2013年6月25日火曜日

心象楽園/School Lore ストラクチュアルX1

 ネタバレを含むサイドストーリーです。全編ご覧になった後に閲覧ください。

 

 長い髪は暴風に靡き乱れ、彼女はまるで鬼のような形相であった。
 念動力で掻き回された倉庫は、人間の破片を含み、赤黒く、滑って張り付き、辺りを汚して行く。
 一際大きな荷物が二人の間に落ち、地面に突き刺さる。
「貴女――誰、誰なの――返して――彼女を――」
 彼女の『中』には何が入っているのか。解らない。解らない。
 そこにあるものは、純粋な力の渦である。
 一瞬、彼女の背後に大きな黒い穴が観えたような気がしたのだ。
 それは暗く昏く、光の一切を通さない闇である。
 もし、あちら側の世界があるとするならば――きっと、その穴の向こうなのだろう。
「返して――美織を、返して――」
 彼女『であったもの』が薄く笑う。
 ――誰か助けてほしい。
 いったいこの黄泉の深淵を覗くような悪夢は、何時終わるのだろうか。



 ストラクチュアルX1/終の少女



「……はい。動きは把握してます。報告した通り、脅威になるものとは思えません。はい。はい。七星二子は、ええ。緩い任務ですよ。もう一度高校生活が送れて、私は満足です。ま、休暇みたいなものと思えば……はい。では」
 監視対象等に異常なし。
 全て報告書にまとめ、上司に報告した通りである。何事もない。
 こうしてノンビリと高校生に紛れていれば良いのだから、実に楽な仕事である。
 鷹無綾音は通話を切り、車の運転手と頷きあう。
「加瀬堂、観神山にはいつまでいるの?」
「はい。二日ぐらいはいますよ。まあいつも通り、何も無いとは思いますが、一応控えておきます」
 長い黒髪をまとめた凛々しい女性、加瀬堂がハンドルを切りながら言う。
「ん。差し入れ宜しくね」
「刑務所じゃあるまいに」
「良い所なんだけどさ、お嬢様演じてると肩肘張るでしょ。甘いものも食べたいし。工場生産の」
「ええ、じゃあ後で何か甘いものを送っておきます」
「宜しく。ああ、加瀬堂」
「はい?」
「結婚しないの? もう良い歳じゃない」
「気になる人はいるんですがね。なかなか忙しい人で」
「そら大変だ」
「――はあ。ほら、着きますよ」
 正面には観神山女学院第二南門が迫っていた。
 警備員等のチェックを終え、車の停留所で下りる。屋根付き空調付き、ガラス張りの、来賓を待つ為の停留所だ。
 改めて手荷物を確認する。生徒に対する携帯端末等のチェックは甘い。予備に持ち込んだイヤリング型と指輪型の端末をポケットに収めてから、綾音は白萩へと向かう。
「んー……なんか、なんだ?」
 いつもの学院だ。
 編入と言う形で高校一年生を繕い、以来三年近く暮らした、最早愛着すらある仕事場である。その景色や雰囲気に違和感こそないが、どうも空気が違うのである。
 綻び一つない整備された道を歩いて行くと、丁度小等部校舎付近で見知った顔を見つける。
「五月」
「ああ、鷹無先輩。戻ったんですね」
 そこに居たのは天原アリスと同室、高等部生徒会副会長の金城五月だ。大変気立てが良く有能で、アリスに可愛がられている。彼女は茶色がかった髪を撫でつけ、にっこりと笑った。
「どうしたの、こんなところで」
「ええ。小等部生徒会からお手伝いのお話があって。まだ帰省している人も多いので、私だけでもと」
「殊勝な事だね。そうだ、アリス達は?」
「ええ。アリス会長も、早紀絵様も、杜花様も、市子様も、皆戻っていますよ」
「ふうん。そっか……」
 なるほど。どうやらあの子達は示し合せて戻って来たのだろう。監視対象がバラけると面倒であるからして、彼女達が一緒に居る事は好ましい。
「そっか……ん?」
「どうしました」
「いまさ、聞き間違いかもしれないけれど、市子って、言った?」
「はい? いえ。違えていませんよ。市子様もです」
「うーん、なんだろ、五月、あんまりほら、そういうのはさ……」
 はてさて。冗談を言うような子であっただろうか。
 綾音は頭をかいて、遠回しに諌める。何せ冗談に使うにしては、諸問題を起こしかねない人物名だ。
「鷹無先輩、何を? 市子様が戻っていると、何か問題があるのでしょうか」
「――ん。そっか。いやね、ううん。問題ないよ。ありがと、ごめんね」
「いえ。おかしな先輩」
 五月に手を振り、その場を後にする。
(……さて参ったな。嘘を吐いているようには見えない。状況から鑑みるに……感応干渉による記憶改変あたりしか思いつかないけど……なんで五月を? そもそも、死んだ人間の名前を出して、何を)
 学院に帰って早々、何やらきな臭い動きが観える。
 感応干渉による改変については、以前から警戒していたものであるから、そこまでは驚かない。ただその意図が観えないとなると、多少気持ち悪くはある。
 感応干渉を使う人間は、今のところ七星二子と支倉メイしか観測されていない。支倉メイが率先して五月の記憶を改変する理由が見当たらないし、そもそもあの子は可愛い女の子とセックスしていればそれで満足な人間だ。七星側とはいえ、どうも型にハマるような人間では無いように思える。
 そうなると七星二子が主犯だろうが、さて。
 複数人改変したとなると、その状況から何かしらを導き出そうとしている可能性がある。
 即座に報告しようと、ポケットに仕舞った端末に手をかける、が、止める。
 七星側が盗聴している可能性も示唆されて作られた端末であり回線だが、保全の為にもあまり使いたくはない。綾音は頭を振り、白萩へと向かう。
 躑躅の道を通り、向かった先では、学院に戻って来た生徒がちらほらと見受けられる。
「や。戻ったよ、マイ」
「あらら。綾音ぇ。やっと戻って来たんだあ。寂しかったあ」
 白萩の前に居たのは、同室の神藤真衣子(かんどう まいこ)である。
 真衣子はおっとりとした声で綾音を迎えると、そのまま抱きつく。公衆の面前では止めて欲しかったが、可愛いので良い事とした。
 真衣子は何も知らない、ただの一般生徒だ。
 全身から漂う柔らかい雰囲気に柔らかい胸が特徴の、放っておくと後輩に弄り倒されるのではないかと心配になる子である。
 誰も観ていない事を確認して、真衣子の長いウェーブヘアを撫でつける。相変わらず良い匂いがする子だと、綾音は新年早々イケナイ気持ちになる。それでなくとも面倒な問題が発生した様子なのだ。どうもこの子の隣にいると、人として駄目になるような気がしてならなかった。
「鷹無の実家に戻ってたんだよねえ?」
「そうそう。マイは?」
「ん。戻ったら直ぐお見合い話を持ち出されちゃってえ。全部断ってしまったのだけれどもー」
「あらま、なんで」
「なんでって……んふふ。なんででしょうー?」
 解っている。学院に好きな子がいるのだ。
 この学院、どこを引いても皆良い所のお嬢様であるからして、あえてお見合いなどせずとも良いパートナーが見つかるだろう。どうもその辺り、神藤本家は弁えていないと見える。
「少しお腹すいちゃった。なんかあるかな」
「天原様が、美味しいお菓子を持ってきてたよー」
「では御相伴にあずかろうかな……ああ、マイ」
「なあに?」
「市子は戻ってるかな」
「――ん? 市子様?」
「そうそう」
「うん。皆戻っているみたい」
「そっか、ありがと」
 さて。
 どうしたものか。
 一先ず真衣子を置き、綾音は白萩に足を踏み入れる。
 五月は、まだ解る。彼女達に近い存在であるから、改変して七星の思う流れに組み込もう、というのならば納得も行く。だが真衣子は彼女達からだいぶ遠い。同じ寮としてまとめて改変を行ったのだろうか。するとなると、幾ら強力な力とはいえ、相当の苦労があった筈だ。
 そもそも。
 市子がいると誤認させ、では、その市子はどうなっているのだろうか。
 遺伝子複製体の代替えを持ってきて、それを認識させているとなると、それでは寮の改変だけでは済まされない。
 もしかすれば、現状、鷹無綾音もその術中に在る可能性すら考えられる。
 もし、何か異常なものを見たとしても、決して驚かないようにと、綾音は心を縛る。
 そして綾音はサロンに赴き、心を縛る決意虚しく、目を見開いて驚愕した。
「――あ――が――う、」
 違う。
 何を見ている。頭を振る。
 窓際に座る彼女は、七星市子に見える。
「あら、綾音。戻ったのね」
「――あ、ああ。うん。お久しぶり『市子』」
「お元気そうで何より。そうだ、アリスがお菓子を持ってきたから、綾音もどう?」
 窓際には、『市子』を中心とし、欅澤杜花、天原アリス、満田早紀絵、三ノ宮火乃子、末堂歌那多等が楽しそうにお茶をしている。
 頭をもう一度振る。
 目を凝らす。さとられるなと、心で願う。
「帰ってきて、なんかちょっと、眠くって。部屋に戻るよ。あ、そのチョコ、私のね」
「うふふ。はいはい。じゃあ、あとで持って行くわ」
「うん。ああ、市子は優しいなあ」
 そのままサロンから出て、かけ足で自室に戻り、ベッドに飛び込む。
 頭を抱え、何度かもんどり打ち、顔を手で覆って静止した。
「あれはなんだ……一瞬市子に見えたけど……違う。七星二子だ。あれに、誰も疑問を抱かない? 寮ごと改変? いやあ、違う、学院丸ごとと考えるのが自然だ。不味い不味い不味いぞこりゃ……」
 何が不味いと言えば、どう考えても自分だけ、影響下に無い事だ。
 七星が何かしらのアクションを見せる、それ自体は構わない。彼等の行動によって、七星がいかなる不正を働いているのか知る機会が出来るからだ。
 しかしそれが全体的な効果を持ち、その中で一人だけ自意識を保ったままの人間が居た場合、どうなるか。
 これは感応干渉、しかも範囲型。一個人に対しては強い力を持たない様子だが、範囲が大きすぎる。
 これだけの力を有した能力者は存在していない。ともなると、以前話で聞いていた感応干渉応用による、洗脳装置の投入である。
 軍では用いているらしいが、まさかそれが、こんな学院で用いられるとは、想像もしていなかった。
 これが感応干渉であると判断する理由はたった一つ。鷹無綾音のESP強度によるものだ。
(仕方ない。こちらSAU1)
(どうしました、主任。戻って早々じゃありませんか)
 通信口でへらへらとした返事が返ってくる。相棒の加瀬堂だ。
(最悪の事態だ。N兵器投入の可能性。七星の動き、警戒して……あと、私は無事かどうか解らない。観神山に何人か伏せておいて。以降、二時間おきに連絡する)
(――了解。御気をつけて)
 これだけの規模だ。ただ事ではない。一お嬢様学校が戦場に早変わりしたのだ。
 楽な任務、もうそろそろ終わりを迎えると思っていただけに、これには参った。
 感応干渉の拡散装置。
 軍主導で研究され、非人道的すぎるあまりに、表向きには既に用いられていないと聞いていた。当然便利である。これを使わない手はない。現在もひっそりとどこかの戦場で、人の頭を壊して回っているだろう。
 しかし、これはどうなのか。どのくらいの強さなのか。
 綾音の持つ干渉否定の防御壁はそう厚くない。その程度で凌げるのだ。
 今現在、出力は弱いとみて良いだろう。とはいえ、用意周到な七星が、洗脳の効かない人間を放置するとも思えない。
 本来ならこんな場所、直ぐさま離脱したいが、帰って直ぐ戻り、しかも行方不明となれば、確実に七星に疑われる。彼等が持つ私兵団は猟犬だ。
 ……例え鷹無綾音という戸籍が偽物であったとしても、鷹無綾音と名乗った人物を探し当てるぐらいの事はするだろう。何もかも痕跡を消すには準備が必要だ。今逃げた所で一緒である。
(何がしたいんだ、七星は――)
 高校生、として潜りこんだのが二年と半年前。その間、この学院を隠れ蓑に七星が何かしら違法な実験を行っている事を付きとめるのが当初の目的であった。
 探りを入れる中で解った事は幾つかある。
 一つは、七星一郎肝入りの実験である事。
 遺伝子複製体を平然と運用している事実自体は最早解りきっているのだが、試験管では無く代理母(手続き上は歴とした母)を立てており、遺伝子複製体等は全て日本国籍を有している。こうなってくると直接遺伝子複製体の母体となる人物が、核を埋め込む瞬間を取り押さえて分析する他ない。
 そんなものは無茶だ。それ以前の手続き云々、全て七星に抑えられている為、手が出せない。
 一つは、かなり高度なESP研究の実験場として、学院を利用している事。
 七星系列の生徒数人はESPを保有、しかもそれらが強度Bを超えると言うのだから、もはやこの学院は火薬庫と大差ない。攻撃性の強いESPともなると、一人で一個中隊程度とやりあえる力がある。
 特に七星が力を入れているのは『他者感応干渉』である。古くから認知されていた能力ではあるが、その非人道的な力と多様性、万能性は、他者感応干渉と一括りにするには問題が多すぎる。
(……欅澤杜花達が追いかけていた結晶、七星二子の存在。支倉メイ等遺伝子複製体の動き、そしてこの大改変……七星市子を偽らせて、娘を蘇らせたい? いや、蘇ったという態を演出したい?)
 七星の実験は、大体のところ七星一郎の第一子、利根河撫子に繋がるものであると考えていただけに、ここで市子の復活に足を踏み入れるのはいささか違和感があった。自分の知らない流れがあるのだろう。
 七星に懐疑的であった欅澤杜花も、今は完全に改変の中にいる。
 戦闘力的に申し分なく、味方になってくれるのならば心強かったのだが……自体は深刻にして繊細だ。下手に動きまわった結果、身元がバレて学院を追われるとなると、積み上げて来たものが無に帰してしまう。
 上層部の判断……では遅い。最新の注意を払いながら、現状を確認するほかなさそうだ。
(ヤバいなあ……ヤバい……というか私の身元もうバレてるかも?)
 感応干渉が効かない自分は、幸運であると同時に不幸だ。
 もし相手方から脳内を覗いてくればアウト、脳内を覗かれないよう拒んでもアウト。
 つまり感応干渉を使用する人間に出会ったらアウトだ。
 最悪の場合……戦闘も止むを得ない。
 綾音は鏡の前に立ち、その顔を両手でひっ叩く。
 細目を見開き、髪止めを外して流す。暫くは演者だ。自分は何も知らない一般生徒であると、今まで以上に演じる必要がある。
 過去、ここまで危機的状況に自ら飛び込んだ事があっただろうか。まだ武装集団の真中に突撃した方が、精神的にも楽である。
(……大陸で諜報してた方がマシなんて、どんな状態だ)
 上からの申しつけで、大陸内部の日本企業の不正を暴く為に派遣された事がある。
 当時はまだ都市部での戦闘が激しく、あちこちで重火器が飛び交うような様であった。
 大陸で諜報活動中、綾音の元に仲間の首が送られてきた。日本語と中国語で書かれた脅迫文を、今も忘れる事が出来ない。
 大陸国内の反日勢力と日本企業の結託。完全にクロであると決まった瞬間でもある。裏を取りきれず、いつまでも攻めあぐねていた為、事態が長引いてしまった。仲間の死が裏付けとなった皮肉である。
(ああ、やだなあ。ヒトゴロシとか、やだなあ)
 なるべくなら控えたい。なんだかんだと、この学院は好きなのだ。
 都合六度目の高校生活の中、これほど充実した場所は無かった。
(だからね、やだったんだよ。七星関連は――)
 状況は既に袋小路。この不安定な精神、あとで真衣子を弄って保とうと、綾音は溜息を吐いた。



