2013年5月25日土曜日

【掌編】 ある日の家呑みで

 








 姿見の前で自身を改める。
 長く、少しウェーブかかった髪。垂れ目に泣き黒子があるのが少し気になる。
 色気もない部屋着ではあるが、その主張する胸元が余計な着飾りを否定していた。袖を摘まみ、うんと頷く。これから来るのは女友達だが、久しぶりに逢うのだ、あまりだらしない姿は見せたくない。
「よしと……」
 インターホンの音に気が付き、神子田詠(みこだ よみ)は玄関に赴き扉を開ける。
「はぁい」
 予定された来客である。扉を開けると、外では機嫌の良さそうな笑みを浮かべる近藤一香(こんどう いちか)がコンビニ袋を手に提げて立っていた。
「やっほ」
「うん。いらっしゃい。寒いからあがって」
「おじゃましまーす」
 一香を家に上げ、上着を受け取る。
 セーターにジーンズという飾り気の少ない服だが、すらりとして高身長な彼女はあまり装飾品を身につけるよりも、そのままでいた方が好ましいと昔から思っていた。彼女は容姿に明るい性格もあいまり、高校時代は常に周りに女の子が居たのを記憶している。
 昔はもう少しヤンチャな空気もあったが、今は年相応の落ち着きも兼ね備えた、立派な大人の女性である。
「寒いねえ。ヨミは風邪とかひかないの?」
「少し引き摺って。あ、もう治りましたよ」
「そっかそっか。あ、炬燵」
「入ってて。準備しますから」
「はーい……おー、すごい、出鱈目だ。出来あいじゃないね?」
 一香が大げさに、炬燵のテーブルの上に並べられた小鉢等を指差して言う。
 胡瓜と蛸の和え物、鯨のベーコン盛、ゴマ豆腐、ポテトサラダ、凍み大根、カプレーゼ、鶏ささみの山葵和え、自家製ピクルス盛、豚角煮、サーモンマリネ、牡蠣のオリーブ漬け……多品目が少量ずつ盛られている。まったくもって統一感は無く、詠の頭の中にあったものを、値段問わず買いあさって作って並べただけである。
「普段なんでも気にして買い物してしまうでしょう。こういう時ぐらい、何も考えないで、好きなもの作ろうと思って」
「大体酒のつまみって辺りが何とも。でも良く作るねえ」
「一人ならこんなに作りません。貴女が来てくれるというから、嬉しくて」
「……ん。ありがたいね。あ、お酒はそれ、ぬる燗で欲しい」
「はい。でも、良いんですか、こんなに良いお酒」
 一升瓶に詰められた日本酒だ。
 ラベルには、頑張っても手に入り難い類の銘柄が書かれている。純米大吟醸、精米歩合は22%である。
 蔵元は人気が出た後も製造量を増やさず、一切の手ぬかりない作りを主張しており、販売に当たっては抽選となっている。ネットオークションで探すとなると定価一万二千の所、五万は出す羽目になるだろう。
 お酒は値段ではないが、やはりプレミアが付いている、という付加価値が気分を盛り上げて旨く感じられる。何事も楽しめれば幸いなのだ。
「いいんだよ。こうするの、久々だし。私もね、ヨミに逢えるって思って嬉しくて」
「変ですね、遠くに住んでいる訳ではないのに」
「ま、大人になると忙しいし」
 注文通り燗を付けてから一香に出し、自分は冷のままにした。他のもお酒は用意しているので、あまり焦って呑む必要も無い。
 こういうものを残しておけば、次に一香に声を掛ける為の理由にもなる。
「それじゃ、乾杯」
「はい、乾杯」
 コップに注いだ純米酒を口にする。流石万人受けするだけあって、臭みは一切なく、清涼な香りを感じる。中に旨味があり、水のようにすんなりと喉を通って行く。
 後味がまた素晴らしく、ツマミを間に入れながら呑めば、一生続けて呑んでいられるだろう。
「うわあ、私、こういう流行り物って少し馬鹿にしていたのですけれど、これは、これは」
「そうなのよ。私も少し穿って見てたんだけど、手に入るってんで、譲ってもらったの。いや、美味しいねこれ。ずーっと呑んでられそう」
 小鉢等からラップを外し、適当に箸を付けて行く。料理には自信があった。我ながら良い出来だと実感しながら、一香の様子を窺う。
「どうですか。鯨以外は大体自分で作ったんですけど」
「そりゃ鯨のベーコン自分では無理だわな……しかし本当に素人? 小料理屋かバルでもやるの?」
「趣味ですから。最近はその、食べさせてあげる人もいなくなってしまいましたから、良い機会です」
「はは。まったく馬鹿な男だ。容姿端麗、才色兼備、胸はでかくて料理も出来る。これだけの女性を手放すなんて、頭がおかしいのかと思っちゃうね」
「……一応、自覚は出来るようになったんです。当然、主張はしませんけれど」
「うーん。逆にさ、アンタが完璧すぎて、男が引くんじゃない?」
「どういうことでしょう」
「だから、まあ男ってほら、自尊心の塊な訳。アンタと並ぶと、自分の悪い所が目立っちゃって、惨めになるんじゃない?」
 胡瓜と蛸の和え物を口にしながら、ぼんやりと考える。一香の指摘通り、確かに彼は詠と比べるような物事を極端に避けていた。こういう女が隣にいるのだ、というアクセサリーに甘んじていて貰いたかったのかもしれない。だが生憎、詠はアクセサリーでも人形でもない。
 彼の別れたい、という申し出を、詠はすんなりと受け入れた。
