2013年4月12日金曜日

心象楽園/School Lore プロットストーリー4 前編


 

 プロットエピソード4/心象楽園/構造少女群像 前編



 1、欅澤杜花

 ……。

 杜花は、その美しい素肌に手を伸ばした。きめ細やかで白い肌を、何度となく蹂躙した記憶が脳裏をよぎり、無意識に生唾を飲み込む。
 何かとても、七星市子に触れるのが、久しぶりのような気がしてならない。
 そんな筈はないのに。彼女はもう『一か月半前から』顔を出している。突然実家の用事で遠方に赴く事になってしまった市子を、杜花は待ちわびた。
 恋しく、虚しく、切ない時間は、欅澤杜花に年相応の恋慕を抱かせただろう。
 あと数センチ。手を伸ばせばそこに、無上の悦びが控えている。
 愛しい人に触れられた市子は、顔を桃色に染め、杜花の手腕でもってして、向こう側に導かれる。
 そもそも、市子以外と肉体関係を持たなかった杜花は、自分の技術がどれほどであるかなど、知る由もなかった。だというのに……それは……
 ……。
 それは、そうだ。
 そう、満田早紀絵と、天原アリスによって、どれほどのものであるか実証された。
 杜花には、女性の何処が心地良いのか、その時どのような言葉を掛けて貰いたいのか、どう焦らし、どう責めて貰いたいのか、手に取るように解る。
 本来は市子で培ったものだ。
 市子専用の自分にはそれで十分だったのだが、自分の人間関係が混み合って来ると、その威力は他人にもまた遺憾なく発揮された。
 冗談のような話だが、満田早紀絵は処女であった。
 女性は心の生き物であり、外部刺激が快感に対して副次的なものである場合も少なくはないが、早紀絵場合は、たび重なる多人数との性行為による刺激の快感への慣れと、杜花に対する猛烈な恋慕があっただろう。そこに加えて、杜花の手腕だ。満田早紀絵にして『頭がどうにかなりそうだった』と言わしめた。
 変わって天原アリスもまた処女だったが、早紀絵と違い行為どころか耳すら若い始末だ。
 生来の感度の良さ、未知への好奇心、杜花への恋心と、複合的な理由もあっただろうが……だとしても、未経験の処女に絶頂地獄を味わわせる欅澤杜花の技術とその腐りかけた性根は、怪物と呼ばれるに相応しい。
 つまるところ、欅澤杜花は女性を狂わせるように出来ている。
 七星市子が、杜花を誰にも渡したくないと喚いたのも、当然そこに理由がある。
 心と身体、双方に依存しきった杜花と市子にとって、肌を合わせ、体液を交換する事は、通常の性行為以上の意味合いがある。
 その筈だ。
(……――)
 だが。
 杜花は、伸ばしたその手をゆっくりと引き、市子の寝顔にキスをする。
「――杜花……その……しない、の?」
 起きていたらしく、ほんの少しだけ顔を杜花に向け、恥ずかしそうに言う。
 虐めたい。
 無茶苦茶にしたい。
 そんな強い気持ちはあるものの……どうしても、何故か、それ以上、杜花の手が市子に触れる事はなかった。
「……今日は、やめましょう。市子は、疲れやすいですし。明日も、授業がありますから」
「――そう、ね。おやすみ、杜花。愛しているわ」
「お休み、市子。この世で一番、愛しています」
 ならば、手を出せばいいのだ。
 それが日常であった筈なのに。
 ……。
 どうしてだろうか。
 ……。
 何故だろうか。

 ……どうして、欅澤杜花は、こんなにも悲しく、涙を流しているのだろうか。

 ……。



 学院中が雪で覆われている。
 窓から遠くを見やれば、白樺の枝の合間から麓の観神山市街が見え隠れする。大した標高ではないが、学院は市街とは違い、積雪量は異なるらしく、この時期になると持ち回りで雪かきなどの仕事も増える。杜花には丁度良い運動だが、お嬢様方にはなかなか堪えるものがあるだろう。
 冬休みを終え、新学期が始まり、もう二週間がたった。
 自己責任、自己率先、当番労働、規律に規範に暗黙の了解。
 さまざまと少女達を戒めるものはあるのだが、この学校は檻ではなく、箱庭だ。小規模の社会が更に小さな世界を形成し、皆がそれを好しとしている。
 将来社会の荒波にもまれ、幾多の試練を乗り越えねばならない、大企業の跡取り達にとって、守るべき最初にして最後の楽園であるからだろう。
 杜花は文庫本を畳み、顔を上げる。
 サロンの窓際にはいつものメンツが居た。
 正面に座るアリスは紅茶を啜り、右手の椅子では早紀絵がメモ帳に書きこみをし、左手の椅子では、火乃子と歌那多が戯れている。
「杜花様、どうしました?」
「空が薄暗くて」
「ま、冬ですものね。この時期からは底から冷えるようですわ」
「ここ、空調も床暖房も古いですから、仕方ありませんね。改善要求、どこに出せばいいんでしょうか」
「班長会での多数決を経て、指導教員を通し、教頭へですわね。提案として加えておきますわ。寒いですし」
 そもそもサロンに至っては、未だ薪ストーブというありさまだ。2068年の今、これほどアナログな場所はなかなか無い。
「モリカ、今日暇?」
「何かありましたか?」
「ちょいと、図書館に用事があるんだけれど、放課後どうかな」
「構いませんよ」
「くふふっ」
 早紀絵が屈託なく笑う。
 何でも無い事で、これほど綺麗に笑えるのは才能だろうと、杜花は素直に頷く。
 正面のアリスを見ても、隣の火乃子、歌那多を見ても、この卓は本当に、綺麗どころが集まったものだと感心する。浮気が出ても仕方ないとすら思えてくる。
 流石に火乃子と歌那多は婚約が決まってしまっているので、手など出せないが、アリスと早紀絵については、冬休み
 ……。
 あんな事があった。
 まさか二人かがりで来るとは、杜花も予想だにしていなかっただけに、一緒についてきた彼女もあきれ顔であった。嫉妬に狂って襲いかかって来るのではないかとすら思っていたが、彼女は思いの外寛容だった。
 ただ、勿論、杜花の愛人、という立場に甘んじさせられてしまうのは、七星が相手では仕方ないと、二人も諦めている様子である。
「あ、市子様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、市子先輩」
「ごきげんよ。あ、杜花! 行くのが早いわ。もう少し落ち着けないのかしら?」
 俄かにサロンがざわめく
 ……。
「――ああ、ごめんなさい、御姉様」
 市子が頬を膨らませてやってくる。
 どういうわけか、外から通っていた彼女が無理矢理杜花の部屋に居座る事になったのが、一か月半前だったか。
 同時期にメイドである筈の兼谷も、何故か指導教員という立場で白萩の管理を任せられている。とうとう白萩は七星に乗っ取られたのだというのは、早紀絵談である。
「市子先輩。もうモリカさ、貴女だけのものじゃないんだから、私達にも分配しなさいよ」
「さ、早紀絵。御姉様にそんな事言うものじゃありませんわ」
「二人とも、あんまり大きな声で……」
「良いのよ、杜花。どうせみんな知ってるのだから。ねえ、火乃子、歌那多」
 市子に話を振られた火乃子が、少し恥ずかしそうにして頷く。歌那多は笑顔で頷いた。
「四人は仲良しそうで良いですね! 火乃子、私達ももっといちゃいちゃしましょうっ」
「い、いや、そういうのは人前ではその。ああ、歌那多可愛い」
「火乃子も可愛いです!」
 唐突の惚気が始まる。この二人の仲の良さは、もう留まるところを知らないらしい。
 火乃子が歌那多の元婚約者である烏丸に喧嘩を売ったとは聞いていたが、冬休みの間に三ノ宮と末堂が早速結納の日取りも決めてしまったという。
 籍は卒業後に入れるらしく、しかも子供は二人で作るという。人の事も言えないが、カノカナの近くにいると甘ったるくて仕方が無い。
「だから、杜花、私達も籍入れてしまいましょう?」
「そういうのは卒業した後で良いでしょう。というかだからその話……ほらあ」
 耳聡い周囲の眼が此方に向く。市子はもう既に自重する気はないらしい。
 ……。
 ここ一年、悲しい事に市子は家の事情で学院には通学出来ていなかった。
 一か月半前何の連絡も無く現れ、泣くほど喜んだのは言うまでも無い。
 ただ、彼女が帰ってくるまでの間に、アリスと早紀絵の圧倒的なアピールがあった為、市子も溜息を吐かざるを得ない状況になっていた。
 当然市子もこの二人を信頼しているし、好いてもいる。
 恐らくは円満に進むだろう、という楽観的な意見が、四人の中にはあった。
「市子様、杜花様、その、ご、ご結婚なさいますの?」
「ほんの少し先よ、卜部さん」
「まあ、わかってた」
「綾音さんはどうするんですか?」
「ん。冬休み中に向こう様の家に行ってきたよ。良い人だった。まだ少し時間があるから、ちゃんと見定めるよ」
 既に婚約もしている筈の鷹無綾音だが、両家は綾音に対してだいぶ寛大らしく、彼女の判断を待っているらしい。鷹無も名家であるので、相手方も大きく出れないのだろう。
「もう、未来を見る時期ですものね。ああ、杜花、新婚旅行、何処が良い?」
「国内でって、ああもう……」
「ふふふっ。杜花可愛いっ」
 市子が杜花に抱きつく。
 彼女の制服に入っている学年判別のラインは白。
 彼女は留年という形になり、去年に引き続き二年生、つまり杜花達と同じ学年という事になる。四月には同時期に進級し、まるまる一年、余計に彼女と学院で暮らせる事になるのだ。
 他の子達ならば問題かもしれないが、七星の跡取りともなると、諸事情での留年などというものは、なんのマイナスにもならない。そもそも縁故採用だ。
 故に杜花達も気兼ねない。むしろ、これから楽しみが増えるのだと思うと、胸が熱くなった。
「市子せんぱ……市子で良いか、同じ学年だし」
「いいわ、早紀絵。そうだ、今年から貴女も妹にならない?」
「え、あ、いいや。それは結構ですはい」
「あら、早紀絵もなれば良いのに。ねえ、杜花様」
「プライドがあるんじゃないでしょうか」
 早紀絵が珍しくうろたえる。色々と考えはあるだろうが、長年杜花の後ろをくっ付いて来たという、下っ端根性的なものがあるのかもしれない。
 それに、彼女は実質『御姉様(闇)』である。
 彼女が市子の妹になったとなれば、早紀絵を慕っている恋人達が五月蠅いだろう。
「火乃子はどうなのかしら。杜花の妹になったりはしないの? ああ、でも、火乃子は歌那多がいるものね?」
「実はそれについてなんですが……」
 杜花が寮に戻ってきたのは一月の五日頃であった。
 ずっと寮と実家を行き来していたらしい火乃子なのだが、見かける度に垢ぬけた様子が見て取れるようになった。
 歌那多と仲良くやっている所為もあるだろうが、如何にも眼鏡で真面目そう、という空気から脱却している。
 眼鏡をかけているのは変わりないが、前と違って伊達だ。黒縁ではあるものの、前よりもレンズの小さいお洒落なものになっている。
 制服も野暮ったさが無くなり、身体にフィットするサイズを新調したらしく、スカートも校則範囲内で少し短くなった。
 きっちり揃ったショートボブだった髪型は、シャギーが入って前よりもハツラツとした雰囲気に見える。
 彼女はすっかり女の人になっていた。
「……ええと、歌那多」
「困ってしまったんです! 火乃子ったら、お洒落するのは良いんですけれど、明るく見えるようになってから他の子達の観る眼も変わったみたいで! 休み明けに二件です! 中等部と同級生から!」
「ええとつまり、妹的立場だと思っていたら妹宣言されたと、そうですか、火乃子」
「歌那多がヤキモチやいちゃって仕方ないです」
「火乃子には歌那多がいるので、妹なんて取らなくて良いですからね、ね?」
「でも、面白そうだし。市子様のように振る舞えるかは別にして」
 あははと、皆が笑う。
 心通わせる人が出来るという事は、こういう事なのだなと、杜花はなんとなく考える。きっと彼女の心には世界の広がりが観えたのだろう。
 小規模の中の小規模ではあるが、これから三ノ宮の跡取りとして振る舞って行くには、小さなコミュニティにおける立ち回りを学ぶ必要もあるだろう。
「市子御姉様なんて誰も真似出来ませんよ。火乃子が気負う必要はありません。歌那多さんも、良いお嫁さんになりたかったら、ご主人様の脚を引っ張ったりしてはいけませんよ。度量に器量に要領に、ヒトを支えて行く事で学べるモンはあるはずです」
「あうー。火乃子、他の人とちゅーしたりしませんか?」
「しないしない。歌那多可愛い」
「火乃子も可愛いです!」
 アリスと早紀絵が少しだけ気まずそうな顔をする。
 横から取りに行った立場上、二人の純粋な笑顔が心に刺さるのだろう。
 市子を見ると、直ぐに目が合った。彼女は悪戯っぽく笑う。
「そうだわ、杜花。放課後はお暇?」
「生憎先約が先ほど入りました」
「――あら、どっちかしら……早紀絵ね?」
「なな、何。市子、いいじゃんいいじゃん。ちょっと図書館付き合ってもらうんだもん」
「ちなみに早紀絵、今日の図書室当番は織田さんですわ」
「うぐ。そ、そっか、楓かあ。あの子も結構やきもちやくしな……って、いや別にぃ? モリカと変な事する訳じゃないしぃ?」
「しないの? じゃあ早紀絵の用事は後でいいかもしれないわね、杜花。私の用事が……」
「あー。あー。御姉様、杜花様、早紀絵、実は杜花様、私と用事がありますの。今決まりましたわ。杜花様、雪中展示会について少し生徒会に意見いただきたいのですけれど、放課後はお暇?」
「え、えー……」
 市子と早紀絵とアリスの視線が迫る。
 酷く選択に困るが、何故か酷く幸福に思えた。
 どうしたものかと考え、悪い思考が働き、アリスに目をやる。
「そうでした。アリス、お手伝いしますよ」
「まあ、有難うございますわ。えへへ……」
「も、杜花?」
「モリカぁ……」
「あ、そろそろ時間です」
 サロンの柱時計を指差す。
 こんなに可愛らしい子達を……さて、どう出来るのかと考えると、杜花の悪い病気がうずいて仕方が無い。
 市子には悪いが、その悪さがまた、心地良かった。
 ああ、自分はなんて屑なのだろうと卑下しつつも、薄暗い笑みが止まらない。
 予鈴に合わせて上手く逃げた……と思ったが、残念ながら全員同じクラスである。
 市子、杜花、アリス、早紀絵の四人が並んで歩くと、第二校舎に赴くまでにとにかく声を掛けられる。インパクトが違うのだろう。
 見慣れた光景が戻った事で、市子が席を外していた間にあった空虚さが、一気に満ちて行くように思える。
 そんな賑わいの中、校舎の入り口に辿り着くと、辺りを見回して誰か探す数人がいる。居友派である。
 尊大そうな態度をとる居友だが、実質的な関係性を把握する杜花からすると、なかなかに滑稽だ。
「あら、居友さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう七星さん。休み明けから完全復帰と聞いて、顔を出したの。戻ってきてくださらなくても良かったのに、七星さんもお忙しいでしょう?」
「うふふ。またまた、居友さんったら。私が居ない間、寂しかったんじゃないかしら?」
 居友は口の端を吊りあげて『それはどう返したらいいのか』と迷ったあげく、槐に助けを求めた。
 槐は暫く空を見上げたあと、市子に笑いかける。笑いかけただけだった。
 ……。
「あ、ぐ。ええと、その。ま、まあ。張り合いが無かったってのは確かです。杜花さんじゃ、御姉様としては役者不足でしたわ。ちゃんと後継を育てませんと」
「生憎、今年から彼女達の同級生なの。まだ一年あるのよ。楽しみにしていて、居友さん」
 ……。
 彼女の居なかった一年間を思い出す。
 市子という巨星が一時的にも不在となった為、その次代と目されていた杜花が立場を肩代わりしていた。
 杜花の人気は誰もが知るところであるが、圧倒的人気のある市子の存在が薄まった所を、杜花目当てでやってくる生徒もだいぶと増えていた。流石に妹こそ取らなかったものの、愛人は二人程増えてしまっている。
 杜花はチラリと後ろの早紀絵とアリスを見る。彼女達は何だか嬉しそうだ。
「ま、まあ。せいぜいがんばってくださいな。那美、行きますわよ」
「はい。七星さん、また宜しくお願いしますね」
「ええ、また」 
 一か月と少し前から復帰はしているが、授業を再開したのは冬休み明けだ。市子の完全復帰に際して、居友からの歓迎のご挨拶だろう。
 反市子の立場を繕ってはいるが、居友は市子と二人きりになると、とても仲良くなるので、人の事を言えた義理ではないが、杜花からすれば嫉妬する対象となる。
 ……。
「居友さんは落ち込んでいましたよ。市子御姉様が居ないと寂しいみたいで」
「御樹ったら、可愛いんだから」
「そうですね、かわいいですね」
「あ、杜花、何その顔。ちょっと可愛い。ふふふっ」
 市子にからかわれ、杜花が膨れる。
 なんだか理不尽に思えたので、市子から離れ、後ろの二人と手を繋ぐ。
 市子は素知らぬふりをしているらしいが、杜花には彼女が気が気でない事が直ぐ解り、ほくそ笑んだ。
(あ、市子御姉様すっごい嫉妬してますわね)
(なんかちょっとプルプル震えて無い?)
(カウンターを決めるには丁度良い程度でしょう)
 やがて、教室近くまで来たところで、市子が振り返る。
「杜花、もう一本手を生やして。繋げないわ」
「そんな無茶な」
 謎のワガママを言う市子を無視して教室に入る。
 既に登校していた生徒達が此方を振り向いた。少しだけ眼を見開いている。なんだか挨拶もぎこちない。何事かと思ったが、そうだ、二人と手を離すのを忘れていた。
「おっと。いえいえ、これはですね、後藤田さん」
「くひゅる……けほっ、けほっ。も、も、杜花様って、す、すごいんですね」
「いやあの。あ、田井中さんもそんなに凝視しなくても」
「……いいの。欅澤さんは……後藤田、あとで構想練り直そう」
「うん、くふふ、うん」
 後藤田と田井中は二人で頷きあい、ノートに名前の頭文字を掛け算し始めた。
『杜×早』などだ。
 早紀絵とアリスはそれを見ても首をかしげるばかりで、直ぐ興味を失ってしまったようだが、杜花と市子はその暗号が何なのか解り、二人で顔を見合わせたあと、見なかった事にして自分の席に着く。
 今日は全学院集会が予定されている。
 今日はホームルームを幾つかやって、大講堂で学院長の話を聞けば放課後である。
 十二月から二月にかけて、忙しいのは受験を控えた生徒だが、そもそもこの学院というブランドは大きく、受験勉強に汗水たらす生徒が少ない。
 殆どは夏から秋にかけて、進路(もしくは結婚)など既に決まっているので、学院の冬は緩やかだ。
 そもそもが『テスト前勉強など普段頑張っていない人間の怠惰の現れ』というありさまであるからして、必死な顔で勉強する様はスマートではないとされる。
 とはいえ、詰め込んで勉強する生徒が居ない訳でもないので、そういった人々は詰め込んでいながら涼しい顔を演じる必要があり、大変な苦痛な期間だ。
 その表向き緩やかな冬は、幾つかのイベントで埋められている。
 アリスの言う雪中展示会もその内の一つで、小等部が小さい雪像を造り、御姉様方と交流を図るというものだ。
 同じ学院に居ながらあまり接点の無い小等部との交流は、楽しみの一つでもある。
 他にも映画鑑賞会や海外姉妹校交流会、屋内球技大会などもあり、生徒会は大忙しだ。
 冬に何故ここまでイベントを詰め込むかという理由は具体的には示されていないものの、恐らくは三年生が卒業する前に、学内上下でのコネクション作りを推進しているのだろう、というのが専ら噂されている。
 憶測ではあるが、必ず他の学年との意見交換などが存在する。
 市子以下三人などはそれが実に顕著で、とにかく生徒が群がって仕方が無い。
 そしてイベントが多い理由はもう一つある。
 何せこの学院、その性質上修学旅行や野外活動などといった課外授業は一切存在しない。学内イベントの豊富さは、その反動でもあるのだ。
「はい、おはようございます」
「起立」
 やがて担任教員がドアを開けて入ってくる。
 委員長の杜花が率先して立ち上がり、皆も続けて音も立てず礼をする。
「さて、明けて二週間ほどたっていますが、学院の冬というのは昔から……――」
 教員の話を聞きながら、手元のスケジュール帳を開く。大した用事は入っていない。
 外に出る予定も殆ど無いと言って良い。そもそも部活にも生徒会にも所属していない杜花のスケジュールと言えば、市子、アリス、早紀絵に合わせる為だけにあると言って過言ではないのだ。
 今日の欄に『放課後 アリス 雪中展示会』と書きこみ、閉じる。
 早紀絵の約束を反故してアリスを選んだのは理由がある。
 確かに生徒会が忙しいであろう事は承知であるし、いつでも手伝いには出るのだが、主眼はそこではない。
 市子、早紀絵との距離感は殆ど決まっているようなものだ。しかし
 ……。
 アリスの告白は思いがけないものであり、杜花としても衝撃的だった。
 冬休みの一件があり、既に肉体的にも関係が有りはするが、距離感の測り方は明確に定義しておかないと、後から嫌なリスクを背負うかもしれない。
 皆に好かれるのは、当然嬉しい。
 だから故に、なるべく問題を起こさないよう立ち回らねばなるまい。
 ……。
 欅澤杜花という人間は本来、ここまで評価されるような人間ではない筈だ。
 市子の隣に居るからであり、多少運動が出来る程度で、容姿や性格が飛びぬけて良いという事はない。アリスの宣伝や『よいしょ』があってこそである。
 幸せでありたい。折角好かれているのだから、ふいにしたくない。
 間違っているだろうかと、考える事もある。
 ふと、隣の早紀絵を見る。
 彼女は少しだけ顔を横に向け、杜花を見ていた。
 幸せそうな顔をしている。ほんのりと頬を緩め、杜花に微笑む彼女は、気の多さこそあれ、好ましい。
 彼女との出会いは
 ……。
 いつだったか。何となしに、自分の手を見つめる。
「はい。それでですね、今期から、少しずれましたが、副担任を迎える事になりました。白萩の方はご存じでしょうね」
 教室のドアが開く。
 彼女は――メイド服のままだった。
「兼谷指導教員です……けど、兼谷先生? メイド服のままは、流石に」
「問題有りません、望月先生。兼谷です、これから何かにつけてお嬢様方の生活態度に文句を言いますので、どうぞよろしくお願いします」
 教室に拍手が巻き起こる。まさか副担任まで請け負うとは耳にしていない。
 市子を見ると、何か面白そうにしていた。市子が面白いなら、まあ何でも良いだろうと杜花は納得する。
 兼谷はいつもの出で立ちだ。
 一体どんな強権を使ったのか知らないが、兼谷の出来栄えの良さを知る杜花達は何ら心配もない。
 彼女を見ると同時に視線があった。鉄面皮のような彼女がほんの少し微笑む。
 茶色い髪に灰色の瞳。
 身長は杜花と同じく175前後だろうか。今はメイド服で隠れているものの、すらりと長い脚は実に眩しかったのを覚えている。
「ええと、ではそろそろ大講堂に移動しましょう。上着は着て構いません」
 教員の話を受けて皆が静かに立ち上がり、各々準備し始める。
 長い学院集会とは憂鬱なものであるが、これからの期待に胸が膨らむ杜花にとっては、さほど問題にもならない懸念であった。