「ねえー、綾音ぇ」
「どうしたの、マイ」
 わざわざ外に出て神経をすり減らす事もないとして、その日は一日部屋にこもっていた。授業開始は二日後であるからして、それまでは無駄な動きを無くしたい。
 二段ベッドの上の段から降りて来た真衣子は、寝そべって本を読む綾音の隣にピッタリとつく。
 彼女と出会ったのは編入初日、隣の席に居たのが切っ掛けだ。
 当時から物腰と思考と語尾の緩い子で、皆からお姫様のような扱いをされている。
 本を閉じて真衣子に目を向ける。彼女はなんだかモジモジとしていた。
「ん?」
「綾音は、婚約者がいたよねえ?」
「あ、うん」
 そういう態である。
 鷹無家という架空の家柄に架空の人物、架空の婚約者が存在する。
 幸い七星の手は回っていないと見えて、今までバレた事は無い。それも当然で、そもそも一生徒の家柄丸ごと調べていたらキリが無い。疑われた時点で終わりなのである。
「……良い人ぉ?」
「そうだね。顔も悪くないし、人柄も良い」
「じゃあ、結婚しちゃうんだぁ……」
「婚約までは決まってるけれど、もう少し見定めるよ」
「でも、お家の勧めでしょうー?」
「私がこんなだしね。まだ若いし……」
 まだ若い、などと嘯き、なんだか惨めになる。見た目こそ確かに高校生だ。だが実質、30を超えた辺りから年齢を数えるのを止めてしまっている。
 本部にある自身の個人情報をひっくり返せば実年齢も解るだろうが、もう自分でも把握していない。
「……綾音ってえ、異性愛者だよねえ」
「どうだろ。目についたのが男ってだけかもね。別段と同性愛に否定感はないよ?」
「……そうなんだあ。あのね、わたしね、同性愛者なのだけれどね」
「ああ、うん。そんな気はしてた。お見合い断ったのも、勧められたのが男だったから?」
「それもあるけどお。んと。学院に、好きな子が、いるからあ」
 やはりそうなのだろう。
 綾音の記憶が確かならば、少し昔、真衣子のような女女した子はわざとらしいだとか、媚びているだとか、そういった言葉で女性達から否定的に受け止められていた。
 しかし時代は移り替わるもので、何時の間にか日本では同性婚が認められ、子供すら作れるようになっているというのだから驚きである。
 綾音が本当に高校生だった頃では、考えられないものだ。
 古い人には否定的な者が多い事も確かだが、町に出て見れば良く分かる。同性のカップルなど、人ごみに石を投げれば当たる程度にまで存在する。
 価値感は移り変わり、真衣子のような子が女性達に認められるようになった。むしろ、人気であるとすら思う。口調こそ不思議な子ではあるが、常識的であるし、観神山女学院生徒特有の率先的な思考がある。
 それに彼女の包容力は評価すべきだろう。綾音も時折頼ってしまうほどだ。
「あと三カ月もしないうちに、卒業でしょうー?」
「そうだねえ……」
「私、その子に、まだ想いを告げて、いなくってえ……」
「なるほどね」
 客観的に見れば、真衣子の告白を断る人間というのは、本当に異性愛者か、元から恋人がいるか、どちらかとしか思えない。もう少し自信を持って告白しても構わないと思うのだが、その心中は本人しか解りえないものである。
 もし断られたらどうしよう……この切ない悩みは、人類が産まれて以来変わらない。
 綾音も昔は、そんなものに熱を上げた事があった。
 同性であったし、まして敵対勢力の親玉の娘、というどうしようもないものだ。
 思いだすと憂鬱になる。自分の恋の思い出など碌なものではない。
「同級生だけど、年上みたいな事いうよ。聞いて、マイ」
「うん?」
「経験上、誰かの手に落ちてしまう前に、さっさと手を突っ込んで手に入れるか、玉砕するかした方が、後悔も少なくて済む。あの時こうしていれば、では全部遅い。マイは可愛いから、大体の人は受け入れてくれると思うよ。もう少し自分に自信を持って、頑張ってみたら?」
 真衣子はキョトンとしたまま綾音を見ている。確かに、同級生に諭されるような内容ではなかろう。
 しかし真衣子は暫く咀嚼するように頷いてから――行動に移った。
 綾音は何が起こっているのか解らず、目を見開いたままである。
「――え?」
「んふ」
 覆いかぶさられている。
「あれ?」
「あーやね」
 両腕を押さえつけられ、身動きがとれない。無論、素人相手だ、解く方法は幾らでもあるのだが、何せ相手は一般生徒だ。そしてその目は好意的、というには過小評価と言えるほど好意的である。
 まずった。
 いや、何も気にしていなかった訳ではないし、気がつかなかった訳ではないのだが、自分は彼女が好意を寄せる人間の中でも、かなり低位置にいると考えていたのだ。
 彼女に群れる子達は多い。皆が皆良家の子女である。こんな、穿り出せば意味不明なものしか出てこない、裏のある女に興味を持っているとは、流石に思ってもみなかった。
「あの、真衣子さん?」
「こういう女、嫌いかなあ?」
「嫌いじゃないけど。でも、何故私?」
「恋心って、何故何で決まるものだっけー?」
「確かに、違うけど。他にも沢山、貴女を慕う子がいるでしょ」
「いるけれどぉ。そんなに好き? じゃないかなあ? あのね、綾音」
「はい」
「婚約、嘘だよね?」
「――うわあ、なんか凄いの来ちゃったなあ……」
「実はね、もうね、実家には、好きな人がいるのって、言ってるのぉ。名前も、出して」
「あ、えっと。つまり、私」
「――婚約者さんなんて、居ないよねえ。私じゃあ駄目かなあ?」
「マイ、貴女――何者?」
「好き」
「んん?」
「やっと言えたよぉ。あのね、綾音、私、貴女が好き。凄く好きなの。ずっと貴女の事、見てたよお?」
 それはそれで不味い気がする。
「私、面白い人間ではないでしょう」
「……少しね、調べたの。綾音、貴女、普通の子じゃ、ないよねえ?」
「いやいや、普通の高校生だよ」
「鷹無の実家にも行ってみたの。そしたら、空き地ねえ?」
「うぐっ」
「鷹無の家業についても調べたけれどぉ、サイトも全部ダミーサイトで、実際の企業は存在していないみたい……」
 そうだ。
 そもそも深く探られる事など前提ではない。探られた時点で鷹無綾音なる人物は即座に荷物をまとめて逃げ出さねばならない状態にあるからだ。
 この二年半以上、一切素性を洗われるような事が無かったからこそ、今まで平穏無事でいたのだ。
 探りを入れて来るならば七星だけだろうとタカをくくっていただけに、これは意外である。
 本来ならば直ぐに連絡を入れて、逃げる準備だ。だが、状況が不味い。七星が何かしらをしでかしている最中に居なくなれば、即座に疑われる。
「それで、調べて、どうしたの?」
「どうもしないよお? ただ、貴女がどんな人なのか、気になっただけだもの……貴女は、お上の人、かなあ?」
「守秘義務があるの。詳しくは教えてあげられないし、足を突っ込んだ所で、貴女に得るものはないよ」
「ううん。そういうんじゃ、ないの。好きだから、そのあたりはどうでもよくって。ずっと考えてたの。もし、私が、貴女を好きだといって、貴女を縛りつけたら、凄く困るんだろうなって、そう思ったの。だからねぇ……言い出せなくて、ねえ?」
「確かに、困る。今困ってる。どうしよう」
「好きなの」
「うん……それは、十分、解った。でも、御存じの通り、答えてあげられる立場に、ない」
「あのね……」
「え、ええ。うん。なに?」
「……時折逢う、ぐらいでも……だ、だめぇ? あ、逢えないなんて、これから、卒業して、顔も、見れないなんてぇ……凄く、凄く、辛いからあ……あのね、都合の良い女でも、構わないの……」
「そ、そこまで自分を貶めなくても。私みたいな不安定で、しかもド年増で政府の犬に……あっ」
「お上の人なんだあ……公務員なんだねえ。年増ってえ?」
「はあ。ええと、もう、たぶん四十は過ぎてるんじゃないかな。精神的にも若いつもりだけど、ゲノムアンチエイジングのお陰で、高校生と言っても違和感ない容姿でしょう? 私なんて、戸籍も、見た目も、経歴も、全部嘘。こんな危なっかしいもの、近づかないのが吉だよ」
 ゲノムアンチエイジングは若ければ若いほど、若いままの容姿を保てる。
 高校卒業後直ぐ就職した先で施されて以来、継続的な検診こそ必要ではあるが、ほぼメンテナンスフリーでこの容姿を保っている。詳しい事は綾音にも解らないが、ゲノムアンチエイジングの他に、テロメアを弄っているのだという。細胞老化が相当に遅くなり、理論上は五百歳まで生きられるという。
 勿論そんなつもりもないので、途中で命を絶つだろう。
 そうだ、恐らくもう四十は過ぎている筈だ。こんなに若い子達の中で過ごしていると、感覚がマヒしてしまう。何もかもが偽りの自分は、あの時、もう恋などしないと誓った。
 だから、こんな可憐な乙女を、面倒くさい物事に巻き込みたくは無い。
「……でも、その、性格も、精神も、嘘なの?」
「それは、違うけれど」
「なら、良いと思うの。私、全然きにしないよー?」
「ねえ、マイ」
「う、うん」
「もう少し、時間を貰えるかな。今ね、少し面倒な事になっていて。落ち着いてから、返事をしたい。あと、私の事は誰にも、口外しないでほしい」
「……解った。でも、あの」
 真衣子は少しだけ悲しそうな顔をしてから、目を瞑る。
 参った。
 本当に参った。そこまでされてしまうと、引くに引けない。
 綾音は仕方なく、突き出した唇を合わせる。
(嗚呼、人とキスするなんていつぶりだろう……やわらか……良い匂いする……あ、胸もやわらか……てか、うわ、そんな、舌いれなくても……)
「んっ――んっ、ふ……ちゅぐっ」
「ぷえ……んふ。えへへへ……」
 彼女の好意は、純粋に嬉しい。
 こんな歳になって、まさか高校生にときめくとは思わなかった。昔の綾音ならば、有無を言わさず突き放しただろう。
 ただ、一人が長かった所為あるだろうか、人恋しい心ばかりは、抑えようがない。焼きが回っている。
(今回無事だったら……引退かなあ)
 ぼんやりと、神藤真衣子が隣にいる人生を想像する。
 戸籍を繕って、溜めこんだお金で家を買って、子供も作れるだろう。幸福な人生なるものが、なんとなく、漠然と思い浮かぶ。
 まあ――それもこれも、全ては今回生き残れたら、であるが。




