2013年4月26日金曜日
心象楽園/School Lore プロットストーリー5
……。
その心はいつも一人ぼっちだった。
小児ではありえない客観性と自意識は同年代の子供と群れる事を否定し、欅澤杜花を取り残す。あまりにも冷めた杜花の態度には、母の杜子ですら気味悪がったものだ。
祖母は常に厳しく、どんな困難を杜花に与えても、出来て当然という態度であった。
そんな様子を、父も祖父も観ているだけだった。
辛いとは思わない事にした。
考えれば考えるだけ不満は大きくなるだけだと、まだ年端もいかぬ子供が悟ったような顔をして過ごした。
何一つ幸福を実感出来ない杜花に笑顔は一つもない。
やがて小さな幸福をかき集める作業すら忘れてしまった。
欅澤杜花は、戸籍上法律上個人として保障されているだけで、その実中身は何も入っていない、空っぽなのだと、そう思い始めるのも遅くなかった。
欅澤杜花という名の何かは、別なものの器なのだ。
だから、自分を探しても見つかるわけが無い。
自分は神を降ろす器。
巫覡の子。
今後も事は無く、意味も無く、血を通わせるだけの肉袋としての生を全うするのだ。
人間とは何なのか。
何もない自分もまた人と呼ぶのか。
伽藍のような心の内に詰めるものはあるのか。
詰まったところで、それを人間と呼ぶのか。
欅澤杜花は、欅澤杜花個人として成り立つ日が訪れるのか。
その問いに対して、答えを探す無力感があったのだ。
やがて、それすら考える事を止めた。
そんな何もない自分は、祖母の勧めで観神山女学院などという、大仰な女学院に入学させられる。特例の上の特待生で、その条件は中学までに何かしらの結果を残せという、とってつけたような条件である。
祖母が何を期待したのか、杜花には知る由も無かった。
小等部一年から三年まで、杜花は何事も無く、恙無く、いつも通りの空虚な日常を送る。
笑うでなく、泣くでなく、怒るでなく、感情の一つも見せない杜花に、クラスメイト達は違和感を覚えつつも、誰も言及はしなかった。
やはり学校でも、杜花は触れてはならない何かであるし、自分もそうあろうと徹底した。
何も無い杜花であるが、自信を持てるものを強いてあげるならば、その異常な反射神経と狂った予知能力、そして運動神経である。
九つになる頃には、並の大人などまず立ち合って勝てるものでは無くなっていた。
相手の機微が、相手の攻撃が、筋肉の動きが、呼吸が、敵意が、全て目に見えるのである。
倒すのに筋力は必要ない、バラバラな足取りを掬ってやればそれだけで相手は転ぶ。転んだ所に蹴りをかましてやれば、幾ら大人とて悶絶もするだろう。
相手をぶちのめす事に何の躊躇いも感傷も無い。
ただこれも、誇り一つ持てない杜花からすれば、空虚なものである。
――どうせ、誰も褒めてはくれないのだ。
ねじまがった精神に凶悪な身体能力。
自分に並ぶ価値のあるヒトなど無く――また自分すらも無価値。
人に意味を見出す事はなく、その人生の幼年期はまるで空白だ。
だから、人間何たるか、個人何たるかなど、考える必要はなかった筈なのだ。
全ての転機が訪れる小学四年生になるまでは。
『……さんのおはなしでは、どこかにちいさな庭園があるとのことでしたわ』
ある日のこと。
クラスのおしゃべりが、そんな話をしているのを耳にした。
普段なら気にも止めないものなのだが、杜花には庭園というキーワードが妙に強調されて心に沁みついた。
直ぐその日の午後に、杜花は一人で噂される場所へと向かう。
高等部校舎が並ぶ方面に、小等部の生徒はあまり立ち寄らない。物珍しく、人形のような杜花を見て何事かときゃあきゃあ喚く高等部の御姉様方を無視して、杜花は一人道を進む。
『あらら……何処行ったんだろ……猫やーい?』
白萩や高等部第二校舎に通じる躑躅の道に差し掛かったところで、杜花の耳に子供の声が届く。こんなところに踏み込んでいる小等部生徒は数少ない。
視線を向けると、そこに居たのは、腰まである長い黒髪を靡かせる、ハツラツとした少女であった。
名前は知っている。七星の子だ。
自分とはまるで接点の無い、違う世界の娘だ。
本来なら無視するところだったが、少女は直ぐに杜花を捕まえてしまう。
『あら貴女、こんなところでどうしたの?』
『用事があります』
『そう、猫。可愛いと思って、ハンカチを括りつけたら、逃げられてしまったの!』
『そうですか。では』
『ああっと。待って、何処に行くの? ここから先は御姉様方の校舎しかないわ』
『……小庭園を探しに』
その時の少女の顔を、杜花は未だに忘れる事が出来ない。
一瞬驚いたような顔をした後、直ぐに華が咲いたかのような笑顔になる。
人を何とも思っていなかった杜花に、感情らしい感情を芽生えさせるだけの、鮮烈な笑みであった。
彼女はなんと美しく微笑むのだろう。
『場所を知っているわ。教えてあげましょうか?』
『でも、猫は?』
『だから、貴女が猫を捕まえて、その御礼に教えてあげるのよっ』
屈託の無い笑い。
何の背景も感じさせない感情。
無垢とはこれなのだと、幼心に思う。
逃げ回る猫を捕まえるなど、いささか子供離れした勘と身体能力を見せ付けてから、杜花は少女に案内され、小庭園にまで訪れる事になった。
春の色満ちる小庭園は、どこか懐かしい。
伽藍の心に決して有る筈のない光景はしかし、どんな琴線に触れたのか、杜花は涙を流す。
少女に手を引かれ、ガゼボに腰かける。
『素敵に、見えるかしら?』
『はい。とても。だからなんだか、悲しくて』
『御名前は?』
『欅澤家長女の、杜花です』
『ああ、貴女がそうなのね。私は市子――七星家長女の、七星市子よ』
――手を触れ、指を絡めた瞬間に、己が何たるかを悟る。
自分はこの人の為にあったのだと、真っ白な心が市子の色に染まって行くのが解った。
自分はこの神を受け入れる為に居た器なのだと、百万ピースのパズルが埋まるような達成感に打ちひしがれる。
たまらなく涙が流れる。
自分が何たるかを初めて知り、感動のあまり嗚咽を漏らす。
欅澤杜花は七星市子の為に居たのだ。
『泣かないで。泣かないで。そう、そうなんだ。私、そっか――』
『いきなり、ごめんなさい。でも、聞いて欲しいんです。お願いがあるんです』
『なあに、杜花』
『ずっと一緒に居て欲しい。解るんです。私、貴女の為に居るんだって』
出会って数分の出来事だ。
通常ならば頭のおかしい子と思われただろう。
しかし市子にとっても、それは願っても無い言葉であったらしい。
それもそうだ。
すべてそのように仕組まれていたのだから。
……。
ぶ厚い雲が空を覆っている。夜になれば雪も降るだろう。
杜花はあても無く学院内を歩き回っていた。もしかすれば、構って欲しいのかもしれない。
中央広場にまで赴き、何時も鍛錬の拠点にしていたベンチに腰かけて、周囲を見渡す。
視界の端に、市子の妹だった生徒が映った。
彼女はこちらに気が付くと、小さく会釈し、他の子達の輪に加わって行く。
小等部四年から、七年間。
市子の妹として暮らして来た。体裁としてはそうだ。実質の所、運命共同体である。互いに何かが起こった場合、その身を張りあう存在だ。
名だたる家柄の姉妹達を抑えて、ほぼ一般家庭の家に生まれた杜花がその位置にいる事を、良く思わない子もいた。
彼女達が抱く嫉妬は杜花を刺激し、なおかつ、優越感に浸らせてくれる。他人の恨みが心地よいのだ。
彼女達からすれば、七星市子は七星というブランドである。そんな事だから、市子も察して、それ以上親密になろうとはしなかったのだろう。杜花が観ていたものは、市子そのものである。
一線を通り越した仲だ。家族すら介入出来ないと、本気で考えていた。
掌を見つめ、握り拳を作る。
誰にも褒められる事が無かった、ただ妬みしか生まなかったこの拳もまた、市子によって価値を与えられたものだ。
「あら、杜花さん」
呆けた頭を振り、声がする方を向く。三ノ宮火乃子だ。その手には教科書の束が抱えられている。
「火乃子。どうしましたか」
「これから談話室で先生の個人授業を受けに。杜花さんこそ、寒くないですか?」
「良いんです。構ってもらおうと思って、ここにいましたから」
「貴女の口から聞けそうにない言葉を聞いている気がします。隣良いですか、良いですね」
言って、火乃子が隣に座る。
本当に印象が変わった。
以前の薄暗い雰囲気は消え、がり勉、というよりも勉強のデキル子、という明るい空気を纏っている。歌那多との関係も良好なのだろう。
家柄が良く、勉強が出来て、容姿も良い。そして人のモノだ、というのは、ある意味ステータスだ。
歌那多は今後、迫りくる敵と戦う事になるだろう。
歌那多が必死に火乃子の気を引こうとする姿を想像すると、思わず笑みがこぼれる。
「どうしました?」
「歌那多さんとは、良好ですか」
「ええ。とっても」
「驚きました。ずっと、私を見ているとばかり思っていたから」
「酷い。解っていて、あんな態度とったんですか?」
「ええ。酷い人間なんです、私は」
「それは、私もです。……あれ、でも。そうだ。何か、私は酷い事を、したような」
火乃子は頭をポリポリとかく。思い出さなくても良い事だ。
「良いんですよ、今は思い出さなくて。貴女は幸せになれる」
「そうですね。幸せにしなきゃいけない。ならなきゃいけない気がします。そう決意、したと思う」
「酷くない人間なんて居なくて、清らかな心で居られる人間はいなくて。全部全部、己の欲求によって動いているし、回っている。私は殊更、それが酷かった。社会に不適合な人間の見本です」
「そんなに卑下して。どうするんですか。慰めろとでも?」
「そうです。突っぱねた後輩を、今になって慰めの対象にしようとしています」
「――嘘ばっかり。興味も無かったくせに」
「……あはは。うん。ごめんね、火乃子」
「良いんです。私は、貴女を目指した事で今がある。貴女を倣ったからこそ、歌那多に色々と教えてあげられる。私は貴女に感謝こそすれど、怒るなんてお門違いも甚だしい。どうしました、杜花さん」
どうしたのだろうか。自分でも、良く分からないのだ。
寂しいのは間違いない。苦しいのも外れではないだろう。
そして、嗚呼と、一つ思いついた。
これは懺悔だ。そしてお別れの挨拶でもある。
「私、貴女達に慕われて、幸せでした。こんな、実も無いような女を、気にしてくれて有難う」
「ちょ、ちょっと。杜花さん? 今生の別れみたいな言い方しないでください」
「近いうち、目が覚めるでしょう。自分が背負い込んだものも思い出す。愛する人を、幸せにしてあげてください。私には出来なかったから。守ってあげてくださいね」
「え、ええ。あ、杜花さん?」
「ごめんなさいね」
「――あ――いや……それ……ああ……も、杜花さ……」
ベンチから立ち上がり、火乃子に背を向ける。
漸く、自分が何をしたいのか、解り始めた。
別れの言葉を述べるでもなく、杜花は火乃子を振り切って次の場所へと向かう。
御世話になった人、市子の妹達、様々だ。
皆一様にして、杜花が何を言っているのか理解出来ないという顔である。それで構わない。
(本当に……私には、何一つ無かったんだ)
フェンスに囲われた校庭の脇を抜けて、総合部に顔を覗かせる。
鍵は開いているが、中に部員の姿は見受けられない。校庭には見当たらない事から、ランニングに出ているのだろうと解る。
杜花は部室の真中まで来ると、靴と上着を脱ぎ、一礼してリングに上がる。
自分が最も自信の持てたもの。
自分を形成していたもの。
自分の評価を形作ったものが、これだ。
しかしその全ても偽りであった。
自覚無くとも、反応速度向上化手術やプログラムを受けた人間は、あらゆる試合で参加不可である。
強い欅澤杜花とは、幻想の産物なのだ。
総合格闘技若年部女子日本チャンプなど、本来杜花には届かないものである。
「フゥ――ッ」
右足を前に、右手を軽く握り、脇を締めるように引き、左拳を放つ。
衣ずれと、拳が風を切る音だけが道場に響き渡る。
踏み込み、右上段蹴りから左回し蹴り。
姿勢を即座に正し、左右正拳突きからの受け流し、投げの型に繋げる。
テンポよく体捌きを重ね、一連の動作を終えると、拳を両脇に引き絞る。
この拳で、蹴りで、投げて、寝技で、捩じ伏せて来た。
才能ある人の自信を打ち砕き、才能ない人の夢をずたずたに引き裂いた。
市子と出会ってからというもの、ましてそれを快感とすら思っていた。
特に可愛らしい女性が、関節をキメられて悲鳴を上げる姿など、驚くほど気持ち良くなれる。必要もないのに寝技に持ち込んだ事もあった。
勿論、その人物をどう思っている訳ではない。要素としての快感。
つまり自慰だ。
そんなものの為に、杜花は公式戦、練習試合、その他諸々で、何人もの選手をダメにした。
この偽りの強さでだ。
しかも、そんな偽りの強さを、欲する人がいる。
強い女性を夢見る人、強い杜花が、好きな人だ。謀らずしも、騙し続けてしまったのである。
「あら。もう終わり? もっと見たいな」
「――風子先輩」
ランニングから戻って来たのか、風子はタオルで汗を拭い、そのままリングに上がる。
三ノ宮風子。そんな偽物の強さに惚れてしまった、可哀想な人だ。
「身体あったまった所なんだ。手合わせ願える?」
「ダメです」
「そう言わずにさあ。もう暫くぶりじゃん。私達」
グローブも無しに彼女を殴れない。
ましてこれは嘘だ。
そんなもので、もうこれ以上何の過失もない人を傷つけられない。
「よっ」
「あっ」
完全に不意をつかれた。いや、抵抗する気も無かったのかもしれない。
強い下半身から繰り出されるタックルが杜花の両足を掬う。杜花は背中からリングに叩きつけられ、仰向けになった。
風子も不審に思ったのだろう。マウントのまま、小首を傾げている。
「あり得ない。何してるの?」
「……懺悔をしに来たんです。貴女に」
「ちょ、ちょ。やめてよ、こんなところで。もすこしロマンスがあってもいいでしょーに」
ほんの少しだけ躊躇い、口にする。
「つい最近、解った事です。私は、反応速度向上手術を受けています」
「なっ――」
その言葉が、どれほどの裏切りなのか、杜花は解っている。
その言葉がどれほど彼女の気持ちを傷つけるか、理解している。
それでも、語らぬままでいる訳にはいかなかった。
「知りませんでした。でも、私の強さは全部嘘だった。ごめんなさい、風子先輩」
「……それ、どこで。いつ? 自覚無い内に、そんな事出来る訳……ない。まして、乳児に対する脳の改造手術は、法律で禁止されてる。思い違いじゃないの? 杜花、強すぎるもん。だから、なんか自分は改造人間なんじゃないかなーって、思っただけじゃない?」
「私も信じたくありませんけれど、状況から推察するに、答えはそれだけでした。私は、ナチュラルじゃない。貴女を、自覚無く騙していた。私は、貴女に好かれるような人じゃあ、無い」
両手で顔を覆う。
情けない。
虚しい。
申し訳無い。
市子以外の事で、もっとも自分を評価出来る要素が偽りであったのだ。自己否定も甚だしい。
何処まで行っても、市子無き自分は、空虚で伽藍なのだ。詰め込めるものが他に無い。
こんな自分が、人を傷つけ、人の夢を打ち砕き、人の想いを無茶苦茶にしたのだ。謝って許されるものではない。
「……そっか。じゃあ杜花は、ルール違反の卑怯者だね」
「はい。そうです」
「でもねー。思うんだよ。貴女の格闘スタイルずっと見て来た訳じゃない、私。貴女は技術も知識も経験も、一級品でしょう。流石に体力や筋力が嘘って事もない筈だ。貴女は毎日のように鍛錬してたし、人一倍強い事には間違いないでしょう」
「だと、しても」
「……う、うちさ。ほら、道場立ち上げるっしょ。で、まあほら、選手は無理としても、トレーナーは必要な訳さ。……戦わなくても。指導は出来るでしょう」
「……風子先輩」
「ああああーーもう。違うの。そんなのどうでもいいの。貴女が好きなの! 貴女が選手としてダメだったとしても、私面倒みれるから! だから、そんな事言わないでよ。私、リングの上で活き活きとしてる杜花が好きなの! というか、貴女それと市子以外一生懸命じゃないし!」
風子は、杜花に覆いかぶさったまま、思いの丈を告白する。
ずっとそうだった。
風子は杜花をずっと見ていた。
そして、杜花はそれを無視し続けたのだ。
今になって、最後の最後で、これでは――誰も報われないではないか。
そして自分の責任は、大きいのである。
「……ごめん、風子。貴女は好き。恩義もある。でも、一緒には居られないの」
「知ってるよそんなの。どうやったって貴女は市子が一番でしょ。知ってるよ。私の片思いだもん。てかさ、面と向かって断りに来たならさ、好きとか恩義あるとか、言わなきゃ良いじゃん!」
「弱い、人間なんです。ああ、これも、言うべきじゃ、なかった」
「ほんとにさ!! あーあ。なんかなー。もうさー、やんなっちゃうよぉ、ねえ、ああ、ううう、うぅっぅぅ……ッ」
杜花の顔に、風子の涙が滴る。
そのまま縋られてしまい、どうする事も出来ない。杜花は泣きじゃくる風子を抱きしめる。
謝っても謝りきれない。裏切った上にフるなんて、最低も良いところだ。
思う。
幼い自分が、小生意気にも達観し、毛嫌いし続けた『人』という存在について、そんな脳内妄想がどれほど小さいものなのか、痛感する。
直に感情をぶつけられる事が、これ程に悲しいとは思わなかった。
相手を幸せにしてあげられない悔しさが、これほど虚しいとは思わなかった。
長い間抱き、ただ一時に散らす力の強さの、なんと切ない事か。
これが人なのだと、その片鱗を受け取り、酷く風子が愛しくなる。
だが、愛してはあげられない。
欅澤杜花が今後も生を存続する人間で、なおかつ、風子が多数の関係を許容出来る程大らかならば、一緒に居られただろうが、既に前提としてありえず、そのような状態には無いのだ。
「ごめんね。風子。ごめん……もう、行くから。またね」
「……うそつき。もう、顔も出さない癖に」
「風子、有難う」
風子が退く。杜花は静かにリングを降り、道場を立ち去る。
涙を拭う。
酷く疲れた。
覚悟は決めた、謝罪も終えた、そして今日の午後には、旧校舎へ赴く。
それで終わりだ。
それまで、少し休憩を取ろう。
横になって、疲弊した精神を少しでも取り戻して、七星市子『らしきもの』を殺すのだ。
単純に行くだろうか。
行くまい。
寮に戻り、自室の鍵を取り出そうとしたが、止める。鍵が開いている。
ノブを回し、中を改めると――そこには彼女が居た。
「……サキ? どうやって」
「旧式だしさ、鍵。実はこっそり入れる。たまに貴女の寝顔とか、見る為に」
「馬鹿ですね、貴女は。どうしました?」
「えっちしよ」
「……馬鹿ですね貴女は、本当に……」
疲れていると言っても、どうせ聞かないだろう。早紀絵は小さな足取りで近寄り、杜花に抱きつき、胸に顔をうずめる。
その身体は震えていた。きっと予感があるのだろう。
そして、それを繋ぎとめる為に、こうしているのだ。
まったくもって、風子に続いて早紀絵にまで泣かれてしまうとは、申し訳ない限りである。
「疲れちゃいますから、ダメです」
「そら、疲れさせようと、してるんだから、当然っしょ」
「もう横になります」
「ぐっ……じゃあ、一緒に寝る。良い?」
「――どうぞ」
上着を脱いで身体を横たえると、早紀絵が背中に縋りつく。まるで子供だ。
だが、実質誰よりも、彼女こそが現実を見ている。小さい頃からそうだった。
何事に対しても、ふざけた振りをしてちゃんとする。感情に流され難く、物事を論理的に組み立て、自分の欲する現実に近づけようとする彼女こそが、自分達のグループでもっとも出来た人間である証だ。
あの時の事。同世代の少女を殴ったのは、彼女が初めてだ。
聞き分けの無い糞餓鬼で、市子の言葉が無かったら近づきすらしなかっただろう。
しかし所詮、第一印象でしか物事を見ていなかったのだと、今ならば反省出来る。
彼女は良い子だった。あれ以降、早紀絵は常に杜花に付き従い、何をするにも一緒だった。
最初こそ面倒くさかったが、真摯に杜花へ向かい合う態度は、他の誰も真似出来ないものだったろう。