 一時間ほどの集会を終え、スケジュールなどをホームルームで確認した後に放課後が訪れる。
 昼には少し早いが、小腹を埋めてからアリスの手伝いをしようと考え、食堂にまで赴く事にした。
 午後からの活動に控えて、と考える生徒は多いらしく、そこそこの人が賑わっていた。
 いつもの事だが、杜花は積極的に食事を誰かと一緒に取ろうとは思わない。寮は仕方が無いが、昼などは一人が多い。
 それを言うのも、杜花は食べるのが早く、周りと歯車がかみ合わないからだ。
 そんな事を気にする人間は近くにはいないだろうが、杜花はどうも意識してしまう。
 カウンターで軽食とお茶を受け取り、窓際の席を目指す。
 奥に入ろうとしたところ、杜花の足が止まった。
「杜花お嬢様。お昼ですか」
「いえ。小腹を埋めようと」
「なるほど、ああ、どうぞ前へ」
 昼前だ、普通は仕事をしているであろう教員が何故ここで暇を潰しているのか。しかも一人メイド服であるから、目立って仕方が無い。
 兼谷は何を気にする風も無く、飄々としている。薦められて断るような教育を受けていない杜花は、兼谷に言われるまま彼女の正面に腰かけた。
「お仕事は?」
「書類整理なら朝起きて直ぐに片づけてしまいましたし、白萩の寮生についての細かい資料は全部頭に入っていますし、副担任としてあのクラスの生徒達の情報も当然、全て調べ上げてあります。明日以降については、担任の望月先生のご指示があるまで、私は大した仕事がありません」
「相変わらずで」
「はい。皆さんの生活を恙無いものにする為、努力して行きますよ、杜花お嬢様」
 オーバースペックな彼女を妨げる障害など、殆ど無いと言って過言ではない。教員として然したる問題もない担任の望月が、兼谷の強権に振り回されると思うと、いささか不憫だ。
 兼谷の手元を見る。
 きっと学院とは別件の資料だろう、それを読みながらお茶を啜っているようだ。
「杜花お嬢様、調子は如何ですか」
「問題ありません。体調は万全です。心も潤って仕方が無いというか、最近は滴っている可能性すらある」
 ……。
「なるほど。何か気がかりな事などはありますか」
「ありませんが。どうしました?」
「杜花お嬢様はこれから、七星になる方。一郎様から貴女のケアも仰せつかっています。強権使って無理矢理学院にねじ込んだのもそれが理由です」
「隠す気無いんですね」
「皆さんご存じでしょうし。七星は観神山女学院に多額の出資、それに理事会にも七星がいます。一体誰が逆らえますか。酷いもんです全く。彼にかかると社会秩序とはイコールで彼自身ですからね」
「そういう意味では不安ですね」
「故に兼谷が居ます。何かありましたら、何なりと。そうですね、殺し以外なら何でも隠ぺいしましょう」
 一応笑っておく。
 ただ兼谷が言うと冗談に聞こえないのが恐ろしい。
 七星の凶悪な権力は確かに誰しもが懸念するものなのだが、彼等あっての日本国であると思うと、流石に口を閉ざしてしまう。
 そもそも不満らしい不満も上がり難い現在の社会制度を回すのが彼であるからして、大人しく暮らしていた方が幸せだろう。
 杜花は巨悪になど興味はない。
 暗黒メガコーポなどという罵りもあるが、結局のところそれに対抗出来ず、彼等に依存してしまったツケである。
 嫌だと思ったら戦うほかないだろう。強い方が勝つのだ。
「じゃあ浮気性な私が起こした問題をもみ消したくなったら声をかけますね」
「寝る前でも朝飯前でも可能な工作ですね。私も楽しみなので、さあ、手をアチコチ出してください」
「あいや……冗談ですけれども」
「――本当に構いませんよ。それこそ早紀絵嬢のようにしてくだすっても構わない。杜花お嬢様は、驚くほどに寂しがり屋ですからね。市子お嬢様の身体に無理をさせたくもない。まあ、早紀絵嬢とアリス嬢だけで良いと言うのならば、それで」
「なんだか少し棘がありますね」
「……違いますよ。杜花お嬢様は、自由になさればいい。一郎様も、市子様も、それを望んでいる。最終的に七星市子と幸福を共有出来さえすれば、それで良いんです」
 兼谷の目を見る。
 嘘は無いだろう。ただ、流石に節操無しだと思われているのは心外である。早紀絵じゃあるまいに。
 杜花は言葉に出さず、ジェスチャーで示す。呆れますね、だ。
「なんでしたら、兼谷にも手を出してみますか?」
「いやいやいやいやいや」
「主人のメイドに手を出す妻……聞いた事もないような官能小説的展開を期待出来ます」
「結構です」
「私、魅力無いでしょうか」
「いえそれも無いです」
「そうですか。それは良かった。では早紀絵嬢と遊ぶのも良いですね」
「兼谷さん、教員ですよね?」
「早紀絵嬢は教員に二人程愛人がいますね」
「彼女どうにもなりませんねホント」
「まあ私異性愛者ですけど。そろそろお暇します。杜花お嬢様」
「左様ですか。ええもう、どこへなりともどうぞ」
「では……ああ、杜花お嬢様」
「はい?」
 兼谷は眼だけを右に左にと向けたあと、顔を杜花に寄せる。
「……幸福は貴女と共にあります。失くした一年を、どうぞ謳歌ください」
「は、はあ」
 そういってから、兼谷は資料を小脇に抱え、食堂を後にした。
 いや、確かに様にはなるのだが、如何せんメイド服でとても目立つ。杜花はそんな彼女の後姿を見つめながら、ベーグルを一齧りした。