 資料をひっくり返す。資料と言っても大体が電子ペーパーだ。自動削除機能こそついているが、まとめて置いておく訳にも行かず、部屋中に散らしてある。三センチ程度の三角形デバイスであるから、隠す場所には苦労しないのだが、かき集めるのが大変だ。
 粗方必要なものを座卓に並べ、一つ一つ精査して行く。
(これは一年次、春から夏までのもの。七星関連は別のにまとめなおしたから……)
(なんだってクラウドにまとめておかないんだろ……無線データハックされる心配の方が大きいのかな……)
(……欅澤杜花の資料か。どれ……確実に七星に、何かされてるとは思うんだけど……何をされたのかハッキリしないんだよねえ。あの強さは脳改造も有り得ると思うけど、乳幼児に対して施したとすると……七星なんでもありだなあ)
(えーと。あった。七星の遺伝子複製体について)
 真衣子に告白された翌日、綾音は過去のデータを洗い直していた。現状どう動けば良いか解らない以上、改めて自分の置かれた状況を省みて、露見率を低めねばならない。
 完全に袋のねずみである綾音は、指示が無い限り任務達成よりも生存が優先だ。
 裏社会でも、七星は人を殺さない事で有名だ。何事も穏便に済ませたがるのである。
 ただそれは七星に対して害を及ぼす前の段階の交渉結果であり、害を及ぼした後の七星は烈火のごとく、筆舌に尽くし難い残忍さで迫る。
 特に大陸人、売国奴にはもはや慈悲どころの話ではない。関わった人間、家族丸ごとこの世から消し飛ばされる。大陸系テロリストに娘を殺された、七星一郎の積年の恨みを体現するようなものだろう。
 そういうものを鑑みて、果して、自分がどの位置にいるのか。それが問題なのだ。
 鷹無綾音の主任務は七星の不正を暴く事にあるが、具体的な内容までは決まっていない。
 遺伝子複製体の運用やESP実験の裏を取り、その情報を本部に送る。綾音の諜報活動によって、約五人が遺伝子複製体として学院に入り込み、一般生徒を装っているという事実を突き止めている。
 特にここ数年はESP実験などに力を入れている様子だが……被害者を見ない事から、ESPの中でも被害が把握し難い、生物干渉、自然干渉系が中心の実験なのであろうという事は予測できた。
 現在それを行使する人間は七星二子と支倉メイ。七星市子は、一応鬼籍である。
 ただ、その超能力を行使したからといって、犯罪として立件出来はしない。法律にそんな文言はない。遺伝子複製体とて、戸籍がある限りは歴とした日本臣民なのである。
 故に、複製体やESPでの探りは既に諦めて、データはまとめて隠してある。本部にも送信済みであるからして、これは全て自分用のログなのだ。
 その中から、自分が、七星の逆鱗に触れているかいないか。
 そして今後、もし遺伝子複製体等のESP攻撃になどあった場合どう逃げ切るか。
 綾音は普段使わない領域の脳まで酷使し、データを読み漁る。
(……二子は、どうやら欅澤杜花との接触で、感応干渉の使用頻度を下げたみたいだね。やはり、好きな人の頭の中を覗くのは憚られるのかな。いや……でも、七星市子は度重ねて使ってたみたいだし……姉妹とはいえ、その辺りの感覚は違うんだろうな)
(支倉メイは、大丈夫かな。あの猫に細工施したのもあの子っぽいし……どちらかといえば、七星に懐疑的なのかもなあ。ニンフォマニアだし……)
 幾つか人物データを脳内の記憶と照合して行く。
 その中で一人の遺伝子複製体が目にとまった。
(戻橋百刀……二子の本名が一条なだけに、なんか怖いな)
 高等部一年、戻橋百刀(もどりばし ももと)。
 七星一郎が目指す利根河撫子復活計画、確か七星内部ではプロジェクト『ヌル』とあった。撫子計画の一人である。
 学院に入ってくる遺伝子複製体等は皆顔を変える為、誰ひとりとして撫子には似ていない。この子も例外に漏れず、まさに他人と言った面相だ。
 しかし例外なく美人か可愛く作っている辺りが、七星等の美意識を感じる。
 百刀はオリジンの撫子に比べると、ずいぶんと貧相な体つきだが、スレンダーと言い換えた方が良いか。切れ長の目にショートヘヤー……早紀絵よりもいささか耽美な雰囲気だ。
 タチ不足に悩む観神山女学院では貴重な存在だ、当然彼女自身人気がある。
 過去の調査の結果、この子は感応干渉は持たないとされた。
 しかし別種の、攻性ESPを保有しているのではないかと考えられる。そのつけられた名前も能力を見据えたものだろうか。
 彼女が特殊な能力を持っている事は、事例が証明している。
(改装工事中の校舎内で運悪く事故。飛んできた鉄材を防ごうとして両手に当たるも……無傷。頑丈で良かったと笑っていたが……と。物質変化形の能力者か。鉄分か、炭素かな。いや、自然干渉系もあるか)
 現在此方が把握している限り、ESPには大分類として四種類、小分類として数十種類ほど存在する。
 大分類は『生物干渉』『自然干渉』『超常行使』『特殊行使』とされている。
 生物干渉は解りやすく、生命体の脳や肉体に干渉するタイプで、他者感応干渉もこれに分類される。
 自然干渉は漫画やアニメに出て来るような、火や水、雷などを発生させるタイプである。
 超常行使は、所謂念動力、物質変化、遺伝子変化などといった、非自然的、物理法則を捩じ曲げるものが大まかに分けられている。
 特殊行使は千里眼や未来予知、殆ど行使者自身を対象とするものが多く、分類不明も此方に属する。
 どれが一番面倒くさいか、と言われると相性にもよるが、鷹無綾音の保有するESPからすると、感応干渉が一番厄介であることから、主眼はあの二人、特に二子となるだろう。
(しかし……どうだろうか。奴は動かないのだろうか。二子は市子を演じるので精一杯だろうし……まだ脅威度は低いけれど……)
 頭の中に、ぼんやりとあの女の顔が浮かぶ。
 七星市子のお付きのメイド、兼谷である。
 彼女が直接何かしらのアクションを起こしたという事例はない。しかしプロジェクトヌルの統括役である可能性が示唆されている為、今現在原因不明の感応干渉拡散状態の中、彼女が現れない保障はない。
 何せ七星市子のお付きだ。
 護衛、工作、諜報その他諸々の為にも、ESPの一つや二つ、行使してもおかしくはない。そして白兵戦においては欅澤杜花級とも言われている。なるべく近くにはいてもらいたくない相手である。
(……さて、少しやるかな)
 資料を頭に叩き込み、電子ペーパーを一つずつ潰して行く。破片を辞書カバーにぶち込み、綾音は立ち上がった。ベッドの下から運動着のように着やすい衣服を取り出すと、ぱっぱと着替える。
 今日は真衣子は外に出ている。夕方には戻ると聞いていた。部屋を出てドアに外出中と札をかけ、そのまま寮の外に出る。裏手へ周り、人気が無い事を確認してから、綾音はスイッチを押した。
(確か寮の正面や裏には監視カメラもないし……よし)
 寮の入り口に近づいてくる生徒に対して手を振る。明らかに視界に入っている筈だが、反応は無い。約三十センチの所まで近づいても、生徒は無反応だ。
「……ん?」
 天原アリスが小首を傾げる。衣ずれの音を察知したのだろう。しかし何もその視界には映って居ない筈だ。
(順調。いやしかし、こんな近くで観ても、この子ほんっと綺麗だなあ……)
 仮想映像反映技術を応用した光学式特殊迷彩服。所謂ステルス迷彩だ。
 例え七星の工作員が、近辺を嗅ぎまわる賊を気にしていたとしても、対象物が見えない限りは何もできない。特に感応干渉など、相手を視界に入れて居ない限りは余程の高位能力者でない限り、能力行使は不可能である。
 嗅ぎまわるならこれだ。露骨に使いすぎて逆に露呈する、なんて事もあるだろうが、何かかしら探りを入れる場合は良く用いている為、信用度は高い。
(まずは二子について回ろうかな)
 本日は高等部第二校舎の第一談話室で屯していると聞き及んでいる。以前市子が妹以外の生徒を相手にする場合使っていた場所だ。
 綾音は三年生である為、主に第一校舎が活動場所となるが、此方には図書室がある為良く出入りする。いつものように何の躊躇いも憂いも無く、普段通りに校舎へと入り、廊下を行き、階段を上がって行く。
 三階の第一談話室に近づくと、そこでは複数人の笑い声が聞こえた。以前の妹達がいるのだろう。
 そうだ。彼女達もまた記憶を改竄され、まるで継続して市子が生きているかのように思わされているのだろう。本当に、信じられない規模である。
 第一談話室に女生徒が入るのを見計らい、その背中について行く。スルリと生徒の脇を抜けて中に入ると、窓際には、綾音が記憶する、懐かしい光景が広がっていた。
 どうやら欅澤杜花は見当たらない。満田早紀絵、岬萌辺りが主要人物だが、そこには先ほど資料を再確認したばかりの戻橋百刀がいる。珍しい組み合わせだ。
 そもそも、あの満田早紀絵と戻橋百刀が同席している事に、果てしない違和感を覚える。市子……二子を囲う生徒達も、視線がそちらに行きっぱなしである。
 綾音は物音を立てないように、長年培った気配遮断を駆使し、生徒達の近くに居座る。
「ところで市子御姉様。こんなこと、ここで聞いて良いものかとも思うのですが」
「ええ、なんでも聞いて?」
「えっと、その。杜花様とは……うふふ、最近、如何ですの?」
「あら、無粋な子ね」
「し、失礼しましたわ」
「うふふ。嘘よ。その辺りは、そうね、早紀絵辺りが詳しいんじゃないかしら?」
「あ、何それ。市子先輩って私にはキツいよね?」
「いいじゃない。貴女も愛して貰えば」
「ねえ、市子様」
 やり合う市子と早紀絵の間に、百刀が割って入る。ハスキーボイスがなかなか耳に心地良い。あれの犠牲になる子は多いだろう。耳元で囁かれたとなれば、綾音とて身を震わせるだろう。
「何かしら、百刀」
「冬休みの間、杜花さんどころか、早紀絵さんやアリスさんとも、距離を縮めたみたいだね。杜花さんばかり見ているものと思っていたから、少し意外だよ」
「そうかしら。私、早紀絵も好きよ、ねえ?」
「そ、そんな風に言われるとなんか、調子狂うなあ……まあほら、何? 寛容になるのは良い事じゃない、百刀。貴女だって彼女多いでしょ」
「ふふ。君程無節操じゃないけどね。ほら、アタシ達みたいな」
 そういって、百刀が早紀絵の手を取る。
 周りの生徒から黄色い声が上がった。綾音も思わずあげそうになる。
 いや、実に絵になる。ボーイッシュで美形な二人が並んで手を取ると、ここまで耽美なものだろうか。顔が近いのがまた良い。
 綾音は自分が何をしているのか、少し解らなくなってくる。とはいえ貴重なシーンだ、目に焼き付けておこうと、その動向を見守る。
「どちらかといえば、オトコノコの役割が多いと、ね? そういえば早紀絵さん、アタシには手を出さないよね」
「後輩君、少し教えてあげよう」
「何?」
「『彼女層』が被るんだよ……私の恋人数人、同時に貴女の恋人だよ」
「あー……あらら。そっか。早紀絵さん、配慮してくれているんだ。なんだか悪いね?」
「おっと。真性のタチはこれだから。だから言ったでしょ、市子先輩。この子と私が同席だと食いあうって」
「いいんじゃないかしら? 見ていて、とても耽美な気持ちになるわ。アリス辺りに見せたら、さぞ喜ぶと思うわよ?」
「アリスさん――ね」
 その名前を聞いて、百刀の表情が少し陰る。
 天原アリスについて、何かしら思う所があるのだろう。
 百刀は少しだけ首を振り、また元に顔に戻る。他の子達も気にしていない様子だ。
「あら、こんな時間。私、少し用事があるの」
 そういって小さく手を叩き、二子が席を立ちあがる。元から声も似ているが、市子の仕草を真似る彼女は、身長さえ除けばほぼ市子そのものに見える。
「では、今日はこれでお開きかしら。市子御姉様、また呼んでくださいな」
「ええ、ごめんなさいね。ああ、早紀絵、貴女はこれからどうする?」
「んー、一度白萩に戻るよ」
「百刀は?」
「陽光に戻ります」
 陽光、というのは第二寄宿舎の別名だ。白萩程ではないが、こちらもかなり年季の入った建物である。
 皆がぞろぞろと動き始めるのに合わせ、綾音も行動に移る。目標は二子であるが、百刀も気になるところだ。一先ずは二子を追おうと、彼女の後ろをつける。
 二子は廊下に出て、そのまま校舎の外に出てしまう。どこへ向かうのかと訝っていると、やがて人気の無い方向へと歩みを進め始めた。
(そっちに施設はないのに……旧校舎かな)
 少し距離を取り、彼女の進む先を観察する。そして予想通り、彼女は旧校舎の重い扉を開いて中へと消えて行った。
(なるほどね……まあ、これだけ大規模の改変、一人じゃあ無理だ。ともなると、やはり洗脳兵器の投入を疑うべきだし、それは人目につかない方が良い。物置でしかない旧校舎なら、教師すらまず入らないし、入らないよう脳味噌を改竄しておけば、困る事もない)
 それは良い。予測した範囲だ。しかし問題は彼女達の主目的である。
 七星が観神山女学院や他の女学校に利根河撫子の遺伝子複製体を送り込んでいる事実は既に解りきっている。七星一郎の目的が、また利根河撫子の復活ではないかというのも、目星は付いている。
 観神山女学院はそのモデルケースとして存在し、ここでの遺伝子複製体及び市子二子などの行動を把握するのも任務の一つだ。
 だが、復活とは言うものの……遺伝子複製体を作りあげた時点でそれは復活ではないのか。
 データを収集して本人に近づけているのでは、という憶測もあるが、では何のためだろうか。そこに疑問を抱くのも、全ては七星市子と七星二子の存在故である。
 本部が把握している撫子の情報を基にすると、市子は正しく撫子の生き写しだ。
 最初は市子が遺伝子複製体であろうと睨んでいたが、調査結果で彼女は七星家の実子である事が証明された。そして市子は自殺、世間的には伏せられ、死亡届も出されていないが、葬儀は行われたという。
 撫子と同様の死因である。
(で、遺伝子複製体ならば、その結果も納得出来た。遺伝子が自殺を促したというのなら……オカルトの範疇だけれど、有り得ない話じゃない。でも彼女はオリジンだ。オリジンが一番撫子に近いなんて、おかしな話だし……ついで二子が投入された。二子も実子だけど……)
 何もかもがちぐはぐである。
 では何のために、日本各地に遺伝子複製体が散っているのか。
 何故一番撫子に近かった市子が遺伝子複製体ではないのか。
 何故二子が学歴まで詐称して投入されたのか。
 そして何故、今こうして記憶改竄までして、二子を市子に見せかけているのか。
(ま……それを調べるのが仕事だけどさあ……)
 辺りを警戒しながら、綾音は旧校舎に近づく。
 扉に手をかけたところで――綾音の第六感が警鐘を鳴らした。ふと視線を上げる。
 監視カメラだ。良く眼を凝らす。
(……あ、やべ)
 即座に離れる。型から見るにサーモグラフィ付きだ。明らかに映り込んだ。心の中で舌うちし、旧校舎から飛ぶようにして地面を蹴る。
(学校備え付けじゃない。そりゃそうだよねえ、七星の拠点だもんねえ。って馬鹿野郎ぉッ)
 彼等の行動は早い。やがて旧校舎内からバタバタと音を立てて、人が走ってくるのが解る。
 一人、二人、三人、四人か。その立てる音、足音の重さから、相手が完全武装である事が容易に汲み取れた。
(冗談でしょ、学院に七星の私兵団入れてるのか、コイツ等ッ)
 有り得ない事も無いが、可能性としてはかなり低い確率であった。
 綾音は少し侮っていた。今の今まで、学院で大っぴらな行動をとらなかった七星を舐めていたのかもしれない。今回ばかりは七星も本気の様子である。つまり、彼等が目指していた目的が、目前にあるのだろう。
 七星の私兵団ともなると、国防軍の特殊部隊よりも厄介な装備で有名だ。
 兎に角SFのような武装で攻めて来る。国軍にすら下ろしていない武器だというのだから、情報も何も無い。
 綾音はそのまま草陰に飛び込み、相手の出方を確認する。
 予想通り四人。全員黒いメカニカルアーマを着こんでいる。そんな目立つもの、学院で着る奴があるか、とも思うが、そもそもここには誰も近づかない。
「いたか」
「映像には実物は映らなかった。ステルスだろう。警戒」
「軍の諜報部か?」
「さてな。全員切り替え」
 現在の近代化された特殊部隊の装備といえば、特にセンサー群が大変優秀である。
 取りつけられた高解像度カメラが三百六十度周囲空間を逐次把握、敵味方を識別し、放たれるソナーによって生物の有無を判断する。
 この技術により生存率は飛躍的に向上、特に日米合同特殊部隊はそれら最新鋭の装備が投入され、戦場では飢えた狼という異名で畏怖されている。
 コイツ等もそれに近いものだろう、と綾音は直ぐにその場を離れる。こんな近くにいては直ぐ発見されかねない。
(やれない事もないけど、やってどうする、だなあ)
 しかし迂闊だった。
 綾音は安心できる距離まで離れた後、ステルスのスイッチを切る。そのまま運動着のような姿になる為、さほど違和感はない。辺りをランニングする生徒と言えばそうである。
(旧校舎に生徒が近づく事自体がまず有り得ないんだ。そこにステルス着こんだ奴がいたら、そりゃ警戒するわね……うわあ、どうしよ、ありゃ困ったなあ……)
 倒す、と言っても、倒してだからどうするのだ、という話である。状況を悪戯に混乱させ、個人特定されて良い事はない。旧校舎が相手の拠点であると解った以上、調べない訳にもいかないが、現状それは難しい。
 自分の任務は破壊工作ではない。洗脳装置を破壊しても意味は無いが……洗脳装置をこんな場所で用いている、という証拠を得られたのならば、上層部も大喜びだろう。
 ……警備員を全て排除し、洗脳装置の証拠を奪取、そのまま雲隠れ、という選択肢もあり得る。しかしなるべくなら取りたくない方策だ。上がやれと言うのならばするが……後で判断を仰ぐ他あるまい。
(……取り敢えず、何食わぬ顔でご飯食べよう。それがいい)
 丁度中央広場にまでやって来た所である。危機的状況に陥りながらも平然とした振りをするのも、もう慣れてしまった。
 食堂にまで赴くと、いつものメニューを頼んで、奥の出入り口近く、窓際から離れた場所に陣取る。こんな場所で狙撃される訳もないし、武装集団が襲ってくる訳でもないので、警戒したところで意味は無いのだが、習慣だ。
 今後どう偽って暮らすか、そればかり頭の中で思い描いていると、近くの席に天原アリスがやって来たのが解った。手を振ると彼女も答える。彼女一人かと思いきや……意外な人物と同伴である。
「戻橋さんから声をかけてくるなんて、珍しい事もありましたわね?」
「なんだか最近は、アリスさんと食事をとる事も少なくなったなと思ってね」
「ええ、そうですわね」
 陽光に戻ったと聞いていたが、直ぐ出て来たのか。百刀はアリスの前に座り、余裕の笑顔である。
 先ほどアリスの名前を聞いて、何か思う節があるような仕草を見せたが、百刀はアリスに気があるのだろうか。だとすると、前途多難である。
 天原アリスは小等部以来ずっと市子、杜花、早紀絵について回っている。市子に対しては一歩引いた立場で、まるで神でも崇めるかのような素振りを時折見かけたが、杜花、早紀絵については純粋に好意を寄せているだろう。市子一筋であった杜花はまだしも、早紀絵に気に入られている彼女だ、百刀がアリスに好意的であるとするならば、その壁は果てしなく高い。
「でも、良いんですの? 彼女さん達、気にするでしょうに」
「他の子と食事をしているくらいで声を荒げるような子がいたとしたら、アタシも参っちゃうなあ。アリスさんこそ大丈夫かな。市子様達がいるでしょう」
「ふふ。心配無用ですわ。他の子と食事したからと、五月蠅い声を上げる人達じゃありませんもの、知ってますでしょう」
 アリスには余裕が見て取れる。冬休みの間、彼女達周辺は以前に増して距離を縮めたと聞く。
 ……その冬休みの間、さて、親交を深めたのは、市子か、二子か。そういった問題を考えると、物事の中心にいる杜花達はこの学院で最も理不尽な扱いを受けていると言えよう。
「まあでも……アタシがアリスさんを取ったとしたら、早紀絵さんは怒るかも、ねえ?」
「あら、どうしてかしら」
「彼女、アタシの事は苦手みたいだし。ねえ、アリスさん」
「はい?」
「アタシとも、お付き合いしてみない?」
「――あら、あららら」
 いやあ、参ったなこりゃ、と綾音は頭を掻く。
 スープを啜りながらチラリと視線を向けると、アリスと眼があった。『誰にも言わないよ』と眼だけで答える。何せ同寮生だ。噂などすぐ広まる。ここで綾音が喋らずとも、事が進めば即バレるだろう。
「戻橋さんが、私にそんな気持ちを抱いていたなんて、考えもしませんでしたわ」
「そうかな。なるべく君と機会を持てるよう頑張ったのだけれど、やはりいつも杜花さんや早紀絵さんが隣にいるからねえ」
「他に彼女が沢山いるじゃありませんの。私など見ず、その愛は他の子に分け与えてくださいまし」
「――……」
 天原アリスという人物は、相手に告白されてここまで余裕に居られる子だっただろうか。その受け答えはなんとも堂に入った、大人の回答だ。対する百刀は、プレートを突きながら、半ば放心状態だ。
 あのプレイガールにして、そのような事もあるのだなと、多少驚く。余程好きだったのだろう。しかし相手が悪い。
「……そ、そっか。悪いね、昼間から、こんな話をして」
「いいえ。早紀絵が隣にいると、良く有る話ですわ」
「早紀絵さんは、いいの? アタシなんかより、彼女が沢山いるみたいだし、それに、杜花さんだって」
「ふふ。もう、通りすぎてしまいましたの、そういうの」
 ああ、なるほどと、綾音は心の中で頷く。
 元から幼馴染であるし、あの三人(四人)は、仲が良いなんて言葉で表す関係ではなかった。冬休みにそこが更に発展したのだろう。下手をすれば将来についても決まっている可能性すらある。
 これでは百刀は勝ち目が無い。攻勢に出るならば、もっと早くするべきだっただろう。
 何事も、終わってしまってからでは覆しようが無い。
 綾音も過去、何度となくそのような目に逢って来た。
 それから百刀は話を打ち切り、何事もなかったかのように世間話を始めた。この切り替えにポーカーフェイスは、流石訓練されたスケコマシである。だが心中穏やかならざるであろう。
 食事を終えた二人は直ぐに別れてしまった。綾音は百刀の後ろについて行く。
 丁度木陰にあるベンチに腰掛けたかと思うと、彼女はおもむろに此方を見た。
「お話があるなら、聞くけど?」
「いやあ、よくアリスなんて手を出そうと思うね、戻橋さんは」
「百刀でいいよ。と、アリスさんにも言ったんだけど、ずっと戻橋さんだったよ。なんとも、距離を置かれて警戒されちゃって」
 遠慮なく隣に座る。彼女は自分から距離を詰める。切れ長い目がチラリと動き、綾音の顔を窺う。
「君は三年の、鷹無さん」
「ええ、どうも」
「結構人気だよね。背高いし、顔も良いからかな」
「値踏みされるような評価を面と向かって受けたのは初めてだねえ」
「それで、どうしたの」
「恋人は沢山いるのに、それでもなおアリスに声を掛けたのだから、余程好きだったんだろうなあって思ったから。私もね、最近女の子に告白されちゃって。良い返事返してあげてないんだよ」
「過去、アタシから告白して断られたなんて、何回あったかな。一番嫌われたくない人に否定されちゃった」
「少し狙う相手のレベルが高すぎたかな。それに、最近ますます、あのグループは仲良くなったでしょ」
「うん。もっと早く、声をかけるべきだったかな……鷹無さんは何で、答えてあげないのかな?」
「いやほら、私一応婚約してるんだよね、外の人と」
「なるほど。相手も承知済み?」
「婚約破棄して? みたいな感じに可愛く迫られちゃってねえ……」
「ぷっ、あはは! そりゃ、困るね。勢いで破棄しちゃいそうだ」
「ま、一年からの付き合いで、相手の事もだいぶ知ってるし、可愛いし……今家のゴタゴタがあるから、そっち片付いたら、改めて答えようと思って」
「……うん。なるべく早く答えてあげて。待っている間、きっとその子は辛いだろうから」
 ……確かに。確かに、これは『ク』る。
 絶世の美男だ美女だと言われるような人間には過去逢って来た。そんな人間に口説かれた事もある。しかしながら、この利根河撫子の遺伝子複製体は、何か違う。
 なんとも寂しそうな顔で俯く。その憂いを含んだ顔を此方に向けると、すがるような目線が心をくすぐる。学院の女子等が彼女を持て囃す理由が実感出来る。
「ふふ。顔紅いね。アタシも悪くないでしょ、鷹無さん」
「甘い言葉を囁かれたら、コロッと行くかもね。で、百刀さんや、アリスは諦めるの?」
「まだ。まだ、卒業するまでは、何度でも」
「へえ。情熱的。そんなに慕う、理由があるんだよね」
「ああ、少し、理解されないかもしれない」
 そういって、百刀は立ち上がって空を見上げる。
 舞台俳優が物憂げに天井を見上げるように、彼女の動き一つ一つが、なんとも絵になる。
「アタシは、あの人に出会う為に産まれて来たんだって、そう思ったんだ。オカルト主義じゃないけど、前世に因果があると言うのならば、きっとそうだと思う。彼女の手を触れた時、雷に打たれたんだ。彼女が、堪らなく愛しい。そういう事、無いかな」
「――いいや。あるよ。彼女は、死んでしまったけれど」
「……辛い想いをしたね。もしかして、ずっと引きずっている?」 
「婚約もノリ気じゃないんだよねえ。むしろそれより、告白してくれた子かな。凄くうれしいし、可愛いと思う。好きというのならば、間違いなく好きだと思うよ。でも、過去の事を考えると、上手く答えてあげられなくってねえ」
「何事も付き合ってみて、判断すべきだと思う。そう、多少付き合ってさえ貰えればなあ」
「あの家柄、あの容姿、更には世界二位の大財閥の娘と、運輸王の娘、格闘怪物までついて、さてどうだ」
「ハードル高いと、燃えるよ」
「情熱的だなあ。ま、頑張りなさい頑張りなさい。それじゃ」
「うん。ああ、鷹無さん。そういえば、白萩だよね」
「そうだよ」
「今日から面白いのが指導員になる筈だ。市子様のお付きのメイド」
 綾音は……ほんの少しだけ、顔を歪めた。市子のお付きのメイドといえば、兼谷である。
 それは良い。いや、良くは無いが、だが何故今、それをこの子は、綾音に教えたのか。
「ああ、兼谷さんかな。七星、凄い事するなあ」
「本当にね。アタシも関わり浅くない人だから、宜しく言っておいて。それじゃあ」
 百刀はそういうと、何事も無かったかのように去って行く。
 心臓が跳ね上がった。恐らく、本当に白萩繋がりだから、という理由で教えたのだろう。警戒心が強くなりすぎて、顔に出るまでになっている。
 諜報員として有るまじき己に反省しつつ、寮への道を辿る。
 それにしても――戻橋百刀という少女は、肝が据わっている。彼女自身も七星系列の子として預けられて育ったはずだ。その親玉の女を取ろうと言うのだから相当である。
 余程好きなのか……彼女の発言が引っかかる。
 過去の因果。
 彼女は利根河撫子の遺伝子から作られている。遺伝子の彼方にある記憶の海に、天原アリスに引きつけられる理由があるのかも解らない。
(『庭園の乙女達』だったな。あの事件に関わった子達、利根河撫子、欅澤花、組岡きさら、大聖寺誉……今現在、それに当てはめるとすると、あの子達は全部……)
 恐らく、市子周辺に居る子達は何らかの改造を施されたか、メソッド=プログラムによる記憶の刷り込みが行われたであろうとは推測されている。
 大聖寺誉に当たる天原アリスは、辿ったところで大聖寺には行きつかないものの、七星が度重ねて天原と繋がりを持とうと場を設けた事は知られている。
 その執拗さは異常だ。本来ならすり寄る側は天原なのである。
(ともなると、遺伝子複製体ならずとも、遺伝子は弄られていて、刷り込みも、有り得る。戻橋百刀が天原アリスに恋慕を寄せるのも……どこまで知っているのか、知らないのか。知らない方が幸せだろうけど……百刀が兼谷とも懇意であるとすると……知っているのかな)
 人の人生、人の運命、人の感情。
 こういったものを掌の上で転がす、七星という巨大な共同体は、正しく人類の敵である。だが生憎、七星失くして日本国の防衛も、社会秩序の安定も、経済活動の活性化も、有り得ないのが実情なのだ。
 自分は、ほんの少しでも七星の強権をそぐためにある。
 真の民主主義国を目指すにおいて、彼等はあまりにも帝国主義的だ。
(公務員だからねえ……全く、七星様様だわ)
「ただいま戻りました」
 寮に入る。そして目の前に居る彼女に対して、綾音は一瞥した。
「あら、兼谷さんじゃないか。市子に用事?」
「これはこれは。覚えていてくださいましたか、綾音嬢」
「うん。どしたの?」
「ええ、私は今期から、ここの指導員として配属されました。宜しくお願い致します」
 深々と、彼女が頭を下げる。
 兼谷だ。
 一番来て貰いたくなかった彼女である。
 恐らくは、遺伝子複製体等の統括。七星の計画の親玉。
 そして洗脳装置の、主導的役割を負っている人間だろう。
「ところで綾音嬢」
「うん。何?」
「二子お嬢様は御存じありませんか? お姿が見えないのですが」
「……二子? はて、誰だろう、それ」
「――失礼。思い違いでしたね――ああ、肩に塵が」
「うん?」
 心臓が早鐘の如く鳴り響く。
 想像通り――こいつはヤバすぎる。
 肩に兼谷の手が触れる。
 どうする。どうする。どうする。どうする。どうする。
「取れました。糸くずですね。鷹無のお嬢様が、身だしなみをキチンとしませんと」
「はは……これは失礼。ありがとう、兼谷さん」
「いいえ」
 そういって……兼谷は頭を下げ、去って行った。
 胸を撫で下ろす……には、早い。気がつかれているだろうか。
 二子を知っているかと、わざわざ聞いて来たのだ。疑われている可能性はある。
(……マイに、答えを出さず消えなきゃならないかもなあ……)
 いいや。
(――これが最後だ。応えてあげなきゃ)
 無事に終えて帰る。鷹無綾音を正式に戸籍として登録し、その名で彼女と生きて行く。
 自分は十分に戦い、十分に国に尽くした。そのぐらいの幸福、許してもらいたい。
 去って行く兼谷の背中を見送り、自室へ引きこもった。



 ……。

 ただ、目の前で起きた光景に立ちすくむ。周囲では、男の取り巻き立ちが笑っていた。
 何もかも、身から出た錆なのかもしれない。自分があの時、ほんの少しだけ上手く立ち回れていたのなら、自分があの時、ほんの少しだけ上手く引きとめられたなら、こんな事にはならなかっただろうに。
「いやあ、悪い。娘に愛情なんぞこれっぽっちも無くてな。しかしお前、良い顔しやがる。人間ってえのはよ、感情極まったところにこそ価値があるんじゃねえかと、長い間こんな社会に暮らしてて、想うわけだよ。ただ平然と素知らぬ顔でお国に仕えて、なんか良い事あったか? ねえよな、この通りだ。お前がもう少し激情に駆られて、もう少しムキになってたら、こんな事にはならなかったかもな?」
 上海の船着き場、古びれた倉庫の一角で、それは行われていた。
 治安維持軍の監視を掻い潜りながら、電子ドラッグ及び電子ウィルスの横流しをしていたのがコイツ等である。彼等は上海の賊と組み、日本企業という隠れ蓑の中で、私腹を肥やし続けていた。
 何かと忙しい治安維持軍に変わり、こうして派遣されてきたのだ。なかなか尻尾を出さず、攻め切れずに居た所で、仲間の首が送られてきた。
 この会社の社長の娘に近づき、情報を引き出そうと考えていた。事は上手く運んだが……彼女との交流の中、綾音は……恋をしていたのだと思う。
 それを逆手に取られた。
 人質として取られた彼女は――今、胴体と首を切り離されて、目の前に転がっている。
「七星の野郎どもがよ、偽善気どりやがって……狭い所で仕事してるんだぜ、俺達よ。まったく、何が日本国繁栄の為だ。結局てめえらの腹肥えさせてるだけじゃねえかと。そう思わねえか、姉ちゃん」
「……美織(みおり)」
 彼女の頭を、抱き寄せる。まだ血が生温かい。
 美しかった彼女は、無惨にも目を見開き、驚愕の表情のまま、事切れている。
「俺達みたいに小さい会社取り締まるぐらいなら、七星に喧嘩売った方がいいんじゃねえのか? あいつらは偽善の塊だからよ、俺みたいにえっぐい事はしねえと思うぜ? 大人しくお国で仕事してればなあ。ま、公務員だしな、仕方ねえか。おい、お前ら、姉ちゃんに御帰り願え」
「――美織……好きだったのに……愛してたのに……美織……美織……ッ」
「うるっせえな糞レズ女。おい、さっさと――」
 己の中で……何かが弾けた。
 脳が異常に熱い。
 熱くて、熱くて、胸元を開け放ち、人間に産まれて来た事が間違いであったクズ野郎を睨みつける。

「ゲスが――クソムシどもが――許すか、こんなもん、許すか――許される訳ないだろ――許すわけないだろう!!!!! 人非人共がああああああアアアァァァッッッッ!!!!」