ただ、彼女を殴ったお陰で、杜花の曲がった性癖が覚醒したのは間違いない。人を見下しているのも相変わらずだ。どれだけ繕おうと、形成されてしまった三つ子の魂はずっと続く。
「モリカ、ずっとこうしてよ」
「腐っちゃいますよ」
「腐っても良いよ。モリカとならずっと腐ってられるもの」
「やる事がありますから」
「えー。今日何するの? いいじゃん、休みだし。グダグダしてればあ」
「サキ」
「……解ってるよ。希望くらい、語らせてよ」
「ん」
早紀絵は、目の前にある障害を無視するような子ではない。逃避も無意味だと知っている。
彼女は健気な子だ。
振り向きもしない杜花をずっと見て来たのだから。杜花の幸せを一番に考えて来たのだ。彼女が杜花の気持ちを察さない訳もない。
あの時以来……もう何度キスしただろう。
さみしさを紛らわせる為、ここに自分を引き止める為と、杜花は早紀絵を利用した。早紀絵もそれを望んでいた。だが、メイの言葉は突き刺さる。
所詮利用だ。
自分の都合の良いようにしか、見て居ない。
そして挙句の果てに、その目論見は功を奏さなかった。
杜花は七星市子の呪縛から逃げられない。
どう足掻こうと、杜花にとっては市子が一番なのだ。アリスも早紀絵も、愛しくは思う。
でもそれまでである。それ以上がない。
それで良いではないかという言葉もあるだろう。
何をそんなに夢見ているのかと。贅沢にも程があると。
しかしながら、杜花の伽藍を埋めた市子は、こびりついて離れようとはしない。
もし、人に生きる意味があるとするならば、それはいかなる形でも大切な人を想い続ける心にしかないのだ。少なくとも、杜花にとっての意味と価値は、それしかない。
「ごめんね、サキ」
「謝らないでよ。私、幸せだよ」
「ごめんね」
「良いの。そんなモリカも、私大好きだよ。二番目だろうと三番目だろうと、良いから。だからお願い。お願いだよ――どこにもいかないで……」
早紀絵は、察している。
杜花が何をするのか。
何かをした後、どうするのか。
杜花にとって全ては市子だ。半身は死に絶えたのだ。そして己の気持ちにも整理がついた。
自分が何者なのか悟り、この身が自分の物でも、市子のものでもない事を知った。
全てを彼女に依存した杜花の結末など、もう明らかなのだから。
状況をこのままにはしておけない。
撫子が完成したならば、今度こそ終わりだ。自分達は何の疑問も無く、全てを『受け入れさせられて』しまう。
そうなってしまえば、もはや疑問を抱く事も、悩む事も、無くなってしまうのだ。
そんなものを人間とは言わない。手段があるのならば、行使せねばならない。
他の誰にも出来ない事だ。欅澤杜花にしか、出来ない。
元から何も無かった欅澤杜花こそが、するべき事だ。
「やっぱり休めませんね。他愛ない話をしましょう。明日の予定だって良い。何だっていい。政治の話でも、経済でも良い。外交問題でも、そうですね、宗教だって語ります。勉強の相談もしあいましょう。未来について語るのも悪くない。将来の夢も、希望も、構わない」
「……やめてよ、そんなの」
「付き合って下さいよ」
「やだ、やだよ。なんでそんなに、残酷な事、いうの。モリカ、私、貴女が居なくなったら、どうすればいいの」
「貴女を愛してくれる人は、沢山います。私より立派な人だって、沢山いる」
「違うよ。モリカはモリカだけだよ。他と比べられない。そんなの、悲しすぎる」
「ダメです。貴女は、立派なお家の子なのだから。未来があるのだから」
「やだ。困る。私、モリカがいなきゃ死ぬ。というか自殺する」
「……困らせないでください」
縋りついていた早紀絵が離れ、床にごろんと落ちる。
何事かと振り向けば、彼女は顔を真っ赤にし、恥も外聞もなく、泣き散らしていた。
身体を起こして、ベッドの縁に腰かけると、早紀絵が脚に縋りつく。
「困らせてるのは、どっちよ!! なんでそう頑ななの!! なんで一つしか見れないの!! 貴女は貴女なのに!!! 自分の好きなようにした結果がそれだっての!? ふざけないでよ!!」
早紀絵の絶叫が部屋に響く。
まったくもって正論で、反論しようがない。理性的な彼女に打ち勝つ手段を、杜花は持っていないのだ。論理外の理を歩もうとする杜花にとって、その言葉はあまりにも痛く、重い。
「でも、このままでは……」
「知ってるよ! でも、でも、他に方法があるかも、知れないし!」
「ありませんよ、サキ」
「あの、あの時だって――、一人で突っ走って……教室で、大人しくしてれば……あんな、あんな目にあわずともすんだかも、しれないのに……私を置いて……違う。違う違う違う」
早紀絵が頭を抱えてうずくまる。記憶の片鱗だ。
知りもしない、遺伝子共有存在の記憶。
「……アリスの言葉が、良く分かる。そうだね。状況に流されて甘受すれば、それが一番幸せだよ。私は今、モリカが兼谷達に止められれば良いと思ってる。脳髄焼かれるまで感応干渉食らって、廃人になろうとさ、モリカがいるなら、もうそれで良いや。彼等はきっと『優しい』から。私も幸せにしてくれるでしょうさ」
「言っていた事と、真逆です」
「前提が覆ってたら、そうなるでしょ。ふン。もう良い。勝手に行って、勝手に負けて、廃人でも障害者でも、何にでもなれば良い。安心しなよ。死ぬまで面倒みてあげるから。アイツ等が捨てても、私が拾ってあげるから。貴女が私を何番目だと思おうとも、私は貴女が一番好きだから。何でもいい。だから、お願いだから……どんな形でも良いから……死なないでよぅ――」
……七星一郎が、どんな形であれ、娘を蘇らせようとした気持ちを、早紀絵は察しているのかもしれない。
それは結局自己満足に他ならない。
想われる本人がどう思おうと、それは度外視だ。
人間は自分が一番愛しい。
しかしそれこそがこの種族を繁栄して来た本能であり理性なのだ。
優しさという偽善、欺瞞。
相手を救いたいという傲慢が、世界を動かしている。
「サキ。ごめんね……手紙、あるかな」
「……」
早紀絵は、胸ポケットから、市子の手紙を取り出し、無言で杜花に差し出す。
杜花は立ち上がり、上着を羽織る。
笑顔で言う。
「じゃあね。サキ。私、貴女の事、大嫌いでした」
優しすぎる早紀絵が、大嫌いだ。
優しすぎるアリスが、大嫌いだ。
欅澤杜花は、二人の口にする愛も恋も、心の底から信じている訳ではないのに、信じられたならば良かったのに。
張り裂けそうになる胸を抑えて、杜花は部屋を出る。
ドアの内側からは、彼女の泣き声だけが響いた。
プロットストーリー最終章 狂人達の夢
『デリートコードは「NH16557623030043-9899012245」です。七百桁あったものを短縮書き変えしました。聴覚認識から承認が行われ、記録媒体の無線LANを介してバックアップサーバデータをデリート後、私自身のオリジナルデータを消し去ります』
英数字を暗記し、胸ポケットに仕舞い込む。
準備らしい準備は何もない。身一つだ。ただ覚悟だけがある。
雪かき整備された道を進み、旧校舎入口に立つ。
冷たい薄茶色の鉄扉は、その口を閉ざしているように見えたが、ノブを捻ると簡単に開いた。
元から薄暗い空気のある場所であるが、今日は殊更暗い。まだ日は落ちていないが、ぶ厚い雲に覆われた空からの日光は期待出来ない。
ふと、今の状況を顧みる。
杜花の奥底にある、記憶の片鱗。どのような手法で刷り込まれたのかは知らないが、撫子に近づくにつれて、花が当時見たであろう情景が、色濃く蘇る。
まだ撫子は再現されていない。
ともすると、兼谷はどのような構想を抱いていたのか、という問題にぶち当たる。
今現在、それは彼女等の想定した事態から、はみ出しているのか、否か。
この校舎に踏み込む事で、もしかすれば、それこそ、兼谷の謀略の中に、入り込んでしまうのではないかという懸念がある。
関係不和による仲違いからの……占拠事件。
この校舎はその舞台だ。
市子は撫子を再現しすぎたが故に、死出の道を歩んだ。つまるところ、そういった危険性をも孕むのが、彼女等の言う『魂の再現』でありデータの補完作業なのだろう。
兼谷が再現とやらを増やそうと思うのならば、その顛末まで再現し切るのではないか。
しかし、よしじゃあ止めよう、という選択肢があるか。
日本国内、外地程度にはまず逃げ場はない。七星が欲しているものは、必ずや蒐集される。杜花が早紀絵を連れて逃げた所で、意味は無い。ましてそのような感情にない。その上アリスは人質状態だ。
チリチリと脳を掠める情報を振り払い、杜花は足を進める。
兼谷は元より、お話合いで解決、などとは考えていないだろう。人に拳銃を向けたのだ。笑って許してやるほど、杜花は人格者ではない。
このまま放置すれば、自分達は呑みこまれる他ないのだ。例え相手が準備した上で待ち構えていようとも、攻める他ないのが現状である。
この世に生まれた時点で手詰まりとは……何とも、虚しい限りだった。
(入口に罠は――ない)
横に直線の、典型的な校舎は左右に階段があり、三階建てだ。
メイの話では二階に改竄機構のマザーコンプがあるという。いつ運び込んだのかと考え、心当たる節がある事に気が付く。
三島軍曹に話を聞きに行った際、旧校舎に工事が入るなどという話で、トラックが出入りしていた。あの頃からだろう。
目的は改竄機構ではない。それは現在、杜花達に影響を及ぼさない鉄くずだ。兼谷は二階で待つというが……そう簡単に、杜花を二子に引き合わせる訳がない。恐らくオトリだろう。
何事も綿密に準備してから事に当たりたいのは山々だ。とはいえ、兼谷がそんなものを準備させてくれる訳が無く、結果アリスが人質に取られるという形になったのだ。
(馬鹿だな、私は――)
壁に手をつきながら、ゆっくりと廊下を進み、階段を目指す。
階段の手前まで来た所だろうか、酷い違和感を覚えて脚を止める。過去に無い生命危機感だ。
人間が発する殺気や、事故に対する危機感とは、また別の物である。
気配を感知する為、脳の使用領域を広げる。
空間掌握。
手を伸ばす。
対象物体を発見し、杜花は眼を見開いた。
「……トラップ。素人相手に、とんでもないものを」
しかも茂みでもないのにベトナム式二段トラップである。
……。
足元のピアノ線に引っ掛かれば、真横の手榴弾が爆発、これを解除する為に線を切れば、今度は上から大質量の振り子が飛んでくる。
上を見上げる。流石に糞尿を塗りつけた竹やり玉ではないだろうが、それに近いものだろう。
遠くに離れ、何かを投げてやろうかと考えたが、止める。
「……なんで、こんな旧式?」
杜花を本気で殺したく思ってトラップを仕掛けるなら、旧世代のクレイモア辺りをばら撒いた方が確実であるし、誤爆を気にするなら、味方には反応しない識別型飛翔爆雷(フライアイ)とて考えられただろう。もっとステルス製の高い対人兵器など、ゴマンとある筈だ。
それに、こんな回りクドイ事などせずとも、スナイパーライフル……は、気が付くので、複数人で囲んで飽和攻撃すれば、杜花は死ぬのだ。
何にせよ、人間であることには変わりない。殺す手段など幾らでもある。
そうしない理由と、目的があるのだ。
素直にピアノ線を乗り越えて、先に進む――瞬間、杜花は弾けるようにして、後ろに飛び退いた。
「くっ――ッ!!」
バサッという音を立てて、天井から何かが落下してくるのが解る。
警戒し、改めて今まで自分が居た場所を見れば、そこにあったものは……ノートだ。
頭を振る。頬を叩く。
目を瞑り、もう一度開く。今まで見えていたピアノ線はない。天井に釣りあげてあったはずの振り子も見当たらない。
「いつ干渉された……」
解らない。
兼谷の感応干渉は市子や二子のものよりも弱いが、彼女の場合、人の隙を強烈に突いてくる、まるで性格そのものを表現したような、好戦的なものだ。
杜花は近づき、そのノートに危機感を覚えない事を確認してから、拾い上げる。
(……お気を付けて。貴女に与えられた先見能力とて万能ではない。降伏ならいつでもお受けします)
喧しい、と杜花はノートを投げ捨てる。
警告だろう。確かに杜花の常軌を逸した危機感値能力は、ある意味未来予知に近い。だがそれも、感応干渉という特異な能力の前では意味を成さないのかもしれない。
気を抜けば死ぬ。死ぬのは良い。だがここではない。
お前の話など、聞きたくもない。
(階段も危ない。とはいえ、他に順路もないし、恐らく順路以外は、まともじゃない仕掛けがありそう)
警戒レベルは最大限だ。これに引っかからないトラップがあるのならば、もう杜花はここで絶命する運命にあるだろう。
やっとの想いで階段に辿り着く。上を見上げ、トラップ等が無い事を確かめはしたが、もっと別なものが杜花の視界に映り込んだ。
一瞬、視界がブレる。……。
感応干渉の気配を感じ取り、目の前に現れた人物を凝視した。
「……」
それは、見慣れた人物だ。ただどうも、若すぎる。
嫌な気分になり、杜花は手を付いていた壁を叩きつける。
「ご出張ですか、お婆様」
彼女は、欅澤花は何も言わない。無言で階段を降り、杜花の前に立つ。
杜花と似ているが、より切れ長で、きつい眼光が刺す。
一昔前の制服に、短いスカート。彼女も女子高生をしていたのだなと、乾いた笑いが漏れる。
『花』らしき人物はひたすら無言で構える。
右足を前に出し、右手を手刀として、左手を軽く握って脇に備える。流派の基本形だ。
これは何だろうかと、想う。これは実体を供なった幻覚なのか、それとも、ただの幻覚なのか。
判断出来るだけの材料と脳が無い。杜花も仕方なく、同形で構える。
彼女の得意技は熟知しつくしている。普段は体罰と思って避けないが、本来正面に立ち合って杜花に打撃を当てられる人類は、恐らく存在していない。
大苦戦した総合格闘技の決勝戦も所詮、あちらの攻撃は一切受けていない。ただ凄まじいタフネスであった為、決め手に欠けたのだ。そしてそれも、当然のことだが、殺害に至るような技を避けて選んだ結果の勝利である。
「貴女の顔をみると、頭に来るんですよ」
「……」
『花』は、その言葉を受けて、薄気味悪く笑う。神経が逆なでされる。それが兼谷の思惑通りだったとしても、生理的嫌悪ばかりはどうしようもない。
ともかく相手が幻覚で、ルールも無いのならば、杜花をさえぎる障害は、存在しない。
『花』が踏み込む。どこまでも冷たく、人を見下す瞳に、吐き気がした。
――迫る右拳をほんの少し上段に跳ねあげてから杜花が踏み込み、ガラ空きになった鳩尾に対して、全力の肘打ちを叩きこむ。
中国拳法に似るが、その一撃では終わらない。
ヒトは殴られる覚悟があるのならば、そう簡単には倒れてくれないのである。
鳩尾に肘を叩きこむ衝撃を実感し、杜花はそのまま『花』の股下に足を滑り込ませ、衣服を捕まえると同時に全力でしゃがみ込み、相手の上体を下げる。
前に投げられると反射的に感じる人間は、その上体を後ろに反らそうと躍起になる。
それを狙い、杜花は思い切り半身をぶち当てると同時に手を離し、弾き飛ばす。
『花』は杜花の膂力をまともに受け、アクション映画のように吹き飛び、背後の階段に頭を強かに打って動かなくなる。
通常なら、後ろに倒れる程度だ。だが杜花が再現すると、それはすなわち殺人技と相違ない。
やり終えた後、杜花は一瞬、動揺した。
『花』は、自分と似たような顔をした彼女は、頭から血を流し、ピクリともしない。
思い切り頬を両手で叩き、改めて『花』を見る。
「……」
いない。そんなものはいない。
今行われた全てが、錯覚。殴りつけた感触も、弾き飛ばした質量も、全て、偽りだ。
欅澤杜花は、欅澤花を、心底恨んでいる。その昔には無かった感情だ。
欅澤杜花の、その記憶も感情も、全ては七星市子から齎されたものである。
心に収まるべきものが収まった後、杜花は花を徹底的に憎悪した。
虐待によって『育まれた』恨みは、しかし爆発する事無く鎮められていたのも、何よりも、市子が居たからである。
彼女はまるで杜花を塵のように扱った。立ちあがれるようになった頃から、既に鍛錬という名の扱きが待ち受けていた。
来る日も来る日も雑に扱われ、幾度となく殴られた。休日祝日、長い休みは必ず実家に戻り、鍛錬と言う名の虐待が待ち受ける。
幼児に一体何を期待していたのか。
ごめんなさいの一言で、強くなって貰いたかったの一言で、そんなものは、すまされる訳が無い。
母も手出ししなかった。男たちもだ。
杜花はたった一人で、あの『妖怪』と向き合い続けなければいけなかったのだ。
「……私を、どうしたかったって? お婆様」
正月の一件、花の告白は、ただただ複雑な後味だけを残したのを、思い出す。
「――ふん」
今考えても、詮無い事だ。
気を取り直して、杜花は階段に足を進める。
昇り切るまでの間にトラップらしいものは無かったが、気を緩められる訳ではない。大体、人を嵌める為にあるものは、忘れたころ、疑った裏の裏にある。
二階廊下を数歩進むと
……。
今度は波が大きい。
流石の杜花もこれには気が付いた。兼谷のことだ、これはわざと認識させた、もしくは認識したところでどうにもならない類の感応干渉だ。
警戒、空間掌握、探知と、順を踏んで辺りに気を払う。
やがて、廊下の奥から、ゆらゆらと歩み寄る影が見て取れるようになる。
動きに質量が感じられる。本物の人間だろう。
杜花はしかし、暗がりから現れる人間が誰なのか認識し、顔をひきつらせた。
(……隊長さん)
三島雪子特地派遣軍曹だ。しかもその装備に目を疑う。
フルフェイスヘルメットの顔は開いているが、全身を機械強化スーツに包んでおり、その手には最新式の自動小銃、腰部にはずらりと手榴弾の類がぶら下げてある。
何を間違ったかバックパックも背負っており、完全に敵地に赴く特殊任務兵の装いだ。
「あー、こちら三島。敵が陣取ってる建物の二階にいる。勢力は不明。いいか、奴らは一般人のフリして襲ってくる。私服だからと警戒を解くな、便衣兵だ。部屋に乗り込んだらまず武装解除、んでもってそうだな、観葉植物の植え込みなんか調べてみろ、武器出て来るから。解ってるよな、ドーゾ」
「全く、南京で皇軍が苦労したのが良く分かるクソ具合だな。あ、ビィェボゥ!! 動くな!! あ、違うっけ、ブゥシュボゥか!? まあ動くな、止まってろ!!」
壁際ギリギリまで寄り、三島の動きと言動を観察する。
彼女は『敵地』で任務中の様子だ。
独り言から察するに、どうやら大陸での都市部制圧任務と見える。
格闘家では無く軍人として敵対した場合、杜花にはあまりにも分が悪い。
引き金を引く挙動を見て一、二発避けるならともかく、小銃を乱射されて避けられる程、杜花も人外ではないのだ。
「あ? 待機? どこの阿呆からの命令だよ。米国の海兵隊? 海兵隊の何処。なんで命令権限あんだよ、皇軍様に何様だアイツ等。はいはい。わかったーって。頼むから衛星兵器なんてつかわねーように言っとけよ、あいつら直ぐレーザー使うから」
そういうと、彼女は武器を構えたまま、目的の部屋の前近くの壁に張り付き、留まってしまう。
門番にしては重武装すぎる。とても正面切って突破出来る相手ではない。
「そらーなあ。こんなとこで戦々恐々としてるよりさ、旦那とヤッてた方が良いに決まってんだろ。でもまあよ、アイツラはやっちまった訳だ。うちらの祖国が丸ごと汚染された訳。臣民を殺戮して、爆弾テロでふっ飛ばしまくった訳。報復? 終わらない? 寝言か。もう出来ねえように叩きのめすんだよ。この介入戦争何年続けてると思ってるんだ。あいつらは有史以前から何もかわっちゃない。制圧しても遷都遷都……本当に近代国家かよっての。衛星兵器で国土丸ごと焼いた方が良いんじゃないのか? あ、今やられると私等が死ぬがな、あっはっは」
「お前の家族は? 子供出来たの? 子供は良いよな。私もいたんだ。まあ、クソ野郎のテロに巻き込まれて死んじまったけどさ。何? 病気だって聞いてた? 嘘だよ。言ったらなんか、私が復讐で戦争してるみてえだろうが。あ? ああ、復讐だよ。この糞供根絶やしにするんだ。まあほら、この都市の制圧も佳境だ。これが終わったら帰還命令が出る。それまで死ぬなよ。こういうの死亡フラグって言うらしいぞ」