「……ごめんなさいね。気晴らしなんかに呼びつけて」
「とんでもない。私も彼女と別れたばかりだから、丁度良いよ」
「……彼女?」
「そうだけど……どうしたの?」
 お酒に口を付け、飲み下す。確かに、一香は高校時代から女の子にモテた。しかしそれは一香がサバサバしていて、心地が良い人だったから、仲の良い友達が多いものだと思っていたのだ。
 一香も誰かと付き合っていたとは聞いていたが、まさかそれが同性であるとは思わなかった。二十三歳にして友人の性癖を初めて知り、少しくらくらとする。
「えと。お、女の子が好きだったの?」
「――……え、ええ? 気が付かなかったの?」
「ええ。仲の良い女友達が多いな、とは思っていましたけれど」
「ずっと女の子ばっかりだけど。過去五人。初めて付き合った人も、キスした人も、処女失った人も、全員女性だよ。マジで気が付かなかったの? あんなに女の子にベタベタしてたのに」
「物語の中だけだと思っていました」
 といって、詠は同性愛を扱ったコミック誌を指差す。
「ああ、フィクションは好きなのか……ふぅん。まあ、それはいいや。この通り、私今一人身でございます。毎日寂しくってさあ」
「……最近お仕事は?」
「んあ。化粧品の営業じゃない、私。私自身はそんなに化粧しないけど、若い子には受けが良くってね。成績良いんだよ」
「なるほど。私は事務ですから、日々大して変わり映えのない毎日です」
「もっといいところ行けただろうに。てか、働かなくても暮らしていけるでしょう?」
「それは、まあ。でも、やっぱり社会に出ていないと、世の中においてけぼりにされたような、疎外感があるので」
「なるほどねえ。あー……ねえ、ヨミ?」
「うん?」
「隣座って良い、隣」
「構いませんけど」
 そういって、一香が徳利と猪口を持って詠の隣に座る。彼女は余程上機嫌なのか、落ち着いていられないのか、そのまま詠に寄りかかる。
 何事だろうかと訝るというより、こんなに甘えたがりだっただろうか、という疑問の方が大きい。もしかすれば、彼女と別れて余程寂しい思いをしたのかもしれない。
 詠としては、別れた寂しさよりも、何か理不尽であったという気持ちが強い。それも当然で、詠に不手際は一切なかった。言ってしまえば、その不手際の無さが唯一の不手際だっただろう。詠は何でも一人で卒なくこなしてしまうので、男性に頼る事は少なかった。今はなんとなくそれを感じている。
「一香?」
「ヨミは柔らかいね」
「太りやすいので、あんまり好ましくはないですね」
「そこは『そうですか、もっと触ってみます?』とか誘えば、男もイッパツだと思うんだけど」
「……媚びるって難しいです」
「素直な所が可愛いんだけれど、それがなかなか男には伝わり難いかなあ」
「……あの、一香。寂しいのは解りますけれど、そんなにベタベタしなくても」
「十年」
「十年?」
「十年、アンタと一緒にいるじゃない? 最近は逢えなかったけど」
「そうですね。互いに忙しかったですし、彼氏彼女が居た訳で。彼女っていうのは、驚きましたけれど」
「アンタは美人でお金持ちの子で、頭は良くて胸はでかくて料理も出来る訳じゃない?」
「幾つか否定はしたいですけれど、客観的に見るとそう評価されるのかもしれません」
「私ずっと隣に居た訳じゃない?」
「私の一番のお友達です。一香」
「……えーと、ああそうだ、恋バナでもしよう」
 一香が唐突に姿勢を直し、徳利から直接口を付ける。いまいち一香の意図は読めないものの、勢いは欲しかったのかもしれないと察して、新しくコップを出してそちらにお酒を注ぐ。
 彼女はそれを受け取り、角煮を摘まんでから一気に喉にお酒を流し込む。
「あれは高等部一年の時かな。井崎と美海」
「はい。同じクラスの。とても仲が良かったですけれど、確か二人は……」
「うん。辞めちゃったね。実は今も連絡とっててね、二人とも幸せにしてるって」
「え、本当ですか? よかった。でも、二人は何故辞めたんでしたっけ、学校」
「両親が理解ない人でさ、女二人で付き合ってるのがけしからんって喧嘩になって、駆け落ちしたの」
「……え?」
「何も知らなかった? 今は両親とも和解して、二人でパン屋やってるんだって」
「……じょ、女性同士で、夫婦?」
「そうそう。当時から結構相談受けててさ。ああ、ほら。私当時からそんなだし。それが聞いてよ。初めて相談された時は井崎がさ、『美海さんが好きで好きで仕方ないのだけれど、彼女は何時も男の子の話してるし、告白したらドン引きされるかも』ってさあ、もう泣きじゃくりながら私に縋るもんだから、可愛くって」
「いやいや、相談相手の不幸楽しむって」
「まあまあ。で、なんとそのあとさ、私美海にも相談受けちゃって」
「ええ?」
「で、美海の方がこれまた面白くて、『ノンケ装ってるけど、もうそんな付き合いで男の話するのとかうんざり。この際カムアウトして、女の子と付き合おうかな。良い子知らない?』って言われて。なんだそりゃ面白すぎるわーと」
「それで、一香はどうしたんですか」
「当然くっつけたよ。合わせて二日目にはもうなんか、えへへ。ああもう、甘酸っぱいね?」
「ちょっと良く分からないです。具体的に二人はどうしたんですか?」