 そうして、世界ははじけ飛んだ。

 ……。

 手を伸ばす。止める事の出来なかった彼女の死を、今に掴むかのように、手を伸ばす。
「綾音、綾音……どうしたのぉ、大丈夫ー?」
 ぼんやりとした声が、殊更深刻に聞こえる。顔を横に向けると、ぼんやりとした彼女が居た。思わず真衣子の服を掴んで引きよせ、抱きしめる。
「わ、わ、わっ」
「美織ぃ……うぅ……ぐっ……」
「違うよぉ……ミオリさんじゃないよ、真衣子だよお?」
「――……」
 我に返り、今まで抱きついていた彼女の顔を見る。真衣子は顔を真っ赤にし、恥ずかしそうにしていた。
「……ごめん」
「――前の、彼女さん?」
「なんでもないの。ごめんね、人の名前なんて呼んじゃって」
「いいよう。何か、そうだよね、年上だもんね、いろんなこと、あったんだよねえ?」
 兼谷にあってから、その日は落ち着かなかった。寝ようと思っても寝つけず、挙句あんな過去の夢をみるのだから、平然としていても、心労は溜まっているのだろう。
 ベッドから抜け出て、座卓の前にぼんやりと座る。
「おちゃ、どうぞ」
「ありがと」
 時間は八時を過ぎていた。まだ冬休みであるから、その間は食事は全て中央食堂で取る事になる。九時までならやっていた筈だ。
「朝食、どうするー? 何か軽いもの、もってこようか?」
「ううん。なんだか、食べる気がしないや」
「身体に悪いよう。貰って来るだけ貰って来るから、まっててー?」
「うん。あの、マイ」
「んー?」
「私の事好き?」
「え!? あ、んと。う、うん。だ、大好きッ」
「こんな嘘ばっかりの女の、何処が好きかな」
「ええ? わ、わかんないよう。で、でも、綾音はいつも、私の事助けてくれたでしょー? いろんな事知ってるし、凄く大人な人だなって、思ってたのー……大人だったけれどー……」
「……この仕事が終わったらね、内勤に異動願いを出そうと思うの。特別手当も多くてさ、もう本当は、働かなくても暮らしていけるぐらい、貯蓄があるんだよね」
「そうなんだあ?」
「どこか静かな所に家を買って、切った張った、殺した殺された、なんて無いような、そんな仕事をしながら、前線からは引退しようと思う。この仕事だって、もう最後だからと、楽な潜入調査を宛がわれたんだ……けども、ちょっと不味い事になってるかもしれない」
「……うん」
「マイ。私、婚約者も、家柄も、名前も、年齢も、全部嘘。本名すら忘れちゃった。それでも良くて、今回の事で何も無ければ――お付き合いしてくれるかな、結婚前提にさ」
 真衣子は、目をパチクリとさせ、冷静にお茶を飲む。飲むが、淹れたてで熱いのを忘れていたのか、アチチッと身を引くようにする。動揺しているらしい。
「あ、あ、あの、あの!」
「どしたの、マイ」
「嬉しいです……」
 ……追い詰まっているのだ。
 どうしても、また、手を伸ばさずにいて、好きな子が居なくなってしまうのは恐ろしい。
 こんな仕事をしていると、人質を取られた場合不利に陥る場合が多い。
 家族、友人、恋人、仲間。
 過去に何度となく経験した。繋がりが深ければ、その都度深い傷を負う。
 解っている。
 こうしてまた縁起を増やして、自分に負荷をかけている。
 けれど、これが最後だ。これで終わりにしたい。
 彼女に、応えてあげたいのだ。
「ああああ、朝ご飯、も、もらってくるぅぅぅッ」
「マイ――いっちゃった」
 余程嬉しかったのだろう。初々しくて、堪らなく可愛い。
 こんな気持ちになったのは、何時ぶりだろうか。彼女に出会えた今回の任務には感謝せねばなるまい。
「……さて、ねえ」
 寝ぼけ眼を擦り……擦り、さて、自分は、いつ寝たのだろうかと、疑問に思う。
 兼谷と別れて、自室に引きこもった後の記憶がない。自身の身体について一番把握しているべき自分が理解不能という状態である。長年の経験則から、まず間違いなく人の手が加わったとみて良いだろう。
(――まあ、目星は付くし、どうにもならないのだけれど)
 催眠術か、薬物か、ESP干渉か。
 催眠術にしても薬物にしても、それを施される、盛られるまでの記憶はあるだろう。それが無いという事はESPを疑わねばならない。
 今までこの洗脳装置から放たれる感応干渉に対して無反応だった事を考えると、もっと直接的な干渉を被ったと考えるのが自然だ。
(あ、やべ、定時報告……)
 あわてて端末を取り出す。通信ログを確認すると、そこには指示が残されていた。

『証拠の奪取を優先。逃走経路確保済み。手段は厭わず。健闘を祈る』

「――ああ、もう……なんだかな……」
 思考を停止する。
 もう考える必要が無くなってしまった。
 ……、もう少し早く確認するべきだったと……物事の理不尽さに、綾音は歯ぎしりした。




 上は綾音を切り捨てるつもりなど毛頭ない。
 そもそも、綾音は『例えどんな状況に陥ろうとも』死ぬ事などまず考えられないのだ。故にこの指令は、周囲にどれだけの被害を齎そうとも帰って来なさい、というものである。命令というよりもお願いに近い。
 ずいぶん大きく出たものだと、綾音は辟易とする。上層部が現場を知らないのはいつの時代も同じなのかもしれない。まさかお嬢様方を巻き込んででも証拠を得て戻れなど、無茶苦茶だ。
 しかし、それだけデカイ事を言いたくなるほど、今回の不祥事が発覚して露呈すれば、七星にダメージがあるという意味なのだろう。
 当然綾音は無茶苦茶をするつもりはない。現場判断をするし、被害を最小限に食い止めるつもりだ。
 しかしながら、七星を相手にして被害が一切出ない、という事もまず現実的ではない。
(あれは何時だったかな……極東ロシアだっけ……あの時も無茶苦茶な指示だったなあ……私の知ってる日本の組織って、もう少し穏やかだったんだけど……時代は映り替わるかあ)
「アナタ、どうしたのー?」
 なんだかすっかり新婚気分の真衣子は、綾音に縋りつきながら顔色を窺っている。普段から近い距離にはいたが、今日は一日ずっとこの調子であった。
 真衣子の髪を額からかき上げる。まるで子供扱いされるのを嫌がるように、んーんーと首を振る。
 可愛らしい生物だ。だが、生憎今夜でお別れだ。
 ――名残惜しくて、死にたくなる。
「少し昔話をしよう。初めて本気で好きになった人の話だけど、聞いてみる?」
「うん。うん」
「私はお仕事でね、大陸に進出している日本企業の不正を暴く為に潜入する事になったの。まだ二十代だったかな。どうやらそこの社長っていうのが、とても悪い奴でね。昔流行った違法電子ドラッグの密売とか、クスリの横流しとかをしてたの」
「あー、悪い人だねえ……」
「そうそう。でも逃げるのが上手くってね、なかなか尻尾をつかめずにいた。どうにか悪い社長に近づけないかと思って、私はそいつの娘に接触したの。それがね、くっそ醜悪な太鼓腹のデブの精子から生まれたとは、とても思えない程の美人さんだったのさ。お母ちゃんが女優だったけどね。何せ同性じゃない。まあ女友達感覚でさ、お話を聞こうとしたんだけれど……その子ねえ、レズでさあ」
「ふぅん」
「あ、なんか機嫌悪そう。やっぱ止める?」
「ううん。聞く」
「そう。それでまあ、私自身は自分をノンケだと思ってたんだけど、アピールが凄くってさ。もう毎日のように家に来て、毎日のようにキスして去っていく感じで。仕事どころじゃなかったよ」
「そんなにキスされたのー?」
「例えば私達がこうしているでしょう」
「うん」
「十分に一回くらい」
「ひょえええ……」
「初めは変な気分だったけど、彼女の気持ちが真剣でさあ。一か月も経つ頃には、もう彼女が隣にいない生活が、ありえなかったんだよね……あ、ほら、いやそうな顔」
「い、いやじゃないよう。私、綾音の事もっと沢山しりたいもの。それで?」
「……うん。調査はなかなか進まないけど、その子を通じて社長の裏が取れ始めた。その時にもう、強引に踏み込めば良かったんだけど……仲間が殺されてね。お前もこうなるんだって。で、それと同時に呼び出されてさ」
「ど、どう、なったの?」
「――調査員三人が死亡。生存者は私一人。その子も、人質に取られてね、殺されちゃった」
「そんな……非道い……す、好きな子だったんでしょぅ? 仲間も、みんな、死んじゃったの?」
「だからね……マイ。だからね……」
「――……うん……はれ……あの……あやね……?」
「だから――私は駄目なんだ。人を好きになっちゃいけないんだ。私は、人を殺すように出来ているから」
 今まで縋りついていた真衣子が、コテンと横に転がり、寝息を立て始める。
 綾音は真衣子の頬にそっとキスをしてから、立ち上がる。
(こちらSAU1。ヒトフタマルマル。状況開始。加瀬堂、宜しく)
(……了解。健闘を祈る。無事に戻ってきてくださいね)
(まあ、むしろ心配すべきは、七星側かもねえ)
 自身の身元に関するようなものは、既に皆排除してある。これから綾音は失踪するのだ。そして今後、鷹無綾音なる人物は、元から居なかったことになる。
 綾音は、もう何度架空の自分を殺して来ただろうか。五人から先、数えてはいない。
 パジャマを脱ぎ捨てる。
 中に着こまれているものは、対ショック対刺突対熱を誇る、複合加工ケブラー防護服である。
 綾音の体型に合うよう編まれており、身体のラインがはっきりと解る、一切の無駄が無い作りだ。
 胸部、腰部、腕部、脛部にプロテクタが装着してあり、それ以外は全て黒と灰色のスーツである。
(重力制御)
 脳内で呟く。窓から飛び出した綾音は、まるで月面を歩くかのような重力の薄さで地面に着地し、そのまま地面を駆けて行く。
(脚部強化)
 筋力増強、減重力の中であるからして、その一歩が凄まじい歩幅、そして高さであり、十歩も駆けているともはや人類の目には黒い風が吹き抜けたようにしか見えない。
 あっという間に旧校舎にまで辿り着く。その間約六秒の出来事である。
(溶解)
 綾音は壁に手を当てて念じる。ただ入るだけなら、別に門を蹴破れば良いが、主眼は潜入方法にない。そもそも大人しく潜入するつもりはないのだ。異常事態を知らせ、七星私兵団を集める事にある。
 鉄筋鉄骨コンクリートはまるで溶鉱炉の鉄の如く赤々として流れ落ち、壁に人二人分通れる程の穴が開く。
 空いた先には、丁度警備員がいた。
 巡回中だったのだろう。フルフェイスヘルメットを装着していてもなお、その動揺が読み取れる。
「……はあい、七星さん。ごきげんよう」
「――な、なに、あ、こ、こちら甲3!! 侵入者発見!!」
「うんうん、呼んで呼んで」
「貴様、昨日の不審者かっ」
「この学院からしたら、アンタ等の方がよっぽど不審だよ。はい次」
 綾音が手を翳す。
 甲3という男は直ぐ様銃口を向け発砲するが、どんな動作不良を起こしたら現代の最新鋭武器が暴発するだろうか――それは銃口から粉々に砕け散り、甲3は後ろの廊下に向かって十メートル程吹き飛ぶ。
「まだかな。さっさと片付けたいんだけど」
 それから約二十秒、ぞろぞろと完全武装の私兵団が現れ、簡易障害物を次々と積んで、その影から発砲し始める。しかしながら、一発足りとて綾音には届かない。
 全て綾音の半径二メートルで、突如推進力を失って地面に叩き落ちるのだ。だが相手も七星、そのぐらいの超常能力者の出現は予測していたのかもしれない、警備員達は全員が銃口を付け替え始める。
「構え!! 照射開始!!」
「うわ、面倒な兵器だな」
 恐らく光線兵器だろう。
 が、綾音は何一つ動作を行わず、平然と仁王立ちしている。光が綾音にまで、届いていない。
「物理攻撃は無理だねえ」
「――な、なんだそりゃ……おい!! 何でもいいから持ってこい!! こいつ、複合型のSクラスだ!!!」
「ああ、七星のESP基準ってあるんだっけ。Sって最大? ところで、全員そろった?」
「貴様、何を言っている!? 何者だ!?」
「何者だと聞かれて、答える奴はいないと思うねえ。まあいい、ちょいと痛いよ――」
(凝固)
 綾音が脳内で唱える。
「ぎぃぃいあああああっっっ!!」
「ふっぎい、いぎぃいぃぁ、い、いだあ、いだだだだッッ!!」
「あああ、があああっ!! や、やめええええッッ!!!」
 次の瞬間、警備員等が漏れなく全員その場に伏せ、地面を転がり始める。
 何が起こっているのか何故自分がその場で転がる程の痛みを感じているのか、彼等は一切解らない。
「いいかい。人に銃を向けたって事は、自身も死ぬ覚悟が出来ていなきゃ駄目だよ。君達はたった一発で人の命を奪い去る武器を持っているんだから、その重みを噛みしめなきゃいけない。ま、大丈夫だよ、別に君達が悪い訳じゃないから、殺さないよ。ただ、腕と足は、暫く使いものにならないかなあ」
(凝固解除。流動、圧迫)
 やがて、パタリと絶叫が収まる。その場に居た警備員達は全て気を失っていた。
(我ながら、えげつないよなあ。そして、優しいなあ)
「ばっ……」
「お、意識あるの、凄いね、鍛えてる」
「バケモノ……――ッ」
「そんな言葉も、聞き慣れちゃったねえ。アンタ達より年上だしさあ? お休み」
(再圧迫)
 なるべくなら死人は出したくない。
 彼等はこれから治療を受けて、暫くのリハビリの後、普通の生活に戻れるだろう。そうだ、なるべくなら、殺した殺されたなんて事のない生活を送った方が幸せである。
「さてとう。まあこれじゃ終わらないよね。証拠っていってもなあ……取り敢えずこの、学院に七星私兵団がいる証拠写真撮って、と。映像記録も撮ろうかな。カメラ開始」
 阿鼻叫喚の地獄をそのままに、綾音は階段を上る。途中識別飛翔爆雷や旧世代のクレイモアなどもあったが、当然綾音にとって然したる問題ではない。掻い潜る必要も無い。全部受けて流せば良い。
「厳重だね。間違って生徒が入ったらどうするつもりなんだろ。しかし、証拠なあ。データ資料、あと、洗脳装置の画像と、運用記録かな。研究員一人しょっ引くのもいいかな。そうだよ、一人二人で運用出来るものじゃないんだ。脅せばいいか」
 本当に、本当に、何もかも。
「全く、だらだらと二年半以上潜入調査なんてさせてさ、最終的にコレだもんね。やんなっちゃう」
 自分という人間は、偽りででしか出来ていないのだと、痛感する。
 ここまでやってしまったらお終いだ。既にどこへも戻る事は出来ない。
 今まで積み上げて来た思い出も、気持ちも、全て全て無に還る。幾度となく繰り返して来た事とはいえ、この無常感ばかりは慣れない。
「さて、大本の装置はどこかなあ」
 二階廊下を進む。無造作に荷物が積んである場所が見受けられる。おそらく誰か隠れているだろう。
(生成)
 ガツンッ!! という音を立てて、荷物が置かれた場所が不自然に盛りあがる。まるで柱状になった廊下の壁が突き出し、荷物ごとそこに存在しているものを吹き飛ばす。
「があっ!!」
 案の定警備員が隠れていた。綾音は指揮者のように正面で指を振ると――その警備員が空中に持ち上げられる。そこには、ワイヤーもピアノ線もない。何も無い中空に完全武装の成人男性が浮いているのだ。
「道案内して。応じてくれないと、私はアンタの頭の中に腫瘍を作る事になるよ」
「ふぎっ――ぎっ――な、なん――」
「まあ超能力者っていっても、色々いるからね。私は恐らく、その中でも最悪にえげつなーいタイプだ。ほら、早く教えて。洗脳装置、どこにあるの?」
 焦点の定まらない目をした男は、ぶるぶると震えながら指をさす。どうやら二階で正解の様子だ。
 丁度廊下の真ん中に当たる部屋。そこが装置の設置場所なのだろう。
「やっさしぃ。ありがと」
 指を動かし、男を中空で弄ぶと、そのまま地面に急落下させる。ぱたりと動かなくなったが、死んではいないだろう。
 これでも加減しているのだ。もし、一切省みるものがないのならば、そもそもこの建物ごと吹き飛ばしたって構わない。それをわざわざ目立つように乗り込んで、資料を頂いて帰ろうというのだから、綾音としてはかなり穏便である。
 そう、元から穏便な任務であった筈なのだ。身元が割れる事を恐れ、相手の武装を恐れ、敵勢力の超能力者を恐れたのは、他でもなく、この緩い任務を緩く恙無く終わらせる為であった。七星が動き、その理由が無くなってしまったからこそ、綾音はこうしているのである。
 身を隠す必要も、怯えた振りをする必要もない。
「……さて、五分くらい経ったかな。早いところおわらせ――てくれないかあ」
 五月蠅いものをさっさと片付け、頂くものをさっさと頂き引き上げる。例えどんな状態になろうとも、綾音が動いた時点でそれは達成される。しかし多少急いだのにも理由があるのだ。
「……やだなあ。本当にさ。場所を移さないかな? ここだと、余計に被害が出る、君もアタシもさ」
「や。来るんじゃないかとは思ってたけど、来たねえ。いいよ、何処行こうか?」
「じゃあ、屋上かな。今夜は月が綺麗だから」
 正面の『彼女』を見据える。短い髪を揺らし、その切れ長い目には光が灯っているようにも見えた。
 いつもの制服。カッコいい彼女。
「ごきげんよう、百刀」
「ごきげんよう、鷹無さん。凄く、残念だ」
 窓をぶち破り、重力制御、壁を蹴って屋上まで昇る。
 百刀もまたどのような原理かは解らないが、平然と後を追ってきた。
 真冬の澄みきった空には、異様に紅い月が見て取れる。なんだか彼女らしいなと、綾音は笑った。
 二人が相対する。
 すると彼女は念じるようにしてその手を正面に翳す。掌からは粉のようなものがさらさらと流れおちるのが見えた。
(やはり念動力と物質変化系、そして具現化型か、珍しい。しかも造形が……素晴らしい、天性だなあ)
 見惚れるほど美しい彼女は、その身の丈を超える長さの日本刀を精錬する。質量に見合わない所をみると、ガワだけなのだろう。しかしESPによる強化があるだけに、その鋭さはきっと笑えないものがあるだろうと想像する。
 そしてその刀を生成する為に漏れた鉄粉は、彼女の周囲におびただしい刃の海を別途作りあげた。
「貴女のように美しいねえ、その力は」
「そうかな。これを褒めて貰ったの、初めてなんだ。嬉しいよ『綾音』」
 さて、剣技ならばどこの流派か。構えで推しはかろうとするも、どうやら下段で地面スレスレに添えているだけである。自己流か、そもそも技術を弄する必要はないのか。
 何にせよ、急いではいるが、一応受けておこうと考える。
「どこからでも良いよ」
「余裕だね。何者か知らないけれど、舐めてかかると、死んでしまうよ」
 彼女は構え直し――驚くべき速度で正面に突っ込んでくる。
「ぬお」
 これには綾音も衝撃を受ける。身体強化は無しだろう。
 恐らく念動力を自分に働かせ、その勢いで吹っ飛んできたのだ。刃のついた二輪駆動車もかくやという百刀を、思い切り身体を反らせて右に回避する。すると今度は彼女を追随するようにして百の刃が降り注ぐ。
(っべえ、重力制御、身体強化、えーと、腕部硬質)
 側面から降り注ぐ刃の一部を重力制御で鈍化させ、慣性のまま綾音の身体を射ようという刃をなんとか腕で払い落す。一難凌ぐも、しかし今度は百刀自身が斬りかかる。
 長い刃だ。しかも軽く、念動力も含めてその速度は音速である。見てからでは全てが遅い。
 一歩だけ後ろに下がり、突っ込んでくる百刀の軌道を読む。
「ゼェッッ!!」
「っくぅぅぅッ」
 それは綾音の目の前を通過し、地面に叩きつけられた。胸が大きければ削がれていただろう。
「今のは惜しい」
「余裕な事で。ほら、ちゃんとやらないと、三枚下ろしになるよ」
「本気出したら殺しちゃうしなあ」
「――言うね」
 銃弾、光線、閃光、音響、衝撃、高温、低温、放射線すら『全く意識せず、パッシブで』退ける綾音ではあるが、ESPを帯びた攻撃ともなると、直接食らいたくは無い。
 ESPによる攻撃は精神力と神経――具体的に言えばそれが脳に負荷をかける。綾音は出力こそ他の追随を許さないが、干渉壁は中ランクのESP能力者と大差はない。当然強化出来るが、疲れる。
「本気出していいの? 二秒で終わるよ?」
「――ああ、いいよ」
「……まあ、殺さないよう加減するよ」
(圧迫)
 脳内で一言唱える。同じESPによる攻撃だ、あちらも当然干渉壁を持っているだろう。しかしながら、綾音のそれは、ESPを研究している人間達からすると、破格どころの話ではない。生物を、物体を、その脳内の妄想一つで実現する、人類が持つにはあまりにも危険なものだ。
 綾音のESPは複合超常行使系とされるが、実質分類不能である。あらゆる物理法則に対して『願う』だけで叶うという、ふざけた類の能力だ。時間以外のほぼ全てに干渉可能であり、その範囲は測定出来ない。見えない所の存在にすら、直感で判断して願いを叶える。
 それを食らって立っていられる人間など――いるはずも――――ないのだが。
「……うわ、何それ」
「――くっ……う。行けるね、大丈夫だったよ、綾音」
「あ、こりゃまずい。逃げようかな」
「逃がすかッ」
「くぅぅぅ――百刀、危ないよ、そんなもの振り回したら」
「舌噛むよ」
 地面に降り立ち、次の攻撃に備える。
 正面からは百刀の大太刀、後方からは生成された無数の刃が降り注ぐ。
「ちぃぇぇぇぇェッッ!!」
 正眼に構えられたそれは、恐ろしい速度で綾音に襲いかかる。
 仕方なく、綾音は手甲を生成、全力で刃を受け止めた。
「ぐぎっ……つぅぅ……ッ」
 鉄の塊は質量こそないが、それは能力を帯びている。ごっそりと精神力が削られて行くのが解った。一概に物質変化、念動力、具現化という訳ではないと解る。
 そして今度は後方から高速度の刃が、風を切って綾音を貫かんと放たれた。
「んんっぬぁめんなぁッッ!!」
 相手の大太刀に干渉出来ない。仕方なく、手甲で受け止めたまま前に出て、百刀の足を蹴飛ばす。
 バランスを崩した所をこれ幸いと、脚部を一時的に筋力強化し、韋駄天の如く脇を駆け抜ける。
 降り注いだ刃は百刀の手前の地面に突き刺さり、綾音は背後から百刀の背中に蹴りをお見舞いする……のだが、しかし。
「つっ――」
 浅い。強化した筋力すら干渉壁に相殺されている。
 七星がESP研究に力を入れている事は周知だが、まさかこれほど高いレベルの干渉壁を持つ能力者、もしくはそれを防ぐ技術が存在していたとは予想外だ。
「さあ、どうする」
「だは、これはキツい……」
 百刀が振り向き、また正面に構える。
 綾音は胸部のプロテクタから……飴を取り出して口内に放りこむ。急速吸収可能なブドウ糖だ。
 どれだけ綾音がふざけた力を持っていたとしても、行使するのは自身であり脳だ。根本的に他の能力者とは異なる量の力を有していたとしても、消耗するものはする。
 直接的、一時的な干渉が薄いのならば、仕方ない、他の手段を取る。
「次で刻む。覚悟」
「ちぃ――面倒だな……」
 ……。
 一歩踏み込み、地面のコンクリート片を拾い上げ
 ……。
 それを
 ……。
「――ぐっぎ、な、なんっこんな時に……――ッ……ッ」

