2013年12月15日日曜日

私の幼い女王様 3、亡国


 
 3、亡国


 私という人間が何から構築されているのか、改めて思い知る一ヶ月間だった。
 錆ついた歯車を研き、油を注す作業は経験にないほどの苦痛であったが、その中で得たものは、私が真人間に戻って行く経験と実感であり、同時に恐怖と幸福だった。
 薄暗いものになる筈だった未来は、俄かに光明が射している。私はそれに対して必死に手を伸ばすのだ。
 今の私には、わずかながらに私がある。まだまだ人は怖いし、視線も少し恐ろしいけれども、それらに怯えて自らを見失うような機会は、この一か月で極端に減った。
 前向きになった私には、母と父がいる。そしてハナエが支えてくれる。
 そして何よりも、私にはカナメがいるのだ。
 私は、ほんの少しだけでも、笑って歩けるようになっただろうか、普通の女に戻れただろうか、カナメに認められる人間になれただろうか。
『彼女に逢ってきます』
 ハナエに対してそのようにメールを送る。
『はいはい』
 素気なく、そのように返って来た。
 これが終わったら、自分の携帯を買おう。幾らでも使えというが、やはり他人の物だ、気兼ねしてしまう。
 外に二人で出られるようになったら、どうしようか。年齢差十歳とはいえ、女同士なら何とかなる世の中だ、ある意味女で良かったと思う。カナメと二人で外を歩く姿を思い描き、私は微笑む。
 思い立ち、すかさず鏡を見た。
「うん。自然な笑顔」
 作り笑いではなく、苦笑いでもない。私が本来欲しかった笑顔だ。
 今回は以前のように化粧は崩れていないし、吐瀉物臭くもない。あの日を思い出すと、何とも嫌な気分になるが、同時にあれが私のターニングポイントとなった。
 外に出る。たったそれだけの事で、私は前に進めたのだから。
「お母様、少し出ます」
「解りました。何時頃戻りますか?」
「夕方前には」
「解りました。気をつけてくださいね」
「はい」
「タツコさん」
「はい?」
「本当に、良かった。そんな笑顔ですもの、もう、大丈夫ですね」
「私、笑っていますか」
「ええ。とっても可愛らしい。大武さんにも、御礼を言ってあげてください」
「あはは……まあ、そうですね。では」
「はい。いってらっしゃい」
 出掛けると言っても、隣に行くだけだ。そしてあわよくば一緒に外出して、この前見つけたパーテーション区切りのある喫茶店で、美味しいケーキを食べよう。視線も気にせず、楽しめるに違いない。
 一カ月ぶりだ。彼女はどうしていただろうか。まだ私の王でいてくれているだろうか。私はまた、ヘタクソな敬語で話して、彼女も偉そうに返してくれるだろうか。
 あのコミュニケーションが、私は愛しくて堪らない。
 姿見で自身を確認し、日傘を持ち、ドアノブを回す。強い光が差し込み、透き通るような青空が望めた。
 そのまま直ぐ隣の部屋へ赴き、数間おいてから、インターホンを鳴らす。
 時間は十六時過ぎ。カナメの母は既に外出している筈であるし、カナメも承知の上でこの時間を一か月前に指定したのだろう。
 少し呼吸が乱れ、心拍数があがる。
 ドアが開いた。
「……どちらさま?」
 ……。私は多少呆気にとられたが、冷静を装って対応する。
 出て来たのは、大人の女性。カナメの母だ。
「――あ、隣の、旗本です。カナメちゃんは……」
「あらら。旗本の娘さん。娘に聞いてるわ。仲良くしてくれてるって」
「い、いえいえ。此方こそ、遊んで貰っているようなものなので……」
「上がって。お話したいし」
 年齢は、二十歳後半ぐらいだろうか。カナメがいう話では、店のナンバーワンという事である。今日は非番なのだろうが、薄めだがメイクはしている。
 やはり美しい人だ。この母にしてあの娘なのだろう、もはや遺伝子を疑いようも無く、彼女の母である。
 部屋着なのか薄手のシャツを着ているだけだが、そのフォルムは酷く女性的で、同時に扇情的だ。男性が堪らなく思うのも仕方ないだろう。
 化粧だけでは繕えない大きな瞳に形のよい鼻、唇がまた少しぶ厚く色っぽい。正しく大人の女性である。
「はい、失礼します……」
 彼女に付き従い、私は日傘を傘立てに立て、家の中にお邪魔する。
 リビングへ行くと、ソファにかけるよう促された。
「こんな歳の離れたお友達が居るなんてね。幾つ?」
「二十歳です」
「若い。羨ましい限り」
「いえ、この若さ、どこにも活かせていないので」
「あはは。まあ、活かした所で良い事はあんまりないわ。はい、紅茶で良かった?」
「有難うございます」
 出された紅茶に何も入れず一啜りする。紅茶にミルクと砂糖を入れると、当時夜中に飲んでいた紅茶を思い出してしまう為避ける。
 それにしても、どうやらカナメは不在のようだ。学校だろうか。珍しい話だが、私とは違って小学生なのだから、やる事もあるだろう。
「私はお酒失礼するわね」
「ええ、どうぞ」
 そういって、彼女が持ち出したのはウィスキーの瓶だ。お酒の知識はまるで無いので、それがどのようなものかは解らない。私には一生縁が無さそうである。
「聞いてるかもしれないけど、カナメはだいぶ若い頃の子だから、右も左も解らないまま育てちゃって、ちょっと変な子になっちゃってね」
 そのように、おどけた調子で言う。雰囲気がハナエに近い為、他の人よりも接し易い。私は言葉を選びながら返答する。流石に娘さんの下僕ですなんて口が裂けても言えない。
「……凄くしっかりしたお子さんです。物言いが大人で、精神的にも早熟かと」
「それ、ガッコの先生にも言われたわ。自立もやりすぎるとアレね。手がかからないのは良いのだけれど」
「月並みですけれど……でも、大変でしたでしょう」
「世間一般で言えば、不貞の子だしね。でもさ、私は当時、その人が凄く好きだったのよ。奥さんも居たんだけど……学校の先生でさ」
「……す、凄まじいですね」
「あっはっは。話のネタにはなるわね。私が子供せがんだの。結婚なんてしなくて良いから、貴方の子供が欲しいって。あの人への愛さえあれば、私の世界は幸福に満ちるって、そんな幻想抱いて……煙草良い?」
「ええ」
 細身の煙草を取り出し、火を点ける。薄い紫色が部屋の上部を漂う。
 なんとなくではあるが、カナメにもある程度聞いていた話だ。
 若くして子供を授かり、学校から、親から、周囲から糾弾されたという。もしかしたら、それが独身相手ならば、また違っただろうが……相手は人の夫だ。しかも教師であるからして、問題にならない訳が無い。
「夢見る乙女は一歩間違うと、とんでもないわ。私は堕すのを拒んで、カナメを産んだの。元から自分で責任を取るつもりではいたけど、先生はそのまま居なくなっちゃったし、両親からも責められる毎日で、嫌気がさして、カナメ抱えて逃げ出したのよ」
「ど、どうやって暮らしていたんです?」
「優しく声をかけてくれる人の所。経産婦とはいえ若いでしょう、狙って来る人は沢山いるし、おこずかいも貰えたし、まあ、転々と過ごしていたのよ。そんなある日、まさかの御老人に拾われてね。ああ、七十も過ぎて性欲旺盛だなあなんて思ったけれど、毎日お話してほしいって言われて、でっかい家にあげられてさ」
「それは……幸運、だったのでしょうか」
「資産だけあって、家族の居ない人だったわ。寂しい老後に耐えられなかったらしいの。娘と孫が一緒に出来たみたいだって、凄く喜んでいた。それが五年くらい前かな。二年くらい御世話になって、ご老人が亡くなってね、どこから湧いてきたのか、親戚だって奴らが遺産分与に揉めて揉めて。私の処遇もどうするかってなって。その中の若い人に、うーん、買われた、のかしら。シモの御世話をする代わりに、生活保障をしてもらうカンジ。愛人契約ね」
 解ってはいたのだが……その十年間の中に詰まっている人生の濃さが、私とは比べ物にならない。
 彼女が抱えるものは正しく負の塊だ。最悪の選択肢を行き、最悪を掴まされ続ける人生である。大人びた女性の魅力の中に窺える憂いは、そういったモノが反映されているからだろう。
 若く、美しく、未婚で、しかし未亡人のような風格だ。
「……では、今は?」
「ああ。夜働ける歳になったから、契約をご遠慮願って、ひとりだちしたのよ。そこからがまた、女の嫉妬と確執にまみれた地獄だった訳だけど……聞くと今までの話より胸糞悪いから止めた方がいいわよ、あははっ」
「あ、あはは……」
「ま、色々あったの。三年連続ナンバーワン。私の源氏名を知らなかったら、あちらの界隈じゃモグリなのよ。……とはいえ、流石にそろそろ年増だけれど」
「そんな。とても、お美しいです」
「ありがと。私ね、男の人を幸せにする才能があるらしいのよ。愛人だった人も、笑顔で手切れ金をくれたわ。凄く幸せだったって。貢いでくれる人も、みんな笑顔。不況だっていうのに、このマンションも、ポンっとくれた。ただ心残りといえば、やっぱり先生を幸せに出来なかった事かしら」
「そういえば、お名前を窺っていませんでした。私は、タツコです。旗本竜子」
「あら、そうね。水木澪よ。源氏名はいる? お店来たらサービスするわよ。女でも歓迎するわ」
「い、いえ。私には少し早いです。それに私、人前が苦手で」
「そんな綺麗な顔しているのに、苦手なのね。そんな事もあるかしら。彼氏もいないの?」
「お、男嫌いで……」
「あらら。あはは。そうなの。アレもなんだが、男は苦手みたいだし。やっぱり物心ついた時から大人の汚い所見ているからかしら?」
 澪が美しく笑う。冗談だろうが、しかし、どうやらカナメもあまり男は好かないようだ。
 私の周りに居る女性というのは、どうも悉く男にトラウマがあるように思える。
 澪が三本目の煙草に火を点ける。
 そうだ。彼女の話に夢中になっていたが、カナメはどうしたのだろうか。
「あの、澪さん。あ、お母様と呼ぶよりも、澪さんと呼んだ方が、しっくり来ますね」
「ええ。この名前好きなの。親が唯一くれた満足行くプレゼントね。それで、何かしら?」
「カナメちゃんは」
「うん?」
 今、何かが、かけ違っている気がする。
 澪は不思議そうな顔をしている。何故そんな、ここに居る事がおかしいような、顔をするのだろうか。
「――あの」
「あの子、貴女に話さなかったのかしら……」
「な、何か、あったんですか?」
「ええ。一か月前から、入院しているわ。心臓の調子が悪くて。持病は、知ってるわよね」
「え、ええ……そ、そんな……」
 頭の中を、あの時の記憶が巡る。
 何か引っかかりがあった筈だ。しかし、私は私が前を向くのに必死で、それを深く考えていなかったように思える。
 今まで顔を見せろなんて言わなかった。だがあの時は執拗に私に逢いたがっていた。
 出会った後も、そうだ。
『死に物狂いで努力する。生き残る。戦うわ』
「あ、あ……」
「……タツコちゃん。大丈夫?」
「ぶ、無事、でしょうか。カナメ、ちゃんは」
「……」
 何故。
 何故そこで押し黙る。そこは、大した事無いと、言う所ではないのか。
 御世辞にも良い状態には無いのか? 入院していると言っても、どこに。どの部屋に。まさか、そんなに緊急を要する状態なのか。
 目が泳ぐ。鼓動が速くなる。呼吸が荒くなる。
 突然の衝撃に『自身』が揺るぐ。
「ちょっと、タツコちゃん?」
「あ、あの、いえ。その」
「そ、そんなに驚くとは思わなくて。あの子、貴女の前じゃ余程隠していたのね……ソファ、横になっても良いわよ?」
「だ、大丈夫です。あの、それで、カナメちゃんは」
「……御医者様にも、長く無いってずっと言われ続けてきたのよ。もう、手は尽くし終わっているの」
 もう、手を尽くし終わっている。
 つまり、手術した所でどうにもならないという事だろうか。
 外科手術を繰り返しても負担をかけるばかり、体力がない所為もあって強い薬も使えない、と。
 つまり。
 つまり。
 つまり、彼女は、もう――死ぬのか。
「助かりようが無いと、そう、言う事ですか」
「移植手術に耐えられる力はないし、ドナーも見つからないもの。幾らお金積み上げた所で、どうにもならないわ」
「そんな――」
「ねえ、タツコちゃん。こんな事を聞くのもなんだけれど」
「は、はい」
「あの子の……何かしら? その反応、お友達じゃないわ」
 それで無くとも困惑しているのに、今、そのような問いを私にかけるのか。幾らなんでもあんまりだ。