「相性良かったみたいでさ。もー、人目が無いと思ったらちゅっちゅちゅっちゅとまあ。二人で消えたなーと思ったら、空き教室でおっぱじめたりとか、凄かったよ?」
「おっぱじめるって……?」
「だから、エッチだけど」
「ごめんなさい、現実でそんなことあるんですね。漫画だけかと思ってて」
「ああ、これね。この漫画家さん大好き。女の子可愛いし、なんだか仕草がいじらしくって、良いよね?」
「ええ。単行本も何冊かあります。でも……そっか。あの二人は、そういう仲で。そう考えると、不謹慎ではありますが、両親に認められず、二人で決意して出て行く、というシチュエーションが、昔の少女雑誌の小説のお話みたいで、ロマンチックですね」
「大正とか昭和初期の話してるでしょ。まあそんな感じで、二人は出てってさ。凄く苦労したみたい」
「高校生と言っても、やはり子供ですから。大人の援助無く生きて行くには厳しい。それを乗り越えて、今二人で幸せにしているというのなら、本当に美談ですね」
「この通り、なかなか認められ難いのよね、私みたいな人間って」
 一しきり喋り終わり、一香がコップを傾ける。一香は何時の間にかぴったりと詠に寄り添っていた。
 そんな話をされた為だろうか、妙に意識してしまい、詠はスクと立ち上がると、台所から別のお酒を持ってくる。人と呑む用に用意した、これまた良い品だ。
「お、焼酎か」
「どうしますか?」
「お湯割りかな。私温かいお酒好きなの。ゆるゆる呑めるでしょう?」
「じゃあ、少し待って下さいね」
 要請を受け、詠は台所から卓上コンロと南部鉄器を持って現れる。鉄器に天然水を注いでコンロに掛け、コップは焼酎用の焼き物である。
「ず、ずいぶん酒器が整ってるね」
「お酒、好きですから。これ、焼酎用のコップです。綺麗でしょう?」
「あ、手触りも良い。焼酎自体は?」
「ちょっと良いところの芋焼酎です。昔ながらの甕での製法。芋麹に黄金千貫。芋100%です。世の中割るのは邪道なんてヒトも居ますけれど、それはシングルモルトやら熟成させたお酒の話であって、やはり日本のお酒は自分の好きなように楽しむのが正解だと思います。氷すら嫌だなんていう人もいるんですよ?」
「呑み方に理解のある人で助かります、はい」
 と、講釈をたれながら、結局詠はストレートで焼き物に注ぐ。独特の甘い香りを楽しんでから、躊躇い無く喉に流し込む。強烈なアルコールの刺激が口内と喉を焼くのがまた心地良い。
 一口で三分の一減っている。
「アンタ、酒強いよね」
「焼酎ボトル一本くらいなら、まあ」
「強いどころの話じゃないなそれ……ごく潰しって言われない?」
「言われます。会社の飲み会何かでも『神子田が力んだだけで周囲の酒が無くなる』なんて言われちゃって」
「ああ、男にフられる理由、それもあるかも」
「酷い話……と思いましたが、お酒強すぎる女性じゃ、隙もありませんしねえ……」
「私、ガンガンお酒飲んじゃう人、好きかも?」
「へえ、そうですか」
「んぐ……さて、私もお湯割り」
「作ります。少し離れてください、熱いですし」
「へいへいっと……」
 一香が不満をもらして詠から離れる。半分の割合で割って差し出すと、一香が早速口を付けた。どうやら丁度良いらしい、やんわりとした笑顔を此方に向ける。
 また他愛も無い話をしながら、つまみをいじくる。やはり焼酎には濃い味のものが丁度だ。
「黄身の味噌漬けと、豆腐の塩麹漬けも出しましょうか」
「あるの? 手間で自分で作らないんだよね」
「私も普段作りませんけれど」
「私が来るから?」
「……ええ、まあ」
「んふふ」
 気晴らし会を銘打った女子会である。兎に角品目は多い方が良いだろうと考え、思いつく限りを作ったのだ、消費してもらわねば困る。少し作りすぎたかとも思ったが、一香は食いっぷりが良く、並べられていた小鉢類は大体が空だ。
「どうですか?」
「黄身の旨味と味噌の風味がこれ、あー濃厚ー。ふとりそうー」
「それは良かった。でも、一香はスラッとしてますし、太り難いですよね」
「うん、まあ。私のこの体系っていうか、ほら、雰囲気が好きだって子もいたねえ」
「……私、本当に貴女が女性好きなんて考えもしませんでした。もしかして私の知らない所で、中学高校と、お付き合いを?」
「二人の女の子の話をしよう」
 一香がさえぎるようにしてそういうと、何故か居住まいを正す。コップにお湯と焼酎を継ぎ足しながら、チラリと詠を見た。
「その子はまあ、あんまり頭も良くないし、配慮も出来ない子だったんだけど、明るく元気で、案外顔も良かった。背が高いってのもあって、みんなのお兄さんみたいに頼られてたんだね。ま、女子校なんだけどさ」
「なんだか心当たりがありますね」
「中等部一年の時。その子は自分が男よりも女の子の方が好きだって気が付いて、ますます女の子とイチャイチャし始めたんだね。そんな折に、その子、ここではAとしよう。AはBとであった。Bは美人で何でも出来て、挙句胸が大きい」
「あー」
「Aは衝撃的だったみたい。こんな絵で描いたような子がいるのかーと。それから直ぐにAはBに声をかけた。物凄く素気なくあしらわれて、それまで積み重ねたAの自信はズタボロだったみたいだ」