 ……。

「ゲスが――クソムシどもが――許すか、こんなもん、許すか――許される訳ないだろ――許すわけないだろう!!!!! 人非人共がああああああアアアァァァッッッッ!!!!」

 絶叫が倉庫内に木霊する。
 瞬間、拳銃を構えて綾音を囲っている男達が、爆ぜた。
「え、あ、アアアアアアッ!! なんだこりゃああああッッ!!!」
 まるで内側から爆弾を仕掛けられたかのように、全てはじけ飛んだのだ。
 五人が全部、粉微塵になり、脳から内臓から、血液から、跡形も無く、びしゃりと周囲に撒き散らされる。
「ガッ――こいつ政府の超能力者だ!! おい、殺せ、殺せェッッ!!」
「やかましい!!! 喚くな家畜!!!」
 男を睨みつける。男の四肢が全てはじけ飛び、ダルマのように地面に転がる。
 その光景を見た他の組員達が逃げ始めるが――綾音は逃がすつもりなどない。
 指を向ける。
「や、やめてぇ……ッぎょあっ」
 首だけ二十メートル程先に飛んで落ちた。その光景が何だか面白く、綾音は思わず笑う。
「たっはははははははははッッ!! なあ、お前等のお仲間はラグビーボールで出来てるのか、なあ!?」
 一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人、十二人……合計三十名が、一人ずつ丁寧に適切に、折りたたまれ、はじけ飛び、圧縮し、擦りつぶれ、固まり、液状化し、沸騰し、冷凍し、融合し、砕け散り、そのまま流れて排水溝を下って行った。
「はあぁ……なんだこりゃ。あ、ははっ。うわあ……きもちわる。お前等仕事も顔も気持ち悪いだけじゃなく、中身も気持ち悪いんだなあ。なんだこりゃ……私、こんなだったっけかなあ……」
「ひゅーっ……げほっ……はあ、お、ごぼっ……あ、」
「やあ。ごめんごめん、あんまり五月蠅く喚きたてるから、手足吹き飛ばしちゃった。生きたまま確保しろって言われてたんだけど、これじゃ無理だな……」
「なんだぁ……その……ちから……なんだあ……」
「……わかんないよ。ああ、気持ち悪い声……お前の種から、あんな可愛い子が生まれたなんて、信じられないね。いやね、ほら。私超常行使系ではあったんだよ? でもねえ、あんまり能力も振るわず……こんな事出来なかったんだけどねえ……何で出来たんだろうね。頭に来たからかな……もう何でも良いや……もう……もう、なんでもいい」
 男の四肢の血液を凝固させて止血する。
 相手の脳内に腫瘍をイメージする。丁度痛覚に到達するだろう。
「ぎええええええええええええッッッ!!! あああああああああッッッッ!!! ぎゅ、うぐぅぅううあ、あああああっ!!! ひゃめれええええええええええッッ!!!」
「けど、そう簡単に殺さないぞ塵虫。のたうちまわれ。この世のものとも思えない痛みの中、失神出来ず死ぬ事すら出来ず、絶望に身を捩れ。畜生が、畜生が、畜生が、畜生がッッッ!!」
 何度なく、何度となく、そのダルマのような身体に蹴りを入れる。
 怒りが収まりそうにない。どうすれば収まるのか、自分でも解らない。
 顔面がぐちゃぐちゃになった辺りで、足を止める。
「美織ぃ……ごめんね、アンタのパパ、あんなにしちゃった。ごめんねえ……でも、美織もこんなに、なっちゃって……ごめんね、助けてあげられなくて……ごめんね……ごめん、ごめん……あああっ……ああああっ……なんでぇ……なんでこんなことにぃ……」
 もっと早く、決断出来ていたのなら。もっと自分が思慮深かったのならば。
 こんな事には――ならなかっただろうに……。
「そ……そうだ。そうだ!!」
 そうだ。何を悲しんでいるのか。
 今の自分は、信じられない程の力に満ち満ちている。万能感が全身を支配している。
「いま、待ってね、美織。まず、首をくっつけてぇと……はは、ほら、すごい!! 傷一つなくくっつくよ!! いけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいける……ッッ!!! 胸、胸に銃弾……これは、抜けてる。縫合……じゃない、融合……癒着……うん。よし、死んでからどのくらい経つ? 血液が詰まってる可能性がある……そうだ、いくよ、透視……うわ、見える。見える見える見える!!! まるで人間レントゲンだ。いやそれ以上に、はは、フルカラーだよ。うん、脳と首と心臓の一部と、毛細血管が……溶解? お、融けた!! いけるよ――これいける、私、私は、殺すだけじゃない、人を蘇らせる事だって出来る!!! わあ、ほら、大丈夫だよ、美織。すごい、完璧だ。あ、あとは、血液。ああ、親父から貰おう。血液型一緒だよね。役に立って良かったな塵糞蛆虫が。よし、そう、転移だ。ゆっくり。うん、うんうん。はは、まるっきりそのまま移せるね。もう生きていた頃そのものだよ、美織……よし、胸にショックを……どうあたえれば……直接かな? うん。心臓マッサージ機をイメージして……お、おお、本当に何でも出来るな、これ。さあ、いけるよ、起きて、起きて、美織……美織……美織ッ」
 夢中であった。
 人体を一瞬で地球上から消し飛ばすレベルのESPに目覚め、今度はそれを蘇生に向かわせたのだ。思った事、指示した事、何でも自身の思い通りになる。
 切り離された首はしっかりと癒着し、筋肉も血管も骨も神経も縫合されている。
 胸に銃弾を受けた痕は、目を凝らしても見つける事が出来ない程繊細に繕われていた。
 足りない分の血液は親父から移した。
 もう傷一つない。足りないものは何一つない。
「コホッ……げほっ……」
「美織……美織ぃ……よかったあ――美織ぃ……愛してる、愛してるよ、大好きだよ、美織……ッ」
「コッ……ケホッ……げッ……ごあ……あ、あ、アーアーアー……あ」
 何も足りない所は無いはずだ。
 失われたものは全て繕い直したはずだ。
「美織?」
 そう。
「ぐっ――ゲホッ、み、みおっり……げっぐうぅッ」
 では、今、明らかに何かが『足りていない』彼女は、どうして、何故、そのような敵意の目で、此方を見て、そしてなおかつ――自分の首を絞めているのだ?