 ただ、確かに、他人から見れば私の反応はいささか異常だろう。幾ら可愛がっていた幼い知り合いが瀕死だからと、不安でもなく、緊張でもなく、体調に変調をきたすような他人はなかなかいないだろう。
 私は自身の動揺を人様に隠せる程器用な人間ではない。
 返答に詰まっていると、澪は煙草をもみ消し、グラスに残っていたお酒を一気にあおる。
「覆りようが無いわ。あの子は、死ぬの」
「希望は」
「あの子が五歳の頃に、私は希望を捨てたわ。貴女は、あの子に希望を観たの?」
 澪の視線が迫る。
 その通りだ。
 私は彼女に希望を見ていた。
 薄暗く未来の見えない箱の中に居た私にさした一条の光だ。蜘蛛の糸だ。彼女は神であり仏であり私の女王様なのだから。
 終わらない終わりの道を延々と回り続けていた私に差し伸べられた御手であり、道しるべなのだ。
 それを、今失えというのか。
 彼女はどうだ。水木加奈女はどうなのだ。
 たった十年、たった十年の生でその幕を閉じる、それはあまりに理不尽ではないか。死ぬべき人間なんて沢山いる筈だ。あっちにもこっちにも、今すぐ死んだ方が世のためになるような奴ばかりだ。なのにどうして美しく可憐な彼女がたった十年で死ななければならないのか。誰か代わりになれないのか。
 私、私が――私が代わりに……、なれる訳も……、ない。
 そしてそんな考えは恐らく――母である澪も、同じなのだろう。
「そうね、代われるものなら、代わりたいわね」
「――私、引きこもりだったんです」
「なんとなく、聞いてるわ」
「あの子に、顔が観たいと言われました。あの子は何処とも繋がりを持たない私の、唯一の掛け替えの無い希望でした。あの子の望みならなんでも叶えてあげたい。辛いけど、苦しいけど、酷い目も観たけれど、それでも、あの子が喜んでくれるならと、外に出るようになりました」
「うちの娘が、ワガママを言ったわ」
「いえ。その、お母様の前で、話すような事じゃ、無いのかもしれませんけれど。私、友達じゃあありません……その関係性を、なんと表現したらいいか、解りませんが……あ、あの、決して、やましいものでは」
 俯く。
 自分がどうしたらいいのか、どこに考えの重きを置けばいいのか、解らない。
 そしてこのヒトに、どんな顔をして良いのか、どう返せばいいのかも、解らない。
 齎される現実に対して、私はあまりにも無力であり、同時にその理不尽な無力さは、非現実感すら醸し出す。
 カナメが死ぬ。良く分からない話だ。
「いつか来る日だとは思っていたのよ。でも、いざその時が来てみると、実感がないわ。あの子、決して苦しい振りはしないの。どんなに辛くても、ギリギリまで我慢する癖があるのか。だから、今日もね、貴女が来た時、あの子が病院からひょっこり、戻って来たんじゃないかって、思ってしまって」
 彼女は大人びていて、孤高で、崇高で、気高い。母の前ですら、気丈として居ただろう姿が、ありありと思い描ける。彼女は私に対しても、辛い姿などついぞ見せた事が無かった。
 痛みや苦しみを押し殺してでも、毎日私に顔を出してくれていたと考えると――居た堪れない。
「面会者名簿に、貴女を登録しておく。あの子、きっと貴女に弱った姿なんて見せたくないでしょうけれど……いつ……」
 いつ居なくなってしまうか解らないから。
 いざ、言葉に出そうとしたのだろう。そしてその言葉が、自身に迫る現実を描かせたのかもしれない。
 澪が顔を覆い隠す。私にはそんな彼女に、何もしてあげる事は出来ない。何せ、自分でも、手いっぱいだ。
「ごめんなさい……」
「――病院は、どちらでしょう」
「……近くの大学病院よ。解るかしら」
「はい。昔、御世話になりましたから……今日は、御暇します」
「また、来て頂戴。子供を疎ましく思っている男じゃ、御話し相手にならなくって」
「解りました……失礼します」
 深々と頭を下げ、私は水木家を後にする。
 日傘を手に取った所で、このまま自分の部屋に戻るべきかどうかを考えた。
 今、一人になるべきではないような気がする。
 今一人になってしまったら、きっと私は考え込む。
 答えが出ないと解っていても、終わりの無い問答を繰り返すだけだ。
 携帯を手に取り、短縮で彼女に電話をかける。
『もし』
「今何処」
『あ、新居新居。改装も済ませたから。モノが無さ過ぎて不安なんですけど』
「場所教えて」
『来るの? 何もないぞ?』
「助けて」
『解ったそこに居ろ、動くな。直ぐ迎えに行くから。どこだ』
「家」
『解った。遠く見ろ、深呼吸しろ、無駄な事考えるな』
「うん」
『切るぞ。変な事考えるなよ』
 慌ただしく、バタバタと音を立てて、通話が切れる。
 また彼女に迷惑をかけてしまうだろう。彼女はそれで良いと言う。私に罪悪感がない訳でもないが、今この状態を打破しようと思ったら、受け入れてくれる他人に縋った方が良い。
 肉親では駄目だ。肉親は肉親なのだ。
 娘というアドバンテージそのものを受け入れている事実と、私という個人を受け入れている事実は、まったくもって異なるのである。
 他人の優しさにしがみ付く間抜けさを噛みしめながら、それでもなお生きる為と割り切る、そんな面倒くさいロジックが私には必要だった。


 ※



 それから彼女は五分もしない間にやってきて、私を車で拾い上げた。一体自宅をどこに構えたのかと思えば、車で三分ほどの近所のマンションである。
 私は、私が思っていた以上に顔色が悪いのか、私を見たハナエの表情は険しかった。
 扱いはまるでお姫様である。駐車場に車を止めると、わざわざ外に出て私側のドアを開けて手を差し伸べてくる。
 素直にその手をひかれ、彼女が居を構える地上十五階の部屋に案内された。
 大きなマンションなのだが、一つの階に部屋が二つしかない。玄関をくぐると、ウチとはまるで違った長さの廊下があり、部屋の数もウチの倍はある。
 恐縮しながらリビングへと赴くと、一人暮らしにはあまりにも不相応で立派なシステムキッチンが据えられており、そのデザインもかなり近代的だ。
「珍しいか?」
「うちの倍くらい広い」
「まあそこそこしたしな。二階もあるぞ」
「一人で住むの?」
「何にしても、狭い部屋はもうたくさんなんだよ……あ、これ合鍵な」
 そういって、ウサギのストラップがついた鍵を渡される。ちなみに二つだ。いつでも使えという事か。
「私、彼女じゃないけど」
「アンタ以外ウチ来ないしなあ。好きに使いなよ。愛人の家だと思って」
「なんで鍵二つ?」
「言ったろ。部屋二つ買ったって」
「隣?」
「そう。倉庫にしちゃ少し大きすぎたかな。まあ、気兼ねなく騒げるから良いか。あ、住むなら住んでいいぞ」
「うち、あるし」
「だはは。そうだった。ま、一人で居たい時もあるだろう」
 窓際に据えられたソファに腰掛け、外を望む。
 高級マンションらしく、その眺めは絶景だ。ここからでも繁華街、その先にある隣町の大きなタワーも、まるで近所のように近く見えた。
 ここが、自由を手に入れた彼女の城なのだろう。
「独りは寂しいでしょ」
「独りになる為に出て来たからなあ。でもまあ、アンタが隣にいるなら、それに越した事もないね……どした。何かあったか?」
 ハナエが隣に腰掛ける。私は、そのまま彼女の胸に縋りついた。
「――タツコ?」
「逢いに行ったの」
「ああ、聞いた。それで、アンタの神は、どうなってた」
「――もう、助からないって」
「なんだって……?」
 ハナエに説明を省いていた部分から、カナメとの馴れ初めに至るまで、私は全て説明した。
 私は、初めて他人に慰めを要求したのかもしれない。
 そもそも、このような話を聞いて理解してくれる人物は限られるのだ。状況は違えど心証的に似たような境遇を経験した彼女ならば、私の戯言を馬鹿にせず聞いてくれる。
 私の話を聞いている間、ハナエはずっと頭を撫でてくれていた。他人に触られる事も嫌がった私だというのに、彼女に対してはそれがない。どれだけ否定しようと、やはりハナエは特別なのだ。
 このヒトに慰めて貰いたい。このヒトに同情して貰いたい。このヒトに優しい言葉をかけて貰いたいのだ。
 私は今、神を失おうとしている。
「――悲惨だな。どうしてこう、世の中は絶望で溢れかえってるんだろうか。世の中の笑っている奴らが、実は全部演技なんじゃないかって、私はずっと思ってたよ」
「幸せってどこにあると思う」
「生み出せ、とか、自分で掴めとか、そんな無責任な事は言えんな。どうあがいても不幸の方が容易くやってくるんだ。私の場合は、下品な話だが、お金が全ての解決方法だった。そして、私は自分から、不幸を買いに出てる」
「私の事?」
「幸福か?」
「ううん」
「だよな。でも、アンタは幸いな事に、家族には恵まれてる。そこに私をプラス出来たら良いんだがね」
「助かる」
「それはよかった。他にしてほしい事あるか?」
「不貞と思わないで」
「うん?」
「抱きしめて。なんかもう、なんか、訳、解らなくて――」
「ああ、いいさ。勿論。カナメちゃんには申し訳ないが、私はアンタに縋られて幸せだよ」
「最悪」
「まったくだ」
 愛しければ、直ぐ様命の危うい想い人の所に駆けつけるのが正解だろうか。
 健全な体を持ち、健全な精神を宿した人ならば、そうだろう。
 だが私はあまりに弱い。軟弱にも程がある。支えを失おうとしている今、その支えに無理矢理縋った所で、誰も彼にも迷惑千万である。
 死という覆りようの無い現実に立ち向かうにしても、私はそんなものを目の前で見せつけられて、立っていられる自信がない。そしてどれだけ近くで彼女を想った所で、彼女は健康にはなりはしないのだ。
 頑張ってとか、死なないでとか、あきらめちゃ駄目とか、身勝手すぎる話だ。
 そういう奴に限って、自分が一番大事に違いない。
 解っている。心の底でどう思っているかなど、他人は一々勘ぐらない。だとしても、私はダメだ。泣き喚いて、本人に辛そうな顔を見せつけて、死に逝く貴女より私が一番可哀想だと表現するような絶望的な感性は持ち合わせていない。
「面会謝絶って訳じゃないんだろう。アンタが落ち着いたら、見舞いに行こう。私も付きそうから」
「貴女も来るの」
「私の顔見たら、死ねないと思うかも知れんぞ。アンタを取られたくなくて復活するかもしれんし」
「何それ」
「……もうどうしようもなくなった人間が医学の埒外で元気になるとすれば、それは精神とか根性とか、そんなもんしかなくなるんだよ。だから、絶望的な状況に陥った本人や家族は、オカルトみたいな健康法に縋ったりするんだ。それが精神安定の助けになりゃいいが、まあ総じて功は奏さない」
「駄目じゃない」
「手は尽くしきったって満足感はあるかもな。本人も、家族も、親しい人も」
「それは……ただの自己満足じゃないの」
「大前提として、生きてる人間が大切なんだ。死に行く人間を思いやるのも大切かもしれんが、今を生きてる人間がそれにつられて不健康になったり不運になったりしたら、これから死ぬ奴だって気が気じゃないだろう。アンタはそういうの嫌いそうだが、見舞いなんてそんなもんだ。私は元気ですって見せなきゃない。外に出れるようになっただろう。その子もそれを望んだんだ」
「きっと、弱った姿なんて見られたくないにきまってる」
「だろうな。でも愛しい人の姿を見ずに逝くのは、きっと辛いぞ」
「まだ、死んでない」
「解ってるんだろう。なら言うな」
 私は人の死に目にあったことはない。祖父母は健康そのものであるし、身内の誰かに不幸が起こった事もない。一年に一度逢うかどうかも解らない親戚の死ならば実感しようもないかもしれないが、精神的に依存した部分のある人物の死がどのようなものかなど、まったく想像もつかないでいた。
 今まで喋っていた人間が居なくなるというのは、どのような感覚なのだろうか。
「……貴女の御爺さん」
「ああ。最初は良く解らなかったな。あれだけの頑固者が喋らなくなるなんて、意味不明だった。んでも出棺して、火葬して、骨だけになって。納骨する段階で、やっとこのヒトが死んだんだって解った。想い出とか、色々溢れて来て、ずっと婆ちゃんに縋ってた。そんな段階でも――うちの両親は、自分の事ばかりだったな。ああ、思い出すと腹が立つ……幾ら生きている人間が大前提だったとしても、だ」
「悔いたことは」
「もう少しお喋り出来てればなって、それだけだよ」