 生徒会活動棟に赴くと、入口には何かしらの集まりが出来ていた。つま先立ちで集団の真中を覗くと、それが市子に群がった生徒だと解る。集団は中等部の子達だ。
 市子に小さく手を振ると、彼女も振り返した。声をかけられるかと思ったが、対応に追われているらしい。邪魔するのも何だと思い、杜花はそのまま二階に上がり、生徒会三役室に入る。
「御免下さいな」
「権田さん、雪中展示会がなんですって?」
「ええと、だからですね、職員会議で、今年は少し早目にやると決まったと」
「いつから?」
「三日後だと」
「はい? 一週間後でしょう? ああもう、会長?」
「五月、落ち着いて頂戴な。そういうことです。笑(えみ)、杜花様にお茶」
「はーい」
 三役が手元の資料をいじりながら眉間にしわを寄せている。
 話からすると、職員会議で理不尽な決定が下されたようだ。
 雪中展示会自体は大した用意も必要ないだろうが、小等部の作ったミニ雪像を閲覧する学園、クラスの順番などは問題が出るだろう。そもそも三日後の学院全体のスケジュールが不明ならば、どうしようもない。
 杜花は一拍子置いてから、金城に声をかける。
「金城さん、教頭に三日後の学院全体の授業スケジュール貰ってきてください。もしかしなくても、たぶん一週間後に予定していたものをそのまま移す形でしょうから、授業はきっと昼までですね」
「そ、そうですね。はい。今行ってきます。会長、そちらを宜しくお願いしますね」
「はいな。あ、杜花様はそちらのソファに」
 促されてソファに座る。生徒会三役室に来たのは
 ……。
 暫くぶりだ。市子は生徒会を抜けてしまっているので、以降副会長であったアリスが代理、再選を経て会長職にいる。ちなみに選挙に学年の括りは無い。
 あまり此方に来る用事もなかった為、このソファも懐かしく感じる。
「なんでイベントの日付動かしたんでしょうね」
「さて。理事会の問題でしょうかね。まあ粛々とこなしますわ。はいこれ」
 と、アリスから資料を渡される。雪中展示会の要綱だ。
「――雪かき、早めにやってしまいましょう。前日では面倒です。当日の警備云々については、あとで教頭に回すとして……ん、今年は展示場所変えたんですか?」
「ええ。いつもは小等部校舎の方でしたけれど、今年から中央広場にしましたの。広さは十分ですわ。それにやはり寒いですし、食堂と大講堂を開放して直ぐ暖をとれた方が良いでしょう。以前は体育館でしたけれど、温まり難い」
「ふむ。三日後という事は、明日から既に小等部の子が造り始めるじゃありませんか。国防と警察の共同雪像は?」
「今日の夕方から始めるそうですわ」
「杜花様、お茶です」
「ありがとう」
「えへへ」
 書記の笑からお茶を受け取り、一口する。
 行き成り四日の短縮は痛いが、今更覆せないだろう。杜花は頭を巡らせながら要綱を確認して行く。
「では交流会も大講堂ですよね。食堂には温かい飲み物でも用意出来るように申請しておきましょう。概要が決まり次第プリント作成……それは三十分で出来るとして、作るにも、PCの使用許可……あとで取りますか。ええと、監視教員に変わりは……ないですね。なら簡単です。もうとにかく、雪かき」
「まだ昼の明るいうちにやりたいですわね。校内放送で、生徒会召集が一番かしら」
「運動部にも手伝わせましょう。あてがあります」
「解りましたわ。では、少し動きますから」
「ええ、後で」
 杜花はカップを置き、生徒会三役室を後にする。目指す場所はすぐ階下だ。
 階段を下りて廊下を行くと、まだ市子を囲んだ中等部の生徒がいた。少し失礼して、市子に話しかける。
「市子御姉様」
「あら杜花。アリスと用事じゃなかったのかしら」
「用事中で問題発生中です。市子御姉様、運動部にコネクションは?」
「柔道部の小此木駿子さんと仲良しよ。剣道薙刀部の早瀬えいみさんも。妹だもの」
「じゃあ私は風子先輩かな……」
「あら、力仕事?」
「雪中展示会が早まりました。雪かき要員を探しています」
「んー」
 市子は顎に人差し指をやり、上空を見つめて何か考えている。悩む事でもあっただろうか。市子と杜花の組み合わせに喜んでいる中等部の生徒に笑顔を振りまきながら、市子の答えを待つ。
「じゃあ杜花、御礼にキスして?」
 ざわり、と空気が動いた。杜花が眼を見開く。
 中等部の生徒達が、手で口を塞いでびっくりしながら喜んでいる。
「あのですね、市子御姉様……解りました、解りましたから、そんな寂しそうな目しないでください。では後で」
「今が良いわ」
「ちょ、み、みんないるじゃありませんか。あ、ほら、違うの、皆さん。御姉様ったらちょっと、はしゃいでて」
『御姉様達、キスなさるって』『ああ、見ていても良いのかしら』『こ、興奮しますわね?』『フレンチ?』などと好き勝手言い始めた。あまり間誤付いてはいられない。
 杜花は頭を振ってから、市子の正面に立つ。
 自分から言い出した割に、市子は杜花に迫られ、ほんの少し後ろに引く。もう遅い。
 後輩たちを少し横目で気にしながら、杜花は市子の髪の毛を手でよけ、唇を合わせる。
 中学生の黄色い悲鳴が出入り口に響く。
「んっ。もう、これだけですよ」
「あ、うん。その、うふふ。ありがと、杜花。じゃあ、少し掛け合ってくるわ。多い方が良いわよね?」
「お願いします……ほら、皆さん、解散ですよ」
 中等部生徒の好奇な目から逃げるようにして、杜花は部活棟の方へと足を向ける。
 それにしても、市子も大胆になったものだと言わざるを得ない。以前ならば手を繋ぐ事すら警戒したというのに、今は見せつけたいと言うのだから困ったものだ。
 しかし恐らく、それも早紀絵とアリスへの牽制だろう。
 マーキングといっても過言ではない。彼女は猫か何かか、と考え、猫耳の市子を想像し、少しテンションが上がる。
 雪道を飛んだり跳ねたりしながら、しかしそこはかとなく御下品にならないように学院内を走り回る。
 グラウンド近くに並ぶ総合道場にまで赴き、さて、どう声をかけたものかと、今になって考える。最後に来たのは
 ……。
 さていつだったか。
 風子と話をするのも久しぶりであるはずだ。以前は……以前は火乃子……
 ……。
 はて。
 火乃子がなんだったか。
 火乃子は歌那多とくっつき、実に幸せそうだ。風子はというと、確か相変わらずだった記憶がある。あの妹にしてあの姉であるから、杜花の事は諦めていないだろう。
「御免下さい」
「はい、どちらさまでー……あ、杜花さん」
「ごきげんよう。ええと……」
 確か名前は。
 ……。
 知らない人物だ。高等部では見ない顔であるから、中等部の生徒だろう。
「か、川岸命です。な、何か御用ですか?」
「風子先輩はいますか?」
「元部長、元部長ですね、もとぶちょー!」
「あーい……」
 更衣室の奥から声が聞こえてくる。やがて出て来た彼女は、タンクトップにスパッツという姿があまりにも涼しげだ。
 三ノ宮風子は杜花を認めると、ほんのり顔を赤らめて嬉しそうにする。
「あ、杜花! やだ、来るなら行ってよ、もう」
「済みません、久しぶりに顔を出してなんですけれども、実はお願いがあって」
「ん? なになになに?」
「高等部生徒会執行部は三日後に迫った雪中展示会の事前準備として、雪かき要員を欲しています。準備運動がてら如何ですか。勿論タダとは言いません。時間が空いた時にでも、練習参加しましょう」
「ホント? マジで? おっけぃおっけぃ!」
 風子が手を叩いて嬉しそうにする。流石にここまで好意を向けられると、何とも言い難い。
 小ざっぱりとしたスポーティな彼女が、照れ隠しに笑う姿がとても魅力的だ。なんとなく兼谷の言葉が頭をよぎり、頭を振る。
「急にごめんなさいね」
「ううん。じゃあ厚着させて、どこ集まれば良い?」
「中央広場にお願いします。スコップやらは此方で用意しますので」
「うん。えへへ、じゃあ後で行くからねー」
「お願いします」
 風子に礼を言って、杜花は次に行動に移る。用具室から雪かき道具一式を借りてこなければならない。
 アリスの様子を窺うつもりでアリスの話を受けたが、とんだ面倒に巻き込まれてしまったものだ。とはいえ、嫌だという訳でもない。
 こんな事でもアリスのご機嫌を取れるなら安いものだ。
 ……。
 いつから自分は、あちこちに愛想を振り撒くような人間になったのだろうか。自分は市子しか見えていなかったというのに、冬休みは
 ……。
 ……。
 ……。
 冬休みはそうだ、彼女達が
 ……。
 押しかけてきて、花も否定する訳でなく彼女達を泊め、市子まで上がってきて、早紀絵とアリスに押し倒されて、否定出来ず、二人の初めてを強制的に貰いうける事になってしまった。
 何故記憶があいまいなのか。そんな重要な
 ……。
 それは良い。
 杜花は取り敢えず、職員棟にまで赴く事にした。やる事は沢山あるのだ。



 
 広場に赴くと、想像以上に人が集まっていた。
 結局市子は柔道部以外にも運動部を引っ張ってきたらしく、ジャージ姿の生徒達が幾人も見受けられる。杜花が声をかけた部と、中高生徒会合わせて四十人はいるだろう。
 これならば予定の倍は早く片付く筈だ。
「御姉様もやるんですか?」
「声をかけておいて自分がやらないというのも問題だわ。それに、元生徒会長だものね」
「ありがとうございます」
「ううん。キスしてもらったから、いいの。うふふ」
 市子に雪かきスコップを渡した所で、アリスが号令をかける。
「職員会議の結果、雪中展示会の日付が早まってしまいました。大変な横暴ぶりに憤懣やるかたない想いではありますが、急な呼びかけにもかかわらず、これほど奉仕心に溢れる方に集まっていただき、学院生徒の矜持なるものをヒシヒシと感じているところです。日没まで時間はありませんが、宜しくお願いします」
 号令を受けて、生徒達が割り当てられた区画に散って行く。杜花はアリスに近づき、肩を叩く。
「これなら早く終わりますね」
「ええ。こんな筈では無かったのに、ごめんなさいね、杜花様」
「いいえ。お手伝い出来て光栄です。アリスの悲しそうな顔とか、見たくないですし」
「あら、ふふふ。そうですの?」
 アリスが屈託なく笑う。彼女の笑顔は本当に綺麗だ。下から覗きこまれると、思わず目を見開いてしまう。この笑顔一つの為だけでも、走りまわった甲斐があるというものだ。
「さて、私達も」
 そういって、雪かきスコップを手に、八方向に延びる通りの一区画に赴く。
 三十センチは積もっているだろうか。ただ雪を退けるだけなら良いが、小等部の生徒達が雪像を作るのに必要である為、綺麗な部分と汚い部分に分ける必要がある。
 まずは上から掬って右に、下の地面に触れた部分は左にと除けて行く。
 単純かつ重労働だ。
 これだけお金のかかった学院、自動融雪歩道ぐらいあっても構わないと思うのだが、それはそれで自主性が失われるとして、導入を見送られている。
 自分達の住んでいる場所、地域は自分達で綺麗にしよう、というのは校訓のようなものだ。お嬢様だからと言って単純労働をしないなんて甘っちょろい考えはない。むしろそういった環境で育つ可能性があったからこそ、ここにいるお嬢様は観神山に詰め込まれたといって過言ではなかろう。
「女性率先とは言いますけれど、はふ。差別と性差は違います、のよっと。雪重いですわ!」
「水の塊ですし。ゆっくりで大丈夫ですよ。腰を痛めますから」
「新潟などでは年間凄い数の人が雪に埋もれて亡くなるそうですわ。大の大人の男性がそれですもの、私達では雪の猛威に敵いませんわ、よっと」
「まあまあ。こんな感じで良いですか?」
「そうそう、って早い早すぎますわ。どんな足腰してますの?」
「体力ばかり自慢ですからね」
 雪山にスコップを突き刺し、直ぐ横に腰かける。
 必死に雪を持ち上げては投げるアリスの姿が、妙に可愛らしく見えた。
 雪中展示会と言えば、やはりアリスのエピソードが印象深い。
 市子、杜花、アリス、早紀絵の四人で雪像を作った際、アリスがダダをこねたのだ。
 ……。
「あれ。そういえば、なんか最近……二人で、くまの雪像なんて、作りましたっけ」
「……はて? あら、ええと……そうそう。欅澤神社……この前泊まりに、行った時……でも」
 どうも、アリスの言動が怪しい。
 しかし自分もまた、どこか引っかかりを覚えている。二人で
 ……。
 雪像を作って、手を握り合って、キス……したような、そんな記憶はあるのだが、どうも
 ……。
 そうだ、それで間違いない。
「はあ。ふう。まあこんなものかしら」
「アリス、少しサボりましょう」
 そういって、杜花は雪の塊を手にして、くまの頭を作って行く。アリスは小首を傾げた。
「まだ、作業するところ、沢山ありますわよ?」
「私達は走りまわったじゃありませんか。少しぐらい大丈夫ですよ」
「あら、くまさん。可愛らしい……」
 杜花に手を伸ばしたアリスは、ほんの少しだけ躊躇い、やがて手を引く。
 その顔をなんと言い表せば良いだろうか、とんでもない事を忘れていて、今になって思いだした、という顔である。
 しかしそれも一瞬で、アリスはまた普通の顔に戻る。
「もう少し作業したら、食堂でお茶を貰いましょう」
「……そうですわね」
「アリス、どうしました?」
 アリスが急にしおらしくなり、杜花の背後に回ったかと思うと、背中から軽く抱きしめる。
 何故そんな事を、こんな昼間からしているのか。幾ら噂で知られているとはいえ、これはじゃれあいの範疇とは判断されないだろう。
 あまり目立つような真似はしたくないし、アリスも理解しているだろうに、それでも離そうとはしない。
「……解らないんですの。こうしなくちゃ、いけないような気がして。不安なんですわ。凄く、幸せで。私は何か、大切な事を忘れている、そのような、思いがして」
「アリス、人に、見られます」
「……人がいなければ、構いませんの?」
「……参りましたね」
「市子御姉様とは皆の前でキスしたとか」
「噂の巡りが早い早い……」
 それから五分ほどだろうか。
 寒空の下背中から抱きつかれたまま突っ立っていては、流石に寒い。抱きしめる腕をポンポンと叩くと、アリスが漸く杜花を解放した。
「他の様子を見に行きましょう。動いた方が良い」
「――ええ」
 アリスをともなって別の区画に移動する。西の方へ赴くと、そちらは総合部が担当していた。
 流石に鍛えているだけあり、風子の采配も良いのだろう、粗方片付いている。
「風子先輩」
「あ、杜花。こんなカンジで良いかな?」
「大丈夫です」
「風子先輩、わざわざ有難うございます」
「いいのいいの。杜花の頼みだもの」
 そういって、風子は杜花にチラリと視線を送る。
 目ざといアリスがそれに気が付き、怪訝な顔をした。タイミングが悪かったか。いや、杜花周辺は、どこを突き合わせても『こうなる』可能性が多い為、気にしてもいられまい。
「ここは大丈夫そうですわね。杜花様、向こうに行きましょ」
 そういって、アリスは杜花の腕をひったくる。
 あからさまな行動に、心が広い風子も、流石に不満気味に顔を膨らませる。
「会長さんや、杜花は置いて行ってよ。少し話があるんだ」
「あら、じゃあここで伺いましょう、ねえ?」
「いやいや。二人で話したいし。会長さんは向こうへどうぞ」
「そんなにやましいお話ですの?」
 どうも、アリスの様子がおかしい。
 いや、自分も十分おかしいが、アリスの言動にあまりにも棘がある。幾らヤキモチやきとはいえ、ここまであからさまに人さまに醜態を晒すなどあっただろうか。
 好意は嬉しいのだが、それはあんまりである。
「アリス、先に……」
「ダメです!」
 ――中央広場にアリスの声が木霊した。
 幾人もの生徒が、目を見開いて驚いている。それもそうだ、お嬢様を形にしたような天原アリスが、顔を真っ赤にして、理不尽に怒りを露わにしている姿など、一体誰が想像出来ようか。
 風子は完全に面喰っている。杜花もこれには参った。
「ごめんなさい、風子先輩。アリス、なんだか虫の居所が悪いみたいで。また、今度で良いですか?」
「う、うん。私こそごめん。じゃあまた……今度」
 心底残念そうにする風子を慰めようとすると、アリスは杜花の腕を無理矢理引っ張って走りだした。
 屋根付きの休憩所にまでたどり着くと、アリスは手を離して杜花の胸にしがみ付く。
 おかしいにも程がある。
 どうすれば、あの天原アリスがここまで狂ってしまうのか、杜花には理解出来ない。
「アリス、さっきのは、ありません。風子先輩、悲しそうでしたよ」
「殊恋愛において、あんなに積極的な人じゃありませんわ。彼女」
「何故アリスが、そんな事を断言出来るんですか。そもそも、恋愛?」
「カマトトぶらないでくださいまし。風子先輩、杜花様が大好きなんですのよ。知っているでしょう」
 それは、そうだ。むしろ、アリスなどより余程自覚している。
 先ほどの呼びかけも、もしかすれば『そういったお話』だったかもしれない。そのぐらいどうって事はないだろうと、話ぐらいは受けるつもりで居たのだが、アリスの観点から見ると、もっと危機的状況に見えたのかもしれない。
 杜花は、風子を意図的に避けている。
 関係の複雑化を嫌う事もそうだが、もし本当に風子が杜花を好いていて、それこそ告白しなければならないほど切羽詰まっているとすれば、とても不味いからだ。
 彼女は三ノ宮の長女で、欅澤杜花は七星市子の妻になる予定がある。
 もしかすれば、一郎ならば笑って許すかもしれないが、そこまで不貞な真似をしたくない。
 杜花は市子だけでも十分すぎるのに、更に幼馴染二人まで自分のモノにして、これ以上何を望むのか。
「大丈夫ですよ。アリス、私は、市子御姉様と、アリスと早紀絵、これでもう、死ぬほど幸せです。それに、私は早紀絵ではありませんから、そこまで器用ではない」
「気は有るんですのね?」
「……恩人ですし、可愛いとも、思ってますけれど」
「たぶん、貴女は彼女の話を受けますわ。そして、なし崩し的に、彼女もまた、貴女の物になる」
「どうして、そんな事を。アリス、どうしちゃったんですか?」
「杜花様、何か、何かおかしい。冬休み明けて、この二週間……何かが」
 抱きついた腕を緩め、アリスが顔を上げる。
 その訴える眼は、真剣そのものだ。
 とても冗談でこんな事をする人物ではないし、彼女は演技が出来る程器用ではない。しかし、真摯だからこそ、引っかかる。
「何とは。具体的な話をください」
「言葉では言い表せませんの。でも、何かが不自然ですわ。ボタンをかけ違えたような、一つだけ回らない歯車があるような。違和感としか、言いようがありませんの」
「それは、アリス自身が抱いている、違和感ですか?」
「貴女が私をアリスと呼び捨てにし始めたのは、いつ」
 ……。
 ……。
「たぶん、冬休みですよね」
「たぶんって、何ですの? 冬休み……ああ、そう、うん。そうですわ。でも、たぶんはおかしい」
「おかしいと言われても……」
「杜花様が呼称をコロコロ変えないでしょう。そもそも、冬休みって、あの、私と杜花様……」
『えっちしましたのよ』と、アリスが顔を赤らめる。
「……あー――……」
 いつ、どうして、どのような理由で、彼女の処女を奪ったのか、記憶があいまいだ。
 彼女にとって、それがどれほど重要な事なのか、理解して余りある。
 本当ならば市子に捧げていたかもしれないものなのだ。
 ただ彼女は、確か――そうだ――市子は手が届くような人間ではない天上人で、杜花はもっと親しみやすかったからと、どこかで……聞いた気がする。
 アリスのいう違和感の正体こそ解らないが、杜花もその片鱗を実感しているように思える。
 どうもここ数日、過去を思い出そうとしては、何か……。
 ……。
 まあいい。
「ごめんね、アリス。でも、さほど気にする事でもありませんよ」
「そ、そんな」
「――これから沢山するんですから。アリス、座って?」
「え、ええ」
 着席を促し、自分も隣に腰かけ、アリスの手を握り締める。
「今日は、何故貴女を選んだか、解りますか?」
「い、いいえ。早紀絵が優先されるとばかり、思ってましたわ」
「貴女とは付き合いが長いと言っても、私の全部を見せている訳ではありません。これから少しずつ知ってもらおうと思いました。今日は、ずっとアリスとこうしたかったんです。ダメでしたか?」
「だ、ダメなんて事、ありませんわ。凄く、嬉しいですのよ」
「私は酷い人間で、市子御姉様がありながら、貴女にも、早紀絵にも心を許して。もしかしたら、アリスにはショックかもしれませんね。でもきっと、私の本性って、こんなものなんですよ。すぐ、人のぬくもりを欲してしまうような寂しがりで……性行為に、依存しがちな、ダメ人間」
「それでも良いと……私は……いつか……いつだったか……貴女を、受け入れようと……」
「これから皆が仲良く幸せになって行く為にも、必要だと思います。そうだ、資料を作り終えたら……アリス?」
 握り締めた手に、冷たい雫がこぼれ落ちた。
 何事かと顔を上げると、アリスはすっかり、声を押し殺して泣いている。
 何か、間違っただろうか。
 アリスに悲しい想いをさせてしまっただろうか。
 アリスを泣かせたのは誰だ。
 恐らく自分だ。
 そうだ、その筈だ。
 けれども、理由が解らない。
 頭の中で理由に至る為のプロセスが、途中で遮断されてしまっているように、そこへと届かないのだ。
 ……。
 これ。
 ……。
 これは。
「ごめんなさい、杜花様。今日は、忙しいんですの。またの機会に」
 温かい手がするりと抜ける。アリスが、そういって離れ、走り去って行く。
 なんだろう、この虚しさはと、杜花は離された手を胸に抱いた。
 走って行く背中を見つめ、まるで彼女が二度と戻って来ないのではないかという、言い知れない恐怖に襲われる。
 そんな、まさか。
 市子にべったりとしていた杜花を、無理矢理でも振り向かせようとしたのは……彼女……だったが……それは何時だったか?
 またか。
 ……。
 またこれか。
「ぐっ」
 杜花は、唇をかみしめる。犬歯に引き裂かれ、口の端に血が流れた。
 胸の底から、嫌な予感がふつふつとわき出して来るのが解る。
 自分は間違っているのではないか。
 思考の端々に、兼谷の顔が横切る。
 聞くか。聞かざるか。聞いて応える人間だったか。
 まさかだ。アリスもまた、そんな嫌な予感を抱いたからこそ、杜花を連れ出したにきまっている。
 自分だけではない、自分達が間違っているのだ。
 人の居ないスクランブル交差点、もしくは、ひっそりと佇む小さな図書館が人間で満たされてしまっているような、疎外感と齟齬だろう。自分の思考がどう狂っているのか、確認する術がない。
 ……。
 まあいい。
 ……。
 まあ……
 いや……。
 良くない。
 良くは無い。
 何一つ良くない。
 唇を拭い、杜花は立ち上がる。
『何かを何とかしなければ』ならない。
「アリス!」
 大声で呼び止める。もう少しで、届かなくなる所だった。それでは困る。
 アリスがゆっくりと振り返り、杜花を見た。すぐさま駆け出して、アリスの肩を掴む。彼女はまるで、子供のように身体を震わせた。
 ――大事な事を約束した、そんな気がしてならない。
「……まだ、雪かきがありますし、資料作りが、残っているでしょう。手伝います。お願い……行かないで」
「杜花様、唇が」
「アリスが急にいなくなろうとしたので、焦って立ち上がって、噛みました。大した事は」
 アリスが懐からハンカチを取り出し、杜花の口元をぬぐう。どこかで観たデザインだ。いや、それは、杜花の物だった。
 いつ彼女に貸しただろうか。あげたのだろうか。そんな機会が、どこかに。
「あ……これ、杜花様のですわね。後で、洗ってお返ししますわ。なんで、持って……」
「……解ります。なんででしょうね。私達は……何か、重大な事を忘れている」
「行きましょう。ごめんなさい。そうでしたわ。離さないって、確か、どこかで、言った気がしますもの。自分で反故したりなんて、出来ませんわ」
 改めてアリスの手を取り、また作業に戻る。
 幸福であると思っていた自分に疑問を呈するようになってから、思考を妨げるようなノイズが減った。ただやはり、たまに適当になってしまう場面がある。
 そういう時は、アリスを見る事にした。
 自己の存在確認を他人に依存するというのは、果てしなく脆弱だが、今はそれしか手段がない。しかしそれも不思議な話であると、ぼんやりと考える。
 欅澤杜花という人間はそもそも、依存無くしては生きられない人間であると、証明されていた記憶があるからだ。
 明確になったのがいつなのか、細かい事情の一切が、出てくる事はなかった。