 ……。

「――な」
「……どうしたの、呆けて。そんな顔してたら、死んでしまうよ、綾音」
 気が付き、綾音は全力で地面に伏せた。頭上を銀色にきらめく刃が通り抜けて行く。
 白昼夢。にしては、遅すぎる。
 思い出したくも無い記憶が、脳内を掠めて行く。放心こそ解けたものの、断続的に何度もあの光景が浮かんでは消える。
「ちょっと、待ってね。ちょっと――」
 感応干渉。それも綾音の干渉壁をやすやすと乗り越えるものだ。
 もとから強固ではないものの、洗脳装置を退けるだけのものではあった。これは装置ではなく、直接的で強力なものだろう。
 そもそも、現代におけるESP研究は『他者感応干渉』の解析からはじまった。
 昔から言われている通り、ESPは通常の人間が使用しない脳の領域を稼働させる事によって様々な非現実的、非自然的な現象を引き起こす。
 綾音も専門ではない為詳しくは知らないが、ESPを行使する人間は通常とは違ったニューロンの働きを見せる。脳波は異常な波形を形作り、あろうことかその電気信号は、内だけではなく、外に向くのである。
 他者のシナプスに働きかけ、相手の脳を弄る他者感応干渉は、まさしくESP解析に打ってつけの能力であった。
 綾音が恐れているのは、元から相手に働きかける事のみに特化したこの能力だけと言っても過言ではない。
 他者感応干渉の高レベル能力者ともなると、干渉壁など障子戸に他ならない。相手の肉体に影響を及ぼす生物干渉系の中でも、感応干渉は元のポテンシャルが破格なのである。
「よし、よし。干渉壁再構築。心理遮断。おっけい。よしこい……」
「酷い顔だよ」
「ん。御心配なく。なんかね、むかっ腹立つっていうか、すげえムカツク。少し本気出す。受け切ってね、百刀。その綺麗な顔、傷つけたくないけど」
「嬉しい配慮だね……ッ」
(圧縮)
 空気を圧縮する。
 見えない弾丸は無数に現れ、気圧差で陽炎のように揺らめいていた。
 これ自体に大した殺傷力はない、精々突風が固まりになって襲う程度だ。
 ただこれがESPを帯びたものである限りは、向こうの干渉壁も削れて然るべきである。
 持久力の戦いだが――百刀が防げる数は、多くないだろう。
 風を切る音が二十、三十と響き渡る。百刀はそれを受けて捌いて行くが、受ければ受ける程に消耗し、輝く刃は光を失って行く。反抗に出るにも、風圧で押し戻されるのだ。
「ぐぅぅぅぅぅうッッッぬぅありゃああっっっ!!」
「うーん……カッコイイ……」
 月明かりを受けながら刀を翻す彼女を眺め、一息つく。
 最初からこうしていれば良かった。とはいえ、ここまで高位の能力者に出会ったのも初めてであるからして、対策が遅れたのは致し方無かったと言えよう。
 此方の攻撃を一発二発防いだところで、削れる物は削れるのだ。それに、人間である限りは体力にも限界がある。これはこれで、もう決着であろう。
(にしても……)
 嫌な事を思い出した。
 あの事件以来だ。
 何もかもが変わり果てた。
 価値感も、自身の認識も、一切合財が無意味になったのだ。
 一人にして護衛を突破し要人の暗殺など容易く、小国なら壊滅も可能だろう。
 軍隊など相手にならず、例え頭上で核が爆発しようと、それが物理法則に則っているのならば、熱線も爆風も放射線も常識も、捩じ曲げて無効化可能である。
 あの時、何もかもを覆したいと願った。
 あらゆる不条理からの解放を願った。
 その結果がこれなのだ。
 自身は何者でもない。故に何者であるか保証してもらう為に、お国からの命令を聞いて動く事によってアイデンティティを保っている。その命令とて、壊滅的な指示は一切受けない。この世のバランスが崩れてしまうからだ。
 そんなものは望んでいない。
 ただ、自身が、一応はこの国の、この世界の、この地球の一部であるという幻想を、抱いて生きたかったからだ。
「はあ……はあ――あ、ぐっ……っつうぅぅ――」
「……もう、止めようよ」
「はあ……くっ。綾音……。綾音はさ、どこの、誰なんだい?」
「うん? 内務省だよ。あ、うん。忘れてくれるとありがたいね」
「――今、こんな事を強要されて、どう思っているの?」
「いや、お仕事だからね。何でも良いや。君こそさ、無茶させられてるでしょう。七星がどんな構造になってるのかサッパリ解らないけど、従う義理ってあるの? とても無理しているように見えるけど」
「……いいんだ。アタシは――産まれたときから、そうだから」
「悲しいねえ。自分が自分じゃないなんて、同情するよ」
「内務省なら……そうか。じゃあ、君もなんじゃ、ないのか?」
「――そうだね。私は、私が何者なのか解らないよ。もうバラしてもいいか、どうせ脳味噌覗かれてるし。この感応干渉、貴女じゃないよね」
「うん。違うよ」
「誰かな。教えてくれたら、私も教えるけど」
「……兼谷様だよ」
 なるほど、と頷く。
 ここまで来て、頭の中を覗かれ、自身の身分を偽るのも限界だろう。
 綾音は百刀に歩み寄りながら、言葉を紡ぐ。
「鷹無綾音は仮名。呼ばれる時はSAU1。ストラテジックアームズ/アルティメット・ワン。上の人が戦略上そう名付けたの。私一人で携帯型核爆弾(スーツケース)ぐらい影響力があるからね」
「――、う、うそ。防衛線の死神? 死線の核弾頭? ロシアのニューツングースカ? ヒューマノイドチャイナシンドローム? じょ、冗談だろう?」
「あら、御存じ」
 だいぶと懐かしい渾名が並ぶ。
 防衛線の死神は、大陸海岸部で戦火に巻き込まれた時のものだ。当時はまだ威勢が良かった軍閥が、一斉反抗に出たのである。皇軍と米軍は主力を移していた為、警備部隊しか存在していなかった。援軍には二日かかるという状態であったのだ。その時に『少し』頑張った。
 死線の核弾頭は、大陸奥地での事だろう。戦術核発射目前、基地ごと吹き飛ばした記憶がある。
 ロシアのニューツングースカは名の通りだ。周囲一帯が全てなぎ倒された。幸い人家も少ない場所での事だが、今では隕石落下痕と囁かれている。
 ヒューマノイドチャイナシンドロームは、大陸の原発がメルトダウン寸前まで陥った時の事だろう。それで無くとも皇国はテロによって放射性物質がばら撒かれている状態、除染も進む中で、風向きとしてどうしても日本に影響が出てしまうと言われていた。その時も少し頑張ってメルトダウンを抑え、放射性物質丸ごと物質変化させ、更に鉱石で囲い、地殻奥深くに封入した時の事だ。
 ――思い出すとどれも、なんとも言えない気持ちになるものばかりである。
「都市伝説の類かと、思っていたよ。でも……そうか。前線に置くには危なすぎるから、裏で動いているって、聞いた事がある……でも、何故、観神山なんかに」
「お仕事だよ。もうそろそろ引退しようと思ってたんだ。匂わせたら、穏便な調査員として送られた。まあ、こんな事になっちゃってるけどねえ」
「それはつまり……」
「そうそう。本気出すとヤバいよ? こんなね、碌でもないの相手にしたってしょうがない。引いた方が――」
「つまり、君を倒せば……アタシの能力は認められるって事かな」
 何を言っているのか。
 冗談ではない様子だ。彼女の顔は切り傷だらけだが、青ざめるどころか、むしろ奮い立っているようにも見える。
 彼女は懐から錠剤らしきものを取り出し、噛み砕く。
 その直後、彼女の圧力が変わった。確実なプレッシャーを感じる。
 長い間この世界に身を置いているが、これほど強烈な殺気を、綾音は受けた事が無い。
「――サイキックチャージャ? 危ないもの使うね、貴女」
「君の首が欲しい。君が、愛しく見える」
 様々な配合があり、サイキックチャージャは俗称だ。
 大体のものは脳細胞を活性化させたり、脳内麻薬を過剰分泌させたりとするブドウ糖と各種覚せい剤の複合物で、大変負担の大きいものである。中程度の能力者が切り札として使う場合が多い。
 ただ、レベルを無理矢理引き上げたところで、基礎的な能力が変わるものではない。故に対処は同じである。余程高位の干渉壁を持たない限りは、全て綾音のカモだ。
 しかし――どうもこれは、それだけに留まるものではない様子である。
「その使命感、どこから湧くのか。これ以上は本当に、手加減出来ない。貴女は強いから」
「構わない」
「例えば、私がこの一帯の原子を分解したり、核分裂起こしたり、周囲を全て真空にしたり、酸素濃度を上げたり、したとしても? 階下にまで被害が及ぶよ。及ばないように、屋上まで出たんでしょう?」
「――来て、綾音」
「困った子だねえ」
(圧縮)
 空気の圧縮度を上げる。
 バレーボール大の空気球体は、衝突した瞬間コンクリート壁をぶち抜き、周囲に暴風を巻き起こすだろう。それを、一つだけ用意する。
「『それでいい』の?」
「貴女レベルじゃ、耐えられないよ」
 指を差す。
 空中に漂う機雷のように、空気球体がゆったりと動き出して百刀を囲い始める。
 一つでも掠めれば、大惨事を免れない。
 百刀は大太刀を地面に放り投げる。自暴自棄ではあるまい。その顔には、自信が溢れている。
「分解、再構築――強度最大出力」
 言語による自己暗示が発動条件か。百刀は空気球体を恐れず前に進む。
 超圧縮空気球が百刀に触れた。そのまま振れれば、全身がズタズタになる。
「――ふ、ンッ」
 その腕を、空気球にぶち当てた。まるで冗談のような光景だ。
 球体は本当にボールのように弾けて飛び去り、二人の間で弾ける。正面から凄まじい突風が吹き荒れ、百刀の短い髪を揺らす。
 何を分解した、何を再構築した……? 綾音は構える。
「――いるもんだねえ、貴女みたいな人」
「ほら、もう、来てるよ」
「――、え」
 ……不覚。
 百刀が空気球体をはじき飛ばす光景ばかりを目にしていた。
 大太刀が無い。
 分解したのは太刀か。
 では、分解して残る鉄粉はどこか。
 こんな夜中、月明かりに頼るような場所で、そんな細かいものが見当たる筈もない。
 何を再構築した。
 どこに。
「どこ、げ――ふっ、ぐっ――ッッ」
「『君の身体』に、だ」
 胸に熱い痛みが走る。呆気にとられ、何をどうすればいいのか解らない。
 初めて能力者の攻撃を食らった。いや、そんな事は良い。何が起こっているのか。
 胸、喉、口、そして身体中。
 綾音の前面の至る所から輝く小さな刃が生えている。
「げ、えぇぇ――ゲホッ、ゲホゲホゲホゲホッッ」
 口元から血液が吐き出された。これは、肺か。
「運が悪い、吸っちゃったんだね」
「ゲホッ――が、ぐ、い、ぎぃ、いいぃ、だ、いだだ、が、ゲホゲホゲホッ――ッッ」
 混乱する思考を宥める。
 今冷静さを欠けば、間違いなく死に到る。舐めた話もあったものだ。
 ――強化したのは、百刀自身の一時的な干渉壁だ。
 ――分解したのは、大太刀ではない。大太刀は能力者が解除を施すだけで鉄粉に戻る、つまるところ、鉄粉を更に細かくしたのだ。
 暴風と同時にそれは綾音に付着、もしくは吸気してしまったのだろう。
 最大出力の防壁で此方の攻撃を凌ぎ、それを利用して念動力で調整――具現化系の彼女は、鉄粉を相手に塗す事で、このような状態を引き起こしている。
 恐ろしい、この状況下で良くそこまで頭が働くものだと、もがきながら褒め称える。
 対象がESPを持とうと持つまいと、人間の肉体に干渉するのは苦労する。綾音はそれを飛び越える程度の生物干渉ESPを誇る故に、あのような無茶苦茶な攻撃が行えるのだ。
 生物干渉系ではない百刀では、余程密着でもしない限り相手の衣服や身につけているもの、綾音の身体に含まれる鉄分に働きかけるのは無理だろう。能力と効果範囲には限界がある。
 しかしそれが、能力者自身が所有していたESP力場を含む物体であり、サイキックチャージャでブーストして生物干渉、質量増加まで引き起こしていた場合、話は違う。
 例え強烈な干渉壁があったとしても、その条件下で零距離から発動されては、どんな強固な壁を持とうとも被害は免れない。
「アタシは、劣等生でね。遺伝子複製体の中でも能力強度が劣って、限定的な力しか持っていないし、操る物質すら限られている。サイキックチャージャぐらい使わないと、これが出来ない」
(吸収、除去、吸収、除去、吸収、除去……ヤバいヤバいヤバい――ッ)
「……次は一部にまとめて、そこを貫く――いくよッ」
(舐めやがって――このお嬢様、とんでもないな――ッッ)
「――こ、け、がっ……この、この、糞餓鬼ッ」
「な、しゃべ……」
 ――確かに、彼女は良く頭が働いた。
 サイキックチャージャ有りとはいえ、SAU1をここまで傷つけたのは、彼女が初めてである。
 ただ、しかし――それ等は全て、鷹無綾音の『加減』によって成り立っている。
 最初から本気ならそもそも、彼女は綾音を見る事すら出来ず、地球上から消えている。
(除去、完了。自己再生自己再生自己再生自己再生自己再生自己再生ッッ)
 手にした『鉄の塊』を百刀に目掛けて放り投げる。
 警戒した百刀は即座にそれを分解し地面に散らした。
 しかし、そんなものはどうでも良い、そんな事をしている暇など、お前には無いのだと、綾音は睨みつける。
(押さえろ押さえろ。消し飛ばすつもりはないんだ。大圧縮、尖化)
 綾音が手を横なぎに払う。放たされたそれは、暴風の刃だ。
「ひとぉつッッ」
 鉄塊に気を取られていた百刀はそれをまともに腹に受ける。まだ削りきれない。
「ふたぁつッ、みっつよぉぉつッッ!!」
 以前の消耗、そして先の超圧縮空気球体を真正面から受けて、彼女の干渉壁が無傷である筈がない。
 ESP攻撃は受ければ受ける程に脳を消耗して行く。
 彼女の細い身体の何処にそんな厚い干渉壁を築ける力があったのかは定かではないが――
「ぎ――ぐっ、うあっッ!!」
 ――人間が脳を酷使する限り限界は存在する。
 綾音の全力に近い攻撃は、三発四発と直撃し、百刀の干渉壁を確実に削ぎ落とした。
 百刀は腹部に裂傷を作り、顔を覆った腕からは血飛沫が舞い上がる。
 余程の衝撃であったのか、彼女はそのまま五メートルほど宙を舞い、ガシャンッ!! という音とともに屋上フェンスに叩きつけられた。
(くそったれ……あんまりナメすぎるのもいかんね……死ぬ所だった)
 死ねるか。
 こんなところで死んではいられないのだ。
「ケホッ……あー、まともにESP攻撃食らったの、産まれて初めてかも」
「ぎ、い、つぅ――じ、自己再生? 冗談めいてる……ッ」
「このスーツ高いのに……穴だらけだ。七星が弁償してくれるかな?」
「く、くそ、まだ、まだ、まだッ」
「脳内で唱えるのは、加減した時なんだよねえ。次は言語化する」
「――え、え?」
「『潰れろ』」
 重力制御。
 もはや干渉壁も構築出来ない百刀には防ぎようも無いGがかかり、彼女の傷口から血液が溢れ出る。
 肉がミートハンマーで叩かれたように圧し潰れ、雑巾で絞られたように捻じれる。
 眼球が押し潰されて瞼から凹み、鼓膜は紙を破るより容易く弾けて耳血を漏らす。
「いいいいいいっ、ぎいぃあ、あああっ、や、やべっや、やめへえええッッ!!!」
「解除。止血、縫合、再生」
「あ、あ、れ……あ、」
「もう一回、行くかい?『つぶ』」
「や、やめて……やめてぇ……痛い、痛い――痛い、よぅ――」
 折角の美貌が台無しになってしまった百刀の胸ぐらを掴みあげてフェンスに押し付ける。
 しかしやられた様もまた耽美と思える辺り、能力がどうであれ、容姿は完璧な子だ。
 濡れた猫のようになってしまった百刀は、泣きながら必死に許しを請うている。
 さて、どうしたものかと、綾音は薄く笑って首の骨を鳴らす。
「ああ、可哀想に可哀想に。貴女みたいな美人、虐めるのってたまんないね。変なのに目覚めそう」
「くっ――うう」
「しかしね。一度は命を賭したんだ。負けたら殺されるんだよ。貴女は現に、私の首を欲したでしょ。あのままだったら、貴女は確実に私を殺した。では立ち場が逆転して、今度は貴女が殺される番だ。文句ある?」
「や、やめて――なんでもするから――何でもする……死にたくない……ッ」
「都合のいい話。良いかな。ESPを行使する人間は、どうやったって表の世界じゃ生きていけない。その力は確実にどこかに管理される。ノラ能力者なんて危なすぎるからね。つまり、失敗すれば削除されて然るべきだ。殺されて然るべきだ。百刀、貴女は今から死ぬ。大丈夫、ちゃあんとお姉さんが優しくしてあげるから。どう死にたい? 素粒子ぐらいに分解したっていいし、潰してコンクリートと一体化させても良い。手間かかるけど、貴女の中身で核融合起こしたって構わないよ」
「あ、ああ――ここ、まで……なの。アタシ、何にも、得ないまま――」
 最期を覚悟したのか、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 一体どれほどの後悔を抱えれば、そんな悲しい顔が出来るだろうか。
 十数年の命、遺伝子複製体。その生命は、元から彼女のものではなかっただろう。
 利根河撫子になれなかったもの。利根河撫子になる事を目指す事も出来なかったもの。
 手を上げる。
「アリス――」
「――はあ」
 百刀の首根っこを捕まえ、屋上の地面に放り投げる。
「あ、ぐっ」
「このイケメン殺しちゃうと、悲しむ子多いんだろうなあ……ヤりあって情が湧いたのかも。やっぱやめ。私も殺したくない」
「――あ、綾音」
「身の程は弁えなきゃねえ」
 胸部プロテクタから飴を取り出し、一つは口に含み、一つを百刀に投げてやる。
 彼女はポカンとしたままそれを受け取り、口に含んだ。一瞬頭を抱えるような仕草を見せる。サイキックチャージャの反動だろうが、その程度で済んでいるというのだから驚きだ。
「一応工作員なんでね。敵方の能力者も把握しておこうと思ったの。そしたらなんか、とんでもない奴で、お姉さんびっくりしたよ。触らぬ七星に祟りなしって、十年前の政治家の失言だっけ?」
「二十年前、かな」
「あちゃ。歳がばれる。ううん。ねえ、百刀。貴女が七星の先兵であるのは解るんだけど……やり過ぎだね。早死にするよ」
「……何の価値も無いままなら、早死にの方が、マシなんだよ、アタシ達『撫子姉妹』は」
「殺さない代わりに幾つか聞こうかな。いいね」
「それは――」
「私から話しましょう」
 さて、その人物はどこから現れたのか。
 人気など在る筈もない旧校舎の屋上で、鉄柵の上に佇む女性が一人、声を上げる。
 高みの見物とは良い御身分である。
「やっと出たか」
 風にメイド服が翻り、なんとも非現実感を漂わせていた。音も無く彼女は屋上に降り立つと、ツカツカと歩き、綾音と百刀の間に立って丁寧にお辞儀する。
「こんばんは、綾音嬢」
「やあ。私の頭の中、良くも覗いたね」
「はい。ただ、隙を見つけないと影響が出せませんね。取り敢えず、百刀」
「――は、……はい。兼谷様」
「……十分にデータが取れました。『良くやりましたね』」
「……はい」
「貴女が役に立って本当に良かった。これで貴女には価値が生まれます。今後もその能力、七星の為に存分に発揮してください」
「うわあ、悪役だなあ、貴女。何者? ただのメイドじゃあないよね。七星の、どのあたりの人?」
「いいえ。ただの、メイドで御座います」
 兼谷は表情一つ動かさない。
 まるで湖底の大木のように、冷たく、時の流れを感じさせない。
 遺伝子複製体達の統括だろう。
 ともなると、彼女達よりも上位の遺伝子複製体という可能性もある。彼女が扱う感応干渉は、ここで働く洗脳装置よりも強力とみて良い。つまり、綾音が一番相手にしたくない人間だ。
「仕事熱心な事で」
「貴女こそ。SAU1特別実働調査官殿」
「あら、バレてるね。そりゃそうか」
「拝見しましたから。此方を察知されてからの防壁が強固で、突破には時間がかかりました。貴女は内務省国内公安局特務公安第一課所属の、公僕でいらっしゃる。第一課というと、暴力的な事で知られていますね。ESP能力者を実働部隊に含む、日本国企業の監視人。七星には手を出さないと思っていただけに、意外です」
「ひっそりやってたからね。私っていつバレたの?」
「最近です。良くもまあ一般生徒に紛れましたね。不覚でした。評価に値します」
「それはそれは。で、どこまで調べて、何処まで解ってて、その子と私を争わせたのかな」
「高位のESP能力者との実戦データが欲しかったのです。達成しました」
「ああ、全部解ってる訳じゃないのかな」
「――どういう事でしょう」
「全部知ってたら、普通戦わせたいとも思わないから」
「……噂には聞きます。しかし、実際見てみませんと、如何ほどのものか。しかしこれで解りました。なるべくなら、貴女から直接お話を伺いたいのですが」
「もう十分じゃない? まだ必要かな」
 兼谷に歩み寄る。
 干渉壁は再構築し直した。一回、二回程度の感応干渉ならば防ぐ事が出来るだろう。
「遺伝子複製体は、貴女達の人形? 彼女達は、貴女のおもちゃなのかな?」
「……私達に付き従う事が、彼女達遺伝子複製体のレーゾンデートルだからです。彼女はESP実験体。私達の期待に応えなければいけない。そしてなるべくなら、期待を上回らなければいけない」
「誰にも話さないからさ、教えてよ。七星、何がしたいの? この学院で、何しているの?」
「粗方調べたとは思いますが。厳密には利根河撫子の完全復活です。遺伝子と、記憶を弄り、組み立て、再現し、七星二子を利根河撫子に仕立て上げます。次世代記録媒体は御存じですか」
「資料にあったな。あれ埋め込んでるの、あの子達。つまり、それにデータを蓄積して……撫子を再現しよって事? データが魂足り得ると?」
「良く御存じですね」
「なるほど。幾つか引っかかる点はあるけれど、そっか。解った、誰にも言わない」
「そうして頂けると助かります」
「でも、じゃああの子は?」
 百刀を指差す。彼女はびくりと震えた。綾音にではなく、兼谷に怯えているように見える。
「撫子復活の副産物です。そもそも七星のESP研究自体、全て撫子の副産物と言っても過言ではない。記録媒体にESPデータを乗せる事で常人であろうと能力を行使出来るようにまでなっています。彼女は適正があった。BからB++までの能力者相手なら彼女で十分ですね。主要施設の用心棒として雇えるでしょう。彼女には価値が産まれました」
「……彼女は、利根河撫子の複製体でしょう。そして、当時を再現しようと、杜花やアリス、早紀絵なんかも弄ってる。そうだね」
「……」
「撫子の資料を漁る限り、百刀達が……杜花やアリスに恋慕を抱く可能性だってあるでしょう。現に、支倉メイは早紀絵にべったりだ。彼女達は、辛くないのかな。幾ら複製体っていっても、やっぱり個人でしょう」
「個人、としては扱っています。彼女達がどう思うかは、別として」
「――兼谷様」
 震えていた百刀が口を開き、立ち上がる。いつものオトコノコのような雰囲気はない。そこにいるのは、戦いに負けた、惨めな女の子が一人だ。
「私は――個人でしょうか。個人になれたでしょうか。利根河撫子ではなく、戻橋百刀として、生きていけるでしょうか」
「ええ。結果は一郎様にお伝えしましょう。きっとお喜びになられますよ」
「綾音を、倒せませんでしたが」
「物理的な能力で、強度EX相当の彼女を打倒するのは理論上不可能でしょう。これを倒すとなると、相当に特殊な処理が必要になる。毒殺も無意味そうですし……さて、鷹無綾音嬢」
「あいあい。何かな」
「取引をしましょう」
「ああ、穏便なの大好き」
 彼女は『ただのメイド』と自称するが、その澄みきった雰囲気は修羅場をくぐり抜けた戦士にしか出せないものがある。感応干渉も操るとなると、正面からやり合うのは面倒だ、なるべくならお話合いが良い。
「今の戦闘を見る限り、貴女は余裕があります。しかし数度に渡る私の感応干渉を全て防ぎきれていない所をみると、パッシブで展開されている干渉壁自体は、大して厚くはない」
「御明察通り。私は外に向けて出力するのが得意なのであって、通常時の干渉壁は薄いんだよねえ。ESP耐性は強められるけど、疲れる。加減が難しいんだ。いやあ、見抜かれるものだね」
「今、貴女のお部屋にうちの警備員がいます」
「――まあ、大体予想したけど。それが嫌だからこそ、急いたんだよねえ」
「大切なお友達の頭が吹き飛ぶか、何事も無く終わらせるか、選んでください」
「おっと。高圧的に来たね」
 ――人質はいつでも考えられた。
 人の頭を読みとる彼女からすれば、綾音にとって何が大事なのかはよく分かっている筈である。
「マイ、良い子に寝ていると良いけど。可愛いんだ、あの子。凄く可愛い。大好きなんだよねえ」
「では、引きますか」
 真衣子は怖い想いをしているだろうか。
 寝ているのならば、そのままにしてあげてほしい。
 真衣子を犠牲にするつもりなど毛頭ない。
 そして、引き下がるつもりも理由もない。
「兼谷さん、少し違う。貴女は見誤っているよ」
「はて、どのようなことでしょう」
「私はここからでも、その警備員を今すぐ殺害出来る。なおかつ、全力で感応干渉を防いだ後、兼谷さんを爆殺するぐらい造作も無い。もう少し賢いと思ったんだけどな。あまり、私を舐めない方が良い。貴女がここに現れた時点で、貴女は人質と変わりない。そもそも――この旧校舎ごと、吹き飛ばしたって良いんだ。いいか七星、馬鹿にするなよ」
「――視覚外の対象に、攻撃が可能であると?」
「場所限定の千里眼みたいなもんかなあ。それに少し疲れる。入った事無い場所は詳細までは解らないんだよ。でも、毎日暮らした場所、守りたい人の近くなら、直ぐわかる」
「少し興味がありますね。貴女、どのタイプのESPを保有しているんですか」
「物質変化、質量変化、念動力、身体強化、重力制御、限定千里眼、限定物質転移。あとは諸々あるんだけど、具体的に挙げようが無いんだよね。大体願った通りに働く」
「なるほど……しかし……大覚醒で……よく……」
 兼谷はブツブツと呟きながら、まるで綾音を値踏みするかのように見る。
 綾音はジョーカーだ。
 どんな状態すら覆す、デウスエクスマキナである。これに交渉を持ちかけよう、というのがそもそもの間違いだ。ただ、兼谷にも目的と使命があるだろう。綾音も考慮するつもりでいる。
「どうするの、兼谷さん」
「それが、アルティメット。貴女、歩く核弾頭?」
「核の方がマシって場合も多々あったねえ」
「それだけの力がありながら、何故公僕など」
「逆だね、そんだけ危ないからさ。どこかの管理下にあった方が良い……私は、歩く力だ。私は上からの指示で動く。けど、本当に必要かどうかは自分で判断するよ。そして、私は戦乱も、戦乱の解決も、望んじゃいない。私は愛国者だよ。この国がね、もう少し自由で、もう少し綺麗になればいいって、想っているだけ。人は好きに生きれば良い。争うなら争えば良い。ただ、それらを私が全て解決した先に待ち受ける未来って、本当に先があると思うかな?」
「……上は、貴女を戦争には差し向けないのですか」
「行ってくれと言われて、行く事もあった。本当に極秘に。だって――私が全て終わらせたら、たぶん、人間は正気じゃいられないよ。どんな兵器を持とうとも、どれだけ強靭な部隊を編成しようとも、衛星兵器で狙い打ちしようとも、それが物理法則に従っている攻撃なら、私は死なないし、殺されない。こんな人間外の人間が町を闊歩してると解ったら、どう思う? 私は不安で仕方が無いね。それを抱える国も、それを敵対国とする国も。全部のバランスが崩れちゃう。だから、私は潜入調査官でいい。軍人でも兵器でもない。ああでも、宇宙大怪獣とか、クトゥルフみたいな神話生物が出て来たらまかせてよ、たぶん勝てるから、ははははっ」
 兼谷の表情が、多少崩れたように見えた。百刀は具合が悪そうな顔をしている。
 それもそうだ。
 誠に残念ながら、SAU1とは真実を知るだけで自身の生命から財産、全てに至るまで危機感を覚えてしまうような、そのような存在なのだ。
 何もかもがペテンで、何もかもがその前にして無意味。
 人類の英知も、人類の矜持も、絶大すぎる力の前に意味を成さなくなる。
 あの時、たった一人の愛する少女の仇を討ちたいと、この理不尽な現実を全て覆したいと、そう願った時、鷹無綾音は『繋がった』のだ。
「――自身の危機と感情の爆発による、大覚醒。あの出来事、余程悲しかったのですね」
「頭覗かれるって気持ち悪いな。思い出したくもない。触れないでくれる?」
「そのお話を聞ければ、此方はデータを提示する意思があります。警備員も引き下げましょう」
「信じられるかな、その話」
「今すぐ爆発する爆弾を目の前に、嘘を張り巡らせても意味はありません。私としましては、計画に支障が出なければ、それでいい。あと、ここで聞いた話を、特に杜花お嬢様やアリス嬢、早紀絵嬢に伝えるような真似は、勘弁願いますか」
「しないしない。で、今確認する。警備員下げて」
「お待ちを」
 兼谷が腕時計型端末から連絡を取るような素振りを見せる。意識を集中し、自室を覗き見る。
 どうやら本当に下げた様子だ。
「やっぱアレ、七星は契約って」
「ええ。極力遵守します」
「そっか。じゃあ私も」
(此方SAU1)
(どうしました。通信が切れてましたよ、無事なんですか)
(そら私が無事じゃなかったら、この一帯が消し飛んでるよ。これからお相手と交渉するよ。これは全部私の権限で行う。文句はないね。有ろうものか)
(それは……)
(学院近くに伏せてる奴ら下げて。私が退場する用の車だけ置いてて。貴女乗せたまま。待っててねん)
(……了解)
「さて、うちのも下げた。何から話す」
「お話するのであれば、階下に移りましょう。温まれますし、お茶もお出しできます」
「ん。遠慮する。何せ私、貴女の感応干渉抑える事は出来ても、疲れるから。話す事話して、貰うもの貰って、退散する」
「左様ですか。ではここで」
 取引は信用値するにしても、取引後がどうか解らない。
 真衣子に手出ししないにしても、綾音は彼女の感応干渉を完全には防げないのだ。なるべくなら直ぐに退散出来る位置に居たい。
「百刀、寒くない?」
「ちょっと寒い……うう……」
 真冬の夜中だ。例え人並み外れた力を持っていようとも生身の人間、凍える事もあるだろう。
 綾音は百刀に手を翳す。
「干渉壁解いて。少し細胞を動かすね。あったまるよ。まあ、熱量増えてお腹は減るけど」
「うわ――本当だ。君、本当に滅茶苦茶なんだね」
「そうだねえ――で、この能力の話だっけ、兼谷さん」
「少し覗きましたから、発動条件自体に疑問はありません、七星としても周知です。しかし問題は、その覚醒をもってして正気でいられる貴女、そして……貴女が蘇らせようとした子の事です」
「トラウマを抉られるようで気が引けるけど」
「では。何故、貴女は正気なのですか。地球破壊爆弾さん」
「わかんないね。もう狂ってるかもしれない。私の正気を誰も保証してくれないから。でも、人を憎む気持ちも、人を愛する気持ちも、他人の辛さも痛みも、私は知っているし、それを配慮して接する事が出来る」
「――ふむ。質問を変えます。上海での出来事、貴女はどう思いましたか」
「最初はどうでも良くなった。でもこの力があるなら何でも出来るって万能感があった。そして失望した」
「では、貴女が蘇らせようとした、劉美織(リゥメイジィ)の事です。生憎途中までしか覗けませんでしたが――貴女、あれを蘇らせて、彼女は息を吹き返して――何故、貴女を襲ったのか、理解出来ましたか」
「『あっちがわ』が観えたんだ。少し抽象的な話になるけど」
「構いません」
 ……自身の能力を過信し、綾音は美織の復元を行った。
 首を元に戻し、胸の穴を塞ぎ、血液を補充し、心肺機能を復活させた。
 手術にしてはいささか無茶ではあるが、人間としての機能は間違いなく元通りである。程なくして美織は眼を醒ました。
 だが、目を醒ました彼女は、敵意をむき出しにし、綾音に襲いかかったのだ。
「突然首を絞められた。何事が起こったのか解らず、私は取り敢えずそれを引きはがした。それで終わったなら良かったけれど、美織の敵意はただ私だけに向いていた。オカルトだけど、そうだね、キョンシーとは言わないけど、木偶というか、そんな感じがあったよ」
「美織さんを、貴女はどうしたんですか」
「……どうやっても立ち向かって来る。念動力を無理矢理ぶつければ壊れてしまう。加減が解らなかった。あろうことか、美織まで、ESPを行使し始めた。脳味噌が変な風にくっついたんじゃないかな。能力同士が干渉して、酷く消耗したのを覚えてる。そして美織は、まるで力を使い果たしたように、そのまま絶命したよ。私は彼女と力をぶつけている間、不思議なものが観えた。これは恐らく、君に初めて話す」
「不思議なもの、とは」
「なんだろうね、記憶のスープだろうか。自分の記憶、美織の記憶、見た事も無い奴の記憶、人類が記憶している筈のない記憶、その全部。ただただ、私は『やってはいけない事をやった』と、そう思った……で、こんな話を聞いて、貴女は何か得があるのかな。まああるよね――そうか、撫子復活に、不具合でも、あるのかなあ……?」
 兼谷は無表情のまま、小さく頷く。知られても問題無い事なのだろう。恐らく内部だけの問題なのだ。
 しかし、そうなれば幾つか合点が行く。
 大量に作られる遺伝子複製体と、記録媒体によるデータ収集。
 いつまで経っても終わらないプロジェクト『ヌル』は、きっと最大の問題――つまり、魂の在り処を問題視しているのだ。
「もう少し情報を頂戴よ。答えられる事も増える。市子、二子は、一郎の実子だね?」
「はい」
「彼女達にも、記録媒体があった。そうだね」
「はい。現在の二子には、撫子姉妹と学院生徒、そして撫子を仮定したロジックが組み込まれています」
「何度やっても、撫子が出来ない」
「……はい」
「……貴女達は、データを魂とした。人間の全てをデータ化して、それを遺伝子複製体、そして実子にも組み込んだ。遺伝子複製体よりも、実子の方が具合が良かった、と見るべきかねえ」
「――して、見解は」
「貴女達と同じさ。『ガワ』だけじゃ、それは人間じゃない。そもそもガワには、別の物が宿るんだろうと思う。百刀達遺伝子複製体は、産まれた時点で個人だね。そこに無理に入れようってのが無理じゃないかな。私は、空っぽになった美織を、無理矢理起こした。その時、ガワしか無かった彼女に『何』が入っていたんだろうね?」
 アレは、人間以外の何かであっただろう。とても人間らしい振る舞いは無く、ただ暴走して朽ちた。
 愛する人を二度殺してしまった。しかし当時の綾音は、そんな事よりも非現実すぎる存在に、暴走した美織の殺害に対して、驚くほど冷静だった。
 あのような不自然なものを、生かしておいては不味いと。
「何かとは、ずいぶん抽象的ですね」
「そうとしか言いようが無い。ありきたりだけど、多分、死者の蘇生なんてものは、神様に喧嘩を売るようなもんなんだと思うよ。七星一郎がどれほど撫子を愛していたかは知らないけれど……出来る? 本当に? 出来あがったと思ったソレは……本当に、彼女自身なのかな? 貴女達は、いざ本当に出来あがったものが、撫子で無かった場合の覚悟が、出来ているのかな?」
「先達のお話です。肝に銘じましょう。御協力感謝します」
 言葉だけ、ではないだろう。兼谷は本当に感謝したように、深々と頭を下げる。
 彼女達が目指しているものは、人間が触れて良い部分を超越した所にある。
 利根河撫子が死して四十年。
 その間、七星一郎という魔人が目指したものが、この学院に詰まっていると見て良い。
 ……綾音の目的は、洗脳装置の証拠を得る事だ。彼女達の計画を拒むものではない。
「データ、くれるかな」
「此方に」
 放られたメモリを受け取る。通常規格のものだ。
 胸部から取り出した端末に接続し、データを閲覧。時限削除を警戒し、複数コピーを取り、即座に本部に送信する。
 任務は終えた。
 ではここからだ。兼谷はどう出るか。
「さて、私は逃げるけど、追うかな? あ、真衣子に手出したら、私は七星の関連施設、全部ぶっ壊すから。全部だ。何もかも壊す。貴女達の計画も、医療施設も、遺伝子研究所も、七星本社も、数万に及ぶ関連企業も、全部」
「――弁えています。それに、私は貴女を信用している。あと、これは一応なのですが」
「なにかね、ん?」
「七星で働きませんか。最高待遇でお迎えします。お給料、五倍は出しましょう」
「――ご、五倍かあ……」
 少し考える振りをする。今の五倍も貰ったら、一年で人生を七周可能な年収になるだろう。SAU1は、本人が否定しても取扱として兵器である為、機密費から維持費が出されている。
「いや、お断りしておこうかな。取り敢えず、貴女との約束は違えない。私は貴女との話を、墓場まで持っていこう。これは絶対だよ」
「はい。七星と内務省の全面戦争など、引き起こしたくありませんものね」
「そゆこと。じゃ、帰ろうかな――あ、そうだ、百刀」
「……なんだい」
「兼谷さん、少し借りて良いかな」
「ええ、どうぞ。私はこれで……ああ、そうだ、一つ」
「あん?」
「誤差を出したくありません。暫く綾音嬢は『いる』事になりますが、よろしいですか」
 兼谷が此方を窺うようにして尋ねる。
「――ま、上手く消してね?」
「畏まりました。では、失礼します」
 そういって、兼谷は来た時と同じように、音も無く去って行った。
 彼女は感応干渉を扱う。この能力の行使者は、総じて干渉壁が厚い。そして高レベルであり、彼女自身も白兵戦に優れているとなれば……下手をすれば、綾音すら命の危機に瀕するだろう。
 あらゆる物理法則をその下に置く綾音でも、ESPによる攻撃はやはり脅威なのだ。
「少し歩こう。壁解いて」
(重力制御)
 百刀の華奢な手を握り、綾音は屋上から飛び降りる。羽毛のようにふわりと地面に降り立つと、綾音は先に一人で歩き始める。
「兼谷様は、恐らく君を消したがっている」
「そりゃあねえ。七星は善意と秩序を好む。彼らが『日本的秩序』を世界に構築するその日までは、きっと歩みを止めないし、その障害になるものは、排除したがるでしょうねえ」
 現七星の理想とは、七星一郎の理想に他ならない。一大軍事国家、経済大国、医療福祉大国として世界の上位に君臨する現在の日本は、単独与党で三十年政権を実現した自人会党と、彼の方針による影響が大きい。
 確かに、今の日本は裕福である。恵まれている。ホームレスなど趣味以外の何ものでもなく、性別による差別は減り、頑張ればその分見返りが望めるという、理想国家に近い。
 ただ……七星は強権すぎる。
 有能な王による王政こそが最も優れていると言われる理由も解るが、それでは民衆は如何すればいいのだろうか。形だけの民主主義のままにその身をやつし、されるがままを是とするのだろうか。
 いざ利根河真が滅び、次代に移り替わった時、その王が本当に理想国家を夢見、努力してくれるだろうか。
 たった一人の人間の采配によって、大多数の民衆が右往左往しているようでは、恒久的な平和など夢物語である。
「ただ、私は切り札だからね。七星も利用しようとするだろうさ。一軍団を派兵する苦労を、私一人派遣するだけで済ませられる。こんな簡単お手軽な戦略兵器、なかなか無いしねえ」
「戦争には、いかないんじゃないのかい?」
「余程追い詰まったら考えるよ。ま、現状あり得ないけどね。アメリカと戦争するってなら違うかもだけどねー」
 笑って言う。再統一アメリカと戦争はあり得ないだろう。そもそも同盟国であり、軍事統合が進んでいる。メリットが一つもない。
 現在の日本の軍事力で行けば、冷戦時のソ連とアメリカが全面戦争を行うに等しい。地球が三つ無くなる。
 そんな話をしながら、人気のない学院の道を歩む。
 二年半以上ここに居た。もはや故郷といっても差支えない。ここは良いところだった。
 乙女達が夢に恋に会話の花を咲かせ、理想を語る。
 辛い時も、悲しい時も、優しく美しい上級生がゆっくり諭してくれる。
 皆落ち着きがあり、清楚で清潔、人間の汚い部分がまるで見受けられない、花園である。
 そして裏を覗けば、それとはまるで違った、淫靡な世界も広がっている。
 過去五度ほど女子高生として潜入調査を行った事があったが、ここは綾音の薄暗い欲求を満たしてくれるに十分な程、過ごしていて好ましい場所であった。
 こんな結末になってしまったのは、悲しいが、仕方が無い。
「それで、どうしたの、綾音」
「まあ、座りなさいな」
 そういって、近くのベンチに腰掛ける。街灯からの明りの下、白い息が流れて行く。
「寒くないかな」
「うん。本当にお腹すくね、これ」
「はい、飴ちゃん」
「これ、普通の飴だよね」
「急速吸収ブドウ糖だけど。ねえ、百刀」
「――うん?」
「貴女は、アリスへの気持ちを前世の因果、なんて表現したけどさ。あれは、遺伝子の影響かな」
「その話がしたくて、呼びとめたの?」
「気になるじゃない。大丈夫、誰にも喋らないし」
「そうかい。それに関しては……解らない。アタシは、小さい頃から遺伝子複製体である事を明かされて、七星の盾になるよう教育されてきた。この学院に入って、市子御姉様をお守りしながら、ESP実験体として生きる事を余儀なくされていたんだ。それを不自由と思った事は無い。遺伝子複製体である事だって、たまに忘れてしまうほど、結構どうでもよかったんだ。でも、アリスを見て、アリスに出会って、衝撃的だった。ましてそれが、お守りする市子御姉様のものであると知って、一時期は、殺意すら覚えた」
「そして彼女は死んだ」
「七星が何を考えているのか、アタシには解らないんだよ。だから、計画を邪魔するつもりもないし、考えようとも思わない。でも、アリスの事だけは別だった。この気持ちが純粋な恋であるのか、それとも刷り込まれた記憶から来るものなのか……そもそもアリスは人のものなのに、それについて悩むなんて、馬鹿みたいかな」
 百刀は空を見上げる。街とは違い、星が良く見える。
 遺伝子複製体等は、皆似たような悩みを抱えているのかもしれない。
「支倉メイはどうなの?」
「あの子は、遺伝子複製体の中でも突出した変人だからね。自由な子なんだ。それにほら、彼女が大好きなのは、恋人が沢山いても問題ない、満田早紀絵だから。ちなみに言えば、アタシも彼女が嫌いじゃない。そう考えるとやっぱり、本当の気持ちなんて、アタシにはどこにもないのかもしれない。全部七星の掌の上。自由は全て仮初で、個人なんてものは、笑ってしまうほど、希薄なんだ」
「抜けようとは」
「思わないよ。ここにいれば、生きていけるから。それとも、無理矢理天原アリスを連れて出て行くかい? 計画に支障が出る。アタシは兼谷様に殺されてしまうよ。それに、アリスが望まない」
「アリス、そして杜花、早紀絵。あの子等は、自身が何者か知らないでしょう。もし、彼女達が自分達は仕組まれている存在だと気がついた時、どうするだろうねえ?」
「――ねえ、綾音。もしかして、焚きつけてる?」
 なるほど、そのような考えも出来たかと、綾音は笑う。
 百刀を焚きつけて計画の破綻を狙っているのではないか、というものだが、そんな考えは一つもない。純粋に、彼女の気持ちが気になるのだ。
「もう仕事終わってるんだ。コイバナみたいなもん」
「そう。でも、どうだろうね。彼女達は小さい頃からずっと一緒だ。例え『庭園の乙女達』という括りにされていたとしても、彼女達が積み上げて来た気持ちや思い出が、君は嘘だと思うかい?」
「いいや。でも、悩むだろうね」
「……そうだね。多分、兼谷様は、彼女達にそれを思い出させるだろうと思う。今は圧縮再現の最中なんだ。詳細は知らないけれど、再現となれば、彼女達が仕組みを明らかにして、思い悩む必要があるだろう――鍵は恐らく、欅澤杜花」
 黒髪の、強靭な乙女の姿を思い出す。観神山女学院占拠事件で、犯行グループを三名殺害した欅澤花の孫。確実に、利根河撫子に一番関わりが深い。同時に現在、七星市子に最も近い欅澤杜花である。
 市子が亡くなった後の彼女は見ていられなかった。何もかもが演技なのだ。笑った顔も嘆く顔も、形を作っているだけで、心が無い。早紀絵とアリスに迫られながら困惑する彼女は、見ていて痛々しかった。
 もし、感応干渉を破り、記憶を取り戻した場合――欅澤杜花は、七星二子をどうするだろうか。首謀者の兼谷をどうするだろうか。
 ほぼ解りきっているかもしれない。欅澤杜花は兼谷を許さないだろう。
 七星によって生み出された物語は、未だ継続中なのだ。欅澤杜花はどうするのか。七星は欅澤杜花をどうしたいのか。
「……幸せって、考えた事ある?」
「……あるよ」
「彼女が亡くなったって話したでしょう。あれは本当。人質に取られて、首ちょんぱされたんだよねえ」
「――そういう所に勤めていると、辛い目にあるものだね。可哀想に。慰めが欲しいかい?」
「おっと。調子戻って来たね。慰めてくれるの?」
「……やめよう。逆に食われそうだ」
「それが正解だなあ。私、生物干渉の上位互換だからね。勿論、人間の快楽も――」
「うへえ」
「くふふふ。まあ、そんな事があってさ。あんまり、人は好きにならないようにしてたんだけど。気になっていた子はいたよ。その子についこの前告白されて、しかも私、応えちゃったんだよねえ」
「――悲しいね。君は居なくなるのに」
「……うん。それで少しお願いがあって。殺さない代わりといっちゃあなんだけれど」
「聞くよ。なんだか今夜だけで、君に色々教わったからね。私も、個人が確定したし、御礼がしたい」
「マイに優しくしてあげてくれるかな。きっと、私が居なくなったら、酷く落ち込む。自業自得だから、人に頼むなんて申し訳ないんだけど、あまり辛い目に合わせたくない。彼女の恋を、悲惨な記憶で彩りたくない。彼女、可愛いんだ。多分、貴女も気に入る。お願い」
 真衣子との思い出を追憶する。初めて出会ったのは隣の席。柔らかい笑顔が、とても印象的であった。
 彼女は綾音に懐き、何かある毎に全て報告して、反応を窺う。常に笑顔で、綾音にも笑顔を分け与えようと、必死だったのかもしれない。
 彼女は人気者で、お嬢様方に囲われる彼女を、綾音は遠巻きに見ていた。この年で、女子校生の真似をしすぎるのも痛々しい。自分は愛も恋も友情も無く、あの少女とは一定の距離を保とうと、そう考えていた。
 しかしそれでも、真衣子は綾音に頼り、縋り、笑い掛け、気を使い、小さな恋心を見せて来た。
 否定する気持ちは何時しか彼女に融かされ消され、隣に居るのが当たり前になってしまっていた。
 そうだ。
 自分は、そんな子にいつも弱い。真衣子はきっとどこか、美織に似ていたのだろう。
「……綾音?」
「うん? 何?」
「泣いてるよ」
「携帯核爆弾がね、女の子一人悲しませるぐらいで泣いたりしないよ」
「でも」
「泣かないよ。私みたいなバケモノ、きっと彼女と一緒になっても、悲しみを増やすだけだよ。だから、これは結果的に良いんだ。彼女は当たり前の幸せを謳歌してくれればいい。だから、百刀」
「……解った。努力する」
「うん。申し訳無い。じゃあ、行くよ」
 立ち上がる。
 百刀は暫く俯いたあと、その顔をあげた。
 少し傷ついてしまったが、本当に美形だ。綾音が手を翳す。彼女の顔は、見る見る間に傷口が塞がり、かさぶた一つ見当たらなくなる。
「貴女は七星の掌の上かもしれない。どうしようもない事だって沢山あるだろう。けど、貴女は生きているし、好きな子だって生きている。これは、幸せな事なんだよねえ。どうか忘れないでほしい。百刀、貴女は恵まれているから。悩む事も多いだろうし、これから辛い事もあるだろうけど――貴女は生きて、そして、本当の自分の気持ちを得られる事を、私は願おうと思う。一戦交え、命を取り合ったんだから、和解した後は、友達ぶっても良いでしょう? 私、友達少ないからさあ」
「ああ。構わないよ。もしまた出会える事があったら」
「うん。楽しみにしてる」
 背を向ける。
(脚力強化。減重力。念動力最大出力)
 地面をけり上げる。綾音は凄まじい速度で上空へと飛びあがり、観神山女学院の高い壁をたった一歩で飛び越える。
 そのまま森の中を走り抜け、指定座標に移動。
 本当に、脱出しようと思えば一瞬なのだ。指定の車がある場所まで、十秒もかからなかった。
「へい」
 車の窓を叩く。無線に耳を凝らしていた諜報員の女性、加瀬堂は身体をビクリと跳ねあげて反応した。
「――主任。お疲れ様です。首尾は」
「データは本部に送ってる。これがそのデータが入ったメモリ。私は疲れたよ」
「……何度目でしたっけ、女子高生」
「六度目かな。観神山女学院は、本当に良い所だった。卒業しちゃうのが、惜しくてねえ」
「……そうですか」
「惜しくて……惜しくて……」
「主任、その、だ、大丈夫ですか」
「私――久しぶりに好きな子が出来たんだ。凄く、可愛い子でさ。大好きだったんだ――もう、車、出して、ほら、加瀬堂、早く」
「はい。はあ、まあ、戦略兵器って言っても、女性ですもんね。そりゃ、泣きますよね」
「五月蠅い。怒るぞ」
「やめてください、観神山が消滅します」 
 消えてしまうのだ。いつもこうだ。今回は殊更酷いというだけである。
 鷹無綾音は今をもって失踪となる。
 何もかも、泡沫の夢のようだ。
 遺伝子複製体達の、戻橋百刀の、七星二子の、欅澤杜花達の、神藤真衣子の、未来を想い未来を想像する。
 どうか、こんな人間にはならないで欲しい。
 SAU1とは、あまりにも弱かったからこそ、願ったのだ。全てを覆すだけの力が欲しいと願った故に、この世の真理がその身に沁みついてしまった。
 どうか強い人間であって欲しい。人間が人間として苦難を乗り越えられるようになって欲しい。
 例え辛く険しい道だったとしても、全てを得ようとした先にあるものは、自身の喪失と絶望である。
「はあ――加瀬堂。少し泣く。話しかけないでね」
「ええ。どうぞ。何か音楽はいりますか」
「いらない。貴女がなんか歌って」
「無茶苦茶な……もう、解りましたよ」
 加瀬堂が、平成の頃の歌を口ずさむ。
 愛だの恋だの、逢いたいだの逢えないだの、そんな言葉ばかりが連ねられた歌詞だ。
 酷い女である。解ってやっているのだろう。
 しかし、今の『SAU1』にとっては、それがあまりにも悲しく、虚しく、自身にピッタリであると納得し、座席にその身を委ねた。
 疲れた。
「前線から引退する」
「ええ」
「あと、もう恋はしない」
「……ええ!?」
「なんで驚くの」
「な、なんでもないし」
「はあ――やめときなよ。もう、お休み」
「ぐぬぬ……」
 目を瞑る。
 目を醒ました頃には、後悔の一切合財を、全て忘れていますようにと、ただ願う。
 SAU1は、ただ願うだけの存在なのだ。
 その存在意義は、美織を失ってから、ずっと願いしかなかったのだから。