 私とカナメの関係は、会話が主体だった。互いの顔も知らない状態での他愛ない会話こそがその全てであっただろう。逢わなかった一か月は、今後もっと仲良く出来るという期待があったからこそのものであるからして、今後一生そのような機会が設けられないとするならば、それは私自身のアイデンティティの喪失である。
 彼女と共に歩む未来を思い描けない私にどれほどの価値があろうか。
「ハナエ」
「なに?」
「もう少し、お話したいの」
 腕に縋り、彼女を見上げる。
「え? あ、ああ、うん。勿論良いが……そうか、実感無さ過ぎるんだな」
「意味が解らない」
「……あまり宜しくないな。現実を否定するあまりに統合失調症やら解離性同一障害になんてなられたら堪らん」
「また病気が増えるのは、嫌」
「恐らく、耐えがたいぞ。アンタはその子に依存してる。自身を保とうと思ったら、他に依存先を見つけるか、それに打ち勝つ精神を身につけるか、そもそもそんな現実は起きていないと否定するかのどれかだ。アンタがそれに打ち勝つような強固な精神を持ってるとも思えんし……なんなら私に依存してみるか?」
「ヒトを代替えにするなんて、きっと畜生の所業」
「ああ、そういう自覚はあるのな。まあ、頭おかしくしたり、自殺するよりはマシかな。なあタツコ」
「うん」
「私はカナメって子を知らない。知ってるのは、カナメって子を頼みにするアンタだ。私はアンタを助けたい。幸せになって貰いたい。もしカナメって子がアンタを心から愛しているとするならば、きっと私と気持ちは同じだろうさ」
「あ、愛って……」
「だって好きだもの。恩人で、弱くて、人前でおどおどしてて、支えてあげないと死んじゃうんじゃないかって庇護欲に駆られるアンタが。その子だって、アンタを支えたいからこそ、迎えに行くって言ったんだろう。幸せにしたいから。不幸で不憫で愚かなタツコを」
 流されていると、思う。
 そうだ、ハナエはカナメを知らない。当然、重視するのは自身と私の関係性だろう。ハナエにとってカナメは、私を得ようと思った場合障害でしかない。こうして親身に話をしてくれるのだって、自分の好いたヒトが俯き加減で不幸な顔をしているのが嫌だからだ。
 このヒトは優しい。
 理屈臭いけれど、私の求める回答を与えてくれる。だから、彼女が何を考えていようとも、私はその優しさに流される。それに、この慰めは私自身が望んだものだ。
「あっ……」
「可愛い声」
 首筋にキスされた。耳元で囁かれる。鼻を宛がわれ、匂いを嗅がれる。
「――」
 無言で同意を求められ、私は小さく頷いた。
 彼女の手が、私の内腿に添えられた。くすぐったく、しびれるような感覚に、呼吸が荒くなる。滑らかな手付きが、冷え込んだ私の心を、ゆっくりと包む。
「うっ……ふっ……くふっ……」
「ちゃぁんと女の子してるじゃん。大丈夫、服、着たままで良いよ。ちょっと、恥ずかしい所弄るかもしれないけど……」
 ソファの上に横たえられ、私は顔をそむけず、彼女を見据える。
 嬉しそう、だけど、どこか悲しそうな雰囲気が含まれていた。
 失意の中、家族を捨ててまで幸せを掴もうとしたヒト。幸せになってまた、不幸を買い漁る彼女。
 愛しい人を失おうとしている今、他人に慰めを求める私は、なんて酷い女なのだろうか。ハナエが私を好いているという事実を良い事に、心の穴埋めの代替えにしようとしている。
 まさに畜生だ。私が死んだ方が良いに決まっている。
 けれど、私が死んだらカナメが悲しむ。ハナエも悲しむ。
 だから私は――私が死なない方法を、とっている。
「……好きにしてほしいの。私に貴女へ語る愛はないけれど、私は貴女が必要だから」
「自覚のあるクズは性質が悪い事この上ないねェ……」
「嫌い?」
「それに答えろってか。酷い女だ。ほら、力抜いて。任せておいて」
「……どうするの?」
「まあ、好きにするさ。これが対価だってなら、有難く頂く。妄想の一部が現実になるのは、心地良い限りだ」
「妄想の中の私は――どんな私なの」
「再現してくれるって?」
「うん」
「無理」
「なんで」
「妄想の中のアンタは、私の事大好きだから」
「んあっ……やっ……はずかし……」
 私はきっと不貞にも、その言葉に顔を真っ赤にして、いやらしい顔をしているのだろう。
 病床に伏せる彼女に想いを馳せながら、自身の不幸に陶酔しながら、慣れた手つきのハナエによる責めに、抱くだけで罪悪感に駆られるような悦びがあるからだ。
 この細い身を、この面白くない体を、優しく、好意的に、嬉しそうに、楽しそうに弄られている現実は、もはや嫌悪や羞恥を通り越して快感ですらあった。
 私を否定しないでくれる。私を深く受け入れてくれる。私の欲しい慰めを授けてくれる。私には、ハナエが女神に見えていた。それはカナメに抱く感情とは別種だ。信仰すべき神というよりも、都合の良い神様である。私の宗教はきっと、多神教だったのだろう。
 人の都合で信仰は移り替わる。教義は二転三転し、終いには信者同士で争って派閥が産まれ、どの神を重視するべきかすら異なってくる。
 今欲しい利益を、今授けてくれる神を、私は新たに生み出してしまったに違いない。
 嗚呼、本当に、最悪だ。
 私はこの、悲惨で凄惨な感情に酔っぱらっている。それを文句ひとつ言わず受け入れてくれる彼女に、私は心すら預けようとしていた。
「く、うぅ……」
 ハナエが私を後ろから抱え、下着の上から下腹部を擦り始める。まるで未知の感覚だった。そもそも私は、自慰すら殆どしないタイプの人間だ。自分で弄らないものを、他人様に弄られているかと思うと、体が火照り、頭が呆けて来る。
 こんな事をされてしまうのか。
 これから更に弄られるのか。
 ハナエの身体を弄る事を強要されてしまうのか。
 それは――どんな感覚なのだろうか。
「たぁつこ」
「……うん」
「私にも……して」
 耳を食まれ、囁かれる。
 甘く、脳を融かすような興奮した声色が、私の現実感を向こうに追いやった。
 ソファに腰かけ、下着を脱ぎ去ったハナエの前に座り込み、私は静かに、顔を埋めた。



 ※


 
 元から高台に開かれた場所の地上十五階だ、その視界の広さといったら実家のベランダとは比べ物にならない。ここからならば隣町も、自分の住むマンションも、そしてカナメが入院している病院も良く見えた。
 ここはベランダ、というよりもバルコニーだろう。
 白く綺麗に塗装された床に壁、天井はなく建物から突き出した形になっている。右手奥には一段高くなったウッドデッキがあり、そこにはバーベキューセットの据え付けられた木製の椅子と机が並んでいる。
 壁際に作られた煉瓦の花壇が小洒落ていて、園芸趣味がなくとも進んで花に水やりをやりたくなる雰囲気がある。
 そもそもここは、端から端まで歩くのに七秒もかかる。どんなマンションだと、無粋にも値段を計算してしまった。
 ハナエの趣味は解らないが、半分以上引きこもりの彼女には不要に感じられてならない。
 当然私にも分不相応だ。
 バルコニーからリビングを覗く。ハナエは運び込んだ自作のパソコンを五台、サーバーを二台、その他端末複数でネトゲとソシャゲと情報収集とデイトレードに勤しんでいた。その顔たるやいなや、本当に幸せそうである。きっと今頃ネットでは、悪の大魔王が帰って来てしまったと戦々恐々の事だろう。
 人を最も駆り立てるものが何なのか、良く分かる。どうあがこうと私達は生物だ。生きているからには、死なない為の努力が必要になる。
 彼女の場合、覚悟と勢いと運が、ケタ外れていたのだろう。坐して死ぬならば、この不幸な世界に一矢報いようという覚悟は格好良いのだが、本人がアレでは締まらない。
「広い」
 カナメが占有し、私が住まう領地とは比べ物にならない。ここは一人には広すぎる。
 ハナエは狭い場所がイヤだと言っていた。そしてリビングに据えられた家具や揃えられた食器、それら全て、五人分なのである。
 恐らく、ハナエの家族分だ。
 死した祖父、高級介護ホームにいる祖母、金を叩きつけた父と母、そして自分の分。
 自由になりたいと願った彼女は、心の奥にまだ、幸せな家族の絵画が飾ってあるのだろう。
「ん」
 自分用に買い替えた携帯を覗く。メールが一件、澪からのものだ。
『面会許可が下りました。二人分申請したので、逢いにいってあげてください』
 そのように綴られている。最近の病院はどこも防犯の為、入院者との関係性を明確にしなければ面会も叶わない。特にカナメの場合は生死の狭間にいるようなものだ、判断も慎重になったのかもしれない、あれから四日経っている。
 携帯を握りしめてから、ポケットに仕舞う。
 どうしたものか。
 あれから、一向に実感が湧かないままなのだ。カナメが消えてしまう、死んでしまうと言われても、涙の一つも出てこない。ハナエは『そんなものだ』とは言うのだが、臣下として、民として、王が臥せている事実に対して悲しめない状況が不敬であるような気がしてならない。
 勿論、彼女の眼の前で泣き喚くような真似はしたくないが、それでも、私は私が間違っているのではないかという疑念を払拭出来ずにいる。
 最初こそ、病床のカナメを目撃して立っていられるかと疑問に思ったが、このような精神状態ならば、思いの外普通にいられるのではないだろうか。
 善し悪し別に、取り乱すような真似をしないのならば――
「タツコ、顔怖いぞ」
「ハナエ」
「どした」
「面会許可、出たの。車出してくれる」
「……良いのか? 覚悟決めたか?」
「どういう事?」
「元から痩せたんだろう。今だって、生きて喋ってるのが不思議なくらいだって、澪さんも言ってただろ。これから逢うカナメちゃんは、アンタの知ってるカナメちゃんと、だいぶ違うかも知れんぞ」
「ガリガリは見慣れてる……いや、見たくないけど……」
 この前、久々に自分の体を見た。その久々というのが、ハナエと一緒にお風呂に入っている時なのだが、自分が思っていたよりずっと、私は普通だった。
 私の顔から身体まで、何もかも褒めて煽てるハナエの所為もあったかもしれないが、私の頭の中で描いていた私自身の身体のビジョンと、まるで違うものがそこにはあった。
 思いこみ、自己嫌悪、鏡の忌避、そういったものが作りあげた負のイメージが『痩せすぎて悲惨な私』を現実に当てはめていたのだと、ハナエは言う。まあ勿論、痩せ気味なのは変わらないし、胸も無いが。
 それで他人からの視線恐怖が緩和するかと言えば、そこまで急激な変化はないだろうが……私の身体は、しっかりと女の子で、ちゃんと機能していると実感出来た事は、収穫である。
「栄養剤で生きているような状態じゃ……まあ、逢いに行くというのなら止めないし、車も出す」
「あまり脅かさないで」
「現実だからな」
 私は手帳を開き、彼女から貰った写真を取り出し、ハナエに見せる。彼女はそれを受け取ると、目を見開いた。
「細い、が、あの親から産まれたってだけはあるな……将来は美人だったろうに」
「なんだか、言い方に棘がある」
「アンタが、これから死ぬ人間に逢いに行く顔してないからだよ」
「お爺さんが亡くなった後も暫く自覚なかったって、貴女も言ったじゃない」
「モノが違いすぎるな。比べられん」
「あまり、不作法な態度を取りたくないの」
「無理に抑えてるんじゃなくて、本当に現実感がないんだ。まあ、いいさ。車回すから、戸締りお願い」
「――」
 投げられた鍵を受け取る。彼女は飄々としたものだ。
 それも当然、彼女はカナメに逢った事はなく、真っ赤な他人である。では私はどうなのか。
 今こうして平静を保っているが――ハナエの話を信じるならば、私は取り乱すらしい。
 この平静が防衛反応から来るものなのか、はたまた、本当になんとも思っていないのか……私は首を振る。
 家の戸締りを済ませ、表に出る。
 真新しいエレベーターに乗り込むと、途中で別の階の住人と乗り合わせた。私は小さく会釈する。
「最近来た十五階の方?」
「あ、友人です。えっと、宜しくお願いします」
「いいえ。ご丁寧にどうも。十五階を丸ごと買い取ったっていうから、どんなお金持ちが来たのかと思って」
「あはは……あまり、省みない人なので」
 一階に辿り着くと、乗り合わせた富豪らしきオバサマが先に出て行く。また小さく会釈すると、カンジの良さそうな笑みを返してくれた。
(……耐性付いたなあ……)