 生徒会三役室のソファに座り、何となしに窓の外を見る。既に外は暗く、地面を照らす街灯だけが煌々と灯り、白い雪に反射して明りを散らす。
 ソファの肘かけに凭れかかり、アリスの横顔を覗く。
 彼女はもう暫くと席についたまま、何をするでもなくそこに留まっていた。
 プリントなどは既に作成済みで、コピーも出来ている。杜花はプリントの原本を手で弄びながら、アリスの言葉を待っていた。
 何でも良い。白萩に戻ろうというなら戻る。
 会話をしたいというならする。もっと違う事をしたいというならば応えよう。
 しかしアリスは動かない。
 何かを待っているのかと問うも、いいやと答えられるばかりであった。
 時計を見る。
 既に六時を過ぎている。時間外活動届は出していない。
 本来戻れば怒られるはずだ。ただ、指導教員が兼谷になってしまった為、恐らくお願いすれば黙っていて貰えるだろう。
 それは良い。そんなものは、どうあろうと瑣末な問題だ。
「アリス」
 声をかけると、彼女が振り向いた。
 青い目を杜花に向け、やがて視線を降ろす。怒られた小動物のようだ。
 風子の一件だろうか。罪悪感に自分が嫌になっているのかもしれない。
「どうしたら良いでしょう。アリスは、寂しかったり、辛かったり、していますか。私では取り除けませんか?」
「……こうして、いたような気がしますの。とても、とても大事な人が、亡くなる前に、私と貴女は、ここで、こんな風に、何を喋るでもなく、静かにしていた」
「誰が……亡くなったと?」
「そう。誰も亡くなってなんていませんわ。そんな事はない。でも、私は既知を抱いて、思いだそうとする度に、胸が苦しくなる」
「……私達の、忘れている事、ですか」
 アリスが席を立ち、杜花の隣に腰かける。
 その手は腰に、胸元に、そして彼女の唇は、杜花の首筋に吸いついた。杜花は何も言わず、アリスの髪をゆっくり撫でる。
 彼女は無知だっただけで、奥手という訳ではない。むしろ人様より余程敏感であるし、未知を知る意欲が高く、まして女性の快感を覚えたてであるからして、ハマり易いタイプと言えた。
 市子などもそうだったか。
 ただ、意地悪されるだけで達するような変態と比べれば、アリスはまだまだ一般人だ。勿論今後、杜花の欲求を真正面からぶつけられた場合、一般人で居られるかどうかは、解らない。
 さて、求められているだろうか。
 アリスの額にキスをするも、反応は無かった。こうしていたいだけなのだろうと判断し、杜花は手を出さず、アリスの言葉を待つ。
「学院に戻ってきてからずっと、それ以前の事を思い出そうとすると、思考がかき消えてしまいますの。今こうして、過去を思い出そうとしている最中も、ずっとチリチリと、疑問が起きては消えて行く。話せる間に、話しておこうと、想いまして」
「学院に戻ってきてから、ですか。ええと……」
「私達、冬休みに一緒にいましたわよね。杜花様、市子御姉様、早紀絵、私で」
「いま、したね。ええ。確か、社務所の手伝いとか……屋台を見て回ったりとか……」
「何故、でしょう?」
「何故とは?」
「だって、おかしいじゃありませんの。神社の最盛期ですのよ? 一体どんな思考をしたら、忙しい神社に泊まりに行こう、なんて事になるのか、幾ら考えても解らなくて」
「それは、ほら。貴女達が、御姉様一辺倒な私を、その……じ、自分でいうの、恥ずかしいですね」
「そう、ですわね。ええ。どうしても、杜花様に此方を向いて貰いたかった。でも、ですわ。それなら、別に学院でも良いじゃありませんの。邪魔が入らないシチュエーションなんて、幾らでもありますわ。今のように」
 思考を巡らせる。考えたく無くなる欲求を抑え、アリスの言葉に耳を傾ける。
 確かにそうだ。
 わざわざ、無茶苦茶に忙しい神社に泊まりに来るなぞ、余程の理由が無ければあり得ない。
 そもそもだ、あの花が何故そんなものを許可するのか。
 杜花の知る欅澤花は、余計な事は一切しない。杜花のお願いなぞ、一蹴である。
 アリスと早紀絵が……自分を求めて来るのならば、別に冬休みでなくても良かった筈だ。何故そんなリスクの高い方を選んだのか。理由が無ければならない。
「おかしい。やっぱり、おかしいです、アリス。私達は、何かを踏み外している」
「でも、幸せなんですわよね、杜花様は」
 アリスの瞳がまっすぐ、杜花を見る。
 その通り、幸せでしょうがない。これ以上の幸福など、望むべくもない程にだ。
 振り向けば美しく愛しい彼女達が、自分に華のように微笑みかけてくれる。
 手を取れば顔を赤らめ、キスをすれば笑ってくれる。
 心が甘い液体で満たされ、こぼれてしまうほどに、欅澤杜花は幸福なのだ。
 名家の娘三人と、いがみ合い無く過ごし、未来すらも約束されている現状は、一体どれだけの人生を繰り返せばそんなご褒美がもらえるのだろうかと、思わざるを得ない至福である。
 美しく、可愛らしく、愛しい彼女達は、こんな碌でもない人間を心から愛してくれている。
 ……。
 甘受すれば……良いのではないか。
 何故、意味不明な違和感などを追い求めねばならないのか。
 アリスの言葉とて、本当かどうか解らない。
 そんな不確定な要素で甘露を苦渋に変えるなど、真っ当な人間の行いではないのだ。
 人は幸せになりたくて生きている。
 どんな善意を引っ張り出して例えようとも、結局は本人の心が満ちるか否かでしかない。
 純粋に私は人を助けたいんです、なんてものはお笑い草であり、本気ならば精神疾患だ。
 根本にはまず自分がいなくてはならない。
 杜花の面倒見の良さとて、相手に好かれたいからだ。
 市子に良いところを見せたいからだ。
 綺麗で可愛い子達に、チヤホヤされたいからである。
 杜花が鍛えるのは、強くありたいからであるし、どんな事をしても有り余る体力が欲しいからだ。
 もっと言えば、向かって来る女の子を踏みつぶして、気持ち良くなりたいからだ。
 どうあがいても、欅澤杜花は怪物である。
 人恋しい、突然変異だ。
 許されるならば、そうだ。
 自分の好きな子達を、何もかも蹂躙してしまいたいと、良く考える。
 そしてそれだけの事をやすやすとやってのけるだけの容姿と、才能と、コネクションと、テクニックを持ち合わせているという現状に、身震いすら覚えている。
(……ああ)
 想像し、舌舐めずりする。
 まさしく今隣にいる娘は、自分が最も美しいと思うものの一つであって、しかもきっと、何をしようとも、彼女は文句を言わないだろう。
 押し倒されて恥ずかしがる姿など、考えるだけで脳が融けそうだ。
 髪を掴んで引き倒し、小奇麗なブレザーを前から全部肌蹴けさせ、その綺麗な顔に股間を押しあてて、ショーツの上から舐めろと命令する。
 彼女は半泣きで、けれども逆らえない。愛しい杜花様が求めているのだ。
 柔らかい唇で何度もキスを繰り返し、湿った秘部に舌を差し込み、幾度となく……。
 ――頭を抱える。
 なんだそれは。
 確かに、そうだろう。
 アリスは良い子だ。愛しい杜花の要求を、きっと幾らでも受け入れるだろう。彼女は杜花に嫌われる事を極端に恐れているきらいがある。そこに付け込めば、杜花は至上の快感を得られるに違いない。
 ただ、杜花もまた、アリスが愛しいのだ。そんな事、間違っても、出来ない。
 何故そんな考えに至るのか。次の日、どんな顔を合わせれば良い。
 今、僅かでも、それを実行しようとするなど、どうかしている。そんな話はしていないのだ。
 チラつくノイズを振り払うようにして、杜花はアリスの手を握る。
「杜花様?」
「……アリスは私の事を、殴っても良いです」
「殴りませんわ。どうしましたの?」
「そろそろ、戻りましょう。兼谷さんに怒られる」

 ――時計を見る。時刻は、六時半を回ろうとしていた。

 アリスの手を引き、立ち上がった、その瞬間だった。
 突如三役室の電源が落ちた。電気だけではない、空調も完全に止まっている。
 咄嗟の事に窓の外を望む。
 停電はあり得ない。現代において、停電などという低次元な不具合が起きるような施設は、日本国にほぼ存在しえない。
 ここは古いといっても、白萩ほど脆弱には出来ていない。電源がシャットダウンしようとも、通常は予備電源、予備予備電源が作動する。一家に三台の時代なのだ。
 窓の外の街灯は、未だに灯り続けている。
 つまり、区画の停電ではない。
 どこかでショートを起こしたか。それこそ考え難い。
 嫌な予感が杜花の脳裏をよぎる。間違いなく、感覚外の感覚だ。
「アリス。絶対に離れないで」
「停電なんて、そんなこと」
「あり得ません。だから、気をつけて。何かある」
 アリスに上着を着せ、杜花は周囲に全力で気を払う。外の街灯のお陰で出入り口は見える。握り締めた手を離さないように、杜花は三役室を出て、アリスに鍵を締めるよう指示した。
 瞬間、廊下の遠くから物音がした。
 生徒会活動棟には、既に他の生徒はいない筈だ。
 一度目を閉じ、薄暗い廊下の奥を、改めて『認識』する。
「市子おねえ様……では、ありません、わね」
「……幽霊。普通の人が認識出来るレベルで濃い?」
「お、オカルト?」
「私自身、オカルトみたいなものです」

『カカカコココ……――――カコッ――――……カカココッ……――……』

 幽霊、と例えるのが一番良いだろう。
 廊下を黒い影の伸ばす、触手めいた髪の毛が覆いだす。こういった手合いは、心を持っていかれれば終わりだ。
 過去、何度か観た事がある。
 人以外の何か、しかし人以外ではありえない何か。
 肉と魂を、魂と魄を別たれて尚、生き続けてしまった何かである。
 意思という駆動部を持ち続ける記憶の破片だ。
「――なに、何……あれ、でも……見た事が……」
「私達は、きっと知っている。あれが、何で、誰なのか」
 アリスの前に立ち、杜花が構える。
 物理的にどうにかなる相手では有るまいが、強い意志を見せるだけで退散するものもいる。
 欅澤の女はどうも直感部分が鋭い。それは三代続くもので、杜花に至っては最早超能力の類だ。
 一度、大病院で検査を受けた事があった。
 脳波計測の結果、通常人間が使う部分とは異なる部位で世界を見ている事が判明している。
 そして確か、それは……市子も同じであった筈だ。
 部位こそ異なるが、一般人とは、見る世界が全く違うのである。
 その脳の使っていない部分を極端に刺激する、コレ。
「どちらさま、ですか」
 問いかける。
『彼女』は、額から顎にかけて、全てが口だ。
『彼女』は何かを、伝えようとしている。

