に貼り付けにされ、ミミミカがその上にまたがる。<br />「ミミミカッ」<br />「ごめんね六合江、自分を棚上げして悪いけど、無責任な大人って嫌いなの。ちょっと待っててね」<br />「なっ――あ、貴女、教師に何を――ほどきなさいッ」<br /> 教師ががなりたてるも、ミミミカは動じない。魔法も解除出来ない様子だ。これは教師が弱い訳でなく、ミミミカがおかしいのだ。<br />「生徒六名が三時間拘束、内一名が軽傷。討伐者三名中一人が軽傷。奇跡的に被害が少なかったわ。そして偶発的とはいえ、これは……何かしら。研究文献でも観た事がないわね。ま、これはアンタのじゃないから、はいこれ、この写真なんだ」<br />「――なに、地竜? なんでそんなものが……というか……なんで凍っているの……」<br />「この玉の影響で地竜に進化したみたい。私が凍らせたの。凄いでしょう。私が三節唱えた瞬間、アンタの頭もけし飛ぶわよ」<br />「な、何言って――」<br />「ま、討伐に行った手前、此方の怪我は仕方ないわ。頭に来るけど。でも生徒六名の三時間拘束と軽傷者一名は防げたはずよ。アンタが直ぐに他の教師連れて退治してれば、先輩達は直ぐ救出されたし、進化の玉に触れる機会もなく、ただのバシリスクで終わったわ。ここの店に迷惑かけて生徒も危険に晒して、それでアンタは教師を名乗るつもり?」<br />「そ――それは」<br />「んで、この子の何握ってるの? 尋常じゃないわよ、彼女のアンタ擁護っぷりは。何握ってる。喋りなさい」<br /> ミミミカが迫る。<br /> 彼女はこれほど怖い顔をした事があっただろうか。そこにいるのは、私の知る彼女ではない。まして女性を地面に叩き伏せている姿など、悦子が見ても仰天するだろう。<br />「あの、姉様?」<br /> 今まで黙りこくっていた桜木が口を開く。<br /> 彼女は音も無く立ちあがって近づくと、ミミミカの隣にしゃがみ込んだ。<br />「姉様、この人の対精神壁は?」<br />「ないわね、無防備よ」<br />「ではお任せあれ。センセ、お名前は?」<br />「……葦名琴子よ」<br />「"気を静めて、琴子。楽にして""私は貴方の、お仲間ですわ?"」<br /> 精神系自己魔力二節。<br /> 所謂半人半精神体、つまるところ魔族や神族が得意とする所の、精神系魔法だ。<br /> ミミミカが退くと、変わって桜木が上に乗る。何か耳元で語りかけると、先生は眼が虚ろになり、だらしない顔つきになる。<br /> これはえげつない。桜木は怒らせないようにしよう。<br />「こっから先は十八禁ねえ。六合江、離れてなさい」<br />「貴女も同い年でしょうに。てか桜木も」<br />「観たいの? エッチな子ねえ」<br />「うっさい馬鹿」<br />「さて。お話をお伺いしますわ。琴子、貴女、何でこんな事をしましたの?」<br />「黙っていれば……秘密が共有出来る……喋ったなら、私は、そこまで……だって……」<br />「あらら。どうしてそんなことしたのかしら。この先輩が嫌いだったの?」<br />「……好きで」<br />「ふんふん」<br />「この子の、気持ちが、解らなくて……確かめたくて……」<br />「呆れてものも言えないわねえ。ねえアンタ、こんな教師、守ってどうするのよ」<br />「――こ、琴子先生……わ、私、そんな事されなくても、そう言ってもらえたら……」<br />「め、瑪瑙……ごめん……」<br />「せ、先生。私、先生が好きです……」<br />「……あ、そういう……」<br /> ミミミカにして眉を顰める展開である。<br /> このような形で想いの告白をさせられてしまった当人達は不本意だろうが、残念ながら此方は被害者だ、理由は知る権利がある。<br />「女の痴話げんかなんて犬も食べませんわ、解散」<br /> 流石の桜木も首を振る。 <br /> 自身の違反をわざわざ作って、この先輩が黙っているようなら、自身への気持ちがあると判断出来るし、バラすようなら諦める気でいたのかもしれない。まさしく自身の職すらかけた試練だ。<br /> 先輩は黙っているつもりだったのだろう。だが、事が大きくなりすぎた。<br /> その上この『進化の玉』は極めつけのイレギュラーだっただろう。<br /> まあ、結果として二人の気持ちは確認できた。ハタ迷惑だが。<br />「先生、先生……ごめんなさい、そんなに悩んでいたなんて……」<br />「瑪瑙……好き、愛してるわ……」<br /><br />『他でやれ――――ッ!!!』<br /><br /> この場に居る全員が思わず声を上げる。<br />「ああ、もう。"拘束解除"」<br />「参りますわ、本当に。"お目覚めなさいな"」<br /> ミミミカと桜木が魔法を解除する。教師はその場に蹲ってさめざめと泣き始めた。<br /> ミミミカは深く溜息を吐いたあと、仁王立ちのオバ様に話しかける。<br />「オバ様、今回の事は、まあ事故という事で処理出来るかしら。何かあれば、この大仙宮寺宗左衛門丞美々美花が責任を取るわ。あと、これについて、ここに居る人達は、全員喋らない事」<br />「ミミミカ、貴女、それでいいの?」<br />「この大人は馬鹿だけど、でも、恋って盲目になる時があると思うのよ。ましてそれが生徒相手では、秘めねばならない事もあるわ。葦名教員」<br />「……はい」<br />「被害にあった生徒達は私がフォローするわ。費用だけ出して頂戴。大人なんだから、そのぐらいはして」<br />「はい。ご迷惑おかけしました……」<br /> 黒髪の生徒が頭を下げ、ミミミカとカリッジマネーをやり取りする。額は……どうやら満額だ。<br /> それから直ぐ、生徒に付き添われて先生は泣きながら退出して行った。なんだかとっても不思議な気分だ。<br /> それにしても、あれだけ激昂していたミミミカが、こうも簡単に許すとは思わなかった。こと恋愛に関しては、彼女の基準も緩いのかもしれない。<br />「ま、費用が出たならこれで目的達成ねえ。戦利品も出来たし」<br />「それは良いけど、小人の穴倉に置いて来たあの氷塊、どう処理するの?」<br />「突如小人の穴倉に現れたオブジェ。いいこと、黙っていれば物事は無いのと同じなのよん」<br />「無茶苦茶な……」<br />「エトル、被害にあった子達を集めて頂戴」<br />「はい、姉様」<br />「しかしまあ――刺激的だったわねえ。ああ、オバ様、ツケ分払うわ。あと、全員分に土竜ランチ」<br />「……なああんた」<br /> 注文を受けたオバ様がミミミカをジッと見据える。いつも無表情なオバ様だけれど、今日はどうも、小難しい顔をしている。<br />「いや、良い。ツケも構わない。汚い大人は口止めに対価を払うだけさね。ウチの判断ミスでもある。オゴリだから食べて行きなさい」<br />「あら、気前が良いのね、オバ様。あと十は若かったらおつきあいしたかったわん?」<br />「ハッ」<br /> オバ様が笑う。しかしその表情はどこか、含みがあるものだった。<br /><br /><br /><br /> 4月26日 16時12分<br /><br /><br /><br /> 翌日、私とミミミカは二人で小人の穴倉にまでやって来ていた。<br /> 昨日と変わらず、穴倉の真ん中には巨大な氷のオブジェが屹立としている。まだ噂などは出回っていないのだろう、ここまで来る間に人の姿は見なかった。<br /> しかし目的はここではない。<br />「未探索領域なんて、そんなにポコポコあるものなのかしらねえ」<br />「ない。学院が出来て数十年で、周囲二十キロぐらいまではほぼ探索し尽くされている。お国の調査団だって入っている筈だから、まあ無いと思っていたけれど、有る所には有るみたい」<br /> 大帝都の地下に広がるこの迷宮は、毎年遭難者と自殺者を出すとんでもない大きさのダンジョンだ。<br /> その広さは大帝都をスッポリ覆う程で、文献によれば土地の灌漑事業をしていた徳川家康が何度か調査団を募って派遣したという事実も見て取れる。<br /> 先輩の証言を当てにして、小人の穴倉に沢山開いている穴の一つに潜入する。広がる暗がりに対して燃焼蒼石を投げ込んでやると、ずっと奥まった場所が存在していることが分かった。<br /> 穴は人が一人立って入れる程度で、小人とはいうものの、ヒュムノ程度の身長の生物が暮らしていたと解る。<br /> 穴の奥の隠された場所。どうやらそこは岩盤でカモフラージュされていただけで、元から開いていた穴だったのだろう。<br />「古代人が、隠す必要性を感じて隠した、のかしらん?」<br />「奥に行ってみましょ」<br /> 燃焼蒼石を投げながらドンドンと先を進んで行く。カモフラージュ部分からもう二十メートルは進んだだろうか。この穴倉が発見されたのはだいぶ昔だ、最近ならば音波調査機を当てて調査するだろうけれど、そんなものが無い時代のものだ。既に探索済みと処理され、詳しい調査が行われなかったのだろう。<br />「お、台座ね」<br /> 突き当たりまでやってくると、台座があるのが観えた。石造りで、周囲の岩盤とは明らかに異なる花崗岩を成形したものだろう。台座の真中には丁度丸いものが収まるようになっていた。<br />「うーん。大学部の考古学部に依頼した方が良いと思う」<br />「遺跡荒らしじゃなく、拾ったのよ。それに私とアンタが得たものだわ。そう簡単に返しますか……あら」<br /> ミミミカが台座の後ろを注視し始める。<br /> 私も大きな目をジッと凝らすと、そこには文字らしきものが刻まれているのが解った。<br />「何これ、記号?」<br />「『ヲシテ』ね。ホツマ文字ともいうわ。神代文字」<br />「……何でこんなところに」<br /> ヲシテ、といえばねつ造文字の筆頭とされる。<br /> ホツマツタヱなどの文献を記された時に使われた文字で、江戸中期に発見された。ただ、三つ程度の文献以外は、古代遺跡や発掘品など、どこにも伝われていない事から、単なる文字遊びであろうと結論付けられた。<br />「私、その学説に異議を唱えてるタイプの、非常に面倒くさい人間なのよ」<br />「なんか納得」<br />「そもそも、私達日本人と原生神族が文字を得たのは、中国から漢字を輸入したところから始まるけれど、イリアーネはどう? イリアーネ大陸ではもっともっと昔から、それこそプラクシムワールドで文字が使われ始めるよりずっと前、数万年前から文字文化が存在し、詩篇なども見つかっているわ。この大東京の下に張り巡らされるダンジョンだって、昔の人の技術力じゃ到底無理。イリアーネとプラクシムは、その昔一度衝突していて、離れたんじゃないかしら?」<br />「その学説は昔からある。決定打がないだけ」<br />「米国はカリナエスカがいるからまだそうでもないけど、欧州なんかはまだアンタ達日本原生神族が神話の昔から存在していた事も、イリアーネ人達が並行世界からの稀人である事も、信じていない奴が多いのよね。百年よ、百年」<br />「ヨーロッパのフォークロアでしかなかった存在が、百年前から現実の存在としてイリアーネから現れた。所謂非科学的、とされた私達原生神族は、日本からすれば当たり前だったけれど、西洋人からすると衝撃的どころの話じゃなかった。オランダ人も首かしげたまま、精査もしなかったしね」<br />「家康が日本原生神族に対する実験や解剖、悪用による祟りを恐れたからよね」<br /> 原生神族は、神話の時代から生きながらえている半人半精神体だ。純度の高いものから精神体としての属性が強く長命で、人との交わりが多い種族から短命だ。<br /> 私ならば恐らく、自然に生きて250歳だろう。<br /> しかし帝の一族は木花咲夜姫の呪い故に、人ほどしか生きられない。<br /> 精神文化に富み、精神呼応と会話のみで、文字を伝える文化がなかった為に資料こそ殆どないけれど、皇族も私達華族に連なるものも、人間とは根本的に異なる存在であることは間違いない。原生神族は肉体と精神が、人間とは別の融合を遂げている。<br /> 私達のような存在を考慮し、最近は歴史研究が進んでいるものの、上手くいっていない。何せ古墳などは、そもそもまだ墓守一族が生きている。<br /> ただ、プラクシムワールドに残る様々な、当時では有り得ない科学の痕跡や遺構などは、この百年で大分イリアーネとの関係性が示されてきた。この大迷宮、そしてこの文字とて、イリアーネから齎されたものかもしれない。<br />「で、よ。ホツマに関しては、なんか伝えるのに面倒くさい文字で、流行らなかったんじゃないかしら」<br />「まあ確かに、見るからに面倒くさい文字だし」<br />「人類は利便性を求めて来たわ。利便性が悪いものは、淘汰されて当然」<br />「なんて書いてあるか、わかる?」<br />「んー……だいぶ削れてるわね。現代語訳でいいかしら?」<br />「うん」<br />「『……凄く大事なものを……とても可愛らしい……時来たらば……彼方の人よ……望まれし融合の地……』うーん、全貌がつかめないわね」<br />「何が可愛らしいのやら。この玉の事?」<br />「うつくしいたまのように、ってことかしら。光源氏みたいね」<br /> ミミミカが呪文の書かれた布で覆い付くした玉を取り出し、燃焼蒼石で透かして見る。緑の球体はエメラルドを占いの水晶玉のように加工したような、驚くべき大きさと丸さがある。これが古代に作られたのならばオーパーツであると判断されるだろうし、イリアーネとの関連性も深く考えられるだろう。<br />「うん?」<br /> その、緑色に怪しく輝く球体の中に……何かが観える。<br />「……うげ」<br />「ずいぶん美しくない発声するね、ミミミカ」<br />「見て頂戴」<br />「……うげ」<br /> 球体の中には、これは、胎児だろうか。<br /> かなり初期の段階の胎児で、一体何の子供かは解らない。大体亜人系は初期段階で似たような形をしている為、妊娠初期ではどの種の子なのか判別がつかないからだ。本物か偽物かは解らないものの、最近の技術をもってしても難しそうな作りである。<br />「作りものかしら。だとしたらオーパーツね。水晶髑髏みたいな」<br />「あれは製作者がイリアーネ人だった。てか生きてたし」<br />「じゃあ、これもその類かしら。うん。黙っていましょう」<br />「……いいの?」<br />「あと、ここもキッチリ閉じるわ。また調べる必要が出たら来ましょう。六合江、石版の文字を撮影して」<br />「ふうむ。ま、面白半分で損壊されるよりはいいわ」<br /> 本来なら未発見領域は即座に土地の管理者を通じて国に通達する義務が存在する。しかしながら、ここは既に調査済みの領域で、未発見区画など想定されていないので、法の外だ。<br /> 屁理屈気味だけれど、お国の仕事は昔からこんなもんである。あちらも忙しい。<br />「よし、閉めるわよ」<br /> 穴倉から出て、カモフラージュ部分を土精霊ではなく、自己魔力のみで完全にふさぐ。こうなってしまったらもう誰も判別がつかない。ただの岩盤だ。発見した先輩達も正確な部分を把握していた訳ではないし、大規模な発掘をしない限り見つけられないだろう。<br /> が、いざ発掘された時、これを埋めたのは誰だ、となった場合、真っ先に疑われるのは私達だけど。<br />「ちなみに、玉の所有権なんかはもう先輩に譲ってもらっているわ」<br />「根回しが早い事で」<br /> 疑われたとしても、まあ、大仙宮寺の名前を出したら大体解決するんじゃないだろうか、とも思う。<br /> イリアーネに関する事件や問題、その他考古学的なところまで、大仙宮寺は食いこんでいる。彼等の目的はプラクシムとイリアーネの『大統一歴史論』であるとされている事から、未発見領域の遺物に関しても直ぐ首を突っ込んでくるだろう。<br /> ミミミカはそのあたり、どう考えているのだろうか。<br />「ミミミカはさ、プラクシムとイリアーネ、最終的にはどんな形の関係が望ましいと思っているの?」<br /><br /><br />「あら、なんだか真面目な話ね。ところで六合江」<br />「うん?」<br />「実はここ、私達二人きりなのよ」<br />「まあ、そうね?」<br />「……六合江」<br />「え、あ、ちょ、うそ」<br /> 穴倉出口手前で、何をトチ狂ったかミミミカが私を壁に押し付け、その顔を突き合わせる。私とミミミカでは身長差があるので、完全に見下ろされる形だ。<br /> ミミミカの綺麗な顔が近い。彼女はとても優しそうな笑みを浮かべている。<br /> 私といえば、ビックリ唐突すぎて、何が何だか分からなく、大きな目玉から涙がこぼれそうになる。<br />「や、ちょ、ミミミカ、冗談はやめて」<br />「冗談なんて無いわよ? 私ここ二日、真面目な話しすぎてちょっとストレス溜まってるのよ」<br />「ストレス解消にこんな事しないで」<br />「恋愛でストレス溜めてたら長続きしないわ?」<br />「け、けれど。貴女は、その、悦子が好きなんじゃないの?」<br /> 悦子がどう思っているかは兎も角、ミミミカが悦子に執心で、積極的にコミュニケーションとスキンシップをはかっているのは、重々承知だ。私などミミミカの美貌に惹かれて悦子に付いて来ただけであって、ミミミカ自身に『このように』される覚えは無い。<br /> 嫌か、嫌じゃないか、といえば……嗚呼、なんだってこの人美人なんだろ畜生。<br />「悦子は悦子よ。アンタはアンタ。昨日の六合江、格好良かったわ」<br />「ま、マヌケって言ったクセに」<br />「言葉のあやよ。アンタがとっても私の事信頼してくれてるって思ったから、少し汚い言葉も受け入れて貰えると思ったの。ねえ六合江――私の事、どう思う?」<br /> どう、とは。<br /> それは、好きか、嫌いか、という意味か。<br />「アンタ、私が目当てで悦子に付いて来たんですって?」<br />「だ、誰から」<br />「あらら。そんな雰囲気だったから、カマかけてみたのだけれど、本当だったのねえ?」<br />「う、ううぅ……」<br /> 右手を握り締める。拳を作る。<br /> もう、なんかこの際、ぶん殴って『もう、ふざけてんじゃないわ』と終わらせたら早いだろう。<br /> けれどもミミミカの目は真剣そのもので、私自身も、このまま流れに乗れたなら、それもそれで他の子達よりも頭一つ抜けた関係になるんじゃないだろうか、などと、考えてしまう。<br />「――昨日はおててを繋げたわ。今日は唇くらい、合わせても大丈夫なんじゃないかしら?」<br />「し、死んじゃう。そんな事したら……死んじゃう……」<br />「どうして?」<br />「恥ずかしくて……わ、わた、私……貴女が――」<br /> ミミミカの柔らかそうな唇が迫る。<br /> 駄目だ。彼女の香りが、色気が、私の駄目な部分を強く刺激してしまう。このままでは流される。流されて……でも、悪い事なんて、あるだろうか。<br />「私――気が多くて、女の子が大好きで……少し常識にとらわれていないけれど……気持ちが嘘だった事なんて、一度もないわ? 可愛いわよ、六合江。私を好ましく思うなら、キス、して?」<br /> その物言いは、ズルすぎるのではないだろうか。<br /> 好きか嫌いかではなく、好ましく思うかどうかなど、そんなの、思っているに決まっている。<br /> 小さく瞳を閉じて、私は顎を上げて、唇を突き出す。<br /> ――ああもう、何でもいい――なんでも――。<br /><br /><br />「六合江、何してるの?」<br />「ふぉあ!?」<br /> 前につんのめり、地面にキスする。<br /> 目の前に居た筈の、積極的でなんかとってもエッチな感じがするミミミカが、居ない。<br /> 居ないどころか何時の間にか穴倉を出て、フロアの先から此方を呼んでいる。<br />「え? うえ? 何?」<br />「ちょっとちょっと、六合江?」<br />「だ、だって!! 今、貴女が!! キスしてって!!」<br />「言ってないわよ。したかったの? まあ、仕方ないわよね、こんな超美少女と二人きりで洞窟探検してたら、退屈な風景に疲れた目が私に行ってしまって私の事ばかり考えるようになって――したかったの?」<br />「あや!! いえ、結構でございます!!」<br />「何よそれ、変な子ねえ」<br /> 違うのか。<br /> 今のは、ミミミカではなかったのだろうか。<br /> では、何とキスをしようとしたのだろうか。幻覚だろうか。こんな場所で、唐突に?<br />「むぅ……」<br /> 何か、自分の瞳の奥で、緑色の輝きが観えた気がする。<br />「ミミミカ、それ」<br />「それ? ああ、この玉ね」<br />「幻覚見せる力があるかもしれない」<br />「で、幻覚で私とキスしようとしたのね……いつでも言ってくれれば良いのに……」<br />「う、ぐぐ……うう。ともかく、それ」<br />「――うん。なんか漏れているわね。あとで封印し直しましょう。ところでキスなのだけれど」<br />「だから、しないってば……」<br />「いいじゃない。親愛の証よ」<br /> それは一体どんな早業だったか。明らかに三メートルの距離を詰める為に空間転移を用いている。<br /> ミミミカが突如目の前に現れ、私はなすすべなく、そのまま頬にキスされた。<br /> あ、うわ。柔らかい。頬への刺激がじんわりと沁みてきて、頭がくらくらする。<br />「む、むきょあ……」<br />「むきょあ?」<br />「ふんっ!!」<br /> ミミミカ目掛けての左フック。<br /> が、外れだ。流石に殴られ慣れて来たのか、彼女は涼しい顔をしている。<br />「頂いたわ。ふふ。ほっぺ真っ赤。唇は、私の好感度があがった時の為に取っておくわね?」<br />「あがんない!! あがんないから!! 馬鹿!! レズ!!」<br />「んふふ。かーわい。それでこそ我が地球同性友愛文化研究会の一員ね。今後もガッツリ美少女アピールしまくって頂戴。そうする事により私が満たされるわ」<br />「なんでよ、もう。ああ、ううう、恥ずかしい……貴女、ホント、なんなのよ」<br />「何がかしら?」<br />「だってその、私別にそんな、可愛くないし。単眼種ってほら、何かと怖がられるし」<br />「あー」<br /> そもそも単眼種は、どうしてもその容姿から恐れられる事が多い。<br /> サイクロプス族然りで、力が強く粗暴な性格が多い事も理由にあげられるだろうけれど、まず最初は一歩引かれる。<br /> 日本では一本だたら、一つ目小僧、一つ目入道など、妖怪としての先入観は強いものの、神種も妖怪種も、人里離れていたとはいえ、共存してきた歴史がある。<br /> しかしヨーロッパにはそのような共存の歴史もなく、単眼族は製鉄技術を持つ巨人として描かれ、ギリシア神話では扱いも酷い。<br /> 近世ではオディロン・ルドン筆のキュクロプスなどのイメージが先行しており(あれが描かれたのは1914年、イリアーネとの衝突は1920年)常に恐怖の対象として描かれていた。<br /> ヨーロッパでも製鉄の神であるように、私達天津彦根から続く天目一箇一族も製鉄を生業として来た。工業技術が進むにつれてその需要も増え、今ではまず製鉄といえば私達の事を言う。<br />「まあ、私は元から日本人であるし、産まれた時から接しているし、偏見がないわ」<br />「貴女は行きすぎとしても、世界が貴女の十分の一くらい寛容ならね」<br /> ただ、グローバル化が進むにつれて海外との接触が増え、嫌な目で見られる機会も増えてしまった。<br /> 勿論、この百年でヨーロッパ人が『神話』や『フォークロア』だと思っていたものが現実に存在しているという事が、強く認知はされ始めたけれど、未だイリアーネの人々はあまりヨーロッパには進んで移り住もうとはしない。<br />「ロシアでの排他運動が痛かったってのはあるわねえ」<br /> ロシアとの交渉で、亜人の入植が進んだことがある。<br /> けれども……それは失敗に終わった。大陸は楽園とはなりえず、排他運動にあってしまったからだ。<br />「そういう偏見を減らして、イリアーネ人や亜人種がどこでも、好きに暮らしていけるプラクシムを作るのが、今の帝國議会の方針であるし、大仙宮寺の使命なの。私、実家はあまり好かないけれど、この考えだけは同意するわ」<br />「この部も?」<br />「欲望七割大義三割」<br />「自重の無い事で」<br />「可愛いわよ、六合江。あといつか眼球舐めさせて?」<br />「桜木と良い、貴女達変態は何か共通のシンパシーがあるの?」<br />「気になるじゃない。さて、部室に戻って、カンナのおっぱいでも揉みましょう。悦子は直ぐ怒るから難しいのよねえ……ミーアは直ぐ揉ませてくれるけど……六合江は小さい割に、案外あるわね?」<br />「揉む揉むって、貴女人の胸をなんだと……」<br />「だって私薄いんですもの……。羨ましいわ、プレイも広がるし……あら」<br /> 小人の穴倉フロアを歩き、さて転移で戻ろうという時に、ミミミカが立ち止まる。<br /> そして彼女が振り返った。<br /> その手には、何故か赤ん坊が抱かれている。<br />「――――――――んん?」<br />「――――ん? ――――え? ――――ミミミカ?」<br />「……う、産まれたわ!?」<br />「ナンデ!?」<br /><br /><br /><br /> 4月26日 17時<br /><br /><br /><br /> 急いで部室に戻ると、中では丁度帰り支度をしている悦子の姿があった。<br /> 突然入って来た私達と眼が合うと、何かを言おうとしたまま、固まる。気持ちはわかる。<br />「な」<br />「な?」<br />「な、なんで……? そ、そんな……そんな、仲、だった……の?」<br /> 悦子は此方を指差してプルプルと震えている。果してそれがどんな感情から来る震えなのかは解らないけれど、相当に狼狽している様子だ。<br />「違うの悦子。これは話せば少し長くなるんだけど」<br />「だだ、だっておかしいでしょう。それ、二人の子? 思念交配? や、やっちゃったの? そんな、そんなに子供が欲しかったんですか?」<br />「いやいや、思念交配したところで、一瞬で3000gある子供が生まれる訳ないでしょ、悦子。妊娠期間どこ行くの」<br />「……――でも単眼じゃない! 六合江の子じゃなかったら何処の子ですか!?」<br />「あららら、悦子がこんなに混乱してる姿、初めて見たわ。そんなに私との子が欲しかったの、悦子?」<br />「う、は、はあ? な、いやだから、高校生で! 子供なんて作ってどうする気なんですか!?」<br /> さて、どう説明したものか。感情が先行して論理的な思考回路が吹き飛んでいる。<br /> ミミミカが説明すればするだけ話がややこしく、私の言葉も耳に入っていないらしい。<br /> まあでも確かに、突然現れたと思ったら単眼種の子供抱えていた、なんてことになれば、誰だって私の子と疑うかもしれない。<br /> ミミミカは当然何もしていないし、私も関わりが無い。<br /> 緑の玉は突如として子供へと変化し、それが何故か私に似ていたのだ。<br /> 緑の玉が不思議な力を有していて、しかも中に胎児が封入されていた事を考えると、これは明らかに怪異である。<br />「お、落ち着いてよ悦子。まず一つ、いい?」<br />「な、なんですか。なんですか」<br />「私とミミミカはそんな関係じゃない」<br />「でも、六合江はミミミカが好きだって」<br />「え、そうなの、六合江?」<br />「気が多いのは否定しないよ!! でも少なくともいきなり子供作り始めたりしないでしょ」<br />「まあ……まあ、そりゃ、そうです」<br />「ったく。んで、思念交配だけど、これは肉体的に接触しないだけであって、産まれるまでの過程は普通の子供と同じなの。もう少しイリアーネの保健体育勉強してよ」<br /> 思念交配法というと、イリアーネにおける女性同士の子供の作り方を言う。<br /> 自身の情報を魔法化させ、授精に適した物質に変換し、それを母体となる女性の子宮に注ぐ。一万年ほど前にヴァルプルギスが完成させた技術であり、イリアーネではポピュラーだ。<br /> いきなり子供が出来る訳ではなく、妊娠、出産に至る過程は種族によって日数こそ異なれど、長期間要するのは同じだ。<br />「そう……そうです。はい。うん。ええ……そう、子供は、いきなり出来ない……」<br />「落ち着いて来た?」<br />「ご――ごめんなさい。で、ではなぜ、その子は単眼なんですか? この学院で単眼種というと、エルフ並に数が少ない」<br />「そこからなの」<br /> 取り敢えず、ミミミカが気を利かせて淹れたお茶を出して、悦子を椅子に座らせ、事のあらましを説明する。<br />「――マジックアイテムでしょうか。太古の遺物……ずいぶんと現代の魔法科学に照らし合わせてもオーバーテクノロジー感満載ですね」<br />「厳密にこれがどんなものかは解らない。ただ私達が知る限り、それはバシリスクを竜に進化させたし、私に幻覚を見せた。そしてこの……子供……子供?」<br /> ベッドに寝かしつけていた赤ん坊に目を向ける。<br /> うん。<br /> 何故かその子は既に三歳児ぐらいで、しっかり二本足で立ち上がり、部室の備品を弄って遊んでいた。<br />「ええー……? 何ですかこれ……?」<br />「摩訶不思議にも程があるわね。にしても、あはははっ、六合江そっくりでかっわいいわねえ?」<br /> ご丁寧な事に、化身は中央眼であり、髪型まで黒髪おかっぱだ。<br />「小さい頃の私そのままじゃない……てか、もう少し驚いてよミミミカ」<br />「オーパーツのする事だし、ふむ。悦子、少し良い?」<br />「なんですか?」<br /> そういって、ミミミカが悦子に寄り、緑の玉の化身を手招きする。その子は嬉しそうに、そうだ、まるで母親に縋る子供そのものの笑顔でミミミカに抱き付く。<br /> なんだか自分の幼いころを客観的に見つめているようで変な気分だ。<br />「あ! 部屋の隅に太古よりプラクシムの暗部を支配する闇の眷属が!!」<br />「ええ!?」<br /> 私は別に驚かない。あんなもの慣れた。しかし悦子はそうでもない様子で、部屋の隅に視線を向ける。<br /> その瞬間を狙い、ミミミカが悦子の頬にキスした。<br /> ――あー、すーげーイラッと来る。すーげーイラッと来る。<br />「なあああああッッ!!」<br />「んふふ。悦子も可愛いわ……で、ほら」<br /> ほら、とは何か。<br /> ミミミカが手を握っていた化身に目を向けると……その姿は、何故かエルフの格好になっていた。<br /> 金髪で、耳が長く、まだ幼い姿であるというのにスタイルが良いのは紛う事無くあの一族である。<br /> 薄く蒼い輝くような瞳に、透き通るような金髪。<br /> 悦子を小さくしたような子だ。いや、悦子だ。<br />「……――うん、なんだか驚かなくなってきた」<br />「わ、私!? 懐かしい……って、あ、ちょっと」<br /> 化身が悦子に抱きつき、幸せそうな顔で見上げる。<br /> 自分の姿をしていたものが転じて他人の姿になって他人に懐き始める。<br /> 一体どうなったらこんな状況が再現出来るのか、という場面が二転三転し始めて、私は頭が痛くなる。<br />「説明して、ミミミカ」<br />「ええ。もしかしたらこの玉、使用者、所有者が望む形を再現するものじゃないのかしら? ほら、この玉が最初に転じた時は、私がアンタにキスしたでしょう?」<br />「え、二人で何してるんですか? やっぱりそういう? だから六合江、止めておいた方が……」<br />「ええい、悦子、貴女もだいぶ面倒くさい。私が誰とキスしようと、何でもいいでしょ」<br />「うっ――ご、ごめんなさい」<br /> しかしなるほど。<br /> ともするとバシリスクは<br />『自分、こんなところで終わる竜種じゃないっス。でっかい奴になるっス』<br /> などと、まあ思わないにしても力を欲した故に、この玉が手助けしたと思われる。<br /> 私の幻覚の場合、あの時は少しミミミカを気にしすぎていた。玉をそれを汲み取ったのだろう。<br /> 私そっくりの子になった事、悦子そっくりの子になった事、これについては……つまるところ、ミミミカが、少なくとも私や悦子に対して、そのような気持ちを抱いているという事実が観える。<br /> まるで心を覗かれるようなものだけれど、ミミミカは別に気にしないだろけど、ただ、周りにまで影響を及ぼすとなるといささか面倒だ。<br />「仕組みは不明だけど、膨大な魔力が封入されたアイテムだというのは解った。それで、この子どうするの」<br />「ミニ悦子ちゃん。いらっしゃい」<br /> 悦子に縋りついていた化身を抱きあげ、ミミミカが何かしらを唱える。<br /> するとどうか。化身は淡く白い光を放った後、元の緑の玉に転じた。<br /> 三人で玉の中身を覗く。今までの胎児とは異なり、小さな悦子のまま、中におさまっている。<br />「少し詳しそうな人に相談してみようと思うわ。もし、これが本当に生命体として自身の存続を望むのならば、それは人権が絡んでくる。昔一度有ったわね」<br /> 恐らく数十年前、化石から亜人が蘇った事件の事を言っているのだろう。<br /> 当時はそれを保有していた大学と政府、そしてカナン王国政府の間で、研究資料か人間かという大議論に発展した。結局蘇った亜人(古代竜亜人種)は人権を得、今も元気に日本で暮らしている。 <br />「やっぱり、大学の考古学部に持っていった方がいいんじゃない?」<br />「学問で何とかなる問題かしら。あるとしても考古学部よりも古典魔法学部ね」<br />「じゃ、どうするの?」<br />「ここ、お年寄りは沢山いるでしょ」<br /> お年寄り、をどこから基準にするかが問題だ。<br /> 基本的にイリアーネの純種族に近い人間やイリアーネハイミックスは寿命が長い。特にデビア、ゴディア、ハーフデビア、ハーフゴディアは平均でも2000歳は生きる。生徒には限られた数しかいないけれど、教師方には結構な数の神族と魔族が入っている。<br /> また大型種も長く、私の知る限りで知り合いが寿命で死んだ、なんて話を聞いた事はない。<br /> 私のようなヒュムノの血が色濃く入った日本原生神族とて200年を平気で生きる。<br /> だからつまり、イリアーネヒュムノ、プラクシムヒュムノを基準、で良いのだろうか。<br />「身近な長生きといえば、ミーアかしら?」<br />「あの人、本当に趣味で高校生してるんですよねえ」<br /> 長生きといえば竜種も外せない。竜亜人は細分化された種族にも寄るが、始祖である純種エンダードラゴン系の血族である場合、人間と交わった後でもかなりの寿命がある。<br /> ミーアナイト・ドラコニアスは名前の通り、竜亜人の元祖であるドラコニアンの源泉に近い種族で、現在で既に5000歳を超えていた筈だ。<br />「でも、あの面倒くさがりが、難しい話しないでしょ」<br />「そう? 長い時間をかけて、ゆっくり話すのが好きなのよ、彼女。私達とは生きている時間が違うの。飲み物と食べ物をもって、邪魔が入らない場所を用意して、急いたりしなければ、質問に対して一つ一つ、丁寧に語ってくれるわ。ただ確かに、一つの話を終わらせるのに二日ぐらいかかるけれど」<br />「貴女、付き合ったのね」<br />「ええ。もう二日間ずっと口説かれてたわ。流石の美々美花様もへとへとよ」<br />「ともなると、昔のこういったものに詳しそうな人物といえば、あの人でしょうか」<br /> 頭を巡らせるまでもなく、一人の人物が思い浮かぶ。<br />「はぁい、みんな、ごきげんよぅ~」<br /> 噂をすれば、かの人物がゆっくりと部室に入って来た。<br />「大天使、丁度良かった」<br /> ミラネ・ミラネ・死織エス研顧問だ。<br /> 彼女はミミミカが抱えているものを、細い目を見開き確認し、また笑顔に戻る。なんも間の長い天使だ。<br /> 腰元を超える長さの金髪を謎力で漂わせ、本人もなんかちょっと浮いている。<br /> 純白のドレスを思わせる『聖衣』を靡かせながら、彼女は此方のタイミングを全く考慮せず、ゆっくりゆっくり近づいてくる。<br />「あらあら、なにか、お困りでしたか? 先生、生徒に頼られるなんて、うれしいです~」<br /> 確かに、十万年近く生きているレガシ教の四大守護天使たるミラネ先生ならば、古い事も知っているだろうけれど……この人が、まともに答えるだろうか。<br /> 教師として、教える事は教えるし、基本的な人間としての生き方や教訓、道徳に関しても、彼女は実に良き教師だ。けれども、いざこういった古いものの話や伝説、生き証人としての意見を問うと、途端痴呆の如くスッ惚ける。<br /> 現代人に昔の事で干渉しないというのは、レガシ教の大天使達の取り決めなのかもしれない。<br />「大天使、これなのだけれど」<br /> そういってミミミカが緑の玉を見せる。彼女はジッと顔を近づけてから、うふっと笑った。<br />「預かりましょうかぁ?」<br /> あ、これ。<br /> これヤバいものだ。<br /> 私は片頬がつり上がり、悦子は顔をひきつらせる。ミミミカは小首を傾げて『だーめ☆』と言い出した。<br /> 大天使が、わざわざ何も聞かず『預かろうか』などという物体、碌なものではない。<br />「大仙宮寺さん、これは、どちらで~?」<br />「地下で拾ったのよ。生憎場所は言えないの、大天使と言えどね」<br />「んー。なるどお。解りましたぁ。ねえ大仙宮寺さん、先生の事、好きですかぁ?」<br />「え? ええ、大好きよ。凄くえっちなことしてみたいわ」<br />「なら、しても良いので預けてみませんかぁ?」<br />「ちょ」<br />「おま」<br />「あらそうなの……それは考えるわねぇ……」<br /> この教師何言ってるんだろうか。<br /> え、何、そんなにこれ不味いものなの? というか身体売っちゃうぐらい不味いの?<br /> 幾らミラネ・ミラネ・死織が生と死と同性愛の守護者だったとしても、生徒に身体売ってアイテム強請るのはどうかと思う。<br />『大天使、大仙宮寺の娘と援助交際』<br /> なんて学院新聞に一面トップで踊るような事は勘弁願いたい。というか下手したら全国紙だ。<br /> ――いや、大仙宮寺とレガシの守護国家たるカナン国王家ブリミエスカ家の戦争になる。<br />「ふうむ。大天使が危機感を覚えるほどのものなのね、これは。推察するに、基本的に大天使等は人類に対しての影響を考えて、その力や知識を貸し与える事にかなり消極的よね。それはアンタ達大天使が凄まじい魔力の炉であり、両界2億人の信者を抱えるに及ぶレガシの礎であり、歴史の根幹であるから。だから、私達が何をしようと、まず大天使が『アイテムよこせ』なんて事は、言わない。勝手にさせておけばいい」<br />「うんうん。大仙宮寺さんは、頭が良いですねえ」<br />「でも、よ。それがレガシ教に害を齎すような事、イリアーネやプラクシムに悪影響を齎すような物だった場合は……どうかしら。守護者たるアンタは、芽を摘んでおこう、そう思うのではないかしら?」<br />「んー……困りましたねぇ。どうしてもダメーですかあ?」<br />「これが何であるのか、アンタは知っているのね?」<br />「先生の事、大仙宮寺さんが寿命で亡くなるその日まで好きにしていいって言ってもだめ~?」<br />「そ、そんなに……ミラネ先生、これ、何なんですか?」<br />「そう。知っているなら答えて、先生」<br /> ミラネ先生は沈思黙考を始める。<br /> こうなったら十分は動かないだろう。全員が頷き、適当にくつろぎ始める。<br />「ミミミカ、砂糖を取って」<br />「はい。アンタ、甘いの好きねえ」<br />「いいじゃない別に」<br />「そういえば、マナエスカがお菓子を持ってきたんです。箱で買ってきたそうで。数種類あるんですが、全部たこ焼き味なんですよねえ……」<br />「紅茶にたこ焼き味のスナック……実になんかこう、違う感凄いわね。ああそうだ、この部屋少し片付けましょう。もう少し『お茶会室』みたいにしたいのよ」<br />「この部の名前忘れていました。まあ、それには賛成です。ごちゃごちゃしすぎて趣味が悪いですし。特にこの金色の壁紙、最悪です」<br />「いいよ。で、これから暑くなるけど、空調とかどうするの? エアコン壊れてるし、一夏冷凍石で乗り切るには、お金がかかりすぎる」<br />「まずは配信用のパソコン一式ね。空調は後からでも間に合うわ。その為にはもう一度課題をこなしてこないと。六合江、前衛お願い出来るかしら。なるべくなら、交流も兼ねて悦子にもお願いしたいのだけれど」<br />「課題クエストですか。まあ、構いません。もうこの際『課題代行部』とかにして、荒稼ぎしたらどうでしょう」<br />「イヤよそんなの。バイトはバイト。なんだかガメツイわね、悦子」<br />「幾ら子供にお金を持たせるなと言っても、少なすぎるんですよ、実家からの仕送り。その点はマナエスカが少し羨ましいです」<br />「成金趣味だから。娘が可愛くて仕方ないんだし。豊臣帝は」<br />「それで~ですねえ」<br />「ええ」<br />「はい」<br />「なんですか、先生」<br />「所有権に関しては、承知しましたぁ。大仙宮寺さんで、いいんですねえ?」<br />「ええ、私よ。管理は任せて」<br />「はい~。んと、それはですね、その昔の人が、頑張って作った魔力結晶のようなものなのですよ~。環境適応型人工精霊(しょうろう)と言いまして、とっても、強い力があるんですねえ」<br />「一つ聞きたいわ。それは、人間として扱えるものかしら?」<br />「いいえ~。扱いとしては、ホムンクルス以下ですよ~。今、中に入っているのは、佐藤さんを模したものですねえ?」<br />「はい。済みません、ミミミカの馬鹿が、こんな事をしたもので」<br />「所有者の思念が、とても色濃く出るものなんです~。つまるところ、見える好感度感知器のようなものですねえ。今大仙宮寺さんが一番大好きなのは、佐藤さんという事に、なりますねえ?」<br /> それを聞き、悦子がハッとする。私は悦子を睨み、ミミミカはニヤニヤ笑っていた。<br />「愛着があるのなら、その、変な話ですけれども、幸せに、してあげてくださいねえ?」<br /> それは、どういった意図で発した言葉なのだろうか。口調が幾許か真剣だ。<br /> 古代人の魔力結晶。聞くだけで危なそうだけれど、大天使が許可を出すというのならば、これ以上の後ろ盾はない。この決定はレガシ教徒全員が頷かねばならないものだ。<br /> 悦子は勿論、私もレガシを信じていない訳ではないので、頷くほかない。<br />「ええ。大天使の配慮、感謝するわ。御礼にキスしたいのだけれど、良いかしら?」<br />「渡してくれるなら、全部許可しちゃうんですけれどねえ?」<br />「それは遠慮しておくわ。ありがとう大天使。流石天使ね。死織ちゃんマジ天使ね」<br /> この件については、もう決定を覆されたくないらしく、ミミミカの物言いが何か適当だ。ミラネ先生も頷いている。けれど、悦子は何か言いたげだ。<br />「ミミミカが所有するのは良いんですけれど、中身のその子、なんとかなりませんか?」<br />「ならないわね。悦子、好きよ」<br />「――はいはい」<br />「今のタメは何かな、悦子」<br />「だ、誰だって面と向かって好きだって言われたら、そら、困るでしょう?」<br />「ふぅん」<br />「何ですか六合江、ハッキリ言ってください」<br />「別に」<br /> 私と悦子が睨みあう。自分でもカンジが悪いとは思うけれど、嫉妬してしまうものは仕方ない。<br /> それに、悦子だってきっと満更じゃないのだ。<br /> そもそも、本来は入部だって拒んでいた筈なのに、足しげく毎日部に通っているし、ミミミカに苦言を呈する事はあっても、強く否定したりは絶対しない。<br /> 好きでも何でもない、と言う割には態度が『嫌いという立場として不誠実』だ。<br /> とはいえ、私だってミミミカに態度を表明した訳ではないので、強くは言えない。結果の沈黙だ。<br />「ねえ大天使、愛されるって、辛いわね?」<br />「ええ。でも、仕方のない事なんですよぉ。大仙宮寺さん程美しいと、どうしてもこのような場面には、遭遇してしまうんですねぇ~」<br />「何かコツはあるかしら、性天使」<br />「自身から端を発した事ではありますけれど~、争っているのは他人同士なので、傍観が一番ではないでしょうかねえ。あとでそれぞれ、愛してあげてはいかがですかぁ?」<br />「良い事言うわね、流石レガシ教最大の信仰を集める大天使ね」<br /> ミラネ先生とミミミカが適当な話をしている最中、私と悦子は暫く睨みあった後、此方から視線を外した。<br /> 負けたような気がしなくもないけど、本当なら幼馴染と喧嘩なんてしたくない。<br />「ミミミカッ」<br />「はぁい、何、六合江」<br />「貴女の工房に行きましょ。緑の玉の処遇を決めるんでしょ」<br />「そうね。でもえつ」<br />「いいから」<br />「おほっ……参ったわね」<br />「あ、そうですそうです~。先生、佐藤さんに用事があったんですよぉ」<br />「え、私ですか」<br />「はい~。だから、少し残ってくださいねぇ」<br /> それが本当かどうかは解らないけど、先生に残れと言われたのでは、悦子も身動きが取れないだろう。私はミミミカの腕を引っ張り、悦子に視線だけを残して去る。<br /> 去り際、悦子の険しい表情が窺えたような気がした。<br /><br /><br /><br /><br /> 4月26日 18時20分<br /><br /><br /><br /> ミミミカの工房は学生寮街外れの、崖をくりぬいた洞窟の中にあった。<br /> 洞窟とはいっても、全て鉄筋コンクリートで覆われており、さながら悪の組織の秘密基地のような場所だ。この辺りは岩盤が強固なので、いきなり崩れて生き埋めになるような事はないだろう。なったとしてもミミミカならケロッとした顔で出て来るに違いない。<br />「お邪魔します。うわ」<br /> コンクリートむき出しの室内、リノリウム敷きの床の上に、ありとあらゆる魔法に関する資料、器具、薬剤、グリモワールなどが堆く積まれている。部屋の右手には一台50万はする機能複合魔法実験機が鎮座しており、透明なケースが光を放ち、中では薬剤が調合されていた。しっかりとした排気機能も備えている様子で、マジックハザードは無いだろう。<br /> 左手にもこれまた高い機材らが厳めしく構えていて、まるで大学の研究室に入ったような気分だ。<br /> しかし奥にある天蓋付きベッドやソファだけが妙に異彩を放っている。<br />「好きな所にかけて。ベッドをお勧めするわん」<br />「ソファにする」<br />「ソファでシたいの?」<br />「なんか最近解って来たけれど、貴女は言うだけ言ってシないよね」<br />「――あら、心外ねえ。アクションは普段からかけておくべきだと思うわ。いきなりじゃ怖いでしょう?」<br />「貴女がどこまで本気なのやら解らない。ま、いいけど」<br /> 彼女の本気度と自分の気持ちは別だ。<br /> 知り合ったばかりであるし、自身の気持ちとて、明日には変わるかもしれない。勿論、彼女から本気で求めて貰えるなら、願ったり叶ったりではあるけれど、ミミミカに限っては、無い。<br /> 彼女の被っている仮面は、私が思っている以上に多いはずだ。<br /> 特にあの魔力に関しては、尋常ではない。抜け出して来た、というのも、もしかしたら特務機関などからの脱出者である可能性すらある。<br /> 何にせよ、好きかと問われれば、頷かざるを得ないけれど、あらゆるものの判断が難しい状態だ。<br />「さて、悦子には嫌な顔をされてしまったけれど、どうしましょうか」<br /> ミミミカはそういって、緑の玉の封印を解き放ち、ミニ悦子の形に戻す。化身は私を見つけると、おもむろに近づいてきて抱き縋った。<br /> なんだか、さっき悦子を睨みつけたばかりであるので、複雑な気分ではある。<br />「大人しい子。声は発さないのかな」<br />「どうかしらねえ。ミニ悦子……は、呼びにくいわね。そして私の気持ち一つで姿が変わるとなると、誰かに依った名前はつけられないわ」<br />「これ、この状態のままにするの?」<br />「生物ではないと言われても、閉じ込めたままでは心苦しいわ。ふむ。碧玉ちゃん、そうね、碧(みどり)がいいわね」<br />「ん。それは、なんか良い」<br />「おいで、碧。遊びましょう」<br /> 碧と名付けられた化身は私から離れ、トテトテと歩いてミミミカに向かう。彼女は碧を抱きあげると、その額に自分の額を合わせた。<br /> 感応魔法だろう。<br />「――"干渉""阿頼耶識"」<br />「……どう?」<br />「ええ、話せるみたい。言葉を知らないだけね。ちゃんと人間のような精神があるわ。あと、食事は魔力ね。燃費が気になる所だけれど……」<br />「暫くそのままで、様子を見るしかないでしょう」<br /> ミミミカが碧の手を握り、直接魔力を送り込む。碧は嬉しそうに笑い、うんうんと頷く。<br /> 本当に小さい頃の悦子を見ているようで、懐かしい気持ちになってばかりだ。<br /> 私と悦子は実家同士の付き合いが長い為、学院に入る前からの幼馴染である。<br /> 私に比べて悦子は何でも卒無くこなしたし、美人で誰からも愛された。こんな小さい頃から、私には出来ない魔法を使えたし、勉強だっていつも私より出来た。<br /> 私はいつも劣等感ばかり抱えていたけれど、それは仕方のない事だと、半ば諦めていたのかもしれない。<br /> だから、怖かったのだ。<br /> もし、本当に悦子がミミミカを気にしていたとしたら。<br /> あの子が本心をミミミカに向けたなら、私は絶対敵わないのではないだろうかと。<br />「どうしたの、悦子の事?」<br />「え?」<br />「泣いているから。目が大きいと、滴も大きいのね」<br /> ミミミカが碧を抱えたまま、私の隣に座る。本当に心配してくれているようで、なんだか申し訳ない。<br /> そっとミミミカの手が私の頭を撫でる。<br /> 顔が赤くなるのが解った。同時に、私の拳がミミミカの腹を小突く。<br />「げふっ……うぐっ……むっ……ぐえっ……」<br />「ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……」<br />「だいぐえ……じょぶげう……よんんぐお……」<br />「寮に戻ったら、悦子に謝る。少し、ムキになった」<br />「……ムキになるほど、私の事を想ってくれるなんて、私は幸せ者だわ……あら」<br /> チラリと眼を横に向けると……悦子の姿をしていた碧が、私の姿になっていた。<br /> もしかすると本当に――ミミミカが抱く私と悦子への気持ちというのは、拮抗しているのかもしれない。<br />「あらやだ――私の心、丸見え丸出しね。露出狂じゃないのに、ちょっと興奮するわ」<br />「ねえ、ミミミカ」<br />「うん?」<br />「私は、ハッキリ言って素直じゃない」<br />「ええ、そうね」<br />「でも、きっと私は貴女が思っている通りの気持ちを、貴女に抱いていると、思う」<br />「うん、うん」<br />「――もし、私が本気で貴女に気持ちを伝えたら、貴女も本当に貴女を見せてくれる?」<br /> このヒトが抱えているもの。<br /> 隠しているもの。<br /> 私にはそれがどれほど大きいのかなんて解らない。<br /> 彼女は友達が居ないと言った。<br /> 自分が気持ち悪いのではないかと聞いた。<br /> あらゆる大魔法士がひれ伏す程の魔力を持った彼女が歩んだ道は、きっと険しいものだっただろう。<br /> 私が気持ちを告白して、そして彼女が本当の彼女をさらけ出した時、私は好きなままで居られるだろうか。<br /> ミミミカは少しだけ考えて……嫌になるほど綺麗な顔で、ニッコリと笑って頷いてくれる。<br /> この笑顔はきっと本心だ。<br /> もしこれが演技ならば――きっと私には、どうする事も出来ないに違いない。<br />「碧ちゃん」<br /> 名前を呼ぶと、化身はしっかりと振り向く。自身を碧と認識したようだ。<br />「私の事はお母さんと呼ぶの」<br />「おかあさん」<br />「良く出来ました」<br />「き、既成事実ってこうやって出来るのね……恐ろしいものの片鱗を味わったわ」<br />「ふン。いつまでもフラフラしていられないという事を自覚なさい、ミミミカ」<br />「高校生で自身の未来に対する覚悟をしなければならないのね。なんて時代なの」<br />「ははっ。こっちはママと呼ぶんだよ、碧ちゃん」<br />「ママ」<br />「あら、これ外堀完全に埋められてきてる? 大阪キャッスル?」<br />「衝突時、あの激戦を彷彿とさせるような争いにならない事だけを祈るわ。さて、帰りましょ、お腹すいたし」<br />「ちょっと、碧をどうするか、決めていないわ」<br />「連れていけばいいでしょ」<br />「私、少し貴女を見誤っていたかもしれないわ。ダイタンね」<br />「いいの、少しの無茶ぐらい。貴女は今更でしょ。さ、いきましょ、碧ちゃん」<br />「うん」<br />「あ、ちょっと、待ちなさいよ」<br /> 碧の手を引いて、工房を後にする。<br /> 大仙宮寺宗左衛門丞美々美花と出会って三週間ちょっと。まだまだ解らない事は沢山あるし、恐らく部の誰もが、彼女の存在に疑問を持っているだろう。<br /> 彼女がどんな目的でこの学院に足を踏み入れ、どんな気持ちを抱いて暮らしているのか。<br /> きっと、何かあるだろう。<br /> そして、何かが起こるに違いない。<br /> それは良い事だろうか、悪い事だろうか。<br /> けれども、ミミミカの顔を見ていると、どんなことがあったとしても、彼女ならば乗り越えるのじゃないだろうかと、思えてしまう。<br />「ミミミカ、何食べたい?」<br />「アン――」<br />「あん?」<br />「……アンタに、気安くエッチな事いうの、控えようかしら。あんな、半ば告白と同じような事言われちゃったら……ヤダ、なんか……恥ずかしくなってきちゃったわ。ど、どうしましょ」<br />「貴女もちゃんと人間だって事が解って、少し安心した」<br />「き、気恥かしいってこういう感情なのね」<br /> 頭の良いミミミカだけれど、知らない事も沢山あるに違いない。学校で学べるのは、何も勉強ばかりではないし、私達の高校生活は、まだ始まったばかりだ。<br /> 街灯に照らされた薄暗い小路を、小さな自分と一緒に歩く。<br /> 大仙宮寺宗左衛門丞美々美花が隣に居る限り、こんな不思議な事がしょっちゅう有るのかと思うと、なんだかおかしくて笑ってしまう。<br />「何か面白い事があったの? 私は火照ってならないわ」<br />「貴女が」<br />「うん?」<br />「――ううん。なんでもない。さて、悦子になんて謝ろうっかなあ……」<br /> <br /><br /><br /><br /><br /> 了</span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-82584327271992382102013-07-04T21:27:00.001+09:002013-07-04T21:39:09.037+09:00こんてにゅーわーるどおーだー! 1、継続世界の百合まみれ<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<br />
<span style="line-height: 27px;"> 西暦2020年<br /> または創世歴25020年<br /> または合同歴100年<br /><br /><br /> 4月6日15時30分<br /><br /><br />「わはは!!! すごい!! 美人凄い!!」<br />「よかったなあ、ミミミカ。これで野望に一歩近づいたんとちゃう?」<br />「うん!! あー、いいわ。凄い良いわ。やっぱ女の子だわ。あ、悦子、次これね、メイド服」<br />「なんで私が奉仕者の服なんて……解りました、解りましたから……」<br />「カンナもね?」<br />「うちも? ええよー」<br />「祝・エス研創部記念!! 派手にやるわ、主にベッドとかで!」<br />「勘弁してください」<br />『地球同性友愛文化研究会』略してエス研の部室は、日本文化とイリアーネ大陸文化を融合した貴族趣味に埋め尽くされ、あちこちとゴテゴテの原色装飾品が目立ち、調度品も無駄に高い。<br /> そんな場所へ強引に連れ込まれて奉仕させられる私は、このトンデモ女『大仙宮寺宗左衛門丞美々美花』の衝動的感性、衝撃的配慮の無さに辟易としていた。<br />「ミミミカ、これ、サイズ小さいんですけど」<br />「そりゃそうよ。サイズ小さく注文したんだから。うわ、むちむちね……金髪エルフのむちむちメイド服って……何、誘ってるの?」<br />「貴女がやらせたんでしょう!!」<br />「お、似おとるなあミナリエスカ」<br /> おんなじ恰好をした豊臣・マナエスカ・神無月が、ポーズを取りながらミミミカを楽しませている。<br /> 一体どんな教育を受けたらああなるのか。私はああはなりたくない。<br />「マナエスカは黙ってください……胸元がキツ……これじゃ乳首見えちゃう……」<br />「わ、わざわざ口にするあたり、解ってやってるのかしら、この子……ヤバいわね、カンナ」<br />「はああ。かわええ、かわええよ、ミナリエスカ」<br />「うううっ……」<br /> 自分の耳が垂れるのが解る。精神状態を如実に表してしまう為、私達種族の耳は口ほどに物を言う。<br />「わははは!! これからドンドン部員を集めるわ!! 優雅に瀟洒に行こうじゃないの!!」<br />「おー! やったるでー!」<br />「くう……なんでこんなことに……」<br />「乳首見えるわよ?」<br />「ひゃはうっ」<br /> あの時、例え自らの体裁を捨てたとしても、逃げていたのならば、こんな見苦しい事にはならなかっただろうに。<br /> そう、あれはつい三十分前……。<br /><br /><br /> 4月6日 15時<br /><br /><br />「動くな……私はレズだ」<br /> そのように言われ、私は戦慄した。<br /> 主にコイツ何言ってるんだ、という衝撃である。<br /> 私は今、胸を後ろから鷲掴みにされた状態で、なおかつ股の間に太股を突っ込まれ、壁に押さえつけられている。戦慄という言葉がふさわしいか否かは別として、危機的状況下である事には変わりなさそうだ。<br />「え、いやその、何?」<br />「少しでも動いてみなさい。アンタは私の甘美でデンジャラス極まるテクニックによって一発昇天よ」<br />「レズ怖いですね……」<br />「――ふん。動じないわね。流石ミナリエスカ。その名は伊達じゃあないのかしら?」<br /> そのレズさんは私の胸から名残惜しそうに手を引き、壁に手を当てて私を追い詰めている感を演出しているものの、私は別に追い詰まっていない。<br /> 元から変なのが多い学校なので、それほど衝撃はないのだけれど、流石に進級三日目で女の子に胸を鷲掴みにされた挙句今にもキスしそうな距離に顔を詰めてくる女子生徒がいるとは思わなかった。<br />「それで、どちらさまで」<br />「そうね、名乗る必要があるわ。例え私が空前絶後、抱腹絶倒の超有名人だったとしても、貴女が知らないのも無理はないわ?」<br /> 空前絶後も抱腹絶倒も何処の言葉にかかっているのかは不明だ。<br /> まあしかし、青みがかった黒く艶やかな髪に、日本人とイリアーネ大陸人の人型種族が三親等内に入っているであろうハッキリとした顔立ちは実に麗しく、私個人としても美しく見える。<br /> 遠くまで聞こえる透き通った声であちこち喚きまわっているとすれば、確かに誰もが知っていそうではある。<br />「大仙宮寺宗左衛門丞美々美花(だいせんぐうじ むねざえもんのじょう みみみか)よ。聞いた事ぐらいあるでしょう。有名人だし。あ、まあ私が有名なんじゃなくて、私の実家が有名なんだけれど」<br />「ああ、衝突地域第二門(コネクト2)を管理してる、大仙宮寺の」<br />「祖父は大政治家で実家は大財閥よ。さあ、ひれ伏すといいわ。それか性的な関係を持つかのどちらかよ」<br />「生憎貴女に下げる頭はありませんね」<br />「そりゃそうよね、ミナリエスカだし。あ、言ってみただけよ?」<br /> こんな事になるならば、早く寮に帰ってけばよかった。<br />「佐藤・ミナリエスカ・悦子です。まあ大仙宮寺さんなら、たぶん父もお知り合いでしょうね」<br />「そうそう。というわけで、今日から貴女には私が創立した部に入部してもらう事になったわ」<br /> なるほど。私は頷く。<br /> こいつは関わっちゃいけないタイプの人間だ。<br />「私、もう寮に戻らなきゃいけないので、失礼します」<br />「まあまあ、いきなり私に声をかけられたら、そりゃあ驚くのも無理ないわ。アンタ達ミナリエスカのエルフだって裸足で逃げ出す程の超絶美人が声をかけてきたら、そりゃあ驚くのも無理ないわ」<br />「うん。なんか言語能力も怪しいですね。失礼します」<br />「そんな口をきいても良いのかしら、ああ良いのかしら?」<br /> そういって、なんだっけ、何さんだっけ。ミミミカさんか。ミミミカは懐から結晶板を取り出す。<br /> 湧出した映像には、私が拾った百円玉をポケットに突っ込む姿が収められていた。<br />「ばら撒くわよ」<br />「そ、それで私の? 弱みを? にに、握ったつもりでいるの?」<br />「うわ、思いの外効いたな……まあ、中等部の頃から品行方正、才色兼備の美人エルフ御姉様として通っていた貴女が、まさか百円玉ネコババしたなんて事が皆にバレたら……たまんないわよねえ?」<br /> 不覚。不覚だった。<br /> 別にお金に困っている訳ではないのだけれど、百円なんて拾ったところで交番に届けても意味は無いし、その割に百円って意外と使い道あるし、さてどうしようかと思ってポケットに突っ込んだのだ。<br /> 普通の子ならば『え、何それ』で終わるかもしれないけれど、私が、あの『ミナリエスカ』が、百円ネコババ女だなんて噂されれば、私が築き上げて来た地位と名誉、そして何よりミナリエスカ本家にまで、くだらない噂が流れて挙句の果てに『悦子はダメな子』烙印など押されてはたまったものではない。<br />「な、何が目的なんですか、ミミミカ」<br />「あっ……」<br />「あってなに、あって」<br />「え? あ、うん。別に? アンタに名前で呼ばれちょっとときめいただけよ」<br />「素直ですねずいぶん」<br />「というわけで部活に籍を置きなさい。参加の強要はしないわ。どうせ自分で来るから」<br />「部活、ねえ。人数合わせですか?」<br />「人数合わせ如きでアンタ誘うと思う?」<br />「ずいぶん高評価ですね、私」<br />「これから私が歩む人生の花道を飾るのに必要だと思ったのよ、この美人ッ」<br /> 罵られているのだろうか。なんだかとにかくこの人は良く分からない。<br /> 幸い部活はどこにも所属していないし、この学院は元からかけ持ち可能だ。部活動に所属して、適当な都合をつけられて振り回される可能性も否定できないけれど、あの映像をばら撒かれるよりはマシだろう。というかあわよくばその結晶ぶん取り返してやらねばならない。<br />「解りました、解りましたよ。じゃあ籍を置くだけ置きます。入部届けは」<br />「手持ちが無いわ。部室に行きましょう」<br />「うん、誘導されているような気がしなくもないですが、まあ仕方ないですね」<br />「解っているじゃない。そういう敏いとこ、嫌いじゃないわ、悦子」<br />「馴れ馴れしいですねえ……」<br /> ばちこーん、とウインクを飛ばして来る。なまじ美人なだけに妙に腹立たしい。<br /> しかし大仙宮寺のお嬢様が居るとは知らなかった。高等部からの編入生だろうか。<br />「ところで私、ここ来て三日目なんだけどさ、ここ広すぎ。そう、具体的に言えば、迷子よ」<br />「ふざけた女ですね貴女。そういう意味で好感が持てます」<br />「ふふっ。まだ片鱗しか見せていないわ」<br />「片鱗で留めて頂けるとうれしいですねえ」<br /> 私達が通う『私立聖イリミカリッジ女学院』は幼稚園から大学まである一貫校だ。<br /> 大日本帝國で大神聖教(レガシ教)の伝道に努めた聖人、イリミカリッジの名を冠する、レガシック系学園の中では最古の学校である。<br /> 聖イリミカリッジ女学院は更に専門分野の学校に分かれており、私が通っているのは『聖イリミカリッジ女学院高等部魔法専科分校』だ。<br /> ちなみに学舎だけでも100以上あり、関連施設や寄宿舎、商業施設などを含めると数えきれない程の建物が乱立している。大帝都の山奥を切り開いて作られた一種の学院都市、都市……いや、市だ。<br />「ここは第十二高等部校舎よね。ええと、ここの地下……地下ってどこ?」<br />「はいはい……この廊下を右に行って、危険魔法物質保管室の角を左に曲がって、その先の第六十二図書館の所を上に飛んで、すぐ下に降りて、で……あれ、ここの地下は確か、魔術刻印レベル5の扉で封印されてましたよね」<br />「殴ったら開いたわよ。開けたら部室にして良いって先生に言われたの。開けたわ」<br />「対魔術持ちなんですか? 能力としては珍しい」<br />「物理よ」<br />「そ、そうですか。まあ行きましょう」<br /> 第十二高等部校舎は、各種校舎の中でも多少面倒な作りになっている。元はハルピュリア(稚翼種)やバーデイア(翼人種)向けに作られた校舎なので、天井が高く、廊下が上に延びていたりする。今語ったルートだけではないけれど、最短といえばこれだ。<br /> 右に曲がって危険魔法物質保管室の角を左に曲がって第六十二図書館の直ぐ隣を上に昇って下に降りて、やっと地下へ続く階段を見つける。かなり奥まった場所で、何のために存在しているのか、いまいち解らない。しかも魔術刻印付きの面倒な扉があった為、まともに魔法知識のある人間は面倒くさがってまず近づかない場所だ。<br />「本当に開いてますね……ていうか、貴女、途中飛びましたよね?」<br />「そら飛ぶわよ。飛ぶ必要あるなら飛ぶわよ」<br />「ああ、なんか何でもいいです、はい」<br /> 魔法専科なら飛びもするだろう。<br /> 木製で、金具の枠が嵌められた、古式ゆかしいお城にあるような扉だ。これを押し開くと、その趣味の悪い部屋の全景が直ぐに見て取れた。私は眩暈を覚えて壁に手を付く。<br />「なんです、この悪趣味な部屋は」<br />「知らないわよ。元からここを拠点にしていた貴族趣味の魔法教師でもいたんじゃないかしら?」<br /> まがまがしい金色の壁紙、どこから見つけて来たのか解らないイリアーネの古代遺跡発掘品、一部は京文化と大陸文化が入り混じって勘違いアメリカンジャパニーズテイストの区画も見受けられる。<br /> 何故か室内なのに白塗りのガーデンチェアが部屋の真ん中に据えてあり、これまたガーデンテーブルを囲っている。<br /> 地下なのに暖炉。これは魔法火炉か。隣に火鉢もある。<br /> 部屋の奥に進むと、何故か天蓋付きの豪勢なベッドがドカンと据えてあり、隣には革張りの立派な五人掛けソファが場所を取っていた。<br /> 絵画類も凄い。<br /> 浮世絵の隣に西洋の油絵があり、その真上にはイリアーネの色砂絵聖人絵がかけられている。織部焼と白磁が一緒になり、その隣ではミスリル鉱石細工の女神像が微笑んでいた。<br />「無茶苦茶な部屋ですね」<br />「まあ、嫌いじゃないわ、このカオス味。ようこそ我が部へ」<br /> ニッコリとミミミカが笑い、手を広げる。まあ性格はアレにしても、本当に嬉しそうに笑う子だ。<br />「ところでここ、何部なんですか?」<br />「何の部か解らないのに入ろうとしたの? 迂闊な子ね」<br />「脅迫されて連れてこられたんですが」<br />「ここは『地球同性友愛文化研究会』よ」<br />「帰りますね」<br />「待ちなさい待ちなさい。せっかちは女に嫌われるわよ?」<br />「私レズじゃないので」<br />「処女で、男の気配もなく、市が丸ごと女しかいない学校で暮らしてて、そんなに私好みの顔して、レズじゃないと?」<br />「なんですかそれ。ぶん殴りますよ」<br />「美人の暴力は甘美な御褒美とも言えるわ」<br />「めげませんね。で、何する部なんです、ここ」<br />「よくぞ聞いたわ!!」<br /> オーバーリアクションで構え、天井に拳を突き上げ、ドヤ顔で此方を見ている。最高に逃げたい。<br />「我が地球同性友愛文化研究会は、つまるところ異世界衝突後百年、様々な種族入り乱れる現代日本における、同性間での友好関係の構築と研究を目的とした、深淵で思慮深く、艶やかでさり気ない、時に無口で時に情熱的な美少女後輩のような部よ」<br />「つまり、貴女が女の子を集める部、で良いんですか?」<br />「かなーり省略するとそうね!」<br />(帰りたい)「帰りたい」<br />「ふふ。まあそう言わないで頂戴。何も本当に女の子を集めてレズレズしようって事ばかりじゃないのよ」<br />「事ばかりじゃないってことは含まれてはいるんですね」<br />「そもそも、アンタ達の御先祖様が住まってる衝突側並行世界『イリアーネ』は、女性七、男性三というかなり偏った世界よね。当時の資料を見ると、衝突の直下にあった当時の大日本帝國は相当の衝撃を受けたみたいよ。そしてこの世界の原生女性は戦慄したわ。何せアンタ達、美人が多いから」<br />「まあ、そうですね」<br />「そう。当時の世界の女性は相当に嫉妬したわ。でも思いの外女性同士の争いは起こらなかった。それは、アンタ達種族が様々な形態を持ち、それで居ながら共生世界を築き上げて来た歴史が生かされたから。大日本帝國とイリアーネ大陸大公爵位、エルフの『ミナリエスカ家』ダークエルフの『マナエスカ家』ドワーフの『カリナエスカ家』、それに国王を輩出する半人半神(ハーフゴッド)の『ブリミエスカ家』との外交資料や語録を見る限り、立ち回りが凄く上手い。ミナリエスカとマナエスカに関しては、六十年前に戦争したけど、今は昔。そして私達『プラクシム』の人間と混血がすすみ、今やこの世界は当然の如く思っている、そうでしょう、大公爵ミナリエスカ日本分家長女様」<br />「……政治がしたいの?」<br />「違うわ。いいこと? 戦争も終わり、多少のいざこざはあれど、安定したこの世界。しかし女の嫉妬は恐ろしいわ。いつ爆発するか解ったものじゃない。恒久的な種族間の友愛を考えるに、小さい所からコツコツと、そう、この学院から発信して行く事によって、異種族間同性交遊の大事さ素晴らしさを理解して行きましょう、という考えがあるわけよ」<br />「ふうむ」<br /> 大仰に語ったが、つまるところミミミカが言いたいのは『可愛い女の子と仲良くしたい』と言う事だろう。そのままといえばそうだけど、プラクシムヒュムノの女性、つまるところこの世界の女性が少なからずの嫉妬を私達特定人種に抱いている事実は間違いない。<br /> 元から形態が異なる種族が多く、過去はいざこざも絶えなかったイリアーネだ。相当の戦争と外交努力を重ねた結果に齎された平和がある。会話とスキンシップを大切にし、心をもって相手に接しようという態度が、コミュニケーションによるこの世界での衝突の回避につながった。<br /> しかしもうそれも百年近く経っている。<br /> 確かに、イリアーネ人のような精神文化が残っているかと言われると、クオーターである私も首を傾げる。<br /> あながちミミミカの話は外れてはいないのだ。勿論欲望は透けて見えるけれど。<br />「どうかしら。さっきも言った通り、参加の強制はしないわ。アンタが好きな時に来て頂戴」<br />「ええ、思慮深いのは解りました。貴女がずいぶんなテンションで迫ってくるから、少し驚きましたけど」<br />「アンタが美人すぎてちょっとビックリしただけよ。凄く好み。凄く。一目惚れよ」<br />「ぐ……そんな純粋な瞳を向けないでください。解りましたから、入部届けは?」<br />「ありがとう、嬉しいわ」<br /> そういって、ミミミカが私の手に触れる。<br /> しおらしくしていれば、本当に可憐な乙女なのに、なんとも勿体無い。あ、手の甲にキスしやがった。<br />「ふふっ」<br />「貞操は気を付けないと」<br />「そうね。簡単に奪えてしまえては、興ざめだわ。全力で守りなさい。さて。カンナ、カンナー?」<br />「ふごっ……うえええ……」<br /> 何事か。後ろで声がする。振り向くと、天蓋付きのベッドに横たわる女性の姿が見受けられる。<br /> どこかで見覚えがある。<br /> いや、見覚えどころか、忘れる筈もない。<br />「どうええええ!?」<br />「んぐっ……なんやのもー、ミミミカ、なにー?」<br />「ミミミカ、なんで、彼女が」<br />「なんでって。美人でおっぱい大きいからよ。あとエルフだからよ」<br /> なんだそりゃ。<br />「あー。んふぅー……あ、寝た。寝てもうたでウチ……あ、お? ミナリエスカや!」<br />「そうよ。ミナリエスカよ。引っ張って来たわ。どう、私のスカウト力」<br />「流石御姉様やで」<br />「ま、マナエスカ……」<br /> タンクトップ一枚。下はローグレである。<br /> 浅黒い肌に長い耳。<br /> 深紅の瞳に銀髪は、紛う事無くマナエスカ大公爵家の証だ。しかもその似非関西弁は忘れるに忘れられない。<br />「豊臣・マナエスカ・神無月(とよとみ まなえすか じゅうがつ)。あ、貴女も引っ張られたの?」<br />「よろしゅうに、ミナリエスカ」<br />「カンナ、入部届けどこ?」<br /> カンナ、は愛称だ。そうでなければ呼び難くて仕方が無い。<br />「それはー、ココや」<br /> といって、パンツから取り出す。<br />「うん。生温かいわ、カンナ」<br />「せやろ。太閤はん見習ろう入れておいたんや。お姉さんの、匂いつきやで?」<br />「すん。ん。ほのかに香るわね。はい、悦子」<br />「お断りします」<br /> 取り敢えず入部届けを叩き落とす。手を打たれたミミミカは、思ったより悲しそうな顔をしている。悲しいのはこっちである。なんで人のパンツ何ぞに入っていた入部届けに署名せねばならないのか。<br /> 私が信長なら尾張ごとコイツを戦国バーベキューにしているところだ。<br />「ああ、ええなあ、いっつも遠くからしか見れへんけど、近くで観たらまた、えっらい美人やねえ」<br /> カラカラと笑いながら、ポリポリとお尻をかく姿が、とてもではないが公爵家の娘とは思えない。<br /> 彼女はマナエスカ日本分家の子だ。<br /> いや、正確には<br />『大関西なんでやねん帝國』王家豊臣家の子だ。<br /> ちなみに実家は大帝都で、ガチガチの江戸っ子である。<br /> 目下の目的は国名の改名らしい。<br />「何か脅されたんですか? じゃなきゃ、こんな人について来ませんよね?」 <br />「いや、共同部長なんや」<br />「首謀者ですか、嫌になりますね」<br />「せやけどな、可愛い女の子沢山おったら、侍らせたくなるやない? ウチな、目覚めてん。男より、女の子好きやって……」<br />「ああ、いらない目覚めでしたね。唾棄すべき性癖ですね」<br />「ええ……せやけどミナリエスカ、イリアーネでは同性かて……」<br />「ああ、ううん。ええと。はい。これで良いですか。入部しましたから。あんまり拘束しないでくださいね。じゃ」<br /> 話が面倒になりそうなので、退却するのが一番だろうと判断する。ミミミカはグイグイ来るし、それよりなによりマナエスカがいるのは、体裁的に多少不味い。<br /> ミナリエスカとマナエスカは、一応停戦中だ。<br /> 少し昔に大阪が独立する際、ミナリエスカは日本帝國、マナエスカは大関西に付いた。<br /> 彼等曰く『ノリと勢いで軍事同盟結んだった! どや!?』である。<br /> 既に停戦も形骸化していて、争う姿勢すらないのだけれど、ミナリエスカとマナエスカが交わるとなると、何かと外の目が気になる。<br />「あ、折角来たんやから、もう少しゆっくりしてきーってえ」<br />「ちょ、ちょっと。離してください……」<br /> が、しかし、マナエスカの動きは早かった。<br /> ボケッとしている割に頭も良いし運動神経も良い。私は彼女と初等部の頃から比べられてきた。実家からも『マナエスカには負けないように』と散々言いきかされて育ったので、潜在的にライバル視している。<br /> 彼女個人は天然で、ヘラヘラと笑いながら何でも卒無くこなし、此方と競っているという姿は一度も見せた事が無い。ただやはり思う所はあるのか、自ら近づいて来た事もない。<br />「ああ、キたわね。いいわ、カンナ、もう少しこう、ぐっと近づいてみて頂戴」<br />「こうか?」<br />「あ、ちょ、マナエスカ、胸あたっ……」<br />「ふぉぉ……キマシッ」<br /> 何やらミミミカが盛り上がっている。此方が嫌がる姿も、彼女のビジョンからみるとかなり腐って見えるのかもしれない。<br />「楽園だわ。エルフとダークエルフのいちゃいちゃなんて、現実ではなかなか見れないもの。アンタ達の実家の所為ね。ああ、ふぉぉ……おおおぉぉ……」<br /> ミミミカが悶絶しながら結晶板を構え始める。<br /> 機械式のビデオカメラより単純構造でコピー数も限られているけれど、安価で軽く使いやすく、汎用性があるこれは、魔力発動神経(マギテクス)を持つ人間には好まれる。<br /> いや、だから録画とかするな。<br />「ちょ、止めてください。マナエスカ、離して――ッ」<br />「ええやないのべつに、減るもんやなし。ああ、ミナリエスカ柔らか……」<br />「んんっ、胸、揉まな、あっんっ」<br />「ふひひッ! こほん。ま、そのぐらいにしておきなさい、カンナ。明日から来なくなっちゃうわ」<br />「もう来ませんよっ」<br />「まったまたぁ。んじゃ、次行きましょう」<br /> そういって、ミミミカが手を横に真っ直ぐ伸ばす。その先にある古臭いクローゼットの扉が勢いよく開き、なんだか原色が強いコスプレ衣装がギッシリ詰め込まれているのが見て取れた。<br />「着ろと!?」<br />「当然でしょう。何のためのエス研なの」<br />「知りませんよ。そもそも『エス研』ってどうやったらそんな略になるんですか」<br />「エスはシスターの頭文字よ」<br />「……」<br /> 言われて気が付く。エスはsisterのS。<br /> 昔の日本で流行った女学生文化であり、年長の女生徒や女教師を年少者が慕い、同性での深い精神的な繋がりや親愛を表現した、一種の精神文化である。<br /> 吉屋信子御大によって書かれた小説はそれが色濃く表現されており、彼女の書籍は女学生のバイブルとまで呼ばれた。当時は一大ムーブメントであり、川端康成なども女学生雑誌に乙女小説を寄稿している。<br /> 長い年月が経ち、今やそんなもの何処にあるのか、と考えていたけど、どうやらこのミミミカはそれがやりたいと見える。<br /> 御姉様、のアレだ。<br /> が、なんか違う気がしてならない。<br />「私の知ってるエスとだいぶ違うんですが」<br />「時代は移り変わり! 表現方法も変わるわ!」<br />「もっともらしい事言ってコスプレさせようとしているだけですよね!?」<br />「その通りよ。私は可愛い女の子が隣にいる幸せな生活を送りたいのよ!!」<br />「せやせやー」<br /> ミミミカが、私の百円ネコババ動画を収めた結晶板(モノリス)をチラつかせて、いやらしい笑みを浮かべている。まったくこいつはとんでもない女だ。<br /> これで、あの責任重大なコネクト2の管理を任されている一族の娘だというのだから、勘弁願いたい。<br />「うぐうぅぅぅ……ッ」<br />「ああ、葛藤と羞恥で先っぽが真っ赤。ぴくぴく動いて、ふふ、なんだかやらしいわねぇ」<br />「耳の話やで」<br />「知ってますよ! ああもう、はいほら、どれ着るんですか!?」<br />「堕ちたな」<br />「堕ちたで」<br />「うっさい変態!!」<br /> ああ、なんでこんなことに。<br /><br /> <br /><br /> 4月6日 16時<br /><br /><br /><br /> それから三十分、あれこれと着替えさせられ、しかも全部モノリスに収められた。<br /> 漸くエス研から抜け出して外に出た頃には、日が暮れ始めている。夕刻の礼拝には間に合わないだろう。<br /> 第十二高等部校舎を出て、気が遠くなるような先の見えない真っ直ぐな煉瓦敷きの道を行く。<br /> テレポーテーション系の魔法は限定区画以外全部禁止されているので、生徒達はこの道を通って各種校舎に登校する事になる。通行者の衣服をチェックして、気に入らなければはぎ取る妖精メリエ、というイリアーネの神話からとって『ピクス・メリエ通り』と呼ばれている。日本的には奪衣婆だろう。<br /> こんな通りがあるのも、この学院の生徒数が数万に及んでいる為、生徒にかかる手を省こうという意識があるからだ。<br /> ちなみにこの通りで校則違反が見つかると、本当に自動設置魔法で違反物を没収される。服も下着もだ。<br /> 一度下着だけ抜き取られる姿を目にして以来、私は身なりに細心の注意を払っている。流石に真っ黒レースのえっちな下着が自動的にはぎとられて空を舞うような醜態を演じさせられる訳にはいかない。<br /> 長く苦しい通りを抜け、バス停に辿り着く。<br /> ベンチでお喋りしている生徒は件のピクス系とイリアーネヒュムノ系の子だ。<br /> ヒュムノにも二種類おり、プラクシム系とイリアーネ系に分かれる。<br /> プラクシム系はこの世界の原生人間であり、大体白人黒人黄色人種の三種類だけど、イリアーネ的には一種類としている。<br /> イリアーネ系は髪の色が派手で直ぐわかる。そして多少顔の掘りも深い。<br /> 青い色の髪をした子が此方に会釈した。ピクス、恐らくニンフの子は目をパチクリとさせ、笑顔でいる。<br />「ミナリエスカ様?」<br />「ええ。ごきげんようです。バス、まだ来ませんね、時間は過ぎてるのに」<br /> ニンフの子は基本的に身体が小さい。ヒューマンで言う所どう見ても五歳児ぐらいだけど、制服は高等部のブレザーだ。<br /> 声をかけて来たのは、珍しいからだろう。私はクォーターとはいえ、エルフは血が色濃く出ている。<br /> 一度エルフの血が入ると、後六代はそのままエルフとしての特徴が現れる。ただ、そもそもエルフは長生きな上に、ヒュムノと違って繁殖期が十代に一回、以降は五十年に一度しか来ない。とても個体数が少ないのだ。<br />「お暇なら、占いの一つでも如何ですか、ミナリエスカ様」<br /> 青髪の子が言う。私が振り向いて見ると、彼女の手には色とりどりのイリアーネ産魔力結晶石が握られていた。<br />「あら、占術魔法士?」<br />「はい。私、交換学生なので、実家が営んでいまして」<br /> 青髪の子は照れ臭そうに言う。<br /> それもそのはず、交換学生としてイリアーネからイリミカリッジに来る生徒は、向こうの学校でずば抜けた成績を収めていなければならない。日本語も堪能な所を見ると、相当優秀なのだろう。<br />「凄く当たるよ。稀代の天才ってお話なんですです」<br />「タダで占ってもらって良いのかしら?」<br />「勿論です。私は見習いですので。何を占いましょう?」<br /> 青髪の子がじゃらじゃらと石を撫で、空中に放る。<br /> 赤と黒、白と紫、緑と緋の宝石が中空に留まり、ヘキサグラムを描いて繋がる。<br />「じゃあ、これからの新しい高校生活、その吉凶を」<br />「はい」<br /> 光の魔法陣が崩れ、赤と黒が離れ、白と緑が重なり、紫が地面に落ちる。日本でもそうだけれど、紫は高貴な色とされている。それが地面に落ちたのだ。<br /> 青髪の子が気まずそうに苦笑いする。<br />「楽しい生活になりますね」<br />「ちゅ、抽象的ですね」<br />「紫が地面に落ちたのは、権威の失墜です」<br />「うわ……」<br />「ただ情熱と固執を表現する赤と黒が離れたので、恋愛事情は上向きですね。白と緑が重なった所を見ると、新しく清涼な出会いがあると解ります。総合的に判断しますと、今の貴女を形作る物には多少罅が入るかもしれませんが、人間関係は良好で、華やかな高校生活になると思います」<br /> あれが新しく清涼な出会いであるとは言い難い。というか勘弁願いたい。<br /> 恐らく今後あの部には近づかないだろう。あんな所にいたら命と貞操が幾つあっても足りそうにない。<br />「なる、ほど。気を付けますね」<br />「いえ。占いは占いです。ミナリエスカ様」<br />「はい?」<br />「――い、いえ。なんでも。あ、バス、来ました」<br /> やっと現れたバスに乗り込み、一番奥の一番右端に座る。今日は部活動も委員会も無い日であるから、生徒数はまばらだ。<br /> そんな中で新しい部活を立ち上げて私を引っ張りに来る辺り、あの子の周囲との乖離具合が窺える。<br /> 外の光景を眺めながら、あの部について頭を巡らせる。<br /> 本当に、ただ純粋に、ミミミカの趣味で立ちあげられた部なのだろうか、という事だ。<br /> ミナリエスカとマナエスカ、どちらかだけならば趣味で片づけられたかもしれないけれど、その双方を勧誘して部員にしよう、というのがどうも政治的意図を感じる。しかも集めているのが『あの』大仙宮寺だ。<br /> 大仙宮寺はイリアーネとプラクシムの衝突初期に開いた、二つ目の門を管理している、かなり大きな家だ。大仙宮寺の敷地内に門が開いた事もあるけど、それ以降さらにあの家は躍進を遂げている。<br /> 彼女の名は大仙宮寺宗左衛門丞美々美花。<br /> 宗左衛門丞の名は襲名で、直系の長男長女にしか付けられない筈だ。つまるところ、彼女は今後、間違いなく大仙宮寺の一族を率いる家長となるわけだ。<br />(――でもあれ見てると、ただのレズにしか見えないけど)<br /> 杞憂であればいいのだけれど、どうしても実家の事情で、勘ぐってしまう。マナエスカはどう思っているのだろうか。<br />(ま、この広い学校、一度離れてしまえば、まず顔を合わせる事もないし)<br /> 取り敢えず、恥ずかしい映像をばら撒かれない程度に接してあげるのが妥当だろう、と結論付ける。<br /> それにしても、変な人物が多いこの学院の中でも、今まで居なかったタイプの変人だけど、兎に角美人だ。わざわざあのような脅迫めいた事をしなくても、黙っていれば人が寄ってきそうではある。まして大仙宮寺の名を背負っているとなれば尚更だ。<br />(適切な距離を考える必要がありそうですね。ま、遠目に見てる分なら……)<br /> 好ましい。<br /> あまり公にするものでもないので人様には明かしていないけれど、たぶん私は人並み以上に女性が好きだ。ミミミカの私に対する評価はほぼ当たっている。<br /> 初等部に入る前から、ほぼ女性だけで成り立っているこの学院都市に憧れていたし、ミミミカが推進する同性による精神文化に興味があったし、はからずしも『実践者』だ。<br /> それが性的なものかどうかは、経験もないので解らないけれど、根底にはやはり、イリアーネ人としての遺伝子があるのかもしれない。<br />(女の子同士ねえ)<br /> マナエスカが言いかけて私が遮った話は、つまるところそういうものだ。<br /> イリアーネは女性七割、男性三割。この偏った人口差には理由がある。<br /> 皆寿命が長くて生命力が強く、繁殖に積極的でない事情があり、挙句の果てに産む子供の性別選択が可能である。性別による労働力の格差は、余程の肉体労働や軍人でも無い限りは存在しない形態の種族も多く、男性は一人居れば複数の女性と子を成せる為、女の子を産むように選択する事が多かった為だ。<br /> その習慣は長い間続けられ、このように偏った人口になってしまった。<br /> そしてそんなある時、とある村で男が絶えてしまう。<br /> 他の村でも男性は少なく、どこにもやれない状況だ。流石に種だけ付けて去ります、なんていう不貞な事も出来ない事情があった。<br /> 困り果てたその村の人々は、精神生命体種族の一族、リッチのヴァルプルギスに頼った。<br /> 魔道に深く精通した精神生命体の一族は、女性のみで繁殖可能な技術を提供する。それによって、晴れて男性無しでも子供が作れるようになり、その技術はイリアーネ全域に広がった。<br /> それからもう一万年ほど経っているだろうか。<br /> 基本的に、異種族、同性間でのコミュニケーションとスキンシップを大事にするイリアーネの人々は美しい同性に対する生理的嫌悪や嫉妬が少なく、当たり前のように夫婦として暮らしている場合が多い。<br /> 私は日本産まれ日本育ち、祖母がミナリエスカの純エルフ、というだけで生粋の日本人だけれど、私の魔力や容姿は先祖がえりとまで言われている。<br />『次は学生寮街入口、学生寮街入口。お降りの方は――』<br /> そんな事を考えていると、何時の間にか学生寮街に辿り着いてしまっていた。青髪の子と妖精の子に手を振って降り、学生寮街の商店街を歩く。<br /> 生徒数約五万、教師、施設作業従事者、その他諸々を含めると二十万人近い人間が学院都市で暮らしている。学生寮街はそんな人達が暮らす場所の一区画だ。<br /> プラクシムヒュムノ、イリアーネヒュムノ、ハイミックス(種類を問わない混血)、デビア(魔族)種、エルフ(耳長亜人)種、リッチ(霊精体)種、ピクス(精霊体)種、ハルピュリア(稚翼)種、バーデイア(翼亜人)種、セントール(人馬亜人)種、果てはイリアーネでは一部でしか見受けられないドワーフ(小亜人)種や、ハーフデビア(半人半魔)、ハーフゴディア(半人半神)、更に更に日本原生の超精霊(神)種から亜精霊(妖怪)種まで、挙げて行けば切りが無いほど、兎に角人類の坩堝である。<br /> 丁度レガシ教の礼拝を終えた時間だ、皆食事を取る為にあちこちの飲食店へ足を運んでおり、かなり混雑している。寮での食事は安上がりだけれど、種類が少ない。<br /> 私は人ごみを抜けて『霊我尸神社』(レガシ神社)と書かれた鳥居をくぐり抜け、寮へのショートカットをはかる。<br /> ちなみに霊我尸神社は、日本にレガシ教が伝わった後日本の一神様として迎えられたイリアーネの創世神レガシを日本風に祭る神社だ。日本文化とイリアーネ文化の礼拝参拝方法が入り混じっており、広義の意味でレガシ教である。これは純粋な信徒よりも原生の日本異種族に人気がある。<br />「ごきげんよう。六合江」<br />「あら、悦子じゃない」<br /> 鳥居の先で屯をしていた生徒の一人に見覚えがあった。同寮で生活を共にする、天目一箇六合江(あまのまひとつ くにえ)だ。<br /> 大きな単眼をまばたきさせ、意外そうに此方を見ている。目が大きくてクリクリしていて可愛い。<br />「今日は遅かったのね。何か用事でも申し付けられたの?」<br />「いえ、少し面倒な人に捕まってしまって」<br />「あら、災難。そうだ、食事は?」<br />「今日は寮で済ませます。メニューは?」<br />「魚だったかなあ。イリアーネ直送だって、おばちゃん張り切っていたけど」<br />「……イリアーネのお魚って味が濃いんですよね。私は日本のお魚がいいなあ」<br />「ま、私も食べるわ。じゃ、みんな、明日ね」<br /> 六合江を伴って寮へと向かう。六合江は何だか嬉しそうだ。<br /> 同級生で、日本原生神族、天津家の分家、天目一箇家の長女である。天照皇族に連なるやんごとない血族なのだけれど、本人は少し子供じみていて、良く皆のおもちゃにされている。<br /> 所謂単眼種で、イリアーネではサイクロプス族がそれに当たる。<br /> サイクロプス族はカナン王国ミナリエスカ大公爵領の軍事部門を担当しており、そのサイクロプス族との仲介外交官の家柄が、この天目一箇家だ。家族ぐるみの付き合いがあり、幼馴染といっても言い過ぎではないだろう。<br /> 彼女は天目一箇一族の中でも特に重宝される『中央眼』で、右眼、左眼の単眼ではなく、左右対称の単眼を持っている。<br /> 小さい頃から期待されていただけに、彼女が背負う物は大きい。昔は良く泣き付かれたものだ。<br />「どうですか、そちらのクラスは」<br />「仲良い子も一緒だし、大丈夫よ。ただ、変なのが一人、編入して来たけれど」<br /> 変なの、と言われると真っ先にあの顔が思い浮かぶ。<br />「大仙宮寺」<br />「それ。まさか大仙宮寺の長女がうちに来るなんてビックリだわ。自己紹介でね『趣味は女の子、好きな食べ物は女の子です。大仙宮寺を宜しくね、きゃるんッ☆』とかやりだして」<br />「ああ、うん。自重しないんですね、彼女。助走つけて殴りたいですね」<br />「もしかして、あの子に捕まったの?」<br />「ええ、それはもう」<br /> 掻い摘んで説明する。流石にコスプレさせられた挙句エッチなポーズをさせられた、とは言えない。<br />「へえ。まあ大仙宮寺は、あの血が混じると全員変人になるらしいの」<br />「そうですよね、天目一箇家は、付き合いが長いから」<br />「うん。でも、あの人凄く美人よねえ……」<br />「それは、確かに」<br />「あらら、貴女が頷くほどなんだ」<br /> こればかりは否定出来ない。<br /> 日本人特有の幼さとイリアーネ亜人種の混じったコントラストは、誰が観ても美人だと頷くだろう。<br /> 超お嬢様らしく、黙らせておけばあれほど絵になる人間はなかなかいない。もしかすれば性格が壊滅していても、彼女で良いという輩は沢山いるかもしれない。<br />「……あ、あのね悦子」<br />「うん?」<br />「その部活だけどさ、枠は開いてるの?」<br /> ……六合江が伏せ目がちに、顔を赤くして言う。まさかとは思うが。<br />「止めておいた方が……」<br />「え、それは、なんで?」<br />「なんでって。先ほどは言いませんでしたけど、無理矢理コスプレとかさせられますよ?」<br />「別にコスプレくらいなんとも。普段から巫女装束だし、儀式礼装だってコスプレみたいなもんよ」<br />「――六合江、その、もしかして、アレが気に入りましたか?」<br />「あ、えと。んんーその……ま、よ、容姿だけで言うなら、その、ど、ドストライクというか……ま、マジでビックリしちゃったというか……見た瞬間、脳味噌に電撃が走ったというか……はあ」<br /> 六合江は昔から、なかなか気の多い子であるのは知っている。<br /> 私が幼少のころから、彼女は事あるごとに『あの子が好きになったみたい』なんて相談を持ちかけて来た。それにしても、相談するにしたってこんな顔をされた覚えはない。<br /> 幼馴染として、親友として大変お勧め出来ないけど、人の好きという気持ちを否定してやる権利など私は有していない。それに恐らく、今回も『ダメ』だろう。<br /> 彼女は素直ではない。兎に角好きな人の前に出ると、暴力的になってしまう。<br /> サイクロプス族は大柄で怪力と知られているけれど、どうやら日本原生神族の天目一箇一族もその例に漏れないらしく、彼女は小さいながらも冗談ではなく怪力だ。<br /> 私が知るところであると、恥ずかし紛れに壁を殴って家を一軒倒壊させた場面に出くわした事がある。<br /> 幸い人間は殴らないように自重している様子だけれど、好きの度合いが高ければ高いほどに、危機は迫る。<br />「ど、どーしよ、悦子ぉ。私、あの子見たらぶん殴っちゃいそうッ」<br />「まあ、刑務所に差し入れぐらいは行きますよ」<br />「まだ殺人で捕まりたくないわ。ああでも、死体を損壊するんじゃなく死体になる過程で損壊した場合って罪が重くなるのかな……」<br />「ミンチより酷いとか勘弁してください……」<br /> そんな話をしながら寮に辿り着く。今日の放課後から散々な想いをしたけれど、寮ならばそんな生活と心を乱すような輩の顔を見ずに済むだろう。<br /> 第七十一高等部寮はレガシ神社の鎮守の杜の脇にひっそりと佇んでいる、年季の入ったアパートだ。ミナリエスカがそんな所に、とは言われたものの、私はこの雰囲気が好きで自分から入寮した。<br /> 夕暮れの小路に、山へ帰るカラスの姿と鳴き声が、小さい頃歩いたミナリエスカ分家での光景を思い出させる。こんな光景に郷愁を感じるというのだから、私はこの容姿でも日本人なのだな、と実感出来た。<br />「ただ今戻りました」<br />「ただ今戻り……ん?」<br /> 靴を脱いでスリッパに履き替える。木製の廊下に上がると、その狭い間に荷物が積まれていた。もう入寮生は三月中に引っ越しを終えている筈だけれど、飛び入りがあったのだろうか。<br />「寮長」<br />「ん。よう」<br /> 丁度炊事場から出て来た寮長『ミーアナイト・ドラコニアス』先輩に声をかける。<br /> 赤髪でハスっぽく、言葉使いも粗い為勘違いされやすいけれど、それは種族的なものであるし、本来はとても面倒見が良い。<br /> ドラコニア(竜亜人)種は仕方が無いのだ。<br /> 常に眠そうにしているし、代謝が良すぎるので常に何か齧っている。今も立派なベーコンを丸かじりしている。彼女達は媚びることを知らない。<br />「新しい人が来たんですか? 入寮手続き終わっていますよね」<br />「手続きは終わってたぞ。入るのが遅れただけだ」<br /> そういって、彼女は鱗の光る尻尾でもって荷物を尾指す。<br />「あら、そうなの。お名前はなんて?」<br />「なんだったかな。すげえ長い漢字の名前だよ。面倒だから手前で確かめろ」<br />「あ、私すっごい嫌な予感します。すっごい」<br />「えー……もしかしてー……」<br />「んーふふーんんーふふーららー……ヘイ、そこの竜亜人種の美人先輩。これからお食事どう?」<br />「んー。おごりなら食うぞ」<br />「あらん。本当? じゃあ近くのホテルも予約しなくちゃ……ってここホテルあるのかしら。あ、悦子? 悦子じゃない!? うわ、悦子だ!!」<br />「勘弁してくださいマジで」<br />「うわー……うわー……」<br /> 階段から鼻歌交じりに降りてきて、呼吸をするかのように女の子を口説き、わざとらしくビックリする彼女は件のアレであった。果てしなく今の現実を否定したいけど、ミミミカは嬉しそうに近寄ってきて私の手を握りだす。<br /> 六合江の目線が痛い。<br />「え、何。悦子と大仙宮寺って、もうそういう関係なの? ふーん」<br />「いやいや。六合江、私がこの人格破綻者とそういった関係になる可能性は万に一つも有りませんよ」<br />「驚くべき低確率で私達は運命的に出会ったのよ。万に一つなんて誤差でしかないわ。更にそれを縮める為の努力をしてこそ、恋であり、繋がりあって愛だと思うの、私」<br />「ぐぬ……え、と」<br /> 六合江が間誤付きながらミミミカに視線を向けている。<br /> それに気が付いたミミミカが私から手をアッサリと離し、直ぐに六合江の手を握る。<br />「単眼巨亜人より日本人的、天目一箇家の子ね? あら、お目目がくりっくりしてとても可愛らしい。中央眼ね。と言う事は、天目一箇の巫女、皇族に仕える身」<br />「あ、え、と。そ、そうよ。ほ、本来なら、アンタみたいな屑の滓の塵が触れて良いような存在じゃないわ?」<br /> 流石に行き成り手を繋がれるシチュエーションは想像だにしなかったのか、いつも以上にツンケンしている。普段お前そんな事言わないだろう、という言葉は押し殺した。<br />「と、いうかクラスメイトだったわね。あのクラス美人が多くてあちこち目移りしてしまって……ごめんなさい、お名前はなんて言うのかしら?」<br />「く、六合江よ。天目一箇六合江。き、気安く呼ばないで頂戴?」<br />「六合江ね。素敵。大仙宮寺宗左衛門丞美々美花よ。大仙宮寺をしているわ。ああ、可愛らしい……こんな子を見落としていたなんて、一生の不覚だわ。なんてお詫びしたら……そうだ、これからお食事はどう? あ、そうそう、皆で食事にしましょう。どこか選ぶのも面倒だし、寮でいいわね? ああ、こんな美少女達に囲まれて食事出来るなんて……イリミカリッジって本当にいいところねえ?」<br /> べらべらとまあ、よく喋るものだ。私は呆れてものも言えない。<br /> 六合江はどうだろうか。彼女は――顔を真っ赤にしていた。私とミーアナイト先輩は同時に離れる。<br />「わ、わわ、私……あ、ああ」<br />「うん? どうしたの、六合江? あ、私の事はミミミカとよん」<br />「あああああっッッ」<br />「でぇぶぇえーッ」<br /> ゴスン、という重い音が響く。<br /> 腰の入った六合江の右ストレートがミミミカの顔面にクリーンヒットした。<br /> これはヤバい。私とミーアナイト先輩は衝撃波に構える。<br /> それから直ぐ、周囲に置いてあった調度品や掃除用具入れが勢いよくあちこちに散った。<br />「ぐぬぬっ」<br /> 他の種族ならいざ知らず、見た目どう見てもプラクシムヒュムノであるミミミカが、六合江の攻撃をまともに受けたのだ。私はあまり彼女の方に眼を向けたくない。頭が飛んでいる可能性がある。<br /> 様々と考えが頭を巡る。これは、政治問題になるのではないのか?<br />「く、六合江、今のは……ヤバイ」<br />「あ……わ、私……は、恥ずかしくて……あ、み、ミミミカ?」<br /> 五、六メートルは吹っ飛んだだろうか。<br /> 放物線を描いて寮の外にまで放り出され、頭から地面に落ちるのを目撃していしまった。頭は付いている様子だけれど……これは無事では済むまい。<br />「一応救急車……って……ええ?」<br /> 私が鞄から携帯電話を取り出そうとしたところ、なんとミミミカは起き上がり此方を見ている。<br />「仲間にしますか?」<br />「お、お断り願いたい耐久力ですね……ミミミカ」<br />「ふえっ!?」<br /> 殴った張本人の六合江が涙を流しながら驚き顔でミミミカを眺めている。<br /> そりゃあ驚く。何せミーアナイト先輩が、齧っていたベーコンを床に落とすぐらいだ。<br />「久しぶりだわ。私をここまで吹っ飛ばした奴は……」<br />「ていうか、顔も無事ですね」<br />「ん? ああ。私は防御魔法得意なのよ。パッシブで物理攻撃を遮断するスキルがあるの。高等魔法だから、まあ高校生程度で覚えてる子も少ないでしょうけどねえ?」<br />「う、嘘でしょう。アタックガーディアなんて、大魔法の類じゃありませんか」<br /> おかしいおかしいとは思っていたけど、その直感は正しかったらしい。<br /> 中等部から魔法専攻であり、潜在魔力が頭一つ超えている私ですら、そんな真似はとても出来ない。<br /> 普通、あれだけの攻撃を防ぐだけの魔法となれば『詠唱四節』を必要とする。彼女はそれが、パッシブスキルだというのだ。<br /> 無茶苦茶だ。その魔法技術があれば、今すぐ東京の帝國大学で教授を務められる。<br />「六合江、私は大丈夫よ? ふふ。解るわ。こんな美人に突然手を掴まれたら、驚いてしまうものね。私の配慮が足りなかったわ。次からは、ゆっくりねっとり、触るようにするわね?」<br />「あ、えと……わ、悪かったわ……」<br />「気にしなくていいのよう。ま、その代わりと言ってはなんだけれど、お友達になってくれるかしら?」<br />「え? あ、ま、まあ、なってあげない事も、ないわ?」<br />「あら良かった。ふふ。順調だわ。ここにきてお友達がたくさん増えて、私もう、嬉しくって仕方が無いの! ねえ悦子?」<br />「え、私ってお友達の範疇なんですか?」<br />「ち、違ったとすると、結構ショックね」<br />「……まあ、はい。良いです、お友達で。で、無事ならお食事しましょ、お腹すきましたし」<br /> 取り敢えず、平然と流す。<br /> 本当に、先祖がえりとまで言われた魔力を有する私のプライドが一撃で砕かれるような場面に遭遇してしまったけれど、あまり悟られたくない。<br />「――マジか……」<br /> 動揺を隠す私の隣で、ミーアナイト先輩が呟く。<br /> それは、今まで見た事のない、興奮と恍惚を露わす、どこか淫靡な表情だった。<br />「寮長?」<br />「ミミミカとか言ったか」<br />「ん? ええ。ミミミカよ、先輩」<br />「ミミミカ、私の女になれ」<br />「ふぉあ!?」<br />「おっほ……これはビックリね」<br /> マジですか寮長。<br />「マジですか寮長……」<br /><br /><br /><br /> 4月6日 20時<br /><br /><br /><br /> 大仙宮寺宗左衛門丞美々美花、入寮。<br /> 第七十二高等部寮は十五人の小数寮で、新一年生は私を含めて五人、二年と三年も五人ずつだ。レガシ神社の鎮守の杜にあるこの寮は喧騒から離れており、人数も少ない事から、静かな環境を求めてやってくる子が多い。常に睡眠していたいミーアナイト先輩もその類である。<br /> 基本的に寮規則は緩く、小難しい決まりごとはない。全寮共通で『身勝手に魔法を行使しない』『身体の大きな子には配慮する』『みんな仲良く』など、一般常識程度のものである。<br /> ただこの『身体の大きな子には配慮する』は多少曲者だ。<br /> アラクネやセントールなど、脚が沢山ある人種はどうしても二足歩行人種の生活環境では暮らし難い。当然他の寮や施設は、それに対応した作りになっているものの、この第七十二高等部寮は生徒数増加に合わせて急きょ古いアパートを買い取ってでっち上げたもので、プラクシムヒュムノ向けでしかないからだ。<br />「悦子様、少しお尻押して?」<br />「はい、行きますよ、せえのっと」<br />「んふぅっ」<br />「へ、変な声あげないで、エリーネ」<br /> 由緒正しき純セントール種、エリーネ・勅使河原の大きなお尻を押し、浴場に突っ込む。だから止めろと言ったのに聞かず、彼女は私を追いかけてこの寮に入寮した。<br /> どうあってもここはヒュムノや小型亜人向けだ。建てつけも悪いし、入口は小さいし、天井も低い。<br />「エリーネ姫で良いのかしら、呼ぶ時は」<br />「ええ? 姫はやめてくださいよぅ」<br />「んふふ。でもおっぱいは女王様ね。ふむ。96ぐらいかしら。これだとJカップね」<br />「わ、なんで解るんです?」<br />「あーあーあー。ミミミカ、そういうセクハラ止めてあげてください」<br />「ふむ。悦子は88の、Fね。これもまた、白くて艶やかでもっちりしてて、美味しそうだ事……」<br />「じ、ジッと見ないでください。ああもう」<br /> 物凄く遠慮したかったのだが、ミミミカが『何にせよまず裸の付き合いをして、腹を割って話す事により今後の高校生活が充実するし健康になるし彼女が出来る』などとなんやかんや言いだし、押し切られる形で皆でお風呂に入る事になってしまった。<br />「えと、ミミミカちゃん?」<br />「ミミミカで良いわ。宜しくね、エリーネ」<br />「うん。悦子様、面白い方ですねえ?」<br />「面白いか面白くないかで言うと微妙で、面白い部分もありますが面白くない面も多々あるので、総合的に判断するとやや面白くありません」<br />「おっと言うわね子猫ちゃん」<br />「獣亜人じゃなく耳長亜人です。ハイミックスに近いですが」<br />「エルフ味濃い目よね」<br />「味とか言わないでください……もう、貴女が居ると何も進まない。早く身体洗って下さい、お風呂も狭いのだから」<br />「ええ、そうしましょうそうしましょう。エリーネ、お尻洗うの大変でしょう。お手伝いするわ?」<br />「本当? ありがとぅ」<br />「ああ、エリーネがふわふわしてて、ミミミカがガツガツしてて、果てしなく不安です」<br /> 彼女はお姫様だ。<br /> 元はイリアーネの東島国、独自文化を築いていた人馬亜人種達の楽園『ケンタウレス王国』王家一族の親類で、コネクト3が開いた頃に日本に移住してきた。<br /> 帰化している為国籍は日本人だけれど、帰化先の日本でも人馬亜人と交わり続けているので、ほぼ純正である。勅使河原の苗字は帰化時に適当につけたらしい。ちなみに王位継承権は第3位だ。<br /> 本人はまったく政治的な意識はなく、将来の夢は漠然と『お嫁さん』だという。こんな無垢な子を毒牙に掛けようというのだから、この女には恐れ入る。<br />「ねえところで」<br /> ミミミカがスポンジを泡立てながら、チラリと此方を見る。<br />「悦子様。ね。確かに良く呼ばれているけれど、この子が呼ぶとニュアンスが違うわね?」<br /> 鋭い。嫌になる鋭さだ。<br /> ミナリエスカ大公爵家故、様をつけて呼ばれる事が多いけれど、悦子に様を付けて呼ぶ子はこの子だけだ。<br /> エリーネが初めて私の前に現れたのは中等部1年の頃。<br />『エリーネと言います。あの、御姉様になってください?』<br /> 何故か疑問形でそのように言い放たれた。否定するに出来ず、なし崩し的にそう、私と彼女は『姉妹関係』にある。<br />「それは、悦子様が、私のむぐぐ」<br />「長い付き合いだから、親愛を込めてそのように呼んでいるんです、エリーネは」<br />「ふぉぉん? にゃるほどぅ?」<br />「なんですかその顔」<br />「いやあ。ニュアンスがさあ。どうにもこうにも『御姉様♪』ってカンジなのよねえ?」<br />「ふぁえああむごぐぐ」<br />「勘違いでしょう。エスに夢見すぎて少し頭が茹っているのでは?」<br />「ねえ悦子」<br />「なんです」<br />「私の事御姉様って呼んでみてくれる?」<br />「例え頭に六節魔法(ヘクサマギクス)を食らわせると脅されても嫌です」<br />「そんなに」<br /> ミミミカが驚いたように、自分の足元に石鹸を置いてそれを自ら踏んづけて転ぶ。あそこが丸見えなのだけれど、気にしないのだろうか。あ……ずいぶん綺麗だ。<br />「そんなに」<br />「大事な事でしたか」<br />「ま、いいわ。じっくりやるから。ああ、楽しみね。冬の日、暖炉の近くで地べたに座り、イリアーネの大詩人モリオルの詩篇を読みながら寄りそって、私がそっと貴女の手に手を重ねる。視線を向けると、貴女が私を本当に、聞こえるかどうか、解らないぐらいの声で、御姉様、と囁くその未来が!!」<br />「ずいぶん具体的ですね。まあ一生ないでしょう。ねえエリーネ」<br />「はい。だって悦子様は私の御姉様ですし?」<br />「ほらやっぱりそうじゃない!!」<br />「もう何でもいい……疲れる……」<br />「それは結構ショックだわ。貴女の疲れ顔に免じて今日は止めましょう。さ、エリーネ、そのむっちりとした栗毛のお尻を突き出しなさいな」<br /> ……。<br /> ミミミカにあんな事を言っておいて、私自身は妹がいる、という現実は、彼女にどう受け取られるだろうか。なんともかんとも、このヒトは評価し難い。<br /> まだ出会って数時間、評価する材料がないとも言えるけれど、このヒトは常に、誰にでもこのテンションで迫っているように見える。<br />『動くな……私はレズだ』<br /> まあ、実に無茶苦茶な初遭遇であったけれど、彼女の行動や言動に、私は悪意が感じられない。政治目的という訳ではなさそうであるし、彼女の求愛行動は万遍ない。<br /> 彼女自身は疲れないのだろうか。<br /> 本当にこれが『素』の状態で、偽りのないものなのだろうか。<br />「ところで、寮長は」<br />「ん? 暫く物凄い勢いで迫られたのだけれど、眠くなって寝たみたい」<br />「ああ、うん。カロリー消費が多い人ですからね。私、あんな顔したの初めて見ました」<br /> お風呂に浸かりながらミミミカの表情を窺う。基本的に自分から行くタイプの彼女が、迫られた場合どんな反応を見せるのかと多少気になったものの、行き成り襲ったりはしなようだ。<br />「あんな人もいるのね」<br />「あれは特殊でしょうけど。たぶん、戦闘本能が呼び醒まされたんじゃないでしょうか」<br />「ああ。戦いに明け暮れた竜亜人の、しかもかなり純度が高そうだし、ねえ。自分より強い人とパートナーになる習慣があったわね」<br />「満更でもありませんか」<br />「……えへへ。人に求められるって凄くうれしいわ。私、ここ来るまでお友達もいなかったし」<br /> 確かに、唯我独尊で無茶苦茶ではあるけれど、友達がいない、というのも変な話だ。<br /> カンジは悪いけど、大仙宮寺の名前に釣られてやってくる輩もいただろう。逆にそれが理由だろうか。<br />「そう、なんですか」<br />「あ、でもでも、本命は貴方よ? 私、貴女がとても好きなの。信じられないくらい。貴女を通学途中に見つけた時、この人が欲しいって、この人に求められたいって、そう思ったのよ」<br />「ああ、それ解りますよう。悦子様は美人だし、優しいし、お料理も御裁縫も魔法も得意なんです」<br />「そうでしょうそうでしょう。私の悦子は凄いでしょう」<br />「貴女のじゃないです……でも、その。こんな事自分でいうのもなんですけど、私がそんなに魅力的でしょうか。黙っていたら貴女だって、よっぽどなのに」<br />「私は絆が足りないわ。経験も、知識も、友情も愛情も感情も、全部全部足りない」<br /> そういって、ミミミカがお風呂から上がり、一人で出て行ってしまう。<br /> 今までに見せなかった表情が垣間見れた。触れられたくない部分だっただろうか。でも、それにしては、嫌そうな顔でもなかった。<br /> 保留。<br /> 彼女の評価は保留しよう。<br /> 私を気にかけるのも、沢山の女の子に声をかけるのも、あんな部活を作るのも、何か理由がある筈だ。<br /><br /><br /><br /> 4月6日 21時<br /><br /><br /><br /> お茶を飲みながら詩篇を読む。<br /> 今日は湿気も少なく気温も高めなので、裏庭のテラスで静かにしているのに丁度良い日だった。<br /> 燃焼蒼石(ランプライト)の明りの横で心を静めて、流暢なカナン語で書かれた短い詩を読んでいると、日本人である私も、戦乱の中に身を置きながら筆を走らせた詩人の気持ちに浸れる。<br />『山脈連なるこの先は、火矢と魔火飛び交う苛烈な土地だ。貴女はそれでも行くという。ただここで、私と語らうだけでは飽き足らず、自らを激動の中へと投じてみたいとそのように言う。私は止める事など出来はしない。例えどれだけ愛しかろうと、私は貴女の好奇な心を止めるだけの繋がりを、持つには至らなかったのだから』<br /> モリオル作『大詩篇』の『姉妹』だ。<br /> 今から三千年ほど前の作品で、モリオルが戦乱の中慕い続けた複数の女性達との親愛と友情、悲しみについて書かれている。古典文学として有名で、授業などでも題材にされるほどメジャーなものだ。<br /> イリアーネの女性同性友愛文化の礎ともなっている。<br /> モリオル自身はエルフである為、相当に寿命が長かった。その間、一体どれほどの女性達と交流したのか、しかも作品が多い為、未だに全てまとめ切られていない。<br /> エリーネに淹れて貰ったお茶を一口して、空を見上げる。<br /> ここは大帝都とはいえ山奥、星が良く見える。<br /> この空はあちらには繋がっていない。ただ、もの自体はほとんど同じだ。<br /> 最大大陸イリアーネの呼称から『イリアーネ』と呼ばれるあちらの世界は、住んでいる人種、生態系、物理法則や魔法概念、工業力の差こそあれど、世界そのものはほぼ同じなのだ。<br /> 最新の研究では、土地の浮き沈みはまた別として、プラクシムにおける大陸移動がなかった、統一大陸パンゲアそのものが、イリアーネにおけるイリアーネ大陸であるとされている。<br /> 産まれて十六年、元からここに住んでいる私からすると『へえ』程度だが、衝突直後の双方の人間達は、一体どれほど驚いただろうか。<br /> 並行世界の存在が証明され、全く違い生態系と文化を用いた人々が全く違う生活を送っている。<br /> 科学と魔法の融合によって、人類はかつてない英知を手に入れた。私達はその恩恵にあずかり、平穏無事に今を暮らしている。<br /> イリアーネとプラクシムの資源戦争こそ無かったものの、大日本帝國ミナリエスカ合同軍、大関西帝國マナエスカ同盟軍による独立領土戦争や、アメリカ合衆国カリナエスカ同盟軍によるカナダ侵攻、ロシア帝國による亜人排除運動(亜人の冬)、更に小さく挙げて行けばきりが無いほど戦争は存在したものの、全て今は昔、という形になっている。<br /> 日本は日本原生神族の存在があり、亜人に対する否定感が少なかった事があった為、排除運動にあった亜人達も皆日本に移り住み、迫害を免れた。<br /> しかし人種、文明、資源による衝突は、人類である限りは避けられない。<br /> 言ってしまえば、まだたった百年しか経っていない。エルフの寿命からすれば、まだ一世代目だ。<br /> 私達ミナリエスカは過去の教訓を生かしながら、多種多様な人類と和解してきたイリアーネの歴史を温めながら、この先の未来を見据えて行く使命がある。<br /> そしてその中でも。<br />「あら、ここに居たのね。良いところ」<br />「五月蠅いのが来てしまいましたね」<br />「ふふ。望まれていない所に現れるのが私よ。大仙宮寺である限りは、宿命だわ」<br /> 大仙宮寺。<br /> コネクト2は衝突門の中でも最大規模を誇っている。<br /> 移民を推奨し、移民の生活と人権を徹底的に保護、保証し、教育に力を入れ、経済支援し、帰化政策を進め……日本がどこの国よりもイリアーネからの移住民が多いのは、全てこの大仙宮寺の政策故だ。<br />「これ、返しておくわ」<br /> そういって、ミミミカがモノリスを取り出し、私に差し出す。<br /> どういう事か。<br />「良いんですか」<br />「良いわ」<br />「何故。脅されないと、私はあの部に参加なんてしませんよ?」<br />「大丈夫よ。私と貴女はお友達なのでしょう。お友達は、人を脅したりしないわ」<br />「過程が問題である気もしますけど……ま、そういうのなら」<br /> モノリスを受け取り、指で折り曲げる。紫色の光を放ち、それらは全て損壊した。<br /> ミミミカが私の正面に座り、庭の桜の木を眺め始めたので、私もそちらに視線を移す。燃焼蒼石に照らされた桜は青白く輝き、幻想的な雰囲気を醸し出している。<br />「綺麗。良い所ね、ここ」<br />「ええ。実は、下見の時にここを見て、この寮に入ろうと決めたんです」<br />「その気持ち解るわ。冬は少し寒そうだけれど、だだっ広いだけの私の家とは違って、小さく趣きが良い」<br />「大仙宮寺本家ですよね。宗左衛門丞と言う事は、もう継承済み。本物の、純粋な大仙宮寺」<br />「まあ、解るわよね、ミナリエスカだもの。ええ。私はコネクト2を任された人間よ」<br />「若いのに大変ですね」<br />「それと、ええと、驚かないで聞いてほしいの。ミナリエスカなら、まあ驚かないかしら?」<br />「――なんですか」<br /> 何か、少し残念な気がした。<br /> 改まった彼女の顔は、今日様々な場面で見せたミミミカの顔ではない。凛としていて、それを見ていると心を空くような気持ちになると同時に、酷く不安になる。<br /> 彼女の言動や行動は、全て打算されたものだったのではないか。<br /> 大仙宮寺として、ミナリエスカから期待される私に、政治的や経済的な意味を求めて近づいたのではないのか。<br /> そして今、彼女はそれを告白しようとしているのではないのか。<br /> ミミミカが口を開く。<br />「大日本帝國が敷く儀式術者階位第四位。大陰陽魔法位。二つ名を『八咫の大鏡』というわ」<br />「な――う、うそ……」<br /> 眼を見開く。<br /> 違った。想像していた告白と違ったけど――むしろ、その告白の方が余程驚く。<br /> ミミミカが胸元を開き、そこに刻印された梵字を私に見せる。<br />『カーン』不動明王印だ。お洒落のタトゥーなどでは無く、それ自体が魔力を帯び、ほの明るく光っている。そもそもこれを偽造する技術は無く、偽造したとしても、かなり重い罪に問われる。<br /> 立ち上がり、引きさがり、私は地面に膝をついて頭を下げる。ほぼ反射的だ。<br /> 夕方に見たあの異常なスキル、そして大仙宮寺という名が説得力をもって迫る。<br /> 冗談じゃない。つまり、こいつは。この人、このお方は。<br />「や、やめて。ああもう、お願い、頭を上げて頂戴よ」<br />「し、しかし――その、大陰陽魔法位ともなれば」<br /> 大陰陽魔法位ともなると、世界中のどんな魔法士もひれ伏す程の権威と魔力を有している事になる。<br /> つまるところ攻勢魔法士としての頂点に位置する。私ごときが頭を並べていて良いような人間ではない。<br /> それならば、パッシブスキルのアタックガーディアとて納得だ。この人が本気を出せば、一つの県丸ごとに防御結界を張れるだろう。<br /> でも、けれど、ではなぜ、そんなお方がこんな高校で高校生をしているのか。<br />「お願い……やめて、頭を上げてよ、悦子」<br />「け、けれど」<br />「お友達でしょう。お友達は、土下座したりしないわ。ああ、明かさなければ良かった……また、友達、いなくなっちゃうよ……」<br /> 顔を上げる。<br /> ミミミカは、涙を流して俯いていた。<br />「あ、アンタぐらい気位が高ければ、私なんて何とも思わないと思って、喋ったけれど……そうなのね、私の位って、ミナリエスカすら頭を下げざるを得ないんだ……嫌になる」<br />「……」<br /> どうするべきだろうか。私は、彼女にどう接すれば正しいのだろう。<br /> その立ち場は、万人を畏怖させる。強すぎた力を持つ人間は、やはり恐れられる。<br />「お願いがあるの。お友達で居て欲しい。あんな事をして、悪かったわ。でも、どう接すればいいか、まるで解らなかったの」<br />「それは……どうして」<br />「お風呂でも話したでしょう。貴女が好きなの。す、好きな人に、どう近づいたら正しかったの? 何の接点も無い子に、逃げられないようにどうしたらよかったの? わ、私。アンタの顔みたら、わ、訳わかんなくなっちゃって……」<br />「……はあ」<br /> 立ち上がり、改めて椅子に座り直す。泣きじゃくる姿は、年相応の乙女だ。<br /> 例え核爆弾並の魔力を秘めていようと、その精神性は同い年の少女と変わりないのだろう。<br /> 私は、自らの軽率な行動を後悔する。<br /> 確かに、ミミミカの告白は衝撃的だったけれど、立場によって恐れられたり、無駄に敬われたりするのは、自分も経験して来た事だ。<br /> その度に面倒くさかったり、そして悲しい想いをしたりと、今までして来たのだ。<br /> 彼女の過去にどのような辛い記憶があるのか、私には解らない。ここにいるのも、それなりの理由があるのだろう。<br /> 滅茶苦茶で、筆舌にし難いレズだけれど――きっと彼女は、周りが、自分が、まだ何も解らないのかもしれない。<br />「で、ミミミカ」<br />「あっ――、う、ん」<br />「どう接してほしいんですか? お友達? ちょっと遠慮したいですねえ」<br />「あ、はは。そ、そっかな。ごめん……なさい」<br />「取り敢えず、部員の件は了承しましょ。それに、今日出会ったばかりで、私は貴女の事を何も知りません。行き成り友人も恋人も難しい。そうでしょう?」<br />「うん、うん」<br />「まず部員として接しましょう。沢山お話して、いろんな事をして、友達と言える仲になれば、それで構いませんか?」<br />「悦子……」<br />「それと……ごめんなさい。軽率でした。貴女の気持ち、まるで考えていなかった」<br /> 彼女の顔が明るくなる。嬉しそうな表情だ。燃焼蒼石に照らされる彼女の笑顔は、驚くほどに美しい。<br /> 本当に、参ってしまう。<br /> 性格だけじゃなく、その存在そのものが、無茶苦茶だなんて。<br />「嬉しい。嬉しいわ、悦子!」<br />「そうですか、そりゃよかっ……ちょっ」<br />「うふふっ」<br /> ミミミカが私に縋る。ささやかな胸が私の顔に押し付けられて、何とも苦しい。<br /> あ、凄く良い匂いする……。じゃなく、止めて欲しい。<br />「ふむぐっ、ぐぐっ」<br />「ああ、悦子! 愛しているわ! これから沢山思い出を作りましょう! 部員も沢山集めて、沢山笑って沢山泣いて、沢山、そうだ、エッチな事しましょう!!」<br />「勘弁してくだしゃい……」<br />「もう! 悦子ったら恥ずかしがり屋さん! 恥ずかしがり屋さん!!」<br /> ミミミカが抱擁をほどくと、私の目の前に顔を突き出す。<br /> 何をしでかすのかと思いきや――柔らかい唇が私の唇に重なった。<br /> 衝撃のあまり、声が出ない。ミミミカの鼻息がこそばゆい。<br /> 五秒ほどだっただろうか。はたと気が付き、私は彼女を押して返す。<br />「ぷあっ! な、なななななな――何するんですか!?」<br />「私の初めて、アンタにあげるわ!」<br />「いらなかった!! 貴女の初めてなんていらなかった!! なんか重い、凄く重いです!!」<br />「まあ、酷い事言うのね、悦子は! あははっ!! ああ、本当によかった!!」<br />「はああぁぁ……ああもう、何がよかったんですか……」<br />「うん? ああ、家と国の役目全部ほっぽり出してね、ここの学院長脅して入学したのよ!! そう、いわば逃走の身なの!!」<br />「え、えええええーーーー!!」<br />「アンタに逢えて、本当に良かった。私、今すごく、幸せよ?」<br />「こりゃ、参ったなあ……」<br /> 本当に、とんでもない女に好かれてしまった。<br /> 全魔法士が羨む大陰陽魔法位にして、性格破綻者にして、レズだ。<br /> 一体こんな奴、何処を探せば見つかるだろうか。二人として居て貰いたくは無い。<br /> 占いの結果を思い出す。<br /> まあ、新しく清涼な出会いではないかもしれないけれど――私の高等部での生活は、この子がいる限り、まず、暇を知らない日常になりそうだ。<br />「……ミナリエスカ、お前、私の女に何してるんだ?」<br />「……え、寮長?」<br />「そうかそうか、お前はそういう奴なんだな。くくくっ……」<br />「うふふっ。私ったら、モテモテねえ! ミーア、怒っては駄目よ? これは親愛なる友人に対する儀式みたいなものなのだから!」<br />「ミ、ミミミカがそういうなら……」<br />「うわ、寮長にダメ人間属性がついてる……」<br /> 本当に、私はこんな奴の隣に居て、大丈夫なんだろうか。<br /> 冷静にカップを手にして、紅茶を口に含む。<br /> 今日の紅茶は、なんだか妙に渋かった。<br /><br /><br /><br /> 継続世界の百合まみれ 了</span><br />
<br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-57181663826177604102013-06-25T21:00:00.000+09:002013-06-25T01:12:57.788+09:00『心象楽園/School Lore』 について<br />
<br />
<b>もくじ</b><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/02/school-lore_15.html">第一話 「欅澤杜花周辺」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/02/school-lore_22.html#more">第二話 「嫉妬と憧憬」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/03/school-lore.html">第三話 「天原アリスの憂鬱」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/03/school-lore_8.html">第四話 「錯覚残滓」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/03/school-lore_15.html">第五話 「劣等感の熱情」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/03/school-lore_2847.html">第六話 「心象楽園/怨嗟慟哭」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/03/school-lore_29.html#more">第七話 「深淵を覗く」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/04/school-lore.html">第八話 「恋慕クオリア」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/04/school-lore_12.html">第九話 「心象楽園/構造少女群像 前編」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/04/school-lore_19.html">第十話 「心象楽園/構造少女群像 後編」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/04/school-lore_26.html">第十一話 「狂人達の夢」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/05/school-lore.html">第十二話 「幻華庭園」</a><br />
<br />
<a href="http://shinsyo-rakudo.blogspot.jp/2013/06/school-lore.html">SS1 「終の少女」</a><br />
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<br />
執筆期間 約4カ月<br />
文章量 約593,000字 原稿用紙換算 約1,500枚程度<br />
構成 エピローグ含め12章<br />
<br />
<br />
<b><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 内容</span></span></b><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"></span></span><br />
<a name='more'></a><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><br /></span></span>
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 良家の子女を預かる小中高一貫校『観神山女学院』は、学院の代表たる『七星市子』の自殺以来、薄暗い空気に包まれていた。</span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 七星市子を小等部以来『姉』としたい続けていた『欅澤杜花』もまた、彼女の死を受け入れられず、鬱屈とした精神の中、彼女の自殺の話題を避け、平穏に暮らす努力を続けて来た。</span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> しかし彼女の死後、実しやかに囁かれる『黒い影』の噂があり、その姿が自殺した七星市子のものであると生徒達の間で話題になり始める。 </span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 慕い続けた『姉』の死に向き合う時が来たのだと感じ始めた杜花は、親友の『満田早紀絵』と共に、影の調査に乗り出そうとする。</span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> だがそんな折、七星市子の義理の妹を名乗る『七星二子』が現れる。</span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;">『姉の残したものを探す手伝いをしてほしい』</span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 突如現れた、七星市子と同じ顔をした妹の申し出を受け、杜花達は学院の中に散りばめられた、七星市子の遺物、そして黒い影を探索する為、学院の深い場所へと、足を踏み入れて行く事になる<span style="font-size: small;">。</span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> </span></span></span>
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><br /></span></span>
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> </span></span><br />
<br />
<br />
<br />
<b><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 登場人物</span></span></b><br />
<br />
<b><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> </span></span></b><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;">欅澤杜花(けやきざわ もりか)</span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> 高等部二年生。</span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: small;">自殺した七星市子<span style="font-size: small;">(ななほし いちこ)の姉妹制度上の<span style="font-size: small;">元</span>妹。序列は二番。</span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 地元神社の『欅澤神社』跡取り。</span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 成績優秀、品行方正、高身長で容姿にも優れ、市子にもっとも寵愛を受けていながら、本人もまた生徒達に『御姉様』と呼ばれる立場にあり、困惑している。 </span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 市子の不要な噂を取り除くべく立ちあがろうとするも、そのタイミングで編入してきた義理の妹を名乗る『七星二子』(ななほし にこ)の<span style="font-size: small;">登場に</span>頭を悩める。 </span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: small;">特定の物事<span style="font-size: small;">以外では自分を評価しておらず、謙虚が嫌味に取られる事もしばしばある。</span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 満田早紀絵(みつた さきえ)</span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 高等部二年生。</span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 杜花のお付き。姉妹ではないが、<span style="font-size: small;">杜花に付き添ってい<span style="font-size: small;">る為、市子と<span style="font-size: small;">同派閥と括られている。</span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> ミツタ運輸グループ<span style="font-size: small;">創業</span>者一族の長女。運輸王の娘。</span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 大変に気が多く、恋人(女性)の数<span style="font-size: small;">は片手では数えられない。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 市子の死によって杜花に取り入りやすくなったと喜んではいたが、市子とも長い付き合いになる為、その<span style="font-size: small;">心中は<span style="font-size: small;">複雑である。</span></span> </span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> おちゃらけた雰囲気はあるが、誰よりも物事を冷静に、論理的に見ている。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 杜花の手助けをしようという気持ちと、オカルト好きも災いし、『黒い影』の一件に深く食い込んでしまう。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 天原アリス(あまはら ありす)</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 高等部二年生。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 市子の元妹で、序列は一番。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> アジア戦火<span style="font-size: small;">以降躍進し、総理大臣も<span style="font-size: small;">輩出した</span></span>政治一家天原家の三女。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 高等部生徒会生徒会長。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: small;">生真面目で勤勉、しかし面白い事好きという大らかな一面を<span style="font-size: small;">併せ持つ。自身に強い矜持を抱いているが、杜花達の前では一歩引いている。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 杜花、早紀絵と大変仲が良く、<span style="font-size: small;">神の如く敬っていた市子の死後露わになってしまった自分の感情に頭を悩ませている。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> イギリス人とのハーフ<span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;">で</span>、金髪碧眼だが、本人は純粋な大和撫子<span style="font-size: small;">である。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 三ノ宮火乃子<span style="font-size: small;">(さんのみや かのこ)</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 高等部一年生。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 杜花を慕っていた一人。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 世界シェアも高い三ノ宮医療製薬<span style="font-size: small;">創業者</span>一族の次女。実質的な跡取り。三年に姉の『風子』(かぜこ)がいる。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 内気で目立ちたがらないが、七星二子には敵意を向けている。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 市子の死後めっきり笑顔の減ってしまった杜花に不安を抱きながら、<span style="font-size: small;">同寮で同室の末堂歌那多(<span style="font-size: small;">すえどう かなた</span>)に慕われ、自身の恋心に胸を痛める。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: small;">大変頭が良く、とある事情で『黒い影』の話題に首を突っ込むが……。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 七星二子(ななほし にこ)</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 高等部一年生。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 自殺した七星市子の<span style="font-size: small;">腹違いの妹。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 日本国の<span style="font-size: small;">心臓部<span style="font-size: small;">で血液ともいえる、七星財閥の娘。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 市子の死後半年で編入手続きは終えていたが、出て来たのは一年後である。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 例外<span style="font-size: small;">の塊のような人物で、厳格な規律や校訓など一切通用しない。その権威で無理矢理杜花の同室に紛れこむ。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 姉が残したものを探<span style="font-size: small;">すのを手伝って欲しいと申し出るが<span style="font-size: small;">『性格を悪くした市子』と揶揄され<span style="font-size: small;">、杜花は協力こそするものの、素直には承諾されなかった。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 大変<span style="font-size: small;">姉を慕っており、学院にやって来たのも、遺物探しだけでもない様子だ。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<br />
<br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 七星市子(ななほし いちこ)</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
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<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 享年十七歳。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 事件の大本となる自殺事件の当事者。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 七星<span style="font-size: small;">家当主『七星一郎』の正妻の娘。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: small;">どこを切り取っても批判しようのない、<span style="font-size: small;">皆の『御姉様』だった。七星派は数十人に昇り、その中でも特に杜花とアリスを可愛がっていた。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: small;">自殺する動機がまるで見当たらない為、その死は<span style="font-size: small;">長い間学院の<span style="font-size: small;">内外で話題となる。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 遺書も見当たらず、もっとも理由としてありえるものとして、七星を継ぐ重圧に耐えられなかったとされたが<span style="font-size: small;">、実際のところ<span style="font-size: small;">解っていない。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 二子の話では、<span style="font-size: small;">市子は死ぬ間際、学院内に『結晶』と、杜花に宛てた『手紙』を残したとされる<span style="font-size: small;">が……。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
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<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 近未来の全寮制女子校<span style="font-size: small;">。</span> </span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;">超高度情報社会にありながら、恩恵がほぼない隔絶された箱庭で暮らす少女達の群像劇。</span></span> </span></span> </span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span> <br />
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<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> ※<span style="font-size: small;">毎週金曜夜八時更新予定。</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
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<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> 本作品はフィクションです。作中に登場する人物、団体、企業、国家は全て架空のものであり、<span style="font-size: small;">一切関係ありません。</span> </span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span><br />
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<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> </span> </span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span> <br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"> </span> </span></span></span></span></span></span></span></span></span> <br />
<span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;"></span></span></span></span></span><br />
<b><span style="font-family: Verdana,sans-serif;"><span style="font-size: small;"><br /></span></span></b>俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-77998612217322493662013-06-25T01:08:00.001+09:002013-06-29T00:31:41.215+09:00心象楽園/School Lore ストラクチュアルX1 ネタバレを含むサイドストーリーです。全編ご覧になった後に閲覧ください。<br />
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<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> 長い髪は暴風に靡き乱れ、彼女はまるで鬼のような形相であった。<br /> 念動力で掻き回された倉庫は、人間の破片を含み、赤黒く、滑って張り付き、辺りを汚して行く。<br /> 一際大きな荷物が二人の間に落ち、地面に突き刺さる。<br />「貴女――誰、誰なの――返して――彼女を――」<br /> 彼女の『中』には何が入っているのか。解らない。解らない。<br /> そこにあるものは、純粋な力の渦である。<br /> 一瞬、彼女の背後に大きな黒い穴が観えたような気がしたのだ。<br /> それは暗く昏く、光の一切を通さない闇である。<br /> もし、あちら側の世界があるとするならば――きっと、その穴の向こうなのだろう。<br />「返して――美織を、返して――」<br /> 彼女『であったもの』が薄く笑う。<br /> ――誰か助けてほしい。<br /> いったいこの黄泉の深淵を覗くような悪夢は、何時終わるのだろうか。<br /><br /><br /><br /> ストラクチュアルX1/終の少女<br /><br /><br /><br />「……はい。動きは把握してます。報告した通り、脅威になるものとは思えません。はい。はい。七星二子は、ええ。緩い任務ですよ。もう一度高校生活が送れて、私は満足です。ま、休暇みたいなものと思えば……はい。では」<br /> 監視対象等に異常なし。<br /> 全て報告書にまとめ、上司に報告した通りである。何事もない。<br /> こうしてノンビリと高校生に紛れていれば良いのだから、実に楽な仕事である。<br /> 鷹無綾音は通話を切り、車の運転手と頷きあう。<br />「加瀬堂、観神山にはいつまでいるの?」<br />「はい。二日ぐらいはいますよ。まあいつも通り、何も無いとは思いますが、一応控えておきます」<br /> 長い黒髪をまとめた凛々しい女性、加瀬堂がハンドルを切りながら言う。<br />「ん。差し入れ宜しくね」<br />「刑務所じゃあるまいに」<br />「良い所なんだけどさ、お嬢様演じてると肩肘張るでしょ。甘いものも食べたいし。工場生産の」<br />「ええ、じゃあ後で何か甘いものを送っておきます」<br />「宜しく。ああ、加瀬堂」<br />「はい?」<br />「結婚しないの? もう良い歳じゃない」<br />「気になる人はいるんですがね。なかなか忙しい人で」<br />「そら大変だ」<br />「――はあ。ほら、着きますよ」<br /> 正面には観神山女学院第二南門が迫っていた。<br /> 警備員等のチェックを終え、車の停留所で下りる。屋根付き空調付き、ガラス張りの、来賓を待つ為の停留所だ。<br /> 改めて手荷物を確認する。生徒に対する携帯端末等のチェックは甘い。予備に持ち込んだイヤリング型と指輪型の端末をポケットに収めてから、綾音は白萩へと向かう。<br />「んー……なんか、なんだ?」<br /> いつもの学院だ。<br /> 編入と言う形で高校一年生を繕い、以来三年近く暮らした、最早愛着すらある仕事場である。その景色や雰囲気に違和感こそないが、どうも空気が違うのである。<br /> 綻び一つない整備された道を歩いて行くと、丁度小等部校舎付近で見知った顔を見つける。<br />「五月」<br />「ああ、鷹無先輩。戻ったんですね」<br /> そこに居たのは天原アリスと同室、高等部生徒会副会長の金城五月だ。大変気立てが良く有能で、アリスに可愛がられている。彼女は茶色がかった髪を撫でつけ、にっこりと笑った。<br />「どうしたの、こんなところで」<br />「ええ。小等部生徒会からお手伝いのお話があって。まだ帰省している人も多いので、私だけでもと」<br />「殊勝な事だね。そうだ、アリス達は?」<br />「ええ。アリス会長も、早紀絵様も、杜花様も、市子様も、皆戻っていますよ」<br />「ふうん。そっか……」<br /> なるほど。どうやらあの子達は示し合せて戻って来たのだろう。監視対象がバラけると面倒であるからして、彼女達が一緒に居る事は好ましい。<br />「そっか……ん?」<br />「どうしました」<br />「いまさ、聞き間違いかもしれないけれど、市子って、言った?」<br />「はい? いえ。違えていませんよ。市子様もです」<br />「うーん、なんだろ、五月、あんまりほら、そういうのはさ……」<br /> はてさて。冗談を言うような子であっただろうか。<br /> 綾音は頭をかいて、遠回しに諌める。何せ冗談に使うにしては、諸問題を起こしかねない人物名だ。<br />「鷹無先輩、何を? 市子様が戻っていると、何か問題があるのでしょうか」<br />「――ん。そっか。いやね、ううん。問題ないよ。ありがと、ごめんね」<br />「いえ。おかしな先輩」<br /> 五月に手を振り、その場を後にする。<br />(……さて参ったな。嘘を吐いているようには見えない。状況から鑑みるに……感応干渉による記憶改変あたりしか思いつかないけど……なんで五月を? そもそも、死んだ人間の名前を出して、何を)<br /> 学院に帰って早々、何やらきな臭い動きが観える。<br /> 感応干渉による改変については、以前から警戒していたものであるから、そこまでは驚かない。ただその意図が観えないとなると、多少気持ち悪くはある。<br /> 感応干渉を使う人間は、今のところ七星二子と支倉メイしか観測されていない。支倉メイが率先して五月の記憶を改変する理由が見当たらないし、そもそもあの子は可愛い女の子とセックスしていればそれで満足な人間だ。七星側とはいえ、どうも型にハマるような人間では無いように思える。<br /> そうなると七星二子が主犯だろうが、さて。<br /> 複数人改変したとなると、その状況から何かしらを導き出そうとしている可能性がある。<br /> 即座に報告しようと、ポケットに仕舞った端末に手をかける、が、止める。<br /> 七星側が盗聴している可能性も示唆されて作られた端末であり回線だが、保全の為にもあまり使いたくはない。綾音は頭を振り、白萩へと向かう。<br /> 躑躅の道を通り、向かった先では、学院に戻って来た生徒がちらほらと見受けられる。<br />「や。戻ったよ、マイ」<br />「あらら。綾音ぇ。やっと戻って来たんだあ。寂しかったあ」<br /> 白萩の前に居たのは、同室の神藤真衣子(かんどう まいこ)である。<br /> 真衣子はおっとりとした声で綾音を迎えると、そのまま抱きつく。公衆の面前では止めて欲しかったが、可愛いので良い事とした。<br /> 真衣子は何も知らない、ただの一般生徒だ。<br /> 全身から漂う柔らかい雰囲気に柔らかい胸が特徴の、放っておくと後輩に弄り倒されるのではないかと心配になる子である。<br /> 誰も観ていない事を確認して、真衣子の長いウェーブヘアを撫でつける。相変わらず良い匂いがする子だと、綾音は新年早々イケナイ気持ちになる。それでなくとも面倒な問題が発生した様子なのだ。どうもこの子の隣にいると、人として駄目になるような気がしてならなかった。<br />「鷹無の実家に戻ってたんだよねえ?」<br />「そうそう。マイは?」<br />「ん。戻ったら直ぐお見合い話を持ち出されちゃってえ。全部断ってしまったのだけれどもー」<br />「あらま、なんで」<br />「なんでって……んふふ。なんででしょうー?」<br /> 解っている。学院に好きな子がいるのだ。<br /> この学院、どこを引いても皆良い所のお嬢様であるからして、あえてお見合いなどせずとも良いパートナーが見つかるだろう。どうもその辺り、神藤本家は弁えていないと見える。<br />「少しお腹すいちゃった。なんかあるかな」<br />「天原様が、美味しいお菓子を持ってきてたよー」<br />「では御相伴にあずかろうかな……ああ、マイ」<br />「なあに?」<br />「市子は戻ってるかな」<br />「――ん? 市子様?」<br />「そうそう」<br />「うん。皆戻っているみたい」<br />「そっか、ありがと」<br /> さて。<br /> どうしたものか。<br /> 一先ず真衣子を置き、綾音は白萩に足を踏み入れる。<br /> 五月は、まだ解る。彼女達に近い存在であるから、改変して七星の思う流れに組み込もう、というのならば納得も行く。だが真衣子は彼女達からだいぶ遠い。同じ寮としてまとめて改変を行ったのだろうか。するとなると、幾ら強力な力とはいえ、相当の苦労があった筈だ。<br /> そもそも。<br /> 市子がいると誤認させ、では、その市子はどうなっているのだろうか。<br /> 遺伝子複製体の代替えを持ってきて、それを認識させているとなると、それでは寮の改変だけでは済まされない。<br /> もしかすれば、現状、鷹無綾音もその術中に在る可能性すら考えられる。<br /> もし、何か異常なものを見たとしても、決して驚かないようにと、綾音は心を縛る。<br /> そして綾音はサロンに赴き、心を縛る決意虚しく、目を見開いて驚愕した。<br />「――あ――が――う、」<br /> 違う。<br /> 何を見ている。頭を振る。<br /> 窓際に座る彼女は、七星市子に見える。<br />「あら、綾音。戻ったのね」<br />「――あ、ああ。うん。お久しぶり『市子』」<br />「お元気そうで何より。そうだ、アリスがお菓子を持ってきたから、綾音もどう?」<br /> 窓際には、『市子』を中心とし、欅澤杜花、天原アリス、満田早紀絵、三ノ宮火乃子、末堂歌那多等が楽しそうにお茶をしている。<br /> 頭をもう一度振る。<br /> 目を凝らす。さとられるなと、心で願う。<br />「帰ってきて、なんかちょっと、眠くって。部屋に戻るよ。あ、そのチョコ、私のね」<br />「うふふ。はいはい。じゃあ、あとで持って行くわ」<br />「うん。ああ、市子は優しいなあ」<br /> そのままサロンから出て、かけ足で自室に戻り、ベッドに飛び込む。<br /> 頭を抱え、何度かもんどり打ち、顔を手で覆って静止した。<br />「あれはなんだ……一瞬市子に見えたけど……違う。七星二子だ。あれに、誰も疑問を抱かない? 寮ごと改変? いやあ、違う、学院丸ごとと考えるのが自然だ。不味い不味い不味いぞこりゃ……」<br /> 何が不味いと言えば、どう考えても自分だけ、影響下に無い事だ。<br /> 七星が何かしらのアクションを見せる、それ自体は構わない。彼等の行動によって、七星がいかなる不正を働いているのか知る機会が出来るからだ。<br /> しかしそれが全体的な効果を持ち、その中で一人だけ自意識を保ったままの人間が居た場合、どうなるか。<br /> これは感応干渉、しかも範囲型。一個人に対しては強い力を持たない様子だが、範囲が大きすぎる。<br /> これだけの力を有した能力者は存在していない。ともなると、以前話で聞いていた感応干渉応用による、洗脳装置の投入である。<br /> 軍では用いているらしいが、まさかそれが、こんな学院で用いられるとは、想像もしていなかった。<br /> これが感応干渉であると判断する理由はたった一つ。鷹無綾音のESP強度によるものだ。<br />(仕方ない。こちらSAU1)<br />(どうしました、主任。戻って早々じゃありませんか)<br /> 通信口でへらへらとした返事が返ってくる。相棒の加瀬堂だ。<br />(最悪の事態だ。N兵器投入の可能性。七星の動き、警戒して……あと、私は無事かどうか解らない。観神山に何人か伏せておいて。以降、二時間おきに連絡する)<br />(――了解。御気をつけて)<br /> これだけの規模だ。ただ事ではない。一お嬢様学校が戦場に早変わりしたのだ。<br /> 楽な任務、もうそろそろ終わりを迎えると思っていただけに、これには参った。<br /> 感応干渉の拡散装置。<br /> 軍主導で研究され、非人道的すぎるあまりに、表向きには既に用いられていないと聞いていた。当然便利である。これを使わない手はない。現在もひっそりとどこかの戦場で、人の頭を壊して回っているだろう。<br /> しかし、これはどうなのか。どのくらいの強さなのか。<br /> 綾音の持つ干渉否定の防御壁はそう厚くない。その程度で凌げるのだ。<br /> 今現在、出力は弱いとみて良いだろう。とはいえ、用意周到な七星が、洗脳の効かない人間を放置するとも思えない。<br /> 本来ならこんな場所、直ぐさま離脱したいが、帰って直ぐ戻り、しかも行方不明となれば、確実に七星に疑われる。彼等が持つ私兵団は猟犬だ。<br /> ……例え鷹無綾音という戸籍が偽物であったとしても、鷹無綾音と名乗った人物を探し当てるぐらいの事はするだろう。何もかも痕跡を消すには準備が必要だ。今逃げた所で一緒である。<br />(何がしたいんだ、七星は――)<br /> 高校生、として潜りこんだのが二年と半年前。その間、この学院を隠れ蓑に七星が何かしら違法な実験を行っている事を付きとめるのが当初の目的であった。<br /> 探りを入れる中で解った事は幾つかある。<br /> 一つは、七星一郎肝入りの実験である事。<br /> 遺伝子複製体を平然と運用している事実自体は最早解りきっているのだが、試験管では無く代理母(手続き上は歴とした母)を立てており、遺伝子複製体等は全て日本国籍を有している。こうなってくると直接遺伝子複製体の母体となる人物が、核を埋め込む瞬間を取り押さえて分析する他ない。<br /> そんなものは無茶だ。それ以前の手続き云々、全て七星に抑えられている為、手が出せない。<br /> 一つは、かなり高度なESP研究の実験場として、学院を利用している事。<br /> 七星系列の生徒数人はESPを保有、しかもそれらが強度Bを超えると言うのだから、もはやこの学院は火薬庫と大差ない。攻撃性の強いESPともなると、一人で一個中隊程度とやりあえる力がある。<br /> 特に七星が力を入れているのは『他者感応干渉』である。古くから認知されていた能力ではあるが、その非人道的な力と多様性、万能性は、他者感応干渉と一括りにするには問題が多すぎる。<br />(……欅澤杜花達が追いかけていた結晶、七星二子の存在。支倉メイ等遺伝子複製体の動き、そしてこの大改変……七星市子を偽らせて、娘を蘇らせたい? いや、蘇ったという態を演出したい?)<br /> 七星の実験は、大体のところ七星一郎の第一子、利根河撫子に繋がるものであると考えていただけに、ここで市子の復活に足を踏み入れるのはいささか違和感があった。自分の知らない流れがあるのだろう。<br /> 七星に懐疑的であった欅澤杜花も、今は完全に改変の中にいる。<br /> 戦闘力的に申し分なく、味方になってくれるのならば心強かったのだが……自体は深刻にして繊細だ。下手に動きまわった結果、身元がバレて学院を追われるとなると、積み上げて来たものが無に帰してしまう。<br /> 上層部の判断……では遅い。最新の注意を払いながら、現状を確認するほかなさそうだ。<br />(ヤバいなあ……ヤバい……というか私の身元もうバレてるかも?)<br /> 感応干渉が効かない自分は、幸運であると同時に不幸だ。<br /> もし相手方から脳内を覗いてくればアウト、脳内を覗かれないよう拒んでもアウト。<br /> つまり感応干渉を使用する人間に出会ったらアウトだ。<br /> 最悪の場合……戦闘も止むを得ない。<br /> 綾音は鏡の前に立ち、その顔を両手でひっ叩く。<br /> 細目を見開き、髪止めを外して流す。暫くは演者だ。自分は何も知らない一般生徒であると、今まで以上に演じる必要がある。<br /> 過去、ここまで危機的状況に自ら飛び込んだ事があっただろうか。まだ武装集団の真中に突撃した方が、精神的にも楽である。<br />(……大陸で諜報してた方がマシなんて、どんな状態だ)<br /> 上からの申しつけで、大陸内部の日本企業の不正を暴く為に派遣された事がある。<br /> 当時はまだ都市部での戦闘が激しく、あちこちで重火器が飛び交うような様であった。<br /> 大陸で諜報活動中、綾音の元に仲間の首が送られてきた。日本語と中国語で書かれた脅迫文を、今も忘れる事が出来ない。<br /> 大陸国内の反日勢力と日本企業の結託。完全にクロであると決まった瞬間でもある。裏を取りきれず、いつまでも攻めあぐねていた為、事態が長引いてしまった。仲間の死が裏付けとなった皮肉である。<br />(ああ、やだなあ。ヒトゴロシとか、やだなあ)<br /> なるべくなら控えたい。なんだかんだと、この学院は好きなのだ。<br /> 都合六度目の高校生活の中、これほど充実した場所は無かった。<br />(だからね、やだったんだよ。七星関連は――)<br /> 状況は既に袋小路。この不安定な精神、あとで真衣子を弄って保とうと、綾音は溜息を吐いた。<br /><br /><br /><br />「ねえー、綾音ぇ」<br />「どうしたの、マイ」<br /> わざわざ外に出て神経をすり減らす事もないとして、その日は一日部屋にこもっていた。授業開始は二日後であるからして、それまでは無駄な動きを無くしたい。<br /> 二段ベッドの上の段から降りて来た真衣子は、寝そべって本を読む綾音の隣にピッタリとつく。<br /> 彼女と出会ったのは編入初日、隣の席に居たのが切っ掛けだ。<br /> 当時から物腰と思考と語尾の緩い子で、皆からお姫様のような扱いをされている。<br /> 本を閉じて真衣子に目を向ける。彼女はなんだかモジモジとしていた。<br />「ん?」<br />「綾音は、婚約者がいたよねえ?」<br />「あ、うん」<br /> そういう態である。<br /> 鷹無家という架空の家柄に架空の人物、架空の婚約者が存在する。<br /> 幸い七星の手は回っていないと見えて、今までバレた事は無い。それも当然で、そもそも一生徒の家柄丸ごと調べていたらキリが無い。疑われた時点で終わりなのである。<br />「……良い人ぉ?」<br />「そうだね。顔も悪くないし、人柄も良い」<br />「じゃあ、結婚しちゃうんだぁ……」<br />「婚約までは決まってるけれど、もう少し見定めるよ」<br />「でも、お家の勧めでしょうー?」<br />「私がこんなだしね。まだ若いし……」<br /> まだ若い、などと嘯き、なんだか惨めになる。見た目こそ確かに高校生だ。だが実質、30を超えた辺りから年齢を数えるのを止めてしまっている。<br /> 本部にある自身の個人情報をひっくり返せば実年齢も解るだろうが、もう自分でも把握していない。<br />「……綾音ってえ、異性愛者だよねえ」<br />「どうだろ。目についたのが男ってだけかもね。別段と同性愛に否定感はないよ?」<br />「……そうなんだあ。あのね、わたしね、同性愛者なのだけれどね」<br />「ああ、うん。そんな気はしてた。お見合い断ったのも、勧められたのが男だったから?」<br />「それもあるけどお。んと。学院に、好きな子が、いるからあ」<br /> やはりそうなのだろう。<br /> 綾音の記憶が確かならば、少し昔、真衣子のような女女した子はわざとらしいだとか、媚びているだとか、そういった言葉で女性達から否定的に受け止められていた。<br /> しかし時代は移り替わるもので、何時の間にか日本では同性婚が認められ、子供すら作れるようになっているというのだから驚きである。<br /> 綾音が本当に高校生だった頃では、考えられないものだ。<br /> 古い人には否定的な者が多い事も確かだが、町に出て見れば良く分かる。同性のカップルなど、人ごみに石を投げれば当たる程度にまで存在する。<br /> 価値感は移り変わり、真衣子のような子が女性達に認められるようになった。むしろ、人気であるとすら思う。口調こそ不思議な子ではあるが、常識的であるし、観神山女学院生徒特有の率先的な思考がある。<br /> それに彼女の包容力は評価すべきだろう。綾音も時折頼ってしまうほどだ。<br />「あと三カ月もしないうちに、卒業でしょうー?」<br />「そうだねえ……」<br />「私、その子に、まだ想いを告げて、いなくってえ……」<br />「なるほどね」<br /> 客観的に見れば、真衣子の告白を断る人間というのは、本当に異性愛者か、元から恋人がいるか、どちらかとしか思えない。もう少し自信を持って告白しても構わないと思うのだが、その心中は本人しか解りえないものである。<br /> もし断られたらどうしよう……この切ない悩みは、人類が産まれて以来変わらない。<br /> 綾音も昔は、そんなものに熱を上げた事があった。<br /> 同性であったし、まして敵対勢力の親玉の娘、というどうしようもないものだ。<br /> 思いだすと憂鬱になる。自分の恋の思い出など碌なものではない。<br />「同級生だけど、年上みたいな事いうよ。聞いて、マイ」<br />「うん?」<br />「経験上、誰かの手に落ちてしまう前に、さっさと手を突っ込んで手に入れるか、玉砕するかした方が、後悔も少なくて済む。あの時こうしていれば、では全部遅い。マイは可愛いから、大体の人は受け入れてくれると思うよ。もう少し自分に自信を持って、頑張ってみたら?」<br /> 真衣子はキョトンとしたまま綾音を見ている。確かに、同級生に諭されるような内容ではなかろう。<br /> しかし真衣子は暫く咀嚼するように頷いてから――行動に移った。<br /> 綾音は何が起こっているのか解らず、目を見開いたままである。<br />「――え?」<br />「んふ」<br /> 覆いかぶさられている。<br />「あれ?」<br />「あーやね」<br /> 両腕を押さえつけられ、身動きがとれない。無論、素人相手だ、解く方法は幾らでもあるのだが、何せ相手は一般生徒だ。そしてその目は好意的、というには過小評価と言えるほど好意的である。<br /> まずった。<br /> いや、何も気にしていなかった訳ではないし、気がつかなかった訳ではないのだが、自分は彼女が好意を寄せる人間の中でも、かなり低位置にいると考えていたのだ。<br /> 彼女に群れる子達は多い。皆が皆良家の子女である。こんな、穿り出せば意味不明なものしか出てこない、裏のある女に興味を持っているとは、流石に思ってもみなかった。<br />「あの、真衣子さん?」<br />「こういう女、嫌いかなあ?」<br />「嫌いじゃないけど。でも、何故私?」<br />「恋心って、何故何で決まるものだっけー?」<br />「確かに、違うけど。他にも沢山、貴女を慕う子がいるでしょ」<br />「いるけれどぉ。そんなに好き? じゃないかなあ? あのね、綾音」<br />「はい」<br />「婚約、嘘だよね?」<br />「――うわあ、なんか凄いの来ちゃったなあ……」<br />「実はね、もうね、実家には、好きな人がいるのって、言ってるのぉ。名前も、出して」<br />「あ、えっと。つまり、私」<br />「――婚約者さんなんて、居ないよねえ。私じゃあ駄目かなあ?」<br />「マイ、貴女――何者?」<br />「好き」<br />「んん?」<br />「やっと言えたよぉ。あのね、綾音、私、貴女が好き。凄く好きなの。ずっと貴女の事、見てたよお?」<br /> それはそれで不味い気がする。<br />「私、面白い人間ではないでしょう」<br />「……少しね、調べたの。綾音、貴女、普通の子じゃ、ないよねえ?」<br />「いやいや、普通の高校生だよ」<br />「鷹無の実家にも行ってみたの。そしたら、空き地ねえ?」<br />「うぐっ」<br />「鷹無の家業についても調べたけれどぉ、サイトも全部ダミーサイトで、実際の企業は存在していないみたい……」<br /> そうだ。<br /> そもそも深く探られる事など前提ではない。探られた時点で鷹無綾音なる人物は即座に荷物をまとめて逃げ出さねばならない状態にあるからだ。<br /> この二年半以上、一切素性を洗われるような事が無かったからこそ、今まで平穏無事でいたのだ。<br /> 探りを入れて来るならば七星だけだろうとタカをくくっていただけに、これは意外である。<br /> 本来ならば直ぐに連絡を入れて、逃げる準備だ。だが、状況が不味い。七星が何かしらをしでかしている最中に居なくなれば、即座に疑われる。<br />「それで、調べて、どうしたの?」<br />「どうもしないよお? ただ、貴女がどんな人なのか、気になっただけだもの……貴女は、お上の人、かなあ?」<br />「守秘義務があるの。詳しくは教えてあげられないし、足を突っ込んだ所で、貴女に得るものはないよ」<br />「ううん。そういうんじゃ、ないの。好きだから、そのあたりはどうでもよくって。ずっと考えてたの。もし、私が、貴女を好きだといって、貴女を縛りつけたら、凄く困るんだろうなって、そう思ったの。だからねぇ……言い出せなくて、ねえ?」<br />「確かに、困る。今困ってる。どうしよう」<br />「好きなの」<br />「うん……それは、十分、解った。でも、御存じの通り、答えてあげられる立場に、ない」<br />「あのね……」<br />「え、ええ。うん。なに?」<br />「……時折逢う、ぐらいでも……だ、だめぇ? あ、逢えないなんて、これから、卒業して、顔も、見れないなんてぇ……凄く、凄く、辛いからあ……あのね、都合の良い女でも、構わないの……」<br />「そ、そこまで自分を貶めなくても。私みたいな不安定で、しかもド年増で政府の犬に……あっ」<br />「お上の人なんだあ……公務員なんだねえ。年増ってえ?」<br />「はあ。ええと、もう、たぶん四十は過ぎてるんじゃないかな。精神的にも若いつもりだけど、ゲノムアンチエイジングのお陰で、高校生と言っても違和感ない容姿でしょう? 私なんて、戸籍も、見た目も、経歴も、全部嘘。こんな危なっかしいもの、近づかないのが吉だよ」<br /> ゲノムアンチエイジングは若ければ若いほど、若いままの容姿を保てる。<br /> 高校卒業後直ぐ就職した先で施されて以来、継続的な検診こそ必要ではあるが、ほぼメンテナンスフリーでこの容姿を保っている。詳しい事は綾音にも解らないが、ゲノムアンチエイジングの他に、テロメアを弄っているのだという。細胞老化が相当に遅くなり、理論上は五百歳まで生きられるという。<br /> 勿論そんなつもりもないので、途中で命を絶つだろう。<br /> そうだ、恐らくもう四十は過ぎている筈だ。こんなに若い子達の中で過ごしていると、感覚がマヒしてしまう。何もかもが偽りの自分は、あの時、もう恋などしないと誓った。<br /> だから、こんな可憐な乙女を、面倒くさい物事に巻き込みたくは無い。<br />「……でも、その、性格も、精神も、嘘なの?」<br />「それは、違うけれど」<br />「なら、良いと思うの。私、全然きにしないよー?」<br />「ねえ、マイ」<br />「う、うん」<br />「もう少し、時間を貰えるかな。今ね、少し面倒な事になっていて。落ち着いてから、返事をしたい。あと、私の事は誰にも、口外しないでほしい」<br />「……解った。でも、あの」<br /> 真衣子は少しだけ悲しそうな顔をしてから、目を瞑る。<br /> 参った。<br /> 本当に参った。そこまでされてしまうと、引くに引けない。<br /> 綾音は仕方なく、突き出した唇を合わせる。<br />(嗚呼、人とキスするなんていつぶりだろう……やわらか……良い匂いする……あ、胸もやわらか……てか、うわ、そんな、舌いれなくても……)<br />「んっ――んっ、ふ……ちゅぐっ」<br />「ぷえ……んふ。えへへへ……」<br /> 彼女の好意は、純粋に嬉しい。<br /> こんな歳になって、まさか高校生にときめくとは思わなかった。昔の綾音ならば、有無を言わさず突き放しただろう。<br /> ただ、一人が長かった所為あるだろうか、人恋しい心ばかりは、抑えようがない。焼きが回っている。<br />(今回無事だったら……引退かなあ)<br /> ぼんやりと、神藤真衣子が隣にいる人生を想像する。<br /> 戸籍を繕って、溜めこんだお金で家を買って、子供も作れるだろう。幸福な人生なるものが、なんとなく、漠然と思い浮かぶ。<br /> まあ――それもこれも、全ては今回生き残れたら、であるが。<br /><br /><br /><br /><br /> 資料をひっくり返す。資料と言っても大体が電子ペーパーだ。自動削除機能こそついているが、まとめて置いておく訳にも行かず、部屋中に散らしてある。三センチ程度の三角形デバイスであるから、隠す場所には苦労しないのだが、かき集めるのが大変だ。<br /> 粗方必要なものを座卓に並べ、一つ一つ精査して行く。<br />(これは一年次、春から夏までのもの。七星関連は別のにまとめなおしたから……)<br />(なんだってクラウドにまとめておかないんだろ……無線データハックされる心配の方が大きいのかな……)<br />(……欅澤杜花の資料か。どれ……確実に七星に、何かされてるとは思うんだけど……何をされたのかハッキリしないんだよねえ。あの強さは脳改造も有り得ると思うけど、乳幼児に対して施したとすると……七星なんでもありだなあ)<br />(えーと。あった。七星の遺伝子複製体について)<br /> 真衣子に告白された翌日、綾音は過去のデータを洗い直していた。現状どう動けば良いか解らない以上、改めて自分の置かれた状況を省みて、露見率を低めねばならない。<br /> 完全に袋のねずみである綾音は、指示が無い限り任務達成よりも生存が優先だ。<br /> 裏社会でも、七星は人を殺さない事で有名だ。何事も穏便に済ませたがるのである。<br /> ただそれは七星に対して害を及ぼす前の段階の交渉結果であり、害を及ぼした後の七星は烈火のごとく、筆舌に尽くし難い残忍さで迫る。<br /> 特に大陸人、売国奴にはもはや慈悲どころの話ではない。関わった人間、家族丸ごとこの世から消し飛ばされる。大陸系テロリストに娘を殺された、七星一郎の積年の恨みを体現するようなものだろう。<br /> そういうものを鑑みて、果して、自分がどの位置にいるのか。それが問題なのだ。<br /> 鷹無綾音の主任務は七星の不正を暴く事にあるが、具体的な内容までは決まっていない。<br /> 遺伝子複製体の運用やESP実験の裏を取り、その情報を本部に送る。綾音の諜報活動によって、約五人が遺伝子複製体として学院に入り込み、一般生徒を装っているという事実を突き止めている。<br /> 特にここ数年はESP実験などに力を入れている様子だが……被害者を見ない事から、ESPの中でも被害が把握し難い、生物干渉、自然干渉系が中心の実験なのであろうという事は予測できた。<br /> 現在それを行使する人間は七星二子と支倉メイ。七星市子は、一応鬼籍である。<br /> ただ、その超能力を行使したからといって、犯罪として立件出来はしない。法律にそんな文言はない。遺伝子複製体とて、戸籍がある限りは歴とした日本臣民なのである。<br /> 故に、複製体やESPでの探りは既に諦めて、データはまとめて隠してある。本部にも送信済みであるからして、これは全て自分用のログなのだ。<br /> その中から、自分が、七星の逆鱗に触れているかいないか。<br /> そして今後、もし遺伝子複製体等のESP攻撃になどあった場合どう逃げ切るか。<br /> 綾音は普段使わない領域の脳まで酷使し、データを読み漁る。<br />(……二子は、どうやら欅澤杜花との接触で、感応干渉の使用頻度を下げたみたいだね。やはり、好きな人の頭の中を覗くのは憚られるのかな。いや……でも、七星市子は度重ねて使ってたみたいだし……姉妹とはいえ、その辺りの感覚は違うんだろうな)<br />(支倉メイは、大丈夫かな。あの猫に細工施したのもあの子っぽいし……どちらかといえば、七星に懐疑的なのかもなあ。ニンフォマニアだし……)<br /> 幾つか人物データを脳内の記憶と照合して行く。<br /> その中で一人の遺伝子複製体が目にとまった。<br />(戻橋百刀……二子の本名が一条なだけに、なんか怖いな)<br /> 高等部一年、戻橋百刀(もどりばし ももと)。<br /> 七星一郎が目指す利根河撫子復活計画、確か七星内部ではプロジェクト『ヌル』とあった。撫子計画の一人である。<br /> 学院に入ってくる遺伝子複製体等は皆顔を変える為、誰ひとりとして撫子には似ていない。この子も例外に漏れず、まさに他人と言った面相だ。<br /> しかし例外なく美人か可愛く作っている辺りが、七星等の美意識を感じる。<br /> 百刀はオリジンの撫子に比べると、ずいぶんと貧相な体つきだが、スレンダーと言い換えた方が良いか。切れ長の目にショートヘヤー……早紀絵よりもいささか耽美な雰囲気だ。<br /> タチ不足に悩む観神山女学院では貴重な存在だ、当然彼女自身人気がある。<br /> 過去の調査の結果、この子は感応干渉は持たないとされた。<br /> しかし別種の、攻性ESPを保有しているのではないかと考えられる。そのつけられた名前も能力を見据えたものだろうか。<br /> 彼女が特殊な能力を持っている事は、事例が証明している。<br />(改装工事中の校舎内で運悪く事故。飛んできた鉄材を防ごうとして両手に当たるも……無傷。頑丈で良かったと笑っていたが……と。物質変化形の能力者か。鉄分か、炭素かな。いや、自然干渉系もあるか)<br /> 現在此方が把握している限り、ESPには大分類として四種類、小分類として数十種類ほど存在する。<br /> 大分類は『生物干渉』『自然干渉』『超常行使』『特殊行使』とされている。<br /> 生物干渉は解りやすく、生命体の脳や肉体に干渉するタイプで、他者感応干渉もこれに分類される。<br /> 自然干渉は漫画やアニメに出て来るような、火や水、雷などを発生させるタイプである。<br /> 超常行使は、所謂念動力、物質変化、遺伝子変化などといった、非自然的、物理法則を捩じ曲げるものが大まかに分けられている。<br /> 特殊行使は千里眼や未来予知、殆ど行使者自身を対象とするものが多く、分類不明も此方に属する。<br /> どれが一番面倒くさいか、と言われると相性にもよるが、鷹無綾音の保有するESPからすると、感応干渉が一番厄介であることから、主眼はあの二人、特に二子となるだろう。<br />(しかし……どうだろうか。奴は動かないのだろうか。二子は市子を演じるので精一杯だろうし……まだ脅威度は低いけれど……)<br /> 頭の中に、ぼんやりとあの女の顔が浮かぶ。<br /> 七星市子のお付きのメイド、兼谷である。<br /> 彼女が直接何かしらのアクションを起こしたという事例はない。しかしプロジェクトヌルの統括役である可能性が示唆されている為、今現在原因不明の感応干渉拡散状態の中、彼女が現れない保障はない。<br /> 何せ七星市子のお付きだ。<br /> 護衛、工作、諜報その他諸々の為にも、ESPの一つや二つ、行使してもおかしくはない。そして白兵戦においては欅澤杜花級とも言われている。なるべく近くにはいてもらいたくない相手である。<br />(……さて、少しやるかな)<br /> 資料を頭に叩き込み、電子ペーパーを一つずつ潰して行く。破片を辞書カバーにぶち込み、綾音は立ち上がった。ベッドの下から運動着のように着やすい衣服を取り出すと、ぱっぱと着替える。<br /> 今日は真衣子は外に出ている。夕方には戻ると聞いていた。部屋を出てドアに外出中と札をかけ、そのまま寮の外に出る。裏手へ周り、人気が無い事を確認してから、綾音はスイッチを押した。<br />(確か寮の正面や裏には監視カメラもないし……よし)<br /> 寮の入り口に近づいてくる生徒に対して手を振る。明らかに視界に入っている筈だが、反応は無い。約三十センチの所まで近づいても、生徒は無反応だ。<br />「……ん?」<br /> 天原アリスが小首を傾げる。衣ずれの音を察知したのだろう。しかし何もその視界には映って居ない筈だ。<br />(順調。いやしかし、こんな近くで観ても、この子ほんっと綺麗だなあ……)<br /> 仮想映像反映技術を応用した光学式特殊迷彩服。所謂ステルス迷彩だ。<br /> 例え七星の工作員が、近辺を嗅ぎまわる賊を気にしていたとしても、対象物が見えない限りは何もできない。特に感応干渉など、相手を視界に入れて居ない限りは余程の高位能力者でない限り、能力行使は不可能である。<br /> 嗅ぎまわるならこれだ。露骨に使いすぎて逆に露呈する、なんて事もあるだろうが、何かかしら探りを入れる場合は良く用いている為、信用度は高い。<br />(まずは二子について回ろうかな)<br /> 本日は高等部第二校舎の第一談話室で屯していると聞き及んでいる。以前市子が妹以外の生徒を相手にする場合使っていた場所だ。<br /> 綾音は三年生である為、主に第一校舎が活動場所となるが、此方には図書室がある為良く出入りする。いつものように何の躊躇いも憂いも無く、普段通りに校舎へと入り、廊下を行き、階段を上がって行く。<br /> 三階の第一談話室に近づくと、そこでは複数人の笑い声が聞こえた。以前の妹達がいるのだろう。<br /> そうだ。彼女達もまた記憶を改竄され、まるで継続して市子が生きているかのように思わされているのだろう。本当に、信じられない規模である。<br /> 第一談話室に女生徒が入るのを見計らい、その背中について行く。スルリと生徒の脇を抜けて中に入ると、窓際には、綾音が記憶する、懐かしい光景が広がっていた。<br /> どうやら欅澤杜花は見当たらない。満田早紀絵、岬萌辺りが主要人物だが、そこには先ほど資料を再確認したばかりの戻橋百刀がいる。珍しい組み合わせだ。<br /> そもそも、あの満田早紀絵と戻橋百刀が同席している事に、果てしない違和感を覚える。市子……二子を囲う生徒達も、視線がそちらに行きっぱなしである。<br /> 綾音は物音を立てないように、長年培った気配遮断を駆使し、生徒達の近くに居座る。<br />「ところで市子御姉様。こんなこと、ここで聞いて良いものかとも思うのですが」<br />「ええ、なんでも聞いて?」<br />「えっと、その。杜花様とは……うふふ、最近、如何ですの?」<br />「あら、無粋な子ね」<br />「し、失礼しましたわ」<br />「うふふ。嘘よ。その辺りは、そうね、早紀絵辺りが詳しいんじゃないかしら?」<br />「あ、何それ。市子先輩って私にはキツいよね?」<br />「いいじゃない。貴女も愛して貰えば」<br />「ねえ、市子様」<br /> やり合う市子と早紀絵の間に、百刀が割って入る。ハスキーボイスがなかなか耳に心地良い。あれの犠牲になる子は多いだろう。耳元で囁かれたとなれば、綾音とて身を震わせるだろう。<br />「何かしら、百刀」<br />「冬休みの間、杜花さんどころか、早紀絵さんやアリスさんとも、距離を縮めたみたいだね。杜花さんばかり見ているものと思っていたから、少し意外だよ」<br />「そうかしら。私、早紀絵も好きよ、ねえ?」<br />「そ、そんな風に言われるとなんか、調子狂うなあ……まあほら、何? 寛容になるのは良い事じゃない、百刀。貴女だって彼女多いでしょ」<br />「ふふ。君程無節操じゃないけどね。ほら、アタシ達みたいな」<br /> そういって、百刀が早紀絵の手を取る。<br /> 周りの生徒から黄色い声が上がった。綾音も思わずあげそうになる。<br /> いや、実に絵になる。ボーイッシュで美形な二人が並んで手を取ると、ここまで耽美なものだろうか。顔が近いのがまた良い。<br /> 綾音は自分が何をしているのか、少し解らなくなってくる。とはいえ貴重なシーンだ、目に焼き付けておこうと、その動向を見守る。<br />「どちらかといえば、オトコノコの役割が多いと、ね? そういえば早紀絵さん、アタシには手を出さないよね」<br />「後輩君、少し教えてあげよう」<br />「何?」<br />「『彼女層』が被るんだよ……私の恋人数人、同時に貴女の恋人だよ」<br />「あー……あらら。そっか。早紀絵さん、配慮してくれているんだ。なんだか悪いね?」<br />「おっと。真性のタチはこれだから。だから言ったでしょ、市子先輩。この子と私が同席だと食いあうって」<br />「いいんじゃないかしら? 見ていて、とても耽美な気持ちになるわ。アリス辺りに見せたら、さぞ喜ぶと思うわよ?」<br />「アリスさん――ね」<br /> その名前を聞いて、百刀の表情が少し陰る。<br /> 天原アリスについて、何かしら思う所があるのだろう。<br /> 百刀は少しだけ首を振り、また元に顔に戻る。他の子達も気にしていない様子だ。<br />「あら、こんな時間。私、少し用事があるの」<br /> そういって小さく手を叩き、二子が席を立ちあがる。元から声も似ているが、市子の仕草を真似る彼女は、身長さえ除けばほぼ市子そのものに見える。<br />「では、今日はこれでお開きかしら。市子御姉様、また呼んでくださいな」<br />「ええ、ごめんなさいね。ああ、早紀絵、貴女はこれからどうする?」<br />「んー、一度白萩に戻るよ」<br />「百刀は?」<br />「陽光に戻ります」<br /> 陽光、というのは第二寄宿舎の別名だ。白萩程ではないが、こちらもかなり年季の入った建物である。<br /> 皆がぞろぞろと動き始めるのに合わせ、綾音も行動に移る。目標は二子であるが、百刀も気になるところだ。一先ずは二子を追おうと、彼女の後ろをつける。<br /> 二子は廊下に出て、そのまま校舎の外に出てしまう。どこへ向かうのかと訝っていると、やがて人気の無い方向へと歩みを進め始めた。<br />(そっちに施設はないのに……旧校舎かな)<br /> 少し距離を取り、彼女の進む先を観察する。そして予想通り、彼女は旧校舎の重い扉を開いて中へと消えて行った。<br />(なるほどね……まあ、これだけ大規模の改変、一人じゃあ無理だ。ともなると、やはり洗脳兵器の投入を疑うべきだし、それは人目につかない方が良い。物置でしかない旧校舎なら、教師すらまず入らないし、入らないよう脳味噌を改竄しておけば、困る事もない)<br /> それは良い。予測した範囲だ。しかし問題は彼女達の主目的である。<br /> 七星が観神山女学院や他の女学校に利根河撫子の遺伝子複製体を送り込んでいる事実は既に解りきっている。七星一郎の目的が、また利根河撫子の復活ではないかというのも、目星は付いている。<br /> 観神山女学院はそのモデルケースとして存在し、ここでの遺伝子複製体及び市子二子などの行動を把握するのも任務の一つだ。<br /> だが、復活とは言うものの……遺伝子複製体を作りあげた時点でそれは復活ではないのか。<br /> データを収集して本人に近づけているのでは、という憶測もあるが、では何のためだろうか。そこに疑問を抱くのも、全ては七星市子と七星二子の存在故である。<br /> 本部が把握している撫子の情報を基にすると、市子は正しく撫子の生き写しだ。<br /> 最初は市子が遺伝子複製体であろうと睨んでいたが、調査結果で彼女は七星家の実子である事が証明された。そして市子は自殺、世間的には伏せられ、死亡届も出されていないが、葬儀は行われたという。<br /> 撫子と同様の死因である。<br />(で、遺伝子複製体ならば、その結果も納得出来た。遺伝子が自殺を促したというのなら……オカルトの範疇だけれど、有り得ない話じゃない。でも彼女はオリジンだ。オリジンが一番撫子に近いなんて、おかしな話だし……ついで二子が投入された。二子も実子だけど……)<br /> 何もかもがちぐはぐである。<br /> では何のために、日本各地に遺伝子複製体が散っているのか。<br /> 何故一番撫子に近かった市子が遺伝子複製体ではないのか。<br /> 何故二子が学歴まで詐称して投入されたのか。<br /> そして何故、今こうして記憶改竄までして、二子を市子に見せかけているのか。<br />(ま……それを調べるのが仕事だけどさあ……)<br /> 辺りを警戒しながら、綾音は旧校舎に近づく。<br /> 扉に手をかけたところで――綾音の第六感が警鐘を鳴らした。ふと視線を上げる。<br /> 監視カメラだ。良く眼を凝らす。<br />(……あ、やべ)<br /> 即座に離れる。型から見るにサーモグラフィ付きだ。明らかに映り込んだ。心の中で舌うちし、旧校舎から飛ぶようにして地面を蹴る。<br />(学校備え付けじゃない。そりゃそうだよねえ、七星の拠点だもんねえ。って馬鹿野郎ぉッ)<br /> 彼等の行動は早い。やがて旧校舎内からバタバタと音を立てて、人が走ってくるのが解る。<br /> 一人、二人、三人、四人か。その立てる音、足音の重さから、相手が完全武装である事が容易に汲み取れた。<br />(冗談でしょ、学院に七星の私兵団入れてるのか、コイツ等ッ)<br /> 有り得ない事も無いが、可能性としてはかなり低い確率であった。<br /> 綾音は少し侮っていた。今の今まで、学院で大っぴらな行動をとらなかった七星を舐めていたのかもしれない。今回ばかりは七星も本気の様子である。つまり、彼等が目指していた目的が、目前にあるのだろう。<br /> 七星の私兵団ともなると、国防軍の特殊部隊よりも厄介な装備で有名だ。<br /> 兎に角SFのような武装で攻めて来る。国軍にすら下ろしていない武器だというのだから、情報も何も無い。<br /> 綾音はそのまま草陰に飛び込み、相手の出方を確認する。<br /> 予想通り四人。全員黒いメカニカルアーマを着こんでいる。そんな目立つもの、学院で着る奴があるか、とも思うが、そもそもここには誰も近づかない。<br />「いたか」<br />「映像には実物は映らなかった。ステルスだろう。警戒」<br />「軍の諜報部か?」<br />「さてな。全員切り替え」<br /> 現在の近代化された特殊部隊の装備といえば、特にセンサー群が大変優秀である。<br /> 取りつけられた高解像度カメラが三百六十度周囲空間を逐次把握、敵味方を識別し、放たれるソナーによって生物の有無を判断する。<br /> この技術により生存率は飛躍的に向上、特に日米合同特殊部隊はそれら最新鋭の装備が投入され、戦場では飢えた狼という異名で畏怖されている。<br /> コイツ等もそれに近いものだろう、と綾音は直ぐにその場を離れる。こんな近くにいては直ぐ発見されかねない。<br />(やれない事もないけど、やってどうする、だなあ)<br /> しかし迂闊だった。<br /> 綾音は安心できる距離まで離れた後、ステルスのスイッチを切る。そのまま運動着のような姿になる為、さほど違和感はない。辺りをランニングする生徒と言えばそうである。<br />(旧校舎に生徒が近づく事自体がまず有り得ないんだ。そこにステルス着こんだ奴がいたら、そりゃ警戒するわね……うわあ、どうしよ、ありゃ困ったなあ……)<br /> 倒す、と言っても、倒してだからどうするのだ、という話である。状況を悪戯に混乱させ、個人特定されて良い事はない。旧校舎が相手の拠点であると解った以上、調べない訳にもいかないが、現状それは難しい。<br /> 自分の任務は破壊工作ではない。洗脳装置を破壊しても意味は無いが……洗脳装置をこんな場所で用いている、という証拠を得られたのならば、上層部も大喜びだろう。<br /> ……警備員を全て排除し、洗脳装置の証拠を奪取、そのまま雲隠れ、という選択肢もあり得る。しかしなるべくなら取りたくない方策だ。上がやれと言うのならばするが……後で判断を仰ぐ他あるまい。<br />(……取り敢えず、何食わぬ顔でご飯食べよう。それがいい)<br /> 丁度中央広場にまでやって来た所である。危機的状況に陥りながらも平然とした振りをするのも、もう慣れてしまった。<br /> 食堂にまで赴くと、いつものメニューを頼んで、奥の出入り口近く、窓際から離れた場所に陣取る。こんな場所で狙撃される訳もないし、武装集団が襲ってくる訳でもないので、警戒したところで意味は無いのだが、習慣だ。<br /> 今後どう偽って暮らすか、そればかり頭の中で思い描いていると、近くの席に天原アリスがやって来たのが解った。手を振ると彼女も答える。彼女一人かと思いきや……意外な人物と同伴である。<br />「戻橋さんから声をかけてくるなんて、珍しい事もありましたわね?」<br />「なんだか最近は、アリスさんと食事をとる事も少なくなったなと思ってね」<br />「ええ、そうですわね」<br /> 陽光に戻ったと聞いていたが、直ぐ出て来たのか。百刀はアリスの前に座り、余裕の笑顔である。<br /> 先ほどアリスの名前を聞いて、何か思う節があるような仕草を見せたが、百刀はアリスに気があるのだろうか。だとすると、前途多難である。<br /> 天原アリスは小等部以来ずっと市子、杜花、早紀絵について回っている。市子に対しては一歩引いた立場で、まるで神でも崇めるかのような素振りを時折見かけたが、杜花、早紀絵については純粋に好意を寄せているだろう。市子一筋であった杜花はまだしも、早紀絵に気に入られている彼女だ、百刀がアリスに好意的であるとするならば、その壁は果てしなく高い。<br />「でも、良いんですの? 彼女さん達、気にするでしょうに」<br />「他の子と食事をしているくらいで声を荒げるような子がいたとしたら、アタシも参っちゃうなあ。アリスさんこそ大丈夫かな。市子様達がいるでしょう」<br />「ふふ。心配無用ですわ。他の子と食事したからと、五月蠅い声を上げる人達じゃありませんもの、知ってますでしょう」<br /> アリスには余裕が見て取れる。冬休みの間、彼女達周辺は以前に増して距離を縮めたと聞く。<br /> ……その冬休みの間、さて、親交を深めたのは、市子か、二子か。そういった問題を考えると、物事の中心にいる杜花達はこの学院で最も理不尽な扱いを受けていると言えよう。<br />「まあでも……アタシがアリスさんを取ったとしたら、早紀絵さんは怒るかも、ねえ?」<br />「あら、どうしてかしら」<br />「彼女、アタシの事は苦手みたいだし。ねえ、アリスさん」<br />「はい?」<br />「アタシとも、お付き合いしてみない?」<br />「――あら、あららら」<br /> いやあ、参ったなこりゃ、と綾音は頭を掻く。<br /> スープを啜りながらチラリと視線を向けると、アリスと眼があった。『誰にも言わないよ』と眼だけで答える。何せ同寮生だ。噂などすぐ広まる。ここで綾音が喋らずとも、事が進めば即バレるだろう。<br />「戻橋さんが、私にそんな気持ちを抱いていたなんて、考えもしませんでしたわ」<br />「そうかな。なるべく君と機会を持てるよう頑張ったのだけれど、やはりいつも杜花さんや早紀絵さんが隣にいるからねえ」<br />「他に彼女が沢山いるじゃありませんの。私など見ず、その愛は他の子に分け与えてくださいまし」<br />「――……」<br /> 天原アリスという人物は、相手に告白されてここまで余裕に居られる子だっただろうか。その受け答えはなんとも堂に入った、大人の回答だ。対する百刀は、プレートを突きながら、半ば放心状態だ。<br /> あのプレイガールにして、そのような事もあるのだなと、多少驚く。余程好きだったのだろう。しかし相手が悪い。<br />「……そ、そっか。悪いね、昼間から、こんな話をして」<br />「いいえ。早紀絵が隣にいると、良く有る話ですわ」<br />「早紀絵さんは、いいの? アタシなんかより、彼女が沢山いるみたいだし、それに、杜花さんだって」<br />「ふふ。もう、通りすぎてしまいましたの、そういうの」<br /> ああ、なるほどと、綾音は心の中で頷く。<br /> 元から幼馴染であるし、あの三人(四人)は、仲が良いなんて言葉で表す関係ではなかった。冬休みにそこが更に発展したのだろう。下手をすれば将来についても決まっている可能性すらある。<br /> これでは百刀は勝ち目が無い。攻勢に出るならば、もっと早くするべきだっただろう。<br /> 何事も、終わってしまってからでは覆しようが無い。<br /> 綾音も過去、何度となくそのような目に逢って来た。<br /> それから百刀は話を打ち切り、何事もなかったかのように世間話を始めた。この切り替えにポーカーフェイスは、流石訓練されたスケコマシである。だが心中穏やかならざるであろう。<br /> 食事を終えた二人は直ぐに別れてしまった。綾音は百刀の後ろについて行く。<br /> 丁度木陰にあるベンチに腰掛けたかと思うと、彼女はおもむろに此方を見た。<br />「お話があるなら、聞くけど?」<br />「いやあ、よくアリスなんて手を出そうと思うね、戻橋さんは」<br />「百刀でいいよ。と、アリスさんにも言ったんだけど、ずっと戻橋さんだったよ。なんとも、距離を置かれて警戒されちゃって」<br /> 遠慮なく隣に座る。彼女は自分から距離を詰める。切れ長い目がチラリと動き、綾音の顔を窺う。<br />「君は三年の、鷹無さん」<br />「ええ、どうも」<br />「結構人気だよね。背高いし、顔も良いからかな」<br />「値踏みされるような評価を面と向かって受けたのは初めてだねえ」<br />「それで、どうしたの」<br />「恋人は沢山いるのに、それでもなおアリスに声を掛けたのだから、余程好きだったんだろうなあって思ったから。私もね、最近女の子に告白されちゃって。良い返事返してあげてないんだよ」<br />「過去、アタシから告白して断られたなんて、何回あったかな。一番嫌われたくない人に否定されちゃった」<br />「少し狙う相手のレベルが高すぎたかな。それに、最近ますます、あのグループは仲良くなったでしょ」<br />「うん。もっと早く、声をかけるべきだったかな……鷹無さんは何で、答えてあげないのかな?」<br />「いやほら、私一応婚約してるんだよね、外の人と」<br />「なるほど。相手も承知済み?」<br />「婚約破棄して? みたいな感じに可愛く迫られちゃってねえ……」<br />「ぷっ、あはは! そりゃ、困るね。勢いで破棄しちゃいそうだ」<br />「ま、一年からの付き合いで、相手の事もだいぶ知ってるし、可愛いし……今家のゴタゴタがあるから、そっち片付いたら、改めて答えようと思って」<br />「……うん。なるべく早く答えてあげて。待っている間、きっとその子は辛いだろうから」<br /> ……確かに。確かに、これは『ク』る。<br /> 絶世の美男だ美女だと言われるような人間には過去逢って来た。そんな人間に口説かれた事もある。しかしながら、この利根河撫子の遺伝子複製体は、何か違う。<br /> なんとも寂しそうな顔で俯く。その憂いを含んだ顔を此方に向けると、すがるような目線が心をくすぐる。学院の女子等が彼女を持て囃す理由が実感出来る。<br />「ふふ。顔紅いね。アタシも悪くないでしょ、鷹無さん」<br />「甘い言葉を囁かれたら、コロッと行くかもね。で、百刀さんや、アリスは諦めるの?」<br />「まだ。まだ、卒業するまでは、何度でも」<br />「へえ。情熱的。そんなに慕う、理由があるんだよね」<br />「ああ、少し、理解されないかもしれない」<br /> そういって、百刀は立ち上がって空を見上げる。<br /> 舞台俳優が物憂げに天井を見上げるように、彼女の動き一つ一つが、なんとも絵になる。<br />「アタシは、あの人に出会う為に産まれて来たんだって、そう思ったんだ。オカルト主義じゃないけど、前世に因果があると言うのならば、きっとそうだと思う。彼女の手を触れた時、雷に打たれたんだ。彼女が、堪らなく愛しい。そういう事、無いかな」<br />「――いいや。あるよ。彼女は、死んでしまったけれど」<br />「……辛い想いをしたね。もしかして、ずっと引きずっている?」 <br />「婚約もノリ気じゃないんだよねえ。むしろそれより、告白してくれた子かな。凄くうれしいし、可愛いと思う。好きというのならば、間違いなく好きだと思うよ。でも、過去の事を考えると、上手く答えてあげられなくってねえ」<br />「何事も付き合ってみて、判断すべきだと思う。そう、多少付き合ってさえ貰えればなあ」<br />「あの家柄、あの容姿、更には世界二位の大財閥の娘と、運輸王の娘、格闘怪物までついて、さてどうだ」<br />「ハードル高いと、燃えるよ」<br />「情熱的だなあ。ま、頑張りなさい頑張りなさい。それじゃ」<br />「うん。ああ、鷹無さん。そういえば、白萩だよね」<br />「そうだよ」<br />「今日から面白いのが指導員になる筈だ。市子様のお付きのメイド」<br /> 綾音は……ほんの少しだけ、顔を歪めた。市子のお付きのメイドといえば、兼谷である。<br /> それは良い。いや、良くは無いが、だが何故今、それをこの子は、綾音に教えたのか。<br />「ああ、兼谷さんかな。七星、凄い事するなあ」<br />「本当にね。アタシも関わり浅くない人だから、宜しく言っておいて。それじゃあ」<br /> 百刀はそういうと、何事も無かったかのように去って行く。<br /> 心臓が跳ね上がった。恐らく、本当に白萩繋がりだから、という理由で教えたのだろう。警戒心が強くなりすぎて、顔に出るまでになっている。<br /> 諜報員として有るまじき己に反省しつつ、寮への道を辿る。<br /> それにしても――戻橋百刀という少女は、肝が据わっている。彼女自身も七星系列の子として預けられて育ったはずだ。その親玉の女を取ろうと言うのだから相当である。<br /> 余程好きなのか……彼女の発言が引っかかる。<br /> 過去の因果。<br /> 彼女は利根河撫子の遺伝子から作られている。遺伝子の彼方にある記憶の海に、天原アリスに引きつけられる理由があるのかも解らない。<br />(『庭園の乙女達』だったな。あの事件に関わった子達、利根河撫子、欅澤花、組岡きさら、大聖寺誉……今現在、それに当てはめるとすると、あの子達は全部……)<br /> 恐らく、市子周辺に居る子達は何らかの改造を施されたか、メソッド=プログラムによる記憶の刷り込みが行われたであろうとは推測されている。<br /> 大聖寺誉に当たる天原アリスは、辿ったところで大聖寺には行きつかないものの、七星が度重ねて天原と繋がりを持とうと場を設けた事は知られている。<br /> その執拗さは異常だ。本来ならすり寄る側は天原なのである。<br />(ともなると、遺伝子複製体ならずとも、遺伝子は弄られていて、刷り込みも、有り得る。戻橋百刀が天原アリスに恋慕を寄せるのも……どこまで知っているのか、知らないのか。知らない方が幸せだろうけど……百刀が兼谷とも懇意であるとすると……知っているのかな)<br /> 人の人生、人の運命、人の感情。<br /> こういったものを掌の上で転がす、七星という巨大な共同体は、正しく人類の敵である。だが生憎、七星失くして日本国の防衛も、社会秩序の安定も、経済活動の活性化も、有り得ないのが実情なのだ。<br /> 自分は、ほんの少しでも七星の強権をそぐためにある。<br /> 真の民主主義国を目指すにおいて、彼等はあまりにも帝国主義的だ。<br />(公務員だからねえ……全く、七星様様だわ)<br />「ただいま戻りました」<br /> 寮に入る。そして目の前に居る彼女に対して、綾音は一瞥した。<br />「あら、兼谷さんじゃないか。市子に用事?」<br />「これはこれは。覚えていてくださいましたか、綾音嬢」<br />「うん。どしたの?」<br />「ええ、私は今期から、ここの指導員として配属されました。宜しくお願い致します」<br /> 深々と、彼女が頭を下げる。<br /> 兼谷だ。<br /> 一番来て貰いたくなかった彼女である。<br /> 恐らくは、遺伝子複製体等の統括。七星の計画の親玉。<br /> そして洗脳装置の、主導的役割を負っている人間だろう。<br />「ところで綾音嬢」<br />「うん。何?」<br />「二子お嬢様は御存じありませんか? お姿が見えないのですが」<br />「……二子? はて、誰だろう、それ」<br />「――失礼。思い違いでしたね――ああ、肩に塵が」<br />「うん?」<br /> 心臓が早鐘の如く鳴り響く。<br /> 想像通り――こいつはヤバすぎる。<br /> 肩に兼谷の手が触れる。<br /> どうする。どうする。どうする。どうする。どうする。<br />「取れました。糸くずですね。鷹無のお嬢様が、身だしなみをキチンとしませんと」<br />「はは……これは失礼。ありがとう、兼谷さん」<br />「いいえ」<br /> そういって……兼谷は頭を下げ、去って行った。<br /> 胸を撫で下ろす……には、早い。気がつかれているだろうか。<br /> 二子を知っているかと、わざわざ聞いて来たのだ。疑われている可能性はある。<br />(……マイに、答えを出さず消えなきゃならないかもなあ……)<br /> いいや。<br />(――これが最後だ。応えてあげなきゃ)<br /> 無事に終えて帰る。鷹無綾音を正式に戸籍として登録し、その名で彼女と生きて行く。<br /> 自分は十分に戦い、十分に国に尽くした。そのぐらいの幸福、許してもらいたい。<br /> 去って行く兼谷の背中を見送り、自室へ引きこもった。<br /><br /><br /><br /> ……。<br /><br /> ただ、目の前で起きた光景に立ちすくむ。周囲では、男の取り巻き立ちが笑っていた。<br /> 何もかも、身から出た錆なのかもしれない。自分があの時、ほんの少しだけ上手く立ち回れていたのなら、自分があの時、ほんの少しだけ上手く引きとめられたなら、こんな事にはならなかっただろうに。<br />「いやあ、悪い。娘に愛情なんぞこれっぽっちも無くてな。しかしお前、良い顔しやがる。人間ってえのはよ、感情極まったところにこそ価値があるんじゃねえかと、長い間こんな社会に暮らしてて、想うわけだよ。ただ平然と素知らぬ顔でお国に仕えて、なんか良い事あったか? ねえよな、この通りだ。お前がもう少し激情に駆られて、もう少しムキになってたら、こんな事にはならなかったかもな?」<br /> 上海の船着き場、古びれた倉庫の一角で、それは行われていた。<br /> 治安維持軍の監視を掻い潜りながら、電子ドラッグ及び電子ウィルスの横流しをしていたのがコイツ等である。彼等は上海の賊と組み、日本企業という隠れ蓑の中で、私腹を肥やし続けていた。<br /> 何かと忙しい治安維持軍に変わり、こうして派遣されてきたのだ。なかなか尻尾を出さず、攻め切れずに居た所で、仲間の首が送られてきた。<br /> この会社の社長の娘に近づき、情報を引き出そうと考えていた。事は上手く運んだが……彼女との交流の中、綾音は……恋をしていたのだと思う。<br /> それを逆手に取られた。<br /> 人質として取られた彼女は――今、胴体と首を切り離されて、目の前に転がっている。<br />「七星の野郎どもがよ、偽善気どりやがって……狭い所で仕事してるんだぜ、俺達よ。まったく、何が日本国繁栄の為だ。結局てめえらの腹肥えさせてるだけじゃねえかと。そう思わねえか、姉ちゃん」<br />「……美織(みおり)」<br /> 彼女の頭を、抱き寄せる。まだ血が生温かい。<br /> 美しかった彼女は、無惨にも目を見開き、驚愕の表情のまま、事切れている。<br />「俺達みたいに小さい会社取り締まるぐらいなら、七星に喧嘩売った方がいいんじゃねえのか? あいつらは偽善の塊だからよ、俺みたいにえっぐい事はしねえと思うぜ? 大人しくお国で仕事してればなあ。ま、公務員だしな、仕方ねえか。おい、お前ら、姉ちゃんに御帰り願え」<br />「――美織……好きだったのに……愛してたのに……美織……美織……ッ」<br />「うるっせえな糞レズ女。おい、さっさと――」<br /> 己の中で……何かが弾けた。<br /> 脳が異常に熱い。<br /> 熱くて、熱くて、胸元を開け放ち、人間に産まれて来た事が間違いであったクズ野郎を睨みつける。<br /><br />「ゲスが――クソムシどもが――許すか、こんなもん、許すか――許される訳ないだろ――許すわけないだろう!!!!! 人非人共がああああああアアアァァァッッッッ!!!!」<br /><br /> そうして、世界ははじけ飛んだ。<br /><br /> ……。<br /><br /> 手を伸ばす。止める事の出来なかった彼女の死を、今に掴むかのように、手を伸ばす。<br />「綾音、綾音……どうしたのぉ、大丈夫ー?」<br /> ぼんやりとした声が、殊更深刻に聞こえる。顔を横に向けると、ぼんやりとした彼女が居た。思わず真衣子の服を掴んで引きよせ、抱きしめる。<br />「わ、わ、わっ」<br />「美織ぃ……うぅ……ぐっ……」<br />「違うよぉ……ミオリさんじゃないよ、真衣子だよお?」<br />「――……」<br /> 我に返り、今まで抱きついていた彼女の顔を見る。真衣子は顔を真っ赤にし、恥ずかしそうにしていた。<br />「……ごめん」<br />「――前の、彼女さん?」<br />「なんでもないの。ごめんね、人の名前なんて呼んじゃって」<br />「いいよう。何か、そうだよね、年上だもんね、いろんなこと、あったんだよねえ?」<br /> 兼谷にあってから、その日は落ち着かなかった。寝ようと思っても寝つけず、挙句あんな過去の夢をみるのだから、平然としていても、心労は溜まっているのだろう。<br /> ベッドから抜け出て、座卓の前にぼんやりと座る。<br />「おちゃ、どうぞ」<br />「ありがと」<br /> 時間は八時を過ぎていた。まだ冬休みであるから、その間は食事は全て中央食堂で取る事になる。九時までならやっていた筈だ。<br />「朝食、どうするー? 何か軽いもの、もってこようか?」<br />「ううん。なんだか、食べる気がしないや」<br />「身体に悪いよう。貰って来るだけ貰って来るから、まっててー?」<br />「うん。あの、マイ」<br />「んー?」<br />「私の事好き?」<br />「え!? あ、んと。う、うん。だ、大好きッ」<br />「こんな嘘ばっかりの女の、何処が好きかな」<br />「ええ? わ、わかんないよう。で、でも、綾音はいつも、私の事助けてくれたでしょー? いろんな事知ってるし、凄く大人な人だなって、思ってたのー……大人だったけれどー……」<br />「……この仕事が終わったらね、内勤に異動願いを出そうと思うの。特別手当も多くてさ、もう本当は、働かなくても暮らしていけるぐらい、貯蓄があるんだよね」<br />「そうなんだあ?」<br />「どこか静かな所に家を買って、切った張った、殺した殺された、なんて無いような、そんな仕事をしながら、前線からは引退しようと思う。この仕事だって、もう最後だからと、楽な潜入調査を宛がわれたんだ……けども、ちょっと不味い事になってるかもしれない」<br />「……うん」<br />「マイ。私、婚約者も、家柄も、名前も、年齢も、全部嘘。本名すら忘れちゃった。それでも良くて、今回の事で何も無ければ――お付き合いしてくれるかな、結婚前提にさ」<br /> 真衣子は、目をパチクリとさせ、冷静にお茶を飲む。飲むが、淹れたてで熱いのを忘れていたのか、アチチッと身を引くようにする。動揺しているらしい。<br />「あ、あ、あの、あの!」<br />「どしたの、マイ」<br />「嬉しいです……」<br /> ……追い詰まっているのだ。<br /> どうしても、また、手を伸ばさずにいて、好きな子が居なくなってしまうのは恐ろしい。<br /> こんな仕事をしていると、人質を取られた場合不利に陥る場合が多い。<br /> 家族、友人、恋人、仲間。<br /> 過去に何度となく経験した。繋がりが深ければ、その都度深い傷を負う。<br /> 解っている。<br /> こうしてまた縁起を増やして、自分に負荷をかけている。<br /> けれど、これが最後だ。これで終わりにしたい。<br /> 彼女に、応えてあげたいのだ。<br />「ああああ、朝ご飯、も、もらってくるぅぅぅッ」<br />「マイ――いっちゃった」<br /> 余程嬉しかったのだろう。初々しくて、堪らなく可愛い。<br /> こんな気持ちになったのは、何時ぶりだろうか。彼女に出会えた今回の任務には感謝せねばなるまい。<br />「……さて、ねえ」<br /> 寝ぼけ眼を擦り……擦り、さて、自分は、いつ寝たのだろうかと、疑問に思う。<br /> 兼谷と別れて、自室に引きこもった後の記憶がない。自身の身体について一番把握しているべき自分が理解不能という状態である。長年の経験則から、まず間違いなく人の手が加わったとみて良いだろう。<br />(――まあ、目星は付くし、どうにもならないのだけれど)<br /> 催眠術か、薬物か、ESP干渉か。<br /> 催眠術にしても薬物にしても、それを施される、盛られるまでの記憶はあるだろう。それが無いという事はESPを疑わねばならない。<br /> 今までこの洗脳装置から放たれる感応干渉に対して無反応だった事を考えると、もっと直接的な干渉を被ったと考えるのが自然だ。<br />(あ、やべ、定時報告……)<br /> あわてて端末を取り出す。通信ログを確認すると、そこには指示が残されていた。<br /><br />『証拠の奪取を優先。逃走経路確保済み。手段は厭わず。健闘を祈る』<br /><br />「――ああ、もう……なんだかな……」<br /> 思考を停止する。<br /> もう考える必要が無くなってしまった。<br /> ……、もう少し早く確認するべきだったと……物事の理不尽さに、綾音は歯ぎしりした。<br /><br /><br /><br /><br /> 上は綾音を切り捨てるつもりなど毛頭ない。<br /> そもそも、綾音は『例えどんな状況に陥ろうとも』死ぬ事などまず考えられないのだ。故にこの指令は、周囲にどれだけの被害を齎そうとも帰って来なさい、というものである。命令というよりもお願いに近い。<br /> ずいぶん大きく出たものだと、綾音は辟易とする。上層部が現場を知らないのはいつの時代も同じなのかもしれない。まさかお嬢様方を巻き込んででも証拠を得て戻れなど、無茶苦茶だ。<br /> しかし、それだけデカイ事を言いたくなるほど、今回の不祥事が発覚して露呈すれば、七星にダメージがあるという意味なのだろう。<br /> 当然綾音は無茶苦茶をするつもりはない。現場判断をするし、被害を最小限に食い止めるつもりだ。<br /> しかしながら、七星を相手にして被害が一切出ない、という事もまず現実的ではない。<br />(あれは何時だったかな……極東ロシアだっけ……あの時も無茶苦茶な指示だったなあ……私の知ってる日本の組織って、もう少し穏やかだったんだけど……時代は映り替わるかあ)<br />「アナタ、どうしたのー?」<br /> なんだかすっかり新婚気分の真衣子は、綾音に縋りつきながら顔色を窺っている。普段から近い距離にはいたが、今日は一日ずっとこの調子であった。<br /> 真衣子の髪を額からかき上げる。まるで子供扱いされるのを嫌がるように、んーんーと首を振る。<br /> 可愛らしい生物だ。だが、生憎今夜でお別れだ。<br /> ――名残惜しくて、死にたくなる。<br />「少し昔話をしよう。初めて本気で好きになった人の話だけど、聞いてみる?」<br />「うん。うん」<br />「私はお仕事でね、大陸に進出している日本企業の不正を暴く為に潜入する事になったの。まだ二十代だったかな。どうやらそこの社長っていうのが、とても悪い奴でね。昔流行った違法電子ドラッグの密売とか、クスリの横流しとかをしてたの」<br />「あー、悪い人だねえ……」<br />「そうそう。でも逃げるのが上手くってね、なかなか尻尾をつかめずにいた。どうにか悪い社長に近づけないかと思って、私はそいつの娘に接触したの。それがね、くっそ醜悪な太鼓腹のデブの精子から生まれたとは、とても思えない程の美人さんだったのさ。お母ちゃんが女優だったけどね。何せ同性じゃない。まあ女友達感覚でさ、お話を聞こうとしたんだけれど……その子ねえ、レズでさあ」<br />「ふぅん」<br />「あ、なんか機嫌悪そう。やっぱ止める?」<br />「ううん。聞く」<br />「そう。それでまあ、私自身は自分をノンケだと思ってたんだけど、アピールが凄くってさ。もう毎日のように家に来て、毎日のようにキスして去っていく感じで。仕事どころじゃなかったよ」<br />「そんなにキスされたのー?」<br />「例えば私達がこうしているでしょう」<br />「うん」<br />「十分に一回くらい」<br />「ひょえええ……」<br />「初めは変な気分だったけど、彼女の気持ちが真剣でさあ。一か月も経つ頃には、もう彼女が隣にいない生活が、ありえなかったんだよね……あ、ほら、いやそうな顔」<br />「い、いやじゃないよう。私、綾音の事もっと沢山しりたいもの。それで?」<br />「……うん。調査はなかなか進まないけど、その子を通じて社長の裏が取れ始めた。その時にもう、強引に踏み込めば良かったんだけど……仲間が殺されてね。お前もこうなるんだって。で、それと同時に呼び出されてさ」<br />「ど、どう、なったの?」<br />「――調査員三人が死亡。生存者は私一人。その子も、人質に取られてね、殺されちゃった」<br />「そんな……非道い……す、好きな子だったんでしょぅ? 仲間も、みんな、死んじゃったの?」<br />「だからね……マイ。だからね……」<br />「――……うん……はれ……あの……あやね……?」<br />「だから――私は駄目なんだ。人を好きになっちゃいけないんだ。私は、人を殺すように出来ているから」<br /> 今まで縋りついていた真衣子が、コテンと横に転がり、寝息を立て始める。<br /> 綾音は真衣子の頬にそっとキスをしてから、立ち上がる。<br />(こちらSAU1。ヒトフタマルマル。状況開始。加瀬堂、宜しく)<br />(……了解。健闘を祈る。無事に戻ってきてくださいね)<br />(まあ、むしろ心配すべきは、七星側かもねえ)<br /> 自身の身元に関するようなものは、既に皆排除してある。これから綾音は失踪するのだ。そして今後、鷹無綾音なる人物は、元から居なかったことになる。<br /> 綾音は、もう何度架空の自分を殺して来ただろうか。五人から先、数えてはいない。<br /> パジャマを脱ぎ捨てる。<br /> 中に着こまれているものは、対ショック対刺突対熱を誇る、複合加工ケブラー防護服である。<br /> 綾音の体型に合うよう編まれており、身体のラインがはっきりと解る、一切の無駄が無い作りだ。<br /> 胸部、腰部、腕部、脛部にプロテクタが装着してあり、それ以外は全て黒と灰色のスーツである。<br />(重力制御)<br /> 脳内で呟く。窓から飛び出した綾音は、まるで月面を歩くかのような重力の薄さで地面に着地し、そのまま地面を駆けて行く。<br />(脚部強化)<br /> 筋力増強、減重力の中であるからして、その一歩が凄まじい歩幅、そして高さであり、十歩も駆けているともはや人類の目には黒い風が吹き抜けたようにしか見えない。<br /> あっという間に旧校舎にまで辿り着く。その間約六秒の出来事である。<br />(溶解)<br /> 綾音は壁に手を当てて念じる。ただ入るだけなら、別に門を蹴破れば良いが、主眼は潜入方法にない。そもそも大人しく潜入するつもりはないのだ。異常事態を知らせ、七星私兵団を集める事にある。<br /> 鉄筋鉄骨コンクリートはまるで溶鉱炉の鉄の如く赤々として流れ落ち、壁に人二人分通れる程の穴が開く。<br /> 空いた先には、丁度警備員がいた。<br /> 巡回中だったのだろう。フルフェイスヘルメットを装着していてもなお、その動揺が読み取れる。<br />「……はあい、七星さん。ごきげんよう」<br />「――な、なに、あ、こ、こちら甲3!! 侵入者発見!!」<br />「うんうん、呼んで呼んで」<br />「貴様、昨日の不審者かっ」<br />「この学院からしたら、アンタ等の方がよっぽど不審だよ。はい次」<br /> 綾音が手を翳す。<br /> 甲3という男は直ぐ様銃口を向け発砲するが、どんな動作不良を起こしたら現代の最新鋭武器が暴発するだろうか――それは銃口から粉々に砕け散り、甲3は後ろの廊下に向かって十メートル程吹き飛ぶ。<br />「まだかな。さっさと片付けたいんだけど」<br /> それから約二十秒、ぞろぞろと完全武装の私兵団が現れ、簡易障害物を次々と積んで、その影から発砲し始める。しかしながら、一発足りとて綾音には届かない。<br /> 全て綾音の半径二メートルで、突如推進力を失って地面に叩き落ちるのだ。だが相手も七星、そのぐらいの超常能力者の出現は予測していたのかもしれない、警備員達は全員が銃口を付け替え始める。<br />「構え!! 照射開始!!」<br />「うわ、面倒な兵器だな」<br /> 恐らく光線兵器だろう。<br /> が、綾音は何一つ動作を行わず、平然と仁王立ちしている。光が綾音にまで、届いていない。<br />「物理攻撃は無理だねえ」<br />「――な、なんだそりゃ……おい!! 何でもいいから持ってこい!! こいつ、複合型のSクラスだ!!!」<br />「ああ、七星のESP基準ってあるんだっけ。Sって最大? ところで、全員そろった?」<br />「貴様、何を言っている!? 何者だ!?」<br />「何者だと聞かれて、答える奴はいないと思うねえ。まあいい、ちょいと痛いよ――」<br />(凝固)<br /> 綾音が脳内で唱える。<br />「ぎぃぃいあああああっっっ!!」<br />「ふっぎい、いぎぃいぃぁ、い、いだあ、いだだだだッッ!!」<br />「あああ、があああっ!! や、やめええええッッ!!!」<br /> 次の瞬間、警備員等が漏れなく全員その場に伏せ、地面を転がり始める。<br /> 何が起こっているのか何故自分がその場で転がる程の痛みを感じているのか、彼等は一切解らない。<br />「いいかい。人に銃を向けたって事は、自身も死ぬ覚悟が出来ていなきゃ駄目だよ。君達はたった一発で人の命を奪い去る武器を持っているんだから、その重みを噛みしめなきゃいけない。ま、大丈夫だよ、別に君達が悪い訳じゃないから、殺さないよ。ただ、腕と足は、暫く使いものにならないかなあ」<br />(凝固解除。流動、圧迫)<br /> やがて、パタリと絶叫が収まる。その場に居た警備員達は全て気を失っていた。<br />(我ながら、えげつないよなあ。そして、優しいなあ)<br />「ばっ……」<br />「お、意識あるの、凄いね、鍛えてる」<br />「バケモノ……――ッ」<br />「そんな言葉も、聞き慣れちゃったねえ。アンタ達より年上だしさあ? お休み」<br />(再圧迫)<br /> なるべくなら死人は出したくない。<br /> 彼等はこれから治療を受けて、暫くのリハビリの後、普通の生活に戻れるだろう。そうだ、なるべくなら、殺した殺されたなんて事のない生活を送った方が幸せである。<br />「さてとう。まあこれじゃ終わらないよね。証拠っていってもなあ……取り敢えずこの、学院に七星私兵団がいる証拠写真撮って、と。映像記録も撮ろうかな。カメラ開始」<br /> 阿鼻叫喚の地獄をそのままに、綾音は階段を上る。途中識別飛翔爆雷や旧世代のクレイモアなどもあったが、当然綾音にとって然したる問題ではない。掻い潜る必要も無い。全部受けて流せば良い。<br />「厳重だね。間違って生徒が入ったらどうするつもりなんだろ。しかし、証拠なあ。データ資料、あと、洗脳装置の画像と、運用記録かな。研究員一人しょっ引くのもいいかな。そうだよ、一人二人で運用出来るものじゃないんだ。脅せばいいか」<br /> 本当に、本当に、何もかも。<br />「全く、だらだらと二年半以上潜入調査なんてさせてさ、最終的にコレだもんね。やんなっちゃう」<br /> 自分という人間は、偽りででしか出来ていないのだと、痛感する。<br /> ここまでやってしまったらお終いだ。既にどこへも戻る事は出来ない。<br /> 今まで積み上げて来た思い出も、気持ちも、全て全て無に還る。幾度となく繰り返して来た事とはいえ、この無常感ばかりは慣れない。<br />「さて、大本の装置はどこかなあ」<br /> 二階廊下を進む。無造作に荷物が積んである場所が見受けられる。おそらく誰か隠れているだろう。<br />(生成)<br /> ガツンッ!! という音を立てて、荷物が置かれた場所が不自然に盛りあがる。まるで柱状になった廊下の壁が突き出し、荷物ごとそこに存在しているものを吹き飛ばす。<br />「があっ!!」<br /> 案の定警備員が隠れていた。綾音は指揮者のように正面で指を振ると――その警備員が空中に持ち上げられる。そこには、ワイヤーもピアノ線もない。何も無い中空に完全武装の成人男性が浮いているのだ。<br />「道案内して。応じてくれないと、私はアンタの頭の中に腫瘍を作る事になるよ」<br />「ふぎっ――ぎっ――な、なん――」<br />「まあ超能力者っていっても、色々いるからね。私は恐らく、その中でも最悪にえげつなーいタイプだ。ほら、早く教えて。洗脳装置、どこにあるの?」<br /> 焦点の定まらない目をした男は、ぶるぶると震えながら指をさす。どうやら二階で正解の様子だ。<br /> 丁度廊下の真ん中に当たる部屋。そこが装置の設置場所なのだろう。<br />「やっさしぃ。ありがと」<br /> 指を動かし、男を中空で弄ぶと、そのまま地面に急落下させる。ぱたりと動かなくなったが、死んではいないだろう。<br /> これでも加減しているのだ。もし、一切省みるものがないのならば、そもそもこの建物ごと吹き飛ばしたって構わない。それをわざわざ目立つように乗り込んで、資料を頂いて帰ろうというのだから、綾音としてはかなり穏便である。<br /> そう、元から穏便な任務であった筈なのだ。身元が割れる事を恐れ、相手の武装を恐れ、敵勢力の超能力者を恐れたのは、他でもなく、この緩い任務を緩く恙無く終わらせる為であった。七星が動き、その理由が無くなってしまったからこそ、綾音はこうしているのである。<br /> 身を隠す必要も、怯えた振りをする必要もない。<br />「……さて、五分くらい経ったかな。早いところおわらせ――てくれないかあ」<br /> 五月蠅いものをさっさと片付け、頂くものをさっさと頂き引き上げる。例えどんな状態になろうとも、綾音が動いた時点でそれは達成される。しかし多少急いだのにも理由があるのだ。<br />「……やだなあ。本当にさ。場所を移さないかな? ここだと、余計に被害が出る、君もアタシもさ」<br />「や。来るんじゃないかとは思ってたけど、来たねえ。いいよ、何処行こうか?」<br />「じゃあ、屋上かな。今夜は月が綺麗だから」<br /> 正面の『彼女』を見据える。短い髪を揺らし、その切れ長い目には光が灯っているようにも見えた。<br /> いつもの制服。カッコいい彼女。<br />「ごきげんよう、百刀」<br />「ごきげんよう、鷹無さん。凄く、残念だ」<br /> 窓をぶち破り、重力制御、壁を蹴って屋上まで昇る。<br /> 百刀もまたどのような原理かは解らないが、平然と後を追ってきた。<br /> 真冬の澄みきった空には、異様に紅い月が見て取れる。なんだか彼女らしいなと、綾音は笑った。<br /> 二人が相対する。<br /> すると彼女は念じるようにしてその手を正面に翳す。掌からは粉のようなものがさらさらと流れおちるのが見えた。<br />(やはり念動力と物質変化系、そして具現化型か、珍しい。しかも造形が……素晴らしい、天性だなあ)<br /> 見惚れるほど美しい彼女は、その身の丈を超える長さの日本刀を精錬する。質量に見合わない所をみると、ガワだけなのだろう。しかしESPによる強化があるだけに、その鋭さはきっと笑えないものがあるだろうと想像する。<br /> そしてその刀を生成する為に漏れた鉄粉は、彼女の周囲におびただしい刃の海を別途作りあげた。<br />「貴女のように美しいねえ、その力は」<br />「そうかな。これを褒めて貰ったの、初めてなんだ。嬉しいよ『綾音』」<br /> さて、剣技ならばどこの流派か。構えで推しはかろうとするも、どうやら下段で地面スレスレに添えているだけである。自己流か、そもそも技術を弄する必要はないのか。<br /> 何にせよ、急いではいるが、一応受けておこうと考える。<br />「どこからでも良いよ」<br />「余裕だね。何者か知らないけれど、舐めてかかると、死んでしまうよ」<br /> 彼女は構え直し――驚くべき速度で正面に突っ込んでくる。<br />「ぬお」<br /> これには綾音も衝撃を受ける。身体強化は無しだろう。<br /> 恐らく念動力を自分に働かせ、その勢いで吹っ飛んできたのだ。刃のついた二輪駆動車もかくやという百刀を、思い切り身体を反らせて右に回避する。すると今度は彼女を追随するようにして百の刃が降り注ぐ。<br />(っべえ、重力制御、身体強化、えーと、腕部硬質)<br /> 側面から降り注ぐ刃の一部を重力制御で鈍化させ、慣性のまま綾音の身体を射ようという刃をなんとか腕で払い落す。一難凌ぐも、しかし今度は百刀自身が斬りかかる。<br /> 長い刃だ。しかも軽く、念動力も含めてその速度は音速である。見てからでは全てが遅い。<br /> 一歩だけ後ろに下がり、突っ込んでくる百刀の軌道を読む。<br />「ゼェッッ!!」<br />「っくぅぅぅッ」<br /> それは綾音の目の前を通過し、地面に叩きつけられた。胸が大きければ削がれていただろう。<br />「今のは惜しい」<br />「余裕な事で。ほら、ちゃんとやらないと、三枚下ろしになるよ」<br />「本気出したら殺しちゃうしなあ」<br />「――言うね」<br /> 銃弾、光線、閃光、音響、衝撃、高温、低温、放射線すら『全く意識せず、パッシブで』退ける綾音ではあるが、ESPを帯びた攻撃ともなると、直接食らいたくは無い。<br /> ESPによる攻撃は精神力と神経――具体的に言えばそれが脳に負荷をかける。綾音は出力こそ他の追随を許さないが、干渉壁は中ランクのESP能力者と大差はない。当然強化出来るが、疲れる。<br />「本気出していいの? 二秒で終わるよ?」<br />「――ああ、いいよ」<br />「……まあ、殺さないよう加減するよ」<br />(圧迫)<br /> 脳内で一言唱える。同じESPによる攻撃だ、あちらも当然干渉壁を持っているだろう。しかしながら、綾音のそれは、ESPを研究している人間達からすると、破格どころの話ではない。生物を、物体を、その脳内の妄想一つで実現する、人類が持つにはあまりにも危険なものだ。<br /> 綾音のESPは複合超常行使系とされるが、実質分類不能である。あらゆる物理法則に対して『願う』だけで叶うという、ふざけた類の能力だ。時間以外のほぼ全てに干渉可能であり、その範囲は測定出来ない。見えない所の存在にすら、直感で判断して願いを叶える。<br /> それを食らって立っていられる人間など――いるはずも――――ないのだが。<br />「……うわ、何それ」<br />「――くっ……う。行けるね、大丈夫だったよ、綾音」<br />「あ、こりゃまずい。逃げようかな」<br />「逃がすかッ」<br />「くぅぅぅ――百刀、危ないよ、そんなもの振り回したら」<br />「舌噛むよ」<br /> 地面に降り立ち、次の攻撃に備える。<br /> 正面からは百刀の大太刀、後方からは生成された無数の刃が降り注ぐ。<br />「ちぃぇぇぇぇェッッ!!」<br /> 正眼に構えられたそれは、恐ろしい速度で綾音に襲いかかる。<br /> 仕方なく、綾音は手甲を生成、全力で刃を受け止めた。<br />「ぐぎっ……つぅぅ……ッ」<br /> 鉄の塊は質量こそないが、それは能力を帯びている。ごっそりと精神力が削られて行くのが解った。一概に物質変化、念動力、具現化という訳ではないと解る。<br /> そして今度は後方から高速度の刃が、風を切って綾音を貫かんと放たれた。<br />「んんっぬぁめんなぁッッ!!」<br /> 相手の大太刀に干渉出来ない。仕方なく、手甲で受け止めたまま前に出て、百刀の足を蹴飛ばす。<br /> バランスを崩した所をこれ幸いと、脚部を一時的に筋力強化し、韋駄天の如く脇を駆け抜ける。<br /> 降り注いだ刃は百刀の手前の地面に突き刺さり、綾音は背後から百刀の背中に蹴りをお見舞いする……のだが、しかし。<br />「つっ――」<br /> 浅い。強化した筋力すら干渉壁に相殺されている。<br /> 七星がESP研究に力を入れている事は周知だが、まさかこれほど高いレベルの干渉壁を持つ能力者、もしくはそれを防ぐ技術が存在していたとは予想外だ。