 エレベーター乗り合わせを死ぬほど怖れた私はもう、どこにもいなかった。
 玄関で待っていると、やがてハナエが車を回してくる。助手席に乗り込んでシートベルトを締め、自動式の正門が開くのを待った。
「他の階の人とあったの」
「へえ。ご近所づきあいとかしないからなあ」
「普通に話せた」
「その成長ぶりを教えてあげられるといいな」
 ハナエの表情から、感情を読み取る事は出来ない。ただ私は、彼女の横顔見て、ふと感謝したくなった。
「ハナエ」
「なに?」
「ありがと」
「アンタは……クズな自覚はあるクセに、タラシだって自覚はないんだなぁ」
「何それ。酷い言い方」
「ああ、私みたいなフェム好きには、きっつい子だ、全く」
 ちょっと何を言っているのかよくわからないが、ハナエもまんざらではなさそうなので、良しとする。
 何にしても、彼女の手助けは嬉しい。一か月前の不信感はほぼ払拭されたと言っても過言ではないだろう。
 彼女との会話、彼女との生活、彼女との交わりの中で、殊更強い感情を私に抱いている事だけは間違いなく確信出来た。同時にそれは私のリハビリに繋がったし、不貞にも繋がったのだが――まあ、良いだろう。
 彼女は私を欲しがっているし、私も彼女の助けが欲しい。実にウィンウィンである。外から見た場合の体裁など、気にしている場合でもないのだから、問題ない。
 発進した車から眺める景色も、もうだいぶ慣れたものになって来た。基本的な足はハナエの車であるからして、何処へ行くにもコレに乗る事になる。繁華街は時折暗い感情に襲われるものの、もう少し人口密度の低い場所や普通のお店ならば、繕ってではあるが、涼しい顔を出来る。
 しかしこれから向かう場所はどうだろうか。
 近くの大学病院はそこそこの規模を誇り、周辺でも指折りである。
 過食に陥った当時、個人開業医に紹介を貰い、私はその大学病院の心療内科に通院していた。
 神経性大食症と診断された頃には、もう胃も食道もボロボロ、歯も一部融けた為、差し歯が幾つかある。幸いと言って良いかどうか解らないが、悲観して自殺に走るような真似はしなかった。
 代償行為として嘔吐に走ったのは、個人的には不本意である。
 自身の身体に対するコンプレックスによるストレスから無茶食いを始めたと診断されたが、本来は吐く気もなかった。栄養はそのまま溜めておきたい、そう思う反面、肉体的に受け付けなかったのだろう。無駄だ無駄だと解っていても、私は買いこんだ食品を夜中起きだしてむさぼり食うような真似を繰り返した。
 暫くの入院の後、母が徹底した栄養管理を行うようになる。人前に出る事がなくなった所為もあるだろうが、私の過食は以降無くなった。
 とはいえ、過食云々を抜きに私は元から良く食べる。痩せの大食いである。
 引きこもっている時期は一切病院など近づかなかった為、本当に久しぶりだ。
 六分ほど車に揺られていると、やがて白亜の城のような大学病院が目に入る。
「久しぶり」
「ああ、過食ん時御世話になったのな」
「来客用駐車場は右。入院病棟入口も直ぐ近くにあるから」
「あいあい」
 駐車場に入るなり、私は手鏡で自身を確認する。髪を直していると、ハナエに笑われてしまった。『普通の女の子っぽい』というのだから、酷い話である。
 そうだ。私は普通の女の子に戻ろうとしている。女の子……というには、少し時間が進みすぎたものの、まだ女の子を名乗るぐらいの場所には居たいのだ。何せ私の青春は土留め色である。
「見舞い品……とかは持ち込めないか」
「花も駄目だって」
「ああ、いよいよなんだな」
 入院病棟に足を踏み入れると、消毒の匂いと配給食の匂いが混じった『病院』としか言いようの無い香りが漂って来て、私は顔を顰める。白塗りの壁、ワックスがけされてのっぺりとした床には道標の線があり、多色に渡って奥へと伸びている。
「どうも。えーと、見舞いなんだけど」
「はい、お名前を」
 入口にある守衛室で面会者照会が行われ、問題なく通される。
『200~220病室』の線に従い、私達は足を進めた。
「普通病棟なんだな」
「終末医療病棟もあるのだけれど」
「――否定したのかな。そっちだと、面会手続きが面倒とか、そういうので」
「……なるほど」
 途中にある院内売店などに目をやっていると、何だか当時を思い出してしまい、複雑な気分になる。入院当初買い食いをしようとして怒られた覚えがあった。
「この売店に置いてる塩茹卵、美味しいよ」
「まさか病院で美食語られるとはな。まあ後で買うか」
 エレベーターで二階に上がり、目的の病室、200を目指す。200は奥まっており、個室だ。
「すみません。水木さんの見舞いなんだけど」
 二階のナースステーションで看護師に声をかける。澪からも、そのまま見舞いには行かず、一端ナースステーションに声をかけてくれという話だった。
「水木さん。ああ、カナメちゃんね。許可下りてるって事はお知り合いなんでしょうけど……ずいぶん年上ねえ」
 四十代半ばほどの看護師が小首を傾げる。大体予想はしていたが、確かに、客観的に見れば二十代の女性二人が十歳児の見舞いに来るのは不思議である。続柄はなく、学校の先生でも、塾の先生でもない。
「ま、その辺りは詮索しないでよ、お姉さん。色々あるんだ。あの子見て、わかんない?」
「あー……ま、そうね。じゃあ案内するわね」
 ハナエの言い方は多少気になるが、それを否定出来ないのも確かだ。カナメは特殊すぎる。
 先を進む看護師に付いて行き、とうとう私は彼女の病室の前に立った。
「元から痩せていたけれど……だいぶやつれてね。もしかしたら、見られるのがいやって否定するかもしれないけど、その辺りも、解ってるのよね?」
「ああ。取り敢えずこの子だけだな。私はココにいるから、看護師さん、アポとってアポ」
「解ったわ。水木さーん、失礼しますねー」
 先に看護師が中に入る。二分ほど待っていると、看護師が中から出てきて、小さく頷いた。
「帰る時も声をかけてね」
「はい。有難うございます」
 引き戸に手をかける。
 ――そこで漸く、いや、とうとうか、私は躊躇いを覚えた。
 この中には、私の神がいる。私の女王がいるのだ。謁見を許可されたのだから、向こうに否定感はないかもしれない。だがもし、私が動揺し、恐れ、悲しんでしまった場合、彼女は私をどう思うだろうか。
 本当に、私が想像していた以上に酷かったら――。
「アンタは、その子のなんだ?」
「……臣下。民であり、そして信者」
「背負いまくりだな。アンタさんがどんな状態で出てきてもさ、私がいるから」
「うん」
 引き戸を開け放つ。何の音も無く、戸はすんなりと開いた。私は少し伏せ目がちに入室する。
「――嬉しいわ。来てくれたのね、タツコ」
 嗚呼。
 なんて事だ。
 彼女の声が、たった一言が、彼女との思い出と、彼女に貰った想いと、彼女に対する心を、一気に呼び覚ます。
 視線を上げる。
 窓は開いていた。
 風に揺らめくカーテンが妙に印象的だ。
 彼女は影になり、まるで後光が差しているようである。それはいつか夢に見た光景でもあった。
 目が慣れると、彼女の全貌が露わになる。
「カナメ様。タツコです。御加減は――あ、あぁ……ああぁ……ああぁあ――……」
 そのシルエットは、最早枯れ枝だ。一か月前に見た彼女の面影はどこにもなかった。
 むしろ、今、何故生きているのか、それが疑問に思える程の、非人間的な痩せ具合である。
 私の平静な心なんてものは、本当にただの作りものでしかなかったのだ。
 全ては想定妄想自我を守る為の逃避行動でしかなかった。
 ゆっくりと歩き近づき、管に繋がれ、頬はコケ、皮と骨だけになった、我が愛しき女王に触れる。
 手の甲の血管が異常に浮きあがり、青黒い筋が生々しい。
 美しかった肌は張りが無く、人工皮でも撫でているようだ。
 心臓の病と聞いた。病気の所為なのか、薬の副作用なのか、それとも、食べる事も出来ない故にこうなってしまったのか、私には解らない。ただ確実な現実として、絶対的な絶望だけが目の前にある。
「酷い有様でしょう。本当に頑張ったのよ。頑張ったのだけれど、どうしようもない事も、あるみたいなの」
「嘘です――こんなの――そんな――そんな……」
「貴女は私の為に悲しんでくれるのね」
「悲しいも、何も……」
「解るわ。タツコは何も言わなくて良い。貴女の事、全部解るもの。貴女がどんな気持ちでここに来たのか。貴女がどんな気持ちで過ごして来たのか。入院一か月で落ち着くと落ち着くと思ったのだけれど、悪化したわね。酷いでしょう、これが現実なの。まだ、口は達者なのだけれど、食べると吐いてしまうし、鼓動も弱まって来ていて、発作も短くやってくる。もう、半月も持たないわ。今こうしているのも、不思議なんだと言われたの」
「……」
「無理に話す事もない。聞いて頂戴。これが最期になるかもしれないのだから」
 彼女は、自身に迫る死を目前として、平静としていた。貧困児もかくやという装いでいながら、その口調はシッカリとしており、そして威厳に満ちていた。
 貧者というよりも、悟りを開いた仏陀と言った方が良いだろう。確かにどうしようもなくあるのだが、彼女は彼女の矜持を決して失っていないのだと解る。
「顔、明るくなったわ。体つきも少し変わったかしら。外に出られるようになったのね」
「――はい。まだまだ、ですが。お買い物も、食事も、外で、出来ます。他人とも、少し、お話出来るようになりました。一重に、カナメ様のお陰です」
「ふふ。まだ、そう、まだ、貴女はこんな女児に、そんな言葉を使うのね」
「カナメ様は、カナメ様です」
「実に良く出来た、私の可愛い下女ね」
「……」
「……うん。ずっとずっと、貴女の傍にいたかったわ。でも、無理だって想いもあった。私をここまで慕ってくれる貴女が、ただ絶望の中に沈み行くなんて、想像もしたくなかった……だから、ごめんなさいね、無茶を言って、顔を見せてとか、外に出ましょうなんて」
「いいえ。貴女様のお陰です」
「そう。良かったわ。タツコ、手を頂戴」
「はい」
 そのように言われ、私は手を差し出す。彼女は私の手の甲を愛しそうに撫で、微笑む。枯れ枝となった彼女の笑みは、あまりにも儚い。小突いたらそのまま死んでしまうのではないかと思えて、手が震える。
「もう少し、早く一緒になるべきだったかしら。私、処女のまま死ぬわ。私を愛してくれる貴女に捧げるべきだったのに……あら、でも、流石に不味いかしら。そうよね、私、子供だもの」
「そんな――」
「タツコ」
「はい」
「私、幸せよ」
 どうして。
 どうして、彼女はそんなに大人なのだろうか。いや、大人なんて曖昧なものじゃあない。彼女はあまりにも、人間として完成していた。
 その人生に対する姿勢、滅び逝く自身への悟り、人に対する思いやり、残された人への気遣い、それらは例え満足な人生を送って来た人間とて、到底到達出来る領域にはないだろう。
 彼女は何故ここまで完成してしまったのか。何故早熟にして滅びねばならないのか。もし寿命を定める神がいるとするならば、そいつは間違いなく糞っ垂れのゴミクズ野郎である。
「……無理かもしれないけれど、あまり、気を病んではダメよ。私は貴女の人生のお荷物にはなりたくないの。タツコ」
「はい……」
「迎えに上がれなくて、ごめんなさいね……そういえば、タツコ、もう一人、来ているわよね」
 そういってカナメが視線をドアに向ける。私はどうするべきか迷ったが、カナメは小さく頷いた。ドアに寄り、少し開いてハナエを呼ぶ。
 ハナエの表情は複雑だ。
「こりゃまた、酷いな。大武華江だよ。はじめまして」
「見苦しい所を見せてしまって、申し訳無いわ。加奈女よ。タツコが、御世話になっているわ」
 ハナエがベッドの傍に寄り、パイプ椅子に腰かける。私は一歩引いて二人を見守った。
 酷く、不自然な組み合わせだ。私が頼みにした人と、私が頼りにした人の邂逅である。
「私の事は?」
「お母様から大まかには聞いてる。全く酷い女よね、タツコは。私が入院している間、他の女を作るなんて」
「ああ、なんかヘテロからすると果てしない間違いを感じる日本語だが、現実だから仕方ないな。その、なんだ……」
「いいえ。むしろ安心したの。この子一人じゃきっと、酷い事になりそうだもの」
「達観してるな。まるで子供と話してる気がしない。タツコが頼みにするのも、解る」