「あーあ。ほら、見た事か。あーあー、三島だ。近くにメディクいるか? いないか。助からんな。ほら、腸でちまってるし。何か言い残す事あるか。『大日本国に栄光あれ』? 栄光しかねーよ。特進おめでとさん」
「私等は、ああならないようにするんだ。時代はまた新しい戦争の時代に突入してる。人の価値が下がってきてる。敵を一人殺して喜び、仲間が一人殺され悼む。死んだ加藤特進少尉に、乾杯」
独り言が一しきり終わると、途端静かになる。
彼女は今、大陸にいるのだろう。そして、その過去を振り返っている。箱庭の中で育った杜花とは、まるで違う世界を見ているのだ。
人間一人の価値を直に感じる人々。それが現代の日本軍人だ。
歴史の流れの一幕、その一端を担った人物の、その追憶である。
早紀絵と一緒に三島へ話を聞きに行った時の事を思い出す。彼女は娘が居て、病死したと言っていた。しかし、どうやら現実は過酷なのだろう。
頻発したテロに巻き込まれた日本人は相当数いる。そして彼女は軍人だ。大陸派遣は志願したのかもしれない。
暫く悩み、杜花は静かに頷く。
賭けだが、仕方ない。杜花は思いきって、声を出して見る事にした。
「誰かいるんですか?」
「ん。日本語? 邦人か! 生きてるとは思わなかった!!」
彼女は今、戦地に居る。邦人救出も任務に入っているのだろう。
それだけを確認し、杜花は、彼女の約十メートル手前に姿を現す。
銃口が向けられる。とてつもない殺意だ。
杜花も、小銃装備の相手から殺意を向けられた事はない。
背筋が張り、腕が震える。全力で危機回避するべく、脳の未使用領域が最大限に回転し始める。
「……違うな」
……しかし、どうやら都合良くはいかない。それもそうだ。欅澤杜花を仕留める為に徘徊させている番人が、欅澤杜花を『同胞』としては見ないだろう。
だが、賭けは一つ勝つ。突如狙撃される事は無かったからだ。
「あー。手を挙げろ。そうだ。コートの中に何も隠してな……いな。武器反応無し。すげえよなこのサーチ。あー、お嬢さん。そのまま伏せてねー。私もね、女子供殺したくないしねー。殺すのはアカのおっさんで十分」
「殺さないで……」
「おうおう。泣くな泣くな……大丈夫だって。お前の親は殺しても子は殺さねえよ」
言われた通り、うつ伏せになる。
彼女は小銃を向けたまま音も無く歩み寄り、念入りに杜花の身体を改める。
――その手が腕を触れた瞬間、杜花は跳ねあがった。
「ぐっ――」
「イィィィャアァァ!!」
うつ伏せ状態から左腕を捕まえ、脇固めに移るべく腕を無理矢理捻りこんで杜花の腹にまで持ってくる。
このまま腕を折れれば良いが、しかし相手も必死だ。腕を持って行かれながら、小銃を片手で撃ち放つ。
耳朶を三連の乾いた音が抜けて行く。
仕方なく、杜花は腕を隙なく離し、ガラ空きになった左足を蹴飛ばして転ばせる。
「このっ」
弾が三発、頭の横を掠めて行くと同時に、杜花の髪の束を持って行った。
しかしそこまでだ。
引き金を握る腕を渾身の一撃で蹴り飛ばし、武装解除すると、杜花は馬乗りになって、ヘルメットの上から思い切り拳を叩きつける。
強化ガラスに罅が入る。幾らショック吸収素材とはいえ、内側は頭だけ地震のように揺れている事だろう。
それでも抵抗する三島に対して、杜花は横腹部の一番薄い繋ぎ目に向かい、一本拳を叩きこむ。
「ぐえっ――げほっげほっ!」
悶絶する三島はしかし、驚くほどの忍耐力でそれに耐え、懐からハンドガンを取り出そうとする。
勿論許さず、腕を捻りあげてそれを遠くに投げる。彼女の顔に絶望の色が広がった。
構わず、腰部に括りつけられたベルトを抜き放ち、手榴弾の類を全て辺りに散らす。
ここまで来てやっと、一撃死を免れるまでになった。
「かっは。けほけほっ。ぐぐ……くそ、女学生装った……特殊工作兵か」
「一般人ですよ、三島二等軍曹」
「何? おい、けほっ……情報漏れてるぞ、どうなってんだアメ公!」
ヘルメットを引きはがし、遠くに投げる。三島は思い切り杜花を睨みつけた。
相手は特殊工作兵。自分はこれから殺されるのだと、覚悟しているのだろう。これだけの衝撃を与えてもまだ感応干渉の影響を受けているとなると……説得で何とかなるレベルではない。
「私です。欅澤杜花ですよ。解りませんか」
「日本人? 国家反逆罪だ。お前の両親ごと地球から消えるぞ?」
「……ごめんなさい」
拳を握りしめ、杜花は思い切り三島の顔面を殴りつけた。一度目はまだ意識がある。二度、三度程続けて、三島は漸く動きを止めた。
他の手段があればそれを選んだだろうが、躊躇い無く撃ってくるのではどうしようもない。
独り言ではあれだけ好戦的な話をしていたのに、出て来た杜花を撃たなかったのは、彼女の良心だろうか。それともただ単に、兼谷からそのような命令を受けているのかもしれない。
三島の身体を引きずり、廊下の端に横たえる。彼女の装備を拾い集め、全て御手洗いの用具入れに放りこむ。
「ごめんなさい。でも、起きている間に、謝れないので。ごめんなさい」
何度も頭を下げる。彼女は完全に犠牲者だ。
装備の無断使用、まして学院内での乱心であるからして、彼女自身、家族も無事では済まないだろう。これを隠ぺいするとなれば、頼れるのは七星の力ぐらいである。
「んっ……」
肩に痛みを覚える。
脳内麻薬の過剰分泌でまるで痛みを感じなかったが、肩口はパックリと裂けて、上着に血が滲んでいた。
都合六発の小銃を避けたのだ。この程度の傷で済んだのならば御の字である。
上着を脱ぎ捨て、三島のバックパックからメディキットを取り出す。
まるで元から用意されているようで気持ちが悪いが、頼るものはそれしかない。
止血テーピングでぐるぐるに固め、鎮痛錠剤を五錠程噛み砕いて飲み込む。
まるで戦争をしているようだ。
いや、実質、戦争なのかもしれない。
――改めて、自分の戦闘能力のおかしさに、頭が痛くなる。
どこの世界の女子高生が、フル装備の軍人に素手で挑みかかって勝つだろうか。
「ははっ」
立ち上がる。
やけに世界が綺麗に見えた。
思考は正常だ。
感応干渉の影響も見当たらない。
「なーんででしょうかね」
スカートを捲りあげ、ワイシャツの腕も捲くる。
「兼谷さん。私ね、今すごく、楽しいですよ。生きてる実感があります。市子を愛している事だけが私を保っていたのに。唯一の自信すら偽りだったのに、今、凄く楽しい」
……。
感応干渉。
視界に、占拠事件のヴィジョンが浮かぶ。
のらりくらりと動く輩は塵供だ。
幻覚の暴漢が拳銃を構えるよりも早く、杜花は動く。
解っている、これは幻覚だ、そこに人は存在しない。
幻覚を打ち倒す。
幻覚を打ちのめす。
偽りを殺し、
偽りを刈り取る。
目を閉じ、目を開いた先には、何も無い。
「お婆様は弱かったんですね。こんなのに手間取るなんて。私なら、お婆様が三人殺す間に十人は殺せますよ。本当に、全部貴女のお陰ですね。私を扱いて扱いて扱き倒して、何が誰にも負けない人間になれだ、畜生め。ふざけやがって! 馬鹿にしやがって!!」
壁を殴りつける。ベニヤ板はやすやすと貫通し、無残な姿を晒す。
痛みと憎しみに、思考は一気に覚醒した。
「馬鹿にして……馬鹿にして……!」
溢れて来る涙を拭う。
無様すぎて嫌になる。
何が今更悲しいのか。
もう自分は一年以上前に死んでいるのだ。
これ以上流す涙は無い筈だ。
何故そうまでして自分に死生を拝ませるのか、何故そうまでして人の妄執に突き合わされねばならないのか。
もう、何も見たくない。
見せて欲しくなんかない。
ほんの少しだけ残った理性を、拡充しないで欲しかった。
欅澤杜花に、明日は無いのだ。市子を、撫子を受け入れる為だけに存在した器である杜花が、その存在意義を失って生き続ける事は出来ない。
早紀絵もアリスも頑なだと怒った。もっと他を見て価値を決める事も出来るのだと言った。しかしそんな一般論が通じる程、杜花はまともでは無い。
新しいものが出来たから代わりに入れろと兼谷達は言う。
誰がそんなものを受け入れるか。
心の底から骨の髄まで全て市子がこびり付いた杜花が、そんな偽物を注がれては、たまったものではない。
そんな事をされるぐらいなら死んだ方がマシだ。
だからこそ、ほんの一かけらだけ残った理性を刺激しないで貰いたい。
狂人ならば狂人で良い。
七星一郎のクソ野郎に感謝しよう。
欅澤花のクソ婆に感謝しよう。
欅澤杜花の身体能力をもってすれば、存分に狂い散れる。
「――――兼谷ぁぁぁァァッッッ!!」
杜花の絶叫が、旧校舎の廊下に木霊する。
それに応えるようにして、兼谷が廊下の奥から音も無く姿を現す。
その姿は以前と同じスーツであり、関節部には筋力強化サポータがはめられている。しかし、徒手空拳だ。
「けたたましいですね、杜花お嬢様。品位を疑われますよ」
「品格なんて比べてる場合じゃあないんですよ」
「何故幸福を甘受しないのでしょうか。貴女にとって悪い条件ではなかった筈です。市子お嬢様……いいえ、利根河撫子の意見も汲み取って、貴女のハーレムを許容したのに。御好きでしょう? 綺麗で、可愛らしくて、いじらしい女の子。囲まれて生活したいでしょう」
兼谷はそう言いながら、静かに歩いて距離を詰めて来る。まるで音がない。
杜花は距離に違和感を覚え始める。恐らく感応干渉で弄っているのだろう。此方が思考するその全てに影響を与えるこれは、近接格闘においても遺憾なくその威力を発揮するだろう。
距離感、タイミングの誤認は隙を産む。
ただの一撃も、兼谷のものとなれば、命取りだ。
「私は市子しかいません。そして、市子はもう居ない」
「大企業の娘と大政治家の娘。両方とも、本当に良い子なのに、その二人から処女を貰い受けて、愛されて、信頼されて――それを裏切るなんて真似が、良く出来ますね? 人非人と呼ばれてもおかしくないでしょう。いえ、呼ばれるべきです。貴女は気狂いです。真っ当じゃない」
「構いません。それに、私では彼女達を幸せに出来ません。どう足掻いても、どれだけ愛そうと思っても、キスする度に、交わる度に、市子の顔を思い出してしまう私なんて、彼女達だって迷惑です」
「それでも良いと、彼女達は許容した。なんて良い子達なのでしょう。それすらも断ち切る貴女は一体、どんな精神構造をしているのか、測りかねますね」
「頭を弄ったのは貴様等だ!! 運命を弄ったのは貴様等だ!! 遺伝子どころか心まで手を加えて、人を翻弄したのは貴様等だ!!」
「失礼。反論不能です。全面的に此方が悪い。そうですね。貴女は与えられたレールの上を歩む事しか出来なかった。可哀想ですね?」
癇に障る。
一定の口調で喋る兼谷に抑揚は無い。有る事を喋っているだけだ。感情は一切感じられなかった。
きっとどうでもよいのだろう。全ては七星が敷いた道。けもの道を抜けた先にも、きっと七星が整備した舗装道路が存在するのだ。レールが存在するのだ。
コイツ、どうしてやろう。ただそればかり考える。
「市子お嬢様を消した後、どうする気ですか?」
「私の半身が死んだと、そう再認識するだけです。私も後を追う。それで全て終わり。私に整理が付き、決着が付く」
「利己的。自分勝手。無茶苦茶だと思いませんか?」
「それで、何ですか?」
「ですよね。解ってます。貴女は、貴女に整理が付けばそれで良い人。ゾンビが生きているのは間違ってるとそう思う人。肉ありきで継続する意識があってこそ、人間だと思う、潔癖症の人。でも、本当に構わないんですか? 市子お嬢様のメインデータは消えても、バックアップは残る。そして、七星に手を出して、貴女の家族が無事だと思いますか? 七星がそんなに優しいと信頼してくれるんですか?」
「だから、それで、何ですか?」
「……お話にならないとはこれの事ですね」
「最初からそうしてください。私は正義の味方でも、反企業戦士でも、愛する人の為に戦う人でも、ないんですよ」
欅澤杜花は、自殺をしに来ているのだ。そしてその場所を選ぶ為に戦っている。
「自暴自棄ねえ。では、どれぐらいそれが安っぽいか、確かめてみましょうか」
……。
強い感応干渉を感じる。杜花は眼を細めて兼谷が立つ廊下の奥を見つめる。
ひたひたと、誰かが歩いて来るのが解る。その足取りに精気は感じられない。
やがて姿を現したのは、虚ろな目をした天原アリスである。
「あ――杜花、様」
「アリス。お早うございます」
「えへへ……お早うございます。杜花様……」
視界が……合っていないのだろうか、アリスが視線を向ける先に、杜花は居ない。
三島と同様に、見ているものが違うのだろう。ほとほと、人道なんてものを一切考慮しない能力である事に頭を痛める。
兼谷は、アリスの肩を抱き寄せると、懐から取り出したナイフを首にあてがう。
大体予想通りだ。折角駒があるのだから、七星は使うだろう。
「私は悪役ですので、何でもしますよ。全ては七星一郎様の為に、とでも叫んでおけば、もっとラシイですかね。まあ、あれです。抵抗すればアリス嬢の頸動脈を切り離します。数分も経てば死ぬでしょう」
「幾ら七星とて、天原のご息女を殺害なんて、隠しきれませんよ」
「大丈夫です。貴女の所為にしますよ。貴女は収監されるでしょう。その身は七星が確保します。処遇の決まったあとならなんとかなるんですよ」
出来てしまうのだ。あらゆる名目で受刑者を引き抜く手段を、七星なら有しているだろう。
そんな不正がまかり通って何故七星が当たり前のように日本国に君臨しているかといえば、当然、七星に従っていた方が、恩恵に与れるからである。彼等はメガコーポであり、秩序だ。
欅澤杜花はそんなものに、喧嘩を売っている。
「杜花様?」
「アリス、動かないで」
「杜花様、お困り、ですか?」
「……不用意でした。熱くなって。アリス――」
「困っているならば、わたくしが、アリスが、助けますわ」
「アリス?」
「なんでもするって、言いましたもの。私は私に、嘘なんて吐けませんわ。杜花様の困難を、どう解決したものでしょう。ああ、言ってくださいまし。私は、貴女の、力になりたい」
「アリス、貴女」
「……健気過ぎて泣けますね。やる気がなくなってしまいます。杜花お嬢様は市子お嬢様ばかり見ているのに。これでは可哀想です」
「自分でやっておいて、何を」
「せめて、今助けるからとか、その子を離しなさいとか、言えば良いのに。アリス嬢ごと蹴り飛ばそうと、考えてましたね? まあ確かに何とかなるかもしれませんが、貴女本当に、他はどうでもいいんですか?」
流石の兼谷も、これにはやる気をなくしたのだろう。
演技がかった台詞も無く、兼谷はナイフを仕舞い、アリスを退ける。
「産まれて初めて狂人と対話したのは、七星一郎が初めてでしたけれど、二度目は間違いなく貴女です。貴女、人を何だと思っているんですか?」
「七星がそんな事、言えるわけが無いでしょう」
「少なくとも、七星は七星が擁する者に対して、愛する人に対して、危害なんて加えません。クローンの子達とて、ちゃんと人間として生活させている。研究対象になった人々と、その家族には多大な恩恵をもたらし、一生食うに困らない生活を提供している。七星の敵対者とて、そう簡単に殺しません。社会的に退いて貰うだけですよ。現代日本で、そんなにやすやすと人を殺しませんよ」
「人道的ですね。私達以外に対しては」
「仰る通りで。とはいえ、今後七星になる貴女に、そんな軽薄な思想で居られる訳にもいきませんので、不肖兼谷、欅澤杜花に教育を施します。御覚悟を」
「やっとですか。待ちくたびれました。さっさと退いてください、兼谷さん」
「ああ、そうそう」
兼谷は思いだしたように、懐に手を突っ込み、今度は拳銃を取り出す。
――そしてそれは杜花では無く、アリスに撃ち放たれた。
パスン、という軽い音と同時に
「いっきゃあぁぁぁッッッ!!」
アリスの絶叫が木霊する。杜花は……顔を歪めた。
「反応有り。なんだ、ちゃんと人間しているじゃあありませんか、やはり安っぽい。貴女は死にたくなんかない。アリス嬢も早紀絵嬢も傷つけたくない。幸せになりたい。人間でありたい」
「痛いでしょう、そんな事したら」
「そらまあ。大きな動脈を傷つけました。処置しないと死ぬでしょう」
「……痛いでしょう、そんな事、したら」
「ふふっ。まるで掌で転がされている貴女、少し可愛いですよ」
心臓が、痛いほど鼓動を繰り返す。
欅澤花の記憶が走馬灯のように蘇る。
傷口を抱えて丸まったアリスの姿が、誉に重なる。
それはやってはいけない事ではないのか。何故そんな事をする。杜花が言う事を聞かないからか? ならばもっと手段があるだろう。
アリスを見る。彼女は太股の傷口を抑えながらも……杜花を心配そうに見つめていた。今の衝撃で感応干渉が外れたのだろうか。訴えかけるような、悲しい目だ。
「アリ――」
「ガラ空き」
「かっ――ふッ」
瞬間、杜花の身体が浮き上がり、数歩後ろまで吹き飛ばされ、廊下に叩きつけられる。何が起こったのか解らなかったが、迷っている暇はない。杜花は即座に飛びあがるよう起き上がり、体勢を立て直す。
腹部に鈍い痛みを感じる。兼谷は既に残心していた。
「当たりますね。不安でしたけど……しかし頑丈」
以前、兼谷と立ち合った時の事を思い出す。
あの時のスタイルはボクシングだったが、今回は空手だろう。彼女は正面で拳を構え、此方の出方を窺っている。
以前の経験はあてにならないと考えた方が良い。この人物が自分の手の内を簡単に晒す筈がないのだ。
「アリス、ハンカチを当てがって、傷口を圧迫して」
「どうでもよいのでは?」
「助かった方が気持ちよく死ねるでしょう」
「――貴女がいないならば、死んだ方がマシだと思ってしまうのが、彼女達だと思いますがね。貴女は、彼女達を……信じていないんですか」
苦痛に顔を歪めながら、杜花の言う通りにするアリスを確認してから、兼谷に向き直り、右自然体を取る。
兼谷は両手利きで、上下左右隙が無く、動きにブレがない。
杜花程ではないが、危機感にも敏感で、本当にスレスレの所を避けてカウンターを繰り出すような真似をされた事がある。
不用意には動けない。
兼谷との距離は四メートル。杜花が飛び出すには遠い、絶妙な距離だ。解ってやっているのだろう。
自然体のまま、両手を平にし、正面に構える。
返し技が妥当だが、そうなると、兼谷は攻めてこない可能性が高い。時間を伸ばせば伸ばすだけ、アリスが疲弊するからだ。
花の意識と、杜花の残った理性が鬩ぎ合う。
杜花には返し技なら相当の分があるのだ、業を煮やした兼谷が飛び込んでくるのが、もっとも勝率が高い。
「合気を実戦で使う人物って、現代では恐らく杜花お嬢様だけですよ」
「……」
「教本通り動かないと手足が折れるのは、まあ解るのですけれど。その状況に相手がなってくれる訳じゃあない。自分で持って行ってこそ、です。貴女の怪物染みた……失礼、そうしたのは此方でしたね。ともかく返し技の強い貴女に、攻めるメリットがない……が、それも面白くありませんね」
戯言を語る兼谷を無視し、空間把握に努める。
兼谷の微細な重心移動、呼吸、筋肉の動きに細心の注意を払う。通常の打撃ならば食らったところで、杜花は平然とした顔のまま反撃するだろうが、問題はアームサポータとレッグサポータだ。拳にも皮グローブを嵌めているが、グローブの中に何が仕込まれているのか怪しいものである。
先ほど腹に一撃浴びたが、恐らくかなり加減したものだっただろう。
「動かないですね。なら動きますよ。折角貴女と立ち合っているのに、一撃必殺の応酬だけで終わるなんて」
兼谷は首を鳴らし、前に出る。
後二歩、それだけ進んでくれれば、杜花の拳が届く距離だ。
だが半歩届かない。ギリギリの所で、兼谷は止まり、呆れた、というジェスチャーをする。
「考えた事はありませんか? 剣道の達人同士の試合より、高校生の打ち合いの方が面白い。年収気にするプロ野球より、荒っぽい高校野球の方が白熱する――ねえ?」
瞬間、昨日兼谷を取り逃がした折に受けた、白い衝撃が襲う。
杜花の集中しすぎる意識を脇から狙ったように、それは突如視界を奪った。