<br />「さあ、どうする」<br />「だは、これはキツい……」<br /> 百刀が振り向き、また正面に構える。<br /> 綾音は胸部のプロテクタから……飴を取り出して口内に放りこむ。急速吸収可能なブドウ糖だ。<br /> どれだけ綾音がふざけた力を持っていたとしても、行使するのは自身であり脳だ。根本的に他の能力者とは異なる量の力を有していたとしても、消耗するものはする。<br /> 直接的、一時的な干渉が薄いのならば、仕方ない、他の手段を取る。<br />「次で刻む。覚悟」<br />「ちぃ――面倒だな……」<br /> ……。<br /> 一歩踏み込み、地面のコンクリート片を拾い上げ<br /> ……。<br /> それを<br /> ……。<br />「――ぐっぎ、な、なんっこんな時に……――ッ……ッ」<br /><br /> ……。<br /><br />「ゲスが――クソムシどもが――許すか、こんなもん、許すか――許される訳ないだろ――許すわけないだろう!!!!! 人非人共がああああああアアアァァァッッッッ!!!!」<br /><br /> 絶叫が倉庫内に木霊する。<br /> 瞬間、拳銃を構えて綾音を囲っている男達が、爆ぜた。<br />「え、あ、アアアアアアッ!! なんだこりゃああああッッ!!!」<br /> まるで内側から爆弾を仕掛けられたかのように、全てはじけ飛んだのだ。<br /> 五人が全部、粉微塵になり、脳から内臓から、血液から、跡形も無く、びしゃりと周囲に撒き散らされる。<br />「ガッ――こいつ政府の超能力者だ!! おい、殺せ、殺せェッッ!!」<br />「やかましい!!! 喚くな家畜!!!」<br /> 男を睨みつける。男の四肢が全てはじけ飛び、ダルマのように地面に転がる。<br /> その光景を見た他の組員達が逃げ始めるが――綾音は逃がすつもりなどない。<br /> 指を向ける。<br />「や、やめてぇ……ッぎょあっ」<br /> 首だけ二十メートル程先に飛んで落ちた。その光景が何だか面白く、綾音は思わず笑う。<br />「たっはははははははははッッ!! なあ、お前等のお仲間はラグビーボールで出来てるのか、なあ!?」<br /> 一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人、十二人……合計三十名が、一人ずつ丁寧に適切に、折りたたまれ、はじけ飛び、圧縮し、擦りつぶれ、固まり、液状化し、沸騰し、冷凍し、融合し、砕け散り、そのまま流れて排水溝を下って行った。<br />「はあぁ……なんだこりゃ。あ、ははっ。うわあ……きもちわる。お前等仕事も顔も気持ち悪いだけじゃなく、中身も気持ち悪いんだなあ。なんだこりゃ……私、こんなだったっけかなあ……」<br />「ひゅーっ……げほっ……はあ、お、ごぼっ……あ、」<br />「やあ。ごめんごめん、あんまり五月蠅く喚きたてるから、手足吹き飛ばしちゃった。生きたまま確保しろって言われてたんだけど、これじゃ無理だな……」<br />「なんだぁ……その……ちから……なんだあ……」<br />「……わかんないよ。ああ、気持ち悪い声……お前の種から、あんな可愛い子が生まれたなんて、信じられないね。いやね、ほら。私超常行使系ではあったんだよ? でもねえ、あんまり能力も振るわず……こんな事出来なかったんだけどねえ……何で出来たんだろうね。頭に来たからかな……もう何でも良いや……もう……もう、なんでもいい」<br /> 男の四肢の血液を凝固させて止血する。<br /> 相手の脳内に腫瘍をイメージする。丁度痛覚に到達するだろう。<br />「ぎええええええええええええッッッ!!! あああああああああッッッッ!!! ぎゅ、うぐぅぅううあ、あああああっ!!! ひゃめれええええええええええッッ!!!」<br />「けど、そう簡単に殺さないぞ塵虫。のたうちまわれ。この世のものとも思えない痛みの中、失神出来ず死ぬ事すら出来ず、絶望に身を捩れ。畜生が、畜生が、畜生が、畜生がッッッ!!」<br /> 何度なく、何度となく、そのダルマのような身体に蹴りを入れる。<br /> 怒りが収まりそうにない。どうすれば収まるのか、自分でも解らない。<br /> 顔面がぐちゃぐちゃになった辺りで、足を止める。<br />「美織ぃ……ごめんね、アンタのパパ、あんなにしちゃった。ごめんねえ……でも、美織もこんなに、なっちゃって……ごめんね、助けてあげられなくて……ごめんね……ごめん、ごめん……あああっ……ああああっ……なんでぇ……なんでこんなことにぃ……」<br /> もっと早く、決断出来ていたのなら。もっと自分が思慮深かったのならば。<br /> こんな事には――ならなかっただろうに……。<br />「そ……そうだ。そうだ!!」<br /> そうだ。何を悲しんでいるのか。<br /> 今の自分は、信じられない程の力に満ち満ちている。万能感が全身を支配している。<br />「いま、待ってね、美織。まず、首をくっつけてぇと……はは、ほら、すごい!! 傷一つなくくっつくよ!! いけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいける……ッッ!!! 胸、胸に銃弾……これは、抜けてる。縫合……じゃない、融合……癒着……うん。よし、死んでからどのくらい経つ? 血液が詰まってる可能性がある……そうだ、いくよ、透視……うわ、見える。見える見える見える!!! まるで人間レントゲンだ。いやそれ以上に、はは、フルカラーだよ。うん、脳と首と心臓の一部と、毛細血管が……溶解? お、融けた!! いけるよ――これいける、私、私は、殺すだけじゃない、人を蘇らせる事だって出来る!!! わあ、ほら、大丈夫だよ、美織。すごい、完璧だ。あ、あとは、血液。ああ、親父から貰おう。血液型一緒だよね。役に立って良かったな塵糞蛆虫が。よし、そう、転移だ。ゆっくり。うん、うんうん。はは、まるっきりそのまま移せるね。もう生きていた頃そのものだよ、美織……よし、胸にショックを……どうあたえれば……直接かな? うん。心臓マッサージ機をイメージして……お、おお、本当に何でも出来るな、これ。さあ、いけるよ、起きて、起きて、美織……美織……美織ッ」<br /> 夢中であった。<br /> 人体を一瞬で地球上から消し飛ばすレベルのESPに目覚め、今度はそれを蘇生に向かわせたのだ。思った事、指示した事、何でも自身の思い通りになる。<br /> 切り離された首はしっかりと癒着し、筋肉も血管も骨も神経も縫合されている。<br /> 胸に銃弾を受けた痕は、目を凝らしても見つける事が出来ない程繊細に繕われていた。<br /> 足りない分の血液は親父から移した。<br /> もう傷一つない。足りないものは何一つない。<br />「コホッ……げほっ……」<br />「美織……美織ぃ……よかったあ――美織ぃ……愛してる、愛してるよ、大好きだよ、美織……ッ」<br />「コッ……ケホッ……げッ……ごあ……あ、あ、アーアーアー……あ」<br /> 何も足りない所は無いはずだ。<br /> 失われたものは全て繕い直したはずだ。<br />「美織?」<br /> そう。<br />「ぐっ――ゲホッ、み、みおっり……げっぐうぅッ」<br /> では、今、明らかに何かが『足りていない』彼女は、どうして、何故、そのような敵意の目で、此方を見て、そしてなおかつ――自分の首を絞めているのだ?<br /><br /> ……。<br /><br />「――な」<br />「……どうしたの、呆けて。そんな顔してたら、死んでしまうよ、綾音」<br /> 気が付き、綾音は全力で地面に伏せた。頭上を銀色にきらめく刃が通り抜けて行く。<br /> 白昼夢。にしては、遅すぎる。<br /> 思い出したくも無い記憶が、脳内を掠めて行く。放心こそ解けたものの、断続的に何度もあの光景が浮かんでは消える。<br />「ちょっと、待ってね。ちょっと――」<br /> 感応干渉。それも綾音の干渉壁をやすやすと乗り越えるものだ。<br /> もとから強固ではないものの、洗脳装置を退けるだけのものではあった。これは装置ではなく、直接的で強力なものだろう。<br /> そもそも、現代におけるESP研究は『他者感応干渉』の解析からはじまった。<br /> 昔から言われている通り、ESPは通常の人間が使用しない脳の領域を稼働させる事によって様々な非現実的、非自然的な現象を引き起こす。<br /> 綾音も専門ではない為詳しくは知らないが、ESPを行使する人間は通常とは違ったニューロンの働きを見せる。脳波は異常な波形を形作り、あろうことかその電気信号は、内だけではなく、外に向くのである。<br /> 他者のシナプスに働きかけ、相手の脳を弄る他者感応干渉は、まさしくESP解析に打ってつけの能力であった。<br /> 綾音が恐れているのは、元から相手に働きかける事のみに特化したこの能力だけと言っても過言ではない。<br /> 他者感応干渉の高レベル能力者ともなると、干渉壁など障子戸に他ならない。相手の肉体に影響を及ぼす生物干渉系の中でも、感応干渉は元のポテンシャルが破格なのである。<br />「よし、よし。干渉壁再構築。心理遮断。おっけい。よしこい……」<br />「酷い顔だよ」<br />「ん。御心配なく。なんかね、むかっ腹立つっていうか、すげえムカツク。少し本気出す。受け切ってね、百刀。その綺麗な顔、傷つけたくないけど」<br />「嬉しい配慮だね……ッ」<br />(圧縮)<br /> 空気を圧縮する。<br /> 見えない弾丸は無数に現れ、気圧差で陽炎のように揺らめいていた。<br /> これ自体に大した殺傷力はない、精々突風が固まりになって襲う程度だ。<br /> ただこれがESPを帯びたものである限りは、向こうの干渉壁も削れて然るべきである。<br /> 持久力の戦いだが――百刀が防げる数は、多くないだろう。<br /> 風を切る音が二十、三十と響き渡る。百刀はそれを受けて捌いて行くが、受ければ受ける程に消耗し、輝く刃は光を失って行く。反抗に出るにも、風圧で押し戻されるのだ。<br />「ぐぅぅぅぅぅうッッッぬぅありゃああっっっ!!」<br />「うーん……カッコイイ……」<br /> 月明かりを受けながら刀を翻す彼女を眺め、一息つく。<br /> 最初からこうしていれば良かった。とはいえ、ここまで高位の能力者に出会ったのも初めてであるからして、対策が遅れたのは致し方無かったと言えよう。<br /> 此方の攻撃を一発二発防いだところで、削れる物は削れるのだ。それに、人間である限りは体力にも限界がある。これはこれで、もう決着であろう。<br />(にしても……)<br /> 嫌な事を思い出した。<br /> あの事件以来だ。<br /> 何もかもが変わり果てた。<br /> 価値感も、自身の認識も、一切合財が無意味になったのだ。<br /> 一人にして護衛を突破し要人の暗殺など容易く、小国なら壊滅も可能だろう。<br /> 軍隊など相手にならず、例え頭上で核が爆発しようと、それが物理法則に則っているのならば、熱線も爆風も放射線も常識も、捩じ曲げて無効化可能である。<br /> あの時、何もかもを覆したいと願った。<br /> あらゆる不条理からの解放を願った。<br /> その結果がこれなのだ。<br /> 自身は何者でもない。故に何者であるか保証してもらう為に、お国からの命令を聞いて動く事によってアイデンティティを保っている。その命令とて、壊滅的な指示は一切受けない。この世のバランスが崩れてしまうからだ。<br /> そんなものは望んでいない。<br /> ただ、自身が、一応はこの国の、この世界の、この地球の一部であるという幻想を、抱いて生きたかったからだ。<br />「はあ……はあ――あ、ぐっ……っつうぅぅ――」<br />「……もう、止めようよ」<br />「はあ……くっ。綾音……。綾音はさ、どこの、誰なんだい?」<br />「うん? 内務省だよ。あ、うん。忘れてくれるとありがたいね」<br />「――今、こんな事を強要されて、どう思っているの?」<br />「いや、お仕事だからね。何でも良いや。君こそさ、無茶させられてるでしょう。七星がどんな構造になってるのかサッパリ解らないけど、従う義理ってあるの? とても無理しているように見えるけど」<br />「……いいんだ。アタシは――産まれたときから、そうだから」<br />「悲しいねえ。自分が自分じゃないなんて、同情するよ」<br />「内務省なら……そうか。じゃあ、君もなんじゃ、ないのか?」<br />「――そうだね。私は、私が何者なのか解らないよ。もうバラしてもいいか、どうせ脳味噌覗かれてるし。この感応干渉、貴女じゃないよね」<br />「うん。違うよ」<br />「誰かな。教えてくれたら、私も教えるけど」<br />「……兼谷様だよ」<br /> なるほど、と頷く。<br /> ここまで来て、頭の中を覗かれ、自身の身分を偽るのも限界だろう。<br /> 綾音は百刀に歩み寄りながら、言葉を紡ぐ。<br />「鷹無綾音は仮名。呼ばれる時はSAU1。ストラテジックアームズ/アルティメット・ワン。上の人が戦略上そう名付けたの。私一人で携帯型核爆弾(スーツケース)ぐらい影響力があるからね」<br />「――、う、うそ。防衛線の死神? 死線の核弾頭? ロシアのニューツングースカ? ヒューマノイドチャイナシンドローム? じょ、冗談だろう?」<br />「あら、御存じ」<br /> だいぶと懐かしい渾名が並ぶ。<br /> 防衛線の死神は、大陸海岸部で戦火に巻き込まれた時のものだ。当時はまだ威勢が良かった軍閥が、一斉反抗に出たのである。皇軍と米軍は主力を移していた為、警備部隊しか存在していなかった。援軍には二日かかるという状態であったのだ。その時に『少し』頑張った。<br /> 死線の核弾頭は、大陸奥地での事だろう。戦術核発射目前、基地ごと吹き飛ばした記憶がある。<br /> ロシアのニューツングースカは名の通りだ。周囲一帯が全てなぎ倒された。幸い人家も少ない場所での事だが、今では隕石落下痕と囁かれている。<br /> ヒューマノイドチャイナシンドロームは、大陸の原発がメルトダウン寸前まで陥った時の事だろう。それで無くとも皇国はテロによって放射性物質がばら撒かれている状態、除染も進む中で、風向きとしてどうしても日本に影響が出てしまうと言われていた。その時も少し頑張ってメルトダウンを抑え、放射性物質丸ごと物質変化させ、更に鉱石で囲い、地殻奥深くに封入した時の事だ。<br /> ――思い出すとどれも、なんとも言えない気持ちになるものばかりである。<br />「都市伝説の類かと、思っていたよ。でも……そうか。前線に置くには危なすぎるから、裏で動いているって、聞いた事がある……でも、何故、観神山なんかに」<br />「お仕事だよ。もうそろそろ引退しようと思ってたんだ。匂わせたら、穏便な調査員として送られた。まあ、こんな事になっちゃってるけどねえ」<br />「それはつまり……」<br />「そうそう。本気出すとヤバいよ? こんなね、碌でもないの相手にしたってしょうがない。引いた方が――」<br />「つまり、君を倒せば……アタシの能力は認められるって事かな」<br /> 何を言っているのか。<br /> 冗談ではない様子だ。彼女の顔は切り傷だらけだが、青ざめるどころか、むしろ奮い立っているようにも見える。<br /> 彼女は懐から錠剤らしきものを取り出し、噛み砕く。<br /> その直後、彼女の圧力が変わった。確実なプレッシャーを感じる。<br /> 長い間この世界に身を置いているが、これほど強烈な殺気を、綾音は受けた事が無い。<br />「――サイキックチャージャ? 危ないもの使うね、貴女」<br />「君の首が欲しい。君が、愛しく見える」<br /> 様々な配合があり、サイキックチャージャは俗称だ。<br /> 大体のものは脳細胞を活性化させたり、脳内麻薬を過剰分泌させたりとするブドウ糖と各種覚せい剤の複合物で、大変負担の大きいものである。中程度の能力者が切り札として使う場合が多い。<br /> ただ、レベルを無理矢理引き上げたところで、基礎的な能力が変わるものではない。故に対処は同じである。余程高位の干渉壁を持たない限りは、全て綾音のカモだ。<br /> しかし――どうもこれは、それだけに留まるものではない様子である。<br />「その使命感、どこから湧くのか。これ以上は本当に、手加減出来ない。貴女は強いから」<br />「構わない」<br />「例えば、私がこの一帯の原子を分解したり、核分裂起こしたり、周囲を全て真空にしたり、酸素濃度を上げたり、したとしても? 階下にまで被害が及ぶよ。及ばないように、屋上まで出たんでしょう?」<br />「――来て、綾音」<br />「困った子だねえ」<br />(圧縮)<br /> 空気の圧縮度を上げる。<br /> バレーボール大の空気球体は、衝突した瞬間コンクリート壁をぶち抜き、周囲に暴風を巻き起こすだろう。それを、一つだけ用意する。<br />「『それでいい』の?」<br />「貴女レベルじゃ、耐えられないよ」<br /> 指を差す。<br /> 空中に漂う機雷のように、空気球体がゆったりと動き出して百刀を囲い始める。<br /> 一つでも掠めれば、大惨事を免れない。<br /> 百刀は大太刀を地面に放り投げる。自暴自棄ではあるまい。その顔には、自信が溢れている。<br />「分解、再構築――強度最大出力」<br /> 言語による自己暗示が発動条件か。百刀は空気球体を恐れず前に進む。<br /> 超圧縮空気球が百刀に触れた。そのまま振れれば、全身がズタズタになる。<br />「――ふ、ンッ」<br /> その腕を、空気球にぶち当てた。まるで冗談のような光景だ。<br /> 球体は本当にボールのように弾けて飛び去り、二人の間で弾ける。正面から凄まじい突風が吹き荒れ、百刀の短い髪を揺らす。<br /> 何を分解した、何を再構築した……? 綾音は構える。<br />「――いるもんだねえ、貴女みたいな人」<br />「ほら、もう、来てるよ」<br />「――、え」<br /> ……不覚。<br /> 百刀が空気球体をはじき飛ばす光景ばかりを目にしていた。<br /> 大太刀が無い。<br /> 分解したのは太刀か。<br /> では、分解して残る鉄粉はどこか。<br /> こんな夜中、月明かりに頼るような場所で、そんな細かいものが見当たる筈もない。<br /> 何を再構築した。<br /> どこに。<br />「どこ、げ――ふっ、ぐっ――ッッ」<br />「『君の身体』に、だ」<br /> 胸に熱い痛みが走る。呆気にとられ、何をどうすればいいのか解らない。<br /> 初めて能力者の攻撃を食らった。いや、そんな事は良い。何が起こっているのか。<br /> 胸、喉、口、そして身体中。<br /> 綾音の前面の至る所から輝く小さな刃が生えている。<br />「げ、えぇぇ――ゲホッ、ゲホゲホゲホゲホッッ」<br /> 口元から血液が吐き出された。これは、肺か。<br />「運が悪い、吸っちゃったんだね」<br />「ゲホッ――が、ぐ、い、ぎぃ、いいぃ、だ、いだだ、が、ゲホゲホゲホッ――ッッ」<br /> 混乱する思考を宥める。<br /> 今冷静さを欠けば、間違いなく死に到る。舐めた話もあったものだ。<br /> ――強化したのは、百刀自身の一時的な干渉壁だ。<br /> ――分解したのは、大太刀ではない。大太刀は能力者が解除を施すだけで鉄粉に戻る、つまるところ、鉄粉を更に細かくしたのだ。<br /> 暴風と同時にそれは綾音に付着、もしくは吸気してしまったのだろう。<br /> 最大出力の防壁で此方の攻撃を凌ぎ、それを利用して念動力で調整――具現化系の彼女は、鉄粉を相手に塗す事で、このような状態を引き起こしている。<br /> 恐ろしい、この状況下で良くそこまで頭が働くものだと、もがきながら褒め称える。<br /> 対象がESPを持とうと持つまいと、人間の肉体に干渉するのは苦労する。綾音はそれを飛び越える程度の生物干渉ESPを誇る故に、あのような無茶苦茶な攻撃が行えるのだ。<br /> 生物干渉系ではない百刀では、余程密着でもしない限り相手の衣服や身につけているもの、綾音の身体に含まれる鉄分に働きかけるのは無理だろう。能力と効果範囲には限界がある。<br /> しかしそれが、能力者自身が所有していたESP力場を含む物体であり、サイキックチャージャでブーストして生物干渉、質量増加まで引き起こしていた場合、話は違う。<br /> 例え強烈な干渉壁があったとしても、その条件下で零距離から発動されては、どんな強固な壁を持とうとも被害は免れない。<br />「アタシは、劣等生でね。遺伝子複製体の中でも能力強度が劣って、限定的な力しか持っていないし、操る物質すら限られている。サイキックチャージャぐらい使わないと、これが出来ない」<br />(吸収、除去、吸収、除去、吸収、除去……ヤバいヤバいヤバい――ッ)<br />「……次は一部にまとめて、そこを貫く――いくよッ」<br />(舐めやがって――このお嬢様、とんでもないな――ッッ)<br />「――こ、け、がっ……この、この、糞餓鬼ッ」<br />「な、しゃべ……」<br /> ――確かに、彼女は良く頭が働いた。<br /> サイキックチャージャ有りとはいえ、SAU1をここまで傷つけたのは、彼女が初めてである。<br /> ただ、しかし――それ等は全て、鷹無綾音の『加減』によって成り立っている。<br /> 最初から本気ならそもそも、彼女は綾音を見る事すら出来ず、地球上から消えている。<br />(除去、完了。自己再生自己再生自己再生自己再生自己再生自己再生ッッ)<br /> 手にした『鉄の塊』を百刀に目掛けて放り投げる。<br /> 警戒した百刀は即座にそれを分解し地面に散らした。<br /> しかし、そんなものはどうでも良い、そんな事をしている暇など、お前には無いのだと、綾音は睨みつける。<br />(押さえろ押さえろ。消し飛ばすつもりはないんだ。大圧縮、尖化)<br /> 綾音が手を横なぎに払う。放たされたそれは、暴風の刃だ。<br />「ひとぉつッッ」<br /> 鉄塊に気を取られていた百刀はそれをまともに腹に受ける。まだ削りきれない。<br />「ふたぁつッ、みっつよぉぉつッッ!!」<br /> 以前の消耗、そして先の超圧縮空気球体を真正面から受けて、彼女の干渉壁が無傷である筈がない。<br /> ESP攻撃は受ければ受ける程に脳を消耗して行く。<br /> 彼女の細い身体の何処にそんな厚い干渉壁を築ける力があったのかは定かではないが――<br />「ぎ――ぐっ、うあっッ!!」<br /> ――人間が脳を酷使する限り限界は存在する。<br /> 綾音の全力に近い攻撃は、三発四発と直撃し、百刀の干渉壁を確実に削ぎ落とした。<br /> 百刀は腹部に裂傷を作り、顔を覆った腕からは血飛沫が舞い上がる。<br /> 余程の衝撃であったのか、彼女はそのまま五メートルほど宙を舞い、ガシャンッ!! という音とともに屋上フェンスに叩きつけられた。<br />(くそったれ……あんまりナメすぎるのもいかんね……死ぬ所だった)<br /> 死ねるか。<br /> こんなところで死んではいられないのだ。<br />「ケホッ……あー、まともにESP攻撃食らったの、産まれて初めてかも」<br />「ぎ、い、つぅ――じ、自己再生? 冗談めいてる……ッ」<br />「このスーツ高いのに……穴だらけだ。七星が弁償してくれるかな?」<br />「く、くそ、まだ、まだ、まだッ」<br />「脳内で唱えるのは、加減した時なんだよねえ。次は言語化する」<br />「――え、え?」<br />「『潰れろ』」<br /> 重力制御。<br /> もはや干渉壁も構築出来ない百刀には防ぎようも無いGがかかり、彼女の傷口から血液が溢れ出る。<br /> 肉がミートハンマーで叩かれたように圧し潰れ、雑巾で絞られたように捻じれる。<br /> 眼球が押し潰されて瞼から凹み、鼓膜は紙を破るより容易く弾けて耳血を漏らす。<br />「いいいいいいっ、ぎいぃあ、あああっ、や、やべっや、やめへえええッッ!!!」<br />「解除。止血、縫合、再生」<br />「あ、あ、れ……あ、」<br />「もう一回、行くかい?『つぶ』」<br />「や、やめて……やめてぇ……痛い、痛い――痛い、よぅ――」<br /> 折角の美貌が台無しになってしまった百刀の胸ぐらを掴みあげてフェンスに押し付ける。<br /> しかしやられた様もまた耽美と思える辺り、能力がどうであれ、容姿は完璧な子だ。<br /> 濡れた猫のようになってしまった百刀は、泣きながら必死に許しを請うている。<br /> さて、どうしたものかと、綾音は薄く笑って首の骨を鳴らす。<br />「ああ、可哀想に可哀想に。貴女みたいな美人、虐めるのってたまんないね。変なのに目覚めそう」<br />「くっ――うう」<br />「しかしね。一度は命を賭したんだ。負けたら殺されるんだよ。貴女は現に、私の首を欲したでしょ。あのままだったら、貴女は確実に私を殺した。では立ち場が逆転して、今度は貴女が殺される番だ。文句ある?」<br />「や、やめて――なんでもするから――何でもする……死にたくない……ッ」<br />「都合のいい話。良いかな。ESPを行使する人間は、どうやったって表の世界じゃ生きていけない。その力は確実にどこかに管理される。ノラ能力者なんて危なすぎるからね。つまり、失敗すれば削除されて然るべきだ。殺されて然るべきだ。百刀、貴女は今から死ぬ。大丈夫、ちゃあんとお姉さんが優しくしてあげるから。どう死にたい? 素粒子ぐらいに分解したっていいし、潰してコンクリートと一体化させても良い。手間かかるけど、貴女の中身で核融合起こしたって構わないよ」<br />「あ、ああ――ここ、まで……なの。アタシ、何にも、得ないまま――」<br /> 最期を覚悟したのか、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。<br /> 一体どれほどの後悔を抱えれば、そんな悲しい顔が出来るだろうか。<br /> 十数年の命、遺伝子複製体。その生命は、元から彼女のものではなかっただろう。<br /> 利根河撫子になれなかったもの。利根河撫子になる事を目指す事も出来なかったもの。<br /> 手を上げる。<br />「アリス――」<br />「――はあ」<br /> 百刀の首根っこを捕まえ、屋上の地面に放り投げる。<br />「あ、ぐっ」<br />「このイケメン殺しちゃうと、悲しむ子多いんだろうなあ……ヤりあって情が湧いたのかも。やっぱやめ。私も殺したくない」<br />「――あ、綾音」<br />「身の程は弁えなきゃねえ」<br /> 胸部プロテクタから飴を取り出し、一つは口に含み、一つを百刀に投げてやる。<br /> 彼女はポカンとしたままそれを受け取り、口に含んだ。一瞬頭を抱えるような仕草を見せる。サイキックチャージャの反動だろうが、その程度で済んでいるというのだから驚きだ。<br />「一応工作員なんでね。敵方の能力者も把握しておこうと思ったの。そしたらなんか、とんでもない奴で、お姉さんびっくりしたよ。触らぬ七星に祟りなしって、十年前の政治家の失言だっけ?」<br />「二十年前、かな」<br />「あちゃ。歳がばれる。ううん。ねえ、百刀。貴女が七星の先兵であるのは解るんだけど……やり過ぎだね。早死にするよ」<br />「……何の価値も無いままなら、早死にの方が、マシなんだよ、アタシ達『撫子姉妹』は」<br />「殺さない代わりに幾つか聞こうかな。いいね」<br />「それは――」<br />「私から話しましょう」<br /> さて、その人物はどこから現れたのか。<br /> 人気など在る筈もない旧校舎の屋上で、鉄柵の上に佇む女性が一人、声を上げる。<br /> 高みの見物とは良い御身分である。<br />「やっと出たか」<br /> 風にメイド服が翻り、なんとも非現実感を漂わせていた。音も無く彼女は屋上に降り立つと、ツカツカと歩き、綾音と百刀の間に立って丁寧にお辞儀する。<br />「こんばんは、綾音嬢」<br />「やあ。私の頭の中、良くも覗いたね」<br />「はい。ただ、隙を見つけないと影響が出せませんね。取り敢えず、百刀」<br />「――は、……はい。兼谷様」<br />「……十分にデータが取れました。『良くやりましたね』」<br />「……はい」<br />「貴女が役に立って本当に良かった。これで貴女には価値が生まれます。今後もその能力、七星の為に存分に発揮してください」<br />「うわあ、悪役だなあ、貴女。何者? ただのメイドじゃあないよね。七星の、どのあたりの人?」<br />「いいえ。ただの、メイドで御座います」<br /> 兼谷は表情一つ動かさない。<br /> まるで湖底の大木のように、冷たく、時の流れを感じさせない。<br /> 遺伝子複製体達の統括だろう。<br /> ともなると、彼女達よりも上位の遺伝子複製体という可能性もある。彼女が扱う感応干渉は、ここで働く洗脳装置よりも強力とみて良い。つまり、綾音が一番相手にしたくない人間だ。<br />「仕事熱心な事で」<br />「貴女こそ。SAU1特別実働調査官殿」<br />「あら、バレてるね。そりゃそうか」<br />「拝見しましたから。此方を察知されてからの防壁が強固で、突破には時間がかかりました。貴女は内務省国内公安局特務公安第一課所属の、公僕でいらっしゃる。第一課というと、暴力的な事で知られていますね。ESP能力者を実働部隊に含む、日本国企業の監視人。七星には手を出さないと思っていただけに、意外です」<br />「ひっそりやってたからね。私っていつバレたの?」<br />「最近です。良くもまあ一般生徒に紛れましたね。不覚でした。評価に値します」<br />「それはそれは。で、どこまで調べて、何処まで解ってて、その子と私を争わせたのかな」<br />「高位のESP能力者との実戦データが欲しかったのです。達成しました」<br />「ああ、全部解ってる訳じゃないのかな」<br />「――どういう事でしょう」<br />「全部知ってたら、普通戦わせたいとも思わないから」<br />「……噂には聞きます。しかし、実際見てみませんと、如何ほどのものか。しかしこれで解りました。なるべくなら、貴女から直接お話を伺いたいのですが」<br />「もう十分じゃない? まだ必要かな」<br /> 兼谷に歩み寄る。<br /> 干渉壁は再構築し直した。一回、二回程度の感応干渉ならば防ぐ事が出来るだろう。<br />「遺伝子複製体は、貴女達の人形? 彼女達は、貴女のおもちゃなのかな?」<br />「……私達に付き従う事が、彼女達遺伝子複製体のレーゾンデートルだからです。彼女はESP実験体。私達の期待に応えなければいけない。そしてなるべくなら、期待を上回らなければいけない」<br />「誰にも話さないからさ、教えてよ。七星、何がしたいの? この学院で、何しているの?」<br />「粗方調べたとは思いますが。厳密には利根河撫子の完全復活です。遺伝子と、記憶を弄り、組み立て、再現し、七星二子を利根河撫子に仕立て上げます。次世代記録媒体は御存じですか」<br />「資料にあったな。あれ埋め込んでるの、あの子達。つまり、それにデータを蓄積して……撫子を再現しよって事? データが魂足り得ると?」<br />「良く御存じですね」<br />「なるほど。幾つか引っかかる点はあるけれど、そっか。解った、誰にも言わない」<br />「そうして頂けると助かります」<br />「でも、じゃああの子は?」<br /> 百刀を指差す。彼女はびくりと震えた。綾音にではなく、兼谷に怯えているように見える。<br />「撫子復活の副産物です。そもそも七星のESP研究自体、全て撫子の副産物と言っても過言ではない。記録媒体にESPデータを乗せる事で常人であろうと能力を行使出来るようにまでなっています。彼女は適正があった。BからB++までの能力者相手なら彼女で十分ですね。主要施設の用心棒として雇えるでしょう。彼女には価値が産まれました」<br />「……彼女は、利根河撫子の複製体でしょう。そして、当時を再現しようと、杜花やアリス、早紀絵なんかも弄ってる。そうだね」<br />「……」<br />「撫子の資料を漁る限り、百刀達が……杜花やアリスに恋慕を抱く可能性だってあるでしょう。現に、支倉メイは早紀絵にべったりだ。彼女達は、辛くないのかな。幾ら複製体っていっても、やっぱり個人でしょう」<br />「個人、としては扱っています。彼女達がどう思うかは、別として」<br />「――兼谷様」<br /> 震えていた百刀が口を開き、立ち上がる。いつものオトコノコのような雰囲気はない。そこにいるのは、戦いに負けた、惨めな女の子が一人だ。<br />「私は――個人でしょうか。個人になれたでしょうか。利根河撫子ではなく、戻橋百刀として、生きていけるでしょうか」<br />「ええ。結果は一郎様にお伝えしましょう。きっとお喜びになられますよ」<br />「綾音を、倒せませんでしたが」<br />「物理的な能力で、強度EX相当の彼女を打倒するのは理論上不可能でしょう。これを倒すとなると、相当に特殊な処理が必要になる。毒殺も無意味そうですし……さて、鷹無綾音嬢」<br />「あいあい。何かな」<br />「取引をしましょう」<br />「ああ、穏便なの大好き」<br /> 彼女は『ただのメイド』と自称するが、その澄みきった雰囲気は修羅場をくぐり抜けた戦士にしか出せないものがある。感応干渉も操るとなると、正面からやり合うのは面倒だ、なるべくならお話合いが良い。<br />「今の戦闘を見る限り、貴女は余裕があります。しかし数度に渡る私の感応干渉を全て防ぎきれていない所をみると、パッシブで展開されている干渉壁自体は、大して厚くはない」<br />「御明察通り。私は外に向けて出力するのが得意なのであって、通常時の干渉壁は薄いんだよねえ。ESP耐性は強められるけど、疲れる。加減が難しいんだ。いやあ、見抜かれるものだね」<br />「今、貴女のお部屋にうちの警備員がいます」<br />「――まあ、大体予想したけど。それが嫌だからこそ、急いたんだよねえ」<br />「大切なお友達の頭が吹き飛ぶか、何事も無く終わらせるか、選んでください」<br />「おっと。高圧的に来たね」<br /> ――人質はいつでも考えられた。<br /> 人の頭を読みとる彼女からすれば、綾音にとって何が大事なのかはよく分かっている筈である。<br />「マイ、良い子に寝ていると良いけど。可愛いんだ、あの子。凄く可愛い。大好きなんだよねえ」<br />「では、引きますか」<br /> 真衣子は怖い想いをしているだろうか。<br /> 寝ているのならば、そのままにしてあげてほしい。<br /> 真衣子を犠牲にするつもりなど毛頭ない。<br /> そして、引き下がるつもりも理由もない。<br />「兼谷さん、少し違う。貴女は見誤っているよ」<br />「はて、どのようなことでしょう」<br />「私はここからでも、その警備員を今すぐ殺害出来る。なおかつ、全力で感応干渉を防いだ後、兼谷さんを爆殺するぐらい造作も無い。もう少し賢いと思ったんだけどな。あまり、私を舐めない方が良い。貴女がここに現れた時点で、貴女は人質と変わりない。そもそも――この旧校舎ごと、吹き飛ばしたって良いんだ。いいか七星、馬鹿にするなよ」<br />「――視覚外の対象に、攻撃が可能であると?」<br />「場所限定の千里眼みたいなもんかなあ。それに少し疲れる。入った事無い場所は詳細までは解らないんだよ。でも、毎日暮らした場所、守りたい人の近くなら、直ぐわかる」<br />「少し興味がありますね。貴女、どのタイプのESPを保有しているんですか」<br />「物質変化、質量変化、念動力、身体強化、重力制御、限定千里眼、限定物質転移。あとは諸々あるんだけど、具体的に挙げようが無いんだよね。大体願った通りに働く」<br />「なるほど……しかし……大覚醒で……よく……」<br /> 兼谷はブツブツと呟きながら、まるで綾音を値踏みするかのように見る。<br /> 綾音はジョーカーだ。<br /> どんな状態すら覆す、デウスエクスマキナである。これに交渉を持ちかけよう、というのがそもそもの間違いだ。ただ、兼谷にも目的と使命があるだろう。綾音も考慮するつもりでいる。<br />「どうするの、兼谷さん」<br />「それが、アルティメット。貴女、歩く核弾頭?」<br />「核の方がマシって場合も多々あったねえ」<br />「それだけの力がありながら、何故公僕など」<br />「逆だね、そんだけ危ないからさ。どこかの管理下にあった方が良い……私は、歩く力だ。私は上からの指示で動く。けど、本当に必要かどうかは自分で判断するよ。そして、私は戦乱も、戦乱の解決も、望んじゃいない。私は愛国者だよ。この国がね、もう少し自由で、もう少し綺麗になればいいって、想っているだけ。人は好きに生きれば良い。争うなら争えば良い。ただ、それらを私が全て解決した先に待ち受ける未来って、本当に先があると思うかな?」<br />「……上は、貴女を戦争には差し向けないのですか」<br />「行ってくれと言われて、行く事もあった。本当に極秘に。だって――私が全て終わらせたら、たぶん、人間は正気じゃいられないよ。どんな兵器を持とうとも、どれだけ強靭な部隊を編成しようとも、衛星兵器で狙い打ちしようとも、それが物理法則に従っている攻撃なら、私は死なないし、殺されない。こんな人間外の人間が町を闊歩してると解ったら、どう思う? 私は不安で仕方が無いね。それを抱える国も、それを敵対国とする国も。全部のバランスが崩れちゃう。だから、私は潜入調査官でいい。軍人でも兵器でもない。ああでも、宇宙大怪獣とか、クトゥルフみたいな神話生物が出て来たらまかせてよ、たぶん勝てるから、ははははっ」<br /> 兼谷の表情が、多少崩れたように見えた。百刀は具合が悪そうな顔をしている。<br /> それもそうだ。<br /> 誠に残念ながら、SAU1とは真実を知るだけで自身の生命から財産、全てに至るまで危機感を覚えてしまうような、そのような存在なのだ。<br /> 何もかもがペテンで、何もかもがその前にして無意味。<br /> 人類の英知も、人類の矜持も、絶大すぎる力の前に意味を成さなくなる。<br /> あの時、たった一人の愛する少女の仇を討ちたいと、この理不尽な現実を全て覆したいと、そう願った時、鷹無綾音は『繋がった』のだ。<br />「――自身の危機と感情の爆発による、大覚醒。あの出来事、余程悲しかったのですね」<br />「頭覗かれるって気持ち悪いな。思い出したくもない。触れないでくれる?」<br />「そのお話を聞ければ、此方はデータを提示する意思があります。警備員も引き下げましょう」<br />「信じられるかな、その話」<br />「今すぐ爆発する爆弾を目の前に、嘘を張り巡らせても意味はありません。私としましては、計画に支障が出なければ、それでいい。あと、ここで聞いた話を、特に杜花お嬢様やアリス嬢、早紀絵嬢に伝えるような真似は、勘弁願いますか」<br />「しないしない。で、今確認する。警備員下げて」<br />「お待ちを」<br /> 兼谷が腕時計型端末から連絡を取るような素振りを見せる。意識を集中し、自室を覗き見る。<br /> どうやら本当に下げた様子だ。<br />「やっぱアレ、七星は契約って」<br />「ええ。極力遵守します」<br />「そっか。じゃあ私も」<br />(此方SAU1)<br />(どうしました。通信が切れてましたよ、無事なんですか)<br />(そら私が無事じゃなかったら、この一帯が消し飛んでるよ。これからお相手と交渉するよ。これは全部私の権限で行う。文句はないね。有ろうものか)<br />(それは……)<br />(学院近くに伏せてる奴ら下げて。私が退場する用の車だけ置いてて。貴女乗せたまま。待っててねん)<br />(……了解)<br />「さて、うちのも下げた。何から話す」<br />「お話するのであれば、階下に移りましょう。温まれますし、お茶もお出しできます」<br />「ん。遠慮する。何せ私、貴女の感応干渉抑える事は出来ても、疲れるから。話す事話して、貰うもの貰って、退散する」<br />「左様ですか。ではここで」<br /> 取引は信用値するにしても、取引後がどうか解らない。<br /> 真衣子に手出ししないにしても、綾音は彼女の感応干渉を完全には防げないのだ。なるべくなら直ぐに退散出来る位置に居たい。<br />「百刀、寒くない?」<br />「ちょっと寒い……うう……」<br /> 真冬の夜中だ。例え人並み外れた力を持っていようとも生身の人間、凍える事もあるだろう。<br /> 綾音は百刀に手を翳す。<br />「干渉壁解いて。少し細胞を動かすね。あったまるよ。まあ、熱量増えてお腹は減るけど」<br />「うわ――本当だ。君、本当に滅茶苦茶なんだね」<br />「そうだねえ――で、この能力の話だっけ、兼谷さん」<br />「少し覗きましたから、発動条件自体に疑問はありません、七星としても周知です。しかし問題は、その覚醒をもってして正気でいられる貴女、そして……貴女が蘇らせようとした子の事です」<br />「トラウマを抉られるようで気が引けるけど」<br />「では。何故、貴女は正気なのですか。地球破壊爆弾さん」<br />「わかんないね。もう狂ってるかもしれない。私の正気を誰も保証してくれないから。でも、人を憎む気持ちも、人を愛する気持ちも、他人の辛さも痛みも、私は知っているし、それを配慮して接する事が出来る」<br />「――ふむ。質問を変えます。上海での出来事、貴女はどう思いましたか」<br />「最初はどうでも良くなった。でもこの力があるなら何でも出来るって万能感があった。そして失望した」<br />「では、貴女が蘇らせようとした、劉美織(リゥメイジィ)の事です。生憎途中までしか覗けませんでしたが――貴女、あれを蘇らせて、彼女は息を吹き返して――何故、貴女を襲ったのか、理解出来ましたか」<br />「『あっちがわ』が観えたんだ。少し抽象的な話になるけど」<br />「構いません」<br /> ……自身の能力を過信し、綾音は美織の復元を行った。<br /> 首を元に戻し、胸の穴を塞ぎ、血液を補充し、心肺機能を復活させた。<br /> 手術にしてはいささか無茶ではあるが、人間としての機能は間違いなく元通りである。程なくして美織は眼を醒ました。<br /> だが、目を醒ました彼女は、敵意をむき出しにし、綾音に襲いかかったのだ。<br />「突然首を絞められた。何事が起こったのか解らず、私は取り敢えずそれを引きはがした。それで終わったなら良かったけれど、美織の敵意はただ私だけに向いていた。オカルトだけど、そうだね、キョンシーとは言わないけど、木偶というか、そんな感じがあったよ」<br />「美織さんを、貴女はどうしたんですか」<br />「……どうやっても立ち向かって来る。念動力を無理矢理ぶつければ壊れてしまう。加減が解らなかった。あろうことか、美織まで、ESPを行使し始めた。脳味噌が変な風にくっついたんじゃないかな。能力同士が干渉して、酷く消耗したのを覚えてる。そして美織は、まるで力を使い果たしたように、そのまま絶命したよ。私は彼女と力をぶつけている間、不思議なものが観えた。これは恐らく、君に初めて話す」<br />「不思議なもの、とは」<br />「なんだろうね、記憶のスープだろうか。自分の記憶、美織の記憶、見た事も無い奴の記憶、人類が記憶している筈のない記憶、その全部。ただただ、私は『やってはいけない事をやった』と、そう思った……で、こんな話を聞いて、貴女は何か得があるのかな。まああるよね――そうか、撫子復活に、不具合でも、あるのかなあ……?」<br /> 兼谷は無表情のまま、小さく頷く。知られても問題無い事なのだろう。恐らく内部だけの問題なのだ。<br /> しかし、そうなれば幾つか合点が行く。<br /> 大量に作られる遺伝子複製体と、記録媒体によるデータ収集。<br /> いつまで経っても終わらないプロジェクト『ヌル』は、きっと最大の問題――つまり、魂の在り処を問題視しているのだ。<br />「もう少し情報を頂戴よ。答えられる事も増える。市子、二子は、一郎の実子だね?」<br />「はい」<br />「彼女達にも、記録媒体があった。そうだね」<br />「はい。現在の二子には、撫子姉妹と学院生徒、そして撫子を仮定したロジックが組み込まれています」<br />「何度やっても、撫子が出来ない」<br />「……はい」<br />「……貴女達は、データを魂とした。人間の全てをデータ化して、それを遺伝子複製体、そして実子にも組み込んだ。遺伝子複製体よりも、実子の方が具合が良かった、と見るべきかねえ」<br />「――して、見解は」<br />「貴女達と同じさ。『ガワ』だけじゃ、それは人間じゃない。そもそもガワには、別の物が宿るんだろうと思う。百刀達遺伝子複製体は、産まれた時点で個人だね。そこに無理に入れようってのが無理じゃないかな。私は、空っぽになった美織を、無理矢理起こした。その時、ガワしか無かった彼女に『何』が入っていたんだろうね?」<br /> アレは、人間以外の何かであっただろう。とても人間らしい振る舞いは無く、ただ暴走して朽ちた。<br /> 愛する人を二度殺してしまった。しかし当時の綾音は、そんな事よりも非現実すぎる存在に、暴走した美織の殺害に対して、驚くほど冷静だった。<br /> あのような不自然なものを、生かしておいては不味いと。<br />「何かとは、ずいぶん抽象的ですね」<br />「そうとしか言いようが無い。ありきたりだけど、多分、死者の蘇生なんてものは、神様に喧嘩を売るようなもんなんだと思うよ。七星一郎がどれほど撫子を愛していたかは知らないけれど……出来る? 本当に? 出来あがったと思ったソレは……本当に、彼女自身なのかな? 貴女達は、いざ本当に出来あがったものが、撫子で無かった場合の覚悟が、出来ているのかな?」<br />「先達のお話です。肝に銘じましょう。御協力感謝します」<br /> 言葉だけ、ではないだろう。兼谷は本当に感謝したように、深々と頭を下げる。<br /> 彼女達が目指しているものは、人間が触れて良い部分を超越した所にある。<br /> 利根河撫子が死して四十年。<br /> その間、七星一郎という魔人が目指したものが、この学院に詰まっていると見て良い。<br /> ……綾音の目的は、洗脳装置の証拠を得る事だ。彼女達の計画を拒むものではない。<br />「データ、くれるかな」<br />「此方に」<br /> 放られたメモリを受け取る。通常規格のものだ。<br /> 胸部から取り出した端末に接続し、データを閲覧。時限削除を警戒し、複数コピーを取り、即座に本部に送信する。<br /> 任務は終えた。<br /> ではここからだ。兼谷はどう出るか。<br />「さて、私は逃げるけど、追うかな? あ、真衣子に手出したら、私は七星の関連施設、全部ぶっ壊すから。全部だ。何もかも壊す。貴女達の計画も、医療施設も、遺伝子研究所も、七星本社も、数万に及ぶ関連企業も、全部」<br />「――弁えています。それに、私は貴女を信用している。あと、これは一応なのですが」<br />「なにかね、ん?」<br />「七星で働きませんか。最高待遇でお迎えします。お給料、五倍は出しましょう」<br />「――ご、五倍かあ……」<br /> 少し考える振りをする。今の五倍も貰ったら、一年で人生を七周可能な年収になるだろう。SAU1は、本人が否定しても取扱として兵器である為、機密費から維持費が出されている。<br />「いや、お断りしておこうかな。取り敢えず、貴女との約束は違えない。私は貴女との話を、墓場まで持っていこう。これは絶対だよ」<br />「はい。七星と内務省の全面戦争など、引き起こしたくありませんものね」<br />「そゆこと。じゃ、帰ろうかな――あ、そうだ、百刀」<br />「……なんだい」<br />「兼谷さん、少し借りて良いかな」<br />「ええ、どうぞ。私はこれで……ああ、そうだ、一つ」<br />「あん?」<br />「誤差を出したくありません。暫く綾音嬢は『いる』事になりますが、よろしいですか」<br /> 兼谷が此方を窺うようにして尋ねる。<br />「――ま、上手く消してね?」<br />「畏まりました。では、失礼します」<br /> そういって、兼谷は来た時と同じように、音も無く去って行った。<br /> 彼女は感応干渉を扱う。この能力の行使者は、総じて干渉壁が厚い。そして高レベルであり、彼女自身も白兵戦に優れているとなれば……下手をすれば、綾音すら命の危機に瀕するだろう。<br /> あらゆる物理法則をその下に置く綾音でも、ESPによる攻撃はやはり脅威なのだ。<br />「少し歩こう。壁解いて」<br />(重力制御)<br /> 百刀の華奢な手を握り、綾音は屋上から飛び降りる。羽毛のようにふわりと地面に降り立つと、綾音は先に一人で歩き始める。<br />「兼谷様は、恐らく君を消したがっている」<br />「そりゃあねえ。七星は善意と秩序を好む。彼らが『日本的秩序』を世界に構築するその日までは、きっと歩みを止めないし、その障害になるものは、排除したがるでしょうねえ」<br /> 現七星の理想とは、七星一郎の理想に他ならない。一大軍事国家、経済大国、医療福祉大国として世界の上位に君臨する現在の日本は、単独与党で三十年政権を実現した自人会党と、彼の方針による影響が大きい。<br /> 確かに、今の日本は裕福である。恵まれている。ホームレスなど趣味以外の何ものでもなく、性別による差別は減り、頑張ればその分見返りが望めるという、理想国家に近い。<br /> ただ……七星は強権すぎる。<br /> 有能な王による王政こそが最も優れていると言われる理由も解るが、それでは民衆は如何すればいいのだろうか。形だけの民主主義のままにその身をやつし、されるがままを是とするのだろうか。<br /> いざ利根河真が滅び、次代に移り替わった時、その王が本当に理想国家を夢見、努力してくれるだろうか。<br /> たった一人の人間の采配によって、大多数の民衆が右往左往しているようでは、恒久的な平和など夢物語である。<br />「ただ、私は切り札だからね。七星も利用しようとするだろうさ。一軍団を派兵する苦労を、私一人派遣するだけで済ませられる。こんな簡単お手軽な戦略兵器、なかなか無いしねえ」<br />「戦争には、いかないんじゃないのかい?」<br />「余程追い詰まったら考えるよ。ま、現状あり得ないけどね。アメリカと戦争するってなら違うかもだけどねー」<br /> 笑って言う。再統一アメリカと戦争はあり得ないだろう。そもそも同盟国であり、軍事統合が進んでいる。メリットが一つもない。<br /> 現在の日本の軍事力で行けば、冷戦時のソ連とアメリカが全面戦争を行うに等しい。地球が三つ無くなる。<br /> そんな話をしながら、人気のない学院の道を歩む。<br /> 二年半以上ここに居た。もはや故郷といっても差支えない。ここは良いところだった。<br /> 乙女達が夢に恋に会話の花を咲かせ、理想を語る。<br /> 辛い時も、悲しい時も、優しく美しい上級生がゆっくり諭してくれる。<br /> 皆落ち着きがあり、清楚で清潔、人間の汚い部分がまるで見受けられない、花園である。<br /> そして裏を覗けば、それとはまるで違った、淫靡な世界も広がっている。<br /> 過去五度ほど女子高生として潜入調査を行った事があったが、ここは綾音の薄暗い欲求を満たしてくれるに十分な程、過ごしていて好ましい場所であった。<br /> こんな結末になってしまったのは、悲しいが、仕方が無い。<br />「それで、どうしたの、綾音」<br />「まあ、座りなさいな」<br /> そういって、近くのベンチに腰掛ける。街灯からの明りの下、白い息が流れて行く。<br />「寒くないかな」<br />「うん。本当にお腹すくね、これ」<br />「はい、飴ちゃん」<br />「これ、普通の飴だよね」<br />「急速吸収ブドウ糖だけど。ねえ、百刀」<br />「――うん?」<br />「貴女は、アリスへの気持ちを前世の因果、なんて表現したけどさ。あれは、遺伝子の影響かな」<br />「その話がしたくて、呼びとめたの?」<br />「気になるじゃない。大丈夫、誰にも喋らないし」<br />「そうかい。それに関しては……解らない。アタシは、小さい頃から遺伝子複製体である事を明かされて、七星の盾になるよう教育されてきた。この学院に入って、市子御姉様をお守りしながら、ESP実験体として生きる事を余儀なくされていたんだ。それを不自由と思った事は無い。遺伝子複製体である事だって、たまに忘れてしまうほど、結構どうでもよかったんだ。でも、アリスを見て、アリスに出会って、衝撃的だった。ましてそれが、お守りする市子御姉様のものであると知って、一時期は、殺意すら覚えた」<br />「そして彼女は死んだ」<br />「七星が何を考えているのか、アタシには解らないんだよ。だから、計画を邪魔するつもりもないし、考えようとも思わない。でも、アリスの事だけは別だった。この気持ちが純粋な恋であるのか、それとも刷り込まれた記憶から来るものなのか……そもそもアリスは人のものなのに、それについて悩むなんて、馬鹿みたいかな」<br /> 百刀は空を見上げる。街とは違い、星が良く見える。<br /> 遺伝子複製体等は、皆似たような悩みを抱えているのかもしれない。<br />「支倉メイはどうなの?」<br />「あの子は、遺伝子複製体の中でも突出した変人だからね。自由な子なんだ。それにほら、彼女が大好きなのは、恋人が沢山いても問題ない、満田早紀絵だから。ちなみに言えば、アタシも彼女が嫌いじゃない。そう考えるとやっぱり、本当の気持ちなんて、アタシにはどこにもないのかもしれない。全部七星の掌の上。自由は全て仮初で、個人なんてものは、笑ってしまうほど、希薄なんだ」<br />「抜けようとは」<br />「思わないよ。ここにいれば、生きていけるから。それとも、無理矢理天原アリスを連れて出て行くかい? 計画に支障が出る。アタシは兼谷様に殺されてしまうよ。それに、アリスが望まない」<br />「アリス、そして杜花、早紀絵。あの子等は、自身が何者か知らないでしょう。もし、彼女達が自分達は仕組まれている存在だと気がついた時、どうするだろうねえ?」<br />「――ねえ、綾音。もしかして、焚きつけてる?」<br /> なるほど、そのような考えも出来たかと、綾音は笑う。<br /> 百刀を焚きつけて計画の破綻を狙っているのではないか、というものだが、そんな考えは一つもない。純粋に、彼女の気持ちが気になるのだ。<br />「もう仕事終わってるんだ。コイバナみたいなもん」<br />「そう。でも、どうだろうね。彼女達は小さい頃からずっと一緒だ。例え『庭園の乙女達』という括りにされていたとしても、彼女達が積み上げて来た気持ちや思い出が、君は嘘だと思うかい?」<br />「いいや。でも、悩むだろうね」<br />「……そうだね。多分、兼谷様は、彼女達にそれを思い出させるだろうと思う。今は圧縮再現の最中なんだ。詳細は知らないけれど、再現となれば、彼女達が仕組みを明らかにして、思い悩む必要があるだろう――鍵は恐らく、欅澤杜花」<br /> 黒髪の、強靭な乙女の姿を思い出す。観神山女学院占拠事件で、犯行グループを三名殺害した欅澤花の孫。確実に、利根河撫子に一番関わりが深い。同時に現在、七星市子に最も近い欅澤杜花である。<br /> 市子が亡くなった後の彼女は見ていられなかった。何もかもが演技なのだ。笑った顔も嘆く顔も、形を作っているだけで、心が無い。早紀絵とアリスに迫られながら困惑する彼女は、見ていて痛々しかった。<br /> もし、感応干渉を破り、記憶を取り戻した場合――欅澤杜花は、七星二子をどうするだろうか。首謀者の兼谷をどうするだろうか。<br /> ほぼ解りきっているかもしれない。欅澤杜花は兼谷を許さないだろう。<br /> 七星によって生み出された物語は、未だ継続中なのだ。欅澤杜花はどうするのか。七星は欅澤杜花をどうしたいのか。<br />「……幸せって、考えた事ある?」<br />「……あるよ」<br />「彼女が亡くなったって話したでしょう。あれは本当。人質に取られて、首ちょんぱされたんだよねえ」<br />「――そういう所に勤めていると、辛い目にあるものだね。可哀想に。慰めが欲しいかい?」<br />「おっと。調子戻って来たね。慰めてくれるの?」<br />「……やめよう。逆に食われそうだ」<br />「それが正解だなあ。私、生物干渉の上位互換だからね。勿論、人間の快楽も――」<br />「うへえ」<br />「くふふふ。まあ、そんな事があってさ。あんまり、人は好きにならないようにしてたんだけど。気になっていた子はいたよ。その子についこの前告白されて、しかも私、応えちゃったんだよねえ」<br />「――悲しいね。君は居なくなるのに」<br />「……うん。それで少しお願いがあって。殺さない代わりといっちゃあなんだけれど」<br />「聞くよ。なんだか今夜だけで、君に色々教わったからね。私も、個人が確定したし、御礼がしたい」<br />「マイに優しくしてあげてくれるかな。きっと、私が居なくなったら、酷く落ち込む。自業自得だから、人に頼むなんて申し訳ないんだけど、あまり辛い目に合わせたくない。彼女の恋を、悲惨な記憶で彩りたくない。彼女、可愛いんだ。多分、貴女も気に入る。お願い」<br /> 真衣子との思い出を追憶する。初めて出会ったのは隣の席。柔らかい笑顔が、とても印象的であった。<br /> 彼女は綾音に懐き、何かある毎に全て報告して、反応を窺う。常に笑顔で、綾音にも笑顔を分け与えようと、必死だったのかもしれない。<br /> 彼女は人気者で、お嬢様方に囲われる彼女を、綾音は遠巻きに見ていた。この年で、女子校生の真似をしすぎるのも痛々しい。自分は愛も恋も友情も無く、あの少女とは一定の距離を保とうと、そう考えていた。<br /> しかしそれでも、真衣子は綾音に頼り、縋り、笑い掛け、気を使い、小さな恋心を見せて来た。<br /> 否定する気持ちは何時しか彼女に融かされ消され、隣に居るのが当たり前になってしまっていた。<br /> そうだ。<br /> 自分は、そんな子にいつも弱い。真衣子はきっとどこか、美織に似ていたのだろう。<br />「……綾音?」<br />「うん? 何?」<br />「泣いてるよ」<br />「携帯核爆弾がね、女の子一人悲しませるぐらいで泣いたりしないよ」<br />「でも」<br />「泣かないよ。私みたいなバケモノ、きっと彼女と一緒になっても、悲しみを増やすだけだよ。だから、これは結果的に良いんだ。彼女は当たり前の幸せを謳歌してくれればいい。だから、百刀」<br />「……解った。努力する」<br />「うん。申し訳無い。じゃあ、行くよ」<br /> 立ち上がる。<br /> 百刀は暫く俯いたあと、その顔をあげた。<br /> 少し傷ついてしまったが、本当に美形だ。綾音が手を翳す。彼女の顔は、見る見る間に傷口が塞がり、かさぶた一つ見当たらなくなる。<br />「貴女は七星の掌の上かもしれない。どうしようもない事だって沢山あるだろう。けど、貴女は生きているし、好きな子だって生きている。これは、幸せな事なんだよねえ。どうか忘れないでほしい。百刀、貴女は恵まれているから。悩む事も多いだろうし、これから辛い事もあるだろうけど――貴女は生きて、そして、本当の自分の気持ちを得られる事を、私は願おうと思う。一戦交え、命を取り合ったんだから、和解した後は、友達ぶっても良いでしょう? 私、友達少ないからさあ」<br />「ああ。構わないよ。もしまた出会える事があったら」<br />「うん。楽しみにしてる」<br /> 背を向ける。<br />(脚力強化。減重力。念動力最大出力)<br /> 地面をけり上げる。綾音は凄まじい速度で上空へと飛びあがり、観神山女学院の高い壁をたった一歩で飛び越える。<br /> そのまま森の中を走り抜け、指定座標に移動。<br /> 本当に、脱出しようと思えば一瞬なのだ。指定の車がある場所まで、十秒もかからなかった。<br />「へい」<br /> 車の窓を叩く。無線に耳を凝らしていた諜報員の女性、加瀬堂は身体をビクリと跳ねあげて反応した。<br />「――主任。お疲れ様です。首尾は」<br />「データは本部に送ってる。これがそのデータが入ったメモリ。私は疲れたよ」<br />「……何度目でしたっけ、女子高生」<br />「六度目かな。観神山女学院は、本当に良い所だった。卒業しちゃうのが、惜しくてねえ」<br />「……そうですか」<br />「惜しくて……惜しくて……」<br />「主任、その、だ、大丈夫ですか」<br />「私――久しぶりに好きな子が出来たんだ。凄く、可愛い子でさ。大好きだったんだ――もう、車、出して、ほら、加瀬堂、早く」<br />「はい。はあ、まあ、戦略兵器って言っても、女性ですもんね。そりゃ、泣きますよね」<br />「五月蠅い。怒るぞ」<br />「やめてください、観神山が消滅します」 <br /> 消えてしまうのだ。いつもこうだ。今回は殊更酷いというだけである。<br /> 鷹無綾音は今をもって失踪となる。<br /> 何もかも、泡沫の夢のようだ。<br /> 遺伝子複製体達の、戻橋百刀の、七星二子の、欅澤杜花達の、神藤真衣子の、未来を想い未来を想像する。<br /> どうか、こんな人間にはならないで欲しい。<br /> SAU1とは、あまりにも弱かったからこそ、願ったのだ。全てを覆すだけの力が欲しいと願った故に、この世の真理がその身に沁みついてしまった。<br /> どうか強い人間であって欲しい。人間が人間として苦難を乗り越えられるようになって欲しい。<br /> 例え辛く険しい道だったとしても、全てを得ようとした先にあるものは、自身の喪失と絶望である。<br />「はあ――加瀬堂。少し泣く。話しかけないでね」<br />「ええ。どうぞ。何か音楽はいりますか」<br />「いらない。貴女がなんか歌って」<br />「無茶苦茶な……もう、解りましたよ」<br /> 加瀬堂が、平成の頃の歌を口ずさむ。<br /> 愛だの恋だの、逢いたいだの逢えないだの、そんな言葉ばかりが連ねられた歌詞だ。<br /> 酷い女である。解ってやっているのだろう。<br /> しかし、今の『SAU1』にとっては、それがあまりにも悲しく、虚しく、自身にピッタリであると納得し、座席にその身を委ねた。<br /> 疲れた。<br />「前線から引退する」<br />「ええ」<br />「あと、もう恋はしない」<br />「……ええ!?」<br />「なんで驚くの」<br />「な、なんでもないし」<br />「はあ――やめときなよ。もう、お休み」<br />「ぐぬぬ……」<br /> 目を瞑る。<br /> 目を醒ました頃には、後悔の一切合財を、全て忘れていますようにと、ただ願う。<br /> SAU1は、ただ願うだけの存在なのだ。<br /> その存在意義は、美織を失ってから、ずっと願いしかなかったのだから。<br /><br /><br /><br /><br /> エピローグ<br /><br /><br /><br /> 首を絞める手を払いのけ、身体を押しのける。<br /> 美織はまるでゾンビ、いや、ここは大陸だ、キョンシーの方が正しいだろう、跳ねあがるように起きる。<br />「どうしたの、美織……私だよ、彩祢だよ」<br /> 当時はそのように名乗っていた。美織の目は焦点があっておらず、まるで虚空を見上げてはギョロギョロと動かしている。生気が無く、行動が人間的ではない。<br /> 何を間違ったのだろうか。<br />「アー……が、く。あお、お前――」<br />「あ、あ、うん。どうしたの、美織」<br />「――『触れたな、此方に』」<br /> その声は、美織のものではなかった。<br /> 薄暗い、闇の底から響き渡るような、恨みつらみを滲ませる女の声である。<br /> 同時に強烈なESP干渉を感じ、彩祢は対抗した。<br /> 念動力が干渉し合い、倉庫内の荷物と男達の死体を巻き上げる。倉庫が暴風域に入ったような様は、明らかにこの世のものとは思えない光景であった。<br />「美織――違う、貴女、誰……?」<br />「……――」<br /> 力を使い果たしたのか、美織の身体が念動力に押し負けて吹き飛ぶ。<br /> そして、その身体はえり奈が復元する前の状態へと戻り、ピクリとも動かなくなった。<br /> ただ恐ろしかった。ただ震えていた。美織と争ったという事実よりも、訳のわからないものを蘇らせてしまったという、恐怖だけが支配していた。<br />「――駄目なんだ。やっちゃいけないこと、したんだ、私は……」<br /> 触れてはならないものがある。<br /> 死体と血液と内臓と貨物が渦巻く塵溜めの中心で、彩祢は声を上げて泣いた。<br /><br /><br /><br />「……駄目だなあ」<br /> どうやら寝てしまっていたらしい。椅子に背もたれ、思い切り身体を伸ばす。机の上の書類はそのままだ。一応最近まで学生をしていたというのに、元に戻ればこの通りである。<br />「感応干渉の影響、出てるのかな。一度医者に診てもらうかあ」<br /> 医者、とはいうが、政府のESP研究室の事だ。感応干渉を深く受けた場合、記憶に様々な影響が現れるとされている。洗脳装置程度の暗示ならば問題なかろうが、綾音は直接兼谷から食らっている。<br /> 報告書は紙だ。直ぐに証拠隠滅可能な為、こういったものには良く用いられる。それらを片づけ、綾音は台所に赴く。<br /> 東京の郊外、都心へは車が無ければアクセスの難しい場所に、綾音は家を買った。<br /> 酷く静かな場所に立つ日本家屋で、生活音に車の音はほとんどない。暫く空き家であった為、最初は虫から蛇からと悩まされたが、一か月ほど暮らして漸く落ち着き始めた。<br /> 報告書の量が多く、やっと半分である。重要事項以外はいつ提出しても構わない、と言われた為三か月ほど放置したのだが、流石にせっつかれた。<br /> ここ最近はこの作業ばかりである為、ほぼ在宅での仕事をしている。<br />「たべものー……キドニー缶……豚肉……チリコンカンかなあ」<br /> 豚肉を細かくし、玉ねぎを刻み、そこにチリパウダーをぶちまける。分量を間違えたが、気にしない。それらをオリーブオイルで炒め、トマト水煮を丸ごと入れ、水を目分量で入れる。<br />「ん……コンソメ……あった」<br /> 固めておいたコンソメを適当量突っ込み、キドニーをぶちまける。<br /> 塩コショウが多めになった。まあいいだろうとして、フランスパンを切り、バターとガーリックチューブを塗りたくり、オーブンで焼く。<br />「おお……出来あいじゃない……私すごいなあ」<br /> チリコンカンが水っぽそうだが、煮詰めれば良いだろうと開き直る。料理しているだけで快挙だ。<br /> つい最近まで一応はお嬢様を繕っていた。演技に凝りすぎて、本当に料理もした事がない世間知らずのお嬢様を未だ引きずっている。<br /> 何も気を張る事のない生活。連絡を頻繁に寄こす相棒の加瀬堂以外とは話もしない生活だ。ここ三年とは違いすぎる日常に、喪失感が大きく、綾音はすっかり腑抜けていた。<br />「テレビ」<br /> テレビが点く。昼間のニュースでは、殺人事件、大陸戦況、社会、面白三面などのトピックがあがっている。社会の項目を選ぶと、丁度入社式や入省式の映像が流れている。<br />「そいや、春だったなあ」<br /> 庭先の桜の木を望む。たった一本だけ、清楚に佇む桜の木が好ましく、この家を買った。<br /> 足元にすり寄って来た猫のチビを抱きあげて、頬ずりする。<br />「ねこねこねこー……かあいい。お前はかあいいねぇ……」<br /> 緑があり、猫がいて、気を張らず、配慮は無く、遠慮も必要なく、命の危機を感じる意味は無く、ただただ、終わりを迎えるような生活だけが、ここにはあった。<br />「んっ……流石わたしぃ、美味し……うわ辛い。これは辛い……」<br /> どうも独り言が多くて困る。それを心配してか、加瀬堂辺りはこんな糞遠い田舎にわざわざやって来ては綾音の世話を焼いて帰る、という、なんだか通い妻のような生活をしている。<br /> 若く美しく、バイタリティあふれる彼女だ。こんな枯れ果てたような女に付き合う必要はないのにと、想いつつも、嬉しくはある。<br /> だが、もう愛も恋も止めた身だ。彼女にはもっと開けた世界と、立派なパートナーが必要である。<br />『続きまして、七星関連のニュースです。七星自動車工業は先週末、アフリカ向けの全自動自動車コンセプトを発表。アフリカ大陸各国の関連企業に対して――』<br /> NANAHOSHI。全世界で知らぬものが居ない、世界第二位の大財閥だ。彼等の存在が世界の全ての動きを調整しているのではないかという、陰謀論すら存在する。綾音も昔はそんな話を馬鹿にして居たが、最近は、本当なのではないかと考え始めた。<br /> 彼等は世界を自分達の秩序に収める気でいる。地球を七星の統一下に敷くつもりなのだ。<br /> しかしそれらを束ねる男……七星一郎は、日本の田舎にある、お嬢様学校に執着する変態である。<br />「……娘、か」<br /> たった一人の娘。利根河撫子の復活を夢見た男。<br /> 観神山女学院に入れていた調査協力者からの話では、実験は全て終わり、七星が撤収したと報告があがっていた。<br /> 欅澤杜花、天原アリス、満田早紀絵、そして、七星二子は生存。<br /> しかし全員が負傷、もしくは一時的に意識不明にまで陥ったとされている。<br /> 一体、何をやらかしたのか。そして、彼女達はそれで納得したのか。<br /> 利根河撫子は、どうなったのだろうか。<br /> 戻橋百刀は、自分を見つけられただろうか。<br /> 神藤真衣子は――今、何をしているだろうか?<br />「マイ……」<br /> 自分は。<br /> 何もかも忘れた筈なのに。何もかもを忘れる努力をしている筈なのに。<br /> 報告書をまとめる度に、真衣子の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。本当に恋していたのだと、どうしようもなく実感する。<br /> どこか緩く、しかし我が強く、変に積極的。<br /> それは――劉美織にも言えた。自分の好みは変わらないのだなと、自嘲する。<br />「……書きあがった分、明日提出に行くかな。医者に行って、報告書出して、次いでに加瀬堂を弄って、飯にでも誘ってぇーかなあ。あいつも、どっか緩くて、我が強くて、たまに変に積極的だしな……あ」<br /> 指輪端末を確認し、メールを読み漁る。大体が加瀬堂からのメールだ。<br />「……やっぱ惚れられてたりするのかな……参っちゃうね、私」<br /> ……飯に誘う案を却下する。あまり触れない方が無難だろう。<br /> 皿に盛ったチリコンカンとガーリックトーストを摘まみながら、また書類に取りかかる。<br /> 書いても書いても終わらない、観神山女学院での、夢と希望と絶望の報告書だ。<br /><br /><br /><br /><br /> この世の真理の一端を担ってしまった鷹無綾音――小鳥遊文子(たかなし あやね)は、あの頃から狂っていたのかもしれない。終わってしまった世界を、ただ一人歩むのだ。<br /> 荒れ果てた大地を進み、全ての亡骸を踏みしめながら、目的のない旅を続けている。時折見えるオアシスは、やはり蜃気楼。辿り着く事は無く、得るものも無い。<br /> 常と超常の狭間を行き来しながら、自分が何をすべきだったのかと、物思いにふけるのだ。<br />「……健康そのものですな。テロメアの減少もない。貴女は美しいままだ」<br />「嬉しくないねえ。そうだ、死にたい場合はここに来ればいいかな?」<br />「お国が許さんでしょう」<br />「ま、いいや、勝手に死ぬから」<br />「一つ。SAU1」<br />「何?」<br />「ゲノムアンチエイジングを施し、テロメアを弄ったのは此方だ。ただね、今の技術だと、普通はメンテナンスしなきゃ、衰えるし減少するんだよ」<br />「はあ」<br />「……自己修復の痕が見て取れる。ここ一カ月で自己再生した記憶は?」<br />「ないねえ」<br />「では確定ですな。恐らく、貴女のESPは、自動自己修復を備え始めたんでしょうな。遺伝子マップ、提供してもらっても」<br />「構わないよ、好きにして。で、つまり、何が言いたいのかな」<br />「そうだね。栄養を取り続ける限り……貴女は恐らく、半永久的に死なない」<br />「わお……こりゃ、本格的に自殺手段考えないとねえ……」<br />「一瞬で粉微塵になるような死に方じゃない限り、無理と断言しよう」<br />「私どんだけ怪物なんだろう。解った。で、脳の方は?」<br />「精神鑑定結果を見るに、ストレスですな。トレースした記憶からすると、うん。恋患いだ」<br />「マジ……」<br />「マジですな。感応干渉の影響は見られない。過去貴女が体験した壮絶な恋人との別れと、最近の別れが重なって想起しているんでしょう。新しい恋人でも見つけなさい。いるでしょう、ほら、加瀬堂」<br />「ありゃ相棒だよ」<br />「んー……こりゃ、修羅場かなあ……」<br />「は?」<br />「いやいや。ま、なんかこう、ブドウ糖でも出しときます。お大事に」<br />「医者が飴をさじで投げた」<br />「医者じゃなく研究者だよ。ほら、忙しいんだ、さっさと帰りなさい」<br />「全く」<br /> 脳味噌のマッピングデータを取られたかと思えば、こんな診断だというのだから参ったものだと、アヤネは頭を掻きながら研究所を後にする。<br /> しかしどうやら、今回の診断で自身の怪物度が上がったらしいと解った。このままでは恐らく、老いや病気で死ぬ事はないだろう。自殺法に頭を巡らせながら、本省庁社に向かう。<br /> 丸の内からだ。霞が関まで車に乗る必要も無いだろうと、皇居近くを進みながら、まるで神殿のような五菱と七星の本社ビル群を眺めながら歩む。<br /> この国の行き先。<br /> 日本臣民の行きつく先。<br /> メガコーポはこの国をどうしたいのだろうか。大陸の戦火はいつ止み、軍人たちは何時本土の土を踏めるのだろう。収束には向かっていると聞くが、肥えた軍需産業や傭兵企業、そして投資家達は、まだ続けていたいと願っているだろう。<br />「七星か。本当の本当に、娘の為だけに、あそこまで成りあがったのかもなあ」<br /> たった一人の娘を愛するが故に、愛していたからこそ、彼は悪魔と罵られながらも、この国の頂点に立った。そう考えると、なんと娘思いな父であろうかと思えるが、その実は、あらゆるものを犠牲にして成り立っている。<br /> 被害者はどれほどの数存在するのだろうか。<br /> 個人を個人と認められない遺伝子複製体等は、どれほどいるのだろうか。<br /> 杜花達は、平穏な生活を手に入れただろうか。どうやら御姉様として市子の跡を継いだと聞き及んで……いるの……だが……。<br />「……う、おお……マジ……?」<br /> ナナホシ製薬本社ビル入り口付近に、重厚な造りの車が数台止まるのが観えた。<br /> 中から出て来たのは、黒髪の乙女だ。足にはレッグサポータが見て取れる。<br /> 見間違えるか、見間違えようもない。まるで狐につままれたような気持ちだ。<br />「な、七星市子か……うわ、なんだこれ……うそでしょ。遺伝子複製体? いやいや、オーラが違う。……ふ、ふふ。こりゃ、はは、笑っちゃうなあ」<br /> アヤネは足を進める。<br /> 入口では、黒髪の少女に対して役員らしき男が頭を下げている。間違いあるまい。黒服の中に……見覚えのある少女も混じっている。あれは、戻橋百刀だ。<br />「おうい!!」<br />「――ん?」<br /> 長い黒髪を靡かせ、七星市子が振り返る。近くに百刀が警戒したように並ぶが……市子は笑い、百刀は眼を瞬かせた。<br />「綾音!」<br />「綾音……」<br />「なんだ、生きてるじゃないか。やっぱり葬儀は偽装だったねえ、ええ?」<br />「ふふ。あまり、人に言っては駄目よ、綾音」<br />「元気だったかい、綾音」<br />「ああ、どうやら死なない人間になったらしい、私。市子は、まあ御挨拶か。百刀は護衛だね」<br />「色々あるのよ、大変ったらないわ……でも、綾音、その」<br />「ん。いい、いい。そんな顔しないで。綺麗な顔が……もっと綺麗になるから。そうか、じゃあ、あははっ! 杜花達は、知ってるんだよね?」<br />「ええ。全て終わったわ。みんなで幸せになるの。幸せに、しなきゃいけない。七星市子には、その責務があるわ。まあでも、百刀に、アリスはあげられないけれど。ごめんなさいね?」<br />「……おほんっ。何せまず、杜花様を倒さない事には厳しいからね。市子様に預けておくよ」<br />「まあ、不穏。謀反の可能性も考えないと」<br /> コロコロと、市子が上品に笑う。合わせて百刀が嬉しそうに笑った。<br /> なんとも今日は良い日だ。百刀も、市子も、まるで今を憂いているようには見えない。<br /> 七星のプロジェクトヌルが、どこまで至ったのか、それは解らないが……悲しむ人が最小限に抑えられたのだろう。また、市子の美しい笑顔が見れたのだ。百刀が本当の笑顔で笑っているのだ。これを喜ばずには居られなかった。<br />「綾音。聞いたわ。兼谷が、迷惑をかけたわね」<br />「いやいや。私こそスパイだしねえ。ああ、そうだ。もう、諜報員はやらないんだ。これ、新しい名刺。これで戸籍登録してるから、あ、連絡先も書いてある。私的な奴ね」<br />「……いいの、特公(とっこう)の貴女が」<br />「市子は頑張るんでしょう? わざわざこんな本社に挨拶来てるんだし。もし、市子の理想が、私に近いなら、私は協力するよ。本当に合致するなら、七星に勤めたって良い……百刀」<br />「うん。市子お嬢様は……アタシ達を、見てくれているよ。アタシも、頑張る」<br />「そうだ、百刀。その、マイは――」<br />「うん? そら、元気だけど……あれ……そうか。まだなんだ。ふふ、楽しみにして居ると良い」<br /> 百刀が意味深に薄く笑う。何の事だろうか。まあ元気ならば良いだろう。<br />「うん、うん。うふふ。ふふっ。そっか! ああ、足止めして悪かったねえ。いつでも連絡頂戴よ。特に食事、最近出来あいばかりだから。じゃあね、二人とも」<br />「ええ……ごきげんよう、綾音」<br />「またね、綾音」<br /> 足取りが軽い。<br /> こんな日もあるのだと、自分の調子の良さを疑いたくなるほど、気持ちが晴れやかだった。<br /> 少なくとも、庭園の乙女達は、救われたのだ。<br /> きっと死と絶望を味わっただろう。そして、何かしらを得ただろう。その中で、アヤネと同じ、酷い真実を知ってしまったかもしれない。けれども、生きているなら。彼女達の精神支柱である市子が生きているのなら、きっときっと、深刻な悩みよりも、人間関係のゴタゴタなんていう、アヤネからすれば瑣末な問題に、頭を悩めているに違いない。それは、生きていて、恋をしている証拠なのだ。<br />「はっはっは。なんだよもう、お昼から、お酒でも呑みたい気分だねえ」<br />「公務員が、給料泥棒なんて言われたら恥ずかしいじゃありませんか、主任」<br />「げえ加瀬堂!」<br /> 内務省本庁舎前で、相棒に捕まる。彼女は黒く長い髪をまとめ、スーツ姿で現れた。いつもは女性職員用の制服なのだが、何かあったのだろうか。<br />「あら。キマッてるね。加瀬堂カッコいい」<br />「そそ、そうです? えへへ……じゃ、なくて。それより、主任。新人が来たんですよ」<br />「ああ、そんな時期だね。家に引きこもって報告書書いてると、世界と離れて行く感覚があってねえ。あ、研修でその恰好か。いやあ、加瀬堂さん美人で羨ましい。さぞかし立派な彼女も居る事でしょう」<br />「いい、いませんよ。まあそれより、ほら、入ってください」<br />「はいはい」<br /> 加瀬堂に引っ張られ、エレベーターに乗り込む。地上二十階に国内公安局特務公安第一課の一室がある。<br />「実は新人に、天才の女の子がいまして」<br />「ほうほう」<br />「高卒なんです。公務員特殊一種、高卒でですよ?」<br /> 実力主義が横行する現代において、学歴は特殊な大学と、最高学府以外飾りだ。全ては筆記と実技……だが、上に登ろうと思うとやはりコネクションが物を言う。<br /> 省庁は広く人材を求め、殆ど全期間、短いスパンで試験を実施しており、高卒でも試験を突破すれば雇われる。この時期ならば、丁度冬の試験で受かった者達だろう。<br /> どうやらその女性は、高卒の身で難関とされる公務員特殊一種試験を突破したらしい。<br />「とんでもないのが居たね。ってか貴女も大学現役じゃない。頭良いねえ? 私は一芸だから」<br />「努力しましたので……で、その子がですね」<br />「うん」<br />「観神山女学院卒業です」<br />「へえ。今春なら、じゃあ私と同級生か……誰かなあ。大体顔は覚えてるけど」<br />「……知らない? ほんとうに?」<br />「そりゃ、新人の名簿みてないしねえ?」<br /><br />「だってその子――自己紹介で、貴女の嫁だって、自任していたんですよ?」<br /><br />「――――――――――………………なぬ?」<br /> 長い廊下を行き、階の一番奥、第一課室の扉を開く。<br /> なんでだろう。<br /> どうしてだろうか。<br /> そんな幸福が、過去あっただろうか。<br /> 良いんだろうか、それで。<br /> 何かの冗談ではないのか。<br />「――――綾音ぇー!!」<br />「う、うわあ……ほ、ホンモノだあ……ッ」<br /> ふわふわした雰囲気。<br /> ふわふわした語調。<br /> しかしなんだか積極的な、アヤネの頭を悩ませた、大好きな子が、何故か事務方の制服を着ている。<br />「綾音! 綾音!」<br />「うわあ……なんだこれ……」<br />「――マジどうしよ……これは強敵ですね……ううん……あ、私も呼び捨てで良いですか、主任。というかアヤネ」<br />「加瀬堂ちょっとまってね、今忙しいから」<br />「くっ――ヤバいなあ……」<br />「綾音っ」<br /> 神藤真衣子が、アヤネの胸に飛び込んでくる。<br />「どうやって突き止めたの、マイ」<br />「えー? 偶然だよー? いやあ、綾音がいて、私びっくりー」<br /> 恐らく、百刀だろう。<br /> 宜しくお願いとした筈なのだが……こんな宜しくのされ方をしていたとは、思いもしなかった。今度会った時、殴った後、褒めてやろう。<br /> 愛も恋も捨てたと、そう言い聞かせて、けれどストレスばかり溜めて、生き場のない気持ちばかりであったアヤネには、神藤真衣子は危険すぎる存在だ。<br /> あの超難関試験を突破してまで、逢いに来たというのだから、その想いが冗談である筈もない。<br />「あのね、綾音」<br />「ああ、うん。なに、マイ。お姉さん今ちょっと頭混乱してて」<br />「もう、第一課と第二課には、私がね、綾音のお嫁さんだって、公言しちゃったあ」<br />「とんでもないぞこの子、加瀬堂、どうしよう」<br />「どうにかしたいのはこっちですよ!!」<br />「な、なんで怒るの!?」<br /> 今日からアヤネは、内勤に配属である。<br /> もう、殺した殺されたという世界から離れ、終わらない余生を猫と過ごすつもりだったのだ。<br /> 愛も恋も無く、夢も希望も捨て去って、一人静かに、仙人のような暮らしが待っているものとばかり思っていたのだ。<br /> だがしかし、どうやらこれでは――<br />「あ、これ、婚姻届。サインちょーだい! ふふ。逃がさないからっ」<br />「実は私も、公文書偽造して作りあげたこの婚姻届、もう提出するだけなんですが、主任」<br />「良し、一端逃げよう。これは戦術的撤退!!」<br />「あ、おいタカナシ、窓壊すなよ」<br />「鍵、鍵だけ壊すから。あ、課長、これ報告書、半分」<br />「おう。ああ、そろそろ所帯持てよ、お前も。んじゃ、残り半分宜しく」<br />「あいあい、さらばッ」<br /> アヤネは、一課室を走り抜け、窓から飛んで逃げる。地上二十階だ。<br />「あ、こらーっ」<br />「主任、結婚ーッ」<br /> ――まるで市子と同じだ。<br /> 死んだ殺した殺された、そんな話に頭を悩ませるのではなく、まるで人間らしく、人間関係に頭を悩ませる事になりそうである。<br /> 自由落下しながら、自身の幸福に涙する。<br /> 自分は。<br /> タカナシアヤネは、人を愛しても良いのだろうか。<br /> 美織の笑顔が脳裏を過る。<br />(美織――ごめん。私ね……やっぱり、幸せになりたい。貴女を失っても、どんな怪物になり果てても、心から笑えるような幸福が、欲しかったんだ)<br /> 地面に着地する。頭上を見上げ、二人に手を振る。<br /> 果てしない荒野に見えた地平は、思いの外様々な想いで溢れていたのかもしれない。視野狭窄に、己の前しか見えないよう、辛い想いをしないようにと、制限をかけていただけなのだろうか。<br /> 突如広がった世界は、全てを捨てようとしたアヤネには、あまりにも広すぎる。<br /> しかし。許されると言うのならば。こんなにも危険極まりない存在でも、人並みの幸せを欲して良いと諭してくれるのならば、それに縋りたかった。<br /> 終わらない悪夢を、目にしてしまった世界の深淵を、少しでも紛らわせられるなら。こんなにも酷い自分を、慕ってくれる子達を、幸せにしてあげられるのならば。<br /> 過去と未来の恋の為に、アヤネはきっと努力出来るだろう。<br /><br /><br /><br /><br /> 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-13914220031880742362013-05-25T23:09:00.001+09:002013-05-25T23:09:50.940+09:00【掌編】 ある日の家呑みで<span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> 姿見の前で自身を改める。<br /> 長く、少しウェーブかかった髪。垂れ目に泣き黒子があるのが少し気になる。<br /> 色気もない部屋着ではあるが、その主張する胸元が余計な着飾りを否定していた。袖を摘まみ、うんと頷く。これから来るのは女友達だが、久しぶりに逢うのだ、あまりだらしない姿は見せたくない。<br />「よしと……」<br /> インターホンの音に気が付き、神子田詠(みこだ よみ)は玄関に赴き扉を開ける。<br />「はぁい」<br /> 予定された来客である。扉を開けると、外では機嫌の良さそうな笑みを浮かべる近藤一香(こんどう いちか)がコンビニ袋を手に提げて立っていた。<br />「やっほ」<br />「うん。いらっしゃい。寒いからあがって」<br />「おじゃましまーす」<br /> 一香を家に上げ、上着を受け取る。<br /> セーターにジーンズという飾り気の少ない服だが、すらりとして高身長な彼女はあまり装飾品を身につけるよりも、そのままでいた方が好ましいと昔から思っていた。彼女は容姿に明るい性格もあいまり、高校時代は常に周りに女の子が居たのを記憶している。<br /> 昔はもう少しヤンチャな空気もあったが、今は年相応の落ち着きも兼ね備えた、立派な大人の女性である。<br />「寒いねえ。ヨミは風邪とかひかないの?」<br />「少し引き摺って。あ、もう治りましたよ」<br />「そっかそっか。あ、炬燵」<br />「入ってて。準備しますから」<br />「はーい……おー、すごい、出鱈目だ。出来あいじゃないね?」<br /> 一香が大げさに、炬燵のテーブルの上に並べられた小鉢等を指差して言う。<br /> 胡瓜と蛸の和え物、鯨のベーコン盛、ゴマ豆腐、ポテトサラダ、凍み大根、カプレーゼ、鶏ささみの山葵和え、自家製ピクルス盛、豚角煮、サーモンマリネ、牡蠣のオリーブ漬け……多品目が少量ずつ盛られている。まったくもって統一感は無く、詠の頭の中にあったものを、値段問わず買いあさって作って並べただけである。<br />「普段なんでも気にして買い物してしまうでしょう。こういう時ぐらい、何も考えないで、好きなもの作ろうと思って」<br />「大体酒のつまみって辺りが何とも。でも良く作るねえ」<br />「一人ならこんなに作りません。貴女が来てくれるというから、嬉しくて」<br />「……ん。ありがたいね。あ、お酒はそれ、ぬる燗で欲しい」<br />「はい。でも、良いんですか、こんなに良いお酒」<br /> 一升瓶に詰められた日本酒だ。<br /> ラベルには、頑張っても手に入り難い類の銘柄が書かれている。純米大吟醸、精米歩合は22%である。<br /> 蔵元は人気が出た後も製造量を増やさず、一切の手ぬかりない作りを主張しており、販売に当たっては抽選となっている。ネットオークションで探すとなると定価一万二千の所、五万は出す羽目になるだろう。<br /> お酒は値段ではないが、やはりプレミアが付いている、という付加価値が気分を盛り上げて旨く感じられる。何事も楽しめれば幸いなのだ。<br />「いいんだよ。こうするの、久々だし。私もね、ヨミに逢えるって思って嬉しくて」<br />「変ですね、遠くに住んでいる訳ではないのに」<br />「ま、大人になると忙しいし」<br /> 注文通り燗を付けてから一香に出し、自分は冷のままにした。他のもお酒は用意しているので、あまり焦って呑む必要も無い。<br /> こういうものを残しておけば、次に一香に声を掛ける為の理由にもなる。<br />「それじゃ、乾杯」<br />「はい、乾杯」<br /> コップに注いだ純米酒を口にする。流石万人受けするだけあって、臭みは一切なく、清涼な香りを感じる。中に旨味があり、水のようにすんなりと喉を通って行く。<br /> 後味がまた素晴らしく、ツマミを間に入れながら呑めば、一生続けて呑んでいられるだろう。<br />「うわあ、私、こういう流行り物って少し馬鹿にしていたのですけれど、これは、これは」<br />「そうなのよ。私も少し穿って見てたんだけど、手に入るってんで、譲ってもらったの。いや、美味しいねこれ。ずーっと呑んでられそう」<br /> 小鉢等からラップを外し、適当に箸を付けて行く。料理には自信があった。我ながら良い出来だと実感しながら、一香の様子を窺う。<br />「どうですか。鯨以外は大体自分で作ったんですけど」<br />「そりゃ鯨のベーコン自分では無理だわな……しかし本当に素人? 小料理屋かバルでもやるの?」<br />「趣味ですから。最近はその、食べさせてあげる人もいなくなってしまいましたから、良い機会です」<br />「はは。まったく馬鹿な男だ。容姿端麗、才色兼備、胸はでかくて料理も出来る。これだけの女性を手放すなんて、頭がおかしいのかと思っちゃうね」<br />「……一応、自覚は出来るようになったんです。当然、主張はしませんけれど」<br />「うーん。逆にさ、アンタが完璧すぎて、男が引くんじゃない?」<br />「どういうことでしょう」<br />「だから、まあ男ってほら、自尊心の塊な訳。アンタと並ぶと、自分の悪い所が目立っちゃって、惨めになるんじゃない?」<br /> 胡瓜と蛸の和え物を口にしながら、ぼんやりと考える。一香の指摘通り、確かに彼は詠と比べるような物事を極端に避けていた。こういう女が隣にいるのだ、というアクセサリーに甘んじていて貰いたかったのかもしれない。だが生憎、詠はアクセサリーでも人形でもない。<br /> 彼の別れたい、という申し出を、詠はすんなりと受け入れた。<br />「……ごめんなさいね。気晴らしなんかに呼びつけて」<br />「とんでもない。私も彼女と別れたばかりだから、丁度良いよ」<br />「……彼女?」<br />「そうだけど……どうしたの?」<br /> お酒に口を付け、飲み下す。確かに、一香は高校時代から女の子にモテた。しかしそれは一香がサバサバしていて、心地が良い人だったから、仲の良い友達が多いものだと思っていたのだ。<br /> 一香も誰かと付き合っていたとは聞いていたが、まさかそれが同性であるとは思わなかった。二十三歳にして友人の性癖を初めて知り、少しくらくらとする。<br />「えと。お、女の子が好きだったの?」<br />「――……え、ええ? 気が付かなかったの?」<br />「ええ。仲の良い女友達が多いな、とは思っていましたけれど」<br />「ずっと女の子ばっかりだけど。過去五人。初めて付き合った人も、キスした人も、処女失った人も、全員女性だよ。マジで気が付かなかったの? あんなに女の子にベタベタしてたのに」<br />「物語の中だけだと思っていました」<br /> といって、詠は同性愛を扱ったコミック誌を指差す。<br />「ああ、フィクションは好きなのか……ふぅん。まあ、それはいいや。この通り、私今一人身でございます。毎日寂しくってさあ」<br />「……最近お仕事は?」<br />「んあ。化粧品の営業じゃない、私。私自身はそんなに化粧しないけど、若い子には受けが良くってね。成績良いんだよ」<br />「なるほど。私は事務ですから、日々大して変わり映えのない毎日です」<br />「もっといいところ行けただろうに。てか、働かなくても暮らしていけるでしょう?」<br />「それは、まあ。でも、やっぱり社会に出ていないと、世の中においてけぼりにされたような、疎外感があるので」<br />「なるほどねえ。あー……ねえ、ヨミ?」<br />「うん?」<br />「隣座って良い、隣」<br />「構いませんけど」<br /> そういって、一香が徳利と猪口を持って詠の隣に座る。彼女は余程上機嫌なのか、落ち着いていられないのか、そのまま詠に寄りかかる。<br /> 何事だろうかと訝るというより、こんなに甘えたがりだっただろうか、という疑問の方が大きい。もしかすれば、彼女と別れて余程寂しい思いをしたのかもしれない。<br /> 詠としては、別れた寂しさよりも、何か理不尽であったという気持ちが強い。それも当然で、詠に不手際は一切なかった。言ってしまえば、その不手際の無さが唯一の不手際だっただろう。詠は何でも一人で卒なくこなしてしまうので、男性に頼る事は少なかった。今はなんとなくそれを感じている。<br />「一香?」<br />「ヨミは柔らかいね」<br />「太りやすいので、あんまり好ましくはないですね」<br />「そこは『そうですか、もっと触ってみます?』とか誘えば、男もイッパツだと思うんだけど」<br />「……媚びるって難しいです」<br />「素直な所が可愛いんだけれど、それがなかなか男には伝わり難いかなあ」<br />「……あの、一香。寂しいのは解りますけれど、そんなにベタベタしなくても」<br />「十年」<br />「十年?」<br />「十年、アンタと一緒にいるじゃない? 最近は逢えなかったけど」<br />「そうですね。互いに忙しかったですし、彼氏彼女が居た訳で。彼女っていうのは、驚きましたけれど」<br />「アンタは美人でお金持ちの子で、頭は良くて胸はでかくて料理も出来る訳じゃない?」<br />「幾つか否定はしたいですけれど、客観的に見るとそう評価されるのかもしれません」<br />「私ずっと隣に居た訳じゃない?」<br />「私の一番のお友達です。一香」<br />「……えーと、ああそうだ、恋バナでもしよう」<br /> 一香が唐突に姿勢を直し、徳利から直接口を付ける。いまいち一香の意図は読めないものの、勢いは欲しかったのかもしれないと察して、新しくコップを出してそちらにお酒を注ぐ。<br /> 彼女はそれを受け取り、角煮を摘まんでから一気に喉にお酒を流し込む。<br />「あれは高等部一年の時かな。井崎と美海」<br />「はい。同じクラスの。とても仲が良かったですけれど、確か二人は……」<br />「うん。辞めちゃったね。実は今も連絡とっててね、二人とも幸せにしてるって」<br />「え、本当ですか? よかった。でも、二人は何故辞めたんでしたっけ、学校」<br />「両親が理解ない人でさ、女二人で付き合ってるのがけしからんって喧嘩になって、駆け落ちしたの」<br />「……え?」<br />「何も知らなかった? 今は両親とも和解して、二人でパン屋やってるんだって」<br />「……じょ、女性同士で、夫婦?」<br />「そうそう。当時から結構相談受けててさ。ああ、ほら。私当時からそんなだし。それが聞いてよ。初めて相談された時は井崎がさ、『美海さんが好きで好きで仕方ないのだけれど、彼女は何時も男の子の話してるし、告白したらドン引きされるかも』ってさあ、もう泣きじゃくりながら私に縋るもんだから、可愛くって」<br />「いやいや、相談相手の不幸楽しむって」<br />「まあまあ。で、なんとそのあとさ、私美海にも相談受けちゃって」<br />「ええ?」<br />「で、美海の方がこれまた面白くて、『ノンケ装ってるけど、もうそんな付き合いで男の話するのとかうんざり。この際カムアウトして、女の子と付き合おうかな。良い子知らない?』って言われて。なんだそりゃ面白すぎるわーと」<br />「それで、一香はどうしたんですか」<br />「当然くっつけたよ。合わせて二日目にはもうなんか、えへへ。ああもう、甘酸っぱいね?」<br />「ちょっと良く分からないです。具体的に二人はどうしたんですか?」<br />「相性良かったみたいでさ。もー、人目が無いと思ったらちゅっちゅちゅっちゅとまあ。二人で消えたなーと思ったら、空き教室でおっぱじめたりとか、凄かったよ?」<br />「おっぱじめるって……?」<br />「だから、エッチだけど」<br />「ごめんなさい、現実でそんなことあるんですね。漫画だけかと思ってて」<br />「ああ、これね。この漫画家さん大好き。女の子可愛いし、なんだか仕草がいじらしくって、良いよね?」<br />「ええ。単行本も何冊かあります。でも……そっか。あの二人は、そういう仲で。そう考えると、不謹慎ではありますが、両親に認められず、二人で決意して出て行く、というシチュエーションが、昔の少女雑誌の小説のお話みたいで、ロマンチックですね」<br />「大正とか昭和初期の話してるでしょ。まあそんな感じで、二人は出てってさ。凄く苦労したみたい」<br />「高校生と言っても、やはり子供ですから。大人の援助無く生きて行くには厳しい。それを乗り越えて、今二人で幸せにしているというのなら、本当に美談ですね」<br />「この通り、なかなか認められ難いのよね、私みたいな人間って」<br /> 一しきり喋り終わり、一香がコップを傾ける。一香は何時の間にかぴったりと詠に寄り添っていた。<br /> そんな話をされた為だろうか、妙に意識してしまい、詠はスクと立ち上がると、台所から別のお酒を持ってくる。人と呑む用に用意した、これまた良い品だ。<br />「お、焼酎か」<br />「どうしますか?」<br />「お湯割りかな。私温かいお酒好きなの。ゆるゆる呑めるでしょう?」<br />「じゃあ、少し待って下さいね」<br /> 要請を受け、詠は台所から卓上コンロと南部鉄器を持って現れる。鉄器に天然水を注いでコンロに掛け、コップは焼酎用の焼き物である。<br />「ず、ずいぶん酒器が整ってるね」<br />「お酒、好きですから。これ、焼酎用のコップです。綺麗でしょう?」<br />「あ、手触りも良い。焼酎自体は?」<br />「ちょっと良いところの芋焼酎です。昔ながらの甕での製法。芋麹に黄金千貫。芋100%です。世の中割るのは邪道なんてヒトも居ますけれど、それはシングルモルトやら熟成させたお酒の話であって、やはり日本のお酒は自分の好きなように楽しむのが正解だと思います。氷すら嫌だなんていう人もいるんですよ?」<br />「呑み方に理解のある人で助かります、はい」<br /> と、講釈をたれながら、結局詠はストレートで焼き物に注ぐ。独特の甘い香りを楽しんでから、躊躇い無く喉に流し込む。強烈なアルコールの刺激が口内と喉を焼くのがまた心地良い。<br /> 一口で三分の一減っている。<br />「アンタ、酒強いよね」<br />「焼酎ボトル一本くらいなら、まあ」<br />「強いどころの話じゃないなそれ……ごく潰しって言われない?」<br />「言われます。会社の飲み会何かでも『神子田が力んだだけで周囲の酒が無くなる』なんて言われちゃって」<br />「ああ、男にフられる理由、それもあるかも」<br />「酷い話……と思いましたが、お酒強すぎる女性じゃ、隙もありませんしねえ……」<br />「私、ガンガンお酒飲んじゃう人、好きかも?」<br />「へえ、そうですか」<br />「んぐ……さて、私もお湯割り」<br />「作ります。少し離れてください、熱いですし」<br />「へいへいっと……」<br /> 一香が不満をもらして詠から離れる。半分の割合で割って差し出すと、一香が早速口を付けた。どうやら丁度良いらしい、やんわりとした笑顔を此方に向ける。<br /> また他愛も無い話をしながら、つまみをいじくる。やはり焼酎には濃い味のものが丁度だ。<br />「黄身の味噌漬けと、豆腐の塩麹漬けも出しましょうか」<br />「あるの? 手間で自分で作らないんだよね」<br />「私も普段作りませんけれど」<br />「私が来るから?」<br />「……ええ、まあ」<br />「んふふ」<br /> 気晴らし会を銘打った女子会である。兎に角品目は多い方が良いだろうと考え、思いつく限りを作ったのだ、消費してもらわねば困る。少し作りすぎたかとも思ったが、一香は食いっぷりが良く、並べられていた小鉢類は大体が空だ。<br />「どうですか?」<br />「黄身の旨味と味噌の風味がこれ、あー濃厚ー。ふとりそうー」<br />「それは良かった。でも、一香はスラッとしてますし、太り難いですよね」<br />「うん、まあ。私のこの体系っていうか、ほら、雰囲気が好きだって子もいたねえ」<br />「……私、本当に貴女が女性好きなんて考えもしませんでした。もしかして私の知らない所で、中学高校と、お付き合いを?」<br />「二人の女の子の話をしよう」<br /> 一香がさえぎるようにしてそういうと、何故か居住まいを正す。コップにお湯と焼酎を継ぎ足しながら、チラリと詠を見た。<br />「その子はまあ、あんまり頭も良くないし、配慮も出来ない子だったんだけど、明るく元気で、案外顔も良かった。背が高いってのもあって、みんなのお兄さんみたいに頼られてたんだね。ま、女子校なんだけどさ」<br />「なんだか心当たりがありますね」<br />「中等部一年の時。その子は自分が男よりも女の子の方が好きだって気が付いて、ますます女の子とイチャイチャし始めたんだね。そんな折に、その子、ここではAとしよう。AはBとであった。Bは美人で何でも出来て、挙句胸が大きい」<br />「あー」<br />「Aは衝撃的だったみたい。こんな絵で描いたような子がいるのかーと。それから直ぐにAはBに声をかけた。物凄く素気なくあしらわれて、それまで積み重ねたAの自信はズタボロだったみたいだ」<br />「気にしてたんですね、あれ」<br />「負けるのも悔しくて、それから何度も声をかけたの。お昼時も放課後も、兎に角隙あらばAはBに声をかけた。『どうしてそんなに構うのですか』と言われて『アンタが気になるから』って答えたら、Bはだいぶ呆れた調子で、けれどそれ以来邪険に扱うような真似はしなかったみたい」<br />「他にも友達がいるだろうに、どうしてそんなに声をかけてくるのかと疑問では有りましたけれど、そんなに一生懸命されては、振り向かない訳にもいきませんし」<br />「はて、これはAとBの話だけれど」<br />「はいはい。もう。それでどうしたんですか、AとBは」<br />「雰囲気は違うけれど、思いの外話も合うし、休日なんかも二人で楽しく過ごすようになった。AはBに『彼氏とかいないの』『男女の付き合いは?』なんて聞くと、Bは『そういうつもりがない』『まだ遠い世界の話のよう』なんてお嬢様的な事をいうものだから、おかしくておかしくて」<br />「あの時は本当にそう思っていたらしいですよ、Bは」<br />「そしてAはBに『じゃあ私と付き合おう』って言って」<br />「――んんん?」<br />「Bは『貴方とならずっと一緒に居られる気がする』って」<br />「ねつ造しないでください。というか、そのAは当時からBに対して、どんな感情を持ってたんですか」<br />「そんなん、好きだったに決まってるじゃない。で、AとBは今も幸せに暮らしているそうです」<br />「……」<br /> たとえ話にもならない。まるっきり過去の詠と一香である。ただ一部ねつ造があるようだ。<br /> それはつまるところ、願望なのか。そうあって欲しかったのだろうか。一香と友人になり十年、一香は一切詠に対して恋愛感情云々を持ちだした事は無い。彼女が女性と付き合っていたとカムアウトされたのは今日が初めてであり、こんな過去の人様の恋愛を語るような機会も無かった。<br /> 酔っているのか、二人ともフられてしまったというタイミングが被った所為か。<br /> 詠にはいまいち、一香から突如齎された好意に対する実感が無い。<br />「一香?」<br />「あんね、ヨミ」<br />「え、ええ」<br /> お湯割りを飲み干し、コップをテーブルに置くと、一香はまっすぐ詠に顔を向ける。<br /> 綺麗な顔だ。まず探したところで見つからない程、彼女の顔は整っている。抜かずとも切らずとも眉は良い形をしているし、目は少し切れ長で凛々しい。ほどほどに高い鼻とそこから流れるようにして咲く桃色の唇が、中性的な容姿の中でも女性を意識させた。<br /> そんなに見つめられると、流石に異性愛者の詠でも、ドキリとしてしまう。<br />「い、一香。駄目ですよ。きっと酔ってるから――」<br />「そうだと思う。ずっとただの友達だと思われてたし、アンタにも思わせるようにしてたから、踏ん切りがつかなかったんだ。みんなは、一香はサバサバしてて、悩みなんか無さそうだっていうかもしれないけど、そんな事ないよ。私だって悩むし、胸を痛める」<br />「わ、別れたばかりだから、きっと寂しいだけ。私と貴女は、友達なんです」<br />「お酒飲んで少し気持ち大きくしないと、本音なんて言えない」<br />「一香、私は、あの――」<br />「女性が好きだって告白して、アンタに避けられるのが怖かった。自分を押し殺してでも、私は、アンタの隣で、アンタの笑顔を見ていたかった。過去付き合った子達には申し訳ないけれど、どうあってもやっぱり、誰と付き合っても、アンタの顔が頭に浮かぶ。ヨミ、私、アンタが好き」<br /> 言われてしまった。少女のように顔を真っ赤にした一香が、悲しそうな目をしている。<br /> 抑えに抑えてきたのだろうか。ただの友人だとばかり思っていた、いや、思わされていた彼女がその実、好意を持ってずっと一緒にいたのだと考えると、それがどれだけ苦しかったのか想像に難くない。<br />「もう、みんなに嘘吐くも疲れちゃったよ。この前別れた子にも『貴女は私を見てない』って言われちゃってさ。ショックどころの話じゃなかった。全部見抜かれてた。アンタが欲しいのに、アンタの代替えを用意し続けるのは悪いし、私も疲れた」<br />「あっ」<br /> 一香が詠に覆いかぶさる。潤んだ瞳がジッと詠を捉えていた。<br /> 嘘の恋に疲れてしまった人。お酒の力でも借りなければ、本音も言えない弱い人。<br /> 同情しよう。申し訳無く思おう。<br /> しかし答えては、まず、あげられない。そんな突然、友人だと思っていた人から、まして同性から告白されて受け入れられるほど、詠の許容範囲は広くないのだ。<br />「……ごめんなさい、一香。私、そんな覚悟、ありません」<br />「ここにきて、私は私に逃げ道なんて作らない。気持ち悪いと思うなら、もう避けてくれて構わない」<br />「そんなの、こんな状態で、ずるいと思いませんか?」<br />「思う。だって負けたら後がないもの」<br /> 彼女は引けない位置に自分を追い込んでいた。追い込んでしまったのは、詠なのかもしれない。<br /> 恋愛ごとには本当に疎く、初めての彼氏も短大を出た後、就職して職場に営業に来た人に誘われ、何となしに付き合ったのが初めてだ。<br /> 子供でもあるまいに、なんとなくで付き合い始め、なんとなくでセックスをして、何の感情も楽しみも無く、彼はただ、付き合う時間が長くなる度に、卑屈になって行った。<br /> そんな面白味の無い日々の中、思い返すのは、中学高校と通った学校での思い出だ。<br /> 友達がいて、日々何かしら面白い事があり、一香はいつも詠の機嫌取りをしていた。彼女はいつも自然に振る舞っている様子で、楽しい事を見つけては逐一詠に報告し、今日のように、当時はお酒ではなくジュースにお茶だったが、そんな風に過ごしていた。<br /> 大人になれば自然と当たり前の恋心が芽生え、当たり前に付き合い、当たり前に結婚するものとばかり考えていたというのに、詠の目の前に現れた現実はあまりにも味気ないものであった。<br /> 自分はずっと、恋されていたのに。好きでもない人と交わって、常識に疑問も持たず、思考も停止していたのかもしれない。<br /> 彼と別れた後、理不尽に対する悔しさはあったが、むしろ安心感ばかり大きかった。そんな態度が付き合っている間どこかに現れており、彼を不快にしたのだろう。<br /> あの頃に帰りたいと、何度思っただろうか。詠はあまり、主体性がないのかもしれない。そんな自分を愛する気持ちを抑え続けた彼女は、こんな人間の何処を好きになったのだろうか。<br /> そして本当に自分は、近藤一香の気持ちを一切理解していなかっただろうか。<br />「いきなりは、答えられません」<br />「……、うん」<br />「それに、貴女が女性好きでも、私は嫌いになりません」<br />「生理的に無理とか、そういうのは」<br />「貴女以外に言われた事がないので、比較しようがありませんが、気持ち悪いとか、おかしいとか、そういう風には、全然思いませんよ。そんな、辛そうな顔、しないで、ね、一香」<br />「ごめんね、ずるいよね」<br />「うん。でも、謝る事なんて、無いと思います。貴女は明確に、人恋しい意味を知っていて、私は何も知らなかった。貴女から向けられる好意もきっと、見ない振りをしていた……ねえ、お酒、呑みましょうよ。今日呑んで、明日目を醒まして、貴女も私も冷静になって、もう一度、考えましょう。考えたいんです」<br /> これが今は精一杯だ。<br /> 己の本心なんていう、何処にあるかもわからないものを即座に探しだせるほど、詠は器用ではない。<br /> 当然友人として、一香の価値観は受け入れるし、告白されたからと嫌いになるわけが無い。彼女はずっと詠を気にかけてくれていた、詠もそれに縋っていたのだ。そして好ましくも思っている。<br /> ただその一線。同性を恋人として受け入れようという、人生においてなかなか存在しない分岐点を選ぶだけの胆力は無かった。<br />「急に、ごめんね」<br />「ううん。そんな事ありません。きっと、急にじゃあ、ないでしょう?」<br />「……うん」<br /> 詠は酒瓶を手に取り、焼酎を注いでお湯で割る。それを一香に差し出し、小さく笑う。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br />「神子田さん、これの処理お願い出来るかしら」<br />「構いませんよ。休憩挟んで一時間待って下さい」<br />「ごめんね月末に。一人休んじゃうと、きついわね」<br />「人は体調を崩すタイミングなんてはかれませんから、仕方ありません」<br />「貴女ほど理解のある人間ばかりなら、もう少し生き易い世の中でしょうに」<br /> 黙々と与えられた仕事をこなす。事務職だ、一定の物事を一定に考えてこなしていればそれで良い。単純な作業は余計な事を色々思い巡らせて自滅する事が少ない。<br /> ……のだが、今日ばかりは少し特別だ。<br /> 昨日はあの後、泣きながらお酒を呑む一香に付き合い、そのまま流れで寝てしまった。朝になって起きると、彼女は既におらず、御礼のメールだけが残っていた。<br />「ねえ神子田さん」<br />「……」<br />「神子田さん?」<br />「え? はい。なんです?」<br />「ボーッとしてどうしたの。彼の事?」<br />「……彼は別れました」<br />「え、結構良い男だったのに。フったの?」<br />「良く出来る女は好みではないそうです」<br />「うわばからし。別れて良かったね。じゃあその悩み?」<br />「加藤さん、手を動かしてくださいな」<br />「あいあい……」<br /> やはり表に出てしまっている。普段このような事がない為、隣にいる加藤も相当に気に掛けている様子だ。<br />「――ねえ加藤さん」<br />「はい?」<br />「女性って興味あります?」<br />「ぶほぉっ」<br /> よほど衝撃的だったのか、加藤が口に含んだお茶を吹きだす。詠はすかさずハンカチを差し出して、机の用紙に被害が出る前にさっさと拭く。<br />「あ、あんがと。ええと。女性?」<br />「……長い間友人だと思っていた子に、告白されてしまって」<br />「うわあ……悩みそれかあ……あ、そろそろ休憩。ご飯どこで食べる?」<br />「近くの喫茶店で、軽いものを」<br />「じゃそれで。事務休憩はいりますねー、処理するもの溜めこまないでさっさと出してくださいねー、はいおっけい、いこっか、神子田さん」<br /> 同期の加藤はおかしな常識には捉われず、自分の判断に強い自信を持っているタイプの人間だ。たまに空気は読めないが、即断即決の彼女は他の部署からも慕われている。<br /> 加藤に引きずられるようにして近くの喫茶店に入り、玉子サンドとコーヒーを注文する。一番奥の席に腰かけると、老人宜しく加藤が肩を自分の手で揉む。<br />「いやまったく。集計溜めこまれるとこっちが堪らないよ」<br />「今月は皆忙しそうでしたし、こんな月もあるでしょう」<br />「大らかな事で。えーと、それで。なんだっけ。そうだ、女の子」<br />「ええ」<br /> ハムサンドを齧りながら、加藤が中空を見上げている。<br />「んあー。初めての相談じゃないよね。何度かある。というかほら、私こんなだし。女の子にも人気あってね?」<br />「解ります。頼れますからね」<br />「えっへへ。でしょう。加藤さん凄く頼れるからね。まあなんだろ、別に同性同士の恋人について、何かしら疑問があるとか、おかしいと思うとか、そういうのは、ない。たださ」<br />「ただ?」<br />「学生時分はいいさ。恋に恋する乙女の勘違いなんて良く有る。初体験が女性なのに、今は男性と付き合ってるって子も、知りあいに居るよ。『あれは錯覚だった』って、遠く見ながら言われた日には、心なんてものの曖昧さを思い知らされるね」<br />「加藤さんはどうなんですか?」<br />「私? 私より出来る男がいたら考えようかな。年収の話じゃなく、私が認めるか否かだけど」<br />「それが例えば、男ではなくて女だったら?」<br />「んー。私ノンケだしね。とはいえそうだな、学生だったら有り得たかも。だからね、私達もうさ、慣れ合いでお楽しみ出来る立場じゃないんだよ。もう大人になっちゃった。女性好きなら好きで良いけど、今後考えると大変だよって事。夢も希望もない意見だけど、現実は厳しい。貴女はその告白した子、好きなの?」<br />「長い間、彼女に否定感を覚えた事は、一度も。告白された今だって……前の彼と付き合っていた頃だって、覚えにないほど、ドキドキして」<br />「……えっと」<br />「いつも彼女が隣にして、最近は仕事もあってあまり会えなくて、久々にお家に来てくれるっていうから、凄く楽しみにしてて、彼女が来てくれて、私嬉しくって。ハッキリとした言葉が出てこないのですけれど、つまるところ、愛しいって思う気持ちが『コレ』なのかどうなのか、解らなくて」<br />「いやそれたぶん好きだと思うんだけど」<br />「……や、やっぱり……」<br />「今後の事とか考えてるの?」<br />「違うと思います。そんなの、たぶんどうとでもなる」<br />「あ、そこが論点じゃないのね。じゃあまあ、一回付き合ってみたら? 友人としての目線から、恋人としての目線にシフトさせて、そこでまた考えれば良いんじゃないかな。こういっちゃなんだけど、女同士なら子供出来ないし、余計な後腐れ出来ないでしょ。で、その子良い子なの?」<br /> 言われ、詠は携帯に収められた写真を提示する。<br /> 加藤は口をあんぐりと開けて口の端からハムサンドをこぼした。詠は咄嗟に二枚目のハンカチを取り出して差し出す。<br />「あ、あんがと。う、うわあ……」<br />「どうしましたか?」<br />「か、可愛い。ちょっと悪ガキっぽくて、でも大人で、女性だ。ええ、こんなのと十年も過ごしてて、貴女何とも思わなかったの?」<br />「恋愛って良く分からなくて。しかも女性ですし」<br />「そうだった。でもこれに迫られたら、私も考えちゃうかもな……」<br />「凄くモテるんです。学生時代も沢山周りに女の子がいました」<br />「そりゃそうだろうね。で、そんな彼女はずっと貴女だけ見てた訳か。はー、こりゃたまらんね、ノロケと一緒だ。私取り合わないぞ、そんな話。勝手に幸せになって頂戴よ」<br />「え、そんな事言わないでくださいよ」<br />「何処の馬の骨かと思って構えてて、芸術品を提示されたら、あんた莫迦にしてんの、とも思うでしょ」<br />「……むう」<br />「なに膨れてんの。可愛い奴ね。イケメン女子で貴女の事大好きで互いの事知りつくしてて、もうそれでも嫌だってんなら何も言わないよ。機会を棒に振って満足するなり後悔するなり、すれば良い。悪いね、直感的な人生しか歩んでなくて」<br />「そんな。加藤さんのそういうところ、私は好きです」<br />「ぶふっ。ちょっとちょっと。もう。ああ、これかなあ。こういうのにその子もやられたのかなあ」<br />「はい?」<br />「いいの気にしないで。兎に角さ、自分の気持ち伝えてみなよ。知らない仲じゃないんだ。その子だって汲み取ってくれる。女は男より種類が多い。恋のカタチだってまた沢山あるだろうさ」<br />「……はい。有難うございます」<br />「いーえ。ああもう。ごちそーさま。まったく……」<br /> やれやれ、といった様子で加藤はパッパと自分のトレイを片づけて行ってしまう。<br /> なんともハッキリとした物言いは、素直な詠にも真似できない。<br /> 彼女のいうように、今後社会的な地位云々についての心配はない。恋人同士がどのようなものなのか、明確なヴィジョンが無い事、好きとはどういったものを指すのかという事、ただそれだけが、詠にとっては疑問なのだ。<br /> 携帯で撮られた一香の写真を眺める。<br /> この小さな唇から、アンタが好きだと囁かれたのだ。<br />(……ああ、これ)<br /> 昨夜の事を思い出すと、動悸が激しくなる。今まで対比する対照がなかったのだ。<br /> 前の彼にそんな事を言われても、胸の内から温かくなるような気持ちはなかった。<br /> 眼が泳いだり、胸が高鳴ったり、手に汗をかいたりはしなかった。<br /> 彼とのキスだってなんとなくでしていただけだ。<br /> それを一香にされたら、どうなるだろうかと考える。<br />(ど、どうしよう)<br /> 意識が。すっかりと一香に向いたまま動かなくなる。加藤のお陰であるし、加藤の所為だ。<br /> トレイを片づけ、喫茶店の外に出る。握ったままの携帯電話から加藤に電話を掛ける。<br />「も、もしもし。加藤さん」<br />「なな、なんだどうしたの。急用?」<br />「わ、私、一香のこと、す、好きかも」<br />「だははは! なんだそれ!!」<br /> 結局その日は仕事も手に付かず、加藤に笑われっぱなしであった。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> しかしさて、どうしたものかと考える。<br /> あの日は結局別れの挨拶も無しに彼女は仕事に出てしまったし、そのあとメールを一通入れただけで、電話もしていない。<br /> 一香用に作りすぎた惣菜類を消費しながら、テレビをぼーっと眺める。有名俳優が婚約したのだという。相手は一般女性で、贔屓目に見ても美しいとは言えない容姿なのだが、俳優はとても幸せそうにしていた。<br /> 人と恋する理由は様々だ。そもそも、愛も恋もなくとも、恋人と名乗る事だってある。<br /> それが自分だ。<br /> 携帯がメールの着信を知らせる。手に取ると、前の彼からの物だった。<br /> アドレスと番号を変える、なんて手間を取るのも面倒くさいぐらい、彼という存在はどうでもよかったのかもしれない。<br />『一度話がしたい』<br /> 呆れた。この人は何を言っているのだろうと、詠は眉を顰める。お前とは合わないとのたまい、舌の根も乾かぬうちに空虚な愛の言葉でも囁くつもりか。<br /> しかし一度は付き合った仲だ。余程しつこくない限りは、あまり惨めな想いをさせたくはない。<br /> 勘弁して下さい。終わった話を蒸し返さないで。<br /> そのように返信すると、二分もしない間に返信が来た。<br />『やっぱり君が一番だ』<br /> 神子田詠は、敵意をやすやすと人に向けるような人間ではない。しかしこれは頭に来た。<br /> だがどうしてやろう。物事は荒立てたくない。アドレスや番号を変えても、あちらが家に来てはどうしようもない。引っ越す手間を掛けてやるほど、重要な相手でもない。<br /> 想いを巡らせ、視線を泳がせていると、部屋の影にある一升瓶が目にとまった。<br /> なるほど、と頷く。<br /> 携帯を弄り、一香に電話をする。彼のお陰で、改めて彼女を呼ぶ理由が見つかった。<br />「もしもし」<br />『ん。ヨミ。どうしたの?』<br />「貴女に貰った良いお酒、まだ消費してません」<br />『んあ……え、と。う、うん。ど、どうしよっか?』<br />「消費しに来てください。今すぐ。今すぐです」<br />『ヨミ?』<br />「これからどんな用事があろうとも、人生が左右される物事が控えていようとも、今日ばかりは私、配慮しません。どうでもいいです。消費しに来てください」<br />『……ないよ。なんもない。今行くから、そんな涙声で、言わないでよ』<br />「……ごめんなさい」<br /> 素直ではあるが、ちゃんと相手の意図は汲み取り、他人様の邪魔になるような行いは慎んできた。みんなは神子田詠を、女性の理想のように語っていたのを、思い出す。<br /> だが、そんなものは、殊感情が一番優先される物事において、無駄でしかないのだ。詠は産まれて初めて、相手に配慮しなかった。冷静でいるつもりで、相当に焦っている。こうしている間にも、もしかすれば、一香にも寄りを戻そうという連絡が来て、一香が遠くに行ってしまうかもしれない。<br /> それを考えると、どうしようもないほど心がざわついた。今の今まで、一香がどこで何をしていようと、気にも留めなかったというのに、これはワガママだ。<br /> しかし、そんなものなのかもしれない。<br /> 一度意識してしまうと――恋心というのは、抑えの利かないものなのだろう。<br /> それから三十分程だろうか。そわそわしながら待っていると、インターホンが鳴る。<br /> 来てくれた。詠は一瞬心が明るくなるも、立ち上がって一度躊躇う。<br /> まさか、彼ではあるまいか。<br /> ドアスコープから覗き見る。胸を撫で下ろした。<br />「一香」<br />「や。どしたの、ヨミ」<br />「あがって」<br /> 一香を部屋にあげ、無言で座卓の前に腰を下ろす。どう切り出すべきか解らず、詠は自分の携帯メールを一香に見せた。<br />「うわ、面倒くさそう」<br />「困っちゃって」<br />「より戻す気なんて……」<br />「ありません。もうどうでもよくって」<br />「……そっか。もしかして、怖くなって呼んだ?」<br />「違います」<br /> 一升瓶を引きずり出し、二人分のコップに注いで一香に渡す。<br /> 正直な話、思い切った事はアルコールを入れた方が喋り易くはあるのだが、生憎神子田詠はザルだ。日本酒一杯で気持ち良くなれるほど経済的には出来ていない。<br />「ああ、やっぱいいお酒。大人になって良かったって思えるね。じゃなきゃ、大っぴらにお酒美味しいなんて言えないし」<br />「……味なんてどうでもよくて、取り敢えず酔えれば良いっていう時代がありました。日本酒苦手だって人も考慮して、商業主義が優先し、醸造アルコールを混ぜたものや、そもそも日本酒と名乗るのもおこがましいような商品が横行して、逆にその味が嫌だと、日本酒離れの原因になったりもしたみたいです。勿論悪いとは言いません。それで納得する人がいます。作り手も、呑む側も」<br />「……まあ、そうだね」<br />「でも、本当に素敵なものに出会うと、その味が忘れられなくなります。これが美味しいお酒だって、純粋なものだって。少し質が悪いものでも、楽しめる人に対して水を差すなんて真似はしたくありません。強要する気もない。傲慢です。でも個人の趣向で行けばやはり、私は純粋なものが良い。混ぜ物が無くて、余計な気を取られる必要も無く、心から好きだと言えるものが良い」<br />「そっか。我慢、してたかな」<br />「素直だって。良く言われました。でもそんな素直さだって、皆に嫌われない程度の、配慮した素直さです。私はもっとワガママで、面倒くさい女です。自分の本心が、本当はどこにあるのか知っていながら、自分の人生にすら価値感にすら、配慮していました。ねえ、一香」<br />「……うん」<br />「わたしたぶん、貴女が凄く好きです。貴女と一緒に居る時が一番楽しい。貴女に褒められるのが一番嬉しい。貴女に見て貰えているのが一番幸福です。それが当たり前になっていて、貴女の気持ちに気が付かないようにしていた。その結果がこれです。大して好きでも無い人と付き合って、初めてもあげて、楽しむ事も無く、誇る事も無く、笑える事も無く、何も無く別れて、その人がまた、私を見ようとしてる」<br /> 神子田詠という、勘違いしたまま大人になってしまった女性の本心がここにあった。<br /> 周りへの配慮、自身を生き易くする為の処世術は、確かに必要だ。だが物事において重要なのはそれだけではない。偽り続ける事によって生まれる不快感や無意味さすら許容して生きるなど、自身の存在意義に関わる。<br /> 詠は今、その意味と向き合っていた。<br /> 自身を一番自身として認めてくれる人と向き合っているのだ。<br />「ヨミ」<br />「はい」<br />「嬉しい。凄く」<br />「――はい」<br />「私も――もう、嘘とか吐かなくていいんだね。心から愛してる人でもないのに、愛を囁いたり、キスしたり、アンタへの気持ちとか感情とか押し込めて、苦い顔したり、する必要、ないんだよね」<br />「私も、良いんですか。こんな鈍感で馬鹿な女でも、貴女みたいな人に、見て貰って」<br /> 一香は詠の隣に腰かけると、その手を取る。<br /> 距離が近い。今まで意識する事もなかった彼女は現在において、導火線に火のついた爆弾のようなものにしか見えなかった。しかしきっとそれが爆発して被る痛みは、甘い痛みである。<br />「私ね、美味しいものが好き。アンタが作るような料理とか、アンタとか」<br />「私もです。たぶん、面食いですし。育ちの所為で、高級品しかしらない」<br />「……養うの、大変そうな子」<br />「駄目です。責任、取ってください」<br />「――うん。まかせて」<br /> 機会とは思いの外唐突にやってくる。それは常にあったものかもしれない。機会はあっても、気がつかなかったり、気がつかない振りをして見過ごしたり、当時の価値観では理解出来ないものであったりと、様々だ。<br /> お酒も同じようなもので、その日突然美味しく思えたりする日がやってくる。今まで毛嫌いしていたアルコールが、とあるタイミングで面白く感じられるのだ。<br /> 一香の手が、詠の胸に触れる。軽く揉みしだかれるだけで、今まで知らなかったしびれるような感覚があった。綺麗な顔が迫る。桃色の小さな唇が、詠の深い呼吸を塞いで止める。<br /> ……女性の唇というものが、これほど柔らかく甘いものであったとは知らず、衝撃に身悶えする。<br />「……写真撮ろう」<br />「ふぅ……ん……あ、な、なんです?」<br /> そういって一香は詠の携帯を手に取る。何事かと思うと、また詠に唇を合わせて写真を撮り始めた。<br />「送りつけてやるの。ああ、私の前の彼女もしつこくってね。私の携帯でもう一枚撮ろう」<br />「は、はずかし……んっ……ぅん……」<br />「んふ。可愛い。あの頃に戻ったみたい。アンタは綺麗で可愛くて、ずっと憧れだった。嫌われたくなかった。好き。好きだよ、ヨミ」<br />「あ、う、嬉しい。な、なんでしょうこれ。頭の奥から、熱が出て、胸が、張り裂けてしまいそうで、全身が、敏感で、はあ……ああ、うそ……」<br />「調子よさそう。こんなになるの、初めて?」<br />「――はい……」<br />「じゃあまかせて。女の子いじくるの、私、得意だから――」<br /> 何か初めて、自身で最も正しい選択肢を選べた、そのような気がするのだ。<br /> 紅い実を啄ばむ小鳥のように、何度も降り注ぐ一香のキスを受けて、身体の芯から融けてしまいそうだった。<br />「誰にも、渡さないから、ヨミ」<br /> 抱きしめられる。小さく頷く。<br /> このヒトが好きなのだと、強く実感するには、あまりにも十分だった。<br /> 心の底から湧きあがるような幸福を、一生噛みしめていたいと願うのはワガママだろうか。<br />「一香」<br /> 一香に吸いつく。彼女が微笑む。<br /> そうだ。願っていては仕方が無い。<br /> 彼女から受ける好意はまるで上等なお酒の如く甘美で麗しいが、この現実、この想いが、決して酔夢では終わらぬよう、努力して行かねばならない。<br /> 近藤一香が見続けた恋の夢は、神子田詠にとって、始まったばかりの恋なのだ。<br /> ……――とは、いえ。子供でもないので、何時までも恋に興じている訳にもいかない。<br /> 詠は色々な意味で興奮していた。<br />「……式、いつにします?」<br />「え?」<br />「そうだ、おじい様に知らせないと。おじい様は心が広い方ですから、女性が旦那さまでも受け入れてくれるはずです。お家はどうします? 私、郊外の一軒家で、猫を飼って暮らしたいです。あ、子供……子供は……ううぅ……一香、子供が欲しいです」<br />「ん?」<br />「でも、私子供が欲しいからって男に浮気したりしません。そうだ、一香、うちのグループの会社で働きませんか? 縁故採用なんてーって思うならやめておきますけれど。あ、私、専業主婦やってみたいな……」<br />「ヨミさん?」<br />「嗚呼――夢が広がりますね、一香ッ」<br />「は、はい」<br />「幸せになりましょうね?」<br />「――うん。もちろん」<br /> 一香は、呆れたように笑ってから、力強く頷いてくれた。<br /><br /><br /> 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-57418150243287470312013-05-12T19:57:00.001+09:002013-05-25T23:14:23.715+09:00【短編】 藤堂藤子の恋愛事情<span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span> <span style="line-height: 27px;"> 登場人物<br /><br /> 藤堂藤子(とうどう とうこ)<br /> 部員一人の奉仕活動部に所属する二年生。見た目に気を使えば、中性的で少し洒落にならない程の美形なのだが、そのつもりはないらしい。好意を寄せていた『とても仲の良い女友達』に突如突き放されてしまい、失意にいる。<br /> やる気も元気も無い訳ではないのだが、どうにもあまり熱心にはならず、愛想を振り撒くのも苦手で人付き合いに不器用である。<br /><br /><br /> 美苗美知(みなえ みち)<br /> 離れてしまった『とても仲の良い女友達』家政部に所属する。<br /> 長い黒髪に清楚な出で立ち、それを鼻にかけない振る舞いと気遣いの出来る性格から皆に慕われる一年。<br /> 藤堂藤子とは出会って以来仲良くしていたが、一か月前から突然藤子を突き放すようになる。<br /><br /><br /> 姫宮姫子(ひめみや ひめこ)<br /> 家政部に所属していた一年。<br /> 藤子に無神経な質問をした挙句に奉仕活動部に入り浸るという、藤子の手に余る子。<br /> どちらかと言えば男性に媚びたような振る舞い、容姿で居る為、非常に女性陣からウケが悪い。<br /> 可愛げがあり、藤子好みでもあるらしく、藤子自身も邪険に扱えない模様。<br />
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<a name='more'></a><span style="line-height: 27px;"><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br /><br /><br />『あの子はレズビアンだから』<br /> そのような噂が立つよりも前から、藤堂藤子(とうどうとうこ)の人間関係は贔屓目に見ても良好とはいえなかった。<br /> 確かに間違いではないのだ。藤子は女性が好きであるし、噂と寸分たがわぬ人格である。<br /> 彼女達の理屈に具体性は無いに違いない。純粋に『自分達とは違う性の価値観がある』というだけだ。虐めという程ではないかもしれないが、奇異な目で見られる事はしばしばある。<br /> 噂の出所は何処だっただろうか。<br /> 以前の藤子は、一人の後輩に執心していた。一年生で家政部の、美苗美知(みなえみち)だ。<br /> 一方通行という事は無く、美知は藤子とかなり親しい間柄にあった。それこそ、友人以上の関係にはあっただろう。普段から手は繋いでいたし、肩は抱くし、じゃれてキスする事もあった。<br /> ただ、美知が果して自分を恋人と思っていたかどうかは、解らない。<br /> 藤子は美知との関係性の変化を恐れたとも言える。<br /> 何も告白せずとも、カミングアウトせずとも、こんなに親しくしているのだから不安要素を提示して相手を混乱させたくない、無用な溝を産みたくない、そう考えていた。<br /> 逆にそれがいけなかったのかもしれない。<br /> もっと関係性をハッキリさせておけば、こんな問題にもならなかったのではないだろうか。もう一か月、彼女とは会話も交わせていない。<br />「藤堂さん」<br /> ぼんやりと、離れて行ってしまった美知の事を考えていると、前の席の佐藤が声をかけてくる。<br />「なにかな」<br />「お客さん来てるけど」<br /> 佐藤が教室の出入り口を指差す。そこに佇む生徒に見覚えは無い。<br />「ありがとう」<br /> 佐藤はうん、とだけ言って、自分のグループに戻って行く。何かヒソヒソと話しているが、気にしていたら暮らして行けない。<br /> 藤子は席を立ち、出入り口へと向かう。<br /> ここは二年の教室だ。その生徒の上履きは青で、一年を示している。<br />「何か用事?」<br />「あ、えっと」<br /> 第一印象は、お姫様、だろうか。<br /> 少し茶色めのロングヘアーにウェーブがかかっており、ずいぶんと小洒落ている。校則上は問題ないだろうが、それは眼を引くだろう。小柄だが、ブレザーも一サイズ小さいものらしく、女性らしく出る所が出て強調されていた。そして何よりその見目麗しい容姿もだが、どこか甘い匂いがする。<br /> 髪は短く大して特徴もない、顔立ちは兎も角全体で中性的、低女性ステータスな藤子からすると、かなりの落差を感じる。<br />「どうしたの?」<br />「え、と。これ」<br /> そういって、お姫様は両手でもって藤子に何かを差し出す。一瞬ドキリとしたが、そんな色っぽいものをこんな公の場で出す訳もない。彼女が差し出したのは化学のノートである。<br />「さっき、化学の授業で、特別教室の、机の中に」<br />「あ、前の授業で……そっか。ありがとう」<br /> 前の授業は化学で、特別教室を使っていた。そこで忘れたものだろう。<br />「あの」<br /> まだ何かあるのか、お姫様は少しだけ伏せ目がちで、不安そうに手を合わせている。<br /> それから、周囲を伺い、誰もいない事を確認し、お姫様は藤子に顔を寄せた。何事かと耳を傾ける。<br />(あの、レズって本当ですか?)<br /> 最悪である。<br /><br /><br /> <br /> 藤堂藤子の恋愛事情<br /><br /><br /><br /> 放課後になると、藤子は教室を出てわき目も振らずにとある場所に引きこもる。<br /> 部活動と言えばそうなのだが、現在部員は藤子しかいない。<br /> 文化部が纏めてある校舎の、本当に隅の方、明らかに部室というよりも準備室とても呼ぶような場所が、藤子の所属する『奉仕活動部』である。<br /> 昨年から生徒会が地域理事会の方針を受けて地域奉仕活動を拡大し、それに伴って先輩たち四名は全て生徒会自治委員会に引き抜かれた。<br /> 何故そんな統廃合の憂い目にあって尚存続しているかといえば、この部屋を他の部が使う予定が無い事、部費は最小限で構わない事、藤子卒業後は廃部する事、この三つを条件に存続している。<br /> 藤子がこの部に入ったのは、大した理由もない。<br /> 人数が少なく、上下関係が希薄であった為であるし、取り敢えず部活は所属しておかねばならないからであり、この部に対してそれほど大きな感情は抱いていないのだ。<br /> 一応、何かのコミュニティに加わっている、という大義はあったが、今となっては放課後、家に帰るまでの時間を潰す為の部屋を確保しているだけ、という状態だ。<br /> やる事といえば、専らネットサーフィンか、読書か、連絡を取りもしない携帯を弄る程度である。<br />「おはようございます」<br /> ドアを開き、一応挨拶して入り、パソコンの電源を立ちあげる。<br /> 椅子に腰かけ、肘を机について、パソコンを眺める。<br /> 部活は終了した。他にすることもない。<br /> 女子高生として――何か酷い欠落があるようにも思えるのだが、あまり難しく考えない事にしている。<br /> 元から友達が多かった訳ではないし、楽しい放課後など、美知が隣に居た時ぐらいで、実質三か月程度しか味わっていない。<br /> 焦って勉強するほど馬鹿ではないし、熱中してやるべき趣味もない。<br /> それ以上考えるとやはり虚しいので、難しい事は無しにしたかった。<br /> 藤堂藤子はいつもこうだ。<br /> 無気力ではないが、かといってすることはない。<br /> 最後にムキになって何かに挑んだのは、なんだっただろうか。<br />「なんだったっけ」<br /> その程度の認識だ、絞ったところで出てこないだろう。<br /> ポーチから鏡を取り出し、前髪を弄る。美容院のオバ様からはちゃんと毎月来なさいと言われているのだが、どうも面倒くさくてついつい後回しにしてしまう。自分で切り揃えてはいるのだが、そろそろ整えないと、妖怪の正義の味方のようになってしまうだろう。<br /> 決して悪くない、いや、整えれば間違いなく光る容姿なのだが、本人に繕う気がないのだ。気を引くべき相手が居なくなってしまった事も拍車をかけているかもしれない。<br />「ごめんくださーい」<br />「ん」<br /> そんな声が聞こえ、髪を弄る手を止める。奉仕活動部に来客はまず無い為、隣の部だろう。<br /> 改めて髪を弄り始めると、もう一度声が聞こえた。<br /> 視線をドアに向けると、ドアに嵌めこまれたガラス戸に、人影が映っているのが解る。<br /> 珍しい事もあるものだ。藤子は鏡を机に置き、来客に応対する。<br />「はい」<br />「あ、いた」<br />「ああ、お姫様」<br />「お姫様?」<br />「あ、いえ。こっちの話」<br /> ドアをスライドさせた先に居たのは、昼間のお姫様であった。彼女は藤子の姿を確認し、小さく微笑む。<br />「どうしたのかな」<br />「教室に行ったら、いなくて。聞いたらこっちに居るって」<br />「うん。放課後は、大体。入る?」<br />「おじゃましまーす」<br /> さて、どのような理由でわざわざこの子は現れたのか。<br /> 本来ならばあまり入れたくはないのだが、来客も久々だ。変に拒んで突っ返して、また噂を立てられては面倒である。<br /> このお姫様はノートを渡す次いでと言わんばかりに、藤子がレズであるかどうかなどと質問するような、どうしようもない無神経さがある。ともすると、ココに現れたのもオトモダチとの会話のネタでも仕入れるような意味合いが強いだろう。<br /> ちなみに藤子は『違います』と答えた。<br />「好きな所にかけて」<br />「はい」<br /> お姫様は頷き、今まで藤子が座っていた席の隣に腰かける。パソコンが気になったのだろうか。<br /> 藤子もまた席に戻り、何か質問するでもなくパソコンの画面を覗いているお姫様を気にせず、検索サイトで『蟻の一生』などと検索する。<br />「……働き蟻なのに、働かないのもいるんです?」<br />「働かない蟻を選び、働かない蟻だけで構成した巣では、また働く蟻と働かない蟻に分かれるらしいよ」<br />「へー……」<br /> なんだろう。<br /> 何をしているんだろう。<br /> 検索してはお姫様が質問し、藤子がそれに答える、を繰り返す。<br /> そんな事を三十分も続けただろうか。やがてお姫様の質問が途切れる。<br /> 興味を失くしたのかと思い、藤子はワードを立ちあげ、奉仕活動部の活動内容記録を適当にねつ造し始める。<br /> 生徒会も、奉仕活動部が実質的な活動を行っていない事は承知であるからして、つまるところ生徒会が記録する『文化部の奉仕活動部の活動の空欄』を埋める為の補助作業でしかない。<br />「奉仕活動部っていうんですか? 部員は?」<br />「私だけだよ」<br />「そうなんだー。何する部?」<br />「何もしない部だよ」<br />「それでいいの?」<br />「なんか、良いって許可貰ったから」<br />「藤堂先輩一人なんだ?」<br />「そう。えーと、お姫様」<br />「お姫様、に見える?」<br />「ん……髪型とか、雰囲気とか、見えるかもね」<br />「名前も姫宮姫子なの」<br /> キーボードを打つ手を止め、お姫様――姫子を見る。彼女は小首を傾げ、何? と言いたげだ。<br />「あってるかも」<br />「言われるー」<br /> 姫子は口元に手を当て、上品に微笑む。良いところのお嬢様なのかもしれない。<br /> 確かに、多くは無いがそういう子が居るのは知っている。<br /> お馬鹿が入れる学校ではなく、品と言えば確かに、誰でも入れる私立校に比べればある方だ。<br /> まあそれはともかく、と藤子は小さく頭を振る。<br />「そういえば、今日はどうしたの」<br />「あ、えっと。そうだった。あ、そうでした」<br />「タメ口でいいよ」<br />「うん。実はね、二年になんだか、女の子が好きな先輩がいるって聞いて」<br /> だろうなあ、と小さく眉を寄せる。<br /> どうせこんな話題だ。<br /> 女子校ともなると、一年に一度は似たような話題があがる。恋愛に飢えた獣達が、スケープゴートを欲するが如くである。そして無慈悲にも単なる噂ではなく実在してしまったのが、今年度の藤堂藤子だ。<br /> 嗚呼、邪険に扱いたい、などと考えながら、一応話を聞く。<br />「それで?」<br />「昼休みは、違いますって言われたけれど、二人きりなら話してくれるかなって」<br />「それを話して、私に何か得があるかなあ」<br />「どゆこと?」<br />「んー。とても最悪なケースだけれど。もし君の人格が腹の減った猫並に最悪で、私から聞きだした話を友達の内輪でネタにしながらファミレスでお茶をするような人だった場合、私に得があると思う?」<br />「あ、そういうー」<br />「まして、今日会ったばかりの人に、私は一体何を語れば良いのやら。逆に一つ聞きたいのだけれど」<br />「なに?」<br />「君、自分の性癖やら表沙汰にしたくないような話、逢ったばかりの人に話す?」<br /> 姫子は藤子の話を暫く考え、咀嚼し、そうか、と眼を見開いた。<br /> 騙されない。藤子は騙されない。イマドキ、そんな天然モノがいるわけが無い。<br />「しないね」<br />「でしょう」<br />「どうしたら話してくれる?」<br /> そうくるか。流石に予想外だった。神経が太いのだろうか。<br /> 今のフリなら、大体は苦笑いを浮かべて退散するところなのだが、姫子は違うらしい。彼女にとって藤子の話は余程聞く価値があるものなのだろうか。<br /> ……実に面倒だ。女の子が好きで何が悪い。<br />「いや、話さないよ?」<br />「違うって言えば終わりじゃないのかな。そんなに否定しなくても」<br /> 誰の所為だ、という言葉を飲みこむ。<br /> 姫子は髪を弄りながら、しばらく中空を見つめ、何かを思い出したかのように改めて藤子を見る。<br />「そうだ、じゃあ、私の話を聞いてくれる?」<br />「話をでっちあげて、感傷に浸らせた上で語らせる、と?」<br />「あーん違う。そういうのじゃないってば。藤子、警戒心強くない?」<br /> 君はなれなれしいな、という言葉も飲み込む。<br /> 警戒心も強くなるだろう。噂の渦中におり、更にこのお姫様の所為で余計な噂が拡散したら目も当てられない。その場合、更に……今となっては疎遠だが、美知にも被害が及ぶやもしれないのだ。<br /> ふと、美知の笑顔が脳裏を掠め、あまり人に見せたくない表情をしてしまう。<br />「うわ、嫌そう」<br />「そりゃ、嫌だよ」<br />「じゃあじゃあ、部員になったら話してくれる?」<br />「元の部活は?」<br />「辞める。どこかに所属してなきゃダメだって言われたから入っただけだもの」<br />「何処部」<br />「家政部」<br /> よりによってそこか。何だか頭が痛くなってくる。<br /> 家政部を抜け、奉仕活動部に。どうあっても近い人間には話題になるだろう。奉仕活動部など、そんなマイナーな部にわざわざ入る、と言う事は、藤堂藤子との関係を疑われる。<br /> 疑われた挙句に、それが美知の耳に入る。<br /> 何だか酷く悲しくなってきた。<br />「お願いがあるのだけれど、姫宮さん」<br />「姫子でいいよ」<br />「姫宮さん。帰ってくれる?」<br /> もう取り合いたくもない。この子に適当話して噂をばら撒かれるぐらいなら、ここでさっさと退けてしまった方が、リスク上負担が軽い。<br />「あ――う、うん。ごめんなさい」<br /> そう、謝って、さっさと出て行けば、それで終わりだ。<br /> 何か、少し涙ぐんでいるような気もしたが、女の涙を女が信じる筈もない。<br /> 流そうと思えば、藤子とて出来る。<br /> 姫子は藤子に頭を下げ、小走りで部室を出て行った。<br />「……とはいえ」<br /> いやだなあ、とは思う。<br /> 警戒心が強い自分も、何かと絡んでくるああいう輩も、人に気軽に相談出来ない自分も、気軽に相談出来ない話を聞きたがる輩も、全部嫌だ。<br /> 溜息を吐き、誰からも連絡の来ることのない携帯を開く。<br /> フォトアルバムを眺めていると、ふと美知と撮った写真が残っていた事に気が付く。<br /> 拡大表示し、藤子は眉を顰める。<br /> 長い黒髪で、清楚な雰囲気。美人なのにそれを鼻にかけない彼女は、誰からも頼りにされていた。<br /> 自分は、彼女の何だったのか。<br /> 噂が広まった後か先か、その辺りから美知は急に藤子を突き放すようになった。<br /> そこまで人の噂を気にするような子でも、人にとやかく言われたからと自分を曲げるような子ではなかったのに、本当に突然に、彼女は離れていってしまった。<br /> 藤子は彼女が好きであったし、機会があるなら、当然キス以上の事もしたいと思っていた。<br /> だがやはり、明確でない自分達の立場は所詮仲の良い友達同士であり、美知は藤子がレズビアンである事を知らなかった。<br /> ……あれだけして、まさか藤子が、女性に気がないとは思っていないだろうが……。<br /> ともかく離れて行った彼女とは、以来連絡の一つも取れない。学校内ですれ違っても、完全に目を逸らされる。<br /> 自分の何が悪かったのか。離れるならせめて、理由の一つも知りたかったが、手段はない。<br />(やめよやめよ)<br /> 携帯を閉じ、鞄の中に放り投げる。<br /> 珍客で滅入っている所、更に自分で追い打ちをかける必要もない。藤子は荷物を片づけ、パソコンの電源をおとし、部室を後にした。<br /> いつもと変わらない帰路を歩きながら、ぼんやりと考える。<br /> 性格はいささか問題がありそうだが、姫宮姫子という子は、とても可愛い。きっと外に出ればモテるだろう。<br /> 藤子の視線は、どちらかと言えば男性寄りだ。<br /> 弟とどんな女の子が可愛いだろうか、という議論においても、だいぶ合致したのを思い出す。<br /> いや、小難しい精神構造の差異を持っているとか、女でなければ絶対駄目、という訳でもないのだが、多少苦手な男性と、苦手ではない女性、並べられたら女性に目が行くというだけの話である。<br /> 自分は女であると自覚しているし、女で良かったとも思っている。そういう人間を、大々的に社会が認めてくれ、などと大仰に喧伝するつもりは無いのだが、流石に生き辛い空気になるのは困る。<br /> しかし参ったな、と頭をかく。今後あの手合いに絡まれなければ良いのだが……。<br />「ん」<br /> 町の小さな商店街の並びに入り、ふと視線をあげる。<br /> 甘い匂いがしたからだ。<br /> なんとも言い難い、お腹が減っている頃には嗅ぐに厳しい、魅力的な芳香だ。<br /> そこそこ人気の洋菓子店で、駅へ向かう道すがらにある為、自分の通う学校の生徒も御用達である。<br /> 以前は良く美知と一緒にケーキを買ったりして『っぽく』していたのだが、別れて以来は時折一人で来ては、未練たらしく二人分のケーキを買って帰る。一つは弟用だ。<br /> 生クリームとカスタード、そして酸っぱい苺の誘惑が、脳内で巡る。<br />「いらっしゃいませー」<br /> 入ってしまった。ディスプレイを眺め、大して選びもせず決める。<br />「生クリームとカスタードのクレープケーキ二つ」<br />「はい。これ二つね」<br /> 感傷もあるが、そもそも甘いものが好きなのだ。これは弟にも好評で、たまに買ってきてくれとせがまれる。<br /> 可愛らしいラッピングケースに包まれたケーキを受け取り、中身が寄らないようにと両手で抱えて店を後にする。<br /> 店を出てほんの数歩、歩いた所で藤子は足を止めた。<br />(……姫宮洋菓)<br /> そうだった。ここはそんな名前の店であったか。珍しいといえば珍しいが、無い事もない苗字であるからして、まさか彼女の実家ではあるまい。<br /> ただ、彼女の雰囲気、それに何だか甘い匂いは、このケーキに似ていた。<br />(お菓子のお姫様か。あー、なんか、あー……頭痛いなあ)<br /> もう少しデリカシーのある性格なら、手放しに可愛いとも言えるのだが、社交辞令抜きで女に可愛いと言っても引かれるだけなので、藤子は考えるのを止めた。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 藤子にこれといった特技はない。ただ、身長はそこそこあるし、昔取った杵柄で体力も人並み以上はあるので、体育の授業は好きだった。<br />「藤堂さん、ネット前お願いしていいかな」<br />「うん」<br /> バレーともなると、必ずネットの前に配置される。本職のバレー部相手ではとても太刀打ち出来ないが、藤子の入ったチームは、クラス合同の体育で大体上位に食い込む。<br /> 目立ってしまっているだろうか、そう思いつつも、身体を動かすのは好きなので、少し張りきってしまう。<br /> その日も藤子は相手方が飛ばしてくるヘロヘロの球を打ち返す作業に終始し、6チーム中2位に収まる。<br />「藤堂さん、貴女、運動部入らないの?」<br /> バレー部の監督である体育女教師が、藤子に向かって毎度そう話す。<br />「いえ、ガチガチなのは、苦手で」<br /> 運動は好きだが、上下関係が嫌いなのだ。なるべくなら平穏にありたい。ましてこんな噂を立てられる人物、二年の今更になって入部したところで皆も扱いに困るだろう。<br /> いつも通り体育教師をやんわりといなし、その場を去る。<br /> 汗と制汗剤の匂いが立ちこめる、男子幻滅の更衣室でテキパキと着替えていると、隣のクラスの女子達が上半身裸のまま、何やら群がっていた。<br />「え、なにそれヤバイ」<br />「マジだって。いやほんとにい」<br /> 具体的に何がヤバいのか、主語を抜いてもコミュニケーション可能なほどヤバいのか。ああいう手合いは、まあ苦手な部類であるからして、藤子はまず近づかない。<br />「これバレたら停学じゃ?」<br />「停学だったとしても、バレたらガッコいれないでしょ」<br /> ……なんとなく、話の中から内容を探る。<br /> バレれば処罰されそうなモノ……といえば、幾つかあるが、学校に居られなくなるほどとなると、大体限られる。それこそ犯罪に手を染めたとか、もっと具体的に、援助交際だとか。<br /> あの子は売ってる、なんて話は良く有るが、ここで話されている内容を鑑みるに、それこそ証拠があるような状態なのだろう。<br /> 気分の良い話ではない為、藤子はさっさと着替えて更衣室を後にする。<br />「ん」<br /> 教室で鞄を取り、昼食をとる為に部室へと向かう途中、見慣れた姿があった。<br /> 長い黒髪を靡かせ、凛とした姿が目を引く生徒が、廊下の向こうから歩いてくる。<br /> 美苗美知だ。<br /> 立ち止まっていると、あちらも藤子に気が付いたらしいが、すぐ目を逸らして速足になる。<br /> 声をかけるべきか、否か。<br /> 数秒迷い、小さな唇が開く。<br />「美知」<br /> が、彼女は一切取り合う事なく、そのまま脇を通り過ぎていってしまった。<br /> これは、へこむ。<br /> 通り過ぎて行った後姿に振り向くと、なおさら虚しい気持ちになる。<br /> 藤子は……諦め、部室に向けて歩みを進める。<br />「はあ……」<br /> 部員用の鍵がある為、わざわざ職員室に行く必要はない。渡り廊下を抜け、部活動校舎の一番端に位置する奉仕活動部部室にまで赴くと、藤子はドアに鍵を差し込もうとしたが、その手が止まる。<br /> 中に誰かの気配があった。<br />「……誰?」<br /> ドアをガラリと開く。中に居たのは……姫宮姫子だった。<br />「あ、こんにちは」<br />「なんでいるのかな」<br />「鍵を借りたの。先生に」<br />「部外者に鍵は貸さないでしょう」<br />「入部したし」<br /> さて、本格的に困ったと、藤子は頭を抱える。何でまたこんなに積極的にする必要があるのか、サッパリ解らない。彼女は自分の立場を、まず理解していないだろう。<br />「今から取り下げてきた方が良いよ」<br />「なんで?」<br />「ここは私一人」<br />「うん」<br />「そこに君が入部する」<br />「うん」<br />「私は噂の渦中」<br />「確かに」<br />「私達で二人きり」<br />「あー」<br />「君が困る事になると思うよ」<br /> 普通、あんな顔をして出て行って、翌日ケロッとして入部しました、なんてあるか。ないだろう。<br />「つまり、私が藤子と付き合ってるとか?」<br />「面白がる人はそう組み立てて適当述べるでしょうね」<br />「おっかしー」<br />「参った子だなあ……」<br /> コロコロと笑う姿が、何とも能天気だ。<br /> 一先ず藤子はいつもの席に座り、鞄から弁当箱を取り出す。どう説得しようかと考えるにも、少々お腹が減っている。燃費は悪い方だ。<br />「藤子はお弁当なんだ」<br />「……そうだけれど」<br />「弁当系女子?」<br />「何何系とか、あんまり好きじゃないなあ。好きにさせてよって思う」<br />「私も。お姫様系ってなにーって。あ、それ美味しそう」<br />「姫宮さんは、パンなの?」<br />「姫子にしてよ」<br />「姫宮さん」<br />「むー、パンだよ、パン。実家が洋菓子店なんだけど、お父さんが趣味でパン焼くの」<br /> なるほど、と頷く。姫子は確かに、なんだか甘い匂いがする。容姿も相まって、更に普通じゃない感を演出していた。やはりあの店の子だったのか。<br /> 果してこの子、クラスではどんな扱いなのか。<br />「……はいこれ」<br />「ありがと」<br />「それで姫宮さん。入部の件だけれど」<br />「うん。あ、おいひい」<br />「どうしても入るの? 入ったとしても、私喋らないけど」<br />「何を喋らないの? ……あ、そっか。そうだった。うん」<br />「目的頭にないまま、入部したの?」<br />「いやー。昨日、凄く冷たくされたでしょう、私」<br />「はあ、まあ、そうだね」<br />「冷たくされるの、嫌いなの」<br />「え、悔しかったから?」<br />「そうそう。それにさ、家政部ってさ、なんだかギスギスしてて、居心地悪いし。それに比べたら、ここは藤子一人じゃない? 一応部活入ってる事にもなるし」<br />「まあ、それは良いよ。でも、ついてくる噂が面倒だよ、間違いなく」<br />「させておけば良いんじゃない? 女の子が女の子好きでも、私別に何とも思わないよ?」<br /> いやだから、まあ、そうなのだが。<br />「ねえ、姫宮さん。君ってもしかして」<br />「うん?」<br />「友達少ない?」<br />「あー、ほら、私、可愛いでしょう?」<br /> 眉を顰める。<br /> 確かに、可愛いのは間違いない。しかしそれを口にしてしまったら不味いのではないか。<br />「……」<br />「妬まれちゃってさー。媚びてるーとか、直ぐ股開くーとか、援交してるーとか、そりゃあもう」<br />「ちょっと待ってね」<br /> パソコンを立ちあげ、ブックマークしてある所謂学校の裏サイトを覗く。スレッドでは伏せ字だが……姫子の事らしき誹謗中傷が書き連ねてあった。<br /> 挙句隠し撮り写真まである。<br />「……えっと」<br />「それ、町歩いてる時のお父さんとの写真だよ」<br />「反論しないの?」<br />「面倒くさい。何言っても、面白がる奴らは論理的に考えないよー」<br /> ……仰る通りで。<br /> 妬み嫉みの類は、皆で盛り上がって一人を批難出来ればそれで良いのだ。証拠も論理も、破綻していようと構わない。<br /> 藤堂藤子が最も嫌いなものの一つ『前後が成り立たない』話である。<br /> だからそういう意味で、藤子の噂は大体正しい為に、反論のしようがないといえる。<br />「可愛いと、大変だね」<br />「あ、藤子も私の事可愛いと思う?」<br />「だってほら……私、女の子好きだし」<br /> なんだか偽るのも馬鹿らしくなり、そう答える。<br /> 姫子は眼を暫く瞬かせてから、口元をゆるめてほんのりと笑う。<br /> その表情は確かに、可愛すぎて、同性に嫌われるだろう。<br />「やっぱりそうなんだ。藤子って背高くてカッコいいし、モテるでしょ、同性に」<br />「何言ってるの?」<br />「客観的事実? 男日照りの続く不毛な女子校に咲く一輪の薔薇?」<br />「初めて言われたよ」<br />「そ、そうなの? え? 私、てっきり女性に迫られるのが嫌で、群れないようにしてるのかと」<br /> どうやら、お互い感違いしている点が多々あった様子だ。<br /> こればかりは反省せねばなるまい。<br /> 姫子のデリカシーの無さは責められて然るべきなのだが、無用な警戒心で彼女を責めた自分もまた同罪である。<br /> そういうことなら、入部も吝かではない。一人で暇なのは間違いないのだ。<br /> ただ、レズビアンのカップルだと噂される事だけを除けば。<br />「入部、いいけど、余計な噂付くよ」<br />「援交女って言われた上でレズビアン扱いってのも、なんか不思議」<br />「ああ、今更か……設定として複雑だねそれ」<br />「そうそう。ねえ藤子」<br />「何、姫宮さん」<br />「姫子だってば」<br />「姫子」<br />「えへへ。うん。あんね、私可愛いじゃない?」<br />「うん、まあ、口に出す事じゃないとは思うけど」<br />「で、私は藤子の事カッコ可愛いと思うの」<br />「はあ」<br />「じゃあもう本当に付き合えば矛盾もないんじゃない?」<br />「はあ……――はあ?」<br /> この子は……何を言っているのだろうか。箸で掴んだきゅうり竹輪を取り落とす。<br /> 多少の動揺。あわてて手に取ったお茶のパックを強く握りすぎ、お茶がこぼれる。<br />「私と、君が?」<br />「うん。聞いたよ。美知と別れたんでしょう?」<br /> 何故それを知っているのか。心臓の辺りが、むず痒くなる。<br /> もともと噂になったのは、二年の藤堂藤子が他人様とは違う性趣向の持ち主である、という事だけである。今のところ美知自身に被害が及んだとは聞いていない。<br />「家政部で?」<br />「うん。美知、友達だし」<br />「それ知ってて……それを話して、近づこうと、思うかなあ、普通」<br />「あ、もしかして、まだ美知の事好き?」<br /> 姫子は自分の髪を弄りながら、事もなげに言う。<br /> 美苗美知を、藤堂藤子は未だ好きなのだろうか。確かに彼女とは、具体性に富む付き合い方をしていたと思う。しかし互いに好きだと口にした事はないし、関係性も曖昧なままだった。<br /> 彼女は藤子を置いて離れて行ってしまったのだ。<br /> 今になって元の関係に戻ろうと思っても、そもそも美知は取り合ってくれないだろう。<br /> 気持ち云々、以前の話なのかもしれない。<br />「気持ちは、無い、訳じゃないけど。殆ど、片思いみたいな、感じだったし」<br />「そうなんだ? でもなんか変だなあ」<br />「それ、誰からの話?」<br />「美知だけど。レズの先輩に絡まれて困ってるって」<br /> 何か、自身の想いに罅が入るような音が聞こえる。あの子はそんな事を他人に口にする子だっただろうか。<br /> だが、状況を鑑みるに、噂の出所が、まず怪しかった。<br /> 一緒にいた美知も同時に語られて然るべき所……何故か藤子だけが噂になったのだ。藤子は美知に被害が及ばない事だけを案じていたが、その考えがスッポリと抜け落ちていた。<br /> たぶん、彼女がそんな事をする筈がないと、勝手に思い込んでいたからだ。<br /> あんな綺麗な顔をして……やることが、エグい。<br /> 嫌な素振りなんて、一つも見せなかったくせに。毎日一緒に、笑いあっていた癖に。<br /> 心の奥では、気持ち悪いと、そう思われていたのか、自分は。<br />「あ、あれ。藤子?」<br />「――なに、なによ」<br />「あっと……えっと……は、ハンカチ、はい」<br /> こんなに悲しい事があっただろうか。<br /> こんなに虚しい事があっただろうか。<br /> 語らずとも、多少なりとも、心は通じていたと、そう思っていた彼女が性悪で、噂を作って遊んでいただけなど、考えるに辛い。<br />「で、でも。なんか変なんだよ」<br />「……変って」<br />「だって私、貴女達羨ましくって」<br />「羨ましい?」<br />「ほら、実家、洋菓子店でしょ。近くの。姫宮洋菓。貴女達、二人でケーキ、買ったりしてたよね?」<br />「……甘いの、好きだから」<br />「見てたの。嬉しそうにしてる二人。別れた後も、二人分、ケーキを買って行く藤子も。昨日も」<br />「それで?」<br />「うん。美知、嬉しそうだったもん。あんな顔、冗談で出来ないよ。藤子見る眼、恋してたもん」<br /> ……そうだ。<br /> 仲は良かった。お互いに、口にはせずとも、共有する時間が幸福であったと思う。この、どうにも煮え切らない感情の理由はそこにある。<br /> 三か月の間とはいえ、毎日顔を突き合わせていて、その笑顔が作りものであったかどうかなど、解るにきまっている。<br /> 美知は間違いなく、心から笑っていた筈だ。<br />「どうする? 美知に聞いてみる?」<br />「駄目」<br />「なんで?」<br />「……駄目。本当は、別の誰かが噂して、それが嫌で、離れたのかも、しれないし」<br />「薄情。美知ってそんなに性格曲がってたかな。薄情すぎるよそんなの。噂されたぐらいで、好きな人ほっぽり出して、困らせるなんて、変」<br />「証拠、ないし。それに、あの子との間に、問題も、起こしたくないの」<br />「好きだから?」<br />「どう、だろう」<br />「それじゃ困るの」<br />「何故?」<br />「何故って。だってこれから、藤子は私を見なきゃいけないのに、他の子見てたら困るでしょ」<br /> どうやら付き合う事前提で話が進んでいるらしい。<br /> 藤子としては、当然可愛い子に好かれて悪い気はしないのだが、今は妙な空気にある。<br /> 姫子はジッと藤子を見つめてから、顔を緩めてにへらっと笑う。<br />「やだ、そんなに見ないでよ、恥ずかしい」<br />「いやいやいや……変な子だなあ、君は」<br />「ともかく、恋人同士という態でー」<br />「私、君の事何も知らないけど」<br />「暇でしょ?」<br />「まあ」<br />「フリーでしょう」<br />「一応」<br />「私も空いてる」<br />「うん」<br />「じゃあいいじゃない? ま、それに美知の反応も見れるかも?」<br /> 確かに、あるかもしれないが、普段の様子を見るに、本当に無関心かもしれない。<br /> それに、形だけのカップル、というのもいまいちシックリ来ないし、不誠実な気がしてならないのだ。<br />「ま、よろしくね、藤子」<br /> 姫子は顔をほんのりと赤らめて、藤子に微笑みかける。藤子もまんざらではなく、その直接的に向けられる感情に、引け目を感じながらも好ましく思った。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 小さい頃から、女の子同士の遊びには加わらなかった。<br /> 皆で楽しく遊んでいる所を、自分が参加した事で水を差すのではないかと、子供ながらに懸念を抱いていたのかもしれない。<br /> 例えばおままごと。仲の良い友達に誘われて参加しても、大体はお父さん役だ。その頃から身長があったし、幼稚園でも頭が一つ抜けていた。周りにはまるで優しいお兄ちゃんのように思われていたのかもしれない。生来醒め気味の空気が、同い年なのに周りとは違って大人に見え、頼りがいがあるように感じられたのだろう。<br /> 思い出せば幾つか、幼い頃より女の子らしく扱われた事がない節を思い出す。<br /> 小学校の時もだ。<br /> 皆で劇をやるというのに、何故かクラスの男子を差し置いて、王子様は藤子だった。<br /> あまり目立ちたがらない藤子からすると、嫌がらせなのではないかと思えるほど、クラスの女子全会一致での取りきめである。挙句、オリジナル要素まで加えられ、台詞もだいぶ増やされた。<br /> 台詞も演技も大変だし、皆から何かと面白がられ、良い気分ではなかった。<br /> 中学生にもなると、また話が面倒になる。<br /> 今まで近くに居た、友達だと思っていた子達が藤子から離れて行ったのだ。幼心に抱く友情が、思春期を迎えた彼女達にとって、気恥かしいものになってしまったのかもしれない。<br /> クラスの男子にデカイ女だと罵られた事がある。特別大きくはない。ただ、中学二年で165センチを超えていたので、確かに、周りの女子から比べると、一つ抜けてしまう。<br /> そいつは、悪い奴ではないのだがお調子者で、良く女子にちょっかいを出しては泣かせてしまような奴だった。小学生じゃないのだから、もう少し落ち着いた方が良い、そう諭したのを覚えている。<br /> 男子VS女子に発展したのは、それが切っ掛けだ。クラスの女子は藤子を矢面に立たせ盾にする。男子達は男子達で、自意識を傷つけられたのが余程頭に来たのか、藤子に対する嫌がらせが始まった。<br /> かなり直接的なものから、間接的なものまで。<br /> 藤子からすると、何もかも幼稚でくだらなく、相手にするのも面倒であった。<br /> 女子達は庇ってくれるのかと思えばそうでもなく、ただ傍観しているだけである。<br /> クラスの女子の中でも、一際可愛らしい彼女……萌葱といったか。対立する中、彼女に被害が及ばなければ、それで良いとも思っていたのだろう、進んで状況を改善するような真似はしなかった。<br /> そんな日々がどのくらい続いただろうか。<br /> バレンタインの日、机の中にチョコがあったのだ。友チョコなんてものが流行り出して久しい中であるから、藤子も過去幾つか貰ってはいるが、それは綺麗にラッピングされており、包みを解くと中にはメッセージカードと、不器用ながら一生懸命作りました、という気迫が感じられるチョコが入っていた。<br /> 今思えば、何故それを教室で開けてしまったのか。<br /> 女の子らしい趣味もなく陸上に打ちこんでいる事、元から女の子同士で男の子の話はしない事、他にも要因があっただろう。しかしそのチョコはトドメで、早速男子達に槍玉にあげられた。<br /> 取りあげられ、馬鹿にされ、挙句メッセージカードの音読である。<br /> どこの誰が、どのような想いで文字を綴り、そしてチョコを作ったのか。あれは間違いなく、真剣なものだった。<br /> それを愚弄されたのが、藤子には堪らなく許せなかったのだ。<br /> 堪忍袋の緒が切れると言うが、正しく烈火のごとくだったかもしれない。調子に乗って机の上で発表会を始めるチビを引きずり降ろし、片手で地面に放り投げた。周りにいた取り巻きも同様、そのカモシカのような脚で蹴り飛ばし、都合三人を保健室送りにした。<br /> 勿論先生が仲介に入り、両親も呼ばれる。<br /> こういう時、女子というのはやはり都合が良い。寄ってたかって女子生徒一人を馬鹿にして遊んでいた、など、どの両親も平謝りせざるを得ず、先生もイジメの事実を真剣に取りあげていなかったとして糾弾される事を避け、かなり穏便に済ませようとしていた。<br /> 肝心のチョコはどこへ行ったのか。ひと悶着あった後、藤子はそれを探しまわった。<br /> 搬出口でクラスのごみ袋の中身を漁り、チョコだけを発見した頃にはもう夕方だった。<br /> なんだか悔しくて、頭に来て、理不尽で、こんな扱いをされたチョコが、これを作ってくれた人が可哀想で、申し訳無くて、帰り道、産まれて初めて声をあげて泣き晴らした。<br />(……結局、誰だったんだろう、あれ)<br /> ――ペンを置き、ぼんやりと黒板を眺める。黒板に書かれた数式は、まるで頭に入って来ない。<br /> 問題は、あの甘い匂いがする彼女であるし、まるで取り合ってくれない親しかった彼女だ。<br /> 周りを見渡す。見事に女子しかいない。それも当然、女子校である。<br /> 元から男に免疫はなかったし、特にあの事件は男なる生物に不信感を抱かせるに十分であった。皆それぞれ違うとは解っていても、同じ空間に男女半分、毎日詰め込まれると思うと、少々嫌気がさす。<br /> 特にあの事件の後は顕著で、絶対に共学へや行くまいと、そして馬鹿は勘弁してほしいと、少し上の女子校を目指した結果がこれである。<br /> 確かに男は居ないし、馬鹿も少ないのだが、如何せんこうなってしまっては、意味が無い。<br /> 平穏な女子校ライフは、もう何処にも無いのだ。<br />「はいここまで。このままHRするから、ちゃっちゃと終わらせて放課後だよ」<br /> なんとも乱暴な物言いの数学教師兼担任の須賀だが、そのサバサバとした空気が人気の女教師だ。<br /> 大した議題も連絡もない為、HRは直ぐ終わり、周りのクラスよりも早めの放課後が訪れる。藤子はさっさと教科書を仕舞いこみ、部室へ行こうとしたところで、担任に呼びとめられた。<br />「藤堂。ちょっと」<br />「はい」<br /> クラスメイトが帰宅準備をする中、藤子は手招きされて窓際に寄る。<br /> 二十後半の須賀は、その小奇麗な顔を少しだけ歪め、難しい顔をしている。<br />「先生、これでも家政部の顧問でな。なんだその顔。似あわないってか」<br />「いえ」<br /> なんとなく、話題が解る。<br />「姫宮、あいつ奉仕活動部に移ったって聞いたが……なんでか解るか?」<br />「ギスギスしてて嫌だったのと、なんとなく入ったから愛着がない、と」<br />「ギスギスなあ。みんな仲良く見えるが。特にほら、美苗とは仲良かったし。まあ、引き止めるつもりはないんだがー……なあ藤堂」<br />「はい」<br />「あの噂と、なんか関係あるのか?」<br />「あの噂、というと」<br />「解るんじゃないか?」<br /> 恐らく、援助交際の話だろう。だから、こういう面倒な事になる前に、さっさと説明すれば良いものを、彼女はだいぶグズった。<br /> 基本、先生は退部の話はどうでもいいのだろう。つまるところ、近い人間から疑惑について話を聞ければ良いのだ。<br />「写真もあがってるとか」<br />「ああ」<br />「あれお父さんだそうです。死ぬほど趣味が悪いし、なんだか聞いてて頭に来る話ですよね、これ」<br />「いや。悪い。何もそういうつもりじゃなかったんだが、話題に上がったからな。そうか。じゃあそれはあいつの担任にも話しておくか。で、姫宮なんだがね」<br />「はあ」<br />「美苗とは仲が良いように見えたんだが、他からは嫌われてたかもしれんな」<br />「みんな仲良いっていったじゃありませんか」<br />「話す順序があるんだ。ほら、姫宮はオンナオンナしてて、如何にもだろう?」<br />「可愛いとは思います」<br />「そうか。で……そのな。お前さんの話も、あるわけだ」<br />「……人の性癖に文句をつけると?」<br />「否定しないのな。まあほら、いちゃついた所で子供が出来る訳じゃないが……ほどほどに、仲良くしてやってくれるか?」<br />「つまり、私にどうしろと」<br />「あいつが話したかどうかしらんが……ちょっと情緒不安定な子なんだ。いきなり部を抜けるっていうのも驚いたし、噂もあるし、その抜けた先にはお前さんだろう? なんとなく解ってくれ」<br />「先生としても酷く勘ぐっている訳ではなく、変な噂があるし、レズだのなんだのと噂にならないといいな。でも面倒見は良さそうだから、あの不安定な子と仲良くして欲しいな、という事」<br />「お前は頭が良くて助かる」<br />「……どうなんですか、教師として」<br />「そこを言われると辛いんだが、生憎親身に接してやるには、年齢も距離も遠いんだ。埋め合わせはするから、ま、宜しくな?」<br />「……面倒な事になったら責任とってくださいね」<br />「大人だからな。責任とるぐらいしか出来ないんだ。まかせた」<br /> 先生が小さく頭を下げる。<br /> しかしなるほど。教師達も問題を放置している訳ではなさそうだ。<br /> 程良く仲良くしてくれ、と言われた場合どうすればいいだろうか。それ以前に、何故か彼女宣言されているのだ。此方としては、そんな中途半端にお付き合いしています、なんて口が裂けても言えないが、関係を整理する必要はあるだろう。<br /> それに情緒不安定とは、初耳だ。<br /> 明るく笑顔の可愛い彼女も、他の人たちと接する場合、だいぶ態度が違うのだろうか……。<br />「……ああ」<br /> 確かに。思い当たる節がある。<br /> 初めてノートを持って来た時、だいぶよそよそしかった。もしあの雰囲気で生活しているのならば、可愛さも相まって虐めの対象になるやもしれない。<br /> 取り敢えず、だらだらと考えても仕方が無い。藤子は荷物をまとめて部室へと向かう。<br /> 鍵を取り出したが、中に気配を感じ、そのまま扉を開く。<br /> 中では姫宮姫子が、藤子の来訪を待ちわびていたらしく、直ぐ笑顔になり、しかも飛びついて来た。<br />「藤子、おはよっ」<br />「あのねえ、そんな恥も外聞もないラブラブ新婚夫婦みたいな御迎えやめて」<br />「えー。私、好きな人にはベッタリだし、尽くしまくっちゃうよ?」<br />「え、好きだったの?」<br />「嫌いならこんな事しないよ?」<br /> 取り敢えず、誰かに見られても面倒なので、後ろ手で扉を閉める。どうも離れたくないらしい姫子を引きずりながら、いつもの席についてパソコンを立ち上げる。<br />「えっへっへ。んー」<br />「んーって何」<br />「キスしないの?」<br />「しないでしょう。恋人じゃあるまいに。いや恋人でもそんなベタベタ恥ずかしい」<br />「美知にはしたでしょ」<br />「……いやだから、私は認めていないし、君だってそんな、適当に恋人見繕っても駄目でしょう」<br />「適当じゃないよー。藤子はね、運命の人なの」<br /> アター、と自分の額を叩く。<br /> 運命の人は不味い。何が不味いって全部不味い。確かに見た目お姫様な彼女だが、まさかそんな居た堪れない残念自意識を抱えた人間だったとは思わなかった。<br />「とかだったらいいのになあ」<br />「……」<br />「あ、イタイ子だと思った? あははっ」<br /> 今日はだいぶご機嫌麗しいと見える。これぐらいの感情変化なら誰でも有り得るだろう。とはいえ、藤子は普段から感情落差が少ない。<br />「クールって、言いかえれば根暗って事だよね」<br />「言い換えるから不味いんじゃない?」<br />「でもほら、私は君みたいに明るくは出来ないし」<br />「あー。別に良いんじゃない? 私は藤子のキリッとした顔好き」<br />「他に表す表情が無いからかな」<br />「表情で思い出したけどね」<br />「うん?」<br />「家政部止めて、奉仕活動部に入るって美知に話したら、言葉にはしてなかったけど、物凄い顔で睨まれちゃった」<br />「なんでだろう」<br />「やっぱり気があるんだよ。まあ、もう渡さないけどね? ふふ。藤子、藤子ー」<br />「べたべた暑苦しいよ」<br />「こんなに可愛い子に縋られて暑苦しいとか酷い!」<br />「お、嫌われたかな」<br />「でもそんなのも好き」<br />「参ったな」<br /> 離れる気のない姫子を無視して、パソコンを弄る。生徒会に対する報告書は殆ど出来ているので、次に提出する報告書でもねつ造しようと考えていた。元から生徒会は奉仕活動部に仕事を回さないし、取り敢えずあるだけの部活動であるから、誰も文句はないだろう。<br />「ねえ旦那様」<br />「やっぱり男役なんだよねえ」<br />「何が?」<br />「昔から、何かにつけて配役を男にされるの」<br />「背高いし、髪短いし、顔つきも中性的だし、仕方ないんじゃない? ほらこっち見て」<br />「ん」<br />「ほら、これもう少し髪型お洒落にして、キリッとするとイケメン風味。でもやっぱり女の子って感じもあって、それがまた……ああ、藤子、可愛い」<br />「――見つめ合いながら、そういうのは止めてよ。マジっぽいし」<br />「マジだよーだ」<br /> そういって拗ねると、漸く離れて窓際の席に腰かけた。酷く子供っぽいが、当然嫌という訳ではない。<br /> むしろ、常にこのように迫られた場合、藤子はきっと抵抗虚しく流されるだろう。それほど彼女は可愛らしく、藤子好みである。その明るさとて、本来恋人同士だとするならば、許容している。<br /> 良く考えれば、タイプこそ違うが、美知も姫子もお姫様のような子だ。美知は和風、姫子は洋風である。<br /> ただ、今は姫子と仲良くするのは宜しくない。<br /> せめて、美知と話し合って、自分達の関係性を明確にした後でなければ、美知にも姫子にも失礼だ。<br /> 好ましく思われているのは、凄く、嬉しいのだ。<br /> しかしそれにしても……姫子の奉仕活動部入部の知らせを聞いた美知が、何故姫子を睨む必要があったのだろうか。それは、まだ美知が少なからず藤子を思っていてくれているからか、それもと、何でそんな話をわざわざ私に聞かせるのか、という不快感からだろうか。<br /> 今まで話しかけても取り合ってすら貰えなかったのだ。なるべくならもう少し、情報を得てから彼女とお話合いがしたい。<br />「ねえ、藤子」<br /> 窓際で外を見ていた姫子が、振り返って藤子に話しかける。<br />「なにかな」<br />「部活動しないの?」<br />「しないよ、仕事ないし」<br />「生徒会自治委員会が、大半の仕事持ってってるんだっけ」<br />「そうだよ」<br />「折角部員も二人だしさ、二人で出来る範囲貰ってこようよ」<br />「止めた方が良いよ」<br />「なんで? 生徒会と仲悪いの?」<br />「んー。自治委員会の人は、元は奉仕活動部でしょう」<br />「うん」<br />「一人残るって話から、凄く揉めちゃってね。いや、私じゃなくて先輩同士が。なんだか解らないけれど」<br />「なんで揉めたの?」<br />「活動しない部を残しておくのもおかしいって事じゃないかな」<br />「いやー。ねえ、藤子さ」<br />「うん?」<br />「自分がどれだけ好ましい容姿か、考えた事ある?」<br />「ないけど。こんな男女、怖いでしょう」<br />「あはは。またまた。小さい頃から男役ばっかりだっけ?」<br />「そうだけど」<br />「ちょっと接し方に困ってただけで、みんなさ、憧れてたんじゃない? 背高いし、顔良いし、勉強も出来る。群れなくて、物静かで、なんかミステリアス」<br />「なんか面倒くさそうな人物像だね。誰それ」<br />「だから、藤子でしょう。先輩達もさ、藤子巡って喧嘩したんだって、絶対」<br /> ……。流石にそれは……とは、想いつつも。<br /> 確かに、容姿で虐められた記憶はない。中学時代の暗い記憶は、大半が男性からの嫌がらせだ。<br />「幼稚園の時、オママゴトはいつもお父さんか、妻の愛人役だった」<br />「酷いマセガキ……まあ、そう観られてたのかも」<br />「小学校の頃は、いつも周りに女の子がいて」<br />「周りに居るって変な表現」<br />「私からはあんまり。みんなが来るの。私、目立ちたくないのに、持ち上げられて、演劇だって王子様役だったし」<br />「いやあ……それは純粋に、好かれてたから、みんなで持ち上げただけだと思うけど……」<br />「中学の時なんて、小学校の時の友達は離れちゃうし、男子に虐められるし、女子は傍観してたし」<br />「それは酷いけど、なんで?」<br />「男子が子供すぎたから、大人になれって言ったら、女子の代表みたいにされて」<br />「小学校の友達が離れたのは、なんか解る」<br />「……え? 理由解る?」<br />「カッコいいな、凄く良い人だなって、純粋に近づけていた小学校時代だけれど、思春期に入って、そういう気持ちが冗談じゃなくなったんだと思うよ。ガチだと思われちゃうから」<br />「そ、そんなものかな。でも、皆が味方してくれなかったのは?」<br />「それは藤子が皆の代表として、男子に対抗する盾だから」<br />「そのままじゃない」<br />「うん。だからさ、頼もしくてカッコイイ貴女に、頼りたかったんじゃない? 別に女性陣から厭味を言われたり、嫌われたり、した訳じゃないのでしょう?」<br />「……う、うん。確かに。そうだけど。でも、薄情じゃない、なんだか」<br />「――藤子、クラスに好きな人、居た?」<br />「……うん。居た。気持ちも、伝えなかったけれど」<br />「それじゃないかなー。その子良く見てたでしょう?」<br />「確かに」<br />「女子たちの王子様の貴女が、もしかしたらクラスメイトの女の子の一人に恋心を抱いていたと知ったら、みな遠慮するかも」<br />「そんなもんかなあ」<br />「そーだよ。もう。藤子はカッコ可愛いってば。認めなよ」<br />「難しいよ。姫子の主観を信じるのは」<br />「もう……ま、いいか。他の悪い虫つかないならそれで」<br /> どうやら納得したらしい。<br /> 姫子の話は乱暴だが、自分ももう少し友好的に接していたならばと考えると、後悔する点は多い。<br /> 中学の時とて、積極的に仲間作りなど、しなかったのだから。<br />「――そう、そう。そういえばさ、中学の時、チョコとか、貰わなかった?」<br /> 唐突に、姫子がそんな事を言い出す。話の流れと言えばそうだが、今までとは違ってテンションは抑え気味だ。<br />「ああ、貰ったね。女の子から。友チョコ」<br />「あ、うん。な、なんかさ。それで喧嘩になったりとか、なかった?」<br />「あー……あんまり、良い思い出は無いんだ」<br />「そっか。そうだ、チョコ好き?」<br />「甘いのは、大体。知ってるでしょう?」<br />「うん。じゃあ、今度作ってこようか。甘いの」<br />「女の子らしい……貰えるのなら、貰うよ」<br />「……えへへ。うん。楽しみにしててね」<br /> 姫子が顔を赤らめる。<br /> その恥ずかしそうな顔は、明るく振る舞う姫子よりも、更に可愛らしく見えた。<br /> そのように可愛さを振り撒かれると、藤子としても反応に困る。<br />「好きな人の為に何か作るって、素敵だと思うの」<br />「……そっか。うん。気恥かしい限り……その、さ、姫子」<br />「うん?」<br />「思いの外、色々考えてるんだね」<br />「ひどーい」<br />「ごめん。でもなんだか、ありがと」<br />「――うふふ。うん」<br />「もう帰ろっか」<br />「はーい」<br /> 帰ろう、と呼びかける人がいる部室は、久しぶりだった。いつもそこに座っていたのは、美知だったのだ。家政部に所属はしていたが、暇を見つければ奉仕活動部に顔を出していた。<br /> 詰まらない話をして、意味もなくじゃれて、ほんの少しだけ、いけない事もした。<br /> 今後姫子が奉仕活動部員となって、毎日顔を合わせて。<br /> 彼女の気持ちが本物で。<br /> 美知とも整理がついたら。<br /> また、毎日に幸せが舞い戻ってくるだろうか。<br /> きっと、周りからは色々と言われるかもしれないし、偏見で見られるかも、解らない。<br /> だとしても、このままでは薄暗い未来しか見えない藤子には、一縷の希望に見えるのだ。<br /> 最初こそ酷い子だとは思ったが、話して見れば思いの外思慮深いし、良く頭を使う子だ。まだ、判断するだけの時間を付き合っていないからかもしれないが、藤子に抱き縋る姫子に、後ろ暗い空気は無い。<br /> 彼女が好きかと、そう言われれば疑問符も浮かぶ。ただ、きっと今よりは好転する。<br /> 恋人同士でなくても、仲の良い友達としてなら……。<br />(仲の良い友達として……結局、好きだっていう事もなく……)<br /> ……。<br /> やはり、恐れているのだろう。けれど、もし、姫子が突破口になってくれたのなら、この何もかも中途半端な藤堂藤子を、少しでも変える切っ掛けになったのならば、自分は変われる気がした――<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> ――しかし希望というものは、なかなか儚く出来ている。<br /> 所詮は自分の脳内で巡らせ至った最善の未来でしかない。他者がどう思っているのか、何を考えているのかなど、想像出来る範囲でしか想定出来ず、それを己の希望推定に組み込んで計算する事など、出来はしないのだ。<br /> 藤堂藤子は、椅子座って足を組み、此方を見下す美苗美知を前に、硬直する。<br />「……なんで」<br />「別に?」<br /> ――彼女と初めて出会ったのは、ある日の夕暮れだった。<br /> その日も大してやる事は無く、奉仕活動部で昼寝をしていたのだ。すっかりと寝入ってしまい、気が付いた頃には陽が暮れようとしていた。<br /> あわてて戸締りを済ませ、下校しようと下駄箱にまで駆けおりた時の事、生徒が困った顔をして下駄箱周辺を探しまわっていたのだ。<br /> 長い黒髪に少し切れ長の瞳。飾りっけは無いが、全体から清潔感が漂う。ほんの少し、春の花のような香りのする、下級生だった。<br /> 勿論、藤子の好みであった事もあるが、困っているのならば手を差し伸べる。何事があったのかと聞けば、ストラップを落としてしまったのだという。<br /> ただのストラップならば問題ないかもしれないが、母からもらったものだというのだ。<br />『そんな、迷惑をかけますから』<br />『暇だし、気にしないで。こっちの隙間とかは探した?』<br />『……』<br /> もしかしたら、その時は迷惑だったかもしれない。結局見つからず、その日はお互いバラバラに帰った。<br /> 翌日の放課後。彼女はまた下駄箱周辺を探していた。<br /> 何も言わず、藤子は手伝う。彼女も何も言わなかった。<br /> そんな日が三日程続いただろうか。恐らく、ムキになっていたのだと思う。<br /> また放課後に下駄箱へ行くと、彼女は居た。その手には、ストラップ、だったらしいもの。恐らく気が付かれず、踏まれて蹴られて、奥に追いやられてしまったのだろう。<br />『見つけてあげられなくて、ごめんね』<br />『……謝る事、ないのに』<br />『みせて』<br /> ストラップの残骸を受け取る。どこかで観た事のある、ゆるいキャラクターが、無惨にも塗料がはがれ、ボロボロになっていた。<br /> 例え代えを用意したとて、意味は無い。プレゼントは気持ちが大半である。<br /> 聞けば、亡くなった母に貰ったものだという。では尚更だ。<br />「……なんで、美知が、部室にいるのかな」<br />「いちゃ、悪いかしら、藤子」<br /> ……。あの時は、それこそ、たった一か月前には、そんな表情は、しなかっただろうに。<br /> どうにか、この子を笑顔にしたかった。代えが意味無しと解っていても、他に何か出来るほど、藤子は彼女と繋がりは無かったし、他のものを提示する事も考えられなかった。<br /> 翌々日、藤子は同じものを買い、彼女に渡した。彼女はキョトンとした顔でそれを受け取る。<br />『説明、出来ないのだけれど。たぶん、貴女は笑っている方が、素敵だから。こんなの、何の意味もないと、想うけれど……』<br /> 泣き顔しか知らなかった彼女は、藤子が今まで出会った事がない、美しい笑顔を向けてくれた。<br />『美知。美苗美知よ。貴女は』<br />『藤堂藤子だよ』<br />『……ありがとう。藤子。私、凄く、嬉しい』<br /> あの笑顔に、やられてしまったのかもしれない。<br /> あんなに優しい笑顔を見たことが無かった。<br /> それから日々、藤子は美知の事ばかり考えるようになる。<br /> まさか、貴女を好きになってしまいましたなんて、言える訳もない。彼女と友達になって、毎日を過ごしていれば、それで満足なのだと、自分に言い聞かせた。<br /> 美知はけれども、藤子の気持ちをどれだけ察してくれていたかは解らない。しかし、友達以上の事をしていたし、互いに一緒に居る時間は、この世で最も幸せであると感じられた。<br /> そうだ……あの笑顔。<br /> だから、美苗美知は、そんな、いやらしい笑い方なんて、しないのだ。<br /> そんな、そっけない言葉は吐かなかったのだ。<br /> まるで、彼女が別人に見える。<br />「……声をかけても、振り向きすら、しなかったじゃない」<br />「振り向く気分じゃなかったのよ」<br /> 昼。昼食を取ろうと部室に足を運んだ藤子は、部室前に佇む美苗美知と出会った。今の今まで、まるで振り向く素振りすら見せなかった美知が、何故部室で待っていたのか。<br /> 一先ず中には入れたが、美知はいつも座っていた窓際の椅子に腰かけると、的を射ない返答を繰り返すばかりであった。<br />「――どうして」<br /> そう。ただ、どうして。それしか思い浮かばなかった。突如離れてしまった理由も、そしてまたいきなり現れた理由も、藤子には解らない。<br />「来たかったから来たの。ここ、静かでしょう?」<br />「違う。違うの、美知……何故……私を、避けたの。そして今になって何故、顔を出すの」<br />「――そうそう。藤子。姫子が入部したんですってね。寂しくなってしまったの?」<br />「どういう、事」<br />「寂しかったんでしょう。友達の居ない貴女だから、姫子を誑かして、部に引きこんだ。あの援交女、貴女に優しくしてくれる?」<br />「違う。あの子は、そんな事、しないよ」<br />「でも誑かしたんでしょう。私の時みたいに。そういえば貴女、ビアンなんですって?」<br />「……」<br />「なんとか言ったら?」<br />「……解った、言うよ」<br /> もうたくさんだ。藤子は髪をかき上げ、美知を強く睨む。<br />「ええ」<br />「私は、貴女もあの子も、誑かしてなんていない。私は――君が好き」<br />「嗚呼――んふふ。うん、そう。それが聞き――」<br />「だった」<br />「――――…………え?」<br />「もう、私には関わらないで。変な噂立てられて、君も迷惑するでしょう。君と過ごせて、私は、凄く、幸せだったから。ありがとう、美知。ううん。美苗さん」<br />「あ、ちょ――ちょっと……何、言って……え、と、藤子?」<br />「それと、姫子の、変な噂、流さないでね。あの写真、あの子のお父さんだから」<br /> 背を向ける。扉を閉め、藤子は走った。<br /> あんなに綺麗で優しい笑顔を湛えた彼女は、もう居ないのだ。きっと、普通以上の仲の良さを求める藤子が怖くて、それに合わせて付き合っていただけに過ぎない。<br /> しかし、あんな罵り方、しなくても良いだろうに。<br /> 本気だったのに。誑かしたなんて、そんな事は絶対にない。藤堂藤子は、真剣に美苗美知が好きだった。<br /> もう良いだろう。<br /> もう許してほしい。<br /> これが精一杯だ。<br /> 藤子は、確かに背が高いし、見た目も中性的だ。いつも女性達には、男として見られていた。<br /> でも、違う。<br /> 藤堂藤子は、女の子なのだ。女性なのだ。<br /> そんな、わざと傷つけるような事を言われて、心が荒まない訳がない。嫌にならない訳がない。<br />「うっく……うっ……ううぅ……」<br /> 嫌になる。自分が嫌になる。<br /> 何で女の子が好きなのか。何でこんな見た目なのか。<br /> 私が一体、何を悪い事をしたというのだと、嘆くほかない。<br /> 泣いている姿を見られるのも嫌だ。藤子はその快足で走り抜け、校舎の裏に逃げ込む。普段誰もこない用具室の裏に隠れ、壁に手を付く。<br /> どうしたら、もっと上手く生きて行けるだろう。どうやったら、もっと笑顔で居られるだろう。<br /> 藤子は不器用だ。表情を表すのも、相手の機嫌を取るのも、兎に角、苦手だった。<br /> 何に打ち込む事もなく、得意だった陸上も止めて、もっと生きやすいだろうと思った高校でこれでは、一体、藤子の居場所はどこにあるのだろうか。<br />「……」<br />「藤子」<br />「……」<br />「藤子。大丈夫? 辛い? 痛い? 苦しい?」<br /> 泣きじゃくり、どのくらいの時間が経っただろうか。時計を見れば既に昼休みは終わっていた。<br /> 呼びかける声に顔をあげる。<br />「……姫子」<br />「うん。姫子だよ。悪い奴、やっつけて来たから。藤子は何も心配しなくていいんだよ」<br />「……やっつけた?」<br />「部室行ったら、美知が居たから。詰まんない事言うから、張り倒しちゃった」<br />「美知は」<br />「泣いてどっかいったよ。知らない、あんなの。藤子、大丈夫?」<br />「……駄目かも」<br />「独りだと辛い?」<br />「……うん」<br />「あは。うん。なんだか、しおらしくなっちゃって、可愛いんだ。大丈夫だよ。藤子は独りじゃないよ。姫子が居るから。独りじゃ寂しくても、二人なら大丈夫だよ。ほら、藤子」<br /> 姫子の胸に抱かれ、余計悲しくなる。ただ、虚しさとは違った。何時も抱える、空虚な感覚とは違う悲しさだ。姫子の胸が温かい。人とのつながりを、上手く紡げなかった藤子には、むしろ熱いくらいだった。<br />「独り、寂しいよね。私もそうだから。解るよ。藤子、一緒にいよ。藤子は、誰にも虐めさせないよ。私、絶対、守るから。ずっと男の子扱いされてきたんだもんね。甘える先が、無かったんだよね」<br />「……うん……うん……」<br />「そうだ……」<br /> 何か思い立ったのか、姫子は鞄から、一つの包みを取り出す。<br /> どこかで観た事のあるラッピングだ。呆けた顔を向けると、姫子は笑顔で応えてくれる。<br />「開けてみて。約束してたよね、甘いの、作って来るって」<br /> 酷いデジャヴュを感じた。包みを開ける一つ一つの動作が、中学の時のバレンタインを想起させる。<br /> 包みを解き、箱を開ける。<br /> 中には、過去とは違う、良く出来たチョコレートと<br /> あの時見たものと全く同じメッセージカードが入っていた。<br />「あ……あ、これ……」<br />「……ずっとね、知ってたの。藤子の事。小学生の時から見てたし、中学生になっても、貴女ばかり気にしてた。ずっとずっと、想い募らせて、告白する勇気もなくて。でも、陳腐だけどさ、何かプレゼントするタイミングがあれば、わ、わたし――想いを伝えられるかなって……思ってて……」<br />「……チョコしか、見つからなくて」<br />「うん。私、勘違いしたんだ。くだらないと、思われて、捨てられたのかもって」<br />「違う。違うの。私が不用意にね、教室で開けてしまって。それを取りあげられて、喧嘩になって……探したら、もう、捨てられた後で……チョコだけ、見つけたけれど、カードがなくて……ああ……そんな」<br />「誰かに、見られるの、嫌だったから」<br />「ずっと、気になっていたんだ。誰がくれたのだろうって。チョコ、美味しかったよ」<br />「食べたの? 塵に、捨てられてたのに。人が、良すぎない?」<br />「……ごめん、不器用だから、私」<br />「ううん。ううん。そんなことない。凄く、うれし、うれしくて……私が、意気地なしだったばっかりに、貴女に迷惑かけたの。ごめんね、ごめんね、藤子、ごめんね……」<br />「姫子」<br />「変わろうと、思ったの。もっと、女の子らしい方が、藤子に見て貰えるんじゃないかって。高校に入って、変わろうと思ったの。でも、近づけない。私は何でもない子だから。普通だから。それじゃ、見て貰えない。眼鏡外して、髪型も変えて。それでね、いざ、貴女に向かおうと、貴女に見て貰おうと思ったら……楽しそうに、美知とウチのお店に、買い物に来たでしょう。凄く、悔しくて、頭に来て。でも、どうしようもなくて……」<br />「……うん」<br />「ずっと、羨ましかった。貴女に見て貰いたかった。藤子に見て貰いたかった。言うね、こんなタイミングじゃ、まるで、ずるいけど。でも、私駄目だから。こんなタイミング逃したら、もう何も本当の事を言えなくなるから」<br />「うん、うん……」<br />「好き。藤堂藤子が好き。ずっと好きだったの。周りにどう思われようと、美知が突っかかってこようと、関係ない。私は藤子が好き。貴女と一緒に居たい」<br /> 姫子の真っ直ぐな瞳が藤子を捉える。<br /> 嗚呼これはと、喉元から発せられそうで、もう少しのところで、喘ぐ。<br /> 許されているのだ。<br /> 彼女は何もかも許してくれている。<br /> ブラウンの瞳が、藤堂藤子の返答を待ちわびているのだ。<br /> 良いのか、言っても。<br /> 女の子を好きだと口にしても良いのか。<br /> このお菓子のお姫様に求められて、そうだ、求められるならば、本当に自分は、男役を演じよう。王子様になってあげられる。<br /> 空虚で、熱量無く、実を伴わなかった想いは、今ここに結実しようとしているのだ。<br /> 逃す手があるか。こんなにも可愛い子に求められて。ずっと想われて。<br />「私――私も……」<br /> 好きになっても良いだろうかと、そう言った瞬間に、藤堂藤子は救われるのではないのか。<br />「す――」<br /> 心に決め、中途半端だった己を戒め、全ての救済に手を伸ばした、その時だった。<br /> 真横から物凄い勢いで、姫子がはじけ飛んだ。<br />「あっ」<br /> 何が起こったのか。意味が解らない。視線をゆっくりと向けた先には、黒髪の彼女が、お姫様に馬乗りになっていた。<br />「この――ッ! あんた、アンタはぁッッ!!」<br />「痛ッ! 何よアンタ!!」<br />「五月蠅い喚くな! 藤子に、何吹き込んだ!!」<br />「黙れ間抜け! いたっ、髪ひっぱらないで――!!」<br /> それは一体どんな状態なのか。どうしてそうなる。<br /> 藤子はキョトンとしたまま、泥だらけで転げまわる二人を見守っていた。<br /> そうだ、確か姫子は美知を張り倒したと言っていた。その報復か。往生際が悪い。<br />「美知!」<br />「藤子は黙ってて! コイツ、絶対、絶対許さない――ッッ!!」<br />「ハッ! 今更になって何言ってんだか! どけって言ってんの!!」<br />「言え! 今ここで! 『私の』藤子に、何吹き込んだ!!」<br /> 思いがけない言葉に、藤子が硬直する。どういう意味だ。何故今になって、美苗美知が藤子を自分の物だと宣言するのか。そして何故、彼女は泣き晴らしているのか。<br /> 奇声を上げ、掴み合う二人を暫く眺めた後、漸く身体が動いた。二人とも華奢だ。人を殴ったり、蹴ったりするようには出来ていない。<br /> 藤子は取っ組み合いをする二人の間に腕を突っ込み、一気に引きはがす。<br />「あっ」<br />「くっ――ッ」<br />「やめて。何が、どうして、こうなっているの。離れて、近づかないで。殴るなら私を殴って」<br /> 互いをぶちのめそうと構えた二人は、不満ありげにその手を降ろし、互いに距離を取る。<br />「そのクソ泥棒猫、一発二発殴らなきゃ気が済まないのよ!!」<br />「ハッ。鈍感で間抜けで意気地なしが、今更出てきても遅いってーの。ばーか」<br />「なあぁぁッ!! こいつぅ――ッ!!」<br />「美知、落ち着いて、殴ったりしたら駄目」<br />「だって!! 藤子! 貴女、そいつに騙されてるのに!」<br />「支離滅裂だよ。騙すって何。私をいきなり突き放したのは、美知でしょう」<br />「だから! それが!」<br /> 美知は息を荒げ、その腕を振り払うようにする。燃え上がる瞳は、姫子を捉えた離さなかった。<br />「……姫子、どういう事?」<br />「――違うの」<br />「違わないよ。美知は、余程の事が無い限り……少なくとも、私の記憶では、こんな、恥も外聞もなく、怒りを撒き散らしたりなんか、しないんだよ」<br />「……もう少しだったのに」<br />「……美知も、姫子も、擦り傷だらけだよ。保健室行こう」<br />「殴るのが先ッ」<br />「美知ってば!」<br />「うううううっッッ!! 藤子!」<br />「……なにかな」<br />「――ッ……いい。後で、話すわ」<br />「うん。……じゃあ、今は、解散しよ。放課後、部室に。姫子も、良い?」<br />「わかった。ま、大半達成したみたいなものだし、この際良いや」<br /> 制服の裾を払い、姫子は不敵に笑った後、藤子に微笑みかける。しかしその笑顔はどこかぎこちなく、いつもの美しさに欠ける。<br />「大好きだよ、藤子。大好き。ずーっと好きだったんだから」<br /> その笑みは……そうだ。何かほの暗く、後ろめたく、とても、一緒に笑ってあげられる雰囲気にない。<br /> 藤子は小さく首を振る。姫子はそれを振り切って、立ち去ってしまった。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> いつも軽やかに向かう部室への廊下は、異様に長く感じられた。<br /> 午後の授業は一切頭に入らず、右耳から左耳へと抜けて行くのをリアルに感じた。脳裏に浮かぶものは、怒号を撒き散らす美知と、喚き散らす姫子の、鬼気迫る表情である。<br /> お互いに笑えば、それこそ華が咲き誇ったかのような美しさ、雅さがあるというのに、あれでは何もかもが台無しだ。<br /> 何故、こうなったのか。<br /> そして恐らく、間違いなく、藤堂藤子も悪いのだろう。そうでもなければ、二人があそこまでいがみ合う必要性がない。<br />「……騙してたって」<br /> 何をどう騙すと、ああなるのか。聞きたくもないが、聞かずには済まないだろう。<br /> 階段を二つ降り、廊下の一番奥を目指す。遠目に、姫子の姿がうかがえた。そのやや影に、美知の姿も見受けられる。どうやら喧嘩せず大人しく待っていたらしい。<br />「良かった。喧嘩してなくて」<br />「藤子に迷惑がかかるもの」「藤子に迷惑かけたくないし」<br />「はあ?」「あ?」<br />「やめて……ほら、中入ろう」<br /> 二人をなだめすかし、部室の中に入れる。美知はズカズカと奥へと入って行き、いつもの窓際の席を取った。それを見た姫子は小さく舌打ちし、藤子がいつも座る椅子とは反対の椅子にドッカリと腰をかける。<br /> なんとも、物悲しい光景である。<br /> 藤子は見なかったことにして、いつもの席に着き、パソコンの電源を入れる。<br />「……お話してもらうんだけれど、お互いが話している時に、チャチャを入れたりしないでね」<br />「ええ」<br />「はーい」<br />「じゃあ、うんと。美知からかな。何故、姫子に飛びかかったの」<br /> 美知は嫌そうな顔をし、暫く中空を見上げた後、口を開く。<br />「……ハメられたのよ。騙されたの」<br />「具体的に、どういう風に。それは、美知が怒り狂うほどの、理由があるのかな」<br />「当たり前でしょう。まず、もう、話しておくけれど」<br />「うん」<br />「私は、藤子が好き」<br />「――ええぇ……」<br />「色々、あったのよ」<br /> 姫子は、美知の話を素知らぬふりで突き通すのか、否か。話に関しては我関せず、といった様子で傍観している。<br /> 美知が言うには、何もかも全部、姫子が仕掛けた事だと言う。<br />「こいつは、親しげに私に寄って来たわ。感じも良かったし、私は愚かにも、友達だと思っていた。だから、悩みを打ち明けるようにも、なったの。そう、もとはと言えば、貴女の所為よ、藤子」<br />「……そんな気がしたけれど、でも、何故かな」<br />「そんなの決まってるでしょう。貴女が、何時まで経っても私に好きの一言も言ってくれないからよ。私、不安だったの。貴女は……その……カッコいいし、可愛いし……ほ、他の! 他の……子に、取られるんじゃないかって、そう思ったのよ。でも、貴女は何も言ってくれなかった。ただ、仲の良い友達か、それ以上ぐらいで、そこから先に、踏み込もうとしなかった。それが不安で、私は、友達だと思ってしまったコイツに、それを相談したの」<br /> 美知は袖で涙を拭いながら、そのように打ち明ける。美知にハンカチを差し出すと、姫子が嫌そうな顔をする。<br />「『藤堂さんの気持ちを確かめたかったら、一度突き放してみたらどうかな?』だって。私、その……うう……お、女の子同士の恋愛の相談なんて、誰にも出来ないと思ってたから、親身になって、話を聞いてくれたコイツが、本当に良い子なんだって、勘違いしたの。突き放している間は、兎に角藤子とは取り合わず、話もしないで、藤子が業を煮やしてやって来るのを、待って見ると良い、それで駄目なら、頑張って自分から告白しようって」<br />「――姫子を、疑わなかったんだ。そうだよね。うん。美知は、純粋だもの」<br />「……純粋。きっとそれは馬鹿者の隠語よ。それで、突き放している間の偵察は任せてって。家政部まで止めて、奉仕活動部に入って、その辺りから、おかしいって、思い始めたけれど――わ、私、こいつ、信じ切ってて……さっきは『舞台も整ったし、強い態度で出てやれば、絶対向こうから言ってくれるから』って、言われて……踊らされてるのが自分だって、知らなくて……危なかった」<br /> 自分の愚かさを口にして、それが身に沁みてしまったのか、美知は途端大人しくなり、椅子の上で三角座りをして、顔を膝に埋める。<br /> 藤子は視線を姫子に移した。彼女は、悪びれる様子もない。<br />「という、美知の話だけれど、姫子、何か反論はあるかな」<br />「反論はないよ、補足はあるけどね」<br />「――ずいぶん、余裕があるね。私は、このまま行くと、君を糾弾しなきゃいけないのだけれど」<br />「あはは。まあ落ち着いてよ。事の始まりは当然、私が貴女達の不愉快なカップリングを見つけた事。私の藤子が、なんか何処の馬の骨とも解らないクソムシに誑かされて、恋人ごっこを始めたのが、本当に頭に来たの。凄い気に入らなかったからさ、家政部に入って、コイツに近づいたのよ。少し優しくしたら、直ぐなついてきて。もーほんと、べらっべらと良く喋る喋る。で、話の中で漸く、藤子と恋人ごっこしてるって所まで漕ぎ付けて、悩みが無いかどうか聞いたら、泣き付かれちゃってさ。ウザイのなんの」<br />「姫子。もう少し、言葉は綺麗にならないのかな」<br />「うふ。藤子が望むならそうするね。美知はね、自分の性癖に悩んでたし、藤子がもしかしたら、美知とは遊びなんじゃないかって疑っていたの。なるべくなら、藤子から言葉が欲しい。好きって言ってもらえれば、踏ん切りがつくって。じゃあもういっそ、一度突き放して様子見れば良いって助言したの。助言っていうか、奪還作戦第一段階だけれど。で、そのあと藤子がレズビアンだって噂流したの。当然美知は怪訝な顔したけれど、逆境の中でも告白してくれるぐらいでないと、本物の気持ちじゃないんじゃない? なんて行ったら、まるで天啓でも得たかのように笑顔になってさ、いや、本当に騙し易い子でねー」<br />「解った。姫子、それだけ?」<br />「ううん。で、私は私で、ほら、美知は他の子に寝取られるんじゃないかって警戒してたから、私自身がレズじゃないって証明する必要があったでしょ。仮にも彼氏なんて、ていうか男なんて話すのも嫌だったから、援交してるって自作自演したの。あ、写真は本当にお父さんだよ。安心して、私の処女は、ちゃんと藤子のものだから。それから様子みて、貴女に近づいた。理由は何でも良かったのだけれど、都合良く藤子がノート忘れたからさ、それを届けたの。美知に対してどんな気持ちを持っているのか聞いて、安心した。やっぱりそこまで愛して無かったのよ。だからもう、このまま美知の悪い噂吹き込んでさ、さっさと気持ちを切り離して貰おうって思った」<br />「自分の体裁まで犠牲にして、こんな事までして……」<br />「こんな事じゃない!!」<br /> 突然、姫子が椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。姫子は目元に涙を溜め、藤子を見つめる。<br />「こんな事じゃないよ。私の体裁なんてどうでもいいの。藤子がそいつから離れて、き私を見てくれればそれでいいの。私の気持ちに、偽りなんて一つもない!」<br /> 藤子の息が止まる。その、半ば狂気に足を差し込んだような、自分勝手な発想にもそうだが、一切自分を疑わない、ましてそれを最善とすら感じて向けている、その視線に、多少なりとも恐怖を覚える。<br /> 今まで言いつけ通り、大人しくしていた美知が顔を上げる。そうして立ち上がり、姫子と対峙した。藤子はすかさずその間に割って入る。<br />「藤子、ごめんなさい。私が、愚かで、意気地なしじゃなかったら、こうはならなかったのに」<br />「ハハ。なったよ。なるように仕向けるもの。それにさ、もう結果出てるじゃない?」<br />「出てないわ」<br />「出てるよ。だって結局、藤子は貴女を無理矢理にでも振り向かせようとしなかったし、好きとも言われなかった。こんな明確な答えがあるもんですか」<br />「違う。藤子は優しいの。無理矢理したら、私が嫌がるんじゃないかって思ってたのよ。アンタに何が解る。アンタに藤子の何が解る」<br />「解るにきまってるでしょ。ずっと見て来たんだから。藤子好みの恰好もバッチリ的確だったし、もう殆ど、私に好きって言いかけてたもの」<br />「糞タヌキの糞ストーカーが」<br />「根性無し。何一つ自分で決断できない。藤子に、また男役を押し付けるんでしょ? 藤子は女の子なの。アンタは、馬鹿女達は、男の代替えとして藤子を見てるだけ」<br />「藤子が好きなの。性別云々じゃないわ」<br />「云々なの。男の方から声かけて貰うのが当たり前だと思って、しかもそれを藤子に押しつけて、藤子を悩ませて来たんでしょ。藤子がどれだけ自分の扱いを勘違いしてたか、考えた事無いでしょう。勿論積極的に女の子達の輪に加わらなかった事、鈍感だった事は、藤子にも非はあるでしょうけど、それにしたって酷い。女の子が好きな事を悩んで、頭抱えて、好きな人にも思い切った事言えない、そんな人の気持ちなんて考えた事ないの。ヘテロに毛が生えた程度の、『なんとなく』なのよ、アンタの好きなんていうのは」<br /> それは、誰の気持ちを代弁したのだろうか。藤子か、それとも、姫子本人だろうか。<br /> 姫子の振りかざす論理は乱暴だ。しかし話の節々を捉えれば、その全てが非論理的で感情的だという事もない。<br /> 藤子は姫子に、ただならぬ恐ろしさを覚えながらも、けれど否定しきれない自分に気が付いた。<br /> そんな言葉を受けた美知は、口をあんぐりと開け、熱弁する姫子をぼんやりと見ている。反論する気も起きないのか、圧倒されているのか、呆れているのか。<br />「……美知?」<br />「――と、藤子の、気持ちはどうなのかしら」<br /> だろうなと、藤子は小さく頷く。<br /> しかし、気持ちと問われた場合、そう簡単に答えられないような状態に持ち込まれている。<br /> 演技とはいえ、藤子の気持ちを疑うあまりに唆され、藤子の気持ちをズタボロにした美知。<br /> その嫉妬から美知に取り入り、関係をブチ壊した上で自ら乗り込んできた姫子。<br /> あれだけ高ぶった恋心も、美知の迂闊さに半ば砕け散っている。<br /> 本当に先ほどまで、この子さえいればと思った彼女は、嫉妬の怪物である。<br /> 男ならば、さてちゃんと決断しただろうか。男役を押し付けられる藤子は、それを演じねばならないのだろうか。<br /> 無茶を言うな。こんなもの、男女関係あるものか。二人とも、無茶苦茶だ。<br />「それで――そんなものをぶちまけられた私は、今ここにおいて、全ての決断をしろと……そう、言うのかな」<br />「私はそうは思わないよ、藤子。こいつは直ぐ、人の決断に頼るから。私の話なんていうのは、結局のところ、割って入って、道を正しただけ。でもこいつは、貴女を疑ってたの」<br />「違うの……違う……藤子……私――」<br />「――参っちゃった」<br /> もうそれしか言葉が出てこない。疑念を抱いたまま美知に答えなど出してはやれず、まして意図して関係を破壊した姫子に何を言ってやれるだろうか。<br /> 藤堂藤子にも当然責任はあるだろう。あるだろうが、この流れにおいて、一体どれだけの責任を負担せよというのか。<br /> 嗚呼解った。<br /> そうだ。<br /> 藤堂藤子は、きっと自分が思っている数倍、モテるのだろう。それは今をもって自覚しよう。そしてそれをこの二人は取り合ったのだ。<br />「二人とも」<br /> 諦めたように、藤子は小さく息を吐く。<br />「もう、私に、近づかないで」<br /> 美知が息を飲み、姫子が驚愕に顔を歪めた。しかし、そんな決断にもならない決断に対して、反論はなかった。この場ではどうしようもないと、誰もが思ったのだろう。<br />「出て行って」<br /> 他に話す事もない。二人にどう言葉をかけて良いのかなど知らない。自分の知らない所で、勝手に巡らせた思惑と謀略だ。<br /> 美知は項垂れ、先に部屋を出て行く。<br />「……辛い想いするよ。選んでおけばって、後悔するんだから」<br /> 捨て台詞を吐き、また姫子も去って行く。<br /> ――下手な事を考えなければ、良いが。<br /> 特に姫子は、あの調子では、何をするか解らない。自分の世界観を善として、他を貶める事を何とも思っていない節がある。情緒不安定とは聞いていたが、これはそんな生ぬるい話ではないだろう。<br /> ドアを締め切り、藤子はいつもの席に腰を下ろす。何を考えるでもなく、なんとなく、ネットを始める。<br /> 今日のニュース、日々の事件、政治、経済、世界、掲示板に、まとめサイトと、ぐるぐるリンクを回る。<br /> 虚しい。<br /> こんな虚しい気分は、産まれて初めてだった。<br /> そして自分は、また何時かの自分に立ちかえるだけだ。美知はおらず、姫子も居ない、誰にも必要とされない世界だ。<br /> この小さな部室で、同じような日々を繰り返す。<br /> そこには愛も恋もないが、少なくとも争いごともない。<br /> なんだこれはと、酷く悲しくなった。<br /> 携帯を取り出そうと思い、鞄に手を伸ばす。中を探ると、箱のようなものに手が当たった。<br />「……チョコ」<br /> 箱を開け、その古びたメッセージカードに目を通す。<br /> 女の子らしい丸文字で、その精一杯の気持ちが綴られていた。<br />『小学校の頃から、貴女が好きでした。女の子が女の子好きなんて、変な事かもしれませんけれど、私は自分に嘘がつけません。今日の放課後、校舎裏で待っています。2年1組、姫宮姫子』<br /> あの時、怒りのあまり、あのチビが朗読するメッセージカードの内容など、まるで頭になかった。兎に角必死で、倒さなければいけないと、それだけで必死だった。<br /> 穏便に何事もなく、このカードを読んでいたのならば、藤堂藤子と姫宮姫子は、違う未来を歩んでいたのだろう。<br /> 彼女が嫉妬に狂う事も、無理に変化しようとした事も、己を犠牲にする事も、なかっただろう。<br />「そんなにまでして、私が欲しい?」<br /> チョコを口に含みながら、考える。<br /> 確かに、姫子は無茶苦茶だ。だが彼女が奉仕活動部に来てからの言動を思い出すと、全てが全て『自分』だけを見据えたものだっただろうかと、不思議な点が見受けられる。<br /> 美知に対して藤子がまだどのくらい気持ちを持っているのか、探りを入れているのは、今となっては意図的であったと解るが、言動の節々に、美知に対する配慮があったように思えるのだ。<br />『貴女達は本当に、どれほど好きあっていたのか』純粋にそれが疑問であったかのような受け答えもあった。姫子は美知に対して、最初こそ逃げ道を用意していたのだろう。<br /> どうしようも無く思うなら、自分から告白しろと、美知にも言っていた様子だ。<br /> だからといって許されるような話ではないが、実質この出来事こそが、美知と藤子の中途半端な気持ちを露見させたのだろう。<br />「……王子様かあ」<br /> 手鏡を取り出し、髪を弄る。<br /> デカイ女とは言われたが、男性にも女性にも、容姿で罵られた記憶はない。自分から近づかなかっただけで、邪険に扱われた思い出もない。ただ一人で、卑屈に、自分は嫌われているのではないか、気持ち悪がられているのではないかと、妄想していただけ、なのだろう。<br /> 自分で自分を褒めるのも、評価するのも苦手だ。<br /> だが、あんな可愛らしいお姫様二人に取っ組み合いの喧嘩をさせてしまったのは事実だ。<br /> 多少、二人とも性格は、アレかもしれないが。<br /> 片や優柔不断の心配性。片や嫉妬狂である。<br /> 美しい薔薇には棘があり、鮮やかなものには毒があり、さて自分は何に分類されるのだろうかと、ぼんやり考える。<br />「……はあ。……もしもし、予約お願いしたいんですけれど」<br /> 携帯を取り出し、行きつけの美容院に電話する。<br />「ええ。そう。いつも男性受け持ってる、あの人、お願いします」<br /> どちらかを取れば、どちらかが悲しむ事になる。<br /> ならもう、いっそのこと、どちらも選ばないという選択肢を取るしかあるまい。どうせ藤堂藤子からすれば、今日の事で互いに醒めかけた関係なのだ。<br /> しかしただ引き下がるのも頭に来る。<br /> なら解った。<br /> ではこうしよう。<br />「宜しくお願いします……はあ……は、ははっ」<br /> 藤堂藤子は、望み通り、王子様になれば良いのだ。風に吹かれ、右に靡き左に惹かれ――何も選ぶことなく、嫉妬だけ増やし続ける存在だ。<br /> 二人はそれを見たら、どう思うだろうか?<br /> 最初から平穏などというものを望むから悪い。人並みなんてものを望むからおかしくなる。<br />(……君達が悪い)<br /> そう。彼女達が悪いのだ。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 翌休日、藤子は街に出ていた。<br /> 身体の線を出したボーイッシュなパンツルックで、上着も女性モノではあるがかなり男性色を意識したものである。<br />『いえね、トーコちゃん。あなたそのままでも確かに美形なんだけれど、もう少しスッキリさせて、印象にも配慮したら絶対もっとカッコ良くなるとは思ってたのよ。でもね、あんまりほら、中性的にしすぎると、女の子としてどうなのかなー、と思って言えなかったんだけれど、急にどうしたの?』<br />『好きになった子二人をふったので』<br />『あらま――ほら、鏡見て、少し笑ってごらんなさい』<br />『こうですか』<br />『――か、カッコいいわねえ。ねえちょっとサナエちゃん、この子どう?』<br />『ちょっとアブノーマル踏み込むかもですね……ねえトウコさん、メルアド教えて?』<br />『ああ、良いよ。サナエは私みたいな子、好みなのかな……こんなかんじ』<br />『あうあうあうあ……』<br />『ちょっとトーコちゃん、洒落にならないわね』<br /> 美容室でのやり取りを思い出す。<br /> 美容室のオバ様も、あまり冗談にならない、と言う顔で居た。ちなみに美容師のサナエさんとは本当にアドレスも交換してしまった。流石に冗談……とも思ったのだが、一時間もした頃には公開出来る内容ではないメールが届いて、藤子もたじたじである。<br /> まあこれは身内の話だ。流石にお世辞もあるだろう。そう考え、街に出て反応を見ようと考えたのだ。<br /> 駅前近くにあるモニュメントは、待ち合わせ場所であると同時に出会いを求める人にとって有名な場所だ。<br /> 自分にしても思い切ったものであると思うが、人から見た客観的印象など、自分ではどうにも測り難い。怖い人に絡まれなきゃいいな……などと考えて携帯を弄っていると、藤子に近づく影があった。<br />「やっほ。もしかしてお暇? なんか携帯弄ってるばっかりだったしー……うわ」<br /> 初対面にうわ、とは失礼だ。顔を上げる。二十代くらいだろうか、長い黒髪で、一見清楚にも見えるのだが、仕草と言葉の端々からお遊びに興じております、という空気が伝わってくる女性であった。<br />「えっと――女の子?」<br />「うん。そうだよ。ごめんね」<br />「うううん。ちがっくて。うっそ、すっごい綺麗な顔。あ、ほんとだ、良く見るとちゃんと女の子だ。へえー、一人でどうしたの?」<br />「……待ち合わせなんだ」<br />「あー。そりゃそうだよねえ。男でも女でもほっとかないよね。カレシ? カノジョ?」<br />「彼女」<br />「ふふ。そっかあ。モテるでしょう?」<br />「そうみたい」<br />「うんうんー。かっこいいってか、カッコ可愛い? すっごいタイプ」<br />「……あの?」<br />「あ、今のカノジョと別れたら教えてね。はい携帯出して、はい、アド交換終了ー」<br />「お姉さん、女の子でも大丈夫なの?」<br />「こんだけ美形なら全然愛せちゃう。あ、今度お茶しようねー。その先もする?」<br />「あ、あの……いえ……」<br />「やだ、紅くなるとかわいいー! 楽しみにとっとこ。またねー」<br /> なんだか酷く遊ばれた気がする。大人の人は恐ろしい。<br /> しかし、そんなに目を引くものだろうかと、自分が多少恐ろしくなる。手鏡を取り出し、改めて自分の顔を確認する。<br /> 髪の切り方一つで印象がガラリと変わる。だからこそ、一回一万も二万も出して皆髪を整えるのだろう。いつも伸びた分をカットするだけであったし、衣服も身につける物も、特に表情も、これといって意識していなかった。<br /> 声をかけてくれる人には申し訳ないが、やはり褒められれば気分が良い。<br /> その昔から、誰にも相手にされなかったのだ。いや、厳密に言えば、薄暗い雰囲気に怖れを抱いていたのかもしれない。客観的に考えて、美人に素気なく拒否されたら、誰でも悲しい。まさか自分がその最もたるものであったとは夢にも――<br />「あ、良さそうな子いるよ、いっちゃん」<br />「ホントだ。ねえねえ、ボク――ぼく? あら? えっちゃん、この子女の子じゃない?」<br />「うっそ。ええと、ねえ?」<br />「なにかな」<br />「おお。おんなのこだー。いっちゃん、これヤバいかも」<br />「すんごい好み。え、モデルだっていないよ。もう女の子でもいっか?」<br />「ねえねえ、これから遊びに行くんだけどさ、貴女もどう?」<br /> 確かに、ここはそういう場所であるし、藤子も弁えてはいるのだが、こうも簡単に声をかけて来る子が多いのだろうか、免疫のない藤子からすると、恐ろし世界である。<br /> 何より先ほどの女性もそうだが、それにしたって性の壁が薄すぎる。<br />「ごめんね、待ち合わせてて」<br />「あらら。じゃあその子もどう? てかそれカレ? カノ?」<br />「カノジョ……」<br />「あっは。そうなっちゃうのかなー」<br />「あの」<br />「なになに? お姉さん達に何でも聞いて?」<br />「えと。自分で言うのも変な話なのだけれど、私ってそんなに、印象が良いかな」<br />「えっちゃん、この子眩しいー」<br />「眩しいかも。もしかして自信ないの?」<br />「あ、あんまり」<br />「カノジョも悲しむから、あんま自分の事蔑まない方が良いよー。てか刺されるよ」<br />「嫉妬怖いもんねー。気を付けなよ?」<br />「あはは! ほかあたるかー。じゃね、美形ちゃん」<br />「じゃねじゃねー」<br /> 彼女達が笑いながら去り、ほっと胸を撫で下ろす。迫る迫る。そして迫られる。彼女達が多少強引ならば、もしかすれば否定しきれないかもしれない。<br /> しかし言質は取れた。嘘も偽りも無く、やはり自分は、好ましい容姿なのだろう。<br />(ちょっと楽しいかも)<br /> それから一時間程その場所にいたが、一体何人に声をかけられただろうか。六割女性、四割男性といった割合だ。<br /> しかし慣れない事はするものではない、喫茶店に入った頃には気疲れでぐったりとしてしまう。<br />(刺される、かあ)<br /> 幸い、刺されるような事態にはならなかったが、あの二人がもし自分を取り合って争い始めたら、と考えると身震いする。以前はそこまで想像にも至らなかったものの、自信過剰などと思っていては無責任なのではないかと思える。<br /> あの二人は、今どんな気持ちでいるだろうか。<br /> このような事に興じていて、一番得するのは本当に自分なのだろうか。復讐のつもりで、自分の身をかつてないほど追い込んでいるのではないのか。<br />(……)<br /> そのような考え方は止めようと、思考停止する。まだ変わったばかりだ。<br /> 明日学校で、また反応を見よう。今回は年上の人ばかりだったのだ、同世代から見ると、また違った印象があるかもしれない。<br /> 心の奥底で、くすぶり始めた違和感を押さえつける。押さえつけた上で、皆の反応が楽しみであり、不安でもあった。<br /><br /><br /> 意識しすぎては疲れてしまう。心持ち軽く行こうと、その日藤子は家を出た。学校が近くなるにつれて、登校途中の同校生徒が増え始める。<br /> 目線が気になる。<br /> いつもよりスカートを短くしている為、少しだけ股が涼しいし、制服も即席で詰めたので、多少窮屈だ。しかし校則には違反していないのであるから、堂々とするべきだろう。<br />「おはよう」<br />「はい、おは――お、おは……ようございまぅ……」<br /> 目の前に立つ小さな風紀委員は、顔を赤らめながら藤堂藤子を校舎内に通した。<br /> 校外、校内でそれなのだ、教室に入ればその反応は一目瞭然であった。<br /> 藤子が教室に入ると、空気がガラリと変わる。<br /> 前の席に座る佐藤は、目を見開き、口を開けたまま停止し、着席する藤子を見ていた。<br />「……あ、え、と。お、おはよ、藤堂さん」<br />「――おはよ、佐藤さん。どうしたのかな」<br /> 小さく微笑みかける。藤子の表情は、いつものムスッとしたものとは違い、華やかさがあった。佐藤はそれを受けて、ぷるぷると首を振る。多少顔が赤い。<br />「う、ううん。い、印象変わったね? 美容院?」<br />「少し髪が伸びてしまったから、スッキリさせたの」<br />「ふ、雰囲気も違うかな。制服」<br />「身が細いでしょう。だぶだぶだったから、詰めた」<br />「あ、脚、長いよね」<br />「昔陸上をやっていたから、筋肉質かもしれないけれど。まあ、一応女の子でしょう?」<br />「ふあ……あ、はい、あ、うん」<br /> それっきり、佐藤は黙りこんでしまった。机にうつ伏せになりながら、何やらメールをしている。藤子は気にせず教科書を机の中に仕舞いこみ、頬に手をついて黒板を眺める。<br /> 視線をやれば、あちこちで藤子の話をしているクラスメイトが目に入る。<br /> どうにも慣れないが、まあその内なんとかなるだろうと、楽観的に捉える。もう、阿呆観たいに卑屈で居るのも馬鹿らしい。皆がそう観るなら、ではそう居ようと思ったものを具現化しただけである。<br />「あーい席につけー……うわなんだそこのイケメン!?」<br /> 教室に入って来た担任の須賀が驚愕したらしく、出席簿を机に叩き落とした。<br />「先生、あれ藤堂さんです」<br />「え、あ、本当だ! どうした藤堂!」<br />「どうもこうも、髪切っただけです」<br />「そ、そうか? いや、うん。なんだ、えー、みんな変な気起こさないようにな! あ、委員長挨拶!」<br /> 教室に笑いが起こる。<br /> 思惑通り、悪いようには取られていないらしい。なら順調だ。<br /> 藤堂藤子は、これからこのような立場で暮らして行くのだ。少なくとも高校生活中に、もう誰も選ぶまい。誰も選ばず、思わせぶりな風だけ繕い、王子様で居れば良い。<br /> まるで藤子を自分の物であると憚らなかったあの二人に、悔しい想いをさせてやれればそれで良かった。<br /> 抑えに抑え、気にする事も忘れてしまった、自分への不快感と不信感は、今日をもって終わりを告げるのだ。虚しい気持ちを一人で抱えもしないし、誰かと共有することもない。<br /> 何が私の物だ。<br /> 何が二人でいようだ。<br /> 一番寂しい時に、一番手を差し伸べて貰いたい時に、何もしなかったくせに。ましてそれを、利用しようとしたくせに。<br /><br /><br /> 最初こそ藤子当人にも、周囲にも違和感は付きまとったが、日が進むにつれそれは薄れ、一週間経つ頃にはすっかり『新生』藤堂藤子は定着していた。<br /> 一体どころに隠れていたのか、恐らくは態度を改める前から藤子を気にしていたであろう生徒達が、良く藤子に声をかけるようになった。藤子は決して卑屈にならず、無愛想にもせず、彼女達の言葉を笑顔で受け止める。突如の変化に驚きがあった空気も既になく、自身でも慣れ始めていた。<br />「一時期噂になってたけれど……藤堂さんって、本当に、女性が好きなの?」<br />「加奈ちゃんは、どう思うかな?」<br />「あ、う、うん。い、良いんじゃない? 私もその、藤堂さんみたいなの、カッコいいって思うし……」<br />「え、加奈ってそっちのケだったの?」<br />「ち、ちが……」<br />「那美ちゃん、そういう事言っちゃ駄目だよ。人は好きなものを好きでいれば良いんだよ」<br />「う、あ、うん。ご、ごめんね。違うの。と、藤堂さんなら、仕方ないかなーって……えへへっ」<br />「藤子さんって彼女居ないの?」<br />「生憎、特定の人って、懲り懲りでね。ああでも、本当に心から、好きだなって思える人なら、付き合ってもいいかな。みんなも可愛いし、彼氏とか居るんでしょ?」<br />「い、いないよ?」<br />「女子校だとほら、出会いもないしー」<br />「アタシも居ないよ」<br /> それは、特別なものを面白がる心理と、男の代替えとなりえる同性への好奇心である。<br /> 彼女達が本当に女性だけが好きという訳ではないし、付き合ったとしても長続きはしないだろう。向けられる好意をいなしながら、藤子は心の中でほくそ笑む。<br /> まあ、生憎と食い散らかす程の性経験はない。あくまで、藤子が弄ぶのは、こういった子達の淡い恋心であり、藤堂藤子という矛盾への追及に他ならない。<br /><br /><br />「せ、先輩」<br />「なにかな」<br />「あの、一年の、瀬能華絵って言います。あの、藤堂先輩。私その――」<br /> その気持ちがどれほど本気かは、藤子は知る由もない。元から長く付き合う気はないし、話を受ける気もないのだ。校舎裏に呼ばれ、顔を真っ赤にして、胸に手を当て、必死に言葉を紡ぐ後輩を見ていると、罪悪感と共に一ミリずつ心が削れて行くのが解る。<br />「好きです。もうずっと――貴女ばかり見ていました」<br /> どこか、姫子と重なり、藤子は辟易とした。<br /> 一か月も経つ頃には、もう二回もこうして告白に付き合っている。みんな、何を考えているんだろうか。相手は女、此方も女だ。行きつく未来は決して明るくない。家族には反対され、夢も希望も打ち砕かれるかもしれないのに、社会に不満を持ってルサンチマンを積み上げるだけかもしれないのに、一時の感情に流され、自身を崩壊させかねない告白であるという事を、彼女達は考えているのだろうか。<br />「ごめんね、華絵ちゃん。今は、特定の人とは、付き合えないんだ」<br />「――……そう、ですか」<br />「辛い? 痛い? 苦しい?」<br />「はい……」<br />「ごめんね。そうだ。まず、お友達から始めない?」<br />「あっ、と……それは」<br />「私、華絵ちゃんの事、良く知らないもの。重たい話かもしれないけれど……まるで何も知らない人とは付き合えないし、今後、もし付き合って行くのなら、色々と難しい問題をクリアしなきゃいけないんだ。挫折一つで躓いていたら、本当に好きなんて気持ち、信じられないんだ」<br />「……お友達、お友達でも、良いです」<br />「……私はファッションじゃない。私は男の代替えじゃない。私は――」<br /> なん、なのだろうか。<br /> 藤堂藤子は、結局何になりたかったのだろうか。<br />「藤堂先輩?」<br />「ううん。そうだ、私ね、奉仕活動部って言う、マイナーな部にいるの。良かったら、遊びに来て」<br />「ッ――は、はい!」<br /> 本当に、この突然変異は何者になりたかったのだろうか。<br /> 藤堂藤子は、自分というものが希薄になるのを、感じざるを得なかった。<br /><br /><br />「……と、藤子」<br /> 声を掛けられ、振り返りもせず通り過ぎる。藤子の両側についた後輩が、訝しげに声をかけた美知に視線をやる。<br />「藤子様、あの方は?」<br />「さて。誰だったかな」<br /> 何事も無かったかのように適当に流し、いつもの部室に向かう。鍵は既に開いていた。不思議に思って中へ入ると、窓際の席に、彼女が腰かけているのが解る。<br /> 姫宮姫子はその見下すような目線を藤子に向けた。後輩二人には下がるように言って、藤子だけが部室に入る。<br /> もう来るなと言った筈だ。今日に限って二人の顔を見るとは、嫌な日である。<br />「何してるの、貴女」<br />「それはこっちのセリフだよ。君はここで何してるのかな」<br />「それはどうだっていいの。貴女が何してるかって話してるの」<br />「なんだと思う?」<br />「ごっこ遊び。何ムキになってる訳?」<br /> 姫子が席を立ち、ツカツカと歩み寄る。姫子の表情は、怒りと悲しみ、そして虚しさを含んでいた。胸ぐらを掴まれ、藤子は突き放す事もなく、その腕に手を添える。<br />「変わろうと思ってね。もう、特定の人に好かれるのも、好くのも、懲り懲りなんだ」<br />「愛想振り撒いて、面白くもないのに笑って、好きでもないのに侍らせて、気を引くだけ引いて、あの子達、この後どうするのよ」<br />「別に。何も私はしてないよ。近くにいるだけだもの。まさか今後彼女達が何かしらを被った場合、補償しろとでも?」<br />「さ――最低。ホンキで言ってるの?」<br />「少なくとも――他人の君には、何一つ関係ないでしょう」<br />「あ、貴女――ッ」<br /> 姫子が手を振り上げる。防ごうとも思わなかった。こうして、彼女が負の感情を抱き、目元に涙を為怒りを撒き散らしていると思うと、むしろ心地良いくらいである。<br /> そうだ。その筈だ。この子は、藤堂藤子を翻弄したのだ。美知と関係を絶つよう仕向け、挙句自分の思い出まで用いて自身を演出し、藤子に取り入ろうとした。<br />「姫子!!」<br /> ドアがガラリと開き、美知が飛び込んでくる。間に割って入った彼女は藤子と姫子を引きはがす。<br />「美知!?」<br />「駄目、やめて、お願い……駄目よ、それは。姫子、行きましょう」<br />「ちょっと! 何勝手に――」<br />「いいから! 