『カカココ……あ、ア……あ、あ……――ハナ……――ハナ……花、誉?』

 全身が総毛立つ。
 ありえてはならない記憶が、濁流のように杜花を、そしてアリスを襲った。
「――あ、あ。あ、貴女……は」
「いっ……いやっ……」
『花、誉、逃げて。無事なのね。逃げて、私は、あいつの脳幹を、叩き切る。この能力は、集中が必要なの。ああ――来た、逃げて……花、誉――』
 口だけであった顔が、やがて見覚えのある形に変わって行く。
 一昔前の制服を着た『七星市子』は、杜花を『花』と呼び、アリスを『誉』と呼んだ。
『市子』の表情が変わる。杜花達の背後を睨みつけている。
 振り返れば、そこには、拳銃を構え、防弾フロントアーマを着こんだ男が、いやらしい目つきで立っている。
 意味が解らない。
 何が起こっているのか。
 しかし杜花は――もはや条件反射のように動き、アリスを壁に寄るようジェスチャーすると、拳銃を構える男に悠然と歩み寄る。
「……これも霊? いや、違う」
 男は此方を見ていない。遠くの『市子』だけを見ているようだ。
 杜花はそのまま男の拳銃を握る右腕を叩き落とし、股間にひざ蹴りを叩きこむ。
 感触はある――が、人間を叩いた、という実感がまるでない。
『ああ……そんな……誉……誉ぇ……うそぉ……うそよぉぉぉッ』
 泣き叫ぶ『市子』の声に振り返ると、そこでは、勝手に物事が進んでいた。
 アリス……ではない。『誉』と呼ばれる人物が蹲り、倒れている。『市子』はそれを一生懸命背負う。
『花、逃げて、花、あなたは……逃げて……』
「なにを――言って……」
 そう残して、『市子』は走り去ってしまった。呆気に取られる杜花に、アリスが駆け寄る。
「アリス、市子は、何を……」
「市子御姉様じゃありませんわ。あれは――撫子。利根河、撫子」
「アリス……うっ……ぐっ……」
 脳が熱を帯びる。
 歪む視界、ふらつく頭を押さえ、杜花は壁に手をついた。

 ……。
 違う。
 ……。
 やめろ。
 ……。
 人の脳を。
 ……。

「勝手に弄るな――ッッ!!」
 杜花の拳が、活動棟の壁を思い切り叩きつけられる。
 据え付けられた窓枠とガラス戸が、その衝撃に悲鳴を上げた。
 相当量の記憶が、脳内を蹂躙して行く。
 過去あった事、今現在、そして未来への展望。
『当時』考えていた事が、今ならば想い描ける。霧がかかったようだった思考が晴れやかになり、自分が自分を取り戻す実感を得る。
「……ああ……そっか。あの影、結晶影響でも、市子でもなかった。元から、利根河撫子、だったんですね」
「少し、ふらつきますわね。ああ、なんてこと……杜花様……私達……」
 電源が復旧し、廊下に電灯が灯り始める。
「アリス。少し、遅れて戻ります。先に寮へ。兼谷さんへは、ワガママを言って、まだ仕事をしているとでも、伝えてください」
「あの人に、通じるでしょうか、そんな話。この状況、明らかに、二子さん達の所為、ですわよね。どう考えても、兼谷さんは、監視役」
「暴挙には出ないでしょう。少し確認したい事があるんです。お願いです、アリス」
「……解りましたわ。杜花様、どうか……変な気だけは、起こさないでくださいまし」
 アリスに釘を刺されてから、一先ず生徒会活動棟を締めきる。
 何か言いたげなアリスを先に寮へと帰し、杜花は一人、警備員と監視カメラを避けるようにして、夜の学院を行く。
 生徒会活動棟を出てから、ノイズの影響は皆無であった。
 どのような手法で広範囲にあの『超能力』を拡散しているのか、原理は理解出来ないが、二子達の思惑の下にあるだろう。
 決して心を持って行かれぬようにと縛りながら、杜花は暗がりから暗がりへと逃げるようにして歩む。
 二子は市子になると言った。
 ではあの市子は、二子なのだろう。
 学院の生徒教員職員ひっくるめ、全て改竄の影響下にあるのだ。自分達は、まるで仮初の青春を演じさせられていたのだろう。
 違和感は覚えていた。
 幸福でありすぎる事実を、疑問視していた。
 しかし、杜花は、それを完全に受け入れていたのだ。
 決して仮初の市子に靡かぬようにと早紀絵が、アリスが苦心したというのに……自分は結局、七星市子という形から、逃れる事は出来なかった、その証明である。
 あまりにも幸せだ。どうしようもないほどに。
 だが故に、疑問点もある。
 あの仮初が、仮初でも市子だというのならば、嫉妬の塊である市子が……何故、アリスと早紀絵を受け入れるような形での改竄を行ったか、である。
 兼谷、そして二子の思惑もあるのだろうか。殴りつけて問い詰めるには、無謀だ。
(……いる)
 闇に紛れるようにして、杜花が訪れたのは文化部室棟である。
『誉』を引きずるように背負った『撫子』が、部室棟一階一番奥の、文芸部室に入って行くのが解った。
 霊、というには違和感がある。残滓とでも言うのだろう。
(当時の記憶を……延々と、再生し続けている……のかな)
 それは、虚しすぎる。
 彼女達は終わらない占拠事件を繰り返しているのだ。
 杜花は残滓よりも、むしろ監視カメラにだけ注意を払い、部室棟の奥へと進む。
 用意周到な兼谷だ、監視カメラを私有、もしくはハッキングしていてもおかしくは無い。改竄影響が解けていると悟られれば、別の手段で杜花を押さえつけにかかるかもしれないのだ。
 一番奥の文芸部室。
 鍵は、開いている。
 引き開き、中に入ると、そこでは血まみれで蹲る誉と、それに縋りつき、泣き晴らす撫子が居た。
 ……上からは、既に首吊りのロープが下がっている。躊躇っているのだろう。
『どうして……こんな事に……。まさかこの学校で起きるなんて……。貴女は何も悪くないのに……ここの子達、誰が悪いっていうの……ああ、誉……返事をして……』
 撫子は、此方に気を払う素振りを見せない。本当に唯、再生しているだけなのだ。
『これ、見て。この鍵。ここに、隠していたの。本当は、みんなに見つけて貰いたかったのに、ダメだったわ。ああせめて、みんなでちゃんと、仲直りしておけば……聞いて、誉……』
『ごめんね。私が、花ばかり、見ていたと、そう、想われてしまったのね。私、気が多くて、貴女達、みんな、大好きで……きっと、誰かがこの鍵を見つけてくれると、想っていたの。それでね、みんなで、お茶とお菓子を用意して、ガゼボの裏に隠した……ほら、私達の言葉を、刻んだでしょう。そこにね、宝箱、隠したの。みんなで、開けて、貴女達に……ああ……ああっ』
 ドアをガンガンと叩きつける音が聞こえる。テロリスト達も、残滓として再現されているのだろう。先ほど杜花が殴りつけたものは、きっとそれだ。
『花……誉……きさら……ごめん……ごめんね……私、汚されたくない』
「や……やめ……」
 思わず、声が漏れる。これは再現映像だ。何を言った所で、届く筈はない。
 しかし、撫子は首を吊る瞬間、杜花に視線を投げかけたように、見えた。
「やめて……やめてよ……」
 何もかも。
 何もかも、ここから始まっていた。
 撫子の死を目撃すると同時に、また新しい記憶が流れ込んでくる。
 これは、杜花が有しているものではない。恐らくは、花が経験した青春の場面だ。
 撫子、誉、きさら、花の四人が築き上げた、百合の花園。
 そして関係の不和と、事件による楽園の崩壊の記憶である。
 ――この身は。
 欅澤杜花は、彼女達を再現する為に、いるのだ。
「やめてよぅ……私は……違うのに……市子が居れば、よかったのに……こんなもの、私は知らないのに……アリスも、サキも、関係ないのに……」
 市子は、撫子を再現したが故に命を落とした。しかしそれでも納得しないのだろう。
 まだ何か、あるのだろう。
 何かあるからこそ、まだこのような茶番を演じさせているのだ。
 これ以上……これ以上、市子を汚すのか、七星一郎。
 これ以上、偽りの幸福を演じさせるつもりか、七星一郎。
「――もう、お断りですよ。私は。市子が死んだ時、私だってもう、死んでいる筈なのだから」
 これ以上、付き合わされてたまるか。
 まるで心に沁みつきかけたものが、そげ落ちて行くような感覚があった。
 早紀絵やアリスに対する気持すら、薄まって行く。
 杜花は……もう一度、仮面をかぶり直す。
 自分は、もう終わった人間なのだと、酷い嫌悪に心が塗りつぶされて行く。
 吐き気がする。