以前は突然のことだっただけに、対処不能だったが、今は違う。
想定済みだ。
顔面に向けて襲い来る『殺意』に対して、杜花は手首を切り返す。
「ぐっ――」
「チッ……」
杜花の右手腹と兼谷の左拳が衝突、互いにのけぞるようにして弾ける。
手が駄目になるのを覚悟で打ち込んだが、やはり増強している分、兼谷のブレの方が少ない。右手が酷くしびれるのを感じたが、それどころではない。
杜花の視界が戻ると同時に、兼谷の身体が下に沈み込む姿が飛び込んできた。
タックル――膝は、間に合わない。
兼谷の双手刈りは、まるで軽自動車のような勢いで杜花を地面に引き倒し、すかさずそのまま馬乗りになる。どうあっても対人の必勝法だ。対処出来ないタックル程恐ろしいものはない。
馬乗りになれば殴るもよし、首を締めるもよし、とにかく優位に立てる。
特に素人では脱出する手段が少ない。
……だが残念ながら、兼谷の相手は欅澤杜花という暴力装置である。
顔面を狙って振り下ろされるハンマーパンチを両手十字で受け切り、左手で腕を捕まえる。胸元に引き寄せ、上体を倒す形になってしまった兼谷の首筋に、無理矢理親指をねじ込む。
気管支を潰される事を嫌った兼谷は直ぐに上体を上に反らした。狙い通りに行く。
「がふ――ッ、このっ」
「せぇ」
体重移動が上手くいった。
「のっ!」
兼谷がうろたえた瞬間に身体を下に滑り込ませ、そのまま思い切りブリッジで跳ね返す。
即座の反撃を警戒した兼谷は、自ら回転受け身をして、数歩先に離れて行く。杜花はその様子を窺い、ゆっくりと立ち上がる。
まだ、兼谷は射程距離内だ。
通常寝そべっている相手ならば、スタンピングでも良いし、頭を狙った蹴りでも良かっただろうが、相手が杜花となるとそうはいかない。
決死の杜花に脚を掴まれた場合、すなわち靭帯か骨を持って行かれるのと同義だ。
十数年の鍛錬と天性の勘、そして脳改造という人工強化が生んだ怪物は――全身凶器と相違ない。
「タックル、合理的ですものね。解ります、多用したくなるのも」
「貴女相手では不用意でしたね」
「そうですね」
「――ッ」
呼吸を抜く。踏み込みの動作を最小限に抑える。筋肉の動き、心拍数すら、必要最低限に抑える。
拍子を取らず、身体の上下運動を殺し、滑るようにして前に進む。
「な、あッ」
見えていても、避けられるものではないのだ、これは。
欅澤杜花の真に迫った身体操作術は、例え歴戦の格闘者であろうと、神に祝福された才能を持とうと、決して齎されるものではない。
人間は相手の動き、そして気配などを読んでそれに対応する。どれだけ速度を上げた攻撃であろうと、技の入りが解れば予測しての回避は常人とて可能なのである。
だがこれは違う。兼谷すら恐らく体験した事は無いだろう。欅澤杜花が怪物たる所以でもある。
無拍子。その気配が、挙動が『わからない』のだ。
タイミングを外された兼谷は、回避動作が叶わず、潔くガードを構えた。それだけでも大したものである。
しかし無意味だ。そのガードの上に、躊躇いなく、全体重を乗せきった左正拳を叩きこむ。
「ギッ――ッくぅッ」
インパクト時、そのガードを突き破るべく杜花は左腕に全神経を集中させ、血管を膨れ上がらせる。
左拳が肉を突き破る感触があった。
それは硬い骨にブチ当たり、兼谷が顔を歪める。内出血では済まないだろう。
続けざまに、杜花が上段蹴りに移る。
これを――兼谷はそのまま食らいまともに吹っ飛ぶ。
杜花の蹴りを上半身に食らって立ち上がった選手は、未だかつて存在しない。
「ごっ、くっ、ぐぅぅぅぅぅッゥ」
吹っ飛んだ兼谷はガツンッという音を立てて壁に激突し、痛みに悶絶する。
「肩の骨ですか。頸椎折れて無いだけ幸せと考えた方が良い」
痛みに悶えながらも、即座に体勢を立て直した兼谷が改めて構える。しかし左肩を下げたままだ。靭帯断裂以上のダメージは明らかである。
痛みぐらいならば脳内麻薬で何とかなるが、元から動かないのでは稼働叶わない。
「無拍子とか……けほっ……冗談、でしょ……明治の、格闘神話じゃ、あるまいに――ッ」
兼谷が呼吸を荒げながら体勢を立て直し、左足を前に出す。
……。
踏み込み、右上段蹴りが杜花の眼前を掠め、杜花はそのまま左の後ろ回し蹴りが来ると察知したが、違う。
「なっ!?」
一歩下がったかと思うと――左足の胴回し蹴りが、全体重を乗せて杜花に浴びせかかった。
「っりゃああぁァッ!」
「ぐッ」
――認識をずらされた。
顔面に飛来する踵を咄嗟に防ぐも、兼谷の体重、そしてレッグサポータの過剰筋力で負荷がかかり、ガードが弾ける。
兼谷は腕も使わず、回転の勢いのまま立ち上がる。
続けざまの攻めは無い。今のは完全に奇襲攻撃だ、本来ならこれで仕留めねば、後は無い筈である。
右腕に痛烈な痛みが走る。ちらりと眼をやれば、明らかに曲がってはいけない方向に、右腕が反れていた。
右手を握り締める。まだ、握力はある。
こんなものを顔面に受けたら、顔面が陥没しただろう。
「……肩に銃創があるのに、良く防ぎますね。今ので終わりだったのに」
「喋っていると舌噛みますよ」
兼谷の息が上がっている。心臓は必要以上に鼓動を繰り返している。
今の一撃で仕留めるつもりだったのだ、動揺しない方がおかしい。それを察して、杜花は前に出る。
「覚悟」
「――ッ」
杜花の馬鹿正直な右正拳を兼谷は平然といなそうとするが、杜花は急激にその動きを止め、開手。
ダメージのある右腕での攻勢は意外だったのか、次の行動を読み切れなかった兼谷の袖を掴む。
「ッッ!」
不用意に出張った兼谷の左足を、思い切り払いあげる。
通常ならば横に一回転するような足払いだが、筋力増強のお陰か、思いの外身体の重心が傾かず、兼谷は地面に残ったが……しかし、捕まえてしまえば此方の物だ。
杜花は本来打撃系ではなく、投げ技系の人間だ。
払われて下がり、身体を支えている左足。
多少なりとも重心が動いてしまって、完全に地面を捉えている訳ではない右足。
崩しが完成したと見るやいなや、杜花はそのまま腰を落として兼谷の懐に入り込む。
釣り手が無い為つくりは不十分だったが、その天性とも言えるボディバランスで兼谷を背負いあげる。
「ぐ、うぅうぅぅっッッ――――!」
――叩き折られた右腕が悲鳴をあげる。しかし、兼谷を離す事は出来ない。意地でもだ。
杜花は逃れようと背中で暴れる兼谷の太股を左手でしっかり捕まえると、そのまま一回転する。
「ゼェェェッッ!!」
全体重を乗せた袖釣り込み腰が、兼谷を地面に叩きつけた。
杜花の全体重、遠心力及び重力、そしてコンクリートの地面は紛う事なく、最悪の凶器そのものだ。
「こっふ、けっが、あっ……かっ」
完全にタイミングを外されてしまったお陰で、本人は『投げられる』という覚悟が出来ない。この状態で投げられた場合、例え下が畳であったとしても呼吸困難は免れず、叩きつけられる衝撃は想像以上だ。
背部をしたたかに打ちつけた兼谷は、呼吸が出来ずもがく。
柔道ならば終わりだろうが、生憎とそのような試合ではなく、仕合だ。
問答無用で杜花は馬乗りになり、反抗出来ない兼谷の顔面を二度、三度と撃ちつける。
ギリギリ残っていた防衛反応により顔を守っていた腕も、四発目には下がり切り、力が抜ける。
――これ以上は、殺してしまう。
五発目の拳を握りしめた杜花が、一瞬ためらう。
「――ッ」
そんな隙を、兼谷は狙っていたのだろうか。兼谷の握られた左拳が強かに杜花の太股を打った。
悪あがき――そう思った矢先、杜花は激痛に身をよじる。
その隙に兼谷が杜花から這うように離れて、壁に寄り掛かった。
「ハァーっハァー……ッ! げほげほっ……ッなんて人……本当に、怪物ですね」
太股から流血している。傷口は血まみれだが、開いた穴は鋭い。隠しナイフだろう。
「……ふン」
「――――ハハッ……嘘でしょう」
兼谷の目に、絶望の色が滲む。
杜花は――刺突された傷口を意に介さず、思い切り腿を平手で打ち、立ち上がる。
流石に兼谷も、その異常性には目を剥いていた。
「狡い――その刃渡りじゃ人も殺せない、兼谷さん。せめて当てるなら、腹でしょう」
「けほけほっ……呼吸止まりながらなんです、大目に見てください」
「喧しいです……本当に、もう」
杜花が歩み寄る。兼谷としては、手詰まりなのか、壁に寄り掛かったまま動こうとはしない。
「――あ、はっ。はっ。やっぱ、ダメですね。生身で勝てる相手じゃあない」
「兼谷さんは、何か勘違いしています。貴女は退けるだけで良い。何も争う必要なんて無いでしょう。個人的に、今ぶん殴りましたから、溜飲も下がった。さあ、退いてくださいな」
「ダメですよ。言ったじゃありませんか、市子お嬢様を持っていくなら、兼谷を倒さなきゃいけないと」
「少年漫画の読みすぎですね」
肩を抱え壁に寄り添う兼谷に対して、杜花は容赦なく前蹴りを御見舞する。
荒っぽい攻撃だ、兼谷も膝を上げ、腹部への直撃を免れる。しかし杜花の蹴りの威力が強すぎる為か、兼谷はバランスを崩して壁にもたれかかり、崩れるようにして廊下に座り込む。
「かっ――げふっ……いっ、た……痛い……」
「痛い……?」
痛いから、なんだ。
腸が煮えくりかえるような怒りを覚える。
お前らがした事が、どんな理不尽なのか、しっかりと考えた事があるのか。
お前らが実行したものが、どれほどの人間を巻き込んでいるのか理解しているのか。
お前らの暴虐が、どれだけの悲しみを産んだが解っているのか。
現に見ろ、この欅澤杜花を。
肩口は血まみれで、頬にアザを作り、腿に穴を開け、あちこちとすり傷だらけで、髪の毛も吹き飛んだ。
女性を壁に追い詰めて蹴りを入れる姿など、どこをどう見たら『御姉様』なのか。
こんなものを作ったのがお前達だ。
こんな事をさせているのはお前達だ。
幸福を許容しろ?
冗談じゃあない。寝言は寝て言え。大概にしろ。ふざけやがって。
「殺しませんよ。後味悪く死にたくありませんから」
もう一発腹にぶちかまし、悶える兼谷の顔を見てやりたいところだが、そうもいかない。
アリスに目をやる。
意識はしっかりとしているようだが、その弱々しい姿が誉に重なり、杜花は頭を振る。幸い、この学院には立派な医療保健室が備え付けだ。直ぐに運べば大事には至らないだろう。
「アリス。大丈夫ですか」
「ええ……血は、まだ出てますけれど、言うほどは……」
撃たれたであろう太股を見る。
大動脈を狙ったと言っていたが……どうやら嘘のようだ。確かに血は出ているのだが、動脈を傷つけたらこれどころの騒ぎではない。
「……ごめん。アリス。ああ、私また、謝ってばかり……」
「良いんですの。杜花様こそ、ああ、御髪が」
「気にしないでください。ともかく、痛いでしょう。あっちにメディキットがありますから、手当してから……」
「……そうもいきそうにありませんわよ。杜花様」
アリスが杜花越しに視線を向ける。杜花は当然気が付いていた。
振り向かないまま、立ち上がる。
「ああもう――乱暴ですね、杜花お嬢様は」
改めて振り向くと、彼女の近くには白い筒状のもの……恐らく即効性の痛み止め注射だろう、二本程転がっている。
「は、はっ。まあ、こんな、ものですかね」
「次は本当に殴り殺しますよ」
「構いません。貴女を止められるなら」
……解らない。
兼谷の意図が、杜花には理解出来ない。
確かに、彼女の役目は市子の護衛だ。そしてそれを殺しに来る輩に立ち向かうのも、論理的だ。
だが、ものはデータである。杜花に二子本体を殺すつもりはない。市子のメインデータさえ削除出来ればそれでいいのだ。
二子は殺さず、バックアップもある。では彼女達に失うものはない。
「解らないんですが、何故です? 貴女が命を張るほどの、ものですか、市子のメインデータは。私、二子は殺しませんよ」
「それは此方の台詞です。何故データ如きにムキになる。それにこれは全部、貴女の為なのです。どんな形であれ、貴女に生きていて貰わなければ困るからこそ、私は貴女のような格闘怪物に喧嘩を売っている」
強烈な痛み止めの所為か、兼谷の視界はいまいち定まっていない。時折身体をふらつかせながら、言葉を紡いでいる。
「余計な御世話ですね。結局市子のデータの為でしょう」
「……データだろうと何だろうと。杜花お嬢様。彼女は幸せにならなきゃいけません。撫子は幸せにならなきゃいけません。二子も望みをかなえなきゃいけない。『彼女達』は貴女を欲している。では与えねばなりません」
「――支倉メイは撫子のクローンでしたね。学院には、何人居るんですか?」
「五人居ます。名前は明かせませんけれど。それが?」
「――貴女、何です?」
「私は『撫子の』複製じゃありませんよ。彼女達の肉親ではありますが」
「ヨーロッパの片田舎が実家じゃあありませんでしたか」
「嘘ですよ。容姿は変えてありますしね」
兼谷は、腕時計型端末を見て、小さく頷く。
「なん、ですか」
顔面、腕、肩、背部に腰部、そして脚に帯びたダメージは相当で有る筈だが、しかし彼女は、まるで慈愛に満ちた表情で、杜花に望む。
「一体誰が、撫子の母親だと言って、納得しますか。市子と二子の母だと言って、納得しますか。しないでしょう。ほら、私、とても若く見えますからね」
「なっ――」
兼谷は、おかしそうに笑う。その薄暗い笑みに、欅澤杜花にして、背筋が凍る。
彼女は、狂人だ。
「利根河恵。旧姓七星恵の、遺伝子複製体です。中度反応高速化手術、深部筋力増強手術、細胞再生回復手術、その他諸々。生身ではありますが、身体の殆どが人為的に弄ってあります。再現には苦労しました。当時の利根河恵の魂を再生する為に、一郎様は血の滲むような努力と、膨大な時間、そして莫大な資産を費やしました。私の生い立ちを圧縮して一から詰め込み直し、当時を辿らせて記憶を再生成し……私は、兼谷であり、利根河恵になった」
「親として……今をおかしいとは、思わないんですか」
その言葉に、自分でハッとする。兼谷も気が付き、口元を歪める。
「私を人間と認めましたね。ま、いいです。思いませんよ、私は。一郎様が自らの正義と幸福を達成するその日まで、私はそれを是とします。娘の死を、親として受け入れられないのも当然。再生するだけの力があるなら、実行するのも当然」
「……弄んでおいて、それを言うんですか、貴女は」
「弄んでなんかいません。必要な事です。人の鮮烈な死によって導き出される人間の、計測不能の感情が、私達は撫子再生に必要だと思った。私はいささか撫子と仕様は違います。が、制約はあるものの、一度は離れた肉体と魂を、取り戻すに至った。理論上可能であり、実証済みなんです。だからやる。そうそう、杜花お嬢様」
「……忌々しいですね、なんですか」
「市子の死体に関して、考えた事は?」
杜花の呼吸が止まる。
控えているアリスが、目を剥く。
こいつは、とんでもない事を、言おうとしている。
「――保存してありますよ。いえ、厳密には、死んでいない」
「――な……に?」
「貴女、葬儀で火葬された骨をちゃんと見ましたか? 見ていませんよね、親族だけで囲いましたから。骨壷、空ですよ。あの葬儀、貴女の為のものですもの。当然死亡届も出していない、死んでいませんから。学院に届けられる、学院生徒が自殺したという三面記事、週刊誌のゴシップ記事、学院に押し掛けたマスコミ、取り調べにきた警察。それら全部、作りものであり、サクラです。貴女達に市子の死を実感してもらうための物。貴女達が引き継いだものを、目覚めさせるもの」
「そんな……無茶苦茶です……そんな、馬鹿な……」
それでは。
それでは――今、欅澤杜花を突き動かす前提が、崩れてしまう。
「ただ、首の骨を折っていますから、装置で延命しているだけで、死んでいるのと変わらない。首の骨を総とっかえするとなると、不可能ではありませんがリスクが高い。そして、これを直すくらいなら、一から作った方が早い」
「嘘は、やめて、ください」
「この後に及んで嘘なんて、吐きません。ほぼ目覚める見込みの無い市子を待ち続けるのは辛いでしょう。全ては同時進行。肉体の蘇生も、クローン化も、市子のデータ復旧も、撫子の再生も、全部一つ。そして、欅澤杜花という人物を幸福にする事が、可哀想な私の娘達に残された最初にして最後の希望です。だから言っているじゃありませんか。全ては貴女の為です。七星一郎は、私達が驚くほど、貴女を気に入っている。いえ、恋していると言っても過言じゃありません。それもそうです、何せ貴女は、本当に当時の欅澤花そっくり。利根河恵一辺倒だった彼が、一番最初に浮気した人。ま、私の死後なので、浮気というかは、怪しいですけれどねえ」
「ま、まって……やめて、お願いですから……」
「ええ、待ちましょう。幾らでも、考えてくださいまし、杜花お嬢様」
どこから、どう考えれば良いのかすら……杜花には解らない。
つまり、市子は――延命装置付きではあるものの、肉体的にも、法的にも、生きていると言う事だ。
もし、目を覚ましたのならば良し。
不随が残ろうと、サイバネティクスで幾らでも繋げられる。
それがダメならクローンを作っても構わないのだろう。
そしてそこに、ほぼ市子と断定されたデータが入ったのならば……それは、間違いなく、市子、ではないのか。
(違う……違う……ちが……う)
人間とは、母から生まれ出て、様々な記憶を積み重ね、出来あがるもの。それが人間ではないのか?
元から出来あがったものを元に再生成した肉体に、データの魂を乗せる。
それは、あまりにも人為的で、科学的で、生命として間違っているのではないのか。
違う。
それは良い。まず置いておくべきだ。
いや、待て。
違う。何が違う。
何せ、何もかも根底から覆っている。
市子が死んだと思ったからこそこうしているのに、意識こそ無いものの、生きているならば、今死ぬ意味がない。
「い、生きてる。市子が?」
「目を覚まさないかもしれません。というか、ほぼ無理でしょうね。だからこそ代替えがいる。ああ、撫子の否定反応の件がありましたか。やはり、私の件もそうでしたが、本人の魂は本人の肉体が一番なのでしょう。だから肉体も魂も同一が良い。撫子の遺伝子複製体に、市子の魂が定着しなかったのは、市子が撫子として完成が甘かったからと言えます。ただ、例外もある。クローンでなく、直接一郎様と、私の肉体から産まれた子ならば、どうやら違う様子です。ええ、だからもう問題は、一巡してしまう。私という母体から生まれた、市子、二子で、何か、不満ですか、杜花お嬢様」
「も、杜花様?」
膝をつき、頭を抱える。
――なんだそれは。
どうしてそうなる。
人間とは何だ。
人間と定義するものとは何だ。
違う。
人間は人間だ。
個人だ。
個人を定義するものとは何なのか。
連続した意識を保ち、自我があり、趣味趣向があり、言動があり、行動があり――それがそのまま、例えデータとしても再現されているならば……それは個人ではないのか。
だったら、狂乱している自分は、もう何なのか解らない。
とんでもないキチガイに他ならない。
自分を慕うものを切り捨て、娘を守ろうとする母を殴りつけて殺そうとした、とんでもない女となる。
例え敷かれた道の上だったとしても、攻撃衝動など個人で押さえつけられた筈だ。
もっと論理的に、感情を抜きにして考えれば、良かったのではないのか。
「な、なんですかそれ……」
憎い、何もかもを巻き込んで、自分達を実験台に、学院を実験場にしたコイツ等が憎い。
金を、時間を、人を、全てを動員して人を翻弄するコイツ等が憎い。
死した娘を蘇らせる為、死した筈の恋人にとどめを刺し自分も朽ち果てる為。
客観的に見ろ。
どれが一番幸福だ。
例え七星の強権であっても、彼等の選んだ道が、一番被害が少ないのだ。
「逃げ道なんて幾らでも用意します。お願い、杜花さん。娘たちは、貴女が欲しいの。貴女が、貴女が諦めてくれるだけで……皆が幸せになれるの」
兼谷が、初めて感情を見せたように、言う。
杜花は、頭をかきむしり、ふと自分に立ちかえる。
その手を見ろ、腕を見ろ、脚を見ろ。
なんでこんなに傷ついている。どうしてこんな事をしている。
何故アリスが傷つき、兼谷がボロボロだ?