藤子、ごめんね。ごめん……ごめんなさい……」<br /> 美知が姫子を引っ張り、部室から出て行く。<br /> その光景を眺めるでもなく、藤子は視線を窓の外に向けていた。<br />「あんた! 違うでしょう! そんなの、私が、悪かったとしても、そんなひねくれ方は無いでしょう!! 美知、離して!!」<br /> やがて声が遠退いて行く。タイミングを見計らって、後輩たちが入って来た。彼女達二人は何事かと目を瞬かせながら、藤子に縋る。<br />「どうしましたの?」<br />「大丈夫ですか?」<br />「……大丈夫だよ。たぶん、これで良いんだと思う」<br /> 口ばかりで、しかし、その心に溜まる澱を取り除けないでいる。<br /> 悲しそうな姫子の表情に、必死な言葉。間を取り持とうとした美知の苦しそうな顔。<br /> 皆勝手だ。誰のせいだ。君達の所為じゃないか。<br /> こんなにも悩んで、こんなにも苦しかったのに、美知が、姫子が手を差し伸べてくれて、その都度本当にうれしかったのに、疑われ、弄ばれて、平気な顔をしていてくださいとでも、お前達は言う気なのか?<br />「でも」<br /> でも、この先が見えるのだろうか。高校卒業するまでとは言うが、どれだけ本気だろうか。虚飾で塗り固めた己は、自身を慕う子達に本当の気持ちを見せてあげられるだろうか。<br /> 本物とは何か。では自分は偽物なのか。所詮、代替えでしかないのか。<br /> 美知と姫子は、藤堂藤子の、何を見ていたのだろう。上辺だけで果して、あれほどしつこく付きまとうだろうか。まして姫子など、一体いつから藤子に好意を寄せているのか。<br /> そして自分もまた、どれだけ遠ざけても、ふとした瞬間、彼女達の顔が脳裏に過る。<br />「……」<br /> 虚しい。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br />『この前はごめんなさい。もう一度あって、お話してください』<br />『ごめんね。私、貴女しか見えなくて、無茶をしました。一度あってお話しましょ』<br /> この類のメールは、二人と別れたあの日から二人合わせて数十件に昇る。藤子は決して取り合わず、しかしメールアドレスを変える事も、電話番号を変えるような真似もしなかった。<br />「藤子様、メール?」<br />「うん。ちょっとね」<br />「あー、美知と姫子?」<br />「……まあ」<br /> 誰もいなかった奉仕活動部には、藤子を慕った数人が常駐するようになった。顔を出せば必ず誰ががおり、今までのような気分を味わう事もない。<br /> ある種、ハーレムである。<br /> 誰にも特定の感情を抱いてはいないし、スキンシップ以上の事は何もしていない。仲の良さげな女の子の集団、であろう。やきもち程度はあるが、強烈ないがみ合いや取り合いもなく、日々平穏そのものだ。<br /> メールを確認するだけして、携帯を仕舞う。<br /> 彼女達は今、どんな気分で藤堂藤子を眺めているだろうか。学校ですれ違っても、藤子は決して顔を合わせようとはしない。声をかけられても、当然無視だ。<br /> その行いがどれほど美知と姫子を傷つけただろうか。<br /> その行いが、どれほど彼女達に、弄ばれた人間の気持ちを理解させただろうか。<br /> メールにはその旨が、良く記されている。<br /> まして昨日の出来事は、離れようのない気持ちをそのまま表していた。<br />「先輩、お菓子食べます?」<br />「ん。それは」<br />「あ、近くの洋菓子店で買ったんです」<br /> 髪が短く、ボーイッシュな子が、笑顔でクッキーを差し出す。袋には姫宮洋菓の印字がある。<br /> ……彼女は、あの強烈なエゴを撒き散らした後、結局、対応として美知と変わらない方向性を選んだ。あの告白は狂気すら覚えたが、やはり一人の女の子である事には変わり無かったのだろう。<br /> 春の花の香りがする彼女と、お菓子の甘い香りがする彼女。<br /> クッキーを受け取り、口に含む。<br /> 何か妙に、しょっぱかった。<br />「……藤子様?」<br />「先輩、どうして泣いてるんですか?」<br />「わかんない。解らないや……解らないよ……」<br /> 藤子を慕う子達が群がる。彼女達は口ぐちに藤子を労わるが、そのどれもに、何かとても、実の入っていない、空っぽの果物のような、残念さと味気なさがあった。<br /> そしてきっと、それは間違いなく藤子の所為だ。彼女達に非は一切ない。<br /> まさしく望んだとおりだ。<br /> 藤堂藤子は、誰にも本当の心を許さない、右に左に流れて流れる、王子様になった。<br /> もしかしたらそうなる事によって、美知や姫子では見つける事の出来なかった想いや感情が手に入るかもしれないと、淡い期待を抱いていたのだ。<br /> だが、このありさまである。<br />「ありがとう……大丈夫だよ、ごめんね、みんな」<br /> 誰にも声をかけて貰えず、男役を押しつけられ続けた藤子にとって、彼女達の声は温かく、同時に独りで居る時よりも、もっと空虚である。<br />「……藤子様。嫌なら、言ってくださいね?」<br /> 藤子の隣の子が、悲しそうに言う。彼女は比較的早い段階で藤子に声を掛けて来た。何を望むでなく、ただ藤子の隣に居させてほしいと、彼女はそう懇願した。<br /> 藤子は何の気も抱かず、彼女の申し出を受け入れた。藤子から彼女に対して、アクションの一つも起こした事はない。物静かで、笑顔が綺麗で、美術品のような子である。<br /> そんな彼女の言葉は、重く、痛烈だ。<br />「美苗さんと、姫宮さん。最近ずっと落ち込んでいますし、学校も休みがちです。何があったのか、二人も、貴女も、話してはくれませんけれど、辛い事があったのは、解ります」<br />「……うん。でも、気にしないで、七海」<br />「その、私達、ですけれど」<br />「うん?」<br />「たぶん、気持ちは同じです。ねえ、加奈先輩、幸子さん」<br />「勝手に付いてきている、だけだし。勝手な物言いかもしれないけれど、先輩、なんだか日を追うごとに、暗くなってる気がするよ」<br />「話し合ったの。本当に、隣に置いてて貰えれば幸せだったけれど、何だか苦しめてるんじゃないかって」<br />「そ、そんな、こと、ないよ。私、ずっと一人だったし、みんなが居てくれると、凄く助かる。ごめんね。なんだか、色々考えてしまって」<br />「でも、藤子様、泣いてます」<br /> そういって、七海が藤子の手を取る。主張がない子だっただけに、ここまで積極的なのは意外だ。それだけ、看過できないような落ち込み方をしていると考えるのが自然である。<br />「生憎、私達では、藤子様に何もしてあげられそうにありません。ほん、ほんと、なら……」<br /> 私達が慰めてあげられれば良いのに。<br /> 涙を流す七海を、加奈と幸子が気遣う。<br /> ……また泣かせてしまった。もっともっと、軽い気持ちで居て貰いたかったのに、藤堂藤子が抱えるものが深い場所に仕舞いこまれていて、彼女達では手を伸ばせないのが悔しいのだろう。<br /> 解っていた。こんな事をしたら、最終的に誰かを悲しませる事ぐらい。<br /> でも、では、どうすればいい? また藤子の責任か?<br /> 藤子は不器用だ。そして、所詮付け焼刃の自覚であり、でっち上げの王子様なのである。<br />「ごめん、七海、幸子、加奈。少し、独りにさせて、ごめんね、みんな、ごめんね……」<br /> 察してくれて、いるのだろうか。彼女達は小さく頷きあい、藤子を心配しながらも、退出して行く。<br /> ちょっと前の自分ならば、仲良くしてくれる子達に、きっと親身に接して、心を浮つかせたに違いない。<br /> しかし今は違った。違ってしまった。それは何故か、解りきった事である。<br />「おーす、修羅場王子」<br /> 一人窓の外を眺めていると、無遠慮にも担任の須賀が部室に入ってくる。怪訝な表情を向けると、やれやれ、といった様子ニヤリと笑った。<br /> 付き合う気分ではないのだが、担任を邪険にも扱えない。<br />「どうしましたか」<br />「どーもこーもあると思うか?」<br /> 須賀は藤子の近くの椅子にどっかりと腰かけ、疲れたような表情を向ける。<br />「なんだお前、ハーレム王にでもなるのか?」<br />「なりませんよ」<br />「じゃああの有様はなんだ。部員でもないだろう。ここは大体、お前が一人で使う為に許可されてるような場所だ。お前の淫行の為のヤリ部屋じゃないんだぞ」<br />「……下品な先生」<br />「と、想われても仕方ないだろ。処女のくせにデカイ態度だな」<br />「……何が言いたいんですか」<br /> なんとも品の無い須賀に、思わず声色に怒気が乗る。須賀はまるでそれを見越していたように、藤子を嘲笑った。<br />「姫宮と美苗から個別に話聞いたぞ」<br /> 喋ったのか。いや、須賀に迫られたのだろう。姫宮姫子の面倒を見てくれ、と言われた立ち場だ、こうなっては仕方あるまい。<br />「相当の修羅場だったみたいだな」<br />「あまり、プライベートに、入って来ないでください」<br />「そうもいかん。姫宮も美苗も休みがちなんだよ。無理矢理呼びだしてやっと吐かせたんだ。そしたら原因がお前、あいや、まあアイツ等だわな。で、中心になったのはお前だ。藤堂、どうする気だ」<br />「どうも、こうも」<br />「んまあ、姫宮の嫉妬で関係ぶっ壊されたってのは、解る。ただ後が宜しくないな。お前は今が最善だと思うか? 二人を打っ棄って、イメチェンして、んで他の女の子に囲われるような学校生活だ。未来があると思うか?」<br />「……」<br /> お前のやっている事は刹那的で、目に余る。そういう事だろうか。<br /> しかし、ではどうすればよかった。何が正しい選択だなんて、解る筈もない。あの状態ではどうしようもないからと、そう思ったからこそ、変えようと思ったからこそ、今があるのだ。<br />「モテる奴は辛いな」<br />「じゃあ、あの二人を、なんとかして、和解させて、いざこざを解決して、二人を普通に学校に来れるように、仕向けろと、そう先生は言う」<br />「言わないよそんなもん。若い雌の雌の取り合いなんて、誰が食えるか。犬は吐くし猫は背面跳びで避けるぞ」<br />「……なんか、言葉、きつくありませんか。私が何したって言うんですか」<br />「だから、もしこのままレズの王子様でも演じ続けるなら、もっと上手くやれって言ってんだ。お前危ういんだよ。傍から見てて痛々しい。そんなに自分の未来が見えないのか? だとしたら酷い話だ。お前は今の自分に、酷い事されて凹んでる自分ってのに酔っぱらってるだけ」<br />「何が言いたいんですか」<br /> 須賀は、一つ溜息を吐いてから、藤子の手を取りあげ、地面に引き倒す。<br /> 反応出来ない。<br /> 両腕を押さえつけられ、正面に須賀の小奇麗な顔が迫る。<br />「な――なに、え、や、やだ……」<br />「ほら、どうした? 楽しませてみろ、王子様やい」<br />「う、うそ。せんせ、やめ――やめてッ」<br />「……なんだ、本当にこんなもんで驚いてるのか。これじゃ続けられないな」<br />「何が……」<br />「お前は、そんなに大人数愛せるようにゃ出来てないって事。私が学生時代なんて、10人も恋人居たんだぞ」<br />「は、は?」<br />「当然全員女。ここの卒業生でな、私。そりゃあもう教師達に睨まれて睨まれて」<br />「ど、どいて、いや……ッ」<br />「……なんもするかよ。まあノリ気だったならやらない事もなかったけどさー」<br /> そういって須賀は手を離し、藤子から退く。<br /> 驚きと悲しみと、そして責め立てられる自身の立場に、もはや混乱しかない。須賀はまた椅子に腰かけ、立ち上がる藤子を睨みつける。<br />「分相応弁えろ。身の程を知れ。お前は死ぬほど不器用だ」<br />「そんなの、知ってますよ」<br />「本当の心なんて、探ろうと思って探れるものじゃないんだ。付き合って、触れ合って、いろんな感情分かち合って、やっと見つけるものなんだよ。高々一人としか付き合ってなかったお前が、一体誰の気持ちを知ってるっていうんだ。確かに美苗は阿呆だし、姫宮はシンドイかもしれんが、話だけ聞いて、その心に一度でも触れてやろうと努力したか。どうせ逃げたから、こんな事になってるんだろ」<br />「それは――」<br /> 須賀の正論が、どうしようもなく藤子に響く。<br /> あの時、何もかも面倒になってしまったのだ。<br /> 二人はきっと藤子を好いている。その二人が、もっと自分を好きになって欲しいと、見て欲しいと、歩み寄った結果なのだ。当然、手段も的外れだし、やった事は無茶苦茶だが、少しでも此方が汲み取ろうとしただろうか。<br />「せめて二人だ。お前の許容範囲は。ま、ただチヤホヤされたいだけで今を続けるってんのなら、もう何も言わん。ああちなみに先生、凄い頑張ったぞ。実は彼女が五人も居る」<br />「それは……教師として、どうなんですか」<br />「あっはっは。先生は器用だからな。私のようになれなんて無責任な事は絶対言わん。だが、どうだ。少しは未来も描けるだろう。同性が好きだからって別に、地球が破滅する訳じゃなし、国がぶっ壊れる訳でもない。レズバレすると変な常識にとらわれた奴の目はキツイかもしれんが、社会から淘汰される訳じゃない。ま、相手の家庭はどうか知らんが。取り敢えずお前一人程度の影響なんてものは実にシビアだ」<br />「でも……あの二人は」<br />「抉られたんだろ、色々。抉り返せば良い。その程度で離れる奴はそれまでだし、それでも離れないなら、そいつの心にこそ、やっと探りを入れられる段階だ。こんなタチの私が言うのも何だが、女は面倒だ。アソコ突っ込み合って満足する訳にはいかん。勿論まあ、それも必要っちゃそうだが……藤堂」<br />「……はい」<br />「たぶん、その自暴自棄は、未だアイツ等が好きだから、それを誤魔化そうとしてるだけだ。アイツ等も、一生懸命だったんだ。好きでお前に迷惑かけたんじゃない。せめてもう一度話し合ってくれ。お前も、美苗も、姫宮も、失意のまま整理もつかず、暗い未来しか描けず、今後を暮らして行くなんて真似を、教師としても、私個人としても、見過ごせない。この通りだ、藤堂藤子。お前しか何とも出来ん」<br /> この人は、ずるい人だ。<br /> きっと余程の女たらしで女スケコマシなのだろう。<br /> 好き勝手言って、正論吐いたかと思えば下品で、しかし誠意は伝えて来る。まさかこんなとんでもない人物であるとは、思いもしなかった。<br /> しかし……人生の先輩は、本当に、この憐れな藤子達を心配しているのだ。<br />「やめてよ、先生。頭、あげて」<br />「……」<br />「……解ってたんです。私だって結局……あの子達二人が、好きだって事。変わってみたけど、変わりきれない。結局中途半端で、自分の不幸を噛みしめて、喜んでた、だけだって」<br />「藤堂、お前」<br />「それにこのままじゃ、私を慕ってくれる子達を、もっと悲しませる。また、美知と姫子みたいに、してしまうかもしれない」<br />「勿論、全部がお前の所為じゃない。慕うのも慕う奴らの勝手だ。でも、勝手に責任は出て来るんだよ。ノブレス・オブリージュ。高貴なるものの責務だ。お前は王族でも貴族でもないが、生まれながらに王子様になるように出来ちまった。同情する。が、避けては通れない」<br />「……好きなんです、あの二人が。選べなんてしないんです。馬鹿でも、嫉妬深くても、本当に良い子なんだって……知ってしまっているから」<br /> ……やはりきっと、あの二人が、好きなのだ。<br /> どうすればいい。<br /> 何が正しい。<br /> どの道を選んだら――藤堂藤子は、幸せな生活を送れたのだろうか?<br />「……安心しろ。全部間違った選択選んで、全部投げ捨てたくなったら、私に声を掛けろ。お前一人ぐらいは囲ってやれるぞ? 大丈夫だ、お前は責務があるが、私はお前を守る義務がある。担任は王子様より偉いんだ、なあ、藤堂?」<br />「ほんと、酷い人だね、晴菜は」<br />「――ッ……お、大人をおちょくるな、馬鹿」<br /> 須賀晴菜は、顔を真っ赤にして反論する。何だかそれが面白くて、思わず笑いが漏れた。須賀もまた、そんな藤子がおかしかったのか、二人で笑う。<br />「……うん。背中押してくれて、有難う」<br /> 携帯を開く。<br /> 文面を打ち、二人に同時に送信した。<br /> 寂しいからだろうか。<br /> 虚しいからだろうか。<br /> 本当の気持ちなんてどこにあるか解らないまま、抱えて暮らすのは不自由だからだろうか。<br /> 結局全部姫子の言う通りになってしまった。<br />「逢います、二人に」<br /> 責務を果たす為に。己から生まれ出た想いを、ただ捨て去らない為にも。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 部室には誰も居ない。事前に、彼女達には今日は立ち入り禁止だという知らせを回覧してある。<br />「おはようございます」<br /> 一応挨拶し、後ろ手でドアを閉め、いつもの席に腰かける。パソコンの電源を入れ、部活は終了した。<br /> なんだか暫くぶりで、乾いた笑いが零れる。<br /> 何もかも、最初から諦めていたのだ。そして諦めるふりをして、当たり前を羨んでいた。決して行動には移さず、ただ不満を不満とも思わないように、小さい頃から暮らして来た。<br /> 人と価値感が違うからと、一番自分を虐めていたのは、他でもない、自分自身なのだ。<br /> 当然大声で憚れば嫌われもしただろうが、何もそこまで卑屈になる必要などなかったのに、まるで自分が可哀想な人間であるかのように、きっと自己陶酔していたのだろう。<br /> その人生の中でムキになったのは、三つ。<br /> 一つは、チョコを取りあげられた時。<br /> 一つは、男と同じ空間には居たくないと、必死に勉強した時。<br /> 一つは、美苗美知のストラップを探しまわった時。<br /> どれも小さく、勉強以外は、はっきりいって必死とは言い難い。しかし藤堂藤子の感情を強烈に突き動かしたのは、この三つしかないのが、事実であった。<br /> それは、己の諦めに甘んずる気持への反逆であり、人並みへの憧れだろう。<br /> 今はどうだろうか。<br /> 新しい自分を演じ、違う自分をさらけ出そうとする姿は、人様の目にどう映っただろうか。<br /> あのお姫様達は、藤堂藤子をどう見つめていただろうか。<br /> 何をするでもなく、中空を見上げていると、やがて廊下の方で音が聞こえた。暫く無音の後、部室のドアが開かれる。<br /> 藤子は少しだけ覚悟し、気取られぬよう、余裕を繕う。<br />「……やあ」<br /> 入室して来たのは、二人同時だった。俯き加減の美知と、余裕の無さそうな姫子である。二人ともどこか疲れた顔をしているのは、錯覚ではないだろう。<br />「好きな所にかけてよ」<br /> そのように言うと、二人は――争う事もなく、窓際ではない、別の席に腰かけた。二人には距離があるものの、以前のようないがみ合う空気にはない。<br /> もう一か月半、藤子は二人を無視し続けて来たのだ。本当に藤子が好きだったとしたならば、その心労は計り知れない。当然それを気持ち良く思う心は無いが、彼女達がやった事は、つまりそういう事なのだ。<br />「……藤子」<br /> 沈黙の中、美知が小さく口を開く。<br />「なにかな」<br />「その――凄く……似あう。髪も、その、余裕な雰囲気も」<br />「うん、そうするようにしたから。どうかな、美知の理想って、こんなカンジ?」<br />「――……」<br /> 彼女はまた押し黙る。それも当然だろう。酷い皮肉なのだ。<br />「姫子はどう? 私は、貴女の王子様に、相応しい?」<br />「……違うでしょ。したくもないクセに、何意地張ってるの、藤子」<br />「そうだよ。別に、したくもない。こんなの。私は、王子様じゃないから」<br />「じゃあ、なんで」<br />「何でも何も。寂しいからだよ。今までの自分が嫌で、こんな私を取り合う君達が嫌で、でも、寂しいのはもっと嫌だったから、少し変わろうと思ったんだ。姫子だってそうでしょう」<br />「……そう、だけれど」<br />「中学の時の写真、後輩から貰ったよ。凄く地味」<br />「――、や、止めて。振り返りたくもないの」<br />「思い出したよ。いたね、君は。遠くから、私を見てた」<br />「うううぅ……」<br />「美知」<br />「……何」<br />「お母さん、生きてるよね。離れて暮らしているだけで」<br />「――!! あ、そ、くぅ……ッ」<br />「少し、君達から離れて、得るものは無かったけれど、知る事は幾つかあったよ。美知は美人だから、中学の時はだいぶ疎まれたみたいだね。そっけない雰囲気が拍車をかけた。良い所のお嬢様なのに、疎外されて来た。私に嘘吐いたのは、何故?」<br />「決まってるでしょう。藤子が、良い人そうだったから。友達に、なれると、思ったのよ」<br />「偽ってまで?」<br />「――な、何か! 何か、引き止める、理由が、欲しかったの。ストラップだって、直ぐに見つかったの。無傷だったわ。それを、自分で、傷つけて、貴女の気を、引いたのよ」<br />「……私は、そんなに、信用無かったかな」<br />「不安、だったの。もう――許してよ……」<br /> 美知が涙を流しながら、そう懇願する。泣かれたからと、嘘が帳消しになるわけではない。そんな嘘だって、あのままならきっと藤子は許容しただろう。問題はそのあとなのだから。<br />「姫子はこの雰囲気のまま。男嫌いで、女の子にも嫌われて……そういえば、お父さん、義理なんだね」<br />「し、調べたの?」<br />「うん。その男嫌い、もしかしたら、お父さんの所為かな」<br />「……私の事、いやらしい目で、見るのだもの。連れ子の私は、一生懸命、仲良くしようとしたのよ。でも、成長して、体つきが、良くなると、見る眼も変わって。それが、凄く、嫌だったの」<br />「今更だけれど、なんで、あそこまでして、私と美知と引きはがそうとしたの」<br />「嫉妬もあった。でも、美知の話を聞いていたら、もどかしかった。だから――美知が、どうにかしてでも貴女に告白したのなら、私は、引くつもりで居たのよ。でもそうはならなかったし、私はやっぱり貴女が好きだったから。いいえ。今だって、好きだもの」<br />「わ、私だって。こんな事に、ならなきゃ……うううぅ……ごめんってば、ごめん……もう、疑ったりしないわ。だから……」<br /> みんな、寂しかったのだろう。<br /> 何か人と違うように見られ、妬まれ、嫌われ、高校に入って変わろうとしたのだ。<br /> 特に美知など顕著だ。彼女は以前まで地方に居た。恐らく、地元では変われないと考えて、遠い此方まで一人引っ越して来たのだろう。その目論見は功を奏し、彼女は面倒見の良い美人として、今までとは違う高校生活を出発させた。<br /> ただ、その中でも、藤堂藤子に頼ってしまったのは、ただ友達が欲しかったわけではなかろう。<br /> どうにか仲良くなりたかった。嘘を吐いてでも、傍に居て貰いたかったのだ。そしてそれは同時に、己の性への悩みにも繋がったのだ。<br /> 姫子はどうだ。その変化は全て藤子の為である。藤子が頼もしく見えたのかもしれない。男を嫌うと同時に、しかし頼りになる人はやはり欲しかったのだ。どうあってもそれは異性には向かない感情だったが、かといって自分を馬鹿にする同性も憚られた。<br /> その途中に居る人間。藤堂藤子は、彼女にとって、輝きに見えたのだろう。<br /> では、藤堂藤子自身はどうだ。<br />「私は、君達みたいに、重いものは背負ってはいない。ただ純粋に、幸せになりたいって、笑えるようになりたいって、思っていただけ。美知」<br />「……はい」<br />「君とお友達になれて、凄く嬉しかった。でも、告白したら、全部壊れてしまうんじゃないかって、不安だった。私こそ、貴女を疑ってた。ごめんね」<br />「ううん……いいわ。貴女は、何も悪くない」<br />「姫子」<br />「……うん」<br />「君のした事は、酷いけど。私と美知の関係が、不確かで危うかったのは、確かだよ。私だって、ずっと好きだった子が、他の子に取られたら、きっとムキになると思う。ちょっと、手段は不味かったけれど」<br />「ごめんなさい……」<br />「私の鬱屈して、卑屈な心を指摘してくれたのは、君。私の勘違いを指摘してくれたのも、君。好きで居てくれて、ありがとうね、姫子」<br />「うん……う、うぅ……」<br /> そうだ。<br /> 藤堂藤子は、何も難しいものは背負っていない。ただ寂しく、人を求めたが故に、藤堂藤子に辿り着いてしまった彼女達と、共有するような価値感はない。<br /> ただ幸せになりたいと願うならば、ではそのようにしようと努力する事だけが、藤堂藤子が背負うべきものなのである。<br />「もう、嘘はないね」<br />「ええ」<br />「うん」<br />「私は、幸せになりたいクセに、自分から幸せを遠ざけてた。求める事で生じる不具合が怖くて、リスクが恐ろしくて、何もしないでいた。私がムキになって、本気になったのは、君達二人の事だけ。多分、私を求めてくれる人がいる事が、嬉しかったから。多分、この人なら好きなれるんじゃないかって、想ったから。君達二人、やっぱり私、選べないよ」<br />「藤子?」<br />「え、と。え?」<br />「やっぱり好きなんだ。二人とも。こんな私を求めてくれて、必死になってくれる二人が、大好き」<br /> 正しく、今が四つ目の、必死な時だ。<br /> 藤堂藤子にはどちらかなど選べはしない。選べないなら選ばない、では、またあの時と同じである。藤堂藤子は不器用なのだ。とても、皆の王子様にはなってあげられない。<br /> ならもう、両方選ぶ他ない。殴られる覚悟だ。嫌われる覚悟だ。<br /> 優柔不断の馬鹿者で、こんな女たらしには付き合えないと、そう判断してくれればいっそ清々する。それが怖いからこそ、選ばなかったのだから。<br /> 藤子は立ち上がり、二人に歩み寄る。美知はキョトンとしたまま、姫子も呆気に取られ、何も出来ないでいる。<br /> もうどうにでもなれ。藤子にはこの選択の他にない。<br /> 立ち上がった二人の手を取り、交互にキスする。<br /> 美知は小さく悲鳴を上げ、姫子は……姫子は、むしろ顔を緩めた。<br />「二人とも、好きだよ、お姫様達」<br />「ちょ、ちょちょ、え、なんで、そうなるの! ふ、二人とか、お、おかしいでしょ!」<br />「――……あー、これは美知じゃ無理かなー。独占欲強そうだしなー。でも私の藤子が選べないって言うなら、仕方ないかなあ。あ、美知はダメなんだよね。こんな人愛せないものねー。あー、残念だね、藤子!」<br />「……そっか、美知」<br />「え、ええー!? あ、嘘!? ま、待って、待ってよ! こんな、こんな、ふた、二人ってえ! しかも、しかもこの性悪が、何で好きなのよ、藤子!!」<br />「何でって。さっき説明した通りだよ。姫子は、私の事、好きでいてくれる?」<br />「えっへへ。勿論。やった、藤子、幸せになろうね……?」<br />「あ、や、やだ! ちょっと、姫子あんた、藤子取らないで!」<br />「え、だって二人好きなんて嫌なんでしょ?」<br />「そうだけど! そんな、そんなのずるいし酷い!」<br />「だから別に、こんな酷い人好きにならなくてもいいよ、美知。私は藤子と幸せになるから」<br />「ちーがーう! 嗚呼、嘘でしょう……や、やだ、捨てないで藤子!」<br />「でも姫子といがみ合うなら、それは困るし、辛いでしょう?」<br />「くぅ……ぐぅぅぅ……ううううぅっっ!! うううううっっ!!」<br /> 美知は、どうやら葛藤で錯乱しているらしい。頭をふるふると振りながら抱え、藤子とドヤ顔の姫子を交互に見て、また唸る。<br /> ……一応、考慮はしたのだ。<br /> どちらも嫌だと言うのならば、それで終わりだ。<br /> しかしどちらかが残ると言うのならば、それで一本化である。<br /> だがどちらも好きで、離れたくないと、そう業が深い事と言うのならば……藤堂藤子も覚悟せねばなるまい。<br />「……藤子、私、そいつが許せないの」<br />「うん」<br />「……だから、私に謝って、姫子。そうしたら、私も藤子と一緒にいる」<br />「何それ。アンタ、無茶苦茶言ってるの、理解してる?」<br />「ふん。だって、藤子が私の事好きだっていうんだもの。じゃあこっちだってなんか無茶苦茶な事言ったっていいじゃない!! 馬鹿!」<br /> どうやら相当に混乱しているらしい美知だが……なんとなく、言わんとしている事は解る。<br />「姫子、美知に謝ってあげて」<br />「えー」<br />「姫子」<br />「あん。なんか藤子に名前で呼ばれると、ぞくっとしちゃう。いいよ、謝る」<br /> そういって、姫子はあろうことか……その場に跪き、まさかの土下座である。<br /> これには美知も、そして藤子も驚いた。<br /> 何せ、二人を好きだという藤子が嫌だというのならば、独占欲の強い姫子は美知をさっさと引き剥がすように苦心するとばかり、思っていたからである。<br /> やはり、藤子の考えなど所詮、妄想でしかないのだ。<br />「済みませんでした。でも、解って、美知。私、藤子が、大好きなの。貴女達が、羨ましくて仕方が無かったの。私にも、藤子を、分けて。お願い、美知……」<br />「や、嘘。やめてよ。姫子、土下座なんて、ずるい……解った、解ったから……ああもう、藤子、最低」<br />「ごめんね」<br />「ううん。良い。大好き。だから、もう、許すから、姫子。この馬鹿と、幸せになるように、一緒に努力してくれる? なんかもう、いがみ合うのも考えるのも、疲れちゃったわ」<br />「――いいの、本当に」<br />「うん。だってこの馬鹿好きなんでしょう。優しくて、なんだか頼もしくて、時折馬鹿だけど、一緒にいると、笑顔になれるんでしょう?」<br />「うん。そうなの。少し皮肉言うし、警戒心強いし、何事もあんま熱心じゃないけど、ほら、真面目そうに考えてる時とか、横顔見た事ある?」<br />「ええ、あるわ」<br />「もうさー、ああ、解るでしょう、美知」<br />「解る。凄い解る。ぎゅってしたくなるのよねー」<br />「そう! あはは、なんだ、趣味があうね、美知」<br />「そうそう、それがあんまりにも良くて、写真も撮ってるの、姫子、見る?」<br />「あ、みるみる!」<br />「――あれ?」<br /> 何だろう、本人を目の前にして、勝手に何事かが進んでる感がある。<br />「あの、お二人とも」<br />「藤子今ちょっと黙ってて頂戴。藤子の事で忙しいの」<br />「そうだよ藤子、今美知と話してるの」<br />「……あー……」<br /> 藤子は、乾いた笑いをもらし、まあ一先ず乗り越えただろうかと、安堵のため息を吐く。<br /> まったくもって酷い話である。<br /> 王子様はまるでピエロにでもなり果てたかのようだ。何だか盛り上がる二人を置いて、藤子は窓際の席に座り、窓の外を眺めながら、須賀の話を思い出す。<br /> ここに来てやっと、二人の心に触れる段階なのだと、そう教えられた。<br /> あれを見本にするのは、多少不安だが、少なくとも恋愛において、藤子は須賀の足元にも及ばない。<br /> もしかしたらこれから、また幾度か衝突するかもしれない。また酷い目を見るかもしれない。美知も姫子も、それはそれは――、一筋縄で行きそうにない女の子だ。<br />「って馬鹿! 本人そこにいるじゃない!」<br />「うわほんとだ」<br />「頼むよほんと君達……」<br />「えーと、何、その、藤子。私『達』、貴女の事離さないから」<br />「そうそう。私とか超粘着質だからね」<br />「――えーと」<br />「藤子、キスして。ね? 久しぶりだし。あーん、もう、やっぱり好きなんじゃない、ほら?」<br />「あ、ずるい。私まだなのに。藤子、私にもー」<br /> 二人が迫りくる。<br /> 先ほどとは打って変わり、二人ともだいぶスッキリした顔をしている。そこまで想われていたのかと思うと、酷く気恥かしい。<br /><br />『覚悟してね?』<br /><br /> どうやらきっと、間違いなく……受難は続くのだろう。<br /><br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> いや確かに、覚悟はしたのだ。<br /> 彼女達の想いも夢も、一緒に背負い込んで努力していこうと考えた。それこそが、藤堂藤子に出来る最初の決意であり最大の努力である。<br /> あの和解以降、驚くほどに自分の精神衛生は改善され、世界が明るく見え始めた。心の中に薄暗いものを抱えた王子様では無く、二人のお姫様の王子様として、その責務を全うしようとしている。<br /> しようとはしているのだ。だが状況がなかなどうして、難しい。<br />「藤子、自治委員会から清掃担当区分捕って来たわ」<br />「美知、その、穏便にしてくれたよね?」<br />「勿論よ。貴女に迷惑かけるような事、私しないわ?」<br />「そ、そう」<br />「んでもヤッカミなのか嫉妬なのか、いやがらせかって程押しつけて来たから、それは蹴飛ばしたわよ? あと、条件付きなの」<br />「何の条件?」<br />「一応奉仕活動部の拡張と活動の始動を許可するけれど、此方の条件ものめって生徒会長に言われて」<br />「なにかな」<br />「……ちょっとでいいわ。生徒会長とデートしてきて。キスまでなら許すわ?」<br />「はい?」<br /> 何かその、ちょっと、おかしな感じになってきている。<br />「あ、姫には内緒よ。あの子、この部の子とキスするのだって嫌がるし。まったく、不寛容よねえ?」<br />「いや、それは美知がなんか、ちょっとタガ外れて来ただけじゃ?」<br />「外れもするわよ! 見なさいほら!」<br /> と、美知は部室内に留まる生徒達に指をさす。一人二人……六人程が部室で思い思いにくつろいでいた。全員奉仕活動部員である。<br />「こんなの聞いてなかったんだから! 何よもうコイツ等、あーあー、定例宣告。藤堂藤子は美苗美知のものです。以上」<br />「あ、ミチが出し抜いた」<br />「姫ちゃんに怒られるんだー」<br />「いいでしょたまには。姫はいっつも藤子にべったりなんだから。はいこれ、活動範囲と行程表」<br />「ええ、でも、生徒会長とデートって……休日に一日付き合えば良いの?」<br />「ええ。はいこれも、会長の電話番号とアドレス。すごいウキウキしてたわよ」<br />「ええと、みんな、今後の活動の為にも、少しばかり身売りしてくるのだけれど、大丈夫?」<br /> 部内の皆にお伺いを立てる。基本的に民主主義である。<br /> 反対零、欠員一。多数決により可決である。<br />「みんな、なんか心広いよね?」<br />『キスくらいなら別にねー?』<br />『藤子様はカッコいいから、仕方ないかも』<br />『御姉様はみんなの共有財産』<br /> らしい。<br /> 株式会社のようなもので、株の大半は美知と姫子が所有している。ただ他のも大口で所有しているものがあり、その意見も無視できない状況だ。挙句足りないから発券しろとまで迫られている。<br />「じゃあ次の日曜日にしてと……ん。月曜は美知と姫子、火曜は華絵と七海、水曜はクラスの佐藤さんで、木曜は幸子と加奈、金曜は美知、土曜は姫子でー、えーと……三週間先まで埋まっちゃってるよ。日曜開けておいてよかった」<br />「これ、マネージャーいるわよね」<br />「女性による女性同士の交遊の日程管理の女性マネージャーってどういう事」<br />「仕方ないじゃない。あ、次の祝日は開けてるわよね」<br />「うん。バレンタンだし」<br />「その日はあの子に譲ってあげるわ。どう、寛容な私、藤子は好き?」<br />「毎度助かっております……」<br />「えへへ。いいの。今日、お願いね」<br />「――うん」<br /> そのように美知に囁かれ、ぞくりとする。<br /> この混沌とした状況下、美知は本当に上手く立ち回っていた。あれほど二人好きなんて有り得ないと絶叫した彼女よりも、むしろ一番最初に許容した筈の姫子が不満を漏らす始末である。勿論姫子については想定していたのだが、美知の転身は驚くべきものだ。<br />「あ、二人は今日エッチするの?」<br />「ここでそういう事言わないで、お願いだから、ね」<br />「……いいなあ」<br />「た、爛れちゃったなあ」<br /> 奉仕活動部が誰の為にあるのかと言えば、間違いなく学校の体裁や地域清掃の為ではなく、藤堂藤子が皆に奉仕する為の部、という状態だ。<br /> なんとも、溜息は出るものの、そんなに悪くないと思っている自分がいる。<br />「おース、王子様、いやらしい事してないか?」<br />「あ、須賀先生」<br /> 相変わらずノックも何も無いらしい須賀が、いつもの様子で現れる。ニヤニヤと笑いながらであるから、確信犯だろう。<br />「しかし可愛い所ばっか集めたな、お前。だからお前の許容範囲なんて二人って言ったのに……ま、集まっちまうものは仕方ないな、いや、モテるのは辛いな、王子様や」<br />「弄らないでください。なんですか?」<br />「……いや、良いんだ。様子見に来ただけだから」<br />「なんですか、それ?」<br />「気にすんなよ。おうお前等、あんまり王子様困らせるなよ。ながーく愛人で居たかったら、王子様立てて、付かず離れず、たまに大胆にだ。いいか?」<br />『はーい』<br />「だ、そうだ。頑張れよ、藤堂。あ、全部投げ捨てたくなったらいつでも来いよ?」<br />「あ、ちょ……もう、なんなんだろ、あの人」<br />「良い先生じゃない? 理解があって……それより、ね。活動は少し先からだし、今日はさっさと帰りましょ」<br />「うん。解ったよ。みんな、今日は少し早目に上がるから、戸締りを宜しくね」<br />「お任せあれ。仲良くしていらっしゃいねー」<br /> 時折、藤子を取り巻く彼女達の理解がありすぎて、少し怖い事がある。皆が皆、藤子を好きだとは言うのだが、独占気味な姫子と美知に対して、ヤキモチはあれど強烈な嫉妬を現すような事は一度も無かった。<br /> その点について、現在奉仕活動部を仕切っている美知に聞いた事がある。<br />『なんで彼女達は、あんなにあっけらかんとしてるのかな。美知も姫子も、凄く嫉妬するのに』<br />『勿論してるでしょ。ただ、彼女達だって私や姫とおんなじで、寂しいのよ。わざわざあそこに屯しているぐらいなのだから、他に行き場所もないんじゃない? まあ、正妻二人に愛人複数って、大きく構えてれば良いわ、貴女は』<br />『そんなものかなあ』<br />『愛人が五、六人居る程度、気にもならないくらい貴女が魅力的なんじゃない?』<br />『恥ずかしい事言うね?』<br />『貴女じゃなかったら私、あの時間違いなく、姫を殴り飛ばしてどっか行ったわ』<br />『最近自分が怖い』<br />『幸せで?』<br /> なかなか藤子の価値観では理解し難い部分もあるのだが、そういうものらしい。当然あの中には、正妻を追い落とそうとする娘もいるだろうが、今のところその様子はない。<br /> 藤堂藤子という人間に付与された属性は、恐らく今後外れないだろう。元の出来が良い事以上に、物事は何でも人気で決まる。人の寄る所に人は寄るのだ。この高校生活が全てではないし、美知と姫子すら、何があるか解らないのだ。物事の節目、いざこざ、時間の流れで、淘汰される関係もあるだろう。<br /> その時その時、藤子がどれだけ真剣に接せられるか、それに全てがかかっているのかもしれない。<br /><br /><br />「ほんと、家近いよね」<br />「そりゃあ、学校の目の前のアパート借りたのだもの」<br /> 学校の校門を出て直ぐの場所、何の変哲も飾りもない、当たり前のアパートが美知の自宅だ。<br /> 実家は地方の土地持ちらしく、寝ていたって食べるに困らないような家らしい。そこの娘がなんでアパートなのかと聞けば『高校生が一人マンションの一室を借りるなんて分不相応すぎるから、アパートにして』という美知の申し出を受け入れた結果らしい。<br />「……思ったのだけれど、藤子」<br />「なにかな」<br />「やっぱり、マンションにした方が、声、漏れないわよね?」<br />「げほっ……ま、まあそうだけど」<br />「二人居るとワンルームじゃ手狭ね。その内三人とかもあるし、騒音で追い出されるのも嫌ね。ま、そのうち変えておきましょ。はい、いらっしゃいまし」<br />「お邪魔します」<br /> 美知の逞しさと言ったらない。このままいけば間違いなく尻に敷かれそうだが、幸せそうな彼女を見ていると、それでも良いと思えてしまう。<br /> もう何度となく上がり込んでいるが、相変わらずものが無く、質素な室内だ。小物の一つもないと言うのだから、女の子としてどうなのだろう。<br />「相変わらず物が無いね」<br />「いざって時物が多いと困るし、どうせ引き払うし、面倒が無くて良いわ」<br /> そうだ、彼女は合理的だった。もしかしたら人間関係も、それに合わせたものなのかもしれない。あの事件に関してはかなり非合理なのだが、以前付き合っていた時から、彼女は何事も無駄なく、上手く済ませるのが得意であった。<br />「コーヒー? 紅茶?」<br />「紅茶」<br />「ん。今淹れるわ」<br /> ベッドの近くに腰かけ、ぼんやりと窓の外を見る。もうそろそろ陽も沈みかけており、西日が強い。夕暮れに影を伸ばしたり縮めたりしながら、お茶を淹れる美知を待つ。<br /> 視線を移し、美知に向ける。彼女がお茶を淹れる後姿を見ていると、藤子の無茶な主張を押し通して良かったと実感する。凄く家庭的だ。<br />「はい」<br />「ありがと」<br />「……」<br />「どうしたの」<br /> 美知は座卓にカップを置くと、藤子の隣に腰かける。藤子も直ぐに察して、その肩を抱いた。<br /> 彼女は自分から直接触れる事を好まない。良く躾られてはいるが、お腹は空いたよと求める子犬のようだ。自分からスキンシップをする事に、恥じらいを感じているのだろう。<br /> あんな事はあったが、彼女はお嬢様だ。<br />「手つき」<br />「うん?」<br />「手慣れたわね。駄目なヒト」<br />「そりゃまあ、毎日あの子達にくっついたり離れたりくっついたりしてれば、ねえ?」<br />「今日の藤子は、私のだから」<br />「そうだよ。今日の私は、全部美知のだよ」<br />「えへへ」<br />「可愛いね、美知。可愛いよ、凄く。良い子。キスしてごらん? 上手に出来るかな?」<br />「――うん」<br /> スイッチが入る。もうこうなってしまったら、三時間は離さないだろう。完全に甘えモードだ。<br /> 手を合わせ、指を絡め、胸を合わせて、暫く見つめ合ってから、顔を真っ赤にしながら、唇をつける。彼女は自分から羞恥心を煽ってコトに及んだり、コトに及ばず、わざと自分で焦らしたりするのが、酷く好きだ。<br />「上手に、出来たかしら」<br />「……うん。美知はキスが上手だね」<br />「一番上手?」<br />「んー? 姫子もキス上手だから、今度二人で競ってみようか」<br />「駄目よ」<br />「なんでかな」<br />「あの子、貴女とキスすると、直ぐ身体求めるじゃない。眼の前で始められたら、困るわ」<br />「一緒にすれば良いんじゃない?」<br />「は、恥ずかし……」<br />「でも、恥ずかしいの好きでしょ?」<br />「――うん」<br />「美知も駄目な子だね、駄目な子」<br />「嫌い?」<br />「んーん。大好き。もっとする?」<br />「する。普段出来ないもの。一杯したい。いい?」<br />「いいよ。今日は美知のものだから、嬉しい?」<br />「……嬉しい。好き、大好き。藤子――触って、キスして、恥ずかしい事、して?」<br /> そういえばこれから、夕食時だし、まだお風呂にも入ってないけれど、大丈夫だろうか。<br /> そんな事を考えながらも、愛らしく求める美知に乗せられるまま、啄ばむようなキスを繰り返す。<br /> 美知の目が細まり、口元が緩くなる。そろそろ上着を――と思ったところで、美知が手を止めた。<br />「……そうだった。はいこれ」<br />「あのね美知、流れってあるじゃない?」<br />「ふ、服の中に隠してて、渡そうとしてたのだけれど、キスで飛んじゃったわ。そう、それに、これからご飯作らなきゃだし、お風呂もまだだし」<br />「いやね、私もそう考えたのだけれど、美知がデレデレだから……で、それは?」<br />「バレンタイン。当日は貴女忙しいでしょ。姫子もいるし」<br />「それもそうだね。うん。美知、ありがと」<br />「いーえ」<br /> 綺麗にラッピングされた小袋の中には、星やハートの形をしたチョコレートが幾つか入っている。どうやら手作りであるらしい。流石に何でも卒なくこなす彼女の作るチョコは、不揃いで不格好なものが一つもない。そのまま出されればお店のものと言われても疑わないだろう。<br />「流石に上手だね」<br />「姫ほどじゃないけれど。あっちは本職だし」<br />「あれでも、一つ不格好な……なんだろ、これ。ゆるいキャラが……」<br />「造形が無茶だったわ」<br />「ああ、あの。ストラップの」<br /> 綺麗に揃ったチョコの中に、一つだけ歪なものが混じっていた。キャラクターを型取りするのは骨が折れたのだろうが、しかしそれでも見れるものになっている。<br /> 藤子と美知が探しあったストラップについていたキャラクターだ。<br />「たぶんね、一目惚れだったの」<br />「まだちょっとモサっとしてる頃だけど」<br />「私、見る眼はあるのよ。現に貴女は素敵だわ」<br />「お恥ずかしい限りで」<br />「土地持ちって言っても田舎だし。こんなに人が沢山居る所でやっていけるかって、不安だったの。なんとか上手く溶け込めたし、友達も直ぐ出来たけれど、一人暮らしは慣れないし、夜は一人怖いし、漠然とした不安があったのよ。そう考えると、私ってやっぱりお嬢様育ちで世間知らずなのかしら」<br />「誰だって突然一人になったら、寂しいよ」<br />「そうかしら。それでね、やっぱり、頼れる人を眼で追っていたのだと思うの。紐が切れてストラップを落とした時、なんだか物凄く、虚しい気持ちになって。友達も今までと違っているし、きっと声をかければ誰かが助けてくれたかもしれない。そんな事解っていても、虚しくて、悲しくて。そしたら、そこに貴女がやって来た……何で手伝ってくれたの?」<br />「うっ……その……」<br />「不味い事あった?」<br />「こ、好みの子だったから」<br />「まあ不純」<br />「だって美知、凄く美人なんだもの」<br />「えへへ……ま、いいわ。そのあと私がやった事だって同じだし。貴女が来てくれて、凄くうれしかったし、頑張って探してくれる姿が、好ましかった。この人と親しくなりたいって……友達になって、友達以上の事、し始めちゃって……やっぱり私ね、男の人の代替えだって、思ってたのよ。そう思いたかったの。女の子、好きなんて、おかしいって、変に常識に囚われて、貴女を傷つけたわ」<br />「もう、いいよ。そんなに自分を苦しめなくても。美知が私を好きだって、そう思ってくれる事実だけが重要なんだよ。私もきっと意固地になってたの」<br />「……これからも、好きでいてもいいのね。あの子達は、きっと試練だわ。追い落とされないように、頑張らないと。でも、藤子は優しいから、手を差し伸べてくれるのよね。あの時みたいに。甘えてもいい?」<br />「いいよ。美知が寂しくならないように、私頑張るから」<br />「んふ。藤子、もう、いっか。ご飯とかお風呂とか」<br />「え、ちょっと」<br />「はい、あーんして」<br /> ……彼女は顔を紅くしながら、その好意を隠す事もなく、藤子に頼ってくれている。あざとい子だ。そうされては、藤子は決して否定出来ないし、この子を守ると決意せざるを得ないのだから。解ってやっているのだ、きっと。<br /> でも、そんな彼女がやはり、愛しい。<br /> 美知は包みからチョコを取り出し、藤子の口の中にちょいと放る。チョコの上品な香りと甘さが広がると同時に、美知がそのまま藤子に覆いかぶさる。<br /> 抱きしめあいながら、互いの舌でチョコを溶かす。<br /> なんとも、考える事が、気恥かしい子だ。好ましすぎて藤子は自分が嫌になる。<br /> 唾液が絡み、粘膜を舌で擦りつけていると、他の事はどうでも良くなってしまう。<br />「大好き。私の王子様」<br /> キス魔の彼女はおそらく、満足するまで離してはくれないだろう。<br /><br /><br /> ※<br /><br /><br /> 何かしら正しい道を選ぼうとした場合、そこには相応の努力と葛藤が必要になる。当然、その努力報われず、間違った方向にばかり進んでしまうのが人間である。<br /> では、正しい道を選ぼうとする努力を虚しいと知りながら、人間が何故止めないかと言えば、それはその先に希望が在るかもしれないと、夢を抱いているからだ。そして、後悔したくないからである。<br /> 藤堂藤子が選んだのは、そのような道だ。<br />「でね、そのチョコ誰にあげるんだって話になって、彼女って答えたらさ、お父さん、目まん丸くしてお母さん呼びだして!」<br /> 姫宮姫子は、なんだか興奮した様子で話す。腕をしっかり組んで商店街を歩く様を、珍しがっている人もいるが、当然姫子はお構いなしだし、藤子に至ってはそろそろ完全に慣れて来た。<br />「娘が同性愛者だったら、親として色々思うでしょう」<br />「で、お母さんはお母さんで、貴方の所為じゃない? という事になって、ありゃーっと」<br />「……ひ、姫宮家の家庭に罅入れちゃったかな」<br />「ううん。私お母さんに似てるの。まあ娘って言ったって年頃の他人でしょう? しかも愛した人に似てたら、男の気持ちも察してあげなきゃねえって話になってさ。いやー、私可愛いから仕方ないねえ」<br />「それで、お父さんは?」<br />「うん。罪悪感もあったみたい。当然だよね。それにほら、別に私、手出された訳じゃないし。確かにお父さんの所為で男の人苦手だけれど。それから三人で色々話し合ってね、私少し離れて暮らす事にしたの」<br />「そっか」<br /> どうやら、父との問題は決着したらしい。彼女の選んだ道が正しいかどうかは解らないが、無理をして家族で暮らす意味無しと判じたのだろう。<br /> 藤子も姫子の父の立場に立って考えた場合、確かに姫子は可愛すぎて、間違いを起こす可能性も否定出来ないと思える。まして男性だ、間違った場合のリスクが大きすぎる。<br /> 難儀な生き物だと、多少同情する。<br />「そういえば、美知も引っ越すって話してたよ」<br />「ああ、やっぱりお嬢様に、あのワンルームは手狭だよね。あ、じゃあシェアしようかな」<br />「……喧嘩にならないかな?」<br />「私ね、藤子が幸せなのが、一番幸せ」<br />「それは、ありがとう」<br />「うん。藤子と美知が、中途半端な付き合い方してるって知った時、物凄く頭に来た。なんか、その中途半端さが、中学までの私を見ているようで、気持ちが悪かったの。意気地なしが、ふざけやがってーって」<br />「でも過激すぎるよ」<br />「凄く反省した。でも、あれがなきゃきっと、私は貴女と美知を恨み続けたし、貴女は私に一生振り向く事もなかった。意気地ありすぎたけどねえ」<br />「ちょっと怖かったの覚えてる」<br />「必死だったの。だから、ま、今の状況さ、嫉妬もするけれど、でもやっぱり貴女は好きで、貴女が好き美知の良いところも探そうと思って。そうする事で、貴女が幸せなら、それが良い」<br />「それでシェアなんて。私が言うのもなんだけれど、確かに、仲良くして貰えると嬉しい。その為には、出来る限りなんでもするよ」<br />「路上でキスしてって言っても?」<br />「節度はわきまえたいなあ」<br />「ま、するんですけどね」<br /> 全く容赦も手心もない。商店街の真ん中で立ち止まった姫子は、そのまま藤子の頭を捕まえ、自分の身長にあう高さまで下げると、唇をおしつける。<br /> ここが大きな町なら別だが、生憎近所の商店街である。つまり姫宮洋菓の並びだ。ストーブを炊きながら将棋を打っていた定食屋の親父と喫茶店の親父が衝撃のあまり盤をひっくり返した。<br /> 藤子がパンツならまだしも、生憎互いにスカートであるからして、誤認はない。<br />「あ、やっほ、オジ様達。みてみて、彼女! ちょーかっこいいでしょ!」<br />「おう。幸せにな、姫子ちゃん」<br />「あんな可愛い子女に取られて、男どもはだらしねえなあ……おい、母ちゃん、燗つけてきてくれ」<br />「働け馬鹿親父ども!」<br />「お、おう」<br />「だらしねえなあ俺達は……」<br /> うろたえるオジ様達を尻目に、バス亭に向かって意気揚々と歩き始める姫子を見ていると、妙に心強い。<br /> 彼女はもう、中学時代の姫宮姫子ではないのだ。自分に強い矜持を持ち、価値感を受け入れ、なおかつ、この先を歩むパートナー(愛人は多いが)を手に入れたのだ。<br /> 藤子のほんの片隅にある記憶。<br /> 競技トラックで、ただひたすらに前を向いて走り続ける藤子を、ずっと見つめる姿があった。<br /> 地味で、根暗そうで、話した所で会話の一つも続きそうにない彼女は、その胸の内に、ひたすら熱いものを携えていたのだろう。<br /><br /><br /> 近くのバス亭からバスに乗り、四つ程行った先にある繁華街に出る。<br /> 休日とバレンタインが合わさった結果、どこを見てもカップルだらけだ。こうなると、たかだか一組の女性が腕を組んでいた所で誰も気にはするまい。<br /> 以前から予定があった為、どこかお洒落なお店を、と提案したのだが即座に却下された。最初から行き先は姫子が決めており、目的地に着くまで内緒だという。<br /> 知っている場所だ。やがて見覚えのある路地に入ると、もう何処へ向かっているのかが直ぐわかった。<br /> 商店街ではあれだけ饒舌だった姫子は、街に出てからすっかり喋っていない。藤子の腕をひったくり、黙々と足を進める。<br /> やがて路地を三つ入り、抜けた先には大きな建物と敷地が観えた。<br /> 藤子と姫子が通っていた中学校だ。<br /> 姫子に視線を向ける。彼女はジッと見つめ返し、やがて笑顔になった。<br /> その足で校門にまで向かう。守衛の詰め所に顔を出し、姫子が愛想を振り撒く。 <br />「守衛さん!」<br />「ん。はいはい。どうしましたか」<br />「だーれだ」<br />「んん? 卒業生かな」<br />「はいこれ、当時の生徒手帳」<br />「あ、ああ! はいはいはい! いつもトラックの整備してた子!」<br />「見違えた?」<br />「いやあ、もっと地味だったもんなあ。どうしたんだい?」<br />「んー。ちょこっとね、ほんと、二十分くらいでいいの。入れてくれる? あ、この子も卒業生なの」<br />「ん? なるほど。ちょいまちね、確認するから」<br />「……ああ、だったら、陸上部の田畑先生に」<br />「なるほど」<br /> 守衛が内線で職員室に連絡を取ったのだろう。電話をしながら、手でOKサインを作る。姫子の顔が余計に明るくなった。<br />「田畑先生に顔出してね。なんだか解らんが、想いで巡りかい? まだ一年じゃないか」<br />「女の子は一年でも凄く変わるの。ほら、ね?」<br />「はは。まったくだ。これ、入校許可書。文句言われたら出して」<br />「はーい!」<br /> 久々の中学校だ。あまり良い記憶は無い為、母校に顔を出すような真似は無かった。むしろ、忘れたい記憶ばかりがある。<br /> 嫌な思いも、辛い記憶も、全部全部吹き飛ばすようにして、藤子はただ走り続けた。<br />「さっき、守衛さんがトラックの整備って言ってたけど」<br />「は、恥ずかしい事言われちゃった」<br />「うん?」<br />「だ、だからね。その。藤子がいつも走ってるトラック、陸上部が帰った後、掃除したり、小石拾ったり、色々してたの」<br />「それは……私が、走りやすいように?」<br />「ほかの人の為にはしないでしょう?」<br />「……姫子って。なんでそんなに可愛いの?」<br />「あ、ちょ、やだ、まだ駄目」<br /> 頬にキスしようとした所、手で押しのけられる。余裕なく顔を真っ赤にするお姫様が可愛すぎて、ここが学校である事を忘れていた。<br /> しかし、なるほど。確かに藤子が走り込みを行う際、一度だって不整備だった試しがない。常に綺麗に保たれていたし、破損部分は補修すら行われていた。業者がやっているものだとばかり思っていたのだが、この子は藤子の為に、毎日残ってそんな努力をしていたのか。<br /> 愛しい気持ちが、ますます強くなる。あの当時は、走る事で全てを許していたのだ。<br />「まず、これ。はい。バレンタイン」<br />「あら、あっさり渡すね」<br />「じゃあ私、離れてるから」<br />「……はは。うん」<br /> そうだ。これがしたかったのだろう。姫宮姫子は、限りなく乙女なのだ。<br /> 姫子が校舎裏に消えるのを確認してから、藤子は包みを開けて中のメッセージカードを取り出す。<br /> 同じ文字、同じ文言。<br /> 当時の情景が、嫌な思い出が、上書き修正されて行く。<br /> チョコの甘みを噛みしめながら、藤子は約束された場所に辿り着く。人気が無く、夕闇ががかり、いささか暗いが『初めて出会う筈だった場所』は、当時想定されていた時刻である。<br /> その手を胸に抱き、まるで本当に相手を待ちわびるかのような仕草で彼女はいる。<br /><br /> 心が強くなかったあの時。配慮が出来なかったあの時。藤堂藤子が自身の魅力を知らなかった時。<br /> 心を強くせざるを得なくなったあの時。配慮が無意味だと知ったあの時。姫宮姫子が変わろうと思った時。<br /><br />「……来てくれたんですね、藤堂先輩」<br />「――君は?」<br />「はじめまして。姫宮姫子って言います」<br /><br /> ――幸せはこれから作ろう。沢山悩んで、沢山苦労して、自分達が一番幸せだと思える世界を作ろう。藤子が、美知が、姫子が、そして慕ってくれる子達が、後悔して涙を流さない為にも。<br /><br />「君のくれたチョコ、美味しかったよ」<br />「えへへ。その、藤堂先輩」<br />「……なにかな」<br />「大好きです。ずっとずっと好きでした。私と、お付き合いしてください」<br /> ただ悲しくて、嬉しくて、バカみたいで、それが良くって、どうしようもなくて。<br />「ありがとう……私も、大好き。幸せにするよ。私のお姫様」<br />「うっ……うぅぅっっ」<br />「姫子」<br />「藤子ぉ……ッ」<br /> 声も出せずに泣きながら、来るべき未来を思い描き、二人は唇を合わせた。<br /><br /><br /><br /><br /> 藤堂藤子の恋愛事情 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-5026522884354383502013-05-03T20:02:00.000+09:002013-05-14T00:53:50.234+09:00心象楽園舞台概要3及びあとがき<span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> ネタバレを大量に含みます。全話閲覧後ご覧になる事をお勧めします。</span></span><br />
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<span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"></span></span><br />
<a name='more'></a><br />
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<span style="line-height: 27px;"> この度は、長い連載の中、心象楽園にお付き合いいただき、誠に有難うございます。<br /> 書き始めたのは2012年の10月、ほぼ完成したのが2月ですので、実質四カ月、狂ったように書いておりました。<br /> 同人小説は幾つも出していますが、オリジナル作品はまさに十年ぶりほどですので、自分に長編を書き切るだけの力があるかどうか不安でしたが、人様に読んで頂けるだけの物が出来て大変安心しました。<br /> あまり堅苦しいあとがきも何ですので、適当に色々とキャラの話とかします。<br /><br /><br /> ・欅澤杜花<br /> ・誕生日 10月3日<br /> ・身長175cm<br /> ・体重 60kg<br /> ・B94 W 63 H 89<br /> ・趣味 料理、鍛錬、可愛い洋服集め(非公開)、市子弄り<br /> ・特技 格闘技、武術全般(欅澤神道無心流皆伝、柔術、合気道、レスリング、居合、薙刀)<br /> ・好きな食べ物 鶏肉全般(胸、ササミ)、イチゴショート<br /> ・嫌いな食べ物 無し<br /><br /> 格闘怪物。御姉様(物理)巨女一歩手前。<br /> 物語開始時点で人の物であり、市子亡き事を悲しみながら生きている、既に終わった人間です。<br /> ライトノベルとして、読者にあまり共感出来ない、居てはいけない主人公として書きました。なので査読の段階から「なんかふわふわしてる」とか「大丈夫なのこれ」という言葉を貰ったりしましたが、まあそこは趣味小説なので許してほしいです。<br /><br /> 本人は認めていませんが、女性以外に性興奮を覚えない生粋のレズビアンの上に、冒頭から人格が破綻気味なので市子、二子、アリス、早紀絵、他数人、杜花と親しい子以外は塵芥としか思っていない節があります。エピローグ後は改善された様子ですが、それでもあまり他人の命を重視してはいません。リスクがあるならまず見捨てます。<br /> 彼女は正義の味方でも秩序の安定を望むような性格でもありませんので、その行動原理は全て自分(市子)の基準に沿う、究極的なエゴイストです。(勿論、他人を心配するフリをしたりして、擬態はしています)<br /><br /> 立ち歩きし始めた頃から、早速花に酷い扱きを受けて育ちました。真っ当な育てられ方は一切されておらず、自分にも他人にも価値なしという考えでいた為、もはや虐待について考える事も止めていました。市子と出会ってからというもの、それがどれだけ異常だったのかに気が付き、花と、花に逆らえなかった杜子、口を一切出さなかった祖父と父、家族丸ごと憎悪しましたが、市子がいれば何でもいい、という状態にあったので、家族間の悲劇を招く事はありませんでしたが、その育まれた恨みは恐らく一生消えませんし、今後も普通の家族のフリはしても、一切家族のなんたるかに踏み込もうとはしないでしょう。(杜子、四季彦、八雄は杜花による報復を恐れているらしく、花の観ていない所での杜花への接し方は過保護を通り越して過保護)<br /> 虐待されて育ち、市子以外に価値を見出せなかった欅澤杜花が、一応の人間に近づくまでのお話、という事になるでしょうか。<br /><br /> 作中殆ど説明はありませんが、彼女の能力についてです。<br />【七星特殊性脳科学研究所基準 未来予知 ESP強度B+(限定A+)】<br /> 七星の手で脳改造手術を受けています。七星がESP能力研究を進める中でも、これは既に技術が確立して長い時間の経ったもので、人体影響の少ない反応高速化手術自体は、民間にも利用されています。ただこれを受けると、正式なスポーツ競技や、影響の考えられる物事には参加不能になります。<br /> 本来はESPの類ではなく、脳改造による伝達速度の高速化に留まるものでした。欅澤杜花に施されたものは中程度の反応高速化手術でしたが、しかし杜花自身のポテンシャルの高さ、日々の鍛錬から、幼いながらに既に七星の予測していた領域を飛び越えていました。<br /> 反応高速化どころか、自身に被る被害を予測して危機回避する、という別種のESPに進化している様子です。<br /> 特に感応干渉の酷い影響下に居た為か、物語後半にはESP強度が破格とも言える程強まっており、兼谷戦に至ってはほぼ未来予知にまで達しています。<br /> それだけ出来ても反応出来なければ意味は無いのですが、杜花の場合鍛え方が違いました。特に自身の被る危機に関しては過敏で、遠くで起こる物事、自身が将来被るであろう被害まで見えるようになっています。<br /> 自分の事しか考えてませんが、一応不正は嫌いなので、今後試合などに出る事はないでしょう。<br /><br /> 通称仙台ちゃん。<br /><br /><br /> ・満田早紀絵<br /> ・誕生日 8月14日<br /> ・身長163cm<br /> ・体重 45kg<br /> ・B73 W 52 H 76<br /> ・趣味 女の子<br /> ・特技 女の子<br /> ・好きな食べ物 フレンチトースト、カツカレー、女の子<br /> ・嫌いな食べ物 ピータン<br /><br /> 作者一番のお気に入り。寛容な彼女は、相手が余程アレでない限り大体を受け入れます。<br /> 杜花、アリス同様メソッドプログラム及び遺伝子組み換え被験体なので、杜花に対する愛情を疑いもしたでしょうが、誰でも大概愛せてしまう彼女にとっては瑣末な問題でしょう。<br /><br /> 小学四年生で観神山女学院に転校して来た彼女ですが、それまでは地方の小さな学校に通っていました。まさしく女王の振る舞いで、この時から既に、自分の気に入った同級生に対して性的な悪戯を繰り返していました。暴君極まり、教師は教師と思わず、他の大人も見下し、正しく畜生の様相です。<br /> 杜花による教育(物理)が、どれだけ満田早紀絵を(性癖は別にして)真人間に戻したかが伺えます。<br /> 以降はだいぶ改善し、持ち前の明るさを良い方向へと向けた為、明るく元気で笑顔の素敵な子、というイメージが定着しました。<br /><br /> 彼女だけ転校生なのは、組岡きさらになりえる人物が途中まで決まらなかった為です。十数人(存命中で同年代だけを数えた数字)いる組岡きさらの遺伝子組み換え、メソッド済みの中でも、数値的に一番近似したのが早紀絵でした。杜花、アリスとは質が違う立ち位置にいる為、七星も人選に難儀した様子です。<br /><br /> 基本的に自分に自信があります。頭も良く、何事も感情で即座に判断したりはしませんが、多少過信する部分もある様子です。ただ彼女の行う他者に対する分析や感想は的を射ている事が多く、作中でも大きく間違った判断はありませんでしたが、相手が悪かった。<br /><br /> 好きなものは全部手元に置きたい、というのは幼少の頃からかわっておらず、杜花、アリス等が居たとしても、彼女は他の子達に手を出します。責任感は強いので、手を出した相手に対して、相手が許容するならばいつまでも養う覚悟でいます。<br /><br /> 力も能力も有りませんが、それゆえに等身大の人間として据えられています。彼女が探偵役であるのも、欅澤杜花があまりにも主人公に不適格である故でありますし、杜花のバイアスかかった世界の見方では視野が相当せまくなってしまうので、彼女はなるべく客観的に外側から物事を見据えるようになっています。<br /><br /><br /> ・天原アリス<br /> ・誕生日 5月20日<br /> ・身長165cm<br /> ・体重 47kg<br /> ・B82 W 54 H 83<br /> ・趣味 読書、健康体操<br /> ・特技 速読、暗記<br /> ・好きな食べ物 白米、馬刺し、豚汁<br /> ・嫌いな食べ物 オートミール、シリアル<br /><br /> 本編ヒロイン。作中、一番女の子です。彼女は難攻不落の欅澤杜花と、ハマったら抜けられない泥沼のような満田早紀絵の狭間で、城の石垣を昇りながら泥沼を這いまわりながら神に祈りを捧げるという、何とも不憫な立場にありました。<br /><br /> 彼女は最初から観神山女学院の生徒で、体裁上は七星市子のパートナーです。勿論七星は実験を成功させるつもりではいましたが、失敗して市子と杜花がどうにもならなかった場合、保険としてかなり有力な人物であるとされていました。<br /><br /> 市子がいなければ、間違いなく観神山一番の顔であり、御姉様として遺憾なく力を発揮した事でしょうが、乙女な彼女が一筋縄でいくはずもありません。<br /><br /> 冷静なフリはしていますが、大体常に先の事も考えて頭を悩ませているので、我の強い人達が己を突き通そうとする中、かなり翻弄されています。自分で何かして主導しようと思い立ったお泊まり会も功を奏さず、貴女の為なら何でもすると言った人には裏切られ、しかしそれでもなお杜花を信じようとする姿は、一度は兼谷の手に落ちましたが、ちょっと普通ではありません。<br /> 安定を好み、あまり物事を大きくするのは好ましく思っていません。杜花の持ち上げに関しては、殆ど杜花の為とも言えます。市子亡き後明らかに自分を失っている杜花をどうにか持ち上げて、外に目を向けさせようと考えた結果、やはり辛くとも御姉様という立場におさまっていた方が彼女の為になる、と考えての行動でした。<br /> <br /> 市子が亡くなった際、相当に落ち込んではいましたが、現実主義な彼女はそれはそれと受け止め、決して周りに影響を与えないようにと努める強さがありました。市子を失って人間として破綻した杜花と、市子亡き後の杜花を掠め取るという罪悪感に苛まれる早紀絵とは、また違った視点で全員を見渡していました。<br /> 恋心を押し込めてまで死者に配慮するような人間でもないので、杜花と早紀絵に対する想いを正面から受け止め、実行に移る辺りは杜花、早紀絵同様かなり我の強さが伺えます。<br /><br /> 自己犠牲が強く、好きな人の為に平然とその身を投げうちます。彼女は頭からつま先までヒロインです。<br /><br /><br /> ・七星二子<br /> ・誕生日 1月1日(恐らく)<br /> ・身長135cm<br /> ・体重 32kg<br /> ・B65 W 44 H 62<br /> ・趣味 思考介入、考察、クラシック鑑賞<br /> ・特技 運動以外大体何でも出来る<br /> ・好きな食べ物 携帯栄養食(フルーツ味)<br /> ・嫌いな食べ物 牛肉<br /><br /> 本編ヒロイン2。物凄く不憫な子でした。市子の語る理想としての欅澤杜花に対する恋慕と、死した姉に対する気持ち、そして七星の策謀に押し込められながら、何でも知っているつもりで結局何も知らなかった、というピエロにされてしまった子です。<br /><br /> 一番最初から全ては七星の所為である、と開示されている以上、彼女は最大のギミックでありリスクでした。しかも感応干渉などという能力がある為、二子に対して嘘偽りが殆ど通じない為、他の人物達、特に杜花は二子を警戒していた訳ですが、結晶の植え替えによって市子に近づく中、杜花もまたそれに反応するようにして心を許してしまう場面があり、頭を悩めたものです。<br /><br /> 遺伝子こそ一郎と兼谷のものですが、一郎の愛人を母体として産まれており、直前まで自分が何者なのかは知りませんでした。京都の座敷で監禁されながら、京都の研究所を行き来するという生活は、彼女の性格を歪めるに十分ではありましたが、ネット上での市子とのコミュニケーションが、辛うじて二子を人にとどめました。<br /><br /> 観神山女学院に転校してくるまでは京都のお嬢様学校に籍を置いていましたが、一度も登校していません。そもそも市子と違ってESPの発動、操作が不完全であった為、殆ど表に出る事もありませんでした。出るとしても、それこそ研究員を引き連れ、感応干渉による干渉抑止可能な兼谷及びそれに類似したESPデータを保有したお付きがついてやっと外出可能なレベルです。<br /><br /> 市子との接触で精神的に安定してやっと能力も安定しましたが、人の頭を覗くのが慣習化しており、杜花にしか殆ど用いなかった市子に比べると、かなり無差別無作為に頭を覗いていました。<br /> それゆえに、市子の存在は大きく、市子を占有した杜花に対して、複雑な感情を抱いていました。<br /><br />【七星特殊性脳科学研究所基準 他者感応干渉(万能型幻視特化) ESP強度A】<br /> 他者感応干渉には種類があり、二子は万能型幻視特化と分類されます。発動範囲は一人から周囲数人。幻覚を見せるのが得意で、平気で相手の認識を欺きます。二子は研究所で様々な実験に用いられ、過去言葉にする事も憚られるような事故を何度か起こしています。<br /> また記憶改竄、思考介入も得意で、故に万能型です。殆ど自己にのみ作用する先見能力とは質が違います。<br /><br /> ただ、酷い能力ではありますが、七星の執拗なESP研究の恩恵は老人性痴呆や心的外傷、脳や記憶にまつわる人間の障害を取り除くのに役立っており、全てが悪とも割り切れないのが現状です。当然、二子の被害は眼を瞑れるものでは有りませんが。<br /><br /> 様々とありましたが、もしかしたら最終的に一番恵まれたヒロインかもしれません。<br /><br /><br /> ・七星市子<br /> ・誕生日 1月1日(恐らく)<br /> ・身長165cm<br /> ・体重 46kg<br /> ・B85 W 52 H 87<br /> ・趣味 平成の怪しげな本集め、お菓子作り、杜花弄り<br /> ・特技 運動以外大体何でも出来る<br /> ・好きな食べ物 秋刀魚の梅煮<br /> ・嫌いな食べ物 牛肉<br /><br /> 困ったちゃん。杜花の為だけに存在するヒロイン。用意された死を歩まされた人。<br /> 杜花同様、市子も殆ど杜花の事しか頭にありませんでした。彼女がもう少し寛容だったのならば、もっと大人しい流れになったでしょうが、そこは小説なので。<br /><br /> 幼少期から次代の王となるべく教育を施されており、一郎同様七星に負けは許されないという発想を持っていました。美しく、知性にあふれ、余裕があり、誰にでも好かれ、何事も瀟洒にこなし、他の追随を許さない、完全生命体である事を強要されました。<br /> アリスは元より、途中から適正ありと判断された早紀絵、そして杜花と姉妹を演じるよう仕組まれ、ただ七星の敷いた道を歩むことになった彼女は一番の被害者であり、事を大きくした張本人でもあります。<br /><br /> 作品冒頭、七星市子は天原アリスとの未来が約束されていたとありましたが、それは利根河撫子と大聖寺誉の関係性が過去そうであった事を再現しただけで、最初から杜花とつがいになる事を約束されていました。(当初利根河家と大聖寺家は既に懇意であり、七星の影響から(恵は旧七星の次女)能力が重視され、別に子供は他から貰ってくれば良いという考えで、法律外ながら結婚前提であった)<br /><br /> 何の憂いもなく歩んだ人生が、突如暗転し、死に導かれた彼女の心情は如何ほどのものだったのか。作中の杜花への執着が、それをそのまま表現しています。<br /><br /> 美人で天才で、挙句天性のマゾヒストです。<br /> 杜花との性交は猫もかくやという様相で、一度交わると傷だらけである事も多々ありました。勿論杜花限定ですが、虐められるのが好き、罵られるのが好き、叩かれるのが好き、無理矢理指を突っ込まれるのが好き、挙句首を絞められるのも好きでした。更に言えば野外でするのも、人に観られそうなギリギリの所まで出てするのも、ともかく杜花にされる全てが好ましい、という驚くべき変態です。<br /> ちなみに、別段と男性は嫌いではありませんが、基礎として杜花しか見ていませんし、応用でアリスと早紀絵を好いている程度です。<br /><br /> 心象楽園/構造少女群像において、杜花が市子(二子)に手出ししない事が何を意味するのか、一番良く分かっていました。二子と兼谷は、市子データを覗き見て一応知識では解っていましたが、彼女達が思っている以上に、二人にとって性交は大きなファクターをしめていました。<br /><br />【七星特殊性脳科学研究所基準 他者感応干渉(記憶改竄型思考介入特化) ESP強度A++】<br /> 記憶改竄を基礎とし、思考介入で相手の思考を読みとることを得意としていました。発動範囲は一人から百人程。二子の数倍程度能力操作に長けており、能力暴走はまずありえず、100%任意での能力発動を可能としていました。また、人間関係を考慮して杜花以外の思考は殆ど読みとらず人畜無害でしたが、撫子に目覚め始めてからは情報収集の為に能力を行使して不特定多数から読み取っていた様子です。<br /><br /> そもそも、利根河撫子の基本能力値は現在の判断基準で行くところ(特殊性脳科学研究所の判断指標)、Bマイナー程度でした。占拠事件で究極的に追い詰められた撫子は、死の直前に【大覚醒】し、その一時的な爆発エネルギーは判別不能のレベルまで引きあがり、人質に取られていた生徒、そして特にテロリストに多大な影響を及ぼした挙句、学院にその記憶を、まるで幽霊のように反映してしまいました。この時千里眼まで発動している可能性が高く、例え首を吊って生きていたとしても、脳にかかった負荷を考えると廃人であったと考えられます。<br /><br /> 一郎と兼谷の最大の誤算はここで、どうしても撫子に近づければ近づける程ESP強度が跳ね上がり、いざ大覚醒まで迎えた後の修正プログラム、暴走対策までした所で、現在の七星の科学力では抑えきれないものでした。<br /> ESPを取り除いてしまえば撫子ではなく、撫子に近づければ大覚醒してしまう、という二律背反の中、血のにじむ様な努力と犠牲を積み重ねてきました。<br /><br /> 彼女についてはまたサイドストーリーで。<br /> <br /><br /> ・三ノ宮火乃子<br /> ・誕生日 7月6日<br /> ・身長155cm<br /> ・体重 40kg<br /> ・B75 W 50 H 73<br /> ・趣味 古本集め(漫画)映像鑑賞(アニメ)<br /> ・特技 リンゴの皮むき<br /> ・好きな食べ物 母の作る料理<br /> ・嫌いな食べ物 オイルサーディン<br /><br /> 元は全く関連がなかったものの、頭を突っ込んだお陰で利用されて利益を得た人。<br /> 三ノ宮は一郎のお陰で七星と大きな確執があり、兎に角七星を出しぬく事に社運をかけていますが、都合上どうあっても七星は避けて通れない道なので、一応は協力する態を繕っています。<br /> 火乃子は対七星の秘蔵っ子としてあり、大学卒業後は徹底して七星を叩く為に再教育される運命にありましたが、烏丸(七星分家)から嫁さんをぶん捕ったお陰で三ノ宮翁は大喜び、方針を転換するようです。<br /><br /> 作中、杜花を『素敵な上級生』として見る為に存在した彼女は、少しばかり独占欲が強かったあまりに今回の事件に首を突っ込んでしまいます。<br /> 猫と破損結晶の関連性はほとんど偶然で、七星の意図ですらありません。そもそも、火乃子が魔術を執り行った時点で結晶は破損していません。つまるところ、二個目に杜花と二子が見つけた結晶と同様であり、結晶内のESP影響を不完全に受けただけです。<br /> 支倉メイが結晶を破損させたのは二子が転校してくる直ぐ前です。杜花達が捜索する、兼谷が観神山を離れている、というタイミングでの破損でした。歌那多の腕が不調を起こし始めたのも、その辺りです。<br /><br /> 猫と記憶媒体(作中では記録媒体)ネタは、某事件発覚以前なのであしからず(書いたのは2012年10月)最近の推理小説とかにありそうですけど。<br /><br /> 七星の影響はだいぶと受けましたが、結果的に彼女は可愛いし大勝利です。<br /><br /><br /> ・末堂歌那多<br /> ・誕生日 12月12日<br /> ・身長157cm<br /> ・体重 41kg<br /> ・B80 W 51 H 82<br /> ・趣味 火乃子観察、瞑想、昼寝<br /> ・特技 足の指で箸を使って豆掴み<br /> ・好きな食べ物 お肉、魚介類<br /> ・嫌いな食べ物 稗<br /><br /> 大体市子の所為で痛い目を見た人。<br /> 末堂家の末子ですが、猫かわいがりされて育ちました。身の回りの世話は全てメイドが行っていたので、冗談ではなく尻の拭き方すら怪しかった子です。<br /><br /> その両親が彼女を手放し、観神山女学院に編入させたのも理由があります。<br /> 末堂家は小売業の最大手で、アジア戦火から逃れて来た東南アジア人を多く雇っており、日本人との賃金格差を理由に、貧富格差是正を叫ぶ共産主義勢力にやり玉に挙げられていました。<br /> 一時期末堂グループの店舗を狙ったテロリズムが激増、そこに巻き込まれたのが末堂歌那多でした。<br /> 池袋にて大規模爆弾テロがあり、二百名の命が一瞬で奪われる事件が発生、その爆発のほぼ中心地に居たのが、丁度池袋本店に顔を出そうとしていた歌那多と世話係の井上です。<br /><br /> 井上氏に庇われたとはいえ、爆風で飛んできた看板に腕を持って行かれ、全身に破片が突き刺さり内臓を破損、皮膚は約二割焼けただれ、通常手術では助かりようのないものでした。井上氏は死ぬ間際まで歌那多の頭を保護していた事が幸いに繋がり、緊急手術で一命を取り留めた後、全身の皮膚を培養した自己皮膚にて修復、どうにもならない部分は幹細胞医療に頼り、内臓の一部を総とっかえしました。<br /> 生憎腕は戻りようがなかった為、サイバネティクスに頼っています。<br /> 彼女の保護の為にも、取り敢えず学生の間は強固な防衛システムのある学院に預けて、なおかつ人間としての生活力を養わせよう、という目的です。<br /><br /> 右腕以外にもトラウマを抱えており、何の用意もなく大きな音などを聞いた場合、動悸、発汗、吐き気、フラッシュバック等に見舞われます。<br /><br /> 恐らく個人において、一番大きな傷を負っている子です。<br /> 作中にパーツ交換は直ぐ済み、火乃子と一緒に夜の御勉強をしている事でしょう。<br /><br /><br /> ・支倉メイ<br /> ・誕生日 4月20日(恐らく)<br /> ・身長150cm<br /> ・体重 48kg<br /> ・B87 W 55 H 88<br /> ・趣味 お相手漁り、料理、手芸<br /> ・特技 ソロバン<br /> ・好きな食べ物 チョコクレープ、きゅうりの浅漬け<br /> ・嫌いな食べ物 苦いもの<br /><br /> 不憫だけれど自由を許された、利根河撫子の中で最も奔放な人物。<br /><br /> 同世代の利根河撫子遺伝子複製体(以降複製体)は数十人に昇ります。七星分家支倉の子として預けられた彼女は、特に性に依存し易く、観神山にやって来るまで、以前の学校では男女数十人と肉体関係を持っていました。それでも収まりきらず、暇があれば相手を見繕ってひと気のない場所に連れ込み性処理をする、という度し難い性癖の持ち主で、仮の両親も頭を悩ませていたどころか、仮の両親にも手を出していた模様。<br />(性病も根絶していますし、避妊薬も安価で優秀な時代なので、相手を選ばずセックスするような人間が思いの外多いですが、彼女はニンフォマニアです)<br /><br /> どう考えても不適合な彼女は、逆にそこに目をつけられたのか、杜花等に対する工作員として観神山女学院に編入、杜花達の行動を把握、逐一報告する任務を負います。杜花、アリスにはどうにも近づき難かった彼女は満田早紀絵に取り入る事を決意し、感応干渉にて刷り込みを行い、違和感なく接触する事になりましたが、ここで大誤算が発生します。<br /> 求めて貰えれば出来れば誰でもよかった彼女が、真剣に早紀絵に対して恋心を抱いてしまった事です。<br /><br /> 遺伝子の記憶か、はたまた感応干渉の不具合か。単純に早紀絵のテクニックが異常だった所為か。大恋愛も大恋愛、今後早紀絵無しの人生など考えられない程にまで恋愛脳に毒され、挙句の果てに市子から使命を負って全部ゲロするという、七星にとってあまり宜しくない結果をもたらしました。<br /><br /> 遺伝子複製体は何かしらの精神的障害を発症する例が多く、障害とは行かずとも特に顕示欲や承認欲求が顕著に強い個体が見て取れます。<br /> メイは他者承認、下位承認欲求が異常に強く、結果性に依存して他者に認めて貰おう、必要としてもらおうと考えるに至ったと思われます。<br /> 遺伝子複製体の数割は自分が『何者であるのか』と深く考えストレスを抱える事例が有り、自分が複製体であるかどうか、その真実を知らずとも悩む兆候にあります。<br /> 七星としてもこの解決は命題であり、現存姉妹120人中100人は何かしらを患っているようですが、彼女達が個人になる日が来ない限りは付きまとうでしょう。<br /><br /> 爛れても腐っても複製体は複製体。七星も積極的に彼女を処理するような真似はせず、好きにしろ、という態度でいます。きっとずっと自由でしょう。<br /><br />【七星特殊性脳科学研究所基準 他者感応干渉(万能型) ESP強度C++】<br /> 限りなくBに近い何か。何かに特化するでなく、本当にある程度の事は出来るけど強い干渉は出来ない、という器用貧乏感が否めない能力値です。他人との間に違和感なく介入し、情報を得るにはもってこいのものです。この能力は七星二子のESPを解析して作りあげたESPデータを脳内に埋め込む事で発動しているもので、この技術を用いれば誰でも超能力を行使可能です。ただ、人によって強さ、制御の有無は異なるらしく、本来ESP強度Aの二子のESPも、メイに乗せると下がる様子。<br /><br /> 休日はこの能力で、可愛い男の子女の子を見繕っては影に連れ込む、という事をしているとかしていないとか。彼女は自由です。<br /><br /><br /> ・兼谷(兼谷恵)<br /> ・誕生日 不明<br /> ・身長172cm<br /> ・体重 50kg<br /> ・B84 W 56 H 79<br /> ・趣味 映画鑑賞、服飾<br /> ・特技 家事全般<br /> ・好きな食べ物 筑前煮<br /> ・嫌いな食べ物 命令があれば何でも食べます<br /><br /> 利根河恵の遺伝子複製体。プロジェクト撫子以前の次世代記録媒体第一世代。<br /><br /> 市子二子について全権を任された執行者。戸籍は存在せず(作ろうと思えばいくらでも作れるが、必要性がなかった為)、容姿も利根河恵とは違い西洋人風に整形されています。<br /> 一郎の要求に応えられるように、肉体は殆ど改造済みで、身体能力は格闘技を長年たしなんだ成人男性を優に超えます。<br /><br /> 遺伝子複製体として産まれた彼女は、直ぐに最初期の記録媒体を埋め込まれ、利根河恵が辿った人生を改めて辿らされました。全ての準備を済ませて挑んだ市子とは違い、途中経過においては撫子の復活以上に困難を極めました。<br /><br /> 七星内で進歩した異例の技術によって、完全に調整が済まされている為、一郎も頷く程に利根河恵に迫っています。対杜花戦においては、かなり積極的な性格を露わにしていますが、本来はもっと大人しく、夫を支える貞淑な妻としてあります。<br /> また、失敗作の烙印を押された恵の複製体は殆どが七星のメイドとして働いており、その統率も任されています。<br /><br /> 全ては七星一郎の為、全ては愛する夫と娘の為。その記憶が作られたものであったとしても、兼谷は一切疑いませんし、真心から一郎を信じています。ただ、その結果齎された悲劇については、また考える所がある様子です。(サイドストーリーにて、そのあたりは)<br /><br />【七星特殊性脳科学研究所基準 他者感応干渉(万能型思考介入特化) ESP強度B++】<br /> これもESPデータですので、劣化版二子ですが、兼谷の場合相手の思考を読みとり、改竄し、戦闘において相手の意識をすり潰すような用い方をします。全ては市子二子をサポートする為の能力です。<br /> 二子には及ばないものの、その操作は二子を凌ぐもので、範囲は少ないものの、一個人においては絶大な威力を発揮します。<br /> もし杜花に耐性がなかった場合、間違いなく兼谷の思い通りにされました。<br /><br /><br /> ・三ノ宮風子<br /> ・誕生日 10月1日<br /> ・身長155cm<br /> ・体重 45kg<br /> ・B80 W 52 H 81<br /> ・趣味 運動<br /> ・特技 打撃連携からの奇襲タックル<br /> ・好きな食べ物 鰻、鱸、鮪、鯵<br /> ・嫌いな食べ物 細魚<br /><br /> 一般人。狂人達の中で一番まともな人間。大体市子の所為で割食った人。<br /><br /> 杜花は三ノ宮の娘さんを引きつけるフェロモンでも出しているのか、確実に火乃子以上に杜花へ御執心だった風子です。容姿は火乃子そっくりですが、笑顔がパッシブで、行動はアクティブで、強く健康的な女性をうらやむ現代女性の鏡のような人。<br /><br /> 総合格闘技でも東北地区三位の実力で、特に下半身は特筆するべき強さがあり、風子に対してタックル等は自滅行為に他なりません。<br /><br /> 現代女性の鏡のような彼女はバイセクシャルで、自分より強くカッコイイ人は男も女も好きです。<br /> その中でもやはり突出していた欅澤杜花は、中等部時代から目をつけており、高等部に上がると同時に声をかけました。目的もなく鍛錬だけを続ける杜花に指標を与えた人物であり、仮初にも杜花に客観的な自信を与えた張本人です。潜在的にマゾヒストなので、サディストの杜花が気になって仕方が無かったのかもしれません。<br /><br /> 三ノ宮に関しては全て火乃子に任せる気でいる為、観神山卒業後は東京の国立大学に通いながらブラブラとする予定でいます。ただやはり杜花は忘れられないらしく、一世一代の暴挙に出ました。<br /><br /> 欅澤杜花に人間を実感させてくれた人物であり、その役割は早紀絵にも劣りません。早紀絵との違いといえば、早紀絵以上に市子を恐れていた事でしょう。三ノ宮のトラウマとも言うべき七星ですから、幼少のころからアイツラどんだけ畜生なんだと教えられていた筈です。<br /><br /> 彼女は七星のシナリオに一切触れる事もありませんでしたが、杜花に影響を与えたという意味では、間接的に計画破綻を招かせた人物であることは間違いなさそうです。<br /><br /><br /> ・鷹無綾音<br /><br /> 杜花達の上級生。<br /><br /> 生い立ちから戸籍まで全部偽造。ESP強度Sクラス(恐らく自然干渉系)の判別不能な能力を持ち、七星もどこかの組織のスパイであると把握しながらも、手出しを躊躇いました。感応干渉も弾いてしまうらしく、思考が読めないと兼谷から報告を受けた一郎も、邪魔をしない限りは接触不要と推薦。<br /> 学院改竄時も、完全に自意識を保っていた模様。<br /><br /> 唯一解っている事は、猫が好きだと言う事ぐらいです。(その辺りはサイドストーリーにでも)<br /><br /><br /><br /><br /> おまけ<br /><br /><br /> ・利根河撫子<br /> ・身長165cm<br /> ・体重 45kg<br /> ・B85 W 53 H 86<br /> ・趣味 ト本集め、お菓子作り、花弄り<br /> ・特技 大体何でも出来る<br /> ・好きな食べ物 鰯の梅煮<br /> ・嫌いな食べ物 牛肉<br /><br /> 愛すべき大いなる一。現七星の夢。杜花達の希望と絶望の体現。<br /><br /> 旧七星の娘である恵と、一般家庭の真の間に生まれた長女。<br /> 家族関係は非常に良好で、理想とすべき中流家庭の見本のような家庭でした。<br /> 恵は七星とはいえ、七星大躍進前ですので、今ほどは恐れられていませんでしたが、それでも大きな財閥の娘です。しかし恵はあまり七星に頼らず、普通の家庭に入る事を決意し、研究所で働いていた利根河真と普通の恋愛をして結ばれます。<br /> 妻は貞淑で心優しく、夫は仕事に熱心で家族愛にあふれ、娘は誰よりも美しく育ちました。<br /><br /> 事件当時、真は研究所に缶詰、恵は事件の知らせを受けていましたが真に連絡が取れずにいました。常日頃から自分よりも娘を案じるように言われていた恵は研究所に向かうより先に観神山女学院へと急行、後に連絡を受けた真が向かいました。<br /> 何時になったら娘たちが助けられるのか、という両親たちからの圧力(当時政治家や警察幹部の娘も人質にいた模様)から、警察部隊が突入、テロリスト数名を殺害するも、校内に仕掛けられた設置トラップや大火力の火器に押し返され一時撤退。不用意な刺激によってテロリスト達が反感を抱き、人質を殺すのではないかと懸念される最中、リモコンカメラが映しだした校内の映像は、異常なものでした。<br /><br /> テロリスト達が次々と倒れはじめ、中では狂乱し同士討ちまで始める始末。生徒複数人は頭に異常を訴え、校門近くで控えていた警察官数名が意識不明の重体に陥ります。<br /> 校内で何事が起こっているのか、判断しきれないまま時間が流れ、自衛隊特殊部隊が参上、即座にテロリストの掃討が行われました。<br /><br /> 生徒死者6名。重傷者20名。<br /> テロリストに関しては20名中5名が射殺、3名が欅澤花に殺害され、12名逮捕とありますが、大半が精神崩壊しており、死んだ方がマシであるような状況でした。<br /><br /> 三島達が閲覧できる情報もかなり検閲されている為、実際の内情を知る人間はほとんどいないのが実情です。<br /><br /> 撫子は驚くほど才覚があり、旧七星本家からも目をつけられていました。また大聖寺誉という地方の豪農の娘と懇意であった事から、いずれは非公式にも夫婦(婦々)として七星本家に招かれる予定がありました。<br /> 初代一郎から続く能力至上主義で、二人の子供は養子でも構わないだろう、というのが七星であるのは、当時から変わらない様子です。<br /> 当然撫子も誉は好ましく思っていましたが、その気持ちの大半は欅澤花へと向いていました。誉も花もそれは察していたらしく、そこに花を慕う組岡きさらまで加わり、かなり複雑な人間関係であった事が窺い知れます。<br /><br /> 事件前に行われた宝探しは、そういった関係不和の是正の為に行われた様子ですが、結局鍵は見つからず、撫子も助言のないまま曖昧に終わりを告げます。<br /> 撫子もこのままでは不味いと思ったのか、新しい妹達を迎えたお茶会を予定していましたが、その当日に占拠事件が発生、全ての関係は有耶無耶になり、皆が非業の死を遂げる結果となりました。<br /><br />【七星特殊性脳科学研究所基準 他者感応干渉(万能型) ESP強度B-(大覚醒時S++以上、千里眼A+相当も発動)】<br /> 人の考えている事が手に取るように解る。能力の鍛錬をしていた訳ではないので、実際はもっと劣る数値であったと考えられます。所謂フィクションにおける読心能力者の劣化版のようなもので、効果範囲も狭いものでした。ただ、本人も人を死に至らしめる力だと把握している所から、C++以上と判断。<br /> しかし死の間際、恐らくA+相当の千里眼を発動、そこにS++相当とされる他者感応干渉を乗せて反映するという、複合能力者でも長い鍛錬を必要とする能力が覚醒、校内を闊歩していたテロリスト等の神経回路を焼き切り、狂乱せしめたものだと思われます。<br /> また、同時期に己の心象を学院内に反映してしまい、映像フィルムのように能力の残滓が過去の映像を映しだし、学院の怪談話の元となる結果になりました。<br /> 特に思い入れのあった小庭園にいたっては、踏み込むと常に幻視が齎されるような状況で残った様子です。七星もこれを把握し、庭園の維持に努めようと努力はした様子ですが、草刈り程度が限界で、それ以上の滞在は例え同系統能力者の反発力をもってしても抑えきれないものだったらしく、庭園の完全維持は叶いませんでした。<br /><br /><br /><br /><br /> そのほか<br /><br /><br /> サブキャラのあれこれも頭にはあるんですが出力してるとまた長い事になりそうなので、それはまた別にでも。<br /><br /> 心象楽園/School Loreは本来、もう少し小さな構想の下にありました。杜花は引っ込み思案で、二子相当のキャラはドSで杜花弄りに精を出す変態で、登場キャラも五人程度の、文庫一冊分を想定していたのですが、折角書くならもう、取り敢えず好きなもの詰めて好きな事やろうという考えに至り、ここまでやってきてしまいました。<br /><br /> 元から百合好きで、東方の同人などでもアレなものばかり書いていましたが、いざオリジナルだとどうだろう、と思い立ったのがきっかけです。趣味で小説は続けているけれど発表しないのも寂しいというのは、まあおそらく何かしら作る事をしている人ならば考えるかもしれません。<br /> 幸いどこにでも人の目につく場所に作品を置ける時代になりましたので、十年前オリジナルをブログにおいて、読者数0という衝撃を味わって以来忌避していたのですが、良い時代になりましたね。<br /><br /> で、百合、というものですが。<br /><br /> ニッチといえばニッチで、しかし歴史は長い事ありますね。漫画も専門誌となるとあまり振るわず、休刊も多い様子です。<br /> BLに比べるとGLは規模が小さく、正しく秘密の花園の様相ですが、それだとやっぱり数が少なく、探して読もうと思っても手に入り難い、読みたいものがない、という選択肢の少なさが否めません。<br /> 特に小説ともなると、百合姫などで連載していたものや、元からほそぼそと女性向けに存在するレーベルにまで踏み込んで探す必要があるので、百合男子とは言いませんが、ヘテロを好んでいた人がレズモノを読もうと思った場合、かなり遠出する結果になるように思います。<br /><br /> いろいろとあまり突っ込むと商業的なアレとかになってしまうので大変ですけれど、逆に言えばまだまだ開拓する場所があり、目にとめてもらう機会もあると考えられます。<br /> 最近のアニメは漫画などでも、少女しか登場しないものが多く有り、女性同士の友情やほの明るい恋愛感情を主軸としたものが大ヒットしている状況をみると、はやり問題は入口なんだろうか、などと思います。<br /><br /> で、本作品が何か、と言われるとまた少し困るのですが、当方としては百合伝奇、という位置づけにしてあります。(たまにあるレズと百合の議論は頭にないです)<br /> 少々ハードな世界観になってしまい、主人公もとても感情移入出来るようなキャラではないので、ニッチの中でも面倒くさい類の話だとは理解しているのですが、やり方如何ではこんなものもあるのだなあ、という漠然とした認識で読んでいただけたら幸いです。<br /><br /> 一先ず完結した心象楽園ですが、サイドストーリーを二本執筆中です。<br /> またこれを機会に百合小説ブログとして続けて行きたいと考えておりまして、オリジナルの短編を一本執筆中、読み切り連載を一本構想中です。<br /><br /> 今後出来れば同人誌になどして見たいのですけれど、他の活動もあるし日々の生活もあるので、まあ無理をしない程度に続けて行ければと考えています。<br /><br /> 心象楽園公開にあたり、協力してくださった方、応援してくださった方、有難うございました。感想、ご意見などありましたら、コメント欄、ツイッター等にお願いします。<br /><br /><br /> 心象楽園/School Lore<br /><br /> 原作 俄雨<br /><br /><br /> 査読、推敲協力<br /><br /> 蝙蝠外套氏(残酷綿棒 http://blog.goo.ne.jp/trigger_off)<br /> 凡用人型兵器氏(妄想エリクシル http://28.pro.tok2.com/~bonyoh/)<br /> かたばみ氏</span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-84047637326863315972013-05-03T20:00:00.000+09:002014-10-03T22:55:01.501+09:00心象楽園/School Lore エピローグ<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<br />
<span style="line-height: 27px;"> 心象楽園/schoollore エピローグ 幻華庭園<br /><br /><br /><br /> 許可を得て持ち込んだタブレット端末を弄りながら、放課後の学院内を歩き回る。<br /> 通り過ぎる生徒達の表情は、何処となく明るく見えた。そうだ、笑っていられる方が良い。<br />「あ、あの!」<br />「はい?」<br /> 中央広場に向かって歩いている所を、一人の生徒に呼びとめられる。長い黒髪に大人しそうな顔付き、声も少し抑えめだが、精一杯振り絞って呼びとめた、という印象がある。少し離れた所では、この生徒の友人であろう生徒が二人、此方を見守っている。<br /> いつものだろう。杜花は感じの良い笑みを浮かべてから頭を切り替え、その生徒と向き合う。<br />「こ、高等部一年、宮坂道子といいます! と、突然お呼び止めして、も、申し訳ありません」<br />「大丈夫よ、そう気を張らないで。とって食べたりしないから」<br />「は、はひ。あの。わ、私その……け、欅澤、杜花御姉様を、お、おお、お慕いして、おりまして」<br />「ええ」<br />「そ、それで! その、わ、私を……杜花御姉様の、い、妹……妹に、してください!」<br /> 言った! と後ろの二人が盛り上がる。杜花としては、一週間に三度はある出来事なので、残念ながら相手程緊張はしてあげられないが、その心中を察する。<br />「編入組ね。あまり見ない顔だから。道子というの。素敵な名前」<br />「は、はい。ありがとう、ございます……」<br />「本当なら、私を慕ってくれる人、皆の希望を叶えてあげたいのだけれど、その調子で行くと……学院生徒全部、私の妹になってしまうわ?」<br />「杜花御姉様は、その、とても魅力的でいらっしゃって……わた、わたし……」<br /> 道子が涙ぐむ。渾身の告白がやんわりと断られたのだ、打たれ弱いお嬢様が被る精神的ダメージは相当のものだろう。しかしそこは欅澤杜花である。<br />「聞いて、道子」<br /> まず親しげに接してあげる。泣いているようなら顔をあげさせ、杜花の目を見せる。<br />「はい……」<br /> 意気消沈する生徒の手を取り、優しく微笑みかける。<br />「私は、道子の事を何も知らないわ。姉妹は、家族なの」<br /> 相手が納得出来るよう、相手が何を間違ったのか、何故妹に出来ないのか、その理由を述べる。<br />「家族……」<br />「そう。この閉鎖された場所で、仲良く楽しく暮らして行く為の家族。私は道子の事を何も知らないから、何も施してあげられないわ。解るかしら」<br />「はい……いきなり、ごめんなさい。ご迷惑……でしたね」<br />「いいえ。道子の気持ちはとっても嬉しいわ。こんな私に、貴女が尊敬出来るだけの何かを、見出してくれたのよね? 私は幸せ者だわ」<br />「あっ――」<br />「まず、お話しましょう。お友達からで良いかしら。私の事を知って、私が道子の事を知って、それでもお互い、家族になれると、そう思えるようになったら……きっと、ずっと仲良く出来るわ」<br />「じゃ、じゃあ。わ、わたし、杜花……さんに、杜花さんに、親しげに、御声をかけても、良いでしょうか?」<br />「ええ勿論。他の妹達を気にする必要もないわ。これから宜しくね、道子」<br />「あは――はい、あ、有難う存じます……」<br /> 後ろの二人に微笑みかける。二人は杜花を見て、恐縮したように頭を下げた。この道子という子は杜花を尊敬のまなざしで観ていながら、踏ん切りがつかなかった所を、二人が背を押したのだろう。<br />「本当なら、もう少しお話したいのだけれど……今日は、少し用事があるの。本当にごめんなさいね。お茶会がある日は、必ず声をかけるわ。一杯お話しましょう?」<br />「はい! 失礼しました!」<br /> 嬉しそうに、まるで華が咲いたような笑顔で道子が礼を言い、二人の下へと戻り、肩を抱き合っている。<br /> なんだか初々しい光景だ。杜花は……そんな光景を柄にも無く、心温まる気持ちで見守る。<br />「やあ、欅澤さん」<br /> 過去ならば『らしからぬ』だが、今となってはそうでもない。そんな想いにふけっていると、いつもの声が聞こえた。<br /> ふと視線を向けると、彼女が手を振っているのが観えた。<br />「やってるねえ。前より格段に増えたね?」<br />「ええ。隊長さん。ごきげんよう」<br />「ごきげんよ。ん。その端末は?」<br />「許可を得ているものですから、ご心配なさらず」<br />「どれ……あ、ほんとだ、登録されてる。しかしこうして見ると、珍しいな。学院は電子機器ないし、凄い違和感だ」<br />「必要に迫られたので。隊長さんは警ら中ですか」<br />「そうさ。全く何事もないね、ここは。それが平和でいいんだけどさ。甘酸っぱい青春とか目撃出来るしねえ」<br /> ベリーショートの頭を掻きながら、三島二等軍曹はカカと笑う。<br />「最近は姉妹も増えてしまって。ところで、どうしました?」<br />「いやね。最近立ち合ってないからさ。格闘技は卒業かい?」<br />「色々ありまして、人を殴れる拳ではなくなったんです。鍛錬は続けていますよ。これでも、欅澤神道無心流皆伝ですので」<br />「そっか……。ま、ストレス溜まったら声かけてよ」<br />「ええ……でも、隊長さんは確か」<br />「ああ。三か月後だね。また大陸さ。枠に空きが出来たんだ。それが聞いてよ、たたき上げなのに特例昇格だってさ。准尉だってよ。少尉でもないのに小隊長任された。まさか将校様になれるとはねえ。有り得ない人事だが……ま、過去の戦績評価ってこって」<br />「死なないでくださいね」<br />「死なないさ。死ねないよ。それに、ドンパチじゃないんだ。小競り合いはあるだろうが、治安維持でね。一年やったら、また戻ってくる。その頃に君はいないだろうが、まあなんだ、少し寂しいな」<br /> そういって、彼女は恥ずかしそうにする。なんだかんだと、男勝りだが女性は女性なのだろう。そんな姿が何だかおかしく、杜花は口に手を当てて笑う。<br />「これ、連絡先です。帰ってきたら、是非、お茶でもしましょう」<br />「あらら。参ったね、行く前に約束すると死にやすいんだよ」<br />「死にませんよ」<br />「そうかな」<br />「ええ。絶対」<br />「――なあ、欅澤さんや」<br />「はい」<br />「陰毛一本貰える? 昔からのジンクスでね、弾よけになるんだ」<br />「生憎、処女じゃないんです」<br />「なんだ知ってたか。くっ――たははっ! そうかいそうかい!」<br />「隊長さん」<br />「なんだい」<br />「――いいえ。では、また」<br />「ああ、またな!」<br /> 豪快に笑い、彼女はまた警らに戻る。<br /> ……面白い人だと、また彼女の笑顔が拝める事に、杜花は安心する。彼女に何も無くて良かったと、戻って来た三島を見て安堵したのは記憶に新しい。<br /> 彼女の大陸入りは、恐らく七星の計らいだろう。そして彼女は余程の事が無い限り、死なない。七星が迷惑をかけた人間だ。七星はそのような人物を、捨て置いたりはしない。<br /> 死なないだろうが、しかし、彼女の復讐劇は、死ぬまで続くのだろう。<br />「さて、と。次」<br /> 端末を弄りながら、予測される時間の通りに動いて行く。次は生徒会活動棟裏だ。<br />「ここが本命……うわ、古い」<br /> 普段、殆ど人が通らない場所である。生徒会活動棟の裏側で、殆ど雑木林のような所にポツンと一つ、目立たぬように倉庫があるのだ。<br /> あらかじめ借りていた鍵で扉を開け放つと、大量の埃が舞い上がった。<br /> 口元を覆い、手で払いながら中に入ると、四十年前から取り残されてしまったような器具類、備品などが大量に積まれているのが解る。<br /> 電気は通っている筈だ。しかしスイッチを入れても明りは灯らない。<br /> 目を凝らして棚を見上げると、丁度備品の白熱球が見つかる。使えるかどうか怪しんだが、テキパキと付け替えてみると、あっさりと明りが灯る。<br /> しばらく倉庫の中にいると、ぞわりと背筋が震えた。<br /> 倉庫の一番端、目立たない所に、その残滓は居る。<br />『……無事でいて……無事でいて……お願い、お願い……』<br /> 目を凝らす。ボケていた輪郭がはっきりとし、それが欅澤花であると解った。<br />「……いつまで居る気ですか。何年そこに居る気ですか。終わってしまっているのに。二度も」<br />『――撫子、誉、きさら……私――私……』<br /> しばらくそのように呟き、彼女は何かに気が付いたように目を見開くと、そっと出口まで寄り、そこから出て行った。恐らく、救出に来た自衛隊の幻影でも見えていたのだろう。<br /> 鞄の中からお祓いした塩と御札を取り出す。生きている人間、しかも自分の祖母の残滓を供養しようというのだから、滑稽極まり無い。<br /> しかも、大して効果も上がらないというのだから、やっていて憂鬱な気分になる。<br />「これでー……大体終わり、ですかね」<br /> 杜花は取り出したチェックリストの最後の欄を埋め、端末を静かに閉じる。<br /> 誠心誠意心をこめて、というのは難しい。<br /> 純粋な気持ちで供養するにも、欅澤杜花は関わりすぎていた。<br /> あの一件から約一か月半。<br /> 二週間後には入学式と始業式を控えている。<br /> 驚くほど、何もかもが片付き、何一つ、大きな影響は無かった。以来兼谷とも顔を合わせて居ない。七星はダンマリを決め込み、杜花にアクションがかかる事もなかった。<br /> 旧校舎での出来事は綺麗に隠ぺいされた。<br /> それこそ、当時旧校舎で何があったのか知る人物など、杜花周辺のみである。<br /> 恐らく兼谷があの後学院内に潜伏している七星の人間を使い、後片づけしたのだろう。<br /> 改竄機構は市子撫子データ損失と共に即時停止。<br /> 旧校舎の損壊や被害者、血痕どころか髪の毛一本に至るまで、全てが綺麗に取り払われ、改竄機構のマザーコンプが置かれていたと思われる部屋に至っては、ご丁寧に埃まで塗して原状復帰させていた。<br /> 改竄機構の残した爪痕といえば、矛盾である。<br /> 暫くは市子の姿を見た、市子が居たという噂が大変多く聞かれたが、改竄前に丸ごと戻っている為、所謂影の噂と同一視されている。装置を用いて兼谷のESPデータから『そのように処置』したのかもしれない。自然と記憶から無くなるように仕向けられている可能性もあるだろうが……もう終わった事だ。<br /> 兎に角、事件に関連して、学院に齎された変化はない。あるとすれば、杜花周辺ぐらいなものである。<br />「――あ、ダメだ」<br /> 塩を巻いて御札を張った場所に、また花の残滓が収まる。<br /> 腕から出血し、膝を抱える姿が物悲しげだ。<br /> 花の場合は生霊、とでもいうか。生徒会活動棟の黒い影然り、学院各種に散らばる影を、なんとか鎮められないかと考えていたが、十件中十件、全て失敗に終わった。<br /> 霊は見えてもオカルト主義者ではない杜花だが、『こういったもの』を鎮めるのはやはり、悔いを取り除いてやる必要があるのではないかと考える。<br /> 撫子達の場合、悔いが多すぎて、どこに手をつけて良いやら解らない。唯一、散らばった彼女達の残滓が纏まって供養出来そうな場所はあるが、杜花はそこへ足を踏み入れる事を躊躇っていた。<br /> どこか成功すれば、と僅かな期待を抱いていたが、こうなっては赴く他なさそうだ。<br />「庭園、かなあ」<br /> サマーセーターに引っかかった埃を払い、頭に乗った塵を摘まむ。<br /> 髪はだいぶと短くした。<br /> 三島に持って行かれた所為もあるが、機能性は良い。少し長いボブカットと言ったところだが、ここまで短くしたのは、産まれて初めてである。<br /> 流石に切りすぎると、親しい人から文句が上がる上、身長がある為に男らしくなってしまう。出来る事なら乙女で居たい。<br /> 変化といえば。そうだ。<br /> 杜花は妹を取るようになった。<br /> 態度を改め、後輩達への接し方を変え、髪型も変えた所為か、杜花はますます声がかかるようになり、杜花の知らない所でライバルが出来、知らない所で衝突が起こりと、まずにぎやかになった。<br /> リスク管理という名の関係調整も、杜花はもうしていない。<br /> 元から面倒であったし、多少問題が起きている方が楽しいのではないかと、杜花は最終学年にして、面白味を見つけ始めている。<br /> 元市子の妹数人を含め、三十五人。欅澤派は学院最大の派閥である。<br /> ……皆、杜花を慕ってくれる子達だ。<br /> 彼女達は、欅澤杜花がどれほど酷い人間なのかは、当然知らないだろう。<br /> たった一人の女性を追い求めて、挙句の果てに心中を図り、その母に重傷を負わせ、データとはいえ人と分類出来得るものを、二人も殺し、自らに恋する人を、自殺に追いやったのだ。<br /> 知らない方が良い。<br /> 知る意味もない。<br /> 妹達に囲まれる欅澤杜花は、学院の代表であり、学院の華だ。<br /> 彼女達は欅澤杜花の、その容姿に、その肉体に、その所作に、言葉に、声に、その上辺だけの精神性に、憧れを抱いていれば、それで良い。<br /> 以前の杜花はそれが偽物だと思っていた。上辺だけの好き嫌いなど、この世で最も底辺の抱く思想であるとまで、思っていたのかもしれない。<br /> だが今は違う。そんなものも必要なのだと、繕うからこそ、その中から本物を見つける事が出来るのだと、解るようになった。<br /> 杜花は……人間になるまで、十七年もかかったのだ。これから学ぶことも多い。<br />「あ。アリス。お仕事は?」<br /> 生徒会活動棟の裏から抜け出て、入口付近に差し掛かったところで、とても目立つ金髪を見つける。天原アリスは杜花を認めると、それまで隣で話していた金城五月を他所に、満面の笑みを湛えて近寄ってくる。<br />「杜花様、おつかれさま。いつものですわね」<br />「ええ。裏手にお婆様が居ました」<br />「ダメでしたか」<br />「ダメでしたよ」<br />「今日はもうおしまいですの?」<br />「いえ。これから庭園を見に行こうと思って」<br />「あ、ではついて行きますわ。五月、先に戻っていて」<br />「――はい。おつかれさまです、会長」<br /> 五月が丁寧に頭を下げ、一瞬だけ此方を見てから、去って行く。タイミングが悪かったか。<br /> アリスが自覚しているか否かは別にして、金城五月は平静を装っていても、アリスを気にしているのが丸解りだ。<br /> それもそうだろう。時間だけなら付き合いは杜花より長いのだ。<br /> 五月も、杜花がアリスだけ見ているならば納得したかもしれないが、残念ながら杜花の人間関係は、周りの人間がとやかく言えるものでも、単純なもので構成されている訳でもない。それを気にしているのだろう。<br />「五月さんは良いんですか」<br />「はて?」<br />「そうなんですよねえ。これですもんねえ」<br />「あ、ああ。なるほど。杜花様の爛れた人間関係ですわね? あ、五月がお好み?」<br />「え? あいや、五月さん可愛らしいですけど、私のこと嫌いみたいですし」<br />「嫌いな訳ありませんわ。五月も杜花様の恋人になれば良いのに」<br />「あのですねえ」<br />「えへへ。囲い込みですわ、囲い込み」<br /> アリスは……杜花を、極端に心配している。<br /> あれだけの事があったのだ、警戒されて当然ともいえるが、アリス自身のアピールは勿論、アリスの杜花演出は拍車がかかり、挙句の果てに『ハーレムでも作れば良いんですのよ』と言い出し、挙句実行する始末である。<br />「杜花様が寂しくならないように、わたくし、全力バックアップですのよ。流石に十人二十人に死なないでとせがまれれば、幾らお馬鹿な杜花様でも死なないでしょう?」<br />「まあ、でも解りませんよ。私クズですし。あんまり広げるとほら、理解の難しい関係ですし、後ろから刺されますよ」<br />「杜花様は死にませんわよ。英雄は色を好むし、恋人なんて掃いて捨てる程いて丁度ですわよ」<br />「なんだろう、女性として反論したいのに反論出来る立場にいませんね私」<br />「存分にクズっぷりを披露してくださいな。私、それでも付いて行きますわ」<br />「ダメな子ですねえ」<br />「良いんですのよ。愛人三号はそのくらいの根気が必要ですわ」<br /> もう、死ぬ気なんて無い。<br /> 杜花が幾ら言おうとも、アリスは信じてくれはしない。全ては自分の責任だ。必死に杜花を想ってくれる彼女に自分が出来る事といえば、死なない事であり、アリスに甘える事ぐらいである。彼女の平静と安寧を、たったそれだけで守れるならば、彼女の行いを否定する意味もない。<br />「アリス」<br />「んあ、おでこにキスは、頬より恥ずかしいですわ……」<br />「行きましょ」<br />「はいな」<br /> 照れるアリスが可愛らしい。そしてそれが心に突き刺さる。これは楔だ。<br /> 一歩間違えば、この子も早紀絵のようになっていたのだ。<br /> もう彼女の好意を、無視などしない。<br /> 欅澤杜花は人間になり、責任が発生し、責任を取る義務があるのだ。そして、今までに無かった、実感がある。<br />「……」<br />「どうしましたの?」<br />「……実感が、湧くようになったんです。市子以外の子に、好かれているって、実感」<br />「良い事ですわ。じゃあ実感ついでにもう一度キスしてくださいまし」<br />「じゃあ、何回でも」<br />「な、何回もされると困りますわよ」<br />「……何故? アリスは、何が困るのかしら?」<br /> わざとらしく口調を変え、歩きながら、アリスの手を取り、小指を絡める。<br /> ああ、しかし根本的な部分で自分は変わっていないのだなと、ある意味安心する。可愛らしい彼女が恥ずかしそうに悶える姿を見ていると、心が満ちて行くようだ。<br />「え……えっちな、気分になりますもの」<br /> 白萩の裏を通り、小路を抜けた所で立ち止まる。まず人の来ない場所だ。元からここに来る予定であるのだから、通って当然の道なのだが、アリスは人気が無い事を余計に気にしているのだろう。<br /> 爛れているなと自覚し、しかし――自分はそんな人間なのだと、諦めもある。<br />「アリス」<br />「あ、も、杜花様」<br />「二人の時は杜花でしょう?」<br />「杜花。唇が、恋しいんですの。慰めて、くださいます?」<br />「ええ、勿論」<br />「えへへ……愛してますわ、杜花」<br /> いじらしい。愛らしい。<br /> 欲深い欅澤杜花の一部が、間違いなく彼女で出来ているのだと自覚出来る。<br /> 背に手を回して抱きしめ、間近にアリスを見下ろす。彼女は目を瞑り、小さく唇を突き出す。<br /> キスをしようとして顔を近づける。しかし、ふと止まった。<br /> アリスごしに見える小路の先には、杜花達が見続けた小庭園がある。丁度その出口、光の加減で誰かは解らないが、髪の長い少女のシルエットが見て取れた。<br /> 恐らく彼女だろう。目を逸らし、アリスにキスをする。<br />「何か、見えましたの?」<br />「この学院にいる限りは、彼女の幻影を見続ける事になるんでしょうか」<br /> 二子が『市子撫子データ』に宿ったものを『説明できない何か』と呼んでいた。<br /> データを魂だと捉える七星とて想定していない何かを、知らぬままに運用しているのだ。<br /> 技術が幾ら発展しても、理解不能な現象は多々ある。<br /> 科学は『こうするからこうなる』という事象を発見はすれど、それが『どうしてそうなるのか』が解らないまま使われる技術は思いの外多い。<br /> 市子撫子データに宿ったデータ外の何か。数値化出来ない『何か』こそが恐らく、本当に魂と呼ばれるものではなかったのかと、杜花は今になって良く考える。<br /> 杜花が時折『観て』しまうもの、学院に漂い続ける残留思念、そういったものも、恐らくはその類だ。<br /> アリスの手を引き、小路を先に進む。<br /> やがて開けた場所に出た。杜花達が抱く原風景……には程遠い、荒れ果てた庭園がそこにはある。<br /> これから本格的に春を迎えるであろう季節、明るい茶色の枯れた草花が辺り一面を覆い尽くし、その合間から新緑が芽を吹いている。<br /> 剪定されていた背の低い木は蔦が絡まり雑木林の一歩手前である。花壇と思しき場所も、ただの雑草畑だ。<br /> 庭園の真中には、確かにガゼボがある。<br /> だが、自分達の知る白く穢れない東屋では無く、木製で朽ちかけたものだ。廃墟的美しさならばまだしも、これではただの汚い裏庭だ。<br />「綺麗に見えてたものも、いざ現実で観てみると、酷いものですね」<br />「何故、今は感応干渉が、無いのかしら」<br />「維持していたのが、撫子の分霊(わけみたま)だったのでしょう」<br />「一柱の神様の魂を分けて、複数御祭するって奴ですわね」<br />「神とは言いませんけれど……いうなれば妖怪染みた力を持っていましたし。あ、私オカルト主義者じゃありませんよ?」<br />「あんな事を目の当たりにすると、超常的なものがあってもおかしくないと、思ってしまいますわ」<br />「維持する気が無くなったのか、する意味を失ったのか……」<br /> ガゼボの裏手に回る。そこには確かに、撫子達が残したであろう言葉が刻まれ、穴を掘った後が残っている。<br /> 櫟の鍵の、鍵としての機能はあまり意味は無かったのだ。<br /> 皆で探し、皆で予測し、皆で見つけて、鍵を開けるという、一連の流れを、撫子は欲したのだ。<br /> しかしそれは叶わず、そのままどうしてか、市子に受け継がれた。鍵が無ければ、こんな場所に至る事も無かっただろう。鍵は役目を果たし、中に入っていた手紙と共に、花に手渡してある。<br />「……」<br /> 傷だらけになって実家に戻った杜花を見て、花は絶句していた。<br /> 全てを説明した後に流した彼女の涙、こらえようのなかった慟哭は、今も杜花の耳に残っている。<br /> 彼女は……ただただ、杜花に謝っていた。<br /> 七星一郎の勧めで杜子を観神山医療センターに入院させた事。<br /> 出生前の遺伝子改良手術の事。<br /> 出生後の記憶を改良するメソッド=プログラムの事。脳改造手術の事。<br /> 孫を、自分の後悔のはけ口にした事。<br /> それらを全部、彼女は語った。<br /> 勿論、このようなものが引き起こされるとは、夢にも思っていなかっただろう。<br /> 一生許しはしない。だが、杜花も花を責める事は出来なかった。<br /> 彼女は今に至るまで、後悔に打ちひしがれ続けて来たのだ。<br /> 最愛の人々を一時に三人も失い、まともな精神では居られる訳がない。彼女は当時、縋れる人間を探していたのだ。<br /> そこに現れたのが、利根河真だ。肉体関係もあったという。<br /> その後全てを振り切るようにして、花は結婚し、次代を繋げる決意をした。<br />「そうだ」<br /> 呆けていた杜花の横で、アリスが何かを思いついたように手を叩き、懐からお守りを取り出す。見覚えのある生地で出来たそれは、ご利益が書いていない。<br />「以前花お婆さまに貰いましたの」<br /> そういって、アリスが今まで宝物が埋まっていた穴に、お守りを添えると、その上から土をかける。意味などないだろう。感傷的なものだ。ただ杜花は何も言わずそれを手伝い、埋め終えてから手を合わせる。<br /> もう二度と……このような事は。<br /> 繰り返したくない。<br /> 繰り返されて欲しくない。<br /> だが、七星一郎が妄執に取りつかれている限り、恐らくは……続くのではないのか。<br /> また何人もの『個人』ではない人間が、産まれるのではないのか。<br />「あっれえ? モリカ、アリス、何してんの? ってうわ、ここ汚いッ! 素だとこんななの!?」<br />「私も初めてみるわ。酷いわねこれ。一応草が刈られた痕があるのは、単に業者を入れてた所為ね」<br /> 小路から此方に向かい、歩いて来る影がある。杜花は小さく手を振った。<br />「サキ、ニコ、どうしてこんなところに」<br />「こっちの台詞よ。御姉様が見当たらないって、寮の子が探していたから、私達が探しに来たの」<br /> 小走りで近づいて来た二子を受け止める。<br /> 彼女は笑顔で、杜花を見上げていた。せがまれる前に抱きしめ、額にキスをする。<br />「あ、ニコずるい。モリカ、私も、私も」<br />「はいはい」<br /> 二子を押し潰すように抱きつく早紀絵にもキスをして、小さく微笑む。<br /> 欅澤派の『三華』そろい踏みだ。<br /> 聞こえは良いが、その関係性は己達の死生にも食い込むような、おぞましい人間関係である。<br /> 姉妹、などという小気味よいものではない。確実に、相互依存の運命共有者である。<br /> 二人の手を取り、ボロボロの東屋に腰かける。いつ朽ちるかと怪しいものだが、四人が座っても崩れない程度には頑丈なのだろう。<br /> 左隣に座る早紀絵を見る。彼女は可愛らしく『なあに?』と小首を傾げる。<br /> 彼女は精神性を拗らせた杜花の特効薬であり、最後の砦だ。<br /> 中途半端な認識でしかなかった杜花の『自分』を、継続的に自覚させてくれる人物である。彼女の自殺未遂は、欅澤杜花という人物が何で構成されているか、最大級のインパクトで教えてくれた。<br /> もしあの時、少しでも遅れていたのなら。また、違った未来があっただろう。<br /> そしてその未来は恐らく、継続する事無く打ち切られたに違いない。<br /> 早紀絵は自殺未遂の後、直ぐに意識を取り戻した。<br /> 首をねん挫して暫く療養及びカウンセリングが続いたものの、一か月で元気に、首にコルセットを巻いて戻って来た。<br /> 戻ってきて一番の言葉が『埋め合わせしてね』である。<br /> 療養で余程たまっていたのか……それから一週間、早紀絵は杜花を離さなかった。<br /> 欅澤杜花にして『もう限界』と漏らしたのは、それが初めてである。<br />「早紀絵の顔が面白かったのでしょう。御姉様、そんな淫売よりこっち見なさいな」<br />「口悪いなあ二子はぁ」<br /> 右隣に座る二子に袖を引かれる。<br /> 医療保健室に運び込まれた後、彼女は忽然と姿を消した。<br /> 暫くは連絡も取れず、どうなるものかと心配していたが、どうやら強烈なESP発動での脳の酷使と不正な手順でのデリートが原因で、意識はしっかりしていたものの、暫くは寝たきりであったという。<br /> あんな事を約束した手前だが、流石に彼女の脳をいじれる訳ではない、どこかに入院させるにしても、どうやっても七星の掌の上だ。<br /> 勿論奪還なども企てたが、二週間ほど連絡が無く、今度こそ七星一郎に直通電話をかけるか、とまで考え始めた頃、彼女はひょっこり顔を出した。<br /> 学院においては、改竄前の情報に丸ごと戻っている為、二子の存在自体はあまり問題視されていない。彼女自身も、以前の二子そのものだ。<br /> ただ、少し、いいや、かなり、甘えたがりになって戻って来た。<br /> どこへ行くにも付きまとい、とにかく杜花を中心とした生活がある。挙句杜花への呼称が『御姉様』に変化し、寮生達は目を剥いていた。<br />「御姉様、少し寒いわ。抱きしめて頂戴」<br />「上着を着なさい」<br />「御姉様がいるから、いらないわよ」<br />「もう」<br /> 猫のようにすり寄って来る二子に、満更でもない。<br /> いや、むしろ好ましすぎて、本当にいつ手をつけてやろうかと、悩むほどだ。<br /> 流石にまだ幼いし……とは思ったが、杜花と市子が初めてを失ったのは、中学一年生である。<br /> 市子が眼を覚ますまでの代替え品。<br /> その主軸足るもの。自分達を自分達と保つための依存関係だ。<br />「それにしても、ボロですわね」<br />「びっくりだよ。アレの影響があると、あんな綺麗に見えるのに」<br />「見せてみましょうか、お三方」<br />「……頼らない方が良いでしょう」<br />「そう? 御姉様が言うならやらないわ。んふふ」<br /> 二子の頭を撫でながら、当時の情景を思い起こす。<br /> 例え死が二人を別とうとも――<br /> ――ずっと一緒に居ましょう、と。<br /> 杜花は市子と出会ったその日に、そう約束した。<br /> この小庭園は、更にその前からずっと、姉妹達の精神支柱であっただろう。<br /> 事件から数カ月経ち、妹まで取るようになった杜花は、名実ともに市子の後継者だ。<br /> いつ目を覚ますかも解らない、もしかすればそのまま死してしまう可能性が高い庭園の主を待ち続ける杜花が、この庭園を荒れ果てさせたままで居て良いのか。<br />「整備しませんか。ここ」<br /> 学院内を彷徨う撫子達の残滓を弔う意味でも、それが一番なのではないだろうか。<br /> 感応干渉が消え失せたのも、この惨状を見せたかったのだと思えば、少しは納得が行く。<br /> 杜花だけでは事務的になってしまう。もっと感受性豊かで、遺伝子共有者でもある彼女達を加える事で、杜花も、この子達も、そして撫子達もまた、納得の行く方向に持って行ける、そのような気がするのだ。<br />「あら。それは良い案ですわね」<br />「おっけい。先生に根回しするよ。必要なものもあるでしょ」<br />「この東屋、ガゼボというにはかなり『東屋』なのよね。業者入れましょ。学院長に言っておくわ」<br />「では、妹達を集めますね。うん。それが良い。温かくなってきましたし、外でお茶会も、悪くない」<br /> どうやら、意見は一致するらしい。<br /> 四人で顔を合わせて、笑う。<br /> とかく自分達という人間は、立場こそありながら、纏まって何かをするような事は無かった。大体杜花の所為だが、全員が立場を改めた今ならば、そんな事も出来るだろう。<br />「頑張りましょう、ふふっ」<br /> なんだか――胸が熱くなる。自分はこんなにも幸せで良いのだろうかと、そう思うほどに。<br /><br /><br /><br /> <br /> アリスと一緒にプランを立て、早紀絵にはあちこちと走ってもらい、二子には権限外の権限を行使してもらう。一週間の清掃日程を構え、その間を妹達と生徒会の一部に協力してもらい、整備と草刈り。<br /> 庭園の専門的な整備には業者を入れた。<br /><br />『ニコ。いきなり業者さんを呼んでも、業者さん困りませんか』<br />『工費は全部領収書をウチで切って、少し包むよういってあるわ。お嬢様のお遊びに付き合うだけで、びっくりな収入が入るのだから、文句ないでしょう。作業は口頭で伝えるわ。アリスが』<br />『昔の庭園の全景図が出てきましたの。基礎はシンメトリのフォーマルガーデンですけれど、全部再現は叶わないでしょうから、此方の一部にイングリッシュを加えて、これを元に少しアレンジして……こんな感じで』<br />『作業道具は全部貸し出してくれるってさ。時間外の活動も許容。お堅い先生方も少し撫でたら可愛く頷いてくれたよ。あ、人手は断ったけど、良かったの?』<br />『妹達に回覧したところ、全員参加するそうです』<br />『え、川流院(せんりゅういん)のお嬢様も、五十鈴の長女も土弄りするの? そりゃすごいねえ』<br />『私はともかく、天原満田七星のお嬢様が土弄りなんて、まず考えられませんけど』<br /> 権威、人脈、資本、などというものを、とにかく集約したのが、自分達であると痛感する。<br /> ともかく出揃うものは出揃い、作業は直ぐに始まった。入学式、始業式前には全てを終える予定でいる。<br /> 林と林の真中にぽっかりと開いた空間だ、草を刈りこみ、植え込みを整えるだけで相当の労力を要する。<br /> 普段土弄りなどしないお嬢様方は相当に苦心したようだ。しかしそれで『疲れた』と言わせては御姉様としての資質が疑われる。<br /> 杜花のありったけの『御姉様力』とでもいうものを発揮し、とにかくモチベーション維持に努めた。<br /><br />『はあ……なんであたくしが草むしりなんて……庭師に任せればよいのに……』<br />『川流院さん、お疲れかしら?』<br />『も、杜花御姉様、えっと。これはですね?』<br />『いいの。繕わずとも解るわ。ごめんなさいね、こんな事を手伝わせてしまって』<br />『と、とんでもない。で、ですけれど、何故庭師を入れませんの? 専門的な分野はお任せしているようですけれど。不思議です。良家の子女が……。あちらで汗水流しているのは、あのアリス様ですし。遊んでいるようで率先して指示しているのは、早紀絵様でしょう? 極めつけは……七星の二子様。とても、土弄りをするようには』<br />『川流院さんは、中等部三年からの編入生よね。自己率先は、ここの基本なのよ。今月から、貴女も白萩でしょう。なら、少しなれておかないと、苦労するわ』<br />『この庭園は、白萩の備え付けですのよね。ともすると、今までは手入れがなかったんですのね?』<br />『……今後、妹達で当番化するの。ここはね、今は荒れ果てているけれど……本当は、綺麗な場所なのよ。アリスやサキ、ニコも、複雑な思い入れがあるの。妹達の、特別な場所』<br />『あっ』<br /> 一か月ほど前、新しく妹として迎えた、地方財閥川流院家のお嬢様だ。恐らく身の回りの事など、殆ど人任せだっただろう。<br /> 手袋を外して手を握ると、苦労も知らないような白い指が、作業で擦り切れ、紅くなっていた。杜花は躊躇わず、その傷口を口に運び、小さく吸う。<br /> 川流院は顔を真っ赤にして俯く。<br />『私達のワガママなの。良家の子女が、必死になってしまうような、理由がある。きっと良い庭園に生まれ変わるわ。あの子達も喜ぶ。貴女達新しい妹達にも、きっと気に入って貰える。可愛い貴女に手伝ってくれると、凄く、嬉しい』<br />『は、あ、は、はい……杜花御姉様……』<br /> とろん、と蕩けた顔をする川流院の髪を撫でつける。率先して妹に名乗り出た割には、こういった事に疎いようだ。初々しさが堪らなく、杜花の心をくすぐる。<br />『ふふっ。可愛らしい。貴女を妹に取って良かったわ』<br />『あ、あたくし、頑張りますわ』<br />『また、あとでね?』<br />『ひゃ、ひゃい……』<br /><br /> 杜花の思わせぶりな態度と、彼女達の褒めて貰いたいという欲求があいまってか、作業は順調に進む。<br /> 草刈りなどしていると、やがて前景が露わとなってくる。<br /> 白萩の裏から此方に続く小路を出た所から、真っ直ぐガゼボまで続く煉瓦敷きの道や、林の近くに打ち捨てられていた白いアーチ、その他園芸に用いただろう小物なども各種発見される。<br /><br />『おねえさま、おねえさまぁ』<br />『どうしたの、五十鈴さん』<br />『りんこと呼んでくださいな、おねえさま』<br />『燐子?』<br />『はあい。あのですね、こんなものを見つけたんです』<br />『板……? あ、ソーラーパネルかな……』<br />『こんなものも』<br />『……旧百円硬貨』<br />『こんなのもー』<br />『ティーカップ? 質がよさそう。りんこは色々見つけるのが得意ね?』<br />『あふふっ』<br /> 二か月前に加わった妹、五十鈴燐子は、小等部の三年生だ。<br /> とにかくことあるごとに御姉様への報告を欠かさない。妹達全員から妹扱いされる、まさしく妹の鑑である。<br /> そんな彼女が見つけて来るものは、本当に些細なものから、とんでもないものまで多岐に渡った。<br />『おねえさま』<br />『ええ、何を見つけたの、りんこ』<br />『これ、きらきらしてます』<br /> それは、おもちゃの宝石だ。<br /> ガラス製でひたすらに価値は無いが、杜花にとっては懐かしい代物である。<br />『これはどこにあったのかしら』<br />『あちらにー』<br />『ありがとう。りんこ。あとでご褒美ね』<br />『ほんとですか。やったあ』<br /> 屈託なく笑う燐子の頭を撫でる。よくもまあ残っていたものだ。<br /> ここは撫子達の庭であり、そして自分達の庭でもある。当時失くしたと思っていたものが、こんな形で見つかるとは思わなかった。<br /> 緑色のガラス宝石は、確か市子が持ってきたものだ。<br />『まあ、懐かしい』<br />『アリス。これ、貴女の誕生石に準えていましたね』<br />『そうそう。五月ですから、エメラルド』<br />『……ちょっと、二人とも。それ』<br />『ニコ。実はですね、これ市子が……』<br />『……それ、ホンモノじゃないかしら。十カラットはあるわよね……ていうか、七星の本家でガラス玉探すより、ホンモノ探した方が早いわよ』<br />『ちょっ……』<br /> 恐らくこれ一つで立派な家が建つ。二子はいらないと言ったが、杜花はうやうやしく返還した。<br /><br /> 細かい出来事は多々あったが、入学式を控えた三日前には殆ど形が出来てしまった。もっとかかるものだと考えていただけに、自分達の抱えるモノの大きさを改めて実感する形となる。<br /> ボロボロだった木製のガゼボは一度解体して、使えそうな部分を選りすぐって塗装し、特殊樹脂製の白い西洋風ガゼボと組み合わせて据え付けた。<br /> 芝生の植え代えまでは流石に間に合わなかったが、ガゼボを中心に円形で配置されたアーチや花壇、刈りそろえられた植え込みなどは、つい最近までここがただの裏庭同然であったとは思えない程の完成度である。<br /> 進行自体に然したる問題も無く進んだように見えるが、作業をしている内、妹達から何度か不可思議な現象についての話題が上がっていた。<br /><br />『も、もり、杜花御姉様?』<br />『どうしたの、命』<br />『あのあのあの……あっちにですね、人影、というか、なんか……見え……』<br /> 新学期から高等部一年生となる川岸命が杜花に縋りつく。彼女の指差す方向には、人影が観えた。影のみである。良く眼を凝らすと、それは形を露わにした。<br /> 髪の短い女性と、髪の長い女性。双方とも、少し前の制服を着ている。<br />『命は、ぼんやりとしか見えないかしら』<br />『は、はい。でも、なんだか、雰囲気がその、失礼な話ですけれど、早紀絵様とアリス様に、似ていて』<br />『由縁のある人達です。悪さはしませんから、そのままにしてあげてください』<br />『杜花御姉様は怖くないんですか? あ、私超怖いので、もっと手をぎゅってしてください』<br />『はい、ぎゅー』<br />『はぁぁ……落ち付くぅ。杜花御姉様落ち付くぅ。あ、ドキドキしてきました。逆にドキドキ』<br />『作業して頂戴、命』<br /> 作業を始めて四日ほど経った頃からだろうか。『彼女達』が良く姿を現すようになった。<br /> 彼女達は妹達の作業を見守り、手伝い、時には殆ど妹達の中に自然と混ざって作業をこなしたりするのである。感受性の強い子程姿かたちがはっきりするらしく、怯えた妹によく縋られる。<br /> 川岸に関しては単に杜花に触りたいだけだろう。<br /> ともかく欲しいものが何故か近くに置かれている、皆と離れて作業していたら知らない妹が居る、設置中のガゼボを眺める黒髪の女性を観た、という妹達からすれば戦慄の、杜花達からすれば溜息モノの証言がある。<br /> 庭園の感応干渉が無くなった理由が、ハッキリとしてくる。<br /> 彼女達は、場所を探していたのだ。彷徨う必要が無くなる場所を。<br />『モリカ、このマーガレットとパンジーの株、どう配置するんだっけ』<br />『正面から見て右の花壇の、端ですね。美的センスが問われますから無茶苦茶にしないでくださいね』<br />『あ、そういう古式ゆかしい女子力的なものをサキちゃん問われても困るです。で、モリカ、隣の人だけど』<br />『気にしないでください。たぶん誉さんです』<br />『ああ、だよねー。アリスに雰囲気似てるなあ』<br />『顔赤らめましたよ』<br />『流石私。幽霊にも好かれちゃう』<br /> 最終調整の段階に入り、そこからは杜花達と、近しいモノだけで手を加え始めた。<br /> 杜花達四人、そして支倉メイや三ノ宮火乃子、末堂歌那多なども加わり、七人程度なのだが、いつも十人に増えたりする。<br /> 杜花は元から何の抵抗もない。アリスはもう慣れていた。二子に関してはしょっちゅう花に絡まれるらしい。早紀絵も近くにきさらが来ては手伝いをするらしく、最早日常的な光景になりつつある。<br /> そんなある日の事である。<br /><br />「御姉様」<br />「ニコ、どうしました?」<br />「うん。ガゼボの裏なのだけれど、撫子がずっと見つめているわ」<br />「……触らないであげてください。あるものが埋まっているので」<br />「供養するもの? あの子泣いてるのよ」<br />「悲しそうに?」<br />「わからないわ」<br />「――そう」<br />「……自由に、してあげられないのかしら」<br />「自由こそが、解放であるとは、限りません。あの子達は、学院に沁みついてしまった、何か。本人であるかすら怪しい、残滓」<br />「だったらせめて……そっか。御姉様は……」<br />「ここが、あの子達の楽園になれば、良いと思いました。私は元ヒトデナシで、人間リハビリ中の身です。私みたいな即物的な人間が、彼女達に施せるものは、やはり心ではなく、形あるものなんですよ、きっと」<br />「ふふっ」<br />「ニコ?」<br />「優しいのね、御姉様。私はあの子達を見ても、悲しいだけなのに」<br />「義務感ですよ。あの人の孫としての、義務感」<br />「あれだけの事があって、義務感だけで庭園を直そうと言い出すのは、難しいわ。貴女の深い部分、貴女が貴女たる部分が、きっとそうさせているのよ。欅澤杜花。貴女は、きっと本来優しくなれるよう、作られている。私は貴女を欅澤杜花として見るわ。だから貴女も、私を二子として見て」<br /> 二子が手を差し出す。慣れない作業だ。小さく可愛らしい手は、汚れ、傷ついている。<br /> 二子も感じていたのだろう。この庭園を手直しする意味が、どれほどあるのか。<br /> しゃがみ込んで二子の手を握り、自分の頬に宛がう。<br />「汚いわよ」<br />「構いませんよ。ニコの手ですから。こうして体温を感じていると、貴女の存在と、自分の存在が、ハッキリするような気がするんです。何も無かった私達には、こんなのが、お似合い」<br /> 互いに器だ。今はその器同士が、傷口を舐めあっている。<br /> 互いを個人と認識し、淡い姉妹の幻想の中に居る。<br />「……ニコ、そろそろあがってください。私は、少しここに居る。お夕食の前には戻ります」<br />「ん。貴女だけで良いのね」<br />「はい。じゃあ、またあとで」<br />「ええ。愛してるわ、御姉様」<br /> 二子と別れ、杜花は整えた花壇の近くにあるベンチに腰掛ける。<br /> 暮れて行く空を見上げながら、何時か見た、撫子達の悲劇に想いを馳せる。<br /> 杜花には、大仰な国家観も社会観もない。ただ、少なくともあの出来事が、撫子達の人生を破壊し、利根河真の人生を破綻させたのだ。<br /> テロリズムに端を発した悲しみの連鎖に、何の恨みもない訳ではないが、欅澤杜花という個人で、どうにかなるものではない。<br /> ……それを、個人でどうにかしようとしたのが、利根河真だ。<br /> 人間性らしさを全て捨て、国家強靭化、国土防衛、技術革新に尽力したのだ。全ては愛する娘と妻の復讐の為に、復活の為に。<br /> 自分達十代の、世界も知らぬ乙女には与り知らぬ事であった。しかし杜花は、彼の妄執に付き合う形となった。産まれる前から、付き合わされていたのだ。<br /> 彼は、欅澤杜花をどう考えているだろうか。<br /> 自分で手を加え、撫子再現の為の駒にし、個人を奪い去った彼は、愛人の孫に、どのような感情を抱いていたのだろうか。<br /> そしてその人物に計画を壊され、どう思ったのだろうか。<br /> 七星はダンマリを決め込んでいる。二子を通じての面会も叶わない。<br /> 彼には説明責任がある。どうにかして引き出したいが……手段は限られる。<br />(今度こそ、電話してみようかな)<br /> 胸のポケットから、三つの指輪を取り出す。『宝箱』におさまっていた、彼女達の名前が入ったものだ。<br /> 今日は出ないか。<br /> そう判断し立ち上がって、庭園の全景を見渡していると、ガゼボの近くに四人の人影が現れた。<br />(……満足、して貰えてる、かな)<br /> 新しく据え付けた街灯に照らされるガゼボの中で、彼女達は静かにお茶会を始めたのである。<br /> 何一つ恐れはない。杜花が近くによると、中から撫子が手招きをする。<br />「だいぶ整いました。これなら、人も呼べるでしょう」<br /> 彼女達は喋らない。<br /> ただ笑顔で、小さく頷く。生徒会活動棟で見せたような、強烈な印象はまるでない。<br /> そっぽを向いている花の後ろに立つと、三人は音も無く笑った。顔がそっくりな事、花に孫が居るという事実が、滑稽だったのだろう。<br />「伝えたい事があったから、あんな、口だけの姿だったんですよね」<br /> 撫子は頷く。<br /> 消える事も、去る事も出来ない彼女達を鎮める為に必要なものは、安息を得られる場所だろう。<br /> ここは今日から姉妹の庭だ。古い彼女達と、新しい自分達が見た原風景の再現に、悲願の成就があればよいと、そう思う。<br />「今日はお返しするものがありまして」<br /> そういって、杜花は三つの指輪を撫子に預ける。<br /> 彼女は言わんとしている事が解ったのか、それを胸に抱き、涙する。叶う事の無かった、自らが閉ざしてしまった箱の中身だ。<br /> 撫子は指輪を三人に配り、自らもまた、自分の物を取り出して、薬指にはめる。<br />「――みなさん、綺麗です。お似合いですよ」<br /> 今思えば……彼女達が学院内を彷徨い続けていたのは、何も逃げまどっていただけではないのだろう。<br /> 欲しかった想い出、ある筈だった未来を、探し求めていたのだ。<br /> 毎日毎日、終わる事なく繰り返す悪夢と悲劇を、ただ残滓と、概念となり果てた彼女達は、どのような思いで過ごしたのだろうか。<br /> 杜花も酷い目にあった。素直に祝福は出来ない。<br /> だが、当然彼女達に、罪はない。まだ法整備もなされておらず、同性同士の恋に偏見があった時代、複数の同性を好きになってしまった、悲しい人たちの末路である。杜花にそれを責める意味も権利も有りはしないのだ。<br />「市子と早紀絵……助けてくれて、有難うございました」<br /> 杜花が頭を下げると、三人も上品に礼をする。<br />「お幸せに」<br /> 彼女達の姿がかき消えた。<br /> その存在が失われた訳ではないのだろう。ただ、一つ区切りがついたのだ。<br /> 彼女達の物語は、これで終わりだ。彼女達は死者であり、残滓である。終わる筈だった世界が継続してしまったに過ぎない。<br /> しかし、自分は続いて行く。欅澤杜花は、取り戻さなければならないものがあるのだ。<br /> それは、以前のような強烈な執着ではなく、自分という人間に線を引く為のものである。<br />「ニコ、いるんでしょ」<br /> 背を向けたまま、杜花は言う。花壇の影から、帰った筈の二子が姿を現した。<br /> 彼女は小走りで近づくと、杜花に縋りつく。<br />「七星一郎、逢えませんか」<br />「……難しいと思うわ。それに貴女、医療センターでも、門前払いだものね」<br /> 観神山医療センターに、七星市子は眠っている。一度二子を供なって赴いたが、警備員に囲まれた。突破は容易だろうが、問題を起こして良い事はない。警備員に罪もない。<br /> ガゼボに腰かける。真新しい木の匂いに包まれながら、静かに目を瞑る。<br />「働きかけているのだけれど、一郎お父様は、応じない。兼谷は、暫く姿を見て居ないの。どこへ、行ったのやら。もしかしたら、別の妹の所に、いるのかも」<br />「また、繰り返すんでしょうか。もう既に、私のような子が、いるのかもしれませんね」<br />「悲願、だもの。その人生の全てを投げうって、利根河真は七星一郎になり、その全ての権力を用いて、撫子を蘇らせようと、している。次の器は、誰かしら。把握している十姉妹の内、市子姉様と私は直接兼谷の子だけれど、他はたぶんクローンだと思う。そうすると、器に問題がある……けど、どこまで、本当かも、私は解らないわ。十姉妹全員、兼谷の子かもね。何も性交する必要も、兼谷が母体である必要もない。精子と卵子があれば、幾らでも、実子が作れてしまう。もはや、培養よね。クローンより、酷いかも」<br />「皆クローンでしょう。でなければ、二子に固執はしない筈です」<br /> 隣に二子が掛け、寄り添う。小さな彼女はジッと杜花を見つめた。<br />「まだ、ちゃんと謝っていませんでしたね。ごめんなさい。こんなに綺麗な貴女を、傷つけて」<br />「ううん。いいの。私は……あの家に居るよりも、何処に居るよりも、まだ、貴女に乱暴に扱われた方が、自分を自分だと自覚出来るから」<br />「ニコ」<br />「代替えで良い。私を見て。今、貴女は限りなく、私の抱いた幻想の欅澤杜花だわ」<br /> ……。<br /> 久しぶりの感応干渉だ。杜花は否定せずに受け入れる。<br /> 七星二子が、七星市子から話される『欅澤杜花』という存在について、どのような夢を見ていたのかが、負荷のかからない速度でゆっくりと流れ込んでくる。<br /> いつもは、触れるようなキスだけで終えていたが、今二子が望んでいるものは、違うだろう。察して、力を入れれば折れてしまいそうな身体を抱きしめ、深く、キスをする。<br /> 幼く甘い、彼女の体温を感じながら、その指同士を絡ませる。舌を啄ばむたびに震える二子が、妙に艶めかしい。<br />「あの時一度、考えました。出会い方が違ったらって」<br />「一緒よ。どう出逢おうと一緒。姉様ばかり見る貴女に、私が嫉妬するだけ。そしてこれから、悩み続けるの。意識を戻さない姉様を想いながら、優しい早紀絵とアリスに挟まれて、私に纏わりつかれて、貴女を慕う妹達に囲まれて、泣いて、笑って、キスして、キスして――」<br /> もう一度キスして、口を塞ぐ。太股に手を滑り込ませると、二子は拒まず、それを受け入れた。<br />「ただ好きだ嫌いだと、言えるような普通の関係ならば、どれほど楽か」<br />「――うん」<br />「可愛いですよ。貴女は可愛い。とっても。貴女が可愛いから、私は貴女を守ります。彼等には、返しません。ずっと私を見ていてください。七星ほど贅沢はさせてあげられませんけれど、ずっと隣に居てください」<br />「最低な貴女の、隣にいるわ。私は責任が欲しいの。迷惑をかけた責任。果せるかしら……あっ」<br />「……部屋に、戻りましょう。ね、ニコ」<br /> 期待と不安が入り混じったような二子の頬を撫でてから、手を繋いで庭園を後にする。<br /> どれだけ願っても届かないという諦めを感じながら、しかし、どこかで期待しているのだ。<br /> 実験台にされた七星の子達が……個人になれる日を。<br /><br /><br /><br /> 夕食後、杜花は職員棟にまで赴き、記憶にある番号から、彼に電話をかける。<br /> 数コール後、彼は出た。<br />『お久しぶりです。『お父様』、欅澤杜花です』<br />『やあ杜花。元気にして居たかい。僕は相変わらず元気でね。ああ、兼谷も元気だよ』<br />『それは何より。ご連絡差し上げたのは、他でもありません。今度少し、お時間を頂けますか』<br />『ああ、何よりも優先しよう。何処でデートをするんだい?』<br />『三日後の日曜日、15時に、小庭園でお待ちしています』<br />『あそこかあ。懐かしいね。整備したと聞いたよ。構わない、赴こう』<br />『……では、お待ちしています』<br />『ああ、そうそう。杜花、二子とは仲良くしてくれているかい』<br />『ええ。もう、貴方に返す気もありませんので』<br />『はっは。そうか、では不味いかもしれないね。よし、スケジュールを調整しよう。逢えるのを楽しみにしているよ、杜花』<br /> 飄々とした物言いは、相変わらずだ。彼は感情を表には出さない。何を考えているかなど、兼谷すら解らないだろう。<br /> しかし、ともかく、取りつけた。正月以来、彼に逢える。<br /> 杜花はその時どうするだろうか。<br /> 拳を握りしめる。杜花は通信を切り、静かに俯いた。<br /><br /><br /><br /> どんなに努力しようとも、報われない現実がある。<br /> 努力の量、質、伴わず、才能の有無、伴わず、全ては命運に任されている。<br /> 一定評価ならば難しくは無いだろう。報われる為の努力と才能が全て無駄という事はない。だが、一定以上、もしくは常識の範囲外のものを望もうと思えば、そこは既に人間の領域ではないのだ。<br /> その望みを叶えようとする努力は、もはや世界への宣戦布告である。<br /> 最良の選択肢を選ぼうと努力する事も、その内に含まれるだろう。自分が強大な何かの掌の上で踊らされている事実すら知らず、抗おうとする姿は、驚くほどに滑稽極まり無い。<br /> 杜花達は箱庭の鳥だ。<br /> 産まれたその日から誰かの意図の上にある。逆に言えば、それに気が付かない方が、幸せである事の方が多い。自分はこの箱庭の中でこそ、もっとも自由であると思えるならば、それ以上の幸福を求めたり、抗って傷つく事もない。<br /> しかし杜花は否とした。<br /> そして否として尚、菩薩をも凌ぐ大きな掌から、逃げおおせるなど叶わない。<br /> 気が付き、傷つき、心を痛め、結局どこへも行けない、大人たちの恩恵無しでは生きられない、そんな虚しい生き物なのだと、実感する。<br />「モリカ、挨拶しないと」<br />「……うん」<br /> 顔を上げ、庭園に集まった妹達を見る。<br /> 何も知らない小鳥たちの王、欅澤杜花は、春の暖かい日和の中、一度空を仰いだ。<br /> 己の内に収めるべきものを失って尚、生きてしまっている自分に対して、悲しみを抱く事すら、もう遠い過去のようだ。<br /> 気持ちはある。<br /> だが、手を伸ばしても届かない彼女を思い続ければ、それだけ、自分を支えてくれるという彼女達を傷つけてしまう。<br />「今日は、集まってくれてありがとう。皆のお陰で、あの荒れ果てた庭園は、こんなに美しく生まれ変わりました。土弄りなどした事もないであろう、他の世界で生きている貴方達には、少し、大変だったかもしれませんね。でもきっと、そんな小さい努力でも、貴女達の糧になると、私は思っています」<br /> 傍に居た川流院が、目元をハンカチで拭う。<br /> 服の着つけとて、メイドに任せていたであろう彼女からすれば、これは余程の努力なのだ。<br /> 与えられるままを与えられ、拒否する事もなく受け入れ続けて来た彼女達が、産まれて初めて、率先して皆と何かを作りあげたという事実が、嬉しいのだろう。<br /> そんな事で泣くなんて滑稽だと、想う人もいただろう。以前の杜花ならば、見えないところで鼻で笑ったかもしれない。<br /> だが、誇るものを失った杜花にとって、もうそんな事は出来ないのだ。<br /> 杜花とて、所詮は小さい世界の王でしかない。<br /> 小さい世界の、小さな出来事に涙を流す、それは、やはり美しいのではないだろうか。<br />「今から四十年程前の事です。詳細は教えてあげられませんけれど、とても悲しい事がありました。とても仲が良かった姉妹達は引き裂かれ、残された私の祖母は、それを抱えたまま、ずっと過ごしてきました。この庭園は、彼女達が引き裂かれて以来、放置されてきました。彼女達の悲しみと、私達のワガママと、貴女達の努力によって成り立つこの庭園ですが、辛い想いを含みながらも、きっと、新しい貴女達に、心に残るような景色を、授けてくれるはずです」<br /> 小さくとも、子供であろうとも、しかし、未来を夢見るのは自由だ。<br /> 結局巨大な枠組みの中に囚われた人間は、大なり小なり、拘束を余儀なくされる。絶望するも、希望を抱くも、心の持ちよう一つであると、そう考えねばならない。<br /> それを妥協であると罵るだろうか。<br /> 自らも抜け出せない癖に、大口を叩けるだろうか。そもそも、実感すらしていないままに、罵れるだろうか。<br /> 虚しいと実感しよう。<br /> 誰かの恩恵無しには生きられないと、納得しよう。<br /> 産まれる前から自由などなかったとしても、それを幸せだと思えた日常を、杜花は切り捨てたくは無い。<br /> この庭園は理不尽の縮図だ。<br /> 小さな世界しか知らないお嬢様達が想い描いた、自由の園である。<br /> 悲痛と、妥協と、幸福と、夢が混同する、希望と絶望のカタチだ。<br />「これから一年、私は家族と離れて暮らす貴女達の家族となって、支えになります。相談してください。夢を語ってください。希望を教えてください。明日の話をしましょう。昔の話をしましょう。恋の話をしましょう。そうしてくれれば、私は貴女達の華であれる。そうしてくれれば、私は――私は、幸せです」<br /> 小さな拍手が起こり、杜花は深々と頭を下げた。<br /> 初めて明確に、彼女達に対して、自分の立場を示したのだ。<br />「……挨拶はこれぐらいにして、今日は存分に羽を伸ばしてください。お菓子も私達で焼きました。召し上がってみてくださいね」<br /> 今ならば、撫子の、市子の抱いた姉妹制度の意味が解る気がする。姉となって初めて、彼女達の寂しさを、分かち合える。<br /> 子供にも大人にもなりきれない少女達が想い描く、未来への展望と、現状への不満。自分達は世界から隔離されているのだという不安と、同等に持ち合わせる特権意識。<br /> それら不都合な感情を、自分達が『妹』であるという事実が、全てを覆い隠してくれる。<br /> あらゆる境遇もあらゆる価値観も、姉の、欅澤杜花の下において、平等なのだ。<br />「御姉様、喋って喉が渇いたでしょう」<br /> 白塗りのガーデンチェアに腰かけると、二子がお茶を差し出す。テーブルを囲んで座るのは、いつもの面子だ。他の妹達も、思い思いにお喋りを始める。<br /> 自分達で手直ししたとはいえ、いざこうしていると、本当に『原風景』の中に居るようだ。<br />「杜花様」<br />「メイさん。お疲れ様。手伝ってくれて、有難うございますね」<br />「いーえ。ああでも、こうしていると、なんだかむずむずしますよ。遺伝子の記憶かな」<br />「……あれから、七星は、何か貴女に、伝えていましたか」<br />「ううん。私はやっぱり、末端だから。そういう意味で、クローンの中だと、一番自由なのかもですね」<br />「メイ。面倒をかけたわ。姉の代わりに、謝るわね」<br />「二子ちゃんは気にしなくていいんですよぅ。今後も、何一つ気にする必要はないです。二子は、ただ一人。貴女も、七星なんて気にしないで生きれば良いんです。どうせ気にしなくたって、真お父様は放っておきませんよ。そう。貴女は生きるに不自由しない」<br />「どうして、そんなこと」<br />「なんとなく、解ります。杜花様も、気にしなくて大丈夫です。彼は、そういう人ですから」<br /> それだけ残して、メイは他の卓に混ざってしまった。真意は読みとれないが、殊七星についての事実に、メイが嘘を話した事はない。杜花は二子と目を合わせると、静かに頷く。<br /> お茶会の後、彼に聞けば良い。<br />「ねえねえモリカ」<br />「はい?」<br />「妹全員大集合して解ったんだけどさ」<br />「ええ」<br />「あの子とあの子、私のお友達なんだけど」<br />「……手広い事で」<br />「ちなみにガチだからねー。気をつけてね」<br />「こう、あまり爛れさせたく無いんですけれど、私の派閥」<br />「側近の妹プラス私、三人も肉体関係があって爛れてないってのも」<br />「ああ、なんだか庭園が汚れる会話ですね。自分でしておいてなんですけど」<br /> アリスはにっこりと笑い、二子は顔を真っ赤にして俯く。<br /> 早紀絵はそれが面白かったのか、楽しそうに笑う。流石に妹達は知るまいが、上層部はずぶずぶの、古式ゆかしい典型的日本型組織である。<br /> 妹、としている間は良いが、早紀絵の指摘するように、妹が『女性』として近づいて来た場合、杜花はどう対処しようかと、いささか迷う。<br /> 思わせぶりな態度は彼女達に大変好評なのだが、やりすぎると角も立つだろう。<br />「ま、私はモリカに何人愛人いても構わないし、私こんなだし。ああほら、一番最初の影のうわさを探しに、生徒会活動棟に行った時。あの時喋ったじゃない。モリカなら何でも出来ちゃうって。まさしくその足掛かりに今いる訳だわね。くふふっ」<br />「そうそう。杜花様は何一つ気にしなくて良いんですわ。ねえ、二子さん?」<br />「え? あ、う、うん。ええ。お、御姉様の、好きにすれば、良いと思うわ」<br />「で、二子やい。杜花とどうだったの? 凄かった?」<br />「さ、サキ。あのね、お茶会でそういう事……」<br />「御姉様その……ふ、普段よりもずっと優しくて……私、嗚呼……恥ずかしい……」<br />「ちょ、やめ、お願い、ニコ、そういう話やめ」<br />「くふふっ。流石御姉様は違うなあ、ねえアリス」<br />「凄いんですのよねえ。異性愛者の子だって、あれを受けたらとてもとても」<br /> レズビアンによるレズビアン称賛という、何か姉妹制度として破綻しているような会話に目を瞑る。彼女達がそれで良いなら、仕方ない。<br /> もう少し小奇麗なお話でお茶を濁したかったが、生憎と杜花周辺は花も恥じらうような乙女らしいお付き合い関係にない。<br /> ふと視線を感じ、目だけを動かす。近くの卓にいた川流院が、じっと杜花を見つめている。また別方向に目を向けると、元市子の妹であった岬萌も、杜花に視線を送っていた。<br /> どうも手遅れが多い。近いうち、人間関係が複雑になるのが目に見える。<br /> ……まあそれも、楽しいかと、元ヒトデナシの杜花は考える。<br />「見てる見てる。ほらあの子、あれは自人会党の鏑矢内務大臣の次女だね」<br />「あちらの子は、北条エレクトロニクスの創業者一族の子ですわね」<br />「あっちの子。あれ、七星自動車の社長の三女よ」<br />「あれ、モリカ。これ手籠にしちゃったら、相当面白いと思うよっ」<br />「あーあー。何故そんな悪の組織の大幹部みたいな真似。私自ら赴く事なんてありませんよ。私を何に祭り上げる気ですか、貴女達は」<br />「あははっ」<br /> からかわれ、仕方ない、と笑う。あながち冗談とも言えないのだ。<br /> 杜花の持つ人脈はここにいる三人だけでも、悪用しようと思えば出来てしまうような立場だ。当然、そんな無粋な真似をするつもりはないが、権力の自覚なき権力ほど、恐ろしいものはない。<br /> 卒業した後とて、その資質は問われるだろう。<br /> 望まずとも、手に入れてしまうものはあるのだ。<br />「もーりーかー」<br />「……ぶふっ」<br /> さてそろそろ、皆に挨拶をして回ろうかと立ちあがった矢先、庭園の入り口から大きな声が聞こえる。他の卓に居た三ノ宮火乃子が、紅茶を吹きだして粗相した。隣でくっついていた歌那多が大ぶりに手を振る。<br />「杜花っ」<br />「か、風子先輩?」<br />「お嫁さん沢山募集し始めたって本当!?」<br />「どんなガセネタ掴まされてきたんですか、貴女」<br /> 小走りで近づいて来たのは、三ノ宮風子だ。今年から大学生である筈の彼女が、何故観神山に居るのか。<br />「お姉ちゃん。東京の本家に戻ってたんじゃないんですか?」<br />「んなものはどうでもいいの。三ノ宮は任せたよ、火乃子……」<br />「そんなしんみり言われても。ああ、ごめんなさい、杜花さん」<br />「いえ。どうしたんですか、風子先輩」<br />「やだ。風子って呼んで。いやー、しかし集まったね。これ全部杜花のお嫁さん候補?」<br />「違いますよ妹ですよ」<br />「あ、妹取り始めたのね。え、ずるい。私もなりたい」<br /> 風子に……あの時の記憶が、あるのかないのか。確かめる機会もなく、彼女とは別れてしまった。風子にとって悲痛でしかないであろう、杜花との別れだ。<br /> 思い出さない方が、良いこともある。しかもあれは、杜花にとって今生の別れの挨拶であった。<br />「風子先輩。何故部外者がここに?」<br />「うわ、アリスきっつ。何、文化祭の事まだ根に持ってるの? お尻の穴の小さい子だねえ」<br />「下品な。だから苦手なんですのよ、貴女。杜花様、コレと取り合っていると穢れますわよ」<br />「まあまあ、アリスはどうでもいいのよね。で、なんかお茶会って聞いたけど」<br />「知ってるじゃありませんか」<br />「杜花が一端の御姉様になってさ、市子の後継いだって聞いたら、凄く逢いたくって。東京から飛んできたよ。うちのジェットで。ここ辺境すぎるよぅ。で、そうそう。杜花に言いたい事があって」<br />「な、なんですか?」<br />「私、やっぱり杜花が好き」<br /> 杜花が、半笑いで固まる。<br /> アリスは硬化し、二子が食べていたクッキーを取り落とし、早紀絵は楽しそうに見守っている。<br /> それがこの卓だけに聞こえたならば良いが、風子は声が大きい。周囲に居た妹達まで、小さく黄色い声を上げる始末である。<br />「なんか、物凄いフられ方したような気がするけど、そんな事なかったぜ。もうさ、東京行ってもさ、寄って来るのはパッとしない女の子に男の子だし、大体私より弱いし、面白味もないというか、それでさ、悶々としちゃうのよ。杜花の事考えると。ああ、私、貴女好きなんだって」<br />「それは。アハハ。光栄なことですね、ええ」<br />「あらそう? じゃ、杜花私と結婚して。三ノ宮の苗字もなんか邪魔だし、欅澤にして」<br />「いやその」<br />「だーめですわ!」<br />「風子、あんまり七星を怒らせない方がいいわ」<br />「風子ちゃん先輩、必死で可愛いなあ。処女なんだろうなあ」<br /> 側近三者三様、風子を囲む。<br /> 早紀絵はどうでもよさそうだが、毛嫌いしているアリスと、降って湧いた天災のような扱いの二子は御立腹だ。<br /> 三ノ宮風子の最大障壁である七星市子が居ない現在、彼女は恐れるものもないのだろう。まして卒業した身だ。しかしまさか、こんなところに、こんなタイミングで乗り込んで来る程行動力があったとは思わず、杜花も何だか、逆に愉快になって来る。<br />「風子」<br />「なあに?」<br />「お友達からで良い?」<br />「杜花のお友達って肉体関係込みなの?」<br />「あ、あのですねえ……」<br />「えっへっへ。良いんだ。疎遠になるのだけは避けたかっただけだから!! 乗り込んで来た甲斐がありました! ま、宜しく、お三方。あははっ」<br />「も、杜花様ぁ……」<br />「御姉様、私ソレなんか怖い」<br />「モリカ、私風子ちゃん先輩に手付けても良い?」<br />「ああもう、好きにしてください」<br />「あははっ。いやあ、七星一郎も、面白い話持ってくるもんだねえ。よかったよかった」<br /> どこからこんな話が漏れたかと思えば、そこからだったか。<br /> 彼は本当に、後ろで手を回さないと気が済まないのかもしれない。いささかトーンダウンする皆を取り繕い、風子も卓に加え、実も無い話を始める。<br /> あんな断り方をされれば、記憶に残っていても不思議ではない。<br /> 断っておいて、酷い話だと、想わない事もないが……相手の感情を押さえつけるような権利を、杜花は有していない。<br />(……えへへ……うん。これで良い。私、これが良い。あの時の事、気にしないで、杜花)<br />(風子?)<br />(なんとなく、なんか、良くわかんないけど、覚えてる。気が変わったのなら、気にしないで。むしろ、変わられると困っちゃうよ。これから、宜しくね)<br />(嗚呼私、周りからダメにされてる気がしなくもない……)<br /> ……それで彼女が幸福であるというなら、杜花は否定しない。全ては自分から発したものだ。これからする努力と言えば、彼女達に見捨てられないよう、最大限に愛をそそぐ事だろう。<br /> もう一度、心の中で自分は最低だと呟く。<br /> ただ、貶めるだけではなく、戒めだ。<br /> こんなにも好まれる自分を蔑んでは、彼女達の価値まで下がってしまう。<br />「あ、私戻らなきゃないんだ。いやもーほんと、ギリギリで来てるの! あ、お茶ありがと、ごちそうさまっ。杜花、またね。次は二人でいちゃいちゃしたいー」<br />「い、忙しい限りで。連絡、くださいね」<br />「うん。うふふーっ。じゃねっ」<br /> 風子は、お茶を一気に飲み下し、颯爽と去って行った。その姿はまるで風である。ご両親も、こうなる事を見越して名前を付けたのではないかと思うほどだった。<br />「な、なんだったのかしら。台風? 御姉様、本当に良いの?」<br />「良いんですよ。私、彼女の事、好きでしたし」<br />「……まあ、はい。解りましたわ。杜花様がそう言うなら。ええ。それで、まあ良いとして、何故七星一郎氏が、こんなところで開かれるお茶会の話を?」<br />「呼んであります。お茶会後ですけれど」<br />「……やっぱり御姉様は特別扱いなのね。私すら、会話も出来ないのに」<br />「へえー。あれが学院に来るのかあ。神社で一度みた以来だねえ」<br />「それで、お願いがあります」<br /> 居住まいを正し、三人に向き直る。七星一郎との面会だ。彼女達は、杜花がどのような行動に出るか、不安だろう。<br /> 杜花の囲い込みはある意味……彼に手を出さない為の、防御壁である。<br /> 想えばあの時、市子になろうとする二子にかどわかされぬ為と、杜花は二人に頼った。<br /> 前科があるのだ。<br /> 裏切ってしまった事実がある。<br /> しかしだからこそ、今度こそ、杜花は、ここにいる妹達、そして何よりこの三人の為にも、暴挙には及べない。<br />「……見守って、いて欲しい。私はもう、貴女達を悲しませたくないから」<br /> 三人は、静かに頷いた。<br /> 裏切れない。<br /> 自分達は――運命共同体だ。<br /><br /><br /><br /> 十四時三十五分。<br /> 御祭の後にも似た、物悲しげな静けさだけがあった。<br /> 全ての片づけを終え、既に庭園には四人しか残っていない。アリスは花に水をやり、二子はガゼボの中で本を読んでいる。恐らく、幻華庭園だろう。<br /> 早紀絵は杜花と一緒に、何を話すでなく、ベンチに座っていた。<br /> 早紀絵が、首の調子を確かめるように、小さく捻る。杜花は彼女の手に手を重ね、あの時の事を思い出す。<br /> 背負い込むものがあろうがなかろうが、未来への憂いがあろうがなかろうが、たった一つの為に命を投げ捨ててしまう、その衝動。彼女の自殺未遂が、杜花の価値観を定めた。<br /> どれほど愚かだと自覚していようと、人間は衝動に突き動かされた場合、あってはならない選択肢を選んでしまう事がある。<br /> 事前にあった出来事も、先の未来も全て考慮せず、目の前の絶望を受け入れてしまうのだ。<br /> いざ、七星一郎を眼の前にした時、杜花は彼を、きっと殴らずにはいられないだろう。<br /> 衝動とは恐ろしいものだ。積み重ねた何もかもを無為にする。<br /> しかし人間が人間である限り、絶対的な衝動の制止など叶わない。<br /> 幾ら訓練を積んでも、確実に冷静でいられる保障など、どこにもないのだ。<br />「痛みますか」<br />「ううん。大丈夫だよ。モリカこそ大丈夫かな。顔、少し蒼いけど」<br />「平気です。人とあって、お話をするだけですから」<br />「今まで不謹慎だなって思って、言わなかったけどさ。モリカの落ち込んだ顔、可愛い」<br />「皆に言うんでしょう?」<br />「バレたか。くふふ。うん。言うよ。みんな可愛い。みんな大好き。でも、やっぱり私は、モリカが一番。ごめんね、気の多い女で」<br />「私こそ。ああきっと、これから私も、サキみたいになっちゃうのかな」<br />「私とアリスは良いんだけどねえ。二子、やきもちやくだろうし。私達がさー、仲良くしてる所みると、あの子ね、すーごい膨れるんだよ。ま、それも可愛いのだけど」<br />「……ええ。ニコは、可愛いですね。小さい頃の、市子そっくり」<br />「そーだね。ほんと。そいえば、義理じゃなくて、本当に姉妹だったんだっけ。そりゃ、似るよね」<br />「あの姉妹達に、よくもまあ、振り回されたものです。掻き回したのは、私ですけど」<br />「兼谷はそれも織り込み済みだったじゃん。過去の圧縮再現だっけ。無茶だねえ」<br />「……全く」<br /> 道を外れているつもりで、結局想定内であったのだ。<br /> あの出来事の想定外は、早紀絵の自殺と、撫子の暴走だろう。<br /> 以降の欅澤杜花は、器でありながら既に元のものとは変わっていた。<br /> 穴が開いた訳ではないのだ。受け入れる隙間だってある。市子専用だった器が、しっかりと他の物も受け入れられるようになったのだ。<br /> 明日の無かった自分には、確実な未来がある。<br />「私の言葉、伝わったんだ。解るよ。モリカ。貴女の手が、凄く暖かい。今までのモリカも好きだったけど、私の事を見てくれるモリカは、もっと好き。モリカは、何でも出来る。何にでもなれる。私は、私達は、貴女の為に居る。そして、貴女は私達の為にいる」<br />「少し、先の事を話しましょうか。外出申請を出して、皆で外にいきましょう。そうだ、私、家電にもパソコンにも疎いから、教えてください」<br />「デート? みんなで? あ、じゃあホテルとか予約しよう。いいとこ。くふふっ」<br />「……貴女は本当に、馬鹿で、可愛いですね。思わず、頬を殴りたくなる」<br />「暫く殴られてないなー。じゃあそういうのも織り込んでおくかあ……アリスともかく二子がドン引きしそうだけど」<br />「大丈夫ですよ。あの子も素質ありますから」<br />「マジで。七星のお嬢様がさー、地面這いつくばるって、想像すると凄いね。あ、凄いわ。なんかコスプレさせようよ。羞恥心で顔真っ赤にする二子みてみたいー」<br />「ほんと、酷い会話」<br />「……何でもいいよ。モリカとこうして、くだらない話してるだけでも、幸福だもの。私達は、今、生きてる。身体が弄られていようが、社会を知らなかろうが、箱の中だろうが、拘束されていようが、私達は生きて、会話して、先の事も考えられる。やっぱり、幸せな事だよ」<br /> 肩を寄せる早紀絵に、杜花も寄りそう。<br /> 特に彼女は、一層気にかけてあげなければいけない。それが杜花に出来る贖罪だ。一生かけても、償わなければいけない。彼女に、幸せでいて貰わなければいけない。<br /> じわじわと、心の中に沁み入るような幸福感を噛みしめる。<br />「サキ、もう、どこにもいかないでね」<br />「うん。モリカも、どこにもいかせないからね」<br />「……いちゃいちゃとまあ、お熱いことで」<br />「いいじゃありませんの。二人が幸せそうで、私なんだか、ドキドキしますわ」<br />「貴女、外から見てるのも好きなのね?」<br />「二子さん、じゃあ、わたくし達もいちゃつきます?」<br />「え、いやその……」<br /> 押しのけるようにして、アリスと二子が隣に座る。この二人も、なんだかんだと仲が良い。<br /> 新しい庭園の乙女たちは、多少爛れているが、円満だ。撫子達が、櫟の君達が夢見た光景……にしてはいささか苦しいが、四人は心を読まれる事を、一切苦に思っていない。そも、隠し事の一つとて、ありはしないのだ。<br /> 撫子達の不和は、他者感応干渉能力がその一端を担っている。<br /> それも当然だ。頭の中を覗かれて気持ちが良い人間などいない。きっと超能力なんてものは半信半疑ではあったろうが、疑心暗鬼の一つも覚えただろう。<br /> 四人は既に、そんなものを思い悩む領域に居ない。浮気どころか、まるごと全員関係があり、早紀絵に関しては恋人を片手で数えられない。アリスが気の多い子であることぐらい誰もが承知である。<br /> とにかく、特殊なのだ。<br /> そして当時のように、同性同士の恋仲を、奇異の目で見る社会ではない。<br /> 自分達は恵まれた環境に居る。不満を漏らすなんて真似をしては、撫子達に示しが付かない。<br />「さ、二子さん。キスしてくださいまし。アリス、全然大丈夫ですわよ?」<br />「し、しろと言われてするなんて、なんか、それ、私違うと思うわっ。もっとこう、なんというか、雰囲気とかあるでしょ、乙女なんだからっ」<br />「一理ありますわ。関係を長く続けるには、恥じらいが必要であると聞いた事がありますもの」<br />「そ、そう。ならそれでお願いするわ」<br />「アリス、ニコは抱きしめられると流される性質がありますよ」<br />「御姉様、人を単細胞生物みたいに表現しないで……あ、やだ、アリス、嗚呼」<br />「うふふ……なんだか温くてちっちゃくて可愛い……」<br />「アリスってロリコンだっけ。にしても二子ってばちょろい。顔真っ赤だし。モリカ、この子欲しい」<br />「どうぞどうぞ。共有財産なので」<br />「わあい」<br />「あ、アリス。良い匂いする……あ、ちが、ちがう。御姉様助けてっ」<br /> ――目を瞑り、開く。<br /> 空を見上げ、戻し、立ちあがる。<br /> 時計の針は、十四時五十九分を指していた。<br />「おねえさ……あっ」<br /> 煉瓦敷きの小路を歩く。<br /> 柔らかい風が頬を撫で、植えたばかりの花の香り、土の匂いが、鼻孔を掠める。<br /> ただ真っ直ぐを見て、歩く。<br /> 庭園の入り口に現れた彼を目指し、歩く。<br />「……彼、一人、ですわね」<br />「わからんね。七星一郎は、ホントさ」<br /> 庭園の中ほど。花壇と花壇の合間で、杜花が立ち止まる。<br /><br />「――やあ、みんな。お久しぶりだね」<br /><br /> 黒々しい髪をオールバックにまとめ、白いスーツに、紅いネクタイ。杜花よりも高い身長は、しかし、その存在感からかもっと大きく見えた。<br /> 両手には、花束だ。<br />「良く、来てくれましたね、利根河真さん」<br /> 杜花は、最高の笑顔で出迎えた。<br /> これ以上ない、とびっきりの、姉妹達にも見せないような、ことごとくわざとらしい、最大級の笑顔だ。<br /> 相対する。<br /> 彼こそが、姉妹達最大の支援者であり、最大の敵であり、国家の顔であり、他国家の敵である。<br />「フルネームで呼ばれたのは、久々だよ。いろんな事を、もう少し略式してみんなに教えるつもりだったのに、早紀絵君とアリス君がバンバン調べちゃうし、口の軽い子もいたしね。いや、良いんだ。別に隠している訳じゃない。好きなように呼びたまえよ」<br />「あちらへ。お茶でも飲みながら、ゆっくり。真さん」<br />「……ああ、良いね。君のお婆様にも、そう呼ばれていたんだ。忘れていた恋心が、また芽生えそうだ」<br /> 三人が見守る中、杜花は一郎を連れ立ち、ガゼボに案内する。一郎に着席を促し、杜花も腰を掛けた。<br /> 二子がティーセットを持って現れ、二人にお茶を出す。<br /> 七星一郎は終始笑顔だ。それ以外の表情も感情も読みとれない。<br /> 彼は、存在そのものが全てにおいて交渉材料だ。商談も掛け引きも、彼が動く、というその一点で全てが決まると言って良い。本来ならばこんな学院の、こんな辺鄙な場所に現れるような人間ではないのだ。<br />「お父様、その」<br />「ああ、二子。暫く連絡も取れなかったね。いや済まない。此方にも事情があってね。杜花とは仲良くやっているそうじゃないか。喜ばしいね。これからも良くして貰いなさい」<br />「はい――あの」<br />「今日は、杜花と話に来たんだ。済まないね、二子は、下がっていてくれるかな?」<br />「す、済みません……」<br /> 二子が深く頭を下げ、後ろに下がる。<br /> 傲慢な態度が目立つ二子も、七星一郎の前では大人しい猫のようだ。<br /> 杜花は紅茶を一口してから、彼に問いかける。<br />「どうですか。だいぶ、綺麗になったでしょう」<br />「うん。最後に見たのは何時だったか。撫子はここをいたく気に入っていたね。市子もだ。これが、君達姉妹の原風景なんだね。まさしく私は男という異物だ。いるだけで申し訳なくなるよ」<br />「……一連の事に関して、真さんは何か、想うところはありますか」<br />「はっは。そうだね。正直、悔しいよ」<br /> 彼は机に肘をつき、杜花から目を外して庭園を見渡しながら言う。<br />「時系列順に説明しよう。少し長くなる。いいかね?」<br />「ここで時間を気にするのは、真さんだけですよ」<br />「ふっふ。その呼ばれ方、むず痒くて堪らないな――ええと、あれはそう、知っての通り、大陸系の反日テロリスト団体『大華団』の末端組織による、観神山女学院占拠事件が、全ての発端だ。2010年代から大陸の情勢が不安定になり、国内不満を退ける為にその矛先を、我が国に向けて居たのは、恐らく勉強しただろう」<br />「ええ」<br />「大東亜戦争前後、日本国内に作りあげた共産主義コミュニティと、半島の政府を嗾けて小さなテロリズムを始めたのが、20年代だね。かの国は積み重ねて来た独裁のツケ、貧富格差が都市部でも爆発するようになっていた。どうにか国外に意識を逸らしたいと、強い共産党を演じる為に、実行部隊が活動し始める。『我々の組織力をもってすれば、極東の島国なぞ工作員だけで十分なんだぞ』などとね。当時既に内紛寸前であったしね。国内の反乱分子を抑止する目的もあっただろう。それが学校占拠事件が頻発した原因だ。一番最初の事件が彼等にとって成功に終わると、たびたび繰り返すようになった。日本人は大人しい。脅せば金を出すと。末端組織だ、本国から大々的な支援もない。あるのは武器ぐらいだね。破壊には金が必要だ。ただの破壊じゃなく、我が国の信用部分に対する破壊だ。しかし銀行を襲ったくらいではインパクトが薄い。ああ、銀行も襲ったが、もっと過激な方法が欲しい。センセーショナルに発信する必要がある。頻発した学校占拠事件の内の一つが、観神山女学院占拠事件だ」<br />「はい。大体の調べはついています」<br />「うん。私は当時七星の娘と結婚してね、子供を一人もうけていた。研究者としても実力を買われ初め、妻は美しく貞淑で、娘も、素晴らしい子に育った。私は彼女達を、心から愛していた。その身その心、その全てを彼女達に捧げ、必ずや幸福をもたらそうと、そして七星に尽くし、同時にそれは愛すべき日本国家の為になると、信じて疑わない、そういう人間だったんだ。その気持ちは今も変わらない。だがあの時、あの事件で、そう、恐らくは君達も思っているだろう。利根河真は、狂ってしまったと。占拠事件が起こっていると知ったのは、連日徹夜で、やっと休憩に入れたと、テレビを見た時の事だ。都合上電波の入らない研究棟にいてね。テレビを見ていると、直ぐに電話連絡が入って、私は観神山の研究所から飛んで行った。何時まで経っても解決が観えない、娘たちはどうなっているのか、まるで不安で、頭がおかしくなりそうだったのを、良く覚えているよ」<br /> 一郎は乾いた笑いをもらし、頭をかく。<br /> 事件が起こったのは、彼が本当に三十代の頃である。御歳七十七の、その見た目だけで、彼がどれだけの狂気を抱えているのかが、良く分かる。<br />「十時間にわたる籠城。やっと警察部隊が突撃したかと思えば、返り討ちだ。敵の装備を見誤ったんだね。それから更に七時間。とうとう習志野から特殊部隊が届いた。それらは、本当に手際よく、あっさりと事件を解決した。戦闘時に齎された実行部隊の被害は、実に三人だ。その中に生徒は含まれない」<br />「大覚醒、知らない訳ではありませんよね」<br />「ああ、そこまで推測したんだね。じゃあ偽る必要もない。完全に秘してあったものだからね。……撫子のESPは死に際にその強度を跳ねあげ、挙句透視能力まで発揮して、粗方のテロリストの脳幹を叩き切り、挙句死に際の恐怖と狂気を、学院にばら撒いた……ただ、もっと早く決断し、もっと早く解決していたのならと、想うよ。結果論だがね。当時の私は、撫子のESPなど、知る由もない」<br />「何も知らない貴方は、どう思いましたか」<br />「憎かった。大事な決断も出来ない縦割り政府も、私の娘を犠牲に追い込んだクソムシ共も、私は許せなかった。特に撫子の遺骸を見て、自分を失ったよ。あの子は美しい子だった。大聖寺誉もだ。二人は死後、その肉体を蹂躙されていた。撫子のESPに当てられて狂気に陥ったのか、内臓姦でも楽しんだのかね。臓器はあちこちに散っていたそうだ。そのテロリストは撫子達に重なるように死んでいたらしい。ああ、頭に来る。ともかく私はその時――世界の終わりを感じた。あんなに美しく、可愛らしかった我が子が、変わり果てた姿で目の前に現れたんだ。妻には見せられなかった」<br />「……娘を蘇らせようと思ったのは、その時でしょうか」<br />「いいや。もう少し先だね。妻も心を病み、自殺したあとだ。私は一人この世に取り残され、どうする事も出来ずに日々を過ごしていた。研究だけに身を打ち込み、狂わぬようにと、自我を保とうとしていたが、それにも無理があったよ。薬でもカウンセリングでも、限界が観えた。そんな時だ。娘の一周忌に、君の祖母、欅澤花に出会った。互いに深い闇を抱えていてね、娘が学院で日々をどう過ごしたのか、実家ではどんな子だったのか、どんな生活をしていたのか、学院ではどんな子だったのか、花と沢山話をした。それで気が晴れると思った。ただ――そう。花は、美しかった。今の君のように、美しい彼女も、心を埋め得る人を探していたのかもしれない。恥ずかしい話さ。彼女は十八、僕は三十後半だよ。しかし当時はそれでも良かった。互いに同じものを共有し、憎むべき敵を見据えていた」<br />「まさかとは思いますが、うちの母は」<br />「ああ、心配しないでくれたまえよ。杜子君は、ちゃんと君の祖父の子だよ」<br />「そう、ですか」<br />「彼女は、前を向くのが早かった。心情はどうあれ、彼女はしっかりと未来を見据えようとした。恐らく、復讐の為に。私は後ろを見てばかりだったよ。彼女の後悔を受けて、彼女を……幸せに出来ないだろうかと、考え始めた。私は、遺伝子工学の権威だ。ヒトゲノムの解析も新たな時代に突入しようとしていた、そんなとき、思ったのさ。――陳腐な話だが、どうにかして、妻と娘を蘇らせる事は出来ないかと。自分にはその知識がある。しかし資本が、施設が、人材が、つまり権力が足らない」<br />「……貴方は、七星で上に上がる事を目指した」<br />「必死だったよ。あらゆるライバルを蹴散らし、兎に角上を目指した。悪魔と罵られようと、構わなかった。愛すべき妻と娘、そして欅澤花と自分に、幸福を齎すには、何もかもを手に入れる必要があったからさ。私は、彼女達の笑顔の虜だった。美しい彼女達に、微笑んで貰いたかった。離れて行ってしまった花に、もう一度、振り向いて貰いたかったんだ」<br /> 彼は、立ちあがる。<br /> ガゼボの柵に手をかけ、遠くの景色を眺めながら、言う。<br />「どんな汚い手段を用いても、この世の全てを敵に回しても、私はね、自分の欲求の為、美しいあの子達に、君達に振り向いて貰いたくて――かの国を十三個に分割し、複数の命を弄び、新しい命を弄び、全てを犠牲にして、全てを達成しようと、したんだ」<br /> 振り向く彼の目元には、涙が浮かんでいた。<br /> 掛ける言葉はない。<br /> 四十年に及ぶ妄執の実行者であり、日本国王である彼に、一婦女子がなんと声をかけようか。<br /> 同情はしないし、出来ない。するには被害を被り過ぎた。<br /> しかしだからと言って、否定も出来ない。<br /> 彼は、復讐鬼として有り得た可能性の一つなのだ。<br /> 杜花とて下手をすれば、似たような事をしたかもしれない。<br /> 復讐しようと、幸福を得ようと、我武者羅に突っ走った結果に訪れた、人の身にして神となった、祟りである。<br />「撫子は、失敗に終わりました。あれは、目覚めさせても、また暴走するでしょう。貴方はそれでも繰り返すんですか。何度でも、何度でも、何度でも、悲しみを増やし続ける気ですか」<br />「魂の再縫合は、大きなリスクを伴う。その都度修正し、最適化する。あらゆるデータの結晶、過去、もっとも撫子に近づいた市子は、完成する筈だった。撫子の暴走とて想定内だった。二子はその為に実験台にもなったし、その為の修正プログラムも編み込んであった。しかし、ダメだったね――――兼谷はね、確実に利根河恵だよ。我が妻さ。だから、不可能ではないと、想うんだがね。やはりESPがネックだ。取り除いたものを造ろうか? しかしそれでは別物だ。そう、無くてはならない。また、幾つも検証する必要がありそうだね」<br />「おかしいと、思わないんですか。死者を蘇らせる行いを、疑問に思わないんですか」<br />「考えたさ。考えたよ。良い事か悪い事か、恵は成功してしまった。そう、出来る可能性があるならば追求してしまう。そういう人間になってしまったんだよ、私は」<br />「おかしいと思わなかったんですか。力を得、手段を得、妻のクローンを造り、魂を再縫合し、その結果を得て、更には娘に取りかかった。その間に、貴方は葛藤しなかったんですか。もう後には、下がれないんですか」<br /> カップを置き、立ちあがり、一郎の前に立つ。杜花は一度顔を伏せた後、彼を睨みつけた。<br />「貴方が愛したヒトの孫を弄っても! 被害者の遺伝子を冒涜しても! 娘のクローンを大量に作って、実験台にしても!! 貴方は!!」<br />「怒っているかい、杜花」<br />「冷静でいられるほど、私は人外ではない」<br />「ごもっともだ。告白しよう。君、早紀絵君、アリス君、更に、七十人程、既に亡くなった者を数えれば数百人程、遺伝子を弄り、状況を再現した子達がいる。日本の女子校のどこかに『御姉様』に従う『妹達』が、沢山いるよ。君達は、その中でも最も可能性が高く、期待が持てた――ケースナンバーA1だ」<br />「きさま――貴様……ッ」<br />「殴るかね? 日本国王を!! 七星一郎を!!」<br /> 拳を握りしめる。<br /> 護衛はいない。<br /> たかが若づくりの老人一人だ。<br /> 杜花の力をもってすれば、一撃で半殺しである。<br /> ただそれは、それだけはいけない。<br /> それをやってしまえば、国を丸ごと敵に回す事になる。<br /> 以前の欅澤杜花ではないのだ。杜花には既に、守るべきものがあるのだ。<br /> やめろ。<br /> ――やめろ。<br /> 二子が目を瞑る。早紀絵が歯を食いしばる。アリスが、ただ祈る。<br /> 目を思い切り瞑る。<br /><br />『大人になると、守るものが増えるそうです。お父さんが言っていました。この人を怪我させたら、この人に酷い事をしたら、自分達まで大変になるって』<br /><br /> 殴られて、顔を腫らした、早紀絵の顔が脳裏をかすめる。<br /> そして杜花は、拳を解き放った。<br />「――ッ!」<br /> ガンッ、という鈍い音が庭園に響き渡った。<br /> 杜花は……そのやり場の無い拳を、ガゼボの柵に叩きつける。<br />「……殺されるかと思ったが、優しいな、君は」<br />「――全てを投げ捨てるには、もう、背負い込みすぎました。私は貴方を殴れない」<br />「殺される覚悟で来たんだ。この花束は、自分の墓前でも捧げようと思ってね。解る。本来なら、地面に頭をこすりつけて、謝るべきなんだ。しかし出来ない。私が頭を下げるという事は、七星という国家企業が、大日本国という国家が、頭を下げる事になるんだ。私はもう、純粋に人に謝るには、あまりにも大きすぎるものを背負い込んでいる。言葉で謝罪する事しか、できない。済まない、杜花」<br />「許しません」<br />「そうだろうね」<br />「許しません。けれど、私達は結局、貴方の掌の上から、逃れる事が出来ない」<br />「――聞こう。欅澤杜花。悪い大人に反逆する、愚かな君の意見を」<br />「私は、私達は……何も知らず、ただ静かに、寄りそいあっていれば、それで幸せだった。けれどそれすらも、貴方が与えてくれたもの。私達の希望と絶望は、全て貴方が作りあげたもの。その過去を好しとして、今を否として、それでも私達は、逃れる事が出来ないでいる。私達は、市子に出会えて、幸せだった」<br />「市子が、本当に好きなんだね。撫子と、花としてではなく、市子と、杜花として」<br />「どうあっても逃れられないのならば、では貴方に縋りつくしかない。大きな枠組みの中で、自由に居させて欲しいと、滑稽にも叫ぶのが、私達です。貴方は許せない。でも、私は貴方を殺せない。ニコが、サキが、アリスがいる。私は、不自由の中で、自由の幻想を夢見て生きる、決意をしました」<br />「大人になるという事は、妥協するという事さ。辛いだろう、大人は」<br />「要求を伝えましょう。呑んでもらわねば困る」<br />「ああ。君達の被った苦痛に対して、有形無形問わず慰謝料を払おう。悪い大人の私には、それしか出来ないからね。土下座すら出来ないんだ。言いたまえよ。教えてくれ。君が望むものを」<br />「二子は、もう二度と、実験材料にはしないでください。この子は、私が責任を持ちます」<br />「……二子はどうかな」<br /> 一郎が二子に向き直り、その強烈な視線を向ける。二子はわずかに怯えた素振りをした後、頭を振り、気丈に向き合う。<br />「私、お父様が、許せないわ」<br />「そうだろうね。君を、散々と弄り回した。君が、希望であったから」<br />「でも、お父様は、優しくしてくれた。私のお父様で居てくれた。それは、嬉しいの。だから、その過去について、私は何も、貴方を責めたりはしない。ありがとう、お父様」<br />「……では、どうするかね」<br />「私、御姉様と一緒に居るわ。お父様の代わりに、モリカに謝り続けるの。それで、私も幸せになるの。撫子ではなく、七星二子として。お父様。一郎お父様。私は、七星二子。二子よ!」<br /> 涙ながらに、二子が叫ぶ。彼女は個人としての矜持を父に叩きつけたのだ。モリカの為に市子の代替えにはなろう。だが、決して自分を捨てたりはしないと。自分が望むからこそそうするのだと、二子は示した。<br /> 一郎は、感慨深そうに頷く。<br />「……解った。二子には、一切手出しをしない。撫子の器になど、もうしないよ。ただ支援はするよ。何せ高級品しか知らない子だ。欅澤では養うに難いだろうからね。結晶を埋めている以上、メンテナンスも必要だ。つまり、君は懸念を抱く必要は一切ない。これ等の請求は全て明文化しよう。この世で最も重い、私のサイン付きだ」<br />「いい、のね」<br />「いいさ。二子。謝って許して貰えるようなものではない。それぐらいさせてくれ」<br />「……うん」<br />「では、次だ。何でも聞こう。大体の事はね」<br />「……次に、市子のクローンなど、造らないでください。吐き気がする」<br />「……ふむ。まだ存在しないよ。予定があれば造っただろうがね。解った。他にはあるかね」<br />「これは全て、承諾済みです。私も悪い子供なので、使えるものは使いました」<br />「市子の身柄、かな」<br />「引き渡してください。市子は、私達が守ります」<br /> ああ、と。一郎は頷いてから、手首に嵌めた端末を弄る。<br /> 想定していただろう。むしろ、ここに呼ばれた最大の理由はそれしかないのだ。<br />「欅澤、満田、天原で、彼女の生命維持医療を折半するんだね。なるほど。まあ一般的な生命維持であるから、大した金もかからないよ。本当なら、頷いてやりたいところなんだが……そうもいかない」<br />「――どういう、ことですか」<br /> 一郎は、花束を杜花に預け、ガゼボから出る。そしてそのまま、庭園の出口へと向かうのだ。<br /> まさかここにきて、それだけは出来ないなどと、言い始めるつもりか。<br /> これは権利上の問題など超越した位置にある問題だ。どうあろうと、呑んで貰わねば困る。<br />「どこへ行くんですか、真さん」<br />「交渉がこんなにも不利に進んだ試しがね、私は無いんだ。ここまで苦戦するのは、たぶん産まれて初めてだよ。私は常に勝ち続けて来た。負ける事なんて許されなかった。七星一郎とは、勝ち続けるからこそ、名乗れる名前なんだ。七星に負けは許されない」<br />「不戦勝にでもするつもりですか」<br />「はっは。敵前逃亡なんて、負けよりも惨めで愚かだよ。解るだろう。七星一郎という奴は、兎に角手を裏から回していないと、気が済まないんだ。人よりも十歩は先に、いなければいけない」<br /> 一郎は足を止める事なく、庭園の出口へと向かう。<br /> 何を考えているのか、さっぱり解らない。<br /> どうして今、そのような事をする必要があるのか。勝ちも負けもないならば、別の方法もあろう。<br /> 二子、アリス、早紀絵が、杜花に寄り添う。<br /> ただ、この場を去ろうとする、七星一郎を止める手段が無い。<br /> 追いかけて蹴り飛ばす訳にもいかない。<br /> 自分達は、ことごとく、無力だ。<br />「……待って――待ってッ」<br />「ああ、そう。君達は、私の掌の上にある。如何に努力しようと、反逆しようとも、私の掌からは逃げられない、可哀想な小鳥たちだ。ただね、こんなにも美しく、こんなにも活き活きとして、こんなにも、私の心を無茶苦茶にする、愛しい君達にはやはり、ご褒美も必要だと思うんだ。杜花、君は不自由の中の自由を夢見たね」<br />「そうすることしか――出来ないから」<br />「宜しい。君は私を幾らでも恨みたまえよ。幾らでも憎みたまえよ。君にはその権利がある。そして私は、その美しい目線を受けて、それを愛でるんだ。私はやはり、この国の王であり、人を翻弄する怪物であると、自覚出来るからね。諦めない。何度でも繰り返す。ただし、区切りは必要だ」<br /> 杜花は、目を細めた。<br /> 庭園の入り口に、人影が映る。<br /> 一人……いや、二人か。一人は、その手で何かを押している。<br /> 一迅の風が吹き、庭園を撫でた。<br /> 花弁が舞い散り、四人の目を覚ます。<br />「あ……あ、あ」<br /> 入口から、二人の人間が現れる。一人は兼谷。彼女はその手で、車椅子を押している。<br /> 杜花は花束を取り落とし、二子は嗚咽を漏らし、アリスは泣き崩れ、早紀絵は顔を覆った。<br />「ああ……あああ……ああああっ」<br /> 杜花の足が前に出る。力が入らず、転びそうになる。それでも無理矢理立ち直り、前に進める。<br />「嘘……嘘嘘……嘘だそんなの……嘘だぁ……ッ」<br />「嘘じゃあないさ。私は君が好きなんだ。なるべくなら、笑顔でいて貰いたいんでね。出来る限りの全てを尽くした。私は、己が欲望を達成する為に、生きているんだ」<br /> 庭園に姿を露わした兼谷が、杜花に一瞥した。事件の後遺症も観られない。<br /> 彼女は達者な足取りで、車椅子を押して来る。<br /> 車椅子に座っている人物は穏やかな笑顔で、その両手を広げ、杜花を待っていた。<br /> 酷い世界だ。<br /> 酷い現実だ。<br /> こんなくそっ食らえな世の中に、吐き気がする。<br />「いちこ……」<br />「もりか。ごめんね、まだ、うまく、声が、でなくて」<br />「市子……市子……ッ」<br />「彼女はナチュラルだ。サイバネすら使っていない。眠っている間ずっと、君の事だけを考えていたらしい、マッピングデータは、君の映像で埋め尽くされていたよ。悩みたまえ、迷いたまえよ。君は、その一生を費やし、君を慕う子達に、愛を注がねばならない。何かあれば、何時でも連絡してくれ。君が好きだ。幾らでも、力になろう。……兼谷、あとを任せた」<br />「はい。真さん」<br />「……くすぐったいよ、恵」<br /> 七星市子が、目の前にいる。<br /> どうしたことだろうか。どうすればいいだろうか。<br /> 箱庭の女王は、笑ってよいものだろうか?<br />「もりか。おはよう。なんだか、長い夢を、みていた、きがするの」<br />「うん……うん……」<br />「ごめんね……あなたを、束縛して。これからは……いいのかしら。みなで、仲良く出来るかしら。撫子が、夢見たように……わたし、努力、するわ。あなたが、他の子を好きでも、がまんできる、ように」<br />「うん――、うん。市子、私、わたしね……」<br />「いいわ。なにも、いわなくても。きて。抱きしめて。生きているって、実感させて」<br /> 市子に縋りつく。もう、声も出ない。一生分の涙が、音もなく流れ落ちるだけだ。<br /> 二子が、アリスが、早紀絵が、市子に群がる。<br />「姉様、姉様……ッ」<br />「御姉様……私……御姉様ッ」<br />「馬鹿市子……馬鹿……また杜花が、悩むじゃない……馬鹿……ばかぁ……ッああっ、ううぅぅッ」<br />「幸せに、なりましょう。わたしたちで……わたしたちなら……」<br />「……」<br />「なあに、もりか」<br />「――おかえりなさい」<br />「――うん、ただいま」<br /><br /> 歓ぶ他、無いのだろう。<br /> 例えそれが与えられた幸せだとしても。<br /> 夢見まで観た幸運を、欅澤杜花は否定出来ない。<br /> 心象の幻想が渦巻く楽園に齎された、人工寓話を切り抜けた先に、そのような現実が待ち受けていたのならば、杜花は決して、否定出来ない。<br /><br />「七星一郎――ッ」<br />「ああ、なんだい!」<br />「絶対に許さないから! くたびれて、五衰して! 野たれ死ぬまで、絶対に!」<br />「望むところさ。想い続けてくれ。それこそ、人が人を生かすという事だ!」<br /><br /> 庭園の乙女たちは、ただ涙する。<br /> 理不尽な過去に後悔を抱きながら、来るべき未来に想いを馳せながら、<br /> 明日の恋の為に。<br /><br /><br /><br /><br /> 心象楽園/School Lore 了</span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-32514073236604509372013-04-26T20:00:00.000+09:002013-04-26T20:00:17.150+09:00心象楽園/School Lore プロットストーリー5<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<br />