「タツコ、少し席を外してくれるかしら。このヒトと、お話があるわ」
「で、でも」
「お願い」
 そのように言われ、私は少しだけ躊躇ってから、部屋を出る。廊下側の窓からは中庭が見て取れた。中庭は緑生い茂る、一種のリハビリスペースなのだろう。若者や老人が何人も見受けられる。
 私の視線は中庭の端に移る。五歳ぐらいだろうか、小さな男の子と、若い看護師がゴムボールを投げて遊んでいた。目を凝らすと、その看護師は当時、私を担当していた人だと解る。小児科に移ったのか、気まぐれで子供の相手をしているのか――名前は忘れてしまった。
 当時、栄養失調で余計やせ細った私を笑った人だ。だが、嘲笑った訳ではない。何事にも大らかで、気持ちの大きな人であった。
 心の病を軽く見る訳ではないが、見渡して見て、自分がどれだけ恵まれているか実感するといいと、そのように言われた。
 ここの別棟には終末医療施設も備えられている。彼女に付き従って、私は色々な、もう助からない人々を目にした。自分が一番この世で最も悲観すべき人生に居るという考えを、多少和らげるに繋がっただろう。
 生憎そのあと引きこもってしまった為、完全に生かされた訳ではないが――安直な死という現実から逃避する事実には、繋がったかもしれない。引きこもりも、いわば防衛反応だっただろう。
 私は、私が一番大事だ。
 死ぬのは恐ろしいし、死ぬ間際になったって、私は生を渇望するだろう。
 私の行動原理は、人一倍の生への執着なのかもしれない。
 入院中、私は一人の女の子に出会った。私は声を出すのがいやだったため、会話は彼女が一方的だった。
 もう治らないと言われた。でも頑張れば、なんとかなるんじゃないか。そんな話をしていたと思う。
 たった一度だけの、会話にもならない会話だ。今になるまですっかりと記憶の片隅に追いやられていたような思い出である。結局彼女がどうなったのかは、知らない。私はその前に退院して、目出度く引きこもりとなった。
 彼女はどうしてるだろうか。頑張ってなんとかなっただろうか。
『――もう無理なんだって。まあ、その時は、その時かな。頑張るけど、死にたくないけど――』
 私は死にたくなかった。死なない為の努力といえば――自身の心を守る事だった。
 しかし結局、それは出口の見えない穴倉の中で、ひっそりと死を待つようなものであったと気がつかされたのだ。
 誰かに助けてほしかった。
 私を守ってくれる人が欲しかった。
 傍に居て、幸せにしてくれる人を渇望していた。
 そして、カナメは現れた。
 だがそのカナメは、今、死に逝こうとしている。
 私の希望の光は、風前の灯なのだ。
「タツコ、もういいって」
 ドアが開かれ、ハナエが顔を出す。
「タツコ」
 私は、廊下に伏せていた。
 こんな時だって、結局自分が一番だったのだ。その醜悪な精神性に、吐き気がした。
 私は彼女に何一つ与えていない。
 私は彼女に何もしてあげられなかった。
 気持ちばかりでは何の意味もない。
 彼女を救ってあげる事なんて出来ない。
 そんな考えが何周もして、結局自身の生命維持に危機感を覚え始める辺りが、そのふざけた甘ったれぶりを露骨に表している。
「タツコ、立てるか?」
「私、こんな時でも、私が、一番で。カナメ様に、何もしてあげられなくて、悔しくて、でも、何よりも、彼女を失った後の自分が、一番怖くて――」
「そんなもんだよ。全身全霊で他人様の事考えてやれる奴なんかいやしない。ほら、立って」
 ハナエに肩を借りて立ち上がる。私は私がどんな顔をしているのか解らなかった。
 改めてカナメの前に立つ。私はただ、頭を下げた。
「ハナエ、タツコを宜しくね」
「まあ、程ほどに」
「タツコ」
「――はい」
「今日は有難う。顔を見れてよかったわ。それと、お見舞いはこれで最後にして」
「えっ……あ、そ、そんな」
「これ以上は、きっと喋られないわ。寝たきりの私なんて、貴女は観たいかしら」
「でも」
「私は、幸せな記憶とともに滅び去るわ。貴女も、そんな女の子が居た程度でいて頂戴。辛くなったら、ハナエに縋りなさい。貴女は、弱い子だから。きっと罪悪感ばかり抱えて生きるのでしょうから」
 全部全部、見透かされているのだろう。私の浅はかさを知りながら、それでも優しくしてくれるのだ。
 十歳の彼女は間違いなく突然変異であり、故に刈り取られる魂なのかもしれない。
「じゃあ、ね」
 これ以上会話を続けさせない為か、カナメは布団に潜り、目を閉じてしまった。それを無理矢理起こすなんて真似は私には出来ない。私は、常に彼女の掌の上だ。
「タツコ、行こう」
「カナメ様……」
「……」
「カナメ様――」
 ……。
 ……。
 せっつかれ、病室を出る。私は殆ど上の空だった。
 病室を出てからハナエの家に戻るまでの記憶がイマイチ薄い。
 気がついた時には、私はソファの上で天井を見上げていた。脳が、考える事を否定したのだろう。考えれば考える程に、心労はまして行く。引きこもりの切欠となったあの出来事以上に、思い返せば思い返すだけ、胸が締めあげられて英気を絞り取られるような気がした。
「ハナエ」
「んー?」
「どのくらいの駄目さ加減までなら、許容してくれるかな」
「ものによるな」
「じゃあ縋っても良い」
「それは勿論」
「じゃあ頼りにして良い」
「いいよ」
「依存しても?」
「度合いによるかな」
「なんかもう、なんか、何も、考えたくない……ハナエが居なかったら、とうに死んでるかも」
「お願いだから心配されたくて自傷するとか、メール一日五百件とか、そういうのは勘弁な」
「なにそれ、面倒くさい。痛いの嫌い」
「そういうアンタで安心したよ」
「ああでも――死にそう。死ぬかも。私死ぬかも」
「あのなあ……――じゃあ死んでみるか?」
「え?」
 ハナエは真顔で、そのような事を言う。私は意味が良く分からず、目を瞬かせた。
 ハナエが胸ポケットから小さい袋に入った何かを取り出す。それはカプセルに見えた。
「昔裏側のアレで見つけて二つ購入したんだ。一錠でスッキリ一発でイけるやつ」
「……薬事法違反なんじゃ……」
「死ぬ人間がそんな事気にすると思うのか、アンタは」
「それも、そうだけど。でも、それ、何?」
「だからスパッと死ねる奴だ。ほら、一錠やる」
 袋からカプセルを取り出し、彼女は私の掌に乗せる。おもむろに立ちあがった彼女は、暫くの後にお酒の入った瓶とコップを持って現れた。
「なんで、こんなもの」
「何時でも死ねるって思うと、案外世の中楽になるもんだ。今は必要ないが、お守りみたいに持ち歩いてる」
「卑屈な前向き」
「ほら、飲みなよ、死ぬんだろう」
 コップになみなみ注がれたお酒を寄こされる。私はカプセルとハナエの顔を往復して見る。
 ……本気で言っているのだろうか。
「死にたいんだろ、早くしろ」
「あ、や、あの――わ、私は――」
「アンタの信奉する神は死ぬ。それは間違いなく確定事項だ。そしてアンタはその支えを無くし生きる意味を失うという。じゃあ先に彼女が死ぬかアンタが先に死ぬかなんていうのは瑣末な問題だ、現実は揺るがない。首を吊る訳でも電車に跳ねられる訳でもないんだから、痛く無く済む。ぐでんぐでんに酔っぱらってたらそれこそ楽だろうさ。ほら、死になよ」
「で、でもそれじゃあ――ハナエが、捕まっちゃうでしょう」
「そりゃないね。私もあと追うから」
「な――なんで。貴女は、死ぬ事ないでしょう」
「え、やだよ。お金幾らあっても、アンタが居ないんじゃ」
 ――私は、暫くの沈黙の後、テーブルに薬を置く。ただ手元のグラスからお酒だけをあおった。
 強すぎる。喉が焼けるようだった。
「うげっほ、げほっ……なにこれ……」
「うわ、んな度数の酒一気に行く奴があるか――水飲んで吐け、それこそ自殺だぞ」
「死なす為に寄こしたんでしょ!!」
「風邪薬だ馬鹿!!」
「――う、ううう……えぇぇぇ……」
 ハナエに無理矢理引っ張られ、思い切り水を飲まされ、トイレにぶち込まれる。
 自分から喉に指を突っ込んで吐くのは、過食の時以来だった。何度か指を入れていると、胃から朝食が込み上げる。
 強いアルコールと胃液が喉を傷つけるのが解った。
 洗面所で口を濯ぎ、表に出る。ハナエは疲れた顔をしていた。
「粘膜から吸収した分は酔っぱらうだろうな。水飲んで寝てろ」
「なにそれ」
「……何が」
「……なんでそんな試すような事、したの」
「どれぐらいアンタが命を軽んじてるか知ろうと思ったんだよ。相変わらずのヘタレで安心したが」
「――」
「……なあ。タツコ」
「何」
「好き。愛してる」
「今、言う事なの?」
「カナメと話したろう。私は、あの子から、アンタの全部を預かった」
「私、貴女の所有物じゃない」
「そうか。なら、落ち着いたら出てってくれ」
 目を、見開く。
 何か今、最も聞きたくない言葉を聞いたような気がするのだ。
「何、それ。出て行けって」
「言葉の通りだよ。もうウチ来るなよ。預かりはしたが、守る義理なんてないんだ」
「――そ、そんな。ま、守って、くれるって――」
「私の勝手だろう、そんな事。アンタは外に出られるようになったし。大人なんだから、一人でなんとかしろ」
「私の事――嫌いになったの」
「アンタは私を好きじゃないだろう」
 何一つ、反論出来ない。震える手を抑え、私は視線を逸らした。
 そもそも、彼女が義理だてする理由は何一つないのだ。
 私の助言で投資が成功して、成り上がる元手が手に入った、ただそれだけであって、以降彼女が幸福を手にするまでの経緯に、私が関わった訳ではない。
 彼女は自ら現れて、私の世話を焼いた。私のワガママを全部聞いてくれた。好きじゃ無くても良いから、傍に置いてほしいと言った。
 そうだ。
 繋がりなんてものはほとんどない。
 いや、現実に、どれだけ互いを好きあっていようと、契約の無い間柄など、そんなものなのかもしれない。
 私はハナエを頼りにした。今の私があるのは、彼女が飽きず私に付き合ってくれたからである。
 私はハナエに恩義を感じつつも、何一つ返してはあげられないでいた。身体を重ねたのだって、彼女の望みではなく、私が慰めを欲したからである。
 ……あの日から毎日、私はハナエに慰めを求めていた。ハナエの手つきは優しくて、キスは温かかった。こんな面白くも無い身体を愛しいと彼女は言ってくれた。耳元で何度も、好きだと言われた。
 それに対して、私は何も返してあげていない。
 私はハナエに頼るだけ頼って、彼女を何一つ満足させてあげていない。
 元はハナエが迫った関係だが、許容すればそれは同意である。そこには責任が生じる。
 私は義務を果たしていない。
 つまるところ、ハナエが一方的に関係の清算を求めた所で、私の反論など実もない虚しい無責任者の遠吠えなのである。
「う、嘘。や、やだ。は、ハナエ?」
 だが……私の精神というのは、ハナエという支えあってこそ、ある程度の平静があるものなのであると、実感させられている。カナメが死に、ハナエの支えが無くなった場合、その先に待ち受ける私の絶望は、ただ自身の心の中をグルグルと回り続け、澱を溜めこみ続けるだけなのだ。
 防衛反応が働く。
 私は誇りなど無く、恥も外聞も無く、猫なで声で、ハナエに縋りついた。
「う、嘘。嘘っていって。ハナエ――わ、私。ね? な、何でもする、何でもするから――」
「白々しい」
「さ、支えてくれるって、守ってくれるって――い、言ったじゃない。私、だから、あ、安心して――あ、貴女がいなかったら、ど、どうすれば、いいの。お、お願い、取り消して、お願い――」
「お断りだね」
「そんな、そんなぁ――嗚呼、やだ、す、捨てないで。貴女が望む事なら、何でもするから……」
「――本当に?」
「ほ、本当! 本当、絶対嘘なんてつかない」
「じゃあ、私の事、好きだって言ってくれる?」
「言う。好き、ハナエ、好きよ?」
「どのくらい好き?」
「す、すごく好きよ。貴女がいなければ、私、い、生きていけないもの。さ、寂しいでしょう? わ、私が傍にいるわ。一緒に、幸せになりましょう?」
「『カナメ』よりも好きかい?」
 その、質問は。
 果して正常な精神をした人間として、許されるものだったのだろうか。
 生命を預けた愛すべき彼女よりも自分を好いているかという質問である。彼女だって解りきった事である筈だ。それを、あえて、今この場で、告白させる気なのか。