「気にしてたんですね、あれ」
「負けるのも悔しくて、それから何度も声をかけたの。お昼時も放課後も、兎に角隙あらばAはBに声をかけた。『どうしてそんなに構うのですか』と言われて『アンタが気になるから』って答えたら、Bはだいぶ呆れた調子で、けれどそれ以来邪険に扱うような真似はしなかったみたい」
「他にも友達がいるだろうに、どうしてそんなに声をかけてくるのかと疑問では有りましたけれど、そんなに一生懸命されては、振り向かない訳にもいきませんし」
「はて、これはAとBの話だけれど」
「はいはい。もう。それでどうしたんですか、AとBは」
「雰囲気は違うけれど、思いの外話も合うし、休日なんかも二人で楽しく過ごすようになった。AはBに『彼氏とかいないの』『男女の付き合いは?』なんて聞くと、Bは『そういうつもりがない』『まだ遠い世界の話のよう』なんてお嬢様的な事をいうものだから、おかしくておかしくて」
「あの時は本当にそう思っていたらしいですよ、Bは」
「そしてAはBに『じゃあ私と付き合おう』って言って」
「――んんん?」
「Bは『貴方とならずっと一緒に居られる気がする』って」
「ねつ造しないでください。というか、そのAは当時からBに対して、どんな感情を持ってたんですか」
「そんなん、好きだったに決まってるじゃない。で、AとBは今も幸せに暮らしているそうです」
「……」
 たとえ話にもならない。まるっきり過去の詠と一香である。ただ一部ねつ造があるようだ。
 それはつまるところ、願望なのか。そうあって欲しかったのだろうか。一香と友人になり十年、一香は一切詠に対して恋愛感情云々を持ちだした事は無い。彼女が女性と付き合っていたとカムアウトされたのは今日が初めてであり、こんな過去の人様の恋愛を語るような機会も無かった。
 酔っているのか、二人ともフられてしまったというタイミングが被った所為か。
 詠にはいまいち、一香から突如齎された好意に対する実感が無い。
「一香?」
「あんね、ヨミ」
「え、ええ」
 お湯割りを飲み干し、コップをテーブルに置くと、一香はまっすぐ詠に顔を向ける。
 綺麗な顔だ。まず探したところで見つからない程、彼女の顔は整っている。抜かずとも切らずとも眉は良い形をしているし、目は少し切れ長で凛々しい。ほどほどに高い鼻とそこから流れるようにして咲く桃色の唇が、中性的な容姿の中でも女性を意識させた。
 そんなに見つめられると、流石に異性愛者の詠でも、ドキリとしてしまう。
「い、一香。駄目ですよ。きっと酔ってるから――」
「そうだと思う。ずっとただの友達だと思われてたし、アンタにも思わせるようにしてたから、踏ん切りがつかなかったんだ。みんなは、一香はサバサバしてて、悩みなんか無さそうだっていうかもしれないけど、そんな事ないよ。私だって悩むし、胸を痛める」
「わ、別れたばかりだから、きっと寂しいだけ。私と貴女は、友達なんです」
「お酒飲んで少し気持ち大きくしないと、本音なんて言えない」
「一香、私は、あの――」
「女性が好きだって告白して、アンタに避けられるのが怖かった。自分を押し殺してでも、私は、アンタの隣で、アンタの笑顔を見ていたかった。過去付き合った子達には申し訳ないけれど、どうあってもやっぱり、誰と付き合っても、アンタの顔が頭に浮かぶ。ヨミ、私、アンタが好き」
 言われてしまった。少女のように顔を真っ赤にした一香が、悲しそうな目をしている。
 抑えに抑えてきたのだろうか。ただの友人だとばかり思っていた、いや、思わされていた彼女がその実、好意を持ってずっと一緒にいたのだと考えると、それがどれだけ苦しかったのか想像に難くない。
「もう、みんなに嘘吐くも疲れちゃったよ。この前別れた子にも『貴女は私を見てない』って言われちゃってさ。ショックどころの話じゃなかった。全部見抜かれてた。アンタが欲しいのに、アンタの代替えを用意し続けるのは悪いし、私も疲れた」
「あっ」
 一香が詠に覆いかぶさる。潤んだ瞳がジッと詠を捉えていた。
 嘘の恋に疲れてしまった人。お酒の力でも借りなければ、本音も言えない弱い人。
 同情しよう。申し訳無く思おう。
 しかし答えては、まず、あげられない。そんな突然、友人だと思っていた人から、まして同性から告白されて受け入れられるほど、詠の許容範囲は広くないのだ。
「……ごめんなさい、一香。私、そんな覚悟、ありません」
「ここにきて、私は私に逃げ道なんて作らない。気持ち悪いと思うなら、もう避けてくれて構わない」
「そんなの、こんな状態で、ずるいと思いませんか?」
「思う。だって負けたら後がないもの」
 彼女は引けない位置に自分を追い込んでいた。追い込んでしまったのは、詠なのかもしれない。
 恋愛ごとには本当に疎く、初めての彼氏も短大を出た後、就職して職場に営業に来た人に誘われ、何となしに付き合ったのが初めてだ。
 子供でもあるまいに、なんとなくで付き合い始め、なんとなくでセックスをして、何の感情も楽しみも無く、彼はただ、付き合う時間が長くなる度に、卑屈になって行った。
 そんな面白味の無い日々の中、思い返すのは、中学高校と通った学校での思い出だ。