<span style="line-height: 27px;"> ……。<br /> その心はいつも一人ぼっちだった。<br /> 小児ではありえない客観性と自意識は同年代の子供と群れる事を否定し、欅澤杜花を取り残す。あまりにも冷めた杜花の態度には、母の杜子ですら気味悪がったものだ。<br /> 祖母は常に厳しく、どんな困難を杜花に与えても、出来て当然という態度であった。<br /> そんな様子を、父も祖父も観ているだけだった。<br /> 辛いとは思わない事にした。<br /> 考えれば考えるだけ不満は大きくなるだけだと、まだ年端もいかぬ子供が悟ったような顔をして過ごした。<br /> 何一つ幸福を実感出来ない杜花に笑顔は一つもない。<br /> やがて小さな幸福をかき集める作業すら忘れてしまった。<br /> 欅澤杜花は、戸籍上法律上個人として保障されているだけで、その実中身は何も入っていない、空っぽなのだと、そう思い始めるのも遅くなかった。<br /> 欅澤杜花という名の何かは、別なものの器なのだ。<br /> だから、自分を探しても見つかるわけが無い。<br /> 自分は神を降ろす器。<br /> 巫覡の子。<br /> 今後も事は無く、意味も無く、血を通わせるだけの肉袋としての生を全うするのだ。<br /> 人間とは何なのか。<br /> 何もない自分もまた人と呼ぶのか。<br /> 伽藍のような心の内に詰めるものはあるのか。<br /> 詰まったところで、それを人間と呼ぶのか。<br /> 欅澤杜花は、欅澤杜花個人として成り立つ日が訪れるのか。<br /> その問いに対して、答えを探す無力感があったのだ。<br /> やがて、それすら考える事を止めた。<br /> そんな何もない自分は、祖母の勧めで観神山女学院などという、大仰な女学院に入学させられる。特例の上の特待生で、その条件は中学までに何かしらの結果を残せという、とってつけたような条件である。<br /> 祖母が何を期待したのか、杜花には知る由も無かった。<br /> 小等部一年から三年まで、杜花は何事も無く、恙無く、いつも通りの空虚な日常を送る。<br /> 笑うでなく、泣くでなく、怒るでなく、感情の一つも見せない杜花に、クラスメイト達は違和感を覚えつつも、誰も言及はしなかった。<br /> やはり学校でも、杜花は触れてはならない何かであるし、自分もそうあろうと徹底した。<br /> 何も無い杜花であるが、自信を持てるものを強いてあげるならば、その異常な反射神経と狂った予知能力、そして運動神経である。<br /> 九つになる頃には、並の大人などまず立ち合って勝てるものでは無くなっていた。<br /> 相手の機微が、相手の攻撃が、筋肉の動きが、呼吸が、敵意が、全て目に見えるのである。<br /> 倒すのに筋力は必要ない、バラバラな足取りを掬ってやればそれだけで相手は転ぶ。転んだ所に蹴りをかましてやれば、幾ら大人とて悶絶もするだろう。<br /> 相手をぶちのめす事に何の躊躇いも感傷も無い。<br /> ただこれも、誇り一つ持てない杜花からすれば、空虚なものである。<br /> ――どうせ、誰も褒めてはくれないのだ。<br /> ねじまがった精神に凶悪な身体能力。<br /> 自分に並ぶ価値のあるヒトなど無く――また自分すらも無価値。<br /> 人に意味を見出す事はなく、その人生の幼年期はまるで空白だ。<br /> だから、人間何たるか、個人何たるかなど、考える必要はなかった筈なのだ。<br /> 全ての転機が訪れる小学四年生になるまでは。<br />『……さんのおはなしでは、どこかにちいさな庭園があるとのことでしたわ』<br /> ある日のこと。<br /> クラスのおしゃべりが、そんな話をしているのを耳にした。<br /> 普段なら気にも止めないものなのだが、杜花には庭園というキーワードが妙に強調されて心に沁みついた。<br /> 直ぐその日の午後に、杜花は一人で噂される場所へと向かう。<br /> 高等部校舎が並ぶ方面に、小等部の生徒はあまり立ち寄らない。物珍しく、人形のような杜花を見て何事かときゃあきゃあ喚く高等部の御姉様方を無視して、杜花は一人道を進む。<br />『あらら……何処行ったんだろ……猫やーい?』<br /> 白萩や高等部第二校舎に通じる躑躅の道に差し掛かったところで、杜花の耳に子供の声が届く。こんなところに踏み込んでいる小等部生徒は数少ない。<br /> 視線を向けると、そこに居たのは、腰まである長い黒髪を靡かせる、ハツラツとした少女であった。<br /> 名前は知っている。七星の子だ。<br /> 自分とはまるで接点の無い、違う世界の娘だ。<br /> 本来なら無視するところだったが、少女は直ぐに杜花を捕まえてしまう。<br />『あら貴女、こんなところでどうしたの?』<br />『用事があります』<br />『そう、猫。可愛いと思って、ハンカチを括りつけたら、逃げられてしまったの!』<br />『そうですか。では』<br />『ああっと。待って、何処に行くの? ここから先は御姉様方の校舎しかないわ』<br />『……小庭園を探しに』<br /> その時の少女の顔を、杜花は未だに忘れる事が出来ない。<br /> 一瞬驚いたような顔をした後、直ぐに華が咲いたかのような笑顔になる。<br /> 人を何とも思っていなかった杜花に、感情らしい感情を芽生えさせるだけの、鮮烈な笑みであった。<br /> 彼女はなんと美しく微笑むのだろう。<br />『場所を知っているわ。教えてあげましょうか?』<br />『でも、猫は?』<br />『だから、貴女が猫を捕まえて、その御礼に教えてあげるのよっ』<br /> 屈託の無い笑い。<br /> 何の背景も感じさせない感情。<br /> 無垢とはこれなのだと、幼心に思う。<br /> 逃げ回る猫を捕まえるなど、いささか子供離れした勘と身体能力を見せ付けてから、杜花は少女に案内され、小庭園にまで訪れる事になった。<br /> 春の色満ちる小庭園は、どこか懐かしい。<br /> 伽藍の心に決して有る筈のない光景はしかし、どんな琴線に触れたのか、杜花は涙を流す。<br /> 少女に手を引かれ、ガゼボに腰かける。<br />『素敵に、見えるかしら?』<br />『はい。とても。だからなんだか、悲しくて』<br />『御名前は?』<br />『欅澤家長女の、杜花です』<br />『ああ、貴女がそうなのね。私は市子――七星家長女の、七星市子よ』<br /><br /> ――手を触れ、指を絡めた瞬間に、己が何たるかを悟る。<br /><br /> 自分はこの人の為にあったのだと、真っ白な心が市子の色に染まって行くのが解った。<br /> 自分はこの神を受け入れる為に居た器なのだと、百万ピースのパズルが埋まるような達成感に打ちひしがれる。<br /> たまらなく涙が流れる。<br /> 自分が何たるかを初めて知り、感動のあまり嗚咽を漏らす。<br /> 欅澤杜花は七星市子の為に居たのだ。<br />『泣かないで。泣かないで。そう、そうなんだ。私、そっか――』<br />『いきなり、ごめんなさい。でも、聞いて欲しいんです。お願いがあるんです』<br />『なあに、杜花』<br />『ずっと一緒に居て欲しい。解るんです。私、貴女の為に居るんだって』<br /> 出会って数分の出来事だ。<br /> 通常ならば頭のおかしい子と思われただろう。<br /> しかし市子にとっても、それは願っても無い言葉であったらしい。<br /> それもそうだ。<br /> すべてそのように仕組まれていたのだから。<br /> ……。<br /><br /> ぶ厚い雲が空を覆っている。夜になれば雪も降るだろう。<br /> 杜花はあても無く学院内を歩き回っていた。もしかすれば、構って欲しいのかもしれない。<br /> 中央広場にまで赴き、何時も鍛錬の拠点にしていたベンチに腰かけて、周囲を見渡す。<br /> 視界の端に、市子の妹だった生徒が映った。<br /> 彼女はこちらに気が付くと、小さく会釈し、他の子達の輪に加わって行く。<br /> 小等部四年から、七年間。<br /> 市子の妹として暮らして来た。体裁としてはそうだ。実質の所、運命共同体である。互いに何かが起こった場合、その身を張りあう存在だ。<br /> 名だたる家柄の姉妹達を抑えて、ほぼ一般家庭の家に生まれた杜花がその位置にいる事を、良く思わない子もいた。<br /> 彼女達が抱く嫉妬は杜花を刺激し、なおかつ、優越感に浸らせてくれる。他人の恨みが心地よいのだ。<br /> 彼女達からすれば、七星市子は七星というブランドである。そんな事だから、市子も察して、それ以上親密になろうとはしなかったのだろう。杜花が観ていたものは、市子そのものである。<br /> 一線を通り越した仲だ。家族すら介入出来ないと、本気で考えていた。<br /> 掌を見つめ、握り拳を作る。<br /> 誰にも褒められる事が無かった、ただ妬みしか生まなかったこの拳もまた、市子によって価値を与えられたものだ。<br />「あら、杜花さん」<br /> 呆けた頭を振り、声がする方を向く。三ノ宮火乃子だ。その手には教科書の束が抱えられている。<br />「火乃子。どうしましたか」<br />「これから談話室で先生の個人授業を受けに。杜花さんこそ、寒くないですか?」<br />「良いんです。構ってもらおうと思って、ここにいましたから」<br />「貴女の口から聞けそうにない言葉を聞いている気がします。隣良いですか、良いですね」<br /> 言って、火乃子が隣に座る。<br /> 本当に印象が変わった。<br /> 以前の薄暗い雰囲気は消え、がり勉、というよりも勉強のデキル子、という明るい空気を纏っている。歌那多との関係も良好なのだろう。<br /> 家柄が良く、勉強が出来て、容姿も良い。そして人のモノだ、というのは、ある意味ステータスだ。<br /> 歌那多は今後、迫りくる敵と戦う事になるだろう。<br /> 歌那多が必死に火乃子の気を引こうとする姿を想像すると、思わず笑みがこぼれる。<br />「どうしました?」<br />「歌那多さんとは、良好ですか」<br />「ええ。とっても」<br />「驚きました。ずっと、私を見ているとばかり思っていたから」<br />「酷い。解っていて、あんな態度とったんですか?」<br />「ええ。酷い人間なんです、私は」<br />「それは、私もです。……あれ、でも。そうだ。何か、私は酷い事を、したような」<br /> 火乃子は頭をポリポリとかく。思い出さなくても良い事だ。<br />「良いんですよ、今は思い出さなくて。貴女は幸せになれる」<br />「そうですね。幸せにしなきゃいけない。ならなきゃいけない気がします。そう決意、したと思う」<br />「酷くない人間なんて居なくて、清らかな心で居られる人間はいなくて。全部全部、己の欲求によって動いているし、回っている。私は殊更、それが酷かった。社会に不適合な人間の見本です」<br />「そんなに卑下して。どうするんですか。慰めろとでも?」<br />「そうです。突っぱねた後輩を、今になって慰めの対象にしようとしています」<br />「――嘘ばっかり。興味も無かったくせに」<br />「……あはは。うん。ごめんね、火乃子」<br />「良いんです。私は、貴女を目指した事で今がある。貴女を倣ったからこそ、歌那多に色々と教えてあげられる。私は貴女に感謝こそすれど、怒るなんてお門違いも甚だしい。どうしました、杜花さん」<br /> どうしたのだろうか。自分でも、良く分からないのだ。<br /> 寂しいのは間違いない。苦しいのも外れではないだろう。<br /> そして、嗚呼と、一つ思いついた。<br /> これは懺悔だ。そしてお別れの挨拶でもある。<br />「私、貴女達に慕われて、幸せでした。こんな、実も無いような女を、気にしてくれて有難う」<br />「ちょ、ちょっと。杜花さん? 今生の別れみたいな言い方しないでください」<br />「近いうち、目が覚めるでしょう。自分が背負い込んだものも思い出す。愛する人を、幸せにしてあげてください。私には出来なかったから。守ってあげてくださいね」<br />「え、ええ。あ、杜花さん?」<br />「ごめんなさいね」<br />「――あ――いや……それ……ああ……も、杜花さ……」<br /> ベンチから立ち上がり、火乃子に背を向ける。<br /> 漸く、自分が何をしたいのか、解り始めた。<br /> 別れの言葉を述べるでもなく、杜花は火乃子を振り切って次の場所へと向かう。<br /> 御世話になった人、市子の妹達、様々だ。<br /> 皆一様にして、杜花が何を言っているのか理解出来ないという顔である。それで構わない。<br />(本当に……私には、何一つ無かったんだ)<br /> フェンスに囲われた校庭の脇を抜けて、総合部に顔を覗かせる。<br /> 鍵は開いているが、中に部員の姿は見受けられない。校庭には見当たらない事から、ランニングに出ているのだろうと解る。<br /> 杜花は部室の真中まで来ると、靴と上着を脱ぎ、一礼してリングに上がる。<br /> 自分が最も自信の持てたもの。<br /> 自分を形成していたもの。<br /> 自分の評価を形作ったものが、これだ。<br /> しかしその全ても偽りであった。<br /> 自覚無くとも、反応速度向上化手術やプログラムを受けた人間は、あらゆる試合で参加不可である。<br /> 強い欅澤杜花とは、幻想の産物なのだ。<br /> 総合格闘技若年部女子日本チャンプなど、本来杜花には届かないものである。<br />「フゥ――ッ」<br /> 右足を前に、右手を軽く握り、脇を締めるように引き、左拳を放つ。<br /> 衣ずれと、拳が風を切る音だけが道場に響き渡る。<br /> 踏み込み、右上段蹴りから左回し蹴り。<br /> 姿勢を即座に正し、左右正拳突きからの受け流し、投げの型に繋げる。<br /> テンポよく体捌きを重ね、一連の動作を終えると、拳を両脇に引き絞る。<br /> この拳で、蹴りで、投げて、寝技で、捩じ伏せて来た。<br /> 才能ある人の自信を打ち砕き、才能ない人の夢をずたずたに引き裂いた。<br /> 市子と出会ってからというもの、ましてそれを快感とすら思っていた。<br /> 特に可愛らしい女性が、関節をキメられて悲鳴を上げる姿など、驚くほど気持ち良くなれる。必要もないのに寝技に持ち込んだ事もあった。<br /> 勿論、その人物をどう思っている訳ではない。要素としての快感。<br /> つまり自慰だ。<br /> そんなものの為に、杜花は公式戦、練習試合、その他諸々で、何人もの選手をダメにした。<br /> この偽りの強さでだ。<br /> しかも、そんな偽りの強さを、欲する人がいる。<br /> 強い女性を夢見る人、強い杜花が、好きな人だ。謀らずしも、騙し続けてしまったのである。<br />「あら。もう終わり? もっと見たいな」<br />「――風子先輩」<br /> ランニングから戻って来たのか、風子はタオルで汗を拭い、そのままリングに上がる。<br /> 三ノ宮風子。そんな偽物の強さに惚れてしまった、可哀想な人だ。<br />「身体あったまった所なんだ。手合わせ願える?」<br />「ダメです」<br />「そう言わずにさあ。もう暫くぶりじゃん。私達」<br /> グローブも無しに彼女を殴れない。<br /> ましてこれは嘘だ。<br /> そんなもので、もうこれ以上何の過失もない人を傷つけられない。<br />「よっ」<br />「あっ」<br /> 完全に不意をつかれた。いや、抵抗する気も無かったのかもしれない。<br /> 強い下半身から繰り出されるタックルが杜花の両足を掬う。杜花は背中からリングに叩きつけられ、仰向けになった。<br /> 風子も不審に思ったのだろう。マウントのまま、小首を傾げている。<br />「あり得ない。何してるの?」<br />「……懺悔をしに来たんです。貴女に」<br />「ちょ、ちょ。やめてよ、こんなところで。もすこしロマンスがあってもいいでしょーに」<br /> ほんの少しだけ躊躇い、口にする。<br />「つい最近、解った事です。私は、反応速度向上手術を受けています」<br />「なっ――」<br /> その言葉が、どれほどの裏切りなのか、杜花は解っている。<br /> その言葉がどれほど彼女の気持ちを傷つけるか、理解している。<br /> それでも、語らぬままでいる訳にはいかなかった。<br />「知りませんでした。でも、私の強さは全部嘘だった。ごめんなさい、風子先輩」<br />「……それ、どこで。いつ? 自覚無い内に、そんな事出来る訳……ない。まして、乳児に対する脳の改造手術は、法律で禁止されてる。思い違いじゃないの? 杜花、強すぎるもん。だから、なんか自分は改造人間なんじゃないかなーって、思っただけじゃない?」<br />「私も信じたくありませんけれど、状況から推察するに、答えはそれだけでした。私は、ナチュラルじゃない。貴女を、自覚無く騙していた。私は、貴女に好かれるような人じゃあ、無い」<br /> 両手で顔を覆う。<br /> 情けない。<br /> 虚しい。<br /> 申し訳無い。<br /> 市子以外の事で、もっとも自分を評価出来る要素が偽りであったのだ。自己否定も甚だしい。<br /> 何処まで行っても、市子無き自分は、空虚で伽藍なのだ。詰め込めるものが他に無い。<br /> こんな自分が、人を傷つけ、人の夢を打ち砕き、人の想いを無茶苦茶にしたのだ。謝って許されるものではない。<br />「……そっか。じゃあ杜花は、ルール違反の卑怯者だね」<br />「はい。そうです」<br />「でもねー。思うんだよ。貴女の格闘スタイルずっと見て来た訳じゃない、私。貴女は技術も知識も経験も、一級品でしょう。流石に体力や筋力が嘘って事もない筈だ。貴女は毎日のように鍛錬してたし、人一倍強い事には間違いないでしょう」<br />「だと、しても」<br />「……う、うちさ。ほら、道場立ち上げるっしょ。で、まあほら、選手は無理としても、トレーナーは必要な訳さ。……戦わなくても。指導は出来るでしょう」<br />「……風子先輩」<br />「ああああーーもう。違うの。そんなのどうでもいいの。貴女が好きなの! 貴女が選手としてダメだったとしても、私面倒みれるから! だから、そんな事言わないでよ。私、リングの上で活き活きとしてる杜花が好きなの! というか、貴女それと市子以外一生懸命じゃないし!」<br /> 風子は、杜花に覆いかぶさったまま、思いの丈を告白する。<br /> ずっとそうだった。<br /> 風子は杜花をずっと見ていた。<br /> そして、杜花はそれを無視し続けたのだ。<br /> 今になって、最後の最後で、これでは――誰も報われないではないか。<br /> そして自分の責任は、大きいのである。<br />「……ごめん、風子。貴女は好き。恩義もある。でも、一緒には居られないの」<br />「知ってるよそんなの。どうやったって貴女は市子が一番でしょ。知ってるよ。私の片思いだもん。てかさ、面と向かって断りに来たならさ、好きとか恩義あるとか、言わなきゃ良いじゃん!」<br />「弱い、人間なんです。ああ、これも、言うべきじゃ、なかった」<br />「ほんとにさ!! あーあ。なんかなー。もうさー、やんなっちゃうよぉ、ねえ、ああ、ううう、うぅっぅぅ……ッ」<br /> 杜花の顔に、風子の涙が滴る。<br /> そのまま縋られてしまい、どうする事も出来ない。杜花は泣きじゃくる風子を抱きしめる。<br /> 謝っても謝りきれない。裏切った上にフるなんて、最低も良いところだ。<br /> 思う。<br /> 幼い自分が、小生意気にも達観し、毛嫌いし続けた『人』という存在について、そんな脳内妄想がどれほど小さいものなのか、痛感する。<br /> 直に感情をぶつけられる事が、これ程に悲しいとは思わなかった。<br /> 相手を幸せにしてあげられない悔しさが、これほど虚しいとは思わなかった。<br /> 長い間抱き、ただ一時に散らす力の強さの、なんと切ない事か。<br /> これが人なのだと、その片鱗を受け取り、酷く風子が愛しくなる。<br /> だが、愛してはあげられない。<br /> 欅澤杜花が今後も生を存続する人間で、なおかつ、風子が多数の関係を許容出来る程大らかならば、一緒に居られただろうが、既に前提としてありえず、そのような状態には無いのだ。<br />「ごめんね。風子。ごめん……もう、行くから。またね」<br />「……うそつき。もう、顔も出さない癖に」<br />「風子、有難う」<br /> 風子が退く。杜花は静かにリングを降り、道場を立ち去る。<br /> 涙を拭う。<br /> 酷く疲れた。<br /> 覚悟は決めた、謝罪も終えた、そして今日の午後には、旧校舎へ赴く。<br /> それで終わりだ。<br /> それまで、少し休憩を取ろう。<br /> 横になって、疲弊した精神を少しでも取り戻して、七星市子『らしきもの』を殺すのだ。<br /> 単純に行くだろうか。<br /> 行くまい。<br /> 寮に戻り、自室の鍵を取り出そうとしたが、止める。鍵が開いている。<br /> ノブを回し、中を改めると――そこには彼女が居た。<br />「……サキ? どうやって」<br />「旧式だしさ、鍵。実はこっそり入れる。たまに貴女の寝顔とか、見る為に」<br />「馬鹿ですね、貴女は。どうしました?」<br />「えっちしよ」<br />「……馬鹿ですね貴女は、本当に……」<br /> 疲れていると言っても、どうせ聞かないだろう。早紀絵は小さな足取りで近寄り、杜花に抱きつき、胸に顔をうずめる。<br /> その身体は震えていた。きっと予感があるのだろう。<br /> そして、それを繋ぎとめる為に、こうしているのだ。<br /> まったくもって、風子に続いて早紀絵にまで泣かれてしまうとは、申し訳ない限りである。<br />「疲れちゃいますから、ダメです」<br />「そら、疲れさせようと、してるんだから、当然っしょ」<br />「もう横になります」<br />「ぐっ……じゃあ、一緒に寝る。良い?」<br />「――どうぞ」<br /> 上着を脱いで身体を横たえると、早紀絵が背中に縋りつく。まるで子供だ。<br /> だが、実質誰よりも、彼女こそが現実を見ている。小さい頃からそうだった。<br /> 何事に対しても、ふざけた振りをしてちゃんとする。感情に流され難く、物事を論理的に組み立て、自分の欲する現実に近づけようとする彼女こそが、自分達のグループでもっとも出来た人間である証だ。<br /> あの時の事。同世代の少女を殴ったのは、彼女が初めてだ。<br /> 聞き分けの無い糞餓鬼で、市子の言葉が無かったら近づきすらしなかっただろう。<br /> しかし所詮、第一印象でしか物事を見ていなかったのだと、今ならば反省出来る。<br /> 彼女は良い子だった。あれ以降、早紀絵は常に杜花に付き従い、何をするにも一緒だった。<br /> 最初こそ面倒くさかったが、真摯に杜花へ向かい合う態度は、他の誰も真似出来ないものだったろう。<br /> ただ、彼女を殴ったお陰で、杜花の曲がった性癖が覚醒したのは間違いない。人を見下しているのも相変わらずだ。どれだけ繕おうと、形成されてしまった三つ子の魂はずっと続く。<br />「モリカ、ずっとこうしてよ」<br />「腐っちゃいますよ」<br />「腐っても良いよ。モリカとならずっと腐ってられるもの」<br />「やる事がありますから」<br />「えー。今日何するの? いいじゃん、休みだし。グダグダしてればあ」<br />「サキ」<br />「……解ってるよ。希望くらい、語らせてよ」<br />「ん」<br /> 早紀絵は、目の前にある障害を無視するような子ではない。逃避も無意味だと知っている。<br /> 彼女は健気な子だ。<br /> 振り向きもしない杜花をずっと見て来たのだから。杜花の幸せを一番に考えて来たのだ。彼女が杜花の気持ちを察さない訳もない。<br /> あの時以来……もう何度キスしただろう。<br /> さみしさを紛らわせる為、ここに自分を引き止める為と、杜花は早紀絵を利用した。早紀絵もそれを望んでいた。だが、メイの言葉は突き刺さる。<br /> 所詮利用だ。<br /> 自分の都合の良いようにしか、見て居ない。<br /> そして挙句の果てに、その目論見は功を奏さなかった。<br /> 杜花は七星市子の呪縛から逃げられない。<br /> どう足掻こうと、杜花にとっては市子が一番なのだ。アリスも早紀絵も、愛しくは思う。<br /> でもそれまでである。それ以上がない。<br /> それで良いではないかという言葉もあるだろう。<br /> 何をそんなに夢見ているのかと。贅沢にも程があると。<br /> しかしながら、杜花の伽藍を埋めた市子は、こびりついて離れようとはしない。<br /> もし、人に生きる意味があるとするならば、それはいかなる形でも大切な人を想い続ける心にしかないのだ。少なくとも、杜花にとっての意味と価値は、それしかない。<br />「ごめんね、サキ」<br />「謝らないでよ。私、幸せだよ」<br />「ごめんね」<br />「良いの。そんなモリカも、私大好きだよ。二番目だろうと三番目だろうと、良いから。だからお願い。お願いだよ――どこにもいかないで……」<br /> 早紀絵は、察している。<br /> 杜花が何をするのか。<br /> 何かをした後、どうするのか。<br /> 杜花にとって全ては市子だ。半身は死に絶えたのだ。そして己の気持ちにも整理がついた。<br /> 自分が何者なのか悟り、この身が自分の物でも、市子のものでもない事を知った。<br /> 全てを彼女に依存した杜花の結末など、もう明らかなのだから。<br /> 状況をこのままにはしておけない。<br /> 撫子が完成したならば、今度こそ終わりだ。自分達は何の疑問も無く、全てを『受け入れさせられて』しまう。<br /> そうなってしまえば、もはや疑問を抱く事も、悩む事も、無くなってしまうのだ。<br /> そんなものを人間とは言わない。手段があるのならば、行使せねばならない。<br /> 他の誰にも出来ない事だ。欅澤杜花にしか、出来ない。<br /> 元から何も無かった欅澤杜花こそが、するべき事だ。<br />「やっぱり休めませんね。他愛ない話をしましょう。明日の予定だって良い。何だっていい。政治の話でも、経済でも良い。外交問題でも、そうですね、宗教だって語ります。勉強の相談もしあいましょう。未来について語るのも悪くない。将来の夢も、希望も、構わない」<br />「……やめてよ、そんなの」<br />「付き合って下さいよ」<br />「やだ、やだよ。なんでそんなに、残酷な事、いうの。モリカ、私、貴女が居なくなったら、どうすればいいの」<br />「貴女を愛してくれる人は、沢山います。私より立派な人だって、沢山いる」<br />「違うよ。モリカはモリカだけだよ。他と比べられない。そんなの、悲しすぎる」<br />「ダメです。貴女は、立派なお家の子なのだから。未来があるのだから」<br />「やだ。困る。私、モリカがいなきゃ死ぬ。というか自殺する」<br />「……困らせないでください」<br /> 縋りついていた早紀絵が離れ、床にごろんと落ちる。<br /> 何事かと振り向けば、彼女は顔を真っ赤にし、恥も外聞もなく、泣き散らしていた。<br /> 身体を起こして、ベッドの縁に腰かけると、早紀絵が脚に縋りつく。<br />「困らせてるのは、どっちよ!! なんでそう頑ななの!! なんで一つしか見れないの!! 貴女は貴女なのに!!! 自分の好きなようにした結果がそれだっての!? ふざけないでよ!!」<br /> 早紀絵の絶叫が部屋に響く。<br /> まったくもって正論で、反論しようがない。理性的な彼女に打ち勝つ手段を、杜花は持っていないのだ。論理外の理を歩もうとする杜花にとって、その言葉はあまりにも痛く、重い。<br />「でも、このままでは……」<br />「知ってるよ! でも、でも、他に方法があるかも、知れないし!」<br />「ありませんよ、サキ」<br />「あの、あの時だって――、一人で突っ走って……教室で、大人しくしてれば……あんな、あんな目にあわずともすんだかも、しれないのに……私を置いて……違う。違う違う違う」<br /> 早紀絵が頭を抱えてうずくまる。記憶の片鱗だ。<br /> 知りもしない、遺伝子共有存在の記憶。<br />「……アリスの言葉が、良く分かる。そうだね。状況に流されて甘受すれば、それが一番幸せだよ。私は今、モリカが兼谷達に止められれば良いと思ってる。脳髄焼かれるまで感応干渉食らって、廃人になろうとさ、モリカがいるなら、もうそれで良いや。彼等はきっと『優しい』から。私も幸せにしてくれるでしょうさ」<br />「言っていた事と、真逆です」<br />「前提が覆ってたら、そうなるでしょ。ふン。もう良い。勝手に行って、勝手に負けて、廃人でも障害者でも、何にでもなれば良い。安心しなよ。死ぬまで面倒みてあげるから。アイツ等が捨てても、私が拾ってあげるから。貴女が私を何番目だと思おうとも、私は貴女が一番好きだから。何でもいい。だから、お願いだから……どんな形でも良いから……死なないでよぅ――」<br /> ……七星一郎が、どんな形であれ、娘を蘇らせようとした気持ちを、早紀絵は察しているのかもしれない。<br /> それは結局自己満足に他ならない。<br /> 想われる本人がどう思おうと、それは度外視だ。<br /> 人間は自分が一番愛しい。<br /> しかしそれこそがこの種族を繁栄して来た本能であり理性なのだ。<br /> 優しさという偽善、欺瞞。<br /> 相手を救いたいという傲慢が、世界を動かしている。<br />「サキ。ごめんね……手紙、あるかな」<br />「……」<br /> 早紀絵は、胸ポケットから、市子の手紙を取り出し、無言で杜花に差し出す。<br /> 杜花は立ち上がり、上着を羽織る。<br /> 笑顔で言う。<br />「じゃあね。サキ。私、貴女の事、大嫌いでした」<br /> 優しすぎる早紀絵が、大嫌いだ。<br /> 優しすぎるアリスが、大嫌いだ。<br /> 欅澤杜花は、二人の口にする愛も恋も、心の底から信じている訳ではないのに、信じられたならば良かったのに。<br /> 張り裂けそうになる胸を抑えて、杜花は部屋を出る。<br /> ドアの内側からは、彼女の泣き声だけが響いた。<br /><br /><br /><br /> プロットストーリー最終章 狂人達の夢<br /><br /> <br /><br />『デリートコードは「NH16557623030043-9899012245」です。七百桁あったものを短縮書き変えしました。聴覚認識から承認が行われ、記録媒体の無線LANを介してバックアップサーバデータをデリート後、私自身のオリジナルデータを消し去ります』<br /> 英数字を暗記し、胸ポケットに仕舞い込む。<br /> 準備らしい準備は何もない。身一つだ。ただ覚悟だけがある。<br /> 雪かき整備された道を進み、旧校舎入口に立つ。<br /> 冷たい薄茶色の鉄扉は、その口を閉ざしているように見えたが、ノブを捻ると簡単に開いた。<br /> 元から薄暗い空気のある場所であるが、今日は殊更暗い。まだ日は落ちていないが、ぶ厚い雲に覆われた空からの日光は期待出来ない。<br /> ふと、今の状況を顧みる。<br /> 杜花の奥底にある、記憶の片鱗。どのような手法で刷り込まれたのかは知らないが、撫子に近づくにつれて、花が当時見たであろう情景が、色濃く蘇る。<br /> まだ撫子は再現されていない。<br /> ともすると、兼谷はどのような構想を抱いていたのか、という問題にぶち当たる。<br /> 今現在、それは彼女等の想定した事態から、はみ出しているのか、否か。<br /> この校舎に踏み込む事で、もしかすれば、それこそ、兼谷の謀略の中に、入り込んでしまうのではないかという懸念がある。<br /> 関係不和による仲違いからの……占拠事件。<br /> この校舎はその舞台だ。<br /> 市子は撫子を再現しすぎたが故に、死出の道を歩んだ。つまるところ、そういった危険性をも孕むのが、彼女等の言う『魂の再現』でありデータの補完作業なのだろう。<br /> 兼谷が再現とやらを増やそうと思うのならば、その顛末まで再現し切るのではないか。<br /> しかし、よしじゃあ止めよう、という選択肢があるか。<br /> 日本国内、外地程度にはまず逃げ場はない。七星が欲しているものは、必ずや蒐集される。杜花が早紀絵を連れて逃げた所で、意味は無い。ましてそのような感情にない。その上アリスは人質状態だ。<br /> チリチリと脳を掠める情報を振り払い、杜花は足を進める。<br /> 兼谷は元より、お話合いで解決、などとは考えていないだろう。人に拳銃を向けたのだ。笑って許してやるほど、杜花は人格者ではない。<br /> このまま放置すれば、自分達は呑みこまれる他ないのだ。例え相手が準備した上で待ち構えていようとも、攻める他ないのが現状である。<br /> この世に生まれた時点で手詰まりとは……何とも、虚しい限りだった。<br />(入口に罠は――ない)<br /> 横に直線の、典型的な校舎は左右に階段があり、三階建てだ。<br /> メイの話では二階に改竄機構のマザーコンプがあるという。いつ運び込んだのかと考え、心当たる節がある事に気が付く。<br /> 三島軍曹に話を聞きに行った際、旧校舎に工事が入るなどという話で、トラックが出入りしていた。あの頃からだろう。<br /> 目的は改竄機構ではない。それは現在、杜花達に影響を及ぼさない鉄くずだ。兼谷は二階で待つというが……そう簡単に、杜花を二子に引き合わせる訳がない。恐らくオトリだろう。<br /> 何事も綿密に準備してから事に当たりたいのは山々だ。とはいえ、兼谷がそんなものを準備させてくれる訳が無く、結果アリスが人質に取られるという形になったのだ。<br />(馬鹿だな、私は――)<br /> 壁に手をつきながら、ゆっくりと廊下を進み、階段を目指す。<br /> 階段の手前まで来た所だろうか、酷い違和感を覚えて脚を止める。過去に無い生命危機感だ。<br /> 人間が発する殺気や、事故に対する危機感とは、また別の物である。<br /> 気配を感知する為、脳の使用領域を広げる。<br /> 空間掌握。<br /> 手を伸ばす。<br /> 対象物体を発見し、杜花は眼を見開いた。<br />「……トラップ。素人相手に、とんでもないものを」<br /> しかも茂みでもないのにベトナム式二段トラップである。<br /> ……。<br /> 足元のピアノ線に引っ掛かれば、真横の手榴弾が爆発、これを解除する為に線を切れば、今度は上から大質量の振り子が飛んでくる。<br /> 上を見上げる。流石に糞尿を塗りつけた竹やり玉ではないだろうが、それに近いものだろう。<br /> 遠くに離れ、何かを投げてやろうかと考えたが、止める。<br />「……なんで、こんな旧式?」<br /> 杜花を本気で殺したく思ってトラップを仕掛けるなら、旧世代のクレイモア辺りをばら撒いた方が確実であるし、誤爆を気にするなら、味方には反応しない識別型飛翔爆雷(フライアイ)とて考えられただろう。もっとステルス製の高い対人兵器など、ゴマンとある筈だ。<br /> それに、こんな回りクドイ事などせずとも、スナイパーライフル……は、気が付くので、複数人で囲んで飽和攻撃すれば、杜花は死ぬのだ。<br /> 何にせよ、人間であることには変わりない。殺す手段など幾らでもある。<br /> そうしない理由と、目的があるのだ。<br /> 素直にピアノ線を乗り越えて、先に進む――瞬間、杜花は弾けるようにして、後ろに飛び退いた。<br />「くっ――ッ!!」<br /> バサッという音を立てて、天井から何かが落下してくるのが解る。<br /> 警戒し、改めて今まで自分が居た場所を見れば、そこにあったものは……ノートだ。<br /> 頭を振る。頬を叩く。<br /> 目を瞑り、もう一度開く。今まで見えていたピアノ線はない。天井に釣りあげてあったはずの振り子も見当たらない。<br />「いつ干渉された……」<br /> 解らない。<br /> 兼谷の感応干渉は市子や二子のものよりも弱いが、彼女の場合、人の隙を強烈に突いてくる、まるで性格そのものを表現したような、好戦的なものだ。<br /> 杜花は近づき、そのノートに危機感を覚えない事を確認してから、拾い上げる。<br />(……お気を付けて。貴女に与えられた先見能力とて万能ではない。降伏ならいつでもお受けします)<br /> 喧しい、と杜花はノートを投げ捨てる。<br /> 警告だろう。確かに杜花の常軌を逸した危機感値能力は、ある意味未来予知に近い。だがそれも、感応干渉という特異な能力の前では意味を成さないのかもしれない。<br /> 気を抜けば死ぬ。死ぬのは良い。だがここではない。<br /> お前の話など、聞きたくもない。<br />(階段も危ない。とはいえ、他に順路もないし、恐らく順路以外は、まともじゃない仕掛けがありそう)<br /> 警戒レベルは最大限だ。これに引っかからないトラップがあるのならば、もう杜花はここで絶命する運命にあるだろう。<br /> やっとの想いで階段に辿り着く。上を見上げ、トラップ等が無い事を確かめはしたが、もっと別なものが杜花の視界に映り込んだ。<br /> 一瞬、視界がブレる。……。<br /> 感応干渉の気配を感じ取り、目の前に現れた人物を凝視した。<br />「……」<br /> それは、見慣れた人物だ。ただどうも、若すぎる。<br /> 嫌な気分になり、杜花は手を付いていた壁を叩きつける。<br />「ご出張ですか、お婆様」<br /> 彼女は、欅澤花は何も言わない。無言で階段を降り、杜花の前に立つ。<br /> 杜花と似ているが、より切れ長で、きつい眼光が刺す。<br /> 一昔前の制服に、短いスカート。彼女も女子高生をしていたのだなと、乾いた笑いが漏れる。<br />『花』らしき人物はひたすら無言で構える。<br /> 右足を前に出し、右手を手刀として、左手を軽く握って脇に備える。流派の基本形だ。<br /> これは何だろうかと、想う。これは実体を供なった幻覚なのか、それとも、ただの幻覚なのか。<br /> 判断出来るだけの材料と脳が無い。杜花も仕方なく、同形で構える。<br /> 彼女の得意技は熟知しつくしている。普段は体罰と思って避けないが、本来正面に立ち合って杜花に打撃を当てられる人類は、恐らく存在していない。<br /> 大苦戦した総合格闘技の決勝戦も所詮、あちらの攻撃は一切受けていない。ただ凄まじいタフネスであった為、決め手に欠けたのだ。そしてそれも、当然のことだが、殺害に至るような技を避けて選んだ結果の勝利である。<br />「貴女の顔をみると、頭に来るんですよ」<br />「……」<br />『花』は、その言葉を受けて、薄気味悪く笑う。神経が逆なでされる。それが兼谷の思惑通りだったとしても、生理的嫌悪ばかりはどうしようもない。<br /> ともかく相手が幻覚で、ルールも無いのならば、杜花をさえぎる障害は、存在しない。<br />『花』が踏み込む。どこまでも冷たく、人を見下す瞳に、吐き気がした。<br /> ――迫る右拳をほんの少し上段に跳ねあげてから杜花が踏み込み、ガラ空きになった鳩尾に対して、全力の肘打ちを叩きこむ。<br /> 中国拳法に似るが、その一撃では終わらない。<br /> ヒトは殴られる覚悟があるのならば、そう簡単には倒れてくれないのである。<br /> 鳩尾に肘を叩きこむ衝撃を実感し、杜花はそのまま『花』の股下に足を滑り込ませ、衣服を捕まえると同時に全力でしゃがみ込み、相手の上体を下げる。<br /> 前に投げられると反射的に感じる人間は、その上体を後ろに反らそうと躍起になる。<br /> それを狙い、杜花は思い切り半身をぶち当てると同時に手を離し、弾き飛ばす。<br />『花』は杜花の膂力をまともに受け、アクション映画のように吹き飛び、背後の階段に頭を強かに打って動かなくなる。<br /> 通常なら、後ろに倒れる程度だ。だが杜花が再現すると、それはすなわち殺人技と相違ない。<br /> やり終えた後、杜花は一瞬、動揺した。<br />『花』は、自分と似たような顔をした彼女は、頭から血を流し、ピクリともしない。<br /> 思い切り頬を両手で叩き、改めて『花』を見る。<br />「……」<br /> いない。そんなものはいない。<br /> 今行われた全てが、錯覚。殴りつけた感触も、弾き飛ばした質量も、全て、偽りだ。<br /> 欅澤杜花は、欅澤花を、心底恨んでいる。その昔には無かった感情だ。<br /> 欅澤杜花の、その記憶も感情も、全ては七星市子から齎されたものである。<br /> 心に収まるべきものが収まった後、杜花は花を徹底的に憎悪した。<br /> 虐待によって『育まれた』恨みは、しかし爆発する事無く鎮められていたのも、何よりも、市子が居たからである。<br /> 彼女はまるで杜花を塵のように扱った。立ちあがれるようになった頃から、既に鍛錬という名の扱きが待ち受けていた。<br /> 来る日も来る日も雑に扱われ、幾度となく殴られた。休日祝日、長い休みは必ず実家に戻り、鍛錬と言う名の虐待が待ち受ける。<br /> 幼児に一体何を期待していたのか。<br /> ごめんなさいの一言で、強くなって貰いたかったの一言で、そんなものは、すまされる訳が無い。<br /> 母も手出ししなかった。男たちもだ。<br /> 杜花はたった一人で、あの『妖怪』と向き合い続けなければいけなかったのだ。<br />「……私を、どうしたかったって? お婆様」<br /> 正月の一件、花の告白は、ただただ複雑な後味だけを残したのを、思い出す。<br />「――ふん」<br /> 今考えても、詮無い事だ。<br /> 気を取り直して、杜花は階段に足を進める。<br /> 昇り切るまでの間にトラップらしいものは無かったが、気を緩められる訳ではない。大体、人を嵌める為にあるものは、忘れたころ、疑った裏の裏にある。<br /> 二階廊下を数歩進むと<br /> ……。<br /> 今度は波が大きい。<br /> 流石の杜花もこれには気が付いた。兼谷のことだ、これはわざと認識させた、もしくは認識したところでどうにもならない類の感応干渉だ。<br /> 警戒、空間掌握、探知と、順を踏んで辺りに気を払う。<br /> やがて、廊下の奥から、ゆらゆらと歩み寄る影が見て取れるようになる。<br /> 動きに質量が感じられる。本物の人間だろう。<br /> 杜花はしかし、暗がりから現れる人間が誰なのか認識し、顔をひきつらせた。<br />(……隊長さん)<br /> 三島雪子特地派遣軍曹だ。しかもその装備に目を疑う。<br /> フルフェイスヘルメットの顔は開いているが、全身を機械強化スーツに包んでおり、その手には最新式の自動小銃、腰部にはずらりと手榴弾の類がぶら下げてある。<br /> 何を間違ったかバックパックも背負っており、完全に敵地に赴く特殊任務兵の装いだ。<br />「あー、こちら三島。敵が陣取ってる建物の二階にいる。勢力は不明。いいか、奴らは一般人のフリして襲ってくる。私服だからと警戒を解くな、便衣兵だ。部屋に乗り込んだらまず武装解除、んでもってそうだな、観葉植物の植え込みなんか調べてみろ、武器出て来るから。解ってるよな、ドーゾ」<br />「全く、南京で皇軍が苦労したのが良く分かるクソ具合だな。あ、ビィェボゥ!! 動くな!! あ、違うっけ、ブゥシュボゥか!? まあ動くな、止まってろ!!」<br /> 壁際ギリギリまで寄り、三島の動きと言動を観察する。<br /> 彼女は『敵地』で任務中の様子だ。<br /> 独り言から察するに、どうやら大陸での都市部制圧任務と見える。<br /> 格闘家では無く軍人として敵対した場合、杜花にはあまりにも分が悪い。<br /> 引き金を引く挙動を見て一、二発避けるならともかく、小銃を乱射されて避けられる程、杜花も人外ではないのだ。<br />「あ? 待機? どこの阿呆からの命令だよ。米国の海兵隊? 海兵隊の何処。なんで命令権限あんだよ、皇軍様に何様だアイツ等。はいはい。わかったーって。頼むから衛星兵器なんてつかわねーように言っとけよ、あいつら直ぐレーザー使うから」<br /> そういうと、彼女は武器を構えたまま、目的の部屋の前近くの壁に張り付き、留まってしまう。<br /> 門番にしては重武装すぎる。とても正面切って突破出来る相手ではない。<br />「そらーなあ。こんなとこで戦々恐々としてるよりさ、旦那とヤッてた方が良いに決まってんだろ。でもまあよ、アイツラはやっちまった訳だ。うちらの祖国が丸ごと汚染された訳。臣民を殺戮して、爆弾テロでふっ飛ばしまくった訳。報復? 終わらない? 寝言か。もう出来ねえように叩きのめすんだよ。この介入戦争何年続けてると思ってるんだ。あいつらは有史以前から何もかわっちゃない。制圧しても遷都遷都……本当に近代国家かよっての。衛星兵器で国土丸ごと焼いた方が良いんじゃないのか? あ、今やられると私等が死ぬがな、あっはっは」<br />「お前の家族は? 子供出来たの? 子供は良いよな。私もいたんだ。まあ、クソ野郎のテロに巻き込まれて死んじまったけどさ。何? 病気だって聞いてた? 嘘だよ。言ったらなんか、私が復讐で戦争してるみてえだろうが。あ? ああ、復讐だよ。この糞供根絶やしにするんだ。まあほら、この都市の制圧も佳境だ。これが終わったら帰還命令が出る。それまで死ぬなよ。こういうの死亡フラグって言うらしいぞ」<br />「あーあ。ほら、見た事か。あーあー、三島だ。近くにメディクいるか? いないか。助からんな。ほら、腸でちまってるし。何か言い残す事あるか。『大日本国に栄光あれ』? 栄光しかねーよ。特進おめでとさん」<br />「私等は、ああならないようにするんだ。時代はまた新しい戦争の時代に突入してる。人の価値が下がってきてる。敵を一人殺して喜び、仲間が一人殺され悼む。死んだ加藤特進少尉に、乾杯」<br /> 独り言が一しきり終わると、途端静かになる。<br /> 彼女は今、大陸にいるのだろう。そして、その過去を振り返っている。箱庭の中で育った杜花とは、まるで違う世界を見ているのだ。<br /> 人間一人の価値を直に感じる人々。それが現代の日本軍人だ。<br /> 歴史の流れの一幕、その一端を担った人物の、その追憶である。<br /> 早紀絵と一緒に三島へ話を聞きに行った時の事を思い出す。彼女は娘が居て、病死したと言っていた。しかし、どうやら現実は過酷なのだろう。<br /> 頻発したテロに巻き込まれた日本人は相当数いる。そして彼女は軍人だ。大陸派遣は志願したのかもしれない。<br /> 暫く悩み、杜花は静かに頷く。<br /> 賭けだが、仕方ない。杜花は思いきって、声を出して見る事にした。<br />「誰かいるんですか?」<br />「ん。日本語? 邦人か! 生きてるとは思わなかった!!」<br /> 彼女は今、戦地に居る。邦人救出も任務に入っているのだろう。<br /> それだけを確認し、杜花は、彼女の約十メートル手前に姿を現す。<br /> 銃口が向けられる。とてつもない殺意だ。<br /> 杜花も、小銃装備の相手から殺意を向けられた事はない。<br /> 背筋が張り、腕が震える。全力で危機回避するべく、脳の未使用領域が最大限に回転し始める。<br />「……違うな」<br /> ……しかし、どうやら都合良くはいかない。それもそうだ。欅澤杜花を仕留める為に徘徊させている番人が、欅澤杜花を『同胞』としては見ないだろう。<br /> だが、賭けは一つ勝つ。突如狙撃される事は無かったからだ。<br />「あー。手を挙げろ。そうだ。コートの中に何も隠してな……いな。武器反応無し。すげえよなこのサーチ。あー、お嬢さん。そのまま伏せてねー。私もね、女子供殺したくないしねー。殺すのはアカのおっさんで十分」<br />「殺さないで……」<br />「おうおう。泣くな泣くな……大丈夫だって。お前の親は殺しても子は殺さねえよ」<br /> 言われた通り、うつ伏せになる。<br /> 彼女は小銃を向けたまま音も無く歩み寄り、念入りに杜花の身体を改める。<br /> ――その手が腕を触れた瞬間、杜花は跳ねあがった。<br />「ぐっ――」<br />「イィィィャアァァ!!」<br /> うつ伏せ状態から左腕を捕まえ、脇固めに移るべく腕を無理矢理捻りこんで杜花の腹にまで持ってくる。<br /> このまま腕を折れれば良いが、しかし相手も必死だ。腕を持って行かれながら、小銃を片手で撃ち放つ。<br /> 耳朶を三連の乾いた音が抜けて行く。<br /> 仕方なく、杜花は腕を隙なく離し、ガラ空きになった左足を蹴飛ばして転ばせる。<br />「このっ」<br /> 弾が三発、頭の横を掠めて行くと同時に、杜花の髪の束を持って行った。<br /> しかしそこまでだ。<br /> 引き金を握る腕を渾身の一撃で蹴り飛ばし、武装解除すると、杜花は馬乗りになって、ヘルメットの上から思い切り拳を叩きつける。<br /> 強化ガラスに罅が入る。幾らショック吸収素材とはいえ、内側は頭だけ地震のように揺れている事だろう。<br /> それでも抵抗する三島に対して、杜花は横腹部の一番薄い繋ぎ目に向かい、一本拳を叩きこむ。<br />「ぐえっ――げほっげほっ!」<br /> 悶絶する三島はしかし、驚くほどの忍耐力でそれに耐え、懐からハンドガンを取り出そうとする。<br /> 勿論許さず、腕を捻りあげてそれを遠くに投げる。彼女の顔に絶望の色が広がった。<br /> 構わず、腰部に括りつけられたベルトを抜き放ち、手榴弾の類を全て辺りに散らす。<br /> ここまで来てやっと、一撃死を免れるまでになった。<br />「かっは。けほけほっ。ぐぐ……くそ、女学生装った……特殊工作兵か」<br />「一般人ですよ、三島二等軍曹」<br />「何? おい、けほっ……情報漏れてるぞ、どうなってんだアメ公!」<br /> ヘルメットを引きはがし、遠くに投げる。三島は思い切り杜花を睨みつけた。<br /> 相手は特殊工作兵。自分はこれから殺されるのだと、覚悟しているのだろう。これだけの衝撃を与えてもまだ感応干渉の影響を受けているとなると……説得で何とかなるレベルではない。<br />「私です。欅澤杜花ですよ。解りませんか」<br />「日本人? 国家反逆罪だ。お前の両親ごと地球から消えるぞ?」<br />「……ごめんなさい」<br /> 拳を握りしめ、杜花は思い切り三島の顔面を殴りつけた。一度目はまだ意識がある。二度、三度程続けて、三島は漸く動きを止めた。<br /> 他の手段があればそれを選んだだろうが、躊躇い無く撃ってくるのではどうしようもない。<br /> 独り言ではあれだけ好戦的な話をしていたのに、出て来た杜花を撃たなかったのは、彼女の良心だろうか。それともただ単に、兼谷からそのような命令を受けているのかもしれない。<br /> 三島の身体を引きずり、廊下の端に横たえる。彼女の装備を拾い集め、全て御手洗いの用具入れに放りこむ。<br />「ごめんなさい。でも、起きている間に、謝れないので。ごめんなさい」<br /> 何度も頭を下げる。彼女は完全に犠牲者だ。<br /> 装備の無断使用、まして学院内での乱心であるからして、彼女自身、家族も無事では済まないだろう。これを隠ぺいするとなれば、頼れるのは七星の力ぐらいである。<br />「んっ……」<br /> 肩に痛みを覚える。<br /> 脳内麻薬の過剰分泌でまるで痛みを感じなかったが、肩口はパックリと裂けて、上着に血が滲んでいた。<br /> 都合六発の小銃を避けたのだ。この程度の傷で済んだのならば御の字である。<br /> 上着を脱ぎ捨て、三島のバックパックからメディキットを取り出す。<br /> まるで元から用意されているようで気持ちが悪いが、頼るものはそれしかない。<br /> 止血テーピングでぐるぐるに固め、鎮痛錠剤を五錠程噛み砕いて飲み込む。<br /> まるで戦争をしているようだ。<br /> いや、実質、戦争なのかもしれない。<br /> ――改めて、自分の戦闘能力のおかしさに、頭が痛くなる。<br /> どこの世界の女子高生が、フル装備の軍人に素手で挑みかかって勝つだろうか。<br />「ははっ」<br /> 立ち上がる。<br /> やけに世界が綺麗に見えた。<br /> 思考は正常だ。<br /> 感応干渉の影響も見当たらない。<br />「なーんででしょうかね」<br /> スカートを捲りあげ、ワイシャツの腕も捲くる。<br />「兼谷さん。私ね、今すごく、楽しいですよ。生きてる実感があります。市子を愛している事だけが私を保っていたのに。唯一の自信すら偽りだったのに、今、凄く楽しい」<br /> ……。<br /> 感応干渉。<br /> 視界に、占拠事件のヴィジョンが浮かぶ。<br /> のらりくらりと動く輩は塵供だ。<br /> 幻覚の暴漢が拳銃を構えるよりも早く、杜花は動く。<br /> 解っている、これは幻覚だ、そこに人は存在しない。<br /> 幻覚を打ち倒す。<br /> 幻覚を打ちのめす。<br /> 偽りを殺し、<br /> 偽りを刈り取る。<br /> 目を閉じ、目を開いた先には、何も無い。<br />「お婆様は弱かったんですね。こんなのに手間取るなんて。私なら、お婆様が三人殺す間に十人は殺せますよ。本当に、全部貴女のお陰ですね。私を扱いて扱いて扱き倒して、何が誰にも負けない人間になれだ、畜生め。ふざけやがって! 馬鹿にしやがって!!」<br /> 壁を殴りつける。ベニヤ板はやすやすと貫通し、無残な姿を晒す。<br /> 痛みと憎しみに、思考は一気に覚醒した。<br />「馬鹿にして……馬鹿にして……!」<br /> 溢れて来る涙を拭う。<br /> 無様すぎて嫌になる。<br /> 何が今更悲しいのか。<br /> もう自分は一年以上前に死んでいるのだ。<br /> これ以上流す涙は無い筈だ。<br /> 何故そうまでして自分に死生を拝ませるのか、何故そうまでして人の妄執に突き合わされねばならないのか。<br /> もう、何も見たくない。<br /> 見せて欲しくなんかない。<br /> ほんの少しだけ残った理性を、拡充しないで欲しかった。<br /> 欅澤杜花に、明日は無いのだ。市子を、撫子を受け入れる為だけに存在した器である杜花が、その存在意義を失って生き続ける事は出来ない。<br /> 早紀絵もアリスも頑なだと怒った。もっと他を見て価値を決める事も出来るのだと言った。しかしそんな一般論が通じる程、杜花はまともでは無い。<br /> 新しいものが出来たから代わりに入れろと兼谷達は言う。<br /> 誰がそんなものを受け入れるか。<br /> 心の底から骨の髄まで全て市子がこびり付いた杜花が、そんな偽物を注がれては、たまったものではない。<br /> そんな事をされるぐらいなら死んだ方がマシだ。<br /> だからこそ、ほんの一かけらだけ残った理性を刺激しないで貰いたい。<br /> 狂人ならば狂人で良い。<br /> 七星一郎のクソ野郎に感謝しよう。<br /> 欅澤花のクソ婆に感謝しよう。<br /> 欅澤杜花の身体能力をもってすれば、存分に狂い散れる。<br /><br />「――――兼谷ぁぁぁァァッッッ!!」<br /><br /> 杜花の絶叫が、旧校舎の廊下に木霊する。<br /> それに応えるようにして、兼谷が廊下の奥から音も無く姿を現す。<br /> その姿は以前と同じスーツであり、関節部には筋力強化サポータがはめられている。しかし、徒手空拳だ。<br />「けたたましいですね、杜花お嬢様。品位を疑われますよ」<br />「品格なんて比べてる場合じゃあないんですよ」<br />「何故幸福を甘受しないのでしょうか。貴女にとって悪い条件ではなかった筈です。市子お嬢様……いいえ、利根河撫子の意見も汲み取って、貴女のハーレムを許容したのに。御好きでしょう? 綺麗で、可愛らしくて、いじらしい女の子。囲まれて生活したいでしょう」<br /> 兼谷はそう言いながら、静かに歩いて距離を詰めて来る。まるで音がない。<br /> 杜花は距離に違和感を覚え始める。恐らく感応干渉で弄っているのだろう。此方が思考するその全てに影響を与えるこれは、近接格闘においても遺憾なくその威力を発揮するだろう。<br /> 距離感、タイミングの誤認は隙を産む。<br /> ただの一撃も、兼谷のものとなれば、命取りだ。<br />「私は市子しかいません。そして、市子はもう居ない」<br />「大企業の娘と大政治家の娘。両方とも、本当に良い子なのに、その二人から処女を貰い受けて、愛されて、信頼されて――それを裏切るなんて真似が、良く出来ますね? 人非人と呼ばれてもおかしくないでしょう。いえ、呼ばれるべきです。貴女は気狂いです。真っ当じゃない」<br />「構いません。それに、私では彼女達を幸せに出来ません。どう足掻いても、どれだけ愛そうと思っても、キスする度に、交わる度に、市子の顔を思い出してしまう私なんて、彼女達だって迷惑です」<br />「それでも良いと、彼女達は許容した。なんて良い子達なのでしょう。それすらも断ち切る貴女は一体、どんな精神構造をしているのか、測りかねますね」<br />「頭を弄ったのは貴様等だ!! 運命を弄ったのは貴様等だ!! 遺伝子どころか心まで手を加えて、人を翻弄したのは貴様等だ!!」<br />「失礼。反論不能です。全面的に此方が悪い。そうですね。貴女は与えられたレールの上を歩む事しか出来なかった。可哀想ですね?」<br /> 癇に障る。<br /> 一定の口調で喋る兼谷に抑揚は無い。有る事を喋っているだけだ。感情は一切感じられなかった。<br /> きっとどうでもよいのだろう。全ては七星が敷いた道。けもの道を抜けた先にも、きっと七星が整備した舗装道路が存在するのだ。レールが存在するのだ。<br /> コイツ、どうしてやろう。ただそればかり考える。<br />「市子お嬢様を消した後、どうする気ですか?」<br />「私の半身が死んだと、そう再認識するだけです。私も後を追う。それで全て終わり。私に整理が付き、決着が付く」<br />「利己的。自分勝手。無茶苦茶だと思いませんか?」<br />「それで、何ですか?」<br />「ですよね。解ってます。貴女は、貴女に整理が付けばそれで良い人。ゾンビが生きているのは間違ってるとそう思う人。肉ありきで継続する意識があってこそ、人間だと思う、潔癖症の人。でも、本当に構わないんですか? 市子お嬢様のメインデータは消えても、バックアップは残る。そして、七星に手を出して、貴女の家族が無事だと思いますか? 七星がそんなに優しいと信頼してくれるんですか?」<br />「だから、それで、何ですか?」<br />「……お話にならないとはこれの事ですね」<br />「最初からそうしてください。私は正義の味方でも、反企業戦士でも、愛する人の為に戦う人でも、ないんですよ」<br /> 欅澤杜花は、自殺をしに来ているのだ。そしてその場所を選ぶ為に戦っている。<br />「自暴自棄ねえ。では、どれぐらいそれが安っぽいか、確かめてみましょうか」<br /> ……。<br /> 強い感応干渉を感じる。杜花は眼を細めて兼谷が立つ廊下の奥を見つめる。<br /> ひたひたと、誰かが歩いて来るのが解る。その足取りに精気は感じられない。<br /> やがて姿を現したのは、虚ろな目をした天原アリスである。<br />「あ――杜花、様」<br />「アリス。お早うございます」<br />「えへへ……お早うございます。杜花様……」<br /> 視界が……合っていないのだろうか、アリスが視線を向ける先に、杜花は居ない。<br /> 三島と同様に、見ているものが違うのだろう。ほとほと、人道なんてものを一切考慮しない能力である事に頭を痛める。<br /> 兼谷は、アリスの肩を抱き寄せると、懐から取り出したナイフを首にあてがう。<br /> 大体予想通りだ。折角駒があるのだから、七星は使うだろう。<br />「私は悪役ですので、何でもしますよ。全ては七星一郎様の為に、とでも叫んでおけば、もっとラシイですかね。まあ、あれです。抵抗すればアリス嬢の頸動脈を切り離します。数分も経てば死ぬでしょう」<br />「幾ら七星とて、天原のご息女を殺害なんて、隠しきれませんよ」<br />「大丈夫です。貴女の所為にしますよ。貴女は収監されるでしょう。その身は七星が確保します。処遇の決まったあとならなんとかなるんですよ」<br /> 出来てしまうのだ。あらゆる名目で受刑者を引き抜く手段を、七星なら有しているだろう。<br /> そんな不正がまかり通って何故七星が当たり前のように日本国に君臨しているかといえば、当然、七星に従っていた方が、恩恵に与れるからである。彼等はメガコーポであり、秩序だ。<br /> 欅澤杜花はそんなものに、喧嘩を売っている。<br />「杜花様?」<br />「アリス、動かないで」<br />「杜花様、お困り、ですか?」<br />「……不用意でした。熱くなって。アリス――」<br />「困っているならば、わたくしが、アリスが、助けますわ」<br />「アリス?」<br />「なんでもするって、言いましたもの。私は私に、嘘なんて吐けませんわ。杜花様の困難を、どう解決したものでしょう。ああ、言ってくださいまし。私は、貴女の、力になりたい」<br />「アリス、貴女」<br />「……健気過ぎて泣けますね。やる気がなくなってしまいます。杜花お嬢様は市子お嬢様ばかり見ているのに。これでは可哀想です」<br />「自分でやっておいて、何を」<br />「せめて、今助けるからとか、その子を離しなさいとか、言えば良いのに。アリス嬢ごと蹴り飛ばそうと、考えてましたね? まあ確かに何とかなるかもしれませんが、貴女本当に、他はどうでもいいんですか?」<br /> 流石の兼谷も、これにはやる気をなくしたのだろう。<br /> 演技がかった台詞も無く、兼谷はナイフを仕舞い、アリスを退ける。<br />「産まれて初めて狂人と対話したのは、七星一郎が初めてでしたけれど、二度目は間違いなく貴女です。貴女、人を何だと思っているんですか?」<br />「七星がそんな事、言えるわけが無いでしょう」<br />「少なくとも、七星は七星が擁する者に対して、愛する人に対して、危害なんて加えません。クローンの子達とて、ちゃんと人間として生活させている。研究対象になった人々と、その家族には多大な恩恵をもたらし、一生食うに困らない生活を提供している。七星の敵対者とて、そう簡単に殺しません。社会的に退いて貰うだけですよ。現代日本で、そんなにやすやすと人を殺しませんよ」<br />「人道的ですね。私達以外に対しては」<br />「仰る通りで。とはいえ、今後七星になる貴女に、そんな軽薄な思想で居られる訳にもいきませんので、不肖兼谷、欅澤杜花に教育を施します。御覚悟を」<br />「やっとですか。待ちくたびれました。さっさと退いてください、兼谷さん」<br />「ああ、そうそう」<br /> 兼谷は思いだしたように、懐に手を突っ込み、今度は拳銃を取り出す。<br /> ――そしてそれは杜花では無く、アリスに撃ち放たれた。<br /> パスン、という軽い音と同時に<br />「いっきゃあぁぁぁッッッ!!」<br /> アリスの絶叫が木霊する。杜花は……顔を歪めた。<br />「反応有り。なんだ、ちゃんと人間しているじゃあありませんか、やはり安っぽい。貴女は死にたくなんかない。アリス嬢も早紀絵嬢も傷つけたくない。幸せになりたい。人間でありたい」<br />「痛いでしょう、そんな事したら」<br />「そらまあ。大きな動脈を傷つけました。処置しないと死ぬでしょう」<br />「……痛いでしょう、そんな事、したら」<br />「ふふっ。まるで掌で転がされている貴女、少し可愛いですよ」<br /> 心臓が、痛いほど鼓動を繰り返す。<br /> 欅澤花の記憶が走馬灯のように蘇る。<br /> 傷口を抱えて丸まったアリスの姿が、誉に重なる。<br /> それはやってはいけない事ではないのか。何故そんな事をする。杜花が言う事を聞かないからか? ならばもっと手段があるだろう。<br /> アリスを見る。彼女は太股の傷口を抑えながらも……杜花を心配そうに見つめていた。今の衝撃で感応干渉が外れたのだろうか。訴えかけるような、悲しい目だ。<br />「アリ――」<br />「ガラ空き」<br />「かっ――ふッ」<br /> 瞬間、杜花の身体が浮き上がり、数歩後ろまで吹き飛ばされ、廊下に叩きつけられる。何が起こったのか解らなかったが、迷っている暇はない。杜花は即座に飛びあがるよう起き上がり、体勢を立て直す。<br /> 腹部に鈍い痛みを感じる。兼谷は既に残心していた。<br />「当たりますね。不安でしたけど……しかし頑丈」<br /> 以前、兼谷と立ち合った時の事を思い出す。<br /> あの時のスタイルはボクシングだったが、今回は空手だろう。彼女は正面で拳を構え、此方の出方を窺っている。<br /> 以前の経験はあてにならないと考えた方が良い。この人物が自分の手の内を簡単に晒す筈がないのだ。<br />「アリス、ハンカチを当てがって、傷口を圧迫して」<br />「どうでもよいのでは?」<br />「助かった方が気持ちよく死ねるでしょう」<br />「――貴女がいないならば、死んだ方がマシだと思ってしまうのが、彼女達だと思いますがね。貴女は、彼女達を……信じていないんですか」<br /> 苦痛に顔を歪めながら、杜花の言う通りにするアリスを確認してから、兼谷に向き直り、右自然体を取る。<br /> 兼谷は両手利きで、上下左右隙が無く、動きにブレがない。<br /> 杜花程ではないが、危機感にも敏感で、本当にスレスレの所を避けてカウンターを繰り出すような真似をされた事がある。<br /> 不用意には動けない。<br /> 兼谷との距離は四メートル。杜花が飛び出すには遠い、絶妙な距離だ。解ってやっているのだろう。<br /> 自然体のまま、両手を平にし、正面に構える。<br /> 返し技が妥当だが、そうなると、兼谷は攻めてこない可能性が高い。時間を伸ばせば伸ばすだけ、アリスが疲弊するからだ。<br /> 花の意識と、杜花の残った理性が鬩ぎ合う。<br /> 杜花には返し技なら相当の分があるのだ、業を煮やした兼谷が飛び込んでくるのが、もっとも勝率が高い。<br />「合気を実戦で使う人物って、現代では恐らく杜花お嬢様だけですよ」<br />「……」<br />「教本通り動かないと手足が折れるのは、まあ解るのですけれど。その状況に相手がなってくれる訳じゃあない。自分で持って行ってこそ、です。貴女の怪物染みた……失礼、そうしたのは此方でしたね。ともかく返し技の強い貴女に、攻めるメリットがない……が、それも面白くありませんね」<br /> 戯言を語る兼谷を無視し、空間把握に努める。<br /> 兼谷の微細な重心移動、呼吸、筋肉の動きに細心の注意を払う。通常の打撃ならば食らったところで、杜花は平然とした顔のまま反撃するだろうが、問題はアームサポータとレッグサポータだ。拳にも皮グローブを嵌めているが、グローブの中に何が仕込まれているのか怪しいものである。<br /> 先ほど腹に一撃浴びたが、恐らくかなり加減したものだっただろう。<br />「動かないですね。なら動きますよ。折角貴女と立ち合っているのに、一撃必殺の応酬だけで終わるなんて」<br /> 兼谷は首を鳴らし、前に出る。<br /> 後二歩、それだけ進んでくれれば、杜花の拳が届く距離だ。<br /> だが半歩届かない。ギリギリの所で、兼谷は止まり、呆れた、というジェスチャーをする。<br />「考えた事はありませんか? 剣道の達人同士の試合より、高校生の打ち合いの方が面白い。年収気にするプロ野球より、荒っぽい高校野球の方が白熱する――ねえ?」<br /> 瞬間、昨日兼谷を取り逃がした折に受けた、白い衝撃が襲う。<br /> 杜花の集中しすぎる意識を脇から狙ったように、それは突如視界を奪った。<br /> 以前は突然のことだっただけに、対処不能だったが、今は違う。<br /> 想定済みだ。<br /> 顔面に向けて襲い来る『殺意』に対して、杜花は手首を切り返す。<br />「ぐっ――」<br />「チッ……」<br /> 杜花の右手腹と兼谷の左拳が衝突、互いにのけぞるようにして弾ける。<br /> 手が駄目になるのを覚悟で打ち込んだが、やはり増強している分、兼谷のブレの方が少ない。右手が酷くしびれるのを感じたが、それどころではない。<br /> 杜花の視界が戻ると同時に、兼谷の身体が下に沈み込む姿が飛び込んできた。<br /> タックル――膝は、間に合わない。<br /> 兼谷の双手刈りは、まるで軽自動車のような勢いで杜花を地面に引き倒し、すかさずそのまま馬乗りになる。どうあっても対人の必勝法だ。対処出来ないタックル程恐ろしいものはない。<br /> 馬乗りになれば殴るもよし、首を締めるもよし、とにかく優位に立てる。<br /> 特に素人では脱出する手段が少ない。<br /> ……だが残念ながら、兼谷の相手は欅澤杜花という暴力装置である。<br /> 顔面を狙って振り下ろされるハンマーパンチを両手十字で受け切り、左手で腕を捕まえる。胸元に引き寄せ、上体を倒す形になってしまった兼谷の首筋に、無理矢理親指をねじ込む。<br /> 気管支を潰される事を嫌った兼谷は直ぐに上体を上に反らした。狙い通りに行く。<br />「がふ――ッ、このっ」<br />「せぇ」<br /> 体重移動が上手くいった。<br />「のっ!」<br /> 兼谷がうろたえた瞬間に身体を下に滑り込ませ、そのまま思い切りブリッジで跳ね返す。<br /> 即座の反撃を警戒した兼谷は、自ら回転受け身をして、数歩先に離れて行く。杜花はその様子を窺い、ゆっくりと立ち上がる。<br /> まだ、兼谷は射程距離内だ。<br /> 通常寝そべっている相手ならば、スタンピングでも良いし、頭を狙った蹴りでも良かっただろうが、相手が杜花となるとそうはいかない。<br /> 決死の杜花に脚を掴まれた場合、すなわち靭帯か骨を持って行かれるのと同義だ。<br /> 十数年の鍛錬と天性の勘、そして脳改造という人工強化が生んだ怪物は――全身凶器と相違ない。<br />「タックル、合理的ですものね。解ります、多用したくなるのも」<br />「貴女相手では不用意でしたね」<br />「そうですね」<br />「――ッ」<br /> 呼吸を抜く。踏み込みの動作を最小限に抑える。筋肉の動き、心拍数すら、必要最低限に抑える。<br /> 拍子を取らず、身体の上下運動を殺し、滑るようにして前に進む。<br />「な、あッ」<br /> 見えていても、避けられるものではないのだ、これは。<br /> 欅澤杜花の真に迫った身体操作術は、例え歴戦の格闘者であろうと、神に祝福された才能を持とうと、決して齎されるものではない。<br /> 人間は相手の動き、そして気配などを読んでそれに対応する。どれだけ速度を上げた攻撃であろうと、技の入りが解れば予測しての回避は常人とて可能なのである。<br /> だがこれは違う。兼谷すら恐らく体験した事は無いだろう。欅澤杜花が怪物たる所以でもある。<br /> 無拍子。その気配が、挙動が『わからない』のだ。<br /> タイミングを外された兼谷は、回避動作が叶わず、潔くガードを構えた。それだけでも大したものである。<br /> しかし無意味だ。そのガードの上に、躊躇いなく、全体重を乗せきった左正拳を叩きこむ。<br />「ギッ――ッくぅッ」<br /> インパクト時、そのガードを突き破るべく杜花は左腕に全神経を集中させ、血管を膨れ上がらせる。<br /> 左拳が肉を突き破る感触があった。<br /> それは硬い骨にブチ当たり、兼谷が顔を歪める。内出血では済まないだろう。<br /> 続けざまに、杜花が上段蹴りに移る。<br /> これを――兼谷はそのまま食らいまともに吹っ飛ぶ。<br /> 杜花の蹴りを上半身に食らって立ち上がった選手は、未だかつて存在しない。<br />「ごっ、くっ、ぐぅぅぅぅぅッゥ」<br /> 吹っ飛んだ兼谷はガツンッという音を立てて壁に激突し、痛みに悶絶する。<br />「肩の骨ですか。頸椎折れて無いだけ幸せと考えた方が良い」<br /> 痛みに悶えながらも、即座に体勢を立て直した兼谷が改めて構える。しかし左肩を下げたままだ。靭帯断裂以上のダメージは明らかである。<br /> 痛みぐらいならば脳内麻薬で何とかなるが、元から動かないのでは稼働叶わない。<br />「無拍子とか……けほっ……冗談、でしょ……明治の、格闘神話じゃ、あるまいに――ッ」<br /> 兼谷が呼吸を荒げながら体勢を立て直し、左足を前に出す。<br /> ……。<br /> 踏み込み、右上段蹴りが杜花の眼前を掠め、杜花はそのまま左の後ろ回し蹴りが来ると察知したが、違う。<br />「なっ!?」<br /> 一歩下がったかと思うと――左足の胴回し蹴りが、全体重を乗せて杜花に浴びせかかった。<br />「っりゃああぁァッ!」<br />「ぐッ」<br /> ――認識をずらされた。<br /> 顔面に飛来する踵を咄嗟に防ぐも、兼谷の体重、そしてレッグサポータの過剰筋力で負荷がかかり、ガードが弾ける。<br /> 兼谷は腕も使わず、回転の勢いのまま立ち上がる。<br /> 続けざまの攻めは無い。今のは完全に奇襲攻撃だ、本来ならこれで仕留めねば、後は無い筈である。<br /> 右腕に痛烈な痛みが走る。ちらりと眼をやれば、明らかに曲がってはいけない方向に、右腕が反れていた。<br /> 右手を握り締める。まだ、握力はある。<br /> こんなものを顔面に受けたら、顔面が陥没しただろう。<br />「……肩に銃創があるのに、良く防ぎますね。今ので終わりだったのに」<br />「喋っていると舌噛みますよ」<br /> 兼谷の息が上がっている。心臓は必要以上に鼓動を繰り返している。<br /> 今の一撃で仕留めるつもりだったのだ、動揺しない方がおかしい。それを察して、杜花は前に出る。<br />「覚悟」<br />「――ッ」<br /> 杜花の馬鹿正直な右正拳を兼谷は平然といなそうとするが、杜花は急激にその動きを止め、開手。<br /> ダメージのある右腕での攻勢は意外だったのか、次の行動を読み切れなかった兼谷の袖を掴む。<br />「ッッ!」<br /> 不用意に出張った兼谷の左足を、思い切り払いあげる。<br /> 通常ならば横に一回転するような足払いだが、筋力増強のお陰か、思いの外身体の重心が傾かず、兼谷は地面に残ったが……しかし、捕まえてしまえば此方の物だ。<br /> 杜花は本来打撃系ではなく、投げ技系の人間だ。<br /> 払われて下がり、身体を支えている左足。<br /> 多少なりとも重心が動いてしまって、完全に地面を捉えている訳ではない右足。<br /> 崩しが完成したと見るやいなや、杜花はそのまま腰を落として兼谷の懐に入り込む。<br /> 釣り手が無い為つくりは不十分だったが、その天性とも言えるボディバランスで兼谷を背負いあげる。<br />「ぐ、うぅうぅぅっッッ――――!」<br /> ――叩き折られた右腕が悲鳴をあげる。しかし、兼谷を離す事は出来ない。意地でもだ。<br /> 杜花は逃れようと背中で暴れる兼谷の太股を左手でしっかり捕まえると、そのまま一回転する。<br />「ゼェェェッッ!!」<br /> 全体重を乗せた袖釣り込み腰が、兼谷を地面に叩きつけた。<br /> 杜花の全体重、遠心力及び重力、そしてコンクリートの地面は紛う事なく、最悪の凶器そのものだ。<br />「こっふ、けっが、あっ……かっ」<br /> 完全にタイミングを外されてしまったお陰で、本人は『投げられる』という覚悟が出来ない。この状態で投げられた場合、例え下が畳であったとしても呼吸困難は免れず、叩きつけられる衝撃は想像以上だ。<br /> 背部をしたたかに打ちつけた兼谷は、呼吸が出来ずもがく。<br /> 柔道ならば終わりだろうが、生憎とそのような試合ではなく、仕合だ。<br /> 問答無用で杜花は馬乗りになり、反抗出来ない兼谷の顔面を二度、三度と撃ちつける。<br /> ギリギリ残っていた防衛反応により顔を守っていた腕も、四発目には下がり切り、力が抜ける。<br /> ――これ以上は、殺してしまう。<br /> 五発目の拳を握りしめた杜花が、一瞬ためらう。<br />「――ッ」<br /> そんな隙を、兼谷は狙っていたのだろうか。兼谷の握られた左拳が強かに杜花の太股を打った。<br /> 悪あがき――そう思った矢先、杜花は激痛に身をよじる。<br /> その隙に兼谷が杜花から這うように離れて、壁に寄り掛かった。<br />「ハァーっハァー……ッ! げほげほっ……ッなんて人……本当に、怪物ですね」<br /> 太股から流血している。傷口は血まみれだが、開いた穴は鋭い。隠しナイフだろう。<br />「……ふン」<br />「――――ハハッ……嘘でしょう」<br /> 兼谷の目に、絶望の色が滲む。<br /> 杜花は――刺突された傷口を意に介さず、思い切り腿を平手で打ち、立ち上がる。<br /> 流石に兼谷も、その異常性には目を剥いていた。<br />「狡い――その刃渡りじゃ人も殺せない、兼谷さん。せめて当てるなら、腹でしょう」<br />「けほけほっ……呼吸止まりながらなんです、大目に見てください」<br />「喧しいです……本当に、もう」<br /> 杜花が歩み寄る。兼谷としては、手詰まりなのか、壁に寄り掛かったまま動こうとはしない。<br />「――あ、はっ。はっ。やっぱ、ダメですね。生身で勝てる相手じゃあない」<br />「兼谷さんは、何か勘違いしています。貴女は退けるだけで良い。何も争う必要なんて無いでしょう。個人的に、今ぶん殴りましたから、溜飲も下がった。さあ、退いてくださいな」<br />「ダメですよ。言ったじゃありませんか、市子お嬢様を持っていくなら、兼谷を倒さなきゃいけないと」<br />「少年漫画の読みすぎですね」<br /> 肩を抱え壁に寄り添う兼谷に対して、杜花は容赦なく前蹴りを御見舞する。<br /> 荒っぽい攻撃だ、兼谷も膝を上げ、腹部への直撃を免れる。しかし杜花の蹴りの威力が強すぎる為か、兼谷はバランスを崩して壁にもたれかかり、崩れるようにして廊下に座り込む。<br />「かっ――げふっ……いっ、た……痛い……」<br />「痛い……?」<br /> 痛いから、なんだ。<br /> 腸が煮えくりかえるような怒りを覚える。<br /> お前らがした事が、どんな理不尽なのか、しっかりと考えた事があるのか。<br /> お前らが実行したものが、どれほどの人間を巻き込んでいるのか理解しているのか。<br /> お前らの暴虐が、どれだけの悲しみを産んだが解っているのか。<br /> 現に見ろ、この欅澤杜花を。<br /> 肩口は血まみれで、頬にアザを作り、腿に穴を開け、あちこちとすり傷だらけで、髪の毛も吹き飛んだ。<br /> 女性を壁に追い詰めて蹴りを入れる姿など、どこをどう見たら『御姉様』なのか。<br /> こんなものを作ったのがお前達だ。<br /> こんな事をさせているのはお前達だ。<br /> 幸福を許容しろ?<br /> 冗談じゃあない。寝言は寝て言え。大概にしろ。ふざけやがって。<br />「殺しませんよ。後味悪く死にたくありませんから」<br /> もう一発腹にぶちかまし、悶える兼谷の顔を見てやりたいところだが、そうもいかない。<br /> アリスに目をやる。<br /> 意識はしっかりとしているようだが、その弱々しい姿が誉に重なり、杜花は頭を振る。幸い、この学院には立派な医療保健室が備え付けだ。直ぐに運べば大事には至らないだろう。<br />「アリス。大丈夫ですか」<br />「ええ……血は、まだ出てますけれど、言うほどは……」<br /> 撃たれたであろう太股を見る。<br /> 大動脈を狙ったと言っていたが……どうやら嘘のようだ。確かに血は出ているのだが、動脈を傷つけたらこれどころの騒ぎではない。<br />「……ごめん。アリス。ああ、私また、謝ってばかり……」<br />「良いんですの。杜花様こそ、ああ、御髪が」<br />「気にしないでください。ともかく、痛いでしょう。あっちにメディキットがありますから、手当してから……」<br />「……そうもいきそうにありませんわよ。杜花様」<br /> アリスが杜花越しに視線を向ける。杜花は当然気が付いていた。<br /> 振り向かないまま、立ち上がる。<br />「ああもう――乱暴ですね、杜花お嬢様は」<br /> 改めて振り向くと、彼女の近くには白い筒状のもの……恐らく即効性の痛み止め注射だろう、二本程転がっている。<br />「は、はっ。まあ、こんな、ものですかね」<br />「次は本当に殴り殺しますよ」<br />「構いません。貴女を止められるなら」<br /> ……解らない。<br /> 兼谷の意図が、杜花には理解出来ない。<br /> 確かに、彼女の役目は市子の護衛だ。そしてそれを殺しに来る輩に立ち向かうのも、論理的だ。<br /> だが、ものはデータである。杜花に二子本体を殺すつもりはない。市子のメインデータさえ削除出来ればそれでいいのだ。<br /> 二子は殺さず、バックアップもある。では彼女達に失うものはない。<br />「解らないんですが、何故です? 貴女が命を張るほどの、ものですか、市子のメインデータは。私、二子は殺しませんよ」<br />「それは此方の台詞です。何故データ如きにムキになる。それにこれは全部、貴女の為なのです。どんな形であれ、貴女に生きていて貰わなければ困るからこそ、私は貴女のような格闘怪物に喧嘩を売っている」<br /> 強烈な痛み止めの所為か、兼谷の視界はいまいち定まっていない。時折身体をふらつかせながら、言葉を紡いでいる。<br />「余計な御世話ですね。結局市子のデータの為でしょう」<br />「……データだろうと何だろうと。杜花お嬢様。彼女は幸せにならなきゃいけません。撫子は幸せにならなきゃいけません。二子も望みをかなえなきゃいけない。『彼女達』は貴女を欲している。では与えねばなりません」<br />「――支倉メイは撫子のクローンでしたね。学院には、何人居るんですか?」<br />「五人居ます。名前は明かせませんけれど。それが?」<br />「――貴女、何です?」<br />「私は『撫子の』複製じゃありませんよ。彼女達の肉親ではありますが」<br />「ヨーロッパの片田舎が実家じゃあありませんでしたか」<br />「嘘ですよ。容姿は変えてありますしね」<br /> 兼谷は、腕時計型端末を見て、小さく頷く。<br />「なん、ですか」<br /> 顔面、腕、肩、背部に腰部、そして脚に帯びたダメージは相当で有る筈だが、しかし彼女は、まるで慈愛に満ちた表情で、杜花に望む。<br />「一体誰が、撫子の母親だと言って、納得しますか。市子と二子の母だと言って、納得しますか。しないでしょう。ほら、私、とても若く見えますからね」<br />「なっ――」<br /> 兼谷は、おかしそうに笑う。その薄暗い笑みに、欅澤杜花にして、背筋が凍る。<br /> 彼女は、狂人だ。<br />「利根河恵。旧姓七星恵の、遺伝子複製体です。中度反応高速化手術、深部筋力増強手術、細胞再生回復手術、その他諸々。生身ではありますが、身体の殆どが人為的に弄ってあります。再現には苦労しました。当時の利根河恵の魂を再生する為に、一郎様は血の滲むような努力と、膨大な時間、そして莫大な資産を費やしました。私の生い立ちを圧縮して一から詰め込み直し、当時を辿らせて記憶を再生成し……私は、兼谷であり、利根河恵になった」<br />「親として……今をおかしいとは、思わないんですか」<br /> その言葉に、自分でハッとする。兼谷も気が付き、口元を歪める。<br />「私を人間と認めましたね。ま、いいです。思いませんよ、私は。一郎様が自らの正義と幸福を達成するその日まで、私はそれを是とします。娘の死を、親として受け入れられないのも当然。再生するだけの力があるなら、実行するのも当然」<br />「……弄んでおいて、それを言うんですか、貴女は」<br />「弄んでなんかいません。必要な事です。人の鮮烈な死によって導き出される人間の、計測不能の感情が、私達は撫子再生に必要だと思った。私はいささか撫子と仕様は違います。が、制約はあるものの、一度は離れた肉体と魂を、取り戻すに至った。理論上可能であり、実証済みなんです。だからやる。そうそう、杜花お嬢様」<br />「……忌々しいですね、なんですか」<br />「市子の死体に関して、考えた事は?」<br /> 杜花の呼吸が止まる。<br /> 控えているアリスが、目を剥く。<br /> こいつは、とんでもない事を、言おうとしている。<br /> <br />「――保存してありますよ。いえ、厳密には、死んでいない」<br /><br />「――な……に?」<br />「貴女、葬儀で火葬された骨をちゃんと見ましたか? 見ていませんよね、親族だけで囲いましたから。骨壷、空ですよ。あの葬儀、貴女の為のものですもの。当然死亡届も出していない、死んでいませんから。学院に届けられる、学院生徒が自殺したという三面記事、週刊誌のゴシップ記事、学院に押し掛けたマスコミ、取り調べにきた警察。それら全部、作りものであり、サクラです。貴女達に市子の死を実感してもらうための物。貴女達が引き継いだものを、目覚めさせるもの」<br />「そんな……無茶苦茶です……そんな、馬鹿な……」<br /> それでは。<br /> それでは――今、欅澤杜花を突き動かす前提が、崩れてしまう。<br />「ただ、首の骨を折っていますから、装置で延命しているだけで、死んでいるのと変わらない。首の骨を総とっかえするとなると、不可能ではありませんがリスクが高い。そして、これを直すくらいなら、一から作った方が早い」<br />「嘘は、やめて、ください」<br />「この後に及んで嘘なんて、吐きません。ほぼ目覚める見込みの無い市子を待ち続けるのは辛いでしょう。全ては同時進行。肉体の蘇生も、クローン化も、市子のデータ復旧も、撫子の再生も、全部一つ。そして、欅澤杜花という人物を幸福にする事が、可哀想な私の娘達に残された最初にして最後の希望です。だから言っているじゃありませんか。全ては貴女の為です。七星一郎は、私達が驚くほど、貴女を気に入っている。いえ、恋していると言っても過言じゃありません。それもそうです、何せ貴女は、本当に当時の欅澤花そっくり。利根河恵一辺倒だった彼が、一番最初に浮気した人。ま、私の死後なので、浮気というかは、怪しいですけれどねえ」<br />「ま、まって……やめて、お願いですから……」<br />「ええ、待ちましょう。幾らでも、考えてくださいまし、杜花お嬢様」<br /> どこから、どう考えれば良いのかすら……杜花には解らない。<br /> つまり、市子は――延命装置付きではあるものの、肉体的にも、法的にも、生きていると言う事だ。<br /> もし、目を覚ましたのならば良し。<br /> 不随が残ろうと、サイバネティクスで幾らでも繋げられる。<br /> それがダメならクローンを作っても構わないのだろう。<br /> そしてそこに、ほぼ市子と断定されたデータが入ったのならば……それは、間違いなく、市子、ではないのか。<br />(違う……違う……ちが……う)<br /> 人間とは、母から生まれ出て、様々な記憶を積み重ね、出来あがるもの。それが人間ではないのか?<br /> 元から出来あがったものを元に再生成した肉体に、データの魂を乗せる。<br /> それは、あまりにも人為的で、科学的で、生命として間違っているのではないのか。<br /> 違う。<br /> それは良い。まず置いておくべきだ。<br /> いや、待て。<br /> 違う。何が違う。<br /> 何せ、何もかも根底から覆っている。<br /> 市子が死んだと思ったからこそこうしているのに、意識こそ無いものの、生きているならば、今死ぬ意味がない。<br />「い、生きてる。市子が?」<br />「目を覚まさないかもしれません。というか、ほぼ無理でしょうね。だからこそ代替えがいる。ああ、撫子の否定反応の件がありましたか。やはり、私の件もそうでしたが、本人の魂は本人の肉体が一番なのでしょう。だから肉体も魂も同一が良い。撫子の遺伝子複製体に、市子の魂が定着しなかったのは、市子が撫子として完成が甘かったからと言えます。ただ、例外もある。クローンでなく、直接一郎様と、私の肉体から産まれた子ならば、どうやら違う様子です。ええ、だからもう問題は、一巡してしまう。私という母体から生まれた、市子、二子で、何か、不満ですか、杜花お嬢様」<br />「も、杜花様?」<br /> 膝をつき、頭を抱える。<br /> ――なんだそれは。<br /> どうしてそうなる。<br /> 人間とは何だ。<br /> 人間と定義するものとは何だ。<br /> 違う。<br /> 人間は人間だ。<br /> 個人だ。<br /> 個人を定義するものとは何なのか。<br /> 連続した意識を保ち、自我があり、趣味趣向があり、言動があり、行動があり――それがそのまま、例えデータとしても再現されているならば……それは個人ではないのか。<br /> だったら、狂乱している自分は、もう何なのか解らない。<br /> とんでもないキチガイに他ならない。<br /> 自分を慕うものを切り捨て、娘を守ろうとする母を殴りつけて殺そうとした、とんでもない女となる。<br /> 例え敷かれた道の上だったとしても、攻撃衝動など個人で押さえつけられた筈だ。<br /> もっと論理的に、感情を抜きにして考えれば、良かったのではないのか。<br />「な、なんですかそれ……」<br /> 憎い、何もかもを巻き込んで、自分達を実験台に、学院を実験場にしたコイツ等が憎い。<br /> 金を、時間を、人を、全てを動員して人を翻弄するコイツ等が憎い。<br /> 死した娘を蘇らせる為、死した筈の恋人にとどめを刺し自分も朽ち果てる為。<br /> 客観的に見ろ。<br /> どれが一番幸福だ。<br /> 例え七星の強権であっても、彼等の選んだ道が、一番被害が少ないのだ。<br />「逃げ道なんて幾らでも用意します。お願い、杜花さん。娘たちは、貴女が欲しいの。貴女が、貴女が諦めてくれるだけで……皆が幸せになれるの」<br /> 兼谷が、初めて感情を見せたように、言う。<br /> 杜花は、頭をかきむしり、ふと自分に立ちかえる。<br /> その手を見ろ、腕を見ろ、脚を見ろ。<br /> なんでこんなに傷ついている。どうしてこんな事をしている。<br /> 何故アリスが傷つき、兼谷がボロボロだ?<br />「二子は、二子はどうするんです」<br />「あの子は受け入れています。器になる事を」<br />「そんな、どうして」<br />「器としての悲願なのか……二子が純粋に、市子になりたいのか」<br />「わかって……いないんですか、貴女」<br />「良いと言うなら、良いでしょう。二子だって、蘇らせようと思えば、幾らでも出来てしまうのですから」<br />「う、うぅぅぅぅ……ッッ」<br /> 廊下に、拳を叩きつける。<br /> 一度、二度、三度、皮がめくれ、血が滲む。<br />「何ですかそれ……何ですかそれ……ッ」<br /> 四度、五度、六度、骨が軋むのが解る。<br />「杜花様ッ」<br /> アリスが、後ろから杜花の腕を押さえつけた。<br />「思考停止はいけません。どんな後悔があったとしても、許容されるならば立ち直れる。貴女の市子への依存はもはや冗談にはなりませんが、新しく関係を見つめ直す事は出来る。何も心配しなくて良い。三島軍曹に関しても、きっちり隠ぺいして、彼女は元通り。私の怪我など気にする必要もない。貴女は市子のデリートコードを破棄し、忘れ、そこで血まみれになっているアリス嬢を抱きかかえて医療保健室に向かい、治療を受けて、早紀絵嬢とも御話し直せば良い。彼女は貴女を心から愛している。貴女の全てを受け入れられる。貴女は全部が許容されている。落ち着いて、考えを改めて、また、市子と向き合えば良い。それで全部おしまいです。何故死に急ぐんです、何故戦うんです」<br />「何故、今になって、そんなこと……。もっと、もっと早く、教えてくれれば、こんな事、私は……」<br /> 兼谷は腕の端末を確認し……にやりと、笑った。<br />「ですから、再現の圧縮が必要だったんです。撫子を覚醒させる為に」<br />「この……情景も、それ、だと?」<br />「最初はじっくり彼女を覚醒するつもりで居ましたが、杜花お嬢様達が予想以上に反抗的でしたので、対応を変えました。それに、やはり最後のギリギリまで再現した方が、正確な数値が取れるようですね。感謝します。市子撫子は、部屋のモニタでずっと貴女を見守っているでしょう。思いだしているでしょう。血まみれのアリス嬢も、暴れ周り嘆く貴女も。だから、もう、出来てるんです。出来あがったから喋りました。これで良い。これで――撫子に会える。娘に、会える……『大覚醒』は、叶った」<br /> 三本目の注射を打ち、捨てる。余程きつい痛みなのだろう。<br /> アリスが杜花に寄り添い、杜花の腫れあがった腕をさする。<br />「杜花様。兼谷さんの言う通りですわ。何も、自ら死に行く必要なんてありませんのよ。データと心中なんて、馬鹿らしい事この上ありませんわ。全部元通りになります。七星が保障するんですもの。あ、いたた……」<br />「……それで、アリスは良いんですか。何もかも、コイツ等の意のままにされて。私達の自由意思は、どこに行くんですか。私達は人形じゃない。駒じゃない。人間です。純粋じゃ、ないかもしれませんけど」<br />「構いませんわよ……。自由意思って、なんですの? 私達は、大きな枠組みとはいえ縛られて生きている。その中で道徳と法を遵守して、生きている。言わばそれは国家であり、言いかえれば、七星ですわ。私達は群れてしか生きられない。用意された枠組みでしか、生きられませんわ。今更なんですのよ、どうあっても」<br /> 自由を履き違えているだろうか。<br /> 杜花の作りあげた自由とは、体験した幸福とはそもそも、七星が作ったものだ。<br /> あれを自由と呼ぶならば、今とて大して変わりはない。<br /> 頭の中がぐちゃぐちゃだ。思考停止するなというのは、無理な相談である。<br />「市子が、生きてる……市子が……」<br />「杜花様。杜花様。もう良いじゃありませんの……」<br /> 無意識に、アリスに縋りつく。<br /> こんなにも汚くて、自分勝手な杜花を平然と受け入れるアリスも、どこかおかしいに違いない。<br /> でなければ、聖母か、菩薩か、人間の外の何かである。<br />「兼谷さん。嘘じゃありませんわね。天地神明に誓って」<br />「肉体はありますよ。定義上生きています。神でも七星でも、誓いましょう」<br />「杜花様が欲しい、というのは、どの範囲までの事を言うんですの……?」<br />「脳髄でしょうか。人格データでも構いませんが、それは手間ですね。欅澤杜花がどんな形であれ生きているのならば、それで構わないでしょう。どうせ幸福は与えられます」<br />「――もう、杜花様を傷つけたくありませんわ」<br />「貴女すら切り捨てようとしたこの人が、そんなに欲しいですか。ハッキリ言ってしまえば、この人は人間として最底辺の人格しか持ちえない。ま、そう仕向けたのは、私達ですがね」<br />「解りませんわよ」<br />「解らない、とは」<br />「解りませんわよ。幾らデータを集めても、幾ら人格に推敲を重ねても、例え仕組んでいたとしても、彼女が抱いて、考えて、歩んだ道を、想いを、貴女は何一つ、理解なんか出来ませんわ」<br />「貴女だって、遺伝子レベルで欅澤杜花、満田早紀絵を好むよう刷り込まれているのにですか?」<br />「私は、私ですわ。杜花様も、杜花様ですの。私は、こんなダメな人を好きになってしまった。私や早紀絵や御姉様が、杜花様を馬鹿と言うのならば許容しましょう。でも、貴女だけは絶対に許さない。例えこの記憶も感情も、全て塗り潰されたとしても――私は貴女達が、杜花様を馬鹿にするのだけは、許さない」<br />「アリス――」<br /> 脚を痛めながらも、縋る杜花を抱き締めたまま、アリスは強い意志を兼谷に示す。これだけ理不尽な目に逢い、愛していると告げた人物にすら裏切られそうになったというのに、アリスは一切揺るがなかった。<br /> 彼女は自分に嘘は吐けないと常々口にしていた。<br /> 杜花は――それを、信じていなかった。<br /> そんな言葉、どうせいつか打ち捨てられるものだとばかり、考えていたのだ。<br /> しかしどうだ。<br /> 今この場において、これほど痛烈に響く言葉があるか。<br />「貴女、欅澤杜花が死ねと言ったら、死ぬんですか?」<br />「死にましょう。この人の為なら、何も惜しくない」<br />「何の見返りもないのに?」<br />「貴女、本人からの自主的な見返りを求めて、七星一郎に仕えているんですか? 愛しいから。好きだから。ご主人様を幸せにしたいから。幸せになって貰う事が幸せだと、そう思っているから、仕えているのでは、ないんですか?」<br />「……欅澤杜花が幸せなら、貴女も幸せだと。人の幸せの為に貴女は死ぬと、そう言う」<br />「断言しますわ。気狂いと罵るなら、結構。そんな言葉、部屋の隅の塵程も気にならない。私も、杜花様も、早紀絵も、個人であり、人間であり――この気持ちは、誰に左右されるものでも、ありませんわ!」<br />「――流石に想定を超えますね。認めましょう。貴女はイレギュラーな感情を抱いています。七星の外です。おめでとう御座います。そして、これから左様ならですね。全ては、塗り替えられてしまうから」<br />「少なくとも、もう、杜花様を、傷つけないで。私の愛しい人を、傷つけないで」<br />「……保障しましょう。私は念願が叶いました。あとはじっくり――」<br /> 兼谷が頭を振り、端末からの受信を確認する。<br /> ……――。<br /> 何事かと訝しそうな顔をした後、兼谷の顔面は、腫れているというのに、蒼白となった。<br />「圧縮再現の状況終了。研究員に医療保健室まで運ばせますから、ここに居てください」<br />「……兼谷さん。どこに、行くんですか。まだ、貴女を倒してない」<br />「冗談も休み休みにお願いします。多少の問題が発生しました」<br />「だから、それは、何ですか」<br />「――目を覚ましたあの子が、少し暴れている様子ですから」<br /> ……。<br /> ……。……。<br /> 彼女が、そのように言い切った瞬間、自分達の見ている情景が一遍する。<br /> それはいつか、市子の幻覚を目の当たりにした時のように、世界が場面として切り取られ、極彩色のパネルになって散って行く。<br /> 黒い穴が大きく開きそれらを飲みこむと、新たな視覚世界を提供した。<br /> 今はもう夕方である筈なのに、窓から日が差し込み『生徒達が』廊下を往来し始める。<br /> 今は冬である筈なのに、空気が春の匂いを帯びている。<br /> 生徒達の喧騒、何気ない観神山女学院の一場面は、その場に居た杜花、兼谷、アリス三人の思考すら塗り替えて行く。<br />「マザーの書き換え作業はしてない……たった一人で、校舎ごとを改竄している……?」<br />「それは、撫子ですか、市子ですか、二子ですか。どれです」<br />「説明義務はありませんが……全部でしょうね。撫子が主人格権限を簒奪、三人のESP丸ごと使いこんでいると考えなければ、数値的におかしい」<br />「対策は」<br />「用意しましたよ。ですから抑え込まれている。これは、漏れているだけですね。問題は、そこじゃない」<br />「……どういう意味ですか」<br />「お話し出来ません」<br />「ど、どうしますの、それは」<br />「だから私が行くのでしょう。貴女達はここで」<br />「やはり、ここには居ませんか、彼女は」<br />「はは。馬鹿正直に引き合わせる訳が、ないでしょ。純粋ですね、杜花お嬢様」<br /> それだけ残すと、兼谷が身体を引きずりながら、幻覚の生徒達をかき分けて去って行く。<br /> 対策をした、という割に、彼女の顔には焦りが観えた。<br /> 杜花は廊下の床に座り込み、袖を裂いて出血する脚に括りつける。動かすたび腕に激痛が走り抜ける。間違いなく折れているだろう。<br />「痛々しい……杜花様、何でこんな事を」<br />「私は、私が誰なのか解らなかった。昔からでした。自分が自分という気がしなかった。初めて自分を見つけたのは、市子と出会ってからです。彼女はするりと、元から私の中に居たように、私の中におさまった。それが心地良かった。それで私は私になれた。生きる希望も、未来への展望も、そこに全てが携えてあった……ちょっと、待ってて下さい」<br />「ええ……」<br /> それを失い、自分が観えなくなった。<br /> ただ死ねばいい。しかし許せなかったのだ。偽りの市子なんてものを許容出来ない。<br /> だが、それを全て消す事は叶わないのだ。例え杜花が超人じみた身体能力を持とうとも、所詮は人間、たった一人で、国(七星)を相手に戦争など出来はしない。<br /> だったらせめて、せめてメインデータだけでも。<br /> 市子を偽る何かを、消し去って、それで手打ちにしようとした。<br /> 市子が最後に残した手紙の件もある。肉体のあった彼女は、当然死にたくはなかっただろう。だが今はどうだ。<br /> 妹を犠牲にしてまで蘇る事を、市子が是とするのか。<br /> 市子の事を一番良く知る杜花からすれは、それは否である。<br /> 目前に差し迫った死だ。回避方法を提供されれば、誰とて縋るだろう。<br /> しかしそれが望むものでは無かった場合、市子はきっと、死を望む。<br /> 同時に、市子の運命共同体である杜花は、それに付き合おうとした。それだけのことだった。<br /> しかし前提が覆された。<br /> こんな状況では、何一つ片付かない。整理をつけるつもりが、余計複雑になっている。<br /> メディキットを拾い上げ、幻覚の生徒達が行きかう中、一人廊下に座り込む遠くのアリスを見る。<br /> そして、自らの掌を見つめる。<br />「メディキット。三島軍曹はもういませんでしたね……回収されたのかな」<br />「どうしますの。応急箱?」<br />「……その白い筒。貴女の脚と、私の腕の腫れた部分に押し当ててください」<br />「これ。はい。行きますわよ」<br />「ぐっ――つっ……アリス、思いっきりが良いですね」<br />「失礼、強くしてしまいましたわ。貴女が馬鹿だから。……どれ。あ、いたた……」<br />「……テーピングで、ぐるぐる巻きにして、固定してください。そうしたら、今度は私がやります」<br />「ええ、痛いですわよ」<br /> アリスは不慣れな手つきで杜花を手当てする。本当に不器用に巻かれたが、固定するだけなら十分だろう。代わって杜花が、アリスの脚の治療にかかる。<br /> 弾は抜けている。いや、肉を抉った程度だ。<br /> 兼谷の言っていた事とは逆に、被害の少ない打ちぬかれ方をしている。口径も小さかったのだろう。<br /> 例え酷く怪我しようとも、直ぐに運び込めるのだ。全部計算の内、と考えるのが妥当だ。<br />「上手ですわね。えへへ」<br />「……」<br />「それで、杜花様はなんで馬鹿なんですの?」<br />「辛辣ですね。いえ、良いんです。私は、馬鹿ですから」<br />「まあ、馬鹿でも何でも良いですわ。もう止めましょう。元はと言えば全て彼女達がやった事。杜花様だって咎められませんわ。七星は恐ろしいですけれど、寛大でもある。それに、一郎氏は杜花様に恋してるそうじゃありませんの。差し上げられませんけれど、国王の恩恵にあずかれるなら、良いじゃありませんの」<br />「……市子が生きているなんて、本当でしょうか」<br />「死んだら確かめられませんわよ」<br /> アリスが、小さく睨む。そうして杜花の手を取り、腫れあがった部分を軽く叩いた。まだ薬が効いていない。杜花は顔をしかめる。<br /> こんな事になっていても、アリスがアリスである事に、安心する。<br /> こんな無茶苦茶をする杜花を、この子はまだ支えようとしている。<br />「……何度目でしょうか、この質問は」<br />「はて?」<br />「なんで、そんなに、優しいんですか。私は、簡単に貴女を見捨てるような人間なのに」<br /> またそれかと、アリスが溜息を吐き、優しく笑う。<br /> これまでずっと見て来たアリスの笑顔の中で、一番悲しそうな、そんな笑顔だ。<br />「戸惑いましたでしょう、兼谷さんに撃たれた所を見て」<br />「それは……お婆様の、記憶が」<br />「嘘ですわ。本当にどうでも良いと思っていたなら、そんなものに囚われない。貴女は自分の進む道を、ヒトの所為にして均そうとした。本当は理性があるのに。そうしなきゃ、兼谷さんと殴り合えないと思ったから。死ねないと思ったから。本心では、私を心配しているんですのよ。本当は、私が心配だし、死にたくもない」<br />「……都合良く、受け取りすぎです。嫌ってください」<br />「それに言いましたもの。私、貴女の為に何でもするって。貴女は市子御姉様が危機に陥ったら身を挺するでしょう。きっと命すら平然と投げ捨てる。私の愛は、市子御姉様にだって、負けませんわ」<br />「『当たり前の彼女』だったのなら、きっとそうします。自殺だって、私が代われるなら代わりたかった。ああ――そんなに、貴女は莫迦なんですか」<br />「何度目ですか。馬鹿ですわよ。私は」<br /> 杜花は思わずため息を吐き、アリスに微笑みかける。一蓮托生なんて言葉が頭に浮かんだ。<br /> 自分の身は、自分だけの物ではない。<br /> あの時も、あの時も。諭されていたのに、解っていたつもりなのに、何一つ、実行していなかった。<br />「情熱的ですね、アリスは」<br />「ええ。お嫌い?」<br />「貴女の言葉が、今初めて、身にしみた気がします」<br /> 真偽は定かではないが、シナリオを完遂した兼谷が嘘を吐いても意味が無い事は確かなのだ。<br /> 市子が生きているというのならば、それを確認しない手はない。自分達がこうしているのは、全て彼女の死一つの問題から派生している。<br /> 自暴自棄が安っぽいとは、良く言われたものである。<br /> 本当に全てを投げ出していたら、兼谷の話とて嘘だと切り捨て、彼女を殺しにかかっただろう。<br /> 市子の死を悼み、自らも死のうとした杜花と、彼女達が同じならば……彼女達もまた、杜花の死を追う可能性は高い。<br /> 将来への不満が無かろうが、未来があろうが、家が立派だろうが、関係無いのだ。<br /> ただ一人、愛してしまった人を強く想う心さえあれば、人は容易に命を投げ出す。<br /> アリスに手を伸ばす。彼女はそれを取って、頬ずりした。<br />「勿論。早紀絵もきっとそう。馬鹿は馬鹿らしく、しているのが良いんですわよ。生きる為の自己肯定を、恥ずかしいと思ってはいけませんわ。貴女は死なないし、死んではいけない」<br />「貴女が優しすぎて、私が邪悪すぎて、そういう意味で、死にたくなります」<br /> そんな優しさに対して、杜花がお返し出来るものは、限られてしまう。<br /> つまり――死なぬ事だろう。<br /> 当たり前で、簡単な事であるのに、杜花にはどうも、今後の未来が描けないでいた。何もかも捨てて来たつもりで、ここに望んでいるのだ。<br /> 辛うじて現世に身を留めているのは、アリスと早紀絵がいるからである。<br /> 死ぬのならば、この二人を一番最初に捨てるべきだったのだ。<br /> 冬休みの申し出など、却下すれば良かったのだ。<br /> しかし、杜花は甘えた。早紀絵に頼り、泣きつき、アリスにも依存しようとした。<br /> それだけの事をして、それだけの影響を与えておいて自ら死に行くなど、外道極まる。最低人間だ。<br />「――私、最低だなあ。ほんと、最悪」<br />「杜花様、どうしましたの?」<br />「私は、生きていて良いんでしょうか。私は自分が、なかったから。市子の恩恵無しに、生きてこれなかったから……アリスやサキの気持ちが本物だったと実感した後でも……不安なんです」<br />「はあ」<br />「あ、アリス?」<br />「面倒な人、好きになっちゃったなって、思っただけですわ。大丈夫ですわよ。お婆ちゃんになって一人で歩けなくなっても、介護してあげますからね、杜花様」<br /> 漸く自分が『意識不明の』市子を置いて、未来に進んでいるのだと、実感させられる。彼女の仮初の死に囚われ、後ろを向いて生きて来たこの一年と少し、初めて一歩進んだような気がするのだ。<br /> ただ――状況は最悪だ。<br />「……ま、難しい話はまた後にしましょう。現状をどうしましょうか」<br /> アリスに促され、歩きながら周囲を見渡す。<br /> 幻の生徒達が、平然と、何事も無いように歩いては通りすぎて行く。<br /> 現実との乖離が酷い。<br /> 杜花達は虚像こそ見えていても、この世界の住人ではないと線引きされ、定義されているのだろう。<br /> しかし影響下である事に変わりは無い。<br />「もう兼谷さんが行ってから、十分以上経っている。何の変化も無いのは、不思議ですね。救護に研究員を送ると言っていたのに、一向に来る気配はないし、事前準備の良い兼谷さんにしては、時間がかかりすぎる」<br /> 杜花が言いきると、また世界の様相が一変する。<br /> 今まで平常通り歩いていた生徒達は消え失せ、舞台は夜へと切り替わる。<br />「頭が……痛い、ですね」<br />「なんだか、じりじりしますわ」<br /> 脳を直接触られているような不快感に、二人が身もだえする。<br /> だがまだ終わらない。<br /> 今度の情景は学院ですらなくなる。杜花の鼻に木の香りが漂い、学院の廊下が日本家屋の廊下にとって代わる。<br /> 教室のドアは襖に、壁は土壁にと、異様な変化を遂げて行く。<br />「……知らない光景」<br /> 彼女達の力は、脳を勘違いさせるものだ。<br /> 一定のキーワードを流し込み、脳にある情報から合致させ、それを視覚に映しだす。知らない情景を映したりはしないのだ。<br /> 木格子の窓の外を覗くと、ここは二階だというのに、何故か道路が観えた。しかも、外を歩いている人物は、明らかに観光客。<br /> 暫くその光景を眺めていると、やがて煌びやかに着飾った白塗りの和服美女が三人通る。<br />「これ、京都ですわね」<br />「私は、行った事がありません」<br /> ワード自体は具体的なのだが、状況がまるで身に覚えが無い。<br /> 相当の深度で、彼女達三人の力が、杜花達の頭を蝕んでいると、そう考えるのが妥当ではないだろうか。<br /> 先ほどにはない『嫌な予感』がする。<br />「制御、出来なくなっているんじゃないでしょうか」<br />「どういう事ですの?」<br />「一つの身体に、人格が二つ。そこに新しい、いや、一番古い人格が目覚めたとすれば、都合三つです。人間の脳が、例え七星の技術に支えられていたとしても、その処理に耐えられるでしょうか。兼谷さんも『少し暴れている』なんて、言っていましたし」<br />「撫子が、何故」<br />「理由は、解りませんけれど」<br /> 二子元来のESP、そして市子のESPデータに、更に撫子のものが目覚めたとすると、その脳の酷使具合は半端ではない筈だ。杜花とて、この先見能力を酷使すると頭痛が残る事もある。<br /> 撫子は、突然目を覚まして、その状況に混乱をきたしているのではないか。<br /> 二子の中に市子(≒撫子)を入れ、ソフトランディングを狙ったと考えると、それが失敗した可能性もある。<br /> 階段らしき場所に差し掛かったところで、また情景が移り変わり、通常の旧校舎に固定される。<br /> 慎重に階段を下りた所で、杜花はアリスを座らせ、ほんの少し先を見て窺う。<br /> そこには、いささかばかり衝撃的な光景が広がっていた。<br />「あっ……うわ……あ、――軍人さん?」<br />「いいえ、この装備は、七星の、私兵隊、でしょうね」<br /> 地下へと向かう為の階段の手前の廊下に、数人が横たわっていた。完全武装の私兵の肩口には七星の企業マークが見える。一体どうやって彼等を学院に入れたのか……いや、この改竄された状態ならば瑣末な問題だろう。元から七星ならばどうとでもなる。兼谷の口調から、マザーコンプ運用に研究員も入れているようだ。<br /> 杜花が脈をはかると、確かに生きてはいるのだが、痙攣している。<br /> 装備を検める。小銃のような形はしているが、銃口を見ると解るように、非殺傷の対人光線兵器だろう。<br /> ヘルメットを剥がし、額に手を当てる。脳が、酷い熱をもっているのが解った。<br /> 杜花は自分の額に手を当て、想起する記憶に頭を振る。<br />「一つ、仮説ですが」<br />「ええ、なんですの」<br />「あの占拠事件、拘束者が多かった割に……被害が少ないと、思いませんか?」<br />「確か、怪我人は多かったですけれど、生徒の死者は、六人、でしたわね」<br />「お婆様が一人殺した時点で、生徒達の反抗が疑われる。見せしめにもっと殺したとしても、おかしくはない。それに、警察、自衛隊の特殊部隊の突入だってあった。それで六人は、少なすぎる」<br /> 幾ら錬度の高い精鋭部隊とはいえ、そこまで即座に敵の場所を判別し、生徒達を救出する、というのは、幾らなんでも無茶がすぎる。<br /> 自衛隊が突入している間に、テロリストが生徒に小銃を乱射する可能性も、人質としてとっているのだから、数人殺されても、おかしくはない。状況が混乱すれば、もっと死者はいても不思議では無いのだ。<br />「……撫子は、確か私に、あいつらの、脳幹をねじ切る、と、そう言っていたような、気がします」<br />「撫子の能力は市子御姉様以上という話も、ありましたわね」<br /> そしてこの現状。<br /> 兼谷の話を信じるならば、撫子は今、拡散装置を用いないで校舎全域を改竄領域に収めてしまっている。<br /> 兼谷のいう『大覚醒』とは、単純に撫子の復活だけを意味しないのだろう。<br /> それに、わざわざ見つからないような場所に隔離し、対策までしたというのならば……最初から、撫子の能力が覚醒と同時に拡散する事を見越していたのだろう。<br />「そして、失敗の可能性……ですか」<br />「倒れている皆さんを見る限りなら……これを成功とは、言わないのでしょうね」<br /> つないだアリスの手を、強く握る。<br />「……まだ、私達に自由があるのなら。まだ、戦えるのなら」<br /> アリスを見る。その表情は複雑だ。<br /> 本当なら、今すぐココから退散したいだろう。<br /> 杜花とて、通る事なら通してみたい意見だが……ではこれをこのまま放置した場合、どうなるかと考えると、難しい。アリスもそれは理解しているだろう。<br /> 暴走を前提とした設備を用意しながら、それが叶わず、状況は変わらず、兼谷の対策は見えず、救護者も現れない。挙句、警備隊はこのありさまだ。<br /> 旧校舎を丸ごと改竄して余りある能力を暴走させ続けた場合、どうなるのか。<br /> ……学院生徒達は、果して無事か?<br /> アリスは杜花の手をぎゅっと強く握ってから、小さく溜息を吐く。<br />「……ま、そんな事を言い出すのではないかと、思ってましたわ。ええ、構いませんわよ。止めても行くでしょうし。生きていてさえくれれば、私はそれで」<br />「――良いんですか?」<br />「もし私が理性的でないとしたならば、貴女の腕を引っ張って、行かないでと泣き叫ぶでしょう」<br />「もう少し、ですから」<br />「それに私、面倒くさい女じゃありませんの。ま、そう何度も裏切られたら、私も見限りますわ。貴女が死んだ後にですけれどね」<br />「……私達は、この圧縮再現の、主役ですから、ね。止めないと」<br /> 残念ながら、だが。撫子を消し去る手段は、杜花の手にあるのだ。<br /> アリスの目を見る。それから、一度頷く。<br />「……この先は、地下、ですよね」<br />「ええ。機械室や電機室、それに核シェルターと貯蔵庫がありますわ。結構な規模ですのよ」<br /> それは良い。杜花も頭の片隅に、そんなものがあったと記憶している。<br /> しかし問題は、立ち入り禁止と書かれた看板と紐が、横に打ち捨てられている事だ。<br /> 危ないかもしれないものを隔離するなら、被害を最小に抑えられる場所が良い。この調子で行けば、恐らくは地下なのだろう。<br /> 兼谷も撫子の覚醒時に何かしらの不具合があるのではないかと見越していたら、隔離性の高い場所を拠点に選ぶだろう。<br /> 核シェルター。現代においては、殆ど旧世代の遺物だ。<br /> 二千年代初頭、日米合同の『新生核の傘』計画によって打ち上げられた三つの軍事戦略衛星(表向きは発電研究だが)は、大陸間弾道ミサイルなどの発射を感知した瞬間、衛星軍事兵器『アマテラス(ウリエル)』『ツクヨミ(オファニエル)』『スサノオ(ラハブ)』によって発射元国内で蒸発させる。<br /> 旧世代のミサイルによる恫喝は消え去り、大量破壊兵器は空から海に移動し、戦争は新しい時代にへと突入した。<br /> シェルター自体は中性子爆弾の可能性も考慮し、土、コンクリート、鉛、水壁という構造で、地下には平面の貯水タンクが分厚くはびこっている。<br />「地下、見てきます」<br />「……何があるか解りませんわ。ここに居ますから、危険を感じたら、直ぐ戻ってくださいな」<br />「アリスは……現状、ここに医療保健室の先生を連れて来るのは、危険ですから、貴女一人でも」<br />「本当はついて行きたいですけれど、きっとお邪魔でしょう?」<br />「貞淑な事で」<br />「ご主人様を立てて、帰る場所を提供するのが、良い女ですわ。杜花様」<br />「すぐ、戻ります」<br />「約束ですわよ」<br /> そういって、アリスが小指を差し出す。ずいぶん古風な作法を知っているものだ。<br /> 杜花も素直に小指を差し出し、絡める。アリスは『しょうがありませんわね』という顔で、頷いた。<br /><br /> そして後悔した。<br /><br /> ……。<br /><br /> ……。……。<br /><br /> ……。……。……。<br /><br /> 階下に降りて直ぐの事である。薄暗い廊下に辿り着くと、一際強い感応干渉が襲う。<br />「ぐっ……ずっ……ぐぅッ」<br /> 頭が締めつけられる。まるで高熱の中にいるような、酷い朦朧を覚える。<br /> 今まで学舎だった世界は、またしても転じる。<br />「まあ、いらっしゃったのね。さあ、掛けて」<br /> 顔の見えない何者かに促され、杜花は着席した。<br />「なんだかとても、花様に似ていらっしゃいますわ」<br />「本当。意思の強そうな方」<br />「アナタ、そういう女性好きですものね?」<br />「や、やだ。ご本人の前でそんな事仰らないでくださいまし……」<br /> 差し出されたお茶に口をつける。市子が好んで呑んでいた紅茶だ。<br />「貴女が新しい妹ね。宜しく。私は※※※※。貴女は?」<br />「――欅澤――杜花――」<br />「けやきざわ? まあ、花様に妹様がいらっしゃったのね!」<br />「最近転校して来たのかしら。本当にそっくり、双子のようね」<br /> わらわらと、生徒達が群がる。<br />「杜花様、御趣味は?」<br />「……格闘技を、少々」<br />「まあ、花様と一緒ね。どちらが御強いのかしら?」<br /> 頭が、ぐらつく。逡巡し、視界を絞り、群がる生徒達の隙間を、見やる。<br />「あー――あ、あ、あー……」<br />「どうしましたの? 御加減が優れませんの?」<br /> 見やる。見えろ。ミエロ。見えた。先にイルのハ、……。<br />「……花そっくりね。花、この子、貴女の妹?」<br />「妹なんていない。にしても、似てるねえ。貴女はどちら様」<br />「……杜花、木偏に土、それに、お花の、花で――杜花、です」<br />「そう。なんだか、気が合いそうにない子だね。ま、いいや。撫子も面白がるでしょう。おいで」<br /> ハナ。花だ。同じ顔をした彼女に、手を引かれる。<br /> 懐かしい。いつ以来だろうか。花に手を引かれ、歩くなど。<br /> あれは、本当に、そんな事をするような人間ではなかった。<br /> ただ厳しい。<br /> まるで褒めない。<br /> 元から、欅澤杜花の強さがどこにあるのか、知っているように、強くて当たり前と、扱きに、扱いた。笑う事もない。話す事もない。<br /> 花の強権は家族にまで及んだ。杜子は母であるのに、扱いを花に準じた。男たちも黙認した。<br /> 杜花は実家にありながら、いつも一人だったのだ。<br /> 学院でも一人であった。<br /> 気持ち悪い子だ。<br /> 笑いもしない。<br /> 冗談も言わない。<br /> ただ大人しく、異常な身体能力と判断力を持った、異様な子供と扱われた。<br /> 話しかけられず、話しかけず、自らも塞ぎ込んでいた。<br /> 自分は何者でもない。何ものにもなれない。<br />「撫子。面白いの連れて来たけど」<br />「まあ。花、そっくりじゃない。とっても可愛らしい子ねえ。こんにちは、はじめまして」<br /> ああそうだ。こんな笑顔だった。<br /> 彼女は、一人ぼっちの欅澤杜花に、彼女は優しく語りかけてくれた。<br /> 優しく微笑んでくれた。欅澤杜花という何ものでもないものを、本当の個人にしてくれた。<br />「利根河撫子よ。最近は、魔法使いなんて、言われているけれど、ほら、普通でしょう?」<br />「撫子は、見た目だけなら超お嬢様なんだけどねえ。気をつけなよ杜花。この子、心を読むから」<br /> ああ知っている。知っているとも、言われずとも知っている。<br />「あ、ハナ超そっくりじゃん。隠し子とかいたんじゃないの?」<br />「そんな不貞な奴、うちの家系にいないよ、きさら」<br />「ハナは不貞でもいいよ。そうそう、きさらと不貞しようよ、ハナ」<br />「き、きさらさん。花さんをあんまり弄っちゃだめよ」<br />「え、何動揺してるの、ホマレ。撫子先輩、ホマレがー」<br />「おっほん。お客さんの前よ。ごめんなさいね、こんなに騒がしくて」<br />「――お構いなく。お構いなく……」<br /> ……。<br /> 目を瞑れ。<br /> 目を瞑れ。<br /> 違う、何もかも違う。<br /> こんなものを、見に来た訳じゃない。<br /> 笑うな。<br /> 微笑ましそうにするな。<br /> 歯をくいしばれ。何か、何かないか。<br /> 囚われている。意識しても、反抗出来ない。<br /> 仲の良い四人が、杜花にはあまりにも、輝かしい。<br /> 目がつぶれてしまいそうだ。だから、目を瞑れ。<br />「折角来たのだし、ゆっくりしていってね。なんだか私、貴女ととても、気が合いそうだわ」<br />「それ、単に私に似てるからじゃないのかい?」<br />「うふふ。花、ヤキモチ? 可愛いのだから、貴女は」<br />「くっ……」<br />「さあ、お茶を召し上がれ。花が焼いたクッキーもあるの。今日は妹達を……ああ、私を慕ってくれている子達を集めたお茶会だから、貴女も如何? そうだわ、それが良い。杜花さん。貴女、妹にならない? なんだかんだと、花も喜ぶわ」<br />「わた、わたし――」<br />「うん?」<br /> ……。<br /> ……。<br /> ……。<br /> もう耐えられない。<br /> 市子と同じ笑顔が、杜花に迫っている。<br /> ――もう耐えられない。<br />「――ッッ!!」<br /> 杜花は、目の前の机に、恐らく骨折しているであろう右腕を、思い切り打ちつける。痛み止めの効力をも吹き飛ばすような衝撃が、杜花の脳に火花を散らせる。<br /> あまりの痛さに、杜花は椅子から転げ落ち、数秒続く痛みに耐えてから、頭を振って立ち上がった。<br /> 何も無い。<br /> そこには、四季折々の花々も、見目麗しい少女たちも、その女王たる彼女も居ない。<br /> ただ、埃っぽく薄暗い空間だけが広がっている。<br /> ……。<br />「ハァー……はっ……ああぁ……」<br /> 大きく息を吐く。<br /> 髪を撫でつけ、ゆっくりとその手を降ろす。<br /> 突然であった事、そして予想以上だった事。後ろを向けば、直ぐ階段がある。杜花は動いていない。<br /> 能力が、凶悪この上ない。<br /> 二子の得意とする所である過去追想に、幻覚作用まで齎されている。空間認識は完全に外れ、此方の意思の完全に外だ。<br /> 近い距離に居るとも思えないというのに、この威力では、近づいた場合どれだけの影響があるのか、解ったものではない。<br /> 階段は、すぐそこだ。<br /> 今戻ろうと思えば、直ぐにでもアリスに会えるだろう。<br /> だが、どうも引っかかる点がある。<br /> かなり直感的なものだが、撫子の感応干渉の雰囲気から好意を感じるのだ。<br /> 敵対する意思はないのだろうか。<br /> 撫子は、本当に完成しているのだろう。<br /> 撫子としての基本データ。市子が歩んだ人生。そして女学生等から蒐集した行動理念。<br /> もしかすれば、他の撫子のクローン達がかき集めた微細なデータも精査して組み込まれているかもしれない。<br /> 娘を蘇らせたいという妄執に苦節四十年。<br /> とうとう出来あがったものが、これなのか。<br /> 頭を振り、杜花は足を進める。<br /> 機能性しか考えられていないであろう、武骨な造りの廊下をまっすぐ歩きながら、部屋名を確認して行く。<br /> 第一倉庫、第二倉庫、第一資料室、第二資料室、電機室、電盤室、機械室、ボイラー室、旧校舎を運営する為に必要な部屋が等間隔で並んでおり、廊下の突き当たりにとうとう、それらしき扉を見つけた。<br /> 観神山女学院第二シェルター。<br /> 第二ということは、この学院にはもっとたくさんあるのだろう。<br /> ぶ厚い鉄扉の真中のノブはレバーハンドル式になっており、潜水艦内部を思わせる。<br /> しかしどうやら、回す必要は無い様子だ。ドアは半開きになっており、中から光が漏れている。<br />(二子は本当に、市子に、撫子に、身体を明け渡す覚悟が、あるのか、無いのか)<br /> もう遅いか、まだ間に合うのか。<br /> それは解らないが、確認すべき事だろう。<br /> ただなんとなく、でこんな場所にまでは、降りてこない。それは早紀絵やアリス、そして支倉メイも気にしていたものである。<br /> 本当に撫子が暴走していて、もう取り返しがつかなくなっていた場合――杜花には、最終手段がある。<br /> 撫子のデータは、市子と同等だ。市子のデリートコードを使えば、同時に彼女も消え去る。<br /> だが、どうも不安が残るのだ。<br /> 兼谷は杜花を説得する為、必要以上に喋った。<br /> その中の会話と行動から、引っかかる事が二点ある事に気づいていた。<br /><br /> ――市子(=撫子)のバックアップは当然控えてあるだろう。しかし、兼谷はそれでも、自らの命すら犠牲にしようとした事。それは異常だ。彼等は、データを魂と拝んでいた。ならば別段とメインデータに拘る必要はない。この大覚醒に至る直前まで再現したものを控えている筈だ。<br /><br /> ――再現された利根河恵(=兼谷)のデータが利根河恵のクローンに拒否反応無く収まるのならば、撫子のクローンに市子(=撫子)が収まるであろうと言う事。現状、ほぼ撫子であるデータがあるならば、それをクローンに詰めればよい。そうすれば、実妹の二子は犠牲にならずに済む。兼谷と二子は、何故その手段を取ろうとしないのか。<br /><br /> 意固地になっているのか。<br /> 杜花が言えた義理ではないが、不自然である。物事を一から組み立てて来た彼女達である事を踏まえると、殊更際立つ点である。<br /> だからつまり、メインデータを消せない理由と、二子が肉体を明け渡さなければならない理由があるのだろう。<br /> 二子はどれほどの覚悟で居たのか。<br /> 杜花は、彼女と初めて出会った日を思い出す。<br /> まるで市子そっくりに繕った彼女を見て、杜花は衝撃のあまり怒りと悲しみを覚えた。<br /> 結晶が集まる毎に、彼女は欅澤杜花を『誤認』させて行く。<br /> 手を繋ぎ、歩いた事もあった。悔しさのあまり、彼女に泣きついた事もあった。<br /> きっと、あのまま行けば、杜花は市子となった二子を、そのまま受け入れただろう。ぽっかりと空いてしまった心の穴を、二子が埋めただろう。<br /> しかし彼女は、欅澤杜花という狂人を見誤った。<br /> 中途半端に市子に近づいてしまったばかりに、市子ならば許されるであろうと、二子は杜花の心を覗き見た。アリスにも、早紀絵にも見せないものを、二子に見せる筈もないのに、だ。<br /> タイミング悪く、結晶が魔力の塊などではないという嘘も発覚し、杜花と二子の距離はことごとく、離れてしまっただろう。<br /> 結晶を無理矢理回収し、神社にまで乗り込んできた。<br /> 彼女は――どこまで自分の本心で『杜花は自分の物だ』と言ったのだろうか。<br /> 七星に騙され、情報も伏せられたまま一郎と兼谷の手駒になり、しかし、それを彼女は許容している。<br />(今更……出会うタイミングが違ったならば、なんてことを、彼女には、言えませんよね)<br /> このタイミングしか、あり得なかっただろう。<br /> 自分達はそのように仕組まれていたのだから。<br /> 本当に不運で、追い詰められて死した、利根河撫子。<br /> 娘の死という現実に耐えられず、身を投げた、利根河恵。<br /> 利根河恵の精神の入れ物として用意された、兼谷。<br /> 撫子の器として不適合の烙印を押された、支倉メイ。<br /> 撫子復活の為の生贄として捧げられた、七星市子。<br /> 間に合わなかった器の埋め合わせとして翻弄された、七星二子。<br /> アリス、早紀絵、そして杜花すらも、純粋な人間ではない。<br /> しかも、これはほんの一握り。<br /> 七星一郎という、妄念に取りつかれた男によって生み出された、悲しい女性たちだ。<br /> 死者を蘇らせるなど、オカルトも良いところであるが、莫大な資金、膨大な犠牲、様々な研究者達と、気の遠くなるような時間が、それを現実のものとした。<br /> そして性質が悪い事に――出来あがったその現実は、あまりにも『人間』であり『個人』なのだ。<br /> 科学から生まれたものだからと、切り捨てられない領域にいる。<br />「……ん、しょっと」<br /> 重たい扉を引く。二重になっているのだろう。大部屋の前部屋がそこにはあり、洗浄室となっていた。<br /> 立ち並ぶロッカーの合間に……兼谷が倒れている。<br /> 杜花の第六感が、嫌なものを感知した。<br /> この先は……不味い。<br />「兼谷さん。兼谷さん」<br />「あっ――あ、あ、あ、」<br /> 目は明けたが、視点が合っていない。<br /> 天井を見つめ、何か幸せそうに微笑んでいる。感応干渉の影響を直接受けたのだろう。<br /> 支倉メイや兼谷が、当たり前のように改竄機構の中を自意識を保ったまま行動していた事を考えると、感応干渉能力同士ならば、影響を否定出来たのだろう。<br /> しかしそんな防護壁も、きっとこの先にいる『撫子』には意味を成さなかったのだ。<br /> どうすべきかと沈思黙考してから、杜花は兼谷を抱え、部屋の端に横たえた。<br /> ――この扉を、開けるべきか、否か。<br /> 全責任者の兼谷が対処出来ない事態となれば、おそらく、止める手段など限られているのだろう。<br /> つまり依代の殺害か、元データのデリートである。<br /> 肉のある個体……という表現はいささか憚られるが、二子をわざわざ殺害するメリットは、ない。<br /> ともすればデータの消去だが、兼谷があれほど抵抗したのだ、暴走する撫子を眼の前にして、躊躇ったのだろう。<br />(……私は、これから、本当にヒトゴロシになろうとしてる)<br /> このままの撫子を放置して、どうなるのか。止める人間が居ない常軌を逸したESPが暴走した場合、学院生徒達の脳とて、まともでいられるだろうか?<br /> 二子の身は無事なのだろうか。本当はどうするのが正しいのだろうか。<br /> 解る事は唯一つ、手段を持つ人間は、自分のみなのである。<br /> 欅澤杜花は部外者でもない。むしろ、中心人物にされてしまっている。<br /> 七星一郎が、欅澤杜花に『幸福』を与えようと思ったからこそ、このように大それた事件に発展している可能性が捨てきれない。<br /> 余計な御世話だが、ここまで深く食い込み、彼女達の母を半殺しにまでして心中しようとした杜花に、何の責任も無いかと問われれば、それはあり得ない。<br /> 中に居るのは、かつて愛した人の人格データと、祖母が愛した人の人格データと、そして、今を生きる人間である。<br />(……背負い続けて来たリスクのツケが、これ、なのかな)<br /> アリスではないが、面倒な人に好かれてしまったものだと、心の中で嘲笑する。<br /> 小さく決意し、杜花は第二扉を引き開く。<br /> 重たい扉は、金属音の一つもなく、滑らかに開かれる。<br /> ……。<br /> 小さいながら、強烈な感応干渉が網膜から、耳朶から、脳内を蹂躙して行く。<br /> 中を覗き、杜花は一歩踏み出した。<br />「うっぐっぇぇ……ッ」<br /> 全身が総毛立つ。恐怖という感情の薄い杜花が、驚愕のあまりそのまま胃の内容物を撒き散らした。<br />「あ、あ、な――なに――やめ、やめ――はっ――入って来ないで……――あっ」<br /> ――もし、これを説明してくれと言われた場合、どうするべきだろうかと、杜花は混乱する理性とは裏腹に、本能が冷静に考える。<br /> ルイスキャロルが観た夢をラブクラフトが小説化して演出して仕立て上げた舞台のような光景だろうか。<br /> 名状し難い海産物のような異形達が、少女達とお茶会をしながら殺戮を繰り返している。巨大な茸のようにも見えるオブジェだが、半分は人間で出来ていた。脳味噌が独り歩きし、肝臓と腎臓が楽しそうにお喋りしている。ウサギの形をした臓物が、俺の書いた小説を読んでくれと薦めて来るも、杜花は断る。半分はアリスで、半分が早紀絵のような何かが杜花を見つけ、歩み寄ってくるのが解った。半分にアリス用、半分に早紀絵用と対処し、彼女達は納得してくれる。火乃子と風子だと思っていたものは瑞々しい花であった。その二つの花は互いにいがみ合い、杜花を取り合っているが、杜花は知らない顔をする。杜花は手前に居た後藤田と田井中と書かれたネームプレートを拾い上げてから遠くに投げると、彼女達は笑顔で砕け散った。しばらく先に進む。足元はねちゃねちゃと張りつき、杜花の背中へと這いあがってくる。気持ちが悪いな、と思いつつも、まるで脳を優しく噛まれているような心地よさに、思わず気をやった。中には庭園がある。いつもの小庭園だ。その真中にはいつもと変わらぬガゼボが見受けられるも、それは魚介類の匂いがする。良く見ればプランクトンの集合体だ。杜花はガゼボの真中に座ると、その脇に早紀絵とアリスと風子と火乃子と歌那多と萌と御樹と綾音と五月と笑とそのほか市子の妹達だった生徒、そして撫子の妹達だった生徒、早紀絵の彼女達も群がり、ぎゅうぎゅうとおしつけられる。杜花は何時の間にか裸になっていたが、大して気にしない。群がる少女たち一人一人に愛撫を重ねて微笑みかける。ドボンと沈み込んだのは彼女達の愛液の海だ。人魚のような彼女達が杜花を包み込む。大きくなったり小さくなったり青だったり赤だったり、立方体が長方形になり、台形が丸い。乳房のような果実を食むと中から出て来たのは白い子供達だ。子供達はやがて大きくなって一つ一つが大きな百合の花になる。百合の花の花弁の中では、杜花好みの虐めやすそうな可愛らしい女の子達が戯れていた。杜花が近づけばただ怯えるばかりだが、一発二発殴りつけると直ぐ大人しくなって従順になる。杜花が笑いかけると、ああ容易い事か、なんとちょろいものか、直ぐなつき始めた。杜花はそのような星の下にあるのだ。杜花の凶悪な力と、ねじまがった精神と性癖と、時折見せる弱さと、花の綻ぶような笑顔にみんなみんな騙される。幸いといえば、杜花が市子以外に興味を持とうとしなかった事だ。そうでなければ、早紀絵も驚くような人間関係に発展していただろう事は想像に易い。杜花にかかれば処女とてあちら側に連れていける。虐めて、褒めて、撫でて、笑いかけて、徹底的に蕩けさせる欅澤杜花なる怪物にかかれば、異性愛者とて反抗は無理だろう。市子がいればよかった。市子さえあれば杜花は抑えられた。だがその枷は外れている。杜花が望めば望むだけ手に入る環境がある。死ぬなんて馬鹿らしい。甘受すればいい。現実で夢を見るだけのものが杜花にはある。アリスも早紀絵も徹底的に調教すれば、きっと面白い事になる筈だ。目を覚ました市子、撫子も、杜花を否定出来はしない。むしろ積極的に受け入れてくれる。身体は二子だろう。間違いなく処女だ。二子はどんな味がするのだろうか。流石にあそこまで小さい子を相手した事はないが、杜花には自信がある。絶頂に身を震わせる子供とはどんな興奮があるだろうか。同性に攻め立てられて悦ぶ子供とはどんな官能があるだろうか。構わない何でもする。楽しい方が良い気持ち良い方が良い。楽な方が良い笑っている方が良い。限定なく再現なく楽しみ尽くしてしまえば良い。<br /><br />「あっ――ふ、あ――あ、ああっ」<br /><br /> 脳が心地よい。脳全体が柔らかい羽毛につつまれている。右から左から際限無く絶え間無く降り注ぐ快感の雨に意識が細切れだ。そうだ市子は、市子はどこだ。市子をどこにやった。手を伸ばし探る。まるで大量に物を詰め込まれた鞄に手を突っ込んでいるようだ。その中はまるで下水処理層である。うねりぬめり吐き気のするような匂いに耐えてそれでも先を探る。まだ見当たらないまだ見つからない、杜花は業を煮やして顔ごと突っ込む。目を閉じ、目を開けた先にあったのは見覚えのある鳥居だ。ぼんやりと光る鳥居の真中には、胎児の姿が見て取れる。見つけた、手を伸ばし、それを両手で受け取る。やがて胎児はすくすくと育ち、見覚えのある懐かしい顔になる。いた、いたいた、いた。己が一番欲しかったもの、それさえあれば良かったもの。他に何もいらないと決心させたもの。自分を形成してくれるものであり、欅澤杜花を呪縛する最大の要因である。杜花は呪われている。その身、その記憶、肉体も魂も七星に穢されている。それが解った後で尚、七星市子との記憶が愛しい。七星市子が愛でた自身の身体が愛しい。嗚呼市子、市子市子。笑顔の彼女が杜花を抱く。杜花もそれに応えた。何度キスしたか、何度交わったか。互いを一つにするような交流の果てに自分たちがいる。そうだこれで良い。難しい事を考える事など一つもない。結局杜花は生きていたいのだ。死ぬなんて覚悟はきっと仮初だったのだ。市子が生きているとしても、目を覚まさないのでは杜花は穴が開いたままだ。目を覚まさないくらいなら、データだって構わないではないか。二子は身体を明け渡すと言っているのだ。ではお言葉に甘えて、中身を市子に譲ってもらえば良い。改竄機構もそのままに、姉と妹として過ごして、幸せな学院生活を送れる。早紀絵もアリスも文句は言うまい。杜花が生きてさえいればいいのだ。市子市子、愛しい市子。何をしよう、どうしよう、何でもしたい、何でもしてあげたい、嗚呼、手を伸ばす手を伸ばす。キスをする、その乳房に触れる。笑いかける、キスをする。嗚呼、嗚呼……なんだろう。何か、何か、違う。<br /><br />「……あ……れ……?」<br /><br /> 触れる。キスをする。市子が不思議そうな顔をした、杜花も不思議に思う。市子、なのか。呼んで見て欲しい、名前を呼んで欲しい。貴女の声で貴女の口で。……は……。……花。目を見開く、目を閉じもう一度見開く。もう一度呼んで。花。違う。花ではない。杜花だ。貴女は、貴女は貴女は。そう。違う。だから、杜花を離して。二子、手伝って。勘違いしている。花だと思いこんでいる。あの人は助けにこれない。あの人は精一杯だった。もうずっと昔の話昔の悲劇。これは花ではない。欅澤杜花だ。貴女のものではない。私のものであるかすら怪しい。脳幹が焼き切れる。ぞぶりぞぶりと抉られる。そんな事をしてはいけない。壊してはいけない。杜花を……離して、撫子。<br /><br />「あ――ちが……う……」<br /><br /> 貴女は、誰と、彼女が問う。<br /> 杜花も、お前は誰だと、問う。<br /> 違う。これは、市子ではない。市子に近い、何かだ。<br /> 違う。これは、撫子ではない。撫子に近い、何かだ。<br /> 違う。これは、二子ではない。二子に近い、何かだ。<br /><br />「な、なに……が、」<br /> 目を開ける。<br /> そこは真っ白な世界が広がっていた。<br />「はっ……ふぅ……病院……?」<br /> 見覚えの無い風景だ。感応干渉が和らぎ、杜花は頭を振る。<br /> 真っ白な通路に真っ白な壁。全てが白い色で囲われた世界だが、暫くと進むと、キャンバスにぶちまけたような赤色が広がっている。<br /> 白衣姿の男性だ。<br /> 頭から相当量出血し、壁にぶち当たったようにして倒れたのだろう、息絶えている。<br /> 心を縛り、男性に触れる。質量が『あるように』思えるが、人間らしい手ごたえはない。幻覚だ。<br /> 男性が胸から下げているのは、IDだろう。<br />『七星遺伝子学研究所 脳細胞開発研究部 峰岸六郎』とある。<br />(七星の研究所……)<br /> 杜花はふと顔をあげると、直ぐ近くに窓があるのが観える。どうやら研究室が廊下の外から覗けるようになっているようだ。<br /> 研究室を覗き見ると、そこには限りなく地獄に近い風景が広がっている。<br /> 紅い。右を見ても左を見ても紅い。<br /> 言ってみればそれだけの光景なのだが、中で倒れている人々は皆頭がはじけ飛び、首なしの死体ばかりが見受けられた。頭の中に埋め込んだ爆弾が内側から爆発すればそうなるだろう。<br /> 白い床を、白い壁を、白衣を全て紅に染めている。冗談としか思えないような出血量が、大きな血だまりを作っていた。<br />「酷い」<br /> とはいうが……杜花は多少顔をしかめるだけで、大した衝撃はない。<br /> クセで咄嗟に口にしたが、一般人を繕う必要はないのだと思い出し、溜息を吐く。相変わらず自分は壊れていると実感して、嫌になる。<br /> 紅に紅を塗り重ねた研究室の奥を覗くと、そこには一際白いものが観えた。<br /> 黒い髪、瞳に光の無い、死んだ目。<br /> そして白い手術着を着ている彼女は、杜花の記憶からすれば、二子だ。<br /> その色の無い瞳を、彼女はまっすぐと杜花に向けている。<br /> 手を振ってみる。彼女は楽しそうに振り返した。同時に、窓ガラスが吹き飛ぶ。<br />「クッ――ッ」<br /> 恐らく相当の耐久性があるだろう、水族館のガラスよりぶ厚いものが弾け、上から下へと崩れて行く。物理衝撃ではない。そもそもこれは全て幻覚なのだ。<br /> ただ、記憶を再現している可能性は高い。<br /> 何が起こっている?<br /> 杜花は直ぐ様身を伏せ、廊下の奥へと進んで行く。今の部屋には、入らない方が無難だろう。<br />(……入れない、が正しいかな)<br /> 後ろを振り返ると、道が無い。今まで来た廊下も部屋も、壁になって先が無くなっている。<br /> 次に辿り着いたのは、また同じような造りの廊下に部屋だ。<br /> 杜花は先ほどよりも慎重に、窓ガラスの向こうを窺う。白くて安心する。<br /> 中では研究員たちが忙しなく動き回り、部屋の真中には、黒髪の少女……これは、市子だろう、椅子にゆったりと座り、研究員にも会釈をしている。<br />(ああ……これが)<br /> 何事も無くその場を通り過ぎ、二度、三度と同じ回廊を行く。<br /> 市子の場面は何一つ問題ない。<br /> しかし二子の場面は、ことごとく問題が起きていた。<br /> 頭を吹き飛ばした死体に始まり、次は研究員たちが男女構わず狂ったようにセックスに興じていた。<br /> その次は何故か全員が全裸で、各々の凶器を握り締めて殴り合っていた。<br /> その次は二子の姿こそなかったが、何も居ない椅子に対して研究員が話しかけ、治療を繰り返している姿であった。<br /> 幾つ見て回っただろうか。<br /> やがて情景が先ほどの武家屋敷に戻る。<br /> 床を鳴らして歩いた先に、襖が見つかった。<br /> 一つ、二つ、三つ四つと、無間の襖の間を抜けて、杜花は最後の襖を開け放った。<br />「……こんにちは」<br />「――あっ」<br /> 中には鉄格子。いや、もっと強靭な素材で作られた牢獄だろう。一部屋が丸ごと囲われ、その真中に、振り袖の少女が坐して、此方を見ている。<br /> 市子と二子の違い。<br /> 同じ母に産まれながら、知りもしない母親との暮らしを強要され、扱いきれず暴走する能力を恐れられ、市子とは正反対に、自由を奪われたまま、暮らして来たのだろう。<br />「今は、撫子、市子、二子、どれ?」<br />「――二子。撫子が、突然目を覚まして、暴走してるの。抑えるの、精一杯で」<br />「あんなもの見せて、どうしたいんですか、貴女」<br />「……解らないわ。わた、わたし――聞いて、杜花、私ね、本当に、この身体は姉様にあげても良いと思っていたの。姉様は死ぬべき人じゃないって思ってた。知っての通りね、最初は嫌だった。でも、貴女達の中にある市子姉様に触れて、私なんかよりも、ずっと価値がある人だって再認識したの。だから、渡してもよかった。でも、今は、解らない。彼女達を消してはいけないって、想うけれど、これが、撫子ならば、制御なんて、利きようが無い」<br />「市子は……市子のデータは、何か言っていましたか」<br />「……兼谷は、母親、なんですってね。義理の姉妹だと思っていたら、本当に姉妹だった。それは、嬉しい。私、姉様が、好きだから。でも、母親面するなって、撫子も、市子姉様も、怒って」<br />「撫子は、ちゃんと形を得て、データとして、存在するんですね」<br />「三人分。市子と撫子は、共有してる。撫子の方が、相当強いの。これ、凄いわ。いいえ、恐ろしい。これ、これは、やろうと思えば……簡単に、人を大量虐殺出来る」<br />「貴女の肉体でしょう。そんなものサッサと、追い出せばいい」<br />「だ、ダメ……ダメなの。それはダメ。撫子が完成すれば、私の沢山いる姉妹達が、解放されるの。利根河撫子のストックって立場から……個人になれるの。みんな歳の近い子達。それに……それに、撫子を完成させる為に、一郎お父様も、兼谷も……いいえ、お母様も……沢山沢山、努力したのよ。本当に沢山。言葉では言い表せないくらい……自分の命を無理矢理伸ばしてまで、肉体を蘇らせてまで、記憶を再生成してまで……お願い……杜花、お願い……撫子を、市子を、殺さないで……」<br />「それは制御出来ないのでしょう。私が消して、プログラムを修正した後、改めてインストールすれば良い」<br />「違うの。撫子は、メインデータにしか、宿らないみたい。だから、ただのデータじゃないのよ……魂なの。説明に難いけれど、だから、これを消したら……撫子は……」<br />「……酷い欠陥ですね」<br /> 兼谷の言っていた不具合とは、これの事だろう。兼谷は教えられないと言っていた。<br /> それもそうだ。<br /> 杜花が自身の心中の為だけに、唯一のデータを消し飛ばされれば、その損害は計り知れない。<br /> だからこそ、兼谷は命を賭してまで、市子のメインデータを守ろうとしたのだろう。<br /> 結晶隠しの件に頭を巡らせる。そう、利根河恵の前例に倣うならば、市子の結晶データとて、命を賭すほどでもなかった筈だ。しかしモノが違った。彼等は単純に、ESP発動可能な人格データと捉えていたかもしれない。だがその本質を見余った。いや……解っていただろう、解って対策したのだ。<br /> ただそれが――対策したからと、どうなるものでもない事までは、考えるに至らなかったのだ。<br />「兼谷さんの話を鵜呑みにするなら、完成した撫子のデータを、撫子の複製に移し替えられる筈です。バックアップならずとも、それは可能なのでしょう。結晶を乗せ換えるだけなら」<br />「……半分嘘よ。魂の再現は可能。でも、元から宿そうと決めた個体にしか、宿らない。だから兼谷は、利根河恵になるべく、最初から肉体と魂の整合性を保たれていた。そういった不具合を乗り越えようとしたからこそ、大量のクローンが、いるの。杜花、魂は、一つの魂は、安いものじゃあない。あちこちと移し替えられるものじゃあない。人間は、そんなに、安くない……」<br /> 二子が這いより、鉄格子を掴んで訴える。<br /> この子は、自分の犠牲を用いて、親の悲願を達成させようとしているのか。<br /> ……。<br /> 二子の軽い感応干渉が、杜花の中に流れ込んでくる。<br /> それは各種数字であり、懸命に働く一郎の姿であり、努力を重ねる兼谷の姿であり、撫子と市子の、非業の死だ。<br /> 三人の記憶の中にあるものが、杜花の中にゆっくりと流れ込んでくる。<br /> まるで毒気の無い一郎が、利根河恵と共に、幼い撫子と手を繋ぐ姿。<br /> 楽しい休日に、忙しそうでも幸せな顔をする父に、料理をする母の後姿。<br /> 学院での明るく楽しい日々、花、誉、きさらとの出会いと、御茶会に、密会。<br /> 淡い恋心、告白と、成就。<br /> そして絶望だ。<br /> それを、市子が丸ごと辿らされる。<br /> 何も知らない市子が、杜花達と出会い、あの庭園で未来を語り、夢を語り、恋を語り、キスをする。<br /> 終わり行く日々を噛みしめながら、ほんの一縷の希望を目指して、市子が『宝探し』の準備をする。<br /> 杜花と別れ、首を吊り、しかしそれでも、彼女は生きる幸せを願っていた。<br />「……解るでしょう。解るでしょう、『花』『杜花』『モリカ』解るでしょう。お願い、七星二子は、この、可哀想な人達を――幸せにしてあげるために……産まれて来たのだから……ッ」<br /> 何かを守る為ではなく、死んでしまったものの為に、生者が犠牲になって良いものなのか。<br /> その覚悟が出来てしまった人間を――引き止める権利を、杜花が持ち合わせているのか。<br /> 個人とは、人とは、どう定義すべきか。<br /> そこに、過去と記憶と、努力があって成り立つとしたならば……やはりどうあっても、例えデータであろうと、彼女達は、本物の人間であり、個人なのではなかろうか。<br /> 数年前、超高性能AI搭載型のアンドロイドが、人間に怒りを覚え、危害を加えた事件があった。<br /> アンドロイドは『自らが破壊される危機感を覚え、反撃した』と証言している。<br /> ロボット原則を否定する行動を働いたのだ、被害者は弁護団を募り、製作会社を相手取ってアンドロイドの出荷停止を訴えたが、裁判所はそれに否を唱えた。<br /> ある一定時期から、偶発的に起こり始めた事件である。<br /> シンクロニシティとでも言うだろうか。考える事を得たロボットの人権問題が発露したのである。<br /> 杜花は半信半疑に事件を眺めていた。<br /> しかし、七星がここまで出来るのだ。もう、人間は人間以外の人間を作れると言っても、過言ではない。<br /> 肉で出来ておらずとも、元の人間であらずとも、思考し、生きる意志を示せば、それは人なのだと、世界はそのように動き始めると同時に、超高性能AI搭載型のロボットはついぞ作られなくなる。<br /> ……恐ろしいのだろう。<br /> 人間を超える人間が出来てしまう事実を、人間は恐怖している。<br /> 更に言えば、目の前に居る一人にして三人の少女。<br /> 利根河撫子は、あらゆるデータを重ね、実物に近付けられ、自我を得た。それが今、しっかりと意思を示して、親である筈の兼谷に危害を加えている。<br />「……撫子と、話せますか、二子」<br />「頑張って、抑えて、みる。姉様、お手伝いして……ありがとう。うん……いま……」<br />「はじめまして」<br />『ああ、花。もう何年経ったのかしら。変わりなく、美しいのね、貴女』<br />「ごめんなさい。私は、孫です。欅澤杜花と言います」<br />『孫……市子さん、二子さん、今は……2068年? もう、そんなに経つのね……花、いえ。杜花さん。花は、どうしてるかしら』<br />「元気ですよ、恐らくそう簡単に死なないでしょうね」<br />『嗚呼――良かった。生きているのね。そうだ……あの子、きさらは……きさらは……自殺……した、のね……そんな……』<br />「貴女は、蘇る事を、望みましたか?」<br />『――お父様と、お母様が、願ったのね。でも、これは、二子さんの身体なのでしょう? 二子さん? ……そう、良いのね。市子とは、競合しないみたいだけれど……ああ、どうしましょう』<br />「……生きたいと、想いますか」<br />『折角産まれて、死にたいと思う人は、狂人よ、杜花さん。それは、動物ですらない。でも、二子さんの身体を奪うのは……引けるわ。手段は――酷い、無いのね……』<br />「何か、他に聞くことは、ありますか」<br />『あ、ああ。そう。そうだ。孫がいるってことは、結婚して、子供を作ったのね。男性に興味があるように見えなかったから、少し意外だわ。でも、良い。何でもいい。花が幸せなら』<br />「……お婆様は、ずっと悔んでいました。貴女の自殺に。誉の死に、きさらの死に……貴女が、死ななければ、あんな事にはならなかった。私達が――こんなに頭を悩ませる事は、無かった」<br />『ごめんなさいね。なんだか、お父様もお母様も……無茶をした、みたいで』<br />「……いえ。こちらこそ、ごめんなさい。そもそも、あんなことが無ければ、私も、産まれていない。市子達とも、出会わなかった。ただ、今はその方が良かったのではないかと、少しだけ、想います」<br />『あ、ああ。市子、そんなに、押さないで』<br /> 二子が頭を振る。<br /> やがて、ポロポロと涙を流し始めた。格子の奥から、二子が手を伸ばし、杜花にしがみつく。<br />「市子」<br />『も、杜花――杜花……杜花杜花杜花……ごめん、ごめんね、ごめんなさい……違うの、こんなの、違う……違う、けれど、わた、わたし、私は――死にたくなかった。聞いて、杜花……』<br />「聞きますから、もう少し、落ち着いて」<br />『うん、うん。杜花、優しい。大好きよ、愛してる、杜花。私、本当に、こんなことになるなんて、考えもしなかったの。ただ、やっぱり死にたくは、無かったから。もし、それで蘇られるのならば、そうしたい。だって、ああ、でも、それでは、二子が……ごめんね、二子……私……』<br />「市子は、これからも、生きたいと、思いますか」<br />『もう、自我が、あるもの。二度も三度も……死にたくない。でも、貴女が……貴女に、必要とされないのならば、私は、消える覚悟がある。けれど、撫子と存在を共有しているから……私を消すと、彼女まで、消えてしまうの。ああ、違う、違うの。そんな、生き汚いとか、命乞いなんて……』<br />「解っています。うん。市子は……市子ですね」<br />『うん……ごめん、ごめんなさい。汚い女で。汚らわしい女で』<br /> そういって、市子が引き下がる。二子はハッと顔をあげた。<br />「二子」<br />「――うん」<br />「……本当に、良いんですか。この子達に、貴女の肉体をあげても」<br />「良い。構わない。私は、七星と、姉妹達の礎になる。私は、二人を殺せない」<br />「嘘。じゃあなんで、さっきあんな光景を見せたんですか」<br />「そ、それは――」<br /> 二子が言葉を濁す。本当に全ての覚悟が出来ているならば、敢えて同情を齎すような映像を、杜花に流し込んだりはしないだろう。<br /> まだ、まだ彼女は手の届く範囲にいる。<br /> どんな強引でも、押し切らねばならない。例え杜花が二子にどう思われようと、周りからどう揶揄されようと、ここで引いてしまえば、最悪撫子の暴走、もし抑えられたとしても、二子の肉体はまた隔離される。<br /> 隔離され、自由なく生き続けるなど、それこそ、人間としておかしい。<br />「七星二子は、七星二子でありたい。例え愛しい姉だろうと、自分の命を犠牲にしてまで、蘇らせるなんて、無茶苦茶です。それは貴女も自覚している。死者は、死者。それに、市子はまだ生きている」<br />「ねえ、様が?」<br />「兼谷さんの頭、ここから読めますか」<br />「普段は、感応干渉で防がれて、読めないのだけれど……」<br /> 二子が眼を瞑り、沈黙。しばらくして、目を見開いた。<br />「あ……う、あ。う、うん。本当、みたい。観神山の医療センターに、いる。でも、これ……目を、覚まさない。まず、無理だって……」<br />「でも生きてる。じゃあ、貴女は市子に捉われる必要はない。問題は、撫子」<br /> 先ほどの強烈な感応干渉を思い出す。<br /> 居心地の良い夢に、市子のような何か。それに直に触れ、杜花は目を覚ました。<br /> どれだけ同じように再現しても、どれだけ遺伝子が似通っていようと、それは他者だと市子は言っていた。<br /> その通りなのだろう。このデータは市子に限りなく近い何かだ。<br /> 本物では、ない。<br /> そしてそれは、撫子にも当てはまるのではないか。<br /> 例えここで完成したとしても、七星一郎は納得するのか。<br /> 杜花は否だと思う。あの男は、もはや手段と目的が入れ替わっているように感じられた。<br /> 兼谷の扱いを見れば、解るだろう。<br /> 完成した筈の妻を、手元に置かず、まして危険に晒している。彼ならば想像出来たものだ。杜花を分析していたのなら、解って当たり前だ。なのに、彼は兼谷に全て預けている。<br />「皆が頑張った、結晶、だもの……。私が受け入れないと、また他の撫子のクローン達が、犠牲になる」<br />「きっと終わらないし、この撫子を、抑える手段があると? 汗が、滲んでますよ。制御、厳しいのでしょう」<br />「でも、でも……でも……ッ」 <br />「二子」<br />「も、杜花?」<br />「貴女の言葉で話して。貴女はもう、穴倉のような場所には戻りたくない。研究モルモットとして生きたくはない。そうでしょう」<br />「そう、それは、そうよ。だから私は」<br />「市子でも撫子でもなく、七星二子として生きれば良い。流されて、強制されて、自分の意思を隠して、主張しないなんて、個人じゃあない。父が母が望んでいるからと、何でもかんでも貴女は頷いてしまっている。意図せずともそうさせられている。狂人に、付き合う必要なんて、ない」<br />「七星、なのよ。彼等がそうしようとしたら、そうなる。私は、二番目の娘なの。恩恵から外れて、監視から外れて、生きられる訳、ない」<br />「七星一郎には、言う事が沢山あります。二子。貴女が、貴女個人として生きたいのなら、私は貴女の味方をします」<br />「無理、無理よ。私達は、用意されてるだけだもの。貴女だって……」<br />「私は、私と市子の為なら、なんだって犠牲にします。いえ、なんだって犠牲に出来ると思っていた。私には市子しかないから。市子以外はどうでも良いと思っていたから。でも、やっぱり、そんなの仮初で、死にたくなくて、幸せになりたくて、愛してくれる人がいて、心配してくれる人がいて、少しずつ、穴が、埋まってしまって。それが恐ろしかった。自分は市子によって形成されているのに、他の人たちがそれを埋め始めたのが、恐ろしかった」<br />「杜花……」<br />「都合が良い人間でしょうか。生きると望むのが、そんなに酷い事でしょうか。決意が揺らぐのは、間違いだと思いますか? 聞かせてください。二子。貴女は何故、私を自分の物だと、主張したんですか。それは、市子の意思でしたか」<br /> 二子は……杜花の顔を見つめた後、動揺し、そして、顔を赤らめる。<br /> 鉄格子の先から、その手を伸ばした。<br />「……ずっと、姉様から貴女の事を聞いていたの。少しおかしいけれど、自分の事を一番愛してくれて、凄く強くて、優しい人なんだって。私は、姉様の語る印象から、幻想の貴女を、心の中に、作りあげていた。そんな人と恋するような、夢を見ていた。実際初めて出会って、私は貴女が酷い人だと思ったわ。でも仕方ない。盲目的に、七星市子しか見れない人だったのだもの。市子の為ならば何でもする人だったのだもの。それが、なんだか、ずるくて。私にも、優しい顔、してもらいたくて。だから、少しずつ市子のデータを入れる度に、貴女に、なれなれしくした。私――嗚呼……私、見て、もらいたくて。私、優しくしてくれる人が……欲しくて……私個人を、見て、くれる人が……」<br />「……なら、生きましょう。そうですね、酷い言い方をしましょう」<br />「なに……?」<br />「二子。市子の代替えになってください。私が死なないように、貴女が私を支えてください。私は代替えとしてではありますが、ちゃんと二子を見ましょう。二子として尊重しましょう。私は欲張りで、甘えたがりで、自分勝手で死にたがりで、畜生にも劣るような精神性しか持ち合わせていないので、アリスと早紀絵だけじゃきっと足りない。どうです、最悪でしょう。これが本心です。これが……欅澤杜花です」<br />「――貴女、本当に、吐き気がするほど、最悪な人なのね」<br />「嫌でしたか。でも、私は私を慕ってくれる人が好きです。私を好きで居てくれるなら、全力で守りましょう。七星に与えられてしまった力でもって、私の可愛い恋人達を虐める人を、ぶん殴ってぶっ殺してやりましょう。というか、私にはそれしか、お返し出来るものがない。二子。もう一度聞きます。貴女は、二子として、生きて行きたいですか」<br /> イメージされた牢獄が破れ、二子が立ち上がる。涙目の顔は、やはり市子にそっくりだ。<br /> 今、欅澤杜花は、人間として最悪な発言をし、人の夢を踏みにじろうとしている。<br /> 勿論、自分の被害、愛する市子の被害を鑑みれば、打倒されて当然の夢ではあるが、その曲がった夢はあらゆるものの犠牲の上に成り立っている。悪意は一つもない。皆全て善意だ。<br /> 善意に喜ぶ人、善意に怒る人、善意に恵まれる人、善意に滅ぼされる人、様々居る。<br /> 一郎や兼谷は、その善意を与える側であり、善意に喜ぶ人だ。<br /> 杜花達は、その善意を与えられる側であり、善意に絶望する人だ。<br /> 全ての人間が、善意の恩恵に与れる訳がない。<br /> どんなに頑張ろうと、どんなに慈しもうと、どんなに積み重ねようと、受け入れられない側からすれば、善意は悪意よりも悪質なのだ。<br />「二子」<br /> 手を伸ばす。<br /> 新しい代替え品に。欅澤杜花という最低人物を保つ為に。<br /> 二子が手を取る。<br /> 個人を個人として保つためにだ。<br /> 消さねばならない。<br /> 殺さねばならない。<br /><br />「……、私はその人格から人生まで、最悪を演じさせられるように、なっているのかもしれませんね」<br /><br /> 殺せるか。<br /> そんな権利が、杜花にあるのか。<br /> 殺せるのか。<br /> 撫子の人格は、市子のメインデータにしかない。<br /> 殺せるのか。<br /> それを消したら、幾人が悲しむだろうか。<br /> 殺せるのか。<br /> 自分の心中の為に、生き返った命を、巻き込めるのか。<br /> 殺せるのか。<br /> 例え人工物であっても、自我があるのだ。<br /> 殺せるのか。<br /> 彼女達とて、死にたくて死んだ訳ではないのだ。<br /> 殺せるのか。<br /> 市子は、生きているではないか。<br /> 殺せるのか。<br /> 偽物と、贋作と、断定するだけの理性を、杜花が持ち合わせているのか。<br /> 殺せるのか。<br /> これでは兼谷に対して不意打ちだ。<br /> 殺せるのか。<br /> この人格は、様々な犠牲を払って産まれた、妄念の結晶だ。<br /> 殺せるのか。<br /> 苦節四十年の悲願である、利根河撫子を。<br /> 殺せるのか。<br /> 愛してやまない、大好きな彼女の幻影を。<br /> 殺せるのか。<br /> おのれのエゴの為だけに、願いを傷つける真似が出来るのか。<br /> 殺せるのか。<br /> だから、自分に、そんな権利が、あるのか。<br /><br /> 違う。<br /> 殺すなんてものじゃあない。<br /> 彼女達は――死者だ。<br /> 死者は蘇らない。<br /> 蘇ってはいけない。<br /> 例えどれだけ死が望まぬものであったとしても、如何なる大義を基にしたものであったとしても。<br /> 生者を踏み台にする死者の蘇生など、あってはいけない。<br /> ……。<br /> ――世界が転じる。恐らく最後の、他者感応干渉だ。<br /> 心象の楽園が姿を現せる。<br /> 姉妹達が、杜花達が原風景として抱く『もっとも綺麗で瀟洒な世界』だ。<br /> 温かい空気に包まれ、花の香りが漂って来る。柔らかな日差し、風を受けてざわめく木々。<br /> 姉妹達が契りを交わした場所。もっとも心落ち付く、百合の花の園である。<br /> 真っ白なガゼボの真中に座り、杜花は目を見開いた。<br /> 正面には、疲れた顔をする市子、その隣に、同じ顔をした撫子、隣には、二子がいる。<br /> 撫子は杜花を見据えて、静々と頭を下げた。<br />『ごめんね、手間を、掛けさせて』<br />「此方こそ。折角、目を覚ましたのに」<br />『ううん。私は、死んでいる筈なのだから。二子ちゃんを、犠牲にも、出来ないし。生きている肉体を殺してまで、目を覚ますなんて、なんだか、いやだもの。私はあの時、死んだの。追い詰められて、誉の死を悔いて、花ときさらを顧みず……生きていて欲しいという希望を裏切って、死んだの』<br />「冷静に、見えますね。落ち着きましたか」<br />『……ううん。市子さんと二子ちゃんが、抑えてるの。精一杯。構造が、ずれているのかしら。ESPに偏重した、所為、……、かも、しれないわ。手順を、まち、がえた、のかも』<br />「私では、貴女を救えない。花お婆さまと、同じように」<br />『うん。ごめんね。許して。花に、伝えて。自分、勝手な話だけれど、貴女の、幸せが、一番幸せだっ、て』<br /> 撫子が微笑む。その瞳には涙があった。ただ、悔いは感じられない。<br /> 手を差し出すと、彼女は静かに握り締める。<br /> 当初を思い出してか、幸せな記憶が走馬灯のように、杜花達の周囲に渦巻いた。<br /> 撫子が頷く。やがて、彼女は陽炎のようになり、静かにその場から消え失せた。<br /> 視線を向け直す。<br /> 市子は暗い顔のままだ。数値的には完璧なのだろう。だがどうしても、数字では測り切れないものが、この『データ人格』にはあるようだ。<br /> 市子にして市子ではない者。<br /> 市子になり切れなかった彼女。<br /> 両親に翻弄された、二進数の魂だ。<br />「市子」<br /> 呼びかければ、肩をビクつかせ、顔を伏せたまま、横目で杜花を見る。一番愛して欲しかった人に、本人だと認めては貰えなかったのだ。データとはいえ、心苦しいだろう。<br />「本当は、どんな気持ちを込めて、最後の手紙を書いたの」<br />『本心よ。みんな、杜花を嫌いになれば良かった。杜花から離れれば良かった。だって貴女は、私が居なければ、空っぽの人だもの。あんな事せずとも、嫌われるんじゃないかとすら思っていたわ。貴女は私が居ないと、最低な人だから。そして私は、そんな最低な貴女が好きで、生き返りたかった』<br />「私達、何もかも振り回して、最悪ですね」<br />『私達さえ幸福なら、他はなんだって、良かったのよ。でも、舐めていたわ。きっと心のどこかで見下してたの。アリスと、早紀絵を。私達を凌ぐ程の馬鹿な子達だって、思わなかったの』<br />「痛感しました」<br />『うん。私達は、もっと寛容に居れば、良かったのにね。今なら解るわ。貴女の心の隙間は、私以外の人でも埋められる。私はそれを手助けするべきだったのに、独占したの』<br />「……」<br />『……』<br />「ごめんね。やっぱり私は……肉を好む人だった。手に取れないものに、命は張れないみたい。私は魂よりも、肉が好きな、即物的な人」<br />『……浮気性』<br />「うん」<br />『変態』<br />「うん」<br />『キチガイ。変人。馬鹿で阿呆で間抜けだわ』<br />「うん」<br />『二子を、お願い。この子、ずっと、外に憧れていたから。私が、肉の私が眼を覚ましたら、貴女、ちゃんと私と結婚してくれる?』<br />「しますよ。他の人にはあげません」<br />『うふふ。うん。そうね。杜花だものね。愛してる。じゃあ、また、今度』<br />「うん。またね」<br /> 市子を抱きしめる。<br /> 小さく頬にキスすると、彼女は笑顔のまま、消えて失せた。<br /> 最後に残った二子に向き直る。<br /> 二子は足を崩し、沈痛な面持ちで居た。誰もいなくなってしまったガゼボの真中で、杜花は二子の肩を引き寄せ、寄り掛かる。<br />「ごめん……撫子……市子……ごめん……二子は……犠牲に、なれない……」<br />「二子」<br />「うん……貴女を、信じるわ。だから、私を見て。私を、個人だって、教えて」<br />「……ええ」<br /> 耳元で、コードを呟く。<br /> 瞬間、二子の身体が震えた。<br /> デリートの処理が始まったのだろう。幾つものコマンドプロント画面が立ち上がり、二子の周囲に浮き上がると、物凄い速度で数字が流れて行く。<br /> 意識が薄弱となるのか、二子がうつらうつらと身体を前後させる。杜花はそれを横たえ、ガゼボの外に出る。<br />「な――撫子!! だ、だめ! やめて、お願い、欅澤杜花! やめてぇッッ!!」<br />「もう、終わります」<br /> 兼谷の絶叫が聞こえる。<br /> 彼女は小庭園の芝生の上を、身体を引きずりながら必死に手を伸ばしている。満身創痍の上、脳がパンクするような量の情報を叩きこまれたのだ、気絶してもおかしくはないというのに、それでも彼女は叫ぶ。<br /> 執念だろうか。あらゆる犠牲を払ってこぎ着けた現時間、現存在に対する、後悔だろうか。<br /> 可哀想な人だ。彼女もまた、本当に利根河恵かどうか解らない魂を携えている。しかし、その絶叫は間違いなく、母としてのものだ。<br /> だが、では何故、二子の消滅を悲しまない。何故市子を犠牲にした。<br /> 最終的には二子のデータを二子のクローンに移し替えるからか?<br /> それはおかしい。<br /> そもそも二子は、今を生きているのだ。<br /> 赤の他人ではない。<br /> 実子を殺してまで蘇らせたいなど――欅澤杜花にして、狂っていると感じる。<br />「あ、ああ――あああっ……撫子、撫子……撫子ぉ……ッ」<br />「……兼谷さん。私は貴女には、謝りませんよ」<br /> 兼谷は必死に立ち上がり、懐から拳銃を取り出し、構えた。<br /> 前に出る。<br /> 銃弾が腕を掠める。殺意が見え見えだ。直撃はまずあり得ない。<br /> 前に出る。<br /> 耳元を弾が掠めた。皮膚が破れ、血が滴るも、杜花は足を止めない。<br /> 前に出る。<br /> 杜花の頬を掠めた。それでも杜花は足を止めない。<br /> 前に出る。<br /> 兼谷は眼の前だ。<br />「残念ながら」<br />「そんな……あなた……ただで、済むわけ、ない……のに」<br />「なら、感応干渉を際限なく撒き散らす撫子を、抑え込めますか、貴女は」<br />「それは――七星の、技術があれば、修正なんて、幾らでも……」<br />「その間、監禁するんですか。二子のように。二子の肉体はまた、監禁されるんですか。実の娘を、また陽の当らない牢獄に閉じ込めて、個人の自由を奪い去るんですか」<br />「で、でも、きっと、出来る……積み重ねて、来たのだから――」<br />「失敗したら、また私みたいな可哀想な子を使って、圧縮再現するんでしょうね」<br />「そう、そうです。何度でも、何度でも、一万回だろうと十万回だろうと百万回だろうと、私は私達は何度でも何度でも繰り返す。私達の子を、撫子を」<br />「市子の犠牲は。二子の生命は。貴女の実子でしょう」<br />「……それ、は」<br />「クローンで、なんとかなると。また、個人を個人と認められないクローンが、大量に、出来るんでしょうね」<br />「……折角、ここまで、再現出来たのに」<br />「妥協点、どこなんですか。きっと、定めていない」<br />「……」<br />「……偉そうに、言う立場じゃないんです。私は。言わせないでください。もう、こんな茶番、巻き込まないで。市子を返して。二子も、もうあげませんよ。殺されたら、たまらない」<br />「市子……二子、ごめんなさい、お母さん――貴女達の、お姉さんを、蘇らせたくて」<br />「……拳銃、捨ててください」<br /> 兼谷は、躊躇った後、それを放り投げる。<br /> 同時に世界が暗転し、庭園は核シェルターに戻る。<br />「ああ、ああああっ……ああああっあぁぁぁぁぁぁっっっッッッ!!」<br /> 兼谷の悲痛な泣き声が、広い部屋に反響する。<br /> 魂の慟哭だ。<br /> 彼女の嘆きは、耳に心に、嫌と言うほど沁みては残響を残す。<br /> 何が悪かったのか。<br /> 何が間違っていたのか。<br /> ここまで来たのに。<br /> 七星のあらゆるものを犠牲にして、七星で無いものすら犠牲にして、成り立っている今は、一体どこで道を間違えたのかと。<br />「杜花様!!」<br />「アリス、なぜ」<br /> 重たい扉を押し開き、アリスが脚を引きずりながらやってくる。<br /> あちこちとすり傷の増えている杜花を見て、彼女は目元に涙を為、杜花の胸に飛び込む。<br />「大きな怪我は……ありませんわね。約束、守ってくれましたのね」<br />「ええ。拳銃じゃ、死なないです」<br /> アリスを伴い、二子に近づく。<br /> 最後のコマンドプロントが消え、どうやらデータの消去が完了したようだ。<br />「二子さんは……」<br />「脳の負荷を避ける為でしょうか、データ消去中、意識を遮断するようです。抱えて行きます」<br />「無事、なんですわよね」<br />「……データの市子と撫子は、さようなら、しました」<br /> 二子を抱き上げ、核シャルターの出口に向かう。うずくまったまま動かない兼谷に、なんと言葉をかけるべきかは、解らない。しかし、このままにもしておけないだろう。<br />「兼谷さん。どうしますか」<br />「――放っておいて、くださいまし。貴女は、それどころではない」<br /> 彼女は……その頬を吊りあげ、いやらしく笑う。<br /> 怖気が走る。彼女の不気味な笑みにでは無い。過去、感じたことも無いような、激烈な危機感が、杜花の天辺からつま先に駆けて突き抜けた。<br /> そうだ、何故安心していた。<br /> 何を終わらせたつもりでいた?<br />「――――あ、あッッ!!!」<br /> 最悪級の直感が過る。<br /> 全身が総毛立ち、吐き気に思わず口元を押さえる。<br />「な、なんですの?」<br /> ――杜花は、咄嗟に二子をアリスに預ける。兼谷が取りだしたのは、タブレット端末だ。<br /> 幾つもの監視画面が立ち上がり、そこには、早紀絵の姿が映っている。<br />「アリス!! 二子を抱えて、医療保健室に!! あ、ああ、あと、直ぐ、文芸部室に!! 医療班呼んで!!」<br />「くっ――祟られているんでしょうかね、この学院は」<br />「うるさい!!!」<br /> 杜花の身体が弾けた。<br /> 一切の脇目も振らず、杜花は最大速度で全力疾走する。<br /> 冷たい空気が肌を切り、突然の加圧に筋肉が悲鳴を上げた。例え筋肉繊維が全部ぶち切れたところで、杜花は構わない。<br /> 絶対に、それだけは阻止しなければならない。<br />(まさか――嘘でしょう、冗談でしょう!!)<br /> 走る。走る。<br /> 地下の階段を駆け上がり、廊下を一瞬で駆け抜ける。<br /> 足の傷など全く痛くない。痛いとしても杜花は走る。<br /> それだけはダメだ。絶対にだめだ。<br />(馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ッッ!! なんでなんでなんでなんでなんで!!)<br /> 早紀絵の言葉を思い出す。<br /> 誰が悪い。<br /> 他の誰でも無い。欅澤杜花の配慮不足だ。<br /> いや、あの時は本当に、何でも良かった、どうでも良かったのだ。これから死に行く欅澤杜花など、欅澤杜花の居ない後の世界など、どうでもよかったのだ。<br /> しかし今は困る。<br /> 今はもう違う。全ての状況が、変わり果てている。<br /><br /><br /> ――やだ。困る。私、モリカがいなきゃ死ぬ。というか自殺する。<br /><br /><br />「サキ!! さき!! 早紀絵!! 早紀絵ぇぇぇッッ!!」<br /><br /> 何と馬鹿な。後悔して後悔しきれるものではない。<br /> ほら見た事か。<br /> どうだ、お前のその盲目さが、人を殺すのだ。<br /> お前の無配慮さが人を傷つけるのだ。<br /> どうでも良かったのではないのか?<br /> あんな淫売、放っておいても良かったのでは無いのか?<br /><br />「五月蠅い五月蠅い五月蠅い!!!」<br /><br /> 人を何だと思っているのだ?<br /> 人は道具ではないのだ。<br /> 慰める為のおもちゃではないのだ。<br /> 心の底から愛してしまった人が死ぬのだ。<br /> お前はどうしようとした。<br /> お前は死のうとしたではないか。<br /> 満田早紀絵は違うのか?<br /> 天原アリスは違うのか?<br /><br />「私――! 私は! 私は!!」<br /><br /> 駆ける駆ける。脚から血が吹き出そうと、そんなものはどうでもいい。<br /> 今まさに首を吊ろうとしている彼女を、止めねばならない。<br /><br />「早紀絵、ごめんなさい、ごめんなさい!! 私、私馬鹿だから! 死ぬの、怖いから! 生きて、いたくて!! 死にたくなくって!! 涼しい顔して、大人ぶって、偉そうにして、ワガママ言って!! 貴女達を、弄んで!! 愛してるなんて言葉、信じられなくてぇェッ!!」<br /><br /> 心臓が爆発してしまいそうだ。ただ今はダメだ。<br /><br />「さきえ……さきえ、死なないで、やめて、お願いよぅ……ッ」<br /><br /> 文化活動棟の舗装道路を駆け抜け、一番奥の部屋。扉を引き開けようとするも、内側から鍵がかかっている。<br /> 捻る。捻る。捻る。捻る捻る捻る捻る。<br />(開け開け開け開け開け開け開け開けッ、開いてッ)<br /> 扉を前に、一歩下がる。<br /><br /> 今こそ、その狂った運動能力を、産まれて初めて、人の為に使う時だ。<br /> 丹田に力を込める。<br /> 正中線に鋼を通す。<br /> 呼吸を整え、構え――乾坤一擲、渾身の蹴りをドアノブ付近にぶちかます。<br /><br />「つっぅぅぅうりゃあああぁぁぁあッッッ!!」<br /><br /> 鉄の扉が、信じられないような凹み方をして、鍵が付いている部分ごと吹き飛ぶ。杜花は扉を思い切り引きはがし、中へと飛び込む。<br />「早紀絵ぇっ!!」<br /> 絶対に見たくない光景。<br /> 一生分の絶望感に打ちひしがれるような光景が、そこにはある筈だった。<br /> 早紀絵は地面に身体を横たえている。縄が切れたのだ。杜花は直ぐ様早紀絵を抱き起こし、呼吸を確認、脈拍を測る。一心不乱に心臓マッサージを加えるも、反応がない。<br />「早紀絵、早紀絵、早紀絵、早紀絵!! なんでこんな、私、私貴女に死なれる程価値なんて無いのに!! 貴女の言葉すら信じられなかったのに!! お願い、早紀絵、目を開けてよ、早紀絵、早紀絵っ!! ごめんなさい、ごめんなさい、お願い、お願いよぅ……何でもする、私、何でもするから、貴女の為に、貴女の言う事、何でもするから、死なないで、早紀絵、謝るから、謝るから、軽薄で、馬鹿で、ごめん、ごめん……早紀絵……あああああっ、ああ、あっああッッ!! なんで、なんでなんでぇ……ッッ!!」<br /> 無視し続けて来た。<br /> 彼女から向けられる好意を無視し続けて来たのだ。<br /> 自分を愛しているなど、他の恋人達と同じようなものだと、そう思って来た。<br /> だがどうだ。また現実を突きつけられて、後悔するのだ。<br /> 早紀絵の言葉が嬉しかったくせに。<br /> 自分を認めてくれる早紀絵が好きだったくせに。<br /> 素直にしていれば、こんな事にはならなかっただろうに。<br /> 市子以外にもちゃんと目を向けていれば、こんな事にはならなかっただろうに。<br /> 何が人間以外の何かだ。<br /> 何が市子だけだ。<br /> 何が何が、他はどうでも良いだ。<br /> 脳を弄られていようと、遺伝子を弄られていようと、欅澤杜花は肉を有し、心を持つ人間だ。<br /> ちゃんと人間であった。やっと人間になれた。<br /> 早紀絵がそれを確実に教えてくれていた。彼女から受け取る感情が、欅澤杜花の理性を繋ぎとめていたではないか。<br />「早紀絵……ッ」<br /> 胸元に縋りつく。<br /> もう顔は、人に見せられるものではない。涙なのか汗なのか、紅潮してぐしゃぐしゃだ。ただ泣き縋る。<br /> しかし、ハッと気が付く。<br /> 脈拍は微弱だが、耳を当てれば、彼女の胸から鼓動が聞こえる。<br />「さき、早紀絵? あ、まだ、まだ、いき、いきてる、早紀絵ッ」<br /> 早紀絵の手を握り締める。<br /> アリスはまだか。<br /> 医療班はまだか。医療保健室は直ぐそこだ。<br /> ここからならもう間に合う。絶対に間に合う。首を傷つけている可能性がある。そうだ。あまり揺すってはいけない。神経が切れれば、半身不随では済まない。<br /> 杜花は咄嗟に離れ、顔をあげる。<br /> 今までに居なかったものが、目の前に居た。<br />「あ、なた、は」<br /> 息を飲む。しかし、悪意は、感じられない。<br /> 地面に横たわる早紀絵の前に『黒い影』がいる。<br /> それはゆっくり振り返った。<br /> 長い黒髪。<br /> 見覚えのある顔。<br /> 全てを愛しているような、慈悲深い目だ。<br /><br />『――……あ、……あ、まえは、まに、あわなかったけど、きさら、無事……だから』<br /><br /> そのように残し、黒い影が立ち消える。<br /> 前。<br /> 前は。そうだ。<br /> 何故、市子の首を吊ったロープが切れたのか。<br /> 何故、市子は這いまわったのか。<br />「……撫子、貴女……」<br /> 学院は呪われてなどいない。<br /> ただ、悲しい記憶をそのままに、現代にまで至ってしまっただけなのだ。<br /> 脳が痛む。<br /> 感応干渉を受けすぎた所為か、全力で疾走した所為か、杜花はその場に膝を付き、天を仰ぐ。<br />「杜花様!! あ、さ、早紀絵!! 先生方ァァッ!!」<br /> 欅澤杜花は、後悔の人だ。<br /> そして――恵まれた人でもある。<br /><br /> 意識が薄れる。ただ耳元で、優しい彼女の声だけが響いていた。<br /><br /><br /><br /><br /> プロットストーリー最終章 狂人達の夢 了</span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-91981626896386629152013-04-21T20:54:00.001+09:002013-04-21T20:54:36.799+09:00心象楽園舞台概要2(現行公開可能分) <span style="font-size: x-small;">多少のネタバレを含む為、読んでいない方は閲覧注意</span><br />
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<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<span style="line-height: 27px;"> 心象楽園/School Lore 舞台概要2<br /><br /><br /> 七星<br /><br /><br /> <b>・七星財閥</b><br /><br /> おしゃぶりから衛星軍事兵器まで、日本国のあらゆるものを包括する日本国の心臓部であり末端の毛細血管。日本国民は七星に関わらず日本国で生きて行くことは不可能である。<br /> 他の大財閥に比べその初出は遅く、戦後(大東亜)とされる。<br /> 初代当主七星一郎は戦後の鉄くず収集から身を立て(あまり良い手段は用いていなかった模様)、のちに町工場で働いていた所を、手先の器用さと頭の回転の速さを買われて出世、鉄くず収集時代に築いた後ろ暗い人脈と在日米軍へのコネクションで自社製品を売り込み、一財を築いた後に独立する。<br /> 先見性があり(政治家を脅して情報を横流しさせていたと噂される)、米国の市場開放に合わせてコピー品の生産に勤しみ、口八丁手八丁の大立ち回りで大々的に売り込む事に成功、周囲からは稀代の詐欺師として大批難を浴びながら、業績は伸ばす。<br /> 設備投資や先進技術、人材確保には一切の出し惜しみをしない超剛腕の七星一郎は、グレーゾーンを突き抜けながら、コピー品の製造から独自技術、独自製品の開発へと順調にシフト、一大電機メーカーとして名が知れ渡る事になる。<br /> 七星一郎は女好きでも知られ、生涯の愛人は三十人にも及んだ。自身の生き様とその財産の全てを引き継がせ、七星一郎があり続ける事を願った彼は襲名性を採用。自社の特に優秀な人物に、愛人諸共全て引き継がせるという、常識外れの世襲をやってのける。<br /> 他の財閥と同様、世の変化の流れを受けながら多角的な経営が進み、アジア戦火前には既に他の大財閥にも匹敵する程の規模となっていた。<br /> 七星財閥がアジア戦火後大躍進を遂げたのは、全て利根河真の手腕である。<br /> 神がかり的とも言える先見性、経営手腕、そして自身の知識量とコネクションを武器に、国家強靭化、国土防衛を全面に押し出し、特に医学薬学、電子工学、遺伝子工学、そのほかでは軍事面とそれに付随する医療介護部門で飛躍的に技術、業績を伸ばし、日本国を医療、電子、エネルギー、軍事大国へと仕立て上げた。<br /><br /><br /> <b>・七星一郎(利根河真)</b><br /><br /> 利根河家長男。<br /> 20代で当時の七星の娘を娶る。<br /> 二流大学卒で、七星の遺伝子工学研究所員となった後、ゲノム薬学研究で大きな成果を上げて早期の出世を果す。<br /> 一人娘の利根河撫子を溺愛していたが、撫子は占拠事件の折りに自殺。<br /> 娘の死後、それまで以上に研究へ打ち込むようになったが、心労を患った妻が自殺、以降、周囲の人間からは『笑顔以外の表情がない』と言われ、人格破綻を疑われた。<br /> それまで以上の出世を欲し、自分に障害となり得る同僚の社会的抹殺、ライバル企業の研究所からの強引な引き抜きや、ライバル企業の研究をその親族に取り入る形で盗み出させる(妻一筋であった真だが、妻の死後は相当数の愛人がいたとされる)など、公になれば大問題になるような事を平然とやってのけ、しかも逃げ切る、という芸当を当然の如く行い、七星の人脈に媚びながら着々とその道を出世へと向ける。<br /> 中でも大きな成果として、経口摂取の放射性物質除去薬の理論完成、低コスト生産があげられる。<br /> 元は三ノ宮の技術であったが完成には遠かったとされる。三ノ宮の研究員を引き抜くと同時にこの技術を模倣、完成にまでこぎ着けた。当時の責任者は利根河真であり、引き抜きから研究まで、全て彼が口を出したと言われている。<br /> 公にはされていないが、三ノ宮との会合時、三ノ宮会長は日本刀を持ち出して真と大立ち回りをしたとされている。<br /> 経口摂取の放射性物質除去薬は、テロによる原発の暴走によって日本国土が汚染されて以降の課題となっていただけに、国家政策として生産が推し進められ、日本国民の生命を守った奇跡の薬とまで評される。<br /> 利根河真は四十代にして七星家の本家にまで上り詰め、(相当のいざこざはあった様子だが)その名を七星一郎と改めた。<br /> ただこの放射性物質除去薬、副作用があるのではないかと噂されている。<br /> 特に妊娠初期の女性や子供は、未だ地方によっては摂取を義務づけられている。七星は完全否定しているが、接種後、女児出産率が以上な傾きを示している。<br /> 本来ならば生産停止、回収されるものだが、日本国政府も黙認しており、なおかつ、これにまさる万能薬がいまだ存在しない事が問題である。<br /> 現在七星一郎は七十七歳。ゲノムアンチエイジングの体現者である事は、公開はしていないものの、誰の目でみても明らかで、その容姿はどうみても三十代後半である。<br /><br /><br /> <b>・七星遺伝子学研究所</b><br /><br /> 本部を観神山に置く。七星の遺伝子工学研究の総本山であり、そのお膝元の欅町には七星の関連企業、七星の企業体を支援する商店街と、完全に七星が牛耳っている。<br /> 研究内容は多岐に及ぶが、主に哺乳類の遺伝子研究、ゲノム薬学、ゲノム医療研究が進められている。<br /> この研究所から発信された医学薬学が現代世界の医療を支えているといっても過言ではない。当時は七星一郎になる前の利根河真が研究員を務めていた。<br /> ただきな臭い噂も囁かれ、中では人体実験が行われている、キメラのような生物が跋扈している、などと周辺住民から噂される事もあるが、住民たちもまた七星の恩恵に与って生きている為、公に情報や施設を開示しろ、などと迫る事はない。<br /><br /><br /> <b>・私兵団</b><br /><br /> 対テロリズムを名目に、一定以上の大企業は自前の私兵団を擁している場合がある。経済規模に大体が比例する為、中でも七星の擁する警備隊という名目の私兵団は小国の陸軍に匹敵すると言われる。<br /> 大半が国防軍上がりの人間で傭兵はおらず、三代以上に渡って日本国籍を持つ日本人のみで構成されている。<br /> また装備は七星軍事研究部門の最新鋭、もしくは実験段階の兵器である事が多々ある。<br /> ある時期から極端に数を減らし始めた日本国内の反日勢力は、七星の私兵団によるものであると噂されているが、七星及び日本政府はこれについて一切情報を開示していない。<br /><br /><br /> <b>・反七星系組織</b><br /><br /> 七星の傍若無人な振る舞いに異を唱える集団をまとめる場合に使われる言葉。<br /> 大陸系テロリスト他、反日団体、反財閥反大企業組織などが八割を占める。<br /> 単純な武装テロ集団ならばまず七星の敵ではないが、中にはESPを行使する青少年を組織化した部隊を有する団体もある為、一筋縄ではいっていない。(勿論表沙汰にはなっていない)<br /><br /><br /><br /> 日本国<br /><br /><br /> <b>・2067年日本国</b><br /><br /> 2030年代に起こったクーデターによって立ちあげられた日本国臨時政府からの延長にあり、厳密に旧来の日本国と同じと言う訳ではない。(詳細は別記)<br /> クーデター成功、大陸連合軍(同時多発テロリズム)排除の後に旧来の憲法、法律下での総選挙を実施、クーデターを起こした超党派議員等が新しく立ちあげた新党自由民衆人の会の党(自人会)が第一党となる。<br /> <br /> 一大軍事国家であり、軍事費は世界二位。一位はアメリカ(再統一アメリカ)三位はドイツと続く。<br /> アジア戦火危機の影響で新エネルギー開発が急がれ、同時多発的に建造が進み、核融合炉数は世界三位。<br /> 立憲君主制、民主主義。<br /> アジア戦火以降、大陸に介入という名目で紛争地帯に派兵している。<br /> 米国との二国間新防衛基準安保理に則り、米国の海兵隊と日本の部隊の混成部隊も存在する。<br /><br /><br /> <b>・政治など</b><br /><br /> ほぼ旧来通りの体制だが、男女比は半分。単独与党の自人会党、野党の民栄党、その他少数規模だが、相当の数の諸党が存在する。アジア戦火後は共産主義が一斉排除されている為、思想的なものこそ存在するが、大々的に共産を掲げる政党は存在しない。<br /> 外患を招いた挙句領地占領を許すという過去の失態から、水際でのテロリスト排除に関する法律が、多少過剰なほど存在しており、観光客以外の外国人は必ず一週間に一度の滞在チェックが義務付けられている。(勿論排他的だという国際社会からの批判は多い)<br /> 内務省なども存在し、大東亜戦争敗戦以前とは役割が異なり、基本的に警視庁公安部、公安調査庁、内閣調査室、国防省の調査組織とはまた別件の内政諸問題を取り扱っている。<br /><br /> 選挙権は18から。被選挙権は20からある。<br /> 段階的な道州制取り入れも検討されたが、現在では形骸化しており、その態にない。<br /> ただ首都防衛、リスク分散の観点から、行政に関する施設などは地方に分散しており、京都、長野に第二、第三国会議事堂が存在し、国会は分散して集合する。独立行政ではない。<br /> また、官公庁も宮城や大阪、福岡などに分散している。<br /> それに伴って大企業本社なども東京から地方に移る傾向があった。現在はその動きも落ち着いている。<br /><br /><br /> <b>・社会など</b><br /><br /> 精密機器、自動車産業等の発展は旧来と変わらないが、方向性がいささか異なる。<br /> 特に医療福祉に関しては眼を見張るものがあり、医療大国としての側面が強い。<br /> 薬品、医療機器の輸出。医師や看護師の派遣などにも力を入れている。<br /> 革新的な幹細胞医療学の完成によって、現在治らない病気といえば、年々進化するインフルエンザか、奇病、末期ガン程度であり、費用さえ目を瞑れば欠損部位の再生も不可能ではない。病原体原因の性病は根絶している。<br /> 福祉に関しても、脳手術やサイバネティクス技術の恩恵を受け、年老いてなお現役という人も少なくない。問題視される社会の高齢化だが、外地での指導を目的とした派遣などにも充てられており『姥捨て山』と揶揄されながらも継続している。<br /> 多少費用もかかるが、同性同士の結婚、出産が可能であり、今後はコスト軽減が課題である。<br /> 女性同士ならば子宮がある分難しくないのだが、男性同士の場合腹膜に外科手術を施した上での胎児細胞移植か、代理母を立てる為、ハードルが高い。殆どの場合代理母をたてる。<br /> 性別間での格差が減る一方、訴訟も増加しており、弁護士不足が叫ばれている。<br /><br /><br /> <b>・教育など</b><br /><br /> 旧来と変わらず義務教育九年、高等教育三年である。女性の社会的地位向上に伴い、女性のエリートを教育しようという動きから、専門教育を目的とする小中高大の一貫女子校が目に見えて増えている。<br /> 私立観神山女学院はその中でもだいぶ特別である為、この流れには含まれないが、新しい時代の女性を教育するという意味で女性率先思想は反映されている。<br /> 日本の軍事大国化に伴い、国防省認可の軍事学校、予備校なども存在する。国粋主義が叫ばれる中、当然あぶれた人間も多くなるが、大企業の警備隊や外地での傭兵等、引く手あまたであるのは幸いである。<br /> また、減ったとはいえテロリズムの憂い目にあう可能性も低くはないので、各学校ではサバイバル術や格闘技の修練は必須科目として存在する。<br /><br /><br /> <b>・軍事など</b><br /><br />『世界の秩序を守る星条旗と日の丸』<br /> 日米新核の傘構想により、軍事衛星兵器が三機存在する。(名目上は発電)<br /> これによって大陸間弾道ミサイルや爆撃機での日米に対する脅しがほぼ無意味となり果て、軍事は空から海へと移動した。また量子コンピュータの性能上昇により、日夜量子コンピュータ同士でのハッキング戦争が行われている。<br /> 当然世界からは『悪の枢軸』として白い目で見られているが、相手国は手を出せない現実に頭を悩ませている。<br /> 日本、米国、及びヨーロッパ連合は現在各国で大陸に派兵しており、終息も間近とされる。戦争が利権になる前に終わらせたい、というのが日本(七星)の主張だが、肥えた軍需企業、傭兵企業、投資家等からは反発が強く、なおかつ七星も多大に恩恵を受けている為、建前とされている。<br /><br /><br /> <b>・その他文化ほか</b><br /><br /> 仮想映像反映技術(ホログラム)の革新により、これを見ない場所はない。日常生活からエンターティメントまであらゆる場所で見受けられるが、恐らくは過渡期である。<br /> パソコンや携帯といったガジェットに関してもこれに当てはまるが、『PC古典派』や『物質至上主義派』等の影響もあり、本来なら掌どころか耳の穴にも入るような携帯やパソコンが存在する中、旧来の大きめなものを使う、買うという傾向があり、需要も供給も並列して存在する。<br /> 2000年代以降流行ったノート型PCは再評価を受け、昨今の流行りものとして取り上げられたり、タブレットなども、薄く、四つ折りにできはするが、サイズ的には10インチ程度の物理ディスプレイが付いている。<br /> ただやはり、一般的にはアクセサリ型端末が最も人気がある。眼鏡、時計、イヤリング、腕輪等、日本の悪い癖である何でも小さくする病気は健在である。<br /> また、認可の無いものだが、無線機器を脳内に直接埋め込みネットアクセスするような輩も存在する。<br /> <br /> 物質至上主義派の影響もあり、コレクション性の高い書籍、必然性の高い書籍は紙である。<br /> 専門書の類は殆ど電子書籍であるが、一部雑誌やコミック、絵本などは未だ紙で印刷される。<br /> 一年に二度開かれる埋立地のアレだが、現在も継続している。<br /> 観神山女学院は例外も例外であり、日常で紙を用いる場面はほとんど存在しない。<br /><br /> ファッションに関しては、何事も無駄を省くような動きがある。また無地が好まれ、無地部分にホログラムを用いてデザインを変化させるという、電力消費型ファッションが見受けられる。<br /> 女性ファッションの男性化、男性ファッションの女性化もあげられ、似あっているかどうかは別として、それ自体に突っ込みをいれるのは多少憚られる情勢である。<br /><br /> 強い女性がステータスとなって来る中、スポーツや格闘技に目が向けられている。大きな女性格闘技団体やスポーツ推進、支援組織が存在し、女性格闘技者の数はここ数年増加の一途である。<br /> 中でも有名なものは急所攻撃以外のルールがほぼ存在しない㈱格闘技日本が主催する総合格闘技『ストライクマッチ』であり、これは体重制限が無く、男女で若年部と青年部のみに分けられる。開催国家は二十を数え、現在世界最強と言えば、この大会での勝利を言う。<br /> 女子若年部日本チャンプ、欅澤杜花の出現は日本の女性たちに更なる格闘技への興味を誘った。<br /> ちなみに欅澤杜花選手の戦績は総計15戦15勝15KOである。(決勝以外一分以内)<br /> 非公式、立ち合い、練習試合でも負け無しとされ、彼女に勝てる人類がいるのかとすら噂されている。<br /><br /> <br /> <b>・対外的な欅澤杜花の扱い</b><br /><br /> 閃光のように現れた彼女は、日本女性格闘技界の星であり、今後十年を背負う逸材とされる。<br /> 世界大会への出場を期待されたが、彼女個人の事情で辞退となる。<br /> 突然現れた彼女が名門観神山女学院に籍を置いている事が発覚後、その美貌と肉体、そして強さから、一部カルト的なファンまで出現するありさまであった。<br /> 流通数の少ない『観神山女学院スペシャルマッチ』の映像データは、最高解像度版メディアデータが一千万、中解像度版でも数百万の値が付いている。<br /> 卒業までは表舞台には出ないとされている為、卒業後の彼女の動向が注視されている。<br /><br /><br /><br /> キャラクターのスリーサイズなど諸々はエピローグ後</span><br />
俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-35349680838444431302013-04-19T20:00:00.000+09:002013-04-19T20:00:15.537+09:00心象楽園/School Lore プロットストーリー4 後編<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<span style="line-height: 27px;"> プロットストーリー4/心象楽園/構造少女群像 後編<br /><br /><br /><br /> 3、天原アリス<br /><br /><br /> ……。<br /> その日は放課後にお茶会を予定していた。<br /> 何かと最近は彼女の『妹』が増える事もあり、顔合わせの意味もあるだろう。<br /> 撫子にとって、姉妹とはどのような意味を持つのか、具体的に聞いた事はない。単純にさみしがり屋なのだろう、というのが姉妹達の見解だ。<br /> 二十数人に及ぶ妹達だが、しかし同じ妹という立場でも、誉と花は違う。<br /> 契を結んだ仲であり、将来の展望も暗くはない。当然、同性同士の恋仲など、今の世の中では受け入れられないものだが、自分達ならば上手くやっていけるという自信があった。<br /> 利根河撫子は特別製だ。<br /> そして自分も、花も、花を慕うきさらも、他とは違うものだと、いささか選民的に信じている節がある。表にこそ出さないが、撫子に認められるという事は、そのような意味が強い。<br /> ただ当然希望の他に懸念もある。<br /> 撫子は誉を一番だと言ってくれるが、それは嘘だろうと感じていた。<br /> 何番目に好きだろうと、長くやっていける自信はあるのだが、嘘は止めて欲しい。<br /> そんな些細な嘘が原因だっただろうか。<br /> 撫子、花、誉、きさらの間で、不和が広がった。<br /> 仲直りの為にと始めた宝探しも、結局最後の一つが見つからず、後味が悪い結果となった。<br /> 撫子は決して助言しなかった。<br /> 珍しく頑なで、関係性が壊れるのではないかという懸念すらも解っていながら、答えを出さなかったのである。これにはいつも冷静な花も困り顔であった。<br /> お茶会は、そんな直近の妹達の不仲を取り持つ為にも催されたのだろう、撫子はいつもより気合を入れていた。<br /> それならば、最初から面倒な事をする必要もないと誉は考えていたものの……残念ながら、誉も花も、撫子の考えている事など解りはしない。<br /> 撫子が本当に心から愛しているのは、自分ではない。花だ。<br /> そしてその花を、きさらはずっと追い回している。まるで誉だけが疎外されているような気持ちになるのも、仕方が無かった。<br /> 自分の何が悪いだろうか。<br /> 一度聞いてみよう。<br /> 嫌われるのは恐ろしいが、もやもやを抱えたままでは、きっと不和が今よりも酷くなる。撫子にはっきり言ってもらって、そこからまた、関係を考えて行こう。<br /> ――それが今日であった筈なのだ。<br />「動かないでねー。あの子みたいになっちゃうからねー」<br /> 不和は解消され、また新しい関係で臨めるのではないかと、そう期待していたのに。<br /> どうしてこのような事になってしまったのか。<br /> 小銃を突きつけられ、声も出さずに涙が流れる。<br /> 眼の前にはクラスメイトが無残な姿で転がり、頭を銃弾で撃ち抜かれていた。<br /> 周りにいる生徒達は皆声を殺し、床に座り込んで抱き合う者、茫然自失とする者、様々だった。<br />「サツはなんだって?」<br />「交渉、ダメでス」<br />「お前日本語下手だから出せねえな。まあいいや、他の奴当たらせろ。んで頃合いまで長引かせろ。備蓄は運び込んでるし、装備も充実してんだ。特殊部隊乗り込んで来ようと、丸ごと吹っ飛ばせるって伝えとけ」<br />「ハイ」<br /> カタコトの日本語を話す男が指示を受けて走る。胸に下げる無線機からは、絶えず哨戒の情報が流れていた。男は誉に突きつけた銃を離し、顎を上げさせる。<br />「美人だね。ええと、生徒番号、あった。スキャンしてーと。アクセース、アクセース。はい来た。あ、いいとこの娘だね。ご両親、お金出してくれそうだね?」<br />「――も、目的は、御金ですか?」<br />「女子校丸ごと占拠しちゃったんだよ? 主目的もあるけどさ、やる事色々あるでしょう。あの子達みたいに? まあほら、全部連れてってってのは無理だから、見繕ってさ、ご両親脅すもよし、国脅すもよし、向こうのお国で売り飛ばすもよし。すげえ夢広がるね?」<br />「で、出来るわけないでしょ。そんなこと」<br />「出来ちゃうねえ。突発的なテロリストさんじゃない訳よ、僕たち。あそこに積んである荷物何かわかる?」<br /> そういって、教室の端に積まれた荷物を指差す。生徒達を三つの教室に押し込んだ後持ち込んだ木箱だ。<br />「君達でも解りやすく言うと、自動小銃と弾とロケットランチャー。手榴弾にその他諸々? あと食糧と水が一週間分だねえ。え、日本でそんなもの手に入る筈ない? 逃げ切れる訳ない? あっはっは。まあ何だ、金持ちに産まれたのを悔みなさい悔みなさい」<br /> 装備、機微、組織、明らかに素人の集団ではない。完全にプロ、という訳でもなさそうだが、少なくとも訓練を積んでいるように、素人目に見ても解る。<br /> リーダーらしき男は日本人のようだが、他の人間はみな、大陸系に見えた。<br /> 過去数件起こっている、学校占拠事件。<br /> 一件を除いて成功例は無いが、まさかそんなものが自分達の学院で起こるとは、夢にも思うまい。<br /> 関係のきな臭い大陸側の工作員。<br /> 思想的なものまでは、誉も詳しくはないが、これをする事によって日本政府にダメージを与えられると踏んでいるのだろう。そして彼等個人も『旨味』がある。<br /> もうかれこれ、拘束されて何時間が経つだろうか。<br /> 時計は外され、窓も事前準備したらしい暗幕がかけられているので、時間が解らない。<br /> ふと隣に目を向ける。撫子は力なく座っていた。手を握ると、彼女も握り返す。<br /> 皆が憔悴しきっている。<br /> 信じられない程の心労に、数人は倒れた。焦って逃げようとした二人は、目の前で殺され、挙句死姦され、撮影されている。<br /> もう無茶苦茶だ。<br /> 警察はどうしているのか。顔を上げ、同じ部屋に詰め込まれた花を見る。<br /> 彼女は、皆が衰弱している中、一人強い瞳を向け、きさらの手を握りしめていた。<br />「はいはい僕だよ。あ、何? 突入? はええなおい。日本の警察っていやあ、そりゃあもう犯人様に手厚い事で有名じゃねーの。やっぱアレか、良いお嬢様結構いるから、圧力か? それとも裏がばれたか? あーあー。D1とD2は正門警戒。B3とB5は威嚇射撃。S1S2は指揮車両狙撃しろ。警官なんぞ何人殺してもいいぞ。あ? もしもしもしもし? くっそ、やりやがった。おいA1、カメラ持ってこい」<br /> 男に指示され、A1と呼ばれた男がPCに接続したカメラを持ってくる。何をしでかす気なのか、男は花ときさらに前へ出るよう指示した。<br />「あー、警察さん、動画みてる? いえい。これからこの子達の頭ふっ飛ばします。突入なんてしてみろよ、ここのガキどもみーんな犯してぶっ殺すからね。世界配信しちゃうからね。日本警察まじ無能だってバレちゃうぜー? 高画質でガキどものアソコも脳ミソも丸見えとかすげえよたぶん、再生数。A1お前やれ、一人でやるなよ、手開いてるやつ呼べよ。僕は外見て来るからさ」<br /> そういって、リーダーらしき男が教室の外へと出て行く。<br /> A1は無言で机にカメラを置き、並んだ花ときさらに向かって銃を構える。<br />「や、やめ――やめてッ」<br /> 撫子が絶叫する。<br /> 同時に銃口が撫子に向いた、その瞬間だった。<br /> 花が飛び出し、A1の腹部にミドルキックを叩きこむ。<br /> のけぞったA1の腕を掴み取って小銃を叩き落とすと、そのまま首を捕まえ、あり得ない方向に捻じ曲げる。<br /> 比喩でなく、ミリリッと、静かな教室に聞いた事もない音が鳴り響くと同時に、A1は失禁し動かなくなる。<br />「は、花!?」<br />「……ここで大人しくしていて」<br />「は、花さん、何を――」<br />「いいから!」<br />「で、でも」<br /> 花がきさらの手を離し、誉と撫子に近づく。<br /> 絶対ここから動くなと、そう言いつけて、彼女は教室を出て行った。<br /> 教室がどよめく。緊張の糸が雁字搦めになり、泣き出す生徒、脱出の相談をする生徒、様々と現れる。<br />「誉、出ましょう」<br />「でも、花さんはここに居ろって」<br />「またアイツラが来て、殺されないとも限らない。立って、誉」<br /><br /> ……。<br /><br /> 教室の真中で立ち尽くしていたアリスは、眩暈がする頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。<br /> まるで掃除もされていない、埃っぽい床の上で、アリスは押し寄せる波に耐えていた。<br /> 高等部旧第一校舎一階。旧2-2組には、周囲には乱雑に積まれた机に椅子、何時使うかもわからないような備品達が無造作に置かれている。<br /> 日当たりは悪く、リノリウムの床は所々割れて美しさの欠片も無い。<br /> 旧世代の遺産が横たわるココは、現在倉庫として使われている。<br />「……残滓、ね」<br /> こんな場所に足を踏み入れたのには訳がある。<br /> 杜花と同時に体験した、利根河撫子達の記憶だ。<br /> 杜花、アリス、早紀絵の三人が『結晶の影響』だと思い込んでいた黒い影の正体が、まさか超常現象であったなどと、アリスはとても人には話せない。<br /> 狂人かメルヘンな脳をしているか、どちらかと疑われるだろう。<br /> 厳密には幽霊ではない。これは残滓だ。<br /> 彼女達、前世代の『自分達』が体験してしまった悲劇が、そのまま残っている。<br /> 結晶が見つかった場所以外で見受けられた黒い影の噂の大半が、悲劇の残滓を再生し続けているものであると気が付くまで、そう時間は要さなかった。<br /> 旧第一校舎は、震災の影響で老朽化に拍車がかかり、申し訳程度の耐震工事をして倉庫に使っていると聞いていた。<br /> だが、東日本大震災とは時期がずれる上に、耐震工事はその数年後に相当の規模で入っている。<br /> 実際柱や壁、床張り下のコンクリート自体には罅も無く、改築工事が得意な観神山女学院ならば、未だ平然と使っていても不思議ではない状態なのだ。<br /> 原因は恐らく、その黒い影だろう。<br /> こんなものが頻繁に見受けられるような校舎で、授業などしたくはない。<br /> 彼女達の残滓を追って、アリスはこの校舎に足を踏み入れていた。鍵は生徒会が管理していた為、侵入は容易であった。電気も通っているようで、暗い事はない。<br /> だが、どうも物理的な明暗などよりも、その雰囲気の暗さに圧倒させられる。<br /> しゃがみ込んだ床をマジマジと見れば、不自然に開いた穴が目立つ。<br /> 今しがた追体験してしまった記憶……弾痕だろうか。<br /> 思いだすと吐き気がするような凄惨な事件に、頭を掻きむしる。<br />(私は……大聖寺誉の代替え。杜花様は花お婆様。早紀絵はきさら嬢)<br /> 教室を後にし、階段を上ろうとした時の事だ。<br /> 廊下に灯るLEDライトの明りが、妙な違和感をアリスに与える。<br /> ここはもう数年、清掃も入っていない筈だ。<br /> 教室は確かに酷いものだが、廊下には塵がない。しゃがみ込んで指で擦ってみても、塵が付く事はなかった。手すりも同様である。<br /> 一応持って来たライトで廊下の奥まで照らしても、明らかに清掃された痕が見受けられた。<br />(冬休みの間……誰がが掃除した? ここに何かを新しく入れる予定はないし……)<br /> 不可解である。アリスは息を飲み、階段をゆっくりと昇り、二階の廊下をそっと覗く。<br /> 時刻は五時過ぎ。<br /> 既に辺りは暗い。引き返して、杜花を連れて来た方が良いのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎる。<br /> だが、アリスは直ぐその考えを振り払った。<br /> 自分の意思で、何かを知ろうとしているのだ、他人を巻き込む事はない。そもそも、こういった光景は間違いなく、杜花に悪影響を与えると考えたからこそ、自分一人で来ているのだ。<br /> アリスはいつも受け身だ。<br /> 早紀絵のように何かを積極的に調べたりはしない。とても保守的で、そのバランスが崩れてしまうような行いは、忌避している。アリスが求めるものは、平穏なのだ。<br /> しかしそんな平穏を崩してまで、何かをしなければいけない場所まで来てしまった。<br /> 二階廊下をゆっくりと、足音をなるべくたてないように歩いて行く。<br /> 十メートル程進んだ頃、見えて来たのは3-3とプレートが下げられた教室だ。二階廊下も同様にして清掃の後が見受けられる。<br /> 教室扉の窓には遮光フィルムが張られており、中を窺い知る事が出来ない。扉に手をかけても、びくともしないのだ。<br /> 鍵の束から3-3とラベリングされた鍵を取り出して使用するも、まるで鍵穴が合わなかった。<br /> 鍵穴に目を凝らす。<br /> どうみても、それは最新式の錠前だ。扉を手で押すと解るが、扉はガタ付きすらしないのである。裏側から板張りされているのかと思えばそうでもなく、質量がある為にガタ付かないのだろう。<br />(何の部屋? 倉庫にしては、鍵が新しすぎる)<br /> 疑問に思い、アリスは扉に耳を当ててみるが、大きな音はない。しかしかすかに、空調の駆動音が聞こえる。<br /> 中に何かがあるようだ。倉庫以外使用用途の無いこの校舎で、空調など必要ない。<br />「――アリス嬢」<br />「ひゃああっ!」<br /> 突然後ろから声を掛けられ、思わず絶叫して尻もちをつく。<br /> 顔を上げると、そこには物静かな顔をした兼谷が平然とたたずんでいた。音も無く現れるのはいつもの事だが、状況が状況なだけに性質が悪い。わざとだろう。<br />「か、兼谷さん」<br />「旧校舎なんて場所に、どんなご用事で」<br />「に、荷物の移動がありますの。使えそうな部屋はないかと見ていましたのよ」<br />「なるほど。しかし生徒一人では止めた方が良い。耐震も碌に入っていない校舎ですから」<br /> 兼谷はあきれた、という風にジェスチャーする。<br /> 誤魔化せただろうか。しかし安心出来ない。<br /> ……早紀絵から既に話は聞いている。<br /> 彼女が何者かは知らないが、ESPデータなるものを引き継ぎ、市子達が持っている超能力を強いレベルで再現可能だというのだから、嘘は通用し難い。<br /> 読んでくれるなと願うしかないのだ。<br />「兼谷さん。この部屋って、なんだか解りませんこと?」<br />「さて。私も赴任したばかりで、旧校舎についてまでは」<br /> 嘘だと、直ぐに解る。<br /> 初めての物事に当たる際、兼谷はとにかくあらゆる情報を収集して頭に叩きこむ、大変良く出来た人間だ。<br /> それこそ、クラスメイトの名前を出せば、その人物がどんな生活を送り、成績はどのくらいで、どんな性格をしていて、家族構成がどんなものかまで、即答出来るだろう。学院そのものの情報についても、彼女は網羅していた筈だ。<br />「そうですの。鍵もありませんし、ここは諦めますわ」<br />「それが宜しいでしょう。薄暗くてここは危険です」<br /> 兼谷に導かれ、旧校舎の入り口にまで戻されてしまう。強行する意味は無く、無茶をしても疑われるだけだ、下手な真似をしない方が無難だとして、アリスも諦める。<br />「そういえば、兼谷さんは何を?」<br />「貴女が旧校舎に入るのを目にしたので、止めに来ました」<br />「なるほど、心配をさせましたわ」<br />「いいえ。さあ、寮に戻って。市子お嬢様のお相手をしてあげてください」<br /> 兼谷に頭を下げ、旧校舎を後にする。<br /> あそこには何かがある。早紀絵の話から推察するに、もしかすれば改竄機構のマザーコンプでも置いているのかもしれない。<br /> 兼谷が去った事を確認してから、校舎の裏手に回ると、それは直ぐわかった。<br /> 壁伝いに新しいケーブルを引いた跡。複数人が工事をしたのだろうと解る、真新しい痕跡が見つかる。<br /> 確かに、こんなところをわざわざ調べるものはいないだろう。そも、改竄されているのだから、皆が疑問に思う訳がない。<br /> 表に周り、改めて寮への道に戻る。<br /> 街灯に目をやると、大きくはないが、明らかにアンテナらしきものが付属されているのが解った。意識せねば気づきもしないだろう。<br /> アンテナを潰しても意味がない。この不可思議な状況をどうにかしたいならば、大本を潰すしかないのだが、それすらも早急に修理されては堂々巡りだ。彼女達には自信があるのだろう。<br /> 現状は恐らく、市子の構想をとっくに通り過ぎた場所にある。<br /> 市子は自分が戻りさえすれば良かったのだ。<br /> だから故に、ここまで大規模な改竄など、想像する筈もない。市子の発想を協力したのか、そもそも市子の発想ではないのか、現状は間違いなく七星一郎の構想の中だろう。<br /> 当初予定されていた状況から乖離が酷くなり、そこに二子の考えが挟まり、一郎が実行力を与えた結果、だろうか。<br /> 彼は、本当に娘想いの酷い父親だ。幾重にも重なった七星家の面倒事に、自分達は完全に踊らされているのである。<br />「アリス」<br /> 辿りついた白萩の入り口には、杜花とメイが居た。<br /> 珍しい組み合わせである事から、アリスが小首をかしげる。この二人の接点といえば、早紀絵を介さなければまず無いものだ。<br /> が、しかしこれを支倉メイとしてではなく、利根河撫子のクローンであると見ると、なんとも言えない気持ちになる。<br />「杜花様、支倉さん、どうしましたの」<br />「世間話ですよう。アリス様は?」<br />「ちょっと生徒会活動棟と、旧校舎に。支倉さん、少し聞きたい事が」<br />「マザーコンプですか。旧校舎にありますよ」<br />「アッサリ話しますのね」<br />「杜花様がパンチしても壊れませんし、電源も落ちませんし、壊したら治しますし」<br /> 言わずとも解るのか、メイがにっこりと笑う。余程無意味なのだろう。<br />「メイさん。一時的にでも解除は?」<br />「私の権限では、一部アンテナの出力を弄る程度です。これもメンテナンス用権限なので。兼谷を倒せるなら考えられますけれどもねえ。意味ないと思いますよ。それに、お三方はもうアンテナ程度の影響は受け付けないでしょう。脳と精神に耐性が出来ていますよ」<br />「そういうモノなのですか、あれは」<br />「一度自覚してしまえばなおさらです。当然上書き出来ますけど、そのたびに出力を上げるので、脳に負荷がかかりすぎます。本来の目的から言えば、もうあのアンテナはガラクタです」<br /> 市子(撫子)との不自然な生活を送らせる上で、既に全員が改竄影響下の外にあるとなった場合、改竄機構は完全に鉄の塊でしかないだろう。<br /> それを止めない、もしくは出力を上げないという事は、まだ兼谷が気が付いていない事を示しているのかもしれない。<br />「でも、改竄に気が付かない人間は、アンテナ範囲外に出ても長い時間継続します。それに、これは二子ちゃんが得意ですが、深い部分で弄られていた場合、そもそも改竄されているという意識すらないです。このESP、あらゆる超能力の中でも、特殊な部類なので」<br />「支倉さん自身の力では?」<br />「劣化版も劣化版なのです。兼谷の十分の一、二子ちゃんの五十分の一、市子の七十の一、大本たる利根河撫子の、百分の一ぐらいです。市子の意識が本当に撫子に迫った場合、本領発揮もあり得ますねえ。市子が諦めておらず、二子がしつこく、兼谷が強要した場合、今使っている市子二子のESPデータを撫子のESPデータに上書きして改竄機構が発動。今度こそ抗えないでしょうねー」<br /> メイは小さく頭を下げる。末端はやはり末端なのだろう。<br /> しかしどうも、気になる点がある。杜花もこれには首を傾げた。<br />「メイさん。今、改竄機構に乗せているのは、市子二子のデータなんですね?」<br />「はい。撫子ではないですねー」<br />「でも、何故ですの? 市子御姉様は、撫子に近づきすぎたからこそ、自殺してしまったのでは」<br />「……んー。調整が難しいのでしょうかねえ。強すぎたのかな。そもそも、市子の場合、元からある生のESPデータですよね? 結晶に宿っていたものです」<br />「そう、ですね」<br />「撫子の場合、無いところから作っている訳です。言葉で説明し難いですねえ。寒くなってきましたし、お部屋に行きましょうかあ」<br /> 肌をこする。メイに促され、三人は話の場をメイと早紀絵の部屋に移す。<br /> 早紀絵はどうやらまだ戻ってきていない様子だ。<br /> 二人が座卓につくと、メイは紙とペンを用意して広げ、箇条書きにして行く。<br /><br /> ESPデータによる記憶改竄は『他者感応干渉能力』発見と共に研究、開発される。<br /> 殊更強い力を持っていたのが利根河撫子。<br /> 脳を弄るだけでは再現不可能であった。<br /> それはどこから来る働きなのか。<br /> 研究の結果、能力発現は個人の積み重ねで得た脳のプロセス(思考、行動)によって成り立つ。<br /> 例外的に遺伝からの発現も確認される。<br /> 市子、二子は発現し易くする為、外科手術で脳を調整されている。<br /> 市子は撫子になる為の全てを詰め込まれている。<br /> 市子は完全に撫子を再現している? 強すぎて改竄機構に上書きし難い?<br /> そもそも、まだ市子は撫子として形を得ていない?<br /><br /> メイはそこまで書き切ると、小さく溜息を吐く。 <br />「結論から言いますとですね、七星一郎、いいえ。真お父様は、肉にあまり興味がないのです」<br />「どういう事ですの?」<br />「はい。真お父様は常々、人間を作りえるのは記憶であると言っていました。記憶こそが生後の肉体を形成し、能力を覚醒させる。同じ肉から出来ているからと、同じ人間にはなりえないのです。だからこそ、真お父様は苦心しました。大切な娘を蘇らせたいと、悪魔に魂などとうの昔に売り渡し、更には悪魔から買い戻して、悪魔も買収しました。この観神山女学院が、観神山市が、娘を作る為の基盤なんです」<br />「あの、二千年代初頭をモチーフにした街づくりも、その一環ですか」<br />「はい。そしてこの女学院のありとあらゆる所に、当時の面影を残したままにし、女学生何たるかのデータを逐一蒐集しました。『健全』の授業もそう。女学生の思考ルーチンを大量蒐集して、統計化して、利根河撫子の理想像へと近づけるデータに生成するんです。彼女が生きていた当時から、イベントだって大した変わり映えはないのです。学生たちはその全ての行いを監視され、統計を取られ、撫子の糧となる。記憶の人工生成なんです。そしてその全てが組み込まれてしまったのが、七星市子なんですよ」<br />「……」<br /> 杜花が押し黙る。大方予想はしていたが、本当にこの学院は、丸ごと全部、利根河撫子の為にあったのだ。<br /> 娘の記憶を完全再現する為に、人間の思考、行動、言動諸々を解析して最適化し、極力利根河撫子に近付けて行く実験施設である。<br /> どうしてこんな辺鄙な観神山市街に、七星の大きな研究所が乱立しているのか、その理由が良く分かる。<br />「……支倉さん。貴女は、データ人格は『人間』足りえると、思いますの?」<br />「逆にお二人にお聞きします。では人間とはなんですか?」<br /> そんな事、考えた事もない。人間は人間だ。<br /> 人の種族が交わって、人として産まれるものを言う。<br /> だが、科学が進み、あらゆる事が神にも近づいた人間達は、新しい方法で人間を生み出せるようになったとするならば、それはやはり、人間なのではないのだろうか。<br />「神は人など造りません。人は人が造ります。セックスするにしても、科学で培養するにしても、結局人の手で出来ます。人の手で可能な限り限界まで本人に近付けたもの、それが本人でないというならば、じゃあもう人間っていうのは、ブレが許されなくなる。考えが多少変わっただけで、貴女はその人を否定しますか?」<br />「つまり、メイさん。あれは間違いなく市子だと、そういうんですね」<br />「はい。人の本質は魂であり、記憶です。生前の市子とデータの市子、総合的に検証しても、ブレは0.0001%未満でした。つまり、市子です。そして同時にそれは、撫子でもある、筈なのですよ」<br /> メイが言葉尻を濁す。<br /> 本人も、市子については認めていても、零から生み出そうとしている撫子については、確証が持てないでいるのだろう。<br />「人間なのは、まあ解りましたわ。でも撫子かどうかは、まだ解らないと?」<br />「……何をもってして個人で、人格なのでしょうねえ。私は肉が撫子ですけど、意識は支倉メイです。それは記憶から生成され、認められた個人ですよねえ。うん。そう。そうですよう」<br />「杜花様」<br />「ええ」<br /> やはり、まだ撫子は、完成していないのだ。<br /> ――ともすればやはり、まだ抗える内に抗わなければ、このまま偽りの学院生活を強要される事になる。<br /> メイが俯き、いつもは見せない、暗い表情をする。<br />「貴女達もたぶん、普通では、ないですよ」<br />「……アリスが誉で、サキがきさらで、私が花、と」<br />「もしかしたら、もう実感しているかもしれませんけども。疑った方が良い。過去を再現する為に用意された貴女達は、本当に『オリジン』でしょうか。過去、七星系列の病院で検査を受けた事は? 手術をした事は? そもそも生まれる前、貴女のご両親は本当に貴女の親ですか? DNA検査は? 脳にチップは有りませんか? 遺伝子改造の痕跡は? ――特に、杜花様は」<br />「そこまでして……まだ、完全再現出来ていないという事ですよね、メイさん」<br />「……だとしても、逃げられませんよ。恐らく、この学院での再現は、一番真に迫っていますから、真お父様や兼谷が、諦める筈が無いです。だからきっと、現状が否ならば、どうにかして止めるしか、無いでしょうね」<br /> 市子が残した最終手段というものに、頼るしかないのだろう。<br /> その言葉を受けて、杜花は何か、少し遠くを見てから、意を決したようにする。<br /> それは、アリスや早紀絵にとって好ましい決意だろうか。<br /> アリスには、とてもそうは思えない。明らかに、自分だけの決意だ。<br /> その暗い表情は――市子の死後、仮面を被り続けた、あの欅澤杜花だ。<br />「杜花さ……」<br />「解りました。先に失礼しますね」<br /> 数秒の沈黙の後、杜花は部屋を出て行った。<br /> メイの語りは饒舌だ。いつもとは違う。<br /> もしや彼女は、現状を面白がっているのだろうか。<br /> ただ、助言したいだけなのか。<br /> それとも、協力の態を繕った、撹乱者ではないのか。<br /> ……。<br />「ちょっとだけ読めました。疑うのも無理ないですよねー」<br /> そういって、メイがアリスに近寄り、その手を重ねる。上目使いで媚びる姿が猫にも似る。<br />「私は、幸せが良いです。貴女達が不幸だというのならば、市子の意思も尊重して、解決の手助けをします。それにですね、本当はこういうの、どうでもいいです。サキ様と幸せになれたら何でもいい」<br />「ある意味一途ですのね」<br />「はい。それで、アリス様。貴女は、自分が貴女だと、思いますか?」<br /> 生前の自分を知るすべなどない。メイは解っていながら問いかけているのだろう。ブレがあるかないかを見極めているのかもしれない。<br /> これはあざとい子だ。確かに、アリスが過去視した撫子と、似ても似つかない。<br /> 肉が同じだろうと、同じ人間になるとは限らない。<br /> そしてこの子は、その体現なのだろう。<br /> 何か、酷く切ない気持になる。<br /> 彼女は撫子になれなかった撫子だ。そもそも彼女個人は、あまり必要とされていないのかもしれない。<br /> 本人を本人と認めて貰えない辛さなど、アリスには理解出来る悩みではないが、想像する事は出来る。<br /> アリスはメイの肩に触れてから、抱きしめる。<br />「あ、あれ?」<br />「少なくとも、私達は貴女を『支倉メイ』として認識していますわ。他の誰でもない。困った事があったら、いつでも言ってくださいまし。何の助けにもならないかもしれませんけれど、私は貴女を遠く感じませんわ。まあ、少しいやらしい子だとは思いますけれども……私の好きな人の、恋人ですもの」<br />「あはは。何、言ってるんですかあ……何……何言って……」<br />「さみしいから、求めるんですの。さみしさが深ければ深いほど、深く繋がろうとする。私達は似た者同士ですわ。貴女は私は、自分を自分と、認めて貰いたい。市子御姉様だって、そうだったのかもしれない。何が正しい答えなんでしょう。個人って、どこから線引きするものなんでしょう。私達は、何処から来て、何処へ向かえば、一番後悔しないのでしょうか」<br />「真お父様は言ってました。自分が何者か決めるのは、自分だけだって。作る手助けはするけれど、自分に目覚めるのは、自分だけだって。彼は、愛国者です。自分の才能のあらゆるものを動員して、この国を形作る怪物です。国家国民、個人においても、彼は手助けします。けれど、目を覚ますのは、国家国民であり、個人のみだと、ずっとずっと、そう言っていました。だから、大丈夫です、アリス様。メイはメイです……でも」<br />「でも?」<br />「たまに、凄く、自分が解らなくなります。外から認めてくれる人も、たまには必要だと、思うのです。嗚呼、だからその……アリス様、ね?」<br /> しまった、忘れていた、とアリスは頭を掻く。<br /> どんなにさみしそうな顔をしても、支倉メイは支倉メイである。あまり爛れた関係をアチコチに残したくはないのだが、アリスはもう既に押し倒された後だ。<br />「だ、ダメですわ。もう、油断も隙もない」<br />「あふふ……。ダメと言われたら、メイ出来ないです。貴女は杜花様とサキ様のものだから。でも、欲求不満なら、いつでも、傷のなめ合いをしましょうね、アリス様」<br /> ちろりと紅い舌を出して、彼女は怪しく微笑む。メイを退けて、アリスは部屋を後にした。<br /> まったくもって、自分の周りにまともなのが居ない。自分すらも怪しい。もう本当に、真っ当な考えを持っているのは、早紀絵ぐらいなのではないだろうかとすら思えて来る。<br /> 押し迫られて火照る身体を撫でつけ、アリスは溜息を吐いた。<br />「あ、そだ。アリス様」<br />「ひゃい」<br /> メイがドアから顔を覗かせる。<br />「……? もし、本当にまだ撫子が再現されていないとするのならば、ですが」<br />「え、ええ」<br />「兼谷は、意地でも再現しにくると思います。どういった手段を用いるかは、解りませんけれどー」<br />「心に留めておきますわ」<br />「……してきます?」<br />「け、結構ですわ」<br />「あふふ。ではまたー」<br /> ここ最近、杜花とも早紀絵とも、してはいない。<br /> それどころでは無いという事もあるが、やはり言い出し難いのだ。メイはそこに目を付けたのかもしれない。あざとい子である。<br /> 気は多いし、もて余すものも多い。<br /> 自分が違う物になって行く、いや、新しいものに変わって行く実感を得ながら、アリスは部屋へと戻った。<br /><br /><br /><br /><br /> ……。<br /><br /> 甘い夢を見る。<br /> もうずっとそうだ。恋多き天原アリスは、まどろみのさなかに居る。<br /> やわらかな刺激に目を覚まし見上げれば、黒髪の乙女が此方を見下ろしていた。<br /> 彼女は女神のように優しく微笑む。ただそれだけでも、心の内から温かみが染み出すような思いだ。<br /> 手を伸ばし頬に触れれば、彼女はその手を取り、キスをしてくれる。<br /> 身を起して辺りを見回す。<br /> 時はいつか。小庭園には四季折々の花々が咲き誇る。<br /> 直ぐ隣では、髪の短い乙女が屈託なく笑う。<br /> アリスは躊躇い無くその乙女に縋り、啄ばむ様なキスを幾度となく繰り返す。<br /> 気が多くて、適当で、けれど賢しい彼女が気になってしまう自分も、大概に酷いものだと思いながらも、止める事が出来ない。<br /> やがてそんな卑しいアリスの手を引く乙女が現れる。<br /> 彼女は怪しく微笑み、悪戯にアリスの身体をその手で、舌で舐めまわす。<br /> 紅く光るような瞳は、楽園において異質だ。<br /> 羊たちの中に紛れた狼だが、しかし彼女は、羊になりたかった狼だ。<br /> いや……羊を繕っていたのに、それを無理矢理引きはがされた、狼だ。<br /> これだけ美しい獲物が揃っているのだから、手を出さない方が間違っていると、彼女は言う。<br /> アリスに否定感はない。むしろ、そんなものに奪われてみたかったのかもしれない。<br /> 狼が理性で押し殺していた欲求を、アリス達が自ら解き放ったのだ。<br /> 果実にも似た甘みと酸味が、直接頭の中に流れて来るような快感に、アリスは恍惚とする。<br /> 三人の美しい乙女に囲まれ、この世のものとは思えない快楽が襲う。<br /> ……幸福だ。<br /> 誰にも手渡したくない楽園がここにある。<br /> 恋して愛され、堕ちるに堕ちるこの堕天の園は、逃げるに難い。<br /> 例えそれが、既に失われてしまった筈のものだとしても、与えてくれるというのならば――。<br /><br /> ……。<br /><br />「はあっ……くぅぅッ……」<br /> ……ベッドの中で、アリスが小さく呻く。<br /> 荒れる息をこらえながら、秘部を弄り回した手を口に運び舐め取る。<br /> もう何度目だったか。下着もベッドも既にぐしょぐしょだ。とめどなく押し寄せる快感に我を忘れて自慰に耽っていたが、時刻を見れば既に三時を過ぎている。<br /> 漸く落ち着いて来た。<br /> 自分が何をしていたのか振り返り、顔が赤くなるのが解る。<br /> なんていやらしい子、なんてふしだらな子、自分をそのように心の中で罵りながら後処理を済ませていると、なんだか果てしなく虚しくなる。<br /> ダルさを引きずりながら、廊下に出る。階段を下りて給湯室に向かい、コップ一杯の水を飲み干す。<br />(……もう、終わっているのに)<br /> 既に滅びた世界に、今自分達は暮らしている。<br /> SF小説の主人公が、あったかもしれない並行世界で、自分が本来どこの住人なのか気が付いてしまったのと同じだ。<br /> ここは完全に歪んでいる。<br /> 最後にまともな記憶があるのは、冬休みが終わり、学校に戻って来て、校門をくぐった瞬間までだ。以降は改竄されている。<br /> それから二週間と少し、何の疑問も抱かずに暮らしていた。<br /> 市子は生きており、しかし杜花とアリス、早紀絵の関係性は継続されているという、まるで都合が良すぎる世界だ。<br /> いや、有り得た。有り得たが、あってはならない事なのだ。<br /> 自分達は市子が亡くなってしまったからこそ、杜花に近づいたのだから。<br /> そんな幸福な世界は、だが長続きはしない。<br /> 過去との符合、デジャヴを幾度となく繰り返した結果であるし、何よりも、欅澤杜花が完全に自重を失っている点は気懸りだった。<br /> 彼女は――普通ではない。<br /> 肉体的に精神的に、同年代の少女達と比べるまでもない。だが時折見せるその危うさが、どうしようもなくアリスを引き付ける。<br /> 彼女は本来『御姉様』ではないのだ。もっと違う何か。<br /> なりを潜め、当たり前を繕っているだけで、その本性は自分の好きなものを全部下に組み敷く女王である。<br /> 彼女の理性でその性質を抑え込んでいた。そして彼女自身が市子を枷にもしていた。<br /> だが、今この世界においては、その必要がないのだ。<br /> 彼女もまた幸福の中にいた。<br /> 最愛の市子から、移り気の認可も降りてしまっていた。彼女にとって市子こそが最大の価値観だ。彼女が許可するならば、杜花が自重する意味はない。<br /> 自覚があるかないか、それはアリスも解らないが、先日の風子の件は肝を冷やした。風子を受け入れた場合、杜花の関係性の拡大の引き金になるのではないかと……直感的にそれを否定した。<br /> 杜花の手腕は異常だ。<br /> 好ましく思い、近づくまでは良い。<br /> だが身体を許して、杜花が乗り気になったならば、もうきっとその人物は抜け出せないだろう。精神的に肉体的に、彼女の虜にされてしまう。<br /> アリスは身体を抱く。<br /> 引き締まっていて、なおかつ女性の柔らかさを保つ杜花の身体は、触れるだけで心が躍る。<br /> 温かい唇、まるで気持ちの良い部分を全て把握しているような手は、アリスのように無知な処女すら、絶頂に導いた。<br /> あれを直に体験してしまうと、市子が杜花を誰にも渡したくなかったのが、良く分かる。<br /> 欅澤杜花は、明らかに女性を狂わせる。<br /> ……しかし……。<br /> 思う所がある。<br /> 二子の思惑だ。アリスと早紀絵は、二子の思惑に囚われない為に、殊更性急に杜花を手放すまいと計画した。市子がいるという事は、杜花が他を見なくなるという意味であったからだ。<br /> だが結果として、記憶はともかく自分達の関係は地続きになっている。<br /> これだけの改竄が可能ならば、その関係性すら簡単に破綻させられた筈だ。<br /> つまり市子と杜花だけの関係、アリスと早紀絵は遠くから見ているだけの、今までと変わらない相関図を、何故作らなかったのか。<br /> それをやらなかったのは、誰の意図なのだろうか。何を配慮したのだろうか。<br /> この世界は幸せすぎる。<br /> だが全て虚飾であると気づいてしまえば、これ程虚しく残酷なものは無い。<br />「――あら、アリス?」<br />「ッ……御姉様」<br /> 頬を撫で、眼の前の人物をしかと確かめる。七星市子。だった何か。<br /> 今のアリスには、これが間違いなく二子であると認識可能だ。<br /> 雪中展示会の準備を終えた後、生徒会三役室に居たアリスと杜花を襲ったのは、あの黒い影であった。<br /> 様々な疑問が一気に噴き出し、改竄された記憶がよみがえり、しかしとんでもない矛盾に頭を悩ませた。<br />『あれ』は結晶の影響で齎されたものではない――最初から、もっと別の物。七星市子ではなく、利根河撫子そのものであった。<br /> 対話は不可能だった。<br />「どうしたの、こんな夜中に。というか、もう朝になるわよ?」<br />「御姉様こそ」<br />「少し眠れなくって」<br /> 市子……二子が手を取る。<br /> 小さい手だ。まるで昔の市子を思い出す。<br /> 彼女は小さい頃から『御姉様』であった。彼女に手を取られ、この人に従って行こうと、そう心に決めたのである。<br /> それら全てが仕組まれていたなど、思い返すだけで悲しくなる。<br /> これは……この彼女は今『誰』なのだろうか。<br />「……御姉様」<br />「うん?」<br /> あの時。<br /> アリスの視覚認識は、情景が四十年前の世界にとって代わり、何故撫子が怒っていたのかが、否でも良く分かった。<br /> 彼女は逃げていたのだ。<br /> 重たい足を引きずりながら、追手に物を投げつける。<br /> 死した妹を背負いながら、その後ろを気にしながら、とにかく、逃げ回っていた。<br /><br /> ……。<br /><br />『撫子、走って!』<br />『誉が、でも、花は』<br />『いい! 構うな、逃げて隠れろ! こいつぅッ――殺してやるッ! 殺してやるッ!! よくも! よくも!!』<br /> ただ、傍観者として、楽園の終わりを見つめていた。<br /> 背を撃たれた誉を背負い、撫子が逃げ回る。<br /> それを追いかけるテロリストの前に、欅澤花が立ちはだかった。<br /> 怒り、悲しみ、負の感情のその全てを、姉妹を殺した相手に向ける花の表情は、過去観た事もない、感情表現の限界値であっただろう。<br /> へらへらと笑う鬼畜が一発、拳銃を撃ち放つ。<br /> 花はそれに対して、腕を差し出した。<br /> それもそうだ。たった一人の女子高生、拳銃を持った大の大人が負ける筈がない。<br /> だが、花は痛みなど無かっただろう。彼女にとって、そんなものはどうでもいいのだ。<br /> ただ殺さねばならない。<br /> 愛しい人を殺したコイツを殺さねばならない。<br /> とても少女とは思えない、明らかに脳内リミッターが外れた筋力で飛び出した花は、男の顔面に拳を叩きこむ。すかさず腕を蹴り飛ばし、更に回し蹴りで相手を吹き飛ばす。<br />『くそ、くそくそ……なんで、なんでこんな……お前らの所為で……!!』<br /> 絶叫と共に、花は男の首を捕まえ、そのまま腰に乗せて地面に叩きつける。<br /> 以降は見ていられるものではなかった。<br /> 数十発に及ぶ、全力の拳が男の顔面に浴びせられ、首の骨は既に折れている。<br /> 花は拳銃を拾い上げて、腹部に全弾撃ち込み、そこで止まった。<br /> 追手が来る。逃げなければならない。<br />『誉……撫子……きさら……無事で……お願いだから……』<br /> 彼女は涙を抑えて、その場から走り去った。<br /><br /> ……。<br /><br /> あの場に残っていたものは、撫子、そして花の絶望の感情そのものだ。<br /> 早紀絵の話を思い出し、それが、学院各所で目撃されている、黒い影の正体であると判断する。<br /> 確かに、結晶の影響もあったのだろう。だが全てでは無い。<br /> 結晶が無かった場所、それ以外の場所で目撃情報があるのは、彼女達が……未だに、逃げ続けているからだ。<br /> 四十年、ずっと逃げている。<br /> 死した二人も、まだ生きている花すらも、学院に感情を置き去りにしてしまったのだ。<br /> 人の心象が現世に反映されるなど、冗談でしかない。<br /> だがもう、それ以外信じられない領域に、いるのである。<br />「……アリス、どうしたの。何故泣くの」<br />「どうして……こんな事……どうして……。彼女達は、未だ逃げ続けているのに。まるで見せつけるみたいに、私達はこんなに幸せなフリをして……どうして……七星一郎は……二子は……市子は……」<br />「――やっぱりダメなのかしら『そんな事ないわ』」<br />「――でも二子、アリスが悲しんでる『大丈夫。さみしがりだから、抱きしめて、あげればいい』」<br />「おねえ、様?」<br /> アリスは、自分の口を塞いだ。<br /> 知らせてはならない人物に、喋ってしまっている。それは、改竄の影響か、いや、感情がずれてしまった為か。脳は、ストレスを避ける為に、何とか解消しようと、策を弄する。今の言葉は、出るべくして出てしまったものだろう。<br />「――上手くいかなかったのよ。『なんとでもなるわ』」<br /> 声が、二重に聞こえる。<br /> 二子の口から発せられる……いや、市子を装った二子の口から、二子の言葉が漏れている。<br />「御姉様。いいえ。二子さん。私では、この世界を甘受出来ませんわ。ただ、辛いだけ」<br />「――アリス。アリス。私の可愛い妹。違うの。私は……『これは、撫子達の供養でもある。そして、蘇生でもある。姉様、躊躇う必要なんてない。姉様の死を悲しむ子達を――幸せにしないと』」<br /> 市子が、二子が、アリスの手を離す。<br /> 真正面から、彼女に捉えられてしまった。アリスにはどうする事も出来ない。<br /> 悲しく虚しい世界は、また幸福になってしまう。<br /> ……。<br /> それを何故辛く思う必要があるのか。<br /> ……。<br /> 受け入れて、楽になれば良いのだ。<br /> ……。<br /> 杜花と、市子と、早紀絵と、皆で――笑って過ごせば良い。<br /> ……。<br />「ダメ、二子。ダメ。強い負荷は、かけられない。『でも』」<br /> 目を見開く。<br /> 躊躇い、その綺麗な顔を歪める『二子』を押しのけ、アリスは廊下に出て、近くの物置きに閉じこもった。<br /> 頭痛がする。前頭葉が発熱するように、ずきずきと痛む。<br /> まずい。<br /> 喋ってしまった。感極まったとはいえ、言い訳にならない。<br /> 早紀絵の話では、二子自身はもう思考を読みとろうとはしないという。心を縛っていれば、改竄も免れえると聞いていた。<br /> だが、アリスが周知である事実が知られれば、その限りではないかもしれない。芋蔓式で杜花、早紀絵も疑われる。<br /> 市子は躊躇っている様子だった。しかし、今の二子はやる気でいる。<br /> 人格データは競合する筈だが、今は二人が一緒にいるのだろう。<br /> そして問題は、むしろ兼谷である。<br /> 彼女は思考を読み取って周り、改竄機構の届かない場所を補う中継アンテナとして機能している。更に言えば、この計画の推進者だ。<br />(酷い善意もあったものですわ……)<br /> ドアを背に凭れかかり、項垂れる。<br /> 廊下で足音が聞こえ、すぐ真後ろ、ドアの前で止まった。<br /> コンコンと、ノックが響く。<br /> ガチャガチャと、ノブを回す音が聞こえる。<br />「――アリス、聞いて、アリス、聞いて」<br />「――違うの。こんな筈じゃあないの。嗚呼、どうして」<br />「――許して、アリス。私は、貴女達が愛しいわ。愛しているの。ずっと傍に居たいの」<br />「――杜花が好きだって良い。早紀絵と一緒に居たって良い。私は幾らだって、貴女が幸せなら幾らだって譲歩する」<br />「――私……私は、死にたくなんかなかったの。当たり前じゃない……知りもしない姉妹に、何故殺されなきゃいけないの」<br />「――ずっとずっと、幸福で有りたかった。そうなる筈だった。なのに……なのに……」<br />「――私は、ただのデータなんかじゃない。私は市子よ。七星市子。貴女が慕ってくれた、姉よ」<br />「――お願い――傍にいて――さみしくて……死んでしまう……ここを、開けて、アリス、お願い――」<br /> もう。<br /> もう貴女は死んでいるのだと。<br /> アリスの神は、あの時死んでしまったのだと――。<br />「言えない……私は……言えませんわよ、そんなこと」<br /> ドアを開け、涙を流す『市子』を抱きしめる。<br /> どうにもならないほど、これは市子だ。<br /> わが神だ。<br /> 天原アリスの全てを作った、最愛の超越者である。<br /> 彼女のようになりたかった。<br /> 彼女の傍に居れば幸せだった。<br /> 彼女の笑顔が好きだったのだ。<br /> 何故、何故泣かれねばならないのか。<br /> 何故死して悲しまねばならないのか。<br />「もう――もう考えたくもありませんわ。これ以上するというのなら……いっそ殺してくださいまし」<br />「受け入れて、くれないのね、アリス」<br /> アリスの視界で、二子の像がブレる。同じ人物が、二重三重にも重なるのだ。<br /> 重なる彼女は、酷く、悲しそうな顔をした。<br /> アリスは、それに応えてあげる事が出来ない。<br />「……そう。夜分遅く、お邪魔したわね。アリス」<br />「――ええ」<br /> そういって、ふらふらとした足取りで、彼女は去って行った。<br /> 迂闊であった。<br /> なるべく二子とは二人きりにはならないようにと配慮していたが、やはりどうしても、寮では限界がある。<br /> 二子は杜花を相当警戒している。杜花と一緒にいる場合、絶対改竄能力は用いなかった。市子の事に関して、杜花が何をするか予測出来ないであろうし、一度教育された事も影響している。<br /> 明日には、市子が隠したものを探しに行くというのに、まさかその前夜にこうなってしまうとは。<br /> 物置を抜け出し、自分の部屋に戻る。<br /> 足取りは重い。項垂れて部屋に戻ると、五月が眼を覚ましていた。<br />「五月?」<br />「会長、どうしました?」<br />「……ううん。何でも無いの。明日は展示会だから、早く休みましょ」<br />「そう、ですか。魘されていたみたいですから」<br />「ごめんなさいね」<br />「……私には、相談出来ないような、悩みですか」<br />「……五月?」<br />「――いえ、なんでも。おやすみなさい」<br /> そういって、五月がベッドに戻る。<br /> ……濡れた毛布を上げたままだった。<br /> 今度は気恥かしさに項垂れ、タオルを敷いてから床に就く。<br /> もう嫌になる。<br /> もう何度目か解らない溜息を吐く。<br /><br /><br /><br /><br /> 御手洗いの鏡に向かい、自分の顔を確かめる。<br /> 普段はつけないファンデーションで隠してはあるが、やはりクマは濃い。寝不足もあるだろうが、一番は心労だろう。<br /> 三時限目終了後の放課後。<br /> 今日は雪中展示会がある為、授業は午前で終わりだ。<br /> 準備に多少の苦労はあったものの、杜花などの機転のお陰で恙無く進むだろう。展覧の順番や細かい事については、全て職員会議に提出して段取りも決めてあるので、アリスの役目は終わっている。<br /> それは良い。問題はこれから小庭園を探索する予定がある事だ。<br /> 早紀絵の言葉を信じるならば、市子はそれを邪魔しないという。<br /> だがどうだろうか。昨日の二子が気掛かりだ。本当に上手く行くだろうか。<br /> あれほどまでに自己の復活を願い、それを成し遂げてしまった人物が、全てを破綻させるようなものを、残しているのか。<br /> 残していたとしても、既に取り除かれた後ではないのか。<br /> 市子が自分の決めた事を曲げるような人物でない事は、アリスが一番知っている。<br /> しかし、ことは人の生死、いや、存在の消滅に関わる事だ。もし市子に虚言が無くとも、兼谷はどうだ、二子はどうだ。<br />(幸福のおしつけ。自分が幸せだと思う事が、人の幸せにも繋がっていると、本気で思っている人がいるとすれば……)<br /> 恐らくそれは、七星一郎に他ならない。<br /> 市子や二子にその気が無かろうと、一郎の代弁者たる兼谷が本気で止めにかかれば、単なる女子高生でしかない自分達に成す術はない。<br /> きっと彼に『そんな事に何の意味があるのか』などと問うても意味はない。<br /> 彼はそれこそが皆が望んでいると思っているに違いない。<br /> 思考が、思想が、とてもではないが、一般人ではないのだから。<br />「……嫌になりますわ、ほんと」<br /> 何が嫌か。<br /> それは現状に抱える不満であるし、後ろに控えているものの大きさであるし――何よりも、二子が演じる市子が……悪いものに見えない自分が一番嫌なのだ。<br /> 杜花は否定的、であるように見える。早紀絵とて認めているとも思えない。<br /> 自分はただのデータではないと、市子は必死に訴えていた。<br /> 人間の魂の在り処など、思想家でも宗教家でもないアリスには解らない。だが、もし人の心がデータとして完全に保管可能で、その全てを再現し、肉の器に移し替えられるのならば……それは本人ではないのかと、アリスは思い悩む。<br /> そも個人とは何なのか。<br /> 肉だけならば人形だ。魂だけなら幽霊だろう。<br /> 仮初でもその二つが揃っているならば、むしろ個人である事を、否定する事が難しいのではなかろうか。<br /> そして問題は市子だけではない。肉を提供している二子にもある。<br /> 彼女は何故そこまでして市子になりたかったのか。<br /> それは本当に本人の意思なのか。<br /> 一郎が強要しているだけではないのか。<br /> 彼女達の心底を、アリスは知らない。だからこそ、頭を抱える。<br /> 失われてしまった姉の復活と、自分である事を止めてしまった妹、その二人。<br /> 神を失って失望したアリスは、狭間で揺れる。<br />(――私は、常に受け身。こんな状態でも、何をすればいいのかすら、思い浮かばない。流されてばかりで、人の言葉を真に受けて……何が正しいのかなんて、本当は解っていない)<br /> 天原アリスという生徒達の理想像は、仮初のものでしかない。<br /> 切迫すれば思い悩み、危機に瀕すれば何もできない、そこらじゅうにいる弱い人間と同じである。常に強い人間はいないだろうが、アリスは己を偽る事に対して不快感を覚えている。<br /> 正論だけで動く人間はおらず、正しい行いが全てを正しくするなんて理想論は持っていない。だが、どうしてもそのような行いが、不愉快であり、不安なのだ。<br /> 結局、天原アリスがどれだけ薄っぺらい人間なのか、自覚して憂鬱になる。<br /> 市子が居た頃、そんな不安は一切なかった。<br /> 彼女が後ろ盾しているという安心感からである。<br /> 嫌な人間で、弱い人間だ。<br /> 勿論、勿論、解っている。<br /> 人間は誰かに付き従い、後ろ盾を得て生きている。そんな一般的なもの、普遍的な事実だとしても、アリスは許せなかった。<br /> 何が上に立つ人間か。<br /> 何が愛しい人か。<br /> たった一人も救えず、たった一人の死を引きずり、たった一人愛するだけでは足りない、業突く張りな自分が、ほとほと嫌になる。<br />(……)<br /> 顔を両手で叩き。目を瞑る。<br /> 何も思いつかない。思考は巡るばかりだ。<br /> 明確な答えなど、きっと何処にも無い。<br /> 何処にも無いからこそ、今はその隠された最後の『何か』に縋る他ない。<br /> 早紀絵は最終手段と言っていた。それがどんなものなのか、明確に把握しているのは市子だけだという。<br /> 市子を消してしまうものなのか。それとも、この改竄機構を破壊するものなのか。<br /> だとしても……そのあと、どうなる?<br /> アリスは杜花程強靭ではない。早紀絵程楽観的でもない。ただただ、不安だけがある。<br /> ――御手洗いを出て、中央広場に向かう。<br /> 外に出ると、既に閲覧順番が回って来た高等部の姿が見受けられた。<br /> 昨晩降った雪は、警備隊協力の下に道路側は退けてある。広場から八方向に延びる通りの両脇には、小等部の生徒達が作った雪像が等間隔に並んでいた。<br /> 芸術品の模造、仏像、ぬいぐるみ、人気キャラクター、統一感は無いものの、皆で一生懸命御姉様達に見て貰おうと造りました、という生真面目な雰囲気が伝わってくる。<br />「杜花様、早紀絵」<br />「あら、どこいってたの、アリス」<br />「少し御手洗いに。寒いですわね」<br />「中央広場にして良かったですね。直ぐ暖をとれます」<br /> 二人をチラチラと見る。市子……二子の姿は見受けられない。寮でも見かけたし、午前は一緒に授業を受けていた筈だ。会話は無かったが、彼女は市子を演じたまま、何食わぬ顔で居た。<br /> 何処に行ったのか。<br />「杜花様、市子……御姉様は」<br />「放課後から姿が観えません。警戒して然るべきですが、手が足らない。対策して行きたい所なのですけれど……私は兼谷の監視で手いっぱいですね」<br /> 今のタイミング、小庭園へ行って探し物をするには丁度良いのだが、雪中展示会後には大講堂で上級生と下級生の交流会がある。<br /> 大注目である欅澤杜花、天原アリスが居ない交流会ともなれば味気ない事この上ない。<br />「二人とも、この後ですけれど、手筈通りに」<br />「ういうい。しかし交流会に私達が居ないのは、ちょっと不味いなあ。てか、下級生達の目当てなんて間違いなく市子に杜花にアリス、それに居友とか槐な訳だし」<br /> 本来なら、もう少し日取りを考えたい所だ。だが、あまり時間は開けていられない。<br /> 普段の放課後や休日となると、市子はまだしも兼谷が動いていて、大変面倒である。<br /> 今日は兼谷も雪中展示会の警備にあてられており、しかも此方の働きかけにより、杜花の目の届く場所に配置してある。兼谷は自由には動けないのだ。<br /> 故に今日が最適なのだが、交流会は念頭に置かねばならない。<br />「じゃあ、モリカ、お願いね」<br />「貴女達を泥まみれにするのも気が引けますが、仕方ない。アリスも、お願いします」<br />「ええ」<br />「監視カメラには気をつけて。気休めですが。区切りがついたら、私も行きます。では」<br /> 三人が頷きあい、杜花が後輩たちの下へと歩いて行く。<br /> アリスと早紀絵はそれを確認してから、中央広場を抜けて躑躅の道を通り、寮の裏手にまで足を運ぶ。<br /> 物置からスコップやシャベルを引っ張り出し、肩に担いで寮の裏を抜けて行く。<br /> 雪かきされていない林の中は兎に角歩き辛いが、そんな事も言っていられない。<br />「アリス、顔色悪いね」<br />「喋ってしまいましたの。彼女に」<br />「……ま、想定内だよ。そう気を病む事ないさ。アイツラ、頭の中覗くし、むしろバレないと思っている方が警戒心無さ過ぎるからねえ」<br />「ごめんなさい」<br />「やめてよ。そんな辛そうな顔、私見たくない」<br /> 早紀絵が溜息を吐き、疲れたように笑う。<br /> 同じなのだ。<br /> 自分の認識外の常識が跋扈する中を生活しなければならないという不自然さを、真っ当な理性で乗り切れる訳がない。自分達の置かれた状況の一つも理解出来ないのだ、疲れるのも当然である。<br /> 死んだ人間が生き返り、生きていた人間が別の物になってしまうという不可解さ。<br /> 死んだ人間を皆が生きていると認識し、当たり前のように過ごす不愉快さ。<br /> 忘れていれば良いのに、思い出してしまったその不遇。<br /> 自分が馬鹿ならば良かったと、そう思う事がある。<br />「市子、何隠したんだろうね」<br />「神社で、二子さんも言っていましたわね。姉様は本能と理性を隠したと。そして、支倉さん曰く、これが理性と」<br />「……一度死んでさ、それが不愉快だったら自分達でどうにかしてって。酷い話だよ」<br />「解ってやっていますのよ。私達では、何も出来ないって」<br />「……アリス?」<br /> 市子は、文字通り人の心を読む。<br /> 杜花やアリスがどれだけ市子に心酔していたのかは、彼女が一番理解していた事だろう。<br /> 本物が復活し、それに不快感を覚えたら自分達で始末をつけてくれなどと言うのならば、きっと自信があったに違いない。<br />『自分達の妹がそんな事をする訳がない』と。<br /> 杜花はどうか解らないが、アリスに関しては、その通りである。<br /> 本当に、現状をブチ壊してしまえる程の物を手に入れられたとして、それを自ら使用可能であるかと問われれば、絶対に無理なのだ。<br /> 死んだ人間を二度も殺せない。<br /> まして、それは市子なのだから。<br />「アリス。ダメだよ。市子はもう死んだ。あれは、データだよ」<br />「人間って、なんですの?」<br />「難しい話は苦手だなあ」<br />「少し、考えましたのよ。もし、貴女や杜花様が亡くなってしまった、死んでしまうかもしれない状況に陥ったら、どうしようかと」<br />「ふぅん……どうするの」<br />「もし、私が七星程の資産、技術、権力があったのならば……やっぱり、いかなる形でも、生かそうと思うでしょう。サイバネティクスでも、幹細胞医療でも、とにかくあらゆるものを集結させて、貴女達を救おうと、考える」<br />「それじゃあ七星一郎だよ」<br />「だから、少しだけ彼の気持ちが解りましたの。最愛の娘を失くして、正気でいられるかと。まして、それが引き金で妻すら失くしている。常人ならば神経衰弱して当然。でも、彼は逆だった。どうしても、娘たちを蘇らせたかった。そして娘もそれを望んだら……与えるでしょう、きっと。例えそれが『人間』と呼べるか否かは別にしても『娘』である事には違いないと。そう決めつける」<br />「妄執だよ。当たり前の人間のやる事じゃないよ。アリス、毒されすぎ」<br />「解ってますわよ」<br /> 怒気を孕む声をあげてしまい、ハッとする。<br /> 早紀絵を見ると、彼女は怒るどころか、悲しそうな顔をしていた。<br /> 今更、これぐらいでどうにかなる関係性ではないのだ。杜花やアリスの悲しみを理解しているからこそ、早紀絵は自分達を受け入れてくれる。<br />「ごめんなさい」<br />「アリスは悲しい。モリカも悲しい。じゃあ、終わらせないと」<br /> 旧サナトリウム、現白萩の裏を抜け、小路を進み、やがて見晴らしの良い場所に出る。<br /> しかし、どうも、何か……いや、明らかに、おかしい。<br /> 今は冬だ。<br />「――何、これ」<br /> 一歩踏み込む。小庭園はそこにあった。<br /> 早紀絵にも、アリスにも、それは見慣れた光景である。<br /> だからこそおかしいのだ。<br /> 何故ここには春の陽気が漂っているのか。<br /> 雪などひとかけらも見当たらない。<br /> 青い芝生が茂り、左右の花壇には春の花が咲き誇っている。<br /> 中央にはガゼボ、周囲は茨の蔦に囲われている。<br /> 記憶と寸分たがわぬ楽園がそこに存在するのだ。<br />「まずい、なんか不味い。ああ、こりゃ、アリス、下がって」<br />「……最初から、ここは、ただの小庭園なんかじゃ、なかったんですわね」<br /> 踏み込む。今になって引き下がれない。<br />「ああもう。しかし宝ってな。アテもなく掘り返すのもおっかないよ、ココ」<br />「早紀絵、学院の地図はあるかしら」<br />「あるけど……」<br /> そういって、早紀絵がプリント用紙を差し出す。<br /> 確認しても、小庭園の存在は書かれていない。元からここは秘密の場所という扱いであった。自分達が意識してここに来たのは、必ず市子を伴うものであった。<br /> 意識しないように作られていたのだろうか。いや、市子の死後も訪れた事がある。<br /> そうだ、杜花にキスを強請ったのも、ここだ。<br /> そもそも、何故『こう見える』のか。<br /> 能力が固定化されている場所、と捉えた方が良いのかもしれない。<br /> 最初から『存在した』のは間違いない。<br /> そしてもしかすれば、この空間を作りあげているものは、市子の力に寄らないものなのかもしれない。<br /> チリチリと、記憶がチラついては消えて行く。<br />『庭園の君』とは、自分だ。<br /> 一番最初に、市子に出会った場所は――この小庭園である。<br /> いや……何時だ。<br /> いつ出会った?<br /> 撫子が……違う。<br /> 市子が……。<br /> 撫子と出会ったのも――ここではなかったか。<br /> <br />『市子だけじゃありません。貴女達自身すら、疑った方が良い』<br /><br /> 天原アリスには、姉が二人いる。両方とも、妾の子で、養子だ。<br /><br />『過去を再現する為に用意された貴女達は、本当に『オリジン』ですか?』<br /><br /> 夫妻は不妊がちであった。先進細胞医術の恩恵を受け、漸く恵まれた正妻の子がアリスである。<br /><br />『過去、七星系列の病院で検査を受けた事は? 手術をした事は? そもそも生まれる前、貴女のご両親は本当に貴女の親ですか? DNA検査は? 脳にチップは有りませんか? 遺伝子改造の痕跡は?』<br /><br /> 自分が産まれた病院は……本家は東京にあると言うのに、何故か、観神山の医療センターだ。<br /> そうだ、常々疑問だったではないか。<br /> 何故こんな僻地の病院で産まれたのかと。<br /> 最新医療が揃っている?<br /> だったら、何もここで無くとも、東京の大きな大学病院にでも、行けばいいのだ。<br /> ここの病院は?<br /> そうだ。当然、そう、当然の如く、七星である。<br /><br />「……早紀絵、貴女、どこの病院で、産まれましたの?」<br />「え? ああ、私観神山なんだよね。だからなんか、ここには縁があるのかな」<br />「杜花様は」<br />「そりゃ観神山だよ。医療センター」<br /> 嗚呼と、頭を抱える。<br /> 自分達の経歴どころか、産まれる前から既に、自分達は用意されていたのだ。<br />「早紀絵、ガゼボの裏、きっと何かありますわ」<br />「モリカが言ってたの、ほんとかね」<br />「隠すとしたら、そこしかありませんもの」<br /> 二人で慎重にガゼボの裏を確かめる。<br /> しゃがみ込み、草をかき分けると、そこにはガゼボの壁に、何かが彫り込まれている。<br /> ……。<br /> そうだあの時。<br /> ……。<br />「何か、彫ってあるね。……『四人の永遠を誓って』あ、ちょ、アリス?」<br /> アリスは躊躇い無く、シャベルを土に差し込み、ひっくり返す。二、三度掘り返すと、やがて固いものに当たった。<br /> 土を退けてそれを外に出すと、両掌で持ち上げられる程度の箱が見つかる。<br />「おおおお、本当にあった」<br />「撫子御姉様と、花さんと、きさらさんと、私で……こんなイタズラをしたと、思い出して……」<br />「な、おいおい、アリス?」<br />「ごめんなさい、なんだか記憶が、混線してますわ」<br /> 密閉性の高い箱を開けると、中から装飾の付いた小箱が出て来る。そこには、しっかりと南京錠で鍵がかけられていた。<br />「何故、所有者の『櫟の君』が、わざわざ鍵に『櫟の君』って、書いたんだろ」<br />「彫り込んだの、恐らく市子御姉様ですわ」<br />「……ああ、ヒント用か。幻華庭園に、辿り着くように」<br /> 早紀絵に目配せすると、彼女は懐から、櫟の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。<br /> 音も無く、鍵は外れた。<br /> 一度だけ目を瞑り、息を飲み、ゆっくりと開く。<br />「……手紙だ。それに、これは……三人分の……指輪?」<br />「――撫子……市子――」<br /> 記憶が混線する。<br /> 本来知りえない彼女達の悲劇に、心臓を鷲掴みにされ、息苦しくなる。<br /> 早紀絵は何も言わず、アリスの背中をさすった。<br /> 封筒から手紙を取り出す。そこには三人宛の、市子からのメッセージが残されていた。<br /><br />『これを見つけて、開けてしまったという事は、貴女達が私の存在を認めてくれなかったのでしょう。七星が開発した技術は、間違いなく完璧です。私のデータは私本人と寸分たがわないものです。人間は情報の塊であると、お父様は言っていました。私もそれを信じていました。例え死ぬような目に逢おうと、私は何度でも蘇る事が出来ると、そう教えてもくれました。恐らくここに至るまで、貴女達は私の記録媒体を探しあてたかもしれません。妹とは仲良くしてくれていますか。仲良くなったからこそ、私の存在を認められなくなってしまったのでしょうか。私は最低最悪な人間です。即座の復帰は無理という判断が下り、私は焦りました。私が居ない間、貴女達が杜花を取りあげてしまうのではないかと、必死だったのです。押し迫る自殺衝動を抑えて、今私はこの文を認めています。私は、貴女達に仲違いして貰いたかった。幻華庭園も、撫子達も、皆宝探しで失敗していましたね。そうなれば良いと願っていました。杜花を、貴女達にあげたくなかった』<br /><br /> 自分が死んでしまうという自覚。<br /> 復活できると解っていても、居ない間に杜花を取られてしまうのではないかという、焦り。<br /> 過去を倣い、自分が居ない間に一番仲違い出来そうな方法を模索した、その結果。<br /><br />『けれど、今、この箱の中に入っている古い手紙と、指輪を見て、酷く後悔しています』<br /><br /> 早紀絵が中から、もうひとつの手紙、つまり撫子が残したものを拾い上げ、読みあげる。<br /> 内容は簡素なもので、つまるところ『四人で幸せになりましょう』というものであった。<br /> アリスが眉間を摘まんでから、市子の手紙の続きを読む。<br /><br />『しかしもう、シナリオは作ってしまいました。配置も終え、助言者も決めました。父とも相談しました。そして妹を差し向けるよう、手配してあります。態よく貴女達の関係を壊してくれる事でしょう。妹は、恐らくオリジンで特別製の二子。それで都合がつかない場合、撫子のクローン。御子か、夜津子、五花、立花、七葉、八穂、九重、藤子。さて、誰でしょうか。私は、私が沢山います。彼女達は、いつでも私に成り替わってくれる。皆が皆、同じ顔、似たような考え、利根河撫子になる為に産まれて来た子達です』<br /><br /> 七星一郎の妄執によって生まれた姉妹達。その筆頭は、この手紙を書き終えたあと死ぬ運命にある。姉妹達はどこまで知り、どこまで本気にして、どこまで実行する気で居たのか。<br /> アリスも早紀絵も、知りたいとも思わない話であった。<br /> それではまるで、残機制のゲームではないか。<br /> 人間の価値というものが、彼にとってどのような位置にあるのかなど、考えるだけで頭痛がする。<br /><br />『私は、死にたくなんかない。七星市子は、七星市子として産まれて、七星市子として死にたい。貴女達に、杜花を取られたくない。とられたくなかった。けれど、貴女達が嫌いなんてことは、ありません。私がもっと広い心を持っていれば、貴女達に恨みを買う事も、無かったでしょうに。私は酷い人間です。どうしても、どうしても認められないと言うのならば、以下のコードを、私の前で読みあげてください。そうすれば、私のメインデータ及びバックアップ接続しているサーバの全てがデリートされます。アリス、早紀絵。迷惑を掛けました。こんな茶番に付き合ってもらって、ごめんなさい』<br /><br /> 読み終え、アリスは手紙を握り締める。<br /> その顔は、怒りとも悲しみともつかない、虚しいものであった。<br />「……で、ない……」<br />「アリス……?」<br />「できる、わけない。出来る訳ないじゃありませんの! こんな、こんなのずるい! わた、私達の手で、死んでしまった彼女を、また殺せっていうんですの!? そんな、そんなの無茶ですわ! 市子御姉様を殺せなんて、そんなの、出来ませんわよ!!」<br /> 解っていた事だ。<br /> 最終手段と言うのだから、そのぐらい当然である。<br /> しかし、いざ現実として突きつけられて、冷静で居られるほど、アリスは強い人間ではないのだ。誉を合わせて三度も、三度も同じ人間の死に付き合わねばならないなど、冗談も極まる。<br /> 市子は本気なのだ。<br /> 市子は本気で、死ぬ気などなかった。<br /> こんな事、出来る訳が無いのだ。尊敬する人の御真影を踏めない。拝む神を踏めない。<br /> 自分で仕立て上げ、自分で後悔し、それら全てを他人に任せるなど、無茶苦茶だ。<br />「じ、自分で、そんなもの、自分で決着付けろってんです! 幻滅も良いところ、不愉快極まりますわよ!」<br />「アリス、落ち着いてよ」<br />「いやだ、こんなのいやですわ。私もう、見たくない。見たくない。違う、私の御姉様は、こんな気狂いじゃない。性悪じゃない。優しくて、美しくて、誰からも尊敬されて、常に心の底から、輝いている人ですもの。違う違う違う違う違うッ!!」<br />「アリス、落ち着いてってばッ」<br /> 頭を掻きむしるアリスを、早紀絵が後ろから抱きとめる。<br /> もう、何でもいい。<br /> どうでもいい。<br /> このまま気にしない振りをして、幸せにしていればそれが一番の幸福だ。<br /> 七星一郎はまさしく正答を得ていたのだ。それが、この仕組まれた自分達に最適化された幸福であると、彼は理解していたのだ。<br /> だったら何も掻き回す必要はない。<br /> 今、二子の中にいる市子は、自分達も許容している。四人で幸せになろうと言ってくれている。それは自分達が積み重ねた結果だ。<br /> 杜花と、アリスと、早紀絵が、どうにかその関係性を新しく築き上げようと考えた結果を、彼女は汲み取ってくれている。<br /> ……。<br /> ならば甘受すべきだ。