 いや、いや、いや。
 私がハナエを振りまわしたのだ。彼女から来て、私から依存したのだ。私だってハナエは好きであるし、好きだという言葉自体に嘘はない。だが、カナメよりもと比べられた場合はどうだ。
 ――ハナエの片頬が、少し引きつっているように見える。
 嗚呼、そうなのだ。ハナエは、今、私がどのような状態で、どこにも逃げれない事を全部知っていて、口に出させる気でいるのだ。
「――あ、う」
「どうなの、タツコ」
「は、ハナエ、ハナエが……一番好き」
 ハナエの顔が綻ぶ。これまで、見た事のないような優しい笑顔だった。逆に、その裏が疑わしくなる程の、私好みの、素敵な顔だ。
 肩を抱かれ、唇を奪われる。私は否定する事もなく、口を開き、歯を退けた。同時に彼女のざらつく舌が入ってくる。
「はっん、くっ――んっ」
 いつもより強く、息が荒く、激しい。
 吐いたばかりなのに、などと考えてしまう。それは、恥ずかしさというよりも、彼女に嫌がられないかという配慮だった。私の精神は、自身を守る為に、ハナエを選択しようとしている。カナメは自分を気にするなと言い、ハナエは全て預かって来たという。もしかすれば、この選択はカナメの望み通りなのかもしれない。
 しかし、何につけても私の事しか考えていない私は、どうあってもクズである。
「解った。じゃあ、ずっと傍にいてよ。一杯愛したげるから。ほら、服脱いで」
「や――あ、で、でも。ふ、服は――」
「……」
「ぬ、脱ぐ」
「うん。良い子」
 ハナエは嬉しそうだった。酷く酷く、嬉しそうだった。



 ※


 
 私はあまり、ゲームが得意な方ではない。
 クリックするだけ、ボタンをタイミング良く押すだけ、というならまだしも、格闘ゲームはまず勝ち目がないし、ネットゲームでもドロップ運は無い方なので、強い装備も揃えられない為、いつも溜まり場で喋っているだけである。
 特にアクションゲームは苦手だった。ハナエに押し付けられたゲームはアクション性が強く、大きな敵を倒しきれず、時間切れで失敗に終わってしまう。
 別に訓練しようとは思わないし、上手くなろうなんて気は毛頭ない。
 ただ、ひたすらに単純な作業をしていれば、気が紛れたからだ。
 ネットに触れるのも、ここ数日拒んでいる。ニュースサイトを開けば死亡事故、芸能人の病死、学校の虐め問題に、SNSの馬鹿晒しの事ばかりで、なんとも気が滅入る。
「――あ、駄目だ。また負けた。硬い。攻撃通らないや」
 折りたたみ式の携帯ゲームをたたんでベッドに投げ、同時にスマートフォンを手に取って弄る。
 ホーム画面にはメールが二件とあった。二件ともハナエだ。
 私は慌てる。
 基本的に、お互い時間に縛られない生活にある為、緊急を要するような物事が殆ど無い。私がメールをすれば十秒で返信が来るものの、私はそれに付き合う気はなかった。
 だが今は困る。彼女を待たせたくない。冷や汗をかきながらメールを開く。
『今日暇?』
『あ、寝てんのかな。昼食い行こう。前の個室。それじゃなきゃ別んとこ』
 まるで男性のようなメールの素っ気なさだ。
『行く。迎えに来て』
 そのように返信する。返信は直ぐ来たので、一安心する。
 私はあの日、本心は別としても、体面上私の全てを彼女に捧げてしまった。ハナエは全部承知の上で私をカナメから引き剥がしにかかったのだ。当然頼るもの無くばまともに生きられない私が、否定出来る筈もなく、ハナエの思い通りに物事は進んだ。
 酷いと思う反面、安心もしている。悩み続ければ確実に自壊する程度の精神しかない私にとって、ハナエの強引さは何も決められない私にとって都合が良いのだ。
 思う所はある。
 ――彼女の本質にある部分、これは、多少看過出来ないかもしれない。
 そもそも、私の知っている、出会う以前の彼女というのは、執拗で執念深く、敵と見たら許さないような人間であった筈だ。実際逢って会話をしているうちに、それがネットだけの人格なのだと思い込まされていたが、さて、本当のところはどうなのか。
 三日前の事を思い出す。あのタイミングでの告白の強要、私が逃げられない事を知っての強引ぶりは、ネット上でのhananaを思い起こさせる。
「……」
 時刻を見る。そろそろ昼に差し掛かる頃だ。一度ベランダに視線をやってから、私はリビングへと赴く。
「お母様」
「はい、なんでしょう」
「お昼、食べてきます。今日は人混みに耐性をつける訓練です」
「なんだか、いつも大武さんに御世話になっていて、申し訳ありませんね」
「大丈夫です、そういう事、気にする人ではないので」
「大武さんとは、どうなの?」
「どう、とは」
「いえね。大武さん、以前うちに来た時、貴女の事をとても気に入っている様子だったから――」
 それが男性に対する話ならば誰もが納得するだろうが、生憎彼女は女性だ。挙句私の現状といえば、とても一言で説明出来るようなものではない。
 そもそも、私のパートナーとしてハナエを見ている母が意外で仕方が無い。
「あ、えっと。良く、してもらっていますよ。とても良いお友達です」
「別に、良いんですよ。私、貴女が幸せなら、無理に異性を勧めたりしませんし、お父様にも説明しますから」
「お、お母様って、妙に性に対して寛容なんですね。知りませんでした」
「ずっと女子校でしたでしょう。男なんて嫌だって子もいましたし……まさか娘が、とは、思いませんでしたが」
「いやあのその、男性は確かに苦手ですけれど、ハナエはその」
「隠さなくても。だって、タツコさん、もう子供ではないでしょう?」
 バレるものなのだろうか。自分では普通にしているつもりでも、私がもう処女でない事は、他の人から見てあからさまなのだろうか。判断基準が解らない。母のカマカケ、という可能性もあるが……実際、否定肯定、どちらにしても母の反応は同じであるような気がする。
「とても、人間関係が複雑になりつつあって、何でもかんでも、話せないと言いますか……」
「なる、ほど。あ、ごめんなさいね、詮索するような真似をして。ここ最近落ち込んでいる様子でしたから、何かあったのかと」
「……暫くしたら、自動的に解ると思います。では、行ってきますね」
「はい、気をつけて。戻る前に電話をください。いってらっしゃい」
 最近はこのような調子だ。二年半も引きこもった娘が積極的に外へ出ようとしている所を、止める母はいない。大武……ハナエも母から信用されている様子なので、彼女の下へ赴く事に対して、否定感はないのだろう。これが男ならば多少も心配するだろうが、幸か不幸か、子供は出来ない。よほど悪い遊びに興じているとするならば、あのように敏い母だ、直ぐ気が付くだろう。
 健全とは言い難いが、私達の関係は誰に迷惑をかけるものでもない。
 逢って、お話して、お食事して、セックスするだけだ。
 これを恋人と言わず何と言うだろうか。私もその関係を客観的に見た場合の判断を承服してはいるが、了解は出来ていない。
 ……、ああ止めよう。気分が下がる。
 切り替える。私はハナエに会った瞬間から、彼女のタツコだ。
「はーなえ」
「や。おはよ、タツコ」
「一度貴女の家行きましょ」
「あら、このままメシ食わないの?」
「ん。えっちしたいから」
「むっ……でも腹減ったしなあ」
「解った。じゃあ先にご飯ね。貴女のマンションに戻ったらしましょ。最近コツが解って来たの。ディルドって少し苦手だし、おもちゃ無しでしたいな」
「女同士だとどうしてもな」
「頑張るから、ね? ね?」
「ああ、解った」
 自分がどれほど愚かで、どれほど間抜けで、どれほど阿呆なのか、良く理解しているつもりだ。そしてハナエが、後ろ暗い感情を隠し持っている事も、解っている。だとしても、私はこうしてあざとく、馬鹿らしく、彼女好みの女を演じて、それに陶酔して、全部忘れて、彼女に縋りつかなければいけない。
 そうしなければ私は私を保てない。この姿が本来の私であるかどうかなど問題ではない。この肉体が、この精神が、死を恐れるあまりに、どれほど滑稽であろうと生き延びる術を求めている。
 この私は、面白い。まるで他人だ。もう既に、彼女の前で幾ら裸を晒そうと恐ろしくは無く、むしろ興奮すら覚える。彼女と逢う時は外出時こそ上着を羽織っているが、家を出た瞬間から肌の露出が増える。
 隣にハナエさえ居てくれれば、不必要に怯える事もないのだ。
 それを快復とは言わないだろう。完治とも程遠い。完全に、精神を別個にした逃避である。
 それでも良い。何でもいい。
 私はこのヒトに愛して貰わなければいけないのだから。
「――あっ」
「どした」
「……喋り方、変えた方が良い?」
「いつものぶっきら棒なカンジ、好きだよ」
「そう。じゃあ、そのまま」
「なんだよ。カスタマイズしてるんじゃないんだから……」
「貴女の好きな方が良いの」
「別に良いよ、無理しなくて」
「無理じゃない」
「いつものタツコが良い」
「じゃあそうする」
 ハナエの好ましい私、それこそが今あるべき私だ。そこに『カナメ』という要素は介在しない。ハナエもカナメについて言及は避けていた。私も話題に出したりはしない。
 ハナエに『強要』された時、あれほど葛藤したというのに、いざ全てを許してしまえば、堕ちるのも早かった。そして、悩みを心の隅っこに追いやるのも、あっという間であった。
 自身の生命に関わる恐怖は、何もかもを委縮させる。その恐怖に打ち勝ち、前に進める者は限られているのだ。生憎私にはそんな強靭な精神は備わっていない。私は私を守る事を優先した。そして、周りがそれを許容してくれている。
 私はそれが悪だと感じている。客観的にみたら、なんて身勝手で薄情な人間だろうと罵るに違いない。
 だが、これは私に限った事なのだろうか、本当に絶望が目の前にあり、そこに最低限の逃げ道が用意されていた場合、人はわざわざ恐怖に突っ込んで行くだろうか。
 まさか。行くまい。人はそれを自殺と言う。
「信号、止まった」
「そら、止まるだろうさ。ぶっ飛ばして捕まってられるか」
「キスして?」
「い、いやあ――ほら、隣にも車止まってるしだな……」
「いいじゃない別に」
「恥ずかしがり屋って訳じゃないんだよなあアンタ……ああもう、ほら」
「ん」
「……うわ、はずかし。事故ったらどうするんだよったく」
 恥ずかしそうに頬をかくハナエが可愛らしい。最近、彼女の扱いにも慣れて来た。私はどうしても受け手に周りがちだったが、肌を重ねるとは言葉を重ねるよりも雄弁なのか、彼女がどういったものを好み、どういった行動が喜ばれるのか自ずと解るようになった。
 何事も大きく出る彼女ではあるが、その心に抱えるものは殊の外繊細である。
 隣で寝ている時は、必ず手を握ってあげる。
 腰掛ける時は必ず寄りそってあげる。
 ふと寂しそうにしている時に優しい言葉をかけてあげる。
 もしかすればありがちな事かもしれないが、世の恋人同士、夫婦でも、なかなか出来ずに距離が離れると聞く。ハナエという寂しがりは、こういったスキンシップが一番大事だ。
 まだ付き合いも長くない為、今後どういった形になって行くのか、それは解らないが、ハナエに関しては焦らす事なく、与えてあげるのが正解だろう。私も焦らせる余裕がないので、丁度良い。
「何食う?」
「お肉」
「ステーキプレートあったな。海鮮サラダもつけるか」
「私身体細いし、体力つけないと」
「運動しろ。精力ならほら、三丁目のスッポン鍋でも」
「乙女が二人でスッポン鍋ってどんな苦行なの」
「私は良いけどね。そういや、タツコって料理出来るのか?」
「もう暫く作って無いけれど、高校生の頃はお母様に習っていたから、たぶん」
「例えば?」
「中華料理好きだよね。大体出来ると思う。今度作りましょうか」
「じゃあ裸エプロンで」
「中華で裸って。火傷が怖いから、もう少し簡単なもの作る時に……」
「あ、してはくれるんだ……」
「うん、勿論」
「大体の夢が叶いそうだなあ――」
 街中のコインパーキングに車を止め、繁華街を行く。
 初めて二人でここに来た時は痛い目を見たが、今の私には大した問題もない。未来など思い描く必要がないのだ。楽しそうにしている人達、笑っている人達、充実した生活を営んでいるような人達を見ても、自身の不遇と劣等感に苛まれたりはしない。