「二子は、二子はどうするんです」
「あの子は受け入れています。器になる事を」
「そんな、どうして」
「器としての悲願なのか……二子が純粋に、市子になりたいのか」
「わかって……いないんですか、貴女」
「良いと言うなら、良いでしょう。二子だって、蘇らせようと思えば、幾らでも出来てしまうのですから」
「う、うぅぅぅぅ……ッッ」
廊下に、拳を叩きつける。
一度、二度、三度、皮がめくれ、血が滲む。
「何ですかそれ……何ですかそれ……ッ」
四度、五度、六度、骨が軋むのが解る。
「杜花様ッ」
アリスが、後ろから杜花の腕を押さえつけた。
「思考停止はいけません。どんな後悔があったとしても、許容されるならば立ち直れる。貴女の市子への依存はもはや冗談にはなりませんが、新しく関係を見つめ直す事は出来る。何も心配しなくて良い。三島軍曹に関しても、きっちり隠ぺいして、彼女は元通り。私の怪我など気にする必要もない。貴女は市子のデリートコードを破棄し、忘れ、そこで血まみれになっているアリス嬢を抱きかかえて医療保健室に向かい、治療を受けて、早紀絵嬢とも御話し直せば良い。彼女は貴女を心から愛している。貴女の全てを受け入れられる。貴女は全部が許容されている。落ち着いて、考えを改めて、また、市子と向き合えば良い。それで全部おしまいです。何故死に急ぐんです、何故戦うんです」
「何故、今になって、そんなこと……。もっと、もっと早く、教えてくれれば、こんな事、私は……」
兼谷は腕の端末を確認し……にやりと、笑った。
「ですから、再現の圧縮が必要だったんです。撫子を覚醒させる為に」
「この……情景も、それ、だと?」
「最初はじっくり彼女を覚醒するつもりで居ましたが、杜花お嬢様達が予想以上に反抗的でしたので、対応を変えました。それに、やはり最後のギリギリまで再現した方が、正確な数値が取れるようですね。感謝します。市子撫子は、部屋のモニタでずっと貴女を見守っているでしょう。思いだしているでしょう。血まみれのアリス嬢も、暴れ周り嘆く貴女も。だから、もう、出来てるんです。出来あがったから喋りました。これで良い。これで――撫子に会える。娘に、会える……『大覚醒』は、叶った」
三本目の注射を打ち、捨てる。余程きつい痛みなのだろう。
アリスが杜花に寄り添い、杜花の腫れあがった腕をさする。
「杜花様。兼谷さんの言う通りですわ。何も、自ら死に行く必要なんてありませんのよ。データと心中なんて、馬鹿らしい事この上ありませんわ。全部元通りになります。七星が保障するんですもの。あ、いたた……」
「……それで、アリスは良いんですか。何もかも、コイツ等の意のままにされて。私達の自由意思は、どこに行くんですか。私達は人形じゃない。駒じゃない。人間です。純粋じゃ、ないかもしれませんけど」
「構いませんわよ……。自由意思って、なんですの? 私達は、大きな枠組みとはいえ縛られて生きている。その中で道徳と法を遵守して、生きている。言わばそれは国家であり、言いかえれば、七星ですわ。私達は群れてしか生きられない。用意された枠組みでしか、生きられませんわ。今更なんですのよ、どうあっても」
自由を履き違えているだろうか。
杜花の作りあげた自由とは、体験した幸福とはそもそも、七星が作ったものだ。
あれを自由と呼ぶならば、今とて大して変わりはない。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。思考停止するなというのは、無理な相談である。
「市子が、生きてる……市子が……」
「杜花様。杜花様。もう良いじゃありませんの……」
無意識に、アリスに縋りつく。
こんなにも汚くて、自分勝手な杜花を平然と受け入れるアリスも、どこかおかしいに違いない。
でなければ、聖母か、菩薩か、人間の外の何かである。
「兼谷さん。嘘じゃありませんわね。天地神明に誓って」
「肉体はありますよ。定義上生きています。神でも七星でも、誓いましょう」
「杜花様が欲しい、というのは、どの範囲までの事を言うんですの……?」
「脳髄でしょうか。人格データでも構いませんが、それは手間ですね。欅澤杜花がどんな形であれ生きているのならば、それで構わないでしょう。どうせ幸福は与えられます」
「――もう、杜花様を傷つけたくありませんわ」
「貴女すら切り捨てようとしたこの人が、そんなに欲しいですか。ハッキリ言ってしまえば、この人は人間として最底辺の人格しか持ちえない。ま、そう仕向けたのは、私達ですがね」
「解りませんわよ」
「解らない、とは」
「解りませんわよ。幾らデータを集めても、幾ら人格に推敲を重ねても、例え仕組んでいたとしても、彼女が抱いて、考えて、歩んだ道を、想いを、貴女は何一つ、理解なんか出来ませんわ」
「貴女だって、遺伝子レベルで欅澤杜花、満田早紀絵を好むよう刷り込まれているのにですか?」
「私は、私ですわ。杜花様も、杜花様ですの。私は、こんなダメな人を好きになってしまった。私や早紀絵や御姉様が、杜花様を馬鹿と言うのならば許容しましょう。でも、貴女だけは絶対に許さない。例えこの記憶も感情も、全て塗り潰されたとしても――私は貴女達が、杜花様を馬鹿にするのだけは、許さない」
「アリス――」
脚を痛めながらも、縋る杜花を抱き締めたまま、アリスは強い意志を兼谷に示す。これだけ理不尽な目に逢い、愛していると告げた人物にすら裏切られそうになったというのに、アリスは一切揺るがなかった。
彼女は自分に嘘は吐けないと常々口にしていた。
杜花は――それを、信じていなかった。
そんな言葉、どうせいつか打ち捨てられるものだとばかり、考えていたのだ。
しかしどうだ。
今この場において、これほど痛烈に響く言葉があるか。
「貴女、欅澤杜花が死ねと言ったら、死ぬんですか?」
「死にましょう。この人の為なら、何も惜しくない」
「何の見返りもないのに?」
「貴女、本人からの自主的な見返りを求めて、七星一郎に仕えているんですか? 愛しいから。好きだから。ご主人様を幸せにしたいから。幸せになって貰う事が幸せだと、そう思っているから、仕えているのでは、ないんですか?」
「……欅澤杜花が幸せなら、貴女も幸せだと。人の幸せの為に貴女は死ぬと、そう言う」
「断言しますわ。気狂いと罵るなら、結構。そんな言葉、部屋の隅の塵程も気にならない。私も、杜花様も、早紀絵も、個人であり、人間であり――この気持ちは、誰に左右されるものでも、ありませんわ!」
「――流石に想定を超えますね。認めましょう。貴女はイレギュラーな感情を抱いています。七星の外です。おめでとう御座います。そして、これから左様ならですね。全ては、塗り替えられてしまうから」
「少なくとも、もう、杜花様を、傷つけないで。私の愛しい人を、傷つけないで」
「……保障しましょう。私は念願が叶いました。あとはじっくり――」
兼谷が頭を振り、端末からの受信を確認する。
……――。
何事かと訝しそうな顔をした後、兼谷の顔面は、腫れているというのに、蒼白となった。
「圧縮再現の状況終了。研究員に医療保健室まで運ばせますから、ここに居てください」
「……兼谷さん。どこに、行くんですか。まだ、貴女を倒してない」
「冗談も休み休みにお願いします。多少の問題が発生しました」
「だから、それは、何ですか」
「――目を覚ましたあの子が、少し暴れている様子ですから」
……。
……。……。
彼女が、そのように言い切った瞬間、自分達の見ている情景が一遍する。
それはいつか、市子の幻覚を目の当たりにした時のように、世界が場面として切り取られ、極彩色のパネルになって散って行く。
黒い穴が大きく開きそれらを飲みこむと、新たな視覚世界を提供した。
今はもう夕方である筈なのに、窓から日が差し込み『生徒達が』廊下を往来し始める。
今は冬である筈なのに、空気が春の匂いを帯びている。
生徒達の喧騒、何気ない観神山女学院の一場面は、その場に居た杜花、兼谷、アリス三人の思考すら塗り替えて行く。
「マザーの書き換え作業はしてない……たった一人で、校舎ごとを改竄している……?」
「それは、撫子ですか、市子ですか、二子ですか。どれです」
「説明義務はありませんが……全部でしょうね。撫子が主人格権限を簒奪、三人のESP丸ごと使いこんでいると考えなければ、数値的におかしい」
「対策は」
「用意しましたよ。ですから抑え込まれている。これは、漏れているだけですね。問題は、そこじゃない」
「……どういう意味ですか」
「お話し出来ません」
「ど、どうしますの、それは」
「だから私が行くのでしょう。貴女達はここで」
「やはり、ここには居ませんか、彼女は」
「はは。馬鹿正直に引き合わせる訳が、ないでしょ。純粋ですね、杜花お嬢様」
それだけ残すと、兼谷が身体を引きずりながら、幻覚の生徒達をかき分けて去って行く。
対策をした、という割に、彼女の顔には焦りが観えた。
杜花は廊下の床に座り込み、袖を裂いて出血する脚に括りつける。動かすたび腕に激痛が走り抜ける。間違いなく折れているだろう。
「痛々しい……杜花様、何でこんな事を」
「私は、私が誰なのか解らなかった。昔からでした。自分が自分という気がしなかった。初めて自分を見つけたのは、市子と出会ってからです。彼女はするりと、元から私の中に居たように、私の中におさまった。それが心地良かった。それで私は私になれた。生きる希望も、未来への展望も、そこに全てが携えてあった……ちょっと、待ってて下さい」
「ええ……」
それを失い、自分が観えなくなった。
ただ死ねばいい。しかし許せなかったのだ。偽りの市子なんてものを許容出来ない。
だが、それを全て消す事は叶わないのだ。例え杜花が超人じみた身体能力を持とうとも、所詮は人間、たった一人で、国(七星)を相手に戦争など出来はしない。
だったらせめて、せめてメインデータだけでも。
市子を偽る何かを、消し去って、それで手打ちにしようとした。
市子が最後に残した手紙の件もある。肉体のあった彼女は、当然死にたくはなかっただろう。だが今はどうだ。
妹を犠牲にしてまで蘇る事を、市子が是とするのか。
市子の事を一番良く知る杜花からすれは、それは否である。
目前に差し迫った死だ。回避方法を提供されれば、誰とて縋るだろう。
しかしそれが望むものでは無かった場合、市子はきっと、死を望む。
同時に、市子の運命共同体である杜花は、それに付き合おうとした。それだけのことだった。
しかし前提が覆された。
こんな状況では、何一つ片付かない。整理をつけるつもりが、余計複雑になっている。
メディキットを拾い上げ、幻覚の生徒達が行きかう中、一人廊下に座り込む遠くのアリスを見る。
そして、自らの掌を見つめる。
「メディキット。三島軍曹はもういませんでしたね……回収されたのかな」
「どうしますの。応急箱?」
「……その白い筒。貴女の脚と、私の腕の腫れた部分に押し当ててください」
「これ。はい。行きますわよ」
「ぐっ――つっ……アリス、思いっきりが良いですね」
「失礼、強くしてしまいましたわ。貴女が馬鹿だから。……どれ。あ、いたた……」
「……テーピングで、ぐるぐる巻きにして、固定してください。そうしたら、今度は私がやります」
「ええ、痛いですわよ」
アリスは不慣れな手つきで杜花を手当てする。本当に不器用に巻かれたが、固定するだけなら十分だろう。代わって杜花が、アリスの脚の治療にかかる。
弾は抜けている。いや、肉を抉った程度だ。
兼谷の言っていた事とは逆に、被害の少ない打ちぬかれ方をしている。口径も小さかったのだろう。
例え酷く怪我しようとも、直ぐに運び込めるのだ。全部計算の内、と考えるのが妥当だ。
「上手ですわね。えへへ」
「……」
「それで、杜花様はなんで馬鹿なんですの?」
「辛辣ですね。いえ、良いんです。私は、馬鹿ですから」
「まあ、馬鹿でも何でも良いですわ。もう止めましょう。元はと言えば全て彼女達がやった事。杜花様だって咎められませんわ。七星は恐ろしいですけれど、寛大でもある。それに、一郎氏は杜花様に恋してるそうじゃありませんの。差し上げられませんけれど、国王の恩恵にあずかれるなら、良いじゃありませんの」
「……市子が生きているなんて、本当でしょうか」
「死んだら確かめられませんわよ」
アリスが、小さく睨む。そうして杜花の手を取り、腫れあがった部分を軽く叩いた。まだ薬が効いていない。杜花は顔をしかめる。
こんな事になっていても、アリスがアリスである事に、安心する。
こんな無茶苦茶をする杜花を、この子はまだ支えようとしている。
「……何度目でしょうか、この質問は」
「はて?」
「なんで、そんなに、優しいんですか。私は、簡単に貴女を見捨てるような人間なのに」
またそれかと、アリスが溜息を吐き、優しく笑う。
これまでずっと見て来たアリスの笑顔の中で、一番悲しそうな、そんな笑顔だ。
「戸惑いましたでしょう、兼谷さんに撃たれた所を見て」
「それは……お婆様の、記憶が」
「嘘ですわ。本当にどうでも良いと思っていたなら、そんなものに囚われない。貴女は自分の進む道を、ヒトの所為にして均そうとした。本当は理性があるのに。そうしなきゃ、兼谷さんと殴り合えないと思ったから。死ねないと思ったから。本心では、私を心配しているんですのよ。本当は、私が心配だし、死にたくもない」
「……都合良く、受け取りすぎです。嫌ってください」
「それに言いましたもの。私、貴女の為に何でもするって。貴女は市子御姉様が危機に陥ったら身を挺するでしょう。きっと命すら平然と投げ捨てる。私の愛は、市子御姉様にだって、負けませんわ」
「『当たり前の彼女』だったのなら、きっとそうします。自殺だって、私が代われるなら代わりたかった。ああ――そんなに、貴女は莫迦なんですか」
「何度目ですか。馬鹿ですわよ。私は」
杜花は思わずため息を吐き、アリスに微笑みかける。一蓮托生なんて言葉が頭に浮かんだ。
自分の身は、自分だけの物ではない。
あの時も、あの時も。諭されていたのに、解っていたつもりなのに、何一つ、実行していなかった。
「情熱的ですね、アリスは」
「ええ。お嫌い?」
「貴女の言葉が、今初めて、身にしみた気がします」
真偽は定かではないが、シナリオを完遂した兼谷が嘘を吐いても意味が無い事は確かなのだ。
市子が生きているというのならば、それを確認しない手はない。自分達がこうしているのは、全て彼女の死一つの問題から派生している。
自暴自棄が安っぽいとは、良く言われたものである。
本当に全てを投げ出していたら、兼谷の話とて嘘だと切り捨て、彼女を殺しにかかっただろう。
市子の死を悼み、自らも死のうとした杜花と、彼女達が同じならば……彼女達もまた、杜花の死を追う可能性は高い。
将来への不満が無かろうが、未来があろうが、家が立派だろうが、関係無いのだ。
ただ一人、愛してしまった人を強く想う心さえあれば、人は容易に命を投げ出す。
アリスに手を伸ばす。彼女はそれを取って、頬ずりした。
「勿論。早紀絵もきっとそう。馬鹿は馬鹿らしく、しているのが良いんですわよ。生きる為の自己肯定を、恥ずかしいと思ってはいけませんわ。貴女は死なないし、死んではいけない」
「貴女が優しすぎて、私が邪悪すぎて、そういう意味で、死にたくなります」
そんな優しさに対して、杜花がお返し出来るものは、限られてしまう。
つまり――死なぬ事だろう。
当たり前で、簡単な事であるのに、杜花にはどうも、今後の未来が描けないでいた。何もかも捨てて来たつもりで、ここに望んでいるのだ。
辛うじて現世に身を留めているのは、アリスと早紀絵がいるからである。
死ぬのならば、この二人を一番最初に捨てるべきだったのだ。
冬休みの申し出など、却下すれば良かったのだ。
しかし、杜花は甘えた。早紀絵に頼り、泣きつき、アリスにも依存しようとした。
それだけの事をして、それだけの影響を与えておいて自ら死に行くなど、外道極まる。最低人間だ。
「――私、最低だなあ。ほんと、最悪」
「杜花様、どうしましたの?」
「私は、生きていて良いんでしょうか。私は自分が、なかったから。市子の恩恵無しに、生きてこれなかったから……アリスやサキの気持ちが本物だったと実感した後でも……不安なんです」
「はあ」
「あ、アリス?」
「面倒な人、好きになっちゃったなって、思っただけですわ。大丈夫ですわよ。お婆ちゃんになって一人で歩けなくなっても、介護してあげますからね、杜花様」
漸く自分が『意識不明の』市子を置いて、未来に進んでいるのだと、実感させられる。彼女の仮初の死に囚われ、後ろを向いて生きて来たこの一年と少し、初めて一歩進んだような気がするのだ。
ただ――状況は最悪だ。
「……ま、難しい話はまた後にしましょう。現状をどうしましょうか」
アリスに促され、歩きながら周囲を見渡す。
幻の生徒達が、平然と、何事も無いように歩いては通りすぎて行く。
現実との乖離が酷い。
杜花達は虚像こそ見えていても、この世界の住人ではないと線引きされ、定義されているのだろう。
しかし影響下である事に変わりは無い。
「もう兼谷さんが行ってから、十分以上経っている。何の変化も無いのは、不思議ですね。救護に研究員を送ると言っていたのに、一向に来る気配はないし、事前準備の良い兼谷さんにしては、時間がかかりすぎる」
杜花が言いきると、また世界の様相が一変する。
今まで平常通り歩いていた生徒達は消え失せ、舞台は夜へと切り替わる。
「頭が……痛い、ですね」
「なんだか、じりじりしますわ」
脳を直接触られているような不快感に、二人が身もだえする。
だがまだ終わらない。
今度の情景は学院ですらなくなる。杜花の鼻に木の香りが漂い、学院の廊下が日本家屋の廊下にとって代わる。
教室のドアは襖に、壁は土壁にと、異様な変化を遂げて行く。
「……知らない光景」
彼女達の力は、脳を勘違いさせるものだ。
一定のキーワードを流し込み、脳にある情報から合致させ、それを視覚に映しだす。知らない情景を映したりはしないのだ。
木格子の窓の外を覗くと、ここは二階だというのに、何故か道路が観えた。しかも、外を歩いている人物は、明らかに観光客。
暫くその光景を眺めていると、やがて煌びやかに着飾った白塗りの和服美女が三人通る。
「これ、京都ですわね」
「私は、行った事がありません」
ワード自体は具体的なのだが、状況がまるで身に覚えが無い。
相当の深度で、彼女達三人の力が、杜花達の頭を蝕んでいると、そう考えるのが妥当ではないだろうか。
先ほどにはない『嫌な予感』がする。
「制御、出来なくなっているんじゃないでしょうか」
「どういう事ですの?」
「一つの身体に、人格が二つ。そこに新しい、いや、一番古い人格が目覚めたとすれば、都合三つです。人間の脳が、例え七星の技術に支えられていたとしても、その処理に耐えられるでしょうか。兼谷さんも『少し暴れている』なんて、言っていましたし」
「撫子が、何故」
「理由は、解りませんけれど」
二子元来のESP、そして市子のESPデータに、更に撫子のものが目覚めたとすると、その脳の酷使具合は半端ではない筈だ。杜花とて、この先見能力を酷使すると頭痛が残る事もある。
撫子は、突然目を覚まして、その状況に混乱をきたしているのではないか。
二子の中に市子(≒撫子)を入れ、ソフトランディングを狙ったと考えると、それが失敗した可能性もある。
階段らしき場所に差し掛かったところで、また情景が移り変わり、通常の旧校舎に固定される。
慎重に階段を下りた所で、杜花はアリスを座らせ、ほんの少し先を見て窺う。
そこには、いささかばかり衝撃的な光景が広がっていた。
「あっ……うわ……あ、――軍人さん?」
「いいえ、この装備は、七星の、私兵隊、でしょうね」
地下へと向かう為の階段の手前の廊下に、数人が横たわっていた。完全武装の私兵の肩口には七星の企業マークが見える。一体どうやって彼等を学院に入れたのか……いや、この改竄された状態ならば瑣末な問題だろう。元から七星ならばどうとでもなる。兼谷の口調から、マザーコンプ運用に研究員も入れているようだ。
杜花が脈をはかると、確かに生きてはいるのだが、痙攣している。
装備を検める。小銃のような形はしているが、銃口を見ると解るように、非殺傷の対人光線兵器だろう。
ヘルメットを剥がし、額に手を当てる。脳が、酷い熱をもっているのが解った。
杜花は自分の額に手を当て、想起する記憶に頭を振る。
「一つ、仮説ですが」
「ええ、なんですの」
「あの占拠事件、拘束者が多かった割に……被害が少ないと、思いませんか?」
「確か、怪我人は多かったですけれど、生徒の死者は、六人、でしたわね」
「お婆様が一人殺した時点で、生徒達の反抗が疑われる。見せしめにもっと殺したとしても、おかしくはない。それに、警察、自衛隊の特殊部隊の突入だってあった。それで六人は、少なすぎる」
幾ら錬度の高い精鋭部隊とはいえ、そこまで即座に敵の場所を判別し、生徒達を救出する、というのは、幾らなんでも無茶がすぎる。
自衛隊が突入している間に、テロリストが生徒に小銃を乱射する可能性も、人質としてとっているのだから、数人殺されても、おかしくはない。状況が混乱すれば、もっと死者はいても不思議では無いのだ。
「……撫子は、確か私に、あいつらの、脳幹をねじ切る、と、そう言っていたような、気がします」
「撫子の能力は市子御姉様以上という話も、ありましたわね」
そしてこの現状。
兼谷の話を信じるならば、撫子は今、拡散装置を用いないで校舎全域を改竄領域に収めてしまっている。
兼谷のいう『大覚醒』とは、単純に撫子の復活だけを意味しないのだろう。
それに、わざわざ見つからないような場所に隔離し、対策までしたというのならば……最初から、撫子の能力が覚醒と同時に拡散する事を見越していたのだろう。
「そして、失敗の可能性……ですか」
「倒れている皆さんを見る限りなら……これを成功とは、言わないのでしょうね」
つないだアリスの手を、強く握る。
「……まだ、私達に自由があるのなら。まだ、戦えるのなら」
アリスを見る。その表情は複雑だ。
本当なら、今すぐココから退散したいだろう。
杜花とて、通る事なら通してみたい意見だが……ではこれをこのまま放置した場合、どうなるかと考えると、難しい。アリスもそれは理解しているだろう。
暴走を前提とした設備を用意しながら、それが叶わず、状況は変わらず、兼谷の対策は見えず、救護者も現れない。挙句、警備隊はこのありさまだ。
旧校舎を丸ごと改竄して余りある能力を暴走させ続けた場合、どうなるのか。
……学院生徒達は、果して無事か?