 エピローグ



 首を絞める手を払いのけ、身体を押しのける。
 美織はまるでゾンビ、いや、ここは大陸だ、キョンシーの方が正しいだろう、跳ねあがるように起きる。
「どうしたの、美織……私だよ、彩祢だよ」
 当時はそのように名乗っていた。美織の目は焦点があっておらず、まるで虚空を見上げてはギョロギョロと動かしている。生気が無く、行動が人間的ではない。
 何を間違ったのだろうか。
「アー……が、く。あお、お前――」
「あ、あ、うん。どうしたの、美織」
「――『触れたな、此方に』」
 その声は、美織のものではなかった。
 薄暗い、闇の底から響き渡るような、恨みつらみを滲ませる女の声である。
 同時に強烈なESP干渉を感じ、彩祢は対抗した。
 念動力が干渉し合い、倉庫内の荷物と男達の死体を巻き上げる。倉庫が暴風域に入ったような様は、明らかにこの世のものとは思えない光景であった。
「美織――違う、貴女、誰……?」
「……――」
 力を使い果たしたのか、美織の身体が念動力に押し負けて吹き飛ぶ。
 そして、その身体はえり奈が復元する前の状態へと戻り、ピクリとも動かなくなった。
 ただ恐ろしかった。ただ震えていた。美織と争ったという事実よりも、訳のわからないものを蘇らせてしまったという、恐怖だけが支配していた。
「――駄目なんだ。やっちゃいけないこと、したんだ、私は……」
 触れてはならないものがある。
 死体と血液と内臓と貨物が渦巻く塵溜めの中心で、彩祢は声を上げて泣いた。