 ――もう、いやだ。




 
 2、満田早紀絵



「これから寒さも厳しいですから、風邪などひかないようにしてくださいね。では」
「起立」
 授業を終え、放課後を迎える。早紀絵は一度小さく教室を見回した。
 兼谷はいつものように、生徒達が教室を出るまで動かない。
 杜花を見る。ここ二日、元気が無い様子だ。アリスも同様である。
 市子に目をやる。
 彼女は他の生徒達と談笑しているようだ。
 杜花とアリスの落ち込み具合を察しの良い生徒達が判別して、その生徒の流れが市子に行っているのだろう、いつもより群がる人が多い。
 早紀絵は誰に声をかけるでもなく、教室を後にする。
 恋人何人かに手を振りながら、一階にまで降りて、一年一組を目指す。
 丁度HRが終わった所だろう。幾人かのグループが扉を開けて出て行く。入れ替わるようにして早紀絵が入り、目当ての人物に声をかけた。
「火乃子」
「あれ。早紀絵先輩。どうかしましたか」
「歌那多が来る前に少し聞きたいのだけれど。あ、悪口とか変な噂とかじゃない」
「そりゃあ、早紀絵先輩が女の子の悪口言わないでしょうけど。どうしましたか」
 流石に教室では目立つ。まして早紀絵も有名生徒だ。
 火乃子に暫くした後図書室まで来てくれと声をかけて、早紀絵は図書室に向かう。
 流石に放課後直後という事もあり、図書室に人気はない。
 当番の教員に頭を下げ、窓際の奥の席を陣取り、手帳を開く。
『1月22日 頭の中がまるでお花畑だ。幸せすぎておかしくなってしまいそう。私はこんなにも、幸福で良い人間だろうか』
『1月23日 少しだけ杜花の様子が変だ。アリスもおかしい。尋ねれば、苦い顔をされる』
『1月25日 市子が気になって仕方が無い。市子もまた、今までにはあり得ないぐらい、友好的に接してくる』
『1月28日 市子に文芸部へ呼ばれる。キスをされた。何かがおかしい。私は、こんな事をしていて良いのだろうか』
『1月30日 この手帳、新しすぎないか。いつ買い換えた?  歳を跨いで新しいものにしたのだろうか』
『2月02日 市子に文芸部へ呼ばれる。一時間ほど会話した。終始、彼女は顔が紅い』
『2月05日 何かが足りない。何かがおかしい。何か違和感がある。意味が解らない』
『2月07日 何もない素晴らしい日だ。メイを弄り倒す』
『2月09日 今日は市子に呼ばれている』
 ここ数日、書きなぐるようにしてメモをつけている。
 普段からメモをとるクセはあったものの、こうして毎日を確認するようにしたのは初めてである筈だ。どうにもこうにも、過去を思い出そうとすると、記憶があいまいになる節がある。
 忘れない為といえばそうなのだが、この手帳自体に違和感を覚えてならない。
 気が付いて過去の手帳を探ったものの、幾ら部屋を掘り返しても出てこなかった。
 それに、新学期になる前の記憶が、どうも怪しい。
 冬休みは皆で欅澤神社に行った。
 そこで、杜花を市子から少しでも引きはがそうとしたのである。しかし、神社の最盛期に泊まりに行くなど、どう考えてもおかしい。
 そもそも、あの花が許す筈がない。
 余程の理由がなければならないのだが、早紀絵にはそれが思い出せずにいた。
 そしてどういう訳か、市子が妙に早紀絵を気にする。
 今までで言えば、早紀絵は杜花を奪おうとする泥棒猫以外何者でもなかった。市子は当然、それを表には出さなかったが、確実に警戒はされていただろう。
 しかし、市子からの接触があった。四人で仲良くやって行く為の方針転換だろうか。
 だが、キスまではやりすぎだと、早紀絵にしてそう思ってしまう。
(何かが……変だ。もしかして、モリカもアリスも、そう感じてるのかな)
 二人にそれを聞く勇気がない。
 全く確証の無い話をして、あの二人に変な目で見られた場合、早紀絵の被る精神的被害は計り知れない。どうあっても嫌われたくは無いのである。当然市子にも聞けはしなかった。
 そこで白羽の矢が立ったのが、火乃子である。
「お待たせしました」
「ごめんね、呼びつけて」
 火乃子は元から早紀絵は眼中になく、そもそも歌那多と仲良くしていればそれで良い人間である。そして火乃子は頭が良く、物事に聡い……と、何故かそのようなイメージがあった。
 火乃子を隣に座らせ、早紀絵はゆっくりと切り出す。
「火乃子、私の事を変な奴だと思ってくれて構わないから、聞いてほしい」
「元から変ですよ。あ、御遊びとかそういうの無しですからね」
「違う違う。いや、興味はあるけど。ええとね、最近、なんか違和感ない?」
 やはりおかしな話だっただろうか。火乃子が眉を顰め、眼鏡を上げる。
「具体的に」
「なんかおかしい。なんか、忘れてる気がする。一つ、質問良いかな」
「……どうぞ」
「モリカを追いかけていた貴女が、歌那多とくっつくに至った理由が、私は思い出せない」
 思い出せない。
 風子同様、三ノ宮姉妹は杜花に熱心であった筈だ。しかし何時の間にか、火乃子は歌那多とくっつき、あまつさえ婚約までしている。
 それだけの出来事、耳聡い早紀絵が知らない訳がないのだ。
 だが、どこを調べても、どう考えても、答えに至らないのである。
「歌那多が可愛いので。あ、あげませんよ」
「そういうのは良い。同室で仲が良いのは知ってた。でも、モリカ追いかけてたでしょ」
「――あー……そう、でしたね。杜花さん……あ……れ?」
 火乃子は眼鏡を外し、眉間を摘まむ。
 きっと、自分と同じような違和感を抱いているのだろう。
 誰がどうして何がどうなったのか、過去を辿るたびに、断絶を感じるのだ。若年性健忘症でさえ、そこまで極端に思い出せないなどという話は無い。
 まして、好きな人と一緒になった理由が思い出せないなど、倦怠期の夫婦でもあるまいに、あり得ない。
「――そう、か。これ、か。おかしいですね。何故、でしたっけ。いや、変です。絶対に」
「……嫌な予感がするの。火乃子、お願い、誰にもこの事は」
「それは、構いませんが。……誰に隠してるんですか?」
「解らない。でもおかしいのは、今の通り。引っかかるの。何かが」
 忘れぬように、メモをかき加えて行く。
 箇条書きにした名前に○を付け、違和感の内容を書き記す。何人かピックアップしたが、はっきりと聞けそうなのは火乃子のみだった。
 同室の支倉メイには、何も聞いていない。むしろ真っ先に聞くべきである人物だが、早紀絵の直感がそれを邪魔した。具体的な理由は無い、これも同じく、違和感の類である。
「火乃子、何か、それ以外に忘れてるもの、無いかな」
「いえ、生憎。お役に立てましたか」
「うん。今度埋め合わせするよ、ごめんね、ありがとう」
「はあ……げ、元気ありませんね。なんだか、調子狂っちゃう」
「まあま、大人しい日だってあるさね。そいじゃあ、失礼」
 席を立ち、図書館の外に出る。
 他にあては無いし、あまり事を荒げて杜花達に心配されたくない。
 何となしに、自分の手帳を見つめる。
 真新しいこれは、何時購入し、いつから使い始めたのか。
 一番最初のページは、冬休み明けからのメモだ。
 自分は何をメモする為に、手帳を持ち歩いていたのだろうか。
 クセである、という認識はあるも、普段どういった物を主としてメモしていたのかが解らない。
 ……。
 まあ良いだろう。考えても仕方が無い事だ。
 やる事も終えた、放課後は市子に呼ばれているので、約束を果たさなければならない。
 ただ、放課後というのは市子に生徒が群がるという意味でもある為、手帳の整理をしてから文芸部室に赴く。
 文化部室棟一階一番奥。
 飾りっ気の無い鉄扉のノブを回すと、すんなり開いた。
「やほ」
「あら早紀絵。早いのね」
「市子待たせる奴ってのもなかなか居ないと思うけど」
 本来コンクリート壁である筈の部屋はフローリング改装され、至るところに本が積み上げられている。
 木製のアンティーク机の前で本を読んでいたらしい市子が振り返り、早紀絵にして身震いするような美しい笑みを浮かべる。
 苦手だ。
 当然早紀絵は綺麗で煌びやかなものが好きである。しかしそれらは全て、自分の手の届く範囲のものであり、見た事も無いようなものに対しては、もはや畏怖しかないだろう。
 アリスなども心の底から市子を崇拝しているが、とてもではないが恋人なんて自分ではおこがましい、などと思っているらしい。
 それは早紀絵にも言えたが、もとからの主眼が杜花にあり、市子に触れる気はなかった。しかし関係の性質上、どうやっても早紀絵とアリスは、市子を通さず杜花には触れる事が出来ない。
「かけて。そうそう、電熱器なんて発掘したの。給湯室にお茶を取りに行く手間が省けるわ」
「またそんなの何処から……」
「秘密。ふふっ」
 市子は機嫌が良いと見える。
 早紀絵は三つある椅子の内、二人掛けのソファに腰かけて背を凭れる。お茶を淹れる市子の横顔をぼんやりと眺めながら、妙な居心地の良さに、少し中てられる。
 最初呼ばれた時は何事かと思ったが、二回三回と繰り返している内に、緊張感よりもリラックスに針が振れた。
 四人の関係性を構築して行く上で、アリスは元から妹だとしても、杜花ばかり見ていた早紀絵とはやはり距離があると感じたのだろう。
 つまり今呼ばれているのは、そういった壁を取り払う作業なのかもしれない。
 市子が早紀絵にお茶を出し、直ぐ隣に腰かける。
「今日は何のご用事で、オネーサマ」
「早紀絵とお茶が飲みたかったの。あ、兼谷に持って来させたお茶菓子、食べる?」
「うん」
「――もう長い事一緒にいるじゃない。貴女が杜花にくっ付いて来たのが、小等部の五年生だったかしら」
 ……。
「あー、うん。そうだねえ。『これが御姉様です』って紹介されて、めちゃくちゃショックだったの、覚えてるよ」
「何故かしら?」
「ブン殴られて、教育されちゃってさ。あ、この人について行けばいいんだって思って、なんか嬉しかったのに、その本人がさ、自分の価値観を全て、他人に依存してたわけよ。辛いでしょなんか」
「あー……。謝罪のしようがないわ。あの頃から、私と杜花は……ふふ。ねえ?」
「はーいはい。羨ましい事ですね」
「そう妬かないで。これからは四人で居るんだから」
 市子からお菓子を受け取り、袋を破って口に含む。
 レーズン入りのバターサンドだ。しっとりしたクッキーが口の中で解け、バターの風味が広がって行く。レーズンの甘みと酸味が絶妙だ。ストレートの紅茶に良く合う。
 女の子という生物は、甘みを感じると、理性と本能で鬩ぎ合う。それが顔に出てしまったのか、そんな早紀絵を見て、市子が笑う。
 口に手を当て、上品に微笑む彼女は、どうしようもないくらいに魅力的だ。
 ……あの唇にキスされたのだ。
 杜花が知れば、どんな顔をするだろうか。
 市子はずっと杜花のモノであり、杜花もずっと市子のモノだった。
 互いに他の侵入を許さなかった者同士が、今は許している。
 戯れではするまい。それ相応の理由があるのだろう。
「エピクトテスだったかしら。『快楽に抗するは賢者、快楽の奴隷になるのは愚者』」
「ああ。親は奴隷だし自分は売られるし病弱だし足不自由だしって、偉く辛い哲学者ね」
「当時の世相を読まないで言葉を理解は出来ないけれど、言葉だけ受け取るならば、なんとも残酷ね」
「私は別に愚者で良いよ。賢者ぶって良い事ってあるの?」
「そうそう。偉くなると、背負い込むものが多くなって、結果堕落すると、元からの愚者よりもっと悲惨な目に合うわ」
「で、何の話さ?」
「自分が何者かも解らない世の中で、どれが正しくどれが間違っていてなんて知れず、快楽を否定するか甘受するか選べ、なんて言われても、辛いわよねって話」
「自分のしたい事をする為に頑張るよ。快楽を得る為には努力だって必要だもの。溺れる程の快楽なんて、一体どうやったら手に入るのさ。それこそ小さい幸せを猿みたいにシコシコとかき集めるならば簡単かもしれないけれど、私達は人間だからさ、知性が大きい分、得ようと思う快楽も大きい」
「早紀絵は聡明ね。快楽の価値基準すら不明瞭だから、そう個人次第、と言える。でも、人間も所詮動物だから、恒久的な価値観は存在すると思うの。貴女が求めるものは何かしら?」
 ……。
 なん、だろうか。
 今、自分は十分に幸せだ。
 皆に愛されていると感じる。
 こんな時間が永遠に続いてくれれば、きっと悩みなど無いだろう。
 快楽は次から次へと、勝手にやってくる。
 勿論、積み上げて来たものもあれば、棚から牡丹餅のように降ってきたものもある。その中でもっとも欲しかったのは――やはり杜花だろう。
 それすらも、今は手の届く所にある。
「あー。依存するなってだけの言葉かな、アレって。難しく考えたよ」
「面倒に考えるように振ったのだから、仕方ないわ」
「試したの?」
「ダメかしら?」
「……良いよ別に。悪意感じないし。なんだろうね、天性だよね?」
「違うんじゃないかしら。私は悪意があるわ。貴女が感じないだけで。ねえ早紀絵、キスしてみて?」
 隣に座る市子が、距離を詰める。
 市子の繊細で白い手が早紀絵の手に重なった。思わず顔をあげて、至近距離から市子を見つめる。
 白く、整った顔。まるで日本人形のように髪を切り揃えているのに、暗い憂鬱さはない。
 目の力、放つ雰囲気、彼女の性格と仕草が、そう見せているのだろう。
 しかし。
「――おかしいな」
「どうしたのかしら」
「……なんか、おかしいな。市子、貴女、処女じゃないよね。そりゃそうだ。杜花の、恋人なんだから……」
「――ッ……」
 スッと、市子が手を引く。その目は見開かれていた。
 こればかりは直感としか言いようがない。処女ばかり相手にして来たという事もあるだろう。
 この学院内、総計で二十人以上は、早紀絵が初めてを頂いている。
 処女だからと、非処女だからと、その性格が変わったり、積極性が違ったり、明確にする訳ではないのだが、どうも市子が不慣れなような気がしてならないのだ。
 杜花以外が初めてだからという理由もあるだろうが……それにしても、だ。
「ごめん、変な事言った。忘れて」
「いいの。私こそごめんなさい。貴女を軽んじたわ」
「軽いよ。求められたらスるもの」
 市子の手を取り、ソファに押し倒すと黒い髪が流れるように広がった。
 突然の事に、顔を真っ赤にする市子を気にせず、そのまま覆いかぶさって唇をおしつける。
 ……。
 嗅いだ事のある匂いだ。柑橘系の、けれど淡い香り。
 唇から、市子の体温がじんわりと伝わってくるのが解る。舌入れるか入れまいか、少し悩んでから、吸いつくだけで止めて置く。
「はふ。ああ、やっぱ美味しいや。お上品な味。高級料亭みたいな?」
「あ、あふ。ん。い、いきなりは、ずるいわ。あ、顔、近いから……早紀絵?」
「うん、何かな?」
「何故、泣いてるの?」
「え? あ?」
 市子の頬に、自分が流したであろう涙が滴り、思わず顔を引く。
 目元に触れれば、間違いなくそれは流れていた。
 一体どんな理由があるのか、理解し難い。拭っても拭っても、それはこぼれ落ちて来る。
 ……。
 これは……。
 まあ……。
 良くは……――無い。
「早紀絵、話して。何か、粗相があったかしら? 悲しませて、しまった?」
「い、市子は……市子は……あれ……――へんだな……市子は、何も……悪くない、けど……」
「せ、急いて、しまったかしら。ああ、でも、貴女は頭が良いから……解ってるとばかり……」
「わかってる、解る。うん……でも、なんだろう……違和感が、あるんだ。凄く……虚しいんだよ。私さ、市子の事、嫌いじゃないよ。少し苦手なだけで。心の底からきらいだったら、もっと、汚い手とか使ってさ、モリカを引きはがそうと、したと思う……」
「……何故、そうしなかったの?」
「だって。幸せそうだったんだもの。市子とモリカ、貴女達が一緒にいるのが、一番幸せそうだったから。私は、モリカが幸せなら、それが良い。貴女が、彼女を笑顔にしてくれてて……でも、私達にも、分けて、欲しくて……あれ……」
 チリチリと、脳内を知らない映像が駆けては消え去って行く。
 市子に差し出されたハンカチを受け取り、涙を拭いながら、違和感の先を突き止めようと頭を巡らせるも ……。 しかし届かない。
 ただただ、それが悲しくて仕方が無かった。
 虚しくて仕方が無かったのだ。
「何か……大切なものを……失って……得て……喜んで……おかしくて……」
「早紀絵、落ち着いて。何も……嗚呼……何も、無いから……」
「うん。うん……ごめん。今日は、戻るよ」
「――早紀絵……ごめんなさい」
 後ろ髪を引かれる思いで、早紀絵は文芸部室を後にする。
 市子には申し訳ない事をした。
 キスをして突然泣き出すなど、何に感極まったらそうなってしまうのだろうか。
 頭がまともに働かない。
 袖で目元をぬぐい、早紀絵は走って寮へと戻っ……。
 ……。
 何か。

 ――……。

 何を。
 どうして。
 ……。
 何が悲しいのか?
「あー……っれえ……?」
 何も悲しむ事はない。
 ここは幸せな世界だ。
 自分の望むものがある。
 叶えようと努力しても、誰にも届かない程に幸福で埋め尽くされている。
 早紀絵は立ち止まり、躑躅の道で辺りを見回す。
 どうも気持ちに靄がかかっていて、スッキリしない。いつもの寂しがりが出ただろうかと考え、直ぐに連絡の付きそうな恋人達の顔を頭に思い浮かべる。
 しかしタイミングが良かった。遠くから歩いてくる二人に見覚えがある。
 その姿を認め、早紀絵は笑顔で手を振った。
「おうい」
 後輩の織田楓と、古文教員の小野寺姫乃である。
 二人とも地味目な人物であったが、早紀絵が手を出してから、身だしなみに気を使うようになったらしい。
 田舎のお嬢様然としていた楓は化粧っけが出て、教科書見本のようだった姫乃は少しサイズの小さいスーツを着るようになり、髪も少し茶色を入れて色気を出している。
 問題はその全部が、早紀絵の助言そのままだという事ぐらいだろう。当然、好みだからそうするように言ったまでだ。
 タイミングは良いのだが……組み合わせが不味い。
「あ、早紀絵様!」
「早紀絵さ……様?」
「やー、楓。姫乃先生。どしたのかな」
「はい! 小野寺先生にご指導頂こうと思って、これから談話室に」
「そ、そっかあ。勤勉だね、頑張ってね」
「早紀絵様? どうしたんですか?」
「……早紀絵さん。この子はさっきから、早紀絵様早紀絵様と……」
「あははは」
 十五人ほどいる恋人の中でも、この組み合わせはあまり宜しくない。
 二人とも『他に恋人がいるのは我慢したとしても、その人と会っている所は見たくない』という、気難しい類の女性だ。
 そもそも他に恋人がいる時点で普通ではないのだが、早紀絵基準からすると少々困りものである。とはいえ二人とも根っこから優しい人物で、早紀絵は良く甘えてしまう。
「……はて? 早紀絵様は早紀絵様です、先生」
「ねえ、早紀絵『様』。この子、貴女の愛人ですか?」
「あ、あー。うん。ま、ほら。普段そんなさ、ある組み合わせじゃないしさ」
「え、ええ? せ、先生? 生徒に、手を!?」
 楓が手に持った教科書をおとし、口元を手で覆う。わざとらしく、あざとい子だ。
 それに対して姫乃は一つ咳払いし、首を横に振る。
「人聞きの悪い事を言ってはいけません、織田さん。手を出したなど。手を出されたんです」
「い、一緒じゃないですか。さ、最近なんだか色気づいたと思ったら、それですか!?」
「ぐぬ……織田さん、案外はっきり言うのね……」
 楓は追い落とす気満々だ。さてどうしたものか。
 ここで逃げ出すのは三流だ。
 二人を取り持とうと詭弁を弄するのは二流である。
 恋人十五人、プラス別枠で杜花とアリスまで含めれば十七人、プラスペット一匹。最近は市子まで近づいてきている、そんな観神山女学院始まって以来の女スケコマシ、満田早紀絵の取る行動は、単純にして明快、かつ手っ取り早い。
「姫乃、楓、こっち来て」
「え、あ、はい?」
「はあ……」
 まず一番最初に近づいた楓を腕ごと抱きしめ、唇を奪う。唐突の事に驚く楓を無視し、その歯の間に舌をねじ込む。
 じっくり二十秒、口内を舐り回して離すと、粘度の強い唾液が二人に橋をかけた。それをわざとらしく、見えるように舌舐めずりして絡め取る。
 続いて姫乃を、今度は優しく抱きしめ、首筋に舌を這わせたあと、鎖骨にキスをしてから、目を見つめあう。
 放課後、まだ生徒もいる時間だ。こんな事をしていると見つかれば、相当の噂になるだろう。二人とも顔を真っ赤にして俯く。早紀絵は頷いた。
「……楓、姫乃。個人授業は中止ね。私がどれだけ二人とも同じくらい愛してるか、教えてあげるから。ねえ?」
 窘めるように、怪しい笑みを浮かべて、二人を誘う。果てしなく強引だが、それが通じてしまう程に、二人は早紀絵無しではダメな人間にされてしまっている。
 恋人達は、他の女とのいざこざ如きで早紀絵を見限るなんて真似はとても出来ない。そんな事で早紀絵を失うのは、あまりにも惜しいのだ。
 求めれば与え、与えれば求められる、精神的にも性的にも、彼女達は満ち足りる。
「は、はい――」
「わ、わかりました……」
「姫乃、飲み物貰ってきて。六時ごろまで、私頑張っちゃうから。くふふ……一杯シたら、喉渇くでしょう?」
「い、今。貰ってきます」
「楓は鍵借りてきて。バレちゃったら、恥ずかしいもんねえ? そういうの、好きだろうけど」
「あ、ふ。は、はい」
 二人が早紀絵に小さく頭を下げて、小走りで去って行く。
 いや、こんな事をするつもりはなかったのだが、と早紀絵は頭を掻き、まあ可愛いから何でもいいかと、ダメ人間ぶりを発揮する決意をした。
 大切な事を忘れていると、心の片隅に抱きながら。