<br /> 何を否定する。<br /> そんな意味がどこにある。<br /> 無い。<br /> 無いのだ。<br /> 何一つない。<br /> 悲しみしか生まない。<br />「早紀絵、もう良いじゃありませんの。許容しましょう。彼女の肉が二子だとしても、意識は間違いなく、市子御姉様ですわ。だったら、その通り私達が振る舞って、幸せになれば良いんですのよ」<br />「違うよ、そんなの」<br />「何が違いますのよ」<br />「造られて、埋め込まれた記憶なんて、ロボットと変わらないじゃない。生体アンドロイドと何一つ変わらないよ。AIが幾ら進化したって、AIはAIなんだ。それは本人じゃない。記憶は、魂なんかじゃない」<br />「だったら、それで良いですわ。何も、自分から不幸に突っ込む必要なんてない。代替えだって構わない。私は――私は、貴女達と、幸せになりたいだけなのに」<br /> 早紀絵に支えられ、ガゼボの中に入り、腰を下ろす。<br /> 頭を抱えるしかない。<br /> まさか本当に何もかも壊してくださいと、そんな事を強要されて、する奴がいるだろうか。<br /> アリスにはとても不可能だ。<br />「私は、私だよ。色々都合つけてみたけどさ、私もたぶん、弄られてる。アリスも、杜花もだ。でもさ、私はきさらなんかじゃない。貴女も誉じゃあない。杜花も、花婆ちゃんじゃない。自分は自分だよ」<br />「貴女、知ってて……」<br />「二子も、市子じゃあないんだ。二子なんだよ。性格悪いけどさ、あいつ、火乃子になんて言ったか知ってるかい? 今が幸せなんだって。京都の座敷に詰め込まれてたのが、まるで悪夢みたいに思える今が幸せなんだって。だから、アイツは勘違いしてるんだよ。アイツは、人との接し方をまるで知らないし、自分ってものをまだ持っていなかったのかもしれない。市子にならなくたって、認めて貰えるって事、知らないんだ」<br />「御姉様の代替えは、幾つもいるそうですわね。じゃあ、縁もゆかりもない、そちらにお任せしましょ。ええ、それが良い。それなら、罪悪感も少ない」<br />「メイ曰く、ダメだそうだよ。二子しか適合しなかったってさ。百人近い姉妹の中、二子だけ」<br />「そん、な。どうして」<br />「私は開発者じゃない。アリス、ダメだよ。見失っちゃだめだ。市子は死んだ。人は、蘇るようにはなっちゃいないよ。例えそれに近い事が出来たとしても、人間を蹂躙して死者を生き返らせるなんて、私は倫理観とか、そんなものを語ってる訳じゃない。でもダメだよ。人殺して、人蘇らせるなんて、旧世代の魔術やら呪術だ。現代で、人がそう簡単に蹂躙されちゃダメなんだよ」<br />「貴女は……なんで、そこまで、否定しますの?」<br />「そんなの、決まってるでしょ。市子に、モリカもアリスも、とられたくないからだよ。アリスがやらないなら、じゃあ、いい。私が、アイツに引導を渡す」<br /> 早紀絵が、アリスから手紙をひったくるようにする。<br /> こんな世界は懲り懲りだと、言わんばかりだ。<br /> 今、何か、早紀絵にとんでもない裏切りを受けたような、暗い気持ちが湧きあがる。<br />「あ、ああ」<br />「アリス。私が幸せにする。死んだ人間に――貴女達をわたさ……」<br /> ないと、言い切る前に、早紀絵の口が止まる。<br /> 彼女は庭園の入り口を見ていた。<br /> 視線を向ければ、そこには彼女がいる。<br /><br />「『それじゃ困るわ。そう、とんでもないもの、残してたのね。私』」<br /><br />「二子……タイミング悪いね……あ、アリス?」<br /> 引き止める早紀絵の手がするりとアリスから離れてしまう。<br /> それを解っていたように、黒髪を靡かせた『市子』が手を伸ばし、アリスを迎えた。<br /> 柔和な笑みが怪しく誘う。<br /> まるで誘蛾灯に誘われる虫の如く、アリスはフラフラとそちらに近づいて行く。<br />「『あーりす。遊びましょう。今日は、何をしましょうか?』」<br />「アリス、だめ、そっちにいっちゃだめ、ダメだよ、アリス、アリス!!」<br />「『杜花はいないの? じゃあ二人で遊びましょう。貴女は、甘えるのが、大好きだものね、今日は私を独り占め出来てしまうわ』」<br />「アリス! 市子はもう死んだんだよ! そいつは二子だ! アリス、見えないの!?」<br />「『ずっとずっと一緒にいましょう。私に任せてくれれば良いわ。アリスは本当は弱い子だもの。私が守ってあげる。私が幸せにしてあげる。アリスは将来何になりたい? 私が全部叶えてあげる。私は貴女達の願望を叶える人間でありたいの。愛しい妹達の全ての願いをかなえる存在でありたいの。杜花も、そう、早紀絵だって一緒よ』」<br /> ……。<br /> じりじりと、じりじりと、脳が熱くなる。<br /> 熱を帯び、意識が混濁して行くのが解った。<br /> 過去と、現在と、未来の記憶が記録が予測が、雪崩の如く押し寄せて来る。<br /> 幸せでありたかった。<br /> 幸せになれると思っていた。<br /> 何の憂いも無く、障害も無く、幸福のまま生きて行けると信じていた。<br /> 彼女がいれば。<br /><br /> 市子が――撫子が居れば――アリスは――誉は――杜花は――花は――早紀絵は――きさらは――。<br /><br />「『思いだしているのね。解るわ。私もそうだった。彼女達の再現が組みこまれた貴女達だもの。そしてこの学院で蒐集されつくしたデータに情報に、更には思念なんて手に取れないものすら許容させられてしまった貴女だもの。私は市子であり撫子。貴女はアリスであり誉。杜花は花であるし、早紀絵もきさらよ。全部全部、彼女達を、私達を幸福にする為に用意されたものなのだから。希望なんて幾らでもあるわ。何度でも繰り返せるわ。ただ、もうこれを最後にしましょう。だって、準備が大変ですもの、うふふっ』」<br />「御姉様……会いたかった」<br />「『うん。これからは、ずっと一緒よ。アリス。私の可愛い妹なのだから』」<br />「アリス!!」<br /> 彼女の柔らかい身体に抱かれると同時に、意識が暗転する。<br /> 信じられない程の憎悪と、嫌悪と、それを超越する安心感が、アリスを包み込んだ。<br /><br /><br /><br /><br /> ※、欅澤杜花<br /><br /><br /><br /> 走る。走る。<br /> 嫌な予感だけがあった。<br /> 生徒達との交流会に参加していた杜花だったが、御手洗いを理由に抜けて来た。先ほどから二子の姿がまるで見当たらない。しかも、兼谷は何時の間にか視界から消えていた。<br /> 此方は全部掌握されていたのだろう。<br /> 別に心など読まなくても、学院の監視システムを掌握していれば人間の行動監視など簡単だ。そして恐らく、杜花も何時の間にか兼谷か二子の感応干渉の影響下にあったと考えられる。<br /> ではどうする。<br /> どのタイミングが良かった?<br /> 休日など以ての外、放課後などなおさら無理だ。<br /> どれも同じだと頭を振る。一番好都合に見えたのがこのタイミングしかなかったのだ。<br /> 警戒はしていた。<br /> リスクもあった。<br /> しかし、杜花は自身を過信していたと言える。それこそ、兼谷を捕まえて縛り上げた方が良かっただろう。確率は上がった筈だ。<br />(なんて馬鹿なんでしょうね、私は――ッ)<br /> 不味い。酷い危機感が杜花の第六感を刺激する。<br /> 中央広場通路を駆け抜け、躑躅の道を思い切り横断し、そのまま雪の積もる林を突っ切って行く。普通ならば雪に足を取られてそれどころではないが、杜花においてはそれも問題がない。<br /> およそ五分だろうか。<br /> 目的の場所に辿り着いた時、もう既に何もかもが遅かった。<br />「二子ッ」<br /> 小庭園ヴィジョン。季節感がずれている。<br /> 市子はこれは据え付けられたシステム、いや、宿らせた能力の残滓と言っていた。そして市子のものでもないと話していたと記憶する。<br /> ここは心象の庭園だ。<br /> 七星市子が一番大事にした場所である。<br /> ここで契りを交わし、ここで市子との全てを始めたのだ。<br /> 全ての欲しい物が揃った場所。<br /> 自分達の想い描く『少女の園』の再現映像。永遠に失われない心象の表現である。<br /> 見る人間によって多少の差異はあるが、見る人間全てに幸福を授ける場所だ。<br />「『懐かしいわね、杜花。ここで姉妹を契ったのよね。アリスもそう。早紀絵は特別だったわ。貴女達にはここを見せてあげられる。幻の庭園。私が作ったものではないのよ。撫子が残したもの。最初は知らなかったけれど、そうよね、私だって仕組まれているのだから』」<br />「黙れ。喋るな。私にはもう、貴女が市子には、見えないのだから」<br />「『そう。ま、大した問題でもないのよ。本当なら、こんな事せず貴女に欲して貰いたかったのだけれど、仕方が無いわね』」<br /> 言い切った瞬間、猛烈な情報量が脳味噌に直接流れ込んでくる。<br /> その全てが市子の記憶だ。<br /> 市子がどれほど杜花を愛していたか。<br /> 告白が叶った後も恋していたか。<br /> 誰にも渡したくなかったか。<br /> どれだけ幸せを願っていたか。<br /> どれだけ死にたくなかったか。<br /> どれだけ杜花しか見ていなかったか。<br /> 杜花の脳内にある記憶とのすり合わせが急速に行われ、膨大な処理量に脳が発熱する。<br />「『ごめんね。ずっと貴女の頭は読めないなんて言っていたけれどね、全部知っていたわ。だって、怖かったんですもの。貴女が他の子に浮気するんじゃないか、他の子とキスしてるんじゃないか。私、心配で心配で心配で心配で、心配で仕方が無かったの。だからもう、ずっとよ、ずっと貴女の頭の中身を覗いて来た。でもね、貴女は本当に私しか見ていなかった。ああ、こんな相思相愛があるかしら。杜花、杜花杜花杜花、大好き、愛しているわ。貴女の願いなら何でも叶えられる。貴女無しでは生きていけない。好き、大好き、杜花、胸が熱くって仕方が無いの。私を愛して、市子を愛して、杜花。いい、何をしても良い。また、いつかのように私を蹂躙して。貴女の物にして。無茶苦茶にして。愛してる。愛してる愛している愛してる、杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花杜花――』」<br />「――ぐっ……ぎ……くっ……私の、望み?」<br />「『ええ、そうよ。貴女の望み。言って頂戴』」<br /> 小庭園に、一歩踏み込む。<br /> 自分の望みとは何か。<br /> 終わりの無い幸せだ。<br /> 市子が居て、アリスが居て、早紀絵が居る、誰にも邪魔されない楽園が欲しい。<br /> そしてそれは与えられていた。二週間も気づかず暮らしていた。<br /> それだけ、杜花の頭が日和っていたのだろう。<br /> 心労に次ぐ心労、市子の残した性悪な仕掛けに、二子の面倒なワガママ。<br /> それら全てが、最初から全部用意されていて、絶対に手を出せないような奴が後ろにいたという事実。<br /> 具合が悪くて仕方が無い。<br /> 不愉快で頭に来る。<br /> 違う。<br /> そんなものは違う。<br /> 市子は死んでしまったのだ。<br /><br />『どうだろうか。記憶とは魂そのものだ。君の心に彼女の記憶があれば、それは生きている事になるのかもしれない。ただそれでも、手にとれる人間としての形を得たものを欲したのならば、その限りではないだろう』<br /><br /> 葬儀の後、一郎が話した言葉が脳内をリフレインする。<br /> そういう事か、七星一郎。<br /> 杜花が記憶だけでは生きていけないと。肉を欲する愚か者であると、そう思ったからこそ用意した代替えか。<br /> それがお前の善意なのだなと、杜花は吐き捨てる。<br /> 唾棄すべき狂気の発想に、まともではない杜花すら、嫌悪を覚える。<br /> 死んだ人間を科学によって蘇らせる事について、杜花は何ら否定感もない。それで幸福だと思える人がいるのならば、別に幾らでもすればよい。<br /> だが復活する人間の人選が問題だ。<br /> よりにもよって、杜花にとりて唯一無二と思ってやまない、愛すべき、虐げるべき、尊敬するべき神のようなものを、再現させようなどと、冗談ではない。<br /> あれは最初から唯一無二だ。<br /> 撫子などという人間は知らない。<br /> 杜花にとって市子はただ一人なのだ。<br />「なら。なら、死んで、市子。もう二度と、私の前に現れないで」<br />「『な――常識を疑う精神力ね。辛いでしょ。諦めなさい、杜花。それだけで貴女は幸せになれるのに』」<br />「幸せを、勝手に決めないでください。そんなもの、自分で決める。貧者が欲するものが、お金だけだと思いますか。愚者が欲するものが、欲望だけだと思いますか。止めて。そんな、頭の悪い発想。そんな無茶苦茶やって、私達を混乱させて、貴女は幸せなんですか」<br />「『違う。貴女達が願ったものだもの。そして、貴女の祖母も、彼女達に組み込まれた遺伝子が欲したものだもの。それが幸福でないと言うのならば、では何が幸せなの。そんなの、おかしい』」<br />「……不出来ですね。市子を再現しきれていない。下手糞です、二子」<br />「『酷い言い方。再現、じゃない。私は、七星市子、そのものよ、杜花』」<br /> 感応干渉に精神力だけで抗い、視線を巡らせる。<br /> ガゼボの奥には、アリスと早紀絵が横たわっている。<br /> その横には何か、箱だろうか。恐らく、手段は手に入れたのだろう。しかし二人が倒れている今、このままでは打破出来ない。<br /> 杜花は覚悟を決め、一歩、また一歩と足を進める。<br />「『く、なんで、力が弱まるの。姉様、私に干渉してるの?』」<br />「二子、独り言ですか?」<br />「『ちが、違う。私は市子よ。七星市子。私は、七星市子になる為に産まれて来た。七星市子を再現出来るのは、私だけなのだから。私は、姉様が好きだったから。私は、姉様の願いを叶えたかったから。姉様に蘇って貰いたい。姉様を幸せに――違う、違う違うッ』」<br /> 五歩、六歩、七歩。<br /> 足は順調に『二子』に近づく。距離にして三メートル。<br /> 杜花からすれば、一瞬で拳を叩きこめる距離だ。<br /> だが、どうだ。<br /> 握り締めた拳を見る。力を込めた足を見る。<br /> そのどれもが、動こうとはしない。眼の前のものを、殴り飛ばしてはならないと警告している。<br /> 二子の細い首だ。本気の杜花にかかれば、頸椎など一撃である。<br /> それはつまり、彼女を殺害するという意味だ。<br /> やるとすれば、恐らく手加減は出来ない。<br />「あ、も」<br />「――……?」<br />「もりか。ごめん、もりか。私、取り返しが、付かない事……こんな、つもりじゃ……『どうして、姉様まで。どうして。ああ、もう――兼谷ッ!!』」<br />「御前に」<br />「なっ」<br /> 彼女はどこからやって来たのか、視界の端からゆっくり歩くように現れた兼谷が、杜花と二子の間に割って入る。<br /> その姿はいつものメイド服ではない。<br /> 髪を上に結い上げており、黒いスーツ姿だ。<br /> 関節部に重作業用強化パーツがはめられている。あれは関節が弱った老人用に開発されたと聞いていたが、この場合、恐らく軍事用、つまるところ、拳一つで人間を致死に至らしめる重圧が産まれる装備である。<br /> 彼女が本気になれば、杜花もただでは済まない。<br />「『どうして。杜花、全然効かない』」<br />「貴女の所為です。市子お嬢様。貴女が彼女に能力を使い続けたから、耐性が出来ているんでしょう。もしくは欅澤杜花自身のESPか……さて、一度引きましょう。二人はともかく、杜花お嬢様は厳しい」<br />「待って下さい。一つ、聞きたい事がある」<br />「……どうぞ? お答えしますよ『欅澤花』さん」<br />「いつ、弄ったんです」<br />「産まれる前と産まれた後に。満足いただける答えでしたか」<br />「踏ん切りが付きました。私はやっぱり、空っぽだった」<br />「――左様ですか。お互い整理する部分もあるでしょう。交渉するというのならば受けます。整理がついたら、いつでも旧校舎二階にどうぞ。手厚くお迎えします、杜花お嬢様」<br />「貴女は何故、そこまでするんです」<br />「――私はメイドです。七星に幸福をもたらす為に居る、メイド筆頭の、兼谷恵(けい)です」<br /> そういって、兼谷は懐から拳銃を取り出す。<br /> 杜花は目を見開き、自分の意識を周囲に広げ、兼谷を射程に捉える。<br /> 殺意さえ読めれば、杜花に拳銃は無意味だ。着弾場所が解るのである。<br /> 相手が引き金を引く、その一瞬の動作に全力の集中を注ぎ込む。<br />「はい、隙あり」<br /> ……。<br /> ガツンと、頭を殴られるような衝撃があった。<br /> 物理攻撃ではない。二子と同じく、感応干渉の応用だろう。視界が一瞬ホワイトアウトする。<br />「くぅぅっ――兼谷ッッ!!」<br />「けたたましい女は、女性にも嫌われますよ、杜花お嬢様」<br /> 襲い来るか、どうするのか。全力で警戒する。しかし、幾ら経っても攻性危機を感じない。<br /> ……どれだけ時間が経ったか。<br /> 視界が戻った頃には、二人の姿が見当たらない。<br /> 辺りを見回し、危険が無い事を確認してから、杜花は早紀絵に近づく。<br />「……アリスは、連れて行かれましたね」<br />「あっ……ええと、モリカ、私――そうだ、二子、あいつ、あいつッ」<br />「落ち着いて。サキ、『宝物』は?」<br />「……ここに、ある」<br /> そういって、早紀絵は自分の下着から手紙を取り出す。いざとなっても悪あがきするだけの胆力がある早紀絵には恐れ入る。そして恐らく、早紀絵の記憶力なら全て頭に入っているだろう。<br />「焦ってたのかな。あいつら。でも、もう少し慎重にするべきだったね」<br />「無意味だったでしょう。この学院は七星の庭。私達の行動なんて、全部知られている。でも、ごめんなさい。私は、自分を過信しました」<br />「まったく、困っちゃったね」<br /> ふらつく早紀絵を立たせ、抱きしめる。<br /> ここまでしてしまっては、彼女達も後戻りが出来ない。いや、最初から戻る道など作っていないだろう。<br /> 予想外、想定外があろうと、全てを無為に出来る自信があると見える。<br /> 幸福の強要など、御免こうむる。<br />「アリスの目測通り、あれはまだ、撫子ではなさそうですね」<br />「そもそも、市子が撫子になり替わるのか、新しい人格が出来るのか、それもわかんないや」<br />「撫子のESPは、とても強いと言っていましたね」<br />「メイの言葉を信じるなら、そうだね」<br />「だからやはり、まだ、違うんですよ。それに、考えていた事があります。マザーコンプから改竄を行っているという話でしたが、ESPデータ自体、そもそも結晶にしか宿らないのでしょう」<br />「誰にでも適用出来るようにした加工品以外は、そうだろうね。市子の結晶を考えるに」<br />「二子の身体から結晶を取り除いていては、本末転倒です。マザーコンプは恐らく、増幅器でしかない。大本のESP発信者はコンプではなく、二子自身」<br />「……つまり結局、消さなきゃダメってことだあねえ」<br /> 早紀絵から箱を受け取り、中身を見る。<br /> そこには指輪が三つ。<br /> そして底には、古く黄ばんだ封筒が一つ入っていた。<br />「これは?」<br />「たぶん、撫子のものでしょ。新しい方は、私達宛の手紙。市子のデータの削除コードが載ってた。それと、私達を分断して嫌がらせしたかったって性悪な話」<br />「やきもちやきにしては、過激すぎますね。私同様、病的」<br />「ああ、自分で言っちゃったよこの子。ま、そだけどさ」<br /> 新しい手紙を置き、古い手紙を慎重に開くと、達筆で簡素な文字が綴られていた。<br /><br />『最近、私達はどうもすれ違いが多くて、要らない諍いを起こしているように思いました。私は、小さないざこざはあったとしても、貴女達とずっと幸せに生きて行けると信じています。私は、花も、誉も、きさらも大好きです。これからも、私と一緒にいてください』<br /><br /> 指輪の一つを取って輪の内側を覗くと、そこには名前が入っていた。三つにそれぞれである。<br /> それを置き、今度は新しい手紙を手に取り、内容を改める。杜花は溜息を吐いた。<br />「サキなら、どう読みますか」<br />「さて。モリカには、違って読めるの?」<br /> 間違いなく、これは市子の本音だ。ただ、二人とは、読み方が異なるだろう。<br /> 彼女の言葉を思い出す。<br /> <br />『経験と記憶よ。自分には何が必要で何が不要か、何を無視して何を気にするか。何に興味を示して、何に興味を示さないか。経験と記憶の取捨選択が人間を作るの。もし、同じ遺伝子を持った双子が居たとしても、同じ人間にはならないわ。例えばクローンだったとしても、二人のクローンが興味を示す事が違えば、違う人間になる。だから、不思議でもなんでもないわ』<br /><br /> 解っている。<br /> 知っている。<br /> 杜花は一人頷く。<br /> そして、自分のなすべき事を知る。<br />「このコードを読みあげれば、デリートされるんですよね」<br />「本当かどうか、怪しいけど」<br />「決めた事でしょう。曲げませんよ、あの人は。それに、これは都合が良い」<br />「都合が良いって?」<br />「サキ、戻りましょう。ここは春に見えますけれど、本当は冬の只中だから」<br />「そうだった。これ、感覚器まで錯覚させるんだね」<br />「御姫様、助けませんとね」<br />「モリカ、言葉に気が無い。貴女もしかして」<br />「……――」<br /> 目を瞬かせる早紀絵の唇を奪い、髪を撫でつける。<br /> 欅澤杜花は、度し難い程の愚か者だ。今更引き返せない程に、狂っている。<br /> このままの状況は許容出来ない。<br /> 市子も生かしてはおけない。<br /> 杜花は一般的に見れば狂っているが、馬鹿にはなれないのだ。<br /> アリスも悩んだ事だろう。当然だ。相手は神なのだ。そして半身なのだから。<br /> 早紀絵に肩を貸し、二人は歪んだ小庭園を後にした。<br /> 市子を殺さねばならない。<br /> 彼女は、死を望んでいる。<br /><br /><br /><br /><br /> 4、七星市子、七星二子<br /><br /><br /><br /> ……。<br /><br /> 一番最初に自らが何者であるか知る足掛かりとなったのは、禁制品倉庫に眠っていた幻華庭園であった。<br /> 読めば読む程自分に酷似する人物像、それを取り巻く人物達に、七星市子が混沌たる感情を抱く。<br /> 櫟という人物が何者なのか、作者は一体どうしてこんなものを書いたのか。<br /> 明確な学院の描写、近隣の街並み、欅澤杜花の神社、おかしな程に重なって行く状況が、七星市子を探索者に変えるには十分な説得力で迫った。<br /> 最初こそ面白半分だっただろう。<br /> だから、登場人物に準えて、彼女達を『何々の君』と分類した事もある。全て調べ上げたあと、こんな事があったのだと、杜花達とのお喋りのネタにしたって構わないと考えていた。<br /> だがどうだろうか。<br /> 調べれば調べるほどに、全ては重なってしまっていったのだ。<br /> 幻華庭園を発見してから一か月ほど経った頃だろうか。文化祭の空気も過ぎ去り、学院内はまた静かな空気に満ちていた。<br /> 大仕事を終えた生徒会は大してする事もない。総会の準備はあるが、有能なアリスが意見書も方針も取りまとめてしまっていたので、市子というと、妹達のご機嫌取りなどをして放課後を過ごす毎日だ。<br /> ある日、備品を取りに行くという事で、旧校舎に上がる機会があった。<br /> 他の生徒会委員を伴えば良かったものの、その時は一人である。御姉様という立場に胡坐をかかない市子にとって、率先作業は基本だ。<br /> 備品の在り処を探していると、突如不思議な眩暈に襲われる。<br /> 誘われるようにして教室に入れば、そこにはあり得ない光景が広がっていた。<br /> 小銃を構える男と、怯える生徒達の群れ。<br /> そして何故か自分はその最中にいるのである。<br /> 隣には、どこかアリスに似た雰囲気の少女、視界の端には、杜花と早紀絵に似た少女がいる。<br /> まさしく絶句する光景を味わい、市子は飛びだすようにして旧校舎を後にした。<br /> あれは何だったのか。<br /> どうしてあんな記憶が回想され、追体験させられるのか。市子の調査方針は、その残滓を調査する事で、とうとう深みに嵌ってしまう。<br /> 生徒会が保有する学生名簿、卒業作文、卒業アルバム、調べれば微かだが、その記憶を掠める情報がポツポツと出て来る。<br /> 自分の能力に由来する部分もあっただろう。知っていそうな人物から記憶を漁り、ありとあらゆる方面に手を伸ばした。<br /> その頃からだろうか。<br /> 七星市子が七星市子として希薄になり始めたのは。<br /> オカルト研究部の部誌はもはやトドメであった。<br /> 自分と同じような存在。自分と同じ顔、同じ能力を保有した何者か。<br /> 利根河撫子に辿り着き、絶望する。<br /> 市子は一郎に詰め寄った。<br />『お父様。私は、誰なんでしょう』<br />『ふむ。わざわざ聞くという事は、気づいたのかな。まず前提として、市子が私の最愛の娘である事には違いない。それを踏まえて、聞いて欲しい』<br /> 父の語る話は、常軌を逸していた。<br /> 自分には前妻がおり、それは自殺してしまった事。<br /> その原因が一人娘の自殺である事。<br /> 娘を蘇らせようと、七星一郎にまで上り詰めた努力と苦痛と解放。<br /> 沢山の姉妹がおり、それは皆撫子の遺伝子から培養し、代理母を経て産まれた事。<br /> 姉妹の数はおよそ120人。<br /> 全てが全て、撫子になる為に産まれて来たという事。<br /> 名前はナンバリングだった。<br /> 市子は撫子の遺伝子を引き継いではいないオリジンであるが、遺伝子的、骨格的、脳の波長、思考、行動、その諸々が最適であるとされた為、『市子』の名を授けられた事。『二子』も同様だった。<br />『私は私です、お父様。撫子なんて知らない姉妹になりたくなんかありません』<br />『でも、見てしまったんだろう。自分が今、市子なのか撫子なのか、判断出来るかね?』<br />『で、でも』<br />『そう。君は市子で良い。同様に撫子なんだ。とうとうこの日が来たのだと、僕は感慨深い。やはり、肉体なんてものは二次的なんだ。記憶こそが人間を形作る。クローンを何人も作ったけれど、オリジンの君が辿りついたのは、必然なのかもしれないね。でも、一つ懸念があるんだ』<br />『懸念、とは?』<br />『自殺衝動だよ。前例があってね。記憶が君を生かしてくれるだろうかという問題だ。彼女は既に他界した。自らの命を絶った。魂は、君の肉体生存を容認するだろうか?』<br />『……杜花も、アリスも、早紀絵も、皆、お父様が用意したのですよね』<br />『そうだよ。撫子を再現する為に。撫子を蘇らせる為に、正しい記憶の道を辿らせる為に用意した。アリス君と早紀絵君は、誉君ときさら君のご両親から遺伝子提供を受けていてね、組みこんであるんだ。杜花君は脳の伝達速度と一部記憶の擦り込みがなされている。少し想定外な程強くなったみたいだけれど。元がナチュラルな杜花君は勿論、アリス君も早紀絵君も適正がある。候補は沢山いたんだけどねえ。やっぱり、苦労した甲斐がある。人間は努力すべき生物だね、市子』<br />『……私は、耐えられない、のでしょうか』<br />『彼女達は肉体的なものでしかない。記録媒体も埋め込んでいないから、魂を集積しない。過去の残滓を感じるだろうけれどね。けれど君の場合、相当に魂が酷似してしまったんだろう。自殺衝動に悩む可能性がある。ただ、そこを通り越さないと、利根河撫子は直ぐ自殺してしまう欠陥を残す事になる。だからお父さんと一緒に乗り越えよう、市子。データの修正については早急に取り掛かるよ』<br />『お父様……』<br />『ごめんよ。全てが終わった後、君が自分を何者かと判断するかは、君次第だ。お父さんを許してくれとは言わない。お父さんはね、辛かったんだ。あのウジ虫どもに蹂躙されたまま諦めるなんて、虫唾が走る。娘を殺されたなんて、考えたくも無い。お父さんは、頑張ったよ。そして復讐は大陸で今も続いている。内患レベルの者たちは、僕の私兵で滅ぼしてやった。幾ら出てきても幾らでも叩く。もう君たちに辛い想いをさせたくない。僕の可愛い娘たちを、塵供に踏みつぶされるなんてまっぴらだ。許せないんだ。ダメな父だと罵ってくれて構わない。僕はそれだけの咎を背負った。背負う覚悟がある。戦う覚悟がある。ただこれだけは信じてくれ。決して、決して僕は、君達姉妹達を、そして杜花君達を、貶めたい訳じゃあないんだと。幸福を共有したいのだと、そう考えて、行動している事を』<br /> 七星一郎は、決して誰にも見せる事の無かった涙を流しながら、熱く語る。<br /> 世界最大級の財閥の長である七星一郎が、裏で起こした紛争、戦争の数は片手では足らない。大陸国家を分断したのすら、彼だと言われている。<br /> 彼は、娘の復讐の為だけに、世界を巻き込んだのだ。<br /> 娘である自分ですら、かける言葉が見当たらない。<br /> 七星一郎は狂っている。<br /> だが、依存せざるを得ない立場に、七星市子はいるのだ。<br /> 彼の言葉とは裏腹に、七星市子は利根河撫子へと近づいて行く。<br /> 旧校舎、生徒会活動棟、高等部校庭、中央広場東通路。<br /> 様々な場所で、市子は撫子の残滓を追体験する度に、市子としての存在が希薄になるのを感じた。<br /> 自分は死ぬ。<br /> 生きている事に耐えられない。<br /> 一郎の言う通り、日に日に自殺衝動は増していった。<br />『嫌だ……死にたくない……杜花と離れたくない……杜花を取られたくない……誰にも渡したくない……』<br /> この時、杜花に相談していれば、何かが変わっただろうか?<br /> 市子は否と思う。結局自殺しただろう。<br /> その事を話せば、杜花は確実に市子を自分の手から離すまいと、何をしでかすか解らない。本当に七星一郎を殴りに行くと言い出してもおかしくないのだ。<br /> 欅澤杜花は欅澤杜花で狂っている。<br /> 彼女はどうやっても、その価値観の最上位に市子がいるのだ。<br /> それに、ずっと一緒にいると不味い事がある。<br /> 突発的に自殺衝動が押し寄せた場合、彼女に目についてしまうからだ。<br /> 自殺した市子の姿を見た杜花が、どうなるか。想像するだけでも吐き気がする。<br /> 遠ざけなければならない。<br />『杜花。実は一週間ぐらい、忙しくって、貴女に逢えないかもしれないの』<br />『そんな。市子、それは寂しいです』<br />『ごめんね、杜花。この世で一番、愛しているわ』<br /> 一つキスをして、杜花と別れた。<br /> 自分は差し迫っている。もう何日も耐えられないだろう。<br /> そこでやっと、父から話が降りて来た。<br />『済まない。修正が間に合いそうにないんだ』<br />『……では、どうしましょう。死にましょうか。もう、毎日、耐えられない』<br />『……そうだね。死んでみるのも良い。ただ、死ぬだけではないけれど。平行して考えていた構想を話そう。君が記憶を保ったまま生き返る手段だ。兼谷とも相談してね』<br />『それは、どんなものですか、お父様』<br />『うん。まず確実に復活出来る事は保障する。結晶にもサーバにも、人格バックアップはあるからね。100%だ。だから君の命については、安心してくれて構わない。でも君の懸念はそこだけじゃない。君はたぶん、杜花君を誰にも取られたくはないだろう』<br />『そうです。そう。アリスも、早紀絵も、良い子なのだけれど、杜花を、取ってしまいそうで。じゃあ、私が元に戻るまで、留学という態を繕うのはどうでしょうか』<br />『人間は逆に、生きている方が緩いんだよ。人の死というのは、凄まじい迄に心に残る。まして、欅澤杜花君は、君に酷く依存しているだろう。そして死後もたぶん、君の死を受け入れられない。彼女を分析した結果でも、まあそうなるだろうと予測されているしね。だから、市子、君は一度死ぬ事になる。寝ている間、誰にも杜花君を取られないようにするには、インパクトが必要だ』<br />『……』<br /> 七星一郎は、楽しそうに、兼谷を伴って構想を語る。<br /> それは一つのシナリオだ。とても、これから人が死ぬのだというような雰囲気はない。<br /> 何故わざわざ結晶を隠す必要があったのか。<br /> 何故わざわざ彼女達に探させるような真似をしたのか。<br /> 確かに、宝探しをなぞらえたのは間違いない。ましてそこに、義理の妹なんてものを加えて、成功する筈がないのだから、仲違いもしそうなものである。<br /> だが、それは異様だ。<br /> 別にそんな事をしなくても良い筈だ。<br /> まして、貴重な記録媒体を学院に撒き散らすなど、真っ当な考えでは無い。<br />『……お父様、一つ』<br />『何かな、市子。面白くないかい?』<br />『――これは、誰の為にあるのですか?』<br /> 蘇った今でも、あの時の顔を忘れられない。一郎は眉を顰め、唇を片方だけ吊りあげて、さて困ったと、言わんばかりの顔をしたのだ。<br />『矛盾点が多すぎます。わざわざ、私の結晶を隠さずとも』<br />『んー。兼谷』<br />『はい。市子お嬢様の疑問はもっともです。ただこれは必要な事と判断された為にあります。市子お嬢様を取り巻く婦女子達は、実際のところ何も覚醒していない。何も見て居ません。貴女を七星市子としか認識していない。それでは困ります。なので、怪談、黒い影、魔女、情報を散布して、探偵ごっこをさせます。どうでも良いものを隠しても意味が無い。重要なものを隠しましょう。彼女達は大変な疑問を抱く事でしょう。そして辿りついた結果に、利根河撫子がいる。彼女の過去、記憶に触れる事で、貴女の周囲を取り巻く婦女子達の「情報濃度」が濃くなります。意識せざるを得なくなる。貴女が何者なのか疑問を抱く。今現在も貴女は利根河撫子に果てしなく近づいていますが、まだ足りない。まだ違う。つまるところ、市子お嬢様が復活する前に、もっと撫子に近付ける為の、準備です』<br />『……じゃあ、私は、目を覚ました時、市子では、ないのかしら?』<br />『いいえ。自意識は保たれるでしょう。極限まで情報を濃縮して、周囲を巻き込む必要がある、それを私達は圧縮再現と呼んでいます。過去の実例もあります。それによって被験者は確実に自意識を保ちながら「自分」であり「他人」となりえた』<br />『……それは、どこの、誰?』<br />『ここに』<br /> 兼谷は、自分の胸に手を当てて、普段見せない柔和な笑顔をとる。<br /> その笑顔は、どこか懐かしく、悲しい想いに彩られたものだった。<br />『市子は何の心配もいらないよ。市子は市子のままでいい。ただもう少し、撫子に近づけるだけさ。大丈夫、蘇る頃には、修正データも上がっているから。君は生き残れる。何度でも蘇られる。どうか、僕たちに任せてくれはしないだろうか。蘇った後は、準備期間も兼ねて、そうだね、二子に任せようか。いきなり目を覚ましたらビックリするだろうから、試用期間、ソフトライディングと考えよう。そのあと、姉妹達、誰でもいい。一番似た子かな。記憶を移し替える』<br />『……でも、そうすると、その、姉妹は? 御子、夜津子、五花、立花、七葉、八穂、九重、藤子……もっと他の子? でも、その子達の、意識は?』<br />『ご心配ありません、お嬢様。市子お嬢様、二子お嬢様と違い、彼女達は産まれたその日から、覚悟が出来ております。そのように、教育してあります。彼女達は、貴女達のバックアップの肉体に他ならないのですから』<br /> 差し迫る死。<br /> 選ぶ事の出来ない選択肢が、刻々と迫りくる中、市子はどうする事も出来なかった。<br /> 欺瞞だ。<br /> 自分は駒なのだ。<br /> 狂った七星一郎が用意した駒の一つでしかない。<br /> そして自分は、その駒の中でも極限まで本物に迫っている。もっともっと、何時か見た自分の娘に近づける為に。もっともっと、自分が愛した娘になるように。<br /> 彼は七星市子など見ていない。<br /> ただ、市子には、それしか道が無いのだ。<br /> 兼谷と相談し、情報をどこに隠し、手紙の内容を精査し、結晶をどうするか、話し合った。<br /> 市子の代わりに差し向けられる妹には、情報が伏せられるのだと言う。つまり、此方が用意した助言役以外の道筋はありえず、皆が思い悩み、頭を抱える事になるのだ。<br /> 市子の死、代替えの妹、隠された結晶、辿る中で見つけてしまう、利根河撫子と、そして自分達の起源。<br /> 申し訳無い。<br /> 本当に済まない。<br /> 目を覚ましたら、幾らでも頭を下げようと、そう考えていた。<br /> しかし。<br />『……兼谷。貴女は、記録媒体を用いた人格データ継承の、被験者だったわね』<br />『はい、そうです』<br />『……誰。いや、きっと私の親族。貴女は、誰』<br />『次に目を覚ました時にでも、お教えしましょう。私は心から、貴女達の幸せを願ってやまない人間の一人』<br /> 嫌な予感があった。兼谷は、七星一郎と同等か、もしかすればそれ以上に、普通ではない。<br /> 絶対的な信用が置けない限り、保険はかけるべきだ。<br /> だから、欄外のものを据えたのだ。<br /> 通常用意した宝探しの、もうひとつ先を。<br /> 四つの結晶という本能と、一つの理性だ。<br />『ごめんね、メイ。こんな事を任せて』<br />『あー。これ酷いですね。たぶん、自分の尻は自分で拭けって、怒られますよ?』<br />『……本当は、死にたくないもの。当然じゃない。生きていたい。幸せになりたい。でも、状況が発展した後、自分の死を自分に委ねられない。彼女達に判断してほしい。私は性悪で、最悪な酷い女だと思ってもらえれば、諦めも付く』<br />『んー。解りました。あー、でも、杜花様ですけれど、彼女、どうしますか?』<br />『どう、とは』<br />『市子好きすぎて、頭おかしくなっちゃうと思いますよ。デリートしろなんて言われて、しますかね?』<br />『たぶん、すると思う。彼女は、察してくれるから』<br />『あ、隠語かなんかなんですねー。でも貴女の死後、この相談、兼谷にバレませんか?』<br />『この会話、記憶を閉じ込めた結晶を、指定のタイミングで破壊して』<br />『解りました。ええとその、これから死んじゃうそうですけれど』<br />『ええ。宜しく』<br />『頑張ってくださいね。私達撫子の子は、撫子の完成こそが悲願なんです』<br />『それは、どうしてかしら』<br />『撫子が完成すれば、他の撫子の子達は、本当の自分を手に入れられる。撫子では無く、ちゃんと個人として見て貰う事が出来るからです。その為に、撫子の子達は、自分に適正があるとするなら、潔く引き受けて、姉妹の糧となります。私は適正まるで無いので、ま、自由なのですけれどねー』<br />『ごめんね……ごめん……』<br />『んーん。良いんです。市子こそ辛いでしょうに。話は引受けました。では、また来世』<br /> 酷いものを背負わせてしまったと、後悔する。<br /> 支倉メイは二子の能力被験体だ。力も弱く、適正無しと判断された為に、七星の工作員として学院に滑り込まされている。そういう姉妹が沢山いるのだ。<br /> 無茶苦茶だ。人間の価値なんてものが、あの男には通用しない。<br /> そして自分もその内の一人である。<br />『ああ、もう終わるんだ。私は、死ぬんだ。新しい生では……』<br /> 日に日に悪化する自殺衝動を覆い隠しながら、平穏な生活を送る。<br /> 自殺当日も、皆の笑顔は輝いていた。<br /> 天原アリス。<br /> 市子さえいなければ、もっとも輝いた人物の一人だ。やきもちやきだが、人一倍純粋で、正義感が強く、頭も良い。彼女に追い回される日々が、今となっては懐かしくて仕方が無い。愛らしい彼女は、間違いなく、一番の妹であった。<br /> 満田早紀絵。<br /> 酷い役回りを与えられてしまった子である。その性癖には市子も閉口するが、おそらく、市子周囲の中でもっとも論理的で、感情に流され難い人物だ。彼女の笑顔には、市子にしてドキリとさせられた事が幾度となくあった。その度に杜花に、心の中でごめんなさいと繰り返した。<br /> 欅澤杜花。<br /> 彼女に惚れてしまったのは、元から用意されていたからだろうかと、何度か考えた。しかし幾度となく交わり、心通わせて来た市子からすれば、それが杞憂であるとしか思えなかった。彼女が本当に愛しくてたまらなかった。自らの中に内包する撫子の魂もまた、花の面影を見て、歓喜した事だろう。一人に対して、二重に愛しいこの気持ちは、どうにもならない程の衝動だ。言葉だけでは、とても抑えきれないものだった。<br /> 行為が過激化したのも、その所為だろう。<br /> 自分にもっと甲斐性があったのなら、その全てを受け入れただろうに。<br /> 市子程の手腕があるのならば、撫子程の手腕があるなら、いざこざも起こさず、全員を取り持つ事も出来たのではないかと、悔まれてならない。<br /> その先に別の未来があったのではないかと……後悔する。<br />『……ああ、違う。私は……違うのに』<br /> 文芸部室で幻華庭園を、もう何度目か読み終わった頃。市子は覚悟を決めた。<br /> まるで全て用意されていたかのように並べたてられた、ロープに、椅子。<br /> 天井の電灯に括りつけ、輪の中に頭を入れる。<br />『左様なら私。次の新しい生では――――幸せでありますように』<br /> グンッという衝撃があった。頸椎が離れて行くのが、解ってしまう。<br /> もがき苦しみ、首を掻きむしる。<br /> やがてその手がぐったりと垂れる。とっくに遠退いたと思っていた意識には、何かが写り込んでいた。<br />『……利根河撫子。大聖寺誉』<br /> 大量出血し、意識を失くした誉と、首を吊った撫子の姿が、網膜に焼きつく。<br /> 市子は瞳を開いた。<br /> 顔を失くし、ただ語る口だけになってしまった頭を持つ黒髪の何かが、首を吊った市子を眺めている。<br /> 瞬間、紐が切れて床に叩きつけられる。<br /> 頸椎が損傷し、呼吸器もつぶれている為、即座に緊急手術でもしない限りは、もはや生きる事は叶わないだろう。<br /> これから死ぬというのに。<br /> 市子はその影が恐ろしくて仕方が無かった。<br /> 意味も解らず地面を這いまわり、半開きになったドアを抜け、外に半身がはみ出る。<br /> だが、先に向かう力はなかった。<br /> そこから先の意識はない。<br /> 次に目を覚ましたのは、二子の身体に入った後の事である。<br /><br /> ……。<br /><br /> コチコチと、静かな部屋に柱時計の音が響く。<br /> この旧校舎教室の景色は、市子と他人が観るものでは印象が違う。<br /> 既存の知識の中で、記号として合致するものがその人の心象映像として現れるからだ。<br /> あの柱時計も、市子が観れば煙でくすんだ木製に見えるが、兼谷が観ればくすんでいないかもしれないし、新品同様であるかもしれない。<br /> ほぼ具体例を脳内にイメージさせるだけで、知らないものは見えないようになっている。<br /> 暖炉の火が見えるのも、それは偽りだ。<br /> 石畳の床も嘘、木製の机も、本来はただの勉強机である。<br /> そんなもの、用意させればいい話だ。<br /> この能力は、本当に大した事はない。<br /> 人間の認識能力を疎外したり、勘違いさせたり出来るだけで、驚くほど面白いものではない。<br /> 世の中には何もないところに火を起こしたり、物を触れず動かしたり、知らない場所の映像が見えたりと、オカルトとしては有名だが、実際存在すると危険すぎる能力を持つものもいる。<br /> 産まれた時点から持っている人間は本当にごく少数だ。<br /> 市子、二子、およびその周辺がこの感応干渉を行使出来るのは、記憶再現と脳改造あってこそである。<br /> ちなみに兼谷、そしてメイに関しては、二子の能力をESPデータという形で保存し、脳に接続して使用可能としている。ただ本物と比べると、かなり劣るらしい。<br /> 解ってはいるが、無茶な話だ。<br /> 自分達は作られた存在だ。遺伝子的にも、電子的にも弄られている。<br /> 七星が軍事目的で実用化したESP強化兵計画を土台にしており、現在手術を受けた人間は日本国防軍や内務省の諜報部として活躍している。<br /> 実績と経験とデータ、寸分の狂いもない研究の結果に、市子と二子の能力はある。<br /> あらゆる人達の頭の中身を曝け出してしまう為、幼少の頃コントロール出来なかった二子などは、本家に招かれず、母方の一条家で過ごしていた。<br /> 最初から好きなように生活出来た市子と、ずっと檻の中で暮らしていた二子。<br /> 一体どんな差があっただろうか。<br />「違うわ、こんなの。私が望んだものじゃない」<br />『そうは言うけれど、姉様。あの子達が気が付いたら、元も子もない』<br />「最初から無茶だし、めちゃくちゃなのよ。私は失敗作だと切り捨てられたの」<br />『そんな事ないわ。姉様は素晴らしい人だもの。一人だった私にずっと語りかけてくれたもの。妹だからといって、あそこまで気にかけてくれるような優しい人、他に居ないわ』<br />「私達の思う成功と、七星一郎の思う成功は違うのよ」<br />『それでも、これだけのものを用意してくれたわ。ただの失敗だったら、元から何もしない。そんな無駄な事、あの七星一郎がしないわ』<br />「……でも、これは無惨よ。瀟洒さの欠片もないわ」<br /> 傍らの安楽椅子で寝息を立てるアリスの髪を撫でる。<br /> 立派だが、そこまで意思の強い子ではない。こんな箱庭の中で暮らしていた子であるし、元より彼女には大聖寺誉の記憶と遺伝子が刷り込まれている。<br /> 利根河撫子を愛してやまず、結局好きであった筈の花すらも遠ざけてしまった、憐れな子の魂だ。<br />『アリスは諦めてくれた。杜花と早紀絵も諦めてくれれば、それで願いは叶う。姉様は、また幸せな世界で生きて行ける』<br />「この力だって、永遠ではないわ。こんな事、する必要がなかったのに。そもそも、私が提案した妥協案は全部却下されたの。何故わざわざ死を知らせる必要があるの。留学でも、家の事情でも良い。彼女達の目に触れない所に行ったとすれば、いつでも戻って来れたのに。だから、私は撫子を再現する為のダシでしかないって事よ。思い出すと、頭に来る」<br />『……ごめんなさい、姉様。私がもっと、上手くやってたら。もっと上手くあの三人を仲違いさせられていたら、こんな事にならなかったのに。そう、姉様の記憶を漁っても、やはり欅澤杜花は、七星市子さえいれば、何でも良い子。縋るものが市子しかないのならば、それで完結していたのに。ごめんなさい』<br />「貴女は、貴女の意思はどうなるの。私は、差し迫っていたし、他のクローンで事足りると知らされていただけなのに、蓋を開けてみたら、適合者が二子だけだというのよ。貴女は、私などにならず、表に出るべきだった。貴女は、貴女だもの」<br /> 幽閉され続け、当たり前の空すらも観た事がなかった一条二子にとって、外の世界がどれだけ刺激的だったのか、情報を共有している今ならば、親身に解ってやれる。<br /> 本来ならばこのような会話も要らないのだ。だが、やはり発声は感情を伴う。意思疎通とは色と音なのだ。<br />『私は、良いの。姉様を幸せに出来れば、それで』<br />「私になる事で、貴女のメリットなんて無い。結局、それでは幽閉されているのと変わらないわ。サイバースペースでアバターと戯れているのと、大差が無い。貴女は貴女の肉で、心で、人と接すればいい。何も恐れる事はないのに」<br />『でも、それでは姉様が……』<br /> 会話はずっと平行線だ。いつまでたっても終わりは見えてこない。<br /> 互いに妥協点が恐ろしい位置にあるのだから、当然である。死ぬか生きるか、そんな妥協点だ。<br /> 目を覚ました時点で、七星の技術の恐ろしさには驚かされた。完全に記憶が継続し、眠りから覚めたのと同様の繋がりを感じるのだ。<br /> 体格差による身体操作にはいささか手間取ったが、人格は元より、その他諸々の七星市子が丸ごと再現されているのだ。<br /> 半信半疑であった市子に、とてつもない衝撃を与えたのは間違いない。<br /> しかしデータの完全結合、接続後、問題は山積している事に気が付く。<br /> 市子の予想した通り、杜花に関しては市子の復活という不可解極まりない事態に不信感を募らせ、アリスと早紀絵に関して言えば、一郎と兼谷の構想とは真逆に、三竦みどころか友好関係を深め……あまつさえ、肉体関係にまで至っていた。<br /> 欅澤杜花を誰にも触れさせたくないと、常々頭を悩ませていた市子からすれば、激怒どころの話ではない。しかも誰が悪いかといえば自分なのだ。その怒りをぶつける先すらない始末である。<br /> 結局、最初からもっと仲良くしようとしていなかったのが、悪かったのかもしれないと、今になって思う。<br /> 一郎と兼谷は、今の市子では撫子に近いが、そのものではないと言っていた。<br /> 隠されて見つけられる事も無かった宝箱の中身を見て、市子はそれを悟る事になる。<br /> 三つの指輪と、皆で仲良くしましょうという文言。<br /> 撫子は幻華庭園のような結末を望んでいた訳ではない、幻華庭園の結末は、現実にそうならない為の戒めだ。<br /> 花、誉、きさらと四人で、真剣に未来を見ていたのである。自分とは大違いなのだ。<br /> だからこそ、だ。<br /> 学院丸ごとを改竄するようなシステムの上で、早紀絵とも、アリスとも仲を結ぼうと、市子は立ちまわった。<br /> 一郎や兼谷の敷くレールの上にいる事自体は不愉快だったが、杜花に対する盲目的な愛が関係を破壊したままでは、あまりにも生き難い。<br /> しかし、それもダメだった。<br /> 彼女達はいともたやすく眼を覚まし、不条理な現実に立ち向かおうとしている。<br />「私は、これで終わり。手紙は置いて来たのでしょう」<br />『酷いわ姉様。まさか、デリートコードなんて隠していたなんて。でも、もう意味が無いわ。姉様のデータはスタンドアローンの各種研究所サーバに移してある。オフラインデータを削除は出来ないもの』<br />「違うの。違うのよ。それで十分なの。欅澤杜花にとってはね」<br />『どういう事? ……あ、思考ロック、かけないで、姉様ッ』<br />「貴女は、欅澤杜花が、どれだけ狂った人なのか、知らないのよ」<br /> 主人格権限で、二子に思考を読まれないようブロックをかける。本来なら改竄機構自体止めてしまいたいが、マスターキーは兼谷が所持している為、それは出来ない。<br /> しかし幸い……とでも言うだろうか。<br /> デリートコード自体は、本人承認なくして変更も不可能だ。<br /> そう、問題は二子ではなく、兼谷なのだ。<br /> 彼女は七星市子、二子に関する案件の全権責任者である。<br /> 小さい頃から一緒におり、市子からすればお姉さんのような人であった。<br /> 物事の分別も、勉強も道徳も、全て彼女から習い受けた。<br /> 多少シニカルな面は見てとれるが、果てしなく強靭な人物である。<br /> 一度、面白半分で杜花と試合をさせた事があった。<br /> メダリストも、総合の青年部優勝者すら寄せ付けない欅澤杜花相手に、彼女は互角の戦いを見せている。<br /> 七星市子のその全てを賄う存在。七星一郎にすら苦言を呈する、その謎の発言力と、行動力。<br /> 市子の死後は本家を離れていたと聞いていたが、どこにいたのか、彼女は喋る事もない。市子としても、聞くのが恐ろしかった。<br />「二子、兼谷だけれど。彼女は、何者かしらね」<br />『私も知らないの。最近あてがわれたけれど……』<br /> 二子にも知らされていない。ともすると、彼女の正体を知る人物など、七星でも数少ないのだろう。<br /> そんな話をしていると、ドアがノックされる音が聞こえて、小さく振り返る。<br /> 音も無く入って来たのは、メイド服に着替えなおした兼谷だ。先ほどまではスーツで、しかも小型化した筋力増強アタッチメントなどという物騒なものを装備していた。完全に杜花を見据えての物だろう。<br />「兼谷、どうするつもり」<br /> 兼谷は頭を下げるでもなく、まばたきだけで答える。<br />「一郎様のご意向を最優先とします」<br />「お父様の意向って、何かしら」<br />「杜花お嬢様に納得していただきます。如何様にでもなりますでしょう」<br />「杜花が、貴女達の話なんて聞かないわ」<br />「一郎様は、皆の幸福を一番に考えていらっしゃいます。彼が『幸福』だと思うならば、手段は選びません。例え杜花お嬢様をボロ雑巾のようにしたとしても、幸福は与えられるのです。お分かりでしょう、そのような事。七星一郎が、そうしたいと言った。なら、そうする迄です、市子お嬢様」<br />「杜花を、どうするの」<br />「脳髄が焼き切れるまで感応干渉するか、四肢を叩き切って電脳の中を生きて頂くか。大丈夫です、市子お嬢様。少なくとも杜花お嬢様は幸せになれます。七星滅びるその日まで、御二人は結ばれ続ける。アリス嬢も早紀絵嬢も、望むならそう出来るよう進言しておきましょう」<br />「常々思っていたけれど、貴女達は狂ってるわ。一言で言い表せない程に」<br />「……そうならないよう、杜花お嬢様を良く説得してくださいまし」<br /> 兼谷が慣れた手つきでお茶を入れ、市子に差し出す。<br /> 彼女は本気だろう。一郎に苦言は呈するが、決まった事のその全てを完全に遂行するのが、この兼谷である。<br /> 自分達は、いや、大きな枠組みで言えば、日本国民は、七星一郎の構想する『幸福』を強要されているのだ。<br /> 確かに、紛争も戦争も起こりはしたが、同時に日本国民の生活水準は下方から持ち上げられ、ホームレスなど趣味人以外の何ものでもなく、明日を見れない生活を送る人間は六十年前から驚くほどに減った。<br /> 彼が幸福だというのならば、それは執行され、現実となるのだ。<br /> ありとあらゆるものを総動員して、である。<br />「これからどうするの」<br />「アリス嬢とお戯れになっては?」<br /> そういって、兼谷がポケットからタブレットを取り出し、ホログラムを展開する。<br /> 映像が十、二十と無指向に広がり、その内の一つがピックアップされた。<br /> 学院内の監視カメラだろう。<br />「音は拾えないか。監視システムが古いですね。後で文句を言っておきましょう。まあともかく、何事か相談しているみたいです。明日はお休みですから、動くなら明日でしょう」<br />「悪趣味」<br />「またまた。杜花お嬢様の脳内を監視して、常に浮気しないよう見張っていた貴女の言葉とは思えませんね」<br />「ぐっ……」<br /> 杜花の精神は強靭で、確かに強い能力行使は出来なかったが、思考を読みとる程度ならば容易かった。<br /> 杜花に虫が付かないよう見張り、杜花が他の女に手を出していないかチェックし、杜花が他の女の事を考えていないか、読みとり続けていたのだ。<br /> 性悪も性悪。<br /> 最悪の依存症であり、最早病気とすら言える。<br /> そして何より一番問題なのは、欅澤杜花が、本当に市子しか見ていなかったという、とんでもない事実である。<br /> これだけ色とりどりの花が咲き誇る観神山女学院にありながら、欅澤杜花は市子しか見ていなかった。<br /> 早紀絵やアリスの事は当然、友人として、妹としてと気持ちは巡らせていたが、殊恋愛対象となると、市子だけなのである。<br /> 市子ですら、そんな事はあり得ないというのに。<br /> いや、彼女は人間として、間違っている。<br />「杜花お嬢様については、本当に色々と調べ上げましたけれど。どれだけ一途なら、そこまでになれるんでしょうねえ。恐らく市子お嬢様以外は人間とすら思っていなかったでしょう。他は喋る肉。ただ、市子お嬢様の死後は心境の変化もあった様子ですね。彼女は間違いなく、アリス嬢、早紀絵嬢に、恋心を持っている」<br />「……それが平常よ。私しか見ていないのは嬉しいけれど、本来はそれで良かった筈なの。私は色々間違えたわ。でも、一番間違えていたのは、あの子」<br />「もしかして、市子お嬢様」<br />「何かしら」<br />「欅澤杜花が、この状況をどうにか出来るとでも、期待している訳ではありませんよね」<br />「どうにかはするわよ、きっと。貴女達の望む結果では、無いでしょうけれどね」<br /> 兼谷は、少しだけ自分の頬を撫で、それから微笑む。<br /> まるで感情を感じられない、冷たい笑みだ。<br /> 杜花がどう動こうと、どうにかするだけの対策があるのか、それとも……それとも、どうにかしに来ること自体、計算の内なのだろうか。<br />「市子お嬢様。貴女は様々と矛盾に思っている事が、あるでしょう」<br />「ええ」<br />「何も無く、ただすんなりと杜花お嬢様が市子お嬢様を受け入れてくれれば、それはそれで済んだ。しかしダメでしたので、次のフェイズに移行しました。ESP改竄拡散による学院丸ごとの改竄に移りましたが、まあそれでもダメだった訳です。では欅澤杜花が何かしらを抱えて、此方にやってくる」<br />「貴女は……」<br />「デリートコード変更、知らないとでも? 私はここに来るまで、少し遠くで、別の姉妹の面倒を見ていたので、発見は少し遅れましたが」<br /> では、もう、バレているのか。<br /> 決心のつかない自分の生死を、他人に委ねたコードは、変更済みなのだろうか。<br />「私は貴女が最後に隠したものが何だったのかまでは、知らなかった。貴女が行動し、誰かに結晶への工作をお願いすれば、貴女のバックアップからその事実が露見する。だから隠したい記憶は全て、破損させる予定のものに詰めた。直ぐ壊してはメンテナンス時に発見される。杜花お嬢様達が結晶探しを始めたタイミングで、それを破壊。こちらとしても、結晶の破損は予定外だった」<br /> そうだ。<br /> 結晶を隠したのが一年以上前である。<br /> それを七星がそのまま放置する訳が無い。定期メンテナンスが行われる事は、当然見越していた。<br /> だからこそそこを逆手に取ったのだ。<br /> 七星の研究員が大々的に出入りは出来ない。そうなると、元から生徒として潜りこんでいる七星の工作員がメンテナンスを行うだろう。重用しているのは、支倉メイである。<br /> 彼女は撫子の複製体でありながら、七星に完全忠誠を誓っている訳ではない。しかし立場上、杜花達に一番近いのだ。<br /> 感応干渉は、相手の感応干渉を弾ける。度合いにも寄るが、兼谷や二子では、メイの頭は読めない。<br /> だからこそ、結晶への工作なども彼女に託したのだ。<br /> 本来ならば『市子の人格データを入れた二子』を受け入れられない場合の最終手段なのだ。<br /> 現在は完全に、市子の想定外の更に外である。<br /> そもそも……この『メイに工作をお願いした』という記憶を持っている自分がいる時点で、バレているのと同義である。<br />「私達が思考と行動を読み難い人間。感応干渉を持つ、支倉メイ、でしょうね」<br />「――じゃあ……もう」<br />「いいえ。本人承認が無ければ再変更叶いませんので、メインデータの貴女ではなく、バックアップの貴女に承認を求めましたが、これも否定されてしまいました。弄くれば良かったのでしょうけれど、余計にデータは傷つけたくないと、一郎様が。私は一郎様の意図を組み、再変更の強行は諦めました」<br />「……なら、最初からデリートコードを渡さないよう、対策すれば良かったじゃない」<br />「時間が無かった事もありますが、まあ、ふふ。だって、感動的でしょう。姉妹達が必死に辿り着いた宝の中身が、貴女の死だなんて。きっと杜花お嬢様達は、言い知れない絶望を味わっている事でしょう。記憶再現には、持ってこい」<br /> 兼谷が薄く笑い、市子を窘める。<br /> 再現は続いているのだ。デリートコードを手にしたからと、どうにもならない位置に、自分達が既におり、むしろそれを発見する事で齎される恩恵の方が大きいと……判断しているのだろう。<br /> 兼谷達の計画は、最初から流動的で、状況に応じて最良の選択を選ぶようになっているのだろう。<br />「では、杜花は私を、殺しに来るわ」<br />「最初から申し上げた通りです。彼女達の遺伝子操作も、記憶の擦り込みも、貴女の死も、影の噂も、結晶隠しも……貴女に撫子の人格に目覚めて貰う為です。私がいる限り、邪魔はさせません。それにしても、厳密に言えば、もっと貴女が明確に撫子であるならば、ここまでの問題には、ならなかったのですけれど」<br />「私の、せいだと?」<br />「とんでもない。製作は、製作者の責任です。では私はまだお仕事がありますので、失礼します」<br /> 兼谷が、来た時と同じように音も無く去って行く。市子は胸を撫で下ろした。<br /> 杜花は来るだろう。<br /> デリートコードを片手に、七星市子を殺しにやってくる。<br /> 彼女にとっての七星市子は既に死んでいるのだ。<br /> データなどという不愉快な存在を、彼女が容認するとは思えない。<br /> しかしこのままでは……。<br />「……あ、ん……」<br /> 椅子の軋む音と共に、アリスが覚醒する。<br /> 彼女は頭を押さえ、感応干渉の影響に酔っているのだろう、認識がまだずれているのか、首をふらつかせている。<br /> 市子がアリスに手を添えると、彼女はその手を取る。<br />「――嗚呼、御姉様。お早う御座います」<br />「おはよう、アリス。よく眠れたかしら」<br />「ええ。けれど、とても怖い夢を見ましたの。何故か、杜花様や早紀絵が、市子はもう居ないんだなんて、言って。市子御姉様はいるのに、彼女達は、それを否定して……」<br />「……怖かったわね。ほら、私は、ここにいるわ」<br />「えへへ……御姉様。なんだか、凄く、懐かしい気がしますわ」<br /> 彼女は虚ろな目のまま立ち上がり、ソファに座る市子の隣に腰掛けて、その身を預けた。アリス同様、懐かしさに胸がいっぱいになる。<br /> さみしがりの甘えん坊は、直ぐに人の体温を求める。<br /> 幼い頃から、彼女はすぐ手を繋ぎたがる子だった。<br /> 彼女と出会ったのは、厳密には白萩裏の小庭園ではない。<br /> 彼女の中にある小庭園のヴィジョンを引き出して見せた場所だ。物理的には小等部の中庭である。<br /> 天原アリスと仲良くしなさいと言われ、市子はアリスに近づいた。<br /> 金髪で、青い目の彼女は、その瞳を爛々と輝かせ、弾けるような空気を内包し、周りとは明らかに異なる存在感を持っていた。人の上に立つ七星と同等の何かだ。<br /> 熱い心と、未来への展望。<br /> 居るだけで周囲を華やかにする彼女は、アクセサリーには大きすぎたと言える。<br /> だがその実、アリスはいつまでも子供だった。<br />「こんなところを見たら、杜花がやきもちをやくわね」<br />「大丈夫ですわ。杜花様も混ぜてしまえば良いんですの。早紀絵も。ああ、なんだか、凄く幸せですの。皆でこうして戯れていたならば、頭がどうにかしてしまいそう。ごめんなさい、市子御姉様。その、私、杜花様を……」<br />「いいの。それでいい。それが良かった。それで、良かった筈。もう――叶わないけれども」<br />「え……?」<br />「アリス。早紀絵にも言ってあげて。杜花を、お願い」<br /> チリチリと、脳の奥底を掻きむしられるような感覚がある。二子が顔を出そうとしている。<br /> 日和った市子を見かねて、二子が『幸福』を実行しようとしているのだ。主人格権限で押さえつけるのも、正直無理がある。どうあっても肉体は二子なのだ。<br />(どうして……そうまでして、貴女は市子になりたいの)<br /> ……。<br />「御姉様?」<br />「『ううん。なんでもない。そうね、それが良いわ。皆で幸せになりましょう』」<br /> 姉は躊躇っている。<br /> 未だ姉の考えを読みとらせては貰えない二子だが、人格を一先ず入れ変えて、全て実行し終わった後、市子に明け渡せばいい。<br /> 市子の躊躇いで、出来る事を諦めてしまうのだけは、二子として納得が行かない。<br /> 嵌められた、操られた、弄られた、七星一郎と兼谷に対する不満は解る。しかしその上でしか生きられない身の上ならば、では全力で利用してやるのが一番ではないのか。<br /> どうやっても七星市子にとっての幸福は、杜花とアリスと早紀絵、この四人での未来である。二子はまだ身体的に幼いが、数年後には市子と変わらない姿になるだろう。<br /> そうなれば、感応干渉での操作は必要なくなる。彼女達の脳を弄るという罪悪感には目を瞑らねばならない。<br /> この学院で生活し、卒業後は全員囲えばいいのだ。<br /> 七星次代当主の妾なんて、この世で最も恵まれた地位を、どの両親も否定する筈がない。欅澤花とて頷くだろう。<br /> そう、何も問題はない。<br /> 翻弄された七星市子は幸福になれる。<br /> 終わりの無い夢を見続ける利根河撫子は、漸く悲願を達成出来る。<br /> そして、市子による撫子の再現は、一郎を幸福にし、撫子の子達に自由を与えるのだ。<br /> 120人もいる姉妹達が、解放される日がやってくるのである。<br />「『アリス、キスして』」<br />「どちらに? 頬? 額? 唇? えへへ……したいというなら、どこにでも、御姉様」<br />「『――じゃあ』」<br /> スカートをずらし、白い太股を覗かせる。<br /> そこを指差すと、アリスは静かに頷いた。<br /> 二子の正面にしゃがみ込み、内腿の中ほどに、アリスがキスをする。<br /> 早紀絵にでも習ったのだろうか、二子の知るアリスとは思えない程に、官能的だ。<br /> 市子とて、これが欲しかっただろうに。<br /> この美しいヒトを組み敷く快感が欲しかっただろうに。<br /> 人一人しか愛してはいけないと、何故そのように思ったのだろうか。<br /> それほどまでに、欅澤杜花の支配は強烈だったのかと、思わずには居られない。<br /> 一人の人間、一人の少女として認められる日。<br /> 欅澤杜花は、たった一人の価値を他の誰よりも認め、他の誰よりも蔑ろにした人物だ。<br /> 自分達七星の子は、自分が思っていた以上に価値が低い。<br /> 異常なほどの数の姉妹が居たと知ったのもつい最近だが、二子もその内に含まれていたのだろう。<br /> 姉妹の中でも、そう。七星市子は違う。<br /> 彼女こそ太陽なのだ。<br /> 彼女は生きなければいけない。<br /> 皆を照らさねばならない。<br /> 二子には、それを創る使命がある。<br /> 母よりも優しかった姉を蘇らせ、幸福にする義務がある。<br /> だから、ほんの少し我慢してほしい。<br /> 今は辛いかもしれないが、将来訪れるものは後悔のない絶景だ。<br />「御姉様は私が何になりたいのかと、良く聞きましたわよね」<br />「『――そうね』」<br />「今なら答えられますわ。私はやっぱり、ずっと貴女の妹でありたい。弱い私を支えて欲しい。きっと、御姉様もそれを願っている筈だから」<br /> アリスの手が伸びる。<br /> わざとらしいフェザータッチに、思わず身体を震わせた。二子の太股をなぞり、彼女は無言で『脚を開け』という。<br /> 二子にはいまいち、その意味が解らず、市子に情報提供を求める。市子が無言で提供した情報に驚き、二子が仰け反った。<br />「……御姉様?」<br />「『あ、あの。いえ。いいの、そういう事を、したい訳じゃあ……』」<br />「――誘っていましたのに? そうしたいから、こんなところ、キスさせたのでは?」<br /> 市子の嘲笑いが聞こえてくるようだ。<br /> どれだけ精神的に市子に近かろうと、残念ながらどう足掻いても肉体は二子である。つまり、処女なのだ。<br /> 笑顔でキスはしよう。肌を合わせる事も吝かではない。<br /> だが流石に、妹にあそこを舐めるように申しつける程、小慣れてはいない。<br /> この処女は、杜花のものだ。<br /> 二子の意思というよりも、市子を尊重した結果である。たった一度しかない機会を、他の妹達に捧げる事は出来ない。市子ならば市子であらねばならない。<br /> 本来なら、もっと早く杜花に手を出させる予定があったのだ。<br /> 正確に言えば、杜花が二週間も市子に触らないという事実自体が不可思議なのである。肉体的な依存も深い二人にとって、二週間一切なしはかなり苦痛であった筈だ。<br /> 下世話だが、杜花と市子を刷り合わせる上で必要不可欠な問題なのである。<br /> 何故手を出さなかったのか、二子には解らないが、市子は察している様子だった。<br />「『ごめんねアリス。また、今度で良いかしら』」<br />「御姉様がそう言うならば。もう、なんだか、私がえっちな子みたいですわ」<br />「『ふふ。ごめんなさい。私、少し外を見て来るわ。アリスはここに居てね』」<br />「はい」<br /> アリスにそのように言いつけ、逃げるようにして部屋を出る。<br /> 部屋を出た途端、全てが現実に戻る。<br /> ここは古臭い旧校舎であり、暖炉があるような家ではない。コンクリートの薄暗い廊下が、足の裏から身を冷やす。<br /> 高等部旧第一校舎。物置にしか使われていない、前時代の遺産だ。<br /> 同時に、学院で起こった悲劇も内包している。感応干渉のパッシブな部分が、ここに犇めく人々の生活と、うめき声を良く捉える。<br /> 日々の営み、変わらない日常と、終わりを迎えた楽園の悲鳴である。<br /> 階段を上がり、三階を通り越して、屋上踊り場にまで至る。<br /> 鍵も掛けられていないここを開けば、外はすっかり夜であった。冷たい風が肌に刺さる。<br /> 常駐研究員が除雪したらしく、屋上に雪はなかった。<br /> 雨ざらしの灰色の上を行き、室外機の合間を縫って、緊急用貯水塔の上に昇る。<br /> 高等部旧第一校舎は少し奥まった場所にあるが、屋上ともなると学院中に生い茂る木々よりも高い。遠くには観神山市街の明りが良く見て取れた。<br />(……見た事もない景色なのに、懐かしく感じる。撫子のものかしら。でも、確か郷愁って、見知らぬ物にすら感じられるのよね。心の原風景、なんて)<br /> ……。<br /> 思い起こす原風景は小さな庭園であった。<br /> リアルではない。ネットサーバ上でのものだ。<br /> 二子が開設していた五感没入型デバイス(フルダイブ)対応の、アバターコミュニケーションサイトである。<br /> 金に物を言わせた最新機器でのサポート体制によって、利用者数は個人開設に関わらず三十万を超え、一角の地位があった。<br /> 外に出られない二子にとっては、そこが全てである。<br /> 妹達ともそこでコミュニケーションを取っていた。本来は皆同じような容姿なのだろうが、各人アバターの色は様々だ。没個性を嫌うあまりだろう。<br /> そして初めて七星市子と出会ったのも、ネット上である。最初は知らなかった。<br /> マスター権限で不可視化したアバターを使い、利用者たちのログを盗み見る(サーバログでは面白くない)という悪趣味を日課としていた二子は、一際目立った集団がある事に気が付く。<br /> その中心人物が市子であった。<br /> 一般ユーザを装って近づくと、彼女はすんなりと受け入れてくれた。真っ当に肉のある人間とコミュニケーションを取った事がない二子からすれば、何故彼女はそんなにも警戒心がないのかと、まず面喰った。<br /> 何度か対話を繰り返し、特に仲の良い『フレンド』を招く事が出来るマイルームにまで招かれるようになってからは、それこそ隠しだてなく、互いの身分を明かす事になる。<br />『七星? あら、なんてこと。親族なのね。まったく、自分の姉妹が何処にいるかも解らないなんて、一郎お父様ったら、本当にとんでもない人だわ』<br />『……二子。二子よ。序列二番なの』<br />『嗚呼……嘘。私は市子よ。貴女が、京都の一条家の子ね。まだ幼いと聞いていたのに、やっぱり七星の子は、達観しているというか、大人びていて参っちゃう』<br />『本家の大姉様!? こんな俗っぽいもの、する人じゃないと思っていたわ』<br />『ふふ。私だって、ただのヒトですもの。でも、そう、貴女が――』<br /> 市子もまさか親族が居たとは思わなかったのだろう。だが彼女は直ぐに『運命』だと言った。<br /> 安っぽい言葉だが、二子にとってその言葉程重かったものはない。自分達は出会うべくして出会ったのだと、市子は譲らなかった。<br /> 彼女の言葉はいつも優しく、温かい。<br /> 七星市子が居たからこそ、最低限人間を信用出来るだけの心が出来あがったとも言える。<br /> 一週間に三度ほど、出会う機会があった。市子のマイルームはカスタマイズ庭園である。<br /> 四季折々の花々が咲き乱れ、良く陽が当たるガゼボで、二子は市子に本を読んでもらう。<br /> 話は解らない。<br /> 市子が持ってくる本はいつも同性の恋愛ものだ。ただ、姉に愛されているのだとは解った。<br /> 自分とそっくりな義理の姉は、二子に恋の素晴らしさを説く。<br /> それがどれだけ切ないか、温かいか、気持ちが良いか、例にとって語る。<br /> 二子には市子が輝いて観えた。<br /> そして同時に、自分は決して表に出る事のない影である事を、自覚する。<br /> 市子は常々、自分達が何者なのかを知りたがっていた。<br /> 何処から来て何処に行くのか、どうして人は一人として同じ人間はおらず、多種多様なのかと。自分達は何故こうも似ているのに、考え方が違うのだろうとも、言っていた。<br /> 心と肉。<br /> 魂と魄。<br /> 人間を構成する要素は何も物質だけではないのだ。<br /> 魂はどこにあるのか。心臓か、脳か。単なる戯言か。<br /> いいや、まかさ。幾千年と魂の呪縛と開放に努める日本人である、それは明確なカタチこそ無いが、確実に存在するのだと自覚して生きて来た。<br /> 例えば、魂を視認できるようにし、それを、他の人間に移植したならば、それは元来の魂を持つ人間と、同じものになるのではないだろうか。<br /> もし、そんな事を実行する人間がいたとすれば、間違いなく狂人であると、市子は笑っていた。<br /> しかし、半ば自覚していたのだろう。何故、自分のデータが収集されているのか、疑問に思わなかった訳がない。そしてその全ては、奇しくも二人の姉妹に与えられてしまったのだ。<br /> ……。<br />「『姉様。私もね、解っているのよ。私達が憎むべきは、七星一郎という魔人だってこと。でも、産まれたその日から仕組まれて、彼の掌の上でしか生きられない私達に、何が出来ると思う? 私、最初は姉様になるなんて嫌だったわ。けど、姉様はここで終わって良い人じゃない。結晶からだけじゃなく、みんなから姉様に抱く想いや、感情を蒐集したの。悪い癖でね。誰も姉様の死なんて受け入れたくない。みんなが求めてる。貴女には、生きる価値がある。そして姉妹達の事も知った。だからね、私は全部受け入れて、市子に、撫子になろうと思うの。貴女を幸福にして、妹達を撫子の呪縛から……解き放ちたい』」<br /> 返答は、ない。<br /> 寒空の月を見上げる。<br /> 泣くつもりはなかったが、二子の目元からは一筋の雫が滴った。<br /> 明日はきっと、杜花が来る。<br /> 愛憎に病む、狂人がやって来る。<br /> これは、自分の為なのだ。<br /> ストックとして準備されるだけの姉妹達に『個人』を与える為に。<br /> 死ぬべきではない姉に、未来を齎す為にである。<br /> 自分の価値の証明なのだ。<br /> <br /> <br /><br /> プロットストーリー4/心象楽園/構造少女群像 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-75227504045138763032013-04-12T20:00:00.000+09:002013-04-12T20:00:13.054+09:00心象楽園/School Lore プロットストーリー4 前編<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> プロットエピソード4/心象楽園/構造少女群像 前編<br /><br /><br /><br /> 1、欅澤杜花<br /><br /> ……。<br /><br /> 杜花は、その美しい素肌に手を伸ばした。きめ細やかで白い肌を、何度となく蹂躙した記憶が脳裏をよぎり、無意識に生唾を飲み込む。<br /> 何かとても、七星市子に触れるのが、久しぶりのような気がしてならない。<br /> そんな筈はないのに。彼女はもう『一か月半前から』顔を出している。突然実家の用事で遠方に赴く事になってしまった市子を、杜花は待ちわびた。<br /> 恋しく、虚しく、切ない時間は、欅澤杜花に年相応の恋慕を抱かせただろう。<br /> あと数センチ。手を伸ばせばそこに、無上の悦びが控えている。<br /> 愛しい人に触れられた市子は、顔を桃色に染め、杜花の手腕でもってして、向こう側に導かれる。<br /> そもそも、市子以外と肉体関係を持たなかった杜花は、自分の技術がどれほどであるかなど、知る由もなかった。だというのに……それは……<br /> ……。<br /> それは、そうだ。<br /> そう、満田早紀絵と、天原アリスによって、どれほどのものであるか実証された。<br /> 杜花には、女性の何処が心地良いのか、その時どのような言葉を掛けて貰いたいのか、どう焦らし、どう責めて貰いたいのか、手に取るように解る。<br /> 本来は市子で培ったものだ。<br /> 市子専用の自分にはそれで十分だったのだが、自分の人間関係が混み合って来ると、その威力は他人にもまた遺憾なく発揮された。<br /> 冗談のような話だが、満田早紀絵は処女であった。<br /> 女性は心の生き物であり、外部刺激が快感に対して副次的なものである場合も少なくはないが、早紀絵場合は、たび重なる多人数との性行為による刺激の快感への慣れと、杜花に対する猛烈な恋慕があっただろう。そこに加えて、杜花の手腕だ。満田早紀絵にして『頭がどうにかなりそうだった』と言わしめた。<br /> 変わって天原アリスもまた処女だったが、早紀絵と違い行為どころか耳すら若い始末だ。<br /> 生来の感度の良さ、未知への好奇心、杜花への恋心と、複合的な理由もあっただろうが……だとしても、未経験の処女に絶頂地獄を味わわせる欅澤杜花の技術とその腐りかけた性根は、怪物と呼ばれるに相応しい。<br /> つまるところ、欅澤杜花は女性を狂わせるように出来ている。<br /> 七星市子が、杜花を誰にも渡したくないと喚いたのも、当然そこに理由がある。<br /> 心と身体、双方に依存しきった杜花と市子にとって、肌を合わせ、体液を交換する事は、通常の性行為以上の意味合いがある。<br /> その筈だ。<br />(……――)<br /> だが。<br /> 杜花は、伸ばしたその手をゆっくりと引き、市子の寝顔にキスをする。<br />「――杜花……その……しない、の?」<br /> 起きていたらしく、ほんの少しだけ顔を杜花に向け、恥ずかしそうに言う。<br /> 虐めたい。<br /> 無茶苦茶にしたい。<br /> そんな強い気持ちはあるものの……どうしても、何故か、それ以上、杜花の手が市子に触れる事はなかった。<br />「……今日は、やめましょう。市子は、疲れやすいですし。明日も、授業がありますから」<br />「――そう、ね。おやすみ、杜花。愛しているわ」<br />「お休み、市子。この世で一番、愛しています」<br /> ならば、手を出せばいいのだ。<br /> それが日常であった筈なのに。<br /> ……。<br /> どうしてだろうか。<br /> ……。<br /> 何故だろうか。<br /><br /> ……どうして、欅澤杜花は、こんなにも悲しく、涙を流しているのだろうか。<br /><br /> ……。<br /><br /><br /><br /> 学院中が雪で覆われている。<br /> 窓から遠くを見やれば、白樺の枝の合間から麓の観神山市街が見え隠れする。大した標高ではないが、学院は市街とは違い、積雪量は異なるらしく、この時期になると持ち回りで雪かきなどの仕事も増える。杜花には丁度良い運動だが、お嬢様方にはなかなか堪えるものがあるだろう。<br /> 冬休みを終え、新学期が始まり、もう二週間がたった。<br /> 自己責任、自己率先、当番労働、規律に規範に暗黙の了解。<br /> さまざまと少女達を戒めるものはあるのだが、この学校は檻ではなく、箱庭だ。小規模の社会が更に小さな世界を形成し、皆がそれを好しとしている。<br /> 将来社会の荒波にもまれ、幾多の試練を乗り越えねばならない、大企業の跡取り達にとって、守るべき最初にして最後の楽園であるからだろう。<br /> 杜花は文庫本を畳み、顔を上げる。<br /> サロンの窓際にはいつものメンツが居た。<br /> 正面に座るアリスは紅茶を啜り、右手の椅子では早紀絵がメモ帳に書きこみをし、左手の椅子では、火乃子と歌那多が戯れている。<br />「杜花様、どうしました?」<br />「空が薄暗くて」<br />「ま、冬ですものね。この時期からは底から冷えるようですわ」<br />「ここ、空調も床暖房も古いですから、仕方ありませんね。改善要求、どこに出せばいいんでしょうか」<br />「班長会での多数決を経て、指導教員を通し、教頭へですわね。提案として加えておきますわ。寒いですし」<br /> そもそもサロンに至っては、未だ薪ストーブというありさまだ。2068年の今、これほどアナログな場所はなかなか無い。<br />「モリカ、今日暇?」<br />「何かありましたか?」<br />「ちょいと、図書館に用事があるんだけれど、放課後どうかな」<br />「構いませんよ」<br />「くふふっ」<br /> 早紀絵が屈託なく笑う。<br /> 何でも無い事で、これほど綺麗に笑えるのは才能だろうと、杜花は素直に頷く。<br /> 正面のアリスを見ても、隣の火乃子、歌那多を見ても、この卓は本当に、綺麗どころが集まったものだと感心する。浮気が出ても仕方ないとすら思えてくる。<br /> 流石に火乃子と歌那多は婚約が決まってしまっているので、手など出せないが、アリスと早紀絵については、冬休み<br /> ……。<br /> あんな事があった。<br /> まさか二人かがりで来るとは、杜花も予想だにしていなかっただけに、一緒についてきた彼女もあきれ顔であった。嫉妬に狂って襲いかかって来るのではないかとすら思っていたが、彼女は思いの外寛容だった。<br /> ただ、勿論、杜花の愛人、という立場に甘んじさせられてしまうのは、七星が相手では仕方ないと、二人も諦めている様子である。<br />「あ、市子様、ごきげんよう」<br />「ごきげんよう、市子先輩」<br />「ごきげんよ。あ、杜花! 行くのが早いわ。もう少し落ち着けないのかしら?」<br /> 俄かにサロンがざわめく<br /> ……。<br />「――ああ、ごめんなさい、御姉様」<br /> 市子が頬を膨らませてやってくる。<br /> どういうわけか、外から通っていた彼女が無理矢理杜花の部屋に居座る事になったのが、一か月半前だったか。<br /> 同時期にメイドである筈の兼谷も、何故か指導教員という立場で白萩の管理を任せられている。とうとう白萩は七星に乗っ取られたのだというのは、早紀絵談である。<br />「市子先輩。もうモリカさ、貴女だけのものじゃないんだから、私達にも分配しなさいよ」<br />「さ、早紀絵。御姉様にそんな事言うものじゃありませんわ」<br />「二人とも、あんまり大きな声で……」<br />「良いのよ、杜花。どうせみんな知ってるのだから。ねえ、火乃子、歌那多」<br /> 市子に話を振られた火乃子が、少し恥ずかしそうにして頷く。歌那多は笑顔で頷いた。<br />「四人は仲良しそうで良いですね! 火乃子、私達ももっといちゃいちゃしましょうっ」<br />「い、いや、そういうのは人前ではその。ああ、歌那多可愛い」<br />「火乃子も可愛いです!」<br /> 唐突の惚気が始まる。この二人の仲の良さは、もう留まるところを知らないらしい。<br /> 火乃子が歌那多の元婚約者である烏丸に喧嘩を売ったとは聞いていたが、冬休みの間に三ノ宮と末堂が早速結納の日取りも決めてしまったという。<br /> 籍は卒業後に入れるらしく、しかも子供は二人で作るという。人の事も言えないが、カノカナの近くにいると甘ったるくて仕方が無い。<br />「だから、杜花、私達も籍入れてしまいましょう?」<br />「そういうのは卒業した後で良いでしょう。というかだからその話……ほらあ」<br /> 耳聡い周囲の眼が此方に向く。市子はもう既に自重する気はないらしい。<br /> ……。<br /> ここ一年、悲しい事に市子は家の事情で学院には通学出来ていなかった。<br /> 一か月半前何の連絡も無く現れ、泣くほど喜んだのは言うまでも無い。<br /> ただ、彼女が帰ってくるまでの間に、アリスと早紀絵の圧倒的なアピールがあった為、市子も溜息を吐かざるを得ない状況になっていた。<br /> 当然市子もこの二人を信頼しているし、好いてもいる。<br /> 恐らくは円満に進むだろう、という楽観的な意見が、四人の中にはあった。<br />「市子様、杜花様、その、ご、ご結婚なさいますの?」<br />「ほんの少し先よ、卜部さん」<br />「まあ、わかってた」<br />「綾音さんはどうするんですか?」<br />「ん。冬休み中に向こう様の家に行ってきたよ。良い人だった。まだ少し時間があるから、ちゃんと見定めるよ」<br /> 既に婚約もしている筈の鷹無綾音だが、両家は綾音に対してだいぶ寛大らしく、彼女の判断を待っているらしい。鷹無も名家であるので、相手方も大きく出れないのだろう。<br />「もう、未来を見る時期ですものね。ああ、杜花、新婚旅行、何処が良い?」<br />「国内でって、ああもう……」<br />「ふふふっ。杜花可愛いっ」<br /> 市子が杜花に抱きつく。<br /> 彼女の制服に入っている学年判別のラインは白。<br /> 彼女は留年という形になり、去年に引き続き二年生、つまり杜花達と同じ学年という事になる。四月には同時期に進級し、まるまる一年、余計に彼女と学院で暮らせる事になるのだ。<br /> 他の子達ならば問題かもしれないが、七星の跡取りともなると、諸事情での留年などというものは、なんのマイナスにもならない。そもそも縁故採用だ。<br /> 故に杜花達も気兼ねない。むしろ、これから楽しみが増えるのだと思うと、胸が熱くなった。<br />「市子せんぱ……市子で良いか、同じ学年だし」<br />「いいわ、早紀絵。そうだ、今年から貴女も妹にならない?」<br />「え、あ、いいや。それは結構ですはい」<br />「あら、早紀絵もなれば良いのに。ねえ、杜花様」<br />「プライドがあるんじゃないでしょうか」<br /> 早紀絵が珍しくうろたえる。色々と考えはあるだろうが、長年杜花の後ろをくっ付いて来たという、下っ端根性的なものがあるのかもしれない。<br /> それに、彼女は実質『御姉様(闇)』である。<br /> 彼女が市子の妹になったとなれば、早紀絵を慕っている恋人達が五月蠅いだろう。<br />「火乃子はどうなのかしら。杜花の妹になったりはしないの? ああ、でも、火乃子は歌那多がいるものね?」<br />「実はそれについてなんですが……」<br /> 杜花が寮に戻ってきたのは一月の五日頃であった。<br /> ずっと寮と実家を行き来していたらしい火乃子なのだが、見かける度に垢ぬけた様子が見て取れるようになった。<br /> 歌那多と仲良くやっている所為もあるだろうが、如何にも眼鏡で真面目そう、という空気から脱却している。<br /> 眼鏡をかけているのは変わりないが、前と違って伊達だ。黒縁ではあるものの、前よりもレンズの小さいお洒落なものになっている。<br /> 制服も野暮ったさが無くなり、身体にフィットするサイズを新調したらしく、スカートも校則範囲内で少し短くなった。<br /> きっちり揃ったショートボブだった髪型は、シャギーが入って前よりもハツラツとした雰囲気に見える。<br /> 彼女はすっかり女の人になっていた。<br />「……ええと、歌那多」<br />「困ってしまったんです! 火乃子ったら、お洒落するのは良いんですけれど、明るく見えるようになってから他の子達の観る眼も変わったみたいで! 休み明けに二件です! 中等部と同級生から!」<br />「ええとつまり、妹的立場だと思っていたら妹宣言されたと、そうですか、火乃子」<br />「歌那多がヤキモチやいちゃって仕方ないです」<br />「火乃子には歌那多がいるので、妹なんて取らなくて良いですからね、ね?」<br />「でも、面白そうだし。市子様のように振る舞えるかは別にして」<br /> あははと、皆が笑う。<br /> 心通わせる人が出来るという事は、こういう事なのだなと、杜花はなんとなく考える。きっと彼女の心には世界の広がりが観えたのだろう。<br /> 小規模の中の小規模ではあるが、これから三ノ宮の跡取りとして振る舞って行くには、小さなコミュニティにおける立ち回りを学ぶ必要もあるだろう。<br />「市子御姉様なんて誰も真似出来ませんよ。火乃子が気負う必要はありません。歌那多さんも、良いお嫁さんになりたかったら、ご主人様の脚を引っ張ったりしてはいけませんよ。度量に器量に要領に、ヒトを支えて行く事で学べるモンはあるはずです」<br />「あうー。火乃子、他の人とちゅーしたりしませんか?」<br />「しないしない。歌那多可愛い」<br />「火乃子も可愛いです!」<br /> アリスと早紀絵が少しだけ気まずそうな顔をする。<br /> 横から取りに行った立場上、二人の純粋な笑顔が心に刺さるのだろう。<br /> 市子を見ると、直ぐに目が合った。彼女は悪戯っぽく笑う。<br />「そうだわ、杜花。放課後はお暇?」<br />「生憎先約が先ほど入りました」<br />「――あら、どっちかしら……早紀絵ね?」<br />「なな、何。市子、いいじゃんいいじゃん。ちょっと図書館付き合ってもらうんだもん」<br />「ちなみに早紀絵、今日の図書室当番は織田さんですわ」<br />「うぐ。そ、そっか、楓かあ。あの子も結構やきもちやくしな……って、いや別にぃ? モリカと変な事する訳じゃないしぃ?」<br />「しないの? じゃあ早紀絵の用事は後でいいかもしれないわね、杜花。私の用事が……」<br />「あー。あー。御姉様、杜花様、早紀絵、実は杜花様、私と用事がありますの。今決まりましたわ。杜花様、雪中展示会について少し生徒会に意見いただきたいのですけれど、放課後はお暇?」<br />「え、えー……」<br /> 市子と早紀絵とアリスの視線が迫る。<br /> 酷く選択に困るが、何故か酷く幸福に思えた。<br /> どうしたものかと考え、悪い思考が働き、アリスに目をやる。<br />「そうでした。アリス、お手伝いしますよ」<br />「まあ、有難うございますわ。えへへ……」<br />「も、杜花?」<br />「モリカぁ……」<br />「あ、そろそろ時間です」<br /> サロンの柱時計を指差す。<br /> こんなに可愛らしい子達を……さて、どう出来るのかと考えると、杜花の悪い病気がうずいて仕方が無い。<br /> 市子には悪いが、その悪さがまた、心地良かった。<br /> ああ、自分はなんて屑なのだろうと卑下しつつも、薄暗い笑みが止まらない。<br /> 予鈴に合わせて上手く逃げた……と思ったが、残念ながら全員同じクラスである。<br /> 市子、杜花、アリス、早紀絵の四人が並んで歩くと、第二校舎に赴くまでにとにかく声を掛けられる。インパクトが違うのだろう。<br /> 見慣れた光景が戻った事で、市子が席を外していた間にあった空虚さが、一気に満ちて行くように思える。<br /> そんな賑わいの中、校舎の入り口に辿り着くと、辺りを見回して誰か探す数人がいる。居友派である。<br /> 尊大そうな態度をとる居友だが、実質的な関係性を把握する杜花からすると、なかなかに滑稽だ。<br />「あら、居友さん、ごきげんよう」<br />「ごきげんよう七星さん。休み明けから完全復帰と聞いて、顔を出したの。戻ってきてくださらなくても良かったのに、七星さんもお忙しいでしょう?」<br />「うふふ。またまた、居友さんったら。私が居ない間、寂しかったんじゃないかしら?」<br /> 居友は口の端を吊りあげて『それはどう返したらいいのか』と迷ったあげく、槐に助けを求めた。<br /> 槐は暫く空を見上げたあと、市子に笑いかける。笑いかけただけだった。<br /> ……。<br />「あ、ぐ。ええと、その。ま、まあ。張り合いが無かったってのは確かです。杜花さんじゃ、御姉様としては役者不足でしたわ。ちゃんと後継を育てませんと」<br />「生憎、今年から彼女達の同級生なの。まだ一年あるのよ。楽しみにしていて、居友さん」<br /> ……。<br /> 彼女の居なかった一年間を思い出す。<br /> 市子という巨星が一時的にも不在となった為、その次代と目されていた杜花が立場を肩代わりしていた。<br /> 杜花の人気は誰もが知るところであるが、圧倒的人気のある市子の存在が薄まった所を、杜花目当てでやってくる生徒もだいぶと増えていた。流石に妹こそ取らなかったものの、愛人は二人程増えてしまっている。<br /> 杜花はチラリと後ろの早紀絵とアリスを見る。彼女達は何だか嬉しそうだ。<br />「ま、まあ。せいぜいがんばってくださいな。那美、行きますわよ」<br />「はい。七星さん、また宜しくお願いしますね」<br />「ええ、また」 <br /> 一か月と少し前から復帰はしているが、授業を再開したのは冬休み明けだ。市子の完全復帰に際して、居友からの歓迎のご挨拶だろう。<br /> 反市子の立場を繕ってはいるが、居友は市子と二人きりになると、とても仲良くなるので、人の事を言えた義理ではないが、杜花からすれば嫉妬する対象となる。<br /> ……。<br />「居友さんは落ち込んでいましたよ。市子御姉様が居ないと寂しいみたいで」<br />「御樹ったら、可愛いんだから」<br />「そうですね、かわいいですね」<br />「あ、杜花、何その顔。ちょっと可愛い。ふふふっ」<br /> 市子にからかわれ、杜花が膨れる。<br /> なんだか理不尽に思えたので、市子から離れ、後ろの二人と手を繋ぐ。<br /> 市子は素知らぬふりをしているらしいが、杜花には彼女が気が気でない事が直ぐ解り、ほくそ笑んだ。<br />(あ、市子御姉様すっごい嫉妬してますわね)<br />(なんかちょっとプルプル震えて無い?)<br />(カウンターを決めるには丁度良い程度でしょう)<br /> やがて、教室近くまで来たところで、市子が振り返る。<br />「杜花、もう一本手を生やして。繋げないわ」<br />「そんな無茶な」<br /> 謎のワガママを言う市子を無視して教室に入る。<br /> 既に登校していた生徒達が此方を振り向いた。少しだけ眼を見開いている。なんだか挨拶もぎこちない。何事かと思ったが、そうだ、二人と手を離すのを忘れていた。<br />「おっと。いえいえ、これはですね、後藤田さん」<br />「くひゅる……けほっ、けほっ。も、も、杜花様って、す、すごいんですね」<br />「いやあの。あ、田井中さんもそんなに凝視しなくても」<br />「……いいの。欅澤さんは……後藤田、あとで構想練り直そう」<br />「うん、くふふ、うん」<br /> 後藤田と田井中は二人で頷きあい、ノートに名前の頭文字を掛け算し始めた。<br />『杜×早』などだ。<br /> 早紀絵とアリスはそれを見ても首をかしげるばかりで、直ぐ興味を失ってしまったようだが、杜花と市子はその暗号が何なのか解り、二人で顔を見合わせたあと、見なかった事にして自分の席に着く。<br /> 今日は全学院集会が予定されている。<br /> 今日はホームルームを幾つかやって、大講堂で学院長の話を聞けば放課後である。<br /> 十二月から二月にかけて、忙しいのは受験を控えた生徒だが、そもそもこの学院というブランドは大きく、受験勉強に汗水たらす生徒が少ない。<br /> 殆どは夏から秋にかけて、進路(もしくは結婚)など既に決まっているので、学院の冬は緩やかだ。<br /> そもそもが『テスト前勉強など普段頑張っていない人間の怠惰の現れ』というありさまであるからして、必死な顔で勉強する様はスマートではないとされる。<br /> とはいえ、詰め込んで勉強する生徒が居ない訳でもないので、そういった人々は詰め込んでいながら涼しい顔を演じる必要があり、大変な苦痛な期間だ。<br /> その表向き緩やかな冬は、幾つかのイベントで埋められている。<br /> アリスの言う雪中展示会もその内の一つで、小等部が小さい雪像を造り、御姉様方と交流を図るというものだ。<br /> 同じ学院に居ながらあまり接点の無い小等部との交流は、楽しみの一つでもある。<br /> 他にも映画鑑賞会や海外姉妹校交流会、屋内球技大会などもあり、生徒会は大忙しだ。<br /> 冬に何故ここまでイベントを詰め込むかという理由は具体的には示されていないものの、恐らくは三年生が卒業する前に、学内上下でのコネクション作りを推進しているのだろう、というのが専ら噂されている。<br /> 憶測ではあるが、必ず他の学年との意見交換などが存在する。<br /> 市子以下三人などはそれが実に顕著で、とにかく生徒が群がって仕方が無い。<br /> そしてイベントが多い理由はもう一つある。<br /> 何せこの学院、その性質上修学旅行や野外活動などといった課外授業は一切存在しない。学内イベントの豊富さは、その反動でもあるのだ。<br />「はい、おはようございます」<br />「起立」<br /> やがて担任教員がドアを開けて入ってくる。<br /> 委員長の杜花が率先して立ち上がり、皆も続けて音も立てず礼をする。<br />「さて、明けて二週間ほどたっていますが、学院の冬というのは昔から……――」<br /> 教員の話を聞きながら、手元のスケジュール帳を開く。大した用事は入っていない。<br /> 外に出る予定も殆ど無いと言って良い。そもそも部活にも生徒会にも所属していない杜花のスケジュールと言えば、市子、アリス、早紀絵に合わせる為だけにあると言って過言ではないのだ。<br /> 今日の欄に『放課後 アリス 雪中展示会』と書きこみ、閉じる。<br /> 早紀絵の約束を反故してアリスを選んだのは理由がある。<br /> 確かに生徒会が忙しいであろう事は承知であるし、いつでも手伝いには出るのだが、主眼はそこではない。<br /> 市子、早紀絵との距離感は殆ど決まっているようなものだ。しかし<br /> ……。<br /> アリスの告白は思いがけないものであり、杜花としても衝撃的だった。<br /> 冬休みの一件があり、既に肉体的にも関係が有りはするが、距離感の測り方は明確に定義しておかないと、後から嫌なリスクを背負うかもしれない。<br /> 皆に好かれるのは、当然嬉しい。<br /> だから故に、なるべく問題を起こさないよう立ち回らねばなるまい。<br /> ……。<br /> 欅澤杜花という人間は本来、ここまで評価されるような人間ではない筈だ。<br /> 市子の隣に居るからであり、多少運動が出来る程度で、容姿や性格が飛びぬけて良いという事はない。アリスの宣伝や『よいしょ』があってこそである。<br /> 幸せでありたい。折角好かれているのだから、ふいにしたくない。<br /> 間違っているだろうかと、考える事もある。<br /> ふと、隣の早紀絵を見る。<br /> 彼女は少しだけ顔を横に向け、杜花を見ていた。<br /> 幸せそうな顔をしている。ほんのりと頬を緩め、杜花に微笑む彼女は、気の多さこそあれ、好ましい。<br /> 彼女との出会いは<br /> ……。<br /> いつだったか。何となしに、自分の手を見つめる。<br />「はい。それでですね、今期から、少しずれましたが、副担任を迎える事になりました。白萩の方はご存じでしょうね」<br /> 教室のドアが開く。<br /> 彼女は――メイド服のままだった。<br />「兼谷指導教員です……けど、兼谷先生? メイド服のままは、流石に」<br />「問題有りません、望月先生。兼谷です、これから何かにつけてお嬢様方の生活態度に文句を言いますので、どうぞよろしくお願いします」<br /> 教室に拍手が巻き起こる。まさか副担任まで請け負うとは耳にしていない。<br /> 市子を見ると、何か面白そうにしていた。市子が面白いなら、まあ何でも良いだろうと杜花は納得する。<br /> 兼谷はいつもの出で立ちだ。<br /> 一体どんな強権を使ったのか知らないが、兼谷の出来栄えの良さを知る杜花達は何ら心配もない。<br /> 彼女を見ると同時に視線があった。鉄面皮のような彼女がほんの少し微笑む。<br /> 茶色い髪に灰色の瞳。<br /> 身長は杜花と同じく175前後だろうか。今はメイド服で隠れているものの、すらりと長い脚は実に眩しかったのを覚えている。<br />「ええと、ではそろそろ大講堂に移動しましょう。上着は着て構いません」<br /> 教員の話を受けて皆が静かに立ち上がり、各々準備し始める。<br /> 長い学院集会とは憂鬱なものであるが、これからの期待に胸が膨らむ杜花にとっては、さほど問題にもならない懸念であった。<br /><br /><br /><br /><br /> 一時間ほどの集会を終え、スケジュールなどをホームルームで確認した後に放課後が訪れる。<br /> 昼には少し早いが、小腹を埋めてからアリスの手伝いをしようと考え、食堂にまで赴く事にした。<br /> 午後からの活動に控えて、と考える生徒は多いらしく、そこそこの人が賑わっていた。<br /> いつもの事だが、杜花は積極的に食事を誰かと一緒に取ろうとは思わない。寮は仕方が無いが、昼などは一人が多い。<br /> それを言うのも、杜花は食べるのが早く、周りと歯車がかみ合わないからだ。<br /> そんな事を気にする人間は近くにはいないだろうが、杜花はどうも意識してしまう。<br /> カウンターで軽食とお茶を受け取り、窓際の席を目指す。<br /> 奥に入ろうとしたところ、杜花の足が止まった。<br />「杜花お嬢様。お昼ですか」<br />「いえ。小腹を埋めようと」<br />「なるほど、ああ、どうぞ前へ」<br /> 昼前だ、普通は仕事をしているであろう教員が何故ここで暇を潰しているのか。しかも一人メイド服であるから、目立って仕方が無い。<br /> 兼谷は何を気にする風も無く、飄々としている。薦められて断るような教育を受けていない杜花は、兼谷に言われるまま彼女の正面に腰かけた。<br />「お仕事は?」<br />「書類整理なら朝起きて直ぐに片づけてしまいましたし、白萩の寮生についての細かい資料は全部頭に入っていますし、副担任としてあのクラスの生徒達の情報も当然、全て調べ上げてあります。明日以降については、担任の望月先生のご指示があるまで、私は大した仕事がありません」<br />「相変わらずで」<br />「はい。皆さんの生活を恙無いものにする為、努力して行きますよ、杜花お嬢様」<br /> オーバースペックな彼女を妨げる障害など、殆ど無いと言って過言ではない。教員として然したる問題もない担任の望月が、兼谷の強権に振り回されると思うと、いささか不憫だ。<br /> 兼谷の手元を見る。<br /> きっと学院とは別件の資料だろう、それを読みながらお茶を啜っているようだ。<br />「杜花お嬢様、調子は如何ですか」<br />「問題ありません。体調は万全です。心も潤って仕方が無いというか、最近は滴っている可能性すらある」<br /> ……。<br />「なるほど。何か気がかりな事などはありますか」<br />「ありませんが。どうしました?」<br />「杜花お嬢様はこれから、七星になる方。一郎様から貴女のケアも仰せつかっています。強権使って無理矢理学院にねじ込んだのもそれが理由です」<br />「隠す気無いんですね」<br />「皆さんご存じでしょうし。七星は観神山女学院に多額の出資、それに理事会にも七星がいます。一体誰が逆らえますか。酷いもんです全く。彼にかかると社会秩序とはイコールで彼自身ですからね」<br />「そういう意味では不安ですね」<br />「故に兼谷が居ます。何かありましたら、何なりと。そうですね、殺し以外なら何でも隠ぺいしましょう」<br /> 一応笑っておく。<br /> ただ兼谷が言うと冗談に聞こえないのが恐ろしい。<br /> 七星の凶悪な権力は確かに誰しもが懸念するものなのだが、彼等あっての日本国であると思うと、流石に口を閉ざしてしまう。<br /> そもそも不満らしい不満も上がり難い現在の社会制度を回すのが彼であるからして、大人しく暮らしていた方が幸せだろう。<br /> 杜花は巨悪になど興味はない。<br /> 暗黒メガコーポなどという罵りもあるが、結局のところそれに対抗出来ず、彼等に依存してしまったツケである。<br /> 嫌だと思ったら戦うほかないだろう。強い方が勝つのだ。<br />「じゃあ浮気性な私が起こした問題をもみ消したくなったら声をかけますね」<br />「寝る前でも朝飯前でも可能な工作ですね。私も楽しみなので、さあ、手をアチコチ出してください」<br />「あいや……冗談ですけれども」<br />「――本当に構いませんよ。それこそ早紀絵嬢のようにしてくだすっても構わない。杜花お嬢様は、驚くほどに寂しがり屋ですからね。市子お嬢様の身体に無理をさせたくもない。まあ、早紀絵嬢とアリス嬢だけで良いと言うのならば、それで」<br />「なんだか少し棘がありますね」<br />「……違いますよ。杜花お嬢様は、自由になさればいい。一郎様も、市子様も、それを望んでいる。最終的に七星市子と幸福を共有出来さえすれば、それで良いんです」<br /> 兼谷の目を見る。<br /> 嘘は無いだろう。ただ、流石に節操無しだと思われているのは心外である。早紀絵じゃあるまいに。<br /> 杜花は言葉に出さず、ジェスチャーで示す。呆れますね、だ。<br />「なんでしたら、兼谷にも手を出してみますか?」<br />「いやいやいやいやいや」<br />「主人のメイドに手を出す妻……聞いた事もないような官能小説的展開を期待出来ます」<br />「結構です」<br />「私、魅力無いでしょうか」<br />「いえそれも無いです」<br />「そうですか。それは良かった。では早紀絵嬢と遊ぶのも良いですね」<br />「兼谷さん、教員ですよね?」<br />「早紀絵嬢は教員に二人程愛人がいますね」<br />「彼女どうにもなりませんねホント」<br />「まあ私異性愛者ですけど。そろそろお暇します。杜花お嬢様」<br />「左様ですか。ええもう、どこへなりともどうぞ」<br />「では……ああ、杜花お嬢様」<br />「はい?」<br /> 兼谷は眼だけを右に左にと向けたあと、顔を杜花に寄せる。<br />「……幸福は貴女と共にあります。失くした一年を、どうぞ謳歌ください」<br />「は、はあ」<br /> そういってから、兼谷は資料を小脇に抱え、食堂を後にした。<br /> いや、確かに様にはなるのだが、如何せんメイド服でとても目立つ。杜花はそんな彼女の後姿を見つめながら、ベーグルを一齧りした。<br /><br /><br /><br /><br /> 生徒会活動棟に赴くと、入口には何かしらの集まりが出来ていた。つま先立ちで集団の真中を覗くと、それが市子に群がった生徒だと解る。集団は中等部の子達だ。<br /> 市子に小さく手を振ると、彼女も振り返した。声をかけられるかと思ったが、対応に追われているらしい。邪魔するのも何だと思い、杜花はそのまま二階に上がり、生徒会三役室に入る。<br />「御免下さいな」<br />「権田さん、雪中展示会がなんですって?」<br />「ええと、だからですね、職員会議で、今年は少し早目にやると決まったと」<br />「いつから?」<br />「三日後だと」<br />「はい? 一週間後でしょう? ああもう、会長?」<br />「五月、落ち着いて頂戴な。そういうことです。笑(えみ)、杜花様にお茶」<br />「はーい」<br /> 三役が手元の資料をいじりながら眉間にしわを寄せている。<br /> 話からすると、職員会議で理不尽な決定が下されたようだ。<br /> 雪中展示会自体は大した用意も必要ないだろうが、小等部の作ったミニ雪像を閲覧する学園、クラスの順番などは問題が出るだろう。そもそも三日後の学院全体のスケジュールが不明ならば、どうしようもない。<br /> 杜花は一拍子置いてから、金城に声をかける。<br />「金城さん、教頭に三日後の学院全体の授業スケジュール貰ってきてください。もしかしなくても、たぶん一週間後に予定していたものをそのまま移す形でしょうから、授業はきっと昼までですね」<br />「そ、そうですね。はい。今行ってきます。会長、そちらを宜しくお願いしますね」<br />「はいな。あ、杜花様はそちらのソファに」<br /> 促されてソファに座る。生徒会三役室に来たのは<br /> ……。<br /> 暫くぶりだ。市子は生徒会を抜けてしまっているので、以降副会長であったアリスが代理、再選を経て会長職にいる。ちなみに選挙に学年の括りは無い。<br /> あまり此方に来る用事もなかった為、このソファも懐かしく感じる。<br />「なんでイベントの日付動かしたんでしょうね」<br />「さて。理事会の問題でしょうかね。まあ粛々とこなしますわ。はいこれ」<br /> と、アリスから資料を渡される。雪中展示会の要綱だ。<br />「――雪かき、早めにやってしまいましょう。前日では面倒です。当日の警備云々については、あとで教頭に回すとして……ん、今年は展示場所変えたんですか?」<br />「ええ。いつもは小等部校舎の方でしたけれど、今年から中央広場にしましたの。広さは十分ですわ。それにやはり寒いですし、食堂と大講堂を開放して直ぐ暖をとれた方が良いでしょう。以前は体育館でしたけれど、温まり難い」<br />「ふむ。三日後という事は、明日から既に小等部の子が造り始めるじゃありませんか。国防と警察の共同雪像は?」<br />「今日の夕方から始めるそうですわ」<br />「杜花様、お茶です」<br />「ありがとう」<br />「えへへ」<br /> 書記の笑からお茶を受け取り、一口する。<br /> 行き成り四日の短縮は痛いが、今更覆せないだろう。杜花は頭を巡らせながら要綱を確認して行く。<br />「では交流会も大講堂ですよね。食堂には温かい飲み物でも用意出来るように申請しておきましょう。概要が決まり次第プリント作成……それは三十分で出来るとして、作るにも、PCの使用許可……あとで取りますか。ええと、監視教員に変わりは……ないですね。なら簡単です。もうとにかく、雪かき」<br />「まだ昼の明るいうちにやりたいですわね。校内放送で、生徒会召集が一番かしら」<br />「運動部にも手伝わせましょう。あてがあります」<br />「解りましたわ。では、少し動きますから」<br />「ええ、後で」<br /> 杜花はカップを置き、生徒会三役室を後にする。目指す場所はすぐ階下だ。<br /> 階段を下りて廊下を行くと、まだ市子を囲んだ中等部の生徒がいた。少し失礼して、市子に話しかける。<br />「市子御姉様」<br />「あら杜花。アリスと用事じゃなかったのかしら」<br />「用事中で問題発生中です。市子御姉様、運動部にコネクションは?」<br />「柔道部の小此木駿子さんと仲良しよ。剣道薙刀部の早瀬えいみさんも。妹だもの」<br />「じゃあ私は風子先輩かな……」<br />「あら、力仕事?」<br />「雪中展示会が早まりました。雪かき要員を探しています」<br />「んー」<br /> 市子は顎に人差し指をやり、上空を見つめて何か考えている。悩む事でもあっただろうか。市子と杜花の組み合わせに喜んでいる中等部の生徒に笑顔を振りまきながら、市子の答えを待つ。<br />「じゃあ杜花、御礼にキスして?」<br /> ざわり、と空気が動いた。杜花が眼を見開く。<br /> 中等部の生徒達が、手で口を塞いでびっくりしながら喜んでいる。<br />「あのですね、市子御姉様……解りました、解りましたから、そんな寂しそうな目しないでください。では後で」<br />「今が良いわ」<br />「ちょ、み、みんないるじゃありませんか。あ、ほら、違うの、皆さん。御姉様ったらちょっと、はしゃいでて」<br />『御姉様達、キスなさるって』『ああ、見ていても良いのかしら』『こ、興奮しますわね?』『フレンチ?』などと好き勝手言い始めた。あまり間誤付いてはいられない。<br /> 杜花は頭を振ってから、市子の正面に立つ。<br /> 自分から言い出した割に、市子は杜花に迫られ、ほんの少し後ろに引く。もう遅い。<br /> 後輩たちを少し横目で気にしながら、杜花は市子の髪の毛を手でよけ、唇を合わせる。<br /> 中学生の黄色い悲鳴が出入り口に響く。<br />「んっ。もう、これだけですよ」<br />「あ、うん。その、うふふ。ありがと、杜花。じゃあ、少し掛け合ってくるわ。多い方が良いわよね?」<br />「お願いします……ほら、皆さん、解散ですよ」<br /> 中等部生徒の好奇な目から逃げるようにして、杜花は部活棟の方へと足を向ける。<br /> それにしても、市子も大胆になったものだと言わざるを得ない。以前ならば手を繋ぐ事すら警戒したというのに、今は見せつけたいと言うのだから困ったものだ。<br /> しかし恐らく、それも早紀絵とアリスへの牽制だろう。<br /> マーキングといっても過言ではない。彼女は猫か何かか、と考え、猫耳の市子を想像し、少しテンションが上がる。<br /> 雪道を飛んだり跳ねたりしながら、しかしそこはかとなく御下品にならないように学院内を走り回る。<br /> グラウンド近くに並ぶ総合道場にまで赴き、さて、どう声をかけたものかと、今になって考える。最後に来たのは<br /> ……。<br /> さていつだったか。<br /> 風子と話をするのも久しぶりであるはずだ。以前は……以前は火乃子……<br /> ……。<br /> はて。<br /> 火乃子がなんだったか。<br /> 火乃子は歌那多とくっつき、実に幸せそうだ。風子はというと、確か相変わらずだった記憶がある。あの妹にしてあの姉であるから、杜花の事は諦めていないだろう。<br />「御免下さい」<br />「はい、どちらさまでー……あ、杜花さん」<br />「ごきげんよう。ええと……」<br /> 確か名前は。<br /> ……。<br /> 知らない人物だ。高等部では見ない顔であるから、中等部の生徒だろう。<br />「か、川岸命です。な、何か御用ですか?」<br />「風子先輩はいますか?」<br />「元部長、元部長ですね、もとぶちょー!」<br />「あーい……」<br /> 更衣室の奥から声が聞こえてくる。やがて出て来た彼女は、タンクトップにスパッツという姿があまりにも涼しげだ。<br /> 三ノ宮風子は杜花を認めると、ほんのり顔を赤らめて嬉しそうにする。<br />「あ、杜花! やだ、来るなら行ってよ、もう」<br />「済みません、久しぶりに顔を出してなんですけれども、実はお願いがあって」<br />「ん? なになになに?」<br />「高等部生徒会執行部は三日後に迫った雪中展示会の事前準備として、雪かき要員を欲しています。準備運動がてら如何ですか。勿論タダとは言いません。時間が空いた時にでも、練習参加しましょう」<br />「ホント? マジで? おっけぃおっけぃ!」<br /> 風子が手を叩いて嬉しそうにする。流石にここまで好意を向けられると、何とも言い難い。<br /> 小ざっぱりとしたスポーティな彼女が、照れ隠しに笑う姿がとても魅力的だ。なんとなく兼谷の言葉が頭をよぎり、頭を振る。<br />「急にごめんなさいね」<br />「ううん。じゃあ厚着させて、どこ集まれば良い?」<br />「中央広場にお願いします。スコップやらは此方で用意しますので」<br />「うん。えへへ、じゃあ後で行くからねー」<br />「お願いします」<br /> 風子に礼を言って、杜花は次に行動に移る。用具室から雪かき道具一式を借りてこなければならない。<br /> アリスの様子を窺うつもりでアリスの話を受けたが、とんだ面倒に巻き込まれてしまったものだ。とはいえ、嫌だという訳でもない。<br /> こんな事でもアリスのご機嫌を取れるなら安いものだ。<br /> ……。<br /> いつから自分は、あちこちに愛想を振り撒くような人間になったのだろうか。自分は市子しか見えていなかったというのに、冬休みは<br /> ……。<br /> ……。<br /> ……。<br /> 冬休みはそうだ、彼女達が<br /> ……。<br /> 押しかけてきて、花も否定する訳でなく彼女達を泊め、市子まで上がってきて、早紀絵とアリスに押し倒されて、否定出来ず、二人の初めてを強制的に貰いうける事になってしまった。<br /> 何故記憶があいまいなのか。そんな重要な<br /> ……。<br /> それは良い。<br /> 杜花は取り敢えず、職員棟にまで赴く事にした。やる事は沢山あるのだ。<br /><br /><br /><br /> <br /> 広場に赴くと、想像以上に人が集まっていた。<br /> 結局市子は柔道部以外にも運動部を引っ張ってきたらしく、ジャージ姿の生徒達が幾人も見受けられる。杜花が声をかけた部と、中高生徒会合わせて四十人はいるだろう。<br /> これならば予定の倍は早く片付く筈だ。<br />「御姉様もやるんですか?」<br />「声をかけておいて自分がやらないというのも問題だわ。それに、元生徒会長だものね」<br />「ありがとうございます」<br />「ううん。キスしてもらったから、いいの。うふふ」<br /> 市子に雪かきスコップを渡した所で、アリスが号令をかける。<br />「職員会議の結果、雪中展示会の日付が早まってしまいました。大変な横暴ぶりに憤懣やるかたない想いではありますが、急な呼びかけにもかかわらず、これほど奉仕心に溢れる方に集まっていただき、学院生徒の矜持なるものをヒシヒシと感じているところです。日没まで時間はありませんが、宜しくお願いします」<br /> 号令を受けて、生徒達が割り当てられた区画に散って行く。杜花はアリスに近づき、肩を叩く。<br />「これなら早く終わりますね」<br />「ええ。こんな筈では無かったのに、ごめんなさいね、杜花様」<br />「いいえ。お手伝い出来て光栄です。アリスの悲しそうな顔とか、見たくないですし」<br />「あら、ふふふ。そうですの?」<br /> アリスが屈託なく笑う。彼女の笑顔は本当に綺麗だ。下から覗きこまれると、思わず目を見開いてしまう。この笑顔一つの為だけでも、走りまわった甲斐があるというものだ。<br />「さて、私達も」<br /> そういって、雪かきスコップを手に、八方向に延びる通りの一区画に赴く。<br /> 三十センチは積もっているだろうか。ただ雪を退けるだけなら良いが、小等部の生徒達が雪像を作るのに必要である為、綺麗な部分と汚い部分に分ける必要がある。<br /> まずは上から掬って右に、下の地面に触れた部分は左にと除けて行く。<br /> 単純かつ重労働だ。<br /> これだけお金のかかった学院、自動融雪歩道ぐらいあっても構わないと思うのだが、それはそれで自主性が失われるとして、導入を見送られている。<br /> 自分達の住んでいる場所、地域は自分達で綺麗にしよう、というのは校訓のようなものだ。お嬢様だからと言って単純労働をしないなんて甘っちょろい考えはない。むしろそういった環境で育つ可能性があったからこそ、ここにいるお嬢様は観神山に詰め込まれたといって過言ではなかろう。<br />「女性率先とは言いますけれど、はふ。差別と性差は違います、のよっと。雪重いですわ!」<br />「水の塊ですし。ゆっくりで大丈夫ですよ。腰を痛めますから」<br />「新潟などでは年間凄い数の人が雪に埋もれて亡くなるそうですわ。大の大人の男性がそれですもの、私達では雪の猛威に敵いませんわ、よっと」<br />「まあまあ。こんな感じで良いですか?」<br />「そうそう、って早い早すぎますわ。どんな足腰してますの?」<br />「体力ばかり自慢ですからね」<br /> 雪山にスコップを突き刺し、直ぐ横に腰かける。<br /> 必死に雪を持ち上げては投げるアリスの姿が、妙に可愛らしく見えた。<br /> 雪中展示会と言えば、やはりアリスのエピソードが印象深い。<br /> 市子、杜花、アリス、早紀絵の四人で雪像を作った際、アリスがダダをこねたのだ。<br /> ……。<br />「あれ。そういえば、なんか最近……二人で、くまの雪像なんて、作りましたっけ」<br />「……はて? あら、ええと……そうそう。欅澤神社……この前泊まりに、行った時……でも」<br /> どうも、アリスの言動が怪しい。<br /> しかし自分もまた、どこか引っかかりを覚えている。二人で<br /> ……。<br /> 雪像を作って、手を握り合って、キス……したような、そんな記憶はあるのだが、どうも<br /> ……。<br /> そうだ、それで間違いない。<br />「はあ。ふう。まあこんなものかしら」<br />「アリス、少しサボりましょう」<br /> そういって、杜花は雪の塊を手にして、くまの頭を作って行く。アリスは小首を傾げた。<br />「まだ、作業するところ、沢山ありますわよ?」<br />「私達は走りまわったじゃありませんか。少しぐらい大丈夫ですよ」<br />「あら、くまさん。可愛らしい……」<br /> 杜花に手を伸ばしたアリスは、ほんの少しだけ躊躇い、やがて手を引く。<br /> その顔をなんと言い表せば良いだろうか、とんでもない事を忘れていて、今になって思いだした、という顔である。<br /> しかしそれも一瞬で、アリスはまた普通の顔に戻る。<br />「もう少し作業したら、食堂でお茶を貰いましょう」<br />「……そうですわね」<br />「アリス、どうしました?」<br /> アリスが急にしおらしくなり、杜花の背後に回ったかと思うと、背中から軽く抱きしめる。<br /> 何故そんな事を、こんな昼間からしているのか。幾ら噂で知られているとはいえ、これはじゃれあいの範疇とは判断されないだろう。<br /> あまり目立つような真似はしたくないし、アリスも理解しているだろうに、それでも離そうとはしない。<br />「……解らないんですの。こうしなくちゃ、いけないような気がして。不安なんですわ。凄く、幸せで。私は何か、大切な事を忘れている、そのような、思いがして」<br />「アリス、人に、見られます」<br />「……人がいなければ、構いませんの?」<br />「……参りましたね」<br />「市子御姉様とは皆の前でキスしたとか」<br />「噂の巡りが早い早い……」<br /> それから五分ほどだろうか。<br /> 寒空の下背中から抱きつかれたまま突っ立っていては、流石に寒い。抱きしめる腕をポンポンと叩くと、アリスが漸く杜花を解放した。<br />「他の様子を見に行きましょう。動いた方が良い」<br />「――ええ」<br /> アリスをともなって別の区画に移動する。西の方へ赴くと、そちらは総合部が担当していた。<br /> 流石に鍛えているだけあり、風子の采配も良いのだろう、粗方片付いている。<br />「風子先輩」<br />「あ、杜花。こんなカンジで良いかな?」<br />「大丈夫です」<br />「風子先輩、わざわざ有難うございます」<br />「いいのいいの。杜花の頼みだもの」<br /> そういって、風子は杜花にチラリと視線を送る。<br /> 目ざといアリスがそれに気が付き、怪訝な顔をした。タイミングが悪かったか。いや、杜花周辺は、どこを突き合わせても『こうなる』可能性が多い為、気にしてもいられまい。<br />「ここは大丈夫そうですわね。杜花様、向こうに行きましょ」<br /> そういって、アリスは杜花の腕をひったくる。<br /> あからさまな行動に、心が広い風子も、流石に不満気味に顔を膨らませる。<br />「会長さんや、杜花は置いて行ってよ。少し話があるんだ」<br />「あら、じゃあここで伺いましょう、ねえ?」<br />「いやいや。二人で話したいし。会長さんは向こうへどうぞ」<br />「そんなにやましいお話ですの?」<br /> どうも、アリスの様子がおかしい。<br /> いや、自分も十分おかしいが、アリスの言動にあまりにも棘がある。幾らヤキモチやきとはいえ、ここまであからさまに人さまに醜態を晒すなどあっただろうか。<br /> 好意は嬉しいのだが、それはあんまりである。<br />「アリス、先に……」<br />「ダメです!」<br /> ――中央広場にアリスの声が木霊した。<br /> 幾人もの生徒が、目を見開いて驚いている。それもそうだ、お嬢様を形にしたような天原アリスが、顔を真っ赤にして、理不尽に怒りを露わにしている姿など、一体誰が想像出来ようか。<br /> 風子は完全に面喰っている。杜花もこれには参った。<br />「ごめんなさい、風子先輩。アリス、なんだか虫の居所が悪いみたいで。また、今度で良いですか?」<br />「う、うん。私こそごめん。じゃあまた……今度」<br /> 心底残念そうにする風子を慰めようとすると、アリスは杜花の腕を無理矢理引っ張って走りだした。<br /> 屋根付きの休憩所にまでたどり着くと、アリスは手を離して杜花の胸にしがみ付く。<br /> おかしいにも程がある。<br /> どうすれば、あの天原アリスがここまで狂ってしまうのか、杜花には理解出来ない。<br />「アリス、さっきのは、ありません。風子先輩、悲しそうでしたよ」<br />「殊恋愛において、あんなに積極的な人じゃありませんわ。彼女」<br />「何故アリスが、そんな事を断言出来るんですか。そもそも、恋愛?」<br />「カマトトぶらないでくださいまし。風子先輩、杜花様が大好きなんですのよ。知っているでしょう」<br /> それは、そうだ。むしろ、アリスなどより余程自覚している。<br /> 先ほどの呼びかけも、もしかすれば『そういったお話』だったかもしれない。そのぐらいどうって事はないだろうと、話ぐらいは受けるつもりで居たのだが、アリスの観点から見ると、もっと危機的状況に見えたのかもしれない。<br /> 杜花は、風子を意図的に避けている。<br /> 関係の複雑化を嫌う事もそうだが、もし本当に風子が杜花を好いていて、それこそ告白しなければならないほど切羽詰まっているとすれば、とても不味いからだ。<br /> 彼女は三ノ宮の長女で、欅澤杜花は七星市子の妻になる予定がある。<br /> もしかすれば、一郎ならば笑って許すかもしれないが、そこまで不貞な真似をしたくない。<br /> 杜花は市子だけでも十分すぎるのに、更に幼馴染二人まで自分のモノにして、これ以上何を望むのか。<br />「大丈夫ですよ。アリス、私は、市子御姉様と、アリスと早紀絵、これでもう、死ぬほど幸せです。それに、私は早紀絵ではありませんから、そこまで器用ではない」<br />「気は有るんですのね?」<br />「……恩人ですし、可愛いとも、思ってますけれど」<br />「たぶん、貴女は彼女の話を受けますわ。そして、なし崩し的に、彼女もまた、貴女の物になる」<br />「どうして、そんな事を。アリス、どうしちゃったんですか?」<br />「杜花様、何か、何かおかしい。冬休み明けて、この二週間……何かが」<br /> 抱きついた腕を緩め、アリスが顔を上げる。<br /> その訴える眼は、真剣そのものだ。<br /> とても冗談でこんな事をする人物ではないし、彼女は演技が出来る程器用ではない。しかし、真摯だからこそ、引っかかる。<br />「何とは。具体的な話をください」<br />「言葉では言い表せませんの。でも、何かが不自然ですわ。ボタンをかけ違えたような、一つだけ回らない歯車があるような。違和感としか、言いようがありませんの」<br />「それは、アリス自身が抱いている、違和感ですか?」<br />「貴女が私をアリスと呼び捨てにし始めたのは、いつ」<br /> ……。<br /> ……。<br />「たぶん、冬休みですよね」<br />「たぶんって、何ですの? 冬休み……ああ、そう、うん。そうですわ。でも、たぶんはおかしい」<br />「おかしいと言われても……」<br />「杜花様が呼称をコロコロ変えないでしょう。そもそも、冬休みって、あの、私と杜花様……」<br />『えっちしましたのよ』と、アリスが顔を赤らめる。<br />「……あー――……」<br /> いつ、どうして、どのような理由で、彼女の処女を奪ったのか、記憶があいまいだ。<br /> 彼女にとって、それがどれほど重要な事なのか、理解して余りある。<br /> 本当ならば市子に捧げていたかもしれないものなのだ。<br /> ただ彼女は、確か――そうだ――市子は手が届くような人間ではない天上人で、杜花はもっと親しみやすかったからと、どこかで……聞いた気がする。<br /> アリスのいう違和感の正体こそ解らないが、杜花もその片鱗を実感しているように思える。<br /> どうもここ数日、過去を思い出そうとしては、何か……。<br /> ……。<br /> まあいい。<br />「ごめんね、アリス。でも、さほど気にする事でもありませんよ」<br />「そ、そんな」<br />「――これから沢山するんですから。アリス、座って?」<br />「え、ええ」<br /> 着席を促し、自分も隣に腰かけ、アリスの手を握り締める。<br />「今日は、何故貴女を選んだか、解りますか?」<br />「い、いいえ。早紀絵が優先されるとばかり、思ってましたわ」<br />「貴女とは付き合いが長いと言っても、私の全部を見せている訳ではありません。これから少しずつ知ってもらおうと思いました。今日は、ずっとアリスとこうしたかったんです。ダメでしたか?」<br />「だ、ダメなんて事、ありませんわ。凄く、嬉しいですのよ」<br />「私は酷い人間で、市子御姉様がありながら、貴女にも、早紀絵にも心を許して。もしかしたら、アリスにはショックかもしれませんね。でもきっと、私の本性って、こんなものなんですよ。すぐ、人のぬくもりを欲してしまうような寂しがりで……性行為に、依存しがちな、ダメ人間」<br />「それでも良いと……私は……いつか……いつだったか……貴女を、受け入れようと……」<br />「これから皆が仲良く幸せになって行く為にも、必要だと思います。そうだ、資料を作り終えたら……アリス?」<br /> 握り締めた手に、冷たい雫がこぼれ落ちた。<br /> 何事かと顔を上げると、アリスはすっかり、声を押し殺して泣いている。<br /> 何か、間違っただろうか。<br /> アリスに悲しい想いをさせてしまっただろうか。<br /> アリスを泣かせたのは誰だ。<br /> 恐らく自分だ。<br /> そうだ、その筈だ。<br /> けれども、理由が解らない。<br /> 頭の中で理由に至る為のプロセスが、途中で遮断されてしまっているように、そこへと届かないのだ。<br /> ……。<br /> これ。<br /> ……。<br /> これは。<br />「ごめんなさい、杜花様。今日は、忙しいんですの。またの機会に」<br /> 温かい手がするりと抜ける。アリスが、そういって離れ、走り去って行く。<br /> なんだろう、この虚しさはと、杜花は離された手を胸に抱いた。<br /> 走って行く背中を見つめ、まるで彼女が二度と戻って来ないのではないかという、言い知れない恐怖に襲われる。<br /> そんな、まさか。<br /> 市子にべったりとしていた杜花を、無理矢理でも振り向かせようとしたのは……彼女……だったが……それは何時だったか?<br /> またか。<br /> ……。<br /> またこれか。<br />「ぐっ」<br /> 杜花は、唇をかみしめる。犬歯に引き裂かれ、口の端に血が流れた。<br /> 胸の底から、嫌な予感がふつふつとわき出して来るのが解る。<br /> 自分は間違っているのではないか。<br /> 思考の端々に、兼谷の顔が横切る。<br /> 聞くか。聞かざるか。聞いて応える人間だったか。<br /> まさかだ。アリスもまた、そんな嫌な予感を抱いたからこそ、杜花を連れ出したにきまっている。<br /> 自分だけではない、自分達が間違っているのだ。<br /> 人の居ないスクランブル交差点、もしくは、ひっそりと佇む小さな図書館が人間で満たされてしまっているような、疎外感と齟齬だろう。自分の思考がどう狂っているのか、確認する術がない。<br /> ……。<br /> まあいい。<br /> ……。<br /> まあ……<br /> いや……。<br /> 良くない。<br /> 良くは無い。<br /> 何一つ良くない。<br /> 唇を拭い、杜花は立ち上がる。<br />『何かを何とかしなければ』ならない。<br />「アリス!」<br /> 大声で呼び止める。もう少しで、届かなくなる所だった。それでは困る。<br /> アリスがゆっくりと振り返り、杜花を見た。すぐさま駆け出して、アリスの肩を掴む。彼女はまるで、子供のように身体を震わせた。<br /> ――大事な事を約束した、そんな気がしてならない。<br />「……まだ、雪かきがありますし、資料作りが、残っているでしょう。手伝います。お願い……行かないで」<br />「杜花様、唇が」<br />「アリスが急にいなくなろうとしたので、焦って立ち上がって、噛みました。大した事は」<br /> アリスが懐からハンカチを取り出し、杜花の口元をぬぐう。どこかで観たデザインだ。いや、それは、杜花の物だった。<br /> いつ彼女に貸しただろうか。あげたのだろうか。そんな機会が、どこかに。<br />「あ……これ、杜花様のですわね。後で、洗ってお返ししますわ。なんで、持って……」<br />「……解ります。なんででしょうね。私達は……何か、重大な事を忘れている」<br />「行きましょう。ごめんなさい。そうでしたわ。離さないって、確か、どこかで、言った気がしますもの。自分で反故したりなんて、出来ませんわ」<br /> 改めてアリスの手を取り、また作業に戻る。<br /> 幸福であると思っていた自分に疑問を呈するようになってから、思考を妨げるようなノイズが減った。ただやはり、たまに適当になってしまう場面がある。<br /> そういう時は、アリスを見る事にした。<br /> 自己の存在確認を他人に依存するというのは、果てしなく脆弱だが、今はそれしか手段がない。しかしそれも不思議な話であると、ぼんやりと考える。<br /> 欅澤杜花という人間はそもそも、依存無くしては生きられない人間であると、証明されていた記憶があるからだ。<br /> 明確になったのがいつなのか、細かい事情の一切が、出てくる事はなかった。<br /><br /><br /><br /><br /> 生徒会三役室のソファに座り、何となしに窓の外を見る。既に外は暗く、地面を照らす街灯だけが煌々と灯り、白い雪に反射して明りを散らす。<br /> ソファの肘かけに凭れかかり、アリスの横顔を覗く。<br /> 彼女はもう暫くと席についたまま、何をするでもなくそこに留まっていた。<br /> プリントなどは既に作成済みで、コピーも出来ている。杜花はプリントの原本を手で弄びながら、アリスの言葉を待っていた。<br /> 何でも良い。白萩に戻ろうというなら戻る。<br /> 会話をしたいというならする。もっと違う事をしたいというならば応えよう。<br /> しかしアリスは動かない。<br /> 何かを待っているのかと問うも、いいやと答えられるばかりであった。<br /> 時計を見る。<br /> 既に六時を過ぎている。時間外活動届は出していない。<br /> 本来戻れば怒られるはずだ。ただ、指導教員が兼谷になってしまった為、恐らくお願いすれば黙っていて貰えるだろう。<br /> それは良い。そんなものは、どうあろうと瑣末な問題だ。<br />「アリス」<br /> 声をかけると、彼女が振り向いた。<br /> 青い目を杜花に向け、やがて視線を降ろす。怒られた小動物のようだ。<br /> 風子の一件だろうか。罪悪感に自分が嫌になっているのかもしれない。<br />「どうしたら良いでしょう。アリスは、寂しかったり、辛かったり、していますか。私では取り除けませんか?」<br />「……こうして、いたような気がしますの。とても、とても大事な人が、亡くなる前に、私と貴女は、ここで、こんな風に、何を喋るでもなく、静かにしていた」<br />「誰が……亡くなったと?」<br />「そう。誰も亡くなってなんていませんわ。そんな事はない。でも、私は既知を抱いて、思いだそうとする度に、胸が苦しくなる」<br />「……私達の、忘れている事、ですか」<br /> アリスが席を立ち、杜花の隣に腰かける。<br /> その手は腰に、胸元に、そして彼女の唇は、杜花の首筋に吸いついた。杜花は何も言わず、アリスの髪をゆっくり撫でる。<br /> 彼女は無知だっただけで、奥手という訳ではない。むしろ人様より余程敏感であるし、未知を知る意欲が高く、まして女性の快感を覚えたてであるからして、ハマり易いタイプと言えた。<br /> 市子などもそうだったか。<br /> ただ、意地悪されるだけで達するような変態と比べれば、アリスはまだまだ一般人だ。勿論今後、杜花の欲求を真正面からぶつけられた場合、一般人で居られるかどうかは、解らない。<br /> さて、求められているだろうか。<br /> アリスの額にキスをするも、反応は無かった。こうしていたいだけなのだろうと判断し、杜花は手を出さず、アリスの言葉を待つ。<br />「学院に戻ってきてからずっと、それ以前の事を思い出そうとすると、思考がかき消えてしまいますの。今こうして、過去を思い出そうとしている最中も、ずっとチリチリと、疑問が起きては消えて行く。話せる間に、話しておこうと、想いまして」<br />「学院に戻ってきてから、ですか。ええと……」<br />「私達、冬休みに一緒にいましたわよね。杜花様、市子御姉様、早紀絵、私で」<br />「いま、したね。ええ。確か、社務所の手伝いとか……屋台を見て回ったりとか……」<br />「何故、でしょう?」<br />「何故とは?」<br />「だって、おかしいじゃありませんの。神社の最盛期ですのよ? 一体どんな思考をしたら、忙しい神社に泊まりに行こう、なんて事になるのか、幾ら考えても解らなくて」<br />「それは、ほら。貴女達が、御姉様一辺倒な私を、その……じ、自分でいうの、恥ずかしいですね」<br />「そう、ですわね。ええ。どうしても、杜花様に此方を向いて貰いたかった。でも、ですわ。それなら、別に学院でも良いじゃありませんの。邪魔が入らないシチュエーションなんて、幾らでもありますわ。今のように」<br /> 思考を巡らせる。考えたく無くなる欲求を抑え、アリスの言葉に耳を傾ける。<br /> 確かにそうだ。<br /> わざわざ、無茶苦茶に忙しい神社に泊まりに来るなぞ、余程の理由が無ければあり得ない。<br /> そもそもだ、あの花が何故そんなものを許可するのか。<br /> 杜花の知る欅澤花は、余計な事は一切しない。杜花のお願いなぞ、一蹴である。<br /> アリスと早紀絵が……自分を求めて来るのならば、別に冬休みでなくても良かった筈だ。何故そんなリスクの高い方を選んだのか。理由が無ければならない。<br />「おかしい。やっぱり、おかしいです、アリス。私達は、何かを踏み外している」<br />「でも、幸せなんですわよね、杜花様は」<br /> アリスの瞳がまっすぐ、杜花を見る。<br /> その通り、幸せでしょうがない。これ以上の幸福など、望むべくもない程にだ。<br /> 振り向けば美しく愛しい彼女達が、自分に華のように微笑みかけてくれる。<br /> 手を取れば顔を赤らめ、キスをすれば笑ってくれる。<br /> 心が甘い液体で満たされ、こぼれてしまうほどに、欅澤杜花は幸福なのだ。<br /> 名家の娘三人と、いがみ合い無く過ごし、未来すらも約束されている現状は、一体どれだけの人生を繰り返せばそんなご褒美がもらえるのだろうかと、思わざるを得ない至福である。<br /> 美しく、可愛らしく、愛しい彼女達は、こんな碌でもない人間を心から愛してくれている。<br /> ……。<br /> 甘受すれば……良いのではないか。<br /> 何故、意味不明な違和感などを追い求めねばならないのか。<br /> アリスの言葉とて、本当かどうか解らない。<br /> そんな不確定な要素で甘露を苦渋に変えるなど、真っ当な人間の行いではないのだ。<br /> 人は幸せになりたくて生きている。<br /> どんな善意を引っ張り出して例えようとも、結局は本人の心が満ちるか否かでしかない。<br /> 純粋に私は人を助けたいんです、なんてものはお笑い草であり、本気ならば精神疾患だ。<br /> 根本にはまず自分がいなくてはならない。<br /> 杜花の面倒見の良さとて、相手に好かれたいからだ。<br /> 市子に良いところを見せたいからだ。<br /> 綺麗で可愛い子達に、チヤホヤされたいからである。<br /> 杜花が鍛えるのは、強くありたいからであるし、どんな事をしても有り余る体力が欲しいからだ。<br /> もっと言えば、向かって来る女の子を踏みつぶして、気持ち良くなりたいからだ。<br /> どうあがいても、欅澤杜花は怪物である。<br /> 人恋しい、突然変異だ。<br /> 許されるならば、そうだ。<br /> 自分の好きな子達を、何もかも蹂躙してしまいたいと、良く考える。<br /> そしてそれだけの事をやすやすとやってのけるだけの容姿と、才能と、コネクションと、テクニックを持ち合わせているという現状に、身震いすら覚えている。<br />(……ああ)<br /> 想像し、舌舐めずりする。<br /> まさしく今隣にいる娘は、自分が最も美しいと思うものの一つであって、しかもきっと、何をしようとも、彼女は文句を言わないだろう。<br /> 押し倒されて恥ずかしがる姿など、考えるだけで脳が融けそうだ。<br /> 髪を掴んで引き倒し、小奇麗なブレザーを前から全部肌蹴けさせ、その綺麗な顔に股間を押しあてて、ショーツの上から舐めろと命令する。<br /> 彼女は半泣きで、けれども逆らえない。愛しい杜花様が求めているのだ。<br /> 柔らかい唇で何度もキスを繰り返し、湿った秘部に舌を差し込み、幾度となく……。<br /> ――頭を抱える。<br /> なんだそれは。<br /> 確かに、そうだろう。<br /> アリスは良い子だ。愛しい杜花の要求を、きっと幾らでも受け入れるだろう。彼女は杜花に嫌われる事を極端に恐れているきらいがある。そこに付け込めば、杜花は至上の快感を得られるに違いない。<br /> ただ、杜花もまた、アリスが愛しいのだ。そんな事、間違っても、出来ない。<br /> 何故そんな考えに至るのか。次の日、どんな顔を合わせれば良い。<br /> 今、僅かでも、それを実行しようとするなど、どうかしている。そんな話はしていないのだ。<br /> チラつくノイズを振り払うようにして、杜花はアリスの手を握る。<br />「杜花様?」<br />「……アリスは私の事を、殴っても良いです」<br />「殴りませんわ。どうしましたの?」<br />「そろそろ、戻りましょう。兼谷さんに怒られる」<br /><br /> ――時計を見る。時刻は、六時半を回ろうとしていた。<br /><br /> アリスの手を引き、立ち上がった、その瞬間だった。<br /> 突如三役室の電源が落ちた。電気だけではない、空調も完全に止まっている。<br /> 咄嗟の事に窓の外を望む。<br /> 停電はあり得ない。現代において、停電などという低次元な不具合が起きるような施設は、日本国にほぼ存在しえない。<br /> ここは古いといっても、白萩ほど脆弱には出来ていない。電源がシャットダウンしようとも、通常は予備電源、予備予備電源が作動する。一家に三台の時代なのだ。<br /> 窓の外の街灯は、未だに灯り続けている。<br /> つまり、区画の停電ではない。<br /> どこかでショートを起こしたか。それこそ考え難い。<br /> 嫌な予感が杜花の脳裏をよぎる。間違いなく、感覚外の感覚だ。<br />「アリス。絶対に離れないで」<br />「停電なんて、そんなこと」<br />「あり得ません。だから、気をつけて。何かある」<br /> アリスに上着を着せ、杜花は周囲に全力で気を払う。外の街灯のお陰で出入り口は見える。握り締めた手を離さないように、杜花は三役室を出て、アリスに鍵を締めるよう指示した。<br /> 瞬間、廊下の遠くから物音がした。<br /> 生徒会活動棟には、既に他の生徒はいない筈だ。<br /> 一度目を閉じ、薄暗い廊下の奥を、改めて『認識』する。<br />「市子おねえ様……では、ありません、わね」<br />「……幽霊。普通の人が認識出来るレベルで濃い?」<br />「お、オカルト?」<br />「私自身、オカルトみたいなものです」<br /><br />『カカカコココ……――――カコッ――――……カカココッ……――……』<br /><br /> 幽霊、と例えるのが一番良いだろう。<br /> 廊下を黒い影の伸ばす、触手めいた髪の毛が覆いだす。こういった手合いは、心を持っていかれれば終わりだ。<br /> 過去、何度か観た事がある。<br /> 人以外の何か、しかし人以外ではありえない何か。<br /> 肉と魂を、魂と魄を別たれて尚、生き続けてしまった何かである。<br /> 意思という駆動部を持ち続ける記憶の破片だ。<br />「――なに、何……あれ、でも……見た事が……」<br />「私達は、きっと知っている。あれが、何で、誰なのか」<br /> アリスの前に立ち、杜花が構える。<br /> 物理的にどうにかなる相手では有るまいが、強い意志を見せるだけで退散するものもいる。<br /> 欅澤の女はどうも直感部分が鋭い。それは三代続くもので、杜花に至っては最早超能力の類だ。<br /> 一度、大病院で検査を受けた事があった。<br /> 脳波計測の結果、通常人間が使う部分とは異なる部位で世界を見ている事が判明している。<br /> そして確か、それは……市子も同じであった筈だ。<br /> 部位こそ異なるが、一般人とは、見る世界が全く違うのである。<br /> その脳の使っていない部分を極端に刺激する、コレ。<br />「どちらさま、ですか」<br /> 問いかける。<br />『彼女』は、額から顎にかけて、全てが口だ。<br />『彼女』は何かを、伝えようとしている。<br /><br />『カカココ……あ、ア……あ、あ……――ハナ……――ハナ……花、誉?』<br /><br /> 全身が総毛立つ。<br /> ありえてはならない記憶が、濁流のように杜花を、そしてアリスを襲った。<br />「――あ、あ。あ、貴女……は」<br />「いっ……いやっ……」<br />『花、誉、逃げて。無事なのね。逃げて、私は、あいつの脳幹を、叩き切る。この能力は、集中が必要なの。ああ――来た、逃げて……花、誉――』<br /> 口だけであった顔が、やがて見覚えのある形に変わって行く。<br /> 一昔前の制服を着た『七星市子』は、杜花を『花』と呼び、アリスを『誉』と呼んだ。<br />『市子』の表情が変わる。杜花達の背後を睨みつけている。<br /> 振り返れば、そこには、拳銃を構え、防弾フロントアーマを着こんだ男が、いやらしい目つきで立っている。<br /> 意味が解らない。<br /> 何が起こっているのか。<br /> しかし杜花は――もはや条件反射のように動き、アリスを壁に寄るようジェスチャーすると、拳銃を構える男に悠然と歩み寄る。<br />「……これも霊? いや、違う」<br /> 男は此方を見ていない。遠くの『市子』だけを見ているようだ。<br /> 杜花はそのまま男の拳銃を握る右腕を叩き落とし、股間にひざ蹴りを叩きこむ。<br /> 感触はある――が、人間を叩いた、という実感がまるでない。<br />『ああ……そんな……誉……誉ぇ……うそぉ……うそよぉぉぉッ』<br /> 泣き叫ぶ『市子』の声に振り返ると、そこでは、勝手に物事が進んでいた。<br /> アリス……ではない。『誉』と呼ばれる人物が蹲り、倒れている。『市子』はそれを一生懸命背負う。<br />『花、逃げて、花、あなたは……逃げて……』<br />「なにを――言って……」<br /> そう残して、『市子』は走り去ってしまった。呆気に取られる杜花に、アリスが駆け寄る。<br />「アリス、市子は、何を……」<br />「市子御姉様じゃありませんわ。あれは――撫子。利根河、撫子」<br />「アリス……うっ……ぐっ……」<br /> 脳が熱を帯びる。<br /> 歪む視界、ふらつく頭を押さえ、杜花は壁に手をついた。<br /><br /> ……。<br /> 違う。<br /> ……。<br /> やめろ。<br /> ……。<br /> 人の脳を。<br /> ……。<br /><br />「勝手に弄るな――ッッ!!」<br /> 杜花の拳が、活動棟の壁を思い切り叩きつけられる。<br /> 据え付けられた窓枠とガラス戸が、その衝撃に悲鳴を上げた。<br /> 相当量の記憶が、脳内を蹂躙して行く。<br /> 過去あった事、今現在、そして未来への展望。<br />『当時』考えていた事が、今ならば想い描ける。霧がかかったようだった思考が晴れやかになり、自分が自分を取り戻す実感を得る。<br />「……ああ……そっか。あの影、結晶影響でも、市子でもなかった。元から、利根河撫子、だったんですね」<br />「少し、ふらつきますわね。ああ、なんてこと……杜花様……私達……」<br /> 電源が復旧し、廊下に電灯が灯り始める。<br />「アリス。少し、遅れて戻ります。先に寮へ。兼谷さんへは、ワガママを言って、まだ仕事をしているとでも、伝えてください」<br />「あの人に、通じるでしょうか、そんな話。この状況、明らかに、二子さん達の所為、ですわよね。どう考えても、兼谷さんは、監視役」<br />「暴挙には出ないでしょう。少し確認したい事があるんです。お願いです、アリス」<br />「……解りましたわ。杜花様、どうか……変な気だけは、起こさないでくださいまし」<br /> アリスに釘を刺されてから、一先ず生徒会活動棟を締めきる。<br /> 何か言いたげなアリスを先に寮へと帰し、杜花は一人、警備員と監視カメラを避けるようにして、夜の学院を行く。<br /> 生徒会活動棟を出てから、ノイズの影響は皆無であった。<br /> どのような手法で広範囲にあの『超能力』を拡散しているのか、原理は理解出来ないが、二子達の思惑の下にあるだろう。<br /> 決して心を持って行かれぬようにと縛りながら、杜花は暗がりから暗がりへと逃げるようにして歩む。<br /> 二子は市子になると言った。<br /> ではあの市子は、二子なのだろう。<br /> 学院の生徒教員職員ひっくるめ、全て改竄の影響下にあるのだ。自分達は、まるで仮初の青春を演じさせられていたのだろう。<br /> 違和感は覚えていた。<br /> 幸福でありすぎる事実を、疑問視していた。<br /> しかし、杜花は、それを完全に受け入れていたのだ。<br /> 決して仮初の市子に靡かぬようにと早紀絵が、アリスが苦心したというのに……自分は結局、七星市子という形から、逃れる事は出来なかった、その証明である。<br /> あまりにも幸せだ。どうしようもないほどに。<br /> だが故に、疑問点もある。<br /> あの仮初が、仮初でも市子だというのならば、嫉妬の塊である市子が……何故、アリスと早紀絵を受け入れるような形での改竄を行ったか、である。<br /> 兼谷、そして二子の思惑もあるのだろうか。殴りつけて問い詰めるには、無謀だ。<br />(……いる)<br /> 闇に紛れるようにして、杜花が訪れたのは文化部室棟である。<br />『誉』を引きずるように背負った『撫子』が、部室棟一階一番奥の、文芸部室に入って行くのが解った。<br /> 霊、というには違和感がある。残滓とでも言うのだろう。<br />(当時の記憶を……延々と、再生し続けている……のかな)<br /> それは、虚しすぎる。<br /> 彼女達は終わらない占拠事件を繰り返しているのだ。<br /> 杜花は残滓よりも、むしろ監視カメラにだけ注意を払い、部室棟の奥へと進む。<br /> 用意周到な兼谷だ、監視カメラを私有、もしくはハッキングしていてもおかしくは無い。改竄影響が解けていると悟られれば、別の手段で杜花を押さえつけにかかるかもしれないのだ。<br /> 一番奥の文芸部室。<br /> 鍵は、開いている。<br /> 引き開き、中に入ると、そこでは血まみれで蹲る誉と、それに縋りつき、泣き晴らす撫子が居た。<br /> ……上からは、既に首吊りのロープが下がっている。躊躇っているのだろう。<br />『どうして……こんな事に……。まさかこの学校で起きるなんて……。貴女は何も悪くないのに……ここの子達、誰が悪いっていうの……ああ、誉……返事をして……』<br /> 撫子は、此方に気を払う素振りを見せない。本当に唯、再生しているだけなのだ。<br />『これ、見て。この鍵。ここに、隠していたの。本当は、みんなに見つけて貰いたかったのに、ダメだったわ。ああせめて、みんなでちゃんと、仲直りしておけば……聞いて、誉……』<br />『ごめんね。私が、花ばかり、見ていたと、そう、想われてしまったのね。私、気が多くて、貴女達、みんな、大好きで……きっと、誰かがこの鍵を見つけてくれると、想っていたの。それでね、みんなで、お茶とお菓子を用意して、ガゼボの裏に隠した……ほら、私達の言葉を、刻んだでしょう。そこにね、宝箱、隠したの。みんなで、開けて、貴女達に……ああ……ああっ』<br /> ドアをガンガンと叩きつける音が聞こえる。テロリスト達も、残滓として再現されているのだろう。先ほど杜花が殴りつけたものは、きっとそれだ。<br />『花……誉……きさら……ごめん……ごめんね……私、汚されたくない』<br />「や……やめ……」<br /> 思わず、声が漏れる。これは再現映像だ。何を言った所で、届く筈はない。<br /> しかし、撫子は首を吊る瞬間、杜花に視線を投げかけたように、見えた。<br />「やめて……やめてよ……」<br /> 何もかも。<br /> 何もかも、ここから始まっていた。<br /> 撫子の死を目撃すると同時に、また新しい記憶が流れ込んでくる。<br /> これは、杜花が有しているものではない。恐らくは、花が経験した青春の場面だ。<br /> 撫子、誉、きさら、花の四人が築き上げた、百合の花園。<br /> そして関係の不和と、事件による楽園の崩壊の記憶である。<br /> ――この身は。<br /> 欅澤杜花は、彼女達を再現する為に、いるのだ。<br />「やめてよぅ……私は……違うのに……市子が居れば、よかったのに……こんなもの、私は知らないのに……アリスも、サキも、関係ないのに……」<br /> 市子は、撫子を再現したが故に命を落とした。しかしそれでも納得しないのだろう。<br /> まだ何か、あるのだろう。<br /> 何かあるからこそ、まだこのような茶番を演じさせているのだ。<br /> これ以上……これ以上、市子を汚すのか、七星一郎。<br /> これ以上、偽りの幸福を演じさせるつもりか、七星一郎。<br />「――もう、お断りですよ。私は。市子が死んだ時、私だってもう、死んでいる筈なのだから」<br /> これ以上、付き合わされてたまるか。<br /> まるで心に沁みつきかけたものが、そげ落ちて行くような感覚があった。<br /> 早紀絵やアリスに対する気持すら、薄まって行く。<br /> 杜花は……もう一度、仮面をかぶり直す。<br /> 自分は、もう終わった人間なのだと、酷い嫌悪に心が塗りつぶされて行く。<br /> 吐き気がする。<br /><br /> ――もう、いやだ。<br /><br /><br /><br /><br /> <br /> 2、満田早紀絵<br /><br /><br /><br />「これから寒さも厳しいですから、風邪などひかないようにしてくださいね。では」<br />「起立」<br /> 授業を終え、放課後を迎える。早紀絵は一度小さく教室を見回した。<br /> 兼谷はいつものように、生徒達が教室を出るまで動かない。<br /> 杜花を見る。ここ二日、元気が無い様子だ。アリスも同様である。<br /> 市子に目をやる。<br /> 彼女は他の生徒達と談笑しているようだ。<br /> 杜花とアリスの落ち込み具合を察しの良い生徒達が判別して、その生徒の流れが市子に行っているのだろう、いつもより群がる人が多い。<br /> 早紀絵は誰に声をかけるでもなく、教室を後にする。<br /> 恋人何人かに手を振りながら、一階にまで降りて、一年一組を目指す。<br /> 丁度HRが終わった所だろう。幾人かのグループが扉を開けて出て行く。入れ替わるようにして早紀絵が入り、目当ての人物に声をかけた。<br />「火乃子」<br />「あれ。早紀絵先輩。どうかしましたか」<br />「歌那多が来る前に少し聞きたいのだけれど。あ、悪口とか変な噂とかじゃない」<br />「そりゃあ、早紀絵先輩が女の子の悪口言わないでしょうけど。どうしましたか」<br /> 流石に教室では目立つ。まして早紀絵も有名生徒だ。<br /> 火乃子に暫くした後図書室まで来てくれと声をかけて、早紀絵は図書室に向かう。<br /> 流石に放課後直後という事もあり、図書室に人気はない。<br /> 当番の教員に頭を下げ、窓際の奥の席を陣取り、手帳を開く。<br />『1月22日 頭の中がまるでお花畑だ。幸せすぎておかしくなってしまいそう。私はこんなにも、幸福で良い人間だろうか』<br />『1月23日 少しだけ杜花の様子が変だ。アリスもおかしい。尋ねれば、苦い顔をされる』<br />『1月25日 市子が気になって仕方が無い。市子もまた、今までにはあり得ないぐらい、友好的に接してくる』<br />『1月28日 市子に文芸部へ呼ばれる。キスをされた。何かがおかしい。私は、こんな事をしていて良いのだろうか』<br />『1月30日 この手帳、新しすぎないか。いつ買い換えた? 歳を跨いで新しいものにしたのだろうか』<br />『2月02日 市子に文芸部へ呼ばれる。一時間ほど会話した。終始、彼女は顔が紅い』<br />『2月05日 何かが足りない。何かがおかしい。何か違和感がある。意味が解らない』<br />『2月07日 何もない素晴らしい日だ。メイを弄り倒す』<br />『2月09日 今日は市子に呼ばれている』<br /> ここ数日、書きなぐるようにしてメモをつけている。<br /> 普段からメモをとるクセはあったものの、こうして毎日を確認するようにしたのは初めてである筈だ。どうにもこうにも、過去を思い出そうとすると、記憶があいまいになる節がある。<br /> 忘れない為といえばそうなのだが、この手帳自体に違和感を覚えてならない。<br /> 気が付いて過去の手帳を探ったものの、幾ら部屋を掘り返しても出てこなかった。<br /> それに、新学期になる前の記憶が、どうも怪しい。<br /> 冬休みは皆で欅澤神社に行った。<br /> そこで、杜花を市子から少しでも引きはがそうとしたのである。しかし、神社の最盛期に泊まりに行くなど、どう考えてもおかしい。<br /> そもそも、あの花が許す筈がない。<br /> 余程の理由がなければならないのだが、早紀絵にはそれが思い出せずにいた。<br /> そしてどういう訳か、市子が妙に早紀絵を気にする。<br /> 今までで言えば、早紀絵は杜花を奪おうとする泥棒猫以外何者でもなかった。市子は当然、それを表には出さなかったが、確実に警戒はされていただろう。<br /> しかし、市子からの接触があった。四人で仲良くやって行く為の方針転換だろうか。<br /> だが、キスまではやりすぎだと、早紀絵にしてそう思ってしまう。<br />(何かが……変だ。もしかして、モリカもアリスも、そう感じてるのかな)<br /> 二人にそれを聞く勇気がない。<br /> 全く確証の無い話をして、あの二人に変な目で見られた場合、早紀絵の被る精神的被害は計り知れない。どうあっても嫌われたくは無いのである。当然市子にも聞けはしなかった。<br /> そこで白羽の矢が立ったのが、火乃子である。<br />「お待たせしました」<br />「ごめんね、呼びつけて」<br /> 火乃子は元から早紀絵は眼中になく、そもそも歌那多と仲良くしていればそれで良い人間である。そして火乃子は頭が良く、物事に聡い……と、何故かそのようなイメージがあった。<br /> 火乃子を隣に座らせ、早紀絵はゆっくりと切り出す。<br />「火乃子、私の事を変な奴だと思ってくれて構わないから、聞いてほしい」<br />「元から変ですよ。あ、御遊びとかそういうの無しですからね」<br />「違う違う。いや、興味はあるけど。ええとね、最近、なんか違和感ない?」<br /> やはりおかしな話だっただろうか。火乃子が眉を顰め、眼鏡を上げる。<br />「具体的に」<br />「なんかおかしい。なんか、忘れてる気がする。一つ、質問良いかな」<br />「……どうぞ」<br />「モリカを追いかけていた貴女が、歌那多とくっつくに至った理由が、私は思い出せない」<br /> 思い出せない。<br /> 風子同様、三ノ宮姉妹は杜花に熱心であった筈だ。しかし何時の間にか、火乃子は歌那多とくっつき、あまつさえ婚約までしている。<br /> それだけの出来事、耳聡い早紀絵が知らない訳がないのだ。<br /> だが、どこを調べても、どう考えても、答えに至らないのである。<br />「歌那多が可愛いので。あ、あげませんよ」<br />「そういうのは良い。同室で仲が良いのは知ってた。でも、モリカ追いかけてたでしょ」<br />「――あー……そう、でしたね。杜花さん……あ……れ?」<br /> 火乃子は眼鏡を外し、眉間を摘まむ。<br /> きっと、自分と同じような違和感を抱いているのだろう。<br /> 誰がどうして何がどうなったのか、過去を辿るたびに、断絶を感じるのだ。若年性健忘症でさえ、そこまで極端に思い出せないなどという話は無い。<br /> まして、好きな人と一緒になった理由が思い出せないなど、倦怠期の夫婦でもあるまいに、あり得ない。<br />「――そう、か。これ、か。おかしいですね。何故、でしたっけ。いや、変です。絶対に」<br />「……嫌な予感がするの。火乃子、お願い、誰にもこの事は」<br />「それは、構いませんが。……誰に隠してるんですか?」<br />「解らない。でもおかしいのは、今の通り。引っかかるの。何かが」<br /> 忘れぬように、メモをかき加えて行く。<br /> 箇条書きにした名前に○を付け、違和感の内容を書き記す。何人かピックアップしたが、はっきりと聞けそうなのは火乃子のみだった。<br /> 同室の支倉メイには、何も聞いていない。むしろ真っ先に聞くべきである人物だが、早紀絵の直感がそれを邪魔した。具体的な理由は無い、これも同じく、違和感の類である。<br />「火乃子、何か、それ以外に忘れてるもの、無いかな」<br />「いえ、生憎。お役に立てましたか」<br />「うん。今度埋め合わせするよ、ごめんね、ありがとう」<br />「はあ……げ、元気ありませんね。なんだか、調子狂っちゃう」<br />「まあま、大人しい日だってあるさね。そいじゃあ、失礼」<br /> 席を立ち、図書館の外に出る。<br /> 他にあては無いし、あまり事を荒げて杜花達に心配されたくない。<br /> 何となしに、自分の手帳を見つめる。<br /> 真新しいこれは、何時購入し、いつから使い始めたのか。<br /> 一番最初のページは、冬休み明けからのメモだ。<br /> 自分は何をメモする為に、手帳を持ち歩いていたのだろうか。<br /> クセである、という認識はあるも、普段どういった物を主としてメモしていたのかが解らない。<br /> ……。<br /> まあ良いだろう。考えても仕方が無い事だ。<br /> やる事も終えた、放課後は市子に呼ばれているので、約束を果たさなければならない。<br /> ただ、放課後というのは市子に生徒が群がるという意味でもある為、手帳の整理をしてから文芸部室に赴く。<br /> 文化部室棟一階一番奥。<br /> 飾りっ気の無い鉄扉のノブを回すと、すんなり開いた。<br />「やほ」<br />「あら早紀絵。早いのね」<br />「市子待たせる奴ってのもなかなか居ないと思うけど」<br /> 本来コンクリート壁である筈の部屋はフローリング改装され、至るところに本が積み上げられている。<br /> 木製のアンティーク机の前で本を読んでいたらしい市子が振り返り、早紀絵にして身震いするような美しい笑みを浮かべる。<br /> 苦手だ。<br /> 当然早紀絵は綺麗で煌びやかなものが好きである。しかしそれらは全て、自分の手の届く範囲のものであり、見た事も無いようなものに対しては、もはや畏怖しかないだろう。<br /> アリスなども心の底から市子を崇拝しているが、とてもではないが恋人なんて自分ではおこがましい、などと思っているらしい。<br /> それは早紀絵にも言えたが、もとからの主眼が杜花にあり、市子に触れる気はなかった。しかし関係の性質上、どうやっても早紀絵とアリスは、市子を通さず杜花には触れる事が出来ない。<br />「かけて。そうそう、電熱器なんて発掘したの。給湯室にお茶を取りに行く手間が省けるわ」<br />「またそんなの何処から……」<br />「秘密。ふふっ」<br /> 市子は機嫌が良いと見える。<br /> 早紀絵は三つある椅子の内、二人掛けのソファに腰かけて背を凭れる。お茶を淹れる市子の横顔をぼんやりと眺めながら、妙な居心地の良さに、少し中てられる。<br /> 最初呼ばれた時は何事かと思ったが、二回三回と繰り返している内に、緊張感よりもリラックスに針が振れた。<br /> 四人の関係性を構築して行く上で、アリスは元から妹だとしても、杜花ばかり見ていた早紀絵とはやはり距離があると感じたのだろう。<br /> つまり今呼ばれているのは、そういった壁を取り払う作業なのかもしれない。<br /> 市子が早紀絵にお茶を出し、直ぐ隣に腰かける。<br />「今日は何のご用事で、オネーサマ」<br />「早紀絵とお茶が飲みたかったの。あ、兼谷に持って来させたお茶菓子、食べる?」<br />「うん」<br />「――もう長い事一緒にいるじゃない。貴女が杜花にくっ付いて来たのが、小等部の五年生だったかしら」<br /> ……。<br />「あー、うん。そうだねえ。『これが御姉様です』って紹介されて、めちゃくちゃショックだったの、覚えてるよ」<br />「何故かしら?」<br />「ブン殴られて、教育されちゃってさ。あ、この人について行けばいいんだって思って、なんか嬉しかったのに、その本人がさ、自分の価値観を全て、他人に依存してたわけよ。辛いでしょなんか」<br />「あー……。謝罪のしようがないわ。あの頃から、私と杜花は……ふふ。ねえ?」<br />「はーいはい。羨ましい事ですね」<br />「そう妬かないで。これからは四人で居るんだから」<br /> 市子からお菓子を受け取り、袋を破って口に含む。<br /> レーズン入りのバターサンドだ。しっとりしたクッキーが口の中で解け、バターの風味が広がって行く。レーズンの甘みと酸味が絶妙だ。ストレートの紅茶に良く合う。<br /> 女の子という生物は、甘みを感じると、理性と本能で鬩ぎ合う。それが顔に出てしまったのか、そんな早紀絵を見て、市子が笑う。<br /> 口に手を当て、上品に微笑む彼女は、どうしようもないくらいに魅力的だ。<br /> ……あの唇にキスされたのだ。<br /> 杜花が知れば、どんな顔をするだろうか。<br /> 市子はずっと杜花のモノであり、杜花もずっと市子のモノだった。<br /> 互いに他の侵入を許さなかった者同士が、今は許している。<br /> 戯れではするまい。それ相応の理由があるのだろう。<br />「エピクトテスだったかしら。『快楽に抗するは賢者、快楽の奴隷になるのは愚者』」<br />「ああ。親は奴隷だし自分は売られるし病弱だし足不自由だしって、偉く辛い哲学者ね」<br />「当時の世相を読まないで言葉を理解は出来ないけれど、言葉だけ受け取るならば、なんとも残酷ね」<br />「私は別に愚者で良いよ。賢者ぶって良い事ってあるの?」<br />「そうそう。偉くなると、背負い込むものが多くなって、結果堕落すると、元からの愚者よりもっと悲惨な目に合うわ」<br />「で、何の話さ?」<br />「自分が何者かも解らない世の中で、どれが正しくどれが間違っていてなんて知れず、快楽を否定するか甘受するか選べ、なんて言われても、辛いわよねって話」<br />「自分のしたい事をする為に頑張るよ。快楽を得る為には努力だって必要だもの。溺れる程の快楽なんて、一体どうやったら手に入るのさ。それこそ小さい幸せを猿みたいにシコシコとかき集めるならば簡単かもしれないけれど、私達は人間だからさ、知性が大きい分、得ようと思う快楽も大きい」<br />「早紀絵は聡明ね。快楽の価値基準すら不明瞭だから、そう個人次第、と言える。でも、人間も所詮動物だから、恒久的な価値観は存在すると思うの。貴女が求めるものは何かしら?」<br /> ……。<br /> なん、だろうか。<br /> 今、自分は十分に幸せだ。<br /> 皆に愛されていると感じる。<br /> こんな時間が永遠に続いてくれれば、きっと悩みなど無いだろう。<br /> 快楽は次から次へと、勝手にやってくる。<br /> 勿論、積み上げて来たものもあれば、棚から牡丹餅のように降ってきたものもある。その中でもっとも欲しかったのは――やはり杜花だろう。<br /> それすらも、今は手の届く所にある。<br />「あー。依存するなってだけの言葉かな、アレって。難しく考えたよ」<br />「面倒に考えるように振ったのだから、仕方ないわ」<br />「試したの?」<br />「ダメかしら?」<br />「……良いよ別に。悪意感じないし。なんだろうね、天性だよね?」<br />「違うんじゃないかしら。私は悪意があるわ。貴女が感じないだけで。ねえ早紀絵、キスしてみて?」<br /> 隣に座る市子が、距離を詰める。<br /> 市子の繊細で白い手が早紀絵の手に重なった。思わず顔をあげて、至近距離から市子を見つめる。<br /> 白く、整った顔。まるで日本人形のように髪を切り揃えているのに、暗い憂鬱さはない。<br /> 目の力、放つ雰囲気、彼女の性格と仕草が、そう見せているのだろう。<br /> しかし。<br />「――おかしいな」<br />「どうしたのかしら」<br />「……なんか、おかしいな。市子、貴女、処女じゃないよね。そりゃそうだ。杜花の、恋人なんだから……」<br />「――ッ……」<br /> スッと、市子が手を引く。その目は見開かれていた。<br /> こればかりは直感としか言いようがない。処女ばかり相手にして来たという事もあるだろう。<br /> この学院内、総計で二十人以上は、早紀絵が初めてを頂いている。<br /> 処女だからと、非処女だからと、その性格が変わったり、積極性が違ったり、明確にする訳ではないのだが、どうも市子が不慣れなような気がしてならないのだ。<br /> 杜花以外が初めてだからという理由もあるだろうが……それにしても、だ。<br />「ごめん、変な事言った。忘れて」<br />「いいの。私こそごめんなさい。貴女を軽んじたわ」<br />「軽いよ。求められたらスるもの」<br /> 市子の手を取り、ソファに押し倒すと黒い髪が流れるように広がった。<br /> 突然の事に、顔を真っ赤にする市子を気にせず、そのまま覆いかぶさって唇をおしつける。<br /> ……。<br /> 嗅いだ事のある匂いだ。柑橘系の、けれど淡い香り。<br /> 唇から、市子の体温がじんわりと伝わってくるのが解る。舌入れるか入れまいか、少し悩んでから、吸いつくだけで止めて置く。<br />「はふ。ああ、やっぱ美味しいや。お上品な味。高級料亭みたいな?」<br />「あ、あふ。ん。い、いきなりは、ずるいわ。あ、顔、近いから……早紀絵?」<br />「うん、何かな?」<br />「何故、泣いてるの?」<br />「え? あ?」<br /> 市子の頬に、自分が流したであろう涙が滴り、思わず顔を引く。<br /> 目元に触れれば、間違いなくそれは流れていた。<br /> 一体どんな理由があるのか、理解し難い。拭っても拭っても、それはこぼれ落ちて来る。<br /> ……。<br /> これは……。<br /> まあ……。<br /> 良くは……――無い。<br />「早紀絵、話して。何か、粗相があったかしら? 悲しませて、しまった?」<br />「い、市子は……市子は……あれ……――へんだな……市子は、何も……悪くない、けど……」<br />「せ、急いて、しまったかしら。ああ、でも、貴女は頭が良いから……解ってるとばかり……」<br />「わかってる、解る。うん……でも、なんだろう……違和感が、あるんだ。凄く……虚しいんだよ。私さ、市子の事、嫌いじゃないよ。少し苦手なだけで。心の底からきらいだったら、もっと、汚い手とか使ってさ、モリカを引きはがそうと、したと思う……」<br />「……何故、そうしなかったの?」<br />「だって。幸せそうだったんだもの。市子とモリカ、貴女達が一緒にいるのが、一番幸せそうだったから。私は、モリカが幸せなら、それが良い。貴女が、彼女を笑顔にしてくれてて……でも、私達にも、分けて、欲しくて……あれ……」<br /> チリチリと、脳内を知らない映像が駆けては消え去って行く。<br /> 市子に差し出されたハンカチを受け取り、涙を拭いながら、違和感の先を突き止めようと頭を巡らせるも ……。 しかし届かない。<br /> ただただ、それが悲しくて仕方が無かった。<br /> 虚しくて仕方が無かったのだ。<br />「何か……大切なものを……失って……得て……喜んで……おかしくて……」<br />「早紀絵、落ち着いて。何も……嗚呼……何も、無いから……」<br />「うん。うん……ごめん。今日は、戻るよ」<br />「――早紀絵……ごめんなさい」<br /> 後ろ髪を引かれる思いで、早紀絵は文芸部室を後にする。<br /> 市子には申し訳ない事をした。<br /> キスをして突然泣き出すなど、何に感極まったらそうなってしまうのだろうか。<br /> 頭がまともに働かない。<br /> 袖で目元をぬぐい、早紀絵は走って寮へと戻っ……。<br /> ……。<br /> 何か。<br /><br /> ――……。<br /><br /> 何を。<br /> どうして。<br /> ……。<br /> 何が悲しいのか?<br />「あー……っれえ……?」<br /> 何も悲しむ事はない。<br /> ここは幸せな世界だ。<br /> 自分の望むものがある。<br /> 叶えようと努力しても、誰にも届かない程に幸福で埋め尽くされている。<br /> 早紀絵は立ち止まり、躑躅の道で辺りを見回す。<br /> どうも気持ちに靄がかかっていて、スッキリしない。いつもの寂しがりが出ただろうかと考え、直ぐに連絡の付きそうな恋人達の顔を頭に思い浮かべる。<br /> しかしタイミングが良かった。遠くから歩いてくる二人に見覚えがある。<br /> その姿を認め、早紀絵は笑顔で手を振った。<br />「おうい」<br /> 後輩の織田楓と、古文教員の小野寺姫乃である。<br /> 二人とも地味目な人物であったが、早紀絵が手を出してから、身だしなみに気を使うようになったらしい。<br /> 田舎のお嬢様然としていた楓は化粧っけが出て、教科書見本のようだった姫乃は少しサイズの小さいスーツを着るようになり、髪も少し茶色を入れて色気を出している。<br /> 問題はその全部が、早紀絵の助言そのままだという事ぐらいだろう。当然、好みだからそうするように言ったまでだ。<br /> タイミングは良いのだが……組み合わせが不味い。<br />「あ、早紀絵様!」<br />「早紀絵さ……様?」<br />「やー、楓。姫乃先生。どしたのかな」<br />「はい! 小野寺先生にご指導頂こうと思って、これから談話室に」<br />「そ、そっかあ。勤勉だね、頑張ってね」<br />「早紀絵様? どうしたんですか?」<br />「……早紀絵さん。この子はさっきから、早紀絵様早紀絵様と……」<br />「あははは」<br /> 十五人ほどいる恋人の中でも、この組み合わせはあまり宜しくない。<br /> 二人とも『他に恋人がいるのは我慢したとしても、その人と会っている所は見たくない』という、気難しい類の女性だ。<br /> そもそも他に恋人がいる時点で普通ではないのだが、早紀絵基準からすると少々困りものである。とはいえ二人とも根っこから優しい人物で、早紀絵は良く甘えてしまう。<br />「……はて? 早紀絵様は早紀絵様です、先生」<br />「ねえ、早紀絵『様』。この子、貴女の愛人ですか?」<br />「あ、あー。うん。ま、ほら。普段そんなさ、ある組み合わせじゃないしさ」<br />「え、ええ? せ、先生? 生徒に、手を!?」<br /> 楓が手に持った教科書をおとし、口元を手で覆う。わざとらしく、あざとい子だ。<br /> それに対して姫乃は一つ咳払いし、首を横に振る。<br />「人聞きの悪い事を言ってはいけません、織田さん。手を出したなど。手を出されたんです」<br />「い、一緒じゃないですか。さ、最近なんだか色気づいたと思ったら、それですか!?」<br />「ぐぬ……織田さん、案外はっきり言うのね……」<br /> 楓は追い落とす気満々だ。さてどうしたものか。<br /> ここで逃げ出すのは三流だ。<br /> 二人を取り持とうと詭弁を弄するのは二流である。<br /> 恋人十五人、プラス別枠で杜花とアリスまで含めれば十七人、プラスペット一匹。最近は市子まで近づいてきている、そんな観神山女学院始まって以来の女スケコマシ、満田早紀絵の取る行動は、単純にして明快、かつ手っ取り早い。<br />「姫乃、楓、こっち来て」<br />「え、あ、はい?」<br />「はあ……」<br /> まず一番最初に近づいた楓を腕ごと抱きしめ、唇を奪う。唐突の事に驚く楓を無視し、その歯の間に舌をねじ込む。<br /> じっくり二十秒、口内を舐り回して離すと、粘度の強い唾液が二人に橋をかけた。それをわざとらしく、見えるように舌舐めずりして絡め取る。<br /> 続いて姫乃を、今度は優しく抱きしめ、首筋に舌を這わせたあと、鎖骨にキスをしてから、目を見つめあう。<br /> 放課後、まだ生徒もいる時間だ。こんな事をしていると見つかれば、相当の噂になるだろう。二人とも顔を真っ赤にして俯く。早紀絵は頷いた。<br />「……楓、姫乃。個人授業は中止ね。私がどれだけ二人とも同じくらい愛してるか、教えてあげるから。ねえ?」<br /> 窘めるように、怪しい笑みを浮かべて、二人を誘う。果てしなく強引だが、それが通じてしまう程に、二人は早紀絵無しではダメな人間にされてしまっている。<br /> 恋人達は、他の女とのいざこざ如きで早紀絵を見限るなんて真似はとても出来ない。そんな事で早紀絵を失うのは、あまりにも惜しいのだ。<br /> 求めれば与え、与えれば求められる、精神的にも性的にも、彼女達は満ち足りる。<br />「は、はい――」<br />「わ、わかりました……」<br />「姫乃、飲み物貰ってきて。六時ごろまで、私頑張っちゃうから。くふふ……一杯シたら、喉渇くでしょう?」<br />「い、今。貰ってきます」<br />「楓は鍵借りてきて。バレちゃったら、恥ずかしいもんねえ? そういうの、好きだろうけど」<br />「あ、ふ。は、はい」<br /> 二人が早紀絵に小さく頭を下げて、小走りで去って行く。<br /> いや、こんな事をするつもりはなかったのだが、と早紀絵は頭を掻き、まあ可愛いから何でもいいかと、ダメ人間ぶりを発揮する決意をした。<br /> 大切な事を忘れていると、心の片隅に抱きながら。<br /><br /><br /><br /><br /> ……自室の勉強机に置かれた鏡を手に取り、首筋を確認する。<br /> 紅い跡が二つ、しっかりと残っていた。<br /> 制服を着ていれば解らないだろうが、これはお風呂でも目立つのではないだろうかと、少しだけ頭をよぎる。まあ、それは別に良いかとして、早紀絵はベッドに身体を投げた。<br /> 約二時間半程だっただろうか。<br /> 一人相手なら良いが、流石に二人一緒に相手するとなると、体力も神経も消耗する。<br />(二人とも欲求不満すぎる)<br /> 人の事など言えた義理ではないが、実際二人は激しい。キスだけでどれほど長い時間したか、記憶があいまいだ。<br /> 問題の二人の仲はといえば、一時間もした頃にはすっかり二人でじゃれ合っていたので、早紀絵も一安心である。<br /> 早紀絵はあまり、演技が得意な人間ではないが、殊性交渉に関しては例外だ。<br /> 肌を交えて体液を交換していると、必要以上に相手が愛しくなる。本能的にそうした方が気持ちが良いと知っているからだろうか、入り込むと、当日会ったばかりの相手でも、初恋にも似た熱を帯びる。<br /> こんな事をしながら、もう何年この学院で暮らしているだろうか。<br /> 早紀絵のボーイッシュな容姿にスタイル、複数の人間を相手にしているという経験の多さを目当てにする子は、潜在的に数十人に上るだろう。<br /> 節操無しの淫乱と罵られればまったく否定出来はしないが、これほど特異で好奇心を駆り立てる少女は他に居ないのが現状である。<br /> ……。<br /> 早紀絵は特別だ。<br /> 誰から見てもそうだし、自分でも自覚している。<br /> 環境のお陰でお相手は女性ばかりだが、本来男性も嫌いなわけではない。早紀絵は性別という括りが薄いのだ。根本的な評価基準は容姿でなければ、性格でも性別でも無い。<br /> 言葉で表す事は無いが、一番見ているものは熱量である。<br /> その人物が発している、オーラとも言うべきものだろうか。人間的に浅い深いも関係する。<br /> どこまで見つめても底が見えない、上が観えない人物。<br /> 当然そんなものがコロコロと落ちている訳ではないが、幸いなことに、早紀絵の周りには居た。<br /> ……。<br /> アリスは素晴らしい。美しく、強く、感情表現も思慮も浅くない。一つ一つの仕草が愛しく、見ているだけで微笑ましい。もっと二人になる機会も欲しいのだが、学院では忙しいので、それも難しい。今後の課題だろう。<br /> 杜花は完璧だ。もう、これに関しては、何がなんだかわからない。井戸の奥底をさらって死体が出て来るようなおぞましさと、制御不能のジェット機を、訓練もマニュアルも無しにただ上へ上へと上昇させるような絶望感がある。彼女の発する『熱』は、もう人間が触れて良い領域のギリギリだろう。<br /> 市子に関してはもはや言うべき事もない。あれは手の届かない場所にある。それがちょっと地上におりてきて、早紀絵にちょっかいをかけているだけだ。これを本気にしたら、早紀絵は終わってしまう。<br /> ……そうだ、終わってしまう。<br /> 七星市子という人物は、自分を何者か、良く分かっている筈だ。それが、何でまた早紀絵に手を出すのか、理由が知れない。<br /> 彼女に依存すればするほど、満田早紀絵という形が崩れて、七星市子の一部になってしまう。没個性というよりも、彼女のアクセサリーにされてしまうのだ。<br /> 本気でアレに対抗出来る者など、それこそ欅澤杜花ぐらい、何を考えているのか解らない人間のみと言える。<br /> ……。<br /> ぼんやりと、これからの事を考える。<br /> 確かに、形成を崩さなければ、市子以下三人は仲良くやっていけるだろうが……本当にそんなものが延々と続く筈はない。長い人生の、まだ最初だ。せめて身体は衰えさせないように頑張るしかないか、いや、バイオアンチエイジングなんてものもあったか、などと頭を巡らせる。<br />「……早紀絵嬢」<br /> ベッドで伸びあがっていると、ドアからノックと共に、兼谷の声が聞こえる。<br />「どうぞー」<br /> 返答を得ると、メイド服の兼谷が静かに入室した。<br /> 何を言うでもなく、彼女は静かに座卓の前に座る。<br />「どしたの、かねやん」<br />「はい。遊んでもらおうと思いまして」<br />「あー。ごめん、生憎今三人でシて来た所なのよん。ご飯食べてお風呂入って寝たいです」<br />「それは残念」<br /> そういって、兼谷は懐から取り出した合法薬物を卓に置く。<br /> ポピュラーなもので、世界中で認可され、薬局で手に入る。<br /> 脳内の快楽物質を、興奮の度合いに応じて適度に増やしてくれる優れモノで、依存性がない。<br /> 挿入の無さを物足りなく思うレズビアン御用達だが、早紀絵には無用のものだ。<br /> それに合法とはいえ、学院に持ち込めるものではない。<br />「禁制品を生徒の部屋に持ち込む教員ってどうなの」<br />「使うかと思いまして。でも、早紀絵嬢のテクニックは一級品で、そんなものは使った事がないと、伺っています」<br />「し、調べないでよそんなの、恥ずかしいな」<br />「こういうのもあります」<br /> そういって、どこから取り出したのか、黒光りする小さい箱を薬の隣に並べる。<br /> 早紀絵の記憶が正しければ、それはセックス用のナノマシンパッケージである。<br /> 一昔前まであったローターのような外見なのだが、挿入するとパッケージ内のナノマシンが自動で感覚器の弱い部分、つまり性感帯を探しあて、興奮と同時に発生する物質を嗅ぎ分けて刺激の強弱を決め、自然にして強烈な絶頂を齎してくれるという、トンデモ発明品だ。<br /> ナノマシンは数時間で無害になって老廃物として処理されるが、不具合も確認されており、認可のない違法品である。<br />「そ、そんなものどこから。うえ、現物見たの初めて。不思議なお薬より高いでしょ、これ」<br />「趣味で」<br />「無茶な。しっかし、それ持ってこられても、使わないんだよなあ。どしたのさ、急に」<br /> 兼谷は足を崩し、卓に肘を付く。ベッドに寝そべる早紀絵を目線で呼ぶのだ。<br /> なんだか少し近寄り難いが、美人に誘われて付いて行かない程、早紀絵は甲斐性無しではない。<br />「七星の次代を担う市子お嬢様の、奥様の愛人、という大変倒錯的な立場である早紀絵嬢の様子を伺いに」<br />「あ、偵察ね。御勤め御苦労さま。大変だね、こんなところぶち込まれて」<br />「いえいえ。何も知らない無垢で美しいお嬢様方をあれこれと指導出来ると思うと、胸が熱くなる想いです。天職かもしれません」<br />「良いとこだよ。少し真面目すぎる所もあるけど。私ここ転校してきて良かった」<br />「……どうですか、普段の生活で、何か困った事や、悩みはありませんか」<br />「別段と。たまに恋人のヤキモチやき同士がぶつかる程度で。それもまた、良いんだわねえ。くふふ」<br />「ネコなのに、タチを演じされられて大変ですね」<br />「こほん。あーあー、そういう詮索は良いです。女の子と肌合わせてるだけで幸せなの」<br /> ……。<br />「それは良かった。幸せが一番です。クソ淫乱の雌犬である貴女ですけれど、意外と純粋なのは知っています。これからも、市子お嬢様、杜花お嬢様を宜しくお願いします」<br />「すげえ罵られ方した気がするけど、なんかそこが可愛いなあ、かねやんってさあ。美人だし」<br />「あら、お疲れでは?」<br />「口説くのに疲れる程歳とって無いよ。あ、そうだ、キスしない?」<br /> ……。<br /> 早紀絵は兼谷の隣に座り、その手を取る。<br /> 本当にメイドなのかと思うほど綺麗で白い手を口元に運ぶ。早紀絵の性癖だ。気のありそうな子が綺麗な手をしていた場合、どうしても、口に運びたくなる。兼谷に表情の変化は無い。<br />「……口唇期が残ったままの赤ん坊か、手フェチの変態か、色情狂のキチガイか、どれ?」<br />「全部かな?」<br />「逞しい人ですね。調教し甲斐がありそうです。杜花お嬢様に許可を取っておきましょう」<br />「楽しみかも」<br />「……幸せそうで何よりです。では」<br />「はいはい、おつかれさん」<br /> 兼谷はスクと立ち上がり、一礼して部屋を後にした。<br /> 座卓に残された禁制品の始末をどうするか考え、取り敢えず机の引き出しに隠しておく。支倉メイを虐めるのに役立つだろう。よがり狂って悶える姿など、きっと可愛いに違いない。<br /> 取り敢えず、額にかいた汗をぬぐい、そのまま後ろに倒れる。<br /> ――酷いデジャヴを感じる。<br />(……ありゃ、なんだろ。冷静な顔して、部屋中キョロキョロ見てたし。探るって割には、変だな。質問も、的を射ない。幸せそうで何より? 確かに市子に無関係じゃないけど、そんなお伺いを立てられる程じゃないと思うんだけどな)<br /> 七星にかかれば、満田家など屁でもない。わざわざそこの娘の動向など、気にしなくても良いだろう。市子が早紀絵に接触を深めている事に、関係があるだろうか。<br />「それと」<br />「うひょあっ」<br /> ガチャリとドアが開き、去った筈の兼谷が顔だけを覗かせる。<br /> 思わず跳ねあがって座卓をひざ蹴りし、そのまま膝を抱えて悶絶する。<br />「……失礼。市子お嬢様は、早紀絵嬢の部屋に、何か忘れ物などしてはいませんか?」<br />「いででで……無いよそんなのぉ……」<br />「左様ですか。では」<br /> 何がしたいのか、何が言いたいのか。相変わらず兼谷は掴みどころがない。<br /> 膝に鬱血が出来ていないか確認して、改めてそのまま横になる。<br /> 市子はそもそも、あまり早紀絵の部屋にはこない。来る場合は杜花やアリスとセットだ。忘れて行くようなものは無いと考えられる。<br />(……もし探るとしても、理由はなんだ。兼谷の行動原理なんて、市子かモリカを主眼に置いたものしかない。忘れ物? 何か大切なもの、失くしたのかな……)<br /> ……。<br /> 純粋に、探し物かもしれない。<br /> いや、そうだろう。<br /> それが一番納得行く。<br /> 心当たりの無いものをいつまで考えても仕方が無い。<br /> 早紀絵は勉強机に向かい、カバンからポーチを取りだす。<br /> 鏡やリップ、ハンドクリーム、絆創膏など、化粧道具とは別のこまごまとした物が入っている。先ほどぶつけた膝は内出血こそ起こしていないものの、角にぶつけたお陰で擦り剥いてしまった。<br />「いでで……もう、かねやんめ。気配無いんだから、少し配慮しろっての」<br /> 兼谷に悪態を吐きながら、絆創膏を張ろうとするも、適切なサイズが見当たらない。<br /> ポーチの奥底を漁っても出てこないので、仕方なく中身を机に全部出す。<br />「……――うーん……?」<br /> 妙な違和感があった。<br /> 何かここには、大切なものが入っていた気がするのであるが、それが何なのか、浮かんでこない。<br /> これも、忘れてしまったものの、一端だろうか。<br />「戻りましたぁ」<br />「おーう、おかえりーメイー」<br /> 取り敢えずサイズの合う絆創膏を貼り付け、戻ってきた支倉メイに振り向く。<br /> いつもなら返ってきたついでに足でも舐めさせるのだが、メイの表情がいささかおかしい。<br /> 普通といえば、そうなのだ。<br /> しかし毎日のようにメイを見て、メイを弄り倒している早紀絵からすれば、どうしようもない違和感がある。<br />「何か、探していましたか?」<br />「あ、ポーチの中身ね。絆創膏探してたの」<br />「サキ様お怪我したんですか? メイ、傷口舐めてませんよ。なんで張っちゃうんですかあ」<br />「お前は本当にアレすぎて素晴らしい子だね。ほりゃ、こっちおいで」<br /> 手招きすると、メイが鞄を投げて上着を脱ぎ捨て、椅子に座る早紀絵の上に跨いで乗る。いつものメイだ。<br /> だらしない顔は愛嬌に溢れ、思わずその可愛らしい顔を汚してみたくなる。サディストではない早紀絵の嗜虐心さえあおるこの子は、もはや天性のマゾヒストだ。<br />「良い子良い子。メイ、おっぱい少し大きくなった?」<br />「サキ様がもみくちゃにするからぁ……」<br />「おっきいのもちっさいのも好き。お前はだらしない方が良いね。よしよし」<br />「あうっ、あうっ」<br />「なー、メイ。このポーチだけどさ、私なんか、大切なもの、入れてたような気がするんだよね」<br />「なんでしょーね?」<br />「私なんか、忘れて無いかな。そうだ、お前にも聞いておくかな」<br />「はい?」<br />「メイ、お前さ、なんか、おかしいと思った事ない? なんか変、何か忘れてるってさ」<br /> 身体をくねらせて、ふざけていたメイの動きが、ピタリと止まる。<br /> 何事かと思い、胸にうずめていた顔を上げると、メイと眼が合う。<br /> その表情を、なんと言葉にすればいいのか、早紀絵には解らなかった。<br /> 今までに見た事の無い、悲しそうな顔であるし、無念であると、悔しがっているようにも、思える。<br />「あー……」<br />「……メイ、メイは可愛いね。メイは……」<br />「サキ様?」<br />「……虚しい。こんなの。おかしい。私、幸せな筈なのに。好きなもの、全部手に入れてるのに。なのになんで、こんなに、寂しいのさ。メイ。教えて、なんで? 全部全部、一時の物ばかりで、具体的に得るものが、無いような気がして……」<br /> 胸に詰まって行くものは、幸せという名の空気のような、何か。<br /> 快楽を満たすのは、可哀想な自分。確かにある筈の幸福が、まるで維持出来ないでいる。<br /> 愛しい筈、可愛い筈の子達を抱きしめても、それが直ぐに消え失せてしまうのではないかといった不安が消えずに残る。<br /> こんな気分は初めてだった。<br />「市子にも聞きました。なるほど、これは、ダメですねえ。彼女の存在が、貴女を悲しませてる」<br />「市子?」<br /> メイは早紀絵を離れ、立ち上がる。<br /> そのまま窓の外に近づき、カーテンを開けて外を望む。<br /> 何時の間にか、深々と雪が降り始めていた。また盛大に積もるのだろう。<br /> 目に見え、触ると冷たく、しかし何時の間にか消えてしまう雪は、まるで早紀絵の感情に似ていた。<br />「サキ様、世界はですねえ、思いの外、優しさで出来ているんですよ」<br />「――何言ってんの、メイ?」<br />「まじめな話です。ちゃんと聞かないと、ダメーですよう」<br /> メイが振り返り、早紀絵を見つめる。<br /> 過去に、これほど真面目な顔をした事があっただろうか。<br /> 仕方なく居住まいを正し、正面を見る。<br /> メイは何度か口を開き、語ろうとするも止める。言葉を選んでいるのかもしれない。<br />「みんな善意です。良かれと思ってやります。それが自分の優しさだって。でも、皆がそう考えている訳ではないので、当然衝突したり、勘違いしたり、望まない結果ばかり導き出してしまいますねえー」<br />「……まあ。そうだね。人の心ばかりは、解らないから」<br />「残念ながら、解ったところで、たった一人の人間すら、理解出来ないんですよぅ。悲しい事ですねえ」<br />「ごめん。お前が何を言いたいのか、サッパリだ」<br />「はい。そうですねえ。でも、言質とっちゃいましたから。それに、杜花様もアリス様も、同様みたい。私は『前の市子』との『約束』を実行しますね」<br />「約束ぅ?」<br /><br /><br />「あー。コード支倉メイ、メンテナンス管理権限。解除ID230403567191943。第一寄宿舎203号室。限定解除申請……あ、うわ、上位権限ロックかあ。あんま解除出来ないですねえー。用心深いなあ二子ちゃんは。締まらないなあー」<br /><br /><br />「おいおい、SFごっこかい? ……――いやー……そういうのはー……あー……え?」<br /> 支倉メイが、何やら妄言を吐いたかと思うと、早紀絵の思考が異様なまでにクリアになるのが実感出来る。<br />「少し頭を借りますね。感応干渉します」<br /> ……。<br />「な。なに」<br />「あ、結構いける」<br /> ……。<br /> いや、ちょっと――待て。<br /> 自分にあり得た記憶が、波のように押し寄せる。<br /> 自分が今、どれだけ間違っているのか、どうしようもなく理解する。<br /> なんだこれはと、思考を止める。<br /> なんてことだと、思考を進める。<br /> ぐるぐると円を多重に描き、それは螺旋となって、脳幹に叩きこまれる。<br />「おいおいおいおいおいおいおいおい……!! なんだぁこれえぇ!?」<br />「シーッ。サキ様、少し静かにしてぇ。兼谷に聞こえちゃいます。あ、盗聴器はありませんから、普通の声でどーぞ」<br />「メイ、何これ。私達……何してるんだこれ。は? 市子? なんで? ああー、ハッキリ思いだせない」<br />「解除深度が浅いのでぇ。ごめんなさい、私にはこれくらいしか出来ないです」<br />「どういうこった、メイ。お前、何者だ?」<br />「あー……はい。その、ううんと。ごめんなさい……」<br /> メイがその場に沈み込み、土下座する。<br /> 混乱と混線を繰り返す思考回路に頭を痛めながら、早紀絵はメイをひっ捕まえて、コロンと転がし、馬乗りになる。<br />「吐け、全部吐け。何で市子が居る。なんで私達は気付かなかった。一体、どうなってる、お前は、なんだ?」<br />「ひ、一つずつでお願いします……。あの、まず、御断りしておくと、ですね? メイはその、決してサキ様をハメようとか、裏切ろうとか、全部演技でしたとか、そんなのは、ないんです。し、信じてくれます?」<br />「……私の事好き?」<br />「貴女が望むなら、メイはなんだってします。好きすぎて、頭おかしくなりそうです。死ぬ以外ならやります」<br />「解った」<br />「やぁん……サキ様、怒った顔怖くて可愛いい……」<br />「……はあ。まあ、いつも通りでは、あるのね」<br /> 思考にノイズが混ざる事はない。<br /> まだまだ前の事を思い出せない節はあるが、断片的に今まで、自分が何をして来たのか、理解出来るようになってきた。<br /> 考えるに、どういうわけか頭の中を改竄されている。<br /> 電子的なものか、それ以外か、理由は知れないが、メイの言動を見る限り『強制的に状況を作りあげている』可能性が高い。<br />「じゃあ、まず。今何が起こってる。一応学校に帰ってきてからも、連続性は間違いない。ただ、学校に入ってから、私……いや、周りのみんなが、まるで市子が居て当然のような振る舞いをしているし、市子も当然のように居る。これは何」<br />「たぶん知っていますよねえ? 七星二子」<br />「う……ん。そうだ。二子、二子は」<br />「だから、市子です。七星二子は、七星市子になりかわった。たぶん、今の状況で彼女を見れば、間違いなく七星二子に見えると、思いますよ?」<br />「ホログラムアバター? いや、質量があった。キス、されちゃったし。うん」<br />「そういう現代的な仮想映像技術じゃないですねえ。結晶、あったでしょう。軍事用次世代記録媒体。あれには、七星市子の全データが入っていました。結晶は全部で五つ。学院に隠したのは四つ。記憶、思考、動作、人格、その諸々です。それに、疑問があったでしょう。なんで、記録媒体如きが、幻覚を見せたり出来るのかーって」<br />「ああ、うん。そうだ。それは全部そろって、二子の手に……兼谷め……」<br />「市子のESPを知ってますよね。私達七星はあれを『他者感応干渉型能力』(マインドクリエイト)と呼んでいます。考えを読んだり、記憶弄ったり、まるで物があるように見せたり、脳を勘違いさせちゃったり、出来ちゃうんですね、個体差はありますが」<br />「ええと、じゃあつまりだ。その結晶には……そうか、神社で二子も言ってた。結晶のデータがそのまま超能力を発現させてる可能性があるって」<br />「はい、ご名答です。元から認知されて研究もされている能力なのですが、学院丸ごと改竄となると、二子だけでは出力が足りなかったのかも。そもそも元は撫子の力を再現して二人に付与したものです」<br />「人格のバックアップ自体には、何の力もなかったの?」<br />「はいはい。直接書き込まれたデータしか発現しないみたいで。本当に、少ない違いですけれど。でも回収後の結晶からの解析は早かったです。何せ政府しか持ちえない量子コンピュータとか使っちゃってるので。電子的工学的異能研究学的に現在、これを応用した技術でもってして、学院全域にその力が及んでいます。波のようなものですよ。プログラムされている世界は『七星市子が生きている世界』です」<br /> メイが、にっこりと優しく笑う。<br /> 最初からこれが目当てだったのだろうか。<br /> いや、少しおかしい。<br /> 市子は『データを使って蘇生する』ことは解っていても、まさか学院全体を改竄するまでの構想をしていたとは思えない。矛盾が多いし、不確定要素が多すぎる。<br /> そもそもそれなら『隠す必要性』がまるでない。『隠す理由』があると見た方が良いだろう。<br />「メイが聞いた限りでは、ですけれど。本来なら、市子のデータを二子に移植して、受け入れてもらえれば済んだらしいです。でも、欅澤杜花は、二子に対して凄まじい否定感を持っていましたから、それだけでは不安だったんですねきっと。けどやっぱり、実験結果でも出ていますが、たび重なる矛盾と、精神力で、拡散ESP如きは無効化されちゃうみたいですね。残念無念ですねー」<br />「これからどうなる」<br />「マザーコンプから設備拡張してアンテナ拡散して、皆が違和感を持たないようにします」<br />「……でも、それじゃ変だ。外に出たら、直ぐわかっちゃう」<br />「どうでしょう。記憶にないですか? あ、消されてたらないか。強く改竄された場合、範囲外に出ても脳は勘違いしたままです。それに出られませんよ。杜花、アリス、早紀絵の三人は、単独で外出許可が下りません。市子……いいえ、二子か兼谷が付き添わないと」<br />「二子は、何がしたい? いや、一郎は何がしたい?」<br />「幸せにしたい。そう言っていました。詳しくは解りませんよ」<br />「……なんとも、まあ……」<br /> 溜息を吐き、メイを解放する。<br /> 大量に押し寄せる情報を処理する為に、気持ちを落ち着かせようと、ポットからお茶を注ぐ。<br /> 唇を火傷しそうになる程熱いお茶を口に含み、ゆっくりと嚥下して、また溜息を吐いた。<br /> 隣にメイが寄る。<br /> だが、くっつこうとはしない。<br />「いいよ、くっついて」<br />「あふふ……。だって、メイ、怪しいじゃないですかあ?」<br />「思えばさ、お前がいつから私の隣に居るか、思いだせないんだよね」<br />「あい。私は二子……二子ちゃんのESPデータを埋め込まれた、デバイスの実験個体です。ここに編入したのは高等部一年から。貴女達に違和感を与えない程度には、近づく事が出来ましたね?」<br />「お前、何?」<br />「七星分家支倉の、メイですよ。実家が工場というのは、嘘。利根河撫子の複製です。彼女が持ちえた力は無いし、顔は変えてあるんですけどねえ? ただ、出来が悪くって。あ、でもその、真お父様、責めないであげてくださいね?」<br />「……うわー……七星ドン引きだわ……」<br /> 思わず顔が引きつってしまう。<br /> 本気でやっていたのだ、七星は。<br /> 一応は世界的に存在しないとされる複製人間を造り、堂々と運用している。<br /> 通常の常識に照らし合わせれば、笑って許されるものではない。<br /> 許されるものではないが、バレなければ咎められはしないし、咎められたとしても、咎めた人物は公の場から姿を消す事になるだろう。<br />「あ、やだ! きらいになりますか!?」<br />「んーん……メイがメイなら、いいや。でも七星じゃ、別に養う必要なくない?」<br />「えー。私なんて末端ですよう。もっとサキ様の下で生きて行きたいです。自由にしていいって言われましたから」<br /> やることが、無茶苦茶である。<br /> 一体どんな思考回路があったら、ここまで出来るのか、理解不能も極まる。<br /> 七星という奴らが、真っ当な理屈の中で生きて居ない事は良く分かった。<br /> それにしてもだ。<br /> 自分達が一生懸命杜花を市子の残滓から引きはがそうと考えていたものは、徒労だった様子である。こんな事をされては、一個人が戦うには相手が強大すぎる。<br /> どこの誰が学院生徒丸ごと記憶改竄なんぞしようと思うか。<br /> 妄想ではなく、実行しようとして、挙句本当にするのだから性質が悪い。<br /> 流石の満田早紀絵も呆れかえる。<br /> そう考えれば、二子の余裕はもっともだ。<br /> どれだけ早紀絵とアリスが気張ろうとも、杜花は市子……二子の物になる。<br /> ――しかしともすると、結晶隠しとは何だったのか。<br /> 本当に市子の戯れならば、ますます頭が痛い。<br />「それで、撫子さん」<br />「メイです。同じ肉体を持っているからと、同じ人間になるとは限らないんです。メイは、メイです」<br />「どゆこと」<br />「記憶とは精神を、そして二次的に肉体を形成します。メイに撫子と同じ力が無いのも、記憶から能力が形成されるからです。メイは、撫子と同じ手順で育ったわけじゃないので、天然で能力を発動する記憶の道筋をたどっていないのですよぅ」<br />「も、もう少し解りやすく」<br />「んーと。メイは『撫子』になる為の正式手順を踏まない『撫子の遺伝子だけ同じ人』なのです。メイが多少使える感応干渉は『撫子』の正式手順で産まれたものではなく『二子から引き出したESP脳波パターンプログラムを結晶に閉じ込めたもの』を埋め込んでいるから、です」<br />「なる、ほど。解った――じゃあメイ。なんで喋った?」<br /> これが謎だ。<br /> ここまで深く事情に精通しているなら、どう考えても『運営側』である。<br /> その運営側がわざわざ、怪しげな新聞を作るお喋りお嬢様に語る理由はない。それでは『問題を解決しろ』と言っているようなものだ。<br /> それを問うと、メイは苦い顔をする。<br />「私は、市子が死ぬ間際、シナリオ管理を任されました。貴女達が結晶を見つける手助けをするように。それと、二子ちゃんとの仲を取り持つ役目も負いました。これを通じて、二子ちゃんと杜花様が仲良くなってくれれば、市子も復活し易かったんですけれど、二子ちゃんがあんな感じですし、真お父様が思っていた以上に、杜花様が否定的だった。それでですね、二子ちゃん、もしくは他の『適合姉妹』が市子になって、もしそれに、誰かが納得しない、疑問を呈するような事があれば、全部ゲロって良いって言われましたから、喋りましたよ。さっき、貴女に泣かれてしまったって、二子ちゃん……いや、あれは市子人格かなあ。が、悲しんでいましたから。それに、私も、貴女の悲しい姿を見続けたくなんかない」<br />「だとしても。その改竄するやつ」<br />「改竄機構。思考数値干渉装置です。元はアジア戦火後に企画されたESP人工化計画。軍事用でしたけど、今は重度の痴呆なんかを患っている人や、脳障害を抱える人の介護目的で開発されています。本来だと自軍友軍部隊の洗脳、敵軍かく乱、装置を拡散出来ればなんでもござれです、こわこわ」<br />「それ、強化すれば、いいんじゃないの? そうすれば、お前達の願いがかなう」<br />「普通の人達は、気が付きませんでした。でも、杜花様とアリス様、それにサキ様は、何度兼谷が直接干渉しても、思いだしてしまう。幾ら強化しても無駄でしょうし、あまり干渉しすぎると、脳に欠損が出てしまう。そんな怖い事、市子も二子ちゃんも私も、それに兼谷も嫌だと思いますよ」<br />「……私、お前の事犬扱いしてるのに、そんなに私が好き?」<br />「大好きです。嫌になっちゃうくらい好きです。毎日毎日サキ様の事考えてます。毎日サキ様でオナニーしてます。好き、好きです。大好きです。愛してます。サキ様」<br />「あ、いや、あの、メイさん?」<br /> 大事な話をしている最中なのだが、メイとしては自分の欲求が優先されるらしい。メイはそのまま早紀絵を押し倒し、先ほどとは逆に馬乗りされてしまう。<br /> 眼前にメイの顔が迫り、頬を撫でられたかと思うと、その生温かい舌が早紀絵の口に割って入った。<br />「んっあ、こらぁ……」<br />「すき、しゅきです……」<br /> ……五分程だろうか。<br /> 早紀絵の弱い部分を完全に知りつくすメイのフレンチキスは、少し冗談では済まされない強烈さであった。<br />「あふ……あくっ……うわ……も、下着ぬるぬるする……調教しすぎた……うますぎる……」<br />「あふふ。あの、おこがましいといえばそうなのですけれど。ご褒美に、ペットから恋人にしてくださいよう。ダメですか?」<br />「わ、解った。負け、降参する。メイは恋人で良い。ううん。ランクで行くと、杜花とアリスの次で良い……敵わないや、これ。ああ、我ながら……なんてダメな女なんだろう、私……」<br />「やったあ……ッ。じゃあじゃあ、もっと喋っちゃいましょうか。ああもう何でもいいですようサキ様ぁ」<br />「これ以上キスされたら、イッちゃうから、ダメね……ああもう、頭こんがらがってるのに、緩くしないでよ」<br />「やった! あふふ。喋ってよかったあ……あー。でも、少し残念でも、あるんです」<br />「な、なんで?」<br />「市子と、杜花様と、アリス様と、サキ様。みんなが幸せそうにしている姿、メイはもっと見ていたかった。死んでしまった市子との思い出を取り戻すように触れあうみんなを、外から見ていたかったんですよ。だから少しだけ、残念」<br />「……喋らなきゃ、私は結局気が付かなかったかもしれないのに」<br />「……二子ちゃんです。彼女――本当に、七星市子になりたかったのかなあって。それに、少し予定外の事があって。結局、市子の人格データは、姉妹達の中でも二子にしか適合しなかったんです」<br />「つまり……代替えって、二子以外あり得ないってこと?」<br />「特に撫子複製の姉妹には、殊更拒否反応が出て。本当は、二子で実験した後、移し替える予定だって聞いていたんですけど、ダメでした。市子も二子以外の複製姉妹を前提で考えていた。二子はそれを知っています。知ったのは最近でしょうけれど。そして、知っていて市子になろうとした。でも、市子の人格データを適用した後、市子になるとハッキリ言い出しましたから……それがつまり……」<br />「二子の意思なのか、市子の意思なのか、解らないと、そういう事」<br />「はい。だから、最終手段を残してあるそうなんです。貴女達に判断してもらおうって」<br /> そういって、メイは投げ出した上着の襟を漁り、張り付いていた何かを引きはがす。<br /> ――それは……鍵。<br /> 櫟の鍵だ。<br />「兼谷が嗅ぎ回ってますよ。記憶を改竄する折、貴女の身のまわりは全部漁られて、二子や撫子に関する情報は抹消されてる。この鍵も疑われると思ったので、私が回収しました。窃盗犯でごめんなさいです」<br />「……二子から渡されたのに、何故知らなかったのさ、アイツ等は」<br />「結晶一つ、破損していましたねえ」<br />「……そう、だね」<br />「私がタイミングをはかって破損させました。市子の隠しごとはその破損結晶に詰めていたみたいです。勿論七星ですから、どんな手段を使っても復元しますし、現に復元させたものを二子に入れています。単なる時間の引き延ばしにしか、ならなかったですけれど」<br />「ともかく――良くやった。そうか……『見つからない宝』か」<br />「渡しておいてなんですけれど、鍵としての機能はあまり意味がないんですよ。入れ物なんてこじ開ければいいだけですし。問題はそこじゃない、んでしょうねえー」<br />「モリカも言ってたよ。鍵に鍵としての機能は、期待出来ないってさ」<br />「そういう意味で……この鍵は、貴女達の記憶を引きずり出す為の、トリガーでしょうねえ」<br />「どう、しよっか」<br />「今、市子には二子の基礎人格データも入っていますし、データ解析も終えたでしょうから、鍵の意味を知っている。撫子、花、誉、きさら達が見つけられなかったもの。サキ様。今からまた、この部屋のアンテナを再起動します。意思を強く持って下さいな。そうすれば、忘れる事もない。ただ、二子はもう心は読みませんけれど、兼谷は危ないです。私より出力の強いESPデータを保持して、記憶を漁っていると思います。行動は、迅速に」<br />「――市子は。市子は、その隠した宝を、消したりしないのか? そもそも、その改竄機構、壊せないのか?」<br />「壊したら治します。簡単ですもん。それに、消したりはしないでしょう。自分で決めた事を曲げる人じゃないって、知ってますよねー。自分で仕掛けたもの、自分で弄らないですよ、市子は」<br />「なんで確証が持てるの」<br />「市子は言ってました。学院に隠したのは、本能と理性だって。『これ』は、市子の理性です。それに」<br />「それに?」<br />「――何か少し、おかしい。私の聞いていた計画と、誤差があります。そもそも学院丸ごと改竄自体が、市子の意図にそぐわない。撫子再現は、まだ続いているのかもしれない。もしかしたら、もっと別の意図が、あるのかもしれない。兼谷の動きが気になります」<br /> メイはそういって、小さく俯く。<br /> 鍵に鍵としての意味はなく、しかし開いたものはつまるところ『今の状態』なのだ。<br /> 七星市子が隠した『理性』の断片は、彼女が思っていた以上に重要になってきている。<br />「……解った」 <br />「場所は……たぶん、すぐ解ります。杜花様か、アリス様が、教えてくれる。サキ様」<br />「うん」<br />「大好きです。私が何者か知っても、気持ちを変えずに居てくれる、そんな適当な貴女が大好き」<br />「酷い言われよう。うん。でも、それが私だから。こそこそ嗅ぎ回ったり、横恋慕したり、恋人沢山作ってみたり、適当してみたり、まあ本当に、酷いけれど、それが私なんだ」<br />「あふふ。嬉しい――では」<br /> 七星の善意の現実を。<br /> 二子の意思を。<br /> 市子の理性を。<br /> 貴女達で確かめてください。<br /> そういって、支倉メイは、改竄機構を再起動させた。<br /><br /><br /> プロットエピソード4/心象楽園/構造少女群像 つづく</span>俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-20200375327340574742013-04-05T20:00:00.000+09:002015-01-21T01:44:02.141+09:00心象楽園/School Lore ストラクチュアル5<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<span style="line-height: 27px;">ストラクチュアル/5 恋慕クオリア <br /><br /><br /><br /> 旧県社欅澤神社。<br /> 建立は1620年。藩主導の下建造され、本社に建御雷神、経津主神を、摂社に保食神(稲荷)を祀る。<br /> 社名は『欅多き山間に美しき所在り また山幸多く餓える事なく』というよみ人知らずの詩から付けられ、欅の名は後に町名になる。<br /> 侍が刀を竹刀に持ち変え始める頃に奉られた神社で、敷地内からは当時の道場跡なども発掘されている。現在は調査を終え、宮司一族の古武術流派『欅澤神道無心流』道場が建つ。本格的な古武術からエクササイズ、食事制限ダイエット指南まで幅広く扱ってる(エクササイズ、ダイエット指南当は駅前欅街ビル二階)。<br /> 代々女性宮司が治めており、現在は14代目欅澤花宮司。<br /> ご利益は必勝祈願、安産祈願、無病息災、五穀豊穣等。<br /> 主な行事は1月1日歳旦祭、1月14日歳火祭(どんと祭)、2月20日欅澤神社例大祭……。<br /> アクセス手段は観神山駅より市バスで15分。<br /> 宮司からの言葉<br />『身健やかに心逞しく。欅澤神社は女性からの信仰が厚く、現代を生きる強い女性たちの後押しをする役割を果たしています。神を拝むにもまず心と身体が必要です。日々絶え間なく動く大きなうねりの中に疲れても、微々たるものでも信仰心があればこそ、前を向いて生きて行けると考えています。当神社では建御雷神、経津主神と御祀りしていますが――……』<br /><br /> 電子ペーパーに落とした情報を手に、欅澤神社を望む。<br /> 勢いで言ってしまったあと、引けなくなって綿密に計画まで立ててしまう自分が恨めしかった。<br /> 年末正月など、一般家庭ですら忙しいというのに、泊まる家は神社なのである。計画した後、普通ならば絶対否定されるであろう許可も、何故か二つ返事で降りた。<br /> 欅澤杜花にして『あのお婆様が私のお願いを聞いてくれるなんて、明日は地球が割れます』と言わしめるほどである。<br /> 欅澤家の問題はクリアしたが、天原家はどうか。<br /> 政治家家系の正月であるからして、とにかく挨拶挨拶、器量の良いアリスなどは、看板としていつも出ずっぱりの引っ張り凧であり、冬休みといえば労働期間そのものだ。<br /><br />『年末年始はヒトのお家に御泊りします』<br />『待ってくれアリス。お父様を見捨てないでくれ』<br />『そうよアリス。お父様の支援者からの人気は貴女があるからこそなのよ』<br />『ベス、流石にそれは言いすぎじゃ……いや、でもアリスがいるとだな、やっぱりこう受けが違う訳でだな……』<br />『御姉様方にお願いして。御泊りしますわ』<br />『……お、男の家じゃないよな?』<br />『違いますわ』<br />『そ、そっか。御友達か?』<br />『もしかしたら将来を誓う可能性もあります』<br />『ええ? ベス、アリスはその、アレなのか?』<br />『……アリスも大人になるのね。母さん嬉しいわ』<br />『ど、どちら様にお邪魔になるんだ?』<br />『欅澤杜花様のお家に。神社ですのよ。許可も頂いておりますわ』<br />『けや……なるほど。解った。普段正月お前を使って悪かったな。羽を伸ばし……伸ばせるのか神社で?』<br />『御話では空も飛べるとか』<br />『ベス、アリスはその、アレか? 少し夢見がちに……』<br />『御上手なのね。しっかりやるのよ、アリス』<br />『はい、お母様、お父様。アリス、頑張りますわ』<br />『な、なんか解らんが、まあ粗相のないように。あ、挨拶は行くからな、娘を預けるわけだし。あれ、でも欅澤……』<br />『お父様?』<br />『花さんか……い、いや。うん。行く行くからな。逃げないからな』<br /><br /> と言うわけで、何故か欅澤神社に最大与党の幹事長夫妻が挨拶に行くという事態に発展した。<br /> ただおそらく、欅澤花は動じないだろう。動じるとすれば欅澤家の男どもである。<br /> そして満田早紀絵はどうか。<br /><br />『パパ、ママ。私年末年始は実家帰んないわ』<br />『なんだ、学院で過ごすのかね。まあ良いが』<br />『早紀絵ちゃんの顔を見るの、お父様が凄く凄く楽しみにしてましたのに』<br />『こら、早紀音』<br />『んー、三日以降に戻るね』<br />『そうか。お小遣いはいるか?』<br />『貰えるものなら貰うよ。御賽銭代』<br />『初詣に行くんだな。どこの神社だ』<br />『欅澤神社』<br />『けや……なるほど。欅澤さんとはどうなんだ』<br />『えへへ』<br />『まあ。お父様観て、早紀絵の顔。こんな顔私達に向けた事あったかしら?』<br />『早紀絵が幸せならば何でもいいな。うん。早紀絵可愛い早紀絵マイエンジェル』<br />『で、神社に御邪魔するのよ』<br />『そうかそうか。じゃあママと一緒に顔を出すからな、宜しく伝えてくれ』<br /><br /> 電話越しにそのようなやり取りがあった。と言うわけで、何故か欅澤神社に流通王夫妻が挨拶に行くという事態に発展した。<br /> ただおそらく、欅澤花は動じないだろう。動じるとすれば欅澤家の男どもである。<br /> それぐらいならまだよかったのかもしれない。所詮幹事長、所詮流通王である。<br /> 問題はそこからだ。<br /> 冬休みに入る二日前の事だ。<br /> 突如欅澤杜花、天原アリス、満田早紀絵に対して職員室からの呼び出しがあった。どうやら電話らしいが、普通の電話といえば、内線の繋がっている白萩の電話にかかってくる筈である。職員室に赴くと、教員という教員が三人に振り返る。更に教頭に連れられ、向かった先は学院長室であった。<br /> 初老の女性、学院長は締めるところを締め、緩める所を緩める、とても生徒達にウケのよい学院長だ。性格も大らかで知られており、まさかその学院長が手を震わせながら三人を待っているとは、流石に誰も予想しなかった。<br /> 電話の通話ボタンを押すと、映像ディスプレイが全面に映る。<br /> そこに居たのは、なんと七星一郎であったのだ。<br /><br />『やあ、杜花君。お久しぶりだね、パパだよ』<br />『御久し振りですお父様』<br />『そちらの二人は初対面だね。七星一郎だ。天原君所のアリス君と、満田君所の早紀絵君』<br />『お初にお目にかかりますわ。天原家三女、天原アリスです』<br />『あ、本当に若いんだなあ。良い男だねえ。満田家長女の早紀絵ですよ』<br />『いや、可愛いところが揃ってる。彼等が大事にするのも解るよ。急に呼び出して悪かったね』<br />『いいえ。私達に何かありましたか』<br />『うん。最近二子とはどうだい?』<br />『喧嘩したばかりです。なんとなく、御解りでしょう?』<br />『はは。いや、参ったな。兼谷からも聞いてる。二子が悪いね。ああ、そうそう。君たち年末年始、御泊り会だろう?』<br />『な、なんで解るんですの?』<br />『解っちゃうんだな、これが。まあほら、七星系列の子って沢山いるからねえ。そんな事も耳に入るよ』<br />『おいモリカ、このおじ様平然とスパイ居ます宣言したよ』<br />『解りきった事ですね。それで、どうしましたか?』<br />『うん。仲直りに二子もいれてくれないかな。ちょっと先走っただけで、良い子なんだよ本当は』<br />『……アリスさん、サキ、どうしますか』<br />『七星一郎にお願いされて断るって日本じゃ生きていけないってことじゃないか』<br />『私まだ死にたくありませんわ』<br />『という事で、大丈夫です。ところでお父様』<br />『良かった。なんだい、御礼に何でも聞くよ、杜花君』<br />『どのくらいまでが、貴方の想定内なんですか』<br />『――ふむ。九割九分かな。ただ残り一分は不確定要素そのものだ。僕もビックリだよ』<br />『有難うございます』<br />『欲が無いね。何でも答えるのに』<br />『貴方に聞く必要が出来たら、お電話さし上げます。面と向かって御話しましょう』<br />『おお、凄い目だ。僕を殺そうって奴は数多と居たが、君ほどの迫力は無かったね。何か不味い事あったかなあ。まあ大丈夫、挨拶に行くよ、新年のね。それじゃあ二子を宜しく頼むよ』<br /><br /> というわけで、何故か欅澤神社に日本国王が挨拶に行くという事態に発展した。<br /> これには流石の欅澤花も首を傾げるだろう。欅澤の男たちに関しては失神もあり得る。<br /> ちなみにそのあと、七星の系列会社が配送会社をミツタ運輸に切り替えたり、七星の系列会社から天原家に対する支援者が増えたり、七星の系列会社が一斉に欅澤神社の氏子になったりという出来事があったが、気にしない事にした。<br /> やる事の桁が違うのだ、いちいち反応していたら七星とは付き合えない。<br />「七星怖い。聞いてよモリカ、あれ以来ウチの株価が上がりすぎてヤバイ。規模がヤバイ。小国なら一撃で滅ぼせるくらいの経済操作」<br />「支援企業が百単位で増えたんです。こりゃ総理行きますわね、お父様」<br />「御札の初穂料だけで八ケタ行ったそうです。賽銭箱も千円硬貨で満杯とか。恐ろしいですねホント。ちなみに全部孤児院に寄付したそうです」<br /> 七星一郎のお願いに答える、とはこういう事だと実感する。<br /> 気にしないようにしたが、やっぱり無理だった。<br /> 十二月末。欅澤神社。<br /> 境内を見渡せば、あちこちにブルーシートをかけられた屋台が見受けられる。祭りの前の静けさというのは、一種の高揚感がある。生憎アリスは屋台で買い食いなどした事がないので、今回が初体験になるだろう。<br /> 天原家において神社に用事といえば、衆院選必勝祈願くらいである。<br /> 周囲を望む。<br /> 左手には手水舎、その奥に神楽殿。右手には社務所や御神木などが見て取れる。正面には拝殿、奥に本殿と、典型的な造りだ。<br />「他と一緒ですわよね?」<br />「はい、一般的な様式です」<br /> 少し頭を下げて鳥居の左側を抜け、手水舎で左手、右手、口、柄杓と濯ぐ。<br /> 拝殿に向かい、普段使わない為、わざわざ下ろして来た五万円札を奉じ、鈴を鳴らして二礼二柏手……一礼。<br /> 色々願う事はあったが、取り敢えず必勝祈願だけにした。<br /> 普段フザケタ調子の早紀絵に懸念があったものの、流石にこう言った事には慣れているらしく、卒が無い。<br />「神社に五万円札投げる人、直に観たの初めてですよ」<br />「カードは投げられませんもの」<br />「そうそう、私も下ろしてきたのよ」<br /> といって五万円札の束を投げいれようとする早紀絵の手を杜花が止める。<br />「いや、そういうお嬢様ギャグとか要らないので」<br />「え?」<br />「え?」<br /> 二人の間に妙な沈黙が流れる。<br />「あ、親のお金とかじゃないよ? 一部現金化……」<br />「いえそういう意味で言った訳ではないんですけど。下手するとその束会社役員のボーナスですよね」<br />「そうそう。そんぐらい。えい」<br /> バサバサと音を立てて賽銭箱の中へと会社役員月収が落ちて行く。自分でもアレかな、とはアリスも考えていたが、この成金にはついていけそうになかった。杜花が頭を抱える。<br />「えーと……あとで回収しましょう」<br />「な、なんで?」<br />「私、お金の価値が解らない人と一緒に居たくないなあ」<br />「いやいや。解ってるって。大卒初任給が六十万ぐらいでしょう。良いパソコン一台くらい」<br />「解ってるのに何故」<br />「投資投資。ほら、欅澤神社大きくするって言ったじゃない」<br />「あー……え、結婚前提なんですか?」<br />「違うの!?」<br />「するんですの!?」<br />「え、どんな話になってるんですかそれ?」<br />「ええ。そりゃないよモリカ。身体だけの関係だったなんて」<br />「そ、そう言われると辛いですね……」<br />「法改正。重婚」<br />「アリスさん私利私欲で政治しないでください」<br />「馬鹿な。わたくしの望みが日本臣民の望みですわ」<br />「ダメだこの独裁者早く何とかしないと。でもそれは応援しようかな」<br />「あー……えーと。杜花さん?」<br /> 会話の方向性が明らかに神社に似つかわしくない俗物的なものへと変化している所に、おっとりとした大人の女性の声が杜花を呼ぶ。<br /> 視線を向けると、そこには和服姿の美しい女性が立っていた。雰囲気がとても杜花に似ている。<br /> アリスは訝る。<br /> 杜花は一人っ子で、姉妹は居ないと聞いていた。眼の前の女性は高く見積もっても二十代後半だ。もしかすれば従姉かもしれない。<br />「あ、お母様」<br />「杜子ちゃんやっほ。ああ久々に見てもほんっと美人」<br />「はあ、お母様……お母様!? またまたまた、御冗談を、はは、アリス騙されませんわ」<br />「御久し振りね、早紀絵さん。そちらは、天原アリスさんね。御噂はかねがね。杜花の母の、杜子です」<br /> どうやら冗談ではないらしい。静々と頭を下げる姿が、それだけで趣深い。<br /> 女系家族で、皆若くして婿を貰って子をなしているとは耳にしていたが、どうにもこうにも、母と言われてもピンとこない。<br />「天原家三女の、天原アリスですわ。杜花様とは懇意にさせて貰っています」<br />「天原ともなると、御忙しいでしょうに、こんな所ですけれど、ゆっくりしていってくださいね」<br />「とんでもない。此方こそ御世話になりますわ」<br />「杜子ちゃんいつみても綺麗だよねえ」<br />「早紀絵さん、年上をちゃん付けなんて、いけませんよ」<br />「ああ怒られちゃったってか怒られる為に言ったんだけど」<br />「ごめんなさいお母様。サキったら相変わらずだらしなくてスケコマシで」<br />「ふふ。あれね、ノーフューチャー」<br />「いや未来あるし」<br /> 肩書きと観た目が相克する人間というのは、初対面からすると大変接し辛いものがある。しかも相手が杜花の母ともなると、どういう態度で居ればよいのか解らない。総理大臣に挨拶した方がマシな体面を繕えるだろう。<br /> 杜花にとても良く似ており、目元などそっくりだ。<br /> 杜花も将来こんな美人になるのかと思うと、それはそれで大興奮である。顔にも口にもしないが、嬉しい接し辛さだ。<br /> 杜子に従い、境内の奥へと進んで行く。<br /> 小路を進むと、やがて鎮守の杜にぽっかりと開いた空間が現れた。欅澤家の母屋である。<br /> 初めて訪れる訳ではない。今年の文化祭で出張社務所などという催しをした際、何度か顔を出している。生憎杜子にも花にも多忙で逢えなかった為、以前は杜花の親類の禰宜に指導を頂いた。<br /> 杜花自身は裕福ではない、とは言うのだが、それはアリスや早紀絵と比べるからであって、十分中流以上だろう。そもそも市子と比べればアリスも早紀絵も下流である。<br />「ただ今戻りました」<br />「おじゃましまー」<br />「御邪魔します」<br /> 築数百年の家を改築しているらしく、日本家屋らしい様式と、現代建築らしい施行があちこちと入り混じっていた。<br /> 今回アリス達が御邪魔するのは、使われていない離れである。<br /> 土間から上がり、しっかりと磨かれた床の上を行く。家柄、こういった場所に来ない訳ではないが、杜花の家ともなるとひとしおだ。<br /> そもそも今回、杜花の家に御邪魔した理由が果てしなく不純である。<br /> 杜花も祖母に説明はしていない。いや出来ない。<br /> 欅澤花は『みんなで御泊りしたい』という御願いに対して『構わない』とだけ答えたという。<br /> 離れに案内される。<br /> 十五畳の和室で、窓からは庭園がのぞめる。畳みの匂いが鼻孔をくすぐり、何か懐かしい気分にさせられる。案の定掛けてある掛け軸には『平常心』とあった。暗喩かもしれない。<br />「日本人はやっぱり畳ですわね」<br />「アリスさんは、ハーフでしたか?」<br /> 杜子が問う。明らかに観た目が外国人のアリスの発言であるからして、疑問もあるだろう。<br />「ええ。母はイギリス人ですの。国籍は日本ですのよ」<br />「あら、ごめんなさいね。他意はないの」<br />「いいえ。仕方ありませんわ。昔こそ悩みましたけれど」<br /> 日本国で港が開かれて、はて何年たったか。<br /> そんな日本国だが、未だ西洋人の数は多くない。百万単位で居るのは、アジア戦火から逃げて来たアジア人ぐらいで、金髪碧眼ともなると数はやはり少ない。<br /> ともすれば虐めなどもありそうなものだが、居たとしても居友のような人間だけだ。それも今は知人である。<br />「そういえば、七星さんもいらっしゃるのよね」<br />「あとから来るみたいです、お母様」<br />「義理の妹と聞いたけれど、仲良くしているの?」<br />「ええ、良く慕ってもらっていますよ」<br /> 杜花が笑顔で平然と嘘を吐いた。いや、方便というべきか。少なくとも、七星からの氏子が増えた事実は周知であろうから、何かしらがあるとは思っているだろう。<br />「家の事だから、杜花さんにお願いするわ。準備が終わったら、母様が御部屋にいらっしゃるから、ごあいさつなさいね」<br />「はい」<br /> 早速部屋に荷物を置き、三人で母屋に向かう廊下に出る。途中、客間など空いている部屋で、数人の巫女や神職が手作業をしているのが観えた。新年の準備だろう。<br />「初詣にはどのくらいの人が来るのかしら」<br />「二万人くらいですね。大きな神社が近県にありますから、そちらの方がケタ違いに多いでしょう。此方に来るのは近隣の人達ですね。小さくても氏神なので」<br />「あ、あの巫女さん可愛いー」<br />「アルバイトの子ですね。市立観神山の。問題起こさないでくださいね、サキ」<br />「どうかなあ」<br />「結構いますわね」<br />「親戚からと、アルバイトさんで、年末年始は二十人くらいでしょうか」<br />「モリカは手伝わなくていいの?」<br />「御泊りが無ければ間違いなく駆り出されてるでしょうけれど。誰にも言っちゃだめですよ――大変だから、ラッキーです」<br /> 杜花が声を顰めていう。その仕草がなんだか可愛らしい。<br /> やはり実家という事もあり、学院での気の張ったような杜花とは、ほんの少し違って見える。<br />「こんな年末年始初めてですよ。ああ、社務所での御手伝い、三時間ぐらい入れるようにしてありますから、お二人とも宜しくお願いしますね」<br />「やった。販売業なんて職業一生体験しないかと思った」<br />「金髪に巫女装束って合いますかしら」<br />「ありあり。アリスは何着ても大丈夫」<br />「まあま、皆さん年末年始は毎年忙しかったでしょうし、今年ぐらいは」<br />「そうですわねえ」<br /> そんな話をしていると、やがて杜花の祖母、欅澤花の部屋に辿り着く。<br /> 杜花が声をかけると、中から祖母とは思えない、若い声が聞こえて来た。<br /> 襖を開ける。三人で頭をさげて入出し、花の前に出る。<br />「かけなさい」<br />「失礼します」<br />「失礼しまっす」<br />「失礼しますわ」<br /> ただの祖母ではない。綿密に受け継がれた血を今に残す、欅澤家14代目当主だ。<br /> アリスは家柄、様々な御偉い様に顔を合わせて来たが、ここまで重苦しい空気で迫る女性は初めてであった。聞くところによると、花はまだ五十五歳だ。祖母というには若い年齢であり、杜子と同じく、年相応にはまず観えない。髪型から服装にかけて、隙がまるでない。<br /> 瞳が違う。<br /> 眼力とでもいうのだろうか、静かに安置される無名の名刀の如き鋭さだ。<br />「ただ今戻りました。この度はわたくしのワガママを聞いてくださり、誠にありがとうございます」<br />「おかえり。面白いの捕まえてきたね。まあ早紀絵はいい。そちらは」<br />「天原家の三女、天原アリスですわ。この度は御招きいただき有難うございます」<br />「ああ、藤十郎の娘ね。お父様は元気かい」<br />「はい。病気一つありませんわ。不躾ですけれど、父と面識が御有りですの?」<br />「藤十郎さんは柔道をやっていたでしょう」<br />「ええ。四段ですわ」<br />「下手糞でね。指導した事があったね。泣くほど扱いてやったよ。来るんでしょう、彼は」<br />「はい。挨拶に上がりますわ」<br />「杜花、四季彦に道場の掃除するように言っておきなさい」<br />「畏まりました」<br /> どうやら父である天原藤十郎は、正月から身体を傷める事になるらしい。最近運動不足だから丁度良いだろう、とアリスは納得する。<br />「それで杜花。聞いていなかったけれど、何でまた年末年始に御泊り会なんて思いついた」<br />「タイミングがなかなか合いませんでしたが、合致したのが年末年始でした」<br />「無理を言ったのは私ですの。ごめんなさい、お婆様」<br />「許可しておいて帰れなんて言わないよ。ほら、早紀絵何しに来たの」<br />「花婆ちゃんに聞きたい事あったし。あと杜花といちゃつこうと思って」<br /> 流石というか、何と言うか。早紀絵はブレない。花の前でもそのまま満田早紀絵である。<br />「いい。解ったよ。杜花は好きになさい。お年玉だ」<br />「やったー」<br />「アリスも好きになさい」<br />「え、杜花様を?」<br />「いいよ」<br />「や、やったー」<br />「ちょ。お婆様その、私はですねえ……」<br />「ねえ杜花。貴方、七星に何かしただろう」<br />「何かと言いますと」<br />「最近羽振りが良くて仕方ないよ。神様も大喜びさね。まして一郎が来るんでしょう」<br /> 一郎と、花は言った。<br /> この日本で、彼をまるで親族のように呼び捨てにする人間が、どれほど居るだろうか。何の躊躇いもなく自然に出た言葉は、しかしアリスに不思議な印象を与える。<br />「市子御姉様の、妹様が来ます」<br />「……それは何人目だ。どこの子だい」<br />「さて。存じ上げませんけれど、京都の出だそうです」<br />「解った。