 友達がいて、日々何かしら面白い事があり、一香はいつも詠の機嫌取りをしていた。彼女はいつも自然に振る舞っている様子で、楽しい事を見つけては逐一詠に報告し、今日のように、当時はお酒ではなくジュースにお茶だったが、そんな風に過ごしていた。
 大人になれば自然と当たり前の恋心が芽生え、当たり前に付き合い、当たり前に結婚するものとばかり考えていたというのに、詠の目の前に現れた現実はあまりにも味気ないものであった。
 自分はずっと、恋されていたのに。好きでもない人と交わって、常識に疑問も持たず、思考も停止していたのかもしれない。
 彼と別れた後、理不尽に対する悔しさはあったが、むしろ安心感ばかり大きかった。そんな態度が付き合っている間どこかに現れており、彼を不快にしたのだろう。
 あの頃に帰りたいと、何度思っただろうか。詠はあまり、主体性がないのかもしれない。そんな自分を愛する気持ちを抑え続けた彼女は、こんな人間の何処を好きになったのだろうか。
 そして本当に自分は、近藤一香の気持ちを一切理解していなかっただろうか。
「いきなりは、答えられません」
「……、うん」
「それに、貴女が女性好きでも、私は嫌いになりません」
「生理的に無理とか、そういうのは」
「貴女以外に言われた事がないので、比較しようがありませんが、気持ち悪いとか、おかしいとか、そういう風には、全然思いませんよ。そんな、辛そうな顔、しないで、ね、一香」
「ごめんね、ずるいよね」
「うん。でも、謝る事なんて、無いと思います。貴女は明確に、人恋しい意味を知っていて、私は何も知らなかった。貴女から向けられる好意もきっと、見ない振りをしていた……ねえ、お酒、呑みましょうよ。今日呑んで、明日目を醒まして、貴女も私も冷静になって、もう一度、考えましょう。考えたいんです」
 これが今は精一杯だ。
 己の本心なんていう、何処にあるかもわからないものを即座に探しだせるほど、詠は器用ではない。
 当然友人として、一香の価値観は受け入れるし、告白されたからと嫌いになるわけが無い。彼女はずっと詠を気にかけてくれていた、詠もそれに縋っていたのだ。そして好ましくも思っている。
 ただその一線。同性を恋人として受け入れようという、人生においてなかなか存在しない分岐点を選ぶだけの胆力は無かった。
「急に、ごめんね」
「ううん。そんな事ありません。きっと、急にじゃあ、ないでしょう?」
「……うん」
 詠は酒瓶を手に取り、焼酎を注いでお湯で割る。それを一香に差し出し、小さく笑う。


 ※


「神子田さん、これの処理お願い出来るかしら」
「構いませんよ。休憩挟んで一時間待って下さい」
「ごめんね月末に。一人休んじゃうと、きついわね」
「人は体調を崩すタイミングなんてはかれませんから、仕方ありません」
「貴女ほど理解のある人間ばかりなら、もう少し生き易い世の中でしょうに」
 黙々と与えられた仕事をこなす。事務職だ、一定の物事を一定に考えてこなしていればそれで良い。単純な作業は余計な事を色々思い巡らせて自滅する事が少ない。
 ……のだが、今日ばかりは少し特別だ。
 昨日はあの後、泣きながらお酒を呑む一香に付き合い、そのまま流れで寝てしまった。朝になって起きると、彼女は既におらず、御礼のメールだけが残っていた。
「ねえ神子田さん」
「……」
「神子田さん?」
「え? はい。なんです?」
「ボーッとしてどうしたの。彼の事?」
「……彼は別れました」
「え、結構良い男だったのに。フったの?」
「良く出来る女は好みではないそうです」
「うわばからし。別れて良かったね。じゃあその悩み?」
「加藤さん、手を動かしてくださいな」
「あいあい……」
 やはり表に出てしまっている。普段このような事がない為、隣にいる加藤も相当に気に掛けている様子だ。
「――ねえ加藤さん」
「はい?」
「女性って興味あります?」
「ぶほぉっ」
 よほど衝撃的だったのか、加藤が口に含んだお茶を吹きだす。詠はすかさずハンカチを差し出して、机の用紙に被害が出る前にさっさと拭く。
「あ、あんがと。ええと。女性?」
「……長い間友人だと思っていた子に、告白されてしまって」
「うわあ……悩みそれかあ……あ、そろそろ休憩。ご飯どこで食べる?」
「近くの喫茶店で、軽いものを」
「じゃそれで。事務休憩はいりますねー、処理するもの溜めこまないでさっさと出してくださいねー、はいおっけい、いこっか、神子田さん」
 同期の加藤はおかしな常識には捉われず、自分の判断に強い自信を持っているタイプの人間だ。たまに空気は読めないが、即断即決の彼女は他の部署からも慕われている。
 加藤に引きずられるようにして近くの喫茶店に入り、玉子サンドとコーヒーを注文する。一番奥の席に腰かけると、老人宜しく加藤が肩を自分の手で揉む。
「いやまったく。集計溜めこまれるとこっちが堪らないよ」
「今月は皆忙しそうでしたし、こんな月もあるでしょう」
「大らかな事で。えーと、それで。なんだっけ。そうだ、女の子」
「ええ」
 ハムサンドを齧りながら、加藤が中空を見上げている。
「んあー。初めての相談じゃないよね。何度かある。というかほら、私こんなだし。女の子にも人気あってね?」
「解ります。頼れますからね」