 ……自室の勉強机に置かれた鏡を手に取り、首筋を確認する。
 紅い跡が二つ、しっかりと残っていた。
 制服を着ていれば解らないだろうが、これはお風呂でも目立つのではないだろうかと、少しだけ頭をよぎる。まあ、それは別に良いかとして、早紀絵はベッドに身体を投げた。
 約二時間半程だっただろうか。
 一人相手なら良いが、流石に二人一緒に相手するとなると、体力も神経も消耗する。
(二人とも欲求不満すぎる)
 人の事など言えた義理ではないが、実際二人は激しい。キスだけでどれほど長い時間したか、記憶があいまいだ。
 問題の二人の仲はといえば、一時間もした頃にはすっかり二人でじゃれ合っていたので、早紀絵も一安心である。
 早紀絵はあまり、演技が得意な人間ではないが、殊性交渉に関しては例外だ。
 肌を交えて体液を交換していると、必要以上に相手が愛しくなる。本能的にそうした方が気持ちが良いと知っているからだろうか、入り込むと、当日会ったばかりの相手でも、初恋にも似た熱を帯びる。
 こんな事をしながら、もう何年この学院で暮らしているだろうか。
 早紀絵のボーイッシュな容姿にスタイル、複数の人間を相手にしているという経験の多さを目当てにする子は、潜在的に数十人に上るだろう。
 節操無しの淫乱と罵られればまったく否定出来はしないが、これほど特異で好奇心を駆り立てる少女は他に居ないのが現状である。
 ……。
 早紀絵は特別だ。
 誰から見てもそうだし、自分でも自覚している。
 環境のお陰でお相手は女性ばかりだが、本来男性も嫌いなわけではない。早紀絵は性別という括りが薄いのだ。根本的な評価基準は容姿でなければ、性格でも性別でも無い。
 言葉で表す事は無いが、一番見ているものは熱量である。
 その人物が発している、オーラとも言うべきものだろうか。人間的に浅い深いも関係する。
 どこまで見つめても底が見えない、上が観えない人物。
 当然そんなものがコロコロと落ちている訳ではないが、幸いなことに、早紀絵の周りには居た。
 ……。
 アリスは素晴らしい。美しく、強く、感情表現も思慮も浅くない。一つ一つの仕草が愛しく、見ているだけで微笑ましい。もっと二人になる機会も欲しいのだが、学院では忙しいので、それも難しい。今後の課題だろう。
 杜花は完璧だ。もう、これに関しては、何がなんだかわからない。井戸の奥底をさらって死体が出て来るようなおぞましさと、制御不能のジェット機を、訓練もマニュアルも無しにただ上へ上へと上昇させるような絶望感がある。彼女の発する『熱』は、もう人間が触れて良い領域のギリギリだろう。
 市子に関してはもはや言うべき事もない。あれは手の届かない場所にある。それがちょっと地上におりてきて、早紀絵にちょっかいをかけているだけだ。これを本気にしたら、早紀絵は終わってしまう。
 ……そうだ、終わってしまう。
 七星市子という人物は、自分を何者か、良く分かっている筈だ。それが、何でまた早紀絵に手を出すのか、理由が知れない。
 彼女に依存すればするほど、満田早紀絵という形が崩れて、七星市子の一部になってしまう。没個性というよりも、彼女のアクセサリーにされてしまうのだ。
 本気でアレに対抗出来る者など、それこそ欅澤杜花ぐらい、何を考えているのか解らない人間のみと言える。
 ……。
 ぼんやりと、これからの事を考える。
 確かに、形成を崩さなければ、市子以下三人は仲良くやっていけるだろうが……本当にそんなものが延々と続く筈はない。長い人生の、まだ最初だ。せめて身体は衰えさせないように頑張るしかないか、いや、バイオアンチエイジングなんてものもあったか、などと頭を巡らせる。
「……早紀絵嬢」
 ベッドで伸びあがっていると、ドアからノックと共に、兼谷の声が聞こえる。
「どうぞー」
 返答を得ると、メイド服の兼谷が静かに入室した。
 何を言うでもなく、彼女は静かに座卓の前に座る。
「どしたの、かねやん」
「はい。遊んでもらおうと思いまして」
「あー。ごめん、生憎今三人でシて来た所なのよん。ご飯食べてお風呂入って寝たいです」
「それは残念」
 そういって、兼谷は懐から取り出した合法薬物を卓に置く。
 ポピュラーなもので、世界中で認可され、薬局で手に入る。
 脳内の快楽物質を、興奮の度合いに応じて適度に増やしてくれる優れモノで、依存性がない。
 挿入の無さを物足りなく思うレズビアン御用達だが、早紀絵には無用のものだ。
 それに合法とはいえ、学院に持ち込めるものではない。
「禁制品を生徒の部屋に持ち込む教員ってどうなの」
「使うかと思いまして。でも、早紀絵嬢のテクニックは一級品で、そんなものは使った事がないと、伺っています」
「し、調べないでよそんなの、恥ずかしいな」
「こういうのもあります」
 そういって、どこから取り出したのか、黒光りする小さい箱を薬の隣に並べる。
 早紀絵の記憶が正しければ、それはセックス用のナノマシンパッケージである。
 一昔前まであったローターのような外見なのだが、挿入するとパッケージ内のナノマシンが自動で感覚器の弱い部分、つまり性感帯を探しあて、興奮と同時に発生する物質を嗅ぎ分けて刺激の強弱を決め、自然にして強烈な絶頂を齎してくれるという、トンデモ発明品だ。
 ナノマシンは数時間で無害になって老廃物として処理されるが、不具合も確認されており、認可のない違法品である。
「そ、そんなものどこから。うえ、現物見たの初めて。不思議なお薬より高いでしょ、これ」
「趣味で」
「無茶な。しっかし、それ持ってこられても、使わないんだよなあ。どしたのさ、急に」
 兼谷は足を崩し、卓に肘を付く。ベッドに寝そべる早紀絵を目線で呼ぶのだ。
 なんだか少し近寄り難いが、美人に誘われて付いて行かない程、早紀絵は甲斐性無しではない。
「七星の次代を担う市子お嬢様の、奥様の愛人、という大変倒錯的な立場である早紀絵嬢の様子を伺いに」
「あ、偵察ね。御勤め御苦労さま。大変だね、こんなところぶち込まれて」
「いえいえ。何も知らない無垢で美しいお嬢様方をあれこれと指導出来ると思うと、胸が熱くなる想いです。天職かもしれません」
「良いとこだよ。少し真面目すぎる所もあるけど。私ここ転校してきて良かった」
「……どうですか、普段の生活で、何か困った事や、悩みはありませんか」
「別段と。たまに恋人のヤキモチやき同士がぶつかる程度で。それもまた、良いんだわねえ。くふふ」
「ネコなのに、タチを演じされられて大変ですね」
「こほん。あーあー、そういう詮索は良いです。女の子と肌合わせてるだけで幸せなの」
 ……。
「それは良かった。幸せが一番です。クソ淫乱の雌犬である貴女ですけれど、意外と純粋なのは知っています。これからも、市子お嬢様、杜花お嬢様を宜しくお願いします」
「すげえ罵られ方した気がするけど、なんかそこが可愛いなあ、かねやんってさあ。美人だし」
「あら、お疲れでは?」
「口説くのに疲れる程歳とって無いよ。あ、そうだ、キスしない?」
 ……。
 早紀絵は兼谷の隣に座り、その手を取る。
 本当にメイドなのかと思うほど綺麗で白い手を口元に運ぶ。早紀絵の性癖だ。気のありそうな子が綺麗な手をしていた場合、どうしても、口に運びたくなる。兼谷に表情の変化は無い。
「……口唇期が残ったままの赤ん坊か、手フェチの変態か、色情狂のキチガイか、どれ?」
「全部かな?」
「逞しい人ですね。調教し甲斐がありそうです。杜花お嬢様に許可を取っておきましょう」
「楽しみかも」
「……幸せそうで何よりです。では」
「はいはい、おつかれさん」
 兼谷はスクと立ち上がり、一礼して部屋を後にした。
 座卓に残された禁制品の始末をどうするか考え、取り敢えず机の引き出しに隠しておく。支倉メイを虐めるのに役立つだろう。よがり狂って悶える姿など、きっと可愛いに違いない。
 取り敢えず、額にかいた汗をぬぐい、そのまま後ろに倒れる。
 ――酷いデジャヴを感じる。
(……ありゃ、なんだろ。冷静な顔して、部屋中キョロキョロ見てたし。探るって割には、変だな。質問も、的を射ない。幸せそうで何より? 確かに市子に無関係じゃないけど、そんなお伺いを立てられる程じゃないと思うんだけどな)
 七星にかかれば、満田家など屁でもない。わざわざそこの娘の動向など、気にしなくても良いだろう。市子が早紀絵に接触を深めている事に、関係があるだろうか。
「それと」
「うひょあっ」
 ガチャリとドアが開き、去った筈の兼谷が顔だけを覗かせる。
 思わず跳ねあがって座卓をひざ蹴りし、そのまま膝を抱えて悶絶する。
「……失礼。市子お嬢様は、早紀絵嬢の部屋に、何か忘れ物などしてはいませんか?」
「いででで……無いよそんなのぉ……」
「左様ですか。では」
 何がしたいのか、何が言いたいのか。相変わらず兼谷は掴みどころがない。
 膝に鬱血が出来ていないか確認して、改めてそのまま横になる。
 市子はそもそも、あまり早紀絵の部屋にはこない。来る場合は杜花やアリスとセットだ。忘れて行くようなものは無いと考えられる。
(……もし探るとしても、理由はなんだ。兼谷の行動原理なんて、市子かモリカを主眼に置いたものしかない。忘れ物? 何か大切なもの、失くしたのかな……)
 ……。
 純粋に、探し物かもしれない。
 いや、そうだろう。
 それが一番納得行く。
 心当たりの無いものをいつまで考えても仕方が無い。
 早紀絵は勉強机に向かい、カバンからポーチを取りだす。
 鏡やリップ、ハンドクリーム、絆創膏など、化粧道具とは別のこまごまとした物が入っている。先ほどぶつけた膝は内出血こそ起こしていないものの、角にぶつけたお陰で擦り剥いてしまった。
「いでで……もう、かねやんめ。気配無いんだから、少し配慮しろっての」
 兼谷に悪態を吐きながら、絆創膏を張ろうとするも、適切なサイズが見当たらない。
 ポーチの奥底を漁っても出てこないので、仕方なく中身を机に全部出す。
「……――うーん……?」
 妙な違和感があった。
 何かここには、大切なものが入っていた気がするのであるが、それが何なのか、浮かんでこない。
 これも、忘れてしまったものの、一端だろうか。
「戻りましたぁ」
「おーう、おかえりーメイー」
 取り敢えずサイズの合う絆創膏を貼り付け、戻ってきた支倉メイに振り向く。
 いつもなら返ってきたついでに足でも舐めさせるのだが、メイの表情がいささかおかしい。
 普通といえば、そうなのだ。
 しかし毎日のようにメイを見て、メイを弄り倒している早紀絵からすれば、どうしようもない違和感がある。
「何か、探していましたか?」
「あ、ポーチの中身ね。絆創膏探してたの」
「サキ様お怪我したんですか? メイ、傷口舐めてませんよ。なんで張っちゃうんですかあ」
「お前は本当にアレすぎて素晴らしい子だね。ほりゃ、こっちおいで」
 手招きすると、メイが鞄を投げて上着を脱ぎ捨て、椅子に座る早紀絵の上に跨いで乗る。いつものメイだ。
 だらしない顔は愛嬌に溢れ、思わずその可愛らしい顔を汚してみたくなる。サディストではない早紀絵の嗜虐心さえあおるこの子は、もはや天性のマゾヒストだ。
「良い子良い子。メイ、おっぱい少し大きくなった?」
「サキ様がもみくちゃにするからぁ……」
「おっきいのもちっさいのも好き。お前はだらしない方が良いね。よしよし」
「あうっ、あうっ」
「なー、メイ。このポーチだけどさ、私なんか、大切なもの、入れてたような気がするんだよね」
「なんでしょーね?」
「私なんか、忘れて無いかな。そうだ、お前にも聞いておくかな」
「はい?」
「メイ、お前さ、なんか、おかしいと思った事ない? なんか変、何か忘れてるってさ」
 身体をくねらせて、ふざけていたメイの動きが、ピタリと止まる。
 何事かと思い、胸にうずめていた顔を上げると、メイと眼が合う。
 その表情を、なんと言葉にすればいいのか、早紀絵には解らなかった。
 今までに見た事の無い、悲しそうな顔であるし、無念であると、悔しがっているようにも、思える。
「あー……」
「……メイ、メイは可愛いね。メイは……」
「サキ様?」
「……虚しい。こんなの。おかしい。私、幸せな筈なのに。好きなもの、全部手に入れてるのに。なのになんで、こんなに、寂しいのさ。メイ。教えて、なんで? 全部全部、一時の物ばかりで、具体的に得るものが、無いような気がして……」
 胸に詰まって行くものは、幸せという名の空気のような、何か。
 快楽を満たすのは、可哀想な自分。確かにある筈の幸福が、まるで維持出来ないでいる。
 愛しい筈、可愛い筈の子達を抱きしめても、それが直ぐに消え失せてしまうのではないかといった不安が消えずに残る。
 こんな気分は初めてだった。
「市子にも聞きました。なるほど、これは、ダメですねえ。彼女の存在が、貴女を悲しませてる」
「市子?」
 メイは早紀絵を離れ、立ち上がる。
 そのまま窓の外に近づき、カーテンを開けて外を望む。
 何時の間にか、深々と雪が降り始めていた。また盛大に積もるのだろう。
 目に見え、触ると冷たく、しかし何時の間にか消えてしまう雪は、まるで早紀絵の感情に似ていた。
「サキ様、世界はですねえ、思いの外、優しさで出来ているんですよ」
「――何言ってんの、メイ?」
「まじめな話です。ちゃんと聞かないと、ダメーですよう」
 メイが振り返り、早紀絵を見つめる。
 過去に、これほど真面目な顔をした事があっただろうか。
 仕方なく居住まいを正し、正面を見る。
 メイは何度か口を開き、語ろうとするも止める。言葉を選んでいるのかもしれない。
「みんな善意です。良かれと思ってやります。それが自分の優しさだって。でも、皆がそう考えている訳ではないので、当然衝突したり、勘違いしたり、望まない結果ばかり導き出してしまいますねえー」
「……まあ。そうだね。人の心ばかりは、解らないから」
「残念ながら、解ったところで、たった一人の人間すら、理解出来ないんですよぅ。悲しい事ですねえ」
「ごめん。お前が何を言いたいのか、サッパリだ」
「はい。そうですねえ。でも、言質とっちゃいましたから。それに、杜花様もアリス様も、同様みたい。私は『前の市子』との『約束』を実行しますね」
「約束ぅ?」


「あー。コード支倉メイ、メンテナンス管理権限。解除ID230403567191943。第一寄宿舎203号室。限定解除申請……あ、うわ、上位権限ロックかあ。あんま解除出来ないですねえー。用心深いなあ二子ちゃんは。締まらないなあー」