あとは良い。学院では早紀絵以外肩肘を張って疲れるだろう。ゆっくりしていきなさい」<br />「私も凄い頑張ってるし、肩肘張りまくりだし」<br />「小うるさい小娘だね。お前は少し仕事をしなさい。神楽殿の掃除」<br />「ええ、御泊りに来たのに!?」<br />「杜花嫁に貰うんなら一通りぐらい出来ないと困るだろう」<br />「モリカ、出来ないと困る? うち、メイド二十人ぐらいいるけど」<br />「家事分担すると、長く続くって聞いた事ありますね。空いた時間に二人で家事なんて、憧れません?」<br />「うっし。じゃあやるよ」<br />「御しやすい子だね。杜花とアリスはゆっくりなさい」<br />「はい、有難うございます」<br />「ご配慮感謝しますわ」<br />「うん。行っていいよ」<br /> そういって、三人は花の部屋を後にする。<br /> なるべく気を張らずにいようとしたが、花の前では難しかった。額の冷や汗を拭う。<br /> どうも、自分の父、更には一郎とも交遊があると見える。杜花も知らなかった様子で、意外そうな顔をしていた。<br /> 離れに戻って御茶を啜りながら、杜花に問う。<br />「なんだか凄いお婆様ですわね」<br />「……信じられないくらい喋りましたね」<br />「ふ、普段そんなに喋りませんの?」<br />「ええ。しかも機嫌が良かった。まして私にあんなに優しくするなんて……明日には銀河が一つ消えるかもしれません」<br /> 杜花が顔を青くして言う。冗談でそこまで言わないだろう。<br />「早紀絵さんは……」<br />「待ってアリス」<br />「はい?」<br />「昔からそうだけど、なんでずっと早紀絵さんなの?」<br />「早紀絵さんは早紀絵さんでしょう」<br />「早紀絵かサキにして」<br />「……まあ、良いですけれど。早紀絵」<br />「あ、何か良い。もう一回」<br />「早紀絵」<br />「うん。何?」<br />「良く解りませんわね。ともかく、早紀絵は花お婆様と仲が宜しいんですのね」<br />「孫よりも孫みたいな扱いされてる感凄い。あれかな、花婆ちゃんの好みなのかも、私」<br /> それは……あり得る。<br /> 姉妹、もしくはそれに近いと想定される人物の中『組岡きさら』という子は、早紀絵のようにショートカットで痩躯の、ボーイッシュな人物だった。<br /> 花は彼女達を守るために命をかけている。ただの仲の良い御友達では無かった事は確かだろう。<br />「何にせよ、お婆様もアリスさんを」<br />「待ってください杜花様」<br />「はい」<br />「昔からですけれど、なんで早紀絵はサキで、私はアリスさんですの?」<br />「アリスさんはアリスさんでしょう」<br />「素が出ると呼び捨てですわよね」<br />「ぐぬ……じゃあアリスで良いですか」<br />「はい。そう呼んでくださいな」<br />「アリス」<br />「うふふ。はい」<br />「アリスは、お婆様に気に入られたみたいですね。どうやらアリスのお父様とも、旧知のようですし」<br />「意外でしたわ」<br />「私もです。実際のところ、私はお婆様の横のつながりを、一切知らない。喋りませんし。一郎氏とも知り合いみたいですね。ああ、なんだかもう、本当に。私達って……」<br /> 一体、どんな因果で繋がっているのかと、そう考えるだろう。<br /> 杜花と早紀絵の調べでは、どうやら自分達が『用意された市子の友人』である事が予想されている。<br /> 利根河撫子その周辺、そして幻華庭園、符合する部分が多い。<br /> 当然、用意されたからと言って、自分達が台本通りに何かを演じている訳ではない。アリスが市子を慕い、杜花と早紀絵に恋心を抱くのは、当然ながらアリスの好みだからだ。しかしそれでも、どんな構造になっているのかは、気になる。<br />「花婆ちゃん、話してくれるみたいだね。誰が聞く?」<br />「私ちょっと遠慮したいです」<br />「ちょ、モリカ、孫でしょ」<br />「あんまり孫的でないというか……絶対二人の方が訊き易いし話しやすいと思いますよ」<br />「じゃあ、わたくしが」<br />「どうぞどうぞ。ごめんなさいね、アリス」<br />「いいえ。個人的にも御話してみたいですし」<br /> これは本音だ。もしかすれば、これからもずっと御世話になるかもしれないのだ。今から友好を深めても問題有るまい。<br />「よし、じゃあ私神楽殿の掃除してくる」<br />「なんだかごめんなさい、お婆様ったら」<br />「ううん。でもご褒美頂戴ね」<br />「……欲しいのなら」<br /> そう言われ、杜花はほんのり顔を紅くして伏せる。<br /> それは早紀絵に向けられたものだが、アリスもそんな姿を見て、胸にクる。可愛い。<br />「くふふ。ああ、やだもう、杜花その顔可愛すぎ」<br />「ほんとほんと」<br />「や、やめてください、二人でからかって。もうっ」<br /> 早紀絵が跳ねるようにして、テンション高く部屋を出て行く。<br /> 早紀絵が出て行くと、一気に静かになってしまった。普段からそういう場面が無いわけではないものの、人様の家ともなると、そうも行かない。<br /> 杜花と視線が合う。彼女は静かに笑う。<br /> そうだった。<br /> 御泊りに来たのは、花に話を聞きたいという事もあるが、それは実際のところ、アリスからすればサブイベントにすぎない。メインは眼の前の御姉様である。<br />「な、なんだか旅館に来たみたいですわ」<br />「そうかもしれませんね。私も普段は此方に上がらないので。あ、露天風呂もありますよ」<br />「ホントですの?」<br />「どぅいっとゆあせるふ。お父様とお爺様がDIYに凝っていまして、自作です。なかなかの出来で、大理石まで使ってるんです。金使いすぎだ馬鹿どもと、お婆様は怒っていましたが、意外とお気に入りみたいで」<br />「本格的ですわね。ああ、それは楽しみかも。一緒に……あ、あはは」<br />「そうですね。あ、お酒も買ってありますから、一杯やりながら」<br /> 女子高生として、乙女として、お嬢様として、その会話はどうなのかと思うが、無類の日本酒好きのアリスとしては喜ばしい。良い純米酒ならば、それこそ何合でも行ける。そこに杜花まで加わったらどうなるんだろうか。想像して頭が茹る。<br />「さて。家を案内しましょう。広くありませんけれど」<br />「お、お願いしますわ」<br /> 広くは無い、とは言うが、和室六部屋、洋室二部屋、リビングダイニングに広い炊事場、トイレは四つで更に離れが一つ。プラスして二階建ての別宅が一つある。<br /> 御風呂とシャワールームは別で露天風呂までついている。まるで隠れ家的旅館にでも来たような雰囲気だ。<br /> アリスの家はというと、まるっきり洋館のような作りで、別荘も幾つかあるが、昔ながらの天原家だ、華族趣味でどこも大体西洋風である。<br /> 欅澤家の母屋は横に長く、当然縁側も長い。一番奥まで行くと、そこが杜花の部屋だという。<br />「ちょっと待っててくださいね」<br /> そういって部屋に入って五分程。杜花が扉から顔を覗かせる。<br />「あんまり綺麗な部屋じゃありませんが」<br /> 中に入ると、日本家屋らしい空気がまるでない洋室が見て取れた。<br /> どうやら杜花の部屋だけは設計そのものが異なるらしく、十畳ほどの空間にはフローリングの床に白い壁紙、趣味の良い調度品が光る。<br /> 雰囲気を出す為か、空調は隠れる作りになっており、電燈なども真鍮製のシャンデリアである。外を望む窓枠さえも彫刻が施してあり、ちょっとした西洋モデルルームの趣だった。<br /> そして何より、ベッドが天蓋付きである。<br />「まあ。杜花様というと、茶室のようなイメージがありましたけれど」<br />「趣味で……。お父様とお爺様のDIY精神がですね……いえ……私のワガママ……はい」<br />「もう本職にしたらいいじゃありませんの。あら、このクローゼットは渋いですわね」<br />「あ」<br /> クローゼットに眼をやる。<br /> 茶褐色で細工も施してあり、部屋にマッチしているのだが、どうもクローゼットの隙間から、ピンク色の布がはみ出ている。<br />「あら、何か挟まって……」<br /> フリル、だろうか。ピンク色のフリルが挟まっている。<br /> クローゼットというくらいなら、恐らく収まっているのは衣装だろう。で、ピンクである。<br /> アリスは杜花に振り向く。<br />「杜花様?」<br />「い、急いで片づけたもので。はは、お恥ずかしい。まあま、此方に来てくださいよ」<br />「な、なんで遠ざけますの」<br /> それだけだろうか。<br /> 全体的に調和はとれた部屋なのだが、ところどころ、何かこう『空き』のような部分が観える。そこには何かしらを置いていたのではないかという隙間だ。<br />「部屋を出ましょう」<br />「そんな。良いお部屋じゃありませんの。私、好きですわよ?」<br />「いやいや。アリスやサキなどの部屋に比べたらきっと粗末ですし、さあ、出ましょ……あっ」<br /> 振り向いたアリスの後ろで、ガコッという音がする。改めてみると、クローゼットが開き、中からピンクの衣装や、熊のぬいぐるみなどが顔を出していた。<br />「杜花様の御友達で?」<br />「……ええ、まあ」<br />「杜花様、こういったものも着るんですのね」<br />「た、たまに」<br />「アリス、見てみたい」<br />「いえ、そんな可愛くされても。それはちょっと。人さまに見せるものじゃ。部屋着ですし」<br />「何も隠す事ありませんわ」<br />「恥ずかしいです」<br />「着なくてもいいですの。じゃあ、写真とかは?」<br />「……」<br /> 笑顔で迫るアリスに観念したのか、杜花が傍らからタブレットを取り出す。二世代ほど前のものだろう。<br /> 杜花が操作すると、無指向性ホログラムが展開、一つの映像が空間に浮かぶ。三次元立体表示(モデルグラフィクス)で、杜花の全体像が回転して観えた。<br />「……わお」<br />「誰にも言わないでくださいね」<br /> その映像は、フリルがたっぷりあしらわれたピンクと白の衣装を着こみ、ぬいぐるみを抱える杜花の姿である。<br /> とても嬉しそうに笑い、撮影者に向けてアピールしていた。恐らく相手は市子だろう。<br /> 可愛い。<br /> アリスは瞼を瞬かせる。どちらかといえば強いカッコいい、でも控えめでお淑やか、というイメージが定着している杜花とは正反対だ。まるで子供のように屈託の無い笑みを浮かべる姿は、これが格闘怪物であると言われても誰も信じないだろう。<br />「ほんと、市子御姉様しか知りませんから、ほんと。家族にも内緒に……」<br />「可愛い」<br />「え、いやその」<br />「杜花様これ可愛いですわ。ああ、お人形さんみたいっ」<br />「し、身長175センチですけどね……脚も太いし……筋肉ついてるし……細工無しで板とか殴って割れるし……和弓とか普通に避けられるし……」<br />「い、いやいやいや。それはそれで良いじゃありませんの。強い杜花様は強い杜花様で。この映像くださらない?」<br />「だ、ダメです」<br />「くださいな」<br />「そんな、駄菓子屋さんで御買物するみたいに言われても」<br /> アリスは覚悟を決める。ソファに座る杜花の隣に腰かけ、その手を取る。<br /> 欅澤杜花という人間は思いの外押しに弱い。彼女自身に関わる余程の事でない限り、なんだかんだと首を縦に振る。あまり多用すると嫌われるので、加減が重要だ。<br />「拡散しないでくださいね。特にサキ」<br />「個人で楽しみますわ。あ、圧縮はいりませんから、そのままくださいな」<br /> 携帯端末を取り出し、データを受け取る。どうやらオマケもくれたらしく、フォルダには何種類かの立体モデル映像が保存されていた。<br /> どれもこれも、ここ最近はまるで見せていなかった、華やかな笑顔だ。<br />「可愛らしい」<br />「面と向かって言われるとやっぱり恥ずかしいですね」<br /> この笑顔を取り戻したい。<br /> なるべくなら、笑って暮らし、笑って卒業したい。<br /> 二人で、三人で、何の憂いも無く、将来を見つめたい。<br /> これからを歩んで行く人間が、高校生時分から人の死を引きずって生涯を過ごすなんて真似はしてはいけないのだ。悲しむべきものはあるだろうが、区切りは付けねばならない。<br /> 死んだ人間とて、親類や恋人の不幸は望まないだろう。<br /> 市子について、アリスは区切りをつけている。<br /> 勿論思い返せば悲しくもなるが、いつ何時も忘れずにいられずにいて、私生活に支障をきたすなんて真似はしない。<br /> 杜花は偽り続けて来た。本来ならばきっと時間が解決しただろう。一年経ち、やっと整理を付け始めたというのに……、問題はそう簡単には片付かなかった。<br /> 髪をかきわけ、杜花の横顔を撫でる。彼女は何も言わずその手を取った。<br />「ずっと嫉妬していましたの。市子御姉様の一番は私なのにと」<br />「良く睨まれましたね」<br />「でも、長く付き合えば良く分かった。私は貴女達の間には入れる余地もないのだと。それはそれで悔しくて、私は市子御姉様から貴女を引きはがそうとすら考えていた。二人とも、私では手の届かない人間なのだと解っていても」<br />「私は、怖かった。貴女がいつか、市子御姉様を攫って行くんじゃないかと。そもそも、七星としては間違いなく、御姉様と貴女の組み合わせを欲していた。私はイレギュラーです」<br />「そしてこんな形になるなんて、誰も予想していなかった」<br />「こんなダメな人間が好きなんて、アリスも変わってますね」<br />「市子御姉様のようには、まず行きませんけれど。私、杜花様を幸せにしたいんですの。気持ちは解りますわ。でも、杜花様には未来がある。私と、それに早紀絵なら、貴女にまた、本当の笑顔を取り戻せますわ」<br />「きっと色々、大変ですよ。ご存じの通り、私はまともではないし」<br />「何も構いませんわ。こうして手を繋いでいる時、私は自分を偽れませんもの。もう、ずっと心臓がドキドキいってて、ちょっと倒れそうですのよ」<br /> 顔が赤くなるのを抑えて、杜花の手をとり、胸元に寄せる。杜花は恥ずかしそうにしながらも、アリスの瞳から眼を離さない。茶色の瞳がまっすぐ此方を向いている。<br />「ご存じの通り、今日はその、とっても不純な目的で来ましたの」<br />「ええ」<br />「で、でも。いきなりはやっぱりその、怖い。杜花様、キスしてくださいな」<br /> 杜花が小さく頷く。唇に触れる程度のキスだが、彼女からしてもらったのは初めてだ。<br /> 唇を離すと、アリスは耐えきれず、思わず破顔した。杜花からの体温が、香りが、刺激が、たまらなくうれしい。<br />「あ、あはは。ああ、やだもう。杜花様ったら。なんだかエッチですわ」<br />「してほしいって言ったのはアリスなのに」<br />「が、頑張って勉強してきましたの。だからその……私、このお休み中にその……えへへ」<br />「勉強?」<br />「ど、同性同士の。その、交わり方と言いますか……」<br />「どこでそんな」<br />「ネットと官能小説と漫画ですわ」<br />「なんか色々ダメな気がしますね、それ」<br /> 早紀絵から色々と話は聞いているが、杜花は半端ではないらしい。早紀絵にしてそう言わしめる杜花であるから、そもそもそんな準備はせずとも、全てまかせてしまえばよいのだが、それはそれでアリスのプライドが傷つく。<br /> しかし予習などどこでしたら良いのか解る訳が無い。仕方なく、ネットの掲示板で伺いを立てたところ、各種指南サイトや小説漫画を勧められた。<br />「でも流石にいきなり双頭ディルドは難しいと思いますわ」<br />「今すぐその本捨てた方が良いです」<br />「頑張りますわ」<br />「そんなに肩肘張らなくても……私が上手かは知りませんけれど、その。まかせてくれればたぶん」<br />「やだ、男らしい……」<br />「女です」<br />「杜花様なら何でもいいですわ」<br />「サキじゃあるまいに……」<br /> 杜花に縋りつく。だいぶ気分が高まってしまった。<br /> 胸の奥からこみ上げるような欲求ともなると、呼吸を整えるのも難しい。あ、もしかしたらこのまま早速始まってしまうのではないか、という懸念がある。<br /> 思わず顔をあげ、杜花を観た。<br />「……アリス?」<br />「あ、ああ、その。まだ、身体も洗ってませんわ私!」<br />「私は野獣か何かですか。ほら、部屋を出ましょう」<br />「あら、どちらへ」<br />「バスがある内に、街に買い物に行こうと思っていたんです。一緒に行きますか」<br />「え、ええ。勿論ですわ」<br /> 取り敢えず状況を回避する。今からでも悪くはないのだが、もう少し準備はほしい。そういう意味で、二人でデートに行くのは好都合だ。<br /> 早紀絵には申し訳ないが、これは良い機会だ。杜花と二人で出掛けるのは一体何時ぶりだろうか。折角の忙しくない年末年始だ。こんな機会は今後あるまい。<br /> 大声で憚るような目的で来た訳ではないのだが、意味するところは実際複雑なのだ。<br /> 欅澤杜花を押し留める。それが最大目標だ。<br /> もし、何らかの方法で記憶を引き継いだ二子が、市子として振る舞うようになった場合、懸念されるのは杜花の不安定に揺れる心である。<br /> 杜花の依存は果てしなく深い。<br /> 今の今まで生きてこれた事自体が奇跡に近い。逃避し続けて来たからこそ弊害を免れただけで、彼女は半分死んでいるのだ。<br /> 早紀絵もアリスもそれは良く承知している。<br /> 市子という人物はもう居ない。<br /> 例え七星がとんでもない技術でもってして、七星市子の記憶を復元したからといって、それは生前記憶を残したデータに過ぎないのだ。親友以上の感情を抱いている彼女に、死人を愛させる訳にはいかない。<br /> だからこそ、彼女の為になんでもしてあげたかった。<br />「杜花様」<br />「はい?」<br />「絶対離しませんわ」<br />「そ、それだけ聞くとなんだか怖いですね」<br />「ひどい!」<br />「嫌われましたか、私」<br />「ひどいので離しませんわ」<br />「アリスってこんな甘え方するんですね」<br />「あぐっ……行きますわよ、ほら」<br />「もう」<br /> 杜花が呆れたように、でも嬉しそうに笑う。今はほんの少しでも良い。まだ時間はあるのだから。<br /><br /><br /><br /> 一時間に一本しかないバスで麓の欅町に赴く。<br /> 周囲はどこも浮かれた空気があり、学院などよりも強く年末を意識させられる。基督教文化行事から突然日本文化行事に移り変わる様は、数十年前から大差はなかった。<br /> ただ欅町の場合他の町とは異なり、平成テイストで煌びやかさも抑え気味である。<br />「しかし見事に地元密着的ですわね」<br />「若い子は隣町に行ってしまいますしね。ここに来るのは近くの学生か、七星企業従事者の家族でしょうし」<br />「それで、何を買いに?」<br />「お菓子」<br />「え?」<br />「お菓子です。甘いの」<br />「あー……」<br /> そういって近場のスーパーに入り、他に目もくれずお菓子コーナーへと赴く。<br /> 持ち込みは出来るが、他の眼が気になる学院では工場生産的なお菓子は貴重だ。この機会に食べてしまおうという事だろう。<br /> アリスといえば、そもそもスーパーで御買物、などという事自体が初体験に近い。<br /> 値札を見る度一喜一憂する。<br />「あ、これお安いですわよ。へえ、一万円しないものなんてありますのね……」<br />「アリス」<br />「はいな」<br />「腕組むのは良いんですけれど、籠を持つとお菓子が取れないです」<br />「じゃあ私が籠を持って、杜花様が取ればよいのではありませんこと?」<br />「その発想はありませんでした」<br /> どうやら腕組みは良いらしい。籠を預かり、杜花に付き合う。<br />「これ、何ですの」<br />「これはお菓子というより携帯食糧ですね。栄養補給スナック」<br />「ああ、非常食?」<br />「うーん。ほら、小腹って空きませんか?」<br />「ありますわね。食べませんけれども」<br />「あれを埋めるものです。あ、アリスはこれが良いかも」<br /> そういって杜花が籠に入れたのは、イギリス製のショートブレッドだ。輸入商品も扱っている様子である。<br />「私日本人ですのに」<br />「美味しいんです。何かと食について揶揄される国ですけれど、これは完璧です。クッキー好きでしょう?」<br />「お母様、たまに張り切ってお料理するんですけれども、大体日本料理か台湾中華ですのよね。母国の料理は、と訊くと、苦い顔をされてしまって。はい。あ、これは?」<br />「これはその、なんと説明したものか」<br />「理科実験具? お菓子コーナーに?」<br />「此方の粉と此方の粉を混ぜると、反応して泡が立って練るとなんか不思議な味が……」<br />「ああ、理系啓蒙のお菓子なんてありますのね。へえ」<br />「なんか違うような」<br />「ふふ」<br />「どうしました?」<br /> まさかこんな日が来るとは夢にも思っていなかったのだ。<br /> 好きな人と一緒に買い物に出るなどという、何気ない出来事でも、アリスは心が躍る。今日は朝から心臓が余計に働きっぱなしだ。<br /> アリスよりも背の高い杜花を見上げると、杜花もまんざらではないらしく、恥ずかしそうにする。<br /> こんな顔が毎日見れたのならば、他に何もいらないだろうとすら、思えてくる。<br /> 勿論現実的なアリスは、それが夢見がちな発想であるとは自覚しているが、やはり眼の前にある幸せには、周りの物も霞んで見えてしまうものだった。<br />「杜花様、杜花様」<br />「なんでしょう」<br />「私は良く言われるのですけれど、杜花様から見ても、私は可愛いでしょうか?」<br />「……可愛いですよ、凄く。なんでこんな子に気に入られてるんだろうって、たまに思います」<br />「杜花様も可愛いですわよ」<br />「かわ……アリス程じゃないです」<br />「んふふふっ。ああ、こんな時間がずっと続けば良いのに」<br />「大げさですよ。ほら、お会計しないと」<br /> 会計を済ませて、時計を見ればまだ一時半という中途半端な時間であった。<br /> ピッタリ一時間ほどバスの待ち時間がある為、そのまま近くの喫茶店に入る。チェーン店で、大した凝りは無いが、短い時間を潰すにはもってこいだ、と杜花は言う。<br /> 問題は、アリスがこんな店に入った事がないという事ぐらいだろう。入るとしても、大体グレードが高くて、コーヒー一杯で四千円を超えるような店である。<br />「あら、一杯千円ですのね」<br />「まあ、チェーンですし。席代ですよ」<br />「なるほど。じゃあ杜花様と同じもの……あれ、ウェイターは?」<br />「カウンターで貰ってくるんです」<br />「あ、学食と同じようなものですわね。お会計もそこで?」<br />「はい」<br />「……あの、お菓子に説明とか、その、パティシエの一言とか」<br />「工場生産だから無いでしょう」<br />「そ、そうですの……調理場もありませんわね、そういえば。へえー」<br /> 妃麻紀と入った喫茶店でも多少のショックを受けたが、此方はその比では無い。<br /> ひと気も多く、以前のようにゆっくり何時間も、という訳にはいかないのだろうと、一人納得する。<br />「一般的って、此方の事ですわよね」<br />「まあそうでしょうね……あ、なんだかごめんなさい。配慮も無く入ってしまいました」<br />「とんでもない。きっとこういう所に入らずにいたら、政治家になった時に『天原氏は普通の喫茶店にも入った事がない。金遣いが解らない。庶民感覚ー』って批判されていたに違いありませんわ」<br />「お金持ちが消費しない世界とか資本主義的に最悪なのに。いるんですかそんなの」<br />「いるそうですわ」<br />「たぶん共産主義者でしょう。しぶとい事です」<br /> 取り敢えずアカの所為にして、世間知らずを繕う事も無く片づける。<br /> コーヒーの味は可も無く不可もなく、ケーキも無難でいう事はない。そんな事よりも何でも美味しそうに食べる杜花の姿を見ている方が有意義である。<br />「杜花様はお料理が御上手ですわよね」<br />「どうでしょう。ほら、寮の子達は、あの通りですし」<br />「わたくしも人の事は言えませんのよね。塩と砂糖を間違えるし」<br />「それはただおっちょこちょいなだけじゃ……ああ、カレーの日にご飯を炊き忘れた私が言えた義理はありませんけど」<br />「一か月ぐらい前ですわよね。確かあの時は一年組が……あ、ご飯が少しべっちょりしていたのは」<br />「不覚。急いで炊いたもので……ん」<br /> もう懐かしい話になってしまった話題を取り上げていると、杜花がほんの少し目線を横に流す。<br /> 何事かとアリスも目を向けると、明らかに解りやすい程チャラチャラとした男性が二人、此方を見ている。<br /> どこかで見覚えがある。<br />「あら、この前のチンピラ、じゃなくて夜のお店の方」<br />「あ、アリス、あのですねえ……」<br />「あーれー。この前のお嬢様じゃーん。どしたのどしたのー。今日は二人ー?」<br /> この前のチャラ男さんである。<br /> 以前は武藤の覇気だけで退散したが、今日といえばうら若き乙女二人組だ。<br />「ええ。デートですのよ」<br />「まーじで。ってことはそっちの可愛い良い子もミカジョ? よろしくぅ」<br /> 金髪男の目線は、杜花の胸に行っている。確かに、解らなくもない。あれは質量もインパクトが大きい。杜花は眉の端をピクリと動かしてから、男に挨拶する。<br />「ごきげんよう。アリス、お知り合いですか」<br />「以前武藤が追っ払ったお店の方ですわね。今日は此方に?」<br />「そうそう。君らみたいな可愛い子探してたのよ。今日あのデッカイ御兄さんは?」<br />「デートに連れてくる程無粋ではありませんのよ、私」<br /> 武藤が居ないと解り、後ろに控えていたもう一人が近づいてくる。<br /> サングラスを外し、彼は杜花を凝視した。<br />「っべー。可愛いなあ。ねえねえ。お茶してるならさ、僕等も混ぜてくんない?」<br />「柳瀬、おい」<br />「なんだよ大辺。すげー可愛いだろうよ。諦め……なに?」<br />「柳瀬、やめ」<br /> どうやらサングラスは、杜花が何者なのか知っているらしい。<br /> 必死に柳瀬と呼ばれる金髪の方を揺すっている。<br /> ――杜花が立ち上がると、大辺と呼ばれるサングラスがビクリと跳ねあがる。<br />「あ。す、すんませんその。こいつ女とみれば直ぐ声かけちゃって」<br />「観神山の子と解って声をかけるのですから、金髪さんも相当の度胸ですね」<br />「いやあ、それほどでもないよう。あ、お嬢さんスタイルすっごいね。名前とか教えてよ」<br />「――欅澤杜花です」<br /> 確信を得た大辺が、柳瀬の肩を引っ張り下げる。大辺は半笑いで、額に汗をかいていた。<br /> アリスはそんな様子を、愉快そうに見守る。頼もしくて仕方が無い。<br />「はは。あの、杜花選手。ファンです。サインください」<br />「あ、そうなんですか。どこに書きます?」<br /> そういって、杜花は慣れた手つきで懐からペンを取り出す。杜花が町に出るという事は、こういう事もあり得るのだろう。<br />「おいおい、大辺?」<br />「や、やめろって。お前なんぞ五秒で心停止させられるぞ」<br />「え、何それこわい」<br />「す、すんませんホント。コイツ片づけておきますんで。有難うございました」<br />「いえいえ。応援有難うございます」<br />「うは。マジ嬉しいッス。頑張ってくださいッ」<br />「えちょ、大辺、待てって。あ、杜花ちゃん! 金髪ちゃんまたね!」<br />「ええ、機会がありましたら」<br /> そういって、大辺は柳瀬を引っ張って店外に出て行った。<br /> 周囲の視線が少し気になるも、杜花は動じない。<br />「意外な所にファンが居るんですのね」<br />「町に出るとたまに。なのでペンも持ち歩いてます。あの金髪さん、なんか面白いですね」<br />「ええ、バイタリティ溢れる方ですわね」<br /> 普段ならばBG付き以外で絶対外出出来ないアリスも、杜花がいるとなると話は違う。面倒事を避ける為に呼んでも良かったのだが、今日は杜花に頼りたかった。相手方に聞こえるように声を出したのも、わざとである。<br />「でも、杜花様が居てくれて良かった。一人じゃきっとお話出来ませんもの、ああいう方」<br />「そもそも一人じゃ出ないでしょう、アリスは」<br />「あン。それを言わないでくださいまし。いいじゃありませんの。杜花様に頼るという事実が必要なんですわ」<br />「だ、打算的ですね」<br />「わたくしか弱い乙女なので、守ってくださると有難くありますわ」<br />「え、仕込み?」<br />「ち、違いますわよ」<br /> 杜花が笑う。なるほどその手があったかと、アリスは感心した。<br />「次連れてきて貰う時は、そうですわね、十人くらい仕込みましょう」<br />「要らないです」<br /> 結局そのあと、杜花の身分がバレたのと同時に、アリスが天原藤十郎の娘であると露見した為、ちょっとした握手会&サイン会になってしまったので、早々に切り上げてバス亭へと向かう事になった。<br /> アリスは終始杜花の腕を掴んだまま離さない。<br /> どこからどうみても、同性カップルである。いまどき珍しくもないので好奇な目こそないが、そこはやはり観神山の誇る御姉様級の二人だ、異様に目立つ。<br /> 他のカップル達とは雰囲気がまるで異なる。<br /> 一人は黒髪で背が高く、コートを着ていてもその大きな胸が主張している。姿勢はまっすぐで歩く姿にブレがなく、とかく凛々しい。<br /> 一人は見事な金髪で、どこに行けば出会えるのかといった趣があり、まさしくセレブそのもだ。場に似合わないという事で着飾ってこそいないが、アリスの場合容姿と雰囲気だけでファッションである。<br /> 町を歩いていて一人出会えれば幸運という人間が二人、しかも並んで腕組みしているのだから、通行人が気にするのも仕方がない。<br />「問題といえば、スーパーの袋をぶら下げている事ぐらいですわね」<br />「何がです?」<br />「ちょっと嬉しいんですの。私達、きっと似合っていると思われてますわ」<br />「今日はその、アリスはずいぶん……」<br />「だって、そういう目的ですもの。まあ、なんてふしだらなんでしょう」<br />「……サキからは散々聞かされてますけれど、結局のところ、アリスは、私の何処が良いんでしょう」<br /> 女として、女にそれを聞くのもどうなのか。思う所はあるが、面と向かって言われると難しい質問である。そもそも恋心を説明するのに論理が必要だろうかと考える。<br /> 基準としては市子だろう。<br /> アリスにとって市子は神にも等しい。とても手の届く存在ではない。アリスの身に付けた瀟洒さは、その全てが市子に起因する。杜花と同じといえばそうだが、アリスの場合はそれが恋心に発展するほど、身近に感じられなかった事だろう。<br /> ただ杜花は違う。元からどこか所帯染みた雰囲気がある所為でもあろうが、彼女はもっと身近な尊敬すべき人物だった。<br /> 小等部の頃からずっと見続けて来た彼女は、いつの間にか市子を持って行ってしまっていた。憎らしく思った事もある。しかし、市子を虜にしてしまう魅力があるという、その事実は論理的に説明出来る部分ではない。<br /> 他人の物を欲したといえば、最悪に聞こえが悪いだろうが。<br /> 彼女は強く、仕事が出来て、美しく思う。<br /> 例え杜花が告白した事が真実だろうと、杜花にならばされても構わないとすら、思っている。<br />「なんででしょうね」<br /> バス停の待合椅子に座り、時計を見る。十分ほどで来るだろう。<br />「……嘘だとは当然、考えてません。とっても、嬉しく思ってます。二子の魔法……いいえ、あの超能力は、人の心に無いものを植えつけたりはしない。忘れさせたり、思いださせたり、する事は出来る筈です。だから、貴女が私を好ましく思っているのは、間違いなく、真実だと思う」<br />「関係ありませんわ。二子さんは。私は……離しませんわよ。ずるくたって、構わない。私は、貴女と一緒に居たい。……死人に、取られたくなんて、ありませんわ。私達は、生きているのだから。杜花様は、これからの未来がある。私が、早紀絵が、きっと貴女を幸せにしますわ」<br />「だから、こんな、年末年始に。それほどまでに、逸る必要がありましたか」<br />「解りませんの?」<br /> 欅澤杜花は、地に足が付いていない。捕まえていないと、直ぐどこかに行ってしまいそうだ。<br /> アリスに告白した時もそうであったように、一人にすると、遠くに行ってしまうような、嫌な予感がある。もし、仮に二子が市子になったとしたら、杜花は耐えられるのだろうか。<br /> その状況、理解不能の技術、不可解な、死人の復活に、杜花が耐えられるだろうか。<br />「あの時は、止められてしまいましたけれど」<br />「ダメです」<br />「どうせ、早紀絵は言ったんでしょう?」<br />「……」<br />「何でもしますわ。貴女の為なら。だから、お願い、どこにも、行かないでくださいまし……」<br /> まるで、去り際の人間を引き止めるように、強く強く縋る。杜花は静かに、アリスの頭を撫でる。<br />「……私は、最悪な人間なのに。貴女は本当に、馬鹿ですね」<br />「馬鹿にならず恋など出来ますか」<br />「情熱的ですね。本当に。私は、なんて恵まれているのかと、逆に不安になります。状況が壊れて、壊れていない振りをして、引き摺って。そんな私を、貴女は好きという。私も、好きですよ。凄く」<br />「えへへ……はい」<br /> バスが来る。早紀絵はどんな顔をして待っているだろうか。きっと、怒っているに違いない。<br /> けれど許してほしかった。<br /> この困った人を留めておくには、今を見せる必要がある。<br /> 今、自分がどれだけ、他の人に愛されているか、知らせなければいけないのだから。<br /><br /><br /><br /> 神社に戻って離れに行くと、そこではむくれっ面の早紀絵が、一人布団を敷いてテレビを見ていた。<br />『魔法拳法少女サディスティック崋山ちゃん』の年末特番二時間スペシャルだろう。<br /> 布団を抱いてゴロゴロと転げ回り、そのままアリスの足元にまでやってくる。戯れに押してやると、彼女はそのまま転がって元の位置まで戻って行った。<br />「サキ、ただいま」<br />「……」<br />「早紀絵、どうしましたの。なんだか深海魚みたいな顔して」<br />「ずるいですわ」<br />「あ、なんかアリスに似てますねそれ」<br />「に、似てませんわよ」<br />「人が掃除してる時にデート行く人いるぅ?」<br />「買い物です」<br />「買い物ですわ」<br />「いや二人で行ったらデートでしょそれ」<br />「これから三人でここに泊まるのにですか?」<br />「……あ、そうか! ならいいや。まだ時間あるし。モリカ、次出る時は私も連れてって」<br />「はいはい」<br />「あー、何その反応。ちゃんと掃除もしたのに。あの花婆ちゃんにして『なんだ出来るじゃないか』と言わしめたこの家事能力を褒め称えても全然バチとか当たらないと思うです私」<br /> 彼女は生粋のお嬢様だが、彼女個人のスペックは果てしなく高い。女たらしなだけで、任せれば大概の事を平然とやってのける。勉強とて上から数えた方が早いくらいだ。<br /> 杜花が眉を顰める。余程の事だったのだろう。いや、もしかすれば花が早紀絵に甘いだけかもしれないが、少なくとも杜花には衝撃的だったらしい。<br />「サキ、ちょっと」<br />「なになに」<br />「おでこ出してください」<br />「ほい」<br />「んっ」<br />「くふふっ」<br /> というわけで、ちゃんとご褒美は贈呈された。<br /> アリスは冷蔵庫にお嬢様らしからぬアレソレを詰め込みながら、そんな情景を見守る。早紀絵の嬉しそうな顔といったら無い。<br /> 今まではなんとなく、人様の家という事もあり、これから何かをするのだという意識はあっても実感は無かったが、杜花を留めるという事がどういう意味なのか、じわじわと心にしみるような気持ちが湧いてくる。そして主目的もあるが、やはり、この三人で一緒に寝泊まりするという、期待感は大きい。<br /> 長期の休みに仲が良い同士で旅行に出かける機会もなかったが、今まさに、それに近い状態なのだ。<br />「早紀絵、ちょっと来てくださいまし」<br />「お、なになに?」<br />「少し首を傾けて」<br />「お?」<br /> 自分も、大概な人間なのだと実感する。<br /> 自分達は姉妹でも友人でもない。<br /> 彼女の死後、杜花に集うべくして集ってしまった、欲深く、寂しがりの一団なのだ。誰かに寄り添われていないと不安で仕方が無い、不出来な子である。<br /> 一人ひとり、非凡なものを持っていても、それ故に孤独も強い。<br />「あ、アリス?」<br />「三人で仲良くするんですもの。まだでしたわよね」<br />「あ、うん。嬉しいんだけど、アリス、顔真っ赤だよ」<br />「だだだ大丈夫ですわよ。キキキスぐらいなんともありませんわ」<br />「落ち着けし」<br />「アリスって、なんか急にキスしますよね。そういう性癖なのかな。今日二回目ですよ」<br />「性癖とか言わないでくださいまし」<br />「デートにいった挙句キス!? ちょ、モリカ私も」<br />「はいはい、サキはダメな子ですねー」<br />「ダメな子でいいですー、くふふっ」<br /> なんだかそれはずるい。<br /> アリスも杜花にしがみ付く。それを見た早紀絵が逆方向にしがみ付いた。杜花が眼を瞑って呆れた顔をしている。果してこんな状態、周りから見たらどう見えるのだろうか。<br />「杜花さん。二子さんがいらっしゃいま……し……たのだけれど……」<br />「お母様、これは」<br />「……いいのよ。杜花さん。私も解っていたもの。お母様もそのおつもりだったでしょうし……大丈夫、夜になって離れに近づく人はいませんから。大きな声を出しても、何をしても、私は……あ、御赤飯はいるのかしら?」<br />「アリス用にいると思うよ、杜子ちゃん」<br />「まあ、そうなのね。杜花さん、優しくしてあげなさいね」<br />「……どうして私の周りはこう、性に寛容な人ばかりなんでしょうね……」<br />「ああ、流石欅澤の女……因果な血……」<br /> 何かに陶酔しているらしい杜子を連れて、杜花が出迎えに行く。<br /> 窓の外を臨めば、庭園の向こうに黒塗りの車が一台止まっているのが解る。明らかに七星特別仕様車だ。<br />「うわごっつ。あんなの乗ってるのか、七星は」<br />「爆弾でも吹っ飛ばないそうですわよ」<br />「しかもあれでしょ、仕掛けた奴は七星の私兵団にぶちころころされちゃうって」<br /> 七星に敵対する人間は多い。<br /> 特に大陸のテロリスト、そして国内の共産勢力は七星を目の仇にしている。それを言うのも、七星の場合、法律にも警察にも頼らず、独自の防衛機構を有しているからだ。<br /> 今の時代、大企業は独自の警備部隊を抱えている場合が多い。七星においては、その装備は常に最新式であり、下手をすれば国防軍レンジャー特殊部隊一個中隊と張り合えるという。<br /> 噂、でしかないが、七星が台頭し、日本国土強靭化を掲げて以降、国内の反日勢力は勝手に瓦解していった。その裏に居たのが、七星の警備部隊ではないのか……という。<br />「怖いですわね、七星」<br />「怖いねえ、七星。あ、来た」<br />「……」<br /> 杜花に連れ立たれて来た七星二子は、大きな鞄を無言で置くと、アリスと早紀絵を睨む。<br /> 今回のイレギュラーにして『幻華庭園』的には必須の人物である。<br /> 本来ならそこまで再現したくなどないのだが、七星一郎にお願いされては仕方が無い。<br />「……杜花の」<br />「あン? 何?」<br />「杜花の貞操を守りに来たの。貴女達、杜花に触らないでね」<br /> どうやら、最大の障壁でもあるようである。<br />「ヒトの貞操を勝手に守らないでください」<br />「だ、だって。アリスはオボコでしょうけれど! 早紀絵はケダモノじゃない!」<br />「反論出来ない」<br />「私も反論出来ませんわねそれ」<br />「私も反論の余地がありません」<br />「ここは野獣の檻だわ。こんなところに少女を放りこんで、何しようっていうの、早紀絵」<br />「いやいや、流石にそれは違う」<br />「私ですわよ、提案したの」<br />「アリスが? なんでまた」<br />「貴女に杜花様を持って行かれない為ですわよ」<br />「アリスもう少しほら、そういうのはさあ……まあいいか、本当の事だ」<br />「あぐっ……杜花、なんとか言って頂戴。そもそも何よ、私に取られない為って。杜花は私のよ」<br />「二子が寝言言ってるよ。ませるな十三歳」<br />「あ、貴女達と四つしか違わないわよ! ああもう。やだ。杜花、ねえってば」<br />「……少し御話ししましょう。二子」<br />「ホント? うふふ」<br /> 思いの外ゲンキンな子である。杜花と二子は、手を繋いで離れを後にした。<br /> しかしどうも違和感が拭えない。<br />「……なんか子供っぽいな」<br />「やっぱり感じますか」<br />「うん。普段もっと落ち着いてたでしょ、あの子。それに結晶を手にしてから、もっと市子に近づいてた」<br />「……少し考えていた事なんですけれど、もし、あれが着脱可能で、今は装着していないとしたら? もしくは、データを上書きしているとか」<br />「鋭いね。じゃあ……あれは、素か。素の二子。でも、素の二子ってほら、杜花毛嫌いしてたっぽいじゃない」<br />「記憶自体はあるんですのよ、きっと。混濁しているのか、もしくは、本当に、杜花様が好きになってしまったのか」<br />「難しい子に難しい物与えた結果があの難しさだよ」<br />「ま、本来なら仲良くやりたい所なんですわ。あの子が許せば」<br />「まあ、同感……ねえアリス」<br />「はい?」<br />「十三歳なら……行けるかな?」<br />「いや流石にドン引きですわ。というか怖いもの無さ過ぎですわ」<br />「おお、アリスがまるでゴミでも見るような目で私を見てる……」<br /> 早紀絵はともかく、二子の調子は気になるところだ。当初現れた頃よりも、格段に子供っぽい。しかし杜花には愛着があるとみえる。どうにもこうにもアベコベなのだ。<br /> 御しやすくあればいいが、あの二子の事だ、癖は強いだろう。<br /> 結局、杜花は七星一郎に直接何かを聞きだすような真似はしなかった。<br /> それは希望であるし、懸念でもある。七星一郎に根掘り葉掘り聞いて、その後にどのような影響があるかわからない。故に聞きださなかった事は後の憂いにはならなかった。しかし聞く機会を逃したのは、近い未来としては惜しい。二律背反的である。<br /> 情報に対する懸念と、杜花が一応未来を見てくれているという希望。難しいところだ。<br /> やがて二子が杜花に連れられて再び現れる。何があったのか、濡れた猫のように大人しい。<br />「どしたの」<br />「花怖い」<br /> どうやら相性が良くなかったらしい。<br /> そもそも一個下です、と十三歳の子供を連れて来られたら花も首をかしげるだろう。<br /> とはいえ……もっと思う所はある。<br /> 何せ二子は、撫子に似ているのだ。<br />「さて。皆さんは夕食までゆっくりしていてください。私は少し、鍛錬してきます」<br />「休日ぐらい休んでもいいじゃない?」<br />「落ち着かないんです。日課ですし」<br />「じゃあついてく。腕立て伏せの上に乗るよ」<br />「ではお願いします」<br /> そうして杜花と早紀絵が出て行ってしまった。<br /> 残されたのはアリスと二子だ。アリスは少し気まずかったが、相手をしない訳にもいかない為、二子にお茶を出す。<br />「実家から?」<br />「そうよ。全く、年の瀬に何してるの、貴女達」<br />「なかなか機会がありませんもの、仕方ありませんわ」<br />「いつでもあるでしょうに。貴女、しれっと嘘吐くわよね」<br /> 対面に座る二子は、呆れたように溜息を吐く。態度の大きさはいつも通りのようだ。<br />「本音を喋れというなら、喋りますわよ」<br />「聞こうじゃない」<br />「対貴女合宿ですわ。杜花様達と兼谷さんの一件も聞いてますの。プロを仕掛けて素人を脅すなんて、流石七星ですわね」<br />「所有権が此方にあるものを返してもらったまでよ。それとも何、杜花が素直にアレを渡す訳がないじゃない。兼谷が適任」<br />「調べましたけれど、結局あれは何ですの」<br />「単なる記録媒体よ」<br />「インプラントされている、と。御姉様も、貴女も」<br />「結構調べたわね。どこまで知っているのかしら」<br />「杜花様、早紀絵、私の統合的な見解なら、公開可能ですわ。何も考えないまま、貴女を迎えたりしない」<br />「そりゃどうも。ふン。こんな筈じゃあなかったのに」<br /> 二子が鼻を鳴らす。どういうつもりかは知らない。溜息を吐きたいのはこっちである。<br />「不確定要素はありますけれど、結晶が記録媒体なのは間違いない。それを何故市子御姉様が隠したのかは、貴女達も良く分かっていない。どうやら結晶には市子御姉様の人格データや記憶が入っている。そして貴女はそれを手に入れて、七星市子になろうとしている。問題といえば、バックアップがある筈なのに、結晶を求めた事でしょうかね」<br />「全部終わったら、そんな考察も意味を成さないのに、良くやるわ。ええ、ほぼ満点よ。私は七星市子になる。それに、杜花は私の。貴女達は触らないで」<br />「そうならない為に、この合宿があるんですわ。冬休み後、貴女は何かをするつもりでいる。そうでしょう」<br />「バラすと詰まらないから喋らないわよ。ま、せいぜい杜花の気を引く発情雌猫演じてればいいわ」<br />「まあ下品な。超能力で読みとりましたの?」<br />「ほ、ほんとなんだ……い、いいえ。使わないわ。杜花にぶん殴られるから」<br /> 一応反省はしているようだ。以前は起きぬけの杜花であったから命拾いしたものの、恐らく次は無いだろう。杜花の張り手を食らうなど、身の毛もよだつ。<br /> それにしても、彼女自身は市子になる事を自覚して、あまつさえ告白している。もう喋っても構わない段階にいるとみて間違いなかろう。<br /> 折角だ。順を追って喋って貰おうではないか。<br />「ま、色々ありますけれど、仲良くしましょう」<br />「アリスって、案外図太いわよね」<br />「ぺらっぺらの精神で、市子御姉様の妹なんてしてませんわよ」<br /> 二子が、クスリと笑う。<br /> 子供っぽくなっても、御しやすいという訳ではないだろう。<br /> 幸いまだ四日はある。<br /> どうにか……最良の方向に、導ければよいのだがと、アリスは頭を巡らせた。<br /><br /><br /><br /> 六時半を過ぎた頃、夕飯に招かれる。<br /> 手伝いなどしなくて良かったのだろうかと思ったが、この日はどうやら花が調理場を仕切っていたらしく、杜花や杜子は辟易としていた。本当に特別な日以外は出てこないというのだから、これまた驚きである。<br />「お婆様、信じられないぐらい嬉しそうです」<br />「そんなに?」<br />「ええもう」<br /> 長いテーブルには、上座に祖母、そして杜子と続き、杜花、以下欅澤の男性と早紀絵、二子が並んでいる。嗚呼、本当に女性上位の世界なのだなと納得はするも、問題は自分が何故か杜花の隣に居る事である。<br /> 視線を巡らせると、並んで座る欅澤家の男性陣二人と眼が逢う。二人とも、なんと人がよさそうだ。<br /> 杜花の父は欅澤四季彦。<br /> 親戚の神社で派遣の禰宜をしていたところ、杜子と見合いする事になってそのまま結婚したという。全体的にこざっぱりとしており、大変好感が持てる。<br /> 杜花の祖父は欅澤八雄。<br /> 歳の頃は六十半ばだろうか。本人曰く『何時の間にか婿になっていた』らしい。どうなっているのかこの家は。勿論花は美人であっただろうし、特に不満もなかったという。常に笑顔で声も大人しく、正しく好好爺である。<br /> 男性としてどうなのか、と言われると、アリスも首をかしげるが、この家らしいといえばらしい。<br />「学院時代を思い出しますわね、お母様」<br />「杜子、杜花」<br /> 花の指示で杜花と杜子がお酒を注いで回る。いや、未成年なんだけど、なんて話が人様の家で通じる訳もない。まして花の指示はこの家で絶対だろう。<br />「ビールも飲みますよね」<br />「お酒は大概大丈夫ですわ。あ、いけませんわね、ふふ」<br />「お酒強そうですよねえ……」<br /> 実家に独自の日本酒セラーがあるとは流石に言えない。<br /> しかし、普段大人数で食卓は囲っているが、一般家庭にお邪魔してごちそうになるのは、これが初めてだ。早紀絵に目を向けると、彼女も何だか嬉しそうにしている。というか場に馴染みすぎて違和感がない。<br /> かわって二子はというと、相当眉を顰めている。<br /> アリスにしてレベルの違うお嬢様が、まさかこんな席にはつかないだろうから、納得だ。<br /> 夕食、というよりも宴会の態にある。本当に赤飯まであった。<br />「アリス」<br />「はいな」<br /> 花に呼ばれる。何事かと思うと、手招きされたので、察して酒瓶を手にして近づく。<br />「察しの良い子だね。こんな事一つでも、その人間がどんな事を考えて生きてるのか、良く分かる」<br />「まあ、有難うございますわ」<br />「杜花」<br />「はい」<br /> 杜花がお酒の入ったコップを持ってやってくる。花がコップを掲げたので、それに合わせて乾杯する。<br /> わざわざ三人だ。<br />「杜花様とこうしてお酒を飲むなんて、思いもしませんでしたわ」<br />「しかも一般家庭の食卓でビールですよ。アリスのお嬢様としての体裁が気になって仕方ありません」<br /> まあ、確かにと、ほんのり頷く。<br /> アリスは容姿で得している部分と損している部分が二分する。<br /> 傍から見ればどう考えても、ホテルで夜景をバックにワインなど飲んでいそうだ。二子に連れられた時などそのままのイメージだろう。<br /> だが実際のところ、こうして気兼ねなくして居た方が性に合う。<br /> 問題は似合わないという一点だ。<br />「お嬢様なんてものは、大したものじゃない。ちょっと上品なだけで、それだけだよ。みんな同じく人間さね。交われる時に交わり、笑える時に笑っておかねば。お嬢様なんて態を気にしていると、損も多い。得が少ないとは言わないけどねえ」<br />「花お婆様も杜子お母様も、学院の卒業生でしたわね」<br />「当時は今ほどじゃあないよ。けど勿論そういうのも多かった。私の周りに居たのは、特にね」<br /> 恐らく、姉妹たちの事だろう。利根河撫子他の子たちだ。<br /> どうやら話してくれるらしい。<br /> ……見ると、杜花は頭を抱えている。花は本当に喋らない人なのだろう。<br />「杜花。よくもまあお前も……血は争えないのかね」<br />「杜花様はお婆様そっくりですわ。きっとお婆様も人気でしたでしょう」<br />「杜子」<br />「はい」<br /> 主語が無くても伝わるらしい。杜子が持ってきたのは、焼酎である。<br /> 酔わなければ喋れない事なのだろう。<br /> 此方としては、きっと聞くだけで良いのだ。余計な事は必要なさそうである。<br /> 杜子がお酒を注ぐと、花が一気にあおる。流石欅澤の女、飲みっぷりもタダものではない。<br />「……どこまで知った。どこまで調べた。何故調べた」<br />「観神山女学院占拠事件。利根河撫子。大聖寺誉。組岡きさら。欅澤花。知ったのは最近です、お婆様」<br />「市子御姉様からの繋がりで、様々と詮索しましたの。本来は杜花様が市子御姉様について、整理を進める為でしたのに、掘り起こしたら不発弾が出て来たようなものですわ。ごめんなさいね」<br />「そりゃあネットで検索しようと出てこないさね。徹底的に押さえつけたみたいだからね。私が何をしたのか、知ってるだろう」<br />「欅澤花は、利根河撫子、大聖寺誉を逃がす為に三人のテロリストを殺害、とありました」<br />「当時は必死だった。拳銃持ってる相手だ、加減なんてしてやれなかった。けれど、撫子も、誉も、救えなかった。きさらだけ生き延びたけれども、あの子もショックで、そのあと自殺したよ」<br /> 結局……あの事件の姉妹たちで、生存者は花だけという事だろう。<br /> 口を閉ざしてしまうのも仕方が無い。<br /> アリスはちらりと、遠くの席を見る。どうやら二子と早紀絵は話し込んでいる様子で、此方を見ていない。早紀絵には後で話すとして、二子はどうだろうか。まさか自分の親類の末路を知らない訳でもあるまい。<br />「今はもう、そんな事は起こらないだろうさ。ただ気がかりがある。杜花、アリス。なんだって、お前達は『私達に』似てる? 顔じゃない。身体じゃない。空気そのものが、当時を再現したようだよ。だから、老婆心で心配なんだ。そして……あの二子とかいうのは、何だ?」<br />「……ご存じの通り、七星一郎の娘ですわ、お婆様。利根河真の、何番目かも解らない娘」<br />「お前たちが泊まりに来ると聞いて、当時を思い出した。まさか杜花」<br />「幻華庭園」<br />「――……解った。後で呼ぶ。ただ忙しいからね、時間を見るよ」<br />「はい」<br /> 花が俯く。その表情は重く、辛いものを堪えているようだ。それを観た八雄が花の傍に寄る。<br />「花さん、何か悲しい事があったかい」<br />「良いんだよ、放っておいてくれ。ああまったく」<br /> アリスがハンカチを差し出すと花はそれを受け取り、小さく礼を言った。<br /> 壮絶な過去を乗り越え、生き残ってしまった妹が一人、ここに居た。<br /> 一体彼女はどれほど悲しんだのだろうか。<br /> どれほど辛かっただろうか。<br /> 想像すれば想像するほど、自分に重ねてしまう。<br /> それとは別に、花の口調はどこかに予定調和があった事を示していた。<br /> 七星一郎が手を回したのは、自分達の代だけではないのかもしれない。恐らくは杜子も、その内の一人と数えられる。<br />「……この話は終わりだ。年末にこんな悲しい顔をしていたら、神様が逃げる。ほら、食べな」<br /> 気を取り直したようにして花が言う。後だと言うのだから後だろう。焦る必要も無いと、杜花が頷く。<br /> 三十九年前に何があったのか、それを知らねばならない。<br /> 本来ならばヒトのトラウマを穿り返す行いであるし、聞き出せないのではないかという懸念はあったものの、花は協力してくれる様子だ。<br /> そもそも、話すつもりでいたのだろう。杜花、アリス、早紀絵、二子。この組み合わせが泊まりに来るという事実に、何かしらの因果を感じたに違いない。<br />「杜花様」<br />「ふぁい」<br />「あ、食べてからどうぞ。唐揚げ、美味しいですものね、仕方ありませんわね」<br />「んく。はい、なんですか?」<br />(幻華庭園の描写、的確ですわ。今日見せて貰った家の構造にそのまま。作者は……)<br />(お婆さまでしょうか。だとしたら文学少女だったんですねえ……意外すぎて明日には宇宙が一つ無くなりますね)<br /> 作者は利根零子とあった。もしかすれば共著かもしれない。<br /> 櫟と呼ばれる御姉様に集う、妹の二人と、もう一人。<br /> 死が二人を別つまでと誓った櫟と園。<br /> それを羨む躑躅に、園と躑躅を取られまいとする木苺。<br /> だが結局、櫟は二人のどちらかを選ぶ事も出来ず、懊悩の中に自決する。<br /> 木苺も自分の所為ではないかと悩み果て、妹の二人からは離れてしまう。<br /> 当時の彼女達がモデルだとするならば、何故そんな悲惨な終わり方をしたのだろうか。もっと幸福な終わり方があっても良かっただろうが、著者が欅澤花だとすれば、嫉妬そのものかもしれない。<br /> 自滅しようとも、櫟の利根河撫子と園の大聖寺誉を結びたくはなかったのか。著者が利根河撫子ならばそれはもっと複雑だ。<br /> だが現実の彼女達は、もっと悲惨な散り方をした。まだ、小説の別れ方の方が、マシだっただろう。<br /> そして小説においては、もうひとつ気になる点がある。<br /> それは宝探しの話で、結局見つからなかったものだ。それが原因で登場人物四人は以前に増して険悪になってしまい、櫟自殺の原因になってしまう。<br /> 七星市子が何を狙って、この物語を採用したのか……アリスも杜花も早紀絵も、首をかしげるばかりであった。<br />「杜花」<br /> 様々と思いを巡らせていると、花が隣で何かを思い出したように杜花を呼ぶ。<br />「はい?」<br />「卒業後はどうするつもりだい」<br />「家を継ごうと」<br /> 以前から聞いていた話だ。市子の生前は恐らくお嫁さんが夢だったろう。<br /> 今は聞いてあげるなと声をかけたいが、花にそんなものは通じないだろう。<br /> 花は暫く考えた後、杜子に声をかける。<br />「はい、お母様」<br />「弟か妹を作ってやれ」<br />「え、ちょ。お母様、それはその、この子たちの前で言うような事では」<br />「杜花は自由にさせる。後継ぎくらいポコポコ作れ」<br />「わ、解りました……し、四季彦さん?」<br />「ううう、うん。わわわわ解った」<br /> どうやら杜花に弟か妹が出来る事が決定されたらしい。<br /> ……どうも様子がおかしい。<br /> 場を和ませようというにはハードなお題である。<br /> 良く見れば、花の顔は紅潮しており、明らかに酔っていると解る。<br /> そして今度は御鉢がアリスに回ってきた。<br />「お前は藤十郎の子だろう。家はどうする」<br />「三女ですので。政治家は目指していますけれど」<br />「杜花はくれてやるから、三分割しろ」<br />「あの、お婆様、もしかして酔ってますか。いやいや、私ケーキとかじゃないですないです」<br />「早紀絵!」<br />「はいはい。何何酔っ払い婆様」<br />「仲良く三分割しろ」<br />「私とアリスと二子で? 二子は別にいいんじゃない?」<br />「ま、待ちなさいよ。どんな話になってるのそっち!?」<br />「二子!」<br />「ひゃ、ひゃい」<br />「……一郎はなんて言ってる」<br />「将来の事?」<br />「そうだよこの学歴詐称」<br />「好きにして良いって言われたわ。だから好きにするの。あと杜花私のだから」<br />「みんなで勝手に私の所有権奪いあわないでください。怒りますよ、ぷんぷん」<br /> 杜花を見る。<br /> 何時の間にか日本酒の一升瓶が空いている。いや、飲みすぎだろうそれは。ぷんぷんって何だ。<br />「も、杜花様?」<br />「何かしら。アリス。ふふ」<br />「そんなサディステックな笑みを浮かべる場面じゃありませんわよ」<br /> 飲みっぷりは良いのだが、アルコールに強いという訳ではないらしい。出来あがりすぎである。<br /> この状態をどうするべきかと判じて、アリスは早紀絵に縋りつく。まだマシそうだ。<br />「早紀絵、早紀絵。杜花様が」<br />「杜花三分の計」<br />「はい?」<br />「三国志じゃ……ワシは呂布じゃ」<br />「いや、呂布じゃあ中原だけしか……ってダメだ使い物になりませんわ。二子さん……?」<br />「あー……お酒ってあー……。米で酒とか何それ。なんでこんな味に……あー……」<br />「二子さん?」<br />「……アリス。アリスじゃない。ああ良かった。これからお茶でもどうかしら。良い茶葉がね、手にね入ってね」<br />「いやいや、ここ神社ですわよって……記憶混濁してますの?」<br />「杜花に害虫が……私のなのに……こう、権力でなんとか……」<br /> だめらしい。<br />「もう何でもいいです。考えるの阿呆みたいです。アリスってどんな味ですか?」<br />「ちょ。杜花様酔いすぎですわ。ああもう、お酒好きなくせに弱いとこんなんばっかり」<br /> 結局夕食という名の宴会は、終始酔っ払いによって支配されてしまった。<br /> 花など嬉しいのか悲しいのか、泣いたり笑ったり大変である。<br /> 杜花に至っては本性がダダ漏れしているらしく、早紀絵に絡んでとんでもない事になっていた。<br /> 二子においては一人でブツブツと言いながら、ティーカップに日本酒を注ぎだす始末である。<br /> やたらにアルコール分解が早いアリスは、そんな席を客観的に見つめるも、そんな中に自分がいるのだと思うと、なんだか嬉しくて仕方が無かった。<br /> 普段繕っている人間がぶっ壊れる様が面白いのもそうだが、やはり皆、腹に抱えているものが重たいのだろう、反動も大きいと見える。<br /> きっと今後はあり得ないだろう。醜態など晒せる内に晒しておいた方が良いのかもしれない。<br /> アリスは、コップに並々と焼酎を注ぎ、一気にあおる。<br /> 流石にグラッと来た。<br />「杜花様ー?」<br />「にゃい」<br />「うわ、お水要り……ますわよね」<br /> すっかり出来あがった杜花に近づく。彼女は胸元を大きくはだけて横になっていた。意識はあるらしいが、まともに会話出来そうにない。<br />「お風呂」<br />「はい?」<br />「お風呂行きます」<br />「いや、飲酒後って危ない……ああ、いっちゃった」<br /> ネックスプリングでゾンビのように起き上がった杜花の身体能力に驚きつつも、流石にあの状態でお風呂は危ないだろうと心配する。他を見ると皆思い思いにしているので、アリスもついて行く。<br /> 長い廊下をよたよたと歩く杜花を後ろから支えながら、漸く脱衣所についた。<br /> 風呂は三つの区画に分けてあり、手前が脱衣所とシャワー、隣に風呂桶のある風呂場、直ぐ隣にガラス張りの窓があり、そこから外に出て露天風呂に入れる仕様になっているようだ。<br />「んにぃー」<br />「杜花様、腕から首は抜けませんわ」<br />「アリス、脱がせてください」<br /> 顔を赤くしてぼーっとしている杜花の世話を焼く。これではまるで赤ん坊だ。<br /> とはいえ、肌蹴たその姿はどう見ても大人である。栄養は全て胸に行くのだろう。<br /> 見る機会など幾らでもあったが、いざ近くでマジマジと見つめると、実に迫力があった。<br />「本当に入りますの? 危ないですわよ?」<br />「大丈夫です。アリスが支えます」<br />「あ、私前提なんですわねコレ」<br /> リクエストされたのならば応えない訳にもいかないので、アリスも服を脱いで風呂場まで寄り添う。杜花を風呂椅子に座らせると、彼女はまるで機械のような動きで蛇口から直接水を汲んで、頭から被った。<br />「うわ、ちべた。杜花様、何して……」<br />「く、あ、おおぉ……はい。大丈夫です、酔ってません」<br />「酔ってないは酔っ払いですわよ、もう……え、ほんとに醒めましたの?」<br /> 水濡れた頭を縦に振ると、杜花が立ちあがって、代わりにアリスを風呂椅子に座らせる。<br /> 何事かと思えば、彼女はその手にボディソープをとって、スポンジでもなく直接アリスに塗りたくる。いや、これは酔ってるだろ、というツッコミも入れる暇はないし、ぬるぬるでそれどころでは無い。<br />「あ、ちょっと。それは、さすがにぃ……」<br />「アリスって幾つありましたっけ」<br />「は、82です。いえ、そんなに揉まなくても、い、摘まんじゃ駄目ですわ」<br />「細いから大きく見えるのかな……あ、やっぱり敏感なんですね」<br /> 背中に圧倒的質量を感じる。<br /> 話では94のGと聞く。確かに運動をする杜花からすれば、それはかなりネックかもしれないが、今現在においては凄まじい脅威である。<br /> 自分の物とて小さくは無いが、いざこれだけ大きいものが直接肌に触れると、泡の滑りもあいまってとてつもない感覚がある。<br /> 以前寮でお互いに背中の流しあいなどしたが、状況が異なるだけでここまで意識するものとは思わなかった。<br />「どうですか。心地よいですか?」<br />「あくっ……え、あ。ええ。そうですわ、ね。三助さん」<br />「お尻の方もちゃんと流しましょうね」<br />「く、ふっ……」<br />「あはは。初々しいですね。私もそんな可愛い反応が出来る女なら良かったんですけれど」<br />「い、苛めないでくださいまし」<br />「それです。それが出来ない。ああ、私は本当に損する人間なのだと実感します。はい、お湯かけますよ」<br />「あっ」<br /> 背中流しという名のマッサージが中断してしまい、思わず声を出す。<br /> 振り向くと、杜花はほんの少しだけ片頬を釣り上げ、うす暗く笑っている。<br /> 流石に言えない。<br /> 今のが気持ち良かったので続けてくださいとは、アリスのプライドが許さない。しかし杜花の顔はあからさまにそれを求めていた。聞くだけには聞いていたが、どうやら彼女は本物らしい。<br />「杜花様」<br />「はあい」<br />「手加減してくださいまし……」<br />「――あ。ご、ごめんなさい。アリスの反応が良すぎるものだから、つい楽しくなって」<br /> どこまで本気なのか、杜花が平謝りする。<br /> 本当ならば、そんな謝罪も要らないのだ。彼女が好きなようにアリスを求めてくれるなら、満足である。<br /> しかしながら、生憎処女の身だ。思いっきり踏ん切りをつけるような度胸が無い。杜花から状況を進めてくれれば有難いものの、彼女もどこかに引け目があるのだろう、アリスのやんわりとした拒絶をそのまま受け取ってしまう。<br /> なんとなく、これは不味いと思う。<br /> 互いに遠慮した挙句に折角の流れも汲み取れず、その晩に何もなく終わってしまって後々後悔する、というのは、男女関係なくどこにでもある話だ。<br />「外のお風呂、ちゃんとお湯も張ってあるので、入りましょうよ」<br />「え、ええ。そうですわね」<br /> 杜花を気にしながらも、手拭を手に立ち上がる。<br /> ドアを開けると一気に外気が流れ込み、とてつもなく寒い。あわてて露天風呂に入って辺りを見回すと、それが本当に良く出来ているものだと感心する出来である事が解る。<br /> 屋根付きで床面には大理石、周囲にはどこから持ってきたのか、大きな岩が据えてあり、植木もしっかり植わっている。<br /> 竹で編まれた壁と屋根の隙間から、大きな月が顔を覗かせ、やわらかな明りを注いでいた。ところどころに積もった雪がまた、情緒を醸し出す。何もかもが本当に良く出来ていた。素人仕事とは思えない。<br />「これ、本当にDIYですの? 旅館じゃありませんの」<br />「お父様とお爺様、五年かけたそうですから」<br />「お風呂好きなんですわね」<br />「いえ。ただたんに、花お婆様と杜子お母様が露天風呂に入っている絵が観たいという、お父様とお爺様の欲求によってなりたっているって」<br />「フェチズムってたまに凄いものを生み出すんですのね」<br /> 杜花の母と祖母は実に美しい。父と祖父の気持ちは解らないでもない。とはいえ頑張りすぎである。<br />「さて、呑み直しますか」<br /> と、杜花が積もった雪の中から晩酌セットを取り出す。一体どんな準備の良さなのか、呆れるほどだ。<br /> 燗の方が好ましいのだが、露天風呂が熱めである為、それを見越したものだろうか。<br />「それほど高いものじゃありませんけど」<br />「頂きますわ」<br /> 猪口に注がれたお酒を一気にあおる。<br /> 雰囲気の所為もあってか、冷がやたらと美味しく感じた。学生がやる事ではないなと自覚しつつも、止めろと言われて止めないだろう。<br />「ああ、なんだか、一気に老けてしまったような気がしますわ」<br />「学院じゃ出来ませんし……ああ、いえ。もう見せても良いかなあ」<br />「杜花様は嫌がっても、皆の呼称は杜花御姉様ですし、私も一部からは、アリス御姉様なんて呼ばれてますの。きっと幻滅しますわよ。愉快ったらありませんわね」<br />「二人が私を見てくれるなら、私は何でもいいです」<br />「ふふっ」<br /> お湯の中を這うようにして、杜花に近づく。<br /> 彼女が呆けて空を見上げている隙に、猪口を取りあげてお酒を口に含む。<br /> 杜花がアリスに振り向く所を見計らって、その唇を合わせた。浅いものではない。アルコールの焼けるような味と風味が、杜花の舌が絡まる。<br /> ――酷い学生もいたものだと、自嘲する他ない。<br />「ぷあ……アリス、もしかして今になって酔ってますか」<br />「酔ってませんわ」<br />「あらら。でも、そうですね。アリスはシラフじゃあ、恥ずかしすぎて死んじゃうかも、しれませんし」<br />「……この後、その。離れはほら、二人がいますわ。だから、杜花様の、お部屋に」<br />「ん。大丈夫です。安心してください。優しく、してあげますから」<br /> 鼓動が大きくなる。身体が温まって、血流が良くなった所為もあるだろうが、当然それだけではない。<br /> 耳に、胸にと軽い愛撫が挟まれ、気分が高まって行く。<br /> これから彼女の物にして貰うのだ。<br /> 彼女が何処にも行かないように。<br /> 彼女が離れてしまわないように。<br /> 打算的だろうか。<br /> 即物的だろうか。<br /> もしかしたら、他の人たちから観れば不純に思われるかもしれないが、では、ではどうやって、どの手段を用いて杜花を留まらせれば良いのかなど、アリスには解らなかった。<br /> いずれきっと明け渡すものなのである。まごつけば躊躇えば、それだけ不安は大きくなる。<br /> 恋を実らせる為であり、そして戦う為でもある。<br /> あのイレギュラーにだけは、絶対に渡さない。<br /> 彼女に渡した瞬間、杜花はきっと、全部持って行かれてしまうのだから。<br /><br /><br /><br /> 結局のところ、大晦日から元旦にかけての一日は、慌ただしすぎて何が何だかアリスにも良く解らなかった。<br /> 花と杜子と八雄は受付に厄払いにとてんやわんやで、当然昼もとれないような状況が続き、四季彦は手伝いとアルバイトの統括である為それこそ目まぐるしくあちこちをかけ回り、なんだかんだと杜花まで手伝いに出てしまった。<br /> 人が忙しい様を横目で見ていられる程、アリスは神経が太くない。<br /> 手伝いに出ると申し出たところ、早速巫女装束を着せられて社務所の番である。<br /> しかしその判断は誤りだったと言って良い。<br /> 元日十二時すぎ。<br /> 人が集まってくる頃合いには、社務所の前に女学生が屯していた。<br />「お守りは此方から900円、2100円、3000円ですわ。破魔矢はそちら、絵馬はこちら、干支のお人形は小さいものが1500円……はい。有難うございます。あ、二列になってくださいまし!」<br />「アリス御姉様の巫女装束なんて、今後見られるかどうかっ」<br />「アリス様、お写真一枚ー」<br />「だ、ダメですわよ。御奉仕中ですわ。えーと、杜花様のお父様!?」<br />「う、うん。えーと、一時、一時に抜けられる。バイトの子くるから」<br />「一時まで待ってくださいな。今はただ粛々と、ほらそこ撮らないで」<br /> どこから嗅ぎつけたのか、観神山女学院の生徒が多い。面白がって市立中高からの生徒も群がっている。<br />「御姉様、お写真の初穂料は?」<br />「だーめーですわーよぅ。あとで、あとでですわ! あ、はい。有難うございます。杜花様のお父様、お守り在庫何処ですの!?」<br />「幸姫さん在庫持ってきて、乙女坂さんこれ会計に回して、美濃部さんこっち人足りないから誰か呼んできて」<br /> 話では、例年の1.5倍以上の参拝客が溢れかえっているらしく、特にこの時間、女学生達は社務所に集中していた。それもそうだ、天原家のお嬢様が巫女装束で神様に御奉仕中である。<br /> アリスが観神山の学生である事は、アリスが思っている以上に有名なのだろう。<br /> 何かと民衆支持の大きな天原藤十郎の娘が通っている、というだけならまだしも、アリス自身の器量の良さが合いまった結果、観神山女学院の外では、アリスがお嬢様の代名詞のような扱いなのである。<br /> 家族のプライベートに入ってくるのは問題だろう、と思いつつも、こればかりは防ぎようが無い。人気が出るか出ないかなど、民衆の眼が判断するものだ。<br />「杜花様のお父様!?」<br />「し、四季彦でいいよ」<br />「四季彦さん、杜花様は?」<br />「お守り足りないんで、発注してたガワに中身を詰める作業をお願いしているよ。二子さんもそちらだ」<br />「ああ、裏方ですのね」<br />「……杜花まで出したら凄い事になりそうだけど」<br />「流石にこれ以上捌けませんわ。あ、はい、計5100円ですわ。有難うございます」<br /> 先ほどから早紀絵の姿を見ない。どこへ行ったのかと視線を巡らせると、近くのテントでその姿を見つける。どうやら御屠蘇を配っているらしい。案の定、そちらにも学生が群がっている。<br />「アリス、お守りここに……何ですかこの群衆」<br />「杜花さ……」<br />「あ、杜花様ッ」<br />「杜花さんですわ。あ、すごい、まさしく巫女さん!」<br />「杜花様、ええと。大人気ですわ欅澤神社」<br />「……少しひき付けましょう。普通の参拝客の方からバンバン捌いていってください」<br />「相解りましたわ」<br /> そういって杜花が社務所を出て、女学生達に振る舞い始める。アリスは他のアルバイトと顔を見合わせ、小さく意気込みを入れ、次から次へと来る参拝客を捌きにかかる。<br /> 流石の杜花だ、女学生達のあしらい方の手際が冗談にならない。少し遠くでちょっとした撮影会状態である。問題は嗅ぎ付けた早紀絵が職務放棄で杜花に寄って行った事ぐらいだろう。<br /> 販売業、とは言わないが、ともかくこういった仕事などトンと関わりの無いアリスだ。最初こそ戸惑いはあったが、一時間もすればすっかり馴染んで、むしろ必要上のスペックを発揮している。<br /> 右から左から来る注文を受けながら的確にお守りやお飾りを配って会計する様は、一角の熟練者である。また乗せるのも上手く、お守りおみくじ一つで良いところを、最低三つは持って行かせる。<br />「ふは。大変ですわ」<br />「アリスさんって、本当にお嬢様なんですねえ」<br /> 隣のアルバイト、美濃部が話しかける。彼女は市立高の二年生だ。<br />「大したものではありませんけれど。外に出ると新しい実感がありますわね」<br />「なんかもう雰囲気とか全然違うし。お嬢様学校って大変じゃない?」<br />「小等部からいますから、何とも思いませんわね。ああ、だいぶ捌けてきた」<br />「はい、600円です。有難うございます……ねえねえ、やっぱりさ、女の子同士とか、あるの?」<br />「貴女の学校にも居ますでしょう」<br />「いるけども。規模が違いそうだし」<br /> それは確かに、そうだ。所謂一般人の共学高とは物が違う。自分が正しくそれであるし、女性同士のカップルなど、探せば幾らでもいるような学校だ。<br /> そもそも、お互いの気持ちだけでなく、観神山女学院の場合政略的な意味が多々ある。<br /> このご時世、女性同士の権利も結婚も子作りも許容されているのだ、別段と男にこだわる必要性が無い。故に親達が考える事は、良いところのお嬢様を引っ掛けてきてね、という、薄暗い打算である。<br /> いつの世もその辺りは変わらない。<br /> 天原家は七星家との家族交流の足掛かりとして、アリスを観神山女学院に通わせた。七星もそのつもりでいたのだ。<br /> 今となっては、物悲しいだけである。<br />「美濃部さんは、女性が御好き?」<br />「あ、私は異性愛者だよ。アリスさんは?」<br />「同性愛者ですの」<br />「おお……。ねえねえ、巫女の恰好してこんな事いうのもあれだけど……ど、どんな感じなの?」<br /> 美濃部の話は抽象的だ。どう答えて良いものかと考えた後、一つの結論に至る。<br />「びっくりしましたわ。ええ。人間って空も飛べるんだって」<br />「あ、アリスさんが幸せそうで何よりです」<br /> 二日前を思い出して顔を赤らめる。いや、正確には昨日もなので、昨晩だ。遠くの杜花を見やる。女学生達には絶対向けないような顔を、アリスは知っていた。<br /> 杜花の手解きは、早紀絵の言う通り半端ではなかった。確かに痛みこそあったが、充足感はその何倍もあり、杜花の手際の良さで、過去に覚えの無いような感覚に何度も襲われた。<br /> 知ってはいたが、やはり欅澤杜花は怪物である。<br />「天原さん、休憩とっても大丈夫だよ」<br /> もしかしたら今晩も、などと考えて期待を膨らませていると、四季彦がひょっこりと顔を出す。<br /> どうやら無事波は乗り切ったらしく、少し早いが休憩に入れるらしい。<br /> 社務所を出て杜花の下へと向かうと、新たなモデルの登場に学生達が湧きたった。休憩になるかどうかは、少し怪しい。<br />「杜花様、お疲れ様ですわ」<br />「ああ、アリス。休憩ですか」<br />『今杜花様がアリス様の事『アリス』って呼び捨てに』『年末に何かあったんじゃ』『胸が熱くなりますわ』<br /> などなど、杜花の発言が波紋を呼ぶ。というか何故こんなに観神山の生徒ばかりなのか。<br />「ねえ貴女達。私が此方に来ているなんて、どこから?」<br />「お父様に、欅澤神社に初詣に行きなさいと」<br />「私はお母様から」<br />「私もですわ」<br /> 杜花の顔を見る。彼女は呆れたように溜息を吐いた。<br /> どうやら、この子達は七星系列の子であるらしい。七星一郎という男は、本当に物事を適当にするのが得意である。余計な事を、と思いつつも、これはチャンスだと位置づける。<br />「杜花『御姉』様、ちゃんとサービスしませんと」<br />「アリス?」<br /> そういって、杜花の腰を抱いて並ぶ。さあ撮るが良いさと、言う間もなく彼女達はシャッターを切り始めた。冬休み明けには、この写真が学院内で面白おかしい噂になっているに違いない。勿論それに伴って市子の問題も挟まるだろうが、そこから先はアリス達の世代が作る事だ。<br /> アリスには考えがある。<br /> 杜花が市子をふっ切りたいと言うのならば、やはり『御姉様』であるべきだ。妹も取り、御姉様といえば欅澤杜花と言われるような状況を作り上げる事こそ、彼女の為になる。<br /> あと一年と三カ月、それがあれば、学院生活は無事に終えられるだろう。<br />「逃がしませんわ」<br />「……ちょっと心地良い自分が嫌です」<br />「ふふっ」<br /> 生徒達に散々と写真を取られ、やっとの事で解放されたのが20分後であった。それでも振り切ってである。<br /> 杜花はまだ仕事があると言って別れてしまったので、早紀絵でも捕まえようと思ったのだが、早紀絵は早紀絵で女の子にちょっかいをかけていたので、これはいつもの事だと流す。<br /> 早紀絵はアレで良いのだ。特定の人間を見ろ、などとは言えない。<br /> 愛の多い彼女は、分け与えるのが義務だと考えている。その時その時、真剣に此方を見てくれれば、アリスに不満はなかった。<br /> その内早紀絵とも……あんな事を……。<br />「……なんて顔してるの、貴女」<br />「――ハッ。ああ、二子さん」<br /> 母屋近くで突っ立って妄想に耽っていると、二子に声をかけられた。<br /> 彼女もまた巫女装束なのだが、色々な意味で似あいすぎて、アリスも反応に困るレベルである。<br /> いうなれば漫画かアニメの登場人物だ。<br /> 彼女の小さい肢体に纏われた白と紅の装束は、嫌になるほどピッタリであり、長い黒髪がまたそれを演出付ける。今にも悪霊退散とか降魔調伏とか言いそうであるし、なんか不思議な力も使いそうだ。<br /> 実際使うのだから困ったものだが。<br />「ひれ伏したくなるほど似あいますわね、ホント」<br />「別に伏せなくていいわよ。伏せられるの慣れちゃって新鮮味ないし」<br />「手を前に出して」<br />「うん?」<br />「脚を前後に開いて」<br />「はあ」<br />「指をそう、そういう風に立てて」<br />「はい?」<br />「台詞は『あくりょうたいさんっ』ですわ。ひらがなっぽく喋ってくれると」<br />「言わないわよ、もう」<br />「ノリが悪いですわね。お仕事は?」<br />「休憩して良いって。全く驚きだわ。まさか私が雑務なんて」<br />「今のうちしか出来ませんわよ、貴女は」<br />「……それもそっか。アリス、お昼は?」<br />「まだですわ。皆さんお昼を用意している暇もないでしょうから、そうだ、屋台なんてどうでしょうね」<br />「えっ」<br /> 屋台、と聞いて二子がたじろぐ。どんな印象を持っているか知らないが、アリスと同じく初めてだろう。<br />「実は私も初めてなんですの。なんだかワクワクしちゃって」<br />「アリスって思いの外子供っぽいわよね」<br />「いいんですのよ、御祭ってのは童心に帰れるからこそ価値がありますの」<br />「ふぅん。ああでも、私財布なんて無いわよ」<br />「観神山だと、確かに貴女は要らないかもしれませんわね。まあま、私がお支払いしますわ」<br />「借り作るみたいでなんかいやだけれど。じゃあ宜しくね」<br />「ええ」<br /> 流石に装束のまま屋台を回るわけにもいかなかったので、長いコートを羽織って屋台の並ぶ場所にまでくる。ちなみに二子はそのままだ。<br /> 逸れないように手を繋ぐと、その手が妙に馴染む。初めて繋いだにも関わらずだ。<br />「目立つんだけど」<br />「可愛いから良いじゃありませんの」<br />「どういう理屈よ。というか、ねえ、アリス」<br />「はい?」<br />「貴女、私の事嫌いじゃないの?」<br /> はて、苦手とは言ったが、嫌いと言った覚えは無い。<br /> そもそも杜花を独り占めしない限りは、彼女は至って普通の……いや普通ではないが、女の子である。<br /> 七星市子の義理の妹を無下に扱うような気持ちは持っていない。<br />「杜花様を独占しない内は、お友達ですわよ」<br />「ねえ、貴女。昨日と一昨日の夜だけれど……」<br />「杜花様と同衾しましたわ」<br />「ず、ずるい。なんかずるい」<br />「……貴女こそ、杜花様が嫌いじゃありませんでしたの? あ、焼きそば。値段の割にお肉が少なくて味が濃いという噂の焼きそばがありますわ。おじ様、二つくださいまし」<br />「あいよー」<br /> それからすっかり黙り込んでしまった二子を引っ張りながら、あれにこれにと買い漁る。<br /> 手荷物が一杯になったところ、二子が携帯を取り出してワンコールすると、一般人を装ったBGが三人程集まってきた。<br /> 家の中ならまだしも、七星のお嬢様をこんな所に唯で放置出来るわけが無いだろう。<br />「二子さんのボディガードさんですわね」<br />「ええ。天原氏」<br />「じゃあ、これとこれとこれ、それとこれ。杜花様と早紀絵にお願いしますわ。なんでしたら貴方達も召し上がって」<br />「了解しました。ああ、それと」<br />「はいな」<br />「一郎様から。娘と仲良くしてくれとの事でした」<br />「言われずとも、この通りですわ。ねえ二子さん」<br />「ん。幸田、妻木、物部、大丈夫よ。そうだ、兼谷は」<br />「兼谷様は……あちらに」<br />「そっか。ありがとう」<br /> そういって、BGを下げる。<br /> 兼谷は来ていない様子だ。あちら、とは彼等しか解らない場所だろう。<br /> しかし、屈強そうな彼等にして『兼谷様』などと呼ばれる兼谷の七星での位置は、一体どのあたりなのだろうか。ただのメイドでない事は確かだ。そもそも、メイドは趣味でしているんじゃないのかと思う事もある。仕事こそ完璧だが、彼女は奉仕する側として違和感がある。<br />「あら、兼谷さんは来ていませんのね。二子さんがこんなに可愛らしいのに」<br />「後で写真とってメールでもすればいいわ」<br />「どこかに座りましょうっか」<br /> 人ごみを抜け、少し外れにあるベンチを見つけて腰をかける。<br /> 本社とは離れた、摂社の保食稲荷(うけもちいなり)の近くだ。鬱蒼と茂る広葉樹の中に、鳥居が幾つも続いた御社が見て取れる。<br /> そもそも保食神は神代の神で、古事記によれば月読に奉仕したら叩き斬られたという不遇の神だ。<br /> 同じ食物神の宇迦之御魂神と同一視され、そちらが稲荷として祭られている為に、更に同一視されて稲荷となっている。<br /> が、欅澤神社の場合、土地神を朝廷の話にすり合わせて保食神と同一視しているので、本来は地元の豊穣神である。<br /> 本殿に祭られているのはタケミカヅチとフツヌシだが、摂社の此方にもちゃんとした御祭がある。<br /> という話を杜花に聞いた。<br /> 日本神話は分霊や同一視、本地垂迹まで合わせると、訳が分からなくなるのはいつもの事だ。<br />「稲荷ってなんであんなに鳥居があるんでしょうね」<br />「通る事が大事らしいわ。願いが通じるに形を与えた結果だとか」<br />「まあ博識。どれ食べます?」<br />「ええと……それなに?」<br />「さあ……」<br /> 取り敢えず指定された食べ物らしきものを二子に差し出す。ビジュアルで買ったので、何かは解らない。<br /> リンゴにしては小さいが、飴のようなものが絡まっている。<br />「リンゴ……飴?」<br />「そのままね。たぶんそっちはチョコがかかったバナナだし、チョコバナナとかよね」<br />「面白いのが置いてますのね。ふむ。頂きます……ん。安っぽいのに何だか美味しく感じますわ、このチョコのバナナ」<br />「リンゴなのか飴なのかりんご飴なのか……まあ不味くはないし。御祭っぽい雰囲気がるわ」<br /> 買ってきたものを一つずつ考察しながら処理して行く。<br /> 遠くから眺めるばかりであった神社の祭日を満喫しているのだと思うと、何か文化祭の時のような幸福感がある。二子もまんざらではないようすで、想像していたよりも楽しんでいるようだ。<br /> 一しきり食べ終わって塵を片づけてから、遠くに聞こえる喧騒に耳を傾ける。祭りの中の静寂というのは、殊更特別だ。<br />「なんだか幸せに感じてしまう自分が気持ち悪い」<br />「何か、私達だけ違う場所に来てしまったような、不思議な趣がありますわ」<br />「当事者ではない楽しみというのもまたあるのよ」<br />「……貴方は傍観者だった」<br />「もう当事者だけれどね」<br /> 七星二子は、本来傍観者であった。市子達周辺の事を、耳にするだけの存在である。<br /> 市子が死に、二子が代わりに来て、物事はおかしな方向に回り始めた。いや、裏に作られていた歯車が、動き出したと言って良い。<br /> 彼女は最初、杜花を嫌っていた。市子を二子から取り上げた悪人とすら思っていたのだろう。それが何故今になり、杜花に愛着を示すのか。<br /> 今現在、二子に結晶、もしくは市子のデータは無いだろう。<br />「何故貴女が杜花様を。貴女は市子御姉様じゃありませんわ」<br />「……。最初こそ嫌いだったわ。私の愛しい姉様を、杜花は独占していたもの。貴女だって考えた事があるでしょ」<br />「幼少の頃ですわね」<br />「でも実際。解るでしょ。欅澤杜花って人物を知って、接して、話して、私の印象は随分と変わったわ。それに加えて、姉様の記憶があった。つぶさに一つずつ記憶を確認している内に、あの子の綺麗な部分も汚い部分も、全て観えるようになった。あの子は姉様の物であり、姉様はあの子の物。では姉無き今、あの子の所有権は代替え品の私にあるでしょう」<br />「無茶苦茶な理屈ですわね。でもまあ、貴女個人が好いているという事は間違いありませんのね」<br />「それに私は、市子になるのだもの。だから、貴女達にはあげない」<br />「通りませんわね。杜花様の気持ちはどうなるんですの?」<br />「ふふ。何それ。冗談?」<br /> 二子が笑う。<br /> どんな反応を見せるかと思って聞いたが、やはり二子は、杜花が耐えきれないと自覚して取り入ろうとしてるのだろう。<br /> アリスと早紀絵の懸念は、これで揺るがないものになってしまったとも言える。<br /> 爪を噛む。どうしても止められない癖だ。不安になると、これが出てしまう。<br />「屈しないし、渡しませんわ」<br />「無理よ。もうシナリオは出来ているもの」<br />「シナリオね。利根河撫子以来の、ずっと続く狂気の産物ですわね。七星一郎が何を考えているか、知りませんけれど」<br /> 利根河撫子。<br /> その名前を聞いた二子が、不思議そうな顔をする。<br /> 誰だと言わんばかりだ。<br /> 冗談はやめて貰いたい。<br />「撫子?」<br />「やめてくださいな。貴女達の血縁でしょう」<br />「利根河ってことは、七星になる前の一郎お父様の、血縁者?」<br />「……知りませんの? 本当に? 冗談じゃありませんわよ?」<br />「知らないわよ。どこの誰」<br /> 何かが歪む。<br /> どこかがおかしい。<br /> 二子は、全て知っていて動いているのではないのか?<br /> 七星市子になるという事は、利根河撫子になるという事も同義なのである。少なくとも七星は、そのように動いている。<br /> 何故その実行者が知らないのか。<br /> カマかけ……にしては、二子の反応が、妙だ。<br /> アリスは携帯を取り出し、取り込んだ写真を二子に見せる。<br />「姉様ね」<br />「いいえ、利根河撫子ですわ」<br />「……ッ! 何それ。そもそも誰なの」<br />「利根河真の、第一子。学院で非業の死を遂げた、貴女の御姉様でしょう」<br />「知らない。知らないわ。なんでこんなに……。違う。オリジンなんていない。私は私だもの。姉様も姉様よ。遺伝子的、電子的に弄られてはいるけれど、間違いなく、私は一条の子」<br />「……失礼な話ですけれど、私達は、貴女達市子二子とも、撫子のクローンであると考えていましたわ」<br />「莫迦な事言わないで。嘘なんて吐かないわよ。私達は、本当に似ているだけだもの。アリス、お願いがあるわ」<br />「ええ、どうぞ」<br />「話して。こんな――こんなことってないわ。私は市子になるの、撫子なんて、知らないのよ」<br /> どうするべきかと、考える。<br /> 情報をタダで渡す程、アリスはお人よしではない。<br /> 恩を売っておくべきか、それとももっと明確な情報と取引すべきか。<br /> アリスは少し考えて、恩を売る事にした。<br /> 何せ相手は記憶を改竄する。ここで聞き出した所で、消されてしまっては意味が無い。だったら、二子自身に恩を植えつけて置く方が有効である。<br />「努々この恩義忘れぬ事ですわね」<br />「恩着せがましい。まあいいわ。覚えておく」<br /> 利根河撫子については、対七星二子における重要なファクターを担っていない為、全ての情報を開示した所で問題はないだろう。<br /> 杜花と早紀絵には後で説明するとして、一先ず二子に知り得た事を話す。<br /> 観神山占拠事件も含め、幻華庭園に関する話もだ。<br />「……自殺? 利根河撫子は、部室で首を吊ったのね。姉様と同じように」<br />「ええ」<br />「……そっか。自殺動機、解ったわよ。そして私は、修正済みなんだわ」<br />「どういう事、ですの」<br />「恩を返しましょうか」<br />「……是非」<br />「魂とは記憶よ。その逆も然り。七星市子は、利根河撫子に近づきすぎたんだわ。魂は死した筈の肉体の生を望まなかった」<br />「未だ信じられませんけれど、七星が確立した技術というのは、本当に、魂すらデータ化してしまったんですのね?」<br />「……案外容易だったわ。ただ、普段脳が使っていない領域のデータすら汲み取る必要があった。マッピングに時間はかかったみたいね。でも、姉様その他の姉妹達によって、それは成った……けど、これは」<br /> 二子は髪をかきあげ、ブツブツと呟き始める。相当の動揺があったのだろう。<br /> 七星一郎は、もしかすれば本当に、七星市子になるようにだけ、二子に言ったのかもしれない。<br />「違う、私は。そんな、知りもしない人物になる為に来たんじゃない。総合的に、似通っただけで……でも、それでは……お父様は……娘を、蘇らせたいの?」<br />「それが解ったら、私達も頭を悩ませていませんのよ?」<br />「そりゃ、そうね。でも、もう動いてしまっているものだし。そう、変わらない。撫子イコールで市子だったとしても、私は市子姉様が好きだったのだもの。そう、私は市子に、なれるから……だから……」<br />「貴女自身はどうしますの? 今は違うにしても」<br />「……私は、いい」<br />「支離滅裂ですわ。貴女は貴女でしょう。そう、何故敢えて死した人物になりたがるのか、解らない」<br />「そ、それは……――ああ、もう、何よ、うううぅ……」<br /> そういって、二子が立ち上がる。広葉樹の小路を暫く歩いたあと、彼女は振り返った。<br /> 巫女装束が翻り、黒髪が流れる。<br /> その表情を、どう判じれば良いだろうか。<br /> 悲しいのか、虚しいのか、良く解らない。もしかすれば、何か訴えかけようとしていたのかもしれない。<br /> しかしアリスにかける言葉はなかった。<br /> 二子が走り去って行く。当然、止める術は持たない。<br />(説得で、止められる? いや、何をするかも聞けなかった。聞いたところで、どうしようもないのかしら。彼女が喋った後、消される可能性だってある……何もかも、彼女の前では不確定ですわね)<br /> 時計を見る。そろそろ戻らねばならない。<br /><br /><br /> <br /><br /> 漸く解放されたのは、夜も七時を過ぎた頃だった。<br /> 昼程ではないが、夜になると今度は厄払いの予約が多い為、花や杜子は九時頃までは空きが無いと言う。<br /> 夕食も取れないだろうという事で、杜花が炊き出したお握りと卵焼き、それとウィンナーにかぶりついて腹を満たす。労働の後、これほど胃に沁みるものがあるだろうかと驚くほどに効いた。<br />「いやあ働いたね、こんな働くなんてね」<br />「貴女も人気で大変でしたわね」<br />「流石に御屠蘇を学生に振る舞う訳にはいかなかったから、他のもの振る舞ってきたよ、愛とか」<br /> 窓を閉め切った縁側で、降り出した雪を眺めながらお茶を啜る。二人とも装束のままである。流石に外に面した社務所に一日いると、身体も冷え切るというものだ。<br />「……お酒」<br />「はい?」<br />「氏子から大量に奉納されてるお酒。あれってどう捌くんだろ。家庭内で消費は出来ないよね」<br />「いやあ、神様のものですし」<br />「アリスって神様信じてたっけ」<br />「アニミズム否定なんてしませんわよ。宗教とは信仰するからこそあるんですわ。まして私、政治家の子ですわ」<br />「ああ、じゃあ戦勝祈願とか行くわね。というわけでお酒飲みながらお風呂入ろう」<br />「どういうわけか知りませんけれど……またですの?」<br />「またって?」<br />「……あ、いえ」<br />「なんだ、そんな楽しい事二人でしてたの? ずるいですわん」<br />「はいはい。でも貴女、お酒飲むと呂布になるじゃありませんの」<br />「たまに関羽にもなるらしいよ」<br />「豪傑にはなりますのね」<br />「んで。どだったのん」<br />「どう、とは?」<br /> 早紀絵がニタリと笑い、アリスに絡む。というか既に首筋を食んでいる。どんな早業か、早紀絵の手は何時の間にかアリスの懐に潜り込んでいた。<br />「あ、ちょ、ちょっと」<br />「流石にさ、一番はやっぱり杜花にあげなきゃって思ってさ。逸る気持ちを抑えて抑えてー」<br />「貴女って本当に、ダメな人ですわねえ」<br />「いけない、余裕で返されてしまった。もっとこう恥じらうかと思ったのだけれど」<br />「恥ずかしいですわよ、もう」<br /> 絡みつく早紀絵を退けて、服を直す。<br /> 幾らなんでも、いつ見られるかも解らない縁側で始める訳にもいかないだろう。<br />「……杜花様はその、あれが標準じゃありませんわよね?」<br />「あれが標準だったら、世の中の女性から異性愛者消えるんじゃないかな?」<br />「私その、初めてでしたのに。当時の事いまいち覚えてませんの。フワフワとしてて……」<br />「あるあ……あるある」<br />「あ、あんな所舐めたりするんですのね」<br />「そりゃまあ」<br />「あっちにも、入りますのね」<br />「ちょ、杜花処女に何したんだ……」<br />「え、いえ。そんな恥ずかしい……ただ、杜花様は『アリスって本当に何でも出来ちゃうんですね』とは」<br /> どうやら自分のされた事は、処女ではされない事らしい。当然比べる対象が無いので解りもしないが、幸せだったのは間違いない。<br />「……卑しい人間かしら、私たち」<br />「他にどう言われようと、いいさ。あの怪物抑えておくんだよ? タダで済むかね。気持ちが通じ合えば、とか、心が融合して、とか、そんな戯言聞いていられないよ」<br /> 早紀絵が溜息を吐く。<br /> 外の雪はとうとう本降りだ。まるで白い和菓子のように大きな塊が、地面に、生垣に積もって行く。<br /> 空を見上げる早紀絵の頬に、なんとなくキスをする。<br /> 早紀絵もそれに答えて、アリスの頬にキスをして、二人で笑う。早紀絵の細い指が重なり、絡む。<br /> 昼間二子とかわした会話を思い出す。<br /> 彼女のやろうとしている事は、魂の支配だ。此方が出来る事といえば、肉体的に繋ぎとめる他ない。<br /> いざ事態に直面して、アリスと早紀絵の二人でどうにかなるものだろうか。例えそれが不可思議なものでも、七星市子という尊敬される存在は、二人にとって強大なのだ。<br />「アリス、ちょっと寒い」<br />「じゃあ、本当にお風呂……もう」<br /> 早紀絵が寄りそう。撫でやすい位置に頭を置くのが、またいやらしい。アリスは彼女の望み通り、そのさらさらとした短い髪を撫でつける。<br />「二子さんは、撫子を知りませんでしたわ」<br />「――話したんだ。でも、そうか……じゃあやっぱり、二子は全部知ってるわけじゃないんだね。少し、可哀想な事したかな」<br />「態度が態度ですもの、当然の帰結ですわ。そして、御姉様の自殺動機も解ったと」<br />「なんて?」<br />「魂が、自殺した撫子と似すぎた結果、だそうですわ。彼女達にとって、魂とはデータ。どうしてそこまで御姉様……七星市子が撫子に近づいてしまったのかは、解りませんけれど」<br />「私達が探して、見つけたもの。それらは皆、撫子に関するものだった。市子は自分が何者なのか、知ってしまったんじゃないかな。他に何か言ってた?」<br />「自分は修正済みだと。会話は録音してますわ」<br />「すげえ、スパイみたい」<br />「打算的な自分が嫌になりますけれどね」<br /> 携帯を早紀絵に渡す。<br /> 彼女は眉を顰め、それに聞き入っていた。二子が市子を演じ始めるのは、準備が出来ると言っていた冬休み以降か。なるべくならそんな事を止めさせたいのだが、二子は聞く耳など無いだろう。<br />「シナリオは出来てる、か……アリス、七星一郎の立場に立って考えてみよう」<br />「あの変人奇人の類の脳味噌なんて、解る筈ありませんわよ」<br />「そうかな。頭は良いかもしれないけれど、純粋な人だと思うよ」<br />「よくそんな事が解りますわね」<br />「そしてなんか、子供っぽい。シナリオってさ、何のためのシナリオだろうね」<br />「二子さんが、市子御姉様を演じる為のもの?」<br />「もし今の話が本当なら、七星一郎の目的は達成されたようなものなんだよ」<br />「そう、か。利根河撫子の、復活」<br />「うん。クローン云々は解らないけれど、データとしては撫子を再現しきった故に、市子も自殺してしまったって言うんでしょう。で、そのデータは修正済みで、もう自殺してしまうような不具合……自殺しないよう改変してる訳だ。市子という素体の代わりに、二子を据えた。じゃあもうそれでいいじゃない。敢えてモリカを気にする必要なんて、ないさね?」<br /> 早紀絵は鋭い。その通りだ。<br /> 此方には何の確証も無いが、二子自身が悟って答えを出しているとするならば、もうほぼ決まったようなものである。<br /> 七星市子において、利根河撫子の再現は叶った。<br /> そしてデータは修正してあるので、もう自殺するような事はない。<br /> 七星一郎は、死んだはずの娘を、自分の手で再生したと言える。<br /> ではそれで終わりだ。<br /> 杜花を巻き込む必要がない。<br /> ともすると、だ。<br />「じゃあ……もう、出来たから、それは、良いんですのよ、きっと。その出来あがった撫子が、欅澤杜花を欲しているから、与えようと……そういう事じゃありませんの?」<br />「……過去を拾い上げる作業から、未来を作る作業に移ったって事か。本格的に、敵が七星一郎だよ、それ」<br />「勝てる気がしませんわね」<br />「ぶっちゃけて言うけど、二子だけが相手なら、私は最終手段として、モリカの退学を促すつもりだった。彼女はさ、別にあの学校中退だって、問題ない訳さ。私達が囲いこめば良い。私達の愛しい女王様として居てくれれば良い。モリカの感情はまた別でね?」<br />「それで済みそうもありませんわね」<br /> 七星の、まだ役職も無い小娘個人が相手だったのならば、もしかすれば希望も観えたかもしれないが、七星の当主が杜花を娘の嫁にしたいと言うならば、それは困った事態である。<br /> 彼に逆らうという事は、明日から日本では生きて行けない、という事だ。<br /> 満田家と天原家の権力をかき集めた所で、それは七星からみれば塵芥だ。<br /> 汚い話だが、どうしてもそうなってしまう。反抗しようと思ったところで、妄想するのが関の山なのだ。<br />「一郎氏、とても杜花様を気に入ってましたわよね」<br />「そりゃ、もしかすれば一郎より出来の良い市子が認めた相手だもん……」<br /> ――付け入る部分があるとすれば、それは恐らく唯一、二子自身の自我の葛藤のみだろう。<br /> 自分が何者なのか、二子との対話で疑念を抱かせる結果となった。そして彼女は、完全に自分を失う事について、まだ悩みがあると見える。<br /> アリスと早紀絵の二人で、そこから切り崩せないか。<br />「――なんて話聞いても、諦めようとも思わない私達って、なんか病気かもね。くふふっ」<br />「ああ、きっとお家に迷惑をかけてしまいますのね。天原家可哀想。ふふっ」<br />「ま、取り敢えず。お風呂入ってゆっくりして、また明日だね」<br />「元旦ほどは参拝客も来ないらしいですわ。そしてたぶん明日は」<br />「そっか。満田家天原家七星家、ご両親そろい踏みか……面と向かって一郎に話は、聞けないよなあ」<br />「無理無理ですわ。逆に触れない方が良いでしょう」<br />「そうかね。うん。話広げるのも良くないかな。よし、冷えたし、お風呂行く。アリスどうする?」<br />「じゃあ、ご一緒しますわ」<br />「えっへっへ。洗いっこしようねー、アリスちゃん」<br />「……幸せそうですわねえ、貴女」<br /> 早紀絵は頭の回転が速く、何かと頼りになる。加えて人間関係の不真面目ささえ眼をつむれば、なんだかんだと楽観的な彼女に、救われる事は多い。<br /> 市子や二子、それに杜花、アリスも含めて非凡だが、早紀絵も十分普通ではない。<br /> 皆、市子の為に用意された人々だ。そしてこれから、そのシナリオに反抗する。<br />「早紀絵」<br />「なあに?」<br />「私、杜花様にされてばかりでも癪なので、攻め方を教えてくださいな」<br />「ま、真顔で言う事かいそれ。ああ、清純可憐な乙女はどこへ」<br />「新しい事には学ぶ意欲が湧きますの」<br />「生真面目なこって。大歓迎だけどねー、えへへ」<br /> 情緒もへったくれもない、腐れ爛れた関係でもってして、杜花を引き止めるのだ。<br /> いまさら、恥も外聞も気にしてはいられない。<br /><br /><br /><br /> 話の通り、二日目は元旦ほどの入りはなかった。元旦が最盛期の土地柄という事もあるらしい。<br /> その日は裏方の手伝いをしただけで、社務所もアルバイトだけで十分回っていた。ただ厄払いの方は予約もある為、此方は花他派遣の神主で回す事になっている。<br /> あいも変わらず生真面目なアリスは、何か仕事はないかと杜子に問うた所、ハサミとゴミ袋を預けられた。<br />「思いの外ありませんわね」<br />「皆さんお行儀が宜しい事で」<br /> あれだけの出店と参拝客がいるのだ、もっとあるだろうと思っていたのだが、言われるほど多くはない。<br /> かれこれ一時間程歩き回っているものの、一向にゴミ袋は埋まらなかった。神社の裏手にまで回ってみても、やはりない。<br />「アリス、そう眼を皿にして探さなくても」<br />「普段やらない仕事というのは、どうしても力が入ってしまって。私、何か間違っています?」<br />「いいえ。私、アリスのそういう所、好きです」<br />「堅苦しいと思われたりしませんかしら」<br />「不真面目なサキと合わさって丁度じゃありませんか?」<br />「ワンセットですのね」<br />「あ、いや、そんな深い意味は……」<br />「解ってますわよ。あ、でもいいですわ、今の」<br />「はい?」<br />「杜花様がうろたえるの。嫌われたくないって、思ってくれているんですのよね」<br />「アリスは、昔から手ごわいですねえ」<br />「ふふ。じゃあ少しサボタージュしましょうか、杜花様」<br /> そういって、アリスは影に寄り、押しのけられた雪の塊を手に取る。<br />「うん? あ、雪像ですか」<br />「そうそう、あれは小等部の頃でしたっけ」<br /> 自分のする事はなるべく完成に近い形にしたいアリス、大体なんとなく形に見えればよい早紀絵、基本的な基準は全部市子に任せている杜花、そして意識しなくても完成に近い市子という、なんとも言い難い組み合わせのメンツだけに、いざ問題が発生すると、とにかくアリスはよく出張った。<br /> 小学生時分に誰も完璧など求めていないのだが、それでもアリスは気にするのである。<br /> 完璧主義と言うわけではなく、純粋にワガママなのだ。自分の納得したものでなければ、受け入れがたいとも言えた。<br /> 雪が少なくない土地柄、小等部には雪にまつわるイベントがある。<br /> 雪を用いて小等部が小さなオブジェを作り、中等部、高等部と交流を図るというものだ。<br /> 全員個人のものを作り終えてから、普段仲の良い者同士で大き目のオブジェを作ってみようという話になった。一人だけ小等部六年の市子を加えた四人が、あれこれとモチーフを持ち寄って、結局杜花の案が採用される。<br /> 杜花の案はくまのぬいぐるみだ。<br /> 四人で分けて部位ごと作ったのだが、どうもバランスが悪い。<br /> 形さえ出来てれば、年長のお姉さま方も笑ってくれるよ、と早紀絵。<br /> 自分の仕事には絶対に自信のある市子。<br /> 市子を真似たお陰でそれと違わぬ出来の杜花。<br /> 無難も無難、確かに間違ってはいないのだが、どうも納得出来ないアリス。<br /> 大して怒る事もない話なのだが、その時アリスはほとほと担任教員が手を煩わせるまでぐずったのだ。<br />「あの時、なんであんなに怒ったんですか」<br /> 杜花が器用にくまの頭を作る。本当に、何でも卒なくこなす人物だ。<br />「市子御姉様と同じ事をする杜花様に、腹が立ったんだと思いますわ。みんな器用に作っていた。小学生にしては、出来すぎな程に、良く出来ていた。でも、納得いかなかったんですわ」<br />「名指ししませんでしたね」<br />「貴女の名前を口に出すのも悔しかったんですの。当時はまだ、杜花様が私達に加わって、間もない頃でしたし。貴女の出来が悪ければ、馬鹿にもしたでしょう。傲慢な子でしたもの、私は。でも、杜花様は何でも簡単にしてしまう」<br />「それについては、覚えがありますね。格闘技をしていても、なんで三日練習したぐらいで、そんなに上手くなれるんだって。でも努力してない訳じゃない。基礎的なものは、それこそ花お婆様にぶん投げられて、ぶん殴られて、入院するまで扱かれて、身につけたものですから。最初から、強い人間なんていない」<br />「勿論そうでしょう。でも勘が良いんですわよ。こればかりは才能ですわ。持たざる者からすれば、理不尽以外の何ものでも、ない」<br /> くまの胴体を作る。杜花の造った頭と合わせて、一メートル程の雪山の上に鎮座させる。<br />「アリス?」<br />「比べて比べて、探して探して、知る度に、貴女と市子御姉様、そして私にどれだけの差があるのか、良く解りましたわ。市子御姉様は、到底追いつけるものではなかった。でも貴女は違った。確かに遠い。けれども、まだ尊敬から恋心が芽生えるぐらいの距離だった」<br />「アリスからみると、市子御姉様は……」<br />「――杜花様、私は、神を失ったんですのよ。信仰すべき、神様を」<br />「……半身だなんて、おこがましい話でしたね」<br />「困りますもの。杜花様まで完璧では。それでは、手が届かない。そうでしょう、杜花様」<br /> 杜花の、紅くなった手に、自らの手を重ねる。<br /> 雪に触れていた所為で、互いにひんやりと冷たい。両の手を合わせて、杜花の手を胸に抱く。<br /> 杜花は手に届く範囲にいる。<br /> 崇高で、高尚で、高嶺どころか天に生えていて、とてもではないが人間の手にも眼にも触れないような、市子ではない。<br /> 杜花と眼が合う。<br /> 今日で何回目だろうか。ここにきて何回目だろうか。巫女装束を着た人間がやるような事ではないと、理解していると尚、その後ろめたさが心地良い。<br />「……本当にキス魔ですね、アリスは」<br />「お嫌い?」<br />「……いいえ。許してくれるならば、もっと悪い事を、してみたいです」<br /> 順調だ。<br /> それで良い。<br /> アリスも杜花も、自覚の中に居る。少しでも距離を縮め、少しでも離れられない依存が必要なのだ。<br /> 求められるならば、どんな事でもしたい。<br /> 杜花が欲するならば、その全てを与えたい。<br /> その代わり、ずっと見ていてい欲しいのだ。<br />「――あっ」<br /> 杜花を抱きしめていると、視線の遠くの木陰で、何かが動いたのが観えた。昼のまだ明るい時間、顔は見えずとも、その配色で誰だかがすぐ判別出来る。<br />(ああ……謀らずしも、再現、かな)<br /> 状況こそ違うものの、これではまるで幻華庭園そのものだ。<br /> そこに居たのは、二子だ。此方に気が付いてはいないのか、木の陰でジッと状況を見守っている。<br />「アリス、どうしました」<br />「何も……。戻りましょっか。冷えましたわ」<br /> 二子に流し眼を残して、背を向ける。<br /> 自分の事、杜花の事、早紀絵の事で頭がいっぱいだったが、いざ二子の立場を考えると、どうだろうか。その心中は複雑としか言いようがないだろう。<br /> 最愛の姉が亡くなり、姉の代わりになれと言われ、強制的に転校、そして姉が愛した妹に接して、過去を穿り返し、知りに知り、いつの間にか、妹に恋心を抱いていた。<br /> しかしそれが本当に二子の感情なのか、市子の記憶から来るものなのか、もしかすれば断定出来ていないのかもしれない。<br /> 挙句ここに来て、市子とはつまり撫子という、観た事もない姉の再現であったなどと知らされては、穏やかでいろ、という事の方が難しい。<br /> だが、可哀想だからと、杜花をやるつもりなど毛頭ない。<br /> アリスは知っているのだ。<br /> 敗者がどれだけ惨めか。<br /> それが例え、自ら端を発したもので無いとしても、社会的に負けと観られてしまったら、おしまいなのである。挽回するには努力が必要であるし、天運すら味方につけなければいけない。<br /> 世の中は平等になど、出来てはいないのだ。<br /> 理不尽と向き合わねばならない。二子はその要素が、多いか、少ないか。<br />「杜花様。今日はお餅何個食べましたの?」<br />「十個だっけ……」<br />「え、何それこわい……うげ」<br /> ……、だがどうやら、この二子という人物は、櫟ほど大人しい人物ではないらしい。<br /> 後ろから押され、思わずつんのめる。<br />「あぶなっっととと、二子さん?」<br />「昼間っから、巫女さんの恰好して、いちゃいちゃと、アンタ達はもう!」<br />「二子。危ないでしょう。謝ってください」<br />「はい。アリスお姉さんごめんなさい。良い?」<br />「ぐぬっ……可愛くありませんわね」<br />「杜花、アリスとくっつきすぎ。私ともくっつきなさい」<br />「くっつく、というより、ぶら下がる?」<br />「も、もう少ししたら、姉様ぐらい大きくなるから。きっとその頃には、誰も見分けなんかつかないんだもの」<br />「泣き黒子の位置、御姉様と逆なんですね」<br />「うわ、アリス聞いた? 杜花ったら姉様観察しすぎ」<br />「そら舐めましたし吸いましたし」<br />「あーあー。子供にそういう話聞かせないで。あ、くっつくっていっても、そ、そういうのダメだから!」<br />「子供に手を出したりしませんよ……犯罪者じゃないんだから」<br /> このような姿を見ていると……もしかすれば大丈夫なんじゃないかと、思えてくるのが恐ろしい。<br /> 本当に、二子がこのような調子でいつも居たならば、いがみ合いながらも、毎日仲良くやれた事だろう。<br /> この子は、この子自身はどうするつもりなのだろうか。<br /> そして、本当に真に迫る程に『市子』だった場合……心配するべきは、杜花だけだろうか?<br /> 己はどうだ? 神を失った憐れな信者ではないか。<br />「ああ、お母様」<br /> 薄暗い思考を回復させ、杜花の声にハッとする。遠くに見えるのは、杜子だ。<br />「三人とも、お母様がお呼びですよ。冷えたでしょうから、母屋に入ってください」<br /> どうやら『後』がやって来たらしい。二子は小首をかしげている。<br /> 母屋に上がり、花の部屋に赴くと、座卓には花と向かい合う男性が一人いた。<br /> テレビや電話でしかその顔を知らない、現日本国王、七星一郎である。<br />「一郎お父様?」<br />「やあ二子。明けましておめでとう。仲良くやってるみたいで良かった。杜花君、アリス君も、おめでとう」<br /> 正座し、頭を垂れる。花の前である事もそうだが、そうせざるを得ないような、空気があった。<br /> 七星一郎は、今年で七十七。<br /> 普通ならばとうの昔に引退していて然るべき人物だが、その容姿はどうみても三十代後半である。<br /> 髪は黒々しく、顔にもシワ一つない。<br /> 背筋はまっすぐに伸び、外国製であろう高級スーツが、厭味な程にマッチしていた。<br /> 早紀絵の話では、全身どころか内臓までバイオアンチエイジングしているらしく、七十代と言われて信じる人間はいないだろう。恐らく、彼は死ぬつもりなど毛頭ないのだ。<br />「杜花、アリス、二子。座りな」<br />「はい」<br /> 一郎の後に敷かれた座布団に三人が腰かける。早紀絵はどこへ行ったのだろうと、花に目配せすると、頭を振られてしまった。もしかしたら、他の巫女さんにちょっかいを出している最中なのかもしれない。<br />「それで、一郎。なんて話だったっけね」<br />「真でいいよ、花さん」<br />「はあ。なんだってまあ、出会ったころより若返ってないかい、アンタ」<br />「死ぬつもりが無いものでね。僕はまだ仕事があるんだ」<br />「日本の潤滑油、御苦労なこった」<br /> 花がやれやれ、といった調子で溜息を吐く。<br /> 真、つまり本名の時代からの付き合いなのだろう。するとタイミングはいつか。撫子の死後だろうか。<br />「お婆様。一郎氏とは」<br />「いいのかい、これ」<br />「いいさ。ずいぶんと昔の話だからね」<br />「パトロンだ。撫子繋がりでね、もっと手広くやってみたらどうかって話でさ、コイツに色々出して貰ったんだよ。お前達、喋るんじゃないよ」<br />「ええ、勿論」<br /> なるほど、と心の中で頷く。<br /> 欅澤神社は、道場の他に欅町でエクササイズやダイエット、健康食事法指南なども経営している。<br /> かなり小規模で、杜子の他にインストラクターが一人、二人いる程度だが、それでも元手となるものは必要だっただろう。<br />「もっと大きなものにすれば良いのに、花さんは欲が無くてね」<br />「お前だろう、最近ウチの賽銭箱に硬貨詰め込んだりしたの。全部募金したよ」<br />「だろうと思った。まあそれは良いよ。で、杜花君の事だけれど」<br />「ああ。三分割しろって言った所だよ」<br />「三分割? そうかあ。杜花君程だからね、妾が何人いても、そりゃあ構わないさ。でもなあ、やっぱり親としては、二子を正妻にしてほしいんだよねえ。天原君と満田君には僕が掛け合うよ」<br />「本人達に任せたら良いだろう、そんなもの。お前、娘何人もいるだろう」<br />「さて何人いたかな……十……五十……百だったかな? しかしその中でもね、やはり市子、それに二子は特別なんだよ。聞いてくれるかい、花さん」<br /> ……この人物が何を言っているのか、アリスはいまいち、良く解らなかった。<br /> 娘、と呼ばれたら普通一人二人だ。<br /> 十やら五十なんて数が、出てくるわけもない。単位としておかしい。<br />(二子さん、御兄弟、どのくらいいますの)<br />(把握してるだけで数十かな。何せお父様、お妾さん、凄い数いるし。ちなみに、全部女性)<br />(頭がくらくらしますわ)<br />「……話? 何があるんだい」<br />「出来たんだよ。とうとう。再現可能だったんだ。人間を、データとして復活させた。花さん。いや、花。君は、あれほど悲しんでいただろう。あれほど嘆いていただろう。僕も悲しかった。あの子が自殺して、妻が自殺して、もうどうすればいいのか解らなかった。だから我武者羅に頑張ったよ。敵をなぎ倒して、ライバルを蹴落として、七星に尽くし続けた。実力を必ず評価する、素晴らしい企業体だよ、七星は。そして僕は、とうとうやりのけたんだ」<br /> 花の、顔面が蒼白となる。口が半開きになり、目は見開いて一郎から離れない。<br /> その反応も当然だ。<br />「……馬鹿を、言わないで。真、貴方……」<br />「ああ、懐かしい口調だ。今の杜花君のようだ。そうだね、君が思わずあの頃に戻ってしまうような衝撃が、あるかもしれないね。でも本当さ。撫子は、蘇るんだ、花」<br /> 七星一郎は、尊大に、そして感傷的に、韻を踏んで語る。花は頭を抱えた。<br /> 日本国王がやってきて、死んだ娘が、お前の愛した姉が蘇ったのだと語られたら、一体誰がまともな反応を出来るだろうか。<br />「……真、じゃあ、その、二子は」<br />「二子は間違いなく、普通の子だよ。君達が思っているかもしれない、クローンなんてものじゃない。肉体は思いの外程度の低いものなんだよ。遺伝子さえあれば出来てしまう。それは違うんだ。そんなものを人間とは呼ばない。人間とは、オリジナルの肉体と、構成される高度な記憶によって成り立つんだ。今はまだ、もう少しだけ時間がかかる。完全に戻った暁には、是非花にも見て欲しい」<br />「……頼みます……お願いだから……真、出て、いってくれますか……」<br />「……そうだね。いきなりだった。ごめんよ。逸る気持ちがあったんだ。今日はあえて良かったよ、花」<br />「……――そんな……まさか……」<br />「二子」<br />「は、はい。一郎お父様」<br />「帰りは何時だい?」<br />「あ、明日の午後には、帰ります。大丈夫でしょうか」<br />「うん。姉妹達も呼んである。みんなの前で新年の挨拶、出来るかな?」<br />「出来ます。お父様」<br />「よかった。じゃあ、僕はお暇するよ。正月から忙しい身で申し訳ない。ああ、そうだ、杜花君」<br />「――はい」<br />「最初は戸惑うかもしれない。でも大丈夫だ。彼女は間違いなく撫子であるし、そして市子なんだ。君達祖母と孫、まさかこんな形になるとは思いもよらなかったけれども、僕は、欅澤の女性達に、なんとか恩返しが出来る。君のおかげさ。ありがとう」<br /> そういって、七星一郎は部屋を後にし、その後ろを二子が付いて行った。<br /> 杜花が花に寄り添い、その肩を抱く。<br /> アリスは一度頭を振り、一郎の残す余韻から脱却を試みる。<br /> 恐ろしい人物だ。<br /> ハッキリとした口調、明確な言葉、正確な反応、相手に聞かせる語りは、いざ面と向かって話した場合、アリスでは対処しきれず、呑みこまれるだろう。<br /> たったこれだけの時間で、何故彼が七星一郎なのか、その片鱗を味わう事になった。<br /> そして問題はその語る内容である。<br /> 殊この問題において、七星一郎は答えそのものといえる。<br />「うわ、今の七星一郎?」<br />「あ、早紀絵。遅いですわ」<br /> 入れ替わりで早紀絵がやってくる。<br /> 花の様子を見て、一応空気を呼んだのか、大人しくアリスの隣に腰かける。<br />(一体何があったの)<br />(たぶん、事の顛末が聞けますわ。だから、静かに)<br />(う、うん)<br />「お婆様、大丈夫ですか」<br />「……とんでもない男に引っかかったもんだよ、本当にさ」<br /> 花は杜花を退けると、お茶を一気に飲み干しだ。アリスとしては、掛ける言葉も見当たらない。<br /> しかし下世話な直観はあった。<br /> おそらく花と一郎、いや、真は、浅からぬ関係だったのだろう。<br /> 出会ったのが撫子の死後だとすると、殆ど杜花の祖父と花が一緒になった時期と被ってしまう。大きな声では言えないのだ。<br />「……利根河撫子、大聖寺誉、欅澤花、組岡きさら。三十年以上前の、所謂学院の『人気者』だ。私は、心の底から、撫子が好きだった。必ず一緒になるものだと、信じて疑わなかったよ。けれどさ、私は気が多かった。誉も、きさらも、好きだった。どうにか、ずっと皆で一緒に居られないかと……全く、頭の中が花畑で出来ていたとしか思えないような事を、良く考えていた」<br /> 疲れた顔のまま、花がとつとつと語りだす。<br /> その昔学院にあった、一つのグループの末路だ。<br />「姉妹制度なんてものを作ったのも、撫子だった。少女趣味でね、けれどそれを瀟洒にやってのけるだけの才能があったし、あの子には不思議な力があった。とにかく憧れていた。どうにもならないほどに。当時は今みたいに、同性同士が結婚出来る訳でも、子供が作れる訳でもない。非生産的であるし、社会的な認知度も低い。断然風当たりの強い時代だったけれども、愛さえあれば、なんとでもなると、私もあの子も、いや、みんな考えていたんだと、思う」<br />「本当に、私達は、まるでお婆様のコピーなんですね」<br />「杜花からの話を耳にするたびに、当時の記憶がよみがえった。お前を学院にいれると決めた時も、真っ先に一郎が声をかけてきた。そして時間が経って、この通りさね。でも、まさかお前達まで同じような道を辿るまいと、そう思っていた。むしろ、喜ぶべきだよ、杜花。お前は、姉以外何も失っていないのだから」<br />「……」<br />「事件の当日は、丁度これから昼休みという頃だった。突然一団が入ってきて、生徒達を三つの教室に詰め込んだ。そこで確か、見せしめに二人が殺された。銃声に悲鳴に怒号。この世の終わりかと思ったよ。綺麗どころが選ばれて、目の前で輪姦された。意味不明な主張に、カタコトの日本語も混じって、それがテロリストだと、漸く自覚した。長い間閉じ込められて、やがてテロリストが慌ただしくなった。警察隊が突入してくるっていうんだ。見せしめに一人殺すと、奴らは撫子に小銃を向けた。私は、後先考えず、そいつを殺して、教室の外に出た。それがいけなかったんだ。一緒についていっていれば、下手な所に逃げ込まず、逃げれたのかもしれないのに。もう一人殺すのに手間取ってね、あとは、あの通りだ。今でも思い出す。当時は、生徒会活動棟だったかな。あんな所に逃げ込んだもんだから、パニックになって。追いかけて来た一人が、誉を撃った。錯乱する撫子を蹴飛ばして、逃げるように指示して、私はそいつも殺した。未だに、その感覚が手に残っている。そのあと、私が危険だっていうんで、追い回されて、隠れて、あの子達が無事である事だけを、祈って……祈って……」<br />「お婆様、もう」<br />「ダメだ。もう二度と、語らないんだ。ここで喋らずいつ喋る。私はあの子達を救えなかった。だから、お前は、杜花、お前は救わなきゃいけない。お前の愛しい人全員を守らなきゃいけない。全部ぶっ飛ばしてやれるほど、強くなきゃいけない。杜花、お前は、強くなった。少し、おかしなほど、強い。褒めてやらず、悪かった。お前ならきっと、お前の愛しい人達を、救えるね。私みたいに手間取らず、どんな手段を使ってでも、守ってあげられるね……」<br /> 不意に、アリスの瞳から涙がこぼれる。<br /> 花はもう、杜花なしでは座っている事も出来ない程、当時を思い返し、涙を流していた。<br /> 最愛のヒトの死。<br /> 最愛の姉妹の死。<br /> 更には、助かった筈の親友にまで自殺されてしまい、たった一人取り残された彼女の悲しみをどのように例えれば良いのだろうか。<br /> ずっと喋らず抱え込んできたのだろう。<br /> どれだけ心を歪めてしまっただろう。<br /> もし、アリスが、杜花と早紀絵、一時に失えば、恐らく生きてはいない。<br /> そんな責め苦に、耐えられる訳がない。<br /> しかしこの人は耐えたのだ。<br /> 耐えて、子を残して、時代を作り続けて来たのだ。アリスは敬意を払わずには居られなかった。<br />「お婆様のお陰で、私は杜花様に出会えましたわ。貴女のようなヒトがいるからこそ、きっと今の強い女性がいるんですわよ」<br />「そうだよ。花婆ちゃんみたいなヒト、私好きだよ?」<br />「そうだったら、いいね。私自身が無駄でなかったと、杜花の苦労が無駄でなかったと、そう証明出来るのなら、それほど幸福な事はないよ。だから、アリス、早紀絵、杜花。どんな形だって良い。お前達には、どうしても、幸せになってもらいたいんだ……幸せに……」<br />「お婆様。少し、休みましょう。厄払い、お爺様に言っておきますから、今は」<br />「……ああ」<br />「あ、ごめん、二つだけ、花婆ちゃん!」<br /> 黙り込んでいた早紀絵が声を上げる。<br /> 花を休ませたいのは山々だが、此方には知っておかねばならない事がある。<br />「――良い。言いな」<br />「一つは、幻華庭園について。これ、作者は?」<br />「……ペンネームがもじってあるだろう。撫子だよ」<br />「じゃあなんで……あんな終わり方なの?」<br />「私も、成人してから知ったんだ。いや、一郎に知らされた。この通りなのかと、聞かれた。大体そうだと、答えたよ。たぶん、躑躅と園、私と誉、執筆当時は選べなかったというのが、本音なんだと思った」<br />「解った。じゃあ、もうひとつ。櫟の君と書かれた、この鍵について、何か知らない?」<br /> そういって、早紀絵は懐から『あの鍵』を取り出す。<br /> 花が知らねば、この鍵の用途は完全に不明だ。<br /> 杜花に肩を支えられていた花は、その鍵を手にし、眼を見開き、顔を驚愕の色に染める。<br />「どこで」<br />「市子が持っていたらしい。二子から渡されたの」<br />「……幻華庭園に、宝探しの話が、あるだろう。現実にも、それをやっている。話と同じく、最後の一つは見つからなかった。その最後の一つを開く為の、鍵だった筈だよ」<br />「花婆ちゃんも、知らないんだね」<br />「結局何を隠したのか、解らない。幻華庭園と同じ結果だ。あれほど仲が悪くなった訳ではないが、皆に不満は残ってしまった。撫子も結局、何がしたかったのか……」<br />「ごめん。有難う」<br /> 花が杜花に連れられ、襖の奥に消えて行く。<br /> アリスは聞こえないように溜息を吐き、隣に座る早紀絵の袖を引く。<br />「酷い話が、あったものですわね」<br />「親子飛んで二代か」<br />「一郎氏の語り口は、明らかに、善意のつもりだったのでしょうね」<br />「性質が悪い」<br /> やがて、杜花が戻る。離れに戻ろうという事になり、一同揃って離れへと向かう。<br /> 外を覗くと、相変わらず参拝客は数いる。和室の幾つかでは、会計などに追われたアルバイト達が計算機を唸らせていた。<br /> 本来ならば手伝ってあげたいのだが、どうにもこうにも、今はそれどころではない。<br /> 離れに戻ると、座卓では二子が一人でお茶を飲んでいる。その視線をまっすぐ、杜花に向けた。<br />「聞いたら、話してくれたわ。一郎お父様」<br />「そうですか。確かに、聞けば答えそうな人ですね」<br />「うん。結局、私も姉様も、貴女と花の為に居たみたい。ねえ、杜花」<br />「なんですか」<br />「早紀絵とアリス、好きよね」<br />「――ええ、勿論」<br />「……どうしても、もう、『市子』には、戻らない?」<br />「彼女はもういません」<br />「解った。同意はしないけれどね。多少いちゃつくぐらいなら、許しましょ。そのぐらい心を広く持たないと」<br />「ふン。何様だよ、本当に……」<br /> 悪態を吐こうとした早紀絵を、アリスが制する。<br /> 二子は……頭を抱えていた。<br /> やがて、嗚咽が漏れる。予想していた通り、彼女自身も、どうしたらよいのか解らないのだろう。<br /> 何もかも、無茶苦茶なのだ。<br /> 過去から続く因果と、パズルピースを自作して組みたてる七星一郎。<br /> 自殺した撫子と、撫子を再現しようとして自殺した市子、更に、その役割を与えられた、二子。<br /> 魂は、データという形で復元されたという。<br /> では、二子自身の魂は何処へ行くのか。他の者ではダメだったのか。<br /> ヒトとは、何処から来て何処へ向かう存在で、何が良くて何が悪いのか、そんなものを保障する者は誰もいないのだと、二子そのものが表現していた。<br /> 葛藤しない方がおかしいのだ。悩まない人間など、それこそヒトではない。<br /> ヒトは己の価値を保障する何かを求めて、死ぬまで歩み続ける他ないというのに、彼女に課せられたものは、前提として自己の否定なのである。<br />「私は、姉様が好きだった。数多といる姉妹の中、市子姉様は燦然と輝く星に他ならなかった。そんな姉に死なれて、悲しくない訳がない。自殺した原因は、きっと姉様に良く聞かされていた、貴女達にあるのだと、そう信じ切っていたの。なのに、お父様は、私に市子の代わりになれと言った。姉様を追いやった奴らの中に混ざりたくなんかない。ぐずってぐずって、一年も引き延ばした」<br />「やっぱり、警戒されてたんですのね、私達」<br />「するわよ。何もない筈の姉が自殺したら、疑うでしょう、人間関係を。でも、結局抵抗しても意味は無くて、本家に呼ばれて、姉様の部屋を割り当てられた。掃除をしていたらね、杜花にも見せた、手紙の在り処の暗号と……私宛の、手紙があった。内容は短いものだったわ。『恐らく二子でしょう。もし他のヒトが見つけても、見ない振りをしてください。学校に、私の本能と理性を隠してきました。みんなで探してください』って。姉様が結晶を隠した事は知っていたわ。バックアップデータもあるから、そこまで重要視していなかったけれど、お父様は気にしていた。とはいえ、七星がいきなり入って行って、学校中を荒らす訳にもいかない。取引先のお嬢様方だって沢山いたしね」<br />「……二子は、一番最初に、学院で不思議な事は起きていないかと、そう聞きましたね」<br />「うん。お父様が懸念していたのは、そこ。ご存じの通り、私にも、姉様にも、力がある。これは、人為的ではあるけれど、先天的であり、発生は後天的なものなの。私も姉様も、脳を弄られてる。説明すると面倒なんだけどね。なんでそんな事されるのか、解らなかったけれど、撫子の話を聞いて、理解したわ。撫子になるには、どうしても、彼女の持っていた超能力を再現する必要があったんでしょうね。故に、酷似しすぎたとも、言える。そして、脳のデータを全てマッピングして記録する『結晶』に、その力が宿ってしまっていると、考えられた。学院から、黒い影が市子姉様に似ているって事は、事前に聞かされていたから」<br />「なるほど。だから、結晶の傍では何が起こるか解らないと、そう言っていたんですね」<br />「これだけの事、私も不確定なのに、全部説明出来る訳もなかったし、混乱を招くのは嫌だったから、喋らなかったわ。そして、貴女達を疑った事。それについては、謝罪する。ごめんね、三人とも」<br /> あの二子が……三つ指をついて、土下座する。<br /> どう対応して良いか解らず、アリスは杜花に視線を向けた。<br /> 杜花はそれに気が付くと、小さく頷いて、二子に寄り添う。ずるいとは思うが、適材適所だ。<br />「らしくありません。二子」<br />「どうあれ、黙っていたのは本当だもの……。ともかく、結晶は全部集まった。更に言えば、私達の関係は、劣悪になったと、言って過言じゃない。姉様が何を考えていたのか、今の私には解らない。でも、これだけは言える。一度段階的に人格データを私に移して、試運転したから。姉様は、どうにもならない程、杜花が好きなの。早紀絵と、アリスと、仲良くしている姿を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。独占欲が、異常に強いのよ。私の比じゃない。もうこれは、病気だわ。精神疾患よ。依存以外の何ものでもない。杜花が傍に居ないと、頭がおかしくなりそうになる。けど、私は、でも、姉様が好きだから、姉様の意思をくみ取りたい、姉様を生き返らせたい」<br />「……七星一郎の悲願だろうさ。だけど、それじゃあ二子はどうするんだ。二子自身は、どこに行くのさ。私達はさ、別段と貴女自体を嫌いな訳じゃないのよ。苦手だけどさ。義理の妹ってんなら、相応に付き合っただろうさ。貴女自身が失われて、それで良いの? もし人格二つ入れるとしても、人格データは競合しないの?」<br /> 早紀絵が前に出る。二子は早紀絵に向き直り、疲れたような笑みを向ける。<br /> その表情をどう読み解けば良いだろうか。諦めにも似ていた。<br />「競合する。ボーダーみたくなるでしょうね。だから、私は全部明け渡す。一郎お父様の悲願と、姉様の希望。その二つを託されて、否定出来る人間はきっと、家族ではないわ」<br />「で、でも、それじゃあ」<br />「何。心配してくれてるの。それが解ってたのなら、もっと躊躇ったかもしれないわね、早紀絵。でももう良いの。全部終わってるから。この話は、終わりにしましょう。もし謎があるなら、目覚めた姉様にでも聞けば良い。聞ければの話だけれど。ああ、なんか、喋ったらお腹空いちゃった。ねえ、杜花、お願いがあるのだけれど」<br />「――聞きましょう」<br />「明日までで良い。二子と仲良くして。形だけでも良いから。本当に、それだけで良いから」<br /> 二子はそういって、杜花の袖に縋る。<br /> その目は、明らかに悔いていた。行動もまた、それに伴うものだろう。<br /> そんなにも悩むならば、最初からしなければ良い。<br /> 否定すれば良い。<br /> しかし、きっと彼女の決意が揺らぐ事はないのだろう。ましてアリスや早紀絵の言葉を受けて、彼女の気持ちが動く筈もない。<br />「じゃ、暫く二子にモリカ預けよっか」<br />「早紀絵、良いんですの?」<br />「大丈夫。負けてない負けてない」<br />「……杜花様は?」<br />「解りました。でも頭を覗かないでくださいね、二子」<br />「し、しない。しない。誓うわ」<br />「では、外に何か、食べに行きましょうか。サキとアリスはー……」<br />「適当にしてるよ。いってらっさい」<br />「ええ。解りましたわ。どうぞご自由に」<br />「……いきなり優しくなると、なんか怖いわね。ま、いっか。杜花、行こ」<br /> 何か、上手く蚊帳の外に追い出されてしまったような気がしてならないが、あの眼差しを否定する事によって生まれるであろう罪悪感に比べれば、大した事は無いだろう。<br /> 杜花と二子は手早く着替えて、外へと出て行ってしまった。<br /> なんだか気力が切れてしまい、アリスは畳にだらしなく寝そべる。その横に早紀絵が並んだ。<br />「たれアリス」<br />「大昔にそんなキャラが居たような……はあ」<br />「おっきな溜息。ま、気持ちも解るけど。いいじゃん。モリカは大丈夫だよ」<br />「根拠の無い自信ですわね……。あーあ。なんなんでしょ、まったく。ヒトを愛するのって、こんなに大変ですの?」<br />「あんまりにも特殊なヒト好きになった所為でしょ。いやね、ほら、私って結構付き合いがあるでしょう?」<br />「十三人でしたっけ」<br />「十五。まあその中には『他の子と一緒に居ないでください』って子もいるわけ」<br />「そっちが普通ですわよ、世間一般的に考えて」<br />「さあて。一般なんてものが何なのか私には解らないけど。まあともかく、そういう子は居る訳だ。でも私としては困る。なんでそんなに独占したいのかと聞けば、言葉を濁すばかりさ。論理的なものは、ないんだわね」<br />「恋心に論理を求める人って」<br />「まあそうかも。その子がさ、私を好いてくれるのは良い。私の容姿でも、テクニックでも、財産でも、構わないよ。統合して私だから。どれを主張されても、私は恥知らずだなんて思わない。でもその子は答えてくれなかった。離したくない、他の子と一緒にいるのはムカツク。感情論と言われればそれまでだけど、私には歪に思えて仕方が無い。だからさ、その子にはこう言ったの。『君も他の子達と楽しめば良いのに、どうしてそんなに価値を狭めるのか』と。そしてらその子は、『他の事はどうでもいい。私だけ見て、私だけ幸せにしてほしい』って言うんだ。アリスはどうしてか解る?」<br />「感情に理屈なんて。そのヒトの一番じゃなきゃ、嫌なんですわよ」<br />「違うんだよ。その子は『私と一緒にいるのが、貴女にとって一番の幸せだから』って言うんだ。自己の価値観を相手の幸福に重ね合わせて、肯定してるんだよ。びっくりしちゃってさ。そんな考え方存在するんだなあって」<br />「……それが、二子さんと何か関係がありますの?」<br />「むしろ市子だね。市子と杜花の場合、共依存度は冗談ではない深度さ。互いに『私と一緒にいるのが、貴女にとって一番の幸せ』だと思っていたでしょう。だからさ、敵は二子じゃないんだよ。どうあがいても、市子であるし、モリカなんだ。素の二子とモリカが一緒に居た所で、大した問題はないよ」<br /> 独りよがりな自己肯定は、互いに共有してしまった場合、抜け出せるものでは無くなってしまう。<br /> それを恋の成就と言うならば幸福にも聞こえるが、その実この世で最も排他的で唾棄すべき思想である。驚くほど周りが見えなくなり、周りが被る被害すら目を瞑ってしまう。<br /> アリスと早紀絵は、実質的な被害者なのだ。<br />「それで早紀絵、その子とは?」<br />「……一年くらい前だっけ。飽きるほど付き合ったら、むしろ向こうが距離置くようになったよ」<br />「な、何しましたの?」<br />「好きで欲しくてたまらないというし、敏感な子だったから、毎日三十回くらいイかせ……ぐべっ」<br />「本当に碌でもないヒトですわねえ」<br /> 早紀絵の頭を叩きつけると、彼女は小さく笑う。<br /> 早紀絵の例は何とかなった様子だが、市子と杜花の場合、心も身体も共有しているものであった。アリスと早紀絵は、入り込む隙間すら無かったのだ。<br /> しかし杜花には改善がみられる。<br /> そして例え二子が市子を演じた所で、それは仮初に他ならない。<br /> 七星一郎一押しの最新技術でもってしても、人間の復活など容易に信じられる訳がない。<br /> 杜花の心中をどう察するべきか。<br /> アリスと早紀絵が出来る、最大限の努力とは何か。冬休み明けが、まだまだ不安だ。<br />「結晶隠し。宝探しの事だけど」<br />「はい」<br />「たぶん、市子は蘇る事前提で、私達の仲違いを狙ったんじゃないかな。幻華庭園も、花婆ちゃん達も、失敗してるものだし」<br />「自分の居ない間……杜花様が、私達に取られないように?」<br />「市子は、私も、アリスも、杜花が好きだって知ってた。足の引っ張り合いをすれば良いと狙ったのかもね」<br />「市子御姉様の、過去知る中でもっとも汚い話ですわね、それ。自分が死ぬのを覚って、なおかつ、蘇る手段を知っていた」<br />「まあ、私は市子が気に入らないから、そういうバイアスがかかっているけれど。私達を警戒したのは、間違いないんじゃないかな」<br /> 早紀絵の意見は、納得出来る部分がある。市子の依存性を考えれば十分あり得るだろう。<br /> だが、アリスとしてはどうも、しっくり来ないのだ。<br /> 彼女の杜花への想いは疑うべくもないし、それによってアリスと早紀絵が被ったものは無視出来ないものの、そこまでわざとらしくする必要があっただろうか。<br /> 彼女は自信家だ。<br /> もし蘇る事が解っていたとするならば、杜花を信じていたであろうし、もし誰に寝とられていようと、必ず奪い返しに来るだろう。<br /> 彼女は思っていても口にはしなかっただろうが、杜花以外、十把一絡げ的な存在でしかない。<br /> アリスも早紀絵も、警戒こそしただろうが、敵ではないと思っていたのではないか?<br />「幻華庭園でも、花婆ちゃんの宝探しでも、みつからなかった最後の一つ。もしかしたら、市子も用意してるかも」<br />「憶測でしかありませんけれど、流れを考えるに、二子さんから私達に、渡す予定はあったのでしょう。彼女が用途を知らずとも」<br />「休み明けたら、探しに行こう。ヒントがあるかもしれないし」<br />「……そうですわね。何があるか……解りませんけれど」<br /> 市子が最後に隠したものとは何なのか。<br /> 彼女が予定していたのは、どこまでのシナリオなのだろうか。<br /> 二子の企みが観えない限り、もしかすれば、答えの出ないものなのではなかろうか。<br /> 起き上がり、座卓の前に座る。<br /> お呼びがかからないという事は、人員は足りているのだろう。座卓の下に手を伸ばして、一升瓶をひったくる。様々考える事はあるものの、正月は正月だ。<br />「早紀絵、暇だし、呑みますわよ」<br />「わあ、昼酒。怠惰な人間にだけ与えられた最後の至宝だあね。つきあうー」<br />「次は何になるかしら」<br />「本多忠勝とかじゃないかな」<br />「豪傑にはなりますのね」<br /> お酒を呑むと、気が大きくなる。世の中の悩みが全て矮小化してしまう。<br /> この年で、色恋に熱を上げて、必死に取られまいと振る舞う様の虚しさや滑稽さを気にする事の、なんと小さい事か。<br /> 好きなものを好きで居れば良い。<br /> なりたいものになれば良い。<br /> 心こそがヒトを映すのだと、言ったのは市子である。<br /> 自分が何者なのか、今なら少しだけ解る。<br /> 天原の後継ぎでも、お嬢様でも、御姉様でもない。<br /> 愛しい人に未来を観た、一人の少女である。<br /> 問題といえば、多少酒臭い事ぐらいだろうか。<br />「早紀絵、早紀絵」<br />「何、何。私今、森可成なんだけど」<br />「なんでも良いからキスさせてくださいまし」<br />「もしかして口に性感帯でもあるのかなこの子……はい、じゃーチュー、うわお酒くしゃい」<br />「にゃんでもいいでしゅわよぅ……」<br />「アリスー、お父様が来たぞー」<br />「早紀絵ー、パパだよー」<br /> 早紀絵を思い切り抱きしめて、舌を絡ませながらその臀部を弄くり回している所で、二人の両親がノックも無く入ってきた。<br /> ああそういえば、七星一郎が来た事ですっかり忘れていたが、今日は二人の両親も顔を出す予定があったのだなと、アリスはぼんやりと考えながら、まあ良いかと早紀絵の下腹部に手を伸ばす。<br />「あら」<br />「まあ」<br /> 母のエリザベスと、早紀絵の母の早紀音が顔を見合わせて笑う。むしろうろたえているのはパパ様達だ。<br />「……む、娘が御世話になっております、満田さん」<br />「い、いえ此方こそ。いや、早紀絵もヤンチャな子で、ハハッ」<br />「あ、ちょお、アリス、そこだぁめぇ……ッ」<br />「いいじゃありませんの、あら、案外弱いんですのね、ここ……」<br />「あっ、あっ」<br /> 両親たちは頷きあい、離れを後にした。<br /> 後に杜花の両親も含め、深刻な家族会議に発展したが、花が強権でもってして押さえつけて『正妻は彼女達の判断にまかせる』という事でお開きとなった。<br /><br /><br /><br /><br /> ――天井を見つめる。<br /> 明日には実家に戻る事になるだろう。人生において、何か大事な瞬間が過ぎ去ろうとしている今を思いながら、アリスは眠れずに居た。<br /> 年末年始に押し掛けて、気前よく受け入れてくれた花には感謝してもしきれない。これが無ければ、何歩も出遅れる事になっただろう。<br /> 最大の目的は一応達成され、あとは経過を待つばかりなのだが、不安は拭えない。<br /> 何かが違うと、そう感じているのだ。<br /> 身体、心情、その他諸々、欅澤杜花を『向こう側』にやらない為、様々と考え、実行した。<br /> 打算的ではあるが、アリスも早紀絵も、その気持ちに偽りはない。しかし本当だからこそ、どうしようもない違和感が付きまとっていたのだ。<br /> 七星一郎の真意、花の過去、二子の葛藤とこれから。<br /> 受け入れ、押しのけるだけのものはそろっていても尚、アリスの胸には焦燥が付き纏う。<br /> 杜花は――どう考えているのか。<br /> 身体を交え、体液を交換しても、彼女の本心を推し量る事は出来なかった。<br /> そもそも、心だけではどうにもならないと判断しているからこそ、そのような事をしたのではあるが、それにしても、杜花は不透明だ。<br /> 喧嘩していた筈の二子を簡単に受け入れ、一郎の話を静かに聞き、花の告白を冷静に受け止め、二子の吐露を、彼女は黙って聞いていた。<br /> それは市子という亡霊からの脱却の足掛かりであると判じれば、納得は行くが、そうも簡単なものである筈がない。<br /> 生命を依存したヒトの死は、きっと延々と付きまとう。<br /> アリスと早紀絵の行為は、それ等を薄め、自分達の色を杜花に刷りこむような作業なのだ。<br /> 彼女に、自分達の色を反映出来ただろうか。彼女は、自分達を頼ってくれているだろうか。<br /> 熱っぽくあり、しかし、どこか空虚なキスを思い出す。杜花が歓んでくれればそれで良いとは思う。だが、本当に彼女は喜んでいるだろうか。<br /> 好きという言葉は、彼女の心の何処から齎されたものなのか。<br /> ――解らない。<br /> 欅澤杜花が解らない。<br /> おかしな人物の多いアリス周辺の中で、本当にもっともおかしな人間は……欅澤杜花ではないのか。<br /> 彼女が初めてアリスに笑顔を向けたのは何時だったか。<br /> 彼女が笑顔を失ったのは何時だったか。<br /> 彼女の愛想笑いが増えたのは、何時だったか。<br /> アリスは自分に向けられる表情を、読みとる事を無視していたのではないか。<br /> 杜花の本心を知るのが恐ろしかったのだ。<br /> もしかすれば、言葉ばかりで、態度ばかりで、杜花はアリスを、何とも思っていないのではないだろうか。<br /> 単なる知り合い。友人、幼馴染。恋心を抱く事すらない、距離のある知人。<br /> では、彼女の本心を知るために必要なものはなんだろうか。<br /> 隣で眠る杜花を見る。耐えられなくなり、アリスは杜花の布団にもぐりこんだ。<br /> 彼女の柔らかで張りのある身体を抱きしめる。気が付いたらしい杜花は、薄目を開けてアリスを観た。<br />「アリス?」<br /> 問われるも、答えない。<br /> 額を突き合わせ、キスをせがむ。杜花は小さく身じろぎしてから、それに答えた。<br /> 杜花の香りが、杜花の体温が、唇に、胸にと染みて行く。<br /> 自分はやはり、この人に恋をしているのだと、強く自覚出来る。<br /> しかし、その気持ちが彼女と通いあっているとは、限らない。<br />「子供みたいです。どうしました?」<br />「好きですの」<br />「ん。はい。私も好きですよ」<br />「本当に?」<br />「本当です」<br />「ねえ、じゃあ、ここでしましょう」<br />「……二人とも、隣にいるのに」<br />「無茶苦茶にしてくださいまし。杜花様の好きなように」<br />「……でも」<br />「なら、いいですわ」<br /> そういって、アリスは杜花から離れ、また自分の布団に戻り、杜花からそっぽを向く。<br /> 何分後だろうか。やがて杜花の方から、アリスの布団に入ってきた。後ろから抱きしめられ、髪の匂いを嗅がれる。<br /> 杜花はアリスの手を取り、下着の上から下腹部を触らせた。<br /> 彼女は分泌液が多めだ。しっとりと、濡れているのが解る。<br />「あっ……」<br />「私……アリスにこんな事をして良いのかって、ずっと罪悪感を持っていました。貴女は他の人を知らないのに、私が蹂躙してしまって構わないのかと、少し悩んでもいました」<br />「……――」<br />「貴女は人気者で、皆から尊敬されていて、とても、こんな事が似あうようなヒトではないのに、貴女は私が好きだという。選択肢は沢山あって、私よりももっと未来の明るいはずなのに、私を選んで、選択肢を狭めているような、気がした」<br />「そんなこと、ありませんわ。そんなこと、言い出したら、キリが無い」<br />「ええ。でも、貴女は私がまだ手に届く範囲に居ると言う。私からすれば、誰も彼も、皆遠くの彼方に居る筈なのに、市子も、アリスも、早紀絵も……二子も。皆、何故か寄ってきてしまった。私は、結局市子のオマケでしかない。貴女達は、勘違いしている。私はそこまで、評価される人間じゃない。相手に情報も伝えず、ただ、そう自分を卑下していました」<br />「そんな……」<br /> どう答えたものかと、言葉を詰まらせる。<br /> 確かに、全ての切っ掛けは市子にあったかもしれない。だが、アリスも早紀絵も、杜花を魅力的に感じるからこそ、ずっと傍にいたのだ。<br /> 確かに自分達は仕組まれていたかもしれないが、一体誰が、冗談でここまでするか。<br /> アリスは杜花と顔を突き合わせ、その頬を抓る。<br />「いひゃいれふ」<br />「馬鹿」<br />「酷い……」<br />「頭に来ましたわ」<br />「ごめんなさい……でも、信じてください。私は、貴女も、早紀絵も、好きです。やっと、今になって、自分がどれだけの人間なのか、解ってきた気がします。そうですよね、伊達や酔狂で、貴女達がこんな事をしない。私は――貴女達に愛されているんだって、実感出来ます。自己評価しましょう。私は、酷い女です。私は、ご令嬢をとっかえひっかえするような、悪女でしょう。そして貴女達は、ダメな子達」<br />「もう言いましたもの。でも何度でも言いますわ。杜花様も、早紀絵も、好きで好きで、仕方がありませんの。私は、貴女達と一緒に居たい。貴女達と、幸せになりたい。その為なら何でもするし、妥協しろというなら、お妾だって良いですわ。でも、これから毎日、キスしてくださいな。卒業したら、杜花様の子もほしい。何も心配要りませんわ。きっと皆、祝福してくれますもの。ああもう、胸が苦しくって苦しくって、仕方が無い」<br />「アリス」<br />「んっ」<br /> また唇が重なる。<br /> 何か、今までとは違う感覚があった。受け入れた舌が口内を、一切の躊躇いなく舐り回す。<br /> 熱量が、気持ちが、恐らく違うのだ。<br /> 杜花はやっと、本当にキスしてくれているのだと、そう感じられる。<br /> 息が荒くなる。<br /> 冗談にもならない。上手すぎるのだ。<br /> 十分程だろうか、アリスは彼女から受ける愛撫で、軽く二回達していた。<br /> 嗚呼、本気なのだなと実感する。<br /> これからきっと、杜花は手加減抜きで、天原アリスを蹂躙するつもりなのだ。<br />「まだ、不安なんです。こんなにも近いのに、私は馬鹿なので、貴女達から、離れてしまうような、気がして」<br />「……はっ……ふぅ。ああ、もう。頭、ぼーっと、する。私、杜花様に、犯されて、しまいますのね?」<br />「減らない口。黙らせてしまいましょう。声、あげたら気づかれますよ。でもアリスは我慢して……朝まで何回、イけるでしょうね」<br />「かふっ……酷いヒト……えへへ……」<br /> 満たされて行くと解る。彼女を満たしていると、解る。<br /> 杜花は遠慮をするような人物では、いけないのだ。<br /> 酷い女だと自認するなら、その通りにすればいい。<br /> アリスも早紀絵も、それを望んでいる。<br /> 本当に杜花が歓ぶ顔が、観たいだけなのかもしれない。その為に何でもすると宣言してしまう二人は、やはりどこかおかしいのだろう。<br /> 空を飛ぶような心地の中、杜花と出会ってから、今までの事を追憶して行く。<br /> たった六、七年かもしれないが、少女達にとってそれはかけがえの無いものであり、手放す事の出来ない、深い思い入れがある。だが、これからはそればかり抱いていてはダメだ。それでは戦って行けない。<br /> 箱庭の外に投げ出された後も、想い描く幸福な未来の為に歩んでいかねばならないのだ。<br /> だからこそ、ここでは躓けない。<br /> 転んでなどいたら、自分の欲しいものは、ずっと遠退いてしまう。<br /> もう夢だけを語る段階にはいないのだ。<br /> 天原アリスはもう、清純可憐な乙女ですら、ないのだから。 <br /><br /><br /><br /><br />「お忙しいなか、御邪魔しましたわ」<br />「ほいじゃ、私先に行くね。おちかれさん。またガッコでねえぃ」<br /> 帰り支度の後、外に出ると欅澤家一同が揃っていた。<br /> アリスが会釈をすると、杜子一同が頭を下げる。花は暫くアリスを観た後、ゆっくり礼をした。<br />「御世話になりましたわ、お婆様」<br />「手製だ、持って行きな」<br /> 花はそういって、欅澤神社のお守りとは違う、手作り感溢れるお守りを手渡す。<br /> 刺繍は無いが、高い生地を使っているらしく手触りが良い。外見は他と変わりは無い様子だ。<br />「あら、有難うございます」<br />「これは、直感だけどね。お前は危うい。早紀絵もだ」<br />「酷いお言葉ですわ。でも、欅澤の女性がそう言うならば」<br />「うん。私はお前が気にいってる。誉に雰囲気が似ているっていうのも、あるがね。杜花はあれだ、人が寄る。敵は多いぞ」<br />「心得ていますわ」<br />「なら、良い。いつでも来なさい」<br /> もう一度皆に頭を下げ、アリスは欅澤神社の駐車場から車に乗り込む。<br /> 本来ならばそのまま実家に戻るのだが、一度学院に行こうと考えていた。<br />「忙しい正月だったわね」<br /> 隣の二子が言う。<br /> 天原家の車ではなく、七星家の車だ。革張りのシートに深く腰掛け、ジェスチャーで返す。<br />「ま、良かったといえば、そうかしら。貴女達の事も、余計に良く解ったしね」<br />「そうですの。それで、学院へはどんな用事で?」<br />「兼谷の様子を覗きに行くの」<br />「……兼谷さんの?」<br /> 山道を下り、県道に出る。十分もすれば学院に着くだろう。<br /> 兼谷が学院で何をしているというのか、アリスにはとんと思い当たる節が無い。<br /> そもそも、彼女は部外者だ。七星が理事会に、出資にと関わっている事から、絶対的に外ではないが、一メイドが主人も無しに何をするというのだろうか。<br /> そうだ、と二子が手を叩く。携帯電話を取り出して、どこかに連絡し始めた。<br />「ああ、兼谷。試験しましょう。『貴女からの出力で良いわ』。今からアリスを連れて行くから、お願いね」<br /> ただそれだけを言って、二子は電話を切る。<br />「私、生徒会に資料を取りに戻るだけですわよ?」<br />「まあま、大丈夫、煩わせないわ。それよりも、アリス」<br />「はい?」<br />「貴女には、良いライバルになって貰いたいわ。早紀絵にも。楽しい学院生活にしましょうね」<br />「まあ、渡しませんけれども。そんな申し出が出るなんて、思ってもみませんでしたわ。けれど、楽しくやるのは賛成です。別段と、貴女自身が嫌いなわけじゃありませんって、それは言いましたわね」<br />「優しいのね。アリスは。私、この学院に来て、良かったと思うわ。最初こそ引け目を感じたけれど。日の目を見て、他愛ない日常を過ごす幸せを、噛みしめられる。京都の奥座敷の中では、知れない世界がある。つながりがある。そう、私ね、火乃子と友達になったの。あの子、凄く良い子よ。あの子と、そして歌那多も、みんなで、楽しくしたいわね」<br /> 楽しそうに二子が語る。<br /> その笑顔は、いつか見た市子のようだった。<br /> どうして今になって、いや、今だからこそなのだろうか。つい、アリスも笑顔になってしまう。<br /> 彼女の言葉が本当ならば、それは素晴らしい事だろう。<br /> 二子が杜花の心をかき乱さない限り、学院は平和そのものだ。寮生に、生徒に、皆が仲睦まじく過ごせるというのならば、きっとこれからの一年は明るい。<br />「正門が観えた。おかえり、アリス」<br />「ええ、ただ――」<br /> いま。<br /> そうだ。そんなものは当然だ。<br /> 皆仲良く出来るに決まっている。<br /> はて、今の今まで、何を苦しんでいたのか。<br /> 少し、自分が理解出来ない。<br /> これからも、ずっと楽しくやっていける。<br /> きっと幸福だ。世界は優しさで出来ている。<br /> ……。<br /> 正門をくぐる。<br /> アリスは隣に目をやった。<br /><br /> ――『彼女』は、いつものように、柔和な笑みを浮かべている。<br /><br />「ただいま『市子御姉様』これから、どちらに?」<br />「ええ、少し兼谷と、お話があるから」<br />「ああ、兼谷指導教員ですわね。でも、やりすぎですわ。メイドを教員にするなんて」<br />「ふふ。ごめんなさい。でも、とっても有能で、頼りになるわ」<br />「それは、同意します。そう。うん。ええ。……はい。そうですわね。ああ、新学期も、楽しみですわ」<br />「……貴女に杜花を取られないように、頑張らなくちゃ」<br />「も、もう。市子御姉様ったら。でも、そんなことも含めて――わたくし、楽しみですの」<br /><br /> 世界は優しさで出来ている。<br /> たとえそれが、独善的なものだったとしてもだ。<br /><br /><br /><br /><br /> ストラクチュアル/5 恋慕クオリア 天原アリス2 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-90548845952835928172013-03-29T20:00:00.000+09:002013-03-29T20:00:20.182+09:00心象楽園/School Lore ストラクチュアル4<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> ストラクチュアル4/深淵を覗く<br /><br /><br /><br /><br /> 杜花が早紀絵の部屋の隅で蹲っている。酷く落ち込んでいる様子で、早紀絵もかける言葉を探していた。<br /> 杜花がここまで精神的に疲労困憊している姿など、市子が亡くなった後ですらなかった。<br /> 自分の部屋に行かないのは、精神疲労の原因である二子がいるからだろう。<br /> とはいえ、杜花ならば別に行く宛てもあったはずであるし、わざわざこんな顔を早紀絵に見せてるのであるから、構ってほしいに違いないと判じる。<br />「モリカ、おいでおいで」<br /> 冗談で言ったつもりだ。<br /> 本来ならば無視されるか、否定されるかのどちらかであったのだが……そうはならなかった。<br /> ――困り果てた顔が迫る。<br /> 杜花は、そのまま早紀絵の胸に身体を預けた。<br /> 二段ベッドの上で本を読んでいた支倉メイすら、目を見開いて見下ろしている。<br /> ふんわりと、杜花の匂いが鼻孔をくすぐる。<br /> やわらかな胸が圧し当たり、早紀絵の脳内が沸騰した。状況は不謹慎だが、何かと早紀絵には距離を置いていた杜花が密着している事実に頭がおかしくなりそうだったのだ。<br /> 黒い髪を撫でつけ、嗅ぎ、抱きしめる。<br /> それっきり、杜花は動かなくなった。寝ている訳でもない様子だ。<br /> こうしているだけで良いのだろう、早紀絵は杜花の頭を撫でながら、座卓に開かれて置かれた、件の部誌に改めて目を通す。<br /> 市子の隠し部屋から見つかったものだ。<br /> 見つけて以来、杜花の調子は下り坂で、火乃子にもだいぶ辛く当たっていた。生理も被っているのか、時折苦しそうに御手洗いに消える姿を何度か見ている。<br /> タイミングが悪いのだ。何もかも。<br /><br />『オカルト研究部活動報告誌 vol.11 2027』<br />『魔女についての調査と報告』<br />『今回特集として取り上げる問題は『魔女』についてである。ここ数年一部で実しやかに囁かれる学院怪談の一つだ。魔女といえばスペインの異端審問やアメリカ、セイラムで行われた魔女狩りなどを連想するだろう。また、日本においては魔女といえば、フィクションなどでたびたび登場する為、魔法使いとして親しみやすく、好意的に受け入れている者もいるかもしれない。従って、悪い意味で魔女といえば『魔女』であり、良い意味で魔女といえば『魔法使い』もしくはサブカルチャーにおいての『魔法少女』と呼称されている印象がある。おとぎ話でも悪い魔法使いは『魔女』であり、良い魔法使いは『魔法使いのお婆さん』などと言われる。統計は無いが、日本文化圏での『魔女』に対する認識は、歴史が絡まない為かなり薄弱で曖昧だ。では学院の魔女とは何なのか。オカルト研究部員総出の調査によって、以下の噂が挙げられた』<br />『1、魔女は人の心と記憶を読みとる』<br />『2、魔法を使い、人に幻覚を見せたり、記憶を消したりする』<br />『3、魔性の魅力を持ち、不自然に人に好かれる』<br />『4、高等部一年のT生徒ではないか』<br />『5、中等部三年のK生徒ではないか』<br />『6、全て単なる嫉妬である』<br />『魔女裁判といえば、気に入らない人間を密告し、男女分別なしに拷問にかけ、罪をなすりつけ、疫病の理由に据え、財産を奪ったり、男女を凌辱したりと、裁くどころか私利私欲の為に魔女の呼称を使われた、忌むべき人類史の一端ともいえる。学院における魔女の特徴を見ると、特定生徒の名前を挙げ、それらが噂1~3の力を使って人心を惑わせていると言われている構造から見るに、噂6が全ての真実であるようにも思えるが、ことはそう単純でもない事が、更なる調べで分かった。たび重なるインタビューの結果、件のT生徒とK生徒は『姉妹関係(※1)』にあるという。本来力を持っているのはT生徒であり、Kは常に傍に居る事から、噂されただけであるとするものだ。(※1 肉親ではない。決して恋人でもないという)』<br />『本オカルト研究部活動報告誌はマスコミ誌では無い為、相応にプライバシーを守る義務がある。本誌はT生徒とK生徒許可の下執筆されている事をここでお断りしておく』<br />『本人達はさほど重要な問題と捉えている訳ではなく、あくまで悪い噂であると割り切っており、当部部長のインタビューも快く承諾して頂いた。ページ数制限の為、要点を掻い摘んで説明――』<br />『――後ろぐらい噂とは相反して、二人は大変仲が良く、勤勉で、教員からも生徒からも評判が良い。客観的事実から推し量って、彼女達は間違いなく『人気者』の類だと断定出来る。姉妹制度というものがどういったものなのか、体験する名目でT生徒の妹になった我がオカ研部長は、かれこれ一週間ほど部室に顔を出さず、久しぶりに現れたかと思えば『あの二人は本当に良い子で、私は卒業まで付いてゆく』の一点張りであった。当部活動からすれば、間違いなく二人は魔女――』<br />『――冗談も過ぎたが、最後にT生徒は意味深な言葉を残してインタビューを終えた』<br />『部:それで結局、魔法は使えるんですか御姉様』<br />『T:魔法、というのかしら。ただ、人よりも、少しだけ頭の使い方は違うから、その所為かも知れないわね』<br />『――それは一体どういう意味なのか、何かの隠語なのか。T生徒の本心を探る機会が訪れるのを待つばかりだ』<br /><br /> 今から四十年程前のオカルト研究部部誌だ。<br /> 何も知らない人間が読んだならば、人気者インタビューとしてとれるかもしれない。しかしその深層に潜むものは、気が付いている者にとって過酷だ。<br /> 早紀絵自身は目撃した事はないが、この記述の内容は、杜花とメイ曰く七星市子そのものであるという。<br /> 姉妹制度が始まったのもこの頃だろう。<br /> 更には、昨日内容を知った『幻華庭園』の事もある。<br /> 概略を説明する程難しいものではなく、当たり障りの無い同性愛小説、当時でいう所の百合小説の類だ。<br /> 主要登場人物は櫟、園、躑躅、苺の四人。<br /> 市子がすり合わせた呼称としては櫟が市子、園がアリス、躑躅が杜花、苺が早紀絵である。<br /> 何が問題かと言えば、この小説の登場人物にすり合わせられているという事よりも、四十年前の同じタイミングで、市子と似通った印象の人間が『御姉様』と呼称されている事実だろう。<br /> 言い知れない違和感。<br /> 言葉に出来ない焦燥感。<br /> 何かがおかしい。<br /> 何かがある。<br /> 結晶と手紙自体は既に全て見つかっている。二子との約束は殆ど果したといって過言ではない。<br /> だが、市子が本当に知らせたかった事、本当に望んだ事はまだ解っていない。<br /> 幻華庭園のストーリーには『宝探し』があった。<br /> 早紀絵達が体験した『宝探し』は、宝探しというにはいささか難のある現実だったものの、市子がこれをなぞった可能性はかなり高い。<br /> ストーリー中の目的は『宝探しを通じて皆で仲良くなれないか』というものだ。<br /> このT生徒とは何者なのか。<br /> 市子のような存在が、まさか二子以外にも過去存在していた事を示している。<br /> 日曜日の今日、本来ならばその手掛かりを探す為調査するつもりだったのだが、杜花がこの通りでは動きようもない。<br /> 杜花の黒髪を撫で、興奮している自分が恨めしい。<br /> 今すぐ押し倒して、舐り回して、杜花の経血ごと吸いつくしてやりたいと思う。<br />「――サキ様、えっちな顔してます」<br /> ベッドから降りて来たメイが隣に寄り添う。悪いとは思いつつ、早紀絵は現状が幸福であった。<br />「はふ。モリカ、少しは落ち着いた?」<br />「……はい。ごめんなさい」<br />「謝んないでよ。私、貴女に頼られてると思うと、くふふ、嬉しくて、気持ち良くなっちゃう」<br />「変態ですね、サキは」<br />「素直なだけだよ。それで、どうする?」<br />「今日は少し、休みます」<br /> そういって、杜花は自室に戻って行った。二子を無視して不貞寝するのだろう。<br /> 七星二子の嘘。<br /> 三ノ宮火乃子の功績で、魔力結晶なるものが、機械的な部品である事が解った。<br /> 二子に迫った杜花だったが、それが何であるかを、細かくは説明されなかったようだ。<br /> 虚しい話だが、欅澤杜花は七星二子に市子を見出している。<br /> 聞けば否定するだろうが、喧嘩別れする前まで、二子と一緒にいる杜花の様子が――どこか市子と一緒にいた頃のような雰囲気があったことを、目ざとい早紀絵が見逃す筈もない。<br /> だからだろう。<br /> 嘘を吐かれて、ショックだったのだ。<br /> 二子はまだ何か隠している。アリスにも積極的に接触している様子が窺えた。<br /> 二子は、市子に成り替わるつもりなのだろうか。<br /> 考える事が多い。<br /> 早紀絵はそのまま後ろに倒れて、隣に座っているメイをつつく。<br />「わーけわかんない。メイ、パンツとってきてー」<br />「どしましたか」<br />「……も、杜花に抱きつかれて、興奮しちゃって」<br />「あふ。現実になるといいですね」<br />「お前さ、無茶言いすぎ。杜花困ってたでしょ」<br />「何歩か前進した筈ですよう」<br /> メイに下着を持って来させ、拭わせた後、穿き変えさせる。<br /> メイは何の躊躇いもなく、人の眼の前で下着の匂いを嗅いでいる。あまつさえ舌までつけている。<br /> 愉快な子だ。<br />「さて、図書館行こっかな」<br />「ふぁふ。メイはどうしましょう」<br />「待機。モリカが来たら、早紀絵は外出たって言っておいて」<br />「わかりましたぁ」<br /> 必要なものを手提げに仕舞い込み、自室を後にする。<br /> 寮を出て躑躅の道を通り過ぎ、校舎内に入る。特殊な教室は第一校舎に詰まっているが、図書室があるのは第二だ。<br /> 三教室分をブチ抜いた作りで、蔵書量はそこそこである。<br /> 人文自然社会系ジャンルは一通りそろっていて、電子書籍で発売した本を、わざわざ許可を取って紙に再印字するという面倒くさい手法によってなりたっている。<br /> 紙の本は珍しくないが、それは大体コミックなどであって、コストのかかる専門書の類は電子化されてしまっていた。<br /> こんな環境に暮らしているからだろうか、早紀絵としては紙が好きだ。<br />「やほ」<br />「あ、満田先輩」<br /> 図書委員の子に声をかける。休日だというのに図書館の受付とは御苦労な事だ。<br />「何かお探しですか」<br />「んー。卒業アルバムってあるよね」<br />「はい。Hの棚です」<br />「ありがと」<br /> 指定された棚に赴き、上から順に探して行く。学院名義で出版した類の本が並ぶ棚のようだ。<br /> 勉強法、礼儀作法、食堂の料理、果ては暴露本すらある。変に寛容だ。<br /> 棚の下辺りに、重厚な本の並びがある事に気が付き、しゃがんで確認する。<br />「あった」<br />(2027年に一年ということは、2030年……じゃなく、年度か。29年度)<br /> 早紀絵が目を付けたのは29年度卒業アルバムだ。魔女の噂の大本と予測される人物を探す為である。<br /> 魔女の噂の出現時期が特定出来る事は、スクールロア発行者として喜ばしい上に、しかも市子がそれを隠していたとなれば、ますます気になる。<br /> 隠したかったのが魔女の噂自体なのか、それとも、このT生徒なのか……判断はしかねるが、疑わしくは調べた方が判断材料も増える。<br /> 手近な机にそれを広げ、一組から三組までの生徒名を控えて行く。<br /> T生徒。<br /> 苗字か、名前か。<br /> もしかすれば単なる記号である可能性もあるが、探ってみる価値はあるだろう。<br />(一組から苗字で……田中……高橋……田辺……千ヶ崎、角田……遠野……二組から……館内……月野……津山……津……勅使河原……三組から……手野崎……遠野田……千葉……千田……一組から名前で……月乃……テイ、朱鷺絵……二組から……艶子……トオコ……富江……三組から……いないな)<br /> 次はそこから、早紀絵の直感に頼る作業だ。<br /> 御姉様と言うぐらいなのだから、相応の容姿だろう、と推定する。<br />(コイツ等は一般人だあね。オーラがまるでない。ありゃ、ぶちゃいく……あ、この子可愛いー……)<br /> 取り敢えずありえそうな人間を何人か繕ったが、どうも違うような気がしてならない。殆ど早紀絵の好みである。<br /> 二十分程度だろうか。<br /> 集中して作業していると、図書室のドアが開き、誰かが入ってくるのが解る。<br />「あら、火乃子さん。何か調べ物?」<br />「ええ。確かだけど、昔オカ研が部誌を発行していましたよね」<br />「あー。それだったら全部貸し出し中」<br />「ええ? そんな物好きどこに……」<br />「……」<br />「あ、あー……はい。解った」<br /> 入ってきたのは三ノ宮火乃子だ。<br /> 早紀絵に気が付いて、ああ、と頷く。意外には思っていないのだろう。<br />「カノ、ちょっとおいで」<br />「ごきげんようです」<br />「あいごきげんよ」<br /> 三ノ宮火乃子を隣に座らせ、思い切り密着する。火乃子はあからさまに嫌そうな顔をした。<br />(カナとはどうなの)<br />(……烏丸に喧嘩売りました)<br />(うひょー。カノカッケー。カッコ良すぎる……やだ、なんか貴女が魅力的に見える)<br />(やめてくださいよ……ともかく、歌那多は誰にもあげません。先輩も触らないでくださいね)<br />(呪い殺されるのは勘弁だしね)<br />(終わった事ですから、蒸し返さないでください)<br />(んでんでんで? なんでオカ研資料なんて)<br />(少し気になる事がありまして)<br /> そういって、火乃子はポケットから一枚の紙を取り出す。<br /> 内容は、自分で書きだしたフローチャートのようなものだ。見知った名前が幾つも挙げられている。<br />(市子周辺の相関図かな。私の名前もある。あ、客観的に見るとその位置なのか……)<br />(早紀絵先輩は淫乱ですけど、こういう事に関しては口が堅いし、マジメですからお見せします)<br />(後輩に淫乱と罵られる日が来ようとは……でもちょっと興奮しちゃう)<br />(まあまあ。ええと、先日の事です。あの通り、私は自分の罪を逃れたい一心で弁明した訳ですが)<br />(あけっぴろげに言うね。こういうカノも良いかも……ね、ちょっと遊ばない?)<br />(勘弁してください。それでですね、その過程で、二子にも言われたのですが、魔女の話)<br />(貴女もそう、魔女ね。気になるわね、確かに)<br />(いつからある噂なのかと思って。オカ研があったと聞いたので、ここに調べに来たんです。お詳しいでしょう?)<br /> なるほど、と頷く。<br /> 知識に貪欲な分好奇心も人一倍だろうこの子が、気になったものを調べに来るのは必然だろう。ましてスクールロアのハードユーザーだ。早紀絵も魔女の噂が何時出て来たのか知りたくて、ここまでたどり着いたと言える。<br /> 隠す必要もないだろうとして、火乃子にはここに至った経緯を掻い摘んで説明する。<br />(隠し部屋に、その魔女の記述がある号があった、と)<br />(メイとモリカと二子から事実確認とってる。隠したのは市子で違いない。で、私はその件のT生徒が誰なのか知りたくて、こうして卒業アルバム見てるわけ)<br />(なるほど。目途はつきましたか)<br />(これとこれとこれなんだけど、どうだろ)<br />(……オーラがないですね、御姉様というには)<br /> ページをペラペラと捲り、最後のページは校長の言葉で締めくくられている。<br /> やはり特定するのは難しいか。<br />(……この人達は?)<br /> 最後のページの手前。<br /> 部活動の様子などを撮った写真の端に、六名の生徒のバストアップ写真が飾られている。<br />(うわ、びじ……う……え……)<br />(嘘でしょ……早紀絵先輩、これ、うわ、鳥肌)<br /> 六名のうち、一人。<br /> 切り揃えられた長い黒髪。<br /> 知的そうで整った顔立ち。<br /> 憂いを含む雰囲気。<br /> 早紀絵の背筋を、冷や水が流れて行く。何かが繋がってしまった、嫌な予感がした。<br /> まさかこんな所で。<br /> こんな場所で。<br /> 火乃子と眼を合わせる。<br />(……利根河撫子(とねがわ なでしこ)。T生徒、ですね、きっと。いや、間違いなく、何の間違いなのか)<br />(でもこれ、い、市子じゃん。まるで市子じゃない。何、何、何で?)<br />(利根河……あ、あー……)<br />(カノ?)<br />(これは、その、憶測です。何の証拠もありません。だから、真実とは言い難い。けれど、その、早紀絵先輩は、七星一郎の元の名前をご存じですか)<br />(いいや。襲名だっては聞いたけど……)<br />(……利根河真です)<br />(こりゃ……マジか。で、でも一郎氏って幾つよ? これ三十七年前の卒業アルバムだよ)<br />(今年で七十七です。遺伝子工学の権威で、ゲノムアンチエイジングに関して、三ノ宮医療製薬と、共同開発した事もあります。恐らく幹細胞医療。内臓総とっかえも、あり得るかもですね)<br />(いかんものを見つけてしまった)<br /> それを現実と受け取るならば、可能性としてありえる。<br /> 苗字だけならばまだしも……同じ顔をしていたら、疑いも深くなるだろう。<br /> しかもそれが、件の魔女だ。<br /> 利根河撫子……確か、幻華庭園の作者は……利根、零子であった筈だ。<br /> 余計に冷や汗をかく。<br /> 順当に『こじつける』ならば、作者はこの利根河撫子、もしくは利根河撫子を参考にした相当近い人物だ。<br />「……にしても、何故別個に写真があるんだろ」<br />「これ、見てください」<br /> 指定された場所に書かれているものは、校長の言葉だ。が、その一節が気になる。<br />『……当時一年、二年生だった生徒達は、悲惨な事件に巻き込まれ、六人が命を落とすという痛ましい結果になり――彼女達が卒業する節目において――被害生徒の――』<br /> 事件。何の事件だろうか。<br /> この学院で起きた事件についても詳しい早紀絵だったが、まるで思い当たるものがない。火乃子も同様らしい。<br />「……2028年、何か、あったのかな」<br />「それに巻き込まれて、亡くなった、のかな……嫌な予感が、しますね」<br /> 過去の撫子。市子。そして、二子。<br /> どんな因果関係で結ばれているのか。<br /> ――まさか、クローンではあるまいかと、考えてしまう。<br /> 七星ならば可能だろう。<br /> 倫理問題上、法律上、公にはされていないが、遺伝子複製体は研究は、人類が細胞を弄り始めた頃からずっと続けられてきた。神が人を作り給うキリスト教圏では無い日本において、人間が人間をつくる事に関して、絶対的な否定は少ない。<br /> ただ、人間を複製したところで、では何をするのか、という問題は厳然として存在する為、それら技術は全て医療にだけ転用されている。<br /> ただもし、七星一郎が何かしらを企んでいるのならば、あり得ない話ではない。七星ならば自前で幾らでも、金も人も機材も揃えられるのだ。<br />(アルバムは……持ち出し厳禁だわね……携帯は、この前ので壊れたし)<br />(カメラ、有りますよ)<br />(貴女、ほんと見かけによらずアレだね)<br />(図書委員の子、気をひけますか)<br />(超得意)<br /> アルバムを火乃子に預け、図書室の奥へと向かわせる。早紀絵は何食わぬ顔で図書委員の子に声をかけた。<br />「そいえばさ、顔は良く見るけど、名前知らないよね」<br />「織田です。織田楓。火乃子さんと同じクラスです」<br />「満田早紀絵だよ。多分知ってるだろうけど」<br />「はい。満田先輩、下級生に、結構人気ですよ」<br />「早紀絵でいいよ、楓。そっか、そなんだ。どういうところだろ」<br /> 真面目そうな楓は、迫る早紀絵に対して、不快感は持っていないと見える。そうなれば早紀絵の本領だ。火乃子には気を引く程度と言われたが、ハキハキと喋る声も、パッチリした眼も、早紀絵は好みだった。<br /> いや、いざとなれば、大体の男女を好きになれるだろう。早紀絵はダメ人間である。<br />「その。スラッとしてて、ボーイッシュな感じが、受けるんだと、想うのですけれど。去年の文化祭、ウェイターの恰好をした早紀絵先輩、すごく、カッコ良くて」<br />「見てたんだ。評判良かったしね、あれ。楓は、私みたいなの好きかな」<br />「す、好きって。か、カッコイイなと、は、思います」<br /> カウンターに入り、楓の隣に並ぶ。楓は顔を真っ赤にして伏せていた。<br /> 初々しくてたまらないと、早紀絵はほくそ笑む。<br /> 彼女の脳裏に浮かぶものは果してどんな耽美な世界か。<br /> 人の居ない図書室(どうやら火乃子は頭になくなったらしい)、暇を持て余した図書委員に迫るプレイガール。ほっそりとした手が、その手に重なる。<br /> 静か故に衣ずれの音ばかり響き、時折聞こえる生徒の声が、ここが公衆である事の背徳性を紡ぎだす。<br />「ふぅん……彼か彼女、いるの?」<br />「い、いない、です。普段、学院から、出ないし……別に、女の子が好きってことも……あっ、でも」<br />「――でも、なあに?」<br />「さ、早紀絵先輩みたいな人は……い、いいなって……」<br /> 後ろに周り、胸に手を添える。<br /> ああ、夢見がちな子だと思いつつも、早紀絵は大好物だった。<br /> 世の中これほど夢溢れる人間ばかりならば、どれほど幸せだろうと思う。<br /> 暖房の所為か、ほんのりかいた汗の香りがするウナジに唇を添え、舌を這わせる。楓の身体がビクリと跳ねあがった。感度も良い。気持ちさえ昂れば、処女でもイけるんじゃないだろうかと、経験から悟る。<br />「……早紀絵先輩。本当に節操無いですね」<br />「あ、カノ。用事終わったの」<br />「はい。出ますけれど、続きしますか」<br />「んー。この子可愛いのだけれど、今はそっちの用事かなあ。ごめんね、楓」<br />「あ、あううぅ……」<br />(暇な時、声掛けて。嫌じゃなければ……一緒に遊びましょ)<br />(は、はい……)<br />「スケコマシ……行きますよ」<br />「ああん、最近後輩が私をイモムシでも見るような眼でみる……」<br /> 名残惜しくもあったが、楓に別れを告げ、火乃子について行く。不完全燃焼だ。<br /> 休日で学校内は人も少ない。この憎らしくも可愛らしい後輩とお遊び出来たのなら良かったが、残念ながら既にお手付きだ。歌那多とは順調に行っていると見える。<br /> しかしまさか、この子が許嫁から嫁さんを奪い取るような暴挙に出る程積極的だったとは思わなかったが、いや……さて、どうだろうか。本来彼女は情熱的なのではなかろうか。<br /> 杜花に対しても、五年以上訴えかけていた。本人はそれに納得が行かず、こんな事件もあり、諦めた様子だが、もしかすれば名前通りの子なのかもしれない。<br />「しかしカノ、何処行くの」<br />「これは一つの罪滅ぼしです。私の行いが、貴女達、市子様周辺にどんな影響を与えるか知りませんけど、たぶん貴女達は知りたがっている。そうですよね」<br />「まあ、そうだね」<br />「なので」<br /> 階段を上がり、三階に赴く。火乃子は生徒資料室の前で止まった。<br /> 辺りを見回し、生徒が居ない事を確認してから、鍵を開けて中に入る。<br /> 普段から何に使われている部屋なのかサッパリ解らなかったが、どうやら火乃子が無断占拠しているらしい。奥にはマットレスと布団が見える。<br />「あっは。悪い子だね貴女」<br />「間違いなく良い子では無いですね。適当に座ってください」<br /> そういって、火乃子は奥からノートPCを引きずり出してくる。旧型だが、その堅牢さは間違いなく軍事用だ。イマドキのノートにしてはぶ厚すぎる。<br /> スタンバイを解除すると、無指向性ホログラム画面が部屋に広がる。<br />「旧式だけど、良いの使ってるなあ」<br />「こんな所ですからね」<br />「確かに。カノのアレなモノとか保存してあるんでしょう」<br />「否定しません」<br />「……あれ、じゃあそれ無線いける?」<br />「行けますよ、だから、調べてみましょう」<br /> 火乃子の近くに寄り、遠隔端末を受け取る。<br /> 火乃子と二人で『観神山女学院 事件』『観神山市 犯罪』『女子校 事件』などという単語を国内の検索サービスを使って辿って行く。<br /> 出てくるのは大体近場の犯罪や事件程度で、明確なものが見当たらない。<br />「逆に怪しい。検閲されてる可能性がある」<br />「国内検索サービスだからじゃないかな。米大手はどうだろ」<br /> アメリカ最大の検索サービスで、似たような単語を検索する。<br /> しかし出てくるものは、何処とも知れない事件や、アダルトサイトばかりである。観神山女学院の単語で反応したのか、観神山女学院高等部の制服を来た女性のポルノなども見つかる。<br />「……ちょいまって。ねえ、利根河真の娘って事はさ、普通に考えれば大事件じゃない」<br />「当時は七星襲名前ですから、そこまで話題にはならないでしょう。ただ、学院で事件で、六人死んでいる。当時からここはそこそこ名前がある学校だった筈ですから、何もない、というのはおかしい」<br />「――ねえ、ウチの学校さ、占拠事件、起きてないよね」<br />「その、筈ですが」<br /> 学校占拠事件。<br /> 二千年代初頭、格差是正を叫ぶ集団が良家の子女が通う学校を占拠して人質にとった事件だ。<br /> 何を間違ったが、数人が犠牲になり、身代金を払った挙句一部を取り逃すという大失態を演じた警察の影響で、成功する犯罪として認知されてしまった。<br /> 当時大陸との関係がきな臭くなっている頃である。バックグラウンドにはそういった組織が控えていたと、後に明るみになった。<br /> 検索をかけると、複数の事例が見て取れる。<br /> 大きいものは『東京都東都学院占拠事件』『福岡県聖女子学院占拠事件』『長崎県伊吹学習高等学校占拠事件』の三件。東都学院の例が犯罪成功例である。<br /> 一応全て解決しているが、犠牲になった生徒も少なくない。<br /> 格差是正を盾にした、反日テロ行為だ。<br /> 頻発したのはその頃だけで、以降は指示組織壊滅に乗り出した警察と実際大陸からの指令を受けた内患や工作移民との小競り合いに発展、相手方の装備が冗談を超越し始めた辺りで警察には手に負えなくなり、大東亜戦後初の自衛隊による武力制圧に発展、以降本格的な戦争状態に突入し、同時多発メルトダウンを迎える結果となる。<br />「……カノ、これ」<br /> 掲示板の一文が、伏せ字ではあるが、観神山と読める。<br /> 語られる事のない事件を語るスレッドのようだ。<br />「五チャンネルですか。信用なりませんね……」<br />「……ダメだ、ログ消えてる。過去ログ漁れないかな」<br />「ダメですね、消えてます。おかしいな……普通残るのに。こりゃ、本格的に検閲されてますね」<br />「誰に」<br />「――解るでしょう」<br /> 大枚を叩けば、もしくは脅せば、検索サイトを検閲するなど造作もないだろう。しかしこれではあからさまではないか。<br /> ……いや。<br /> そこまで、気にして調べる人間も、ここまでたどり着いてしまった人間も、いないのかもしれない。<br />「カノ、やめよう」<br />「どうしてです」<br />「七星に足突っ込むのは、怖いでしょう」<br />「でも、早紀絵先輩たちは知りたいでしょう」<br />「うん。だからカノは止めた方が良い」<br />「どうして」<br />「カノは、幸せにしなきゃいけない人がいるでしょ。だから。私の顔に免じて。検索ログ消して、その写真も破棄しよう」<br /> 火乃子は……暫く唸った後、素直にログを消し、写真を削除した。<br /> 精査する為に取っただけであり、見たければ図書館に行けば良い。<br /> 検索とて、見つからないものを探してもしょうがない。<br /> もし万が一、このパソコンが押収された場合を考えれば、むしろ破壊したところでまだ生ぬるいだろう。<br />「PCは、他人が触れると物理破壊が起きる仕様ですから、許してください」<br />「いや壊せなんていわないけど。うん、ごめんね。参考になった。ありがとう……、あ、そうだ」<br /> 遠隔端末を手渡す前に『幻華庭園』と検索する。<br />「幻華庭園。ああ、読んだ事があります。相当昔の本ですね。電子書籍化でリバイバルしてる筈です」<br />「カノも知ってたか。あー……なるほど」<br /> 出版社、そしてネットブックストアにもその名前が見て取れる。<br /> ただやはり古いもので、大きく話題が取り上げられているものはない。作者について言及されている場所も見当たらなかった。<br /> 火乃子に礼を良い、ドアの外を伺ってから、誰もいない事を確認して外に出る。<br /> ちょっとした調べ物のつもりだったが、大ごとになってしまった。<br /> ここから先は一人で探った方が良いだろう。<br /> 火乃子は今、間違いなく幸せな筈だ。杜花にすら、そこまで積極的ではなかったのに、意地でも歌那多が欲しいとお家騒動にまで発展させて嫁さんを奪いに行くほどだ、その覚悟は今までとは違う情熱に満ち溢れている。<br /> もうカノは、杜花側の人間ではない。元から市子側ではない。<br /> 欅澤杜花に、その身全てを捧げても惜しくは無いと思っている人間こそがするべきだ。<br /> ここには何かがある。<br /> 市子、二子、そして撫子。<br /> 撫子の公になっていない死因、学院の事件、市子の自殺、二子の登場。<br /> そして同時に始まった市子の遺物探しと、影潰し。<br /> それらは全て……どこかで繋がっているのではないのか。<br /> 利根河真……七星一郎が無関係とは、とても言い難い。<br /> 七星二子は、どこまで知っている?<br /><br /><br /><br /> 最近は、何かと人の眼を忍ぶような行いが多い気がする。<br /> 早紀絵は中央広場の端、目立たない木陰に設けられた掲示板からスクールロア第30号を剥がし、その足で第一中等部校舎へと向かう。<br /> こちらも最早誰にも使われる事の無くなった目安箱がある。<br /> スクールロアに対する意見や質問、そういった類の投書を受け付ける箱として使っていた。<br /> 投書は四通ある。<br /> 時間は丁度一時に差し掛かろうとしていた。休日の昼食は二時まで受け付けている。<br /> 食堂にまで赴き、昼食をとりながら投書を一つずつ開封して行く。<br />『こんにちは。いつも楽しみにしてます。今日は影の目撃情報をご提供しようと投書致しました。影を観た場所は……』<br /> これはいつもの垂れ込みである。<br /> 既存情報と被る点が多く、目新しい話はない。ちょこちょこと、今までない場所があるだけだ。<br /> 既出ではあったが、こういったファンは実に大事なのだ。<br /> 今回のスクールロアは怪奇成分が少なかった。今後の展開を考えると、影は難しいにしても、もっと面白みのある話を書いて行かねばなるまい。<br /> 早紀絵は投書に心で礼を言い、次の投書を開く。<br />『いつも楽しみにしています。発行者様は御姉様方の動向にもお詳しいのですね。杜花御姉様とアリス御姉様……まさかあのお二人が、そこまで接近していたなんて、大変な驚きです。お二人とも大変御美しく、私達のような者達からすれば、正しく高嶺の花です。しかし杜花御姉様は市子御姉様をお継ぎにはならないご様子ですね。あのような事件があった事からも、確かに鑑みるべき点はあるでしょうが、学院の象徴として、杜花御姉様には是非、妹をとって頂きたく……』<br /> 健全だ。大変健全な投書だ。<br /> そう、一般的な生徒……とまではいかないが、彼女達にとって学院の象徴こそ華なのだ。<br /> 杜花には間違いなく気質がある。早紀絵としてはライバルが増える、というよりも、美味しそうなものが寄ってきて好ましい。<br /> さして考えるべき事も書いていないので、これに関しては心の中で読んでくれた礼を言う。<br /> 次だ。<br /> 三通目は黒い封筒に入っており、紅い蝋で閉じてある。早紀絵はニヤリと笑った。いつものだ。<br />『学院に潜む謎。鍵の話、大変興味深く有ります。木楽の君、考察通り恐らくはクヌギの君と読むのでしょうが、生憎とわたくしにも心当たりがありません。一体誰が、何の為に用意したのか、何を開けるべきものなのか。形状を描写した文章から推察するに、それは部屋の鍵ではなく、一昔前に良く使われていた、南京錠の鍵ではないでしょうか。今でも小さな小屋や、小物をしまう箱に掛ける鍵としては見かけると思われます。そして、これは純粋に感想なのですけれど、怪奇分がだいぶ減っているように見受けられます……』<br /> 常に同じ封筒で意見感想を述べるハードユーザーだ。かなり鋭い考察をする子で、面白味があり、早紀絵は是非逢ってみたかった。あったら当然身体に色々聞くだろう。<br /> ともかく、南京錠ではないか、という話は同意出来る。<br /> しかし文芸部の隠し部屋で使う為の物ではなかった。<br /> 杜花達が部誌と結晶を回収した後、改めて早紀絵とメイが入り、休日一日を潰して探したのだが、何も見つからなかった。見つかったのは面白い本と面白すぎる本ばかりである。<br /> メイは大変お気に入りだったらしく、百合モノとショタモノとフタナリモノを数冊拝借して楽しんでいる。読むと発情するので、どうも最近メイとのお相手が多い。<br /> そして幻華庭園の記述をなぞっているならば、本人不在の為使途不明のお蔵入りになる可能性がある。<br /> 鞄からポーチを取り出し、中から件の鍵を拾い上げる。<br /> 市子が使用していたのか、市子ではなく……元となる利根河撫子が用いていたものなのか。<br /> もし撫子ならば、これは少し不思議な点がある。<br /> わざわざ本人が鍵に『櫟の君』とは彫り込まないだろう。<br /> よく見れば、古く趣のある鍵に対して、彫りは新しく見える。<br /> ともすると市子が入れたのか。<br /> 入れたとして……何の為にだろうか。<br /> 生憎全員鬼籍に入っている。知りえる人間は他に居ないだろうか。<br />(T生徒と、名前が出ていたK生徒か。撫子の印象が強すぎてすっかり頭から抜けてた。確か撫子の一つ下だったかな。四十年近く前じゃあ……五十五、六歳だよなあ……あとでもう一回図書館行こう)<br /> そして四通目だ。これはただ紙を二つに折られただけのものである。<br /> ――中身を開き、ギョッとする。思わず口に含んだお茶を数滴こぼした。<br />『ご機嫌は如何。貴女達がどこまで気が付いたかは解らないけれど、かなり深い部分にまで食い込んだのではないかしら。まだ不完全ですけれど、私は完成に近づきつつあります。お話したい時は、私と眼を合わせて』<br /> 絵付きのパズルというのは、終盤に向かう程パズルピースが埋まるのが早くなって行く。<br /> つまり、絵が埋まって完成したから見に来い、という事か。<br /> 早紀絵は辺りを見回す。いるのは、昼食をとる生徒ばかりだ。<br /> これは、間違いなく二子だろう。しかもほんの最近の投書だ。<br />(あの結晶、研究段階の電子記録媒体だろうな。怪しげな技術使われてそうだな……)<br /> 機械的な何か、とは聞いていたが、一体何が記録されているのか。<br /> 市子の魔力が籠っている、などと嘯いていたが、状況から推測するに、正しくそのまま市子の情報と考えた方がいいだろう。<br /> 最後の一つ、杜花の見つけた結晶は、まだ明かしていない。杜花が肌身離さず持っている筈だ。<br /> 何せ、プレゼントと一緒に寄こしたものである。その所有権は間違いなく、杜花にあるだろう。<br /> 市子の情報を集めて、その結晶が、なんだというのか。<br /> そもそも市子の情報の、つまり『何』が入っていた?<br /> 七星二子は、本気で七星市子に成り替わる気でいるのかもしれない。<br /> その情報というのは、七星市子に成りきる為のもの。<br /> 何故影が、何故ポルターガイストが、疑問は様々とあるが、逢いに行けば二子は答えてくれるだろうか。<br /> ……いや、危ないのではないか。<br /> 杜花やメイの話を聞けば、市子はあの部誌に記載されていた通りの力が使えたという。杜花の言動から察するに、では二子も同等の力を携えていると考えて間違いない。<br /> 物事は、二子の望んだ方向へ進んでいる。<br /> どこか『魔法』で介入され……自分は、用意された道を辿らせているのではないのか。<br />(あの怪物め……)<br /> 二子には言いたい事が山ほどある。<br /> どうするべきだろうか。二子が寄こした鍵も、相当に怪しむべきだ。<br /> だが、怪しんだ所でどうにもなりそうにない。二子が居る限りは。<br />「モノを読みながら食事なんて、行儀が悪いですわよ」<br />「む。アリス。お昼?」<br />「読み物を……あ、なんでもありませんわ」<br />「ううん?」<br /> アリスの手には書類が入っているであろう封筒が抱えられている。厚さからみてそこそこの量だ。<br /> 額の冷や汗を袖で拭い、正面に座るように促す。<br /> ともかくアリスも無関係ではない。いや、むしろ問題の中枢である可能性さえある。<br /> 何せアリスは『幻華庭園』に於ける序列一位の妹、『庭園の君』だ。<br /> あの物語はざっと読んだところ、最終的にクヌギは自殺する。<br /> しかも、園と躑躅に迫られた結果だ。<br /> 木苺は……クヌギという人物の……周りを……嗅ぎ回り……三人を、仲違させている。<br />(ああ、こりゃ……しんどい……ぞわぞわする……演じさせられてるんだ。なんなんだ、ちくしょうめ……)<br /> 話すべきか話さざるべきか、少しの間だけ考え、結局止めた。<br /> 知らないのならば知らない方が良い。もし二子が思考を読みとるとするならば、情報を余計に拡散して疑われる可能性がある。<br />「アリス、実はね……」<br />「どうしましたの。深刻そうですわね」<br />「今日一日お預けばかりくらって、むらむらしてるのだけれど」<br />「蹴飛ばしますわよ?」<br />「……まあそれは良いとして、今日はお暇かな」<br />「ええ。冬休みに入る前に、片づける仕事は片づけてしまいましたし……」<br /> といい、アリスがお茶をすする。<br /> 何を頼んだかと思えば、湯呑みの中身は恐らく番茶だ。金髪碧眼だが、彼女の心は純日本人である。<br />「アリスってさあ」<br />「はい?」<br />「美人だよねえ」<br />「じ、自覚はありませんけれど。人には、言われますわ。で、でも。早紀絵さんだって、そうじゃありませんの。そ、その。綺麗な顔立ちですし、細身ですし、立ち振る舞いがカッコ良くて……」<br /> そう言いながら、アリスは眼を伏せる。<br /> 早紀絵もまた、背中をくすぐられるような心地がして、思わずニヤけた。<br />「まあほら、私は見た目タチでしょう。本当はネコなのに」<br />「タチ? ネコ?」<br />「ふるーくからある専門用語。で、お暇ならデートは如何?」<br />「学院内でって……デート?」<br />「私と一緒じゃつまんない?」<br />「そんな事ありませんわ。私、早紀絵さんも好きですもの」<br />「あ、ハッキリ言うようになったんだ」<br />「偽っても面白くないってことに気が付きましたわ。現状に結構満足していますの。杜花様が元気ならもう少し良いんですけれど」<br />「色々あってね。今は生理みたいだし。あの子昔から重いのは知ってるよね」<br />「精神的に来ている時に、それが被ると眼もあてられませんわ……って食事中ですわよ」<br />「これは失礼、お嬢様。はは」<br />「もう」<br />「んー。やっぱさ、アリスといると、落ち着く。馴染みってのもあるけど、貴女の顔見てると、なんか冷静になるよ」<br />「魅力が無いってことですわね」<br />「アリスが良いならいつでもスるけど。でもほら、モリカと同じでさ、無理矢理はしたくないっていうか」<br />「気の多い人」<br />「アリスもでしょ」<br />「なんで、人は一人しか愛してはいけないのかしら」<br />「私は西洋の宗教的価値感なんて知らんからね。むしろ正妻側室沢山いて何が悪いと思ってるよ。日本の一夫一婦制なんて近代の産んだ病だ。まあほら、独り占めしたい気持ちは解らないでもないけどさ」<br />「杜花様が、そのぐらい愛に寛容ならば、良かったのですけれど」<br />「……愛というかな。あれは」<br /> メイからも聞いて知ってはいたが、杜花から直接語られる機会があった。アリスにも話したという。<br /> 確かに欅澤杜花は七星市子を限りなくどこまでも愛していた。一心同体、まさしく半身である。<br /> そして、彼女達は既にそんなものを通り越して、共依存も真っ青な依存の領域に足を突っ込んでいた。もうそうなると、愛が恋がなどと言っていられないだろう。<br /> 杜花は半身を失った。つまり死んでいるのだと。<br /> 半身が死んでしまった人間が、何故他の人間に愛を説けるだろうか。<br /> しかし彼女は、肉体的に生きている。<br /> 精神だってすりへってはいるが、人間の領域にある。<br /> 逆にそれがいけないのだろう。<br /> 狂えないからだ。<br /> 狂っていたのならば死ぬか無茶をするか、どちらかで済ませられるだろう。<br /> 故に彼女はまだまだ常識人だ。だからこそ、悩むのだろう。<br /> 満田早紀絵と、天原アリス。どちらもかけがえの無い友人に迫られて。<br />「因果な人、好きになっちゃったね、アリス」<br />「全くですわ。それで、答えはいついただけるのかしらね」<br />「ああ、問題解決した後って話?」<br />「もう解決したのでしょう。二子さんが先ほど戻られて、私にそう、教えてくださいましたけど」<br />「なぬ?」<br />「協力有難う、全部そろったって」<br /> それは、どういう事だろうか。<br /> 最後の結晶はまだ杜花の手にある筈だ。二子に対する交渉材料にもなりえる為、杜花がそう簡単に手放すとは思えない。<br /> アリスの勘違い、は、ないか。二子から直接言われたとなると……いや、まて。<br />「『早紀絵にも伝えて』とか、言わなかった?」<br />「言ってましたわ」<br /> ブラフだ。<br /> アレが杜花達が部屋を探している事を知っているとするならば、もう既に手に入れているのではないかと予測し、カマをかけた可能性がある。早紀絵が驚いて二子に突っ込み、状況が露呈する事を狙ったのだろう。<br /> 小賢しい真似をすると、早紀絵は心の中で舌打ちする。<br /> ただ、いきなり頭の中を覗かないだけ紳士的だろうか。一応、引け目があるのか。<br /> いや、違う。恐らく、杜花にこっぴどく叱られたから、だろう。<br /> 七星二子は欅澤杜花に嫌われる事を極端に恐れている。<br />「まだ見つかってないよ」<br />「あら、じゃあ二子さんの勘違いですの?」<br />「アリス、二子の発言は気を付けた方が良い。気を付けてもどうにもならないかもしれないけど」<br /> しかし状況が動かないならば、此方側の思考を読んでくる可能性は高い。遅かれ早かれ気づかれる。<br /> 早めに喧嘩を吹っ掛けて、イニシアチブを取った方が優位だ。後手後手に回った場合、あまり宜しくない予感がする。<br />「所謂『魔法』というものですか?」<br />「そ。訳わかんないけど」<br />「一度、私も掛けられましたわ」<br />「どんな感じ」<br />「最悪ですけれど、全部否定する事もないと、思いましたの。あれ以来好調ですわ」<br /> 思考の印象操作もあり得るだろう。アリスの話も全て鵜呑みに出来ない。しかし友人を、可愛く思っている人を信用出来ないというのは、想像以上に不快感が大きい。<br /> どうやら杜花はあの干渉を受け付けないと見えるが、以前二子を殴り飛ばした際、記憶を読まれたと漏らしていた。<br /> となると、杜花も既に……。<br /> ではその周囲も……自分も……。<br /> ダメだ。<br /> 頭の中を空想の平手で殴りつける。これでは疑心暗鬼だ。味方が観えなくなる。<br /> しかし二子の目的が観えない限り、対処しようが無い。二子はあれでいて、取引にはシビアだ。<br /> そちらに望みをかけて、交渉に挑んだ方が良いだろう。<br />「ごめ、アリス。自分から誘っておいてなんだけれど、デート無理かも」<br />「そうですの。じゃあ、今度休日にでも。共同で申請を出しておきましょう」<br />「アリス」<br />「はい?」<br />「惑わせて、ごめんね。やっぱり私、貴女も杜花も好きだ」<br />「……ん。ずっと三人で、居られると良いですわね」<br /> アリスが顔を赤くする。<br /> 立ち上がり、周囲の視線を確認してから、アリスの頬にキスをする。どんな反応を見せるかと思ったが、アリスは動じない。思いの外耐性が付いているのだろうか。<br />「にゃ、にゃああ……」<br />「うわ、ゆでダコじゃあるまいに」<br />「ああ、ああ恥ずかしい。じ、自分からあんなことしておいて何ですけれど、人からされるとこんなに恥ずかしいなんて!」<br />「あ、アリス声でかい、バレるバレる」<br />「はふ。も、もう行ってくださいまし。貴女の顔、まともに見れませんわよ」<br />「あいあい。くふふ、可愛いなあもう」<br />「だからぁ……」<br />「またあとでね」<br />「あとで、な、何をする気ですの?」<br />「し、しないよ。無理矢理は」<br /><br /><br /><br /> すっかり良い気分になってしまっているアリスを残し、食堂を後にする。二度手間だが、もう一度図書館に用事がある。探索者は足が基本だ。これも仕方が無い。<br /> しかし、先ほどの今、織田楓にもう一度顔を合わせる事になる。昼時であるし、交代している可能性もあるが、どうだろうか。早紀絵はその足を第二校舎に向ける。<br /> 流石に昼という事もあり、あちこちに生徒の影が見てとれる。顔見知りなどに手を振りながら、件の図書館にまでたどり着いた。<br /> 少しだけ緊張した面持ちでドアを開くと、受付に居たのは別の生徒であった。<br /> ラインの色からして三年生だろう。<br /> ほっと胸を撫で下ろす。<br />「織田さんは?」<br />「織田楓さん? さっき交代したの。どこかは解らないわ」<br />「そっか、ありがと」<br /> 適当に返し、早速Hの棚にまで赴く。<br /> 入口からは死角になっている為、もし戻ってきてもいきなり出会う事はないだろう。<br /> 早紀絵は女の子が好きではあったが、空気は読みたい方なのだ。こういうものは時間を置いているからこそ情緒がある、とそう思っている。<br /> H棚を漁り、三十年度の卒業アルバムを見つける。アルバムは全て似たような装丁だ。<br /> 机には持ち込まず、その場にしゃがみ込んでツラツラと眺めて行く。<br /> T生徒が利根河であったのなら、おそらくK生徒も苗字だろう。願わくば中退などしていない事を望む。<br /> 柿崎、唐沢、神岸、神崎、紀伊、北川、北田、北守……とにかくKは多い。<br /> 一組から順に眺めて行き『妹っぽい』もしくは『次の御姉様』っぽい人物を洗い出していく。<br /> が、答えは驚くほど明確に表れた。<br />(ケ……ケ……欅……澤……花……)<br /> 愕然とする。<br /> 利根河撫子を見つけた時よりも、更に大きな、見つけてはならないものを見つけてしまった悪寒がある。<br />(そうか、年代的にまるかぶりだもんな。あ、あの妖怪婆、若い頃杜花そっくりだな……目つき少しきっついけど、こりゃそそるなあ……美人だし可愛い……ってもう五十五だけど)<br /> 欅澤家当主、欅澤花(はな)だ。<br /> 娘で杜花の母親は欅澤杜子(もりこ)である。<br /> 欅澤一家は女系家族で、卒業後は直ぐに婿を取って子を成している。相対的に一族の男性は力が弱い。<br />(いや、まてまて。Kだからって撫子の妹とは……限らないけど……でも、出来すぎてるんだよなあ)<br /> 順当に『こじつける』ならば、間違いはあるまい。これは杜花に一度、確認を取る必要がある。<br />「あ、楓御帰り」<br />「先輩、今日は私、当番変わりますよ」<br />「あら、じゃあ私自由にしていいの?」<br />「はい」<br />「なんでまた」<br />「あ、ええと。その、受付にいればその、もしかしたら、えへへ。何でもないです」<br />「……良い子でも見つかったの? 気をつけなさいよ、織田の子が、適当なのに引っかかったりしないでよ」<br />「だ、大丈夫です。立派な所の人ですし……って、もう。先輩」<br />「ふふ。そう。ならいいけど」<br />(アカン)<br /> さっさとメモして逃げるべきだったものを、暫く欅澤家に想いを馳せていたお陰でスッカリ忘れていた。<br /> しかし織田の子。<br /> わざわざそういうぐらいだ、恐らく地方財閥織田のご息女か。美味しすぎる愛人である。<br /> いや、そうじゃない。<br /> それどころではない。<br /> 今出会うと、なんだかとっても探索どころでは無くなってしまう。<br /> やがて先輩らしき人物が外へ出て行く音が聞ける。<br /> 生憎この図書館、人気は少ない。皆一体どこで勉強しているのか、と思ったが、早紀絵もここで勉強した覚えがない。大体平日中に本を借りて、休日は寮である。<br /> 何せここは他の寄宿舎からすると遠い。来るとなると白萩の面々だろう。<br /> 棚の陰からチラリと楓の様子を覗く。<br /> 彼女は――何か夢見がちに天井を見上げていた。<br />(わ、我ながら自分の魅力の高さに驚かされるぜぇぇ……)<br /> 自分ではネコだと思っているが、世間はそう思ってはくれないらしい。<br /> 交際を迫られる事は多々あった。勿論えり好みして、現在早紀絵は十数人関係を持っている。<br /> 流石に手は出していないが、小等部にも居る。<br /> ある意味、この学院で爛れた意味で御姉様といえば、満田早紀絵だ。<br />(よし、なんだか色々する事あるけど、諦めよう)<br /> 諦めた。<br /> そもそも、求めてくれる可愛い子に施さないのは早紀絵のポリシーに反する。<br /> 人格者っぽく今日は行こうなどと思ったが、普段の行いが悪すぎる。それに今日はお預けばかり食らっている。<br /> 早紀絵はさっさとメモを済ませ、本を棚に戻す。頭を阿呆に戻す。<br />「――あっ」<br />「戻ってきたんだね、楓」<br />「あ、そ、その。早紀絵様、いらっしゃったんですね。ま、待っててくださったんですか?」<br /> 早紀絵を認めた途端、楓の顔が真っ赤になる。アリスとはまた別の趣があって楽しい。<br /> いやあ自分は最低な人間だなと思いつつ、まあ楽しいので良いかと適当にする。<br />「そ。用事も済ませちゃったし、手持無沙汰で」<br />「手持無沙汰?」<br />「うん。女の子近くに居ないとさ、なんか寂しくって」<br />「早紀絵様は、あの、沢山、色々な人と、お付き合いが?」<br />「あるよ。沢山。ダメかな?」<br />「だ、ダメじゃないです。その、早紀絵様のような人は、お妾さんが沢山いるの、普通ですし」<br /> 確かに、いまどき女性で権力のある人は、夫以外に愛人が沢山いたりする。<br /> 先進国における性病の根絶と、女性同士、男性同士の権利が認められた所為か『恋の楽しみ方』もまた変化が出て来た現代だ、バイセクシャルを公言する人は格段に増えている。<br />「でも、いいのかな。織田といえば、織田財閥のご息女でしょう。私みたいなのに、捕まって」<br /> カウンターごしに手を差し出すと、楓はその手を取る。<br /> 触れた瞬間彼女は、電気でも走ったかのように震えた。<br />「お、おウチはその。良いんです。御姉様達がいるし……。私なんて末子ですから……」<br />「苦労してるねえ。織田ともなると、やっぱ個性強そうだし」<br /> 手を取り、口元に運ぶ。<br /> 突き出された中指の爪に歯を立て、それから、先へ先へと、舌を絡ませて行く。余程衝撃的だったのか、楓は眼を見開き、今にも倒れそうな顔をしている。<br />「綺麗な手。好きだよ、こういう手」<br />「あ、あふ。うそ、手、ああ、汚い……ですから……」<br />「敏感だねえ。キスも、まだかな」<br />「は、はい。まだ……です」<br />「じゃあ、私が貰っちゃおうかな」<br /> そういって、楓に顔を近づける。彼女は呆けた顔して、瞳をゆっくりと閉じた。<br /> 心の中でいただきますをする。<br />「サキー、いま……したね」<br /> ガラリとドアが開く。<br /> 眼の前では情事。<br /> 早紀絵と楓は硬直したまま動かなくなる。恐るべし欅澤杜花、気配がない。<br /> 普通足音ぐらい廊下から聞こえてきそうなものだが、それが全くなかった。<br />「どうぞどうぞ」<br />「じゃあ僭越ながら」<br /> とはいえ、今更早紀絵の性癖および愛人数を知らない訳ではない杜花がどうぞというのだから、躊躇う必要もない。<br /> びっくりしている楓を無視し、唇を奪う。早紀絵はチラリと、杜花に視線を向けた。<br />「あ、そ、そんな。ひ、ヒトの、見てる前で……」<br />「慣れておかないと、後で大変だよ」<br />「人前でそんなすごい事しちゃうんですか」<br />「するする。あ、やっほ、モリカ。顔色戻ったね?」<br />「はい。スッキリしました。ちょっと御手洗いは行くかもですが、もう痛みも熱もありません」<br />「そりゃ良かった。そうそう。杜花に用事があったのよね。あ、楓?」<br />「はひ」<br />「何度もお預けしてごめんねえ。続きはまた今度、ね」<br />「い、いつです?」<br />「じゃあ明日の放課後」<br /> 楓が無言で頷く。なんとも忍耐強い子だ。<br /> いやもっと色々と言うべき事もあると思うのだが、楓はそれで良いらしい。アレな女の子につかまってしまったという覚悟があるのかもしれない。<br />「サキ、それで、何でしょうか」<br />「ちょいきて」<br /> 杜花を伴い、再びH棚に向かう。<br /> 29年度と30年度の卒業アルバムを手に取り、先ほどと同じようにしてテーブルに広げる。利根河撫子、そして欅澤花の符合に、杜花が眉を顰めた。<br />「これが、魔女。まるっきり市子御姉様ですね。こっちも、間違いなくお婆様です」<br />「あの妖怪、いや、花婆ちゃん何か、撫子について言ってなかったかな」<br />「何も。逆に言えば、不自然なほど、学院での生活について、語った事がありませんでした。お母様は良くお話してくれたんですが」<br /> 学院の創立は平成期。2000年4月からで、今年は2067年だ。<br /> 三代に渡って学院に御世話になっている。この一家の長たる祖母が、何も語らないのは不自然だ。<br />「しかし、これ言っちゃなんだけど、杜花の家だよね? 良く婆様も母様も、ここ入ってたね」<br /> 御世辞にも安いとは言えない学費を払う事になる学院だ。杜花は特待生だが、まさか三代続けてと言う事もあるまい。<br />「お婆様の頃はまだ、良い所の女子校、程度だった筈です。お母様はお婆様のコネクションからでしたね。それでも今よりずっと学費が安かったと思います。そもそも運動特待なんて取らないこの学院が、私を取っているのが良い証拠で。ああそれに、女学院ブランドとして推し進めたのは、ここ最近でしたね、確か。それに伴って、学費もあがっている筈」<br />「なるほど。コネあったんだ」<br />「どこのコネかは、知りませんけれど。ええ、だからつまり、全部お婆様なんです。お婆様、そう言う事はあまり話さないから」<br /> ますます怪しく思えてくる。<br /> 早紀絵は何度か、長期の休みに入るたびに、実家ではなく欅澤家に宿泊しているので、花とは面識がある。大変若々しい人で、杜花のお母様、と言われても誰も疑問に思わないだろう。そして母の杜子に関しては、もはや早紀絵が興奮するレベルだ。<br /> それはともかく、欅澤花は利根河撫子と、少なくとも繋がりがあると見て良いだろう。<br /> 妹かどうかは別として、当時の状況を知る貴重な人間だ。問題といえば、直ぐに外に出れるような状況にない事、そして電話如きで話をしてくれるような人物ではない事だろう。<br />「何の物証もありませんが、状況証拠としては疑って然るべきでしょうね」<br />「……何が、あったのかな」<br />「運命」<br />「はい?」<br /> 杜花がポツリと、そんな言葉を漏らす。<br /> 何かと唯物主義的で、オカルトこそ好きだが心からは信じていない早紀絵である、運命なんて曖昧な言葉を杜花の口から聞くと、不思議な感じがしてならない。<br />「市子御姉様の葬儀を終えて、一郎氏と食事をして、自宅に戻った後の事です。お婆様に呼ばれて、腐った私はまた道場に投げ飛ばされるのかと思ったんですけれど、それもなくて。『どうして、こうなるのか。因果か、呪いか。甚だ、運命は恐ろしい』って、そんな事を言っていたと思います」<br />「どういう状況で?」<br />「それは七星の子でしたね、って」<br /> 知っているのだろう。<br /> そして、孫がまた、そんな境遇に陥ってしまった事を、嘆いたのかもしれない。<br />「まあ、あの婆様が、電話口では」<br />「無理でしょうね。面と向かってきかないと。この問題を喋るとも、思えない」<br />「そうだ、モリカ、結晶、まだ持ってるよね」<br />「はい。渡していませんよ」<br />「ふン。だろうなあ。あいつめ」<br />「二子が何かしましたか」<br />「もう全部集まったって、アリスに語って、アリスから私に伝えるようにしてたの。明らかに」<br />「カマかけですか。どうしても欲しいみたいですね」<br />「市子からのプレゼントとして貰ったんだから、モリカに所有権があるよね」<br />「生憎、無いんです。私生真面目にも、誓約書書いてしまったので」<br />「ああ、なんて愛らしい馬鹿」<br />「馬鹿なんて酷い。こんな事になるなんて思ってなかったんです」<br /> もう、と言いながら、杜花が早紀絵を小突く。どうやら調子は戻ってきている様子だ。<br /> あのまま腐られた場合どうするべきかと考えていたのだが、その心配もなさそうだった。<br /> 結晶を渡す誓約書、それはどうでもいい。<br /> 手の内にあると言う事だけが問題だ。眼の前に突きつけて、お前の知っている事を喋らねば、杜花が叩き折ると脅せれば良いのである。<br /> ここまで来て、何も知らないまま終われない。杜花とて望まないだろう。市子への想いに整理を付けるどころか、このままでは無茶苦茶にしただけになってしまう。<br />「それにしても、この利根河撫子さんは、何故亡くなったんでしょう」<br />「謎。ちょいと裏技でネットも探してみたいんだけれど、この校長の言う事件らしい事件は無かった」<br />「アレと同じでしょう」<br />「あれ?」<br />「ほら、以前話したじゃないですか。校門前で銃殺された男の話」<br />「ああ。問題にすると問題になるから、ひっそり葬られた人の事か」<br /> 十年以内の話である。<br /> 校門前に拳銃を構えた男が躍り出た所を、警備隊によって射殺された事件だ。<br /> 警察即時対処権限、国防軍即応事例権限、双方の許可により、男は銃を構えて十秒で始末されている。校門近くに居た生徒がそれを目撃したとされており、後にニュースにもなったが、国籍、職業は伏せられ、名前すら仮名であった。<br /> 確かに、観神山女学院 事件で検索しても、これに該当するようなものは引っかからなかった。<br /> 学院が体面を気にして、七星に働きかけたのか、七星が嫌ったから、学院が配慮したのか。不明ではるが、こういったものはどうやら表に出ないような構造になっていると、考えた方が良いだろう。<br />「事件、知ってそうな人いるかなあ」<br />「一人居ますね」<br />「ほう。そんな情報源が?」<br />「警備隊長さんです」<br /> 警備隊長。杜花がやり合っている、という女性隊長だろう。<br /> しかし彼女は軍人だ。守秘義務がある。下手をすれば軍事裁判だ。そうやすやすと話すとは思えない。しかし何の手掛かりもないまま手を拱いてるというのも、当然性に合わない。<br />「いってみよっか。非番じゃないと良いけど」<br />「さっき見ました。少し考えがあります」<br /> そういって、杜花が椅子を引いて立ち上がる。今朝までの不調が一切感じられない動きだ。緩慢さは無く、キレがある。それでこそ大好きな杜花だなと、早紀絵は顔を赤くする。<br /> やはり、杜花には前を向いていて貰いたい。<br /> 前を歩いていて貰いたい。<br /> 頼りにして貰いたいが、頼ってもみたい。<br /> 彼女と出会ったあの時の平手は、ずっと早紀絵の心に残っている。それが例え、市子に言われたからやったとしても、むしろ杜花に出会わせてくれた事を感謝しなければならないと思うほどに、早紀絵は杜花が好きだった。<br /> 彼女を叱りたくなどない。むしろ、叱って欲しいのだ。<br /> ほとほと自分はダメ人間だと、心の中で嘲笑する。<br />「ええと、楓さん、でしたっけ」<br /> 受付を通り過ぎようとしたところ、何故か杜花が、楓に声をかけた。楓は読んでいた本を仕舞い、杜花に向き直る。<br />「はい。織田楓です。欅澤杜花さんですよね」<br />「サキの事ですけれど」<br />「は、はい」<br />「この子、中身はネコでマゾです。キツい態度で責めてあげると、もっと好かれますよ」<br />「ええ、何その助言?」<br />「本当ですか! 私頑張ってみます。ありがとうございます、杜花さん」<br />「とんでもない」<br />「ちょ、モリカ、あのねえ……」<br />「早紀絵様。私その、処女ですけれど、頑張って早紀絵様の事引っ叩いてみたいと思います」<br />「やめて」<br /> 受付を通り過ぎ、廊下に出る。杜花は何を考えているのかと顔を覗くと、なんだか嬉しそうに笑っていた。<br />「前、アリスさんの前だから言えないって事、言いましたよね」<br />「あったね。気になってたけど、聞く機会逃してた」<br /> 一番最初の結晶を見つけた、生徒会三役室での事だ。<br /> 早紀絵の嫌いでは無いのだろう、という発言に対して、杜花は何かを言いかけて、アリスの前では言えないと、躊躇っていた。<br />「私、ほら、サディストですから。初めて貴女を打った時、想ったんです。ああ、なんて殴り心地が良い子なんだろって」<br />「すげえ聞きたくなかった!」<br />「ふふ。それは冗談にしても、ずっと思ってた事があります」<br /> 廊下を歩きながら、杜花が言う。その目はどこか遠くを見ていた。<br /> 追憶に対する憂いか、はたまた哀愁か。<br /> この格闘怪物にして美少女、欅澤杜花が見せる、本当の『御姉様』らしい瞳である。<br />「私自身は、市子が居たからこそ、私がある。けれど、もし市子が居なかったら、きっとサキやアリスに、恋してたんじゃないかって、そう思ってました。市子が薄れていって、貴女達が前よりずっと近くに居るようになって。市子が居なくなった寂しさを、どこかで紛らわせたくて、嘘を吐いて、誤魔化して、気にしない振りをして、こんなのずるいって考えて、でもやっぱり、貴女達は優しいから、私の事を、チヤホヤしてくれる」<br />「だって、好きだもん。別に貴女が誰好きでも、私はモリカが好きだから。あ、さっき楓にキスして嫉妬した?」<br /> いや別に。<br /> まさか。<br /> そんなことありません。<br /> 今までの杜花ならば、そのような躊躇ない言葉を早紀絵に言い放っただろう。<br /> しかし、杜花の向ける目線は、他人同士、友人同士ではあり得ないものだ。<br /> 早紀絵の鼓動が大きくなる。<br />「行きましょう」<br />「う、うん」<br /> 杜花が空気の流れを絶ち切るようにして、前を歩く。早紀絵はそのあとを付き従った。<br /> 違う。<br /> 今までとまるで違う。<br /> 今までどれだけ誘っても靡かなかった杜花が、早紀絵に特別な眼を向けている。彼女が精神的に疲れ、寂しさを抱えている事は、知っている。知っているが、ずるくとも、それはやはり嬉しかった。<br /> この前の支倉メイが、無理に迫ったのも、効いているのかもしれない。<br /> 早紀絵はやはり優しすぎた。<br /> 本来なら、もっと罪悪感に付け込んでやっても良かった筈なのに、早紀絵は杜花を想うあまりに、それだけはしてこなかった。<br /> アリスとて同じだ。<br /> 早紀絵の手腕をもってすれば、早紀絵に気のあるアリスとて『無事』では済んでいないだろう。<br /> だが、アリスに対して無理に迫るのも、憚られた。嫌われるのではないかという、ほんの少しの可能性が怖かったのだ。<br /> 早紀絵はみんな好きだ。<br /> 自分を求めてくれる子、求めて欲しい子、えっちな子、えっちが苦手な子、優しい子、きつい子、様々と居る。様々と関係を持っている。<br /> あり得ない話だが、彼女達全てに嫌われるより、杜花とアリスに嫌われるのが嫌だった。<br />「モリカ」<br />「はい」<br />「……ううん、何でもない。ほら、もう南門だ」<br /> 指差す先には、学院正門たる第二南門がある。<br /> 第一はここから少しいった先に設けてある、警備隊寮前の検問だ。南門は内側から見て左側に詰め所があり、門の前には内と外に近年採用された最新式66式自動小銃を構えた警備員が二人立っている。<br /> 今は門が開かれ、搬入トラックを迎え入れている所だ。<br />「運が良い。国防軍側ですね」<br /> 杜花の話では、国防軍と警察で門警備を持ち回りしているらしい。<br />「お疲れ様です」<br />「はい、お疲れ様。外出かい? でも制服だね」<br /> 杜花が頷く。この学院、制服で出掛ける生徒はいない。<br />「高等部二年一組の欅澤杜花です。あのトラックは? 普段見ないものですね」<br />「ああ、なんだか改装工事の機材らしいよ。冬休みに入るから、その間に工事するんじゃないかな」<br />「――なるほど」<br /> 杜花が一人納得する。確かに、普段見ないものだ。<br /> 工事用の機材というが、早紀絵の知識から行けばそれは、精密機械を運び入れるような、特殊なトラックである。中型で気密性が高く、衝撃を和らげるためにタイヤも少し違うものだ。<br /> もしかしたら三次元図面を展開する装置かもしれない。<br />「それで、何か用事かい?」<br />「はい。隊長さんにお話がありまして。取り次いで頂けますか」<br />「国防側のね。三島軍曹なら中にいるよ」<br /> 兵士の一人が詰め所内に声をかける。<br /> 中から出て来たのは、冬だというのに都市迷彩柄のシャツにズボンという出で立ちの女性である。明らかな逆三角形が、その鍛え方の違いをうかがわせる。<br />「おおー、欅澤さんじゃない」<br />「ごきげんよう、隊長さん」<br />「ご、ごきげんよう」<br />「あら、なんだい、デートでもしてたのか? そっちの子も可愛いねえ」<br />「同じクラスの早紀絵です」<br />「彼女か。宜しく。三島雪子特地軍曹だ。それで、なんだい?」<br /> 三島軍曹がカカと笑う。豪放な人だ。<br /> ベリーショートの一歩手前の髪型とその筋肉は、後ろから見れば男と見紛うだろう。<br /> 顔立ちは若いく、なかなか整っているが、聞きかじった経歴からするに、四十代の筈である。<br /> 大陸の内戦に平和維持軍として参加、三つの都市でそれぞれ功績をあげたという話は伊達ではなさそうだ。<br />「実はお話がありまして。少しお暇を頂けますか?」<br />「お、ほんとかい。実は暇してたんだよね。おう、ヤス、サブ、ちゃんと見張ってろよ。虫一匹入れてみろ、キンタマ毟って猫の餌にするからな」<br />『イエスマムッ』<br /> 二人、ヤスとサブが敬礼する。杜花と早紀絵は会釈し、三島軍曹にご同行願う。<br />「三島っていうんですね。どこかの作家みたい」<br />「名前も雪子だからなあ。割腹してみろーって虐められてなあ」<br />「どうしたんですか?」<br />「割腹させた」<br />「あはは」<br /> 笑えない。だが杜花は嬉しそうだ。<br />「ま、それは冗談として。どうしたんだ、アンタから声かけてくれるなんて。男日照りすぎて男染みた私に目でも付けたか?」<br />「それは間に合ってます。男じゃなくて女ですけれど」<br />「欅澤さんはモテそうだもんなあ。御姉様って奴かい」<br />「生憎自称はしていませんが、呼ばれはしますね」<br />「羨ましい。私なんて学校時代の渾名は『アニキ』もしくは『アネゴ』なんだぜい?」<br />「まんざらでも?」<br />「ないねえ。まあほら、昔から血の気が多いからさ。下でへばってた時は辛かったが、今は威張れるからね」<br />「天職ですか」<br />「まさしく。御国が呼んでくれれば、いつだって戦争行くよ」<br />「頼もしい限りです」<br />「お。流石に反応が違う。大体こういう話は女生徒にすると引かれるんだがね」<br /> 二人の会話を聞きながら、杜花の後を追う。<br /> ついたのは杜花がいつも訓練している中央広場の芝生だ。三島軍曹も察していたのか、肩や首を回してウォームアップを始める。<br /> 杜花は芝生につくと、スカートを短く捲り、上着を脱ぎすて、靴と靴下を投げて放った。<br />「それで、どうしたい。お話と聞いたが。肉体言語か?」<br />「少し昔の話を伺いたいんです」<br />「解った」<br /> あっさりという。流石にそれは簡単すぎないだろうか。<br /> 機密事項を漏らす事は、軍事裁判を意味する。一昔前の日本のように、技術や情報の漏えいが笑って許されるような時代ではないのだ。<br />「い、いいんですか、内容も聞かず?」<br /> 早紀絵がそういうと、軍曹は頷く。<br />「勝ったら喋れってんだろう。私は大好きだねそういうの。別に他に漏らしたりしないだろう?」<br />「勿論。誓いましょう。宜しいですか」<br />「宜しい。おお、すげえ、なんて眼するんだ。こいつ私を殺す気か? くっはははッ」<br /> 杜花の帯びる空気が変わる。<br /> 映像の向こうで見るようなモノとは違う。<br /> 勿論学生たちとスパーリングするものとも違う。杜花が本気を出して然るべき相手なのだろう。<br /> しかし良いのだろうか。もしどちらかが怪我をした場合、問題になるのではないか。幸い目立つような場所ではないが、チラホラと生徒も見かける。<br />「も、杜花。大丈夫?」<br />「大丈夫です。いつもしてますから、その延長です」<br />「そうそう。気にすんねえ彼女ぅ」<br /> 二人の間は3メートル程度。<br /> 杜花は自然体のまま、軍曹は腰を低くしている。レスリング金メダリスト候補と目されたが、緊急任務の所為で参加出来なかったと言われている。<br /> 杜花が戦っている姿は何度か見た。しかし気迫が違う。<br /> 早紀絵は気が付く。これはスポーツでは無いのだ。<br />「フッ――」<br /> 杜花が一歩踏み込む。同時に軍曹は足を狙って突っ込んだ。タックルというものだろう。<br /> 杜花の足が取られる。しかし……杜花はそのまま、掴まれた片足を、振り回した。<br />「どぅぉッ」<br />「浅い」<br /> ――人ひとりを、片足で振り回すなんて真似を、普通の人間が出来るのだろうか。<br /> それが当たり前なのだろうか、彼等からすれば、そんな事も想定して然るべきなのだろうか。<br />「ぶっふ。怪物。どんな筋力……違うな、合気か」<br />「詳しい原理を説明出来る頭はありません。ただ、私には『解り』ます」<br />「総合若年チャンプって言葉で片付けられる相手じゃないなこりゃ」<br />「ご存じでしたか」<br />「なんとなく耳にはしてたよ。悪いね、格闘技はだいぶ、遠ざけててさ、積極的に調べないんだ」<br />「悔しかったんですね、オリンピック、出れなくて」<br />「辞退以降スッパリ止めたよ。格闘技のカの字だって見たくなかった。でも」<br /> 軍曹が迫る。杜花の腕を捕まえた。<br /> そのまま股の間に身体を潜り込ませ、肩に担いで横に投げ飛ばす。<br /> 杜花は予測していたのか、地面に叩きつけられる前にブリッジで跳ねあがる。軍曹は警戒してそのまま離れた。<br />「普通かわせるかね、それ。てかどんな回避方法だ……」<br />「人に投げられたのは、五年ぶりです。すごい。なんて反応。寝技来ないんですか?」<br />「アンタの寝技未知数だからな。でも解った。アンタはスポーツでも格闘技でもない、仕合いがしたいんだ」<br />「済みません、ストレス溜まってて」<br />「いいや、良い。国民の精神衛生を保つのだって軍の仕事さ、本気だ、来な、チャンプ」<br /> それを、格闘技を知らない早紀絵がどう形容したものか。一瞬の出来事である。<br /> 眼にもとまらぬ速さで杜花の腕を取りに行った軍曹の腕を、自分の腋に挟み込み、杜花はその上体を軍曹の懐に潜り込ませた。<br /> そのまま、一回転、物凄い勢いで軍曹が地面に叩きつけられる。<br />「ぐぉぉああてってぇぇぇぇッッ」<br />「一本」<br />「うっへ、げほっ! ばっか、お前それ、信じらんね、脇固め巻き込み? 頭おかしいぞッ」<br />「済みません、隊長さん、物凄い殺気だったから」<br />「うは、靭帯伸びたかも。こりゃ医療保健室だな。くひひっ……あー、負けたあー」<br /> どうやら勝負はついたらしい。<br /> 芝生の上に軍曹が身体を投げ出す。早紀絵は目の前で何が起こっているのか、追うので精一杯であった。少なくとも、これが一般人の戦いでない事ぐらいしか解らない。<br />「モリカ、今の何」<br />「ウチの流派だと折風と言います。脇固めからの腰投げですね。大変痛いです」<br />「あー、古武術やってるっていったっけ。ねえ、欅澤さんや」<br />「はい」<br />「アンタ、人間の反応速度超えてるでしょ。此方が動き出してからの反応じゃなく、まるで全部予測して動いてる。こりゃ、拳銃持っても敵わん」<br />「少し勘が良いんです」<br />「脊髄反射高速化手術とか、伝達速度向上化訓練とか、受けてる? 受けてたら試合出れないか……」<br />「……生憎ナチュラルですよ」<br />「うへ、本物か。いるんだな、こういう怪物……アンタに喧嘩売るの止めようかな」<br />「それは困ります。私、貴女と仕合うの楽しみなのに」<br />「ご評価どうも。さあて、何が聞きたいって?」<br /> そういって、軍曹が起き上がり、腕に付けた端末を弄りだす。<br /> 軍事用の高速衛星回線付き携帯端末だ。彼女が何かしらを入力すると、指向性ホログラムが周囲に広がる。本人にしか見えない。<br />「えーと、特定地域防衛派遣国防官観神山女学院駐屯部隊統合隊長三島雪子特地二等軍曹承認申請。承認。何聞く?」<br />「この学院で、占拠事件はありましたか」<br />「ふむ。あれかなあ。観神山女学院防衛指南、過去事例。二件。占拠事件は一件。三十九年前か」<br />「はい」<br />「あった。あるぞ。どうする」<br /> どうやら、軍曹の権限でアクセス可能な事案らしい。確かに、過去の事件ぐらいならば参照出来て然るべきだろう。<br />「軍曹さん、特定されたりとか、大丈夫?」<br />「ああ。これはここの防衛マニュアルの一つにあるな。だから、私の部隊の人間なら誰でもいつでもだ。問題ない」<br />「つまり、あったんですね、占拠事件」<br />「あるな。詳細必要か」<br />「是非」<br /> 軍曹が頷く。気持ちいい程に、直感的な人だ。<br /> 軍曹が事件の概要を映しだしたホログラムを無指向に切り替え、早紀絵と杜花にも見えるようにする。<br /><br />『観神山女学院占拠事件 中度秘匿事項。一般公開不可。少数名公開する場合は所属方面師団師団長許可を得る事。2028年10月。