「えっへへ。でしょう。加藤さん凄く頼れるからね。まあなんだろ、別に同性同士の恋人について、何かしら疑問があるとか、おかしいと思うとか、そういうのは、ない。たださ」
「ただ?」
「学生時分はいいさ。恋に恋する乙女の勘違いなんて良く有る。初体験が女性なのに、今は男性と付き合ってるって子も、知りあいに居るよ。『あれは錯覚だった』って、遠く見ながら言われた日には、心なんてものの曖昧さを思い知らされるね」
「加藤さんはどうなんですか?」
「私? 私より出来る男がいたら考えようかな。年収の話じゃなく、私が認めるか否かだけど」
「それが例えば、男ではなくて女だったら?」
「んー。私ノンケだしね。とはいえそうだな、学生だったら有り得たかも。だからね、私達もうさ、慣れ合いでお楽しみ出来る立場じゃないんだよ。もう大人になっちゃった。女性好きなら好きで良いけど、今後考えると大変だよって事。夢も希望もない意見だけど、現実は厳しい。貴女はその告白した子、好きなの?」
「長い間、彼女に否定感を覚えた事は、一度も。告白された今だって……前の彼と付き合っていた頃だって、覚えにないほど、ドキドキして」
「……えっと」
「いつも彼女が隣にして、最近は仕事もあってあまり会えなくて、久々にお家に来てくれるっていうから、凄く楽しみにしてて、彼女が来てくれて、私嬉しくって。ハッキリとした言葉が出てこないのですけれど、つまるところ、愛しいって思う気持ちが『コレ』なのかどうなのか、解らなくて」
「いやそれたぶん好きだと思うんだけど」
「……や、やっぱり……」
「今後の事とか考えてるの?」
「違うと思います。そんなの、たぶんどうとでもなる」
「あ、そこが論点じゃないのね。じゃあまあ、一回付き合ってみたら? 友人としての目線から、恋人としての目線にシフトさせて、そこでまた考えれば良いんじゃないかな。こういっちゃなんだけど、女同士なら子供出来ないし、余計な後腐れ出来ないでしょ。で、その子良い子なの?」
 言われ、詠は携帯に収められた写真を提示する。
 加藤は口をあんぐりと開けて口の端からハムサンドをこぼした。詠は咄嗟に二枚目のハンカチを取り出して差し出す。
「あ、あんがと。う、うわあ……」
「どうしましたか?」
「か、可愛い。ちょっと悪ガキっぽくて、でも大人で、女性だ。ええ、こんなのと十年も過ごしてて、貴女何とも思わなかったの?」
「恋愛って良く分からなくて。しかも女性ですし」
「そうだった。でもこれに迫られたら、私も考えちゃうかもな……」
「凄くモテるんです。学生時代も沢山周りに女の子がいました」
「そりゃそうだろうね。で、そんな彼女はずっと貴女だけ見てた訳か。はー、こりゃたまらんね、ノロケと一緒だ。私取り合わないぞ、そんな話。勝手に幸せになって頂戴よ」
「え、そんな事言わないでくださいよ」
「何処の馬の骨かと思って構えてて、芸術品を提示されたら、あんた莫迦にしてんの、とも思うでしょ」
「……むう」
「なに膨れてんの。可愛い奴ね。イケメン女子で貴女の事大好きで互いの事知りつくしてて、もうそれでも嫌だってんなら何も言わないよ。機会を棒に振って満足するなり後悔するなり、すれば良い。悪いね、直感的な人生しか歩んでなくて」
「そんな。加藤さんのそういうところ、私は好きです」
「ぶふっ。ちょっとちょっと。もう。ああ、これかなあ。こういうのにその子もやられたのかなあ」
「はい?」
「いいの気にしないで。兎に角さ、自分の気持ち伝えてみなよ。知らない仲じゃないんだ。その子だって汲み取ってくれる。女は男より種類が多い。恋のカタチだってまた沢山あるだろうさ」
「……はい。有難うございます」
「いーえ。ああもう。ごちそーさま。まったく……」
 やれやれ、といった様子で加藤はパッパと自分のトレイを片づけて行ってしまう。
 なんともハッキリとした物言いは、素直な詠にも真似できない。
 彼女のいうように、今後社会的な地位云々についての心配はない。恋人同士がどのようなものなのか、明確なヴィジョンが無い事、好きとはどういったものを指すのかという事、ただそれだけが、詠にとっては疑問なのだ。
 携帯で撮られた一香の写真を眺める。
 この小さな唇から、アンタが好きだと囁かれたのだ。
(……ああ、これ)
 昨夜の事を思い出すと、動悸が激しくなる。今まで対比する対照がなかったのだ。
 前の彼にそんな事を言われても、胸の内から温かくなるような気持ちはなかった。
 眼が泳いだり、胸が高鳴ったり、手に汗をかいたりはしなかった。
 彼とのキスだってなんとなくでしていただけだ。
 それを一香にされたら、どうなるだろうかと考える。
(ど、どうしよう)
 意識が。すっかりと一香に向いたまま動かなくなる。加藤のお陰であるし、加藤の所為だ。
 トレイを片づけ、喫茶店の外に出る。握ったままの携帯電話から加藤に電話を掛ける。
「も、もしもし。加藤さん」
「なな、なんだどうしたの。急用?」
「わ、私、一香のこと、す、好きかも」
「だははは! なんだそれ!!」
 結局その日は仕事も手に付かず、加藤に笑われっぱなしであった。


 ※


 しかしさて、どうしたものかと考える。