 手を伸ばし、ハナエの腕を組む。昔、腕組みをして歩いている女性二人組は一体どれほど仲が良いのかと疑問に思った事もあったが、今ならば理解出来た。勿論、それが全部ではないにしろ、相手に一定以上の信頼と好意を抱いているのは間違いないだろう。
 まあ私の場合、もっとえげつないものだが。
「そういえば、貴女って胸、幾つあるの」
「85だけど。Dだよ。ブラみなかった?」
「えっちな下着だなってのは解った」
「趣味で黒いのが好きなんだよ。野暮ったいのはちょっとねえ。アンタのは可愛いの多いな」
「薄くて小さいし」
「そう卑屈そうな顔するなよ。他の誰に見せる訳でもないだろう? 私が好きだから良いんだよ」
「そうか。そうだね。他の人に見せないもの。じゃあ後で下着見にいきましょ」
「じゃあえっちなの選ぶかな」
「ふふ。うん。もう隠れてないのとか、ギリギリ隠れてるのでも良いよ」
「――ふむ」
 ハナエはわざとボーイッシュであったり、メンズに近い服装をしているが、もっと女性らしい装いをすれば、当然男性も寄ってくるだろう。私よりも身長が高いと言っても170手前であるから、男性と並んで不釣り合いという事もない。
 私は未だ、彼女の性遍歴を聞いていなかった。他の女性と比べた事はないが、彼女は上手だと思う。攻めるのも受けるのも好ましい体位で対応してくれるし、初心者の私に配慮するような事が何度かあった。私は日々彼女と心地良くなれる方法を模索しているような段階である。
 当然彼女は処女ではなかったし、積極性も私とは異なる。彼女は家の事ばかりで外に気持ちを向けている暇がなかった時代があるので、考える所その前、つまり高校生も頭か、その前に経験済みという事になるだろうか。しかも、その絡みは恐らく『えっちしちゃったの』程度のものでは絶対にない。
 故に、多少聞くのが恐ろしい部分があった。しかし、好奇心もある。彼女は以前、どのようなヒトと付き合っていたのだろうか。それは男か、女か。
「ついた。あ、どーも」
「いらっしゃいませ。いつものお席が空いておりますので、そちらへどうぞ」
「はいはい。じゃあ早速。コーラとビールとプレート二つ。サラダとスープもつけて」
「畏まりました」
「ゆっくりでいいよ」
 店に到着するなり注文を申し付ける。あれ以降何度か訪れており、私の食いっぷり故の金払いが良い為か、何かと配慮してもらっている。本来カップル席に女性二人など入らないのだが、今は顔パス状態だ。
 いつも通り私が奥、ハナエが手前に座る。
「んじゃ、ちょいと外に」
「あ、ハナエ。いつも席を外すけど、別にここでもいいよ」
 煙草とライターを持って外に出ようとするハナエを引き止める。親しくなれば気にもしなくなるのかと思いきや、喫煙に関してはいつも席を外す。自宅に居ても、彼女は外でしか吸わない。
「煙草臭いし」
「キスで慣れちゃった」
「服に匂いつくし、不健康だし」
「そこまで言うならだけど……不思議」
「あー……うーん。その、ねえ」
 なんとも歯切れの悪い。いつものように論理的に捲し立てるか、適当を言って誤魔化す訳でもなく、言葉に詰まっている。そもそも二十も頭の割に吸い慣れている雰囲気がある。十代からの習慣なのかもしれない。
 彼女の手に握られたライターに目をやる。銀色で厳ついジッポは、到底女性が持つものではない。
「いつから吸ってるの?」
「あんま良くないけど、高校からかな。あ、ヤンキーじゃないんだぞ?」
「……あ、解った。隠れて外で吸うのが好きなんだ」
「解るもんかな。部屋だと逆に吸った気しなくて」
「ウチは誰も吸わないけど、そういうのって誰かに勧められて、ってのが多いよね。家族?」
「――いいや。前の彼女」
 そういって、ハナエは椅子に腰かけ、灰皿を手繰り寄せる。煙草を取り出して火をつけ一服すると、なんともアンニュイな表情をする。私は彼女の、こういう表情が好きだった。その横顔は非常に魅力的で、何か吸い寄せられるものがある。
 しかし、バツが悪そうだった理由が解った。
「いつか聞こうとは思っていたけれど、やっぱり前も彼女なんだ」
「あん時はノンケだったんだけどねェ……聞くの? 本当に?」
「気になるけど。話して嫌な気分になるもの?」
「いや。恥ずかしい思い出だし、タツコヤキモチ妬くでしょ」
「貴女の恥ずかしがる顔って好き」
「参ったね。あー……うん。バイト先の先輩だったヒト。当時は25だったかな。好きなインディーズバンドが一緒でね。一緒にライブ見に行ったり食事行ったりしてたら、何時の間にかホテルにまで行っててね」
「……案外流されやすいんだ」
「え、遠征ライブに付いて行ったんだよ。お金もないからネカフェに泊まろうって言ったんだけど、二人でファッションホテルの方が安上がりだし休めるって言われてだな……そしたらそのまま押し倒されて、私処女だったのになあ……」
 なんとも気恥かしそうに語る。友達だと思っていたら狼だったのだ、警戒心を無くした自身の愚かさも恥じているのだろうが、そこまで後悔している様子はない。
「――無茶苦茶上手でね。なんというか、堕とされたというか、引きこまれたというか。恥ずかしい話だが、ドハマリしてな。それこそまー、暇あればいちゃついていたというか、バイトの空き時間に倉庫とか、トイレとか、そんな所でもしたな。うわ、何言ってんだろ私」
「へえ」
「なんで面白そうな顔してるんだアンタは」
「それで、その人とは?」
「……高校生にして色々教わってさ。男役もさせられて。煙草も、吸ってた方がカッコイイって言うから、始めたの。このライターも貰いもの。ゴッツイし重いのに。その人は、何でも楽しくするヒトでね、私とも、楽しいからシテただけで、本気じゃなかったんだろうさ。バイト止めてからは音信不通、空中分解……挙句私は地獄の介護に大突入だからさ」
 ハナエは中ほどまで吸った煙草をもみ消す。やはり室内では吸った気がしないのかもしれない。
 しかしなるほどだ。そのような出来事があったら、普段の振る舞いもなんとなく理解出来る。メンズ寄りの格好も、元はその人物の所為なのだろう。というか、彼女を構成しているものの基礎は、全てそのヒトなのだ。
「納得したか? まったくの恥さらしだが」
「煙草吸うのもえっちが上手なのも納得した」
「そう嬲るなよ。もう付き合いの無いヒトなんだ。それを言ったら――」
 ハナエが良いかけ、止める。続く言葉は想像出来たが、追及はしない。ただキスだけを求めた。
 ここは良い。個室であるし、誰の目も無い。
 少し煙たい味のするキスだ。いつもと違ったシチュエーション故に、想像力が広がる。
「ここでシてみる?」
「あのな……誰か来るかもしれんだろ。あられも無い姿見られて失神するのアンタだぞ」
「来なきゃしても良いんだ。……ハナエ、えっち好きだもんね」
「仕込まれちゃったしな。調教済みとでも言うかな。酷い話だ。だからねー……一人身の時は辛くて辛くて。今は、アンタがいるけど」
「私達、碌でもないね」
「同意する。碌でもない。碌でもない同士、仲良くやろうな、タツコ」
「んふふ。うん。好き。愛してる、ハナエ」
 好きだの、愛しているだの、実に都合の良い言葉である。その下地に有るあらゆる感情も思惑も、簡略化し、機能的に繕う事が出来る。故に私はこの言葉に頼る事が多い。惨めな私を覆い隠すのに、これほど便利なものは無いからだ。
「ちょい、御手洗い」
「ん、トイレでする?」
「あのなあ……」
「いってらっしゃい」
 手を振って送り出す。私は携帯を取り出して弄り始めた。
 ハナエという人物を解っていたつもりでも、やはり知らない事実を持ち出されると考える所が増える。
 ハナエがハナエたる所以である所の、前の彼女には、一応感謝しておこう。勿論、今現れてハナエにちょっかいを出すというのならば大否定する所だが、今のハナエを構築した事実については評価して然るべきだ。
 大武華江なる奇特な人物あっての私だ、もし彼女が私の前に現れなかったらと、考えるだけでも怖気が走る。
「失礼します」
「あ、はい」
 廊下と小部屋を区切る戸が叩かれ、私はビクリとする。料理が運ばれて来たのだろうか、二人前にしてはやけに早い。飲み物も同時に持ってくるように指示してある筈なので、それもないだろう。
(あ、お冷とおしぼりが無いや)
 ハナエばかり見ていて気にも留めなかった。
 頭を下げて入って来たのはいつもとは違うウェイターである。その手にはやはりお冷とおしぼりが握られていた。
「済みません。御持ちするのが遅れてしまって……ん?」
 何が、ん、なのか。
 誰にでもそうだが、特に男性に視線を合わせたりしない私だ、直接顔を見る事はない。だが、その何か調子づいた『ん』が、非常に聞き覚えがあったのだ。
 思わず、顔を上げてしまった。
 その時、私は迂闊だった。
 大量の視線がない場所ならば多少は安全だとタカを括っていたのかもしれない。ハナエが居る事への安心感から、ここ最近は帽子もサングラスも無く、顔を晒した状態で居た。更にここは個室であり、なおかつ『知り合い』なんてものが近くにいるとは考えなかったのだ。
「――あれ、旗本」
「――あ、う、あ」
 ウェイターは私が誰なのか気が付き、私の苗字を呼ぶ。私も彼が誰なのか解った。
『あの時』私の陰口を叩いていた人の、一人だ。鏑木という。
 鏑木の好奇な目線が突き刺さる。その口元は笑っていた。
 私は眼を見開き、動揺のあまり携帯を取り落とす。
「はっは。おいおい。なんだ、外出れるようになったのか?」
「あ、や、あ、あの。か、鏑木……くん」
「そうだよ鏑木だよ。高校ん時よぉ、あれからお前来なくなって、みんなどうしたのかなー、なんて言ってたぞ。こっちはこっちで疑われてさ、えらい高校生活だったぜ」
「あ、うあ……あ」
 言葉が紡げない。
 全身から冷や汗が噴き出て、顔面が蒼白となるのが見ずとも解る。まさしく血の気が引いている。しかし相反して心臓は異常なほど脈打ち、急激に血液を押し出す。
 まるで心臓発作だ、私は胸元を抑えて蹲る。
 口元が、あの時のままだ。
 薄暗く笑い、人の事を暗に罵り、他人をこき下ろして自身の優越性を示し、くだらない自尊心をひけらかし、話が出来る自分という自己顕示に酔う、ゴミクズの典型だ。
 なんで居る。
 なんでここに居る。
 どうしてこのタイミングで出会う。
 いや、おかしくない。だってここは近所だ。同級生がその辺りに居たっておかしくは無い。彼が一目で気が付くほど、そして私はきっと変わっていないのだ。
 じゃあ、では、私は、観られていたのか。
 他の同級生にも観られていたのか。
 歩いている所を見ながら、私の悪口を言っていたのか。
 私を見ながら笑っていたのか。
 私をダシにその汚い口でツバを飛ばしながらゲラゲラと笑っていたのか。
「は――はなえ……」
 彼女の名が口からこぼれる。鏑木が何事かぶつくさ呟いている。視線が泳ぎ、脳がぐるぐると回り出し、意味が解らなくなる。
「おい。てかココ、カップル席だよな。なんだ、彼氏なんて出来たのか」
「あ、あの、あ、いっ――」
「――その棒きれみたいな身体で。モノ好きがいたもんだな」
 その言葉がトリガーだったか、否か。急激な心的ストレスが消化器を煽っているのが解った。最悪な出来事の前兆だが、私に逃げ場はない。彼を突き倒して走り抜けるような体力はなく、そしてまともに動ける体調でもない。
 それは必然として齎された。
「あっ……あう……うっっげえぇ……ッ」
「うわ、お、おいおい、何してんだお前……ッ」
 撒き散らした。
 手で押さえる事も出来ず、テーブルの上が私の吐瀉物に塗れる。
 呼吸が乱れ、均一に呼吸する事が叶わない。
 短く、断続的に、しかし色濃く確実なフラッシュバックが繰り返し、脳の中を無茶苦茶にする。
 全身が震えだした。こうなってはもう、私自身ではどうする事も出来ない。
 とにかく、どこかに行って欲しい。
 私に近寄らないで欲しい。
 なんで現れた。
 よりにもよって何で当事者がここに居る。
 私に構わないで。
 私に触れないで。
 私を見ないで。
 全部全部お前の所為なのに。
 全部全部お前等が悪いのに。
 私が精神を患ったのも、私が引きこもったのも、私が男嫌いになったのも、何にも自信が持てなくなったのも、コンプレックスが大きくなったのも――こんな私に――お前達がしたのに――ッ!!