「……駄目だなあ」
 どうやら寝てしまっていたらしい。椅子に背もたれ、思い切り身体を伸ばす。机の上の書類はそのままだ。一応最近まで学生をしていたというのに、元に戻ればこの通りである。
「感応干渉の影響、出てるのかな。一度医者に診てもらうかあ」
 医者、とはいうが、政府のESP研究室の事だ。感応干渉を深く受けた場合、記憶に様々な影響が現れるとされている。洗脳装置程度の暗示ならば問題なかろうが、綾音は直接兼谷から食らっている。
 報告書は紙だ。直ぐに証拠隠滅可能な為、こういったものには良く用いられる。それらを片づけ、綾音は台所に赴く。
 東京の郊外、都心へは車が無ければアクセスの難しい場所に、綾音は家を買った。
 酷く静かな場所に立つ日本家屋で、生活音に車の音はほとんどない。暫く空き家であった為、最初は虫から蛇からと悩まされたが、一か月ほど暮らして漸く落ち着き始めた。
 報告書の量が多く、やっと半分である。重要事項以外はいつ提出しても構わない、と言われた為三か月ほど放置したのだが、流石にせっつかれた。
 ここ最近はこの作業ばかりである為、ほぼ在宅での仕事をしている。
「たべものー……キドニー缶……豚肉……チリコンカンかなあ」
 豚肉を細かくし、玉ねぎを刻み、そこにチリパウダーをぶちまける。分量を間違えたが、気にしない。それらをオリーブオイルで炒め、トマト水煮を丸ごと入れ、水を目分量で入れる。
「ん……コンソメ……あった」
 固めておいたコンソメを適当量突っ込み、キドニーをぶちまける。
 塩コショウが多めになった。まあいいだろうとして、フランスパンを切り、バターとガーリックチューブを塗りたくり、オーブンで焼く。
「おお……出来あいじゃない……私すごいなあ」
 チリコンカンが水っぽそうだが、煮詰めれば良いだろうと開き直る。料理しているだけで快挙だ。
 つい最近まで一応はお嬢様を繕っていた。演技に凝りすぎて、本当に料理もした事がない世間知らずのお嬢様を未だ引きずっている。
 何も気を張る事のない生活。連絡を頻繁に寄こす相棒の加瀬堂以外とは話もしない生活だ。ここ三年とは違いすぎる日常に、喪失感が大きく、綾音はすっかり腑抜けていた。
「テレビ」
 テレビが点く。昼間のニュースでは、殺人事件、大陸戦況、社会、面白三面などのトピックがあがっている。社会の項目を選ぶと、丁度入社式や入省式の映像が流れている。
「そいや、春だったなあ」
 庭先の桜の木を望む。たった一本だけ、清楚に佇む桜の木が好ましく、この家を買った。
 足元にすり寄って来た猫のチビを抱きあげて、頬ずりする。
「ねこねこねこー……かあいい。お前はかあいいねぇ……」
 緑があり、猫がいて、気を張らず、配慮は無く、遠慮も必要なく、命の危機を感じる意味は無く、ただただ、終わりを迎えるような生活だけが、ここにはあった。
「んっ……流石わたしぃ、美味し……うわ辛い。これは辛い……」
 どうも独り言が多くて困る。それを心配してか、加瀬堂辺りはこんな糞遠い田舎にわざわざやって来ては綾音の世話を焼いて帰る、という、なんだか通い妻のような生活をしている。
 若く美しく、バイタリティあふれる彼女だ。こんな枯れ果てたような女に付き合う必要はないのにと、想いつつも、嬉しくはある。
 だが、もう愛も恋も止めた身だ。彼女にはもっと開けた世界と、立派なパートナーが必要である。
『続きまして、七星関連のニュースです。七星自動車工業は先週末、アフリカ向けの全自動自動車コンセプトを発表。アフリカ大陸各国の関連企業に対して――』
 NANAHOSHI。全世界で知らぬものが居ない、世界第二位の大財閥だ。彼等の存在が世界の全ての動きを調整しているのではないかという、陰謀論すら存在する。綾音も昔はそんな話を馬鹿にして居たが、最近は、本当なのではないかと考え始めた。
 彼等は世界を自分達の秩序に収める気でいる。地球を七星の統一下に敷くつもりなのだ。
 しかしそれらを束ねる男……七星一郎は、日本の田舎にある、お嬢様学校に執着する変態である。
「……娘、か」
 たった一人の娘。利根河撫子の復活を夢見た男。
 観神山女学院に入れていた調査協力者からの話では、実験は全て終わり、七星が撤収したと報告があがっていた。
 欅澤杜花、天原アリス、満田早紀絵、そして、七星二子は生存。
 しかし全員が負傷、もしくは一時的に意識不明にまで陥ったとされている。
 一体、何をやらかしたのか。そして、彼女達はそれで納得したのか。
 利根河撫子は、どうなったのだろうか。
 戻橋百刀は、自分を見つけられただろうか。
 神藤真衣子は――今、何をしているだろうか?
「マイ……」
 自分は。
 何もかも忘れた筈なのに。何もかもを忘れる努力をしている筈なのに。
 報告書をまとめる度に、真衣子の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。本当に恋していたのだと、どうしようもなく実感する。
 どこか緩く、しかし我が強く、変に積極的。
 それは――劉美織にも言えた。自分の好みは変わらないのだなと、自嘲する。
「……書きあがった分、明日提出に行くかな。医者に行って、報告書出して、次いでに加瀬堂を弄って、飯にでも誘ってぇーかなあ。あいつも、どっか緩くて、我が強くて、たまに変に積極的だしな……あ」
 指輪端末を確認し、メールを読み漁る。大体が加瀬堂からのメールだ。
「……やっぱ惚れられてたりするのかな……参っちゃうね、私」
 ……飯に誘う案を却下する。あまり触れない方が無難だろう。
 皿に盛ったチリコンカンとガーリックトーストを摘まみながら、また書類に取りかかる。
 書いても書いても終わらない、観神山女学院での、夢と希望と絶望の報告書だ。




 この世の真理の一端を担ってしまった鷹無綾音――小鳥遊文子(たかなし あやね)は、あの頃から狂っていたのかもしれない。終わってしまった世界を、ただ一人歩むのだ。
 荒れ果てた大地を進み、全ての亡骸を踏みしめながら、目的のない旅を続けている。時折見えるオアシスは、やはり蜃気楼。辿り着く事は無く、得るものも無い。
 常と超常の狭間を行き来しながら、自分が何をすべきだったのかと、物思いにふけるのだ。
「……健康そのものですな。テロメアの減少もない。貴女は美しいままだ」
「嬉しくないねえ。そうだ、死にたい場合はここに来ればいいかな?」
「お国が許さんでしょう」
「ま、いいや、勝手に死ぬから」
「一つ。SAU1」
「何?」
「ゲノムアンチエイジングを施し、テロメアを弄ったのは此方だ。ただね、今の技術だと、普通はメンテナンスしなきゃ、衰えるし減少するんだよ」
「はあ」
「……自己修復の痕が見て取れる。ここ一カ月で自己再生した記憶は?」
「ないねえ」
「では確定ですな。恐らく、貴女のESPは、自動自己修復を備え始めたんでしょうな。遺伝子マップ、提供してもらっても」
「構わないよ、好きにして。で、つまり、何が言いたいのかな」
「そうだね。栄養を取り続ける限り……貴女は恐らく、半永久的に死なない」
「わお……こりゃ、本格的に自殺手段考えないとねえ……」
「一瞬で粉微塵になるような死に方じゃない限り、無理と断言しよう」
「私どんだけ怪物なんだろう。解った。で、脳の方は?」
「精神鑑定結果を見るに、ストレスですな。トレースした記憶からすると、うん。恋患いだ」
「マジ……」
「マジですな。感応干渉の影響は見られない。過去貴女が体験した壮絶な恋人との別れと、最近の別れが重なって想起しているんでしょう。新しい恋人でも見つけなさい。いるでしょう、ほら、加瀬堂」
「ありゃ相棒だよ」
「んー……こりゃ、修羅場かなあ……」
「は?」
「いやいや。ま、なんかこう、ブドウ糖でも出しときます。お大事に」
「医者が飴をさじで投げた」
「医者じゃなく研究者だよ。ほら、忙しいんだ、さっさと帰りなさい」
「全く」
 脳味噌のマッピングデータを取られたかと思えば、こんな診断だというのだから参ったものだと、アヤネは頭を掻きながら研究所を後にする。
 しかしどうやら、今回の診断で自身の怪物度が上がったらしいと解った。このままでは恐らく、老いや病気で死ぬ事はないだろう。自殺法に頭を巡らせながら、本省庁社に向かう。
 丸の内からだ。霞が関まで車に乗る必要も無いだろうと、皇居近くを進みながら、まるで神殿のような五菱と七星の本社ビル群を眺めながら歩む。
 この国の行き先。
 日本臣民の行きつく先。
 メガコーポはこの国をどうしたいのだろうか。大陸の戦火はいつ止み、軍人たちは何時本土の土を踏めるのだろう。収束には向かっていると聞くが、肥えた軍需産業や傭兵企業、そして投資家達は、まだ続けていたいと願っているだろう。
「七星か。本当の本当に、娘の為だけに、あそこまで成りあがったのかもなあ」
 たった一人の娘を愛するが故に、愛していたからこそ、彼は悪魔と罵られながらも、この国の頂点に立った。そう考えると、なんと娘思いな父であろうかと思えるが、その実は、あらゆるものを犠牲にして成り立っている。
 被害者はどれほどの数存在するのだろうか。
 個人を個人と認められない遺伝子複製体等は、どれほどいるのだろうか。
 杜花達は、平穏な生活を手に入れただろうか。どうやら御姉様として市子の跡を継いだと聞き及んで……いるの……だが……。
「……う、おお……マジ……?」
 ナナホシ製薬本社ビル入り口付近に、重厚な造りの車が数台止まるのが観えた。
 中から出て来たのは、黒髪の乙女だ。足にはレッグサポータが見て取れる。
 見間違えるか、見間違えようもない。まるで狐につままれたような気持ちだ。
「な、七星市子か……うわ、なんだこれ……うそでしょ。遺伝子複製体? いやいや、オーラが違う。……ふ、ふふ。こりゃ、はは、笑っちゃうなあ」
 アヤネは足を進める。
 入口では、黒髪の少女に対して役員らしき男が頭を下げている。間違いあるまい。黒服の中に……見覚えのある少女も混じっている。あれは、戻橋百刀だ。
「おうい!!」
「――ん?」
 長い黒髪を靡かせ、七星市子が振り返る。近くに百刀が警戒したように並ぶが……市子は笑い、百刀は眼を瞬かせた。
「綾音!」
「綾音……」
「なんだ、生きてるじゃないか。やっぱり葬儀は偽装だったねえ、ええ?」
「ふふ。あまり、人に言っては駄目よ、綾音」
「元気だったかい、綾音」
「ああ、どうやら死なない人間になったらしい、私。市子は、まあ御挨拶か。百刀は護衛だね」
「色々あるのよ、大変ったらないわ……でも、綾音、その」
「ん。いい、いい。そんな顔しないで。綺麗な顔が……もっと綺麗になるから。そうか、じゃあ、あははっ! 杜花達は、知ってるんだよね?」
「ええ。全て終わったわ。みんなで幸せになるの。幸せに、しなきゃいけない。七星市子には、その責務があるわ。まあでも、百刀に、アリスはあげられないけれど。ごめんなさいね?」
「……おほんっ。何せまず、杜花様を倒さない事には厳しいからね。市子様に預けておくよ」
「まあ、不穏。謀反の可能性も考えないと」
 コロコロと、市子が上品に笑う。合わせて百刀が嬉しそうに笑った。
 なんとも今日は良い日だ。百刀も、市子も、まるで今を憂いているようには見えない。
 七星のプロジェクトヌルが、どこまで至ったのか、それは解らないが……悲しむ人が最小限に抑えられたのだろう。また、市子の美しい笑顔が見れたのだ。百刀が本当の笑顔で笑っているのだ。これを喜ばずには居られなかった。
「綾音。聞いたわ。兼谷が、迷惑をかけたわね」
「いやいや。私こそスパイだしねえ。ああ、そうだ。もう、諜報員はやらないんだ。これ、新しい名刺。これで戸籍登録してるから、あ、連絡先も書いてある。私的な奴ね」
「……いいの、特公(とっこう)の貴女が」
「市子は頑張るんでしょう? わざわざこんな本社に挨拶来てるんだし。もし、市子の理想が、私に近いなら、私は協力するよ。本当に合致するなら、七星に勤めたって良い……百刀」
「うん。市子お嬢様は……アタシ達を、見てくれているよ。アタシも、頑張る」
「そうだ、百刀。その、マイは――」
「うん? そら、元気だけど……あれ……そうか。まだなんだ。ふふ、楽しみにして居ると良い」
 百刀が意味深に薄く笑う。何の事だろうか。まあ元気ならば良いだろう。
「うん、うん。うふふ。ふふっ。そっか! ああ、足止めして悪かったねえ。いつでも連絡頂戴よ。特に食事、最近出来あいばかりだから。じゃあね、二人とも」
「ええ……ごきげんよう、綾音」
「またね、綾音」
 足取りが軽い。
 こんな日もあるのだと、自分の調子の良さを疑いたくなるほど、気持ちが晴れやかだった。
 少なくとも、庭園の乙女達は、救われたのだ。
 きっと死と絶望を味わっただろう。そして、何かしらを得ただろう。その中で、アヤネと同じ、酷い真実を知ってしまったかもしれない。けれども、生きているなら。彼女達の精神支柱である市子が生きているのなら、きっときっと、深刻な悩みよりも、人間関係のゴタゴタなんていう、アヤネからすれば瑣末な問題に、頭を悩めているに違いない。それは、生きていて、恋をしている証拠なのだ。
「はっはっは。なんだよもう、お昼から、お酒でも呑みたい気分だねえ」
「公務員が、給料泥棒なんて言われたら恥ずかしいじゃありませんか、主任」
「げえ加瀬堂!」
 内務省本庁舎前で、相棒に捕まる。彼女は黒く長い髪をまとめ、スーツ姿で現れた。いつもは女性職員用の制服なのだが、何かあったのだろうか。
「あら。キマッてるね。加瀬堂カッコいい」
「そそ、そうです? えへへ……じゃ、なくて。それより、主任。新人が来たんですよ」
「ああ、そんな時期だね。家に引きこもって報告書書いてると、世界と離れて行く感覚があってねえ。あ、研修でその恰好か。いやあ、加瀬堂さん美人で羨ましい。さぞかし立派な彼女も居る事でしょう」
「いい、いませんよ。まあそれより、ほら、入ってください」
「はいはい」
 加瀬堂に引っ張られ、エレベーターに乗り込む。地上二十階に国内公安局特務公安第一課の一室がある。
「実は新人に、天才の女の子がいまして」
「ほうほう」
「高卒なんです。公務員特殊一種、高卒でですよ?」
 実力主義が横行する現代において、学歴は特殊な大学と、最高学府以外飾りだ。全ては筆記と実技……だが、上に登ろうと思うとやはりコネクションが物を言う。
 省庁は広く人材を求め、殆ど全期間、短いスパンで試験を実施しており、高卒でも試験を突破すれば雇われる。この時期ならば、丁度冬の試験で受かった者達だろう。
 どうやらその女性は、高卒の身で難関とされる公務員特殊一種試験を突破したらしい。
「とんでもないのが居たね。ってか貴女も大学現役じゃない。頭良いねえ? 私は一芸だから」
「努力しましたので……で、その子がですね」
「うん」
「観神山女学院卒業です」
「へえ。今春なら、じゃあ私と同級生か……誰かなあ。大体顔は覚えてるけど」
「……知らない? ほんとうに?」
「そりゃ、新人の名簿みてないしねえ?」

「だってその子――自己紹介で、貴女の嫁だって、自任していたんですよ?」

「――――――――――………………なぬ?」
 長い廊下を行き、階の一番奥、第一課室の扉を開く。
 なんでだろう。
 どうしてだろうか。
 そんな幸福が、過去あっただろうか。
 良いんだろうか、それで。
 何かの冗談ではないのか。
「――――綾音ぇー!!」
「う、うわあ……ほ、ホンモノだあ……ッ」
 ふわふわした雰囲気。
 ふわふわした語調。
 しかしなんだか積極的な、アヤネの頭を悩ませた、大好きな子が、何故か事務方の制服を着ている。
「綾音! 綾音!」
「うわあ……なんだこれ……」
「――マジどうしよ……これは強敵ですね……ううん……あ、私も呼び捨てで良いですか、主任。というかアヤネ」
「加瀬堂ちょっとまってね、今忙しいから」
「くっ――ヤバいなあ……」
「綾音っ」
 神藤真衣子が、アヤネの胸に飛び込んでくる。
「どうやって突き止めたの、マイ」
「えー? 偶然だよー? いやあ、綾音がいて、私びっくりー」
 恐らく、百刀だろう。
 宜しくお願いとした筈なのだが……こんな宜しくのされ方をしていたとは、思いもしなかった。今度会った時、殴った後、褒めてやろう。
 愛も恋も捨てたと、そう言い聞かせて、けれどストレスばかり溜めて、生き場のない気持ちばかりであったアヤネには、神藤真衣子は危険すぎる存在だ。
 あの超難関試験を突破してまで、逢いに来たというのだから、その想いが冗談である筈もない。
「あのね、綾音」
「ああ、うん。なに、マイ。お姉さん今ちょっと頭混乱してて」
「もう、第一課と第二課には、私がね、綾音のお嫁さんだって、公言しちゃったあ」
「とんでもないぞこの子、加瀬堂、どうしよう」
「どうにかしたいのはこっちですよ!!」
「な、なんで怒るの!?」
 今日からアヤネは、内勤に配属である。
 もう、殺した殺されたという世界から離れ、終わらない余生を猫と過ごすつもりだったのだ。
 愛も恋も無く、夢も希望も捨て去って、一人静かに、仙人のような暮らしが待っているものとばかり思っていたのだ。
 だがしかし、どうやらこれでは――
「あ、これ、婚姻届。サインちょーだい! ふふ。逃がさないからっ」
「実は私も、公文書偽造して作りあげたこの婚姻届、もう提出するだけなんですが、主任」
「良し、一端逃げよう。これは戦術的撤退!!」
「あ、おいタカナシ、窓壊すなよ」
「鍵、鍵だけ壊すから。あ、課長、これ報告書、半分」
「おう。ああ、そろそろ所帯持てよ、お前も。んじゃ、残り半分宜しく」
「あいあい、さらばッ」
 アヤネは、一課室を走り抜け、窓から飛んで逃げる。地上二十階だ。
「あ、こらーっ」
「主任、結婚ーッ」
 ――まるで市子と同じだ。
 死んだ殺した殺された、そんな話に頭を悩ませるのではなく、まるで人間らしく、人間関係に頭を悩ませる事になりそうである。
 自由落下しながら、自身の幸福に涙する。
 自分は。
 タカナシアヤネは、人を愛しても良いのだろうか。
 美織の笑顔が脳裏を過る。
(美織――ごめん。私ね……やっぱり、幸せになりたい。貴女を失っても、どんな怪物になり果てても、心から笑えるような幸福が、欲しかったんだ)
 地面に着地する。頭上を見上げ、二人に手を振る。
 果てしない荒野に見えた地平は、思いの外様々な想いで溢れていたのかもしれない。視野狭窄に、己の前しか見えないよう、辛い想いをしないようにと、制限をかけていただけなのだろうか。
 突如広がった世界は、全てを捨てようとしたアヤネには、あまりにも広すぎる。
 しかし。許されると言うのならば。こんなにも危険極まりない存在でも、人並みの幸せを欲して良いと諭してくれるのならば、それに縋りたかった。
 終わらない悪夢を、目にしてしまった世界の深淵を、少しでも紛らわせられるなら。こんなにも酷い自分を、慕ってくれる子達を、幸せにしてあげられるのならば。
 過去と未来の恋の為に、アヤネはきっと努力出来るだろう。




 了



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