 あの日は結局別れの挨拶も無しに彼女は仕事に出てしまったし、そのあとメールを一通入れただけで、電話もしていない。
 一香用に作りすぎた惣菜類を消費しながら、テレビをぼーっと眺める。有名俳優が婚約したのだという。相手は一般女性で、贔屓目に見ても美しいとは言えない容姿なのだが、俳優はとても幸せそうにしていた。
 人と恋する理由は様々だ。そもそも、愛も恋もなくとも、恋人と名乗る事だってある。
 それが自分だ。
 携帯がメールの着信を知らせる。手に取ると、前の彼からの物だった。
 アドレスと番号を変える、なんて手間を取るのも面倒くさいぐらい、彼という存在はどうでもよかったのかもしれない。
『一度話がしたい』
 呆れた。この人は何を言っているのだろうと、詠は眉を顰める。お前とは合わないとのたまい、舌の根も乾かぬうちに空虚な愛の言葉でも囁くつもりか。
 しかし一度は付き合った仲だ。余程しつこくない限りは、あまり惨めな想いをさせたくはない。
 勘弁して下さい。終わった話を蒸し返さないで。
 そのように返信すると、二分もしない間に返信が来た。
『やっぱり君が一番だ』
 神子田詠は、敵意をやすやすと人に向けるような人間ではない。しかしこれは頭に来た。
 だがどうしてやろう。物事は荒立てたくない。アドレスや番号を変えても、あちらが家に来てはどうしようもない。引っ越す手間を掛けてやるほど、重要な相手でもない。
 想いを巡らせ、視線を泳がせていると、部屋の影にある一升瓶が目にとまった。
 なるほど、と頷く。
 携帯を弄り、一香に電話をする。彼のお陰で、改めて彼女を呼ぶ理由が見つかった。
「もしもし」
『ん。ヨミ。どうしたの?』
「貴女に貰った良いお酒、まだ消費してません」
『んあ……え、と。う、うん。ど、どうしよっか?』
「消費しに来てください。今すぐ。今すぐです」
『ヨミ?』
「これからどんな用事があろうとも、人生が左右される物事が控えていようとも、今日ばかりは私、配慮しません。どうでもいいです。消費しに来てください」
『……ないよ。なんもない。今行くから、そんな涙声で、言わないでよ』
「……ごめんなさい」
 素直ではあるが、ちゃんと相手の意図は汲み取り、他人様の邪魔になるような行いは慎んできた。みんなは神子田詠を、女性の理想のように語っていたのを、思い出す。
 だが、そんなものは、殊感情が一番優先される物事において、無駄でしかないのだ。詠は産まれて初めて、相手に配慮しなかった。冷静でいるつもりで、相当に焦っている。こうしている間にも、もしかすれば、一香にも寄りを戻そうという連絡が来て、一香が遠くに行ってしまうかもしれない。
 それを考えると、どうしようもないほど心がざわついた。今の今まで、一香がどこで何をしていようと、気にも留めなかったというのに、これはワガママだ。
 しかし、そんなものなのかもしれない。
 一度意識してしまうと――恋心というのは、抑えの利かないものなのだろう。
 それから三十分程だろうか。そわそわしながら待っていると、インターホンが鳴る。
 来てくれた。詠は一瞬心が明るくなるも、立ち上がって一度躊躇う。
 まさか、彼ではあるまいか。
 ドアスコープから覗き見る。胸を撫で下ろした。
「一香」
「や。どしたの、ヨミ」
「あがって」
 一香を部屋にあげ、無言で座卓の前に腰を下ろす。どう切り出すべきか解らず、詠は自分の携帯メールを一香に見せた。
「うわ、面倒くさそう」
「困っちゃって」
「より戻す気なんて……」
「ありません。もうどうでもよくって」
「……そっか。もしかして、怖くなって呼んだ?」
「違います」
 一升瓶を引きずり出し、二人分のコップに注いで一香に渡す。
 正直な話、思い切った事はアルコールを入れた方が喋り易くはあるのだが、生憎神子田詠はザルだ。日本酒一杯で気持ち良くなれるほど経済的には出来ていない。
「ああ、やっぱいいお酒。大人になって良かったって思えるね。じゃなきゃ、大っぴらにお酒美味しいなんて言えないし」
「……味なんてどうでもよくて、取り敢えず酔えれば良いっていう時代がありました。日本酒苦手だって人も考慮して、商業主義が優先し、醸造アルコールを混ぜたものや、そもそも日本酒と名乗るのもおこがましいような商品が横行して、逆にその味が嫌だと、日本酒離れの原因になったりもしたみたいです。勿論悪いとは言いません。それで納得する人がいます。作り手も、呑む側も」
「……まあ、そうだね」
「でも、本当に素敵なものに出会うと、その味が忘れられなくなります。これが美味しいお酒だって、純粋なものだって。少し質が悪いものでも、楽しめる人に対して水を差すなんて真似はしたくありません。強要する気もない。傲慢です。でも個人の趣向で行けばやはり、私は純粋なものが良い。混ぜ物が無くて、余計な気を取られる必要も無く、心から好きだと言えるものが良い」
「そっか。我慢、してたかな」
「素直だって。良く言われました。でもそんな素直さだって、皆に嫌われない程度の、配慮した素直さです。私はもっとワガママで、面倒くさい女です。自分の本心が、本当はどこにあるのか知っていながら、自分の人生にすら価値感にすら、配慮していました。ねえ、一香」