アリスは杜花の手をぎゅっと強く握ってから、小さく溜息を吐く。
「……ま、そんな事を言い出すのではないかと、思ってましたわ。ええ、構いませんわよ。止めても行くでしょうし。生きていてさえくれれば、私はそれで」
「――良いんですか?」
「もし私が理性的でないとしたならば、貴女の腕を引っ張って、行かないでと泣き叫ぶでしょう」
「もう少し、ですから」
「それに私、面倒くさい女じゃありませんの。ま、そう何度も裏切られたら、私も見限りますわ。貴女が死んだ後にですけれどね」
「……私達は、この圧縮再現の、主役ですから、ね。止めないと」
残念ながら、だが。撫子を消し去る手段は、杜花の手にあるのだ。
アリスの目を見る。それから、一度頷く。
「……この先は、地下、ですよね」
「ええ。機械室や電機室、それに核シェルターと貯蔵庫がありますわ。結構な規模ですのよ」
それは良い。杜花も頭の片隅に、そんなものがあったと記憶している。
しかし問題は、立ち入り禁止と書かれた看板と紐が、横に打ち捨てられている事だ。
危ないかもしれないものを隔離するなら、被害を最小に抑えられる場所が良い。この調子で行けば、恐らくは地下なのだろう。
兼谷も撫子の覚醒時に何かしらの不具合があるのではないかと見越していたら、隔離性の高い場所を拠点に選ぶだろう。
核シェルター。現代においては、殆ど旧世代の遺物だ。
二千年代初頭、日米合同の『新生核の傘』計画によって打ち上げられた三つの軍事戦略衛星(表向きは発電研究だが)は、大陸間弾道ミサイルなどの発射を感知した瞬間、衛星軍事兵器『アマテラス(ウリエル)』『ツクヨミ(オファニエル)』『スサノオ(ラハブ)』によって発射元国内で蒸発させる。
旧世代のミサイルによる恫喝は消え去り、大量破壊兵器は空から海に移動し、戦争は新しい時代にへと突入した。
シェルター自体は中性子爆弾の可能性も考慮し、土、コンクリート、鉛、水壁という構造で、地下には平面の貯水タンクが分厚くはびこっている。
「地下、見てきます」
「……何があるか解りませんわ。ここに居ますから、危険を感じたら、直ぐ戻ってくださいな」
「アリスは……現状、ここに医療保健室の先生を連れて来るのは、危険ですから、貴女一人でも」
「本当はついて行きたいですけれど、きっとお邪魔でしょう?」
「貞淑な事で」
「ご主人様を立てて、帰る場所を提供するのが、良い女ですわ。杜花様」
「すぐ、戻ります」
「約束ですわよ」
そういって、アリスが小指を差し出す。ずいぶん古風な作法を知っているものだ。
杜花も素直に小指を差し出し、絡める。アリスは『しょうがありませんわね』という顔で、頷いた。
そして後悔した。
……。
……。……。
……。……。……。
階下に降りて直ぐの事である。薄暗い廊下に辿り着くと、一際強い感応干渉が襲う。
「ぐっ……ずっ……ぐぅッ」
頭が締めつけられる。まるで高熱の中にいるような、酷い朦朧を覚える。
今まで学舎だった世界は、またしても転じる。
「まあ、いらっしゃったのね。さあ、掛けて」
顔の見えない何者かに促され、杜花は着席した。
「なんだかとても、花様に似ていらっしゃいますわ」
「本当。意思の強そうな方」
「アナタ、そういう女性好きですものね?」
「や、やだ。ご本人の前でそんな事仰らないでくださいまし……」
差し出されたお茶に口をつける。市子が好んで呑んでいた紅茶だ。
「貴女が新しい妹ね。宜しく。私は※※※※。貴女は?」
「――欅澤――杜花――」
「けやきざわ? まあ、花様に妹様がいらっしゃったのね!」
「最近転校して来たのかしら。本当にそっくり、双子のようね」
わらわらと、生徒達が群がる。
「杜花様、御趣味は?」
「……格闘技を、少々」
「まあ、花様と一緒ね。どちらが御強いのかしら?」
頭が、ぐらつく。逡巡し、視界を絞り、群がる生徒達の隙間を、見やる。
「あー――あ、あ、あー……」
「どうしましたの? 御加減が優れませんの?」
見やる。見えろ。ミエロ。見えた。先にイルのハ、……。
「……花そっくりね。花、この子、貴女の妹?」
「妹なんていない。にしても、似てるねえ。貴女はどちら様」
「……杜花、木偏に土、それに、お花の、花で――杜花、です」
「そう。なんだか、気が合いそうにない子だね。ま、いいや。撫子も面白がるでしょう。おいで」
ハナ。花だ。同じ顔をした彼女に、手を引かれる。
懐かしい。いつ以来だろうか。花に手を引かれ、歩くなど。
あれは、本当に、そんな事をするような人間ではなかった。
ただ厳しい。
まるで褒めない。
元から、欅澤杜花の強さがどこにあるのか、知っているように、強くて当たり前と、扱きに、扱いた。笑う事もない。話す事もない。
花の強権は家族にまで及んだ。杜子は母であるのに、扱いを花に準じた。男たちも黙認した。
杜花は実家にありながら、いつも一人だったのだ。
学院でも一人であった。
気持ち悪い子だ。
笑いもしない。
冗談も言わない。
ただ大人しく、異常な身体能力と判断力を持った、異様な子供と扱われた。
話しかけられず、話しかけず、自らも塞ぎ込んでいた。
自分は何者でもない。何ものにもなれない。
「撫子。面白いの連れて来たけど」
「まあ。花、そっくりじゃない。とっても可愛らしい子ねえ。こんにちは、はじめまして」
ああそうだ。こんな笑顔だった。
彼女は、一人ぼっちの欅澤杜花に、彼女は優しく語りかけてくれた。
優しく微笑んでくれた。欅澤杜花という何ものでもないものを、本当の個人にしてくれた。
「利根河撫子よ。最近は、魔法使いなんて、言われているけれど、ほら、普通でしょう?」
「撫子は、見た目だけなら超お嬢様なんだけどねえ。気をつけなよ杜花。この子、心を読むから」
ああ知っている。知っているとも、言われずとも知っている。
「あ、ハナ超そっくりじゃん。隠し子とかいたんじゃないの?」
「そんな不貞な奴、うちの家系にいないよ、きさら」
「ハナは不貞でもいいよ。そうそう、きさらと不貞しようよ、ハナ」
「き、きさらさん。花さんをあんまり弄っちゃだめよ」
「え、何動揺してるの、ホマレ。撫子先輩、ホマレがー」
「おっほん。お客さんの前よ。ごめんなさいね、こんなに騒がしくて」
「――お構いなく。お構いなく……」
……。
目を瞑れ。
目を瞑れ。
違う、何もかも違う。
こんなものを、見に来た訳じゃない。
笑うな。
微笑ましそうにするな。
歯をくいしばれ。何か、何かないか。
囚われている。意識しても、反抗出来ない。
仲の良い四人が、杜花にはあまりにも、輝かしい。
目がつぶれてしまいそうだ。だから、目を瞑れ。
「折角来たのだし、ゆっくりしていってね。なんだか私、貴女ととても、気が合いそうだわ」
「それ、単に私に似てるからじゃないのかい?」
「うふふ。花、ヤキモチ? 可愛いのだから、貴女は」
「くっ……」
「さあ、お茶を召し上がれ。花が焼いたクッキーもあるの。今日は妹達を……ああ、私を慕ってくれている子達を集めたお茶会だから、貴女も如何? そうだわ、それが良い。杜花さん。貴女、妹にならない? なんだかんだと、花も喜ぶわ」
「わた、わたし――」
「うん?」
……。
……。
……。
もう耐えられない。
市子と同じ笑顔が、杜花に迫っている。
――もう耐えられない。
「――ッッ!!」
杜花は、目の前の机に、恐らく骨折しているであろう右腕を、思い切り打ちつける。痛み止めの効力をも吹き飛ばすような衝撃が、杜花の脳に火花を散らせる。
あまりの痛さに、杜花は椅子から転げ落ち、数秒続く痛みに耐えてから、頭を振って立ち上がった。
何も無い。
そこには、四季折々の花々も、見目麗しい少女たちも、その女王たる彼女も居ない。
ただ、埃っぽく薄暗い空間だけが広がっている。
……。
「ハァー……はっ……ああぁ……」
大きく息を吐く。
髪を撫でつけ、ゆっくりとその手を降ろす。
突然であった事、そして予想以上だった事。後ろを向けば、直ぐ階段がある。杜花は動いていない。
能力が、凶悪この上ない。
二子の得意とする所である過去追想に、幻覚作用まで齎されている。空間認識は完全に外れ、此方の意思の完全に外だ。
近い距離に居るとも思えないというのに、この威力では、近づいた場合どれだけの影響があるのか、解ったものではない。
階段は、すぐそこだ。
今戻ろうと思えば、直ぐにでもアリスに会えるだろう。
だが、どうも引っかかる点がある。
かなり直感的なものだが、撫子の感応干渉の雰囲気から好意を感じるのだ。
敵対する意思はないのだろうか。
撫子は、本当に完成しているのだろう。
撫子としての基本データ。市子が歩んだ人生。そして女学生等から蒐集した行動理念。
もしかすれば、他の撫子のクローン達がかき集めた微細なデータも精査して組み込まれているかもしれない。
娘を蘇らせたいという妄執に苦節四十年。
とうとう出来あがったものが、これなのか。
頭を振り、杜花は足を進める。
機能性しか考えられていないであろう、武骨な造りの廊下をまっすぐ歩きながら、部屋名を確認して行く。
第一倉庫、第二倉庫、第一資料室、第二資料室、電機室、電盤室、機械室、ボイラー室、旧校舎を運営する為に必要な部屋が等間隔で並んでおり、廊下の突き当たりにとうとう、それらしき扉を見つけた。
観神山女学院第二シェルター。
第二ということは、この学院にはもっとたくさんあるのだろう。
ぶ厚い鉄扉の真中のノブはレバーハンドル式になっており、潜水艦内部を思わせる。
しかしどうやら、回す必要は無い様子だ。ドアは半開きになっており、中から光が漏れている。
(二子は本当に、市子に、撫子に、身体を明け渡す覚悟が、あるのか、無いのか)
もう遅いか、まだ間に合うのか。
それは解らないが、確認すべき事だろう。
ただなんとなく、でこんな場所にまでは、降りてこない。それは早紀絵やアリス、そして支倉メイも気にしていたものである。
本当に撫子が暴走していて、もう取り返しがつかなくなっていた場合――杜花には、最終手段がある。
撫子のデータは、市子と同等だ。市子のデリートコードを使えば、同時に彼女も消え去る。
だが、どうも不安が残るのだ。
兼谷は杜花を説得する為、必要以上に喋った。
その中の会話と行動から、引っかかる事が二点ある事に気づいていた。
――市子(=撫子)のバックアップは当然控えてあるだろう。しかし、兼谷はそれでも、自らの命すら犠牲にしようとした事。それは異常だ。彼等は、データを魂と拝んでいた。ならば別段とメインデータに拘る必要はない。この大覚醒に至る直前まで再現したものを控えている筈だ。
――再現された利根河恵(=兼谷)のデータが利根河恵のクローンに拒否反応無く収まるのならば、撫子のクローンに市子(=撫子)が収まるであろうと言う事。現状、ほぼ撫子であるデータがあるならば、それをクローンに詰めればよい。そうすれば、実妹の二子は犠牲にならずに済む。兼谷と二子は、何故その手段を取ろうとしないのか。
意固地になっているのか。
杜花が言えた義理ではないが、不自然である。物事を一から組み立てて来た彼女達である事を踏まえると、殊更際立つ点である。
だからつまり、メインデータを消せない理由と、二子が肉体を明け渡さなければならない理由があるのだろう。
二子はどれほどの覚悟で居たのか。
杜花は、彼女と初めて出会った日を思い出す。
まるで市子そっくりに繕った彼女を見て、杜花は衝撃のあまり怒りと悲しみを覚えた。
結晶が集まる毎に、彼女は欅澤杜花を『誤認』させて行く。
手を繋ぎ、歩いた事もあった。悔しさのあまり、彼女に泣きついた事もあった。
きっと、あのまま行けば、杜花は市子となった二子を、そのまま受け入れただろう。ぽっかりと空いてしまった心の穴を、二子が埋めただろう。
しかし彼女は、欅澤杜花という狂人を見誤った。
中途半端に市子に近づいてしまったばかりに、市子ならば許されるであろうと、二子は杜花の心を覗き見た。アリスにも、早紀絵にも見せないものを、二子に見せる筈もないのに、だ。
タイミング悪く、結晶が魔力の塊などではないという嘘も発覚し、杜花と二子の距離はことごとく、離れてしまっただろう。
結晶を無理矢理回収し、神社にまで乗り込んできた。
彼女は――どこまで自分の本心で『杜花は自分の物だ』と言ったのだろうか。
七星に騙され、情報も伏せられたまま一郎と兼谷の手駒になり、しかし、それを彼女は許容している。
(今更……出会うタイミングが違ったならば、なんてことを、彼女には、言えませんよね)
このタイミングしか、あり得なかっただろう。
自分達はそのように仕組まれていたのだから。
本当に不運で、追い詰められて死した、利根河撫子。
娘の死という現実に耐えられず、身を投げた、利根河恵。
利根河恵の精神の入れ物として用意された、兼谷。
撫子の器として不適合の烙印を押された、支倉メイ。
撫子復活の為の生贄として捧げられた、七星市子。
間に合わなかった器の埋め合わせとして翻弄された、七星二子。
アリス、早紀絵、そして杜花すらも、純粋な人間ではない。
しかも、これはほんの一握り。
七星一郎という、妄念に取りつかれた男によって生み出された、悲しい女性たちだ。
死者を蘇らせるなど、オカルトも良いところであるが、莫大な資金、膨大な犠牲、様々な研究者達と、気の遠くなるような時間が、それを現実のものとした。
そして性質が悪い事に――出来あがったその現実は、あまりにも『人間』であり『個人』なのだ。
科学から生まれたものだからと、切り捨てられない領域にいる。
「……ん、しょっと」
重たい扉を引く。二重になっているのだろう。大部屋の前部屋がそこにはあり、洗浄室となっていた。
立ち並ぶロッカーの合間に……兼谷が倒れている。
杜花の第六感が、嫌なものを感知した。
この先は……不味い。
「兼谷さん。兼谷さん」
「あっ――あ、あ、あ、」
目は明けたが、視点が合っていない。
天井を見つめ、何か幸せそうに微笑んでいる。感応干渉の影響を直接受けたのだろう。
支倉メイや兼谷が、当たり前のように改竄機構の中を自意識を保ったまま行動していた事を考えると、感応干渉能力同士ならば、影響を否定出来たのだろう。
しかしそんな防護壁も、きっとこの先にいる『撫子』には意味を成さなかったのだ。
どうすべきかと沈思黙考してから、杜花は兼谷を抱え、部屋の端に横たえた。
――この扉を、開けるべきか、否か。
全責任者の兼谷が対処出来ない事態となれば、おそらく、止める手段など限られているのだろう。
つまり依代の殺害か、元データのデリートである。
肉のある個体……という表現はいささか憚られるが、二子をわざわざ殺害するメリットは、ない。
ともすればデータの消去だが、兼谷があれほど抵抗したのだ、暴走する撫子を眼の前にして、躊躇ったのだろう。
(……私は、これから、本当にヒトゴロシになろうとしてる)
このままの撫子を放置して、どうなるのか。止める人間が居ない常軌を逸したESPが暴走した場合、学院生徒達の脳とて、まともでいられるだろうか?
二子の身は無事なのだろうか。本当はどうするのが正しいのだろうか。
解る事は唯一つ、手段を持つ人間は、自分のみなのである。
欅澤杜花は部外者でもない。むしろ、中心人物にされてしまっている。
七星一郎が、欅澤杜花に『幸福』を与えようと思ったからこそ、このように大それた事件に発展している可能性が捨てきれない。
余計な御世話だが、ここまで深く食い込み、彼女達の母を半殺しにまでして心中しようとした杜花に、何の責任も無いかと問われれば、それはあり得ない。
中に居るのは、かつて愛した人の人格データと、祖母が愛した人の人格データと、そして、今を生きる人間である。
(……背負い続けて来たリスクのツケが、これ、なのかな)
アリスではないが、面倒な人に好かれてしまったものだと、心の中で嘲笑する。
小さく決意し、杜花は第二扉を引き開く。
重たい扉は、金属音の一つもなく、滑らかに開かれる。
……。
小さいながら、強烈な感応干渉が網膜から、耳朶から、脳内を蹂躙して行く。
中を覗き、杜花は一歩踏み出した。
「うっぐっぇぇ……ッ」
全身が総毛立つ。恐怖という感情の薄い杜花が、驚愕のあまりそのまま胃の内容物を撒き散らした。
「あ、あ、な――なに――やめ、やめ――はっ――入って来ないで……――あっ」
――もし、これを説明してくれと言われた場合、どうするべきだろうかと、杜花は混乱する理性とは裏腹に、本能が冷静に考える。
ルイスキャロルが観た夢をラブクラフトが小説化して演出して仕立て上げた舞台のような光景だろうか。
名状し難い海産物のような異形達が、少女達とお茶会をしながら殺戮を繰り返している。巨大な茸のようにも見えるオブジェだが、半分は人間で出来ていた。脳味噌が独り歩きし、肝臓と腎臓が楽しそうにお喋りしている。ウサギの形をした臓物が、俺の書いた小説を読んでくれと薦めて来るも、杜花は断る。半分はアリスで、半分が早紀絵のような何かが杜花を見つけ、歩み寄ってくるのが解った。半分にアリス用、半分に早紀絵用と対処し、彼女達は納得してくれる。火乃子と風子だと思っていたものは瑞々しい花であった。その二つの花は互いにいがみ合い、杜花を取り合っているが、杜花は知らない顔をする。杜花は手前に居た後藤田と田井中と書かれたネームプレートを拾い上げてから遠くに投げると、彼女達は笑顔で砕け散った。しばらく先に進む。足元はねちゃねちゃと張りつき、杜花の背中へと這いあがってくる。気持ちが悪いな、と思いつつも、まるで脳を優しく噛まれているような心地よさに、思わず気をやった。中には庭園がある。いつもの小庭園だ。その真中にはいつもと変わらぬガゼボが見受けられるも、それは魚介類の匂いがする。良く見ればプランクトンの集合体だ。杜花はガゼボの真中に座ると、その脇に早紀絵とアリスと風子と火乃子と歌那多と萌と御樹と綾音と五月と笑とそのほか市子の妹達だった生徒、そして撫子の妹達だった生徒、早紀絵の彼女達も群がり、ぎゅうぎゅうとおしつけられる。杜花は何時の間にか裸になっていたが、大して気にしない。群がる少女たち一人一人に愛撫を重ねて微笑みかける。ドボンと沈み込んだのは彼女達の愛液の海だ。人魚のような彼女達が杜花を包み込む。大きくなったり小さくなったり青だったり赤だったり、立方体が長方形になり、台形が丸い。乳房のような果実を食むと中から出て来たのは白い子供達だ。子供達はやがて大きくなって一つ一つが大きな百合の花になる。百合の花の花弁の中では、杜花好みの虐めやすそうな可愛らしい女の子達が戯れていた。杜花が近づけばただ怯えるばかりだが、一発二発殴りつけると直ぐ大人しくなって従順になる。杜花が笑いかけると、ああ容易い事か、なんとちょろいものか、直ぐなつき始めた。杜花はそのような星の下にあるのだ。杜花の凶悪な力と、ねじまがった精神と性癖と、時折見せる弱さと、花の綻ぶような笑顔にみんなみんな騙される。幸いといえば、杜花が市子以外に興味を持とうとしなかった事だ。そうでなければ、早紀絵も驚くような人間関係に発展していただろう事は想像に易い。杜花にかかれば処女とてあちら側に連れていける。虐めて、褒めて、撫でて、笑いかけて、徹底的に蕩けさせる欅澤杜花なる怪物にかかれば、異性愛者とて反抗は無理だろう。市子がいればよかった。市子さえあれば杜花は抑えられた。だがその枷は外れている。杜花が望めば望むだけ手に入る環境がある。死ぬなんて馬鹿らしい。甘受すればいい。現実で夢を見るだけのものが杜花にはある。アリスも早紀絵も徹底的に調教すれば、きっと面白い事になる筈だ。目を覚ました市子、撫子も、杜花を否定出来はしない。むしろ積極的に受け入れてくれる。身体は二子だろう。間違いなく処女だ。二子はどんな味がするのだろうか。流石にあそこまで小さい子を相手した事はないが、杜花には自信がある。絶頂に身を震わせる子供とはどんな興奮があるだろうか。同性に攻め立てられて悦ぶ子供とはどんな官能があるだろうか。構わない何でもする。楽しい方が良い気持ち良い方が良い。楽な方が良い笑っている方が良い。限定なく再現なく楽しみ尽くしてしまえば良い。
「あっ――ふ、あ――あ、ああっ」
脳が心地よい。脳全体が柔らかい羽毛につつまれている。右から左から際限無く絶え間無く降り注ぐ快感の雨に意識が細切れだ。そうだ市子は、市子はどこだ。市子をどこにやった。手を伸ばし探る。まるで大量に物を詰め込まれた鞄に手を突っ込んでいるようだ。その中はまるで下水処理層である。うねりぬめり吐き気のするような匂いに耐えてそれでも先を探る。まだ見当たらないまだ見つからない、杜花は業を煮やして顔ごと突っ込む。目を閉じ、目を開けた先にあったのは見覚えのある鳥居だ。ぼんやりと光る鳥居の真中には、胎児の姿が見て取れる。見つけた、手を伸ばし、それを両手で受け取る。やがて胎児はすくすくと育ち、見覚えのある懐かしい顔になる。いた、いたいた、いた。己が一番欲しかったもの、それさえあれば良かったもの。他に何もいらないと決心させたもの。自分を形成してくれるものであり、欅澤杜花を呪縛する最大の要因である。杜花は呪われている。その身、その記憶、肉体も魂も七星に穢されている。それが解った後で尚、七星市子との記憶が愛しい。七星市子が愛でた自身の身体が愛しい。嗚呼市子、市子市子。笑顔の彼女が杜花を抱く。杜花もそれに応えた。何度キスしたか、何度交わったか。互いを一つにするような交流の果てに自分たちがいる。そうだこれで良い。難しい事を考える事など一つもない。結局杜花は生きていたいのだ。死ぬなんて覚悟はきっと仮初だったのだ。市子が生きているとしても、目を覚まさないのでは杜花は穴が開いたままだ。目を覚まさないくらいなら、データだって構わないではないか。二子は身体を明け渡すと言っているのだ。ではお言葉に甘えて、中身を市子に譲ってもらえば良い。改竄機構もそのままに、姉と妹として過ごして、幸せな学院生活を送れる。早紀絵もアリスも文句は言うまい。杜花が生きてさえいればいいのだ。市子市子、愛しい市子。何をしよう、どうしよう、何でもしたい、何でもしてあげたい、嗚呼、手を伸ばす手を伸ばす。キスをする、その乳房に触れる。笑いかける、キスをする。嗚呼、嗚呼……なんだろう。何か、何か、違う。
「……あ……れ……?」
触れる。キスをする。市子が不思議そうな顔をした、杜花も不思議に思う。市子、なのか。呼んで見て欲しい、名前を呼んで欲しい。貴女の声で貴女の口で。……は……。……花。目を見開く、目を閉じもう一度見開く。もう一度呼んで。花。違う。花ではない。杜花だ。貴女は、貴女は貴女は。そう。違う。だから、杜花を離して。二子、手伝って。勘違いしている。花だと思いこんでいる。あの人は助けにこれない。あの人は精一杯だった。もうずっと昔の話昔の悲劇。これは花ではない。欅澤杜花だ。貴女のものではない。私のものであるかすら怪しい。脳幹が焼き切れる。ぞぶりぞぶりと抉られる。そんな事をしてはいけない。壊してはいけない。杜花を……離して、撫子。
「あ――ちが……う……」
貴女は、誰と、彼女が問う。
杜花も、お前は誰だと、問う。
違う。これは、市子ではない。市子に近い、何かだ。
違う。これは、撫子ではない。撫子に近い、何かだ。
違う。これは、二子ではない。二子に近い、何かだ。
「な、なに……が、」
目を開ける。
そこは真っ白な世界が広がっていた。
「はっ……ふぅ……病院……?」
見覚えの無い風景だ。感応干渉が和らぎ、杜花は頭を振る。
真っ白な通路に真っ白な壁。全てが白い色で囲われた世界だが、暫くと進むと、キャンバスにぶちまけたような赤色が広がっている。
白衣姿の男性だ。
頭から相当量出血し、壁にぶち当たったようにして倒れたのだろう、息絶えている。
心を縛り、男性に触れる。質量が『あるように』思えるが、人間らしい手ごたえはない。幻覚だ。
男性が胸から下げているのは、IDだろう。
『七星遺伝子学研究所 脳細胞開発研究部 峰岸六郎』とある。
(七星の研究所……)
杜花はふと顔をあげると、直ぐ近くに窓があるのが観える。どうやら研究室が廊下の外から覗けるようになっているようだ。
研究室を覗き見ると、そこには限りなく地獄に近い風景が広がっている。
紅い。右を見ても左を見ても紅い。
言ってみればそれだけの光景なのだが、中で倒れている人々は皆頭がはじけ飛び、首なしの死体ばかりが見受けられた。頭の中に埋め込んだ爆弾が内側から爆発すればそうなるだろう。
白い床を、白い壁を、白衣を全て紅に染めている。冗談としか思えないような出血量が、大きな血だまりを作っていた。
「酷い」
とはいうが……杜花は多少顔をしかめるだけで、大した衝撃はない。
クセで咄嗟に口にしたが、一般人を繕う必要はないのだと思い出し、溜息を吐く。相変わらず自分は壊れていると実感して、嫌になる。
紅に紅を塗り重ねた研究室の奥を覗くと、そこには一際白いものが観えた。
黒い髪、瞳に光の無い、死んだ目。
そして白い手術着を着ている彼女は、杜花の記憶からすれば、二子だ。
その色の無い瞳を、彼女はまっすぐと杜花に向けている。
手を振ってみる。彼女は楽しそうに振り返した。同時に、窓ガラスが吹き飛ぶ。
「クッ――ッ」
恐らく相当の耐久性があるだろう、水族館のガラスよりぶ厚いものが弾け、上から下へと崩れて行く。物理衝撃ではない。そもそもこれは全て幻覚なのだ。
ただ、記憶を再現している可能性は高い。
何が起こっている?