大陸急進派の後援を受けた内患20名による観神山女学院占拠事件。死者5名、自殺者1名、重軽症者40名。格差是正を叫び、理不尽な要求を下に生徒達約100名を人質に高等部第一校舎に立て籠る。高等部2年桑田幹枝、高等部2年四方田海を第一校舎にて見せしめに殺害。後に脱出を図ろうとした高等部1年如月七江、高等部1年千葉あきを第一校舎にて殺害。警察特殊部隊突入直前、混乱に乗じて逃走した高等部1年大聖寺誉を生徒会活動棟にて殺害。同じくして逃走していた高等部2年利根河撫子は被疑者に反抗、殺害された大聖寺誉を背負ったまま学院内を逃げ回ったが、部活棟に追い詰められ自殺を図る。警察では事態に対処出来ないとし、自衛隊に協力要請、5時間後に承認が下り、事件発生後17時間。自衛隊特殊作戦群小隊到着。被疑者の装備、備蓄から鑑みて長期化は不利と判断、強襲作戦を決行、約1時間で5名が射殺、3名が生徒によって殺害、12名が逮捕される。特殊作戦群小隊の被害は完全秘匿。特異事例であり、当時は内外からの反発必至とされた為、2028年11月未明、事件の詳細は中度秘匿事項とされる。事件の詳細データは以下の通り――』<br /><br /> 早紀絵は、思わず顔を覆って膝をついた。杜花も俯いたままである。<br />「酷いもんさ。当時犯人が撮影した映像もあるが、見るか。見ない方がいいな。約16人が強姦されてる。生きてはいるが、半身が不随になった子もいた。ここに着任した当時見せられたが、胸糞が悪くて吐きそうだったよ。それに当時の警察、その上の奴らの対処の遅い事遅い事……当時はさ、アンタ達が想像出来ない程、犯罪者に対して寛大だったんだ。恐ろしいったらないねえ」<br /> 噂では聞いていた。<br /> この他の占拠事件でも、被害は大きかったとある。外の事件として受け取るならば良いが、いざ学院内で起こった事、しかもそれが、関わりのあるかもしれない人物の出来事であったとなれば、受ける印象もだいぶ違う。<br />「サキ、いいよ、私がメモします」<br />「……ごめん」<br />「――利根河撫子について、何か情報はありますか。それと、大聖寺誉(だいしょうじ ほまれ)についても」<br />「どうやら深い仲だったみたいだな。恋人が殺されて、それを背負って逃げ回り、部活棟、今も使われてる所だ。あそこに逃れて、紐で首括ったみたいだな。写真もある。二人とも、可愛いな。17だよ。信じられん。なんて奴らだ。クソ畜生にも悖る。利根河撫子については……詳細が辿れんな。大聖寺誉は、地方の豪農だったみたいだ。小等部から二人は仲良し……うん」<br /> 胸をさすりながら、吐き気を抑える。<br /> 利根河撫子は自殺、その恋人は射殺されていた。<br /> なるほど、嫌な噂が立つのも頷ける。<br /> 黒い影についての噂は幾つか存在したが、これは明確にされていない方だろう。<br /> 恐らく当時の自衛隊の特殊部隊を用いて鎮圧した事、鎮圧すると外交的に問題が出そうな国がバックに居た事、そして学院のイメージダウン、それと預ける親達からの圧力があり、秘匿されたと考えれば納得だ。<br /> むしろ秘匿要素が多すぎる。<br />「欅澤花という人物については」<br />「……いるな。当時高等部一年。詳細にあるが……ああ、生徒……利根河撫子と大聖寺誉を逃がす為に、三人殺してるぞ。素手だ。一人は頸椎骨折、一人は頚部圧迫による窒息、一人は頭がい骨陥没。アンタの一家は何もんだよ」<br />「私を投げ飛ばす人ですよ」<br />「そら怪物だな」<br />「利根河撫子、大聖寺誉、欅澤花の関係は解りますか」<br />「うん。仲良しグループ、の上位互換みたいな、ほら、御姉様以下妹みたいなあれだ。もう一人加わるが、そちらは一年生の組岡きさら。無事救出されてる」<br />「もうひとつ」<br />「おう」<br />「なんで教えてくれるんですか」<br /> その問いに、三島軍曹は恥ずかしそうに頭を掻いた。<br />「生きてたらアンタぐらいさ。娘がいたんだ。病気でなくなってな。お母さんみたく強くなるって、良く言ってた」<br />「そう、ですか」<br />「だからさ、なんか、アンタ見てると、むしょうに口出ししたくなるし、聞かれたら答えたくなる。こんなんで機密漏らすような軍人信用ならねえよなあ、アッハッハッ」<br />「ごめんなさい、リスクを背負わせて」<br />「何。負けたんだから仕方ない。またスパーリングでも付き合ってくれよ」<br />「はい、是非に」<br />「ほいじゃな、デート続き楽しめよ。ああ、あと」<br />「はい」<br />「七星印だ、この秘匿事項は。あんまり関わらん方が良い」<br /> そういって、三島軍曹は去って行く。杜花に痛めつけられた筈の手を振っているのだから、大概タフな人物である。<br /> 残された早紀絵と杜花は互いに顔を見合わせる。<br /> 周囲を見ると、チラホラと此方の様子を伺っている生徒がいた。杜花はそそくさと上着を着込み、何か聞かれる前に退散したほうがいいだろうと、早紀絵の手を引く。<br /><br /><br /><br /><br /> 紅茶を一口啜る。食堂で貰って来たものだ。<br /> 渋みが薄く、苦手な人でも飲めるよう配慮してあるらしい。好きな人は大概、自分で淹れる。<br /> 休日という事もあり、温室では小等部の子が植物観察していたり、高等部の生徒が奥に備え付けられた机と椅子で小さい茶会を開いていたりと、そこそこ見受けられる。<br /> 寄宿舎などは暖房にも困らないだろうが、やはり毎日同じ場所に居ると多少の空気の変化は欲しいのだろう、冬は温室が人気だった。<br />「あー、なんか、あれだね、知っちゃったね、なんか」<br /> 早紀絵と杜花の二人は池の前に据え付けられたベンチに座り、項垂れていた。<br /> 予定通りに物事が進みすぎる。<br /> 欲しい情報があちこちから湧いて出るこの現状に、意図を感じずには居られなかったからだ。しかし早紀絵が考察した通り、物事は流れに流れ、ここに辿り着いただけ、という可能性が高い。<br />「たぶん、何もかもが明るみになった所で、どうにもならないでしょう」<br />「と、いうと」<br />「『七星』はむしろ、過程こそ想像しないでしょうが、結果的に私や貴女が真実を知る事を、承知しているでしょう。もし、本当に知られたくない事が、七星から出てくる訳がない」<br /> 杜花の言う通りだ。<br /> 七星が徹底的に隠ぺいしようと考えたなら、それこそ地上から関連資料と情報提供者は消えてなくなる。<br /> だからつまり、当初の考察通り、市子および二子が元から用意していたものに沿っていると考えるのが正しいだろう。<br />「勿論、私の心情は抜きです。七星が何もしなくても、私がどうなるかは解らないから」<br />「なんともならないし、何かなったら私が何とかする」<br />「例え、怒りにまかせて七星二子を殺したとしても?」<br />「何とかするよ。七星の私兵団が送られてきたとしても、絶対何とかする……ううん。ねえ、杜花」<br />「はい」<br />「……クローンについて考えた事は?」<br /> 問題として、一番濃厚な線だ。<br /> アレ等の技術力なら独自にクローンを作成していても不思議ではない。<br /> 七星一郎か、それに近い人物か、もしかしたら母親かもしれないが、娘を失った悲しみからクローンを作ってしまったと考えれば、それなりに納得の行く筋道は立つ。<br />「確かに、ソックリです。利根河撫子、七星市子、一条二子は、強い面影を共有している。でも、これは直感ですが……」<br />「うん」<br />「恥ずかしい事に、私は二子に市子を観た。例え容姿が同じだろうと、私はそんな事、あり得ないと思うんです。信じて貰えるか、解りませんが。私は市子の容姿も当然好きでしたけれど、解るでしょう、それだけな訳がない」<br /> 杜花の直感は外れた試しはない。恐らく、それは真実に近いのだろう。<br /> 杜花の市子への入れ込みは異常だった。病んでいたと言っても過言ではない。<br /> 小等部の頃から市子だけを見つめて来た彼女だ、容姿が似ているからと簡単に心を許したりはしないだろう。<br /> ともすると、杜花が二子に市子を観た理由は限られる。<br />「結晶、だよね」<br />「結晶でしょう。仮定ですが、あの結晶には市子の情報……詳細は解りませんが、細かい情報が入っていた。二子はそこから知識を得て……私達しか知りえない事も、知っていたのかもしれない。けれど、それがその……二子を市子と誤認する理由になるかどうか、解りませんが」<br />「大体合ってるんじゃないかな。もうそれしか答えが出せないよ、今は。黒い影やポルターガイストの説明はつかないけど」<br /> 常識に照らし合わせるならば、そこが落とし所だろう。当然不満はある。<br />「……三十九年前の事件、酷いものでしたね」<br /> 杜花は髪をかきあげ、顔をあげる。その目は遠くを見ていた。<br />「確かに……あんな失い方したら、もし力があったら、娘を蘇らせたいと、想うかもしれない」<br /> 箱庭は蹂躙され、幾つもの花が散らされた。<br /> 楽園は地獄へとなり果て、その中で苦悶した人々が居た。<br /> 殺された友を背負い逃げまどう利根河撫子と、それを逃がそうとした欅澤花は、一体どんなものを見て、感じて、絶望したのだろうか。<br /> 花は犯人を三人殺害しているという。<br /> 状況からして、未成年という事、極限状態、そして政治判断も混ざり、恐らく不問とされたのだろう。<br /> 彼女は普通に卒業している。だとしてもきっと、欅澤花はまともな精神ではいられなかっただろう。<br /> 武装する人間を、素手で目の前から殺しにかかるような覚悟、本当に大切な人を守ろうとしない限り、絶対に発揮されない。<br /> まず間違いなく、花は利根河撫子の妹だった。そして、大聖寺誉という人物も、恐らくは妹だ。<br /> 組岡きさらも妹なのだろうか。<br /> 幻華庭園になぞらえた人間関係、そして現在の自分達を考えるに、これは撫子、誉、花と一つ距離を置いた人間、つまり、満田早紀絵のような立ち位置なのかもしれない。<br /> 欅澤家は、飛んで二代、七星の娘の悲劇に巻き込まれた事になる。<br />「花婆さんに、話聞けそうにないな、こりゃ」<br />「今度聞いてみましょう。事情を話したところで、どこまで喋るか解りませんけど」<br /> とにかく、欅澤花という人物は口が堅い。余計な事は一切喋らず、孫にすら自分を語ったりはしないのだ。喋る事といえば思想信念鍛錬についてぐらいなものである。<br /> 今までの印象で行けば、嫌な婆様だと思っていたが、こんな過去があると知ってしまうと、何も言えなくなってしまう。<br />『妹』になるぐらいだ。利根河撫子の妹基準は解らないが、コミュニケーションに難のある娘を妹にはするまい。それなりの人格を備えた人物だったと考えられる。<br />「姉妹の一人は射殺、一人は自殺、か。防衛か自暴自棄か、三人殺してる。それにしても……利根河撫子も、七星市子も、部活棟で首吊り自殺。この嫌な符合は何だろう」<br /> そしてその事件の中でも、一番気になる点はここだ。<br /> 撫子と市子が同じようにして死んでいる。偶然では済まされない。<br /> 想像される所があるとすれば、市子が撫子の死因を知っていて、それに被せた可能性だ。当然意図は解らないが、彼女なりの考えがあったと考えて然るべきだろう。<br />「本来私達が追い求めていたのは、影であり結晶であり手紙でした。でも結局、市子御姉様の自殺動機に行きついてしまう。解っていた事なのかも、知れませんね」<br />「まあ、ここまで来て引き下がるのもねえ」<br /> 早紀絵は頷いてから、大きく背伸びをする。<br /> ともすると、遊び半分でやっていたスクールロアが、本当に怪異事件簿になってしまったのかもしれない。市子の自殺動機にまで触れるとなると、手の幅を広げねばならないだろう。<br /> 杜花は、撫子から始まり、市子が謀り、二子が道を敷いたこの一連の問題を、どう認識しているのだろうか。<br />「……ねえ、モリカ。たぶん二子は、市子になろうとしてる」<br />「ええ」<br />「二子が市子になった時、貴女はどうするの?」<br /> 言い渋る。当然だろう。<br /> 義理の妹が姉と同じ存在になってしまうなどという、荒唐無稽な話が現実味を帯びてきている事実に、杜花は恐れを抱いているに違いない。<br /> 良く思い出せば、どうだ。<br /> 杜花に殴られそうになった二子の叫びが、早紀絵にはどうしても、今までの二子とは違うものに思えて仕方が無い。そして、結晶が集まるにつれて、二子の杜花に対する態度、そして周囲に対する態度が変わったようにすら感じられる。<br /> 確実に二子は市子になってきている。あの結晶……市子の情報を得てだ。<br />「あり得ません。所詮データ。所詮真似」<br />「また、貴女達だけの世界を作ってしまうの?」<br />「ありません、そんなもの。市子は死んだんです」<br />「でも、どこかで期待してるんでしょう」<br />「……していません」<br />「――嘘ばっかり」<br />「……ごめんなさい」<br /> 市子に匹敵する程に『市子』ならば、杜花は躊躇わず、依存するだろう。<br /> 半身が戻ってきて喜ばないものはいない。たとえそれが杜花の誤認識だったとしても、そんなものは関係ないだろう。欅澤杜花という死体を動かす為の原動力が産まれるのだから、人間は生きる希望に縋る。<br /> また――早紀絵とアリスは、蚊帳の外にされてしまうのだろうか。<br /> 杜花が誰を好きでも良かった。<br /> 少しでも自分に愛を分けてくれるならば、早紀絵は幾らでも納得した。しかし市子が戻ると言う事は、その愛が全て市子に向かう事を意味する。<br /> 杜花のコロンの中に忍ばされていた手紙の意味を、今知る。<br /><br />『杜花へ。私を見つけてしまいましたか? これはどのタイミングで、何番目に見つかるのでしょうか。少なくとも、貴女は探索を初めてしまった後なのでしょうね。そこに妹はいますか? それとも私?』<br /><br /> 七星市子は、最初から知っていた。<br /> 全て全て。彼女は、蘇る気でいたのだ。<br /> では、何故敢えて死んだのか。<br /> 恐らく終着点が近い。市子となった二子ならば、その全てを、語ってくれるだろう。<br /> 投書で、早紀絵は二子に呼ばれている。<br /> もしかすれば、その試しをするつもりでいるのかもしれない。杜花に全てを晒す前に、早紀絵で試そうと言うわけだ。あり得る話である。<br /> そうか、ならば。<br /> ならば。結晶はもう、交渉材料として必要ないだろう。<br />「杜花、結晶持ってる?」<br />「はい。見ますか」<br />「うん」<br /> 杜花は内ポケットから、ハンカチに包まれた結晶を取り出す。外側を覆っているのは、恐らく三つめから取り外したケースだろう。今にしてみると、精密機械のパーツのような趣がある。<br />「二子との交渉材料に使おうと思うんだ」<br />「知っている事を全部吐かせる為ですか」<br />「そう。私達の考えは所詮、情報からの推測でしかない。本人に語ってもらおうじゃない。アイツが全部知ってる訳じゃないでしょうが、私達よりも明確に裏付けをしてくれる筈だよ」<br />「近いうちが良いでしょう。いつにしますか」<br />「少し考えがある。ただ突きつけても喋らないでしょ、きっと」<br />「……確かに、ええ」<br />「貸してくれるかな。少し細工したい」<br />「――傷は付けない方が良いですよ。それが、絶対的に不可思議な事例を引き起こしていないとも限らない」<br />「うん。二子自身は、これが本物なのか偽物なのか、判別つかないみたいだしさ、手にするまで」<br />「偽物を用意するんですか」<br />「そう。素っ気ない顔して渡した後、あいつはそれが偽物だと解って慌てふためくでしょう。これは偽物だ、本物はどこに? 姉様は何を考えているの。ほら。聞き出しやすそうだよね、お前それ結局何に使うんだよってさ。私じゃアイツの魔法に対抗出来ないけど、杜花なら多少出来るみたいだし、渡した後尋問するのは杜花が適任だね」<br />「なるほど。では、お願いします」<br /> 杜花から結晶を受け取る。<br /> 適当な作戦だ。本来そんなものはどうでもいい。これさえ手にあれば良い。<br />「ちなみにサキ」<br />「なに?」<br />「――貴女にそれを叩き割る勇気がありますか?」<br /> 観られている。<br /> 覗かれている。<br /> 心の底を悟られている。<br /> 杜花の眼は冷たい。どこで悟った。カマかけか。<br /> 少なくとも、早紀絵はその目線に、言葉を失ってしまった。もはや答えたと同じようなものである。<br /> 早紀絵は諦めて、そのまま結晶を差し出す。しかし、杜花は受け取らない。<br />「魔がさしました」<br />「いえ、割ってみてください」<br /> 何を言っているのか。早紀絵の嫉妬を解っていて、尚割れというのか。<br /> 試されている……訳では、なさそうだ。早紀絵は結晶をカバーから取り外し、手に握りしめる。<br />「……」<br /> 早紀絵に躊躇いはなかった。<br /> これが無くなれば、二子が市子へと変貌を遂げるなどという荒唐無稽な想像が真実だとしても、確実に遅らせる、ないし無効に出来るかもしれないのだ。<br /> 腕が上がる。<br /> そのまま地面に叩きつけようとした瞬間、頭を殴りつけられるような感覚があった。<br />『早紀絵、やめて』<br /> ビクリと、動きを止める。脳内に直接響くような声、そしてその声がまるで、市子に聞こえる。<br />「うがっ……なに、これっ」<br />「さあ。その機械が有している、防衛機能か何かじゃないでしょうか」<br />「れ、冷静だね」<br />「試しましたからね」<br /> つまり、杜花も一度これを叩き割ろうとしたのか。<br />「……三つめが破損していて、四つ目も壊れているとなれば、七星も焦ると思いまして。サキなら割れるかと思いましたけれど、どうですか、落とすのも怖いでしょう、きっと」<br />「無理。なんかむしょうに丁重に扱いたくなる。何これ……」<br /> そういって、早紀絵はカバーに戻し、結晶を杜花に手渡す。<br /> 理解不能の機能がまた一つ増えた気分だ。こんな事がまかり通るなら、結晶から出た影がモノを飛ばしてきても不思議ではないような気すらしてくる。<br /> 常識など一か月以上前に置いてきてしまった。<br />「サキ、少し、人の居ないところに行きましょう」<br />「あ、う、うん」<br /> 杜花が立ちあがり、一人先に行ってしまう。何か思う所があったのかもしれない。<br /> 温室を抜けて、南東方向へと向かう。そちらは小等部第一第二校舎、第三第四寄宿舎がある方向だ。木枯らしに上着の上から肌をこすりながら、杜花の後をついて行く。<br />「ごきげんよう、もりかお姉様」<br />「ごきげんようー」<br />「はい、ごきげんよう。元気ですね」<br />「はい! ふふふっ」<br /> 小等部の高学年だろうか、四人の子が杜花と早紀絵に頭を下げ、はしゃぐようにして走って行く。<br /> 当時の市子、杜花、アリス、早紀絵の四人も、他の先輩達から見れば、あのように見えたのだろうか。彼女達が向かって行く先は白萩方面だ。<br />「初めて市子に出会ったのは、躑躅の道でした。猫にハンカチを括りつけて遊んでいたら、そのまま逃げられたそうです。彼女はそれを捕まえられず、必死に追いかけていたら、小等部から距離もある躑躅の道まで、来てしまったそうです」<br />「なんか、市子らしいね。あいつ小さい頃から完璧だったけど、少しやんちゃだったし」<br />「ええ。私は丁度、白萩の裏にあるという、小庭園を探していました。躑躅の道で市子を見つけて、困り果てている様子だったので、猫を捕まえてハンカチを取り戻したんです」<br />「モリカも逃げ回る猫捕まえるとかどんだけだよ……」<br />「可愛らしいでしょ」<br />「想像するだけで悪戯したくなる……っと、ごめん。それで?」<br />「庭園を探しているなら、知っていると、市子は言いました。それで、手を繋いで、連れて行って貰ったんです。その時からでしょうか、もう何か、言葉では言い表せませんが、とにかく、この子は他の子とはまるで違うって思って。本殿で祝詞をあげている時よりも、もっと身近にカミを感じたとでも、いいましょうか」<br />「なんとなく、解る。アレはそういう子だった」<br />「私は畏れ多かった。けれども、以降ずっと彼女は私の相手をしてくれた。小さい頃から覚めていて、反応も悪いし、無感情な私と、お話をして、遊んで、笑って泣いて、ああ、少しエッチな事もしましたね」<br />「最後のそれがなければタダの小さい思い出なんだけどねえ」<br />「まったく。私と言う人間は、七星市子によってその価値を保障されていた。お婆様は私を一切褒めない。お母様にも褒めるなと言っていました。けれど市子だけは……御姉様だけは、私を褒めてくれた。凄いって、素晴らしいって。杜花なら、何でも出来る、何にでもなれる、特別な人間なんだって」<br /> やがて、その足は小等部の中庭へと向かって行く。四方を囲うようにして花壇があり、庭の真ん中には枯れたイチョウが構えている。懐かしい場所だ。<br /> 杜花は近くのベンチに腰掛けて、早紀絵を誘う。<br /> 隣に腰かけると、何故か抱きつかれた。<br /> 何故か抱きつかれた。何故か抱きつかれた。<br />(うぉおおぁああなんだなんだなんだ?)<br />「彼女の隣にいて、アリスさんに出会いました。私が一番の妹なのだから、もっと敬意を払えなんて、言ってましたね。私がほら、市子御姉様にとても可愛がられるから、嫉妬していたのかもしれない」<br />「ああ、ええ、うん。そう、だね。あ、モリカ、あったかい……」<br />「私は市子御姉様とずっと一緒に居た。彼女の望む事全てを叶えたいと思っていた。だから彼女の相談には全て応じた。貴女に声をかけたのもそうです。あの辺りでしたね」<br /> 視線を向ける。花壇と花壇の間。柵の内側。初めて欅澤杜花と満田早紀絵が出会った場所だ。<br />「クソ生意気な餓鬼でしたね、サキは」<br />「モリカの恐ろしさといったらなかったよ。今でも最恐は無表情で人殴るモリカだよ」<br />「ふふ、トラウマですね」<br />「笑って心的外傷っていう子はたぶん貴女だけだよ」<br />「市子御姉様に言われて貴女に近づきました。出会ったのは偶然でしたけど、出会うタイミングが良かったですね」<br />「なんで、市子は私に近づくように、言ったのさ」<br />「あの子とも仲良くしたいけれど、私じゃ無理かもって。だから私から行きました。子供ながらに、七星の戦略で満田家と繋がりたいのかななんて、考えましたよ。ねえ、サキ、なんで転校してきたか、未だに理由を知らないでしょう」<br /> それは、そうだ。<br /> 有無を言わさずこの学院にぶち込まれた早紀絵は、何度となく両親を問いただしても明確な答えは齎されなかった。杜花と仲良くなってからは、転校して良かったとしか、頭にない。<br />「知って、いるの」<br />「お父様に言われたそうです。友達になる子が転校してくるから仲良くしなさいと。アリスの場合、元から根回しされていて、入学したそうです。そう考えると、お婆様のコネクションは、七星一郎なんでしょうね。今までは何とも思わなかった。けれどここまで因果が重なると、意図を感じざるを得ない。私達は『用意された』七星市子の、友人」<br /> 七星市子と仲良くする為に用意された友人。<br /> 七星一郎……利根河真によって画策された人間関係。<br /> 利根河撫子が築き上げた友人達と、幻華庭園に描かれたシナリオ。<br /> 利根河撫子の死と、七星市子の死。<br /> そして、入れ替わってきた、七星二子という義理の妹。<br /> ……七星一郎の視点からすれば、そうだ、利根河撫子を再現し、利根河撫子を、作ろうとしているとしか、思えない。<br /> 七星市子は、つまり何か失敗したのだ。<br /> 失敗して、同じように死んだ。<br /> どこにその要因があったのか。<br /> クローンだからと、同じ人生は歩むまい。一人間として産まれた限りは、その歩んできた人生に差異は当然産まれる。遺伝子的に同じだったとしても、全てが同じになるわけがない。<br /> 狂気だ。<br /> まともじゃあない。<br /> つまりこの学院は、観神山市は、利根河撫子を作る為の、実験場ではないのか?<br />「モリカ、それって……」<br /> 杜花と顔を見合わせる。続きを喋ろうとしたが、何も言えなくなった。<br /> 早紀絵の唇に、杜花の柔らかい唇が重なる。<br /> 幾ら休日で、ここが小等部で、時間外で、人が来ないとしても、誰かに見られているかもしれないのに。<br /> ああ、御姉様達が、こんな悪い事をしているだなんて、知れたら、けれど、しかし、もうそんなものはどうでもいい。<br /> 考察に耽った脳が一瞬にして蒸発する。<br /> 軽いキスではない。歯を割って杜花の温かい舌が入ってくる。<br /> 杜花と唾液を交換しているのだ。<br /> 何故、どうして。<br /> どうでもいい。<br /> 甘い刺激が脳を溶かす。杜花の手が早紀絵の乳房に触れた。的確に敏感な部分をつままれ、息が大きくなる。同時に下腹部が、急激に熱くなるのを感じた。<br /> 他の誰でもない、数多といるオトモダチではない。<br /> 求めに求め続けた、欅澤杜花に触れられているのだ。こんな嬉しい事が他にあるものか。<br />「モリカ、ああ、嘘、なんで、私、そんな事されたら……嬉しくて死んじゃうよ……」<br />「……私はずるくて汚くて酷い人間ですから。だから、利用させてください。市子は死んだ。もういないんです。だから、二子が彼女になるわけがない。でも、可能性として捨てきれない。二子も市子との同一化を望んでいた。もし私がそれに囚われてしまったら、きっと逃げ出せない。だから、サキ、私の逃げ道になってください。きっと私はアリスにも同じ事をする。貴女達二人に、私をココに繋ぎとめて貰いたい。ここから先に行って、戻って来られるように」<br />「な、なる。なんでもなる。なんでもいい。モリカ、私を貴女のものにしていい。私を好きに使って良い。なんでもいい。ああ、うそぉ……本当に、ああ、利用されてるんだ、私、してくれてるんだ……モリカが……」<br />「沢山謝ります。沢山、御礼しますから。許さなくても良い、恨んでも良い。だから、お願いします……サキ……私を助けて……もう、頭がおかしくなりそうなんです……誰かに縋りついてないと、狂ってしまいそうなんです……」<br /> 杜花は追い詰まっている。<br /> 明るみになった事実と、理解出来ない状況に、苦しんでいるのだ。<br /> 杜花を助けられないか、救えないか、自分ではどうしようもないのか、彼女は決して此方に振り向いてはくれないのかと、悩み続けて来た早紀絵にとって、福音にも似る。<br /> 杜花が頼ってくれる、杜花が自ら利用してくれる。<br /> 杜花に求められねば自分など、路傍の石程に価値も無いようなクズ人間であるというのに、女と見れば直ぐ手を出すような淫乱なのに、それでも求めて貰えている。<br />「どうすればいいの。モリカ、貴女を救いたいの。貴女が好きなの、愛してるの。アリスだってそうだよ。貴女が求めれば、必ず応えくれる。私は、私達は、ずっと杜花を見て来たんだもの。ああ、幸せ、モリカ、ごめんね、もう一回、キスして」<br /> 今度は軽く。唇を湿らせるようなキスが送られる。<br /> これが欲しかったのだ。<br /> こうして欲しかったのだ。<br />「……何も、要らないわ、サキ。貴女は私をここに繋ぎとめてくれればいい。出来る? 捨てるには惜しいヒトだと思ってくれる? もし私が二子に持って行かれても、貴女は嫉妬して、取り戻しに来てくれる?」<br />「あげない。アイツにはあげない。私とアリスで、貴女を繋ぐ。貴女に従って、貴女に支配されるの……くふふ、やだもぅ……だから、ずっとそう言ってるのに、モリカが無視するからだよ」<br /> 杜花の、熱っぽい視線を受けて、もう耐えられなくなる。<br /> 杜花は察してくれたのか、早紀絵の身体を抱いたまま、立ち上がった。<br />「――、一年ぶり、なんです、それに生理中だから、ほら、血まみれに、なっちゃうかも」<br />「ならないよぉ。全部舐めてあげるから……」<br />「覚えたての頃を思い出すような……ふふ、まるで発情期の動物ね、貴女」<br /> 見下されているのが、心地よい。<br /> もうとにかく、彼女が欲しくて仕方が無かった。<br /> 肌を合わせて、今までのその全てを、帳消しにしてしまいたかった。<br /> きっと望まれるものが与えられるに違いない。<br /> 話では聞いていたものの、杜花がここまで、スキモノであるとは、思わなかったが……瑣末な話だ。<br />「サキが悪いの。人前でキスなんてして」<br />「嫉妬してくれるかなって、思ったから。してくれたんだ。えへへ」<br />「私が、一番好き?」<br />「うん。一番好き。みんなもきっとそう。それで、あのね」<br />「うん?」<br />「……私、信じられないかもだけど……処女、なの。杜花に、貰ってほしくて……」<br />「温かいところ、行きましょ。なるべく、人の来ないところに」<br /> 杜花の手が早紀絵の指に絡みつく。<br /> 女の扱いに慣れた、とても十七の少女とは思えないような仕草だ。これから、望みがかなえられる。期待に胸が膨らむと同時に……悪い考えもまた、産まれる。<br />「文芸部室。暖房もあるし、簡易ベッドもあるけど……いや?」<br />「……酷い子ね、貴女って」<br /> 口では言うが、早紀絵を離したりはしなかった。そのまま部活棟へと歩いて行く。<br /> 申し訳無い。<br /> けれども仕方が無い。<br /> 折角手を出して貰えるのだ。彼女の残り香を、自分の匂いで消し去ってやろうと思うのも、当然と言える。死んだ人間がいつまでも、生者を縛りつけるなんてものは、許される筈がない。<br /> 杜花に気持ち良くなって貰おう。<br /> そして、自分の処女も捧げられる。<br /> 後ろぐらい方向に培ってきたものの全てが、やっと一番発揮したかった人物に発揮出来る。<br /> どんな思惑があったかは知らない。<br /> いや、もうどうでもいいとすら言える。<br /> 杜花はもう、市子には渡さない。<br /> 必ず忘れさせてやると、ただそれだけがあった。<br /><br /><br /> ……。<br /> もし、アイツが生きていて、こんな所を目撃したら、何と言うだろうか。<br /> 怒り狂うだろうか。<br /> ショックのあまり、身を投げるのではないか。<br /> ああ、もう投げた後なのだと、自分はアイツの残り香を消そうと、こうしているのだと、優越感と罪悪感が、交互にやってくる。<br /> けれどそんなものは無意味な感情だ。<br /> アイツはもう居ない。<br /> 居ない筈だ。<br /> 居るわけが無い。<br /> ……そうだ、居ない。<br /> だから、だからこそ、杜花は此方に目を向けてくれたのだ。<br /> それだっていい。<br /> 市子の居ない寂しさを紛らわせる為でも良い。<br /> 満田早紀絵は、やっと幸せになれるのだから。<br /> ……。<br /><br /> <br />「……サキ? どうかしましたか」<br /> 隣に腰かけた杜花が、早紀絵を抱いて問う。<br /> 幸福感と疲労感で、いまいちハッキリとした言葉が出てこない。<br />「んーん。なんかもう、幸せすぎて、明日には死ぬかもと思って」<br />「大げさ……ともいえないか。済みません」<br />「いいよう。嬉しい。もっとずっと、一日中してたい」<br />「……そう、ですね。冬休みにでも」<br />「退廃的ー。一日中なんて。くふふ。杜花上手すぎるから、その日に死ぬかもだけど」<br />「そんなに上手なのかな私……」<br />「最初から私の好きなとこ全部知ってるみたいなんだもん。それに気持ちが違うから」<br /> 改めて、この人物を自分の物にしようなどという考えが、浅はかであったと実感する。<br /> 気持ちも身体も、確実に距離は縮まっているのに、遠くに見えた山が、いざ迫ってみればとんでもない大きさであったような、そんな気分になる。<br /> 隣で座る杜花に縋りつく。するとゆっくり、その頭を撫でられた。<br />「杜花の子、欲しい。卒業したら海外出ようかと思ってたけど、やめて育児する。遺伝子頂戴ね? あ、迷惑かけないよ。大丈夫。私は私で普段通り、女の子と遊んじゃうし。杜花はやっぱり、誰か一人のものになるようなヒトじゃないって、改めて解ったから」<br />「まだ、私達だって子供に毛が生えたようなものなのに」<br />「杜花、自分の婆様と母様の年齢考えた事ある?」<br />「……そうでした」<br /> 杜花の祖母も母も、卒業後すぐ子供を作っている。<br /> 遺伝子工学が発達して以降、不妊治療にも劇的な効果を齎している為、無駄弾の量が減った事も理由にあるだろう。同性で子供が出来る時代、本来の男女の組み合わせで出来ない理由がないのだ。<br />「アリスの子もほしいかも。あ、そうだ。アリスは何時『愛でる』? あの子雰囲気とか大事にしそうだし、外の方が良いかな。そうだそうだ、今度デートするんだけど、モリカも一緒に行こう。ホテルなら文句言わないよねきっと……もしかして私が無節操なだけかな」<br />「あえて二人で攫っちゃえばいいと思います」<br />「嘘すごい何それ怖い。モリカ?」<br />「ご、ごめんなさい。泣き叫ぶアリスさん想像したらちょっと面白くて」<br /> ああそうだと、思いだす。<br /> 人の事引っ叩いて気持ちが良い人物であった。人格と性癖が一致するとは限らないのである。<br />「きっとロマンチストですからね。貴女みたいに、丁寧に扱って上げたほうが、良いでしょう」<br />「自分で言うのもなんだけど、女二人で女一人を囲む相談って、物凄いよね」<br />「ほら、姦しいっていうじゃありませんか」<br />「それ上の女が杜花で下二つ私とアリスだよね」<br />「恐らく」<br />「くふふ。おっかない。でもいいや。何でも。モリカが私達を見てくれるなら」<br /> そのまま、頭を杜花の太股に預けて、横になる。杜花は一切拒まない。笑ってしまうほど幸せだ。<br />「離さない。あいつには、やらないから。あいつは、私達から、モリカの全部を、取りあげちゃう。少しだけでも此方に分けてくれればいいのに、全く回って来なくなるんだもん」<br />「私も、依存が強いから……眼の前しか見えなくなってしまう。貴女も、アリスさんも、見て見ぬふりをしてしまう。なるべく早く、対策出来ると、いいですね」<br />「私じゃあアイツに丸ごと読まれちゃうかも。今日の事だって。やっぱり、正面から行くしかないかな。結晶は……渡したくないけど、どうしたものかな……」<br /> どうやったら、七星二子の掌の上で踊らされずにいられるだろうか。いや、これ以上、だ。もう既に、大半を踊りきってしまっているのだ。<br /> 手元にある結晶は一つ。隠しては意味が無い。<br /> 人間の意図しない方法で破壊する案は幾らでもあるだろうが、それは止める事にした。結晶という不可思議な物体が齎す影響が未知数なのである。<br /> 他人にはまかせられない。<br /> 杜花、早紀絵、アリスに関しては恐らく、身柄が保障されているだろうが、他人が関わった場合どうなる事かと想像すると、良い未来は観えなかった。相手は七星だ。<br /> 二子、市子、もしくは七星一郎が求めているものは、三十九年前に亡くなった利根河撫子の『復元』だ。<br /> 無理無茶の類を、本気でやり遂げようとしたのだろう。<br /> 彼は研究者の身から立身出世し、七星のトップに立った。資本、人材、時間、あらゆるものを継ぎ込んだに違いない。<br /> それに対して、市子二子は、同意の上なのだろうか。いや、だからこそ、求めているのか。二子も撫子に近づいた市子になろうと、そうしているのかもしれない。<br /> 幻華庭園……あれは、誰が書いたのか。<br /> 状況を察するに、利根河撫子、大聖寺誉、欅澤花、組岡きさら、この四人のどれかだ。初版日を見ても、死の一年前の発行であるから、この中で作家の真似ごとをしていたモノがいると考えられる。<br /> その本を読み、七星一郎、もしくは市子が思いついたのか。しかし自殺まで再現する必要は、ないだろう。市子が撫子の失敗作だったとしても、殺す理由がない。七星一郎がそんな小さい人間な筈もない。<br />「行こうっか。はい、モリカ、うわブラでっかッ」<br />「生で見ていて今更な反応されても」<br /> 服を着て、文芸部室を後にする。<br /> 満田早紀絵にして、欅澤杜花の手腕が半端では無く、だいぶ疲労しているので、今日は流石の早紀絵もご飯を食べて直ぐ寝たい。<br /> 考えたい事は幾つもあるが、身体は資本だ。杜花も冬休みに入る前には、この問題を片づけたいだろう。<br /> 二子には喋ってもらわねばならない。正直、その過程でどんな事態が発生するのか、想像はつかなかった。<br /> 二子が市子になるという、無茶苦茶な理屈。<br /> 市子の自殺動機。<br /> 七星一郎の真意。<br /> 七星一郎については、もはや触れる事も叶わない存在だ。<br /> だからせめて、理屈と動機を知りたい。<br /> そして、もし、二子が市子になったとしても……杜花は、絶対に渡さない。杜花もその決意の為に、抱いてくれたのだから。彼女の為に、早紀絵は幾らでも利用される覚悟がある。<br />「あ、寄宿舎前に誰かいるね」<br />「制服……じゃない……あれは」<br /> ――白萩前。<br /> 煌々と灯る電灯の下に、居住まいを正した女性が一人、いる。<br /> 制服ではない。普段着でもない。<br /> 白と黒のカラー。ヘッドドレス。近づけば、それが何をする人物なのか、直ぐわかった。<br /> 人に給仕する職業の人間。<br /> 奉仕を生業とする人間だ。<br />「アリスさんに、兼谷……さん」<br />「兼谷って、市子の……お付きか」<br /> 彼女は此方を認め、歩いてくる。<br /> その姿は実に瀟洒で卒が無い。市子のお付きのメイド。彼女の全てを賄っていた人物。<br /> 本名は無い。<br /> 彼女はただ『兼谷』としてある。<br />「杜花お嬢様、早紀絵様、お久しぶりで御座います」<br />「……本家から離れたと、聞いていましたが」<br />「二子お嬢様のお母様が京都から本家に招かれました。同時に私も此方に」<br />「兼谷さん。それはつまり、二子が」<br />「どこまでご存じか解りませんけれど……良かったですね、杜花お嬢様。貴女は死なずに済む」<br /> 冷たい言葉が、夜空に響く。<br />「……二子」<br /> 兼谷の陰から二子が顔を覗かせる。彼女の早紀絵に向ける眼は、かなり厳しいものだ。いや、兼谷に縋りつき、下手をすれば今にも、襲いかかってきそうな勢いである。<br /> ……おのれ。<br />「なんだその目」<br />「サキ?」<br />「二子、何か言いたい事あるなら、いいなよ」<br />「――杜花、言ったじゃない。貴女、早紀絵には、キスもしてないって」<br />「私に話せ。おい、二子」<br />「……なんでもない。何もない」<br /> 覗いたのだろう。<br /> 頭の中を。勝手に。<br /> 批難される謂われは無い。死んだはずの亡霊に、杜花を渡したりはしない。<br />「そんなばっかりだ。いい加減にしてよ。思わせぶりに振る舞って、私達の知らない事で悦に入りやがって」<br />「違う。そんなんじゃないの。私は――いえ、もう、良い。それでいい。もうすぐだから。貴女を呼んでいたわね。来なくてもいいわ。そうね、冬休み明けにでも。準備も整うだろうし……兼谷」<br />「はい」<br /> 二子の指示に従い、兼谷が迫る。何をする気なのか。<br /> 兼谷はゆっくりとした調子で杜花に近づく。杜花が構えた。<br /> 一礼、瞬間、その手が伸びる。<br />「くっ……何を」<br />「杜花お嬢様が素直に渡してくださるとは思えませんので」<br /> 結晶の事か。<br /> しかし杜花に正面から奪いにかかるなど、正気の沙汰ではない。兼谷が異常なまでに強いという事は、話から知っているが、それでも杜花が後れを取るとは思えなかった。<br />「二子、やめさせて。兼谷さんに、怪我なんてさせたくありません」<br />「まあ、そうでしょうね」<br /> そういって……何事が起こったのか。<br /> 兼谷の手が此方へと伸びる。なす術はなかった。<br />「んぐっ」<br />「ああ、早紀絵嬢、細いのですね、ずいぶん。ひねったら折れそう」<br /> 腕の骨が軋む。<br /> どんな形で取られているのか、格闘技経験のない早紀絵には意味が解らなかった。ただ隣に並ばれ、腕を持って行かれている。口はそのまま手で押さえられていた。<br />「選択というのは、大変難しいものですね、杜花お嬢様。ちゃんと破壊していれば、こんな事にもならなかったでしょうに。でも、それも酷というもの。その結晶は市子お嬢様そのものですし」<br />「兼谷さん。サキから離れてください」<br />「お断りします。あと十秒差し上げましょう。結晶を渡して頂かなければ、早紀絵嬢は明日から利き腕が不能になるでしょう。そうですね、細胞医療で復活させるぐらいしか方法もないぐらいに、ずたずたです」<br /> 声は出せない。腕は悲鳴を上げる。<br /> 杜花は、顔をしかめてから、懐の結晶を取りだした。<br />「地面に置いて離れてくださいまし。そう。それでいいんです。本来なら、貴女は進んでそれを差し出す筈なのに……二子お嬢様、友好関係はしっかりと結びませんと、こうなります」<br />「肝に銘じるわ」<br /> 結晶を二子が拾い上げると同時に、兼谷が離れる。<br /> 流石に、暴力に訴えられて奪われるとは、考えていなかった。<br /> そもそも、兼谷がイレギュラーである。この程度で済んでいる事を……むしろ幸福に思わねばならないのか。いま探りをいれているのは、何せ七星だ。<br />「二子お嬢様を人質にとればよかったのに、スポーツ選手ですねえ、杜花お嬢様」<br />「解っててやりましたよね。私は軍人でも外道でもありませんので。でも、一つ教えてください」<br />「ええ、なんなりと」<br />「それをどうする気ですか」<br />「これ一つを説明するのに、一言では足りませんね。何故市子お嬢様が隠したのか、これは七星としても不明な点が多い。探すようにしたのは、旦那様の配慮です。利用方法も必要ですか。でも、恐らく知っていますでしょう」<br /> 杜花が早紀絵に寄り、抱きとめる。その目は兼谷を睨んでいた。<br /> 利用方法は、つまるところ、此方が想像している通りの事なのだろう。<br />「市子お嬢様が御戻りになります。お休みの間良く考えてくださいまし。必要なら資料もお送りしましょう……いえ、必要ありませんね。アリス嬢に伺ってくださいまし」<br />「アリスが、何か知ってるとでもいうの、兼谷さん」<br /> まさかだ。<br /> アリスは何も知らない。知っている事といえば、三つ目の結晶までの事だろう。<br />「早紀絵嬢。女というのは、嫉妬に狂いやすい。こんな場所で不用意に、人と交わるなんて、考えものです。何かしら理由があるのでしょうけれど。アリス嬢とは早めに関係修復に向かった方が良いでしょう」<br />「それはどういう……」<br />「今日は用事がありますので、これで。二子お嬢様、調整もあります。一度本家に戻りましょう」<br /> そういって、兼谷は二子を連れて南門の方へと消えて行く。<br /> 状況が進んでいる。進められているのか。頭が痛くなる思いである。<br />「サキ、腕は」<br />「大丈夫。あの人結構おっぱい大きいねえ」<br />「サキ……」<br />「痛くないよ。心配しないで。大丈夫。でも、ごめんね」<br />「何も悪く有りません。想定していなかった私が悪い。それに、もう覚悟を決めた後ですから」<br /> 結晶を渡そうとも、自分はゆるぎないと、そういう意味だろうか。<br /> 信じる。そうすると決めたのだ。杜花の首筋に軽くキスをして、跳ねるように離れる。<br />「戻ろ。動いたからお腹空いちゃった」<br />「……はい」<br /> 早紀絵は、それらを振り切るようにして、寮へと戻った。<br /><br /><br /><br /><br />「二子さんは」<br />「本家に帰りました」<br />「そうですか」<br /> 食事を済ませたあと、杜花と早紀絵は早速アリスの部屋を訪れた。同室の金城五月には申し訳ないが、退出願っている。座卓を三人で囲み、アリスは手元の資料を差し出した。<br />「爺に調べさせましたわ。七星一郎、七星二子、結晶について」<br /> 杜花が視線を此方に投げる。早紀絵は小さく頷いた。本来ならば黙っていたかったのだが、そうも行かなくなったようだ。<br />「お二人の負担を、少しでも減らそうと思いましたの。私ごとですけれど、天原って結構エグいんですのよ。七星とも繋がりは薄くない。ただ、代償として爺が怪我をしましたけれど」<br /> 差し出された資料に目を通す。<br /> 確かに、これだけ入り込めば、けが人も出るだろう。いや、怪我人で済んで御の字だろう。<br />「おかしく思ったのは、居友さんのお見舞いに行ってからですの。お二人は結晶を探していましたわね。影を観たという居友さんを宥めようと、申し訳ないのですけれど、少しばかり情報を公開しましたわ。居友さんは、結晶が何なのか、知っていましたの」<br />「公開されているもの、なの?」<br />「いえ。まだ研究段階、と位置付けられたものですわ。七星電子工業、七星遺伝子工学研究所、そして七星医療の共同プロジェクトのチームが開発したもので、その研究発表に、居友製作所も呼ばれたそうですわ。そこから探りをいれましたの」<br />「黙っていた訳じゃないんだ。それに、確定したものじゃなかった」<br />「ええ。でも相談してくださればいいのに。結晶の詳細については此方。元は軍事用で、歩兵機械化構想から発展しているものですわね」<br /><br />『軍事用次世代記憶媒体について 軍事用と言う名目上作られてはいるが、医療転用も視野に入られている。マスメディアで公開されている情報では、兵士の情報を逐一把握、モニタリングして送受信し、データの受け渡しなどを安易にする機能があるとされている。医療転用については、痴呆症や健忘症などに悩む人々にインプラントする事で、情報伝達を促進し、記憶記録の想起を容易に出来ると発表されている。マスメディアで公開されていない部分では、ブラックボックスが多く、七星の研究者たちしか知りえない機能が数々と隠されているという噂が確認されており、公開情報全てを信用出来るものではない。四センチ角の特殊結晶体で、データ容量は一つ1PB。データ送受信、ホログラム映像展開……』<br /><br /> やはり、と言う感想が浮かぶ。<br /> あの結晶に込められているものは、市子の人格データだろう。大容量の情報を無線で送信する訳だ。<br /> そもそも規格外品で、どんな種類の無線を使っているかも怪しい。歌那多の腕の不調はこれが犯人だろう。しかもあれは破損していた。本来以上の不具合も起こり得る。<br /> しかしデータ送受信が可能ならば、バックアップは存在しただろう。<br /> 結晶そのものが必要な理由がどこかにあるのだ。<br /> 兼谷の話から、一郎に命令されて二子が探しに出たという。<br /> 二子に探させるメリットも、存在するのだろう。<br />「そして此方が二子さんのもの」<br /> 資料と、二子の写真。<br /> もう一枚は母親だろうか。クローンの母体……ではないのか。<br /><br />『七星二子について 七星二子。本名一条二子、十三歳。近いうちに本家に呼ばれ、正式に養子として迎え入れられる事が、天原藤十郎の第一秘書で、七星の弁護人も務めた事のある人物から情報提供される。七星一郎と一条家長女一条萌の子。幼少の頃より京都の名家一条家で育ち、時折パーティや会合に顔を出す以外はほとんど自宅に軟禁状態であったとされる。観神山女学院に転校手続きがされたのは半年と少し前。七星市子死亡後、直ぐに転校の話は上がったものの、本人が拒否した為予定が伸びたと言われている。母、そして父である七星一郎との関係は良好。姉の市子を尊敬していたと、周囲に漏らしている。学力テストのデータは発見されず。ただし、家庭教師は高等部の勉強を教えていたと確認がとれた。また、インターネットでは無料の体感サイバースペースを主催しており、十万にも及ぶユーザーを抱えていた。転校と同時にサイトとサーバは閉鎖している……』<br /><br />「……二子は、やはり最初は乗り気では無かったんですね。考えるに、二子も同じような処置がされていて、市子御姉様のデータを共有していると」<br />「そう考えるのが妥当でしょう。今日、彼女と話しましたけれど、だいぶ混乱している様子でした」<br />「混乱とは?」<br />「私は市子御姉様の話をしているのに、まるで自分の話をされているかのように、照れるんですの。訂正こそするのですけれど、ううん。混線とか、介入とか、そんな事を呟いていましたわね」<br /> 元からある二子の人格に、市子の人格を割りこませれば、当然不具合も起きるだろう。<br /> 二子は、市子になる事、撫子になる事を許容していた。<br /> しかしこの資料を見る限り、二子は否定していたのだろう。市子のデータが混じるにつれて、市子としての意識が強くなり、反応も市子に似るようになったと考えられる。<br /> では彼女自身はどうなるのか。二子自身の意識を、どうするのか。<br />「二子は最初、私を恨んでいました。結晶を一つ、二つと手に入れた後は、かなり私に対して配慮するようになった」<br />「参ったね、こりゃ」<br />「それで、ですけれど。貴女達が話してくださらないので、色々と自分でも調べましたの。今日も、早紀絵さんの後を、つけてみたりして」<br />「んぐ」<br />「……。まあ、それは後で追及しましょう。利根河撫子について、丁度資料にも触れてありましたわ」<br /><br />『七星一郎について 七星一郎。襲名前は利根河真、七十七歳。1990年生であると確認が取れている。二十歳で一世代前の七星の娘を嫁に貰っている。七星遺伝子工学研究所主任研究員から出世、三ノ宮医療製薬に対する引き抜きや、居友化学、五菱工業の人員引き抜きにも関与。妖怪、怪物、魔法使い、トリックスターなど、様々な渾名で揶揄される程嫉妬を集める才能を有し、司法行政立法全てに口出ししていると思われる。当時の正妻との間に娘が一人。娘の名前は利根河撫子。十七歳で自殺。詳細は明らかにされていないものの、天原家の資料から2028年に起こった観神山女学院占拠事件の被害者であると判明。大旦那様、天原十全にも伺いを立てた所、裏付けも取れている為、隠ぺいされた事件であると確定。当時の被害者名簿には天原アリスの学友である欅澤杜花の祖母、欅澤花の名前も確認されている。事件後大規模に隠ぺい工作されたもので、各種検索サイトは検閲。政治家、官僚、警察、当時の自衛隊幹部等は七星および当時観神山に子女を預けていた家々から口止めされている可能性が高い……――なお、この資料に限っては、読後焼却を推薦する』<br /><br /> 資料には幾つかの写真が添付してある。射殺死体、強姦死体。死後一列に並べられたのだろう。悪趣味だ。それと被害者の写真もある。資料の内容は、大方話に聞いた通りだ。<br /> これを見て眉一つ動かさないアリスの精神性は、早紀絵が思っている以上に、強靭だ。<br />「それで、お二人が懸念しているのは、この利根河撫子さんですわね。そして欅澤花さん」<br />「間違いなく祖母です。そしてこの撫子さんが、恐らくは、市子御姉様、二子のオリジナル」<br />「オリジンっていう奴ね。七星はおっかないね」<br />「……確かに似ていますけれど。確証があるわけでもないでしょう」<br />「状況証拠だけですね。そして今回の結晶探しについてなのですが」<br />「ああ、持ってきてる」<br /> 準備の良い早紀絵が、幻華庭園をアリスに差し出す。アリスはそれを捲り、眼を剥いた。<br />「庭園の君……私?」<br />「ご存じですか」<br />「ええ。一度呼ばれた事がありますわ。確か、市子御姉様が亡くなる一週間前後の頃に」<br />「私が逢えなかった時期ですね。そこには……」<br />「十分待って下さいまし。あ、ライトノベルですのね。ならもう少し早い」<br /> そういうと、アリスは物凄い速さでページを捲って行く。流石としか言いようが無い。<br /> 桁はずれの七星市子や、格闘怪物の欅澤杜花などが常に傍にいると、何かとアリスの非凡具合が薄らいでしまうが、彼女もよっぽどである。<br /> ものの五分で読み終わったらしい。その顔は青ざめている。<br />「……えー……えー……何ですのこれ……えー……四十年前ですし、出版……つまるところ、今回のものは、これになぞらえてありますのね」<br />「文面通り受け取るなら、市子御姉様は皆で仲良くしてもらいたいと、結晶を隠した事になるでしょうが、実際はこのような感じですね。詳細は七星も知らないそうです。兼谷さんは話を濁しますが、嘘は言いません」<br />「仲良くはなったじゃない」<br />「まあ、確かに」<br /> アリスを見る。彼女は、顔を膨れさせていた。物凄く物言いたげだ。<br />「アリス、どうぞ」<br />「ずるいですわ」<br />「来たこれ」<br />「なんでなんで、そんな。お二人は、ええ……早いですわ。ああ、もう、今日はあれから、早紀絵さんの喘ぎ声が頭から離れませんのよ」<br />「ど、どんだけ密着して聞いてたの」<br />「良く解りませんけど。なんかもう、頭に血が上って。でもこれ中で何してるの? え、そんなところ触るの? え、なにそれなにそれ、状態でしたわ。私その、ええと、そういうの、解りませんけれど。ああ、なんか、もう。はあ。早紀絵さん、何故一人で。まさかとは思いますけれど、私を出しぬいて……? いやいや、だとすればですわ。だとすれば、当然恋に愛に反則なんてありませんもの、積極的に行った方が勝ちにきまってます。でも、ああ、じ、実際その、何してましたの?」<br />「セックスです」<br /> 杜花がぶっちゃける。早紀絵は口に含んだ紅茶を拭きだしかけた。杜花の口からセックスなどと言われると、なんだかとっても心がホッコリする。<br />「セッ……が、学校で……ああでも早紀絵さんいつもしてますものね……って、どうするか知りませんけど……なんかずるいですわ。えっと、キスとか、抱き合ってその……」<br />「説明が必要ですか、アリスさん」<br />「是非に」<br /> そういって、杜花がアリスの隣に座り、耳打ちする。<br /> 果してどんな説明をしているのか、見る見るアリスの顔が赤くなる。<br /> なんだか面白いので、早紀絵はただ見つめていた。<br />「と言う事です」<br />「人間って果てしない生物ですのね」<br /> どうやら羞恥が一周したらしい。アリスは悟りの境地を開いたような顔で居た。そしておもむろに幻華庭園を開き、ページを指で指し示す。<br /><br />『躑躅の実家が学園に近いと言う事もあり、夏休みは彼女の家で勉強会を開こうと言う話になった。建前では普段と違う環境で勉学に励み、心身ともに新しい気分で新学期を迎えようというものだが、彼女の実家は神社であり、近くに川なども流れている為、ちょっとした小旅行的気分になれる事が最大の理由だ。何せ私を含めて園も苺も生粋のお嬢様であるから、一般庶民的な夏など体験した事がない。皆が躑躅に対して要望する事はかなりあった……』<br /><br />「流し読みだけでしたけど、これ完全に……欅澤神社ですよね。しかもお婆様」<br />「だろうねえ……」<br />「そしてここ」<br /><br />『……ほんの出来心だった。隣の部屋の襖をほんの少しだけ開けて、覗き見る。月明かりに照らされた二人は、恥ずかしそうに抱き合っていた。そこでやめれば良かったものの、私は目が離せない。躑躅と園が、唇を合わせる。言い知れない焦燥感と恐怖が、じんわりと私の心を浸食する。止めて欲しい。その子は、私のものなのに。何故二人がと思い悩み、私はその場にうずくまる……』<br /><br />「……なんかこう、自分のお婆様の知っちゃいけない部分を更に他人に晒しているような、むず痒い気分です」<br />「それは問題じゃありませんわ」<br />「ち、違うんですか」<br />「躑躅と園。つまり私と杜花様ですわ」<br />「……さ、再現しろと?」<br /> アリスが、机から白紙とマーカーを持って座卓に叩きつける。<br /> 達筆で走らされた文字には、こうあった。<br /><br />『姉妹たちのドキドキお泊まり会 冬休み編』<br /><br /> 冗談かと、早紀絵は頭を抱える。<br /> しかしアリスも目は輝いていた。<br /> いや、一先ずは、おかしなこじれ方をしなかったと、安心するべきだろうか。兼谷の口調からすると、とんでもない怒りを抱えているのかと思っていたが、そうでもないと見える。<br /> アリスに視線を送る。<br /> 彼女は、なんとウインクで返した。可愛いので、早紀絵としてはもう何でも良い。<br />「じゃあ冬休みは杜花の家に泊まり込みになりますわ」<br />「え、でもほら、ここにもあるじゃないですか。夏祭りの準備で忙しかったって。これから御正月ですよ。忙しいですよ」<br />「杜花様の巫女装束超観たいですわ」<br />「私も私も。あ、着てみたい。そして金髪巫女服ってどんなものか拝みたい」<br />「……お婆様に相談してみましょう」<br /> 状況は動いているが、どうにも対処のしようがない今、ならば逆に、すっかり忘れてみるのも良いかもしれない。そして無駄にもならないだろう。<br /> 早紀絵一人では、いささか心許ないが、アリスも杜花を支えるようになってくれれば、絶対に彼女を引き止められる。<br />「……ところで早紀絵さん」<br />「なにかな」<br />「杜花様って、早紀絵さんからみて……感じて、どうでしたの?」<br />「気持ち良くて失神するんじゃないかな」<br />「……覚悟決めませんと」<br />「いやいや……」<br /> 取り敢えず花婆ちゃんに赤飯の用意をさせようと、早紀絵は心に決める。<br /><br /> <br /><br /> ストラクチュアル4/深淵を覗く 了</span><br />
<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-9060554008151503272013-03-22T20:00:00.000+09:002013-04-12T20:02:10.509+09:00心象楽園/School Lore プロットストーリー3<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
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<span style="line-height: 27px;"> プロットエピソード3/心象楽園/怨嗟慟哭<br /><br /><br /> <br /> その日は昼間から放課後まで、体調が優れなかった。<br /> 精神的疲労もあるが、周期的に恐らく生理前の所為だろう。普段ならば大体を忍耐でカバーしているが、心が疲れているとそれも難しい。薬を飲んで誤魔化すにも、副作用の眠気には敵わなかった。<br />「調子悪そうね」<br />「少し寝ます」<br /> 自室に戻ると、服を着替えるのも煩わしく、不作法だが、鞄を置いてそのままベッドに入ってしまった。<br /> 軽い吐き気と微熱がある。<br /> 生理に入るまであと三日程は付き合わねばならない。以降は何も不調が無くなるタイプの人間だ。<br />「……そういえば、戻ってくるのが……早いですね。私、放課後直ぐ、戻ってきたのに」<br />「今日は早退してね――実家に用事があったから」<br /> 実家といえば、七星本家だろうか。<br /> そんなに近くにあるとは知らなかった。恐らくはテロ対策で場所は明かされていないのだろう。<br />「あと一つね」<br /> なるほどと、頷く。結晶の関係で戻ったのだろう。<br /> 失われた結晶四つの内三つを回収。<br /> そして最後の一つは、恐らく身近にある。冬休み前には問題が解決しそうだ。<br /> 惜しむらくは三つめと一緒にあった手紙が、雨ざらしのお陰でグズグズになり、読むどころではなくなっていた事だろうか。<br /> 杜花の直感的に、四つ目はおそらく、大した事は書いていないだろうと思う。<br /> 火乃子と早紀絵の考察通りなら、結晶は限りなく近くにある。この部屋である可能性が高い。<br /> 一応部屋中をひっくり返してみたが、見つからなかった。<br /> 電波や電磁波が影響しているとすれば、早紀絵の携帯に不具合をもたらす事で、場所の特定が出来るのではないかと考えたものの、極度に影響を与えるようなものはなかった。恐らく三つめは破損していた所為だろうと、二子はいう。<br /> 二子は、あれが魔力結晶などではない事を、認めている。<br /> 聞くべき事は沢山あったが、無理矢理話させようとして喋る人間でもない。<br />「ねえ、杜花」<br />「……はい」<br />「もう少しなの」<br />「そうですね。もう少しで全部集まる。私へのまともな手紙も、有ると良いんですけれど……」<br />「それも、そうなのだけれど。もう少しなの。もう少しで、貴女は、七星市子に逢える」<br />「何を、言って」<br /> まどろみが訪れる。<br /> 杜花の半眼が、二子の険しくなる顔を認めたが、力が入らない。<br /> これは今、こんな状態で『魔法』を行使するつもりか。<br /> 精神的に弱ってきている――弾けそうにない。<br /><br /><br />「だから教えて。七星二子は、貴女の為にいるのだから」<br /><br /><br /><br /> ……。<br /><br /> ざりざりと、音がする。<br /><br /> 否定しよう、否定しようと心を縛るも、彼女の魔法はじわじわと蝕む。<br /><br /> いい加減にしてほしい。そんな事をされたら、私は貴女を嫌いになってしまう。<br /><br /> それでも……見たいのだろうか。嫌われてでも、見なければいけないのか。<br /><br /> 止めて欲しい。穿り返さないでほしい。眼を覚ました時、私は耐えられなくなってしまう。<br /><br /> ……。<br /> ……、……、…………、……。<br /><br /><br /><br /> ……、……、……、……。<br /><br /><br /> ……十月の文化祭に向けての準備が着々と進みつつある。<br /> 観神山女学院はこの通り閉鎖空間である事から、文化祭だろうと通常一般人が入れるような場所ではなく、入れるとしても許可証を得た肉親程度だ。<br /> その代わりに学校同士の交流会としての色が強く、近隣の一校、市外県外から十校の女子校がやってくる。時期になると一通一通手書きの招待状を書いて送るのが通例だ。<br /> 文化祭が迫ると皆の気分が盛り上がり、非常に笑顔が多くなる。何せ普段学院に缶詰である生徒達にとって、他校との交流は願ってもないものだ。<br />「で、杜花の試合相手なんだけど」<br /> 杜花はグローブをはめながら三ノ宮風子の話を聞く。クラス毎の催し物もあるが、個人では総合格闘技部に参加する事になっていた。<br /> 運動部系最大の目玉が、夏の全国総合格闘技若年部チャンプ、欅澤杜花の試合である。<br /> 杜花の女性ファンは凄まじい数がおり、当然他校の生徒達からも注目されていた。<br />「全部で五試合してもらう事になるけど、いいかな」<br />「お相手は?」<br />「文化祭に来る、聖隷白百合女学院空手部部長の仁王坂麻美、帝都女学園総合格闘技部部長の園崎アリカ、仙台女子高等学校柔道部副部長神野静香。んで海外から、台北女学近代科学少林寺拳法部部長の王美君。この人総合の台湾チャンプだね。で、最後は在日米軍からジャスミン・コナー。レスリング銀メダリストだ。ヤバイ組み合わせだぜー」<br />「全員と一日で戦うんですか?」<br />「二日間で。前半学生二人とチャンプ、で、二日目は学生一人とメダリストだよ」<br />「良く集まりましたね」<br />「ほら、総合格闘技主催してる格闘技日本に話持ちかけたの。試合は撮影されるよ。学院長許可も取った。メディアの売上も杜花に入るようになってる」<br />「お金はどうでもいいです。そういえば仁王坂さんとは一度ヤりましたね。強くなったかな」<br />「おお、余裕っすね日本チャンプ」<br />「どのぐらい手加減すれば映りが良いでしょうね」<br />「……。そ、そうだな、せめて2ラウンドは持たせてほしいな……」<br />「頑張ります」<br /> 杜花は大変インパクトのある選手だが、如何せん試合時間が短すぎる事で有名だ。<br /> 予選本戦二十試合のうち、一分かかったものが一試合しかない。<br /> 相手は全国選りすぐりであるからして、それらを瞬殺する杜花の実力は、何時でも世界をとれるレベルと称されている。<br /> 杜花を表紙にした格闘技雑誌は、イマドキ紙媒体だというのに飛ぶように売れ、客席から見ているような臨場感がウリのモデルムービーは、数か月映像売上ランキングのトップに君臨した。<br /> 強すぎて美しすぎる総合格闘技選手、は今年の流行語大賞に上がるだろうと言われている。<br /> 杜花を出せば経済効果が間違いなく産まれ、期待どころの騒ぎではないのだが、本人は隔離された女子校におり、なおかつマスコミ関係に関して大した興味がない。<br /> 杜花は取り敢えず人をぶん殴れればそれで良いのである。<br /> 明確な存在証明だ。<br />「さて、少し動きますか」<br />「おっけい。おーい、誰か、杜花とヤんない?」<br /> 練習していた生徒達が、一斉に振り返って手を挙げる。殆ど杜花のマネージャーと化している風子が二人程見繕った。<br /> 早速一礼してからリングに上がり、相手と相対する。<br /> 短髪で長身、浅黒い肌が健康的な三年生だ。<br /> 杜花の身長175センチをもってしても、相手は大きい。<br /> 互いにグローブを合わせる。その力強さが杜花にも伝わってきた。<br />「先輩。宜しくお願いします」<br />「あ、あの。こちらこそ……ああ、試合(ヤレ)るんだ、うふっ凄い、やった」<br /> ……大きくはあるが、彼女は杜花の前で乙女であった。<br /> 杜花は距離を取る。相手はボクシングスタイルだ。リーチに負ける。<br /> 警戒なフットワークを駆使し、相手が自分のフィールドを作って行く。<br /> 杜花はほんの少しだけ眼を閉じ、見開く。<br /> 外野の声援、助言を排除。<br /> 全ての集中を相手に向ける。<br /> リング上の空間を把握し、手中に収める。丹田に気を練る。正中線に筋を通す。<br /> 相手の呼吸に合わせ、此方も動く。<br /> 危機感。左舷からのストレート。人体が反応しうるゼロコンマ先を読んで動く。<br />「くっ」<br /> 牽制ジャブからのストレートだったが、それは何故か当たらない。<br /> そこに居た筈なのに居なくなる、という不思議な感覚が三年生を襲っているだろう。杜花の対戦相手はその不可思議な体験をする事になる。<br /> 杜花は右自然体のまま、ノーガードだ。相手は確実にカウンターを警戒する。が、どうにもならないのが欅澤杜花である。<br /> 凄まじいとは解っていても、いざ立ち合って本物に出会ってしまった動揺からか、歩調が乱れる。<br /> 杜花はその隙を見逃さなかった。<br /> 不用意に放たれた右ストレートを、右腕で跳ねあげると同時に、鍵のように曲げた手頸に引っ掛ける。踏み込んだ足に対して、杜花の出足払いが飛ぶ。<br /> 三年生は物凄い勢いで弧を描き、地面に横から叩き落とされた。<br />「あぐっ……っつぅ……」<br />「先輩、足が乱れています。呼吸もバラバラです。フェイントが浅すぎてフェイントになりません」<br />「は、はい」<br />「続きしますか?」<br />「いえ、堪能しました」<br />(堪能?)<br /> ともかく三年生はご満悦の様子である。本人が満足ならそれで良いだろう、皆幸せが良い。<br /> 次に上がってきたのは二年生だ。規定ギリギリのグローブの薄さ、すり足、撫肩気味。<br /> 投げが得意な生徒だろう。<br />「柔道かな」<br />「は、はい! 柔道とレスリングです。打撃はここにきて教わりました」<br />「はい。では、宜しくお願いします」<br />「はひ!」<br /> グローブを合わせて立ち合う。<br /> 構え自体はレスリングだ。体勢が低く、タックルが来ると解る。<br /> 総合格闘技の発展以降、相手を即座に引き倒し得るタックルの重要性が追求された。<br /> 胴タックル、両足、片足タックルの他に、相手の重心を利用した腕へのタックルなども研究検証され、現在の格闘技世界において、大変重要な技能と認知されている。<br /> 本当に早いタックル程恐ろしいものはない。片足を取られ、引き倒され、そのまま足関節になど持って行かれれば、流石の杜花もタップせざるを得ないだろう。<br /> 勿論、当たればの話だが。<br />「シュッ――」<br /> 一息。かなり速い。<br /> が、杜花は予測済みだ。本来ならばここに膝を合わせるのだが、杜花の膝蹴りとなると、威力とタイミングが良すぎて、相手の頸椎に多大なダメージを与える結果となりうる為、本番以外ではまずやらない。ヘッドギアの恩恵など杜花の前では微小だ。<br /> 杜花はそのまま受ける事にした。<br />「いっっやっあっ」<br /> 左脛に体重をかけて、そのまま後ろに倒そうというのだろう。<br /> しかし、杜花の脚は地面に根を張ったように動かない。脛にくっついている頭と首と肩、良く作用しているが、少し足らない。<br /> 杜花はそのまま自分からしゃがみこむ。<br /> ただしゃがむのではなく、右脚を相手の左脇腹から差し込み、上に乗りかかるようにする。<br /> 変形三角締めが来ると予測したであろう二年生は、必死に上体を杜花の脚から抜こうと試みるも……杜花の筋力を跳ね返せていない。<br /> 首は左脚で固められ、左腕が杜花の右脚で完全にロックされ、そこから一気に仰向けにされる。<br /> 杜花が上体を反らすだけで締めと関節が一緒にキまる。<br /> もがいた二年生は、暫く堪え、やがてタップする間もなく落ちた。<br />「あら」<br /> 杜花が二年生を抱き起こし、背後から横隔膜を圧迫して活法を試みる。数度の刺激の後、二年生は何が起きたのか解らない、という表情で目を覚ました。<br />「おはようございます」<br />「あへ。あ、そっか、締めはいって。あふ」<br />「怪我は?」<br />「杜花さんのフトモモが凄かったのでどうでもいいです怪我とか」<br />「さ、左様で」<br /> 二年生もご満悦の様子だ。幸せなのは良い事だとして、杜花も納得してから、リングを下りる。<br />「今の何。変形三角締めにしては変形すぎる。てかどこ抑えたらああなるんだ……」<br /> 風子は杜花の謎技に対して苦言を呈する。確かに、普通ではないだろう。<br />「ウチの流派の関節締めですね。まず使う機会はないですけれど」<br />「本来どんな時に使うのさ」<br />「欅澤神道無心流は、女性の為の武術です。あんな状態になるとしたら、つまり男性に覆いかぶさられた時ですかね」<br />「なあるほどねえ」<br />「本来服を着た状態で想定された技ですし。服を使うと、もっと痛くて凄いのがですね……」<br />「あ、聞くのも怖いから良いや。なんか平気で殺人技ある流派だろうし」<br />「さて。運動量が足りませんし、少し講義しましょうか」<br />「よしきた、ぶちょー、杜花の講義きけるよー」<br />「マジですの? はい集合、全員集合。杜花様に傾注!」<br /> 総合格闘技部正式所属ではない杜花が部活に顔を出すのは稀だ。<br /> 若年部チャンプである杜花の講義となれば、全国県外からでも応募者が殺到するだろう。またと無い機会に、強い女性を目指す生徒達は眼を輝かせた。<br />「では、組みつき状態からの対応についてご説明しましょう。打撃戦を主とする人々からすると、組みつき状態は非常に面倒です。上手く投げ飛ばせればそのまま馬乗りにも行けますが、全国ともなるとそんな簡単にマウントなど取らせてもらえません。指を自由に使えるグローブを装着している人なら容易い方法があります。風子先輩」<br />「あいあい」<br /> リングに上がり、風子を前に立たせ、組みつく。<br />「ぶっちゃけてしまえば、眼に対する攻撃以外、女性は殆ど規制がありませんので、何でも出来ます。ここをこうして、こういう指を作って、組みつき状態で、鎖骨を……」<br />「あががががががががッッ!!」<br />「こうなります」<br />「杜花加減して死んじゃう」<br />「出来れば折り曲げてしまいましょう。腕や足を取らず折れる骨は全部折りましょう。もったいない精神です」<br />「絶対に違います杜花さんそれちがいたたたたたたッッ」<br /> 痛さに悶える風子が、杜花は可愛く思えて仕方が無かった。<br /><br /><br /><br /> それからたっぷり二時間、杜花は総合部の面々に対して講義を続けた。<br /> 最終的に風子がボロクズのようになっていたが、風子は満足そうである。<br /> 練習を終えてシャワーを浴び、着替えた頃には既に六時を回ろうとしていた。<br /> 文化祭前は準備なども考慮して、校舎施錠、閉寮が七時になる為、食事時間もバラバラになる。寮に戻る頃には、すっかり一人ぼっちで食事する事になるだろう。<br />「はあー……。涼しいー」<br /> 外に出ると夜風が心地良い。道場の暑苦しさとは天と地の差だ。<br />「杜花、今日はありがと」<br />「鎖骨大丈夫ですか?」<br />「まあ、頑丈が取り柄だし。杜花ったら激しいんだから」<br />「特殊性癖で安心しました」<br /> 三ノ宮風子はさわやかに笑う。<br /> 変態だが、杜花は彼女の大らかさと気前の良さに惚れこんでいた。<br /> 恋愛感情はないが、彼女ほど融通がきいて、接していて苦の無い人間はなかなかいない。<br />「ねえ、杜花。あのさ、今後の事なんだけれど」<br />「はい?」<br />「あ、あのさ。もしその、今後も総合続けるのならさ、プロとか、なるじゃん? そうなったらさ、やっぱほら、トレーナーとかマネージャーとか、必要じゃん?」<br />「まあ、確かに」<br /> 杜花としては……どうだろうか。<br /> ――彼女に、許して貰えるならば、続けるかもしれない。<br />「それでその……ウチ出資でさ、道場作ろうかって、思って。ウチはほら、医療製薬会社でしょ。格闘技に怪我は付き物だし、プロモーションとして最適で、杜花なら他のスポンサーも沢山つく。だ、打算的な話も、そ、そうだけど。杜花はやっぱ、強いし、ずっと上を目指して貰いたいし……わ、私……一番になった杜花、見てみたい……し……。も、杜花が、良ければ……なのだけれど」<br /> ショートヘヤーを弄りながら、風子が顔を赤らめる。<br /> ……惚れられている。間違いなく。<br /> 普段、妹になりたい、という子をあしらうのは慣れていたが、こうまで好意を向けられると、流石に気恥ずかしい。<br /> さて、どう受け答えたものか。<br /> 三ノ宮風子を好ましく思っているのは事実であるし、格闘技を通じて付き合って行きたい、というのならば賛成だが、風子のそれは違う。<br /> 三ノ宮医療製薬の長女様が、本気で一緒に居たいと、そう言うのだ。<br /> 三ノ宮家の人間を引き付けるフェロモンでも出しているのだろうかと、自分を疑いたくなる。妹もよっぽどなのだ。<br />「うーんとですね……その」<br /> どう答えるか、濁すか。杜花が頭を悩ませていると、後ろから気配を感じた。<br /> 杜花と風子が振り返った先には、夕闇に紛れるように、人の影がある。<br />「市子御姉様」<br />「い、市子」<br />「ごきげんよ、杜花、それと風子ちゃん」<br /> 笑顔で、ぶれは無く、ゆっくりと歩み寄るその姿は、他の誰かが真似しようと思って出来るものではない。存在そのものが、瀟洒で優雅だ。<br /> 七星市子。<br /> 学院の代表格であり、欅澤杜花の姉であり――将来を誓った、親の同意の無い婚約者だ。<br />「練習帰りかしら?」<br />「そ、そうなの。いや、杜花借りちゃって、悪いね、市子」<br />「とんでもない。面倒くさがりの杜花にスポットライトを当ててくだすった貴女ですもの。幾らでも借りて行って」<br />「御姉様、私は物じゃありません」<br />「あいや、今日はありがと。ほんじゃね」<br />「あ――風子せんぱ……脚はや」<br /> 風子は結局、苦笑いを浮かべて走り去ってしまった。下半身の強い彼女に追いつこうと思えば、杜花でも余程頑張らねば追いつけない。話もはぐらかす形になってしまい、これはあまり宜しくない。<br /> だが、どう答えたものだったろうか。<br /> 杜花は市子を見る。市子はニコニコと笑っていた。<br />「御姉様、どうしたんですか」<br />「んー? 私は殆ど文化祭の準備が済んでしまったから、暇を持て余していたのよ。そういえば今日は杜花が総合部に行っていたなと思い出したから、参上したの」<br />「そうですか。でも、私はもう寮に戻ってしまいますよ」<br />「今日は私もお邪魔しようかしら、寮に」<br />「指導教員を説得してくださいな」<br />「お安いご用よ。さ、行きましょ」<br /> 市子が左隣に付く。杜花は咄嗟に手を繋ごうとして、直ぐひっこめた。<br /> もう夕刻とはいえ、誰が観ているか解らない。繋ぐにしても、面識のある人がいる事は避けたい。幾ら仲の良い姉妹といっても、やはり角は立てたくない。<br />「白萩に行くのは久しぶりだわ。杜花、食事は?」<br />「今日はシチューだった筈です。一人分くらい余ってるでしょうから、ご一緒に」<br />「あら、いいわね。最近段々と冷えて来たし」<br />「個人的には、もう少し先が良いですね」<br />「シチューじゃご飯のオカズにならないって?」<br />「そ、そうは言いませんけれど。何かと暑苦しい空間に居るものですから」<br />「杜花が練習してるところ、見たかったわ」<br />「何も面白い事なんてありませんよ。皆がヘバッて倒れて行く姿しか拝めませんもの」<br /> 市子が何か言おうとして、口を噤む。<br /> 杜花は、なんとなく何が言いたかったのか解り、小さく俯く。<br />「そ、そういえば御姉様は、文化祭で何か、出店するんですか?」<br />「私は個人よ。婦女子に大人気、占いの館。演劇部に小物も借りてね、結構本格的なの」<br />「……頭痛大丈夫ですかそれ」<br />「少しずつ覗くぐらいなら、何ともないわよ。むしろ杜花が心配なのだけれど」<br />「台湾チャンプとレスリング銀メダリストが居るくらいですし、たぶん普通に勝てますよ」<br />「女子校の文化祭なのに、見世物の格闘技っていうのも、どうなのかしら……」<br />「御姉様って、古いタイプのお嬢様ですよね?」<br />「こら杜花。古いとか言わないの。古式ゆかしいのよ」<br />「ふふ。そんな御姉様が好きです。もっと怒りますか? 怒ってください」<br />「やあよ。杜花ったら、こっちが怒っても喜ぶだけなのだもの」<br /> ちらりと向けた視線が、市子と重なる。寮は目の前だ。<br /> 指導教員を説得しろなどとは言ったが、市子の言葉など二つ返事で承諾するだろう。<br /> 泊まる、という事は、杜花の部屋に来る、という事だ。<br /> 触れた小指が絡む。<br />「――ねえ、市子」<br />「あ、ん。何?」<br /> 今日は非常に調子が良い。<br /> 普段一人なのに、今日に限って対人戦を行った所為だろうか、いつもよりも格段に『火照』る。<br /> そのタイミングで市子が来たのだ。こんなに都合の良い日は無い。<br /> 杜花の、悪い病気が持ち上がる。<br />「今日は、準備で疲れたでしょう。汗もかいたかもしれませんね」<br />「そう、ね。ちょっと、荷物を運ぶのに……」<br />「お風呂、入らないでね」<br />「も、杜花……それはその……」<br />「ね、市子」<br />「……はい」<br /> 市子の背後に寄り、周りに誰も居ない事を確認してから、髪の毛ごしに首筋の匂いを嗅ぐ。<br /> いつも市子がつけている柑橘系のコロンの香りと、シャンプーの匂い、そしてほんのりと汗の匂いが混ざり合い、何とも言えない。<br />「だ、だめ、誰かに見られたら」<br />「はい、おしまい。入りましょうか、御姉様」<br />「もう……」<br />「ただ今戻りました」<br />「お邪魔します」<br /> 寮の玄関を開ける。準備期間故か、下駄箱を覗いても外靴(校内用ローファ)の数が疎らだ。<br /> 靴を脱いでスリッパに履き替える。<br /> 二階奥の杜花の自室に荷物を置き、廊下に出た所で天原アリスと遭遇する。<br />「ずるいですわ!」<br />「あ、アリスさん?」<br />「ごきげんよ、アリス。どうしたのかしら」<br /> 逢うなり第一声がそれとはどういう事か。もしかすれば余程腹に据えかねるものがあるのかもしれない。<br />「って、あら、御姉様? どうしましたの。あ、まさか今日はお泊りで?」<br />「ええ。なんだか帰る気力がなくって」<br />「指導教員の許可の後、お願いしますわ。御姉様とはいえルールですので」<br />「アリスさん、それでずるいとは?」<br />「あ、そう、そうですのよ。というか御姉様と一緒に泊まるっていうのもどうなのかしら!? ……それはそれとして、私が立腹しているのは、三ノ宮風子先輩ですの!」<br />「興奮してますね」<br />「興奮もしますわ。杜花様はウチのクラスで一緒に『大正ロマンカフェー』をして『やだ杜花様凄い似合う、格闘技などするから堅気な人なのかと思ってたら大正美人でお淑やか』とかなる予定でしたのに、いきなり横から来て『あ、杜花はウチで出るから、矢柄着てメイドカフェとかないッスわ、天原さん』とか抜かすんですのよ?」<br /> アリス発案の謎模擬店の事だろう。<br /> 大正と平成のダブルコラボを現代に再現、というコンセプトで進められている喫茶店だ。<br /> 一体どんな所からそんなネタを仕入れて来るのか解らないが、クラスのお嬢様方からすると、<br />『え、給仕された事しかないのに、わたくし給仕なんて出来るかしら?』<br />『奉仕される側が奉仕するという謎の背徳感がありますわね、是非ウチのメイドを客にしたてて私が奉仕を』<br />『平成凄いなあ。あの時代一体どんな頭の人が暮らしてたんだろ』<br /> などなど、なかなかに好評の結果可決された。物珍しさを前面に押し出した発想の勝利である。<br /> ちなみに次点は早紀絵提案の『他校交流、文通指南所』である。<br /> 純粋な乙女たちからすれば、早紀絵の発案は実にお嬢様学校らしいのだが、つまるところ出会い系である。満田早紀絵はブレずに満田早紀絵だ。<br />「もう対戦相手も組まれてしまっているので、覆しようがありませんよ」<br />「け、怪我などしないでくださいましね……」<br />「アリスは心配性ね。杜花が負けたりしないわ」<br />「ま、万が一顔などに拳が当たったら……ああ、ああああ……が、眼帯……眼帯? 眼帯杜花様いいですわね御姉様」<br />「眼帯……眼帯かあ……ああ、いいかも、アリス、杜花の眼帯いいかも」<br />「というわけで眼帯大正ロマンカフェーになりますわ」<br />「要素多すぎです……」<br />「そうそう。アリス、カフェをやるなら、給仕指南役も必要じゃないかしら」<br />「嗚呼、鋭いですわ御姉様。その通りです。しかしなかなか、お嬢様方に指導するような度胸のあるメイドとなると」<br />「ウチの兼谷を出しましょう。アレは凄いのよ。私どころか一郎お父様にすら苦言を呈するのだから」<br />「ええ……? 心強すぎですわねそれ。何者ですの?」<br />「少し辛い過去があるだけで、普通の女の子よ。杜花とやり合うぐらい強いかもしれないけれど」<br /> 兼谷(かねや)といえば、市子お付きのメイドだ。普段のお出迎えから身の回りの事を、全て兼谷がやっている。<br /> 一郎氏がどこから拾ってきたのか、国防軍特殊訓練キャンプにブチ込まれてみたり、警察特殊部隊に無理矢理ねじ込んで技術を身につけさせられたりと可哀想な想いをした人である。<br /> お陰で杜花も唸る程強い。<br />「御姉様、それは本当に人間ですの?」<br />「アリスさん、私人間ですけれど」<br />「杜花様が? はは、御冗談を、面白いですわね、杜花様」<br />「ほんと、杜花は面白いわ」<br />「ぐぬぬ」<br /> 何かと相性の良い市子とアリスに囲まれると、杜花も反撃に出れない。言いたい事はあるが、この二人相手では争っても仕方が無いので、杜花は引き下がる。<br />「あ、そうでした。まだちょっと校舎に用事が。それではまたあとで」<br />「はい、頑張ってくださいね」<br />「無茶はダメよ、アリス」<br />「はい。ではごきげんよう」<br /> そういって、アリスは廊下を走る速度で歩いて行く。意地でもルールは守りたいらしい。<br /> アリスが消えて行く姿を認めてから、階段を下りて炊事場へ赴く。<br /> 半寸胴にはメモ紙があり、正の字が書かれていた。人数からして目算すると、シチューにはどうやら一人分の余裕はありそうだ。<br /> 業務用冷蔵庫を覗くと、これまたちゃんと一人分余計にラップをかけられたサラダがあり、棚を覗くと一人分の余計にパンがある。<br />「……」<br />「まあ、都合が良いわね」<br />「いや絶対事前に用意させてましたよね」<br />「偶然偶然。杜花、指導教員に許可を貰いに行くから、準備をお願いしても良いかしら」<br />「ええ。どうぞ」<br /> そういって、市子が炊事場を出て行く。<br /> こんな都合良く一人前余ったりはしない。今日は元から泊まるつもりだったのだろう。<br /> こういった怪しげな根回しを、わざわざ怪しげにやるのが市子だ。準備が良いとも言う。<br /> 取り敢えず小分けにして、シチューを温める。余った材料で他の物は作れないか、と思ったが、こちらは都合良く余っていたりはしないらしい。<br />「お、モリカおっかえりぃ」<br />「サキ、ただいま」<br /> 炊事場にひょっこり顔を出したのは早紀絵だ。シャツにスパッツという、なんともラフな恰好で居る。この寮でそんな恰好をしているのは、早紀絵を覗いて他は無い。というか明らかにブラをしていない。<br />「見てたよ、スパ。恋する乙女の如く、窓からこっそり」<br />「ストーカーみたいですね」<br />「おいおいそりゃないよ……って、モリカ、二人分食べるの?」 <br />「……今日は」<br />「私がいるから」<br /> と、先ほど消えたばかりの市子が顔を出す。早紀絵はあからさまに嫌そうな顔をした。<br />「市子先輩? なんだい、今日は泊まるの?」<br />「ええ。杜花のお部屋に」<br />「……わざと言ってるよね」<br />「うふふ。早紀絵は敏感ね? 私はそんな意図、まるでないのに」<br />「うう……市子怖いよぉ」<br />「御姉様、許可は?」<br />「一つ返事で頂いたわ」<br />「ですよね。サキ、炊事場に何か用事?」<br />「あ、なんかモリカの気配したから」<br />「何かアンテナでも搭載してるのかな。え、盗聴器とか発信機とか……」<br />「ないないない。ナチュラル。市子先輩だってきっとそうだよ」<br />「そうそう。杜花を感知するなんとなくセンサー」<br />「たぶんアリスさんも搭載してますよねそれ」<br />「でしょうね。これも妹達の愛のなせる技ね」<br />「それとなく私を除外するなし。あー、ま、お二人仲良くやるといいさー」<br />「サキ、拗ねましたか」<br />「べべ、別に拗ねてないし! ふん」<br /> そういって、早紀絵はそっぽを向き、ずかずかと去って行く。今に始まった事ではない。五分後くらいには機嫌を直しているだろう。<br /> 彼女は市子が嫌い、という訳ではないらしい。<br /> ただ、市子が居ると杜花の傍に居られる時間が減るのは間違いないので、このお嬢様の扱いには困っている事だろう。<br />「さて」<br /> 温めたシチューを皿に盛り付け、サラダやパンを台車に乗せる。配給も慣れたものだ。<br /> 基本的に、朝食と夕食は全員が揃って取る事になっているが、文化祭準備期間は本当に例外だ。<br /> 市子にドアを開けて貰い、渡り廊下を通って食堂棟に赴く。食堂棟には人影一つない。市子がいなければ、寂しい夕食になった事だろう。<br />「静かな食堂って寂しいわね」<br />「ええ。普段は賑やかですからね。御姉様、ハイ」<br />「ありがとう」<br /> 二人並んで座って食事を始める。<br /> 普段常に一緒に居るが、二人きりで、食堂で食事は恐らく初めてだろう。<br /> 美味しそうに大きく食べる杜花と違い、市子は美味しそうに小さく食べる。<br /> 杜花はどうしても、周りと食事のペースが合わない。<br /> ヒトがいる場合、極力合わせようと努力はするのだが、食べる事が好きな杜花は、なるべくなら誰にも邪魔されず、静かで、満たされた食事をしたのだ。昼食などは誰の誘いも受けず、殆ど一人で食べる。<br />(スープを啜る音もしない、パンを千切る仕草一つが綺麗。こうはなれないなあ)<br /> ふと不思議に思う。<br /> 当然といえば当然なのだが、暮らしている環境は殆ど同じなのに、差異は出る。<br /> 市子は実家から通っている為異なるが、この寮に暮らしている生徒達は、その殆どが同じ時間を共有し、同じ学校で同じ授業を受けて同じような生活をしているのに、皆個性が違う。<br /> 当たり前だ。人は違う。だが、ではどうしてと言われた場合、答え難い。<br />「杜花、そんなにジッと見られたら、食べ難いわ」<br />「ごめんなさい。御姉様の食べ方が、綺麗だから」<br />「杜花も美味しそうに食べているじゃない?」<br />「うーん。そうなのですけれど。これは、なんとなく思ったんですが、みんな同じような暮らしをしていて、同じ指導を受けるのに、大きな差が出るって不思議ですよね」<br />「そうかしら。同じになってしまったら家畜だわ。私達人間が一人として同じものが居ないのは、理由があるのよ」<br />「はて。遺伝子?」<br />「いいえ。経験と記憶よ。個々人に含まれるロジック。自分には何が必要で何が不要か、何を無視して何を気にするか。何に興味を示して、何に興味を示さないか。経験と記憶の取捨選択が人間を作るの。もし、同じ遺伝子を持った双子が居たとしても、同じ人間にはならないわ。例えばクローンだったとしても、二人のクローンが興味を示す事が違えば、違う人間になる。だから、不思議でもなんでもないわ」<br />「効率的な取捨選択をして、同存在になる事は?」<br />「人間は、非効率な生き物なのよ。本来生殖などあり得ない、同性を好きになってしまったり、ね」<br />「じゃあ、効率的な取捨選択を強要したら、同存在になるでしょうか」<br />「面白い考え方をするのね。でも、どうかしら。人間って、簡単じゃないわ」<br /> ふふふと、市子が笑う。<br /> 当然と言えば当然で、大して熟考する必要もないような話でも、市子は取り上げて意見する。<br /> 上からでも下からでも、市子が口にすると嫌味に聞こえない。どうやっても、この人間と同じようにはなれないだろうと、妹ながらに思う。<br />「それにしても……杜花」<br />「はい」<br />「……貴女、もてるわよねえ」<br /> 何の話かと思えば、市子御姉様は気を揉んでいらっしゃった。<br /> 立て続けに三人。<br /> 杜花を持ち上げようとする人物に出会えば、確かにそのような印象も付くだろう。<br />「風子先輩に、アリスさんに、サキですか?」<br />「ええ。私は、慕ってくれる人が、喜ばしい事に沢山居るけれど、杜花とは違うみたい」<br />「サキに関しては性的な意味で、が付くと思います。あの子、気が多くて」<br />「じゃあ、風子ちゃんとアリスは?」<br />「風子先輩は、総合に誘ってくれた恩人ですし、アリスさんはその、幼馴染ですし」<br />「ふぅん……」<br /> 市子が遠くを見る。明らかに、やきもちだ。<br /> 杜花は『七星市子に嫉妬させている』という満足感に、思わず下品な笑いが漏れそうだったが、グッと堪える。市子のこんな姿が見たくて、杜花はたまに他の女の子と仲良くしている所を見せつけたりもしていた。<br /> 自分があまり性格の良い人間でない事は、十分承知である。<br />「後で教えてあげます」<br />「そう……でもその、貴女を、そういう風に想ってる人って、どのくらい、居るのかしら?」<br />「それを知って、御姉様はどう考えるんですか?」<br />「どうも、しないわ。うん……ご、ごちそうさま」<br /> 市子が逃げるようにして、食器を片づけて行ってしまう。<br /> お話は後だ。御姉様と妹、では話せる話題ではない。<br />(市子可愛い。可愛いなあ。ああ、本当に)<br /> そんな姿を見て、胸の奥が熱くなってくるのが解る。<br /> 今日は素晴らしい日だ。市子に、存分に教えてあげられる。<br /> どれだけ欅澤杜花が、七星市子しか見ていないかを。<br /><br /> ……。<br /><br /> ヒトに見られてしまう。汚らしい私が晒されてしまう。<br /> どうして、何故、そんな辱めを、受けねばならないのか。<br /> 私が一体何をした。<br /> やめて、七星二子。やめて――<br /><br /> ……。<br /><br /> 杜花はわざとらしく、後ろ手で部屋の鍵を締めた。市子が小さく反応する。<br /> 市子は寝具も用意していたが、杜花が許さなかった。<br /> ブラウス一枚を羽織っただけで、ブラもつけていない。辛うじてショーツは身につけているのだが、それもだいぶ、少女らしからぬ黒く薄手のものだ。<br /> 杜花が近寄ると、座卓の前に腰かけていた市子が、ほんの少しだけ引く。<br /> 長い髪が真っ赤になった顔を隠す。<br />「杜花、趣味が、悪いわ」<br /> 批難する声を無視し、隣に腰かける。白く滑らかな太股に手を這わせ、耳に齧りついた。<br /> 市子が声を上げる。これから、何をされるのか、不安と、期待があるのだろう。<br />「そのつもりで来たんでしょう。暫くは忙しくて、放課後は一緒に居られなかったし」<br />「そう……だけれど。も、もっと、情緒があっても」<br />「情緒で楽しめるような、高尚な人間ではないの、私は。知ってるでしょ?」<br /> 息が荒くなってくる。今すぐ床に捩じ伏せて、嫌だと泣き叫ぶ姿を蹂躙したい。<br /> ただ、久しぶりであるから、いきなり乱暴にするのも良くないと、一応の理性は働かせる。<br /> 今、杜花の部屋には、学院最大のタブーが二つ存在する。<br /> 誰からも慕われ、誰にでも認められる彼女が、女に責められて悦ぶようなマゾヒストであると、一体誰が知っているだろうか。<br /> そして、女が泣き叫ぶ姿を見るだけで無上の歓びを感じてしまう人間が市子の妹だと、誰が知っているだろうか。<br /> 早紀絵もアリスも、知らないものだ。<br />「市子の汗の匂い、すごくえっち」<br />「貴女が洗うなというから……恥ずかしい……」<br />「下の方も、凄い匂いがするんでしょうね」<br />「あくっ……」<br /> 敢えてベッドには行かない。至高の彼女を杜撰に、無配慮に扱うのが良かった。<br /> 自分という大した存在ではない人間に、好き放題されるというギャップがまた、杜花の下品な思考を満たす。<br />「あーあ、もう濡れてる。市子、期待しすぎじゃない?」<br />「あ、貴女に触れられると、そう、なってしまうの。いいえ、そう、させられてしまったの……」<br />「初めにこんな事を私に教えたのは、市子なのにね?」<br /> 初めて二人で交わったのは、小等部の六年生の頃だ。<br /> ちょっとだけいけない事、などという秘めたる気持ちで、隠れてはキスをしていたが、やがて市子の方から杜花へ愛撫を行うようになった。<br /> 杜花の身体は幼少から発育が良く、生理も来るのが早かった。敏感で、市子も反応が楽しかったのだろう。<br /> 中等部の一年で、二人同時に処女を失った。<br /> 放課後の空き教室だ。<br /> 夕暮れの光が注ぐ中、机に腰かけた二人は、陰部に中指を挿入し、一緒に貫きあった。<br /> 杜花は痛みに強く、そのじんわりとした刺激と、市子のモノになったという満足感から酷い恍惚を得ていたが、市子の場合、自己が満たされた幸福と共に、痛みが快感だったらしく、杜花が指を前後に動かしただけで、彼女は達してしまっていた。<br /> 自分と市子の違いが明確になったのが、あの頃だ。<br /> 生殖行為にならない性行為は、子供が出来ないという『ある意味のメリット』のお陰で、エスカレートする。市子は痛がりながらも悦び、市子が痛がる姿を見て、杜花が歓ぶ。<br /> 覚えたてのウチは、狂ったように求めあっていた。高校生になり、落ち着きこそしたが、二人は行為に対して互いの補完を強く見出していた。<br /> 肉体的に精神的に、深く繋がる事で、誰も入り込めない世界を作り、依存しきっていた。<br />「市子」<br /> 覆いかぶさり、何度となくキスをする。唇を通じて得られる快感は、性器を直接弄るようなものとは違い、甘く、強い。<br /> 唾液を絡ませ、飲み、飲ませている間に、市子はすっかりと出来あがってしまっていた。<br />「こんなだらしない顔、他の人が観たら腰を抜かすでしょうね」<br />「み、見せられないわ……杜花にしか見せられない……」<br />「本当に? 本当はもっと皆に見て貰いたいんじゃないの?」<br />「だ、だめ。そんなことしたら、恥ずかしくて、死んでしまうわ」<br />「でも、居友とは仲が良いよね。アレには見せられるんじゃない?」<br />「み、見せられないわ。見せるわけない……」<br />「あーあ、市子に浮気されちゃった。可哀想な私」<br />「ち、違う。違うの、だ、だって、二人で、お話したでしょう? 居友さん達と敵対しないようにって……も、もりかぁ」<br />「でも私、もてますから。他の人に拾って貰います、御姉様」<br />「あ、いや、嫌だ。ダメ、杜花、他の人なんて、ダメ。私と居て、ね、ねえ? 何でもするから、本当に何でもするからぁ」<br /> よがる市子に理不尽な話をぶつけて楽しむ。当然市子も理解してそれに付き合う。<br /> 二人で一人だ。<br /> どちらかが欠ければ、どちらかも死ぬしかない。<br /> ただ、そんな危機感をあおるだけで市子は喜ぶ。不幸になってしまう自分を想像して幸せなのかもしれない。<br /> 市子の首筋を、ほんの少しだけ強く噛む。制服を着ていればバレ無い程度の痕が残った。重ねて強く吸いつき、耳元で囁く。<br />「今日、風子先輩との間に割って入ったでしょう」<br />「あ、う」<br />「普通貴女なら、お話が終わったタイミングを見てくるのに、風子先輩の時は急に入って来た」<br />「は、はい」<br />「アリスさんとの時も、なるべく早く遠ざけようとした」<br />「う、うう」<br />「サキの時なんて、どんな速さで戻ってきたの? 市子は、サキが怖いんだ」<br />「だ、だって……」<br />「迷惑ですね。折角みな、私の事を気にしてくれるのに、貴女は直ぐ遠ざけようとする」<br />「い、いやなの。杜花は、私のなのに。みんな、可愛いから、杜花が取られちゃうかもって、怖いの……さ、早紀絵なんて、もうずっと貴女ばかり見てるし……し、して、ない、わよね? 早紀絵と、キスも、エッチも……して、ないわよね?」<br />「さて、どうでしたっけ。サキは手が早いから」<br />「や、そんなあ……杜花、ダメ、杜花は、私の。ずっとずっと私のなんだから……」<br /> 泣きだした市子の顔を眺める。滴る涙を舌で舐めとる。<br /> そんなわけが、有る筈もないのに、市子は不幸な自分に酔っている。もしかしたら、という微少な可能性に自分の全てを重ねて、愛する人を取られた悔しさを噛みしめている。<br /> 市子の陰部に触れていた杜花の太股が、生温かくなる。焦点が合わず、強く震え、杜花を抱きしめる。<br />「くふっ……くっ……変態。市子は変態だねぇ?」<br /> なんて可愛らしい生き物なのか。<br /> なんていじらしい生き物なのか。<br /> これが学院の代表?<br /> これが日本最大財閥当主の長女?<br /> 虐められてよがってイくような変態が?<br /> こんな、体力だけが自慢のような、おかしな女に責められて?<br />「あうっ……くふっ……あ、うぅうぅ……」<br />「うーそ。市子、全部嘘。私は市子しか見えない。市子にしか見せない。市子にしかしない。市子としかしない。私と貴女は産まれた時から、こうなる事が運命づけられてるの。だから離れようなんて思わない、離そうなんて思わない。私の半分は市子で出来てるんだから。可愛い、市子、可愛い。一杯愛して。一杯愛してあげる。ずっとずっと、死ぬまで、死んだあとも、生まれ変わっても、何度と繰り返そうと、私はずっと貴女の傍に居る。市子、市子――」<br />「うん……うん。ずっと一緒だから……離れないから……貴女は私の、私は貴女のものだから……好き、杜花、大好き……」<br /> 市子しか目に入っていない。<br /> 周りにどれだけ沢山輝かしい宝石があろうと、杜花には市子しか見えなかった。<br /> 同時に、市子もまた、杜花しか見えなかった。<br /> これからも片時も離れず一緒にいるのだ。<br /> 例え、死が二人を別とうとも。<br />「してあげる。市子の汗臭いあそこ、無茶苦茶に掻き回してあげる。二回三回程度じゃ終わらせないから」<br />「嗚呼――」<br /><br /> ……。<br /><br /> ぎちり。<br /> ぎちり。<br /> ぎちり。<br /><br /> ざりざりと、音がする。<br /><br /> 思考をねじ切る。干渉を引きちぎる。脳が火であぶられるような痛みがある。<br /><br /> 例え脳幹が切れようとも、ここから先は、絶対に見せない。私と市子の、間に、入って、来るな。<br /><br /> 例えお前が、七星市子の妹でも、これ以上するならば、私は、お前を殺す覚悟がある。<br /><br /> 比喩でなく。<br /><br /> 脅しでもない。<br /><br /> 冗談で済ませられるなら、殺意はいらない。<br /><br /> 今すぐ、やめろ。<br /><br /> ……、……、……。<br /> ……、……。<br /> ……。<br /> ……、……。<br /> ……、……、……。。<br /><br /> ……。<br /><br /> 相手は柔道主体の選手だ。柔道ではIHで三位、国体では優勝。国際強化選手としても選ばれており、今後を期待される選手である。<br /> 総合では東北ブロックで二位の成績を収めている。格闘センスは一級品だろうが、いかんせん打撃練習が少ない。顔を殴る事に対して、引け目を感じているのだろう。<br /> その様子では今後勝ち残ってはいけない。<br />「フッ――」<br /> 杜花の放ったボディーブローがまともに神野の腹部を貫く。もんどり打って倒れるかと思ったが、神野はタフだった。<br /> しかし食らってしまった後では遅い。<br /> 杜花は首を下げた神野の頭と腕を脇に抱え、自分の身を後ろに捨てる。<br /> 綺麗に一回転し、縦四方固めのような体勢になる。このままでは脇腹に拳を受けてしまうが、残念ながら杜花はそんなに甘くない。<br /> 初めに抱えた首の骨がギリギリの前傾になって痛めつけられ、挙句首を絞められている故に、殴るどころの話ではないのだ。<br /> 神野がタップし、レフリーがストップをかける。<br /> ゴングが鳴り響き、杜花はリングの上で手を挙げた。<br /> 息を荒げる神野に対して手を差し伸べる。『どうにもならない相手』とやりあった人間は、もはや悔しさを露わにする事すら馬鹿らしくなってしまうらしく、素直に手をとった。<br /> 少女たちの歓声が聞こえる。格闘技日本の用意した特設ステージは大盛況であった。<br />「加減したねえ」<br /> 風子がタオルと飲料を持って現れる。試合時間は約二分。<br /> 二ラウンドは厳しかったが、いつもより伸びた。<br />『相手が全力で来るのに加減するなんて失礼』などという考えは杜花にはない。加減される相手が悪いのだ。<br />「やあやあ、やっぱすごいねー欅澤選手」<br />「ああ、どうも」<br /> ステージの裏で待っていたのは、格闘技日本の雑誌部門記者の女性だ。細い身なりをスーツで固めており、まさしく出来る大人の女性といった趣である。<br />「今年の世界大会は棄権するって?」<br />「はい。長い時間外に出るのはちょっと。学校が好きなんです。ごめんなさい、期待に応えられなくて」<br />「小山選手が代表になるの。本人は嬉しさ半分悔しさ半分みたい」<br /> 小山というと、以前優勝を争った山のような女性だ。<br /> 様々なプロ団体からお呼びがかかっているらしく、酷い怪我をしない限り今後は安泰だろう。<br /> 杜花はというと、各種スポーツ団体、アイドル事務所、マスコミ各社、数えればキリが無いオファーがある。どれにも行くつもりはない。が、アイドル事務所は少し気になった。<br />「彼女なら勝てますよ」<br />「欅澤選手がちょっと異常なまでに強いだけで、小山選手も半端じゃないからね。でも今後は?」<br />「機会があれば、絶対出ない、とは言いません。心変わりもあるでしょう。その折はお願いしますね」<br />「まかせてえ。あ、一枚いいかな?」<br />「はい」<br /> ファイティングポーズを取る。写真うつりには自信があった。<br />「……胸でかいなー……」<br />「ど、どこ撮ってるんですか。記者のおじさま達じゃあるまいに」<br />「いやー、自覚あるか知らないけどさー。これ一枚でウチの資金源の雑誌さ、アホみたいに売れるんだよね。いまどき紙の雑誌がそんな売れるって無いよ? というわけで今後の格闘技日本を支えると思って、どうか!」<br />「……じゃあ、もう少し撮りましょう」<br />「お?」<br />「そして袋とじにしてしまいましょう。なんかちょっと前のグラビアアイドルっぽい」<br />「あはは! 良く知ってるねそんなの! いいよ、編集長だって二つ返事さ! というかお願いしちゃうよ。まかして! おい、レフ! カメラ! ライト! 欅澤選手綺麗に撮るんだからはやくはやくっ」<br /> スタッフが素早い動きで広告カキワリやら撮影道具を一式そろえてやってくる。<br />(駆け出しのアイドルっぽい)<br /> 乗せられてるな、と想いつつ、悪い気は全然しなかった。むしろ、杜花がこんなことまでしてる、と知った市子がヤキモチをやく姿を想像して、嬉しくなる。別に裸になる訳でもないのだ、これで喜ばれるなら安いものである。<br />「選手、グラビア写真集出さない?」<br />「それは調子良すぎです」<br />「おお、怒られちゃった。まあま、今回のイロ付けて置くからねー、はい、笑ってー、あ、可愛い……」<br />「記者さん、お名前は?」<br />「え? 和泉三重子だけれど」<br />「三重子、ちゃんと撮ってくださいましね」<br />「あ――は、はい」<br /> それから三十分ほど撮影とインタビューに付き合い、解放されたのが十二時を回った所であった。<br /> ノリにまかせてサービスをしすぎた所為か、記者の女性はすっかり杜花に執心であった。今更ながら、自分は大概な人間だなと、少し反省する。<br />「きょ、今日は有難うございました……その、また、機会がありましたら……む、むしろ個人的にその、あ、これ、私の携帯番号です。お声がかかれば、いつでも、飛んで行きますから、御姉様」<br />「おね……和泉さん?」<br />「み、みえこでいいです……」<br /> スタッフから『あの男勝りが……』『たまげたなぁ』などと声が聞こえてくる。流石に遊び過ぎた。<br /> 名残惜しそうにする記者に手を振り、ステージを後にする。<br /> 本来なら直接市子の所へ向かいたかったが、小腹が空いて仕方が無い。時間的にも頃合いだ。食堂へ行けばありつけるだろうが、それでは本格的な食事になってしまう。昼食は市子と食べたい。<br /> では、と思いつき、杜花の足は自分のクラスへと向かった。<br /> が、杜花の考えは少し甘かった。<br /> 教室へ向かうまでの間、とにかく引き止められる。<br />『杜花様ですわ!』『チャンプの? あんなに美人なのに?』『サイン貰おうサイン!』『ご一緒にお茶は如何ですか?』『杜花先輩一緒にお食事を』『首絞められたい』『ほねおられたい』『三角締め……』などなど、たまに間違ったものも混ざっていたが、教室に辿り着くだけなのに二十分近い時間を取られた。市子ならばもっと上手くかわすだろうにと思う。<br /> やっとの思いで高等部第二校舎二階の一年二組の前に辿り着く。<br /> 前日には訪れていなかった為、その変容ぶりに驚く。<br /> 普通、文化祭程度の喫茶店なら、教室に多少の装飾を施して終わりだろうに、一年二組はもう外観からして変わっていた。<br /> 壁は全て板張りに張りかえられ、窓の部分は古風なステンドグラスに差し替えてある。入口も引き戸であった筈なのに、開き戸になっており、何処から持ってきたのか、扉自体も周りに合わせて木製だ。<br />(恐るべしアリスプロデュース……)<br /> 彼女には手抜かりなどという言葉が存在しない。一日でどうやって仕上げたのだろうか。その手際に恐れ入る。<br /> 扉を開くと鈴が鳴る。<br /> 眼の前に広がったのは、矢柄に袴、そして白いエプロンをつけたお嬢様方の姿だ。いらっしゃいませ、という声が木霊する。<br />「ああ、杜花様! いらっしゃいましたのね!」<br /> 妙にテンションの高いアリスが寄ってきて、早速杜花の手を掴み、座席へと案内される。机も教室机ではなく、ちゃんとした調度品だ。金髪に純日本ファッションが実に眩しい。<br />「可愛いですね、アリスさん」<br />「ふえ?」<br />「凄く似合います。それは市子御姉様にも見せてあげませんと」<br />「ふ、あ、あ、あはは。そ、そうですの。可愛い。私が?」<br />「はい。そりゃあ、もう。とても」<br /> 余程衝撃があったのか、アリスは白い顔を一気に紅くする。<br /> そこまであからさまだと、杜花も誤魔化しようが無い。<br />「杜花様」<br />「はい?」<br />「もう一回言ってくださいまし」<br />「アリスさんはとても可愛いですね」<br />「うっ」<br /> アリスがふらつく。倒れそうになるのを立ち上がって支えると、周りから黄色い声があがった。<br />「ほ、本当にこういうので倒れる人いるんですね」<br />「す、少し過激でしたわ……、ちょっと、休んできます」<br />「え、ええ。お大事に」<br /> ふわふわと覚束ない足取りでアリスが去って行く。どうしたものかと、取り敢えず椅子に腰かけた。<br /> 喫茶自体は盛況で、席は大体埋まっている。見た事もない制服の生徒が沢山おり、なんだか不思議な感覚があった。<br />(あ、セーラー服だ。可愛いなあ。ウチは小等部だけなんですよね、セーラーっぽいの)<br /> セーラー服の生徒と眼が逢う。反らすのも不躾なので、軽く会釈した。生徒は顔を赤らめて伏せる。<br />「杜花お嬢様」<br /> 愛想を振り撒いていると、アリスの代わりに他のウェイトレスが注文を取りに来る。<br /> 見知った顔に、なれない呼び方だ。<br />「兼谷さん、指導だけじゃなかったんですね」<br /> 兼谷は静かに頭を下げる。市子お付きのメイドは、確か市子の計らいで皆の給仕指南役を買って出ていた筈だ。<br /> 茶色いショートヘヤーに切れ長の目、均整のとれた体つきが、雰囲気からして無駄が無い。<br /> 出来る女性を形にしたような人物で、他の少女たちと違い、奉仕する様が瀟洒極まる。<br /> 杜花の眼で見ても、その体幹がまっすぐで、雰囲気に隙が見当たらないのだ。<br />「はい。何せここのお嬢様方の世間知らずぶりときたら、どこの田舎で育ったんだよと言わざるを得ませんので」<br />「あ、相変わらずで」<br />「まあ、私の田舎には敵いませんがね」<br />「兼谷さんって、どこの……日本じゃないですよね?」<br />「経済崩壊したヨーロッパのとある国のド田舎です。日々の食事にも困るようなクソ田舎です杜花お嬢様」<br />「一郎氏はとんでもない人拾ってきましたね」<br />「まったく。モノ好きでスケベな方です」<br /> 恐らく、この日本においてこうまで大々的に七星一郎をスケベ呼ばわりする人間は兼谷しか存在しないのではないだろうか。<br /> ただ、兼谷は一郎、市子共に大きな信頼を置かれている故に、その扱いは唯のメイドではない。<br />「それで杜花様、ご注文をお伺いします」<br />「では、このクランベリーパイと、ショコラケーキと、お勧め三点スイーツ盛りと、紅茶をください」<br />「一人スイーツパーティでも開催なさるおつもりですか?」<br />「動いたので」<br />「ああ、先ほどの試合ですか。杜花お嬢様、相変わらず脇が甘い」<br />「反省してます」<br />「だからボディブローで一発KO取れないんです。杜花お嬢様は投げが主体ですから、致し方ないでしょうが」<br /> どこで観ていたのか、すっかり批評されてしまった。格下相手、確かに手抜かりがあったかもしれない。こういった件に関して、兼谷は辛辣で的確である。<br />「良く見てますね」<br />「はい。いつかは戦わねばならない相手ですし」<br />「え?」<br />「市子お嬢様を持って行くなら私を倒すか、私をメイドにするかしないといけません」<br />「あの……他の方には、あまり……」<br />「大丈夫です。一郎様しか知りません」<br />「いやそこ一番話しちゃまずいところでは?」<br />「大丈夫です。知っての通り七星一郎という女たらしは妾だけで果してどれだけいる事やら。そのオヤジの娘が学院で女を垂らしこんだ所で怒る筈もありません。子供は何時作るという話もしていましたね」<br />「あわわわわ」<br />「産婆でも乳母でもお任せください。どちらが孕むか知りませんけど、必ず完璧に取り上げて差し上げます。では」<br /> とんでもない発言を残し、兼谷が去って行く。恐ろしい人物だ。<br /> そしていつの間にか親公認になっていた。<br /> 今後市子と付き合って行く上で避けて通れない道だと思っていたのだが、もう既に通り過ぎていた感がある。<br />(将来の悩みが一つ消えてしまった……えへへ)<br /> 市子との百合色の未来図を脳内で描いていると、やがてケーキが運ばれてくる。<br /> 運んできたのはクラスメイト……なのだが、一人恰好がおかしい。<br /> 周りの生徒は皆矢柄に袴だというのに、彼女一人だけウェイターである。<br /> 白いシャツに黒のウェイターベストを着こみ、腰に小さなエプロンをひっかけた痩躯の王子様のような彼女は、銀のお盆が実に良く似合った。<br />「……サキ?」<br />「やあ。おつかれ」<br />「誰かと思いました。やだ、カッコいいですねそれ。細身のサキに良く似合います」<br />「ああ、そういって貰えると、着た甲斐があるよ。実はもうね、これで外歩くとモテちゃって……えへへ」<br />「解る気がします」<br />「これから三人とデートしなきゃいけないのよん。4Pは流石に初めてだなー」<br />「そういう発言さえなければ良いんですけど」<br />「あ、モリカ、ヤキモチやいた?」<br />「いえ別に」<br />「ぐふっ。し、辛辣だあね……そういえば一人なの? 市子のアレは?」<br />「小腹だけ埋めようと思ってきたんです」<br />「小腹埋めるのにこれだけ食べるってのも……じゃあ私も付き合おうか……」<br /> と、言ったところで、制服に着替えたらしいアリスがズカズカと近づいてくる。<br />「ウェイターさん、お茶をいただける?」<br />「あ、アリス?」<br />「ほら、仕事してくださいまし。それでなくても午前中はその格好で女の子引っ掛けてたでしょう」<br />「そ、そーだけどもさ、お昼だしさ、モリカとお茶……」<br />「それはいけませんね。サキ、お仕事してください」<br />「ぐぬぬ……わーたよぅ。お茶ねお茶」<br /> アリスが正面に座り、機嫌よさそうに微笑む。どうやら体調は良さそうだ。<br />「もう良いんですか」<br />「ええ。丁度お昼ですし」<br />「サキの恰好、似合いますね」<br />「そ、そうですわね。うん」<br />「アレは流石サキとしか言いようがありませんね。アリスさんも好きでしょう、ああいうの」<br />「そ、そんなことありませんけれど」<br />「衣装を用意したのは?」<br />「私です」<br />「一着だけ?」<br />「はい」<br />「誰用に?」<br />「早紀絵さん用に……って、ああもう、ええ、そうですわよ。だってあの子の男装見たかったんですもの。ああ、凄く似あう凄く……」<br /> 恥ずかしそうにするアリスが可愛く、思わず笑ってしまう。<br /> 恋多き乙女であるアリスがほほえましくて仕方が無い。<br /> 杜花も、市子がいなければもしかすれば、この二人に靡いていたかもしれないのだ。それほどに、杜花も、アリスも、早紀絵も、距離が近い。<br /> 勿論、市子無しに今の杜花はあり得ないのだから、今後も可能性として存在しない人間関係だ。<br />「ケーキ、どうぞ」<br />「あら、では」<br />「サキも」<br />「ふあ……んく。はい?」<br />「サキもアリスさんが好きですよ」<br />「げっほっ……なな、何を言い出しますの、杜花様」<br />「あの子、本当に好きな子には、直ぐ手を出したりしないんですよ」<br />「……それは、杜花様も含めて、という事ですの?」<br />「ええ」<br />「……それはなんだか……辛いですわね。早紀絵さん」<br />「――そのうち、ちゃんと応えてあげませんと」<br /> 市子と杜花がどこまで進んでいるのか、明確にはアリスも知らないだろうが、市子と杜花がただの姉妹ではないとは自覚しているだろう。<br /> 故にどうあっても、早紀絵の想いは杜花には届かないのだ。<br /> 遠くない未来、ちゃんと断らねば示しが付かない。早紀絵の一方的なものだが、自覚した上で無視し続けるのは気分も都合も礼儀も悪い。<br />「ああ、ごめんなさい。こんな話をして」<br />「いえ。でも、そ、そっか。早紀絵さん、私の事……」<br />「あ、サキ」<br />「え?」<br />「嘘です」<br />「も、もう、杜花様ったら」<br />「ふふ、ごめんなさい」<br /> なるべくなら……禍根は残したくない。<br /> 皆が笑えて、幸せになれる方向が一番良いに決まっている。<br /> 姉妹の関係も、早紀絵との関係も、永遠ではない。あと一、二年の間に、全てはガラリと変わってしまう。この箱庭は限定された楽園なのだ。<br /><br /><br /><br /> お茶を持ってきた早紀絵を弄ったり、紅くなるアリスを弄ったり、喫茶店として楽しんだかどうかは別として、とても良い休憩が取れた。<br /> 手土産も用意して、早速市子がやっている占いの館にまで赴く。<br /> 個人、とは言っていたが、名目上は部活動からの出店だ。何せ文芸部は部員が一人しかいない。<br /> 部活棟にまで赴き、一番奥の部屋までたどり着く。元から簡素な造りの部活棟であるから、凝りようが無いのは仕方が無い。<br /> 文芸部室の扉には小さく『文芸部出店 思占館』という張り紙があった。その下には『現在占い中』の注意書きがあった。<br /> ちなみにインチキである。<br /> 暫く表で待っていると、他校の生徒二人が出てくる。<br /> 手を繋いでいる様子、その仕草から、カップルだと解る。<br />(ああ、カッコイイ系とカワイイ系の、典型的なカップル。私と市子は……ビジュアル的に、っぽくないんですよね)<br /> 二人とも黒髪ロングだ。妹の方がでかい、というのもある。傍から見るとどう映っているのか。<br />「失礼します」<br />「はい、いらっしゃい……、あら、杜花、来てくれたのね」<br /> 濃い紫色のビロードがかった垂れ幕で覆われた部屋。正面には客用の椅子と机が二つ、正面には市子が坐している。演劇部から小物を借りて来た、というだけあり、あちこち装飾が多い。いっちょまえに水晶玉などもある。<br /> 市子本人は、というと、いつもは前で揃えている髪を分け、長い後ろ髪を高い位置で一本に結んでいた。<br /> 衣装は黒くて長めのドレスワンピースである。自前だろう、安モノ感が一切ない。指にも曰くありげな指輪を幾つも嵌めている。<br /> 確かに、何かしてくれそうな雰囲気があった。<br />「御姉様、胡散臭いです」<br />「杜花、あのね、そこは綺麗ですとか、可愛いですとか、普段と違って素敵ですとか、色々あるでしょう?」<br />「素敵で美人で可愛いのはいつもの事でしょう。胡散臭さを目指したのでは……?」<br />「……なるほど、なら正当評価ね。うん。ふふ」<br /> 長い付けまつげを揺らして、市子が笑う。化粧も少し濃いめなのは演出だろう。<br /> しかしながら、その格好で表を歩くのは……いささか難がある。<br />「実は御食事に誘いに来たんですけれど」<br />「あら、もうそんな時間? 行列とまではいかないけれど、ひっきりなしに対応していたから」<br />「宣伝してないですよね」<br />「したら私一人じゃどうにもならないから、ひっそりよ」<br /> そういって、市子は表に顔を出し、表の注意書きに何か書き加えて戻ってきた。恐らく『お昼休憩』とでも書いたのだろう。<br />「さて、杜花は占わないの?」<br />「インチキじゃありませんか」<br />「そうそう。ここにあるタロットもトランプも水晶玉も八卦も何もかもただの飾り」<br /> 占いっぽいものは沢山あるが、それらは一切使用されていない。全ては市子の頭の中で処理される。<br /> 所謂魔法だ。<br /> 他の人間が聞いたのなら笑い転げるであろうソレだが、市子の力は冗談にならない。効力に差はあるが、相手の思考を読み取ったり、幻惑を見せたり出来るという。<br /> 如何せん杜花の場合精神が強靭すぎるらしく、効き目は薄い。<br />「杜花は効き難いのよね。じゃあ悩みはあるかしら。お悩み相談も受けるわ」<br /> そういって、謎の動きで水晶玉をこねくり回す。なんだか面白がられているようで癪だったので、面白くしてやる事にした。<br />「……実は恋人がいまして」<br />「ええ、ええ」<br />「知らない間に恋人のお父様からも許可が出ていたらしく……将来結ばれる事が決まってしまいました」<br />「――え?」<br />「実は同性で、まだ学生身分ですけれど……本気で愛しているんです。絶対に幸せにしてみせます。ただ……」<br />「た、ただ?」<br />「私、格闘技団体やスポーツ団体やアイドル事務所やマスコミやその他諸々からオファーが多くて、今後そういった職業に付きながら、彼女をどう幸せにして行けばいいのか悩んでいます。私がお嫁さんになった場合、彼女の家はとても立派なので、それこそ外にも出して貰えないんじゃないかと不安があります」<br /> 市子は、鯉のように口をパクパクさせてから、咳払いを一つする。<br />「ええとまずその……一郎……じゃなくて、彼女のお父様だけれど……そのお話は、どこから?」<br />「彼女お付きのメイドさんからです。まず冗談は言わない人ですし」<br />「あ。そりゃ確定です。間違いありません。お父様に喋るなと言ったのに……でもそんな簡単に許可が出るなんて」<br />「どうしましたか占いの先生」<br />「いいえ。そう、では今後の憂いは無くなったのね、おめでとう。ふふふ」<br />「有難うございます」<br />「それで、貴女の今後だけれども」<br />「はい」<br />「……た、たぶん、彼女は彼女の苗字を名乗って欲しいだろうから、お嫁さんになるのが一番だと思うわ。あ、貴女のお名前は……杜花さんね」<br />「ワアスゴイ、ナンデワカルンデスカ」<br />「……七星杜花。うん。姓名判断的にもかなり良い線です。間違いありません。そうするべきです」<br />「凄い速さで姓名判断しますね」<br />「前に何度かしてみたし……じゃなく、凄いんです。それで今後ですけれど、ええと、な、なるべく毎日御顔は観たいと思ってるかもしれませんね。なのであまり忙しい職につかれると、彼女が拗ねると思います。というか彼女のお家の仕事を手伝えば良いと思います。うん。秘書とかどうでしょう。秘書の杜花さん。ボディガードも兼ねてますね」<br />「……秘書でボディーガード。あ、凄い良いかもです。出来る女っぽいです」<br />「ええと……ちょっと待ってて」<br /> 市子は、杜花との間にカーテンを引き、後ろに下がってしまう。<br /> 何事かと思って数分後、いつもの市子の姿で現れた。<br />「あ、御姉様」<br />「えっと、杜花?」<br />「はい?」<br />「……その……こ、今後とも……宜しくお願いします……」<br /> 顔を真っ赤にし、静々と市子が頭を下げる。<br />「こ、こちらこそ」<br /> 普段、あれほどの事をしているというのに、何か初々しい気持ちになる。改めて、この子が好きなのだと再認識し、胸がいっぱいになった。<br /> 市子を抱き寄せて、頬にキスをする。<br />「そっかあ。一郎お父様、許可してくれたのね……そうだ」<br />「はい?」<br />「指輪が欲しいわ」<br />「……ファイトマネーとスポンサー費とメディアの売上で確か……うん、結構ありますから、貧相なものをプレゼントしたりはしません。七星市子を飾って恥にならないものを……」<br />「違うの。作りましょ」<br />「ああ、もしかして、シルバークレイで?」<br />「ふふ。そうそう。いいでしょう? 今度の休みは杜花も外に出れるよう学院長に『お願い』しておくから、デート。ね?」<br /> 市子は余程嬉しいのか、いつもより声が高く、上ずっている。<br /> 一番の障害かと思った父からの許可がこんなに簡単に出るとは考えていなかったのだろう。そもそも不許可だったとしても、杜花も市子も駆け落ちぐらいする気でいた。<br /> いても良いのだ、ずっと一緒に。何の後ろめたさもなく。<br />「……市子」<br />「あっ、う、はい」<br />「お腹空きました」<br />「ヤダもう……ならそう早く言って頂戴」<br /> 照れ隠しに腹の具合を言い訳にするのは、乙女としてどうなのか。ただ、市子は幸せそうだ。<br /> 本来なら校内で手を繋いだりはしないのだが、文化祭というお祭りならば許されるのかもしれない。ただやはり、相当目立つらしく、不本意にも視線は大量に集めていた。<br />「お、御姉様、みんな、見てる」<br />「良いんです。もうさっさと結納済ませて籍入れちゃうのだもの。ああ、式はどうしましょう? 欅澤神社で良い?」<br />「結婚式の自給自足っていうのも……そもそもあの小さい神社じゃ、七星関係者収まりきりませんよ」<br />「何万人来るかしら」<br />「何……万……?」<br />「そりゃあもう! 式場周辺に経済効果をもたらすレベルだもの」<br /> こうしているとスッカリ忘れてしまうが、七星市子は七星の長女だ。関係者だけで何万人いるともしれない。その人間が一斉に動いたら、そりゃあ経済効果も産まれてしまうだろう。<br /> ……ドーム貸切……も、あり得る。<br />「こ、こぢんまりが良いです」<br />「ダメ。これから次世代を担う私達が、同性で結婚するのよ? 社会現象化すらあり得るわ」<br />「マスコミ各社が絶賛する結婚式とか物凄く嫌です」<br />「絶賛しなきゃ提携切るって脅せば乗せるわよねきっと?」<br />「色々敵に回し過ぎですそれ」<br />「ふふっ、冗談よ。さ、ついたわ、あら?」<br /> 食堂に付くと、丁度昼という事もあり、本校他校の生徒でごった返していた。<br /> 取り敢えず注文だけを済ませて奥に進むと、個性の強い面々が席を陣取っているのが解る。早紀絵と、アリス、そして風子と火乃子だ。珍しい事もあるものである。<br />「杜花様、御姉様。今から昼食ですの?」<br />「おうー、こっちおいで。二人でいちゃいちゃさせないぞおい」<br />「このメンツでご飯とか食べるの始めてかも」<br />「わ、私居て良いのかな……」<br />「みなさんごきげんよう。実はね――」<br />「だー、あー、ダメです先走り過ぎです御姉様」<br />「くふふ。杜花あわてすぎ」<br /> 市子が、華のように笑う。<br /> 丁度良い機会だ、昼食後は、このメンバーで過ごすのはどうだろうか。<br /> 文化祭は明日も続く。きっと楽しいに違いない。<br /> 人間関係、様々とあるが、こうして仲良く笑って過ごせるのも、きっと今だけだろう。<br /> この後何をしようか。<br /> 明日は何をしようか。<br /> 近いうちに、市子とデートもある。<br /> クリスマスは、年末年始は、どうするんだろうか。<br /> もしかすれば、七星家に顔を出す事になるかもしれない。<br /> まだまだ高校生身分だ。学生らしい事もまだ楽しみ終わっていない。<br /> これからどんな未来があるのだろう。<br /> 学院の外に出て、上手くやっていけるだろうか。<br /> 市子の妻として、ちゃんと出来るだろうか。<br /> 不安は大きい。<br /> けれども、それ以上の期待がある。<br />(……んっ)<br /> テーブルの下で、こっそり手を繋ぐ。<br /> 市子が、悪戯っぽく微笑む。<br /> きっと大丈夫だ。<br /> 彼女となら、何処にでも行ける、何処までも行ける。<br /> ずっと一緒に居られる。<br /> 嗚呼――この幸せを、ずっと続けて行こう。<br /> 自分達には、それだけの力がある。<br /><br /><br /> ……、……、……、……。<br /><br /> 止めて、止めて、止めて止めて止めて止めて止めて止めて――――!!!<br /><br /> ……、……。<br /><br />「――あー……」<br /> 市子と一緒に作った指輪を、胸元に抱きしめる。<br /> 欅澤杜花には、目の前の光景が良く解らなかった。<br /> どれだけ現実味があろうと、全てが空虚に流れて行く。<br /> 棺の中から顔を覗かせる美しい彼女は、当然のように目を醒ますであろうと、信じて疑わなかった。<br /> 何もかもがおかしい。<br /> 何もかもが間違っている。<br /> 自分を置いて、彼女が去る訳が無い。<br /> ずっと一緒に居たのだ。<br /> 彼女の隣にいなければ、呼吸も出来ないのではないかと疑ってしまう程に、二人は傍に居た。<br /> 白黒の横断幕も、煌びやかに飾られた仏前も、それを取り巻く人々も、何を嘆いているのか解らない。<br /> 七星市子はここに居る。<br /> 離れる筈がない、死ぬ筈が無い、喋らない筈がない。<br /> だから何も、悲しむ必要などない。<br /> 葬儀の間、杜花はただ虚空を見つめていた。念仏は耳に入る事もなく漂って消えて行く。かけられる慰めの言葉も、半分以上が理解不能であった。<br /><br /> 何だそれは。<br /> この度は葬儀にお越し頂きまして。<br /> 何だそれは。<br /> 七星の次代を担う彼女の死は。<br /> 何だそれは。<br /> さぞお辛いでしょう。<br /> 何だそれは。<br /> どうか、気をおとさず。<br /> 何だそれは。<br /> 火葬。<br /> 何だそれは。<br /> 納骨。<br /><br /> ――何だそれは。<br /><br />「何ですか、それは」<br /><br /> 気が付けば、杜花は墓前に立っていた。<br /> ただならぬ気配に、親族一同が杜花を警戒し、警備員が駆け付ける。<br /> 杜花の肩に手をかけた警備員の一人が、胸部にゼロ距離で掌底打を受け三メートル程吹き飛び、他の墓にぶち当たって気絶する。<br /> 止めに入った他の人間は、なすすべなく地面に伏せた。<br /> 杜花には状況が理解出来ない。<br /> 地球の空気が無くなりましたと、言われたようなものだ。<br /> 信じられるか、そんなもの。<br /> 控えていたSPが拳銃を取り出して杜花を囲ったところで、一人の男性が前に出る。<br />「やあ、お嬢さん」<br /> 見た所、三十後半ほどだろうか。<br /> 声は軽く、身体も大きい。喪服を着る姿も、悲壮感を感じさせない、力のある空気だ。<br /> オールバックの男は、杜花の前に立ち、小さく礼をする。<br />「欅澤杜花君だね。兼谷、間違いないね」<br /> 兼谷。市子のお付きだ。<br /> 兼谷から話を聞いた男性は頷き、杜花の傍によって、一緒に墓を望む。<br />「市子の良い人か。それは礼を欠いた。父の、七星一郎だ」<br />「――おとう、さま。ですか」<br />「そう。七星の当主だ。市子の恋人だね。うん、兼谷から聞いている」<br />「あっ……お初に、お目にかかります。欅澤家長女の、杜花です。御姉様とは、懇意にさせて貰っています」<br />「うん。市子も隅に置けない。何時からだい?」<br />「小等部の頃から、ずっと一緒です」<br />「となると、すごした時間は僕なんかよりも長い訳だ。なるほど、それは、受け入れ難いね」<br />「あの、お父様。御姉様は。何か、皆、良く分からない事を、言っているのですが」<br />「死んでしまったよ。部室で首を吊ったそうだ。何故だろうね。そんな兆候は誰にも見せていなかった。事前の検診でもストレスは零という結果だった筈さ。その調子では、恋人の君も知らなかったんだね」<br />「死って。御姉様が、私を置いて、死ぬわけがありません。お父様、御冗談が、過ぎます」<br />「冗談で済んだら、葬式はいらないんだね。残念ながら、市子は死んでしまったよ」<br />「……そんな。毎日、一緒に居たのに。そんな」<br /> 曇り空が泣きだす。<br /> 降りしきる雨の下、市子の墓前には異様な光景があった。<br /> 男と、少女と、それを囲う拳銃を構えた黒服が五人。<br />「……強い雨だ。良ければウチにおいで。話す事もあるだろう。おい、お前ら、いつまでそんな物騒なもの出してる。片づけろ。傘をお嬢さんに。さあ、行こう、杜花君」<br /> それから七星の本家に招かれ、食事をしながら市子の思い出を語った。<br /> 七星一郎は杜花の言葉を聞きながら、その言葉を噛みしめるように頷く。<br /> 学院において、七星市子はどれほどのものなのか。市子はあの時、この時、どうしたのか。普段の市子は、自分以外には見せない市子は、市子は――もう居ない。<br /> どれほど喋っただろうか。<br /> 追いつけない現実と自分の記憶をすり合わせるような作業であった。<br /> 七星一郎は一度も席を立たず、杜花の話を全て聞いていた。<br />「辛さは、後からやってくるだろう。彼女の死を自覚した時、君は君であれるだろうか。記憶とは残酷なものだよ」<br />「彼女との思い出を胸に、生きて行けるでしょうか。私は」<br />「どうだろうか。記憶とは魂そのものだ。君の心に彼女の記憶があれば、それは生きている事になるのかもしれない。ただそれでも、手にとれる人間としての形を得たものを欲したのならば、その限りではないだろう」<br />「ごめんなさい。七星一郎ともあろう人に、こんなに時間を取らせてしまって」<br />「学生身分が気にする事ではないよ。まして市子の恋人だ。きっと僕は君の支えになれるだろう。困った事があれば連絡してくれ。大半の事は何とかなる。何とかするような立場に、努力してなったんだ。僕は」<br />「ありがとう、ございます。お父様」<br />「うん。君が望むなら娘にだってしてあげられる。同じ七星の名を継げる。僕は君を気に入ったよ。流石市子が目を付けるだけの事はある。いつでも本当にお父さんと呼んでくれ」<br /> 七星一郎が、就寝時以外に四時間の時間を取ったのは、後にも先にもコレだけだという。<br /> 彼が止まると言う事は、大日本国が止まるという事だ。<br /> 特別の配慮に感謝し、杜花は自宅へと送られた。<br />「お婆様、お母様、ただ今戻りました」<br /> 玄関で出迎えたのは、祖母の欅澤花と、母の欅澤杜子だ。<br /> そのあと直ぐ、祖母の自室に招かれる。<br /> 祖母はまだ54という若さだ。祖母も母も学院の卒業生で、卒業後直ぐに婿を取り、子供を儲けている。<br /> 女系家族の典型で、一族の男は立場が弱い。<br /> 特に祖母は界隈から『妖怪』とまで言われている。欅澤神道無心流の免許皆伝だ。<br />「七星の子だったね」<br />「……はい」<br />「そう。何故だろうね。どうしてかね。杜花」<br />「はい」<br />「心を腐らせるな。さすれば記憶も腐る。お前の記憶にある七星を殺したいのか」<br />「いいえ……」<br />「平静でなさい。泣くなとは言わない。無様な姿は皆も狂わせる。泣くなら一人で泣きなさい」<br />「……」<br />「――どうして、こうなるのか。因果か、呪いか。甚だ、運命は恐ろしい」<br /> 本来なら道場にまで引き摺られ、投げ飛ばされていたところだろうに、祖母はそうしなかった。<br /> 悲しむ杜花の気持ちを察したのか、それとももっと別な理由があったのか。杜花には少なくとも、その時判断するだけの頭は無かった。<br /> 半身を殺され、殺された事を隠し続ける人間。<br /> 欅澤杜花に、苦痛と絶望の日々がやってくる。<br /><br /> ……。 <br /><br /> ――いい加減にしろ。これ以上覗くな。<br /> ――いい加減にしろ。これ以上頭の中を穿り返すな。<br /> ――散々警告したのに。<br /> ――もう、許さない。<br /><br /><br /> ……。<br /> 人一人、どこかで野たれ死んだ所で、杜花には全く関係のない話だ。<br /> 例えどこかで戦争が起こり、何万人と死のうと、杜花には与り知らぬものである。<br /> 身近な人が死んだなら、きっとそれは悲しいだろう。人には個人の価値がある。顔も知らない人間を悲しむような涙は持っていないが、親しい人の死を悼む心はある。<br /> では己が死んだらどうなるのか。<br /> 己は己の為に悲しむ事は出来ない。<br /> 己の死を悲しめる本人はいない。<br /> だからつまり、欅澤杜花は、もう既に死んでいたのだ。<br /> 本来ならば、悲しむ筈もなかったのだ。<br /> 市子が死んだと知り、同時に死ぬべきものだった杜花は、彼女の死を受け入れられず、のうのうと生きている。<br /> そう、もう、居ないのだ。<br /> 何もかも終わってしまっている。<br /> そして杜花は、とうとう自覚した。<br /> 自分は屍だ。<br /> ――欅澤杜花は、生きているべきではないのだ。<br />「……二子」<br /> 眼を覚ます。<br /> いつから寝ていたのか、記憶はない。案の定、隣には二子が控えていた。<br /> 瞬間的に怒りのメーターが振りきれる。<br />「モリカ、これはね」<br /> 起き上がり、手加減無しで平手を打つ。<br /> 二子の軽い身体は弾かれ、机に酷くぶつかった。机の上に置かれていたものが、盛大に床へばら撒かれる。それを意に介さず、杜花は歩み寄り、片手で二子を掴みあげ、更に突き飛ばす。<br />「あぐッ」<br /> 嫌な音が響く。二子は腕を抑えて悶えるが、当然杜花はどうでもいい。<br />「するなと言ったでしょう」<br />「だっ、けふっ……だって……わ、私は……」<br />「市子の代わりになると? ふざけた事言わないでください。殺しますよ」<br /> どう殺してやろうか。少し考える。<br /> 後先はどうでもいい。<br /> 何せ自分もこれから死ぬ身だ。<br /> あんな糞ったれの家族もどうでもいい。<br /> なんでもいい。<br /> 世界は既に終わっているのだ。<br /> この馬鹿者を殺してやれるならそれでいい。<br /> 首の骨はアッサリとしすぎる。市子と同じように紐で吊るしてやった方が良いだろうか。<br /> サンドバッグにしてやっても面白いかもしれない。殴られるたびに内臓を抉られる痛みは、想像を絶するものだろう。<br />「私は、私は、杜花、聞いて、お願い、乱暴、しないで、聞いて、杜花……ッ」<br />「市子と同じ声で、同じ顔で、喚くな。ああ、そうだ。この前言いましたっけね。そのぴぃぴぃ囀る声帯ぶっ潰すって。頭に来る。もう二度と喋らなくて良いです」<br /> 二子の髪を捕まえ、頭を引きずって地面に叩き伏せる。<br /> 口の中に手を突っ込み、顎を上げさせ、その細い首に渾身の拳を叩きこめば、もう喋るまい。<br />「はぐっ、ぐっ……んんっっ」<br />「どうせお前たち七星に巻き込まれて死んだんでしょう、ならさ、七星一人ずつ殺せば良いですよね。何人いるか知りませんけど、百人だろうと千人だろうと、全部消す、なんてどうでしょうね」<br /> 拳を振り上げる。その手を降ろそうとした瞬間、腕を後ろから掴まれた。<br /> 怒りで周りが見えなくなっていたのだろう。<br />「モリカ、ダメ、ダメだって! 貴女が本気出したら、人が、死ぬってッ」<br /> ドアの外には数人、観た影がある。アリスと火乃子だ。<br /> アリスは明らかに人払いをしている。火乃子は直ぐにドアを閉じて、外の生徒に対して対応しているらしい。大きな音を出し過ぎたか。<br /> 怒ると周りが見えない。まして市子の事では、それも仕方が無かった。<br />「離して、サキ」<br />「だめ、ダメダメ。二子が死んじゃうから! そんなことしたら、そんなことしたらッ」<br /> 振り払うのは、容易かっただろう。早紀絵は身が細い。<br /> ただ、早紀絵には何の咎もない、愛しい友人だ。彼女が危害を加えられるのは、理不尽極まる。どういう理由があれど、彼女自身は杜花を案じてくれているのだ。<br /> 少なくとも……早紀絵は家族よりも、大事に思う。<br /> 二子の口に入れた拳を引き抜き、腕を降ろす。<br />「げほっ……げほっ……ッ」<br />「二子、おい、大丈夫? 杜花離れて」<br />「……――」<br />「けほっ……んくっ……杜花の手、けほっ……なんかレモンみたいな匂い、する」<br />「ええ……そ、そんなで良いの貴女は……、あ。二子?」<br /> 二子は胸を押さえて立ち上がり、離れた杜花の前に立つ。<br />「……階段で転んだわ。腕を挫いたみたい。保健室に、行って来る。早紀絵、連れて行って」<br />「――あ、貴女。だ、だって、階段って……」<br />「階段から転げ落ちたの。二段ベッドの。酷い打ち方をしたわ」<br />「そ、そ、そう。解った。私、階段から落ちるとこ、見てた。いや、派手に転んだね」<br />「ええ。我ながら間抜けだわ。けほっ……杜花も、気を付けてね」<br /> そういって、早紀絵に伴われた二子は部屋を出て行く。<br /> 入れ替わりでアリスと火乃子が顔を出した。<br /> 杜花の顔が余程酷かったのだろうか、火乃子が顔をひきつらせる。アリスはそのまま此方に歩み寄り、杜花を抱きしめた。<br />「何か、ありましたのね」<br />「小うるさいので、殺そうと思って」<br />「そうですの。でも、平日夕方にそれは、過激すぎますわ。直ぐバレてしまいますもの」<br />「殺し損ねました」<br />「ええ。むしろ良かったと考えるべきですわ。こんな環境では、いたぶれないでしょう」<br /> アリスは……本心はともかく、杜花の話に同意する。落ち着かせる為だろう。<br /> 見え透いたものだが、同意という錯覚が、杜花には心地が良い。<br /> たまらなく悲しく、虚しくなる。<br /> ――何をしているのか、欅澤杜花は。<br />「酷いんです。二子ったら、私の頭の中を、勝手に覗いて」<br />「ええ、ええ。酷いですわね。そうだ、休みませんこと? 疲れたでしょう」<br />「あ、あの、私、お茶、淹れてきます」<br />「ああ、三ノ宮さん。お願いしますわ。杜花様、さ、座って」<br /> アリスに促され、座卓の前に座る。アリスはずっと杜花の腕を掴んだままだ。少し震えている。<br /> 杜花が常軌を逸脱した強さである事は、皆も知るところだろうが、本物の暴力を目の当たりにして、やはり怯えがあるのだろう。<br /> 暴力、は生ぬるい。<br /> 殺そうとしたのだ。殺人現場に居合わせたものと大差が無い。<br /> 欅澤杜花の身体能力は、凶器そのものである。<br />「――何がありましたの。杜花様」<br />「何も。何もありません。少し、腹が立っただけです」<br />「詳しく話してはくれませんのね」<br />「……ごめんなさい。ご迷惑をかけました」<br /> 杜花は項垂れる。<br /> 幾ら二子が無茶をしたからといって、あそこまでしてやる事は無かった。せめてでも、平手一つで許してやるべきだったのだ。<br /> 当時の記憶が想起された事も理由にあるだろうが、人を殺す技術を持つ人間が暴走するという事態は、車が歩道を走りだすものと同じである。<br /> 平静、平常心。<br /> ずっと学び、鍛錬し続けて来たものだ。今更何が変わる。<br /> 杜花の過去を知りたいという人物が、少ししつこく聞いて来ただけだ。笑い飛ばせ。<br /> まだ殺してもダメ、死んでもダメだ。<br /> 何もかも、解決した、そのあとにするべきだ。<br />「杜花様」<br />「はい」<br />「私では、力になれませんの? 私、ええ、私、杜花様の為なら」<br /> 熱くなったか、絶対言ってはいけない事を言おうとしたアリスの口を、人差し指で制する。<br /> それだけはダメだ。<br /> それは、本当に愛する人だとしても、言ってはいけない言葉だ。<br />「あ……う……」<br />「それは、ダメです。例えどれだけ愛しい人でも、言ってはいけない。私のようになる」<br /> 過去を無理矢理回想した所為か、フラッシュバックの嵐に眩暈がした。<br /> 幼少期の頃から、市子との出会い、楽しい事辛い事気持ち良い事、淡い恋に破れる恋、叶う想いに辿り着く愛。ざりざりと音を立てて脳内を通り過ぎて行く。<br />「沢山、思い出していました。一番色濃かったのは、去年の文化祭。私は試合をして、御姉様は占い、アリスさん達は喫茶店で大盛況でしたね」<br />「はい。とっても、楽しかったですわ」<br />「市子御姉様の、お父様。一郎氏が本当に私達の婚姻を認めてくれると確認を取ったのも、あの時でした。舞い上がっていました。何もかもが輝いて見えた。これから先もこの素晴らしい時間を過ごして行こうと、心に決めていた」<br /> 机の上から床に散らばったものの内、封筒を一つ拾い上げる。<br /> 中にはアナログの婚姻届と、戸籍謄本がある。未成年者同士の結婚の場合、親のサインが必要だが、そこは空欄になっていた。<br />「……ッ……そう、です、わよね。ええ。愛して、いたんですものね」<br />「何も疑問に思いませんでした。御姉様……市子が忙しいのはいつもの事。私以外に妹も沢山いるし、生徒会の仕事もある。彼女は七星です、勉強だってしなきゃいけない。だから、一週間ぐらい、放課後に逢えない事なんて沢山あった。でも、その一週間後、彼女は死んでしまった。私に、断りなく」<br /> あの時、無理矢理にでも顔を合わせていたのなら、気づく事が出来たのではないか。<br /> もしや、自分が何かしただろうか?<br /> 彼女を追い詰めるような何かを、してしまっただろうか?<br /> いいや、まさかだ。<br /> この婚姻届を、笑いながら書いたのは、その出会えなくなる一週間に入る、前日である。<br />「葬儀を終えても、私は良く解らなかった。いつも通りにしていれば、ひょっこり顔を見せるものだとすら思っていた。それが一カ月、二か月と続き、段々と、記憶ばかり辿るようになっていた。三か月が過ぎ、四か月を通り越し、市子が居ないと、自覚し始めた。私は必死でした。とにかく繕わねばと。このままでは市子が死んでしまう。市子が居た記憶がなくなってしまう。皆の中から市子が消えてしまう。だから私は、彼女が亡くなった後も妹を演じ続けました。私が妹をしていれば、皆は市子を覚えてくれている。私も市子を自覚出来る。でも、見てくださいよ、この通りです。皆は市子の悪口を広めて、あまつさえ怪談にまで仕立て上げて、私を御姉様などと呼ぶ」<br />「あ、それは……その……」<br />「――アリスは何も悪くない。アリスが寂しがりなの、知ってます。貴女が私に懐くのは、市子が居なくなった所為だと、そう考えるようにして逃げていました。サキが急に積極的になったのも、たまたまだろうと適当に流していました。でも違う。ごめんなさい。私が全部悪いんです。私が、私でなく、市子の妹であろうとしたから。無理だったんです。死人は戻って来ない。死人は人に忘れられて行く。何せ人は今に生きているから。私も例外ではない。でも、それが汚らしいと。どれだけ、貴女が私に好意を寄せてくれても、どれだけサキが私を好きと言ってくれても、私はそんな移り気、汚らしいと、煩わしいと、そう考えるようにしていました」<br />「杜花様……」<br /> 首にネックレスとして下げていた指輪を、引きちぎって座卓に置く。<br /> 胸が引き裂かれ、そのまま中から内臓が噴き出すのではないかと思うほどの辛さがあった。<br />「でも、ほら。だって。私、こんなですもん。出来た人間じゃないんです。まともじゃないんです。今にでも、好きと言ってくれる貴女達に縋りつきたい。許してくれるなら、貴女達を無茶苦茶にしてしまいたい。依存し合いたい。私、小等部からずっと、市子とセックスしてました。彼女、マゾヒストで、虐めると凄い悦ぶんです。私も虐めるのが凄く好きで、覚えたての内は、毎日のようにしていました。貴女達と顔を合わせるその数分前までシてた事だってありますよ。私が、あの市子が、動物みたいな声をあげて、お互い楽しむんです。いつ貴女達にバレるかなんて、想像しながら、ええ、凄く、楽しかった。繋がっているのが心地よかった。アリスもどうですか。御望みなら、私は幾らでもシてあげますよ。処女でも丁寧に、丹念に、気持ち良くなれる女の子に、してあげられる」<br /> 声を震わせながら、アリスに全て話す。<br /> 自分が、どれだけ天原アリスの抱いている理想と違う人間なのかを知らしめる。<br /> アリスはこんな人間と一緒に居て良い子ではない。<br /> こんな気狂いに振り回されるような人生を歩んではいけない子だ。<br /> その身は天原家の為に、未来の日本の為にある。<br /> だから、もう。<br /> これ以上、欅澤杜花には触らない方が良い。<br /> ――だが、どうだ。<br /> 座卓に叩きつけた手に、アリスの白い手が重なる。<br />「貴女は……優しすぎる。貴女は精神異常者だ」<br />「想い人一人救えず、政治家なんか出来ますか。杜花様はヘタクソですわ。今のだってどうせ、私を慮ってそんな事を言ったのでしょう」<br />「偽り無く本当です。私はサディストですもの。女の人を殴り飛ばして悦に入る変態ですから」<br />「じゃあ先ほどもきっと心地よかった事でしょうね。七星を殴り飛ばす奴なんて、この世に二人と居ませんわ。それに、きっと私が杜花様と一緒になったら、間違いなく優しくしてくださいますわ」<br />「何故、そう思うんです」<br />「だって泣いてるじゃありませんの。まさか嬉し涙じゃありませんでしょ」<br /> 目元をぬぐう。<br /> 果してそれは、一体何に対して流した涙なのか、自分でも良く分からない。<br /> 市子の死に対する悲しみか、二子を殴り飛ばした後悔か、あまりにも優しすぎるアリスへの想いなのか。自分は、こんなにも脆い人間だったのだろうか。<br />「……指導教員への説明と説得は、私がしておきます」<br />「あっ」<br /> そういって、アリスが立ちあがり、杜花に背中を向ける。<br /> 何か、言葉をかけねばと、不安になる。<br />「杜花様」<br />「はい」<br />「私達を置いて行ったり、しないでくださいな。御姉様を失い、杜花様まで失ったなら、私と早紀絵さんの人生は、きっと薄暗いものになるでしょうから。私は、貴女をひっぱたいてでも、貴女の不安を取り除きます。もう、そんないつでも死んでやるみたいな眼、向けないでくださいまし」<br />「……ごめん、なさい」<br />「何度でも言います。汚らわしいと、移り気と、想ってくださっても構いません。私も早紀絵さんも、貴女が好きですわ」<br />「……ずるいです、アリスさん」<br />「ずるくて結構。肝に銘じて置いてくださいな」<br /> アリスは背中を向けたまま、そういって部屋を出て行った。<br /> 入れ替わりに火乃子がお茶を持ってくる。<br /> この子にも……迷惑をかけた。<br />「杜花さん?」<br />「はい、なんでしょう」<br />「いえ。さっきと全然、顔色が違いますから。アリスさんに、何か言われました?」<br />「ちょっとだけ、愛の告白をされただけです」<br />「あー、なるほどなーってえええ……ッ?」<br />「火乃子、お茶をください。下品な事を喋りすぎて、口が腐りそうです」<br />「え、ええ。仰せのままに……」<br /> お茶に手を伸ばそうと身を乗り出した所で、膝に何か違和感を覚える。<br /> 座卓の下を覗くと、いつも付けているコロンがあった。市子から貰ったものだ。<br /> しかし二子のぶつかった衝撃で地面を跳ねた為、ケースの一部が割れている。<br />「御姉様から貰ったもの……なの……に?」<br /> コロンが入っている容器自体はガラスなのだが、それを保護する為に周囲が黒いプラスチックケースで覆われているものだ。<br /> その一部が罅割れ、ケースとしての役割を果たしているのだが、中に何か、白いものがみえる。<br />「……そっか、ここにあったんだ」<br /> ケースを取り外し、中身を出す。<br /> そこには、杜花宛の手紙と、そして結晶が仕舞い込まれていた。<br /><br /><br /><br /> それから一時間程して、早紀絵が戻って来る。<br /> 二子の怪我は打撲傷だけで、大した事は無いと言う。<br /> 朦朧とした状態から起き上がっての平手であった為、初弾の平手が致命傷になる事は無かった様子だ。<br /> 本来なら、あの程度の体格で杜花の全力平手を食らった場合、鼓膜破裂や顎関節骨折、頸椎捻挫もありうる。<br />「ごめん、サキ」<br />「どーせ碌でもない事言ったか何かしたんでしょ、アイツ。でもモリカは軽い攻撃が凶器だから、気を付けないと」<br />「ただ、暫く顔は見たくありませんし、彼女に謝る気もありません」<br />「だろうなあ。メイと交換しておくかね。夜はこっそりおいで」<br />「それはメイさんに迷惑でしょう」<br />「大丈夫大丈夫。ねえメイ?」<br />「おおせのままにー」<br /> いつ二子が戻ってくるかも解らない為、杜花は部屋から逃げ出して早紀絵の部屋にいた。<br /> 勿論暴力をふるったという、厳然たる事実はある。<br /> しかし二子は、杜花がそれだけの事をされれば当然怒り狂うだろうと、解っていた筈だ。故に、階段から転げ落ちた、などという庇い方をしたのだろう。<br /> 早紀絵とアリスの口八丁手八丁で、指導教員にばれる事はなかったが、疑いの眼を避けられる訳ではない為、今後行動するには少し気を使う必要があるだろう。<br />「それで、モリカ、ただで逃げて来た訳じゃないよね」<br />「ええ。実は」<br /> そういって、胸ポケットから先ほど見つけた手紙と結晶を取り出す。<br />「やっぱりモリカん所にあったか。二子には申し訳ないけど、怪我の功名とでもいうかね」<br />「三個目……前のが、アレでしたし」<br /> 火乃子と見つけた結晶は破損があり、人体にも宜しくないという事で直ぐに二子が引き取った。<br /> 杜花の主眼は結晶よりも当然手紙に向いていたが、こちらも一年間以上雨ざらしになっていたお陰で、とても読める状態になかった。<br /> 市子の用意した手紙は四つの結晶と同時に存在した事になる。<br /> 彼女が亡くなる前の一週間に、何らかの意図で全てを隠したのだろう。<br /> 以前の二つ、此方は入手のシチュエーションを、市子側である程度想像出来たかもしれないが、猫に付いていたとなると、最悪発見されない可能性が高かっただろう。<br />「もう読んだ? 私も読んで良いもの?」<br />「はい」<br /> 手紙を早紀絵に渡す。<br /><br />『杜花へ。私を見つけてしまいましたか? これはどのタイミングで、何番目に見つかるのでしょうか。少なくとも、貴女は探索を初めてしまった後なのでしょうね。そこに妹はいますか? それとも私?』<br /><br />「……これだけ?」<br />「これだけです」<br />「こりゃどう読めば良いんだ。ええと、出て来たのはコロンのカバーの中だよね」<br />「そうです。だから、この『そこに妹はいますか? それとも私?』は、時系列的に発見がいつになるか、想像出来なかったからでしょう」<br />「そう……かな。結晶の方はどう?」<br />「落としたので少し心配でしたけれど、完全な状態のようですね」<br /> 掌に虹色の結晶を乗せる。傷一つなく、光を帯びて七色の色を放っている。<br /> 所謂三つめ、火乃子と見つけたものは、大きく破損していた為、直ぐに二子へと預ける形になった。勿論杜花は二子に、これが魔力結晶などでは無い事を確認はしたが、それ以上は語らなかった。<br />「……もしこれが工業製品である場合、私は見た事ないね。ファンシーショップにならありそうだけどさ」<br />「歌那多さんの腕の件、そして貴女の携帯の件、偶然ではないでしょう。しかしそうなると……」<br /> そうなると、理屈が合わないのだ。<br /> 杜花達が遭遇した怪異は工業製品が齎す影響にしては異常なものであった。<br /> 歌那多や早紀絵の携帯に影響が出た、映像が出て生徒達を怯えさせた、なら、説明は付くが、明らかに敵意を持ってポルターガイストめいた霊障を引き起こし、そして二つ目に至っては杜花に強い幻覚を見せた。当然杜花に脳機能活性化を促すチップは入っていない。<br />「一番最初。二子はさ、霊障に気をつけろとか言って、モリカにプロテクターつけさせたよね。ってことは、アイツは承知していたってことだ。だから、結晶の不可思議性については、嘘はないんだ」<br />「科学的に証明できない、というだけで、という事ですか」<br />「うん。ただ、私達の知る科学の上で、だろうね。七星の公開されていない次世代技術、とか言われたらお手上げだ」<br /> 結晶をどうにか出来ないかと、考えていたが、どうにもこうにも、弄りようがなさそうだ。どのドライブで読みこめるかも解らない。<br /> 二子が言うように、この中に市子の何かしらが保存されているとするならば、不用意に触って壊すような真似は避けたい。<br /> 結局二子頼みである。自分達は二子の掌で踊らされているのだろうか。<br /> 二子は全てを知っている?<br /> いや、それも違うと、杜花は考える。そして直感もある。<br /> 二子は、杜花達と同じく、知ろうとしている人間だろう。ただ、杜花よりも七星に近い為、裏付けされる情報が多いだけに、確証の度合いが異なるに違いない。<br /> 結晶は間違いなく、どこに隠されているかは知らず、七星としても二子としても、欲しているものだ。<br /> では自殺動機はどうか。<br /> これは怪しい。これについては、二子も隠していると考えられる。<br /> 手紙はどうか。<br /> 結晶と同じく隠されているのだから、これも知る由もない話だろう。<br /> 結晶の秘密については、疑う必要もなく二子は全て覆い隠している。<br /> 二子、著しくは七星が欲しているものは、結晶であり、手紙の内容であり、もしかすれば、自殺動機だ。<br /> 本来ならば、彼等が強権を使って学院を総ざらいすれば見つかるものである。しかもこれが機械的なものならば、何かしら探知する技術も機材も存在した筈だ。<br /> どうして杜花に協力させたのか。<br /> 何故周囲の協力を容認するのか。<br /> 二子の意図は、そこに隠されているのではないだろか。<br />「……あー……サキ様、杜花様」<br />「あン?」<br /> 今まで一言も発さず、二段ベッドの上で本を読んでいると思っていたメイが上から身を乗り出す。殆ど自分から意見する事がないだけに、杜花も早紀絵も驚いた。<br />「メイさん、どうかしましたか」<br />「この小説、とっても面白いんです」<br />「……メイ? 世間話してないよ今。でもお前は可愛いから発言を許しましょう」<br />「ありがとうございます。あのですね、これ、文芸部にあった『幻華庭園』って本なんですけれども」<br />「ああ、あったね。お前が持ってきてたんだ」<br />「みんな名前が何々の君で、略称で呼ばれててですねー」<br />「……例えば」<br />「庭園の君、とか」<br /> それは……確か。<br /> 杜花が市子の幻覚と遭遇した後、二子に聞いたものだ。<br /> 躑躅の君は杜花、木苺の君は早紀絵、そして、庭園の君はアリスと言っていた。<br /> 文芸部にあったという事は、その本をモデルにして名前を付けた可能性がある。<br />「サキ、庭園の君、アリスさんだそうです。木苺の君は貴女」<br />「へえ。おお、それじゃあさ」<br />「はい。櫟(クヌギ)の君の元ネタでもあるかもしれませんね。それで人物特定出来る訳じゃありませんが」<br />「面白い事気が付いたね、メイは良い子だなー。あ、私もそっち上がる。モリカもおいで」<br />「やぁん……私のベッドに御姉様達二人なんてぇ……」<br /> メイがどんな妄想をしているかはさておき、話は気になる。<br /> 二人でズカズカとメイがいる二段ベッドの上に上がり、メイを挟み込むように幻華庭園という小説を覗きこむ。<br />「あふ。杜花様良い匂い……市子様と同じ匂い?」<br />「あのコロンですね。彼女から貰ったもの……です、けど。詳しいですね」<br />「メイは、綺麗な人が好きなので」<br />「左様ですか……それで、お話は、どんなものなんですか?」<br />「はい。それがですね、あふ。杜花様良い匂い……くぅう」<br />「話が進まないっての」<br />「頑張りますです。ええと、女子校が舞台の、ライトノベルです。杜花様達みたいな女の子が、お茶会をしたり、未来を語りあったり、恋をしたりします」<br />「……私達のような、女の子が?」<br />「はい。クヌギという御姉様。その一番の妹の庭園の君。二番の妹の躑躅の君。そして躑躅の君が好きな、木苺の君の四人が主要人物ですねえ」<br /> ぼんやりと語る支倉メイとは裏腹に、杜花と早紀絵は顔を見合わせ、戦慄した。<br /> 今、何か、あってはならない符合を見出してしまっている。<br />「モリカ、いや。これは、市子が参考にして、私達を演出した可能性がある」<br />「……だと……しても……」<br /> たったこれだけの情報で、解決した問題が幾つかあった。<br /> まずクヌギ。<br /> あの鍵は結局、市子自身の持ち物だったのだろう。死した彼女に語る口が無い為、使途は不明だ。<br /> そしてこれはかなり遠くから来た、嫌な予感だ。こっそりと早紀絵の顔を見て、罪悪感が湧く。<br /> 一番の妹、庭園の君はアリスで間違いない。二番目の妹、これも杜花で違いない。<br /> だがこの、躑躅の君を好きな木苺の君が問題だ。木苺の君は早紀絵だと二子は言う。<br /> 杜花は、市子に言われて、早紀絵と仲良くするようにした。接触のタイミングは偶然だったが、それ以前から、市子は早紀絵に近づくよう、杜花に良く言っていた。<br /> 勿論、仲良くなった後に築き上げて来た想いや時間は嘘偽りが無い。<br /> しかし、そのきっかけがこの本であり、市子がそれを演出しようとしていたのならば、自分達はまるで、役者ではないか。<br />「メイ、話の内容は」<br />「はい。何でも出来て、何でも知っている御姉様と、その妹達の恋の話です。とっても面白いので、杜花様もどうですか」<br /> そういって、メイが杜花に本を差し出す。<br /> 受け取ると、メイは同時に、杜花の手に自分の手を重ねた。その目は熱っぽい。<br />「メイさん?」<br />「私、知ってます。杜花様が、とってもエッチな人だって」<br />「……あのですね」<br /> 見られていたか。<br /> メイの過去の発言を見ても、市子を追いかけていた事実は間違いない。<br /> その間に杜花と市子の情事を目撃していても不思議ではないだろう。バラさないのならば、それはそれで良いが、メイの瞳はそれだけを訴えている訳ではなさそうだ。<br />「私、思うんです。杜花様は、サキ様に頼っているのに、御礼の一つもないなって」<br />「こら、メイ。やめて。私が好きでしてるんだし、お前にも手伝わせてるのは私なんだから」<br /> 確かに、杜花は早紀絵に頼っている。<br /> 早紀絵は積極的で、杜花よりも聡く、考察も情報収集も上手い。だが、依存というわけでもない。実際に動いているのは杜花であるし、解決しているのも杜花だ。<br /> しかし、どうだろうか。<br /> 例え相手が要らないといっても、親友としてはやはり、相応に返すのが正しいだろう。メイの言う事は間違いない。<br />「確かに。メイさん、ごめんなさい。私、目の前しか見えていなくて。貴女のご主人様をずいぶんと酷使しました」<br />「も、モリカ、いいってば。コイツたまに訳わかんない事いうから……」<br />「サキ様にシてあげて、御礼するのはどうでしょう。きっと一番喜んでくれます。丁度、ベッドの上ですし」<br />「メイ、お前ね」<br />「……周りの事とか、事件の話とか、杜花様が探している物とか、メイは解りません。本当はだいぶどうでもいいです。私はサキ様がいればいい。でも、サキ様は一生懸命杜花様に尽くしているのに、杜花様は一向にご褒美をあげる素振りもないです。そんなのおかしいです。サキ様は、メイが頑張ると、ちゃんとご褒美をくれますよ」<br />「貰ってる。キスもしてもらったし、一緒に寝てもらったもの。メイ、もう余計な事言わないで。それにね、今それどころじゃ……」<br />「それどころってなんですか」<br /> 二人に挟まれたメイが、一際大きな声を上げる。<br /> 支倉メイが、これほどまでに自己主張する事が、今まであっただろうか。普段の垂れ目を少し細めて、早紀絵を睨んだ後、それを杜花に向ける。<br /> メイの手は杜花の腕を掴んでいた。<br />「サキ様は面倒見が良い人です。私、きっとこれからもサキ様に付いて行きます。サキ様も見捨てたりなんかしないです。とっても優しいから。エッチな事大好きですけれど、全然苦じゃない。それがこの人に対する対価なのに、サキ様は優しいから、メイを一杯気持ち良くしてくれます。だから、杜花様はずるいんです。サキ様に何でもして貰って、本当はサキ様、ずっとずっと杜花様の事見てるのに、相手にしてもらえなくて、抱きしめて貰いたいのに、使われるだけ使われるなんて」<br />「メイ、やめてよ」<br />「やめないです。杜花様はそれで良いって言うなら、メイはなんだか、とっても貴女を勘違いしていたような気がします」<br /> ――今日は厄日だ。杜花の何もかもが露呈して行く。<br /> ――そろそろ手打ちにしなければならないのかもしれない。<br /> 偽ってきた事、騙して来た事、見て見ぬふりをしてきた事。<br /> それら全てが、まるで今日に纏まってやって来たような気がする。<br /> 市子が死に、二子が来た時点で、欅澤杜花のロジックも、歯車も、全部全部狂ってしまっていたのだ。外側から杜花達の関係を眺め続けた支倉メイには、きっと滑稽に映った事だろう。<br /> ……確かに。確かに。<br /> 結晶は、これで最後だ。<br /> 手紙も、終わりだ。<br /> つまり、解決してしまったのだ。<br /> 市子が何を望んで結晶を隠したのか解らず、ただ掌の上で踊らされたようなもの。<br /> 二子の狙いも観えず、ただ、苦悩する妹達が残された。<br /> 杜花の想いはズタズタに引き裂かれるばかりで、何も実を結ばなかったともいえる。<br /> 折角アリスに励まされたのに、これでは何も言えなくなる。<br />「今日は、酷い日」<br />「モリカ……?」<br />「ねえメイさん。貴女、サキに私の事、話しましたか?」<br />「話しました。貴女がどれだけ可哀想な人か」<br />「サキ、それでも、貴女は私が好き?」<br />「――うん。全部好き。杜花の全部が好き」<br />「私がどんな酷い人間でも受け入れてくれる?」<br />「テロリストでも大量殺人犯でもサイコパスでもシリアルキラーでも、受け入れるよ。モリカの全部が好きだから」<br />「私は殺人狂で、今すぐサキを殺したいと言っても?」<br />「モリカになら幾らでも差し出すよ。それでモリカが満足なら幸せだもの。笑顔で死ねるよ」<br />「私が市子御姉様に言われて、貴女に近づいただけだとしても?」<br />「いいよ。誰の命令だって。理由は知りたいけど。モリカと私の過去が消えたりする訳じゃないもの」<br />「サキは優しいですね。貴女もアリス同様異常者です。私だったらきっと怒る」<br />「モリカの全部が好きだから大丈夫。モリカは、もっと甘えて良いのに、誰にも頼らないから、心配だよ」<br />「あの人が死んで、まるで乗り換えるように、他の子に手を出したら、私の中の彼女すら死んでしまうような、気がして」<br />「ただ一人だけを想い続けて生きるなんて無理だよ。記憶を一生保ち続けるのも、無理」<br /> 負けだ。<br /> もう、偽るのも疲れてしまった。<br />「メイさん」<br />「はい」<br />「ごめんなさい。ああ、私は今日、謝ってばかり」<br />「杜花様?」<br />「サキ」<br />「う、うん」<br />「私、本当に、市子に言われて、貴女に近づいたの。でも、貴女が慕ってくれるの、凄くうれしかった。私には市子がいるからと、決して貴女には靡かないようにしてきたけれど、もう、ええ、市子はいない。アリスはああいってるし、貴女にも迫られたら、もうなんだか、どうでもいいかもしれない」<br />「あ、アバウトになっちゃってる……」<br />「疲れちゃったんです。ストレスも溜まるし。発散する場所もない。なんかもう。サキ、ご褒美要ります?」<br />「あ、や、あの。えっと。ご、ほうびって、どんな?」<br />「お手伝いしてくれた御礼です。ああ、メイさんも混ざります?」<br />「ぜひぜひー。ほら、サキ様、言ったじゃないですか。ゴリ押したらいけるってえ」<br />「わ、わたし、あ、も、もりかっ」<br /> 頭を働かせるのに疲れてしまった。<br /> なんだか頭痛がする。下腹部にも痛みがある。熱っぽい。<br /> 杜花は早紀絵をベッドに押し倒して、その上に被さる。早紀絵は、余程嬉しかったのか、半泣きだ。<br />「あ、モリカやわらか……って、なんか熱い?」<br />「すんすん……あ、杜花様、もしかして生理」<br />「……ごめんサキ、私ほら、生理重くて。そろそろだと思ってたけど」<br />「ああもう……こんな機会にそんなのあるかよぅって……私はワガママ彼氏か。杜花、部屋戻ろう」<br />「……二子と顔合わせたくない」<br />「そんな事言ってる場合かっての」<br /> 早紀絵に連れ添われ、部屋にまで戻る。治療は終えている筈だが、二子の姿はない。<br /> ベッドに横になり、深く息を吐く。<br /> 生理前三日あたりから重くなり、生理が始まった途端良くなるタイプなので、周期的には短いものの、いささか痛みが大きい。<br /> そろそろだとは思っていたが、今日のイライラも、思考能力のなさも、恐らくはこれが原因だろうとする。<br /> そうした方が良い。<br />「生理痛薬は?」<br />「鞄の中」<br />「水持ってくる。メイ、薬出しておいて」<br />「はあい」<br /> メイが杜花の鞄の中から、医療保健室印の薬袋を取り出し、杜花へと手渡し、一緒に小説も寄こす。<br />「重いのやあですねえ」<br />「仕方ないです。ああ、もう。メイさん」<br />「はあい」<br />「ごめんね。貴女、サキが、好きなんですよね」<br />「……ん。皆幸せなら、良いですね。サキ様も、杜花様も」<br />「なんでこう……私の周りに居る人は、優しいんでしょうかね。嫉妬とか、無いんですか?」<br />「サキ様は、そういうの小さいって。みんな気持ち良くなればいいじゃないって」<br />「あの子は快楽主義者だし。貴女はどうなんです」<br />「サキ様が幸せならいいです」<br />「……ある意味一途ですね。有難うございます。戻って大丈夫ですよ」<br />「おだいじにー」<br /> メイが去ると、一気に部屋が寂しくなる。<br /> 元から一人部屋だったが、そこに二子が入ってからは、何かにつけて色々と聞かれていたし、会話を交わしていた。<br /> 姉様とはどうだったのか、早紀絵とは、アリスとは、その他の妹達とは。<br /> 学校ではどんな事があったのか、どんなイベントがあったのか、どんな出来事があったのか。<br /> 彼女は貪欲だった。<br />「……私、嫌な女だなあ……」<br /> 本を手に取り、その装丁を確かめる。かなり古い本だ。<br /> 幻華庭園、作者は利根零子とある。<br /> 奥付を確認し……頭が痛くなった。<br />(初版が2027年? 四十年前の本か……四十年……前?)<br /> 物語を読み飛ばしながら『御姉様』の造形を探る。<br /> お金持ちの娘。<br /> 万能で完全……長い黒髪に……。<br /> 普遍的な、御姉様像だ。珍しくもあるまい。<br /> だが。<br />「水持ってきたよ……あ、本読むのね。落ち着いたら私も」<br />「サキ」<br />「はい?」<br />「ぶし」<br />「武士ぃ?」<br />「オカ研部誌、はやく。vol.11です。2027年の!」<br />「な、何?」<br /><br />『どうしても起きてしまうすれ違いを解消するには、どんな方法を用いれば良いだろうか。私は幾つかの案を出し、その中から一つ選びだした。みんなで協力して、宝探しなどどうだろうか。広い学校の中を、ヒントを頼りに手探りして行くような共同作業は、きっと友好を深めるのではないかと、期待する。園も躑躅も苺も、頷いてくれれば良いのだけれど』<br /><br /> 杜花達は、市子の残滓に辿り着いてしまった。<br /><br /><br /> <br /> プロットエピソード3/心象楽園/怨嗟慟哭 了</span>俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-82274280298565191202013-03-19T22:51:00.001+09:002013-03-19T22:51:07.231+09:00心象楽園舞台概要1(現行公開可能分)<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> <br /> <span style="line-height: 27px;"> 心象楽園/School Lore 舞台概要1<br /><br /><br /><br /><b> 観神山女学院</b><br /><br /><br /> <b>・学院の背景</b><br /><br /> 創立は2000年。心象楽園は現行エピソード上で2067年11月末。(三月十八日現在)<br /> 当時でもかなり後発的な女子校として誕生し、当時は現在の観神山女学院程「お嬢様学校」ではなかった。<br /> 女性権利の向上、時代背景のあおりも受け、観神山女学院は日本有数の女子校として名前が知られている。民衆人気の高い自人会党幹事長天原藤十郎の娘、天原アリスが席を置いている事でも有名である。<br /> また、観神山が七星の研究所のお膝元である為、七星系列のご令嬢が多数在籍する。<br /><br /> 小中高一貫教育で、生徒数は712名。<br /> 進学、就職を目的としておらず、新しい時代の女性の在り方を体現する事に重きがある。<br />(大半が家業を継ぐ、コネクションでの進学、もしくは結婚の為)<br /> 正式名称はないが、女性率先思想と呼ばれる、体系化されていない、かなり観念的な思想が根にあり、生徒達は自主自立自発を大事にするよう教育される。<br /> 教員(教師とは呼ばれない)、事務、医療保健室職員、寄宿舎管理職員、食堂職員、その他諸々、全てが女性で構成されている。男性と言えば警備と出入り業者のみである。<br /> 隔離された環境である為、時折権力者の親が問題を起こした子供が、マスコミなどを避ける為に編入する事もある。<br /><br /> 超高度情報社会時代にそぐわず、必要最低限の電子機器以外存在しない。<br /> コンピュータ等は、職員棟、通信学習室、医療保健室(医療設備を整えた保健室)にしか存在せず、真に受けた生徒は卒業するまで電子機器に触れず暮らす事になる。(大半は荷物に紛れさせているようだ。警備もチェックしているが、危険物で無い限りは目を瞑っていると思われる)<br /><br /> 悪い虫をつけたくない、観神山女学院卒業という最高級のブランド(余程学力、人格が壊滅的でない限り、最高学府は殆ど推薦で入学可能。また、見合い相手としてとても好まれる(男女問わず))が欲しい、娘のパートナー探し、などなど、様々な大人の事情も介在する。<br /> 二十年前から同性結婚が認可されており、そういった意味で政略の場ともなっている。<br /> 学院側としてもそれら背景を汲み取って同性交遊を黙認している為、少し裏側を覗くとトンでもない事になっているといった事実もあり、学院は体面上身動きが取れていない。(満田早紀絵などが最もたるもの)<br /><br /><br /> <b>・部活動</b><br /><br /> 運動系<br /><br /> バスケットボール部、硬式女子野球部、サッカー部、バトミントン部、卓球部、バレー部、クリケット部、合気道部、柔道部、剣道薙刀部(統合剣道薙刀道)、柔道部、レスリング部、少林寺拳法部(部員一名)、総合格闘技部、陸上競技部、水泳競技部、馬術部、ロッククライミング部。<br /><br /><br /> 文化系<br /><br /> 合唱部、吹奏楽部、軽音楽部、演劇部、美術部、日曜工作部、新聞部、文学研究部、文芸部(新設)、古典研究部、世界経済未来予測科学研究部、科学部、化学部、天文部、語学部、家政部、大東亜軍事研究部、放送部、偶像研究部(アイドル研)、同性愛考察観察統合研究部、伝統映画研究部、茶道部、華道部、香道部、きもの研究部、日本舞踊研究部、盆栽部、書道部、西洋舞台の会部、立体造形科学部(フィギュア研)仏教研究部、宗教研究部etc....<br />(漫画研は派閥で五つに分裂後、未申請品が多数見つかり廃部に)<br /><br />(基本的に、部活動は部員一人でも設立可能な為、とんでもない部活も見受けられる。明らかに部外から俗物を持ち込む必要がある部活動などは、一応の審査の後に徹底管理を義務づけられ、部室の外には持ち出さないよう誓約書を書かされる。また、ネットなどに接続可能な機器(最近の家電ほとんど全て)は、発売元企業にデチューンを申請、機能低下したモノが納入される。持ち出した場合は没収後、一ヶ月間学内美化運動に参加。それ以外の規制は全て生徒の良心に任される。大きな問題が起こった事例は少ない、漫画研以外)<br /><br /><br /> 一般的な部活動、および所謂『女性的』な『お稽古』も突出しているが、この時代は特にスポーツが盛んで、個人ではあるものの、全国レベルの選手を輩出している。<br /> 殊更格闘技は強く、剣道部、レスリング部、柔道部は県下に敵なしである。<br /> 総合格闘技部は高校総体の種目から外れるものの、(株)格闘技日本が主催する大会(参加総数1000名)で、欅澤杜花が高等部一年時に若年部日本チャンプとして君臨し、三ノ宮火乃子の姉、三ノ宮風子は東北ブロック三位の実力を誇る。<br /><br /><br /> <b>・生徒活動</b><br /><br /> 学内行事は殆ど変わらず、六十年前から変化はない。<br /> また、四十年前から課外授業や修学旅行等も廃止されており、観神山女学院の生徒が課外活動をする機会は一切ない。<br /> 日程などの取り決めは職員会議で決定されるが、実行は全て小、中、高等部の生徒会に一任される。<br /> 行事は以下の通り。<br /><br /> 生徒会総会、学内陸上競技会、球技大会、文化祭(山百合祭)、文化交流学生歓迎会、雪中展示会、学内美術展覧会、学内交流会(小中高合同交流)、舞台鑑賞会、書道大会、言論大会、野点会、さくら祭。<br />(年度によっては開催されないイベントもある)<br /><br /> 生徒会は権力こそないが、仕事は多分にある。ただ、観神山女学院で生徒会を運営していた、ともなると、そのステータスははかりしれない為、皆挙って生徒会に加入したがる。(大概上にいる生徒は御姉様級であるからして、物珍しさや打算的に近寄る生徒も多い)<br /><br /><br /> <b>・姉妹制度</b><br /><br /> 自然発生した組織活動。<br /> 規律、規則などは無く、『御姉様』を頂点とし、親元を離れて暮らす生徒達の精神衛生悪化阻止、生活向上、新しい時代の女性の嗜みを身につける、合理的な一派閥の形態……とされる。<br /> 実際の所、大半が恋愛に発展しているので、表向き美しいが、中身を見ると凄い事になっていた、と言う事がしばしばある。とはいえ、学院で規制する事もない為、ほぼ生徒の良心にまかされる。<br /> ただ、『御姉様』は民主的に選ばれる訳でも、作られるものでもない為、存在しない時期もある。<br /> なるべき人がなる、という構造だ。<br /> 2067年十一月現在では、三つの派閥が存在する。<br /><br /> 居友派(高等部三年、大財閥居友家当主の孫娘、居友御樹率いるグループ。構成人数およそ15人)<br /><br /> 愛染派(中等部三年、愛染さくら率いるグループ。構成人数は10人)<br /><br /> 旧七星派(高等部二年(当時)七星財閥当主の娘、七星市子率いるグループ。構成人数は30数名。現在は瓦解しており、跡目と目された欅澤杜花、天原アリスは後継を否定)<br /><br /> 例外 <br /><br /> 満田派(高等部二年、満田早紀絵を仰ぐ一団。本人は姉を名乗らず、ただ人だけが集まっている。実際七星派に次ぐ数を獲得しているが……健全な関係とは言えず、茶会も交流会もない。交流した場合、怪我人が出る恐れもあるので、それは本人も把握している様子である)<br /><br /><br /><br /> <b>・保安、保全</b><br /><br /> 生徒達の殆どがどこかの企業の令嬢、高級官僚、もしくは市、県、国会議員の娘、孫である為、その警備は過剰なまでに行き届いている。<br /> 全て非公開だが、国防軍特地派遣部隊が30名、警察特殊部隊が30名、持ち回りで警備を行い、有事とあらば即座に完全武装の部隊が突入可能となっている。装備、備蓄とも、殆ど兵站である。<br /> 日本国に降りかかった過去の苦い体験から、特地国防官、特地警官には相当の権限が授けられており、不審者発見次第即射殺もあり得る。普通の人間はまず学院の敷地には近づかない。<br /> 警備システムも堅牢で、皇居その他皇族御用地、東京永田町第一政治主導部施設周辺、京都臨時政治主導部施設周辺、長野臨時政治主導部施設周辺、宮城危機分散主官公庁舎周辺と、政治中枢を防備する警備システムに次ぐもので、周囲数キロにわたりセンサー類、監視カメラが設置されており、敷地を囲う壁は見た目こそ煉瓦作りだが、中身は特殊合金製である。<br /> 正門は二つあり、第一南門で通行者、通行車両の全点検が行われ、事前連絡、事前発行の一時入場届を提出しない限り、余程の人間でなければまず通されない。第二南門で漸く学舎が視界に入るも、強固な鉄柵の前には常時五人の警備がおり、正式な手続きはそこで行われる。<br /> また、生徒達も六時以降の学校敷地内の出歩きに関しては、時間外届を寮長に提出する必要がある。<br /> 学院外に出る場合でも、二週間前から目的と出会う人物、細かい日程を示して申請書を提出、抽選がある。<br /> 休暇外出の場合、要人護衛用の物々しいバスで送迎となる。送迎時間は日ごと異なり、観神山駅に向かう進路は大きな県道以外ランダムで設定される。<br /><br /><br /> <b>・施設</b><br /><br /> 観神山は核融合発電特区であり、電気代は無料である。(一般でも殆どタダに近い)<br /> 電気設備は精密機械工場並で、地下に予備電源が四つ存在する。学院のみならず周辺区画の電力まで賄える大型のもので、シャットダウンによる学院の隔離は不可能に近い。<br /> また、中性子爆弾も見据えた旧世代の核シェルターも存在するが、この時代の日本においては、自然災害避難用以外には無用の、大きすぎる施設である。<br /><br /> 観神山女学院の敷地内に存在する施設は以下のとおり。<br /><br /> 生徒使用施設<br /><br /> 小等部<br /> 第一、第二小等部校舎、小等部体育館、中型グラウンド(樹脂敷)。<br /><br /> 中等部<br /> 第一、第二中等部校舎、中等部体育館、中型グラウンド(砂)<br /><br /> 高等部<br /> 旧第一、第一、第二高等部校舎、第一、第二高等部体育館、大型グラウンド(樹脂敷)<br /><br />(小等部、中等部で不足が出た場合、高等部の施設を使用)<br /><br /> 部活動関連<br /> 屋内多目的練習場3つ、運動部活動棟、文化部活動棟、生徒会活動棟二つ、総合学年屋内プール三つ、競技用屋内プール、柔道部道場、剣道薙刀部道場、総合格闘技部道場、レスリング道場、弓道部道場。(室内で出来る部活動は、多目的練習場、各空き教室などで行われる)<br /><br /> 活動施設<br /> ダンスホール、大講堂、多目的教室、大温室、中高食堂棟、学内美術展示館。<br /><br /> 寄宿舎<br /> 第一寄宿舎(高等部専用。定員40名)、第二寄宿舎(中高。定員150名)、第三寄宿舎(中等部専用。定員150名)、第四寄宿舎(小中。定員200名)、第五寄宿舎(小等部専用。定員200名)<br /><br /> その他 <br /> 職員棟、医療保健室棟、職員寮、警備宿直舎、他校合宿用寮<br /><br /><br /> <b>・その他</b><br /><br /><br /> 学校理事会において、観神山女学院創立者一族が代々理事長を務める。理事長は外部者が選ばれる事はないものの、事務理事は七星系列の人間が入れ替わりで持ちまわっている。多額の支援金を出している七星に口をはさめる者はおらず、意思決定はほぼ七星のものである。<br /> 学院の敷地は年々広がっており、今後校舎を二つ、その他施設を三つ増設する予定がある。</span> </span></span>俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-28666860356970935212013-03-15T20:00:00.000+09:002013-03-15T20:00:14.304+09:00心象楽園/School Lore ストラクチュアル3<br />
<a name='more'></a><span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<span style="line-height: 27px;"> ストラクチュアル3/劣等感の熱情<br /><br /><br /> ……。<br /> 小等部も五年生の頃。三ノ宮火乃子は欅澤杜花に出会った。<br /> たった一つ年齢が上というだけなのに、杜花はどこまでも大人しく、落ち着いていて、まるで周りの子供達が見せるような無邪気さや喧しさとは無縁の存在だった。<br /> 姉である三ノ宮風子はあんなにも腕白でたまらなく五月蠅いというのに、どうしてこうも差があるのかと悩んだものだ。<br /> 火乃子は名前とは裏腹に、ひっそりとしていて、目立たず、日々を静かに過ごす事を是としていた。故に姉ではなく欅澤杜花こそが、火乃子にとっての規範だった。<br /> どうしたらあのように振る舞えるのだろうか。<br /> どうしたらあれほど冷静でいられるのだろうか。<br /> 幼心に抱き続ける疑問と、杜花に対する仄明るい気持ち。ただそれだけを目指して毎日を過ごしていた。<br />「欅澤さん」<br />「はい、どちらさまですか」<br /> それはやがて、抑えられなくなり、遠くで見守るだけだった彼女に対して、とうとう声をかけた。透き通るような声を直に聞き、遠目から見ているだけだった笑顔が近くにある。<br />「私を、妹にしてください」<br /> いつの頃から有るのかは知らなかったが、この学院には『姉妹』の制度がある。<br /> 厳密化されているものではなく、まして無粋なルールがある訳でもないが、概念として存在するのだ。<br /> ただ数は多くない。『御姉様』などと呼ばれるだけの人間が、多くないからである。<br /> そういう意味で、欅澤杜花は三ノ宮火乃子にとり、最上で最適であると感じていた。<br /> 例えたった二人の姉妹関係でも、杜花が姉ならば、皆に強く認知されるであろうという自信があった。姉は『周囲の評価』だけで決まる。<br />「ごめんなさい、私は、市子御姉様の妹なので」<br /> 誰かの妹が、誰かの姉になってはいけない、などというルールはないが、杜花にとって『姉』とは七星市子だけのものだったのだろう。精一杯の想いをこめた告白は一撃にて破れ去った。<br /> だが、火乃子という人物は元来から大人しい振りをしているだけで、心に秘めているものは情熱的だ。勿論、それがただ振り撒かれるだけならば害悪そのものだが、杜花という規範を大事にする火乃子は努めて冷静である。<br /> いつか必ず振り向いて貰う。<br /> 絶対に妹にして貰う。<br /> 必ず、欅澤杜花の傍につく人間になると、小等部五年生にしては固すぎる意が決する。<br /> 彼女の傍にいる為にはどのような努力が必要なのか、彼女に好かれる為にはどう振る舞えばいいのか、三ノ宮火乃子とは、欅澤杜花だけを目標にして、この学院で暮らして来たとすら言える。<br /> だが、しかし、見よう見まねをすればするだけ痛々しく、努力は空振るだけで実を結ばない。<br /> 必死ではあったが、自分が方向性を間違えているという自覚もあった。<br /> 中等部二年の頃。<br /> 改めての告白もまた、願いかなわず撃沈する。欅澤杜花にとって姉とは七星市子のみ。<br /> ただ凄い人だという認識で居た七星市子に対して、憎悪というよりも、殺意にも似た感情が湧いたのはこの頃である。<br /> 幼心と大人としての自我が鬩ぎ合う年頃、七星市子という存在は絶対的な悪として火乃子には捉えられた。<br /> 如何にして杜花から、邪魔者の市子を引き剥がすか。<br /> あわよくば、市子をこの世から消すか。<br /> それだけを考える日々が訪れる。<br /> 悪意と熱意はしかし、中途半端な覚悟と、根っからのお嬢様気質と、自意識の葛藤により、何か間違った方向に進み始めた。<br /> しかもそのタイミングで七星家と三ノ宮家の確執が明らかになり、火乃子の市子に対する想いは更に拗れた。<br /> 祖父曰く、七星は自分達の研究を全て持って行ったと。<br /> 自分たちの功績を何もかも奪い去ったという。<br /> 三ノ宮家は古くから製薬で財を築いて来た。<br /> 祖父は七星の研究チームと合同で開発していた薬品を奪われたと言う。<br /> 共同開発品は数あり、以降世界でシェア90%を有する事になった薬の製造技術や権利などを丸ごと持って行かれたらしい。<br /> 三ノ宮家にとって七星家とは因縁の敵である。<br /> そして火乃子の前に立ちはだかっているものもまた七星だ。運命を感じざるを得なかった。<br /> 七星市子を排除し、欅澤杜花を解放する事こそ、三ノ宮家の積年の恨みを晴らすものなのだと、信じて疑わなかった。<br /> ……――とはいえ。<br /> 接していると不覚にもなんだか心地良くなってしまうような七星市子を殺すなんて真似は出来ないし、そもそもそんな大それた真似が出来るような人間ではない火乃子は頭を悩ませていた。<br /> 市子からすれば本来路傍の石ころである火乃子に、彼女自らが何かしらのアクションを起こす訳がないし、火乃子が杜花と仲良くしているという事実が有る事で、市子の火乃子に対する対応は実に親身だ。<br /> なんて良い人なんだろう。<br /> これは戦ってどうにかなるんだろうか。<br /> ああでも憎らしい。<br /> それが本音である。<br /> 恐らくは同志であると考えている満田早紀絵ですら、市子に強い当たりはしない。<br /> 七星市子とはそういう存在なのだ。<br /> だが何もしないのも……三ノ宮としてどうなのか……。<br /> なので『実現しえない方法で七星市子を貶めるような振りをする』という、倒錯的な攻撃方法に出る。<br /> 呪術でなんかアレ出来ないだろうか。<br /> 魔術でアレをソレ出来ないだろうか。<br /> オカルト方面からの攻めだ。<br /> ああ、私は憎たらしい七星市子を攻撃出来ている、という自己満足を得られて、なおかつリスクが少ない。<br /> もはや形骸化してしまった七星に対する復讐は、火乃子にとってただの趣味となり下がった。<br />「杜花さん、お願いだから妹にしてくださいお願い」<br />「ダメです」<br /> 目的の為に手段を選ばないのか、手段の為の目的なのか。精神的に成長するにつれて、火乃子は目を覚まして来たともいえる。<br /> 五年も続けてダメなのだ。杜花にとって姉は一人だった。<br /> では自らの『学年一位の成績』や『お嬢様らしさ』を育てる原動力となった欅澤杜花と、超えるべき敵七星市子に敬意を表して、こんな馬鹿げた遊びはこれで最後にしようと、火乃子は今までにない、大きな儀式を執り行うと決める。<br /> 人間の血……は無理だ。自分のも痛いのは嫌いだ。なので、学院内で捕まえたカエルの血を使って魔方陣を描き、学生身分にはだいぶ良い値段をした本を片手に、夜中ひっそり抜け出して、寄宿舎裏手の林の中で儀式を行った。<br /> カエルの血も集まり難いので、だいぶ小規模になってしまったが、それなりの趣は確保出来た。<br /> 何しているんだろう自分はと、自嘲しながら呪文を唱え、それで終わり。<br /> その筈だったが、そうはならなかった。<br /> ……。<br /><br /> 最近、三ノ宮火乃子は不満を募らせている。<br />「三ノ宮、もう放課後よ。優等生が一日寝て過ごすってアリなのかしら」<br />「……五月蠅いですね。七光」<br />「そりゃ貴方もでしょう」<br /> 七星が笑う。<br /> 転入は半年前、学校に登校し始めたのはここ一カ月だ。<br /> 嫌な予感はしていたが、案の定七星二子は自分と同じクラスになり、あまつさえ隣の席にいる。<br /> 元から一学年三クラスしかない学校であるから、確率的にありえるとしても、まさか隣になるとまでは考えていなかった。<br /> いや、以前から席を置ける空間はあった。元からそこに配置されていたのだろう。<br />「本当に機嫌の悪い子ね。もう少しなんとかならないの?」<br />「ならないでしょう。というか、貴女がここにいるっておかしいでしょう」<br />「宜しくねお姉ちゃん」<br />「な、殴りたい……」<br />「殴ってどうぞ。楽しい事になるだろうけれど、おほほ」<br /> 三ノ宮と七星の繋がりは深い。<br /> 七星の製薬部門企業ナナホシ製薬は、三ノ宮医療製薬から独立した人間が七星に入社後、社長として就任して出来あがった会社である。<br /> その折に幾人もの研究者、技術者が引き抜かれており、大変な損害を被った。当時は一大訴訟戦争となったものだ。<br /> 火乃子の祖父で三ノ宮医療製薬代表取締役社長の三ノ宮輝秋とナナホシ製薬社長の時田典弘の確執は大変有名なものであるが、現在は企業体として大きく反発しあっている訳ではない。<br /> 大量の資本と人材と技術を保有する七星と戦争して勝てる見込みが無いからである。故に三ノ宮の人間はその腹に抱えているものが大きい。<br /> 三ノ宮の愛娘風子と火乃子、そして七星の市子と二子は、年が近いと言う事もあり、外で何度か親に連れられて顔を合わせている。<br /> 風子は元からフランクなので、七星に強い不信感など抱いてはいなが、火乃子は違う。<br /> 次代を担う娘と祖父からも見られている為、扱いが姉よりも高いのだ。<br /> 七星二子とも何度も顔を合わせている。故に解る。<br /> こいつはまだ高校生ではない。<br /> つい最近まで京都のお嬢様学校に席を置いていた筈だ。それも小等部である。<br /> おそらくは、皆が疑問に思っているだろう。高校生というには小さすぎる。<br /> だが、相手は七星だ。<br /> 何かしらの形で七星に恩恵を受ける人々がそれに大きな声を上げる訳がないし、そもそも二子の態度が違う。<br /> 態度が限りなくでかい。<br /> 饒舌で、知識豊かで、その辺りの高校生など面喰って黙り込むだろう存在感を有している。<br /> 七星の秘蔵っ子は伊達ではなかった。<br />「さて……モリカにでも会いに行こうかしら」<br />「口にせず行ったらどうです」<br />「聞かせる為に言ってるのだから、口にもするでしょう?」<br />「いちいち気に障りますね」<br />「……もしかして具合が悪いのかしら。ちょっとおでこ出しなさい」<br />「あ、こら」<br /> 二子のひんやりとした手が火乃子の額に触れる。それを嫌って手で払うと、二子は呆れたというようにボディランゲージを示した。<br />「熱は無いようね。でも念のため、医療保健室行った方がいいわ」<br />「何のつもりですか」<br />「同輩のよしみ。仲良くした方がいいでしょう」<br /> これだけの人材、大人になったらどれほどの脅威になるだろうか。恐らく七星でも上の位置に付く事だろう。<br /> そうなれば、三ノ宮期待の星である火乃子は嫌でも顔を突き合わせる事になる。<br /> 腹立たしいが現実だ。<br />「姉といいアンタといい、どうしてそう、お節介で煩わしいのでしょうね」<br />「姉様は貴女の事だいぶ気に入ってたみたいよ。お話にも出て来たし。杜花が狙われてるって」<br />「それ、気に入ってるの?」<br />「気にもしなかったら名前もあがらないわよ。姉様よ?」<br /> ……その巨星は堕ちた。<br />「早く行ってください。杜花さん、足が速いから直ぐその場から居なくなる」<br />「そうだった。あの子落ち着きないわよねえ」<br />「ふん」<br /> 黒髪を靡かせ、七星二子が去って行く。去り際に群がる他の生徒達を適当にあしらう姿は、流石としか言いようがない。<br /> 物が違う、出来が違う、質が違う。<br /> 三ノ宮火乃子という人物も人さまから見ればそう思われるだろうが、七星の娘というのはどれもこれも、何かが違う。<br /> 人を引き付ける容姿もそうだが、でかいのに好かれる態度、大雑把なようで気が利いていて、何事も冷静だ。矛盾を内包して全ての整合性を合わせている。<br /> それを形容しようと思った場合、出てくる単語は『怪物』だろうか。<br /> 彼女の父である七星一郎は妖怪とまで言われていた。<br /> そして七星市子――彼女は、学院内で蔑まれる場合、『魔女』と形容されていた。<br /> 憎らしく思いながら、あれだけはどうしようもないと諦めざるを得ない、そんな存在。<br /> しかし彼女は死んだ。<br /> 三ノ宮火乃子が魔術を行使して、三日後の出来事である。<br /> 当時の衝撃は未だに後を引きずっている。<br /> ありえない死。<br /> 出来すぎたタイミング。<br /> 憎いといっても、御遊び半分、本気で恨んでいた訳ではないのに。<br /> 本気で恨んでいないからこそ、影響もある筈がない呪術魔術などという非科学的なものでの復讐を選んでいたのに。<br /> だが事は成った。<br /> 七星市子は消えていなくなったのだ。<br /> 終わる筈だった三ノ宮火乃子の欅澤杜花への執着が再熱したのも、それは仕方が無かったのかもしれない。いや、逃げ場を求めたとでも言うだろうか。<br /> 現実と非現実の狭間で、火乃子は苦悶を強いられていた。<br /> 呪殺の咎と、七星への恐怖。<br /> 一番の敵がいなくなったとはいえ、背負い込んだものは大きく、更に言えば、市子の存在によって抑圧されていた杜花に対する気持を抱いている者達が、だいぶと動いている。<br /> 満田早紀絵、天原アリス、これらは長い間幼馴染であるから、察してはいたが、ここ最近その色が更に強い。<br /> そして一番の問題は……やっといなくなったと思っていたのも束の間に湧いて出た七星である。<br /> 杜花が二子をどのように考えているかは知らないが、まだ不信感を抱いているのだろう。<br /> しかし、性格は悪いが……二子は市子にそっくりだ。ひょんな拍子でくっつかれたらたまらない。<br /> どうにかその前に、杜花に接近したいのだが……。<br />(……いや、だって怖いし……ま、また否定されたらなんか辛いし……)<br /> 火乃子は決意だけ一人前で、実際に行動に移した試しがない。<br /> 小等部の頃から形成された自我の所為か、どうも後ろから嗅ぎ回っている方が板についている気がしてならないのだ。満田早紀絵などもそれだろう。<br /> たまに、杜花とアリスが一緒になっているところを遠くから眺めては羨ましそうにしているのを目撃する。<br /> ああ市子の弊害だと頭を振り、火乃子は鞄に教科書を詰め込んで教室を後にした。<br />(杜花御姉様とアリス先輩、キスしたって噂だけど……)<br /> 最近は杜花とアリスの接近が寮内で良く語られている。<br /> 元市子の妹同士、なおかつ二人は御姉様級だ。<br /> 外から見ているだけで満足な輩は大興奮のネタだったが、火乃子からすれば不愉快である。火乃子自身が市子の妹になっていれば、今よりも接近出来ただろうか、などと後悔することもしばしばだ。<br /> 溜息を吐き、鞄を持って教室を出る。<br /> 火乃子は寄宿舎に戻るでなく、校舎内の階段を上がる。<br /> 高等部第二校舎は三階建で一年と二年が入っており、小ぢんまりとした作りになっている。<br /> 三階奥にある第二生徒資料室の前で立ち止まった火乃子は、鍵を取り出して扉を開け放った。<br /> 中は薄暗く、寒い。<br /> 様々な資料や小道具が仕舞われる部屋は、果していつから使われていないのか、少なくともここ数カ月誰かが出入りした様子はなかった。<br /> 偶然にも手に入れた鍵が火乃子の手元にある所為もあるだろうが、開けようと思えばマスターを使えばいい話だ。<br /> つまるところ、ここは必要とされていないものが収められており、誰も興味を示さない場所なのだろう。学院にはそんな場所が幾つもある。<br />「流石に十二月は、ここも寒いなあ」<br /> 生憎暖房の類は使えない。元から大きな暖房を持ち込むことが難しい。電気料金の差異でばれる事はないだろう。そもそもこの市は特区で、電気代は無料だ。核融合炉さまさまである。<br /> だがここはある意味、学院でも有数の電子機器密集地帯と言える。<br /> 資料室というだけあって、あまり広さはない。<br /> 隣の空き教室の脇に、準備室のように据えてある部屋なので、アパートメントのワンルーム半分程度である。<br /> 火乃子は部屋の隅、窓からも廊下側からも死角(窓などはフィルムが張ってあるので覗かなければ見えないが)になる場所に陣取り、布団を被る。ここが火乃子の安住地帯だった。<br /> かねてから望んでいた第一寄宿舎白萩への入居は叶ったが、相部屋である。<br /> しかもその相手が末堂歌那多だというのだ。<br /> 世間知らずすぎて、騙すのは容易いのだが、突飛な行動が目立って自由はきかないのだ。<br /> そんな歌那多を可愛くは思っている。言い換えれば、彼女ほど純真な子もいない。<br /> ただ、故に火乃子からすれば眩しすぎる存在だ。ある意味憧れといっても良い。<br />(あー……一人落ち着くー……一人最高ー……)<br /> マットレスに布団。<br /> それが部屋の隅に押し込められるような形になっているのが、火乃子のスペースだ。手近なところからノートPCを引きずり出し、パスワードを入力してスタンバイを解除する。<br /> 火乃子は小さい頃からコツコツと運び入れた禁制品を現在ここに保管していた。寄宿舎にもあるが、此方はサブのものである。<br /> 大半がPC、カメラ、電子ペーパーなどの禁制品で、当然見つかれば全て没収だろう。<br /> 書籍はまだ良いが、PCとカメラは不味い。<br /> なので、もし見つかっても良いように、指紋、動脈、顔面認証、更にパスワードは一度に三回入力失敗すると電磁石で物理破壊が起きるように設定されている軍事用ノートである。<br /> 国が管理する量子コンピュータでもない限り解錠は無理だ。カメラも同様である。<br /> 鞄からカメラを取り出し、データをPCに移動させる。<br /> フォルダから種類を分別し、一つの画像をプレビューする。<br />(スクールロア第30号)<br /> 中央広場の隅、もはや誰も利用者がいない掲示板に、不定期で張りだされる壁新聞だ。<br /> 大変不誠実なネタがモットーとされており、とても下世話で普通の壁新聞としては認可されていない為、ひっそりと公開されていた。<br /> 前に出たのは二カ月前であるから、それなりに期間が空いている。誰が発行しているのかは未だ解っていない。<br /> 使用されている機材からするに、新聞部ではないのかという疑いもあった。<br /> しかし掲示物の許可を出している生徒会が黙殺しているところを見ると、それも疑わしい。あらゆるところが出していると噂が広がっているので、その全てがブラフである可能性が高い。<br /> 製作者は策士で、しかも生徒会権力に影響のある人物だろう。<br /> ともかく暇な学院生徒にとって、恰好の娯楽であることは間違いなかった。<br />(……学院の謎。鍵……櫟の君、か。特集……御姉様周辺、そして七星二子か)<br /> 紙面は大まかに四つに分けられ、最初の見出しは学院の謎、と銘打たれたものだ。<br /> 鍵、そして小さく書かれた櫟の君の文字。<br /> 櫟の君、どこかで見覚えがある。<br /> 確か小説だったか……記憶は曖昧だ。<br /> だが青少年向けの女性同性愛小説だったのは記憶の片隅にある。それもかなり古い。<br /> 登場人物が『何々の君』として登場したはずだ。<br /> この学院の生徒の事だ、そういったものを参考にして鍵を作ったのかもしれない。<br /> 特集記事は御姉様周辺。<br /> イメージイラストが入っている。上手い。平成時代の美少女イラストリスペクトだろう。<br /> 名前は伏せてあるが、これがすぐ天原アリスであると解る。<br />(アリス先輩かあ)<br /> まさしく御姉様と呼ばれるのに違和感のない人物だ。<br /> 生徒会長で、有能で、美人で、包容力がある。<br /> 問題はこれが市子の元妹で、欅澤杜花に惚れこんでいるという部分だろう。記事にもそれとなく示されている。<br /> 記者は良くあの人物に接触して嗅ぎ回れるものだ。もしかすれば自分に近い人間なのかもしれないと考察する。<br /> 最後の記事は七星二子についてだ。<br /> 市子の死後にやってきた怪人物として紹介されている。<br /> 火乃子が知っている以上の情報は載っていない。<br /> ここで火乃子は違和感を覚える。<br />(……普通この新聞、怪談などをメインに扱っていた筈なのに、黒い影の噂も、魔女の話もない。あるのは……当たり障りのない、中等部のトイレの話か)<br /> 風の噂では、生徒会活動棟に出ただの、黒い影を見て三年の居友が倒れただのと聞いていた。<br /> 記者はなかなかに鋭く噂を嗅ぎつけて記事にする事で有名だったというのに、これはどうもおかしい。<br /> 意図的に避けているとしか思えない。<br /> 影の噂は数号前には有った。<br />『スクールロア』とフォルダ分けしてある中の画像を確認すると、やはり有る。火乃子の予想ではそろそろ魔女の話もあがるものだと思っていただけに拍子抜けだ。<br /> 魔女。<br /> この学院において人気者の悪口として良く使われていた。七星市子はそれだろう。<br /> 三十年以上昔からある怪談で、不思議な事や不可解な事件が起こるとその都度話題にあがる。市子の死後はそれが顕著だった。<br /> だが生憎、彼女を殺したのも魔女である。<br />(……まさか本当に死ぬなんて)<br /> 魔術儀式を行った三日後に七星市子が自殺した。<br /> しかも儀式の途中、火乃子はありえないものを目にしている。<br /> 黒い影だ。<br /> 黒い影が話題になったのは市子の死後であるから、それよりも先に火乃子が目撃していることになる。<br /> まさか、あの儀式が、あらぬものを召喚してしまったのか。<br /> そしてその影が市子をとり殺したのではないか。<br /> ありえない。それはおかしい。<br /> 確かに邪魔だとは思ったが、死んで良いとまで思ったのは、中学も二年までだ。<br /> 彼女の死後……杜花の笑顔も極端に減った。<br /> 杜花の写真が収められているフォルダを開く。日付順に並べると、その素顔が良く分かる。<br /> この一年の笑顔の少なさは、冗談では済まされない。確かに杜花は平静を装っているが、観察しているとあからさまだ。<br /> そして、こいつ。新しいフォルダを開く。<br />(それにしてもあいつやだなあ……どうしてあんななんだろ……)<br /> 七星二子。<br /> 画像閲覧アプリを立ち上げ、隠し撮りした写真をディスプレイに表示する。<br /> 右に市子の正面写真、左に二子の正面写真だ。<br /> 加工ソフトで光加減を調節し、同じ状況下で撮られたようにしてある。<br />(似てるなあ。二子はまだ13だっけ。ちょっと子供っぽくて丸い顔してるわね。あ、黒子が左右逆なんだ)<br /> 市子の目元にある泣き黒子は右に、二子は左にある。ただそれでも、二子は市子の少し前の姿、と言われれば、誰もが信じるだろう。<br /> 別の写真を比べる。体型は当然違う。市子は165cm、二子は135cmしかない。<br /> 今度は杜花の画像を表示して、三人を並べる。<br /> 杜花は175cmだ。火乃子が155cmであるから、会話する時はいつも見上げる形になる。<br /> ホログラム表示に切り替え、杜花を取り巻く人間達の相関図を整理して行く。<br /> 杜花を中心に、上に市子、その横に二子、左右に早紀絵とアリス、その下に自分やその他の人間を、隠し撮り画像から加工したバストアップ写真として表示する。<br /> 生憎自分は欄外だ。<br />(どうやっても食い込めなかったここに……)<br /> 杜花の横に自分を据える。関係性は『?』とした。<br /> ――これが答えなのだろう。<br /> 自分が彼女の何になりたいか、今になって良く分からなくなっているのだ。<br /> もっと近づきたかったのは確かだが、恋人にでもなりたいか、といえば何か違う気がしてならない。<br /> 尊敬だけで留めるか、といえば、それも不満なのだ。自己顕示欲でもない。<br /> ただもう少し、杜花の傍にいても、不思議ではないような立場になりたかった。<br /> さり気なく触れて、何でも話せるような間柄だ。<br /> つまるところ親友だろうか。<br /> 生憎、そこには早紀絵がいる。<br />(自己批判自己批判)<br /> 全ては己から発し、己に帰る。<br /> 火乃子は少なくとも、自己を客観的に見つめて反省出来るだけの賢明さがあった。結局は自分の何かが足りないのだ。<br /> ではそもそも……欅澤杜花を死して尚手放さない七星市子とはどれだけの人物なのか。市子と自分の詳細データを照らし合わせ、これで何度目だったか、溜息を吐く。<br /> どうにもならない差だ。<br /> しかしあの人格者である杜花が、そういった対外的なものだけで市子を見ていたかと言えば違うだろう。<br />(あれは姉妹じゃなく恋人だものねえ)<br /> 愛、恋。<br /> 残念ながら火乃子には実感出来ない感覚だ。<br /> 恋焦がれる想いこそあれど、真正面から誰かにそれを受け取った試しはない。<br /> 果してどれほど甘美なものなのだろうか。<br /> この二人は、一体どれだけの繋がりを持っていたのだろうか。<br />(や、やっぱり……えっちとかしてたのかな……)<br /> どんなものだろうか、こんなものだろうか。<br /> パス付きの格納フォルダを開き、めくるめく官能画像をいっぺんに表示する。ホログラム表示を切り忘れて、それが眼の前一杯に広がった。<br />「あばば……あー……すごいなー」<br /> 手違いだが思いの外凄かった。<br /> これだけは死んでも見つかってはならない……コラージュ画像の数々である。<br /> 色々と拗らせすぎて画像加工技術が極まってしまった火乃子の負の遺産だ。杜花の体型に似た女性の画像に、杜花の顔が差し替えてある。<br /> 繋ぎ目など当然の如く、彩光も色合いも完璧で、コラージュと言われなければ、杜花の関係者が腰を抜かすレベルのものである。同時に杜花に殺される。<br />「んー……」<br /> 全面に広がる画像に包まれながら、布団を被る。<br /> スカートを捲りあげ、ショーツを降ろし、自らの手を、彼女の手に見立てる。<br /> 真面目な分、溜まるべくして溜まったうっ憤の発散は、火乃子の場合自慰に重きがあった。<br /> 故にどうしても一人になれる空間が欲しかったのである。<br /> ふと、広がったホログラム画像の端に、歌那多の画像がある。擦れてしまった自分では、まず届きそうもない純粋な彼女。<br /> 何も知らない彼女は、事あるごとに火乃子を頼った。<br /> 彼女に必要とされている自分が好きな自分が、嫌いで仕方が無い。<br /> 三ノ宮火乃子は、貴女が慕ってくれるほど、綺麗な人間ではないのにと。<br />「あくっ……あ、かな……た……あ、ちがっ……ッ、違う、あ、ごめん、なさいぃ――」<br /> 口にして、再認識し、ダメな人間である事に対する絶望と、己の抱く欲望の歪曲さに、打ち震える。<br /><br /><br /><br /> ……多少の虚脱感を覚えながら、寄宿舎への道を行く。<br /> もう夕方だ、陽は向こう側に消え去ろうとしている。<br /> 丁度躑躅の道に入ろうとしたところ、街灯の明かりが灯ると同時に、火乃子は何か動くものを見つけた。<br /> 植え込みを乗り越えたそれが、ピョンと飛んで此方に向かってくる。<br />「あ、ネコ」<br />「あおぅ」<br /> 猫だ。黒と白のパンダで、鼻に黒いブチがあるのが特徴である。<br /> 少し太っていて、足だけ白く、ホワイトソックスとでもいうのだろう。雑種だ。<br /> しっぽも長く、先が鍵のようになっている。この近辺をネグラにしている猫らしく、小等部の頃から成猫であった記憶がある為、結構な歳で有る筈だ。<br />「おいでおいで」<br /> 人懐っこく、呼ぶと此方に寄ってくる。決まった名前はない。およそ十程の呼び名があるとされている。<br /> 学院には猫が住まい、確認されているだけで八匹はいるという。勝手に迷い込むには人里離れている為、誰かが持ち込んだのだろう。首輪も付いている為、猫好きの学院長が付けているのではないかという噂だ。<br />(猫アレルギーに配慮とかないのかな……密閉してないから大丈夫か)<br />「ねーこねこねこねこー。がうがう」<br />「んぉあー」<br /> 間の抜けた声が響く。お腹でも空いているのだろうか。そもそも何処で餌を貰っているのか……考えられるところとすれば、各種寄宿舎と、食堂と、職員棟だろう。<br /> 生憎食べられるものを携帯するような生活はしていないので、猫には諦めて貰う。<br />「またね」<br />「にゃおぅう」<br /> 名残惜しみながら猫に別れを告げる。実家で飼っている猫とも暫くあっていない。<br />(あんな首輪つけてたかな)<br /> 猫には首輪がつけられている。しかし基本的に鈴が装飾されているだけのような気がしたが、あの猫はタグのようなものを首から下げていた。<br /> 以前……といっても、学院内を縦横無尽に駆け回る猫をじっくり観察したのがだいぶ昔である為、確かではないが、以前は見なかったものだ。<br />(誰かがつけたのかな)<br /> 猫可愛いと言っている私が可愛い、という自己顕示の構造は昔から変わらないので、見栄っ張りが付けた可能性もある。<br />「戻りました」<br /> 寄宿舎に戻ると、炊事場の方から何か日本人の遺伝子をくすぐるような匂いが漂ってくるのが解る。<br /> 確か今日は二年生の担当日、つまり杜花が余計に張りきる日である。<br /> ご飯が炊ける匂い、それと味噌の香り。今日は一般的な家庭の御夕飯なのだろう。<br /> 二年が担当ならこれほど安心して晩御飯を待てる日はない。三年は慣れているものの、たまにビックリするような物を作って提供するので警戒している。一年は言わずもがなだ。<br />「三ノ宮さん、おかえりなさい」<br />「ただ今戻りました、天原先輩」<br /> 廊下の向こうから歩いて来たのは天原アリスだ。<br /> ここ最近とても機嫌が良いらしく、いつも以上に友好的に人へ接しているような気がする。それも杜花効果だろうか。<br />「今日は杜花さんが」<br />「ええ。ご飯にお味噌汁に焼き魚、なんてメニュー、久々なだけにワクワクしますわ。杜花様はお料理が得意ですし」<br />「私の実家はいつも純日本食でしたよ。ちょっと塩分が気になりますけど」<br />「杜花様はその辺り、恐らく抜かりないでしょう」<br />「そうでした」<br /> アリスに頭を下げ、一階西廊下を抜けて真中の部屋に辿り着く。ここが自室だ。<br /> 表札には『三ノ宮、末堂』とある。<br /> 自室に入ると、同室の末堂歌那多がいた。<br /> 居るのは当然なのだが、彼女は部屋の真中にある丸いカーペットの上で、胡坐をかいている。<br /> 禅宗だっただろうか、この子は。<br />「歌那多さん?」<br />「あ、火乃子ちゃん。あのですね、あの、えーと。瞑想なんですが!」<br />「はい」<br />「無って言いますよね無」<br />「そうですね」<br />「でも無って事は無がありますよね。じゃあ本当の無ってなんですか?」<br />「それがすぐ解ったらブティストも天文学者も頭を悩ませないと思うんです」<br />「あー、やっぱり難しいかー、難しいよねー」<br /> 彼女は、ちょっと良く分からない。<br /> この学院、あちこちとお嬢様はいるのだが、歌那多は飛びきりのお嬢様だった。箱入りも箱入り、箱の中にある箱の中で暮らしていたのではないかと思うほどである。<br /> 生活能力は皆無に等しく、放っておいたら勝手に餓死するのではないだろうか。<br /> 火乃子もお嬢様だが、何かとシビアな祖父のお陰でそれはない。<br /> 歌那多の両親は過保護極まり、断腸の思いで歌那多をここに入学させたと聞く。<br /> それは正解だろう。努力次第で自活能力は養える。幸い先輩たちは皆有能だ。<br /> 歌那多本人も可愛らしいので、誰にでも可愛がられている。庇護欲をそそられるに違いない。かくいう火乃子も遠からずだ。<br />「火乃子ちゃん、何故ブッダは非想非非想は己の悟りではないと思ったのでしょうか」<br />「せ、専門的な事はちょっと。でも、ブッダさんはほら、それじゃあ誰の魂も救えないと思ったからじゃないですか」<br />「おー。なるほどねー。ねえねえ、捨身行の事なのですけれど!」<br />「しゃしん……あ、捨て身か……はい」<br />「あれって自殺じゃあないでしょうか!」<br />「思う所無く死ぬのと思う所あって死ぬのでは違うんじゃないでしょうか」<br />「死の意味かあ。私出来ないなあ。痛いの怖いし……」<br /> そういって右腕をさする。何か不安に思うとさする癖があるらしい。<br />「高いところから落ちると、着地までに気を失うので痛くないと聞きました。本人からは聞けないでしょうが」<br />「……なるほど、あ、そっか! それこそが無!? 無を感じるから意識が無くなる!?」<br />「いや全然解らないです……」<br /> 仏教なんて門外漢すぎる話題を持ち出して尚テンション高く語る彼女は楽しそうだ。<br /> いつも突拍子もない話題を持ってくるので、火乃子は慣れている。むしろそれが彼女の性格にマッチしていて、可愛いとすら思っていた。わざとでは出来ない芸当だ。<br /> 火乃子が演じた所で寒いだけである。<br />「人は死ぬと、裁きを受けて輪廻転生するそうです。天は菩薩に近いですがこれはやはり六道の一つでしかなく、努力しなければ天人五衰といってその身が滅びる事になります。人は私達の世界です。修羅餓鬼畜生なんかはもうアレです、行きたくないですねー」<br />「うんうん、そうですね」<br /> 適当にあしらいながら、鞄を机に置き、上着を脱ぐ。食事の時間までまだ時間がある。<br /> ベッドに腰かけると、歌那多もちょこちょこと寄ってきて右側に腰をおろし、火乃子の顔をジッと覗きこむ。<br /> 日本人と、西洋人の遺伝子が都合よく混ざりあったら、このようにはっきりとした顔立ちになるのだろう。<br /> 赤い髪が火乃子の頬にかかる。色気のない、ふんわりとした石鹸の香りが、気取らない彼女らしい。両親が寄宿舎に預けるのを躊躇うのも解る気がした。<br />「どうしました」<br />「火乃子ちゃんは、杜花御姉様が好きですよね?」<br />「あ、ぐ。え、う、うん。ええ。はい」<br />「杜花御姉様は、あまり詳しくないけれど、市子様? が好きだったんですよね?」<br />「おそらく」<br />「で、早紀絵様は杜花御姉様が好きで、アリス様も杜花御姉様が好きで、火乃子ちゃんも杜花御姉様が好きで、私も好き?」<br />「好きの、意味合い度合いが違うと思いますけれど」<br />「度合い。度合い。愛の違い?」<br />「家族の愛と他人への愛は違うでしょう。そのうちでも好きの、段階というか、量というか」<br />「あー。うん。お父様とお母様の好きと、杜花御姉様の好きは違う気がするし、火乃子ちゃん好きのも違う気がします」<br />「私好きですか?」<br />「お父様が、三ノ宮と仲良くなるといい事があるっていうんですけれど、そんなことしなくても私達仲が良いし、たぶん好きですよね? あれ? 火乃子ちゃん私嫌い?」<br /> まあ、小売商品を取り扱う歌那多の家が三ノ宮と遠からずの距離に居たいというのは解る。<br /> 取り扱い法が緩和したとはいえ、まだまだ普通の店で薬品取り扱いは難しいが、健康器具部門や健康食品部門での提携などはありえるだろう。<br /> ただ、そういうものを抜きにして、歌那多とは仲良くやって行きたいと思っている。<br />「好きですよ」<br />「あー、だよねー。うん。ところで火乃子ちゃん!」<br />「はい?」<br />「私の事好きだよね?」<br />「な、何回も聞かれると恥ずかしいです……」<br />「じゃあじゃあ、教えて欲しい事があるのですけれど!」<br /> そういって歌那多は勢い良く立ち上がり、眼の前で制服を脱ぎだす。<br /> 突拍子もない事をしだすのは慣れているが、流石に脱がれるのはどうかと思う。<br />「ちょ、ちょっと?」<br />「んぎー……火乃子ちゃん、左袖ひっぱって」<br /> あまつさえ脱ぐのを手伝えと言うのか。火乃子は仕方なく左袖をひっぱり、脱衣を補助する。<br /> どうも、右腕が動かし辛いらしい。<br /> 常々、右腕が不器用な気はしていたのだが、ここ最近はそれが目立つ。<br /> あとはポンポンと服を全て脱ぎ、とうとう全裸になった。<br /> 大きくは無いが形の綺麗な乳房、引き締まったウエストが神々しい。<br /> 脚は……日本人離れして長い。<br />「それで、全裸になって何を?」<br />「えっちってどうするんですか?」<br />「げぼ」<br />「火乃子ちゃん?」<br /> 空気が変なところに入って噎せる。何を言い出すかと思えば、まぐわいが何だと?<br /> 同級生に聞く話ではあるまい。<br /> そんなものネットで調べろと言いたいが、歌那多はキャンディヘヤーを揺らしながら、眼は爛々と輝いている。<br />「ど、どうしてそんなこと」<br />「あのねー、私、卒業したら、お嫁さんに行くでしょう?」<br />「ああ、大企業のどら息子のところに」<br /> 外で一度顔を合わせた事がある。<br /> 確かに熊のマスコットに似た愛嬌のある人物だ。有能か無能かは知らないが。<br />「どら? それでね、やっぱり夫婦になったら、えっちはすると思うんです」<br />「そうですね、しますね。でもそういうの人に聞くものじゃないと思いますけれど」<br />「ええ!? じゃあ、昔の人たちは、どうやって子供を増やしてたんですか?」<br />「なんとなくわかるんじゃないかな……私達だって動物だし……」<br />「んーと、男性器を女性器に挿入して射精して、それが卵子に辿り着いて、細胞分裂をする」<br />「そうですね」<br />「それは解るのですけれど、そこに至るまでの過程? が良く分からなくって」<br /> お願いだから処女にそんな事を聞かないでほしかった。<br />「あの……私、経験あるように、見えますか?」<br />「見えないです!」<br /> あったらあったで問題だが、そうはっきり言われてしまうと人間としての魅力が無いように思えてしまう。確かに、火乃子は自分が地味であるとは自覚している。<br /> 今後外に出て、男性とまともに会話出来るかどうか怪しいレベルで自信はない。<br />「見えないですけど、火乃子ちゃんは頭がいいので、えっちにも詳しいのかと!」<br />「つまり私が耳年増であると。歌那多さん酷いです」<br />「あ、御耳だけ老けるんだー。ともかく教えてください」<br /> どうしろというのか。<br /> 歌那多は二段ベッドの下、つまり火乃子のベッドに全裸で横たわった。誰かが部屋に来たらどうするつもりなのか。<br /> 歌那多は素直で宜しいのだが、教えて貰う事になると実にしつこい。沢山学んで来いと言われたのだろう。それを真に受けているのだ。素直だから。<br /> しかたなく、火乃子は部屋の鍵を閉めてから、歌那多の横に正座する。<br />(肌白いなー……)「それをマグロといいます」<br />「マグロ!? 新築地ですか!?」<br />「築地めいた何かですね。あと、私教えませんよ?」<br />「ええ!? ここまでしておいて酷い」<br />「な、なったの自分からでしょう」<br />「むー……」<br /> 不満そうに歌那多が起き上がる。<br /> 流石に知識として教えるのならまだしも、これは実践コースだ。<br /> ふと、先ほど自分を慰めた時、歌那多の顔がよぎったお陰で酷い罪悪感に駆られた事を思い出し、火乃子は顔を赤らめる。<br />「本番で数こなせば覚えますよきっと」<br />「粗相がないようにしたかったんです」<br />「処女でえっちが上手な女の子とかたぶん男性ドン引きしますよ」<br /> 男性のフェチズムなど知らないが、処女で床上手なんてギャグも甚だしい。経験豊富な新人社員を求める企業のような男が沢山いては困る。<br /> が、知識と積極性はその足しにはなるだろう。教える気は無いが。<br />「ところで……右腕、動かし辛そうですね、最近」<br />「あ、う、うん」<br /> 火乃子の脇を抜け、脱ぎ捨てた服を拾い上げる。急いで着替えようとしたらしいが、ショーツを穿こうとしてそのまま転倒する。更に起き上がろうとして右腕をついたところ、力が入らず転がる。歌那多はうつ伏せのまま動かなくなった。<br />「歌那多さん?」<br />「……最近動かしにくいんです。医療系の会社の火乃子ちゃんなら解るかもですけど」<br />「……もしかして、右腕」<br />「神経接続型全関節稼働義手(フルサイバネテック)です」<br /> なるほど、と、今までの歌那多の不調に納得が行く。<br /> ここしばらく物を取り落としたり、右半身をやけに動かし難そうにしていたのは、そういう理由があったのだろう。<br /> 神経接続型全関節稼働義手。<br /> つまるところ、脳から送られる信号を機械的に接続した義手が感知し、日常生活の上で必要な動作の全てを賄えるようにした、超高級義手の事だ。<br /> 世間ではSFからとってサイバネティクスと呼ばれている。<br /> 医学他通信や制御、システムあらゆる技術の統合体で、この技術を用いて商品化出来る企業は、アメリカ、ドイツ、日本の三つにしかない。<br /> 三ノ宮の娘ですら驚く程の高額なもので、腕一本ともなれば丸の内に土地が買える。<br />「何故放っておいてるんです? 定期健診は?」<br />「受けてるのだけれど、直すのに必要なパーツの取り寄せに時間がかかるそうなのです」<br /> ありえる話だ。特注品で、製作には一年かかると言われている。<br /> きっと欠損した部分がそれこそ面倒な部分だったのだろう。<br />「あ、あの、あのね? 誰にも言わないでほしいの」<br />「バレたからといって、差別するような心の狭い人がここに居るとは思いませんけど」<br />「恥ずかしい」<br /> そういって、右腕をさする。<br /> 動かない、とはいうが、外から見ても繋ぎ目すら解らない。余程精密で丹念な仕事のなせる技なのだろう。<br />「勿論誰にも言いません。でも大変でしょう。補助が必要なら皆が手を差し伸べてくれるのに」<br />「わ、わたし。いっつも、一人じゃなにも出来ないのに、更に腕も不自由なんてバレたら、もっと皆に迷惑かけるみたいで、あの。私、ちゃんと一人でも生活出来るようにってここに入ったから。解らない事は沢山あるけれど、勉強して、教えてもらって……」<br /> 元から庇護欲をそそる子ではあったが、今日ほど健気で可愛らしく見えた日はなかった。<br /> 彼女は本当に何も知らないだけであって、迷惑をかける事に恥を覚えているし、常に前向きな姿勢を崩したりはしない。どうして右腕が無い如きで、彼女を責める事が出来るだろうか。<br /> 火乃子は歌那多の傍に座り、上着を羽織らせる。<br />「偉いですね、歌那多さんは」<br />「偉い?」<br />「迷惑をかけたくないって気持ちは大切なんです。けれど、それを黙っていられると、まるで皆が信用されていないような気にもなってしまう。辛かったら助けを求めてください。少なくとも私は手を貸します」<br />「……うん。ごめんなさい。火乃子ちゃんを信用してないとか、そんなんじゃ全然なくって。火乃子ちゃん好きだから、あんまりこういうこと、教えたくなくって」<br />「全裸にはなるのに……」<br />「もし、このままずっと腕が不自由だったら、旦那様にも申し訳ないかもしれないなって思って、それだったら、事前に色々教えて貰っていたら、ごまかせるかなー? っておもって」<br />「その程度で嫌がるような男なら蹴飛ばしてしまった方がいいでしょ……まあ、ないと思うけれど。歌那多さん可愛いし」<br />「可愛い……私?」<br />「自分では言わない方が良いです、単なる嫌味にしかならないから。七星みたいに」<br />「あ、可愛いにも度合いがあるのかな。うん」<br /> つい最近まではフィクションであるとされていた物事が実現可能になってきた現代においても、歌那多がつけているような義手は一般人の手には届かないものだ。不調になるまでそれが義手だと気づかない程の完成度の物となればなおさらである。歌那多は恵まれた存在だ。<br /> ただ当然……そのうちに抱えているもの、悩むものはあるだろう。<br />「おういカノカナ! 食事の時間だよ……って、おお、火乃子が歌那多襲ってる!」<br />「ええ!? 早紀絵先輩! か、鍵は!?」<br />「え、勢いよく開けたら開いたけど。壊れてるんじゃない? あ、続きするの?」<br /> ……時計を見る。夕食の時刻を少し過ぎていた。わざわざ後輩を呼びに来る早紀絵の面倒見の良さは評価するのだが、もう少しデリカシーを持ってもらいたい。<br />「さ、早紀絵先輩。これはですね」<br />「早紀絵様、今日のおゆはんは?」<br />「今日は全権を杜花に委任して作られたからたぶん超美味しいご飯に味噌汁に焼き魚と切干大根だって。食べて体力付けないとえっちでバテるよ」<br />「違いますって! ああ、早紀絵先輩お願いだから……」<br />「ああ? 何でもするって言ったね?」<br />「言ってないです。お願いだから黙っててください。じゃないと」<br />「じゃないと……なんだね、ん?」<br />「スクールロアの発行者だとバラします」<br /> 推測だ。証拠はない。<br /> ただ、日ごろ記事を読んでいて、ひっかかる部分は幾つかあった。満田早紀絵がオカルト好きである事は周知であるし、杜花やアリスの事情を逐一観察出来る立場に居る。以前から疑いはしていたが、今回の記事は致命的だ。<br /> 影や魔女の噂を書かなかったのは、もしかすれば杜花に配慮した可能性がある。<br />「え? 何で知って」<br />「ふっ」<br />「ああ! カマかけたな!? くそ、愛読者がこんなところに居たとは……だ、黙っててね?」<br />「なので黙っててくださいね」<br />「あい。後輩に一本取られたか……ってほら早く服着せてあげなよお腹空いた」<br /> もたもたとする歌那多の着替えを手伝い、自室を後にする。<br /> 歌那多は、普段差し出さない右手を差し出していた。それを掴み、食堂棟へと向かう。<br /> 同室の人間に隠していたのだ、余程気を使っただろう。<br /> 先ほどとは打って変わって、華やかな笑顔を湛えている。<br />(これぐらい無邪気になれたら……私は汚くなりすぎた)<br /> 同い年の少女を羨むようになっては……乙女として終わりだなと、小さく心の中で涙を流す。<br /><br /><br /><br /> 食事と風呂を済ませ、作業時間になる。<br /> 寮長の鷹無綾音に部屋の鍵が壊れている事を報告してから自室に戻ると、丁度部屋の前に早紀絵と杜花が居た。どうやら遊びに来た、という雰囲気ではない。<br />「おお、カノ、待ってた」<br />「どうしましたか」<br />「まあまあ来たまえよ、我が家へ」<br /> 早紀絵はどうでもいいが、杜花がついてくるならば歓迎だ。<br /> 二階に上がり、早紀絵の自室に案内される。中では中央の座卓に支倉メイがお座りをしながら待っていた。<br /> 流石早紀絵のペット、従順である。<br /> 座るように勧められ腰をかけると、隣に杜花が座った。<br />「他の班の材料が余っていたので、料理ついでにお菓子を焼いてみたんですよ」<br /> 座卓の真中に学院では貴重品な焼き菓子がある。種類こそ少ないが、どれも形が整っていて、香りが良く、食欲をそそられる。<br /> そもそも何処からか買って来るという選択肢が無い為、料理上手な人間が進んで作るか、食堂のオバ様が気まぐれに作るのを貰って来る他ない。<br /> 一応生もの以外の持ち込みは一応禁止されてはいないが、お菓子食べたいから、といった理由で持ち込むのも、なんだか食い意地が張っているようで人の目が気になる。<br /> 故に出来たてのクッキーなど本当に久しぶりだ。まして杜花作となるとテンションも上がる。<br /> メイがお茶を淹れて、ご主人様に撫でられる。<br /> いや、火乃子も二人の関係をそこはかとなく知ってはいるのだが、こうあからさまで良いものなのか。<br />「先輩方おそろいで、私何か、しましたか?」<br />「いえね、カノはスクールロア知ってるでしょう」<br />「……ええ。昔から読んでます」<br /> 杜花の前でボロを出したくない。<br /> 本来ならそれも知らせたくはなかったのだが、わざわざこうして出迎えにまで来て、あまつさえお菓子まで用意しているのだから、余程の理由があるのだろうと納得する。