「……うん」
「わたしたぶん、貴女が凄く好きです。貴女と一緒に居る時が一番楽しい。貴女に褒められるのが一番嬉しい。貴女に見て貰えているのが一番幸福です。それが当たり前になっていて、貴女の気持ちに気が付かないようにしていた。その結果がこれです。大して好きでも無い人と付き合って、初めてもあげて、楽しむ事も無く、誇る事も無く、笑える事も無く、何も無く別れて、その人がまた、私を見ようとしてる」
 神子田詠という、勘違いしたまま大人になってしまった女性の本心がここにあった。
 周りへの配慮、自身を生き易くする為の処世術は、確かに必要だ。だが物事において重要なのはそれだけではない。偽り続ける事によって生まれる不快感や無意味さすら許容して生きるなど、自身の存在意義に関わる。
 詠は今、その意味と向き合っていた。
 自身を一番自身として認めてくれる人と向き合っているのだ。
「ヨミ」
「はい」
「嬉しい。凄く」
「――はい」
「私も――もう、嘘とか吐かなくていいんだね。心から愛してる人でもないのに、愛を囁いたり、キスしたり、アンタへの気持ちとか感情とか押し込めて、苦い顔したり、する必要、ないんだよね」
「私も、良いんですか。こんな鈍感で馬鹿な女でも、貴女みたいな人に、見て貰って」
 一香は詠の隣に腰かけると、その手を取る。
 距離が近い。今まで意識する事もなかった彼女は現在において、導火線に火のついた爆弾のようなものにしか見えなかった。しかしきっとそれが爆発して被る痛みは、甘い痛みである。
「私ね、美味しいものが好き。アンタが作るような料理とか、アンタとか」
「私もです。たぶん、面食いですし。育ちの所為で、高級品しかしらない」
「……養うの、大変そうな子」
「駄目です。責任、取ってください」
「――うん。まかせて」
 機会とは思いの外唐突にやってくる。それは常にあったものかもしれない。機会はあっても、気がつかなかったり、気がつかない振りをして見過ごしたり、当時の価値観では理解出来ないものであったりと、様々だ。
 お酒も同じようなもので、その日突然美味しく思えたりする日がやってくる。今まで毛嫌いしていたアルコールが、とあるタイミングで面白く感じられるのだ。
 一香の手が、詠の胸に触れる。軽く揉みしだかれるだけで、今まで知らなかったしびれるような感覚があった。綺麗な顔が迫る。桃色の小さな唇が、詠の深い呼吸を塞いで止める。
 ……女性の唇というものが、これほど柔らかく甘いものであったとは知らず、衝撃に身悶えする。
「……写真撮ろう」
「ふぅ……ん……あ、な、なんです?」
 そういって一香は詠の携帯を手に取る。何事かと思うと、また詠に唇を合わせて写真を撮り始めた。
「送りつけてやるの。ああ、私の前の彼女もしつこくってね。私の携帯でもう一枚撮ろう」
「は、はずかし……んっ……ぅん……」
「んふ。可愛い。あの頃に戻ったみたい。アンタは綺麗で可愛くて、ずっと憧れだった。嫌われたくなかった。好き。好きだよ、ヨミ」
「あ、う、嬉しい。な、なんでしょうこれ。頭の奥から、熱が出て、胸が、張り裂けてしまいそうで、全身が、敏感で、はあ……ああ、うそ……」
「調子よさそう。こんなになるの、初めて?」
「――はい……」
「じゃあまかせて。女の子いじくるの、私、得意だから――」
 何か初めて、自身で最も正しい選択肢を選べた、そのような気がするのだ。
 紅い実を啄ばむ小鳥のように、何度も降り注ぐ一香のキスを受けて、身体の芯から融けてしまいそうだった。
「誰にも、渡さないから、ヨミ」
 抱きしめられる。小さく頷く。
 このヒトが好きなのだと、強く実感するには、あまりにも十分だった。
 心の底から湧きあがるような幸福を、一生噛みしめていたいと願うのはワガママだろうか。
「一香」
 一香に吸いつく。彼女が微笑む。
 そうだ。願っていては仕方が無い。
 彼女から受ける好意はまるで上等なお酒の如く甘美で麗しいが、この現実、この想いが、決して酔夢では終わらぬよう、努力して行かねばならない。
 近藤一香が見続けた恋の夢は、神子田詠にとって、始まったばかりの恋なのだ。
 ……――とは、いえ。子供でもないので、何時までも恋に興じている訳にもいかない。
 詠は色々な意味で興奮していた。
「……式、いつにします?」
「え?」
「そうだ、おじい様に知らせないと。おじい様は心が広い方ですから、女性が旦那さまでも受け入れてくれるはずです。お家はどうします? 私、郊外の一軒家で、猫を飼って暮らしたいです。あ、子供……子供は……ううぅ……一香、子供が欲しいです」
「ん?」
「でも、私子供が欲しいからって男に浮気したりしません。そうだ、一香、うちのグループの会社で働きませんか? 縁故採用なんてーって思うならやめておきますけれど。あ、私、専業主婦やってみたいな……」
「ヨミさん?」
「嗚呼――夢が広がりますね、一香ッ」
「は、はい」
「幸せになりましょうね?」
「――うん。もちろん」
 一香は、呆れたように笑ってから、力強く頷いてくれた。


 了




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