杜花は直ぐ様身を伏せ、廊下の奥へと進んで行く。今の部屋には、入らない方が無難だろう。
(……入れない、が正しいかな)
後ろを振り返ると、道が無い。今まで来た廊下も部屋も、壁になって先が無くなっている。
次に辿り着いたのは、また同じような造りの廊下に部屋だ。
杜花は先ほどよりも慎重に、窓ガラスの向こうを窺う。白くて安心する。
中では研究員たちが忙しなく動き回り、部屋の真中には、黒髪の少女……これは、市子だろう、椅子にゆったりと座り、研究員にも会釈をしている。
(ああ……これが)
何事も無くその場を通り過ぎ、二度、三度と同じ回廊を行く。
市子の場面は何一つ問題ない。
しかし二子の場面は、ことごとく問題が起きていた。
頭を吹き飛ばした死体に始まり、次は研究員たちが男女構わず狂ったようにセックスに興じていた。
その次は何故か全員が全裸で、各々の凶器を握り締めて殴り合っていた。
その次は二子の姿こそなかったが、何も居ない椅子に対して研究員が話しかけ、治療を繰り返している姿であった。
幾つ見て回っただろうか。
やがて情景が先ほどの武家屋敷に戻る。
床を鳴らして歩いた先に、襖が見つかった。
一つ、二つ、三つ四つと、無間の襖の間を抜けて、杜花は最後の襖を開け放った。
「……こんにちは」
「――あっ」
中には鉄格子。いや、もっと強靭な素材で作られた牢獄だろう。一部屋が丸ごと囲われ、その真中に、振り袖の少女が坐して、此方を見ている。
市子と二子の違い。
同じ母に産まれながら、知りもしない母親との暮らしを強要され、扱いきれず暴走する能力を恐れられ、市子とは正反対に、自由を奪われたまま、暮らして来たのだろう。
「今は、撫子、市子、二子、どれ?」
「――二子。撫子が、突然目を覚まして、暴走してるの。抑えるの、精一杯で」
「あんなもの見せて、どうしたいんですか、貴女」
「……解らないわ。わた、わたし――聞いて、杜花、私ね、本当に、この身体は姉様にあげても良いと思っていたの。姉様は死ぬべき人じゃないって思ってた。知っての通りね、最初は嫌だった。でも、貴女達の中にある市子姉様に触れて、私なんかよりも、ずっと価値がある人だって再認識したの。だから、渡してもよかった。でも、今は、解らない。彼女達を消してはいけないって、想うけれど、これが、撫子ならば、制御なんて、利きようが無い」
「市子は……市子のデータは、何か言っていましたか」
「……兼谷は、母親、なんですってね。義理の姉妹だと思っていたら、本当に姉妹だった。それは、嬉しい。私、姉様が、好きだから。でも、母親面するなって、撫子も、市子姉様も、怒って」
「撫子は、ちゃんと形を得て、データとして、存在するんですね」
「三人分。市子と撫子は、共有してる。撫子の方が、相当強いの。これ、凄いわ。いいえ、恐ろしい。これ、これは、やろうと思えば……簡単に、人を大量虐殺出来る」
「貴女の肉体でしょう。そんなものサッサと、追い出せばいい」
「だ、ダメ……ダメなの。それはダメ。撫子が完成すれば、私の沢山いる姉妹達が、解放されるの。利根河撫子のストックって立場から……個人になれるの。みんな歳の近い子達。それに……それに、撫子を完成させる為に、一郎お父様も、兼谷も……いいえ、お母様も……沢山沢山、努力したのよ。本当に沢山。言葉では言い表せないくらい……自分の命を無理矢理伸ばしてまで、肉体を蘇らせてまで、記憶を再生成してまで……お願い……杜花、お願い……撫子を、市子を、殺さないで……」
「それは制御出来ないのでしょう。私が消して、プログラムを修正した後、改めてインストールすれば良い」
「違うの。撫子は、メインデータにしか、宿らないみたい。だから、ただのデータじゃないのよ……魂なの。説明に難いけれど、だから、これを消したら……撫子は……」
「……酷い欠陥ですね」
兼谷の言っていた不具合とは、これの事だろう。兼谷は教えられないと言っていた。
それもそうだ。
杜花が自身の心中の為だけに、唯一のデータを消し飛ばされれば、その損害は計り知れない。
だからこそ、兼谷は命を賭してまで、市子のメインデータを守ろうとしたのだろう。
結晶隠しの件に頭を巡らせる。そう、利根河恵の前例に倣うならば、市子の結晶データとて、命を賭すほどでもなかった筈だ。しかしモノが違った。彼等は単純に、ESP発動可能な人格データと捉えていたかもしれない。だがその本質を見余った。いや……解っていただろう、解って対策したのだ。
ただそれが――対策したからと、どうなるものでもない事までは、考えるに至らなかったのだ。
「兼谷さんの話を鵜呑みにするなら、完成した撫子のデータを、撫子の複製に移し替えられる筈です。バックアップならずとも、それは可能なのでしょう。結晶を乗せ換えるだけなら」
「……半分嘘よ。魂の再現は可能。でも、元から宿そうと決めた個体にしか、宿らない。だから兼谷は、利根河恵になるべく、最初から肉体と魂の整合性を保たれていた。そういった不具合を乗り越えようとしたからこそ、大量のクローンが、いるの。杜花、魂は、一つの魂は、安いものじゃあない。あちこちと移し替えられるものじゃあない。人間は、そんなに、安くない……」
二子が這いより、鉄格子を掴んで訴える。
この子は、自分の犠牲を用いて、親の悲願を達成させようとしているのか。
……。
二子の軽い感応干渉が、杜花の中に流れ込んでくる。
それは各種数字であり、懸命に働く一郎の姿であり、努力を重ねる兼谷の姿であり、撫子と市子の、非業の死だ。
三人の記憶の中にあるものが、杜花の中にゆっくりと流れ込んでくる。
まるで毒気の無い一郎が、利根河恵と共に、幼い撫子と手を繋ぐ姿。
楽しい休日に、忙しそうでも幸せな顔をする父に、料理をする母の後姿。
学院での明るく楽しい日々、花、誉、きさらとの出会いと、御茶会に、密会。
淡い恋心、告白と、成就。
そして絶望だ。
それを、市子が丸ごと辿らされる。
何も知らない市子が、杜花達と出会い、あの庭園で未来を語り、夢を語り、恋を語り、キスをする。
終わり行く日々を噛みしめながら、ほんの一縷の希望を目指して、市子が『宝探し』の準備をする。
杜花と別れ、首を吊り、しかしそれでも、彼女は生きる幸せを願っていた。
「……解るでしょう。解るでしょう、『花』『杜花』『モリカ』解るでしょう。お願い、七星二子は、この、可哀想な人達を――幸せにしてあげるために……産まれて来たのだから……ッ」
何かを守る為ではなく、死んでしまったものの為に、生者が犠牲になって良いものなのか。
その覚悟が出来てしまった人間を――引き止める権利を、杜花が持ち合わせているのか。
個人とは、人とは、どう定義すべきか。
そこに、過去と記憶と、努力があって成り立つとしたならば……やはりどうあっても、例えデータであろうと、彼女達は、本物の人間であり、個人なのではなかろうか。
数年前、超高性能AI搭載型のアンドロイドが、人間に怒りを覚え、危害を加えた事件があった。
アンドロイドは『自らが破壊される危機感を覚え、反撃した』と証言している。
ロボット原則を否定する行動を働いたのだ、被害者は弁護団を募り、製作会社を相手取ってアンドロイドの出荷停止を訴えたが、裁判所はそれに否を唱えた。
ある一定時期から、偶発的に起こり始めた事件である。
シンクロニシティとでも言うだろうか。考える事を得たロボットの人権問題が発露したのである。
杜花は半信半疑に事件を眺めていた。
しかし、七星がここまで出来るのだ。もう、人間は人間以外の人間を作れると言っても、過言ではない。
肉で出来ておらずとも、元の人間であらずとも、思考し、生きる意志を示せば、それは人なのだと、世界はそのように動き始めると同時に、超高性能AI搭載型のロボットはついぞ作られなくなる。
……恐ろしいのだろう。
人間を超える人間が出来てしまう事実を、人間は恐怖している。
更に言えば、目の前に居る一人にして三人の少女。
利根河撫子は、あらゆるデータを重ね、実物に近付けられ、自我を得た。それが今、しっかりと意思を示して、親である筈の兼谷に危害を加えている。
「……撫子と、話せますか、二子」
「頑張って、抑えて、みる。姉様、お手伝いして……ありがとう。うん……いま……」
「はじめまして」
『ああ、花。もう何年経ったのかしら。変わりなく、美しいのね、貴女』
「ごめんなさい。私は、孫です。欅澤杜花と言います」
『孫……市子さん、二子さん、今は……2068年? もう、そんなに経つのね……花、いえ。杜花さん。花は、どうしてるかしら』
「元気ですよ、恐らくそう簡単に死なないでしょうね」
『嗚呼――良かった。生きているのね。そうだ……あの子、きさらは……きさらは……自殺……した、のね……そんな……』
「貴女は、蘇る事を、望みましたか?」
『――お父様と、お母様が、願ったのね。でも、これは、二子さんの身体なのでしょう? 二子さん? ……そう、良いのね。市子とは、競合しないみたいだけれど……ああ、どうしましょう』
「……生きたいと、想いますか」
『折角産まれて、死にたいと思う人は、狂人よ、杜花さん。それは、動物ですらない。でも、二子さんの身体を奪うのは……引けるわ。手段は――酷い、無いのね……』
「何か、他に聞くことは、ありますか」
『あ、ああ。そう。そうだ。孫がいるってことは、結婚して、子供を作ったのね。男性に興味があるように見えなかったから、少し意外だわ。でも、良い。何でもいい。花が幸せなら』
「……お婆様は、ずっと悔んでいました。貴女の自殺に。誉の死に、きさらの死に……貴女が、死ななければ、あんな事にはならなかった。私達が――こんなに頭を悩ませる事は、無かった」
『ごめんなさいね。なんだか、お父様もお母様も……無茶をした、みたいで』
「……いえ。こちらこそ、ごめんなさい。そもそも、あんなことが無ければ、私も、産まれていない。市子達とも、出会わなかった。ただ、今はその方が良かったのではないかと、少しだけ、想います」
『あ、ああ。市子、そんなに、押さないで』
二子が頭を振る。
やがて、ポロポロと涙を流し始めた。格子の奥から、二子が手を伸ばし、杜花にしがみつく。
「市子」
『も、杜花――杜花……杜花杜花杜花……ごめん、ごめんね、ごめんなさい……違うの、こんなの、違う……違う、けれど、わた、わたし、私は――死にたくなかった。聞いて、杜花……』
「聞きますから、もう少し、落ち着いて」
『うん、うん。杜花、優しい。大好きよ、愛してる、杜花。私、本当に、こんなことになるなんて、考えもしなかったの。ただ、やっぱり死にたくは、無かったから。もし、それで蘇られるのならば、そうしたい。だって、ああ、でも、それでは、二子が……ごめんね、二子……私……』
「市子は、これからも、生きたいと、思いますか」
『もう、自我が、あるもの。二度も三度も……死にたくない。でも、貴女が……貴女に、必要とされないのならば、私は、消える覚悟がある。けれど、撫子と存在を共有しているから……私を消すと、彼女まで、消えてしまうの。ああ、違う、違うの。そんな、生き汚いとか、命乞いなんて……』
「解っています。うん。市子は……市子ですね」
『うん……ごめん、ごめんなさい。汚い女で。汚らわしい女で』
そういって、市子が引き下がる。二子はハッと顔をあげた。
「二子」
「――うん」
「……本当に、良いんですか。この子達に、貴女の肉体をあげても」
「良い。構わない。私は、七星と、姉妹達の礎になる。私は、二人を殺せない」
「嘘。じゃあなんで、さっきあんな光景を見せたんですか」
「そ、それは――」
二子が言葉を濁す。本当に全ての覚悟が出来ているならば、敢えて同情を齎すような映像を、杜花に流し込んだりはしないだろう。
まだ、まだ彼女は手の届く範囲にいる。
どんな強引でも、押し切らねばならない。例え杜花が二子にどう思われようと、周りからどう揶揄されようと、ここで引いてしまえば、最悪撫子の暴走、もし抑えられたとしても、二子の肉体はまた隔離される。
隔離され、自由なく生き続けるなど、それこそ、人間としておかしい。
「七星二子は、七星二子でありたい。例え愛しい姉だろうと、自分の命を犠牲にしてまで、蘇らせるなんて、無茶苦茶です。それは貴女も自覚している。死者は、死者。それに、市子はまだ生きている」
「ねえ、様が?」
「兼谷さんの頭、ここから読めますか」
「普段は、感応干渉で防がれて、読めないのだけれど……」
二子が眼を瞑り、沈黙。しばらくして、目を見開いた。
「あ……う、あ。う、うん。本当、みたい。観神山の医療センターに、いる。でも、これ……目を、覚まさない。まず、無理だって……」
「でも生きてる。じゃあ、貴女は市子に捉われる必要はない。問題は、撫子」
先ほどの強烈な感応干渉を思い出す。
居心地の良い夢に、市子のような何か。それに直に触れ、杜花は目を覚ました。
どれだけ同じように再現しても、どれだけ遺伝子が似通っていようと、それは他者だと市子は言っていた。
その通りなのだろう。このデータは市子に限りなく近い何かだ。
本物では、ない。
そしてそれは、撫子にも当てはまるのではないか。
例えここで完成したとしても、七星一郎は納得するのか。
杜花は否だと思う。あの男は、もはや手段と目的が入れ替わっているように感じられた。
兼谷の扱いを見れば、解るだろう。
完成した筈の妻を、手元に置かず、まして危険に晒している。彼ならば想像出来たものだ。杜花を分析していたのなら、解って当たり前だ。なのに、彼は兼谷に全て預けている。
「皆が頑張った、結晶、だもの……。私が受け入れないと、また他の撫子のクローン達が、犠牲になる」
「きっと終わらないし、この撫子を、抑える手段があると? 汗が、滲んでますよ。制御、厳しいのでしょう」
「でも、でも……でも……ッ」
「二子」
「も、杜花?」
「貴女の言葉で話して。貴女はもう、穴倉のような場所には戻りたくない。研究モルモットとして生きたくはない。そうでしょう」
「そう、それは、そうよ。だから私は」
「市子でも撫子でもなく、七星二子として生きれば良い。流されて、強制されて、自分の意思を隠して、主張しないなんて、個人じゃあない。父が母が望んでいるからと、何でもかんでも貴女は頷いてしまっている。意図せずともそうさせられている。狂人に、付き合う必要なんて、ない」
「七星、なのよ。彼等がそうしようとしたら、そうなる。私は、二番目の娘なの。恩恵から外れて、監視から外れて、生きられる訳、ない」
「七星一郎には、言う事が沢山あります。二子。貴女が、貴女個人として生きたいのなら、私は貴女の味方をします」
「無理、無理よ。私達は、用意されてるだけだもの。貴女だって……」
「私は、私と市子の為なら、なんだって犠牲にします。いえ、なんだって犠牲に出来ると思っていた。私には市子しかないから。市子以外はどうでも良いと思っていたから。でも、やっぱり、そんなの仮初で、死にたくなくて、幸せになりたくて、愛してくれる人がいて、心配してくれる人がいて、少しずつ、穴が、埋まってしまって。それが恐ろしかった。自分は市子によって形成されているのに、他の人たちがそれを埋め始めたのが、恐ろしかった」
「杜花……」
「都合が良い人間でしょうか。生きると望むのが、そんなに酷い事でしょうか。決意が揺らぐのは、間違いだと思いますか? 聞かせてください。二子。貴女は何故、私を自分の物だと、主張したんですか。それは、市子の意思でしたか」
二子は……杜花の顔を見つめた後、動揺し、そして、顔を赤らめる。
鉄格子の先から、その手を伸ばした。
「……ずっと、姉様から貴女の事を聞いていたの。少しおかしいけれど、自分の事を一番愛してくれて、凄く強くて、優しい人なんだって。私は、姉様の語る印象から、幻想の貴女を、心の中に、作りあげていた。そんな人と恋するような、夢を見ていた。実際初めて出会って、私は貴女が酷い人だと思ったわ。でも仕方ない。盲目的に、七星市子しか見れない人だったのだもの。市子の為ならば何でもする人だったのだもの。それが、なんだか、ずるくて。私にも、優しい顔、してもらいたくて。だから、少しずつ市子のデータを入れる度に、貴女に、なれなれしくした。私――嗚呼……私、見て、もらいたくて。私、優しくしてくれる人が……欲しくて……私個人を、見て、くれる人が……」
「……なら、生きましょう。そうですね、酷い言い方をしましょう」
「なに……?」
「二子。市子の代替えになってください。私が死なないように、貴女が私を支えてください。私は代替えとしてではありますが、ちゃんと二子を見ましょう。二子として尊重しましょう。私は欲張りで、甘えたがりで、自分勝手で死にたがりで、畜生にも劣るような精神性しか持ち合わせていないので、アリスと早紀絵だけじゃきっと足りない。どうです、最悪でしょう。これが本心です。これが……欅澤杜花です」
「――貴女、本当に、吐き気がするほど、最悪な人なのね」
「嫌でしたか。でも、私は私を慕ってくれる人が好きです。私を好きで居てくれるなら、全力で守りましょう。七星に与えられてしまった力でもって、私の可愛い恋人達を虐める人を、ぶん殴ってぶっ殺してやりましょう。というか、私にはそれしか、お返し出来るものがない。二子。もう一度聞きます。貴女は、二子として、生きて行きたいですか」
イメージされた牢獄が破れ、二子が立ち上がる。涙目の顔は、やはり市子にそっくりだ。
今、欅澤杜花は、人間として最悪な発言をし、人の夢を踏みにじろうとしている。
勿論、自分の被害、愛する市子の被害を鑑みれば、打倒されて当然の夢ではあるが、その曲がった夢はあらゆるものの犠牲の上に成り立っている。悪意は一つもない。皆全て善意だ。
善意に喜ぶ人、善意に怒る人、善意に恵まれる人、善意に滅ぼされる人、様々居る。
一郎や兼谷は、その善意を与える側であり、善意に喜ぶ人だ。
杜花達は、その善意を与えられる側であり、善意に絶望する人だ。
全ての人間が、善意の恩恵に与れる訳がない。