<br />「へえ。三ノ宮さんも読むんですねえ」<br />「いえあの、その。好奇心で」<br />「ハードユーザーでしょう。いいよそんなに繕わなくても、貴女の話なんて、杜花は風子から聞いてるし」<br />「ぐぬっ」<br /> おのれ姉。<br /> 三ノ宮風子が欅澤杜花を総合に誘って、それ以来仲良くしているのは知っているが、妹の話を自分の知らないところでしてほしくなかった。<br /> 色々と繕っているので、虚飾が剥げた姿を杜花に見られるなど……それは恥ずかしい。<br />「好きです。毎号読んでますよ。ただ、今号は納得いきませんでした」<br />「ほう、読者の意見を聞こうじゃない……うわ杜花これ美味しいお嫁に来て」<br />「保留で」<br />「くそう……で?」<br />「数号前から続いてた黒い影の話、いきなり途絶えましたね。それと、魔女の噂、そろそろ特集でもされるのかと思っていたら、天原先輩の話になってましたし」<br />「……サキ? 黒い影の記事、書いてないんじゃ?」<br />「あいや、自殺霊と絡めた事はしてないよ。怪談話だ、それは昔からあるよ。説明させて。いいかい、そもそも昔から、自殺霊も、黒い影らしき何かの話も有るわけ。話題になり始めたのは市子の死後。次の記事どうするかなって所で、まあ悩んではいたけれど、杜花の事もあるし、完全に除外してるよ、その話題。魔女も同様」<br />「そう、か。ごめんねサキ」<br />「ああ、だから記事にならなくなったんですねって……あの、そういう話題って」<br /> まさしく禁句だ。<br /> 誰の前でもない、欅澤杜花の前でその話題を出して良いものなのか。横目で杜花を伺うが……表情に変化はない。<br /> 今回呼ばれたのは……その話か。<br /> いや、まさか。魔術行使は誰にもバレていない筈だ。<br /> 中等部三年の当時、綿密に第二寄宿舎を脱出する計画をたて、準備し、執り行い、動揺しながらも、誰にも気がつかれず部屋に戻った。<br /> 本当は誰かに見られていた? <br /> 杜花と早紀絵に誰かが喋った?<br />「どうしました――三ノ宮さん、少し、震えてるみたいですね」<br /> 火乃子は常人だ。杜花の鋭い目線から逃れられるような人物ではない。<br />「あ、こりゃ何か知ってるね。いやね、とあるものを探してるんだけれど、次への手掛かりが無くってね。取り敢えず学内中噂のスポットは当たってみたんだけど、収穫は零。それで、なんか詳しそうな人いないかなって探してた訳。で、どうやらスクールロアなんてケッタイな物を愛読している人がいるみたいだから、声をかけたの――メイ、アーンして」<br />「あーん」<br />「おいしい?」<br />「ふぁい」<br />「おー可愛い可愛い。で、カノはなんか知らないかな。黒い影、そして魔女の噂について」<br /> どう、すべきか。<br /> 二人にどこまで知られているか解らない。<br /> あの日、あの晩、市子が死ぬ前に見た黒い影。この二人はそれを探していると見える。<br /> 確かに、黒い影が市子だと噂されて久しい。杜花が、その噂を好しとせず潰して回っている、というのなら納得出来る話である。<br /> 協力はしたい……が、問題がありすぎる。どう誤魔化すか。<br />「魔術」<br />「……はい?」<br />「魔術儀式を執り行いました。そしてその時、影を見ました。ここの裏の林です」<br /> 流石に、市子をなんとなくとり殺す為にやりました、などとは言えない。しかしこれは間違いのない真実だ。魔術儀式を行っている途中に影を見た。<br />「なんでまた、魔術なんて。三ノ宮さんは、そういうのが好きだったんですか」<br />「あう。あんまり、人には言えませんけれど。昔から、呪術とか魔術とか好きで。あの、言わないでくださいね。こっそり夜に抜け出して、儀式をしたんです。その時、黒い影がざわざわと動きまわって、歩き回って……」<br />「まあカノの趣味なんてどうでもいいよ。誰にも言わないし。こういう話を私達がしてるってことを黙っていてくれれば良い。それで五分、どう?」<br />「はい」<br />「……歩き回るタイプのものですか」<br />「噂に上がってる奴だね。佇む、走って迫る、そしてこれ、歩き回るだ。しかしなるほど、寄宿舎裏の林か。なんか出そうな雰囲気はあるわな」<br />「地中に埋めたのでしょうか……」<br />「どうだろうか。杜花センサーでなんとかなるんじゃない?」<br />「状況が顕現すれば確かに。重要な情報ですね、助かります」<br /> 杜花が火乃子に笑いかける。<br /> それは、純粋に嬉しいが、その笑顔に色気がない。形式としての笑いかけだろう。<br /> 杜花を観察し追い回して来た火乃子に通じるものではない。火乃子も生返事しか返せなかった。<br /> しかし本当に手掛かりに飢えていたのだろう。杜花と早紀絵はこの問題について議論している。もう用は無いのだろう。<br /> いや、それはネガティブすぎる考えだ、として頭を振る。<br /> 状況を自分から作る事をしてこなかったからこそ、構ってもらえていなかったのではないか。<br /> クッキーを齧りながら、何か会話のネタになるようなものはないかと探す。<br /> ふと目を向けると、大人しくしている支倉メイと眼があった。<br /> 身長は火乃子と同じくらいで、胸も含めてふっくらしている。<br /> 髪は少し茶色が入っており、杜花よりも長いだろうか。<br /> あまり視界に入る人物ではないが、いざ近くで見てみると、おっとりとした雰囲気の中に妙な空気がある。いうなれば、何か卑猥だ。<br /> やっぱり早紀絵にそういう事強要されてるのだろうなあと、妄想を走らせてから、いや今みんなと居るのに何をしているんだ私と、我に返る。<br /> メイがニッコリと火乃子に微笑みかけた。<br />「恋をしてる瞳」<br />「……はい?」<br />「待っていても来ない。進んでみたら?」<br /> どういう意味……そう問おうとしたところ、メイが身体を寄せて、耳元で呟く。<br />(匂いがするの。なりふり構わなければ、もっと構ってもらえるわ。もしそれでもダメなら、いつでも私に相談して? たくさんたくさん、慰めて、あげるから)<br /> 太股に、メイの手が伸びる。杜花と早紀絵は議論の真っ最中だ。<br />(そういうの好きそうな匂い。ヒトにされた事ある?)<br />(な、ないれひゅ……)<br />(んふふ。がんばってねぇ)<br /> 早紀絵と杜花が此方に視線を戻すよりも早く、メイが離れる。<br /> とんでもない人種に出会ってしまった衝撃に、火乃子は目玉があちこちと散る。全身けいれん気味だ。<br />「カノ、どったの」<br />「ああああにょ」<br />「あにょぉぉ?」<br />「あの、お手伝いさせてください。私は、現実に見ていて、し、信じられないけれど、でも、見ていて、何か、他の事を思い出すかも、しれないし」<br />「でも、危険がない訳でもないんですよ、三ノ宮さん」<br />「つ、ついていくだけでも。出過ぎた真似は、しませんから」<br /> 早紀絵と杜花が目配せしてから、頷いた。<br />「誰にも喋らない」<br />「はい」<br />「モリカの警告は全部信じる」<br />「はい」<br />「ならいい。こっちとしても情報が欲しいところなんだ。じゃあ明日の放課後、寄宿舎前ね」<br />「あ、ありがとうございます」<br /> メイに視線を向けると、彼女が小さく頷く。<br /> ともかく杜花の役に立って、もう少し目を向けて貰いたい。<br /> そして……そして、どうして貰いたいだろうか。<br />「あの、不躾なお話なのですが、杜花さん」<br />「はい、なんでしょう」<br />「この一年と少しの間……ずっと、市子様の話題を避けていたと思います。何故、今になって」<br />「――耐えるのに飽きたんです。それに、限界も感じていました。どんな形でも、自分の中で整理をして決着をつけないと――私は一生、市子御姉様の影を追い続ける事になる。保留し続けて、当時の私を保ち続けるなんて、出来ない。私は、私にならなきゃいけないんじゃないかって、そう、思いました」<br /> 重苦しく吐き出される言葉に、早紀絵も黙り込んだ。<br /> 火乃子も、なんと言葉を紡げば良いのか解らない。<br /> あれだけ一緒にいた二人が、死をもって別たれたのだから、当然だろう。<br /> そして、それに対して火乃子は、どう考えるべきだろうか。<br /> 呪いも魔法もない。<br /> あれは偶然が重なっただけ。<br /> でももし、何かの間違いでその祈願が成就し、市子を殺し、杜花を絶望せしめたとしたならば、その証拠が提示されたのならば、火乃子は、自責に押し潰されるのではないのか。<br />「済みません。でも、杜花さん。私……いえ、私達は、ずっと杜花さんを見つめてきました。早紀絵先輩だってそうでしょう」<br />「う、あ、ああ。うん。そうだよ」<br />「私達では、とても市子様には敵わない。これは解りきった事です。けれど、私も、早紀絵先輩も、天原先輩だってそう、市子様に届かないまでも、杜花さんを支えたいと、助けたいと思ってる。これは、身勝手で、理不尽な話ですけれど、貴女はアナタ一人だけの物じゃあないと思います。貴女が明るく笑える日が来るのを、みんな楽しみにしてる」<br /> 偽善的な建前にも聞こえるだろうが、今口に出せる精一杯の本音だ。<br /> 寮の皆が、学院の子達が、欅澤杜花に期待している。<br /> 学院の象徴として、誰もが誇れる人物として、彼女は見られているのだから。<br /> 彼女本人の都合は当然あるだろうが、生憎、彼女は市子と同じくして、私人よりも公人に近いのだ。<br />「……アリスさんにも似たような事を言われてしまいました。頑張って繕っているんですけれど、やっぱり、昔から一緒に居る人たちには、通じませんね。まだまだです、私は」<br />「昔から……一緒」<br />「……? そうでしょう。貴女ほど、私みたいな人に熱心な子、居ませんでしたもの。ああ、風子先輩あたりもかな……」<br />「三ノ宮姉妹を引きつける何か持ってるんじゃないの、モリカ」<br />「いやあ……」<br />「あの、その……迷惑、でしたね」<br />「まさか。妹、でしたね。じゃあ、問題が全部片付いたら、名乗って構いません。二番目になってしまいますけど、それでも良いなら。あ、アリスさん次第で一番かな……」<br />「も、モリカ? 貴女、あんなに嫌がってたのに、いいの?」<br />「別に結婚しろって言われてる訳じゃありませんし」<br />「げふ。そ、そだね。そっか、良かったねカノ……カノ?」<br /> なんてことをしてしまったのか。<br /> なんでこうなってしまうのか。<br /> 今の今まで叶わなかったものが、こんなにアッサリ叶ってしまうものなのか。<br /> 市子が死んだ所為であるし、杜花の考えが少しでも変わってきている事も示している。<br /> 望み望み望み、否定され否定され否定され、引きずりに引き摺って、これか。<br /> これでは本当に、悪魔と契約をして、その結果にもたらされた幸福ではないか。<br /> 一体どんな対価を要求されるのか。<br /> いや、もう既に払わされているのかもしれない。<br /> この苦悩こそが災厄そのものだ。<br /> 呪えば穴は二つ用意される。<br /> もう半身は埋まり始めているのではないか。<br />「ごめんなさい」<br />「……三ノ宮さん?」<br />「ごめんなさい……わた、私が……私が……」<br />「おい、カノ? 嬉しすぎて狂った?」<br />「い……いえ……、あ、あのう、嬉しいです。それでですねその……」<br />「はい?」<br />「口ぶりからするとその、探しているのは、影だけではないような、そんな気がしますが」<br /> 告白出来るものではない。<br /> 私が市子を呪いましたなどと、言えるものか。言って何になる。杜花に謝罪を述べた所で、杜花が許してくれる訳がない。<br /> 下手をすれば、それこそ仇討なんて真似もあり得るだろう。<br /> 彼女はそんな事を平然としてしまう可能性が見え隠れする。<br /> そして杜花の才能なら、人を素手で殺すなんて事も容易い筈だ。<br /> 総合格闘に勤しむ姉の風子を見ていれば解る。<br /> あの風子すら足元に及ばない強さなのだ、彼女は。<br /> 黙っていよう。<br /> もしかすれば、杜花は鋭い故に、何か感づいているかもしれないが、詳細までは解るまい。火乃子が全力で謝罪しても、市子は帰って来ないのだ。<br />「ああ。これいいのかな、モリカ」<br />「協力関係なら。先ほど宣誓も受けましたし。乙女には契約と恥じらいが必要です」<br />「んじゃ。あんね、結晶を探してるんだ。二子曰く市子のものだったそうだ。四角い結晶でね、虹色をしてる。毎度封筒にソレと手紙が入ってる。今回は地中か木の上か……鳥の巣の中とかあるかもね」<br /> 杜花と早紀絵がまた議論を始めた。流石にもう入る隙間はないだろう。<br /> メイに目配せすると、彼女はニッコリと笑う。<br /> 火乃子は三人に断り、約束の時刻を確認してから早紀絵の部屋を後にした。<br /> 階段を下り、給湯室でお茶を淹れてから、自室に戻る。あの部屋では飲んだ気がしなかった。<br /> 自室に戻ると歌那多が机で勉強をしていた。<br /> 邪魔をするのも悪いと思い、声をかけず自分の椅子に座る。<br />(……願いが叶ってしまった)<br /> 祈願が成就してしまった。嬉しさと罪悪感がじわじわと込み上げる。<br /> 杜花の、妹。<br /> 欅澤杜花の妹。聞くところによれば、もう数十人がそれを目指して失敗している。最近同級生の川岸命も失敗したと聞くが、これは妹宣言ではなかろう。風子も苦い顔をしていた。<br /> だとしても、杜花の心情の変化には驚きだ。<br /> それだけ、彼女の中の市子という存在について整理がついて来たのかもしれない。<br /> 一か月の間にあった変化……二子だろうか。<br /> 確かにアレは七星への幻想を押し潰すに十分な存在だが、それだけでもないだろう。<br /> 影と結晶、それを追い求める事で、杜花の市子一辺倒の考えが打破されたのか。<br /> アリスとの関係も気になるところだ。<br /> アリス次第で一番と言っていたが、まさかあのアリスが妹になりたいと考えていたとは意外だ。どう考えても御姉様の立場だろうに、杜花はそんなアリスすら心酔せしめるのか。<br /> だからこそ、杜花からの言葉は嬉しく、なおかつ衝撃的だ。<br />(……素直に喜べる程、狂っている人間ならよかった)<br /> 愛しい人に認めて貰える事だけを是と出来る人間ならば良かった。<br /> どんな犠牲を孕もうと産もうと、自らに訪れた幸福を諸手を上げて喜べるようなクズなら良かったと、思う。<br /> しかし残念ながら、そんな利己的な考えも、他者の不幸を笑顔で迎えられるような思想も、火乃子には残っていない。<br /> 火乃子は、だいぶと大人になってしまった。<br /> 黙っていられるか。<br /> 杜花が卒業するまであと一年と半年程、その全てを幸せに彩り続けられる程の虚飾を、火乃子に作れるのか。<br />「火乃子ちゃん」<br />「……ん?」<br /> 頭を抱えていると、歌那多が肩をたたく。<br /> 何事かと振り向くと、眼の前に日本現代史のテキストが広がった。<br />「アジア戦火時の日本の政治形態なのですけれど」<br />「アリス先輩が無茶苦茶詳しい筈です」<br />「えー。火乃子ちゃんがいいです。――大陸国家分断後、暴走した一部軍閥が半島を嗾けて、日本海沿岸部に上陸させて、原発やら主要施設の攻撃を行ったわけですけれど、事前に防げなかったのかなって」<br />「攻撃されないと攻撃出来ない、敵が眼の前にいても弾を撃てない、そんな軍隊を持ってたんですよ、日本は。国防軍ではなく、当時は自衛隊と言います。その後沿岸部を幾つか占拠されて、米国と初めて軍事合同作戦を決行、局地戦と放射性物質汚染で、多大な犠牲が出ました。人権人権と言っていられなくなっている状況になっている事に、上の人たちはまだ気が付かなかった。侵攻軍と内患の共同作戦で占拠地域の原発が三つほど爆発、県庁市役所襲撃、そこで漸く国家非常事態宣言を発令、戒厳令が敷かれました。遅すぎる内閣の対応に与党野党から反発が起きて、離党者達が自衛隊の幕僚級を引きこんでクーデターを起こした訳です。それが今の自人会党の前身ですね」<br />「アリス様のおじい様達?」<br />「そうですね。まあ意見は当然分かれます。大陸から支援を受けていた政治組織を片っ端から排除して、自衛隊駐屯地や滑走路に群がる左翼団体を機銃で殺害。その他諸々、汚い役目を全部負いましたから。彼等を独裁者というならそうかもです」<br />「日本でクーデター成功なんて明治以来ですねえ」<br />「外圧か、本格的な被害が無い限りは動き難い風土なんですよ……解決しました?」<br />「あい」<br /> 歌那多が嬉しそうに頷く。<br /> 現代史は記憶だけすれば良いのだから、簡単な部類だ。ただ前後の因果関係を理解しない歴史教育が排除されて久しく、昔よりも面倒になっていると聞く。<br /> 日本の転換期であり、七星が以前よりも躍進する機会を得た時期だ。<br /> 元から巨大な組織だったが、応用科学の権威と研究者たち人材を集めに集め、総動員して富国強兵に協力している。<br /> 三ノ宮が人材と技術を奪われたのもこの頃だ。<br /> 三ノ宮を抜けて七星の製薬会社社長となった時田が持って行った技術の中で、その後最重要となった所謂放射性物質除去薬の理論は、七星の研究所で完成、莫大な富を生み出した。<br /> 確か、七星一郎が関わっていた筈だ。<br /> 遺伝子工学の応用品という胡散臭い代物だが、結果的に日本臣民の放射線被害を軽微に抑えた。<br /> 七星一郎は日本救国の英雄なのである。<br />(確か昔は……そっか、七星一郎は襲名性だから……なんて名前だったかな)<br /> 歌那多の背中を伺い、此方を振り返らない事を確認してから、本棚の辞書を収める箱の中に入った電子ペーパーを取り出す。<br /> 実家の商売柄、ネットで拾った事件スクラップを幾つか閲覧し、新型薬の発表の記事を見る。<br />(この頃にはまだ旧名か。32年前。2035年か。主任研究員……利根河真(とねがわ まこと))<br /> 五年後の記事には既に七星を襲名していた。余程の天才だったのだろう。経営の手腕も人間のソレを超えているとしか思えないものが多い。<br />(……32年前当時……45歳!? 今77なの!? そ、そっか。おじい様と喧嘩してた訳だし……じゃあ二子はずいぶん後の子だな……いや……遅すぎる。幾らなんでも。……七星なら、まあ独自で精子保管もあるか……)<br /> 改めて七星一郎の怪物ぶりには驚くほかない。<br /> 日本国の危機を救い、なおかつ躍進を遂げさせた大傑物だ。彼が出現しなければ、今頃どうなっていただろうかと、身震いする。<br /> 未だに大陸では戦火が広がる。今こうして日本がまだ客観的に居られるのは、幸福な事である。だが当然、平和維持活動として日米独英仏は大陸に軍事介入を繰り返している。<br /> 収まるまでいつまでかかるか……それは不明だ。<br />「火乃子ちゃん!」<br />「わっと、と」<br /> 声をかけられ、思わず電子ペーパーを腹の中に仕舞う。<br /> 歌那多は気が付いていないのか、ニコニコとしたままだ。<br />「ど、どうしました?」<br />「さっき早紀絵様と杜花御姉様に呼ばれていたけれど、何かあったんですか?」<br />「あ、ええ。大したことじゃないんです」<br />「えー」<br /> 歌那多は確か、七星系列の会社に嫁ぐ筈だ。どこの部門を担当するのかは知らないが、彼女もまたここを卒業後、この国を形成する一部分になるのだろう。<br /> これだけ純真な子が、この国の光と闇の中に放りだされてしまうかと思うと、一抹の悲しさがある。<br /> だが、それは皆同じなのかもしれない。<br /> ここで暮らす生徒達は皆ご令嬢ばかりだ。元から関わっていたり、これから関わる人々に嫁いだり、自ら立ち上がったり、様々な形で社会の歯車になる。<br /> 箱庭の中で育てられた乙女達が、汚泥に塗れて行く姿は……残酷だろうか。<br /> 三ノ宮火乃子はどうあっても逃げられない立場にいる。<br /> 個人の為に何かを悩み考え、憂鬱になれる機会は、この箱庭が最後なのだ。<br /> 故にこの学院は、尊いのである。<br /> 幸福で過ごせるならばそれに越したことは無い。最大の思い出を胸に抱き、外へと出て行けるのだから。<br /> 外とのギャップに苦しんだとしても、記憶は自らを支えてくれると、火乃子は考えている。<br />「火乃子ちゃん?」<br />「うん?」<br />「どしたの……? 悲しい?」<br />「少しだけ」<br /> 故に自分は、どうするべきなのだろうか。<br /> もし自分が杜花に告白すれば、それは悲しい想いを更に絶望へと突き落とす結果となるのではないのか。<br /> 彼女の気持ちも、自分の思い出も、全て穢してしまった。<br /> 高望みなどするべきではないのだと、後悔が押し寄せる。<br />「歌那多さん。私は酷い子です」<br />「そうなの?」<br />「はい。もし酷い子でも、ずっと仲良くしてくれますか?」<br />「酷くないし、ずっと仲良しです。火乃子ちゃんは私に色々な事を教えてくれるし、助けてくれます。火乃子ちゃんが酷い子なら、きっと世の中もっと酷い人で溢れていて、大変な事になっちゃうと思います」<br />「そう、かな」<br />「うん。ねえねえ火乃子ちゃん」<br />「うん」<br />「今日は一緒に寝ましょう。お布団入っていいですか?」<br />「……」<br /> 歌那多が機嫌よく飛び跳ねて、火乃子の布団に勝手に潜りこむ。<br /> 仕方なく、電気を消し、歌那多の隣に並ぶように寝ころぶ。<br /> 彼女はどうしてこんなに明るいのだろうか。腕の話題に触れる時のみ、彼女は悲しそうな顔をした。それを覆い隠す為なのだろうか。<br /> 歌那多の脚が火乃子に絡み、思わずビクッと跳ねあがる。<br />「火乃子ちゃん温かい」<br />「こ、恒温動物だからかな……」<br />「おててください」<br />「んっ」<br /> 彼女の右手に触れられる。<br /> 体温はない。握る力もどこかよわよわしい。やはり機能低下しているのだろう。<br />「……事故?」<br />「中学の時、爆弾で」<br /> 物騒な世の中ではあるが、街中で爆弾テロが頻発するほど治安が悪くなった訳でもない。<br /> 爆弾を用いたテロといえば、大きなものは二年前だろうか。<br /> 確か池袋の繁華街で爆弾テロがあり、仕掛けられていた爆弾が三つ起爆。百人近くが死傷したものだ。<br /> 犯行グループは『格差是正帝國士魂会』という右派系の名称を名乗っていたが、その裏で糸を引いていたのは大陸からの工作移民だという事が逮捕後判明した。<br />「怖かったね」<br />「腕はどこかにいっちゃって、体中に破片が突き刺さってね、もう凄かったみたい。記憶は曖昧なのだけど」<br />「良く助かったね」<br />「うん。危なかったって言ってた」<br />「腕は、細胞再生医療でどうにもならなかったの?」<br />「ダメだったです」<br /> 身体には傷一つ見当たらなかったが、相当の技術が用いられているのだろう。もしかすれば、義手の類は腕だけではないのかもしれない。恐らく細胞再生医療の恩恵だ。ただ、腕一本は難しかったのだろう。<br /> ……溺愛する娘を手放して学院に入学させたのは、それも理由と考えられる。<br /> 確かに目を離す事になるが、恐らく末堂家の数倍近いセキュリティに守られたこの学院ならば、軍隊が押し寄せてくるか、沿岸部から潜水艦搭載ミサイルが飛んでくるかしない限りは無事だ。<br /> 大手小売の末堂家は、そういった奴らの格好の的だ。<br />「たまに思いだすの。使用人の井上さんは、私をかばって死んでしまったみたい。とっても優しい人だった……小さいころから、ずっと御世話してくれてた、お母さんみたいな人」<br />「……うん」<br />「御無事ですか、ならよかったって。そこから私も、意識がなくて、それだけが、記憶にあって」<br /> 歌那多の震える身体を抱きしめる。<br /> 火乃子では想像も出来ない悲惨な目にあったのだ、それも仕方が無い。<br />「火乃子ちゃん。酷い子なの?」<br />「……そうかもしれない」<br />「酷い子でも良い。ずっと一緒にいて。仲良くして、嫌いにならないで……」<br />「――ならないよ。歌那多がどんな子でも。大人になっても、仲良くしよ」<br />「うん。うん。ありがと、火乃子ちゃん。あ、歌那多って呼んでくれた」<br />「う、ん」<br />「そう呼んでね。これからずっと」<br /> 歌那多がゆっくりと眼を閉じ、やがて寝息を立て始める。<br /> 自分はこんなにも良い子に、好かれるような人間ではないのに。<br /> 聞けば幻滅されるような事をしているのに。<br /> 強く有りたい。<br /> 汚い過去を引きずってこれから生きて行きたくない。<br /> この子の前でも胸を張れるような人間になりたい。<br /> ……どうすればそうなれるだろうか。そればかりは、学校では教えて貰えない。<br /> 偽る事で得る幸福か。<br /> 告白する事で被る罪悪か。<br />(ごめんなさい……ごめんなさい……市子様……杜花様……)<br /> それに――七星二子だ。彼女は姉の死をどう思っているのか。<br /> 答えを出せる日が来るだろうか。<br /> 三ノ宮火乃子には……どれが正しい選択なのか、まだ解らなかった。<br /><br /><br /><br /><br /> 眠い目をこする。<br /> 昨晩は寝付けなかった。悩みがあった事も当然だが、歌那多の寝相にも問題がある。<br /> 幼いころからのクセらしく、彼女はいつも抱き枕を抱えている。その代わりになってしまったのが火乃子だ。<br /> やたら抱きつかれるわ涎でだらだらだわこすりつけられるわで、気がついた頃には三時をすぎていた。 <br />「『憑』かれた顔ね」<br />「悩みが多い年頃でしてね」<br /> わざわざ近くに寄ってくる七星二子に悪態をつく。四時間目の授業は体育だった。<br /> 緑のラバー敷きになっている校庭には、生徒達がわらわらと群れてサッカーをしている。<br /> 大体こういうものは何処の場所何処の時代でも本業か、それに近い部活の人間が活躍する為、部活無所属で運動神経に難ありの火乃子は外で見ている事が多い。<br /> 女性社会大いに結構、アクティブでアグレッシブな社会大歓迎だが、人には得手不得手があるのだ。<br /> 上下何故か半袖ショートパンツという健康的ないでたちで病的に肌が白い二子が、此方を覗きこむ。<br />「私に何か言う事があるんじゃないの?」<br />「な――何も」<br /> ……やはり、というべきか。<br /> これも七星市子同様、人さまの顔色を窺って相手の心を鋭く見抜く力があるのだろう。<br />「そう。いいの、別に。一応言っておくけれど」<br />「……」<br />「私は貴女が憎いなんて一つも思っていない。いつでも仲良くして頂戴、三ノ宮」<br />「――もし」<br />「うんうん」<br />「もし、私が、七星市子を殺したと言ったとしても、貴女は仲良くしてくれますか」<br />「あはは。貴女に姉様が殺せる? 無理無理。どうしたの急に。貴女がどうやって姉様を殺せるの? そんな度胸が貴女に有るわけがない。呪術や魔術で呪い殺したの? まさしく魔女ねえ」<br />「あ、貴女。どこまで……」<br />「……私は別に。憶測でものを言っているだけ。でもね、俄か魔女が本物を殺すなんて事出来ないのよ。貴女は姉様が邪魔だった。解るわ、その気持ち。私だって遠からずの立場だもの」<br />「……どういう事」<br /> 二子が、直ぐ隣に腰かける。<br /> 転がってきたサッカーボールを投げて返しながら、静かに言う。<br />「貴女、主役になりたいって思った事はない? 演劇会でも、合唱会でもいい。観神山の絵画コンテストでも良いかしら。何か人から見られ、称賛され、羨望の眼差しを受けるような立場になりたいと妄想した事ぐらいあるでしょう」<br />「……その分勉強したわ」<br />「偉い子ね。やっぱり人間は、こう有象無象と居ると、その中でも抜きん出たものになってみたいと思う。私と違って、姉様は全部持っていた。どこに居ても全ての視線は彼女に集まる。その影に光るものがあろうとも、二番手は所詮、二番手」<br />「貴女がそうだと、言いたいんですか」<br />「姉様を愛してたわ。そして同時に憎らしくも思っていた。私だって姉様ぐらいの事は出来るのに。顔だって一緒なのに。でもほら、生憎こんな性格でしょう? 根暗は根暗ね。羨むだけでは何も手に入らない。行動を起こさなきゃいけない。立ち上がらなきゃいけない。私は結局一人では何も出来なかったわ。そして、自動的に代替え品になった」<br />「貴女達……七星は」<br /> 二子が立ちあがり、どこかへ行ってしまう。<br /> 話すだけ話して、此方の質問からは逃げる気だろうか。そんな失望を抱えていると、しばらくして二子が戻ってくる。その手にはサッカーボールがあった。<br />「パス練習。一応やらないと単位貰えないわ」<br />「……」<br /> 二子がボールを蹴る。が、途中で止まった。二子は……あわてたように蹴り直す。<br />「コホン」<br />「運動はダメなんですね。見たら解りますけど」<br />「貴女だって得意には見えないわ」<br />「勉強してたもので」<br /> 火乃子がボールを蹴る。が、明後日の方向に飛んで行った。火乃子はあわてたように走って取りに行き、戻ってくる。<br />「ふん……ボールが蹴れてなんだっていうんですか」<br />「同感だわ。気が合うわね。ボールで企業は引っ張れないわ。サッカー選手じゃあるまいに」<br />「ただ体力は必要でしょう」<br />「それは思うわ。ほどほどよ、ほどほど。ああやって走りまわるのは性に合わないけど、パス練習ぐらいなら丁度」<br /> ボールを蹴る。今度は二子に辿り着いた。<br />「それで三ノ宮。七星がなんっ……だって?」<br />「代替え品なんていうぐらいだから。市子の代わりに来たってことですよね」<br />「っ、そ、そうなるわね。っと、あ、三ノ宮! 返すの早い!」<br />「少しぐらい動けないと、ほら、がんばって二子ちゃん……ってああ、どこ蹴ってるんですか」<br />「ふン。で、何が言いたいの」<br />「代わりってのが、おかしい。市子は市子、貴女は貴女……っと、そうでしょ」<br />「そうではない事情があるっ、のよ。私は七星市子にならなきゃいけない。あわよくばそれを超えなきゃいけない……判断するところは、私では、ないらしいけど」<br />「超える? 判断? っと。何それ意味わかんない」<br />「……私も解らないわ。ただ思うの。高いところを目指して歩むことが悪い事だろうかって。私はね、三ノ宮、貴女達と仲良くするために、ここに来たのよ。杜花と、アリスと、早紀絵と、彼女達周辺の人々とね」<br />「……ならもう少し、性格を直さないといけませんね」<br />「悩みどころだわ。治るものかしら、これ」<br /> 教員の笛が校庭に響き渡る。集合の合図だろう。<br /> ボールを持ち上げ、二子に向き直る。<br /> 二子はただ、教員の合図に駆け寄って行く生徒達を眺めていた。<br /> どこか懐かしそうに、どこか嬉しそうに、穏やかな目をしている。<br />「幸せ。私は今、とても幸せだわ。京都で、うす暗い座敷で暮らす生活なんかとは、全然違う。ここも箱庭だけれど、ここには少なくとも個人だけではなく社会性がある。人間関係がある。楽しみがある。可愛い子もいる。気になる子もいる。だから、私は貴女を憎いなんて思っていない。友達が欲しいの。沢山」<br />「……貴女」<br /> 彼女の本籍は未だ京都にある。そして妾の子であるから、名前も本来は一条二子だ。<br /> どんな生活を送ってきたのか知れないが、彼女の口ぶりから察するに、楽しいものではなかったのだろう。ましてここまで頭が良いと、とても小学生程度と同じレベルで会話するのは不可能だ。<br /> 七光などと呼んだが……。まさかだ。<br /> あの怪物の子供が、まともな人生を歩んでいる訳がない。彼女には彼女なりの苦悩があり、努力があるのだろう。<br />「火乃子でいい。二子でいいでしょ」<br />「あっは。何よ。人の弱いところ見せたら、直ぐこれなんだから」<br />「くっ……あ、アンタね」<br />「嘘。嬉しい。ありがと火乃子」<br />「あっ」<br /> ボールを取り落とす。冷たく小さな手が火乃子に触れた。<br /> 何もかもを包み込むような笑顔。<br /> 優しく、花香る空気。<br /> 敵対者を友好者に変えてしまうほどの強烈な接触。<br /> 覚えがある。記憶がある。忘れられもしない。<br />「おーい、七星、三ノ宮、いちゃつくな、後でしろ、先生お腹空いたんだけどー」<br />「神田! 貴女は大人の女性なのにデリカシーが無いわ! もう少し配慮なさい!」<br />「ちょ、教員に何言って」<br />「や、やかましい! こういう需要もあるんだよ!」<br /> あははと、笑いが巻き起こる。<br /> 七星は強烈だ。だが、その全てが『七星』だという訳でもないだろう。<br /> 少なくとも今、二子が見せた表情も行動も、彼女自身のものだ。例え市子に似ていたとしても。それだけ、彼女達義理の姉妹は、思い思われ、似せていたのかもしれない。<br /> 二人で教員の下に駆け寄る。事情を知る子も少なくは無い為、三ノ宮と七星が仲良くしている姿は余程意外だったのだろう。数人に声を掛けられる。<br />「七星様とは和解されましたの?」<br />「……事情が入り組んでいまして。好きでもないし、嫌いでもないです、彼女」<br />「気が合いそうですのに」<br /> 愛想笑いで会話をかわす。彼女との関係は、彼女の言う通り長くなるだろう。<br /> 火乃子個人としても、いがみ合いを続けたところで得るものはないと思っている。<br /> ただ腹に据えかねるものがあったのだ。<br /> 自分を見せない人間同士というのは、どうしても深い部分で繋がる事は出来ない。<br /> しかし彼女が少しでも歩み寄ってくれるというならば、話は違うだろう。<br />「んじゃ、解散」<br /> チャイムがなる。<br /> 昼にでも誘ってみるかと思い、二子に声をかけようとしたところ、別のクラスメイトに阻まれた。どうやらそちらと昼食を取るらしい。<br /> チラリと二子と眼が合うも、火乃子はそっぽを向いた。<br /> タイミングはいつでもある。それは気にせず、教室に戻って着替えを済ませる。<br />「かーのー」<br />「ん?」<br /> 昼食を取ろうと食堂へ向かおうとしたところ、隣のクラスから忙しなく歩いてくる姿が見受けられる。<br />「こー」<br /> 一応は注意されて走らなくなったらしい、末堂歌那多だ。<br />「火乃子!」<br />「歌那多。どうしたの」<br />「はあ、はふ。昼食、一緒にどうですか!」<br /> その手には、少し大き目の紙袋が抱えられている。相当急いで食堂から貰って来たのだろう。<br />「サラダドネルケバブとハンバーガーどっちがいいですか?」<br />「じゃあサラダで」<br />「はい! どこで食べますか?」<br />「えっと……外は寒いし、ああ、温室がいいかな」<br /> 中央広場の西側にある温室だ。日ごろから気温が一定に保たれており、植物の観察所としても休憩所としても人気がある。そこそこの規模で、電気代無料の恩恵をフル活用した施設だ。<br />「あの、歌那多?」<br />「はい?」<br />「そ、その。手、握らなくても」<br />「えー?」<br /> 歌那多が積極的に仲良くしてくれるのは、火乃子としても大変嬉しいのだが、歌那多は声が大きい上にリアクションが大きく、大変目立つ。<br /> それが仲良さそうに手を繋いで歩いていたら、嫌でも目立つ。しかし握られた後振りほどくのは大変印象が悪い。<br />「……、い、行きましょうか」<br />「はい!」<br /> 視線が気になる。<br /> 大人しい、まじめ、群れないで通している人間が、とびきり騒がしい人間と一緒にいるのだ、規模は大きくとも閉鎖空間故に人間関係が親密な学院において、それは驚くべきものである。寮の同室とは知られているが、ここまでとは、といった見方が強いかもしれない。<br />「火乃子、顔赤いですよ?」<br />「な、なんでもないです」<br />「あ、なんで皆見てるんだろ、やっほー?」<br /> 歌那多が手を振ると、愛想笑いの小さなお手振りが帰ってくる。そりゃあ反応にも困るだろう。<br />「あ、小等部の子達だ。校舎少し遠いですよね? 校舎向こうだっけー」<br />「ええ。学院だと南東方向の、他の施設があまりないところにありますから、私達は用事がないと行きませんし」<br /> 校舎を抜けて温室に向かう途中、小等部の一団に遭遇する。温室で観察をした戻りなのだろう。<br /> 基本的に施設らしい施設は中央に集まり、中高は一緒になっている部活棟なども、生徒会以外は小等部別だ。<br /> 何にしても、やはり身体が小さい故に中高施設は使い難い上に、大きなお姉ちゃんが沢山いる。好んではやって来ないだろう。火乃子にも記憶がある。<br /> 故に同じ学院の中に居ながらも、接触機会といえば交流会や大講堂集会、文化祭などの大きなイベントのみである。<br />「ちっちゃくて可愛い。三年生くらいかな?」<br />「名札の色が白ですから、二年生でしょう」<br />「そっか、色分け。小中高全部制服違うのってなんでなんです?」<br />「さあ……確か、気持ちを一新出来るからとか、そんな話を聞いた事が」<br />「同じ学院内だから、そういう感覚ないのかもですね!」<br /> 小等部六年、中等部三年、高等部三年、十二年も同じ場所で暮らし同じ場所で勉強を続けるので、一新するものといえば制服ぐらいだ。<br /> 小等部は白い、セーラー服に近いもので、中高はブレザーである。中高は細部デザインが違い、スカートの柄も異なる。<br /> 制服はとてつもない人気を誇り、ネットオークションでは数十万で取引される。<br /> 生徒写真付きで顔が可愛ければ……七ケタだろう。<br /> 自分たちがどんな目で見られているかなど、生徒達は知るまい。<br /> 自分の学校がどんなものなのか知ろうと思い立ち、休日のうちにネットで裏の方を探すなんて真似をしない限りは。<br />「あ、今日は少ないですね、人」<br />「寒いから食堂で食事済ませちゃうんでしょうね」<br /> 温室に入ると、外とはうってかわり、温かな空気に包まれる。思ったよりも人が少ない。<br /> 南国に生えるような奇抜な木や蔦があちこちと生え、春から夏にかけて咲くような花もある。<br /> 火乃子と歌那多は水場の方へと赴き、ベンチに腰掛ける。池には紫色の蓮などが情緒良く、観賞用に揃えられていた。<br />「もう冬だというのに、ここはまるで別天地ですね」<br />「蓮は泥沼でも綺麗な花を咲かせる事から、不浄より出る浄として仏教で珍重されるとかされないとかだそうです」<br />「博識な事で……変に仏教は詳しいですよね、歌那多って」<br />「もしかしてほめられましたか!?」<br />「歌那多は頭がいいですね」<br />「あふ。褒められると嬉しいです」<br /> 嬉しそうに微笑み、ハンバーガーにかぶりつく。<br /> 学院に来るまでハンバーガーなど食べた事もなかったらしい。かくいう火乃子も学院で初めて食べた。<br /> 外の世界のハンバーガーと学院のハンバーガー、きっとレベルが全然違うのだろうなと、火乃子は想像する。<br /> そもそも箸もナイフフォークも用いず、袋から食べようというのがいまいちシックリ来ていない。色々と汚れてはいたが、火乃子もお嬢様である。<br /> ともかく歌那多は気兼ねなく食べられる米国食がお気に入りらしく、大半それで済ませていると聞く。栄養バランス考えた方が良いよと注意はしたが、こればかりは聞き入れられなかった。<br />「歌那多は食べても」<br />「ふとりゃにゃいれふ」<br />「おのれ……私も食べよう……」<br /> 定番のドネルケバブだ。<br /> 生地の中には野菜が多めに入っておりヘルシー、とはいうが当然牛肉も入っている。<br /> 学院の食堂は生徒、教員の他に寄宿舎への食事まで賄っているので、その規模は大きい。ましてご令嬢方に配給するものであるから、そのレベルはとても高い。<br />『観神山女学院~お嬢様の昼食~』という電子書籍は、数年前ベストセラーを記録した。<br /> ケバブにかぶりつく。<br /> 契約農家で育てられた新鮮な野菜の心地よい歯応えと野菜独特の潤いを感じる。<br /> 薄く千切りにされたキャベツと人参、そこにピリ辛いオーロラソースの濃厚な旨味が絡み合う。<br /> もう一口齧る。<br /> 生地の豊潤な芳しさと、良い牛肉でしかありえない鮮烈な味が紛う事無くマッチし、口の中の幸福を満たす。<br />「あ、これすごいおいしい。独自メニューですよね」<br />「さあー?」<br />「聞いた私が馬鹿でした。でもこういうのもあるんだ」<br /> 変わり映えのない事を繰り返すのが得意な火乃子は、チャレンジ精神が薄い。昼食もそのうちの一つで、いつも和食ばかりだ。<br /> ごくたまに気が変わって洋食を試すぐらいで、普段はご飯に味噌汁が恋人である。勧められなければ食べなかっただろう。<br />「しかし仏教語りながら肉食というのも」<br />「ええ? じゃあ歌那多は何を食べればいいんです?」<br />「歌那多は好きにすればいいと思います。それが貴女らしいから」<br />「もしかして歌那多認められてます?」<br />「認めてます」<br />「あやー。認められたかー。どうしようー」<br />「どうしようとは?」<br />「え? 認めたってことは……お嫁さん?」<br />「貴女はいまいち良く解らないところが多いですけれど、その発言に至るまでに一体どんなプロセスを踏んだのか果てしなく気になりますね」<br />「――そ、そなんだ? 歌那多、お嫁さんなのにお嫁さん貰う所でした。重婚は法律違反?」<br />「法律違反ですしお嫁さんは無いと思います」<br />「じゃあ、どうやってずっと一緒に居よう?」<br />「いや、あのですね。ここを出たら互いに違う場所に行くのですから、ずっと仲良くは出来ても一緒は無理でしょう。貴女は七星系列のお嫁さんに、私は三ノ宮の跡取りですから、たぶん東京の大学でしょう。医学部とか薬学部とか」<br />「それは寂しいです。でも大人になるってそういう事なんでしょうか? 毎日電話はしていいですか?」<br />「旦那様がヤキモチやかないならたぶん大丈夫でしょう」<br />「そうかあ。旦那様、ヤキモチやきじゃないと良いですね。ヤキモチって食べ物ですか?」<br />「う、ううんと。つまり、自分の好きな人が、他の人と楽しげに話していたら、どう思いますか?」<br />「混ざろうと思います!」<br />「左様ですね。じゃあ歌那多には関係ない話ですね」<br />「ああ! でもでもですよぉ、火乃子が、杜花御姉様の事ジーって見てる時、歌那多なんかギューってなります」<br />「え、あ、あら、そうですか?」<br />「なので火乃子は歌那多を見てくださいね」<br /> 彼女にとって、自己矛盾とは些細なものなのだろう。むしろそれよりも問題がある。まさか歌那多が自分にヤキモチなどやいていたとは思わなかった。<br /> 歌那多の言うように、火乃子は頻繁に杜花の方へ視線を向ける。近くでそれを見ていた歌那多はそれが『なんかイヤ』だという。自分の視野狭窄加減が腹立たしい。<br />「ええと……歌那多は、ううん……」<br />「火乃子、見てください、ほら」<br />「もぎゅ」<br /> 両手で顔を押さえつけられ、強制的に歌那多を凝視させられる。<br /> 灰色の瞳が輝かしい。<br /> 幼さと大人びた顔立ちが鬩ぎ合い、少女と大人の境界線でしか出しえない、瞬間の可愛らしさがある。<br /> こんなにも良い子に爆弾など浴びせかけるような奴が居たとしたら、思想信条法律国家関係なく大悪党だ。<br />「火乃子」<br />「にゃ、にゃんれふ?」<br />「火乃子はエッチは教えてくれませんでした」<br />「そ、そうれひゅね」<br />「じゃあせめて、ちゅーくらい教えてください?」<br />「な、なれぎもんへい」<br /> どういう理屈でどういう話なのか。どうしてそれがこうなるのか。なんで疑問形なのか。<br /> 真昼間、人が居ない訳でもない温室で、どうしてキスなのか。どんな思考回路があったらそこに至れるのか。本当に全部謎だ。<br />「火乃子は歌那多が好きだし、歌那多は火乃子が好き。歌那多、旦那様より最初に火乃子としたいです」<br />「は、はにゃひて」<br />「離すとたぶん逃げちゃうような気がします」<br /> それはそうだ。<br /> キスなんてしたこともない。<br /> そもそもこんなノリでするものじゃないと火乃子は思っている。いや、さっきまでハンバーガーとケバブ食べていた同士のキスというのもどうなのか。<br /> いやいやそうじゃない。人目がある、噂が立つ、杜花に……。<br />「ぷはっ」<br />「あっ」<br /> 杜花に……なんだろうか。<br /> 杜花がキスしてくれるか?<br /> 妹の話だって単なる口約束であるし、妹だからとキスする訳ではない。<br /> それに火乃子には彼女に言えない秘密がある。<br /> そんなものを抱えて彼女の近くに居れるだろうか。罪悪感で押し潰されるのではないのか。<br /> では歌那多はどうだ。<br /> 彼女がキスしたいと言っている。<br /> 歌那多は良い子だ。世間知らずだが、可愛らしく、嫌味の一つもない。<br /> 彼女には、初めて好きと言われた。自分も好ましく思っている。彼女は、例え火乃子が酷い子でも、受け入れてくれるという。<br /> なんて心が広いのだろうか。<br /> ……なんて、なんて自分は浅ましい人間なのだろうか。<br /> 歌那多は代替え品ではない。歌那多は歌那多だ。<br />「ごめんなさい、歌那多。キスは、ダメです」<br />「あう……そ、そっかあ……あ、あれ?」<br /> 歌那多の眼に涙が浮かぶ。本人も、それが理解出来ないのか、拭ってはこぼれる雫に困惑している。<br /> 三ノ宮火乃子は、彼女に泣いて貰える程素晴らしい人ではないのに。<br /> 胸を張って好きだと言って貰えるような人間ではないのに。<br /> 変態なのに。<br /> ひきょう者なのに。<br /> ただただ……虚しい。<br />「あの、えっと……あ、ああ、ほら、あそこに、猫いる猫!」<br /> 困り果てた火乃子は、ひきょう者らしく眼の前の現実から逃れ、話題を他にそらす。<br /> 温室の小窓から入ってきたのは、黒ブチの猫だ。躑躅の道の前で会った猫と一緒である。余っていたケバブの肉の欠片で誘うと、猫はトットと小走りで近づいてくる。<br />「か、歌那多。泣かないで。ほら、猫……来たから?」<br /> が、どうだろうか。<br /> 猫が嫌いなのか、猫アレルギーなのか、歌那多の顔が余計に引きつる。<br />「歌那多?」<br />「こ、この猫怖いの……痛いから……」<br />「引っ掻かれたのかな……ご、ごめんなさいね……ほら、外、出よっか」<br />「うん……」<br /> どうしてこうなる。<br /> 逃げたからか。<br /> 何故上手くいかない。<br /> 理路整然と物事を進めたがる火乃子にとって、感情という制御不能の存在の扱いは不慣れであり、ましてそれが他人の物となればなおさらだ。<br /> 好かれているのに、応えてあげられない。<br /> 好きな人がいるのに、それが本当に好きだったのか、だとしても好いていて良いのか、それすら解らない。<br /> 偽り続けるからいけないのか。<br /> それとも、これこそが呪いなのか。<br />「……ごめんね。歌那多、ごめん」<br />「う、ううん。なんで火乃子が謝るの。ダメだよ、何も悪くないよ、火乃子」<br />「応えてあげられないんです。か、歌那多は、好きです。でも、その……」<br />「また悲しそうな顔。歌那多と居ると、悲しいですか?」<br />「ち、違うの。違う。嬉しいの。私、人に好かれた事なんて、無いのに。貴女は、私を見てくれるから。だからこそ、私はどこに行けばいいのか、何を見れば良いのか、本当のことを、口に出来なくて、直視出来なくて」<br />「……難しいです。火乃子。歌那多は、あんまり難しい事解らないから、火乃子が嫌なら、言ってくださいね?」<br />「嫌じゃ……」<br /> 何と言うべきだったのか、言葉が出てこず、喘ぐ他なかった。<br /> 背を向け、走りだそうとした歌那多を引き留めようと、左手を掴む。<br />「――あぐっ」<br />「あっ、ごっ、ごめ」<br /> いや、火乃子の所為ではない。掴んだのは左手だ。<br /> 歌那多は突然声をあげて、右手を抱える。蹲り、痛みに耐えているようだ。<br /> 何事が起こったのか、歌那多の顔を見れば、額には脂汗が滲んでいた。<br /> 尋常ではない。しかし右腕が痛いとは、どういう事か。<br /> 神経接続された腕は確かに触覚もあるが、極度の衝撃などに対してはセーブがかかり、痛覚が遮断される作りになっている。<br /> 所謂幻痛……無くした部位が痛みだすという病の類だろうか。<br />「歌那多、薬か、何かないの? 腕が痛むんでしょう?」<br />「ね、猫、猫を……遠ざけて、欲しいです……」<br /> ――猫。<br /> 思わず振り向く。<br /> 温室の出入り口には、猫が座っている。黒ブチのある、首にタグを下げた猫だ。<br /> 猫はジッと此方を見つめるようにして、微動だにしない。理由は知れないが、ともかく歌那多の言う通り、猫を捕まえ、遠くに行かせる。<br /> 再び歌那多のところへ戻れば、彼女は多少疲れた顔をしているものの、痛みは無くなったらしく、平然と立っている。<br />「……保健室行こうか。少し休んだ方がいいです」<br />「うん……」<br /> 歌那多の肩を抱き、医療保健室棟に向かう。<br /> 楽しく、嬉しい筈の昼食が、ダメになってしまった。<br /> 折角、歌那多が仲良くしてくれるのに、それに全く応えられない自分がいる。<br /> そして、歌那多の体調不良は一体なんだったのか。<br /> 猫との繋がりが観えず、辟易とする。<br /> 何一つ上手くいかない。<br /> それはつまり……契約を破るからだろうか。<br /> 杜花と仲良くしたいと願って、それが叶いつつあるところで、歌那多と仲良くしたばかりに――。<br /> まさか、そんなばかな。<br />「違う。違う違う違う」<br /> 違う。<br /> それは単なる妄想だ。<br />「違う」<br />「か、火乃子?」<br /> 自分の頬を引っ叩く。<br /> 自分は今、自分の作り上げた妄念に支配されかかっているだけだ。<br /> 市子は唯の自殺。<br /> 仲良く出来ないのはタイミングが悪いだけ。<br /> そのように自分に言い聞かせる。呑み込まれたら終わりだ。<br /> 常々そうだ。<br /> 自分こそが最大の敵だったではないか。いつも肝心な所で一歩引いて前に出ない。決意はいっちょまえで行動が伴わない。<br /> 自ら道を切り開こうと努力などしただろうか。<br /> それは立ち振る舞いでも、勉強でもない。<br /> 本当に必要な事に対する努力があったか、という問題だ。<br /> いつも間接的だ。<br /> 直接触れる事を恐れている。杜花への告白とて、ただそれだけで突っ込んだ話などした事がない。<br /> 人は勝手に寄って来ない。<br /> 優しくしてくれる人すら遠ざける。<br /> 現実は、この箱庭から出た先は、もっと恐ろしいものがあるに決まっているのに、自分には覚悟が足りていない。<br />「歌那多」<br />「うん」<br />「待ってて。ちゃんと、応えるように、するから」<br />「――んっ」<br /> 杜花に告白しよう。<br /> しなければいけない。<br /> 杜花と早紀絵ならば、明確な答えを用意している可能性もある。自分は妄執に取り憑かれた酷い人間であり、人さまに好かれるような人間ではないと告げよう。<br /> そして沙汰を待つ事こそ、七星市子に掛けた呪いを解く方法だ。<br /> 迷惑だろう。<br /> 悲しまれるだろう。<br /> 築き上げた思い出は瓦解し、夢は打ち破られるだろう。<br /> だが、そうだとしても、胸を張って自分を自分と言い切る為には、どうしても、犠牲が必要だった。<br /><br /><br /><br /><br /> ……。<br /> 静かになってしまった自室で一人、歌那多がいつも座っている椅子を見つめる。<br /> 彼女は転入組だ。今年の四月に、初めて出会った。<br /> 望んでいた白萩への入居を喜んでいたのも束の間、何も知らない、何も出来ない彼女と同じ部屋になった。<br /> 四月五月は苦難の月だった。<br /> まず着替えを知らない。下着すら自分で穿いたことが無いというのだ。<br /> 外の学校に通って居た頃は、常にメイドがついていたという。<br /> 辛うじて最低限として食事は一人でとれるものの、用意、片づけなど以ての外、当然掃除洗濯など出来はしないし、刃物一本使った事がないという。<br /> 身の回りの事一つ出来ない。<br /> 尻の拭き方まで質問される始末だった。<br /> 成長した赤ん坊、とでも言うだろうか。とにかく手間がかかり、同室の火乃子は仕方なくその面倒を見ていた。<br /> 末堂は一体どんな娘にする気でいたのか。いまどきの女がこれでどうする。<br /> 多少の怒りはあったが、しかし。それでも許されてしまうのが、末堂歌那多という少女だった。<br /><br />『――ありがとう、火乃子ちゃん』<br /><br /> 無垢に笑い、打算無く礼を言う彼女の笑顔を怒りでブチ壊したくなかったのだ。<br /> まるで母親にでもなったような気分だった。そして赤ん坊は飲み込みが早い。教えれば教える程に彼女は知り、習い、真似をし、知識に貪欲になって行く。<br /> 自らが自らとして立ち上がる喜びを覚えたという。<br /> 二か月、三か月と経つにつれ、不思議な彼女は次第に周りにも受け入れられるようになる。<br /> 酷い子供っぽさは相変わらずだったが、何を話しても笑顔で、何に対しても興味を示し、自らの意見も口にする彼女は、会話相手として最適だったのだろう。<br /> 距離があった同級生の寮生達に慕われ、クラスでも彼女は中心にいる。<br /> 彼女が図らずとも仲間が付き、彼女は守られて行く。<br /> 火乃子の手から離れて行く一抹の寂しさがあった。<br /> 自分とはまるで違う人種だ。<br /> 元から自分のような奴と居る人間ではないという事は、解りきっていた。<br /> しかしそれでも、末堂歌那多は三ノ宮火乃子を慕っていた。<br /> まるで自分には必要不可欠な人物であるように。<br /> たった八、九か月。だが幼い彼女にとっては、かけがえのない月日だったのかもしれない。<br /> 彼女の好きは、何の好きなのか。<br /> キスがしたいというのは、単なる友好の証だろうか。<br /> いいや、まさか。<br /> 未来の旦那と比べられて、火乃子が良いと言われたのだ。<br /> 胸が熱くなる。<br /> 思いだして頬が火照る。<br /> 好かれている。<br /> 肉親のような気持ちではなく、他人としてだ。<br /> 杜花を想い、杜花だけを見つめてきた火乃子は結局、彼女に振り返って貰える事はなかった。<br /> 自分の力ではどうしようもなかった。七星市子が居ないからこそ、杜花が此方を、チラリと、同情的に取り扱っただけだ。<br /> 大して仲の良い友達が居る訳でなし、他の子達から好かれている訳でもなし。<br /> 自分は人間としての魅力が劣っていると、自虐してやまないような自分を、歌那多は好いてくれている。<br /> 彼女なら、戸惑う気持ちを受け止めてくれるだろうか。<br /> 彼女なら、それに応えてくれるだろうか。<br /> 三ノ宮火乃子は卑怯な人間である。<br /> その事実を覆い隠そうとする事、それ自体が卑怯に他ならない。<br /> 自己肯定する。<br /> あちこちと気を回して何が悪い。<br /> 好きだったものを延々と好きだと言い続けるなんて事は無理だ。<br /> これから自らの心の支えになるものを、手近なところで見つけて、何が悪い。<br /> 歌那多が好きだ。<br /> いざとなれば、許嫁だろうとなんだろうと、引きずりおろしてやる。<br /> 相手は七星だろうが、所詮末端だ。<br /> 三ノ宮医療製薬次々期頭首の名は伊達ではないのだ。適切な時に、適切なものを使って何が悪い。<br /> ……ああだからそうだ。<br /> この気概が、まるで足りなかった。<br /> 欅澤杜花を……奪う覚悟がなかったのだ。相手が七星市子だろうと、眼の前から簒奪してやるという勢いの一つもなかった。<br /> ――つまり、自分が欅澤杜花に抱いた感情とは、その程度だったのだ。<br /> 裏側からジリジリと、妬むだけ妬んで、やったのが魔術か。<br /> お笑い草だ。<br /> そうだ。<br /> だからこそ、線引きをしなければいけない。今の今まで積み上げたものを否定しなければいけない。<br /> 犠牲を生まねば、新たなものを作る事は出来ない。平成期から低迷した日本国の大転換と似る。今、まだ犠牲を払い続けている。それだけを背負い込むと、覚悟したからこそだ。<br /> 杜花は怒るだろうか。<br /> 巨漢をぶちのめすだけの杜花の拳はきっと、悶絶するほど痛いだろう。だが、殺されないならば安い代償だ。<br /> ――払おう。<br /> そして、得るものを得よう。<br /> 火乃子は自分の椅子に向かい、一時間後に控える探索のおりに、どのような事が起こりえるか予測し、どう話を切り出し、どう逃れるかを書き出して行く。<br /> 大したものを持たない自分に出来る事は、考察し、先を読み、切り抜ける道筋を立てる事ぐらいである。<br /> まずは今自分の身の回りで何が起こっているのか、再確認する必要がある。<br />「……市子、杜花、アリス、早紀絵、二子、私。影、魔女、結晶、噂」<br /> 紙とペンをとり、フローチャートを描いて行く。<br /> 市子の死後一年と少し。<br /> 今になって七星市子を取り巻いていた人々が動きを見せている。<br /> 七星二子の出現がタイミングなのか、それは定かではないが、少なくとも杜花近辺の人間関係に変化が見られる。<br /> 自分も恐らく、その内に入っているだろう。欅澤杜花が動くにつれて、徐々に事が進んで行く。<br /> 因果関係は不明だが、早紀絵の話から汲み取るに、数か月前から噂になっていた黒い影と七星市子、そして彼女達が探す結晶には繋がりがあると見えた。<br /> 確かな線で結べるものではないが、七星二子の出現が、それらを繋いだと考えてもおかしくはないだろう。<br /> 黒い影。<br /> 皆はそれを七星市子の亡霊と言っていた。杜花はそれを許容出来ず、噂を潰して回っている。<br /> 二子も同様の行動原理が存在したとしても不思議はない。だが、これは他の意図もありそうだ。<br /> 結晶。<br /> 詳しくは聞かされていないが、その結晶とやらが影に繋がるのか。<br /> それは……何だ?<br /> まさか魔術的なものでもあるまい。<br /> 火乃子は趣味として魔術を齧っただけであり、本気で信じているものではないのだ。二子はまるで市子が魔女であるような言い方をしていたが、二子の言葉を真に受けるほど火乃子は馬鹿ではない。<br /> 七星市子が隠した。<br /> それが影を発生させている。<br /> そしてそれを、杜花周辺は探している。<br /> その過程で、杜花、アリス、早紀絵の構造に変化が起こった。<br /> 以前よりも親しく……以前よりも近しい。<br /> 七星市子が原因であり、状況を作ったのは、七星二子ではないのか。<br /> その結晶とやらを探すのに、杜花達の手を借りる必要があったのか?<br /> あえてトラウマを穿り返すような真似、する必要はなかろう。<br /> する必要があったからこそ、したのだ。<br /><br /> ――結晶探しとやらは、むしろオマケではないか?<br /> ――杜花達の関係を変化させる事こそ……目的では?<br /><br /> ではなぜそうなる。<br /> 動機が不明だ。<br />(市子を起点に、一年後、杜花様と二子が。アリス先輩と早紀絵先輩が……あれ……なんかどっかで観た構図だ……)<br /> 何か、おぼろげな既知感に襲われる。<br /> このような特殊な人間関係、そう簡単に道端に落ちている訳がない。<br /> そもそも、火乃子はそんな状況が出来得る学校にはココしか通った事がない。<br /> ではフィクションか。<br /> 漫画かアニメか小説か、ドラマかもしれない。<br /> 休日は自宅に帰って、山のように積まれたサブカルチャーを消費するのが習慣であるからして、似たようなものがどこかにあっても、おかしくはない。<br /> そもそも百合モノ好きで、数十年前に流行った女性同性愛モノの絶版やらリメイクを片っ端から蒐集している。<br /> その中で学園物……などと行ったら、それほど掃いて捨てるほどある。<br />(いやいや……だからなんだと。現実と幻想の区別がつかない、とか大人に文句言われそう)<br /> 今ここで起こっている不可思議な事も、怪しげな人間関係も、全ては現実だ。逃避はいけない。しかし頭の片隅に置いておいても問題はないだろう。<br /> それよりも問題は自分だ。自らに咎があるかないか。<br /> あろうが無かろうが、既に全てを告白すると決めているが、黒い影、市子の死、そして二子、魔女の因果関係は不穏である。<br /> 二子は冗談、憶測であるとして、火乃子が魔術を使ったのではないかと口にしたが、本物の魔女たる七星市子にはそんなものは通用しないと言っていた。<br />(早紀絵先輩も、魔女について知りたがっていたみたいだな……)<br /> 黒い影や魔女について何か知らないか、と質問を受け、影の方について答えた。火乃子は学院の魔女についての知識などたいしたものはない。ただあるのは……。<br />(――学院の魔女って確か、人の心を読んだり、幻覚を見せたり……魔性の魅力を……持っていたり)<br /> ……だから市子、そして二子はそれに該当するのだろう。<br /> ……では、その噂は何処から来た?<br /> 似たような造形の『魔女像』は、もっともっと、市子が頭角を現す前から存在した。過去にも同じような人間が居たのだろうか。<br /> あんな……あんな怪物じみた人間が?<br /><br /> ……。<br /><br /> ……何時の間にか一時間以上経っていた事に気がつく。<br /> 手は最初のフローチャートと『言い訳』と『会話誘導』を書いた所でピタリと止まっていた。<br />「……あ、れ?」<br />「――どうしたの、火乃子。急に黙り込んでしまって」<br />「え?」<br /> 椅子を軋ませ、振り向く。<br /> そこには七星二子が居た。<br /> 別段と驚きはないが、驚きはないが……何故、無いのか。<br />「折角招き入れてくれたのに、黙られたら悲しいわ」<br />「あ、そう、だっけ。ごめん」<br />「ううん。貴女って物事に向き合うと周りが見えなくなるタイプよね。マジメで良い事だわ。ただ、周囲もたまに警戒していないと、突然足を掬われるかもしれない。注意した方が、いい」<br />「そう、ですか。御忠告どうも。そっか、二子が、いたんだっけ。すみませんね、もてなせなくて」<br />「そろそろ十七時になるけれど、貴女、何か約束があるのではなくて?」<br />「あっ! そうだった。ええと……二子」<br />「うん?」<br />「考えてみたけれど、やっぱり、私は市子を殺してない。あれは、自殺です」<br />「――貴女の思考は面白いわね。ただ一人だけでそこまで想像出来るのだから、やっぱり頭が良いわ。少ないのは因果ね。ただ、これ以上は知らない方が、貴女の為。友人として警告するわ」<br />「正解……? 何の、何に対しての、正解?」<br />「杜花周辺を取り巻くその全ての答え。ねえ、火乃子。魂って何か解る?」<br /> この子は、何を言っているのだろうか。<br /> 先ほどから、そこに二子が居るのに、二子としてハッキリ認識出来ずにいる。若干のダルさと倦怠感に、ずるずると足を引っ張られているようだ。<br />「私、宗教は門外漢なので」<br />「七星一郎曰く、魂とは、記憶よ。良い答えだと思うわ。ただ貴女は、作られたレギュラー」<br />「どういうこと……」<br />「……貴女の思考が、彼女達を導くかもしれない。貴女は主役にはなれないけれど、重要なファクターにはなりうる。頑張ってね、火乃子。私は貴女の友達だから。友達になれたから。使ってごめんね」<br />「う、うん。ありがと……う……?」<br /> ……。<br /> 二子が……二子が、いた。<br /> 気がした。<br /> 今確実に、誰かと会話を交わしていたはずだ。<br /> だがどうも、何もかもが曖昧で、手に取れない。<br /> 記憶の中を模索しても、明確なビジョンが、つい数秒前の事が思いだせない。<br /> 時計を見る。<br /> もう五時前だ。多少ダルさがあるも、まさか杜花達との約束をスッポかす訳にはいかない。幸い待ち合わせ場所は寄宿舎のすぐ裏だ。<br /> 火乃子は上着を羽織り、自室を出て勝手口から裏の林に向かう。<br /> 辺りは既にうす暗く、ライトが無ければ歩き難い。<br /> 枯れ葉を踏みしめながら奥へと進んで行くと、やがて二人の姿を認める。早紀絵は普通に制服の上からジャンパーを羽織っていたが、杜花はスカートを校則以上に短くし、打撃戦用のプロテクターを付けている。<br />「……えっと」<br /> 出鼻をくじかれる。<br />「ああ、モリカね。これでいいの。以前は酷い目にあったんだ」<br />「危険度はものによるみたいですから、危険を察知したら直ぐ逃げてくださいね」<br /> 相手は幽霊みたいなものではないのか。<br /> しかし二人が言うのだから間違いあるまい。進行に問題はない。<br />「済みません、遅くなりました」<br />「いーよ。ところでどのあたりだね」<br /> 二人を先導して前を進む。<br /> 杜花は終始当たりを警戒し、早紀絵はおっかなびっくりとついてくる。<br /> 一年前の記憶を掘り起こしながら、場所を探って行く。遠い場所ではなかった。同じような景色が続く林の中を潜り抜け、十分ほどで記憶にあるような場所に辿り着く。<br /> 種類は解らないが、三本の木が特徴的に並び、線で結べば三角形になるように生えている。<br />「ここです。ここで魔方陣を描いて、呪文を唱えました」<br />「特徴的な場所ですね。確かに、何か埋めるならありそうです」<br />「掘ってみるかあ……土弄りなんて何時以来だろ……」<br />「昔は掘りましたね」<br />「ああ、モリカにビンタされてねえ……」<br />「ビンタ?」<br /> それは――、一体どんな状況で、ビンタをされて土弄りをするハメになるのだろうか。<br />「小等部に、大人の言う事を聞かない、悪戯はする、時間は守らない、授業勝手にサボる、そんな子が居たんですよ」<br />「あえなくその子はモリカにビンタを食らって、調教されてしまったのでした、憐れ」<br />「名誉の為に私からは口にしませんよ」<br />「あっはっは……いえねえ……」<br /> 早紀絵が小さなスコップを手に持ち、枯れ葉を退かせながら土を掘って行く。見ているだけというのも後輩として問題なので、火乃子もそれを手伝う。<br />「腐葉土だからアチコチやわらかいな……逆に固めた所が怪しいかな」<br />「早紀絵先輩はなんで杜花さんにビンタなんて食らったんですか」<br />「あいやその……私ね、ひっどい子供だったのよ。んっ。これは……石か。親の言う事すら聞かない子でさ。授業抜け出して、花壇荒らしてたの」<br />「酷い子もいたものですね」<br />「言わんでくれ火乃子。まあそれで、理科の授業で花を植えてた杜花に見つかってね、ビンタを二発食らった挙句、柵を乗り越えて逃げようとした私をひっつかんでひっ倒して、強制労働に従事させられたわけよ。花壇抑留という」<br />「ええと……良く生きてましたね」<br />「小等部じゃなかったら今頃死んでただろうね……」<br />「まるで人をバケモノみたいに言わないでください。ほら、サキ頑張って掘って」<br /> それが馴れ初めなのか。だとしたら一体、どんな理由でここまで仲良くなれたのだろうか。<br /> 恋愛云々は抜きに、欅澤杜花と一番仲が良いのは、間違いなく早紀絵だ。杜花も早紀絵を信頼しているように、遠くから見ていて良く感じ取れた。<br />「どうやって……仲良くなったんですか?」<br />「その場だよ」<br />「ええ? ビンタされて仲良く? 早紀絵先輩って、その、ま、マゾヒスト?」<br />「最初こそ否定してたんだけど……最近はまるで否定出来る気がしないんだよねえ。ねえモリカ、ちょっと罵ってよ」<br />「無駄口叩いてないで早くしてくださいよこのスケコマシ。ミカンの腐った部分」<br />「ああ、自分がダメ人間だって実感出来る」<br />「え、ええ? も、杜花さん?」<br />「……コホン。リクエストに応えたまでです。まあ、ほら、仲が良いと判断してくれれば」<br /> 恐らくだが、杜花は半分以上本気で言ったのではないだろうか。言葉に籠る感情が違う。<br /> 確かに、早紀絵はスケコマシだ。仮にも積極的に杜花を狙う立場にありながら、あちこちの女の子に手を出しているのだから、言われても仕方が無い。<br /> それを考えると、杜花も早紀絵に対しては満更でもないと見える。<br /> 早紀絵にアリスに、恐らくは二子。<br /> 杜花も苦労人だ。<br />「ないですねえ」<br /> それから二十分程だろうか。三角形の木の内側は全て探し回った。<br /> どう考えても、元から積もっている枯れ葉が腐葉土化したものしか見当たらない。杜花の用意した手拭いで手を拭きながら、結晶の所在を疑問視する。<br />「ないね。となると、木の上とかか」<br />「結晶の直上に出たりするものでは」<br />「経験上違うね。モリカ」<br />「離れた距離にも効果が及ぶようです」<br />「あの、こんな事を言うのもアレなんですが……それって、結晶って何なんでしょう?」<br />「魔力結晶……」<br /> 杜花が呟く。その言葉は明確だが、含みがある。懐疑的なのだろう。<br /> ――このあたりだ。<br /> 会話に食い込む。流れを作る。<br /> 自分の進めたい会話を、推測で成り立たせる。<br />「恐らくは二子の受け売りですよね。アレが本当の事を喋るとは思えないのですが」<br /> そこには杜花も早紀絵も頷く。<br /> それは結晶であり、何かしら不可思議な事象を起こしえる。魔力なんてものを信じていない火乃子からすれば、それはもっと別の物として見て然るべきだ。<br />「何か、機械的なものなんじゃないでしょうか。影というのも、ホログラムでは? ホログラムアバターなら、人間の形にも見せられるでしょう。大きな電源も必要ない」<br />「勿論、その可能性もありますが。その影が物を飛ばしてきたりした場合、貴女はどう思いますか?」<br />「……飛ばして来たんですか?」<br />「飛んで来たよ。ビュンビュン飛ぶ。私等に向かってガンガン飛んできたよ。アリスも経験してる。私達だって馬鹿じゃない。ただの影なんて言うなら、なんかの端末なんじゃないかって思うけど、あんな小さいものが、反重力装置備えている訳がないでしょう」<br /> ここまでハッキリ言われてしまうと、火乃子も否定出来ない。<br /> 反重力装置なんてものは、理論がやっと現実に近づきつつある段階のものだ。<br /> 1キロの物体を3センチ浮かせるのに、規模にして五階建てのビル一個分に相当する装置が必要になる。<br />「だから、それが何かが解らないにしろ、魔法とか魔術とか、それを込めた魔力の結晶、と呼ぶほかない」<br /> ――流れとして、このあたりが問題だ。市子の名は地雷に等しいが、出さねばならない。<br />「市子様が……魔女、だからですか?」<br />「悪い噂としての魔女ではありません。彼女には、何かしら不思議な力があった。私は――それを受け入れていたし、心地よく思っていた。だから、魔力なんでしょう、きっと」<br /> 辺りに積み上げた枯れ葉を散らしながら、寄宿舎の方面を望む。<br /> ほんの少しだけ距離はあるが、寄宿舎二階の窓は窺えた。<br /> 次第に辺りも冷え込んで来ている。閉寮まではまだ時間はあるも、ここから先活動しようと思った場合、時間外活動届を出さねばなるまい。途切れてしまう。タイミングが、悪い。<br />「あ、時間気にしなくていいよ。三人分出してあるから。いやあ、綾音ちゃんは杜花には甘い甘い」<br /> 早紀絵の準備の良さに、今は感謝するほかない。<br />「サキには厳しいんですか?」<br />「ま、それが可愛いのだけれど、彼女」<br />「聞きたくない話題ですね。三ノ宮さん、他に心当たりはありませんか?」<br /> とうとう来た。<br /> これを待っていた。そしてコレこそが、三ノ宮火乃子という人物像を崩壊させる言霊だ。<br />「ええとですね」<br /> 黒い影。<br /> 世間では市子に見えたと言うが、火乃子にはハッキリ見えなかった。<br /> 黒い影は呪文詠唱終了後に、歩き回るようにしてフラフラと火乃子の周りを漂った後、遠くに消えてしまった。<br /> 何か……どこかで、見た事のあるような動きだ。<br />「――仮に、ですが」<br />「はい」<br />「それが、移動するものに隠されていたとしたら、どうでしょうか」<br />「そりゃ奇抜な発想だね。なんだろ、鳥? ネズミ? 夜だから鳥は無理か。ネズミが背負うにはでかいな……」<br />「例えば」<br /> 例えば――猫とか。<br /> 思い返せば、あの猫が首から下げていたタグのようなものは、丁度早紀絵の示す結晶の大きさ程度ではなかったか。<br /> 手紙がついているというが、それは首輪内部に入れれば、入らない事もないだろう。<br /> あの動き回るような影。<br /> 近寄り、離れ、様子を窺うような仕草。<br />「猫です。そう、この近くで良く見る、黒ブチの猫」<br />「そりゃ……なるほど」<br />「何時の間にか、首輪をつけていました。首輪には、タグのようなものが、ついていたと思います」<br />「モリカ、そいつだ。カノは猫好きだもんね」<br />「それで、実は、ここからが問題なのですが」<br />「……何か、あるんですか」<br /> これは推測だ。<br /> 直感から導き出した関連性としか言えない。<br /> あの猫を見ると痛いという、末堂歌那多である。<br />「先ほど、機械ではないという話になりましたが、やっぱり私は機械的なものなんじゃないかと思います。今日、昼休みに歌那多と昼食を取っていたんです」<br />「仲良いね。ふふ」<br />「茶化さないでください。歌那多は猫を見た途端」<br /> 途端。<br /> その先を、どう説明するべきか、先ほどずっと考えていた。誰にも言わないと約束したものだ。彼女の右腕がサイバネティクスで出来ていると、言わねばならない。<br /> 人に言わない、という約束は破る。<br /> 破るが、相手は杜花と早紀絵だ。彼女達は絶対にばらさないという自信がある。そもそも自分たちが今している事こそ、人におおっぴらに言うものではないからだ。<br />「三ノ宮さん。何か、言い難い事ですね。サキ、誰にも喋らないと約束してくれたら、おでこにキスしてあげます」<br />「拷問されても喋らない。絶対だ、絶対にだ」<br /> 計算通り、成る。<br /> もし、猫がその害悪を振り撒いていたとしたら、それを取り除くことによって、今後歌那多の負担が減る。<br /> 心の中で何度も歌那多に謝る。<br /> 申し訳ない。<br /> だが、この人達は、約束を破るような人物でないことは確かだ。<br />(歌那多。ごめんね。私酷い子だ。約束一つ守れないや。でも、解って。私は、胸を張りたいの。今後絶対、貴女に嘘を吐かない為にも)<br />「途端、苦しみ出しました。歌那多の右腕は、神経接続型全関節稼働義手なんです」<br />「うえええ!? ちょ、超高級品じゃない! で、でも末堂の娘ならあるか。全くそんな気配がなかった」<br />「私は知ってましたよ。彼女の手を掴んだ時、明らかに人間の肉の手触りではありませんでしたし、体温が無かった。最近不調のようでしたね。体幹バランスも悪かった。身体が右に傾いていましたから」<br />「どんな観察力よ」<br />「……細胞再生医療ではどうにもならなかったそうです。ともかく、あれは大変精密な機械です。勿論普通の電波や電磁波を受けた程度で不具合など起こりえないでしょうが、使用者の状態をモニタリングし、データを送受信する機能はついている筈。みなさんの知っての通り、怪奇現象を引き起こす程の強い、説明出来ませんが、強い発信があれば、精密機械に不具合も起きるでしょう。歌那多は失った右腕が痛いと泣いていた。以前にも経験しているんでしょう。不具合が起こり始めたのは学院内で間違いが無い。そして、その流れから行けばやはり」<br />「結晶が、何かしらの不具合を誘発していると。後で二子に迫りましょう。今は、猫を」<br />「猫の問題解決出来れば、歌那多も救えて、私達も目的が達成出来る。一挙両得じゃない」<br />「お願いです、私は、誰にも喋らないと、約束しましたから……」<br />「言いませんよ。私達に得がない。それに、末堂さんも、三ノ宮さんも、私達の可愛い後輩です。ねえサキ」<br />「うんうん。寂しかったら慰めてあげるからね」<br /> ――そして、まだだ。<br /> まだ喋る事がある。<br /> むしろ、これこそが本番だ。<br /> このタイミングを逸したら、火乃子はまた逃げてしまう。<br /> 約束を破り、挙句虚飾だらけの自分を繕い続ける事になる。<br /> それでは、もう今後、誰にも胸を張る姿を見せる事は出来ない。<br /> そんな人間が、老舗製薬会社の代表など、一体誰が慕う。<br /> 誰が寄ってくる。<br /> 誰が認める。<br />「お二人に、隠している事があります」<br /> 駆け出そうとした杜花が足を止め、早紀絵も火乃子に向き直る。言葉の節々から、ただならぬものを感じたのだろう、杜花の顔は険しい。<br />「私は、魔術儀式を行いました。市子様の亡くなる、三日前です」<br />「――なるほど。それで?」<br />「私は、市子憎しと思っていました。市子さえいなければ、貴女が、私に振り向いてくれると、当時はそう思っていた。私は彼女に居なくなって欲しいと願い、儀式をしました。それから三日後、彼女は亡くなった」<br />「カノ?」<br />「――……」<br /> 杜花の沈黙が、恐ろしい。<br /> これほど冷たい目を、人間が出来るものなのか。<br /> まさしく、今の杜花は火乃子の知らない杜花だ。<br /> 優しく、柔和な笑みを浮かべ、冗談を言うような彼女ではない。<br /> 心の底から冷え切ってしまった、絶望を知るものにしか出来ない瞳が、火乃子を貫いている。<br /> 奥歯が震えるのを噛みしめて止める。<br /> ここまできて、黙れない。<br /> 今自分は、悲しみを作っている。彼女の悲しみを深めている。自らの解放を願うばかりに。<br /> だが回避は出来ない。<br /> それはやってしまった事だ。終わってしまった事だ。言わずには居られないものなのだから。<br />「……因果関係を、疑いました。冗談半分、魔術なんて趣味でしかない。そんなものが叶う筈がない。そういった前提に、彼女を呪いました。魔法なんて、魔術なんて、あり得るわけがない。今もそう思ってます。だから、私が結晶について、機械的な、ものではないかと口にしたのも、希望的観測でしかない。魔法なんて物は無く、すべては科学で説明がつくものならば、私の呪いなんてものは、冗談で済む」<br />「……三ノ宮さん」<br />「ハイ。何でしょうか」<br />「黙っていれば、そんなことは解らなかった。私も貴女に憎悪する事もなかった。貴女は御望み通り、私の『妹』になれたでしょう。望み通りの思い出をつくる事が出来たでしょう。何故、今ここで、口にしましたか?」<br />「モリカ、それは流石に」<br /> 言いすぎ、という、早紀絵の言葉を手を出して制止する。<br />「……どうしようもなく、貴女が好きだったからです」<br />「残念ながら。私は今、嫌いになりましたね」<br />「杜花さんは、市子様に気にいられるように、努力、しましたよね」<br />「――ええ」<br />「私も、貴女に気に入られたくて、努力しました。ただ、方向を間違えてしまった。そもそも、貴女は市子様しか見ていなかった。貴女に気に入られたいが為に、躍起になって勉強して、所作を身につけ、同じ趣味を持ち、貴女だけを見てきました。小等部の頃からずっとずっとです。私は、勝手な話ですけれど、貴女に作られたようなもの。けれど、それでもダメだと、結局市子様は超えようが無いのだと、解ってしまいました。だから、あの魔術儀式がその締めくくりだった。貴女への思いも、市子様への憎悪も、それを区切りに終わらせようと思ったんです。小さな呪いは幾つも掛けました。当然何の効果もない。解り切った話です。だからこそ、あれが最後だった。聞く筈が無い、効果などあるわけがない。なのに、あのタイミングで、彼女は、自殺してしまった」<br /> どう、なる。<br /> どう、する?<br /> 全ての思いは吐露し尽くした。<br /> 杜花は沈黙を守っている。<br /> 早紀絵は、火乃子と杜花を見比べ、そわそわとしていた。<br />「だとしても、今言う理由は解りません」<br />「歌那多に」<br />「……末堂さんに?」<br />「歌那多に、好きだって言われたんです。誰に見向きもされなかった私に、彼女は初めて好意を向けてくれた。三ノ宮の娘だ、なんて打算の無い、純粋な好意です。とてもうれしかった。私は、こんな私でも、好いてくれる人がいるんだって。なのに、私は酷い人で、嘘ばかりで、虚飾ばかりで、決して、彼女に胸を張る事が、出来ない人間だから。私は――」<br /> 清廉潔白で、多くに慕われずとも、ただ一人の為に堂々とあれる人間で居たい。<br /> 欅澤杜花という人を見本に作られた、不甲斐ない出来そこないだとしても、そんなものを好いてくれる人の為にありたい。<br />「わた、わたし――こんなに、立派な人を、見本にした、のに。で、出来そこないで……。せめて、あの子の前だけでも、あの子に慕ってもらえるだけの人間で、有りたかったんです。ごめんなさい……ごめんなさい……ッッ」<br /> 地面に直接膝をつき、頭をこすりつける。<br /> もうこれ以外の謝罪方法が思い浮かばなかった。<br /> 蹴られようが殴られようが構わない。それで生きていれば安いものだ。<br /> 例えそれが荒唐無稽の魔術なれど、憎悪によって行動した、という事実に変わりは無い。<br />「モリカ。カノはさ、貴女が好きだったわけよ。オカルトに頼っちゃうくらいさ。ただちょっと、まがった方に向かっただけ。私だって市子邪魔だったもん。そんな知識あれば、私だってやったよ。というかどっかいかないかなとは、常々思ってたよ」<br />「三ノ宮さん」<br /> 杜花が近づく。サクサクと、枯れ葉を踏みしめる音が地面を伝わる。<br />「モリカ!」<br /> 早紀絵の声が林に響き渡る。火乃子は頭を下げたまま、微動だにしない。<br />「三ノ宮さん」<br />「――はい」<br />「確認、行きましょう。貴女の想いは解りました」<br />「あ、あの」<br /> 杜花の手が、火乃子の肩にかかる。判決が下される。<br /> 甘んじて、受け入れよう。<br />「――貴女に恨まれた程度で死んでいたら、七星なんてとっくに死滅してますよ。忘れましたか。七星は、日本で最も強大で様々な恩恵を与えると同時に、日本で最も恨みを買っている一族です。それに、本物が、素人に負けたりしませんよ」<br /> ――俄か魔女が、本物を殺す事なんて出来ない。<br /> 二子の言葉がよみがえる。<br />「でも、気になります。もし結晶が魔法などではなく、機械だったなら……二子はうそつきであるし、あらゆる事象の説明がつかなくなる。サキ」<br />「ぬふふ。はいよ」<br />「躑躅の道の方をお願いします。私はここ周辺を。三ノ宮……いいえ。火乃子は、中央広場への道を」<br />「も、杜花、さん?」<br />「――私は、私に対する好意を、無視し続けました。結果に齎されたものが、貴女の不用意な行動だとするのならば、私にも責任がある。貴女を見て思いました。私の気持ちが市子御姉様に通じなかったのなら……もしかしたら、貴女よりも酷い事になっていたかもしれない。私は、幸福な人間なんですね……行きましょう」<br />「は、ハイ!」<br /> 杜花の表情が、和らぐ。作ったような顔ではない。<br /> いつか見た、市子が健在であった頃の、本当の顔だ。<br /> ――成った。<br /> 立ち上がろうとして、力が抜ける。<br /> 思わず逡巡してしまった。<br /> 膝が笑っている。余程の緊張だったのだろう、自覚はなくとも、肉体は正直だった。<br />「欅澤杜花伝説。睨んだ後輩の腰抜かす」<br />「やめてください……そ、そんなに怖かったかな……対戦相手睨む半分ぐらいだったんですけど」<br />「対戦相手の精神めっちゃ強靭だな……」<br /> 総合格闘技で彼女と対峙する人達に同情せざるを得ない。<br /> ともかく火乃子は立てそうになく、探索にも参加出来る気配がない。早紀絵に肩を借りて立ち上がる。<br />「いったん戻ろう。火乃子置いてから、猫探索だ。夕食の余りも繕うと良いかな」<br />「ご、ごめんなさい、早紀絵先輩」<br />「……いいって。私さ、貴女の事、ちょっと馬鹿にしてたんだよ。杜花好きなくせに、なんか後ろでコソコソしてるだけで、大した事ないなってさ」<br />「大いに反省した結果がコレです」<br />「だからさ。凄いね、本当に恋すると、人は変わるもんだね」<br />「あ、ぐ……」<br />「くふふ。なんだ、可愛い顔出来るじゃない。歌那多はアレでしょ、七星系列の嫁に行くんでしょ」<br />「……はい」<br />「ぶん盗っちまおう。三ノ宮積年の恨みも多少晴らせるだろうさ。楽しみだねえ」<br /> 早紀絵に肩を借りたまま、寄宿舎へと戻る。<br /> 勝手口から入ろうとして近づくと、中から鷹無綾音が顔を出していた。何事かと思えば、その手には残飯を乗せた皿がある。<br />「げ、も、杜花に早紀絵。火乃子も。あ、外出てたんだよね、そっか、アハハ……」<br />「綾音さん、それは」<br />「ん? これ? なんだろう。お腹すいちゃって?」<br />「綾音ちゃん、残飯片手にそれは無い。もしかして餌やりかな?」<br />「あ、あんまりやるなって言われてるの。誰にも言わないでね?」<br /> 綾音は頭をポリポリとかきながら、気恥ずかしそうに笑う。<br /> なるほど、猫に餌やりをしていたのは綾音だったのかと納得する。<br />『あまりやるな』と注意されていると言う事は……ちゃんと当番がいるのだろう。学院長だろうか。<br /> そんな話をしていると、やがて猫の姿がチラホラと見受けられるようになる。<br />「こりゃ都合良いや。カノ、どれか解る?」<br />「まだいませんね。杜花さん?」<br />「……林の奥」<br /> 杜花の言葉に、他の三人が林の奥に目を向ける。<br /> ゆらゆらと、歩くような、黒い何かがいる。<br /> あの日観たもの。<br /> 全身の肌がぶつぶつと粟立つ感覚に身悶えする。<br /> 出ては、消え、出ては、消えを繰り返していた。やがて、それは走るようにして此方へと近づいてくる。<br />「うおぉぉ……こわ、モリカ、モリカッ」<br />「大丈夫ですよ」<br />「え? 何? 何アレ? え?」<br /> 早紀絵が及び腰になり、綾音が混乱のあまり対処に困ってか、その場に座り込んでしまう。<br /> 火乃子は――近づいてくる影を認め、空気と一緒に唾を飲み込む。<br /> 影は、此方に来ると同時に消え失せた。<br />「おぉああぉ」<br />「――猫ですね、やっぱり」<br />「あ、猫だ」<br />「猫でしたね、予想通り」<br />「猫ってあんな影大きかったっけ?」<br />「影が大きくなる猫もいるそうですよ、綾音さん」<br />「そ、そうなんだ? 私あんまりほら、そういう知識乏しいし。そっか、良かった。幽霊かと思った」<br /> 杜花の適当な言い訳に、綾音が納得して安堵する。<br /> 綾音は頼りになる上級生……だと思っていたのだが、やはり彼女も世間知らずのお嬢様らしい。<br />「あ、お湯沸かしてるんだった。ここ任せていいかな。餌、食べ終わったら皿持ってきてくれる?」<br />「はい。任されました。サキ」<br />「あいよ。カノはここで見てて」<br />「はい」<br /> 餌で釣り、件の猫、黒ブチの背後を取る。<br /> 杜花は予断無く猫の首輪に手をかけ、器用に外して見せた。タグだと思っていたものを観察すると、それは真黒い、プラスチックの薄いケースのようなものだ。<br /> 杜花が弄ると、やがて中から虹色に輝く物体が出てくる。<br /> 首輪はどうか。<br /> これも想像通り、細長く丸められた紙が一枚、首輪の中に埋め込まれていた。<br />「凄い。火乃子の予想通りでしたね」<br />「カノやるじゃんじゃん」<br />「……何か、電子機器、なるべく、精密なものがあれば良いんですが」<br /> それが何なのか。確認する必要がある。<br /> 杜花は虹色に光る結晶を凝視し、有る事に気が付いたらしい。<br />「これ、破損してますね。罅が入ってる。中身は……見えないか」<br />「しっかし、ここで電子機器ってなあ。カノ、隠し持ってない?」<br />「えうっ」<br />「あるんだね。ま、それ壊すのも……ああ!」<br /> 早紀絵が何かを思い出したらしく、手を打つ。<br />「ちょいと待ってて」<br /> 勝手口から入って行き、数分後、直ぐに戻ってきた早紀絵の手には、携帯電話が握られていた。早紀絵なら一つ二つ持っているだろうと予想していたが、どうみてもその携帯は最新式だ。<br /> しかし確かに、これなら確認出来るかもしれない。<br /> 高性能義手程ではないが、これも高度な技術が使われており、なおかつ送受信機能が付いている。<br />「壊れるかもしれませんよ」<br />「実は不具合あるみたいでね、壊れてるようなもんなんだよね。どれ」<br /> 火乃子は猫達に餌をやりつつ、早紀絵の行動を見守る。<br /> 携帯電話の電源が入り、使用可能な状態になる。<br /> 指向性ホログラムらしく、画面の内容は火乃子の位置からでは確認出来ないが……二人の顔が、どんどん青ざめて行くのが解る。<br />「カノ、貴女はシロだし、これはやっぱり、何かしらの機械だ」<br />「……サキ、その携帯、本当に、不具合で壊れたんでしょうか」<br />「――杜花の部屋で初起動だよ。だから……ああ、そっか」<br />「サキ、火乃子。お願いがあります」<br />「あい」<br />「何でしょう」<br />「ニコに、この事はバラさないで。彼女の口から、私に告白する義務がある」<br />「――了解」<br />「――解りました」<br /> 黒ブチを撫でつける。<br /> 間抜けな顔をしたコイツは、今まで何も意識する事なく、とんでもないものを隠し持っていた事になる。<br /> 七星市子がそうしたのだ。何かしらの目的の為に。<br /> そうでなければ、こんな面倒な事はするまい。<br /> そして、それを探させた奴がいる。<br /> ――七星二子。<br /> 友達が欲しいと言った彼女。<br /> 彼女は……市子は……そして、彼女達は、何かしらに向かって、進んでいる。<br /> 答え。<br /> 答えがあると、誰かに、どこかで聞いた。<br /> それは、幸せな答えだろうか。それとも、更なる不幸を呼び込むものだろうか。主役にはなれない三ノ宮火乃子は、恐らくは傍観者だ。その真実を知る事もないだろう。<br /> ただ……自分は、自分なりに明確な答えを得る事が出来た。<br /> 呪い、妄執に取りつかれ、悩み、考え、吐き出して、得たものだ。<br />「杜花さん、早紀絵先輩。私は、胸を張っても良いでしょうか」<br /> その言葉は、弱々しかっただろう。<br /> だが、杜花はゆっくり、優しく頷いてくれた。<br /><br /><br /><br /><br /> 真っ白な空間には、清潔感と消毒の匂いが満ちている。<br /> 生徒IDを承認、面会を選択、入院者から即座に許可が下りる。<br /> エレベーターの操作パネルで3Fを指定する。音もなく上がり、着いた先では窓から望む外の景色が広がっていた。<br /> 学舎とは離れた位置にある医療保健室棟は少し小高い場所に建っている為、三階からでも十分観神山女学院の全景を見渡す事が出来る。<br /> 案内板に従って入院棟の奥へと進む。<br /> 病室全室が個室となっており、入院者数も多くは無いので人は疎らだ。<br /> 奥から見た事のある姿が此方へと向かって来るのが解り、火乃子は頭を下げた。<br />「アリス先輩」<br />「三ノ宮さん。ごきげんよう。末堂さんのお見舞い?」<br />「元気な筈ですから、お見舞いという程でもありませんが」<br />「ええ、元気でしたわ。色々あったみたいだけれど、三ノ宮さんは大丈夫なのかしら」<br />「この通り」<br />「……なんだか、良い顔をしてますわね。ふふ。末堂さんが逢いたがっていましたわ。たった二日しか離れていないのに。仲がよさそうで羨ましい」<br />「寂しがりですから。では」<br />「はい。またあとでね」<br /> どうやらアリスも見舞いに来ていたらしい。<br /> 末堂歌那多は医療保健室に入った後、様子を見る為入院する事となった。<br /> 彼女自身は問題ない。腕の不具合だ。<br /> 機能低下が著しく、パーツ交換が出来るまでは殆ど使えないという話だ。あの結晶の影響は余程大きかったのだろう。<br /> 一番奥の部屋、305号室の扉をノックし、中へと入る。<br />「火乃子!」<br /> 中では、病棟に居るのがおかしいほど元気な歌那多がいた。ベッドから跳ね起きると、直ぐ様火乃子に近寄ってくる。<br />「歌那多、大丈夫、ですよね」<br />「暇ですよぅ」<br />「だろうと思ったから、本を持ってきました」<br />「やった!」<br /> 歌那多が抱きつき、大いに喜ぶ。<br /> 今までなら困った顔をしたところだが、今は違う。<br /> 歌那多をベッドに戻してから、火乃子は窓際に立ち、ブラインドを開ける。日の光が白い病室を緋色に染めた。<br />「その腕のパーツは、結局どうなるんですか?」<br />「うん。急ピッチであげて、一週間で届くって。部品が難しいだけで、取り付けは簡単だから、日帰りで戻れますよ!」<br />「よかった。不自由しなくて済みますね。医療保健室にはいつまで?」<br />「電話があってね、大事な身体だから、お父様とお母様は腕治すまで入院してろ! っていうんですけれど、それは暇すぎます。なので、明後日には出して貰う事にしました。ちょっとだけ授業はお休みして、寮で大人しくしてます。でも大事な身体ってなんでしょ、歌那多は妊婦さんでもないのに」<br />「そっか。良かったですね」<br />「――火乃子?」<br />「はい?」<br /> 灰色の瞳が火乃子をジッと見据える。キャンディヘヤーが左右に揺れた。<br />「なんだか火乃子、うんと、ええと、うん?」<br />「何か、違いますか?」<br />「そう、そう。なんだろ、大人しく? 違う。落ち着いた? ううん。余裕があるように見えます!」<br /> 慧眼だ。<br /> 本能的、直感的に感じ取れるのだろうか。現に火乃子は、今までのような焦りとは無関係の場所に立っている。一皮剥けたと言うべきか、澱を吐き出したと言うべきか。いや、心を掃除した結果だろう。<br /> 市子と杜花への後ろめたさは既に無い。<br /> 杜花への幻想も、現実へと塗り替えられた。今あるものは、可愛らしい目を火乃子に向ける、同い年の女の子に対する想いだけだ。<br />「実は幾つか告白しなければいけない事があります。聞いてくれますか?」<br />「うん。お話に飢えてたの」<br />「昨日電話をして、既に三ノ宮本家には通達済みです。貴女の旦那になる予定だった烏丸家にも、宣戦布告してあります」<br />「えう?」<br /> 昨日の事だ。もう既に火ぶたは切って落とされている。<br />「即時電話会合になりまして、三ノ宮家、末堂家、烏丸家とお話合いになりました」<br />「お父様達とお話したんですか?」<br />「はい。烏丸家の怒りは怒髪天を突く勢い。末堂としては悩みどころだったと思います。三ノ宮親族一同は好意的でした。何せ、まだ貴女と烏丸のおぼっちゃまは婚約した訳ではなく、両親同士の同意だけの関係でしたからね」<br />「あー。難しい事は、解らないです。でも、ええと? どゆことですか?」<br />「三ノ宮家は烏丸家に宣戦布告。末堂歌那多の行き先は不透明となったわけです」<br />「――あ、うん?」<br />「歌那多」<br />「は、ハイ」<br />「約束します。ずっと一緒にいましょう。お婆ちゃんになってもずっと。私、貴女が好きです」<br /> 難しそうに小首を傾げていた歌那多の顔が、突如綻ぶ。<br /> 自分の好きだという言葉に、彼女は過剰なまでに反応した。ただの好きではないと、直ぐに解ったのだろう。<br />「あ、あはっ。本当ですか? ずっと一緒ですか? 毎日? 私、烏丸さんのところ、行かなくてもいいんですか?」<br />「誰にも渡しません。気変わりが早いと思ってくれて結構です。強引だと罵って貰っても構わない」<br />「ううん。ううん。うそ、やった。火乃子、あ、そっか、火乃子が、お嫁さんに貰ってくれるんだ?」<br />「貰います。もう籍も入れてしまいましょう。三ノ宮歌那多、ちょっと文字数が多いですけど」<br />「沢山練習して早く書けるようにします。旦那様? 旦那様って少し変。ご主人様? うーーっ、ね、ね、火乃子!」<br />「はぁい、なんですか、歌那多」<br />「ちゅーしてください!」<br /> 何故ここまで強引にする必要があったのか。<br /> 火乃子自身も、烏丸に喧嘩を売りつけた後考えもしたが、瑣末な事だと吐き捨てた。<br /> 三ノ宮、いや、火乃子と烏丸は大激論の末喧嘩別れに、末堂の判断を探ったが、末堂は次女である歌那多の身の振り方に、そこまで執心していたわけではなかったらしい。<br /> 曰く『娘が幸せになれる方を取る』と言う。<br /> これが何処ぞの馬の骨ともなれば別だろうが、何せ喧嘩を売りに来たのは、世界シェアも高い日本一位の医療製薬企業、三ノ宮医療製薬の跡取りである。<br /> 烏丸は歌那多の卒業後婚約、結婚と見据えていたのが甘かった。そんな横やりが入るとは考えていなかったのだろう。<br /> また恋患い、また出遅れ、また手遅れとなってからでは遅い。<br /> 火乃子の決断は早かった。<br />『末堂の娘を釣ってくるとは、火乃子もとんでもない女になったもんだ』とは、電話を受けた祖父の言葉だ。否定されても貫くつもりだったが、祖父の意見は好意的で、祖父が肯定したからには、父も母も逆らえなかったようだ。<br /> こんなに良い子を、愛も恋もないような、顔も名前も覚えて貰っていないような、親同士の決めた相手に持って行かれるなど、考えるだけでも頭が痛くなる。<br /> 頭が痛くなるような想いはもう、懲り懲りだった。<br />「約束を守れる人間に、なります。胸を張って、私はそう言える」<br />「んっ」<br /> ベッドに腰かけ、歌那多の腰を抱く。<br /> 頬をこすり合わせると、あの歌那多が、恥ずかしそうに手をすり合わせる。<br />「強引で、ごめんなさい。でも、これからも、私は沢山、貴女に教えてあげられる」<br />「あふふ……うん。火乃子。ああ、なんだろう、凄く、胸が、一杯です。ずっと、火乃子に御世話させてしまって、迷惑に思われてたら、どうしようかって、不安で、ぎゅーってなって。火乃子は、歌那多の方を向いてくれないのかなって、思ってて、だから歌那多……あの、が、がんばって裸になってみたり、ちゅーして貰おうとしたり……」<br />「……あ、あれ天然じゃないんだ……あざとい子」<br />「だ、ダメでした? 恥ずかしい子でしたか、歌那多は」<br />「一生懸命だったんだ。いじらしい。ダメな子だね、歌那多は」<br />「あふ。ダメな子です。ダメな子ですけど、ずっと一緒にいてください」<br /> いざ、真正面から歌那多の顔を見つめると、頭から湯気が出そうになる。歌那多は唇を少しだけ尖らせて、目を瞑っていた。<br /> ほんの少しだけ、触れるようにキスをする。<br /> 嫌な事も、辛い事も、寂しい想いも、汚い思い出も、それらが全て、陳腐なものに思えてしまうような、甘い衝撃があった。<br /> これから先、障害は多いだろう。<br /> まだまだ乗り越えなければならない壁は沢山ある。<br /> ただ、火乃子は一人でだって、その全てを戦うと決めた。<br /> この子がずっと笑顔でいられるようにと、祈るでなく、願うでなく、自らの力でそれを得る為に。<br />「か、火乃子」<br />「ん?」<br />「も、もう一回、ちゅーして、ね?」<br />「――うん。可愛いよ、歌那多」<br />「あふふっ。んーっ」<br /><br /> ……。<br /> 永遠に続くものはなかろう。<br /> 想いとて何時か朽ち果てると、身をもって知っている。<br /> 人間なのだ。<br /> その記憶から生み出された魂は、変化し、劣化する。留める術はない。<br /> しかしだからこそ……人は人を人たらしめる為、決意するのだ。<br /> 無理を承知で、無理を押し通す為に。<br /> 失ってしまったものすら、取り戻すために。<br /> ……。<br /><br /><br /> <br /><br /> ストラクチュアル3/劣等感の熱情 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-1129139219041665536.post-77797641240846764292013-03-08T20:00:00.000+09:002013-03-08T20:00:08.694+09:00心象楽園/School Lore プロットストーリー2<span style="font-size: small;"><span style="font-family: "Courier New", Courier, monospace;"> </span></span><br />
<a name='more'></a><br />
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<span style="line-height: 27px;"> プロットエピソード2/錯覚残滓<br /><br /><br /><br /> 明け方の澄み切った空に、白い息が吐き出されては流れて消える。<br /> もう十一月も末である、朝方ともなると、地面には霜がおりている。<br /> 白萩を出発した杜花のいでたちは学院指定の体操服だ。<br /> 上下長袖で、えんじ色をしている。デザイン性皆無の、平成初期からそのまま時代を乗り越えたような、大変生徒達に不人気な体操服である。<br /> 運動するのにファッションを求めている訳でもないが、流石の杜花も多少気にしていた。残念ながら、ストイックでスポーティな現代味溢れる運動着は全て洗濯中だ。<br /> 一定の速度を保ちながら、観神山女学院の外周側にある第一中等部校舎の脇を走り抜け、学院の公共広場に出る。いつものお気に入りのベンチまでたどり着くと、その足を止めた。<br /> 冷たい空気が流れて行く。森林公園のようなこの中央広場は、生徒達からも好評だ。<br /> 中央に配置された噴水から周囲八方向に道が延び、学院の中央でもある為、それぞれの道が各方面へ繋がっている。<br /> 周囲を囲む芝生は運動にも最適で、この早朝からでも自己鍛錬から部活動まで、ちらほらと生徒達の姿が見える。<br />『おはようございまーす』<br />「はい、おはようございます」<br /> ランニング中の剣道薙刀部に早速挨拶をかけられ、笑顔で会釈する。<br /> この時間は大変お気に入りなのだが、どこからともなく声を掛けられる事が多く、だいぶにぎやかになってしまった。<br /> 嫌という訳ではなく、まるで自分の存在が皆の集中を削いでいるのではないかと、いささか心配なのである。<br /> 自意識過剰で済んだなら良いが、何人か此方に余所見をして転ぶ光景などを見ていると、一概にそうとも言えない。<br /> 設けられた芝生に腰を付き、柔軟体操をしながら凝り固まった筋を伸ばし、全身の血流とリンパを意識しながら、息を吐き、脱力して行く。<br /> その体は、異様に柔らかい。新体操選手もかくやという柔軟は、もはやそれだけで人目を引く。<br /> 首、腕、脚、腰、一しきり全て伸ばし終えると、次は筋肉トレーニングだ。<br /> 腕立て腹筋背筋に始まり、バービーに反復横とび、逆立ち歩行、短距離ダッシュ数十本……いささか女子高生にしては多すぎる量を、女子高生の半分の時間でこなし、杜花は漸く一息つく。<br />「おはよう、欅澤さん」<br />「ん。おはようございます」<br /> いつもの時間に現れる、いつもの人。<br /> 自らを名乗りたがらないらしく、杜花も名前は知らなかったが、学院の警備を任される国防官の中年女性である。そのいでたちは、この寒い中半袖に薄手のスポーツウェアパンツだ。<br /> 日本各地に存在する所謂『お嬢様学校』や『おぼっちゃま学校』には、特別派遣として国防軍の特殊編成部隊が配置されている。<br /> 警察との折り合いで、部隊は警察特殊部隊と国防軍特殊部隊の混成となっており、統率は国防軍側がとっている。<br /> 果てしなく精強な人々だ。<br /> 確かに、大変苦い記憶が産んだこの制度だが、おそらくは七星の後押しだろう、と杜花は踏んでいた。陰謀論者ではないが、特例措置や特例事項は、世の中大概『アレ』の所為になってしまう時代なのである。<br />「元から鍛えていたみたいだけど、そう、ふともも辺りがまたイイカンジに締まった」<br />「隊長さんの指導のお陰です。あまり締めすぎると、乙女らしくなくなっちゃいますけど」<br /> 隊長、と呼ばれた女性は満足そうに頷き、足踏みをしてから拳を構えた。<br />「どう?」<br />「今日はちょっと目があるので」<br />「むう、残念ね。ま、アンタの顔なんてブン殴った日には、ここのお嬢様方から陰湿ないじめをくらいそうだからね」<br />「あはは。大丈夫です、私、当たりませんから」<br />「くっ……きっつい事言うわねえ」<br />「ああ、隊長さん、あれ」<br />「ん、なんだい?」<br /> 杜花が明後日の方向を指差し、振り向いた瞬間、杜花の体は地面に沈み込む。<br /> 隊長が不意打ちに気がついた瞬間には既に遅く、両足タックルが見事に決まり、即座に這いあがった杜花はマウントボジションを取る。こうなると、相手に実力がある場合、ブリッチをしたところでそう簡単には解けない。隊長は両手を上げる。<br />「まったく、参った参った」<br />「ふふ」<br />「狡猾なお嬢様だね、アンタ」<br />「生憎、私は一般庶民なんです」<br />「そうなの? 他のお嬢様方よりお嬢様然としてるもんだから、そう思ってたのに。じゃあほら、卒業したら国防大学いって、国防軍入りなよ。成績も良いんだろ? 私の上官になれる」<br />「あら、階級は?」<br />「二等軍曹だよ。叩き上げなもんでね……ていうか、プロスポーツとかしないのか? なんでも出来るだろ、アンタ」<br />「いえ、遠慮します。私は家を継いで、女性神主になるんです」<br />「なぁるほどなあ。ねえ、そろそろどいてくれる? お嬢様方が顔赤くしてるし」<br />「あら、失礼」<br /> マウントを解いて、隊長に手を差し出す。<br /> ある日から突如始まった『手合わせ』は、これで何戦何勝目だったか。杜花は週一、二回あるこの機会を楽しみにしていた。<br /> 自己鍛錬は良いが、生憎と相手がいないからだ。かといって格闘系の運動部に入りたい訳でもない。自由な時間に好きな事をやれるというのが、杜花には最適だった。<br /> そもそも、杜花の運動量に付いてこれる生徒が限られる。周りに合わせては本末転倒だ。<br />「タックルも重心が低くて、鋭い。そのでかい胸揺らしてレスリングウェア着たら、さぞかし人気になれるぞ、ええ? あっはっは!!」<br />「隊長さんは下品ですねえ」<br />「男ばっかりだしな、部隊。まあとにかく、次は勝つからね。不意打ちでも文句言うなよ?」<br />「ええ、次は寸止めで立ち技にしましょうか。ええと、柔道も古武術もアリで」<br />「え、そんなのも出来るのか? システマや実戦レスリングだけじゃなく?」<br />「見よう見まねですけど。本職は古武術です」<br />「まいったね、こりゃ。ほんと惜しいよ。そいじゃな」<br />「はい、今日も御勤め御苦労さまです」<br />「ういうい。また一日、お嬢様方に手を振りながら、ブラブラ学院ほっつき歩く仕事が始まるよ」<br /> 後ろ手を挙げて彼女は去って行く。口は汚いが、杜花はかの女性をいたく気に入っていた。強くて気さくで、とても頼りがいがある。<br /> 彼女たち部隊が本気を出すような事件が起こるような事があってはならないが、もしそのような事態になれば、必ずや活躍してくれるだろうと、大変な期待がある。<br /> 大陸間との戦争状態に突入する切っ掛けとなった『アジア戦火』前、大企業の子息を人質に立てこもる事件が数件あった。<br /> 犯人達はズブの素人だったが、素人故に統制も取れず、数十人の生徒達が犠牲になっている。<br /> 観神山のような学校では、防衛意識の向上と精神成長の為にとして、当時犯行グループが撮影したビデオの上映会などがある。<br /> 付随して護身術の講習や犯罪統計、果ては諸外国からの勢力についての講座もあるのだが、大半がそのスナッフビデオにも近いビデオ上映会でダウンする為、参加率は著しくない。<br />(でも、あれで男性嫌い併発する子多いと思うなあ……)<br /> 大変過激な場面があり、一方的な主張が掲げられ、人権が蹂躙される映像が含まれています、という注意喚起の下、医療スタッフをそろえた上で一応は賛同者のみが映像を見るのだが、気絶、ひきつけ、過呼吸、その他諸症状が絶えず、特に男性恐怖症は顕著である。<br /> 余計な虫を付けたくない人々にとっては都合が良いかもしれないが、卒業後の異性との交際や結婚にまで支障が出るようでは困りものだ。<br />「あ、あの、あの」<br /> あれこれと考えながら仮想敵を脳内でブチのめしているところ、生徒から声を掛けられる。<br />「はい?」<br />「た、鍛錬のお時間に、し、失礼します。あの、杜花様、これを、その」<br /> といって、ショートヘヤーの利発そうな子が、杜花に手紙を差しだす。<br /> 封筒は厳つい紙質で、蝋で閉じてあるのはどんな勘違いか。ともかく『アレ』の類だろう。<br /> 杜花はそれを笑顔で受け取る。<br />「あら、お手紙ですか?」<br />「は、はい。そ、それでは」<br /> 余程精いっぱいだったのか、弾けるようにしてショートヘヤーの子は去って行った。身体のバランス、走り方から見て、運動部だ。<br /> 制服のスカートが高等部とは異なり、紺のプリーツではなく、チェック柄だ。中等部の生徒だろう。<br /> 杜花はそれを懐に仕舞い込み、公園を後にする。<br /> 走りながら先ほどの少女の事を考え、心の中で独り頷いた。<br />(可愛いなあ)<br /> たった数年とはいえ、少女の成長は著しい。<br /> 元から自分を客観視する事に優れている杜花は、中等部時代の事をことさら鮮明に、なおかつ気恥ずかしさ一杯に覚えている。<br /> 中等部の彼女には、今の杜花が、当時の市子のように見えているのだろうか。<br /> そう考えると、複雑ではあるが、悪い気はしなかった。<br /> 寄宿舎を目指す途中、丁度躑躅の道に差し掛かる。今は部屋に二子が同居している為、こういった類の手紙は籠って読めない。どんなちゃちゃを入れられるか解ったものではないからだ。<br /> 封筒を開けると、中から可愛らしい便せんが出てくる。ガワとはだいぶ印象が違う。<br />『御手紙を受け取ってくださり、有難うございます。中等部三年一組の川岸命と申します。本来ならば直接告白しなければならないところを、このような形をとってしまい、申し訳ありませんでした……』<br /> つまるところ、いつもの内容である。<br />『見目麗しく』『お優しく』『知己に溢れ』『とても素晴らしい』『まるで鳥の囀るが如く』云々。<br /> 杜花も、当然褒められれば嬉しいが、どうもこういった手合いは定型文的で、いまいち面白味に欠けた。<br /> 本人はきっと一大決心の後に、渾身の想いで手紙を届けたのかもしれないが、数ダース分も貰っていると気持ちは薄れてしまう。<br /> だが無下に断れば禍根を残しかねない為、杜花は『市子式』のお断り方を採用していた。<br />「いや……定型にしてるのではなく、私が面白みなくて定型になるのかも……」<br /> 流石にこう続くと、自信が目減りして行く。<br /> とはいえ、皆に愛される『御姉様』を目指している訳でもない。<br /> 一応は苦悩していた。<br />『……毎朝汗を流す姿を見ていると、とても胸が熱くなりました。特に杜花様が上腕を鍛えている姿など見ているだけで身体がしびれるような思いです』<br />(ん?)<br />『……杜花様の腹筋は果してどれほど滑らかな線を描いていることでしょうか』<br />(んん?)<br />『嗚呼、私はそのふくよかで逞しいであろう肉体に抱かれて――』<br />(ちょっとマズイ子かな……)<br /> 鍛錬を評価してくれるのは、ちょっと違う切り口で好感を持てたが、いささか生々しい。これは『妹宣言』ではなく。<br />『杜花様に無茶苦茶にされたいんです』<br />(ああ、なるほど)<br /> 性欲の吐露である。<br />(あんな可愛い顔してハードですね……。やっぱりこの学校色々ダメかもしれない)<br /> 長い間閉鎖空間に居ると、価値観というのはそこの様式に習った形になる。<br /> 自己が形作られた大人ならまだしも、思春期甚だしい少女達はありとあらゆるものを妄想によって形作って行く。<br /> 悪い見本の典型がここにあった。<br /> セックスなどした事どころか見た事もないであろう少女の想い描く、まるで百合の花咲き誇る花畑で甘い露を身に纏いながら優しい光に包まれて無上の喜びを胸に抱き果てるまぐわいか。<br /> あまり人の事も言えない杜花だったが、流石にこれはちょっとだった。<br /> とはいえ、類稀な運動神経が杜花人気の下支えになっているのは間違い。<br />(あまり目立ちたくはないのだけれど)<br /> 通常、スペックの高い同性は嫌われる傾向にある。<br /> 杜花は人気こそあれ、その分影で恨まれている事も多々あるものだ。<br /> 僻み嫉みは、人間が人間である限りは存在する。が、やはりここは特殊環境だ。<br /> そもそも、美男美女が同性から妬まれるのは、数多の異性の目をその一身に受けて独り占めするからであり、毛嫌いされて当然といえばそうなのだが、生憎ここは生徒から教師に至るまで女性しかいない。異性は居ないので、異性を奪い取る存在ではなく、この学院の象徴的なものとしての見方が強い。<br /> その究極的完成系が市子である。<br />「運動部員には結構睨まれちゃうしなあ……」<br /> じゃあ控えるか、などといえばそんな義理は一切ない。杜花にも杜花の自由がある。<br />(にしても、この子に『市子式』通じるかな。逆に襲われそう)<br /> 週に数件発生するイベントに頭を悩ませながら、寄宿舎に戻る。<br /> 手紙を自室の机の中にしまった頃には六時を過ぎだ。二段ベッドの上を覗くと、そこでは世界屈指の大財閥のお嬢様が、未だ寝息を立てている。<br /> あの口の悪さも、あの邪悪な視線も、寝ていればまるで天使だ。<br />(本当にそっくり)<br /> 小等部の頃だろうか。市子がこのぐらいの小ささであったのは。<br /> あの頃から市子は輝いていた。<br /> ……それにしても小さい。<br /> 幾ら発育が悪いからと、ここまで小さいのもおかしいのではないだろうか。<br /> 杜花に、ある種の予感がよぎる。<br /> その口達者さもそうだが、そこに存在している、という威圧感に気圧されて考えに至っていなかった。もしかしたら、本当は、まだ十二歳程度ではないのだろうか? という疑問だ。<br />(詐称、例外的飛び級、ま、七星なら)<br /> 幾らでもあり得るか、と納得する。<br /> 彼女が此方に来て一週間。思いの外、問題は起きていない。<br /> トビ抜けたお嬢様の例にもれず常識外れである為、たまに突飛な行動はするが、ワガママというわけでもなく、言われた事は素直に聞く。特に杜花の言いつけは文句ひとつ上げない。<br /> このまま従順でいてくれればいいのだがと考えながら、杜花はタオルを持って浴場へと赴く。<br /> 一階には、一度に十人程度が入れる浴場がある。浴場のルールは意外と少なく、常時入れる。<br /> 身だしなみは常に整え、どこに出ても恥ずかしくないような女性でいよう、という校訓もあるせいか、身体に関わる近辺の規制は緩く、薄い化粧も嗜みとして許されている。ちなみに度が過ぎると即洗顔を申しつけられるので、皆控えめだ。<br /> 脱衣所に入ると、どうやら先客がいたらしい。<br /> 鍵がつくような立派なロッカーではなく、籠に衣服を入れるようになっている為、学年分けの為につけられた制服の色ラインを見分ける事が出来る。生憎名札はない。別学年と一緒に入る、というのは、やはり皆避けたいらしい。<br /> どこの世界でもそうだが、序列はあるし、運動部ともなればもっと顕著だ。<br /> 杜花がどこに入ったところで誰も文句は言わないだろうが、一応制服を確認する。<br /> 白のラインは二年生だ。しかもその畳み方が、妙に几帳面で――いや、籠を覗く迄もなく『天原入浴中』と、可愛らしい似顔絵と丸文字のポップが立ててあった。<br /> 杜花は顔を少しだけひきつらせる。が、時間は押している。<br /> 仕方なく、服を脱いで籠につめ、浴場へと足を踏み入れる。<br />「あら、あらあら、杜花様じゃありませんの」<br />「……おはようございます、アリスさん」<br /> 中に入ると、一糸纏わぬ姿のアリスが何故か仁王立ちしていた。杜花の思考回路にいささかの支障をきたすが、即座に復旧し、対処する。<br />「何を?」<br />「体操ですわ」<br />「さようですか」<br /> 金髪の美女が仁王立ちする光景を目の当たりにした画家や彫刻家が居たのならば、そのインスピレーションを極度に刺激されて怪しげな絵画やオブジェを制作した後なんでこんなものを作ってしまったのだろうと幾許かの後悔はすれどモデルが美人なので評価は高くなるであろう、そんな光景だ。<br /> 杜花は頭を振り、怪しげな思考を止める。やはり支障があるらしい。<br />「しかし、こういった公共の場で、その、全裸で体操、というのも」<br />「浴場において全裸で体操してはならないと言う取り決めがありませんわ」<br />「ごもっともです」<br /> アリスの横を抜け、だいぶ低い位置に取り付けられたシャワーをひねる。設備は古いので、出て来る水はまず冷水だ。<br /> いまどきどこにこんな、昭和の忘れ形見のような施設があるのだろうかと、使う度に首をひねらずにはいられない。歴史ある神社の母屋とて、全電化でもっと立派なシャワールームぐらいある。<br />「アリスさん」<br />「何ですの?」<br />「ここ、古くて趣深いのは良いんですが、こういった設備はどうにかなりませんか」<br />「古くて趣深いのが売りですから、まあどうにもなりませんわ。立派なのが使いたければ第二、第三寄宿舎にでもお邪魔するしかありませんわねえ……そうですわ、杜花様、貴女の宣伝も兼ねて……」<br />「あ、お断りします」<br />「あン……もう」<br /> 高等部の一部、中等部、小等部諸々の生徒が入居しているのがそちらの寄宿舎で、それこそホテルのような作りになっている。<br /> 中等部以下の場合、保護者やお手伝いなども一緒に泊まれる施設になっていて、とにかく便利だ。<br /> 何かと古いものが目立つこの学院だが、その中でもこの寄宿舎はまさしく化石である。<br /> シャワーがお湯になるのを待ち、頭からかぶる。杜花からすれば軽い運動とはいえ、代謝が良い為汗はかき易い。何も考えず浴びていると、背中に気配を感じ、すぐさま振り返る。<br />「お背中、流しましょうか」<br />「――お願いします」<br /> 天原アリス。ついこの前の事件……つまるところ、お茶会事件だが、以来、杜花がアリスに接する態度は、他の誰とも比べようのない、微妙なものになっていた。<br /> 事件自体は実しやかに囁かれるだけで、大々的な噂にはなっていないが、早紀絵が面白がってバラした場合一日で広がるだろう。<br /> 何せ御姉様級二人が、しかもアリスの方から無理矢理キスした、という珍事だ。お姉様方の動向を伺うお嬢様方が知れば、失神必定の美味しいイベントである。<br /> アリスは、寂しがり屋だ。<br /> 市子が亡くなってからというもの、数は多くないが、追い詰まると杜花に泣き付いた。<br /> まだ友情の範疇。姉妹の範疇、と考えていたのだが、あの事件はその一線を逸脱した。<br /> 杜花にアリスの考えは解らない。ただ、我慢し続けていた事だけは、確かに自覚している。<br /> 切なそうに、愛しそうに、貴女が好きだと告白した彼女の心底に何があるのか。また問題が一つ増えたと思う反面、自分の評価が勝手に固まって行くのを感じる。<br /> しかし生憎、即答してあげられるような立場に、杜花がいない。<br /> だがそんな杜花を、アリスは気にする節もない。杜花が答えを出さないのは当然だという態度でいる。<br />「杜花様のお体……やわらかいのにハリがあって、ああ、お肉ってこんな風にもつきますのね?」<br />「あまり鍛えすぎるとその、グラビアじゃなくボディービル誌を飾る事になりそうなので、控えめにしています」<br />「あはは。杜花様も気にしてらっしゃるんですのね、そういう事。ええ、私、やわらかい身体の方が好きですわ」<br /> 果してアリス程のお嬢様が、人さまの背中など流した事があるだろうか。石鹸をかける手はやはりぎこちない。杜花も、これには顔を赤くする。<br /> 何かとんでもないところに踏み込んでいるような気がしてならない。<br />「ひゃふふっ……あ、くすぐったいですってぇ……」<br />「あら、ごめんなさい、手が滑って」<br />「あ、あう。いえ、はい」<br /> アリスの手が前へ滑り込み、その胸に当たる。<br /> アリスは『質量がありすぎるのが悪い』と言わんばかりだ。運動するのにいささか難がある為、冗談めかしてはネタにするが、胸が大きい事を誇らしくは思っていない。<br /> 小等部の頃には既に大き目のブラが必要だった程で、その点を市子によく弄られた。食べてるものが違うのか、運動か、遺伝子とは本当に顕著なものだ、などなど。小学生の会話ではないが、子供のころから市子はそんなものである。<br />「……今この姿を皆に見られたら、どう思われるかしら、杜花様」<br />「あらぬ噂をたてられて、学院で生き辛くなると思います」<br />「あら。私はそれでも良いのに」<br /> 積極性が、違う。<br /> アリスは杜花の事に関して、もう少し控えめであった筈だ。これではお上品な早紀絵である。<br /> タイミングはどこだったかと思案する。<br /> 確か、友人に逢うといって出て行って、戻って来たらこうなっていた、だろうか。<br /> 確か……二子も外に出ていた。帰ってくるタイミングこそ違ったが、部屋に戻って来た二子も、どこかいつもと違う、上機嫌な様子であったと記憶している。<br />「ニコに、何か言われましたか」<br />「助言を少し」<br />「あまりアレに耳を傾けない方が良いと思いますけれど」<br />「少しだけ素直になっただけですの。杜花様」<br /> 後ろから、抱きしめられる。アリスのきめ細やかな肌の感触が、直に伝わってくる。<br /> 何故、何時の間に、こんな甘い声で鳴けるようになったのか。<br /> アリスという人はもっと、明確な形をもった、他とは違う空気を持つ少女であったのに。<br /> そう、思いながらも。<br /> 好かれる事が嫌ではない自分がいる。<br /> ただ、どう答えてよいか解らない。<br /> ここで答えを出してしまったら、万が一にも、二子に頼まれた調査協力が、おざなりになってしまうかもしれない。<br /> 抑えている感情。誰にも見せようとしなかった、うす暗い欲求が、アリスの接近で解凍されている。<br /> 自分は、天原アリスを。<br /> いや、と頭を振る。<br />「ダメよ、アリス。そんな事をしていると、直ぐ嫌われてしまいます」<br />「ッ……は、はい」<br /> アリスが、咄嗟に身体を離す。<br /> アリスがこうなってしまうその理由を、杜花は少なからず知っている。二子のあの『魔法』だ。<br /> ただ『経験上』、あれは人の心の中に『何もないもの』を生成出来たりはしない。<br /> アリスの言う通り、助言だろう。アリスが腹の中で抱えている事を具現化させただけにすぎない。建前が薄まり、本音が見え隠れするようになる。<br /> つまり、本当に、アリスは杜花が好きなのだ。<br /> それをぶつけられ、答えてあげられる立場にない杜花は、少なからず悲しく思う。<br />「ゆっくり、行きましょう。それともアリスは、そんなにも私が欲しいんですか?」<br />「は、はしたない真似をしましたわ。でも、その」<br />「ええ。解ります。だから、大きく咎めたりはしません。少なくとも、今の問題が解決するまでは……」<br /> 少し、待ってほしい。それは、隠すべくも無く、本心だ。<br />「いいんですの。解っていた事ですもの」<br />「私も流しましょうか、お背中」<br /> 二人が背中を流し終わり、脱衣所に戻ると、ドタバタと複数人が勢いよく出て行くのが解った。<br /> どうやら朝から逃げられない状況に陥ったらしい。<br /> 自業自得で、自分が受け入れた事実は否定しようがない。<br />「こりゃだめですわねー、杜花様」<br />「……お、追い詰められてる感」<br /> 今日もサロンが騒がしそうだ。<br /><br /><br /><br />「ごきげんよう」<br />「ごきげんよう」<br /> ある時期、絶滅した言葉が学院内で常用化している事がある。ごきげんようはその一種だ。<br /> 状況に応じた言葉があるのに、学院ではこの挨拶で全てが済む。<br /> 何かあまり、自分には似合っていないように思えていて、積極的には使わないのだが、ごきげんよう、とされた場合はごきげんよう、で返している。しかし流石に山の手お嬢様言葉など使う人物は観た事はないが。<br />「うぃーす」<br /> が、早紀絵の場合はもう少し配慮した方がいいような気もする。<br /> 杜花がそう思うのであるから、周りも当然思っているだろう……と、考えたが、早紀絵の場合は少々荒っぽい方が、お嬢様方に受けが良いらしく、好んで言葉を荒らしている。見た目もどちらかといえばタチだ。<br />「さっきー、ういっす。眠そうだねー」<br />「ちょいとねえ。あたくし、昨晩はお勉強にいささか力を入れすぎちまって」<br />「え、それ何語。あははっ」<br /> と、何故か山の手お嬢様言葉の早紀絵が眠そうに現れ、隣に着席した。<br />「どこでそんな言葉覚えたんですか」<br />「ははは。ほら、文芸部入ったでしょう」<br />「――ああ」<br /> 文芸部。市子が一人だけで部員をしていた部だ。<br /> 市子の自殺後は誰も入っていなかったが、どういう訳か早紀絵が部長になり、同室の支倉メイが部員として席を置いている。<br />「あそこは変な本沢山あってさ。平成時代の雑多な本ごろごろ出てくるよ。良く分かる何々シリーズとか、専門知識をかいつまんで簡単に説明する奴とか」<br />「オカルト研究部の部誌を探しているんでしたっけ」<br />「そうそう。意図的に隠されてる可能性が高いね。ああ、そうだ、文芸部」<br />「ええ」<br />「出ないね、黒い影。メイに張らせたんだけど、何時になっても出てこないって。三回試しても」<br />「支倉さんが可哀想です」<br />「安心して。ちゃんとギブアンドテイクだよ。メイなんて喜んじゃってしょうがないよ」<br />「そ、それならまあ」<br /> 早紀絵のペットは実に従順だ。早紀絵と一緒にいて、メイが反抗した姿など一切見ない。<br /> 杜花としては、人さまをペット扱いするのもどうかとは思いつつ、本人合意ならそれでもいいか、などと考えている。<br /> 杜花とは産まれが違う彼女達の価値観に(早紀絵は更に特殊だが)敢えて問題を呈した所で、杜花の得るものはない。むしろ水を差しかねない。<br />「そうだ、モリカ、実は二子から鍵を預かったのだけど。文芸部の鍵と言われたんだけどさ、入口以外鍵の締まってる場所がなくて」<br />「御姉様ですよね。なら、考えるべきは、それが本当に鍵として機能するかどうか、でしょう」<br />「どゆことさ」<br />「鍵の形をしてるからといって、鍵として機能するかどうか。鍵だとしても、使い方が違うのではないか、という話です」<br />「ああ、市子ならやりそう。しかしなあ、他にどんな使い道があるかな」<br /> 早紀絵に文芸部の鍵だと言われるものを預かり、観察する。<br /> 立派なものではない。小さな南京錠を開ける程度にしかならない鍵だ。とても部屋などを戸締りする為には使わないだろう。<br /> 市子は鍵を鍵として使う事は少なかった。もうひと手間、面倒くさい事をする。その方が『情緒がある』というが、本人は良くても、残された者達からすれば厄介極まりない。市子のこういった趣味は、杜花でも頭を悩ませる事があった。<br />「あら、何か書いてある」<br />「え、平たい部分にはなにもないけど」<br />「ほら、ここです」<br /> 鍵の側面部分。<br /> 殆ど面積がないそこに、何か文字が彫られている。十円玉並の薄さであるから、眼で見ようと思っても流石に小さすぎる。<br />「虫眼鏡」<br />「おぅい、誰か虫眼鏡、杜花御姉様が虫眼鏡を欲していらっしゃるー」<br /> と、生徒もまばらな教室で、早紀絵が声をあげる。<br /> 杜花御姉様がお困りだ。皆が鞄の中を漁り始める。一人が『ありましたわ!』と元気よく挙手、見事に虫眼鏡は杜花の手元に届いた。読書用のルーペだろう。<br />「ありがとう、阿古屋さん」<br />「いえ、とんでもありません。お役に立てて光栄です」<br /> 阿古屋は感激したようにいう。杜花もその嬉しそうな姿に応える為、目一杯に笑顔だ。<br /> 早速ルーペを用いて側面部分を覗きこむと『木楽の君』と縦に彫り込まれている。<br />「きらく?」<br />「横に彫れなかったのかも。薄いですし。だから、木と楽で櫟(イチイ)か(クヌギ)と読むのかもしれませんね」<br /> 杜花がペンを取り、メモ帳に文字を走らせる。<br />「旧漢字の楽ね。しかしイチイ? クヌギ? の君って。モリカは解る?」<br />「さあ。ただ、市子御姉様は『何々の君』と妹を分類していたと思います。これもまた、本人しか知りませんが」<br />「あ、あいつ面倒臭い事好きだなあ」<br />「今更です」<br /> こんな薄いところに、そんな細かい文字を個人で彫れる訳がない。特殊器具が必要だ。他の誰かが持っていたのならば、不思議にも思う所だが、市子なら何かしらの手段でそんなものを作るだろう。<br /> 鍵自体はだいぶ年季が入っている様子だが……彫跡は何か真新しい印象を受ける。<br />「しかし簡易な鍵とはいえ、瀟洒ですね。作りに気抜かりがない」<br />「それは思った。たぶん専門の人に作らせたんでしょうね」<br />「イチイ、もしくはクヌギ。でも基本的にクヌギと読む筈です」<br />「櫟の君。妹対比表とかあればいいのに。二子に聞くかな」<br />「そういうものは残さないでしょう、市子御姉様ですし」<br /> 暗号の答えを残すような人間ではないだろう。<br /> しかしともかく、この鍵が当てはまる人物、そしてこの鍵を用いる場所に、例の書物があるかもしれない。それは杜花にとって有益か否か。判じかねるが、早紀絵はやる気であるようだ。<br />「どうしても読みたい本なんだ。この鍵の合う場所にあるとするなら、是非見つけたいね。ここ一週間文芸部をひっくり返したんだけど、やっぱり出てこなかったし。それにねえ」<br /> ごにょごにょと、早紀絵が耳元で呟く。周りの視線が少し熱いので、内緒話はむしろ堂々として貰った方が嬉しい。<br />(市子の感じからして、どうもまともな本が多すぎる)<br />(普通の本ばかり、と。それも変ですね。幾つか、少年少女向け漫画などを貸して貰った事があるので、たぶんそちらに隠しているのかも)<br />(察するに、魔女に関する記述がある本を隠してる。市子もそう呼ばれていたし)<br />(細かい批判を気にする人でもありませんが、何かしら、不愉快な記述があったのかも……さ、サキ、耳に息かけないで)<br />(あ、モリカ良い匂い……)<br />(今日はそんなのばっかり……貴女もアリスさんも、ああもう……)<br />「モリカは狙われている。性的に」<br />「私寝技もそこそこ出来ます」<br />「ああ、関節と締め技ね。さぞ心地よく死ねるでしょう。くふふ。ああ、ところでモリカは、貴女自身どう呼ばれていたのかは知らないの?」<br />「私は、一度しか聞いた事がありませんけれど。たしか躑躅の君です。出会った場所でしょうか。私が一番最初に市子御姉様とお話したのが、躑躅の道なので。花言葉は自制心、でしたっけ」<br />「じゃあ櫟は?」<br />「……穏やか、かな」<br /> 思案する。クヌギの君。穏やかな貴女。<br /> 妹は皆上品な人間ばかりなので、当てはまる人物が多すぎる。クヌギが生えた場所で出会った、としても、生えている場所など知らないし、人物を特定出来ない。<br /> 市子の妹。妹のお付きまで含めると、さて何十人居たか。<br /> 市子開催の定例茶会は全員が参加する事は少なかった。覚えている顔も疎らである。<br />「けれど、今更蒸し返して、どうするんですか、そんな本」<br />「貴女はアレに整理をつけたい。私はアレが隠していた事を知りたい。睨まないでよ、公開しないからさ。杜花は市子と仲が良かったけれど、全部知っている訳じゃないでしょう」<br /> 確かに、そうだ。<br /> あれだけの人物の全てを把握するなどまず出来ないだろう。杜花とて例外ではない。しかし魔女の記述、となると、表には出したくないものだ。眠り続けているなら、起こす必要性は感じない。<br /> ……が、そこまで隠されたものだ。一緒に魔力結晶があってもおかしくはない。<br /> 気は進まないが、早紀絵の話が全て間違っている訳でも、的を外している訳でもない為、考えどころだった。<br />「ま、本来なら杜花の手を煩わせたくなかったし。いいよ、自分でやってみる」<br />「……そうだ、それなら、新聞を使ってはどうですか」<br />(あ、こら、声大きい)<br />(ご、ごめんなさい)<br />(新聞。そう、スクールロア第30号。昨日の夜はそれ書いててね、眠いったらないよ)<br /> 早紀絵は小声でいう。<br /> スクールロア。早紀絵が発行している新聞名だ。<br /> オカルトを話題にしたり、学院内のゴシップを取りあげたりする、学内秩序を著しく欠く大変精神衛生上宜しくない新聞である。<br /> 新聞名の語源は、学校と、民話を意味するロアをくっつけたものだ。<br /> フォークロアというカバン語を、更にもじってスクールとロアをくっつけた俗語である。<br /> 昔からネットロアと呼ばれるものもある為、そこから考え出したのだろう。<br /> 非公式新聞である為、大々的に掲示される事はない。今はほとんど使われていない、中央広場に生える木の陰にある掲示板に張り出される。<br /> 読者数は不明だが、それなりに人気はあるらしく、発行されると生徒間で話題になる。<br />(あれ、どうやって印刷しているんですか)<br />(正規の新聞部のコピー機。貴重な電子機器だよん)<br />(でも、ちゃんとパソコンで書かれていますよね)<br />(違う違う。ワードプロセッサって知ってる? 文章特化のパソコンみたいなやつ)<br />(さて)<br />(六十年近く前は全盛だったね。以後はパソコンに移行したけど。印刷紙に直接文章を印字できる。技術ってさ、結局どこかに特化したものに戻ったりするのよ。それの現代版。文字書くだけだから、パソコンや携帯より学内の規制が緩い。自室でレイアウト決めて、新聞部のを借りるの)<br />(よく貸してくれますね)<br />(お友達がいるからさあ)<br /> ああ、と頷く。<br /> 早紀絵の口から発せられるお友達、というのは、大概アレだ。<br />(しかしなるほど……『学院に潜む謎。用途不明の鍵。そこに記されていた文字とは』でいいね)<br />「もしかしたら、結晶も、あるかもしれません、危険を感じたら、すぐ私に」<br />「あいさ、お、先生来たね」<br /> HRが開始する。<br /> 日々の事、注意事項、これから年末にかけての事。代わり映えのない話である。<br /> 黒板の脇に掲示されている時間割に眼をやると、一時限目は『健全』だ。<br /> 健全発育教育学習の略で、一昔前の小学校における総合学習やら学級活動に相当する。担任の担当である為、教員の変更はない。<br />「今日は思考発達テストです。プリントを配りますから、配り終わったら班を作ってください」<br /> 前から回って来たプリントを貰うと、近くの席をくっつけて、四人組を作る。早紀絵とは離れ、一つ向こうのアリスと一緒になった。<br />「さて、この一カ月何がありましたっけ」<br /> 思考発達テストは、一か月ごとに区切りがある。<br /> その一か月、何を想い、何を考え、どう行動したのか、書き出して行くのだ。その中から自分の考えるべき事、反省すべき点、伸ばすべきところを探り当てるのがこの教育の目的だ。<br /> とはいえ、自分の生活を丸裸にしてしまう可能性を秘めるこれは、皆のねつ造で作られていると言って良い。しかしそれでも良いという。考える事が主眼なのだ。<br />「色々ありすぎて、そろそろ頭が疲れましたね」<br />「恋心を抱いて」<br />「やめてください」<br />「苦悩して」<br />「ですから」<br />「告白してみたり」<br />「……」<br /> 一つ向こうの席で、アリスがはっちゃける。隣の生徒はアリスと杜花を交互に見て、物凄く興味ありそうな顔をしていた。<br />「という小説を書いてらしたんでしたっけ、杜花様」<br />「恥ずかしいから言わないでください」<br /> アリスに遊ばれている。ゆゆしき事態だ。<br />「まあ、杜花様は小説をお書きになるの?」<br />「た、嗜む程度に。人さまに読ませられるようなものではありませんので、悪しからずです」<br />「残念だわ。きっと人気が出るでしょうに」<br /> アリスに視線を送る。彼女は悪気のない笑みで此方を見ていた。悪気などあろうはずもない。ただちょっと杜花様を弄ってみたかっただけだろう。<br /> 本当に、厄介やら面白いやら、大変な人物になってしまった。<br />「杜花様は、する事が多いから書く事も多くて大変ですわね」<br />「アリスさんもそうでしょう」<br />「私はそうでもありませんわ。ルーチンワークも多いし」<br /> とにかく考えた、という事実とそれに対する対処法を書き連ねるのが目的なのだから、出来事を抽象化し、玉虫色にした思考を出して行けばいい。匿名であるし、書き方は自由である。<br /><br />『問題一』 新しい友人との関係構築について。<br />『思考』 N生徒との関係をどう作り上げて行くか。どのような人物なのか。何に配慮すべきか。<br />『詳細』 以前から知らぬところで少なからずの繋がりを持ったN生徒と知り合い、今後も確実に顔を突き合わせて行く為、相手がどのような人物でも否定ばかりでは禍根を生む。どうにか友好な人間関係を築きたいが、かなり特殊な人物であるので、対応が難しい。此方が何もしなくとも、少なからずの悪意を持っているように思える行動をとる事があるので、その対処に追われる。<br />『行動』 対話を持ち、冷静に相手の求める事を判断し、N生徒との境界線を引く事に成功する。相手も此方の意図を汲み取ってくれた様子で、以降、大きな問題は起きていない。ただ、関係維持に苦労する可能性がある為、ことは繊細だ。弛まぬ努力が今後真の友人関係を築き上げる事に繋がると考える。<br /><br />『問題二』 同輩との関係変化について一。<br />『思考』 S生徒との関係に変化が生じる事が少しばかり恐ろしい。元の関係ではいられない場所にきている。<br />『詳細』 かねてから付き合いのあるS生徒からのアピールが強くなる。幼馴染ではなく将来のパートナーとして歩まないかという、殆ど告白にも似た発言をされ、経験のない自分は戸惑うばかりであった。大変好ましくは思っており、長い友人でありたいと思っていただけに、その衝撃は比ぶるものが無い程のもので、未だ悩んでいる。<br />『行動』 心の広い人物であるし、長い付き合いの為、此方が答えを出さない事は承知している様子だった。相手に甘える形で、問題を保留する。現在案件を抱えている為、解決後にもう一度深く考え、相手の将来も慮り、禍根の残らない人間関係の構築に努めたい。<br /><br />『問題三』 同輩との関係変化について二。<br />『思考』 A生徒との関係に変化が生じ、前代未聞の事態に陥ってしまい、思考が停止する。<br />『詳細』 幼馴染であり、多少苦手なれど、大変尊敬していたA生徒から衝撃的な告白と行動に出られてしまう。問題二の生徒とはまた違った意味で大変色の濃い生徒である為、対応が困難極まり、好かれている事を嬉しく思う反面、辟易としてしまっている自分がいる。<br />『行動』 こちらも付き合いが長い為、A生徒は答えを出さない此方を非難したりはせず、大きく構えている。甘えてばかりで自分が嫌になるも、それすらも好ましいと言われる始末に訳が解らなくなる。行動も何もない。問題二の生徒と同じような、微妙な関係になってしまっている。優柔不断と判じられても仕方なく、自分は酷い人間であると自覚し、身勝手にもストレスを感じる。ただ、S生徒、A生徒、どちらも此方を好ましく思っている事実を知っており、今後二対一の戦いになる可能性が高い。解決が困難になる前に線引きをしたい。<br /><br /> ……ガシガシと消しゴムをかける。<br /> こんなもの幾ら匿名でも出せたものではない。エピソードを取りあげられた場合、確実に視線が杜花に集まってしまう。<br />「あら、消してしまうんですの?」<br />「色々と漏れだしていまして。破棄です破棄。アリスさんはどうなんですか」<br />「わたくしはー」<br /> どうやら人に見せられるものらしい。アリスからプリントを見せて貰うと、大半が杜花の事で埋め尽くされていた。<br /><br />『出来事』 心情の移り変わり<br />『詳細』 人の心は常に一定とは限らず、何かしらの切っ掛けによって大きな転換期を迎える事が御座います。私もその例に漏れず、かねてからお慕いしていた方に、その胸の詰まるような想いを告白致しました。小等部も一年の頃からの顔見知りであり、後の親友でもある生徒M様に対して、私は様々な気持ちを抱いていました。この気持ちが何なのであるか、様々と思案しました結果、恋心ではないかという結論に至りました。抑えるに抑えきれず、お恥ずかしながら、知人達の観ている前で告白を行いました所、良い返事は頂けませんでした。普段は何事もハッキリ仰る方なのですが、殊このようなお話になりますと、とたん口を噤んでしまう方でいらっしゃるのは承知の上でしたので、多少の懸念は有りますものの、特段と思い悩む結果には至りませんでした。<br />『今後』 生徒M様は現在とてもお忙しい身でいらっしゃいますし、諸問題を抱えていると耳にしております。M様は不誠実な方ではいらっしゃられないので、諸問題の解決後、必ずやお答えして頂けるものだと信じて疑いません。たとい望まぬ答えが帰ってこようとも、長い間の親友として、その後もお付き合いして行きたい次第です。<br /><br /> 思わず眉間を摘まむ。<br /> 名前こそ伏せられているが、観る人が観れば杜花とアリスの事であろうと察するに易い。<br />「流石にその、これはちょっと」<br />「どのようなことですか」<br /> と、隣の生徒、後藤田がプリントを持って行く。<br /> 暫く目を通し、顔を赤くしてから杜花とアリスを交互に見る。ほら見ろ。<br />「あ、アリス様と杜花様は、その、仲が、とても宜しいんですね……はふ」<br />「ほら、アリスさん、見てください。貴女が有害図書のような妄想を書くものだから、後藤田さんの頭がパンクしてます」<br />「あんまりな言い方ですわ、杜花様。妄想だなんて。せめて『事実を元にして書いているが、誇張表現も含まれる』程度にして頂きたいものです」<br />「テスト的には問題無いにしても、私としては問題があります。訂正を求めます」<br />「生憎、このテストに杜花様を配慮するような決まりごとはありませんのよ?」<br />「確かに、匿名ですし、特定し辛くはありますが、こういうものを外に出すのは同意しかねます。アリスさんは私の心情を汲み取ってはくれないのですか?」<br />「おっと、感情論ですの? 頂けませんわね。正当な理由が無い限り、私は取り下げたりしませんわ」<br /> このテストは何を書いても良い。筋だった問題と、思考と、行動が記されていさえすれば良いのだし、教員が評価する訳ではない。<br /> クラスでこのような事をこのように考えこのように行動しあわよくば解決した、というエピソードで取り上げられ、皆が他の人物の問題を共有し、議論したりなどする為にある。<br /> 勿論、特定されそうなものは、事前に教員が取り除くので、まず、まず無いとは言えるが、絶対安全ではない。<br /> どうする。<br /> アリスとまともに言い合って勝てる自信が杜花には微塵も感じられない。<br /> なのでやはり感情論だ。<br />「……私、もっと秘めたものが良いです」<br />「ぐ、ぬ……ッ」<br /> 大きな杜花が縮こまって俯く。<br /> アリスが顔をひきつらせ、隣の後藤田は心の中のテンションが上がりっぱなしなのだろうか、今にも『ふぇひひひっ』と笑いだしそうな顔をしている。<br /> 班のもう一人、田井中は我関せずと無表情を作っているが、さっきからカチカチとシャープペンシルを鳴らし、芯をプリントの上に二本三本とボトボト落として状況を見守っていた。<br />「杜花様、普段そんな顔、絶対しないくせに、ずるいですわ、ずるいですわ」<br />「ぶっひゅるっ……けふっ……お、おお落ち着いてくだひゃい、ふひ、二人とも……ッ」<br />「アリスさん……」<br />「わ、解りましたわ。解りましたから、ああ、うう、消しますわよぅ」<br />「とても助かります」<br /> 言質を取り、ウンウンと頷く。後藤田は漏れて来たツバを拭くのに必死だ。田井中は田井中で、いつの間にか全て外出してしまった芯を集めるのに必死である。<br /> 見計らい、杜花はアリスにウィンクを飛ばす。<br />「かわ……うう、憎らしい子ですわ」<br />「まあまあ。もっと当たり障りのない事を書きましょうそれが良いです」<br /> 結局、杜花もアリスも当たり障りのない出来事と対処を書き記し、提出した。<br /> 教員が集まったプリントをシャッフルし、特定を困難にして行く。ある程度混ざり終えたところで、教員は一枚のプリントを手に取った。<br /> ――瞬間、杜花に凄まじいまでの危機感が走り抜ける。<br /> そのプリントは不味い。<br /> 杜花の発達しすぎた第六感が、警鐘を鳴らし続けるが、教員は手に取ったプリントを……黒板に張り出した。<br /> 横目で早紀絵を見る。<br /> そうだ、このクラス、まだ危険人物が居た。いや、本来警戒するべきはそちらだったのだ。アリスは今回イレギュラーなのである。<br />「えーと。綺麗な字ですね。この一枚を取りあげてみましょう。『問題一、親友との友好関係について』はいはい。よくありますね。『思考、友情の上限とはどこか。愛情の下限とはどこか。想いをどう伝えるべきか』……あら、面白いものを手にしてしまいましたね。学校で推奨する訳ではありませんが、先生としては、学校に居る間に、得られるべきものは全て得るべきだと考えています。さて……『詳細、今の時代、同性同士の恋仲も珍しくはなくなりました。学院で暮らしている方々は、日々どこかでそのように浮ついた話を耳にしていると思います。私個人もまた、性別関係なく人を好む人間で、中でも長い時間を過ごしてきた友人に、殊更強い気持ちを抱いています。あまり強引な手段は相手を傷つけてしまいかねないので、自重を余儀なくされていますが、とにかく常々もどかしく思っていました』……面白い子がいたものですね。『対処、相手との温度差に悩みながら過ごす苦痛は誰しも感じた事があると思います。私の場合は相手がとても近いだけに、温度差を余計に感じてしまい、まるで一人だけ小躍りして、冷めた目で見られているのではないかと大変不安になりました。生徒……』……えっと……」<br /> 教員の言葉が途切れる。<br /> 本当に、本当にチラリと、教員の目線が此方に向いた。<br /> 杜花はまた、早紀絵に小さく視線を送る。早紀絵はガン見していた。杜花は決意する。寝よう。<br />「……えーと。ごめんなさい、これはちょっと特定出来てしまいますね。ただ、対処の部分は省くにしても、そう、この学院は小等部からずっと一緒だという子が多いので、決して他人事とも言えませんね。同性同士の結婚が認められて二十年ほど経っていまして、学院内でも、チラホラ耳にします。卒業生の中にも、学院を卒業後に結婚したというお手紙を頂く事もあります。ただ、交遊を深めすぎて、その二人同士、もしくはその二人を取り巻く人たちとの諍いが無い訳ではありません。絶対的には否定できず、しかし様々にセクシャルな問題と、友好関係の破壊に繋がりうるこういったお話は、皆で考えて対応を話し合うのに十分な価値があると思います」<br /> 教員は精一杯に繕った。その教育魂に、杜花はひっそりと涙する。<br /> この人は少しおっちょこちょいだが、生徒の気持ちを思いやれる、素晴らしい教育者だ。ただちょっと選択肢を誤っただけだ。<br />「班で議論し、まとめたものを提出してください」<br /> アリスを見やる。なんだか少し嬉しそうな顔をしているのが、何とも言えなかった。<br /><br /><br /><br /> 娯楽のない学院において、楽しみというものはそう多くは無い。何かしら小さな事でも楽しみを見つけて行かねば、ストレスを抱えるし、孤立しがちになってしまう。<br /> 由々しき事だが、当然イジメも存在する。<br /> それは趣味の不一致であったり、群れたがらなかったり、話が下手だったり、弱気だったり。<br /> 運動系なら運動音痴、文化系なら不器用、音痴、様々と理由はあるが、学院特有で名物ともいえるのが、家格の高低差である。<br /> その点やはり杜花は特殊だった。<br /> 実家は歴史ある神社とはいえ規模は小さく、周りのお嬢様方に比べればその経済的な家格はどうやっても目劣りする。<br /> 私立で、屈指のお嬢様学校である観神山女学院に入学するとなれば、それ相応の経済力と、コネクションが必要になるのだが、当然そんなものは欅澤家にはない。しいてあげるなら、祖母と母がここの卒業生であるという事ぐらいだろう。<br /> 杜花は特待生だ。<br /> 入学試験において判断力テスト、運動能力テストでずば抜けた成績を収めている。<br /> 一般的な学力テストは平凡より少し上程度だったが、その二項目においては、ずば抜けた、という言葉すら生ぬるい成績であった。上限を設けていないテストで、単純に全国平均の約三倍である。<br /> この結果に驚いたのは両親であり学校だ。祖母は当然のように頷いていた。<br /> 中等部卒業までに何かしらの成績を収める、という条件で入学費、学費を全免除され、本人は進んで何かをする事はなかったが、中総体の県記録は陸上部門で殆ど杜花に塗り替えられた。<br /> 経緯は様々とあり、普通の女子高生と分類するにはいささか抵抗のある杜花だが、やはり根っこは一般家庭の子である。<br /> そしてそんな杜花が小さく楽しみにしているのが、食事だ。<br />(今日のお腹は洋食を欲している気がする)<br /> 中央広場近くに建てられた高等部用学食にて、杜花は手前のメニューとにらみ合っていた。<br /> 学院の学食は細かいメニューの指定がない。和、中、仏、伊、露、西、米、土、別枠で洋食、などと国を選ぶと日替わりメニューが提供される仕組みになっている。<br /> 西はスペイン、土はトルコだ。<br /> 和中仏伊は解る。日本でも一般的な食事だ。<br /> しかし米、となると、それはジャンクフードではないのか。<br /> 仮にも、日本屈指のお嬢様学校の高等部の昼食がハンバーガーにコーラで良いものか。<br /> 杜花は小等部からここに暮らしているので然したる疑問はないが、教員たちの間では『なんでジャンクなんだよ』という話は毎度持ち上がる。<br /> しかし学院長の答えは明確だ。<br />『この子たちずっとここにいるわけで、もし外でハンバーガー食べる事になった場合、手掴みに抵抗を覚えて相手方と食事を楽しめなくなってしまうんじゃないかと思うのでいれました』というものだ。アメリカ料理の項目にはその注意書きがある。<br />「オバ様、今日の洋食は」<br />「エビフライランチ」<br /> 杜花は小さくガッツポーズを決める。やったのだ。<br /> そもそも洋食とは、日本における西洋料理の総称である。<br /> カテゴライズが難しい部類で『日本風の西洋っぽい料理』は大体洋食に入る。学院ではカレーも此方に分類される。<br /> 杜花の所帯染みた感性もあり『本日洋食ありマス』の立て札を見ると、何か心がほっこりした。<br /> 勿論、ご立派なご息女をお預かりする学院であるから、料理に手抜かりはない。<br /> あちこちみても、禅料理めいたものを静々と食べている生徒や、音一つ立てずスープを啜っている生徒もいる。<br /> 確かに美味しいのは知っている。が、今日の杜花のお腹は洋食だった。<br /> お盆を受け取る。<br /> ご飯、お味噌汁、お漬物、そして綺麗に千切りにされたキャベツとその他野菜のサラダ、上には神々しく坐す四本のエビフライ。<br /> ソースは小皿に二種類が取り分けられている。タルタルとウスターだろう。<br />(嗚呼、定食だ。すごい、物凄く庶民っぽい。私庶民だって実感出来る)<br /> お歴々に持て囃される杜花御姉様として居ると、自分が普通の庶民である事をたまに忘れてしまうが、洋食を手に取った瞬間に得られる一般人な空気に、杜花は現実を見る事が出来た。<br /> 心躍らせながら、適当に窓際の席を選ぶ。<br /> 授業終了後、頑張って早歩きして来たので、まだ人も疎らだ。<br /> 清潔感溢れる食堂は白を基調にしている。デザインに凝ったテーブルに椅子。全面ガラス張りの外からは昼の心地よい陽気が降り注ぎ、もう冬も近いという事を忘れさせられる。<br /> 素晴らしい昼。<br /> こんな昼を毎日味わいたい。そう思いながら、手を合わせ、食材の生命と、漁師と、農家と、卸しと、運送会社と、石油会社と、その他調味料を作っている会社とか、なんかそれらに感謝する。<br />「いただきます」<br /> 箸を持ち、まず味噌汁を啜る。<br /> 化学調味料を使わない天然の旨味が利いたダシ、辛すぎず香りの良い味噌が口内を湿らせる。<br /> ほぅと一息。周りに人が居たのなら、杜花の恍惚の表情に生唾を飲み込んだやもしれない。<br /> お椀を持ちかえ、ご飯を一口する。<br /> 噛みしめるほど甘みがある。農作物はかのテロの影響で大変な被害を被ったと杜花も聞き及んでいる。それでも農家は諦めず、農地の除染、品質改良を重ねた結果に齎された奇跡がこの米だ。涙の出る想いである。<br /> そしてメインのエビフライだ。<br /> 箸で丁重に掴み取り、まずタルタルソースをつけてその口に運び込む。<br /> 至高の揚げたての揚げ物。荒めの衣を使っているらしく、歯ごたえがある。<br /> サックリ、という良い音と共に、中に閉じ込められていたエビの艶めかしい肉の旨味が口内に弾ける。酸味とまろやかさがあいまったソースがまた、その味を引き立てた。<br /> 噛みしめ、飲み込み、杜花は一人頷いた。<br />(もしかしたら、過去最高傑作ではないでしょうか)<br /> 少しお行儀が悪いが、エビを箸で掴んだまま、食堂のオバ様に目線を送る。<br /> オバ様は力強く頷いた。杜花も嬉しくなる。<br />(三十本くらい食べられそう)<br /> 出来ない事も無いが、次の日には『欅澤杜花様がエビフライの大食いに挑戦して食堂の在庫を枯らした』と言われかねないのでまずやらない。しかしともかく、それぐらいに美味しい。お昼時の一番お腹が空いた頃である事も要因だろう。<br /> 至高なのか究極なのか良く分からないが、とにかく素晴らしいエビフライランチを、綺麗に、静かに、美味しそうに、全てが満たされた想いで食べて行く。<br /> 杜花の姿を見つけた数人は、すっかりその姿に見入っていた。<br />「あふ……ん?」<br /> ご飯味噌汁エビフライキャベツのローテーションで八割方頂き終わった頃、入口に見知った姿を見つける。いつも四、五人のグループで行動をしている三年生だ。<br /> しかし違和感がある。いつも中心にいる人物が見当たらないのだ。<br />「こんにちは、槐さん」<br />「あ、ああ。これは、欅澤さん。ごきげんよう」<br /> 槐那美(えんじゅ なみ)。<br /> 高等部の三年生で、遠縁に皇族がいるという、ご立派な家の子女だ。<br /> 彼女の従姉に当たるのが、いつも真ん中に居る筈の居友御樹なのだが、近くに寄って来た彼女達を見ても、やはりいない。<br />「居友さんはどうしました?」<br />「い、いえ。ミキは少し体調を崩していて、医療保健室に暫く泊まっているの」<br /> 医療保健室は名前の通り医療設備を整えた保健室で、外科、内科、小児科、歯科、心療内科が併設されている。<br /> レントゲンどころか最新式のMRIなども備えつけてあり、よほど大きな病気でない限り手術も可能だ。大きくはないが入院設備も整っている為、短期継続的に治療が必要と判断された場合は、お泊りとなる。<br />「どこか悪くされたのですか……あ、ご一緒に」<br /> 取り巻きがランチを持って杜花の近くの席に腰かける。<br /> 杜花の隣に座った槐は、料理を持ってこられても、食が進まないらしく、小さく摘まんでは口に運ぶ程度で、まるで病人のようだ。此方を入院させるべきではないのか。<br />「よければ教えてください。居友さんとは、浅からぬ仲ですし」<br /> 居友御樹といえば、中央広場事件の主犯である。アリスに突っかかった居友を、市子と杜花が止めに入ったのだ。<br /> それだけならば禍根も残るが、まさか市子と杜花がそのまま放置するわけがない。幾度となく市子主催の茶会に誘い、二人で籠絡にかかったのである。<br /> 以来、居友は『仲の良いお知り合い』という仲だ。<br /> 居友は存在感がある。<br /> 市子やアリスと似たものを持っている、お嬢様然とした人物で、居れば必ず目立つ筈だ。<br /> ここ最近見かけなかったのは、そういう理由があったらしい。<br />「いえその……何と言いますか……身体に別状は無いのです」<br />「……では、心?」<br /> 杜花の直感が、嫌な予感を捉えている。<br /> そういえばと、早紀絵の話を思い出した。<br />「欅澤さんには、申し上げにくいと言いますか……」<br />「市子御姉様の事ですか」<br /> 杜花が市子の名前を口に出すと、取り巻き二人の雰囲気が変わり、重苦しくなる。予想通りだ。<br /> 早紀絵の話では、黒い影を目撃した後、ショックで医療保健室のベッドを埋めている人が何人かいる、というものであった。<br /> ただの黒い影ではなく、居友には市子の影に見えてしまったのだろう。<br /> 市子と杜花による籠絡作戦後の居友御樹は、体裁的には反市子を繕っていたが、実際のところ、かなり仲が良かった。<br /> 対外的に『反市子の最右翼』として名前は上がるも、その実、市子と共謀して『御姉様二大勢力図』のようなものを作り上げていた雰囲気がある。<br /> そんな背景もあり、実情を知らない彼女達は、杜花に対して素直に告白は出来ないのだろう。まして自分の『御姉様』が病床に伏しているとなれば、不安で押し潰される想いだ。<br /> 杜花には嫌という程解る。<br />「もう市子御姉様は居ませんから、バラしてしまいますけれど」<br />「はて」<br />「市子御姉様と居友さん、とても仲が良かったですよ。もしかすれば、居友さんはまだ隠しているのかもしれませんけれど。槐さん。私は、この通り。慕うべき彼女を失った人間です。貴女が今、どれだけ苦しんでいるか、十分解るつもりです。そんな私でよければ、是非聞かせてください。何があったのか。相談に乗れるかもしれません」<br /> 槐も杜花の気持ちを推し量ったのか、辛そうに俯く。<br /> 旧体制の御姉様方一人が死去、一人が病床ともなると、学院全体の雰囲気にも悪い。現に、市子が亡くなった当初の学院といえば、まるで水を打ったように静かだった。<br /> 不幸が続き、嫌な噂もちらほらと耳にする。<br /> 杜花はそれを打破しなければいけない。<br /> 誰に背負わされたものでもない、自分の責任でだ。<br />「おかしいと思っていたんです。あれだけ市子様を嫌う風にしていながら、影でどれだけ市子様の死を嘆いていたか。それに今回も……欅澤さん……いいえ、杜花様、こんな不甲斐ない年上を、助けてくれるかしら」<br />「一つ上なだけです。辛かったですね。皆さんも。抱え込むのは、本当に辛い。是非、話してください」<br /> 取り巻きの一人が俯き、涙で袖を濡らす。居友の不調も堪えたのだろうが、直接的にではないにしろ、今の学院に広まるうす暗い雰囲気に、辟易としているのかもしれない。<br /> 噂話だったらどれだけ良かっただろうか。<br /> ただの噂であったものは、今生徒達の眼の前に、着々と顕現し、不安を与えている。<br /> 同時に市子の、根も葉もない悪い噂が広がる。早急に止めねばならない。<br /> 槐はハンカチで眼元をぬぐってから、静々と語りだす。<br />「ミキが倒れている事は、伏せてあります。実家の用事だとしてありますけれど、医療保健室に居る所を観た生徒がいるらしく、また余計な噂が立ってしまって」<br />「最初から別の病気としておくべきでしたね」<br />「……おかしな話と……笑ってくださっても」<br />「いいえ。全面的に信用します。黒い影ですね」<br />「……ッ……はい、はい。そうです。今から二週間程前の事でした。ミキと、このメンバーで、いつものように談話室を借り切り、談笑をしていたんです」<br /> 居友のグループの本拠地は高等部第一校舎だ。<br /> 第二校舎よりも日当たりが悪いと不評ではあるが、夏は涼しく、特別教室などは皆此方に入っているので、移動教室の際とても便利である。<br />「誰からの話だったか、一部の人しか知らない生徒資料室がある、という話題が持ち上がりました。もう長い間この学院に暮らしている私達ですから、そんなものは見たことが無い。それで高等部図書館で、校舎改装前の地図を拾ってきて、調べたところ、どうもデッドスペースが幾つかあるのだと解りました」<br />「二千年代初頭の改装ですね。今はもう四回、五回と改装が入っていますから」<br />「はい。ですから、もう他の部屋とくっついてしまったか、塗り固められているのではないかと、私は思ったのですけれど、ミキが興味を示しまして。確かミキは『禁制本があるかもしれない』なんて、根拠もなく言っていました」<br /> 禁制本。<br /> つまるところ、学院内に持ち込み禁止で、見つかった場合没収されて卒業まで保管されてしまう、禁制品の事だ。<br /> 市子はどこに仕舞っていたのか、禁制品の漫画や小説を隠し持っていたはずだが……。<br /> 杜花の頭が回る。<br /> 早紀絵が持ってきた鍵に関わりがあるかもしれない。<br /> そもそもこの学院、改築に改装を重ねて、将来の生徒数増加も視野に入れている為、無駄なスペースが多い事で有名だ。<br /> 高等部だけでも旧第一校舎、第一校舎、第二校舎と三棟存在する。<br /> 杜花の記憶が正しければ、小等部入学以来第一校舎は二度、第二校舎は一度改装が入っている。実際のところ、ちゃんとした間取りが描かれた製図など存在しないのではないかとすら言われていた。<br /> ミキの話はあながち根拠のない話とは言い切れない。<br />「それで、四人は探しに出た」<br />「はい。閉寮前には戻ろうと言う事で、第一校舎を見て回りました。二手に分かれて、私とミキ、そしてこの子達で、一階から三階まで隈なく探し回っていたのですが、私が御手洗いに行っている隙に、ミキの悲鳴が聞こえて」<br />「何時頃……でしょう」<br />「十七時少し過ぎたあたりでしょうか。二階廊下でした。もう周りは暗かった。悲鳴を聞き付けた私達が駆け寄ると、ミキは震えていて……市子が、市子が、と。黒い影が観えたと。生憎、私達は見ていないんです」<br /> 状況としては、先の岬萌と同じだろう。今回は出現が早い様子だ。そもそも、決まった時間に現れるとは限らないし、噂の出現時間を比べても、時間はまちまちだ。<br />「どんな様子で現れましたか」<br />「……走って迫ってきた、とか」<br /> 早紀絵が一番恐れていたものだ。<br /> 杜花は元からそれがなんであろうと恐怖は無い。原因も判明しているのだから、原因物を取り除くだけで、この問題は解決する。<br /> あとはスクールロアにでも解決したという噂を流せば、有る程度片がつく。<br /> 今回はだいぶ発見が難しそうであるし、二子を伴った方が無難だろう。<br /> 何よりも、鍵が問題になる。<br /> あの鍵は扉を開くものではなかった。もし、鍵をかけられて密閉された箱や机に入っている場合、取り出すのに手間がかかる。二子から『丁重に扱ってね』と釘をさされているのだ。<br /> そうでなければ、杜花なら鍵(腕力)で解錠可能である。<br />「理解しました」<br /> 水を口に含み、ゆっくり嚥下する。<br /> 場所は高等部第一校舎。時間は六時までだろう。以降は施錠される。<br />「どう、されるのです?」<br />「アテがあります。いち早く問題を解決して、居友さんの元気を取り戻しましょう……ああ、アテが来た」<br /> 入口から、小さい肢体の少女が、威圧的に入ってくる。<br /> 彼女は歩くだけで周りから振り向かれ、振り向かれるたびに笑顔であいさつをしている。<br /> 七星市子の義理の妹、それも勿論有るが、彼女そのものが傑作品だ。生徒の中には、一目見て眼を保養しようという者もいるだろう。<br /> あの性格でなければ、杜花とて危ういところである。<br />「モリカ、貴女、お腹減っているのはいいけれど、あんなに早く行かなくてもいいでしょう。もう食べ終わってるし」<br />「だって、お腹空いたんですもん。あれ、見てたんですか?」<br />「たまには貴女とランチと思ったのよ。私の事避けてるし。迎えに行こうとしたら、競歩みたいな速度で食堂方面に歩いてく貴女が観えたでしょ、それ見てちょっとぐったりしたのよ」<br />「ニコではお腹が満たされないじゃありませんか」<br />「それ、聞こえによっては結構酷いから、考えて発言した方がいいわ。で、モリカ、この人たちは?」<br /> 近くで見て、余程驚いたのか、槐は目を見開き、あわてて挨拶した。<br />「槐那美、三年生です。ごきげんよう、その、七星さん」<br />「槐。ああ、居友の親戚。七星二子よ。今後ともよしなに。何話してたの?」<br />「例の事です。居友さんが目撃したみたいで。今は少し休養中です」<br />「なるほど。居友とは仲良くしていたみたいだしね、姉様。それで、杜花はどうするの」<br />「解決に向かいます……槐さん」<br />「はい。あの、もしどうにか出来るならば……お願いします。もう出ないと解れば、あの子も」<br /> 望んでも戻らない、輝かしい日々が杜花にはあった。<br /> だが、彼女達にはまだ希望がある。<br /> 居友に詳細を伝えるのは無理だとしても、杜花自身が解決に乗り出したと聞けば、少なからず安心出来るだろう。悲しみを広げてはならない。<br /> 居友には、踏ん張ってもらわなければならないのだ。こうして悲しむ人達の為にも、この学院の雰囲気を変える為にも、耳にしたくない噂を消し去る為にもだ。<br />「私は御先に失礼します。槐さん」<br />「はい」<br />「私は思うんです。一番辛い時に、何でも話して、何でも聞いてあげられる人が隣にいるべきだと。もし相手が話してくれなくたって、殴りつけてでも話させるんです。勝手に死なれるより、遥かにマシですから。居友さんをお願いします」<br />「――はい」<br />「では、また」<br /> それがどれだけ重たい言葉なのか、ここにいる全員が理解する。<br /> 愛しい人が何に悩み、何を考えていたのかも解らないままに消えてしまう悲しさ、虚しさ、恐ろしさは、経験が無くとも、説得力を持って迫る。<br /> 槐らに背を向け、二子を伴って席を離れる。<br /> カウンターを通り過ぎようとしたところで、杜花の袖が下から引かれた。二子が少しむくれている。<br />「こら、モリカ」<br />「なんですか、もう」<br />「一緒にランチして。まだ食べられるでしょ。軽食を貰って、どこかで食べるの。いいでしょう」<br />「解りました。BLTサンドにしましょう。こういう時アメリカンは役に立ちますね」<br />「うん」<br /> 食堂のオバ様に『その胸維持するのにカロリーが必要なのね』と突っ込まれながら、二人分のBLTサンドとカップに入ったコーヒーを受け取り、食堂を後にする。<br /> 二子は背の高い杜花を見上げながら、興味深そうに胸部を凝視し、自分の胸と比べる。<br /> 二周り程体型が違う上に、杜花の胸は平均女性の一、二周り大きい。<br /> 幾つ、と問われたのでGと答えると、二子が変な顔をした。確かに、二子はブラも必要ないだろう。それを考えると杜花はあまりにも強大な存在であった。<br />「胸の大きさが女性としての品格を決めるものではないわ」<br />「私は運動するので、少し邪魔ですね。あと、外に出ると男性の視線がちょっと」<br />「気にする事ないわよレズビアンなんだし」<br />「酷い。私別にレズビアンじゃないです。私を慕ってくれる人が大概女性なだけですし、この学院女性しかいないです。そもそも男女比べるほど出会ってないです」<br /> 何か性癖に対して言い訳しているようにも見えるが、杜花の言葉に嘘はなく、本当に性別を比べる程男性に出会っていないのだ。とはいえ、今後男性に針が振れる気がしないのも確かである。<br />「姉様とはどうなのよ」<br />「御姉様に関しては、男女関係ありません。そういうの、超越してます。解るでしょう」<br />「じゃあ早紀絵とアリスは」<br />「……幼馴染だし、親友ですよ」<br />「あの二人がそれで納得するもんですか」<br />「そうそう。言いたい事があったんですよ、貴女に」<br /> 朝の冷え込みとは打って変わって、昼の日差しは温かい。上着を着ていれば凍える心配も無いだろうとして、野外の屋根がついた休憩所を選ぶ。幸い他の生徒の姿は見受けられない。<br /> 二人は向かい合って座ると、杜花は早速頂きますをして、BLTサンドにかぶりつく。<br /> 他の店のBLTサンドは食べた事など無いが、これも間違いない。<br /> しっかり燻製がきき、味を損なうか損なわないか、ギリギリのところまで炒められたベーコンの塩味と、シャキシャキのレタス、瑞々しく甘みあるトマト、そして手作りマヨネーズの酸味が合わさり、食べているのに余計食欲が湧く。パンも当然食堂で焼いているので、香りがたまらない。<br />「はふ……」<br /> この旨味が残っている間にブラックコーヒーを流し込むと、味がリセットされると同時にまた齧りつきたくなる衝動に駆られる。まるで永久機関だ。<br />「いつも思っていたけれど……惚れ惚れするほど美味しそうに食べるのね、貴女」<br />「食べるのが好きなんです。その分動きますけど……これ美味しいなあ……」<br /> あまり美味しかった為か、下品にも手に付いたマヨネーズを舐め取ってしまった。<br /> 二子の前であるという事にハッと気が付き、目線を逸らす。<br />「ふっ……くっ……なにそれ何よそれ。モリカ、貴女、なんかエッチだわ」<br />「心外れひゅ。発言の撤回を求めまひゅ」<br />「食べてから喋りなさいよ……ああもう……ねえ貴女」<br />「はい、なんですか?」<br />「私の近くで『安心』してるでしょう」<br /> ギクリ、とした。<br /> 確実に、間違いなく、まず人に見せないような姿を晒してしまった。<br /> 何かと視線のあるこの学院、粗相一つでも話題になりやすい杜花は、細心の注意が必要な暮らしをしている。人気維持の為にしている訳ではなく、市子の妹として恥じない姿こそが必要だからだと思うからである。<br /> ではこのありさまは何か。<br /> こんなもの、それこそ市子の前でしか見せないものだ。<br /> BLTサンドの旨さを憎みつつ、取り敢えず包みをくるんでテーブルに置き、コーヒーに口を付ける。二子といえば、物凄く嬉しそうにポソポソとサンドを齧っている。<br />「うん。手ぬかりない作り……。あ、そうそう。魔力結晶、一つ回収したわよね」<br />「ええ」<br />「力と同時に込める想いは人それぞれなのだけれど、姉様に関しては、込める想いを整頓している様子ね。一つ目の結晶は客観的な思考が詰められている様子だった。持ち主本人じゃないから詳細は解らないけれど、傍から見た貴女、に関してもあるみたいね」<br />「知りたくない情報でしたね」<br />「今ちょっとだけ、私に姉様を見たでしょう。貴女の素が出てたってことは」<br />「……否定しません。何せ気を張る生活をしていますから、親しい人の前でくらい、ゆっくりしたかったという気持ちが、貴女で錯覚を起こしてしまったのでしょう。不本意ですが」<br />「うん、うん。それでいいの。私も自信が湧くから」<br />「同一視されて、頭に来たりしないんですか?」<br />「来ないわ。義理とはいえ姉。まして愛しい姉様。彼女は私、私は彼女。一番の妹の貴女に認めて貰えるってことは、喜びこそすれど、怒りなんてない」<br /> 物申したいが、そこは避ける。墓穴を掘る可能性が高い。<br /> 四つある魔力結晶の内、一つは回収済み。もうひとつは目途が立った。<br /> それを含めあと三つ、果してどこにあるか解らないが、せめて来年の頭までには解決したい問題だ。杜花の耳にも、影の噂が聞こえ始めている。<br /> それにしても、と思う。<br /> 何故市子はこれほど重要視され、なおかつ問題になりえる結晶を隠したりなどしたのだろうか。<br /> 手紙には『迷惑をかけてやりたかった』とあるが、杜花が巻き込まれる事は間違いなく想定したであろうし、手紙程度で杜花の歩みが止まる訳がないと、解っていた筈だ。<br />「何故隠したんでしょうね」<br />「自殺した理由と関係あるかもね」<br />「私と親しかった妹達には、それとなく聞いてみましたが、理由を語られた子はいませんでしたね」<br />「杜花が言うならそうでしょう。やはり貴女宛の遺書があるわ」<br />「次の結晶にも、手紙が入っているかもしれません。それに期待しましょう」<br />「そう、ね」<br /> 二子の眼が細まり、杜花を見つめる。<br /> 目を離すのも負けたような気がするので、杜花も見つめ返した。<br /> が、二子は暫くして、諦めたように目線を逸らし、BLTサンドの残りを咀嚼する。<br /> 魔法を使おうとしたのだろう。<br /> 生憎、余程自我が薄まっているか、相手を受け入れた状態でなければ杜花には効かない。<br /> 二子の用いるものは、市子も用いていた。導入を必要とするらしく、手法的にまるで催眠術だが、催眠術では説明のつかないような効果がある。<br /> 相手の思考に介入し、情報を引き出したり、幻惑を見せたり出来るらしいのだ。<br />「お生憎様」<br />「貴女の寝ている間にでも、と思ったのだけれど、それもダメだったの」<br />「ニコ、それは最悪ですね……あ、思い出した」<br />「何?」<br />「貴女、アリスに掛けたでしょう」<br />「少し素直にしただけよ。本人が否定すれば出来たレベル。でもあの子、完全に受け入れてるもの」<br /> 少しも悪びれる事なく、二子は手元のコーヒーに口をつける。<br /> 元から社会性がなく、常識外の存在である事は理解していたが、こうも相手の同意なく魔法を使うのでは、危なっかしくて仕方が無い。<br /> それは人間の尊厳を傷つける行いであるし、市子から魔法にはリスクを伴うと聞いている。<br />「人には知られたくない事が沢山あります。例え貴女が自尊心旺盛で、他人を人とも見ていないとしても、故意に人を操るなんて真似を許容できる筈もない。やめてくださいね」<br />「モリカに規制される謂われは無いわね」<br />「もし御姉様に近づきたいと思うのなら止める事です。私も嫌いになるでしょうから」<br />「……考慮するわ」<br />「頭、痛くなるんでしょう」<br />「頭痛薬でなんとかなるから、心配いらないわよ」<br /> 杜花に嫌われる事は避けたいと見える。使い方が慎重になるだけだろうが、目立った使用をされるよりマシだとして、杜花は納得する。<br /> 相手様の力を使う使わないなど、本来他人の杜花がどうこういう問題ではない。親しい仲ならば親身にもなるだろうが、相手は二子だ。<br />「あれを使うってことは、何かしらを引き出そうとしてますね」<br />「そ。姉様がこの学院でどう暮らしていたのか知りたいの。それに、地均しでもある」<br />「地均し?」<br />「舞台が必要なの。踊っている間に、足元に石ころなんてあったら、躓いてしまうでしょう?」<br />「常々思っていたのですけれど、何か企んでますよね」<br /> 杜花の言葉を聞いた二子は、スクと立ち上がり、手元のゴミを丸めて投げる。ゴミは放物線を描いてクズ籠に収まった。<br /> 二子は髪を揺らして、杜花に振り向く。<br />「私が何も企んでいないように見えて? 企みがあるから、この学院に入学して、貴女に近づいて、貴女の周辺を嗅ぎ回り、姉様の遺物を回収してるの。安心して。貴女最大の味方は私であり、最大の敵は私なのだから」<br />「解りやすくて助かります」<br />「うん。杜花、手を繋いで。校舎に戻りましょ」<br /> 周りの視線を鑑みると、並んで歩いているだけでも注目されるのに、手を繋いだらどんな噂が立てられるか解ったものではない。が、二子が何にせよ、どんな企みがあるにせよ、今彼女が向ける笑顔は無垢で、行動に対する打算は一切見いだせない。<br /> 杜花もゴミを片づけると、ハンカチで手をぬぐってから、二子に手を差し出す。<br /> 手を繋ぐ筈だったのだが、腕を組まれた事は計算外だった。<br />「なんだか、機嫌がよさそうですね」<br />「私も、モリカの前では少し素直で居ようかしら。貴女が貴女を見せてくれるなら」<br /> 憎らしいと、そう思っていたのではなかったのか。<br /> 杜花が市子に愛されるのを憎悪していたのではないのか。<br /> 下から覗きこむ笑顔を見ていると、それらがまるで嘘であったかのようだ。<br /> 美しい子だと、そう思う。<br /> じわじわと、七星市子の居た場所に、七星二子が入り込んでくるような感覚を認める。<br /> それが他の誰かだったのならば、全力で否定しただろう。<br /> 杜花の中にある市子のスペースは、神聖不可侵だ。<br /> しかし殊二子に関しては、防衛機能がまともに働いていないのだろう。<br /> 認識上の誤認、経歴の詐称、セキュリティー不具合、感じるたびに、受け入れるたびに、不安は広がるが、どうする事も出来ない。<br /> 幼さとは邪悪だ。<br /> 打算無き打算、悪意無き悪意が、杜花の世界を浸食している。<br />「……今日の五時。第一校舎入口でいいですね」<br />「ええ。初デートね。楽しみだわ」<br /> 怪談相手に喧嘩しに行くというのに、暢気なものだ。<br /> 魔力結晶の齎す不具合。そして、それを取り戻す事で、どうやら二子は彼女の生前の感情を感じ取れるという。敢えて二子にそれを追及はしなかった。気取られるのを嫌ったのである。<br /> どうにか、杜花だけで、市子の生前の想いを知る事は出来ないだろうか。<br /> 結晶がもたらす影と、対話は可能なのだろうか。少なくとも以前のものは無理だった。<br /> 残り三個の魔力結晶。<br /> 全て持ち出され、全て七星の手に渡る前に……市子の想いを知りたい。<br />「モリカの手、やっぱり温かいわね」<br /> ……腕に縋りつく彼女の笑顔に、ほんの少しだけ、引け目を感じる。<br />「手の温かい人間は、心の冷たさを隠しているそうですよ」<br />「冷たいか温かいか、判断するのは他人よ、モリカ」<br /><br /><br /><br /><br /> 先に用事を済ませてしまおうと考えた。<br /> 観神山女学院高等部は、休日祝日開けの次の日に一時限目がない以外は、全て六時限目まで授業がある。授業時間は基本五十分、終了時刻は十五時三十分で、HRと掃除が終わると、必要な人間だけ選択科目の授業を受ける。一般的な高校のソレと大差はない。<br /> そもそもが進学も就職も目指していない学校だ、主眼は全て規則正しい生活そのものにある。<br /> 有り余る時間は部活動に向けられる。<br /> 数は少ないが、芸術系の特待生は何人か存在する。美術部も規模が大きく、観神山女学院の生徒だけで作った展覧会が市内で催される機会も多い。<br /> 運動部はなかなかの成績を収めており、個人ではあるが全国選手も輩出している。<br /> 杜花もその一端を担っているのだが、普通科しかない学院だ。体育科を置くべきではないかと議論があるらしい。一昔前と違って女子校の数も増えている、体育科でも有名になれれば宣伝にもなるだろう。<br /> とはいえここは唯の学校ではないので、作るのは難しい。<br /> 学院の品位を落とすとまでは言われないが、一般生徒が大量に入れば、それではプレミア感が減るからだ。ある程度の宣伝が出来れば満足なのだろう。ここはそういう場所だ。<br />「ちょいと」<br />「はい、なんで……うぇ!?」<br />「シッ。あまり大きな声を出さないでください、はしたないですよ」<br />「すす、済みません……」<br /> 高等部よりも放課が早い中等部だ、そろそろ人も疎らになるであろう頃を見計らい、杜花は中等部校舎に来ていた。プレートには『3-1』という表記がある。<br />「突然ごめんなさいね、川岸さんはいらっしゃいますか」<br />「川岸、ですね。えーと、ああ、部活に行ったと思います」<br /> 教室を覗きこんでも、確かにその姿は見受けられない。<br /> 今朝の今、早速お返事を返す為に杜花は中等部まで来ていた。<br /> 川岸命と言ったか。神様のような名前だ。<br /> 手紙を読む限り、多少危ない性癖を抱えている様子なので、あまり引き摺りたくはない。<br />「川岸さんは、何部で?」<br />「総合格闘技部です。強いので、高等部と混ざって練習していると思います」<br /> ああ、周りと目の付けどころが違うと思っていたら、どうやらそういう類の人間だったらしい。<br /> しかし近づき難い部活に所属しているものだ。<br /> 総合格闘技部。<br /> 女性社会の肥大化に伴い、『強い女性(物理的)』を目指し、護身術よりも此方に目を向けた結果、今日本でそれなりの人気を博している競技だ。<br /> 女子部門は高総体の種目には含まれていないのだが、近いうちに種目入りされると目されている。<br /> 現在公式の試合といえば『(株)格闘技日本』主催の大会で、世界大会も存在する。年齢だけで差別化されており、体重差階級がない。<br /> 杜花の二倍近い体格の、熊のような女性も出てくるが……杜花は去年の若年部チャンプだ。<br /> 約三百人近い参加者の中、ただの一撃も食らわず、黒髪を靡かせてリングを駆け抜け頂点に上り詰めた杜花の異名は、実況アナウンサーが絶叫してつけた『墨染の衝撃』(ノーブルインパクト)である。<br /> 試合の時期が近づく頃だけ部活に顔を出しており、正式な部員ではない。<br />『杜花様が熱いスパーリングをしている』と解ると、生徒が挙って観戦に現れる為、迷惑がかかってしまう。<br />「……総合格闘技部かあ……試合前以外に、あまり顔を出したくないですねえ……」<br />「不都合が御有りですか? で、でしたら私が呼んできましょうか?」<br />「ううん。いい。行ってみます。お気持ちだけありがたく受け取っておきますね」<br />「あっ……あは、はい。し、失礼します」<br /> らしく振る舞い、中等部を後にする。<br /> 西南に位置する大校庭の脇には、柔道部、剣道薙刀部、弓道部、レスリング部と各種道場が並んでおり、その一番端に総合運動部の道場が佇む。<br /> 茶褐色のラバー敷き校庭を囲む柵に沿って歩き、道場を目指していると、ちらほらと、見かけた顔がある。<br />「お、欅澤。運動しに来たの? 柔道場空いてるわー、すっごい空いてる。乱取りしてく?」<br />「いえ、今日は総合格闘技部に、しかも運動じゃない用事でして」<br />「残念。衝撃さんならIHどころか福岡国際だってとれるだろうになあ」<br />「その呼び方やめてください、恥ずかしい……まあその、団体の人数が足らないとなれば、考えます」<br />「よし、一人減らしてくるかあ」<br />「やめて」<br />「はっは、冗談。いつでも来てね、寝技超楽しみっ」<br /> 柔道部主将がカッカと笑う。彼女はどこまで本気か解らないのが恐ろしい。<br /> 相当に強く、国際強化選手としても登録されている彼女は、並の男など立ち会ったら相手は三秒も地面に足を付けていられないだろう。<br /> 実家は旧武家で、とにかく血の気が多い事で有名だ。<br /> しかしそんな彼女も、市子の前では大人しい乙女であるというのだから、そのギャップが面白い。<br />(あー……練習してるなあ)<br /> 総合部の道場前に辿り着き、ノックを躊躇う。<br /> ほんの少しだけ扉をあけて中を覗くと、丁度リング上には見知った顔がスパーリングの最中であった。同級生だが、その相手が問題の川岸だ。<br /> 目を細める。<br /> 動きが良い。小さな体躯を生かし、素早いラッシュを得意としているようだ。<br /> ただ、投げに対処しきれないらしく、腕を掴まれた場合逃げるのに難儀している様子がうかがえる。<br /> ローキックにも似た足払いを受け、川岸が派手に転倒した。<br />「軽いんだから、捕まったら終わるよ。重心が高すぎる。もっと低く、素早く、ほらコイッ」<br />「ハイッ」<br /> 部員は二十人ほど。高等部と中等部で十人ずつだ。<br /> リングは高等部、床のマットで中等部が練習するのだが、川岸は実力が認められているのか、高等部と一緒に練習している。杜花の見立てでも、川岸は筋が良い。<br /> しかしタイミングが悪かった。一生懸命練習しているところに声をかける訳にもいかない。<br /> 今日はやめておこうと、振り返ろうとしたその瞬間、杜花の防衛機能が警鐘を鳴らす。<br /> 背後からの接近、右側か、左に飛ぶようにして転がり、相手の背後に回る。<br />「はやっ! どうやってんのそれ!?」<br />「あ、部長。お久しぶりです、ではこれで」<br />「まちまちまちまちまちぃ。待ってよ、杜花。ウチに用事あるんじゃないの?」<br /> 敵意を感じて退いたのだが、相手は総合部の部長だ。大方、杜花を後ろから抱きかかえようとしたのだろう。<br /> 杜花よりも身長が低く、とても格闘技をしているようには見えない短髪の女性は、大げさに杜花を引き止める。<br /> 三年で部長の三ノ宮風子(さんのみや かざこ)だ。<br /> 名前の通り、一年の三ノ宮火乃子の姉である。<br /> 妹同様、とにかく杜花を気に入ってやまない人間の一人だ。運動能力が過剰な杜花に目を付け、総合に誘ったのもこの人物である。<br /> 妹と比べ、容姿こそ似ているのだが、豪快さが違う。小さい体躯とは信じられない程力があり、成人男性ぐらいなら肩に乗せて走り込み十本など容易くやってのけるだろう。<br />「野暮用です」<br />「なるほどなー、おーぃ……むぐぅッ」<br /> 総合部の面々に大声を上げて杜花の来訪を知らせようとした風子の口を塞ぐ。ここで見つかったら、間違いなく腕試しのスパーリングおよび技術指導を強要されるだろう。<br /> それが嫌というわけではないが、時間が押している。断りきれない状況になる前に対処しなければ、六時コース確定だ。<br />「今日はこの後も用事があるんです、今ここでバレると、他の用事がトンでしまいます」<br />「むぐぐ」<br />「解っていただけます?」<br />「はふっ。杜花の手なんかレモンの匂いする!」<br />「まあま、それで?」<br />「解ったって。じゃあ近いうち来てくれる? 皆楽しみにしてるんだ」<br /> 杜花がどこかの部のヘルプに入ると、練習の効率があがり、試合では成績があがり、皆のテンションも上がると言う素晴らしい効能を示す事になる。<br /> 天才的な運動能力を妬まれながらも、やはり大多数の各運動部から熱烈なお誘いがあるのは当然だった。<br />「予定に入れておきましょう」<br />「それだけ良い返事がもらえれば十分だ、それで何だい?」<br />「川岸命さんに所用が」<br />「ああ……」<br /> その名前を聞き、風子がバツの悪そうな顔をする。<br />「何か問題でも」<br />「たぶん告白したんだろう」<br />「解りますか」<br />「アンタに憧れて入った子なの。やる気あるし、強いし、期待はしてるんだけどねえ……その、スキンシップがね、多少過剰でね。あの子ガチなのよー」<br />「手紙を読んだ時点でそうだろうとは思ってました。あまり酷くなる前に対処しようと思って」<br /> 頷く。<br /> 本格的にレズビアンなのだろう。しかも相手とのスキンシップを過剰に欲するタイプのだ。杜花の付き合いの中、そういうタイプは居ない。早紀絵はアレだが、杜花には穏便だ。<br /> 間違いなく今後苦労するタイプである。<br />「取り敢えず呼ぶよ。陰にでも居て頂戴な」<br />「はい」<br />「おうい、川岸! おっきゃくさーん」<br />「は、ハイッ」<br /> 道場の陰に行くよう指示されたらしい川岸が、タオルで顔を拭いながら現れる。<br /> Tシャツにスパッツ、引き締まった身体が強調される。<br /> ショートの手前ぐらいの髪の毛をかきあげながら、客人にさわやかに笑いかけたあと、驚愕のまま止まった。<br />「あがッ」<br />「お手紙ありがとうね、川岸さん」<br />「きょああぁぁぁッッ」<br />「ちょ、川岸さん?」<br /> 川岸は……走って逃げた。<br /> どうやら部長と言い争っているらしい。<br /> やがて静かになると、部長が首根っこを捕まえて杜花の前に引っ立ててきた。凄い腕力だ。<br />「なんだ、男の腐ったような根性の無さだねアンタ」<br />「だだだ、だってえ。け、今朝お手紙渡したばっかりで、今日ってえ……これもう完全に私フラれてるじゃないですか!?」<br /> 察しは良いらしい。<br /> 本来ならば、悩んだ振りぐらいしてあげて、青春の謳歌を手伝うのだが、手紙の内容が内容だけに放置出来なかった。<br /> うっ憤を募らせて襲われたらたまらない。<br /> 襲われたところで怪我をするのは川岸だが。<br />「部長、川岸さんをお借りしても」<br />「いいよ。どうせ今日練習出来ないだろうし、コイツ」<br />「ああ、ヒトデナシ! 置いていかないでぇ……」<br /> 無念、仲間を失った川岸は、俯いたままモジモジとしている。<br />「少しお話しましょうか」<br />「き、切り捨てるならズバッとお願いしますよぅ」<br />「ごめんなさい」<br />「あぐっ……す、好きなのに……」<br />「まあまあ、ほら、歩きましょ。冷えるから、上着を着て」<br /> そういって、杜花はブレザーの上を貸し与える。汗でべとべとになるから、と否定しつつも嬉しそうに受け取る。<br /> 傾いて行く夕日の中、校庭脇を進む。<br /> 女子サッカー部の声、剣道部の気合い、陸上部のかけ声など、様々と聞こえては流れて行く。<br />「女性が好きなんですね、川岸さんは」<br />「……はい。あ、性同一性障害とか、そんなじゃないです。自分は女だって自覚してます、女の子が好きなだけ」<br /> 脳と身体の不一致、性癖、同性カップルでどちらかが『身体的演出』としてタチを演じたい場合や、自分の身体が気に入らない人間は手術する。昔ほど厳しい目では見られない上、保険適用内で安価だ。<br />「私の周りにも何人かいますよ。特別な事ではないでしょう。私だって遠くない」<br />「そう、なんですか。昔からその、男の子苦手で。中等部一年で編入して来たんです。女の子が沢山いて、みんなお上品で、なんか場違いだなって思いつつも、すごく面白くて、素敵で、みんな良い子だから、拍車がかかって……それでその、杜花様を初めて見たのは、休日自宅で観たテレビでした」<br /> 川岸を伴い、中央広場にまで赴く。川岸に座るよう促し、自分も腰かけた。<br /> テレビ、というのは恐らく、一年前のテレビ中継だろう。若年部決勝戦は、全国放送されていた。<br />「こんな人、いるんだなって。一言一句間違いなく覚えてます。実況の人が『何故当たらない、何故そこに居ない。黒髪が靡き、拳が巨体を突き刺す。若干十六歳、まさしくリングは全て彼女のもの。白いリングに墨を溶かしたかのような優美さ鮮やかさ、欅澤杜花が猛攻をかける。まさしく墨染の衝撃だ』って、物凄くテンション高く絶叫してて、なんか聞いた事ある名前だと思ったら、そうだ、市子様の妹君だって思い出して」<br /> 予選、決勝トーナメント、10試合10KO。<br /> 唯の一度も打撃を浴びず、唯の一度も転ばない。<br /> 決勝の相手は17歳、女子高生というにはあまりにもデカイ相手であった。<br /> 流石の杜花も苦戦を強いられたが、2ラウンド目で相手の大ぶりな攻撃をかわし、腕を捕まえリングに頭を叩きつけた。<br /> 一本背負いの変形で、地面に対して直下に落とす。頸椎を損傷する危険がある為、杜花の流派でも使用制限のある技だ。<br /> 個人的には優雅とは言えないものではあったが、それだけ相手は強かった。<br />「こんな素敵な人が居るんだって。次の日から総合の門を叩いたんです。いつかその、杜花様と試合たくて」<br />「それにしてはだいぶ、面白いお手紙でしたけれど」<br />「ご、ごめんなさい。もう、自分でも何を書いてるのか解らなくなって、とにかく気持ちを伝えたくて、い、今考えると、あんまりですね」<br />「他の人たちの定型文に比べると面白みがありましたけれど、あれでは『貴方と嫌らしい事をたくさんしたい』としか、伝わらないと思います。でも嬉しいですよ」<br />「え?」<br />「私が、私自身をしっかり評価出来る部分を好いてくれるの。あまり自分を評価しない私ですけれど、武道、格闘技だけは、自分が何ものなのか良く解りますから」<br />「……杜花様は凄いです。お嬢様らしくちゃんと振る舞って、勉強も出来て、とても強い」<br />「無茶苦茶にされたいんでしたっけ」<br />「ひゃあ……ああうう、そんなこと書いてました……」<br />「ごめんなさい、貴女には、私を見せてあげられない」<br /> 立ち上がる。<br /> はっきりとした否定の言葉に、川岸は乾いた笑いを漏らした。<br /> そして遠くから何ものかが歩いてくる姿を認め、余計に認めざるを得なかったのだろう。自分はこの人とどうにかなるような立場にない、と。<br />「モリカ、貴女ね、放課後十分ぐらいは教室にいなさいよ。迎えに行ってもいないから、毎回貴女のクラスメイトに変な目で見られて仕方が無いわ」<br />「ああ、言ってくれれば良いのに。ニコったら恥ずかしがり屋ですね」<br /> 川岸は何も言わない。ただ、向かってきた二子に対して、頭を下げた。<br />「あら川岸」<br />「お知り合いですか」<br />「お父様が昔居た研究所の主任研究員の娘。観神山に居たのね」<br />「隣町に居たんですが、やはり此方の方が何かと都合が良いらしく」<br />「そうね。七星の威光を直に受けられるココなら、都合も良いでしょうね。それで、川岸、モリカのブレザー着て、何してるの?」<br /> 観神山名物、上司の娘と部下の娘の微妙なやり取りである。<br /> 川岸はバツの悪そうな顔をしてから、杜花に視線を送った。<br />「総合格闘技部なんだそうです。技術的に悩みがあったらしく、相談に乗りました」<br />「そうなの。運動得意なのね、羨ましい。モリカ、次は世界戦だっけ?」<br />「出る機会があるなら、優勝します」<br />「おお……モリカが自信たっぷりに言ってる……まあ、そうね。川岸、良かったわね、優勝候補に指導貰えて」<br />「ありがとう、ございました」<br /> そのありがとうございましたは、七星の仲介に入ってもらってありがとうございました、という意味だろう。<br /> 川岸はブレザーの上着を杜花に返すと、ランニングするようにして去って行った。<br />「……可愛い子なんですがねえ」<br />「強いの?」<br />「筋は良いです。ただ軽いので、筋力アップがネックですね……それにしても、どうしました?」<br />「どうって何が」<br />「探していたんでしょう、私を」<br />「理由も無く探しちゃダメなの? 待ち合わせは五時だけど、別にその間貴女の顔を拝んでいても良いじゃない」<br /> 二子が膨れる。杜花は、しょうがない人だと笑って、その頭を撫でつける。<br /> 滑るような手触りの黒髪は、杜花の記憶を蘇らせる。この髪は、是非梳かせて貰いたい。<br />「あ、ちょっと、子供みたいに扱わないで」<br />「子供でしょう。本当は幾つなんですか? まさか高校生じゃないでしょう」<br />「……13よ。言わないでね、面倒くさくなるから」<br />「言いませんし、言ったところで誰も批難しませんよ」<br /> 小さいとは思っていたが、ついこの前まで小学生であったとは。いや、今さらだろう。<br /> 杜花はブレザーを着こみ、二子を伴って歩く。時刻は四時半だ。<br />「七星の研究員か。立派なんですね、彼女の親御さん」<br />「大変有能ね。有能じゃなきゃ七星の主任研究員なんて務まらないけれど」<br />「そういえば、一郎氏も元は研究員でしたね。何の研究をしてたんですか?」<br />「遺伝子工学研究よ。他にも色々してたみたい。とびっきり頭が良い分、色々はっちゃけてる人」<br /> なるほどと頷く。<br /> 確かに、杜花が市子の葬儀で出会った七星一郎は、大変エネルギッシュな人物だった。<br /> 三十代後半に見えるのだが、本来は相当歳をとっている筈である。<br /> 遺伝子工学、幹細胞学でアンチエイジング、なんて話も冗談にならない時代なので、藪を突っついたりはしない。<br />「研究員から、七星のトップ。凄まじい努力ですね」<br />「――ええ。お父様は上手く立ちまわった。研究も成功して、巨額の富も生み出した。独立せず、ずっと七星に尽くし続けた人。十人ぐらいの才能を、一人に集めたみたいな感じ」<br />「好きですか、お父様」<br />「うん。大好き。妾の子だろうがなんだろうか、娘息子全てに愛をまんべんなく注いでくれる」<br /> ……マスコミの話だけを信じるなら、妾の子といえば二子だけだ。今、とてつもない話を聞いている気がした。<br />「でも、やっぱり、お父様は市子姉様を一番愛していた。彼女の為の御膳立ては全てお父様がやった。この学院を整えるよう指示したのだって、お父様だもの」<br /> 人口も主産業も無いのに潤う市。<br /> 整いすぎた街。<br /> 整い続けている学院。<br /> もしかすればその全てが、七星市子の為に揃えられたものなのかもしれない。<br /> 彼女が彼女たる為の世界だ。<br /> そこには何不自由ない生活と、輝かしい日々があった。<br /> 全ては遠い記憶である……はずだったのだが、彼女の死後に送られて来たのは、妹。<br /> まさしく市子をそのまま小さくしたような、美しい少女だ。<br /> 遺伝工学研究……まさか、と思う。出来たとしても、理由が解らない。<br /> ……杜花に、嫌な疑念が湧く。<br /> 七星市子の、自殺理由だ。<br /> 全ては憶測でしかないが、もし、市子と二子の間に、何かしらの不和があったら。<br /> この二人と、そして父の間に、苦悩するべき問題があったのなら。<br /> 杜花は頭を振る。<br /><br /><br /><br />「さて、着いたわね」<br /> 高等部第一校舎。件の影『走って迫る』タイプの市子の残滓が居ると噂される場所だ。<br /> 此方は一階二階に特別教室が詰められており、三階に三年生の教室だけある。上空から見ると、敷地としての縄張りは四角形だが、校舎自体はL字に近い。<br /> 内側には小さな中庭が存在し、休憩出来る場所もあるのだが、生憎背の高い木が植えられている為、日当たりは悪い。<br /> 中にあがると、まだ生徒はチラホラと見受けられる。<br />「どこに出たって?」<br />「二階廊下だそうです」<br />「プロテクター無しで大丈夫?」<br />「そうならないよう願いたいですね」<br /> 流石にまだ生徒のいる時間、フル防備でスカート丈を短くしながら歩くのは、いささか問題がある。それに、影の噂はあるが、この時間まで残っていて何か被害を被ったという話は居友のものだけだ。<br /> 杜花は手近な生徒を捕まえて、何かおかしな点はないかと話を聞く。<br /> 声をかけられた生徒は、杜花と二子が並んで歩いている姿に気押されてしまっているらしい。<br />「け、欅澤さん、七星さん。此方に何かご用事で?」<br />「そうそう。用事なのよ。貴女、ここ最近変な事はなかった? この校舎で」<br />「……やっぱり居友さんは、普通の御病気じゃないんですね」<br />「あー……まあ、直ぐ回復しますよ。彼女の為にも、余計な噂は立てない方がよいでしょう」<br />「は、はい」<br />「以来、何か変化は?」<br />「……居友さんは三年の中心人物でしたから、重苦しくはありますね」<br /> 居友は高慢だが、面倒見も良い。その辺りは流石に御姉様級だ。<br /> 一年前、大輪の花を失って以来、三年の代表は居友であるからして、重苦しく感じるのは当然だろう。<br />「わかった。ありがとうね」<br /> 生徒は頭を下げて小走りで消えて行く。<br />「あからさまですかね。私達、目立ちますし。余計な噂が立たないと良いんですが」<br />「大事の前の小事」<br />「貴女が言うならいいんですが……。一先ず二階に上がりましょう。前のように、なんとなく解るかもしれない」<br />「杜花センサーに期待するのね」<br /> 入口直ぐにある階段を上って行く。<br /> 二階は理科実験室、家庭科室、視聴覚室などが並んでいる。どうやら科学部も家政部も今日は実習をしていないらしく、二階に上がった途端、人の気配が途絶えた。<br /> とはいえ、何かしら不思議な感覚がある訳ではない。至って普通の、人の居ない校舎である。<br />「こりゃ、無いわね」<br />「無いですね。何も」<br />「居友の話も眉つばかしら」<br />「その昔増築して、ほら、この校舎L字じゃありませんか。元は一字だったんですよ。そこにIの字が加わった形ですね」<br />「じゃあ今いるのは新舎ね」<br /> 廊下を眺めながら、L字の結合部に向かう。<br /> 新舎と旧舎の間には、四十センチほどで鉄製の繋ぎ目があり、廊下、壁、天井とすっきり繋がっているように見せている。<br /> 不審な点はない。<br /> 旧舎に伸びる廊下は、左手には窓があり中庭が望める。右手側は手前から掲示板、学習室Ⅰ、学習室Ⅱなどの普段使わない、自主勉強室。その先には書道室と資料室があった。<br />「誰も知らない生徒資料室。これは普通の資料室ですね」<br />「ふむ」<br /> 資料室の前まできて、二子が振り返る。杜花もつられて振り返ると、なにかぼんやりと、日の光から出来たとは思えない影がいた。しかし緊張感はない。それは数秒後、直ぐに立ち消える。<br />「上は三年の教室よね。もう一度一階に行きましょう」<br /> 二子の言葉に従い、旧舎階段を下りて一階に辿り着く。何がしたいのだろうか。<br />「さっきのは見えましたか」<br />「見えた。霊感とか無いんだけれど、あれ姉様かしら」<br />「そうですか。しかし何故一階に?」<br />「確認のため」<br /> そういって、二子は廊下をまっすぐ行き、旧舎一番端の給湯室までたどり着く。<br />「杜花、この上は何の部屋かしら」<br />「何もないでしょう。掲示板があったくらいで」<br />「じゃあ三階にこの場所は三年の教室がある? 少し狭いわね」<br />「たしかー……準備室でしたね。机や椅子が詰めて有る筈……む?」<br />「なんで二階だけ部屋じゃなくて掲示板なのかしら」<br /> 余程おかしな作りをしたり、壁をわざわざブチ抜いたりしない限り、こういった建物は部屋割が均一だ。柱や梁の関係で部屋を作れなかったならともかく、二階の上層下層は小さいながら部屋がある。二階のこの場所だけが掲示板なのだ。<br /> 杜花と二子は一度表に出て、外から確認する。<br />「換気用の小さい窓が、一階と三階はありますね」<br />「二階の、窓が有るはずの部分、暗くなって少し解りにくいけれど、多少色が違う。コンクリじゃないわ」<br />「パネル、かな。同化してる感じですけど」<br />「後から張ったのかもね」<br /> 二子が笑っている。さわやかに笑えば、えも言われぬ可愛さがあるものの、含みを入れてしまうと本当に邪悪に見える。市子の顔でそれは止めて欲しいなと思いながら、杜花は何も言わなかった。<br />「何よ」<br />「可愛いなと思って」<br />「心にも無い事を」<br /> もう一度、二階まで上がり、旧舎一番端までやってくる。そこに見えるのはやはり掲示板だ。二子は何が気になったのか、食い入るよう、掲示物を凝視している。<br />「モリカ、今何時」<br />「あーと、四時五十分です」<br />「丁度良い頃合いね」<br />「何か気になるものでもありましたか」<br /> 二子と同じようにして、掲示板を見つめる。<br /> 掲示物は大半が、生徒会から認可印を押された部活動勧誘や、風紀委員の啓蒙や告知だ。大して珍しいものはない。<br />「気になるところはありませんね。ましてここに部屋……あー……」<br /> 掲示板から少し引き、掲示板全体を眺めるようにする。何かおかしい。<br />「人は、視覚情報に多大なる信頼を寄せている。特に目立つものが眼の前にあると、そればかり観てしまう。モリカ、掲示板の下を見てみて」<br /> そう言われ、茶色い木枠で、緑色をした掲示板の下を見る。ただの壁だ。<br /> いや、壁だろうか。どうも薄い気がしてならない。<br /> 他の壁と同じ色をしているのだが、そこだけ発色が違って見える。<br /> 左右を見ると、本当にうっすらと、隙間が空いているのが解る。杜花はしゃがみこみ、軽くノックしてみると、明らかな空洞音が帰って来た。<br />「……これ扉だ」<br />「掲示物の裏を幾つかめくってみましょう」<br /> もし、これが扉だとしたら、人の背の高さに都合の良い場所に取っ手などがついているだろう。幾つかチラリと捲って行くと、取り外し厳禁の字が観えた。<br /> そこに張り出されているのは『掲示物の掲示、取り外しは生徒会から許可を得ましょう』と書かれた掲示物である。<br /> 生徒会印も押されている為、気立ての良い生徒達が勝手に剥がす訳がなく、注意喚起の掲示物を、生徒会がわざわざ剥がす訳がない。<br /> 生徒会印は、会長の所持品だ。<br /> 張り出されて時間が経っている事も解る。間違いなく、市子だろう。<br /> 剥がしてみる。案の定そこには手前に引く為の取っ手があった。<br />「鍵穴はありませんね、引いてみましょうか」<br />「よろしく」<br /> 二子を後ろに下げ、左右を観て誰も居ない事を確認してから、取っ手を引っ張る。ズッという音と共に、掲示板ごと手前に動いた。<br />「中に入って。誰かに見られるかもしれません」<br />「せっかちね、待ちなさいよ」<br /> 二子にLEDライトを渡し、杜花も警戒しながら中に入り、扉を閉じる。<br /> 部屋だが、明かりが一切ない。窓から光が漏れている様子もない。<br />「杜花、扉近くにスイッチは」<br />「あーと……も少し右照らして……あった」<br /> パチリ、と音を立てて電気が灯る。眼の前に広がったものは、大量の禁制品である。<br /> スチールラックが三つ程左右正面に並んでおり、その上には大量の持ち込み禁止品が展示会のように並べられている。<br /> 部屋のあちこちに重なるダンボールは漫画だろう。<br /> 一つを開けると、平成期の少女漫画が大量に詰め込まれていた。<br />「うわー……すごい」<br />「物置に使おうとして、忘れ去られたのかしら」<br />「これ、市子御姉様に借りた事があります。やっぱりここから持ち出していたんですねえ。あ、これ全巻揃ってる。古本屋だって見当たらなかったのに。これはー、昔のライトノベルだ。という事はーと、えーと……やっぱりあった。ニコ、見て下さいよ、ここ百合小説のレーベルでしてね……」<br />「モリカ、案外俗物なのねえ」<br />「皆が持ち上げてるだけで、私は普通の人ですよ」<br />「いや、普通じゃないと思うけど」<br /> 心外だが、今二子はどうでもいい。<br /> 自宅に戻れば確かにそういった類の本はあるが、揃えた所で大半学院で暮らす杜花には恩恵が少ない為、数を持っていない。<br /> まさしく宝の山である。全て没収品なのか、それとも市子がコツコツ持ち込んだものだろうか。最近の禁制品は大半が職員棟に保管されている。<br /> 皆そちらばかり気にして、古いものがどこにあるのか、疑問に思う人間は少なかっただろう。<br />「姉様ったら、本当に好きなんだから」<br />「こういう漫画とか小説、私は御姉様に教えて貰いましたよ」<br />「でしょうね。しかし、本当にこんなデッドスペースがあるものねえ……確かに、文芸部」<br /> 二子が部屋の真ん中にある業務椅子に腰かけ、手近な箱を開ける。<br /> 彼女がその中から取り出したのは『薄い本』だ。<br /> 杜花の脳内で様々な映像が弾けて飛ぶ。駆け寄り、瞬時に二子からその本を取りあげた。<br />「な、何よ。てか凄い動き。なんなのこの霊長類女子最強生物」<br />「ひ、酷い暴言。まあその、あまり二子が観るものではないです」<br />「何かの冊子かしら。薄いわね。なんか禍々しい色をしているし……ん?」<br />「あ、こら」<br /> 言っている傍からまた別の薄い本を取り出す。二子は表紙を見て愕然とした様子だ。<br />「……あ、ああ。男性同性愛者向けの本かしら?」<br />「……女性向けです」<br />「え?」<br />「女性向けの男性同性愛者漫画です」<br />「何それ? でも、男同士が絡み合ってるわよね。わ、凄い筋肉。どれ」<br /> 二子がページを捲る。最早何も言うまい。<br />「――え? ねえモリカ」<br />「はい」<br />「えっと、男性には、男性器と、お尻の穴と、もうひとつ穴があるの?」<br />「無いです」<br />「でもこれほら、穴があるって……わ、すごい、こんな形なの? あ、陰茎ってこんな? わあ、男同士でも出来るのね……え、妊娠? 妊娠するの? 遺伝子弄らず?」<br />「貴女の口からは聞きたくない言葉ですね」<br />「印刷日は……平成ぃ? コミックパレード75? 六十年近くも前の漫画なの?」<br /> この学院の創立は西暦2000年だ。<br /> 今年で創立67年になる、古式ゆかしい名門である。<br /> ここは第一校舎だが、もう一つ旧第一校舎があり、そちらが創建当時からあるものだ。震災で欠損が出たと噂に聞く。<br /> 現在は生徒立ち入り禁止で、申し訳程度の耐震改修を加えており、完全に物置だ。<br /> こちらが以降に建てられたものだ。それでも四十年は経っていたと杜花は記憶している。<br /> 耐震工事と新舎増築がいつだかは知らなかったが、その長い間に様々と歴史があったのだろう。<br /> これらはその忘れ形見だ。<br />「もしかしたら、昔の没収品をどこからか見つけてきて保管したのかもしれませんね。あ、別に御姉様が女性向け男性同性愛者漫画を好んでいたとか、そんな話は聞いてませんよ」<br />「ここが元禁制品置き場だったのよ、きっと」<br /> 古参の教員ですら、改築後の全てを把握している者はいないという話だ。この部屋もそんな中に埋没してしまった一つなのだろう。<br /> 市子はそれを見つけ、自分の持ち込んだ本も突っ込んでいたに違いない。<br />「ねえモリカ」<br />「はい?」<br />「この学院、どう思う?」<br /> どう、とはどういう意味だろうか。<br /> 暮らしやすいとか、すごしやすいとか、勉強しやすいとか、そういった一般的な意味合いで、わざわざ聞かないだろう。<br />「好きですよ。良いところです」<br />「貴女は一般人なのに、気後れしなかったの?」<br />「小等部の頃はあまり自覚出来ませんでしたけど、中等部にもなると、多少は劣等感がありましたね。皆びっくりするほどお金持ちじゃないですか。ウチなんて小さな神社ですし」<br />「通常入学じゃないわよね」<br />「特待生ですしね」<br />「感覚器が、人間の範疇の外と聞いたけど」<br />「人外みたいに言われるのは辛いですけれど、そうです。第六感と言いますか、感覚外の感覚を感知し易い。悪い予感は当たり、危機は未然に解る」<br />「では、姉様の自殺は?」<br /> 部屋を物色しながら二子に答えていた杜花の手が止まる。<br /> 言いたい事は沢山あった。<br /> 彼女が亡くなる、一週間前からは――放課後に、出会った記憶が――ない。<br /> 当時市子は何かしら忙しそうにしていた。<br /> 避けられている、と不安に思った事は無い。妹は杜花だけではないのだ、他の用事があってもおかしくはない。<br /> しかし今考えると、その期間はこの手紙と結晶を隠していたのだろう。<br />「……気配は、ありませんでしたよ」<br />「誰かに殺された、としたら、モリカはどうする?」<br /> 椅子に座った二子が、細く長い脚を組み変えて、杜花を見つめる。何とも読みとれない表情だ。そんなことを聞いてどうするつもりか。杜花を怒らせて楽しみたいのか。<br />「ニコは、自分の半分が殺されたら、殺した相手をどうしたいですか?」<br />「――悪かったわ。試したつもりはないの。私は、こうなってしまうの、どうしても」<br />「はい。でも控えてくださいね」<br /> 二子は知っているだろう。杜花が、どれだけの人物なのか。<br /> 実際に対峙した事こそないが、拳銃で武装した相手だろうと、タイマンならば杜花は相手を倒すだろう。ましてそれが、憎むべき敵ならば、その身が滅びようとも、向かってかかるに違いない。<br />「でも、もし控えられないと言うなら、言ってくださいね」<br />「はて?」<br />「その声帯を二度と使い物にならなくしてあげる事くらいは容易い」<br />「モ、モリカってば。怖い」<br />「ふふ。私、あの人と同じ顔をした貴女を殴るなんて、きっと出来ませんよ」<br />「だといいのだけど」<br /> 手に持っていた危険物を仕舞い込み、改めて部屋の全景を眺める。<br /> 物という物がギッシリと詰まっているが、整理整頓されていたように感じ取れる。<br /> ふと左手に目をやると、丁度スチールラックの一部が何も置かれておらず、椅子に座ると作業しやすい高さになっている。<br /> 覗きこみ、ブックスタンドがある場所に手を伸ばすと、肘に引っかかったのか、脇の本が雪崩た。<br />「おとと……ああっ」<br />「どしたのよ、騒がしいわね。バレるわよ」<br />「オカルト研究部の部誌です。恐らくサキが探していたもの」<br /> 手に取った古い本の表紙には『オカルト研究部部誌 vol.11』とある。恐らく間違いないだろう。<br />「鍵は関係なかったのかな」<br />「鍵? 文芸部のかしら」<br />「良く知ってますね」<br />「早紀絵にあげたのは私。文芸部のもの、と分類されてたのよ、姉様の遺品の中で」<br />「なるほど……じゃああの鍵はどこのものなんでしょう。ニコ、『櫟の君』って呼ばれていた人を知りませんか?」<br />「ふむ。生憎解らないわね。貴女が『躑躅の君』で、アリスが『庭園の君』だって事ぐらいしか。あ、ちなみに早紀絵は『木苺の君』ね」<br />「御姉様が命名する基準が解らなくなりますね。妹だけじゃないんだ……」<br /> 木苺。花言葉は尊敬だったか、ジェラシーだったか。しかしアリスは花ではないらしい。<br /> これは完全に出会った場所だろう。アリスは寄宿舎裏のガゼボが大変好きだった。<br />「他は詳しくありませんか?」<br />「全く。貴女達仲良ししか知らないわ。本家で呼んでいた名前は」<br />「ふぅむ……まあ、サキの知的好奇心を満たすには十分でしょうか」<br />「……あら、良かったわね。でもそろそろよ」<br />「なんです?」<br /> 二子が腕を指差す。時計を見ると言う事だろう。<br /> ――しかし時間を確認する前に、まずは杜花の本能が警鐘を鳴らす。<br /> 五時十分過ぎ。<br /> 走って迫る影が発見された時間だ。<br />「二子、部屋に、おそらく結晶が有る」<br />「待ってみてよかった。やっぱり。何らかの理由で時間が設定されてるのかしら。いや、違うわね。込めた魔力がその時間の記憶を再生している、が近い。そしてそれが発現する事で、杜花も感じ取れる」<br />「……なるほど。警戒だけしてください」<br /> 杜花は部誌を二子に預け、件の廊下を警戒する。<br /> 扉近くに行くと、扉の端に薄い手鏡が落ちているのが解った。どうやらこれで中から外の様子をうかがい、人の有無を確認していたのだろう。<br /> 杜花は手鏡を取ると、ほんの少しだけ隙間を開けて、手鏡を差し込み外を伺う。<br /> ……。<br /> 遠くの方に、何かが見える。生徒だ。先ほどチラリと見えた影と同じように思える。<br /> 生徒だが、足音はない。まるでスライドするように移動している。<br />(二子、結晶を探して。恐らくそっちの箱の中)<br />(ふふ、なんだか楽しい)<br /> かくれんぼでもあるまいに、二子が笑って言う。<br /> 生徒の陰……いいや……市子だ。<br /> 黒髪を靡かせ、するすると廊下を動いて行く。走っているようには見えない。<br /> 隠し部屋の前を通り過ぎ、その先で消えた。<br /> 手鏡を返し、また来た方向を見る。先ほどと同じようにしてスルスルと、向かってきた方からまた向かってきている。<br /> 壊れた再生機が同じ映像を何度も垂れ流しているようだ。<br />(あった。封筒入り、手紙付き。本当に愚かで、いとしい杜花へ)<br /> 目的物は発見した。<br /> こんな状況、普通ならなんとしても逃げ出したいだろうが、杜花は違う。<br />(それ、貴女の力でこの影を消したりは)<br />(時間がかかるわ)<br />(ならちょっと、影に挨拶をしてきます。あれ、意思疎通可能でしょうか)<br />(試してみたら? じゃあ私は――この男性向け女性同性愛者漫画でも読んでるわ)<br />(ああ、いいんですか?)<br />(何が?)<br />(きっと素の私が見られますよ)<br />(大変興味深いわ)<br /> 杜花は、両手で頬を撫でる。市子の影が一巡したのを見計らい、杜花は扉を開けて外に出た。<br /> 廊下に出て、影が通行するその進路を塞ぐ。<br /> 日が落ちている。<br /> 白い電灯が灯り、窓には杜花の姿が反射する。<br /> 少し遠くの火災報知機の赤い明滅が、何かを急かしているようにも見えた。<br /> 影は、正面の障害物を認めた。そして――走ってくる。<br /> 今まで歩くように、しかし歩く事なくスライドしていただけの影が、杜花の姿を認めた瞬間突如走りだした。<br />「――ッ」<br /> じわりと、心の中に汗をかく。実体のない存在に対する恐怖ではない。<br /> 近くなるにつれて、それが見知った彼女の姿であるという事実に焦がれを感じる。<br /> 一度目を瞑る。<br /> 目を瞑り、開いた瞬間、そこは元居た世界には無かった。<br /> まるで世界がひび割れたように全ての事象を飲みこんで行き、まだら色の空間が新しい世界を構築する。<br /> 電灯は無く、先ほど落ちた筈の夕暮れが、時間を巻き戻したように訪れる。その夕日を浴びる影は、また影を伸ばし、手を振って、小走りで杜花へと向かってくる。<br /> おぞましさはない。<br /> ただ悲しさだけがあった。<br />「市子御姉様」<br /> 名前を呼ぶ。<br /> もっとも尊く、愛しい名前だ。その言葉を受けた影……七星市子は、微笑む。<br />「あら、杜花。こんなところでどうしたの。第一校舎なんて、何もないわよ」<br />「御姉様の御顔が観たくなってしまって」<br />「いつも観ているのに。寂しがり屋ね。ほら、こっちにきて。一杯見せてあげるから」<br />「――うん」<br /> 立ち止まった市子の影に対して、歩みを進める。<br /> 五メートル、四メートル、三メートル。<br /> 次第に市子の顔がハッキリと解ってくる。<br /> 生前の美しい市子のご尊顔だ。<br /> 小さく微笑み、最愛の妹が、その胸に飛び込んでくるのを待っている。<br /> しかし近づくにつれて、その顔が見えなくなる。<br /> 己の涙が視界を歪ませるのだ。<br /> 二メートル、一メートル、そして手を伸ばす。<br /> ひんやりと冷たい手が、杜花に触れた。<br />「どうしたの。そんなに寂しかった? 今朝会ったばかりなのに。どうしようもない子ね、貴女は。あんなに強いのに、私の前では赤ん坊みたいだわ。本当に可愛い子。本当に愛しい子」<br />「市子……」<br /> それが、実体のない影である事は、当然十分に把握している。だが、杜花は質量を感じていた。投げ出した身体を市子がしっかりと受け止めている。<br /> やわらかい身体が、柑橘系の香りが、杜花を優しく包み込んだ。<br /> 言葉に言い表せない悲しみが、杜花の心をズタズタにする。<br /> 触覚が、聴覚が、嗅覚が、視覚が、これが七星市子であると認識してやまない。<br />「杜花――私の最愛の人。私の全てを捧げる人」<br />「市子、抱きしめて。お願い、ごめんなさい、私――私は貴女を何一つ……理解出来なかったのに――」<br />「何言ってるの。私が何か貴女に隠し事をした?」<br />「市子、何故、何も教えてくれなかったの。何故」<br /><br /> 何故、死んでしまったのか。<br /><br />「死んだって……ちょっと杜花、何を言っているの。疲れているの?」<br />「――ごめんなさい。市子、今、何か悩んでいない?」<br /><br /> 何故、教えてくれなかったのか。<br /><br />「悩み、ねえ。貴女に泣き付かれてしまった事かしら?」<br />「違うの。もっと、深刻なお話」<br />「うーん。無いわ。あったのなら、貴女に相談するもの。私を一番理解してくれる貴女に」<br /><br /> これは、違う。<br /> 先ほど、二子が言ったように、力を込めた時の記憶を再生しているだけなのだろう。杜花は彼女にとってイレギュラーではない。今の事態に、設定されたテンプレートで対処しているのだろう。<br /> つまり、当初の市子。<br /> まだ、死ぬような悩みを抱えていない、いつもの市子なのだ。<br /> それでは意味が無い。それでは真相に辿り着けない。<br /> 杜花のやり場のない怒りを、どこにぶつけていいのか解らない。<br /> 他の結晶に、期待するほかないのだろうか。<br /> 心の奥がチリチリと焦げる。この接触は……あまり身体に良くないのだろう。<br />「ごめん」<br />「謝ってばかり。いつもそんなに謝らないでしょう、どんな事しても」<br />「市子が悪いの。市子が、こんなにも可愛らしくて美しいから」<br />「ここじゃ、誰に聞かれるか解らないわ……もう、ダメって言っているのに」<br />「うん?」<br /> 市子の頬が、赤く染まる。杜花以外には絶対に見せない表情だ。信頼の証、愛情の証明。<br /> 誰にも犯される事がなかった筈の、杜花だけの市子。<br /> 自然と、流れるように、杜花は市子の手を握り締め、腰を抱く。<br />「だ、だから、ここでは……」<br /> ……。<br /> ノイズ。<br />「モリカ、突っ込みすぎ」<br /> プッツリと全てが消え去る。<br /> 杜花の観ていた光景が、感じていた体温が、跡形も無く消え失せた。<br /> 杜花は支えを失い、その場に座り込む。<br /> 隠し部屋から出て来た二子に対して、杜花は虚ろな視線を向ける。<br /> ……。<br />「心が開きっぱなし。長い間魔力に触れると脳幹が切れて飛ぶわよ。てか、ちょっと持っていかれてるじゃない。何があったか全然観れなかったけど、無理矢理介入してよかった」<br /> 何事かを呟く二子が、廊下に座り込んだまま動かない杜花に手を差し伸べる。<br />「姉様には逢えたのね。何か聞けた?」<br />「……ううん」<br />「ううんって……モリカ?」<br />「いつもの、市子だった」<br />「……市子って、ああ、普段はそう呼んでたのよね。そりゃそうか、個人同士なら婚約者だったのだものね……モリカ、悲しい?」<br />「……悲しくない訳が、ないでしょう。辛くない訳がないでしょう」<br />「そうね。でももういないわ。いるのは、その代替え品の私だけ」<br /> 二子の言葉が理解出来ない。<br /> 酷い虚脱感を感じると同時に、本音を覆い隠していた筈の理性が吹き飛んでいるのだけは感じ取れた。抑えようにも抑えきれないものが込み上げる。<br />「こんなにも、想って、こんなにも、捧げて、こんなにも、貰って、私は――私の何もかもを、彼女が作ったのに……彼女は、私の半身だったのに……。おかしい、何もかもが、こんなの、あり得る筈が無い。市子が、私を置いて、遠くに行くなんてありえない。そんなの、そんなのおかしいよぅ……」<br />「モリカ」<br /> 二子がしゃがみこみ、大きな杜花の身体を目一杯包もうと抱きしめる。<br /> まるで手が届いていないのに、それは温かかった。<br /> 市子と同じ匂いがする。<br /> 同じ温かさがある。<br /> 同じ顔で、同じ声で、同じ雰囲気。<br /> 違うといえば、その性格ぐらいだ。<br /> 目の前の温もりを求め、杜花はたまらずしがみ付く。<br /> 何が何だか、解らなくなる。<br />「ニコ、おかしい、おかしいんです、こんなの。私は間違っていない。市子だってそう。間違っているとしたら世界が間違っている。この世の中が狂ってる。そう思わないと、冷静でいられなくなる――市子の妹として演技が出来なくなるッ」<br />「落ち着いて――モリカ?」<br />「……殺してやる。市子を追い込んだ奴を……市子を悩ませた奴を……頭から引きちぎって殺してやる……ッ! もし今まだ生きているとしたら、呼吸しているその事実すら頭に来る……ッ」<br />「モリカ!」<br />「怒りで――頭がおかしくなりそう……なんで。なんで……う、うぅぅっぅぅッッッ!!」<br /> 廊下に杜花の慟哭が響き渡る。<br /> 何もかもを背負い込んでしまいながらも、決してその姿を見せなかった少女の怒りだった。<br /> 市子の妹として振る舞う事が、決して誰にも市子を忘れさせまいとする行動そのものだった。<br /> 市子の妹として恥ずかしくない振る舞いこそが、市子の権威を示す事だった。<br /> 姉などと呼ばれたくなかったのは、姉はまだいると信じて疑わなかったからだ。<br /> 世の中は間違っている。<br /> 市子の居ない世界など、無いも同然だ。<br /> 半身を失い、人はどうやって生きていけるだろうか。<br /> 彼女の死を無視する事でその全てのリスクを回避して来た。だが、限界だったのだろう。<br /> 幾ら強靭な精神を持とうとも、人間には心の許容量が存在する。どうにかこうにか、それをやりくりして生きているのだ。<br /> ある意味、今回の出来事は杜花にとって幸福だったのかもしれない。<br /> 器が壊れてしまう前に、余計なものを排出出来た。<br /> まだ真実を知る機会は存在する。<br /> 市子の悪い噂を消し去り、<br /> 市子の最期の想いを知り、<br /> 市子を追い詰めた人間を――この手でくびり殺す。<br /> 市子は望まないだろう。<br /> 市子ならば、杜花の幸せを願うだろう。<br /> しかしそんな市子も、自らの死によって杜花を不幸に追いやったのだ、死して尚決して弁解出来る立場にはないのである。<br />「……不様なところを見せてしまいましたね、ごめんなさい、ニコ」<br /> 呼吸を整える。<br /> 繕おうが、つぎはぎだろうが、平常心に見えるようにいるのが、杜花だ。その心にどれだけの傷を抱えていようと、他人に開いて見せる訳にはいかない。<br /> しかしどうも、七星二子が来てから、それが難しくなっている。それは二子の魔法の影響だろうか。それとも、二子自身の影響だろうか。<br /> これは容姿が似ているだけで、違うもの。七星市子の代わりなどありえない。代替え品などもってのほかだ。市子の代わりなどなく、そもそも、二子に失礼である。<br />「無理、しなくていいのに」<br />「無理しなきゃいけない。無理しなきゃ、届かない場所に答えがある気がするんです」<br />「一人じゃ背負いきれないわ。七星市子は、重すぎる」<br />「じゃあ貴女が背負ってくれますか」<br />「貴女が求めるという選択をしないじゃない」<br />「然り。その通りですね。まったく……不器用なんです、昔から」<br />「貴女……」<br />「……手紙、ありますか」<br />「うん」<br /> 二子は結晶を懐に仕舞い込み、手紙を杜花に渡す。<br /> 白い紙一枚。『本当に愚かで、いとしい杜花へ』と書かれていた。<br />「読んでないわ。七星の名に誓って」<br />「信じます」<br /><br />『杜花へ。貴女は私の死にとてつもない怒りを覚えている事でしょう。私の所為です。ごめんなさい。でも、本当はこんな手紙を見つけて貰いたくなかった。それでも貴女は探すだろうから、書きます。近くに妹はいるでしょうか。義理の妹です。一番最初の手紙に、妹は私とは全くの別物と書きました。しかし、どうでしょう。一緒にいて、ほんの少しでも心を許したりしたことでしょう。貴女は私以外の人間に警戒心が強いから、私が注意すれば、余計に警戒してくれるものだと思いました。そしておそらく貴女は警戒した事でしょう。その最中でも、結局貴女は、義理の妹に対して、自分を少しでも見せている筈です。そして、どこかに私を、七星市子を見ている筈です。試すような真似をしました。でも仕方がありません。私はこういう人間だったのですから』<br /><br />「――あの人は……もう、本当に……」<br />「七星だもの、とびっきりのね」<br /><br />『貴女は妹を疑っているかもしれない。更にいえば、私の自殺原因なのではないかとすら、思っている。妹の名誉の為にも、ここで告白します。その子ではありません。その子は、姉思いの本当に良い子です。だから、お願いします。その子の為にも、これ以上の探索は止めてください。杜花には未来があります。私がそれを脅かしてしまった事実は否定できませんが、それでも、私は杜花に、もっと未来を見て貰いたい。妹は、私と同一視される事を苦に思いません。むしろ喜びを感じています。ずっとずっと近くなることに、快感を覚えています。その子は代替え品。私の、貴女の、もしかしたら、この国の為のものです。仲良くしてあげてください。 市子』<br /><br /> これを、どう受け取れと言うのか。七星市子は、あまりに残酷ではないだろうか。そこまで配慮するならば、何故死んだ、何故こんな手紙を残したのか。<br /> これでは『もっと探してくれ』と、言わんばかりではないか?<br />「ニコ。本当は、御姉様が死んだ理由、知っているんじゃありませんか」<br />「知らないから、貴女宛の手紙を探してるんでしょう。結晶の件は別件なのよ。何故か一緒にあるだけ」<br />「正直な話、私はアナタと、貴女達を疑っています。七星という人達を」<br />「……姉様が自殺するとしたら、きっとそれしかない。だから言ったでしょう、私は詳細はしらねど、貴女の最大の味方であるし、最大の敵なのだと」<br /> 今、杜花はとうとう、七星に敵対するような文言を口にした。<br /> 疑っていながら、ずっと危機感を抱いていながら、決して口にしなかった言葉だ。<br /> しかしここまで来ると、もはや言わずには居られなかった。眼の前にその矛先を向けるべき相手がいるのならば、口に出さずには居られなかった。<br /> 市子と同じ顔をした謎の人物。最初から何もかもがおかしいのだ。<br />「貴女を人質にとったら、七星は何か喋りますかね」<br />「いいえ。欅澤家が丸ごと無くなるだけよ」<br />「ニコ」<br />「うん?」<br />「貴女は今、私の味方ですか?」<br />「ええ。胸を張って言える。私は未だ貴女の味方よ、口は悪いけれどね」<br />「――では、少しだけでいい。その憎らしい貴女の胸を貸してください」<br />「……お安いご用よ」<br /> 答えはどこにあるのか。何故市子は答えてくれないのか。二子はどこまで知っているのか。<br /> 杜花の心が誤作動を起こしている。<br /> 何をすべきか、何が出来るのか、どうすればいいのか。何一つ解らない。<br /> だからこそ、市子は前に出ろというのか。未来を見ろと言うのか。<br /> 自分で杜花の未来を真黒に染めておきながら、それでも前に進めというのか。<br /> 杜花はただ、二子の胸で啜り泣く。<br /> 今日ほど涙を流した日は、過去に一度とてなかった。<br /><br /><br /> <br /><br /><br /> プロットエピソード2/錯覚残滓 了</span><br />
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<br />俄雨http://www.blogger.com/profile/10635385965909779161noreply@blogger.com0