「おいおい、SFごっこかい? ……――いやー……そういうのはー……あー……え?」
 支倉メイが、何やら妄言を吐いたかと思うと、早紀絵の思考が異様なまでにクリアになるのが実感出来る。
「少し頭を借りますね。感応干渉します」
 ……。
「な。なに」
「あ、結構いける」
 ……。
 いや、ちょっと――待て。
 自分にあり得た記憶が、波のように押し寄せる。
 自分が今、どれだけ間違っているのか、どうしようもなく理解する。
 なんだこれはと、思考を止める。
 なんてことだと、思考を進める。
 ぐるぐると円を多重に描き、それは螺旋となって、脳幹に叩きこまれる。
「おいおいおいおいおいおいおいおい……!! なんだぁこれえぇ!?」
「シーッ。サキ様、少し静かにしてぇ。兼谷に聞こえちゃいます。あ、盗聴器はありませんから、普通の声でどーぞ」
「メイ、何これ。私達……何してるんだこれ。は? 市子? なんで? ああー、ハッキリ思いだせない」
「解除深度が浅いのでぇ。ごめんなさい、私にはこれくらいしか出来ないです」
「どういうこった、メイ。お前、何者だ?」
「あー……はい。その、ううんと。ごめんなさい……」
 メイがその場に沈み込み、土下座する。
 混乱と混線を繰り返す思考回路に頭を痛めながら、早紀絵はメイをひっ捕まえて、コロンと転がし、馬乗りになる。
「吐け、全部吐け。何で市子が居る。なんで私達は気付かなかった。一体、どうなってる、お前は、なんだ?」
「ひ、一つずつでお願いします……。あの、まず、御断りしておくと、ですね? メイはその、決してサキ様をハメようとか、裏切ろうとか、全部演技でしたとか、そんなのは、ないんです。し、信じてくれます?」
「……私の事好き?」
「貴女が望むなら、メイはなんだってします。好きすぎて、頭おかしくなりそうです。死ぬ以外ならやります」
「解った」
「やぁん……サキ様、怒った顔怖くて可愛いい……」
「……はあ。まあ、いつも通りでは、あるのね」
 思考にノイズが混ざる事はない。
 まだまだ前の事を思い出せない節はあるが、断片的に今まで、自分が何をして来たのか、理解出来るようになってきた。
 考えるに、どういうわけか頭の中を改竄されている。
 電子的なものか、それ以外か、理由は知れないが、メイの言動を見る限り『強制的に状況を作りあげている』可能性が高い。
「じゃあ、まず。今何が起こってる。一応学校に帰ってきてからも、連続性は間違いない。ただ、学校に入ってから、私……いや、周りのみんなが、まるで市子が居て当然のような振る舞いをしているし、市子も当然のように居る。これは何」
「たぶん知っていますよねえ? 七星二子」
「う……ん。そうだ。二子、二子は」
「だから、市子です。七星二子は、七星市子になりかわった。たぶん、今の状況で彼女を見れば、間違いなく七星二子に見えると、思いますよ?」
「ホログラムアバター? いや、質量があった。キス、されちゃったし。うん」
「そういう現代的な仮想映像技術じゃないですねえ。結晶、あったでしょう。軍事用次世代記録媒体。あれには、七星市子の全データが入っていました。結晶は全部で五つ。学院に隠したのは四つ。記憶、思考、動作、人格、その諸々です。それに、疑問があったでしょう。なんで、記録媒体如きが、幻覚を見せたり出来るのかーって」
「ああ、うん。そうだ。それは全部そろって、二子の手に……兼谷め……」
「市子のESPを知ってますよね。私達七星はあれを『他者感応干渉型能力』(マインドクリエイト)と呼んでいます。考えを読んだり、記憶弄ったり、まるで物があるように見せたり、脳を勘違いさせちゃったり、出来ちゃうんですね、個体差はありますが」
「ええと、じゃあつまりだ。その結晶には……そうか、神社で二子も言ってた。結晶のデータがそのまま超能力を発現させてる可能性があるって」
「はい、ご名答です。元から認知されて研究もされている能力なのですが、学院丸ごと改竄となると、二子だけでは出力が足りなかったのかも。そもそも元は撫子の力を再現して二人に付与したものです」
「人格のバックアップ自体には、何の力もなかったの?」
「はいはい。直接書き込まれたデータしか発現しないみたいで。本当に、少ない違いですけれど。でも回収後の結晶からの解析は早かったです。何せ政府しか持ちえない量子コンピュータとか使っちゃってるので。電子的工学的異能研究学的に現在、これを応用した技術でもってして、学院全域にその力が及んでいます。波のようなものですよ。プログラムされている世界は『七星市子が生きている世界』です」
 メイが、にっこりと優しく笑う。
 最初からこれが目当てだったのだろうか。
 いや、少しおかしい。
 市子は『データを使って蘇生する』ことは解っていても、まさか学院全体を改竄するまでの構想をしていたとは思えない。矛盾が多いし、不確定要素が多すぎる。
 そもそもそれなら『隠す必要性』がまるでない。『隠す理由』があると見た方が良いだろう。
「メイが聞いた限りでは、ですけれど。本来なら、市子のデータを二子に移植して、受け入れてもらえれば済んだらしいです。でも、欅澤杜花は、二子に対して凄まじい否定感を持っていましたから、それだけでは不安だったんですねきっと。けどやっぱり、実験結果でも出ていますが、たび重なる矛盾と、精神力で、拡散ESP如きは無効化されちゃうみたいですね。残念無念ですねー」
「これからどうなる」
「マザーコンプから設備拡張してアンテナ拡散して、皆が違和感を持たないようにします」
「……でも、それじゃ変だ。外に出たら、直ぐわかっちゃう」
「どうでしょう。記憶にないですか? あ、消されてたらないか。強く改竄された場合、範囲外に出ても脳は勘違いしたままです。それに出られませんよ。杜花、アリス、早紀絵の三人は、単独で外出許可が下りません。市子……いいえ、二子か兼谷が付き添わないと」
「二子は、何がしたい? いや、一郎は何がしたい?」
「幸せにしたい。そう言っていました。詳しくは解りませんよ」
「……なんとも、まあ……」
 溜息を吐き、メイを解放する。
 大量に押し寄せる情報を処理する為に、気持ちを落ち着かせようと、ポットからお茶を注ぐ。
 唇を火傷しそうになる程熱いお茶を口に含み、ゆっくりと嚥下して、また溜息を吐いた。
 隣にメイが寄る。
 だが、くっつこうとはしない。
「いいよ、くっついて」
「あふふ……。だって、メイ、怪しいじゃないですかあ?」
「思えばさ、お前がいつから私の隣に居るか、思いだせないんだよね」
「あい。私は二子……二子ちゃんのESPデータを埋め込まれた、デバイスの実験個体です。ここに編入したのは高等部一年から。貴女達に違和感を与えない程度には、近づく事が出来ましたね?」
「お前、何?」
「七星分家支倉の、メイですよ。実家が工場というのは、嘘。利根河撫子の複製です。彼女が持ちえた力は無いし、顔は変えてあるんですけどねえ? ただ、出来が悪くって。あ、でもその、真お父様、責めないであげてくださいね?」
「……うわー……七星ドン引きだわ……」
 思わず顔が引きつってしまう。
 本気でやっていたのだ、七星は。
 一応は世界的に存在しないとされる複製人間を造り、堂々と運用している。
 通常の常識に照らし合わせれば、笑って許されるものではない。
 許されるものではないが、バレなければ咎められはしないし、咎められたとしても、咎めた人物は公の場から姿を消す事になるだろう。
「あ、やだ! きらいになりますか!?」
「んーん……メイがメイなら、いいや。でも七星じゃ、別に養う必要なくない?」
「えー。私なんて末端ですよう。もっとサキ様の下で生きて行きたいです。自由にしていいって言われましたから」
 やることが、無茶苦茶である。
 一体どんな思考回路があったら、ここまで出来るのか、理解不能も極まる。
 七星という奴らが、真っ当な理屈の中で生きて居ない事は良く分かった。
 それにしてもだ。
 自分達が一生懸命杜花を市子の残滓から引きはがそうと考えていたものは、徒労だった様子である。こんな事をされては、一個人が戦うには相手が強大すぎる。
 どこの誰が学院生徒丸ごと記憶改竄なんぞしようと思うか。
 妄想ではなく、実行しようとして、挙句本当にするのだから性質が悪い。
 流石の満田早紀絵も呆れかえる。
 そう考えれば、二子の余裕はもっともだ。
 どれだけ早紀絵とアリスが気張ろうとも、杜花は市子……二子の物になる。
 ――しかしともすると、結晶隠しとは何だったのか。
 本当に市子の戯れならば、ますます頭が痛い。
「それで、撫子さん」
「メイです。同じ肉体を持っているからと、同じ人間になるとは限らないんです。メイは、メイです」
「どゆこと」
「記憶とは精神を、そして二次的に肉体を形成します。メイに撫子と同じ力が無いのも、記憶から能力が形成されるからです。メイは、撫子と同じ手順で育ったわけじゃないので、天然で能力を発動する記憶の道筋をたどっていないのですよぅ」
「も、もう少し解りやすく」
「んーと。メイは『撫子』になる為の正式手順を踏まない『撫子の遺伝子だけ同じ人』なのです。メイが多少使える感応干渉は『撫子』の正式手順で産まれたものではなく『二子から引き出したESP脳波パターンプログラムを結晶に閉じ込めたもの』を埋め込んでいるから、です」
「なる、ほど。解った――じゃあメイ。なんで喋った?」
 これが謎だ。
 ここまで深く事情に精通しているなら、どう考えても『運営側』である。
 その運営側がわざわざ、怪しげな新聞を作るお喋りお嬢様に語る理由はない。それでは『問題を解決しろ』と言っているようなものだ。
 それを問うと、メイは苦い顔をする。
「私は、市子が死ぬ間際、シナリオ管理を任されました。貴女達が結晶を見つける手助けをするように。それと、二子ちゃんとの仲を取り持つ役目も負いました。これを通じて、二子ちゃんと杜花様が仲良くなってくれれば、市子も復活し易かったんですけれど、二子ちゃんがあんな感じですし、真お父様が思っていた以上に、杜花様が否定的だった。それでですね、二子ちゃん、もしくは他の『適合姉妹』が市子になって、もしそれに、誰かが納得しない、疑問を呈するような事があれば、全部ゲロって良いって言われましたから、喋りましたよ。さっき、貴女に泣かれてしまったって、二子ちゃん……いや、あれは市子人格かなあ。が、悲しんでいましたから。それに、私も、貴女の悲しい姿を見続けたくなんかない」
「だとしても。その改竄するやつ」
「改竄機構。思考数値干渉装置です。元はアジア戦火後に企画されたESP人工化計画。軍事用でしたけど、今は重度の痴呆なんかを患っている人や、脳障害を抱える人の介護目的で開発されています。本来だと自軍友軍部隊の洗脳、敵軍かく乱、装置を拡散出来ればなんでもござれです、こわこわ」
「それ、強化すれば、いいんじゃないの? そうすれば、お前達の願いがかなう」
「普通の人達は、気が付きませんでした。でも、杜花様とアリス様、それにサキ様は、何度兼谷が直接干渉しても、思いだしてしまう。幾ら強化しても無駄でしょうし、あまり干渉しすぎると、脳に欠損が出てしまう。そんな怖い事、市子も二子ちゃんも私も、それに兼谷も嫌だと思いますよ」
「……私、お前の事犬扱いしてるのに、そんなに私が好き?」
「大好きです。嫌になっちゃうくらい好きです。毎日毎日サキ様の事考えてます。毎日サキ様でオナニーしてます。好き、好きです。大好きです。愛してます。サキ様」
「あ、いや、あの、メイさん?」
 大事な話をしている最中なのだが、メイとしては自分の欲求が優先されるらしい。メイはそのまま早紀絵を押し倒し、先ほどとは逆に馬乗りされてしまう。
 眼前にメイの顔が迫り、頬を撫でられたかと思うと、その生温かい舌が早紀絵の口に割って入った。
「んっあ、こらぁ……」
「すき、しゅきです……」
 ……五分程だろうか。
 早紀絵の弱い部分を完全に知りつくすメイのフレンチキスは、少し冗談では済まされない強烈さであった。
「あふ……あくっ……うわ……も、下着ぬるぬるする……調教しすぎた……うますぎる……」
「あふふ。あの、おこがましいといえばそうなのですけれど。ご褒美に、ペットから恋人にしてくださいよう。ダメですか?」
「わ、解った。負け、降参する。メイは恋人で良い。ううん。ランクで行くと、杜花とアリスの次で良い……敵わないや、これ。ああ、我ながら……なんてダメな女なんだろう、私……」
「やったあ……ッ。じゃあじゃあ、もっと喋っちゃいましょうか。ああもう何でもいいですようサキ様ぁ」
「これ以上キスされたら、イッちゃうから、ダメね……ああもう、頭こんがらがってるのに、緩くしないでよ」
「やった! あふふ。喋ってよかったあ……あー。でも、少し残念でも、あるんです」
「な、なんで?」
「市子と、杜花様と、アリス様と、サキ様。みんなが幸せそうにしている姿、メイはもっと見ていたかった。死んでしまった市子との思い出を取り戻すように触れあうみんなを、外から見ていたかったんですよ。だから少しだけ、残念」
「……喋らなきゃ、私は結局気が付かなかったかもしれないのに」
「……二子ちゃんです。彼女――本当に、七星市子になりたかったのかなあって。それに、少し予定外の事があって。結局、市子の人格データは、姉妹達の中でも二子にしか適合しなかったんです」
「つまり……代替えって、二子以外あり得ないってこと?」
「特に撫子複製の姉妹には、殊更拒否反応が出て。本当は、二子で実験した後、移し替える予定だって聞いていたんですけど、ダメでした。市子も二子以外の複製姉妹を前提で考えていた。二子はそれを知っています。知ったのは最近でしょうけれど。そして、知っていて市子になろうとした。でも、市子の人格データを適用した後、市子になるとハッキリ言い出しましたから……それがつまり……」
「二子の意思なのか、市子の意思なのか、解らないと、そういう事」
「はい。だから、最終手段を残してあるそうなんです。貴女達に判断してもらおうって」
 そういって、メイは投げ出した上着の襟を漁り、張り付いていた何かを引きはがす。
 ――それは……鍵。
 櫟の鍵だ。
「兼谷が嗅ぎ回ってますよ。記憶を改竄する折、貴女の身のまわりは全部漁られて、二子や撫子に関する情報は抹消されてる。この鍵も疑われると思ったので、私が回収しました。窃盗犯でごめんなさいです」
「……二子から渡されたのに、何故知らなかったのさ、アイツ等は」
「結晶一つ、破損していましたねえ」
「……そう、だね」
「私がタイミングをはかって破損させました。市子の隠しごとはその破損結晶に詰めていたみたいです。勿論七星ですから、どんな手段を使っても復元しますし、現に復元させたものを二子に入れています。単なる時間の引き延ばしにしか、ならなかったですけれど」
「ともかく――良くやった。そうか……『見つからない宝』か」
「渡しておいてなんですけれど、鍵としての機能はあまり意味がないんですよ。入れ物なんてこじ開ければいいだけですし。問題はそこじゃない、んでしょうねえー」
「モリカも言ってたよ。鍵に鍵としての機能は、期待出来ないってさ」
「そういう意味で……この鍵は、貴女達の記憶を引きずり出す為の、トリガーでしょうねえ」
「どう、しよっか」
「今、市子には二子の基礎人格データも入っていますし、データ解析も終えたでしょうから、鍵の意味を知っている。撫子、花、誉、きさら達が見つけられなかったもの。サキ様。今からまた、この部屋のアンテナを再起動します。意思を強く持って下さいな。そうすれば、忘れる事もない。ただ、二子はもう心は読みませんけれど、兼谷は危ないです。私より出力の強いESPデータを保持して、記憶を漁っていると思います。行動は、迅速に」
「――市子は。市子は、その隠した宝を、消したりしないのか? そもそも、その改竄機構、壊せないのか?」
「壊したら治します。簡単ですもん。それに、消したりはしないでしょう。自分で決めた事を曲げる人じゃないって、知ってますよねー。自分で仕掛けたもの、自分で弄らないですよ、市子は」
「なんで確証が持てるの」
「市子は言ってました。学院に隠したのは、本能と理性だって。『これ』は、市子の理性です。それに」
「それに?」
「――何か少し、おかしい。私の聞いていた計画と、誤差があります。そもそも学院丸ごと改竄自体が、市子の意図にそぐわない。撫子再現は、まだ続いているのかもしれない。もしかしたら、もっと別の意図が、あるのかもしれない。兼谷の動きが気になります」
 メイはそういって、小さく俯く。
 鍵に鍵としての意味はなく、しかし開いたものはつまるところ『今の状態』なのだ。
 七星市子が隠した『理性』の断片は、彼女が思っていた以上に重要になってきている。
「……解った」 
「場所は……たぶん、すぐ解ります。杜花様か、アリス様が、教えてくれる。サキ様」
「うん」
「大好きです。私が何者か知っても、気持ちを変えずに居てくれる、そんな適当な貴女が大好き」
「酷い言われよう。うん。でも、それが私だから。こそこそ嗅ぎ回ったり、横恋慕したり、恋人沢山作ってみたり、適当してみたり、まあ本当に、酷いけれど、それが私なんだ」
「あふふ。嬉しい――では」
 七星の善意の現実を。
 二子の意思を。
 市子の理性を。
 貴女達で確かめてください。
 そういって、支倉メイは、改竄機構を再起動させた。


 プロットエピソード4/心象楽園/構造少女群像 つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