どんなに頑張ろうと、どんなに慈しもうと、どんなに積み重ねようと、受け入れられない側からすれば、善意は悪意よりも悪質なのだ。
「二子」
手を伸ばす。
新しい代替え品に。欅澤杜花という最低人物を保つ為に。
二子が手を取る。
個人を個人として保つためにだ。
消さねばならない。
殺さねばならない。
「……、私はその人格から人生まで、最悪を演じさせられるように、なっているのかもしれませんね」
殺せるか。
そんな権利が、杜花にあるのか。
殺せるのか。
撫子の人格は、市子のメインデータにしかない。
殺せるのか。
それを消したら、幾人が悲しむだろうか。
殺せるのか。
自分の心中の為に、生き返った命を、巻き込めるのか。
殺せるのか。
例え人工物であっても、自我があるのだ。
殺せるのか。
彼女達とて、死にたくて死んだ訳ではないのだ。
殺せるのか。
市子は、生きているではないか。
殺せるのか。
偽物と、贋作と、断定するだけの理性を、杜花が持ち合わせているのか。
殺せるのか。
これでは兼谷に対して不意打ちだ。
殺せるのか。
この人格は、様々な犠牲を払って産まれた、妄念の結晶だ。
殺せるのか。
苦節四十年の悲願である、利根河撫子を。
殺せるのか。
愛してやまない、大好きな彼女の幻影を。
殺せるのか。
おのれのエゴの為だけに、願いを傷つける真似が出来るのか。
殺せるのか。
だから、自分に、そんな権利が、あるのか。
違う。
殺すなんてものじゃあない。
彼女達は――死者だ。
死者は蘇らない。
蘇ってはいけない。
例えどれだけ死が望まぬものであったとしても、如何なる大義を基にしたものであったとしても。
生者を踏み台にする死者の蘇生など、あってはいけない。
……。
――世界が転じる。恐らく最後の、他者感応干渉だ。
心象の楽園が姿を現せる。
姉妹達が、杜花達が原風景として抱く『もっとも綺麗で瀟洒な世界』だ。
温かい空気に包まれ、花の香りが漂って来る。柔らかな日差し、風を受けてざわめく木々。
姉妹達が契りを交わした場所。もっとも心落ち付く、百合の花の園である。
真っ白なガゼボの真中に座り、杜花は目を見開いた。
正面には、疲れた顔をする市子、その隣に、同じ顔をした撫子、隣には、二子がいる。
撫子は杜花を見据えて、静々と頭を下げた。
『ごめんね、手間を、掛けさせて』
「此方こそ。折角、目を覚ましたのに」
『ううん。私は、死んでいる筈なのだから。二子ちゃんを、犠牲にも、出来ないし。生きている肉体を殺してまで、目を覚ますなんて、なんだか、いやだもの。私はあの時、死んだの。追い詰められて、誉の死を悔いて、花ときさらを顧みず……生きていて欲しいという希望を裏切って、死んだの』
「冷静に、見えますね。落ち着きましたか」
『……ううん。市子さんと二子ちゃんが、抑えてるの。精一杯。構造が、ずれているのかしら。ESPに偏重した、所為、……、かも、しれないわ。手順を、まち、がえた、のかも』
「私では、貴女を救えない。花お婆さまと、同じように」
『うん。ごめんね。許して。花に、伝えて。自分、勝手な話だけれど、貴女の、幸せが、一番幸せだっ、て』
撫子が微笑む。その瞳には涙があった。ただ、悔いは感じられない。
手を差し出すと、彼女は静かに握り締める。
当初を思い出してか、幸せな記憶が走馬灯のように、杜花達の周囲に渦巻いた。
撫子が頷く。やがて、彼女は陽炎のようになり、静かにその場から消え失せた。
視線を向け直す。
市子は暗い顔のままだ。数値的には完璧なのだろう。だがどうしても、数字では測り切れないものが、この『データ人格』にはあるようだ。
市子にして市子ではない者。
市子になり切れなかった彼女。
両親に翻弄された、二進数の魂だ。
「市子」
呼びかければ、肩をビクつかせ、顔を伏せたまま、横目で杜花を見る。一番愛して欲しかった人に、本人だと認めては貰えなかったのだ。データとはいえ、心苦しいだろう。
「本当は、どんな気持ちを込めて、最後の手紙を書いたの」
『本心よ。みんな、杜花を嫌いになれば良かった。杜花から離れれば良かった。だって貴女は、私が居なければ、空っぽの人だもの。あんな事せずとも、嫌われるんじゃないかとすら思っていたわ。貴女は私が居ないと、最低な人だから。そして私は、そんな最低な貴女が好きで、生き返りたかった』
「私達、何もかも振り回して、最悪ですね」
『私達さえ幸福なら、他はなんだって、良かったのよ。でも、舐めていたわ。きっと心のどこかで見下してたの。アリスと、早紀絵を。私達を凌ぐ程の馬鹿な子達だって、思わなかったの』
「痛感しました」
『うん。私達は、もっと寛容に居れば、良かったのにね。今なら解るわ。貴女の心の隙間は、私以外の人でも埋められる。私はそれを手助けするべきだったのに、独占したの』
「……」
『……』
「ごめんね。やっぱり私は……肉を好む人だった。手に取れないものに、命は張れないみたい。私は魂よりも、肉が好きな、即物的な人」
『……浮気性』
「うん」
『変態』
「うん」
『キチガイ。変人。馬鹿で阿呆で間抜けだわ』
「うん」
『二子を、お願い。この子、ずっと、外に憧れていたから。私が、肉の私が眼を覚ましたら、貴女、ちゃんと私と結婚してくれる?』
「しますよ。他の人にはあげません」
『うふふ。うん。そうね。杜花だものね。愛してる。じゃあ、また、今度』
「うん。またね」
市子を抱きしめる。
小さく頬にキスすると、彼女は笑顔のまま、消えて失せた。
最後に残った二子に向き直る。
二子は足を崩し、沈痛な面持ちで居た。誰もいなくなってしまったガゼボの真中で、杜花は二子の肩を引き寄せ、寄り掛かる。
「ごめん……撫子……市子……ごめん……二子は……犠牲に、なれない……」
「二子」
「うん……貴女を、信じるわ。だから、私を見て。私を、個人だって、教えて」
「……ええ」
耳元で、コードを呟く。
瞬間、二子の身体が震えた。
デリートの処理が始まったのだろう。幾つものコマンドプロント画面が立ち上がり、二子の周囲に浮き上がると、物凄い速度で数字が流れて行く。
意識が薄弱となるのか、二子がうつらうつらと身体を前後させる。杜花はそれを横たえ、ガゼボの外に出る。
「な――撫子!! だ、だめ! やめて、お願い、欅澤杜花! やめてぇッッ!!」
「もう、終わります」
兼谷の絶叫が聞こえる。
彼女は小庭園の芝生の上を、身体を引きずりながら必死に手を伸ばしている。満身創痍の上、脳がパンクするような量の情報を叩きこまれたのだ、気絶してもおかしくはないというのに、それでも彼女は叫ぶ。
執念だろうか。あらゆる犠牲を払ってこぎ着けた現時間、現存在に対する、後悔だろうか。
可哀想な人だ。彼女もまた、本当に利根河恵かどうか解らない魂を携えている。しかし、その絶叫は間違いなく、母としてのものだ。
だが、では何故、二子の消滅を悲しまない。何故市子を犠牲にした。
最終的には二子のデータを二子のクローンに移し替えるからか?
それはおかしい。
そもそも二子は、今を生きているのだ。
赤の他人ではない。
実子を殺してまで蘇らせたいなど――欅澤杜花にして、狂っていると感じる。
「あ、ああ――あああっ……撫子、撫子……撫子ぉ……ッ」
「……兼谷さん。私は貴女には、謝りませんよ」
兼谷は必死に立ち上がり、懐から拳銃を取り出し、構えた。
前に出る。
銃弾が腕を掠める。殺意が見え見えだ。直撃はまずあり得ない。
前に出る。
耳元を弾が掠めた。皮膚が破れ、血が滴るも、杜花は足を止めない。
前に出る。
杜花の頬を掠めた。それでも杜花は足を止めない。
前に出る。
兼谷は眼の前だ。
「残念ながら」
「そんな……あなた……ただで、済むわけ、ない……のに」
「なら、感応干渉を際限なく撒き散らす撫子を、抑え込めますか、貴女は」
「それは――七星の、技術があれば、修正なんて、幾らでも……」
「その間、監禁するんですか。二子のように。二子の肉体はまた、監禁されるんですか。実の娘を、また陽の当らない牢獄に閉じ込めて、個人の自由を奪い去るんですか」
「で、でも、きっと、出来る……積み重ねて、来たのだから――」
「失敗したら、また私みたいな可哀想な子を使って、圧縮再現するんでしょうね」
「そう、そうです。何度でも、何度でも、一万回だろうと十万回だろうと百万回だろうと、私は私達は何度でも何度でも繰り返す。私達の子を、撫子を」
「市子の犠牲は。二子の生命は。貴女の実子でしょう」
「……それ、は」
「クローンで、なんとかなると。また、個人を個人と認められないクローンが、大量に、出来るんでしょうね」
「……折角、ここまで、再現出来たのに」
「妥協点、どこなんですか。きっと、定めていない」
「……」
「……偉そうに、言う立場じゃないんです。私は。言わせないでください。もう、こんな茶番、巻き込まないで。市子を返して。二子も、もうあげませんよ。殺されたら、たまらない」
「市子……二子、ごめんなさい、お母さん――貴女達の、お姉さんを、蘇らせたくて」
「……拳銃、捨ててください」
兼谷は、躊躇った後、それを放り投げる。
同時に世界が暗転し、庭園は核シェルターに戻る。
「ああ、ああああっ……ああああっあぁぁぁぁぁぁっっっッッッ!!」
兼谷の悲痛な泣き声が、広い部屋に反響する。
魂の慟哭だ。
彼女の嘆きは、耳に心に、嫌と言うほど沁みては残響を残す。
何が悪かったのか。
何が間違っていたのか。
ここまで来たのに。
七星のあらゆるものを犠牲にして、七星で無いものすら犠牲にして、成り立っている今は、一体どこで道を間違えたのかと。
「杜花様!!」
「アリス、なぜ」
重たい扉を押し開き、アリスが脚を引きずりながらやってくる。
あちこちとすり傷の増えている杜花を見て、彼女は目元に涙を為、杜花の胸に飛び込む。
「大きな怪我は……ありませんわね。約束、守ってくれましたのね」
「ええ。拳銃じゃ、死なないです」
アリスを伴い、二子に近づく。
最後のコマンドプロントが消え、どうやらデータの消去が完了したようだ。
「二子さんは……」
「脳の負荷を避ける為でしょうか、データ消去中、意識を遮断するようです。抱えて行きます」
「無事、なんですわよね」
「……データの市子と撫子は、さようなら、しました」
二子を抱き上げ、核シャルターの出口に向かう。うずくまったまま動かない兼谷に、なんと言葉をかけるべきかは、解らない。しかし、このままにもしておけないだろう。
「兼谷さん。どうしますか」
「――放っておいて、くださいまし。貴女は、それどころではない」
彼女は……その頬を吊りあげ、いやらしく笑う。
怖気が走る。彼女の不気味な笑みにでは無い。過去、感じたことも無いような、激烈な危機感が、杜花の天辺からつま先に駆けて突き抜けた。
そうだ、何故安心していた。
何を終わらせたつもりでいた?
「――――あ、あッッ!!!」
最悪級の直感が過る。
全身が総毛立ち、吐き気に思わず口元を押さえる。
「な、なんですの?」
――杜花は、咄嗟に二子をアリスに預ける。兼谷が取りだしたのは、タブレット端末だ。
幾つもの監視画面が立ち上がり、そこには、早紀絵の姿が映っている。
「アリス!! 二子を抱えて、医療保健室に!! あ、ああ、あと、直ぐ、文芸部室に!! 医療班呼んで!!」
「くっ――祟られているんでしょうかね、この学院は」
「うるさい!!!」
杜花の身体が弾けた。
一切の脇目も振らず、杜花は最大速度で全力疾走する。
冷たい空気が肌を切り、突然の加圧に筋肉が悲鳴を上げた。例え筋肉繊維が全部ぶち切れたところで、杜花は構わない。
絶対に、それだけは阻止しなければならない。
(まさか――嘘でしょう、冗談でしょう!!)
走る。走る。
地下の階段を駆け上がり、廊下を一瞬で駆け抜ける。
足の傷など全く痛くない。痛いとしても杜花は走る。
それだけはダメだ。絶対にだめだ。
(馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ッッ!! なんでなんでなんでなんでなんで!!)
早紀絵の言葉を思い出す。
誰が悪い。
他の誰でも無い。欅澤杜花の配慮不足だ。
いや、あの時は本当に、何でも良かった、どうでも良かったのだ。これから死に行く欅澤杜花など、欅澤杜花の居ない後の世界など、どうでもよかったのだ。
しかし今は困る。
今はもう違う。全ての状況が、変わり果てている。
――やだ。困る。私、モリカがいなきゃ死ぬ。というか自殺する。
「サキ!! さき!! 早紀絵!! 早紀絵ぇぇぇッッ!!」
何と馬鹿な。後悔して後悔しきれるものではない。
ほら見た事か。
どうだ、お前のその盲目さが、人を殺すのだ。
お前の無配慮さが人を傷つけるのだ。
どうでも良かったのではないのか?
あんな淫売、放っておいても良かったのでは無いのか?
「五月蠅い五月蠅い五月蠅い!!!」
人を何だと思っているのだ?
人は道具ではないのだ。
慰める為のおもちゃではないのだ。
心の底から愛してしまった人が死ぬのだ。
お前はどうしようとした。
お前は死のうとしたではないか。
満田早紀絵は違うのか?
天原アリスは違うのか?
「私――! 私は! 私は!!」
駆ける駆ける。脚から血が吹き出そうと、そんなものはどうでもいい。
今まさに首を吊ろうとしている彼女を、止めねばならない。
「早紀絵、ごめんなさい、ごめんなさい!! 私、私馬鹿だから! 死ぬの、怖いから! 生きて、いたくて!! 死にたくなくって!! 涼しい顔して、大人ぶって、偉そうにして、ワガママ言って!! 貴女達を、弄んで!! 愛してるなんて言葉、信じられなくてぇェッ!!」
心臓が爆発してしまいそうだ。ただ今はダメだ。
「さきえ……さきえ、死なないで、やめて、お願いよぅ……ッ」
文化活動棟の舗装道路を駆け抜け、一番奥の部屋。扉を引き開けようとするも、内側から鍵がかかっている。
捻る。捻る。捻る。捻る捻る捻る捻る。
(開け開け開け開け開け開け開け開けッ、開いてッ)
扉を前に、一歩下がる。
今こそ、その狂った運動能力を、産まれて初めて、人の為に使う時だ。
丹田に力を込める。
正中線に鋼を通す。
呼吸を整え、構え――乾坤一擲、渾身の蹴りをドアノブ付近にぶちかます。
「つっぅぅぅうりゃあああぁぁぁあッッッ!!」
鉄の扉が、信じられないような凹み方をして、鍵が付いている部分ごと吹き飛ぶ。杜花は扉を思い切り引きはがし、中へと飛び込む。
「早紀絵ぇっ!!」
絶対に見たくない光景。
一生分の絶望感に打ちひしがれるような光景が、そこにはある筈だった。
早紀絵は地面に身体を横たえている。縄が切れたのだ。杜花は直ぐ様早紀絵を抱き起こし、呼吸を確認、脈拍を測る。一心不乱に心臓マッサージを加えるも、反応がない。
「早紀絵、早紀絵、早紀絵、早紀絵!! なんでこんな、私、私貴女に死なれる程価値なんて無いのに!! 貴女の言葉すら信じられなかったのに!! お願い、早紀絵、目を開けてよ、早紀絵、早紀絵っ!! ごめんなさい、ごめんなさい、お願い、お願いよぅ……何でもする、私、何でもするから、貴女の為に、貴女の言う事、何でもするから、死なないで、早紀絵、謝るから、謝るから、軽薄で、馬鹿で、ごめん、ごめん……早紀絵……あああああっ、ああ、あっああッッ!! なんで、なんでなんでぇ……ッッ!!」
無視し続けて来た。
彼女から向けられる好意を無視し続けて来たのだ。
自分を愛しているなど、他の恋人達と同じようなものだと、そう思って来た。
だがどうだ。また現実を突きつけられて、後悔するのだ。
早紀絵の言葉が嬉しかったくせに。
自分を認めてくれる早紀絵が好きだったくせに。
素直にしていれば、こんな事にはならなかっただろうに。
市子以外にもちゃんと目を向けていれば、こんな事にはならなかっただろうに。
何が人間以外の何かだ。
何が市子だけだ。
何が何が、他はどうでも良いだ。
脳を弄られていようと、遺伝子を弄られていようと、欅澤杜花は肉を有し、心を持つ人間だ。
ちゃんと人間であった。やっと人間になれた。
早紀絵がそれを確実に教えてくれていた。彼女から受け取る感情が、欅澤杜花の理性を繋ぎとめていたではないか。
「早紀絵……ッ」
胸元に縋りつく。
もう顔は、人に見せられるものではない。涙なのか汗なのか、紅潮してぐしゃぐしゃだ。ただ泣き縋る。
しかし、ハッと気が付く。
脈拍は微弱だが、耳を当てれば、彼女の胸から鼓動が聞こえる。
「さき、早紀絵? あ、まだ、まだ、いき、いきてる、早紀絵ッ」
早紀絵の手を握り締める。
アリスはまだか。
医療班はまだか。医療保健室は直ぐそこだ。
ここからならもう間に合う。絶対に間に合う。首を傷つけている可能性がある。そうだ。あまり揺すってはいけない。神経が切れれば、半身不随では済まない。
杜花は咄嗟に離れ、顔をあげる。
今までに居なかったものが、目の前に居た。
「あ、なた、は」
息を飲む。しかし、悪意は、感じられない。
地面に横たわる早紀絵の前に『黒い影』がいる。
それはゆっくり振り返った。
長い黒髪。
見覚えのある顔。
全てを愛しているような、慈悲深い目だ。
『――……あ、……あ、まえは、まに、あわなかったけど、きさら、無事……だから』
そのように残し、黒い影が立ち消える。
前。
前は。そうだ。
何故、市子の首を吊ったロープが切れたのか。
何故、市子は這いまわったのか。
「……撫子、貴女……」
学院は呪われてなどいない。
ただ、悲しい記憶をそのままに、現代にまで至ってしまっただけなのだ。
脳が痛む。
感応干渉を受けすぎた所為か、全力で疾走した所為か、杜花はその場に膝を付き、天を仰ぐ。
「杜花様!! あ、さ、早紀絵!! 先生方ァァッ!!」
欅澤杜花は、後悔の人だ。
そして――恵まれた人でもある。
意識が薄れる。ただ耳元で、優しい彼女の声だけが響いていた。
プロットストーリー最終章 狂人達の夢 了
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