「退け!! タツコッ!!」
「あっ、あぐっ……あぐっ……あ、うわあぁっああっ……ああっああっ、あうぅぅぅ……ッッ」
「手前ェ何した!? おう答えてみろ!!」
「な、なに、何って。高校ん時の、知り合いだから――」
「知り合いぐらいでこんなになるかクソが!! 何言った!? タツコに何言った!!!」
「な――にも……」
「クソ、いいから上司呼んで来いゴミカス!! タツコ、ゆっくり呼吸しろ、ああ、ごめん、油断した……」
 呼吸が苦しい。気管に吐瀉物が詰まったのだろうか。それとも、不整脈で血流が滞っているのか。
 私には、判断出来ない。
 ハナエの顔が霞む。黒くなって行く視界の中に、私は一瞬だけ、カナメの笑顔を思い浮かべた。



 ※


 小さい頃、母は私に『大きくなったら何になりたいか』と、聞いた。
 もしかすれば、大体の家庭で行われる、他愛ない親子の会話なのかもしれないが、私にとってその質問はこの歳になってしまった今ですら、時折想起しては溜息を吐かざるを得ない、しかし他愛の無い、どこも印象に残る事のない、意味薄くも心に残る会話だった。
 何故それが未だに残っているのか、当然理由は解らない。脳のきまぐれ、としか言いようがないだろう。
 だが私はそれをいつも思い出す。
 そして今の自分を見て、溜息を吐くのだ。
 大人になれば当たり前のように働いて、当たり前のように結婚するものとばかり思っていた。
 子供はいつも純粋で、疑う事を知らず、そのくせ子供である事を否定したがる、正しく無垢で愚かな動物である。そんな動物でしかない私も他と変わらず、一般的な人間の理想的な歩みを当然と考えていた。
 だがどうだ。
 大人になれば動物は自然と人間になり、人間らしい理性の下人間社会の中で人間として生きて行くのだという漠然とした考えは本来、動物は人間になりえるという可能性を前提とした教育者達の怠慢であり、親達の見通しの甘さであり、価値観を均一化された社会が齎した本当の意味での虚妄的理想でしかないという事を、その身に刻み、思い知る事になる。
 私は大人以前に、動物でも人間でもないのだ。
 勿論、これは極論だろう。私はそれを前提に、良く考える。
 大半が一応は人間になるのだ。いちいち私のような小粒を拾い上げて世話をしてくれる社会など逆に恐ろしい。きっとそんな社会はユートピアを模したディストピアである。
 私は私を助けてと、大きな声で社会に訴えたりはしない。そんな力も、そんな精神も、そんな体力も、そんは発言力も、そんな組織力も、持ち合わせてはいないからだ。
 だからこれは、自己責任である。私は自己責任の下、今こうしているのだ。虚妄的理想から大きく外れてしまった私ははぐれ者であり、親以外からの恩恵を受ける事は出来ず、自立できない私にはタイムリミットが存在し、刻一刻と絶望は歩いて近づいてくる。
 打開策を。
 社会に触れる事すら嫌悪した私には、選択肢は訪れない。
 閉じた可能性の中を、ぐるぐると回り続けるだけだ。少しでも進んだ先に待ち受けるのは、薄暗い未来でしかない。そんな未来が恐ろしくて、ぐるぐると回り続ける。
 外に。
 外に出る事すら嫌悪した私には、選択肢は訪れない。
 終わった可能性を悔やみながら、あったかもしれない未来に想いを馳せながら、希望とは遠い絶望の淵をギリギリで歩いて渡るのである。
 では――では、今はどうか。
 やっと円環を歩き回る事に疲れ、その先へと歩み始めた今はどうか。
 薄暗く、まだ道は遠く、足元も覚束ないが、ずっとずっとその先に、私には光が観えた。ベランダに出たあの日、私にはその光の兆しが訪れていたのだ。
 たった一人の、十歳の少女によって齎された淡く美しい光に、私は歩みを進めようとしていた。
 途中、右から左からと、私を脅かすものが現れては、歩みを止められてしまうが、これらを乗り越えた先に彼女がいるのだと思えば、ずっと気持ちが楽だった。
 手を伸ばす。
 届かない彼女に届く為に。光の向こう側で、彼女は笑顔を湛えている。
 ……笑顔で居た筈なのだ。
 光の肖像が崩れ落ちる。やがてそれは、枯れ枝となり果てた少女の肖像と挿げ変えられた。私の手は落ち、膝は地面に付く。
 我が光は、我が神は、我が女王は、朽ちて果てるのである。

「う、あ、ああっ……」
「タツコさん、タツコさん」
「――あっ……うっ……お、お母様――」
「事前のお話からですと、急激なストレスから来る悪影響を遮断しようと……ああ、目を醒まされましたな」
「あ、あの、お医者様……」
「大丈夫です。一応精密検査は受けて貰いましょう。今日明日は止まって行ってください」
「ありがとうございます……」
 ぼやけた視界に頭を振り、上半身を起こす。なんとなくだが、大体の状況は掴めた。
「――おはようございます。お母様。どうやら、ご心配をかけたようで」
「どうしてこうなったか、覚えていますか?」
「はい、なんとなく……うっ……あの、ここって」
「近くの大学病院です。以前も御世話になった。あ、次回からは女医さんにお願いする事になっていますから、安心してくださいね」
「……ハナエは」
「敷地内は禁煙だからと、先ほど外に……大武さんが近くにしてくださって良かった」
 母はほっと胸を撫で下ろして安心しているようだ。私といえば、まだ頭の中がぐるぐると回っている。
 ここは――彼女が入院している病院か。ベッドの番号を見ると、220とあった。
「私の携帯は」
「はい。どうぞ。ここは通信出来るそうです」
 頷き、ハナエに電話をする。余程気を揉んでいたのか、ワンコールで彼女が出た。
『タツコ、大丈夫か?』
「うん、大丈夫。今日明日は、お泊まり」
『良かった。しかしどうする、訴訟でも起こすか。あいつタダじゃ済まさん。ああ、タツコは証言台に立つ必要がないよう計らうから――』
「いい。もういいの――もう、いいの」
『そう、か。アンタがそう言うなら。落とし前だけつけさせてくるよ。あそこメシは旨いからな――』
「ごめんね、面倒をかけて。今日は、引き上げて、休んで」
『今から行くが』
「……お願い。ごめん。お願い――」
『わかった。思う所もあるだろうが――その、あのな、タツコ』
「解る。何もしない」
『なら、良い。じゃあ、お休み』
 通話を切る。静かな個室だ、会話は母に丸聞こえだろう。
「大武さんから粗方お話は聞きました。同級生に逢ったんですね」
「笑ってしまいます。私、当時と対して顔も変わっていないって事ですよね」
「二年半程度で、変わりませんよ。何を言われたか知りませんが、気にする必要なんてありません」
「やっぱり、男性はダメみたいですね。ごめんなさいお母様、孫の顔は見せられません」
「……そのぐらいの事が言えるのですから、大丈夫みたいですね。ウチに戻ります。お父様にも説明しませんと。今日明日はゆっくり休んでください」
「はい。ご迷惑おかけしました」
 入院セットだろう、母は紙袋を傍らに置き、頭を下げて出て行った。
 母がいなくなると、病室は途端色を失う。元から白ばかりなのは当然だが、空気が重い。窓の外を望むと、住宅地の光がチラホラと見える。時間はもう八時を回っていた。
「六時間近く寝てたのかな――」
 身体をベッドに横たえる。部屋の匂い、シーツの手触り、音の少ない空間の雰囲気、その全てが当時を思い起こさせる。
 私が図らずしも道を踏み外してしまったのは彼等の所為だが――やはり、そればかりでは無いのだ。
 自覚していながらも、懸命に自身の身の細さを否定し、コンプレックスをひた隠し、見ないように見ないようにと努力して来たのだ。彼等の『彼』の私に対する拒絶は、そのスイッチでしかない。
 本来鬱屈していた精神を無理矢理真っ直ぐに矯正しようとした結果、まるでバネのように弾けてしまった。
 本当にただ、それだけの事なのだ。
 私のような精神構造をしている者の悪い記憶は、時間を追うごとにどんどん悪くなる。冷静に振り返れば、もしかしたらもっと、彼等の言葉とてヤンワリしたものだったかもしれないが、今となって、現実が存在して、振り返ってどうにか出来るものではない。わざわざ思い出し、超越しようとして具合が悪くなれば本末転倒である。
 私は頑張っていた。
 頑張りを否定された結果があれだ。だから、私は励ましが嫌いだった。
「ううっ」
 鏑木の顔が脳裏をよぎり、頭を振る。独りは不味い。独りはいけない。要らない事が沢山思い出されてしまう。もう独りは嫌なのだ。気分が下がり、憂鬱で、惨めでたまらなくなる。
 私は即座に携帯を手に取り、ハナエへの短縮ダイヤルを押す、その手前で止まる。
 先ほど突っ返したばかりだ。きっとハナエは気にしないだろうが、私は気にする。
 つい六時間前までならば、私はそのダイヤルを回したに違いない。だが自覚してしまった。
 元から自身が馬鹿な人間であると解っていても、それを改善する事によって産まれる弊害を怖れて、ヒトは認識を止める。目前のメリットだけを得ようとする。私はそのようにした。ハナエにそれを求めた。
 だが自身が馬鹿であるという認識が心の奥底まで沁み込み、滲んでいる今の私には、そのような『馬鹿な行為』は出来ない。
 これは、誰が許可するから良い悪いでは、ないのだ。
「嗚呼」
 なんて虚しく、汚い女なのだろうか、私は。
 独りになりたくて引きこもり、独りで居るのに飽きてカナメを求め、カナメがいなくなったらハナエに慰めを求めた。人間の孤独感などそんなものだと割り切るには無理がある。そも、精神的に誰かに依存していなければ外に出る事も出来ない者など、人間とは呼ばないのだ。
 そうだった、私は動物でも人間でもない卑しい生物だった。しかし、それを肯定出来ないで居る。
「助けて……」
 またそうやって弱い顔を作る。媚びた姿勢を取る。か細い声を上げる。
 私は世の中から溢れてしまった。復帰する努力を無駄と踏んで自らを閉じ込めた。本当は助けて貰いたかったくせに、頼るのが恥ずかしく、頼り相手も見つからず、頼る先に齎される選択肢が恐ろしく、全てを否定しようとしていたではないか。
 母が、カナメが、ハナエが、手を差し伸べてくれたにも関わらず、私はその期待に応えられなかった。何一つ彼女達に対価を支払わなかった。支払っていたとしても、とてもではないが満足などさせてあげられるようなものではなかった。
 今更助けてなど、オコガマシイ限りだ。
 自己顕示を、自己承認を、求めるただそれだけの為にヒトを求めている。相手には何も齎さない。
 布団を被り、ただ孤独に震える。ここは嫌な場所だ。



 悶絶するような不可避の自虐から逃れるようにして意識を絶ってどれほど経ったか。携帯を手に取ると、時刻は十一時を回っていた。電気も何時の間にか消されており、カーテンの隙間から街灯の明かりだけが細々と降り注ぎ、此方を照らしている。
 気持ちは先ほどよりもだいぶ落ち着いたように思える。もしかすれば血糖値の低下が余計不幸な思考を呼びこんだのかもしれないと考え、私は母の置いていった紙袋を漁る。
 紙袋の奥底には飴玉の袋が入っていた。複数種類の中からソーダ味を選んで口に運ぶ。昼食を取る前に嘔吐し、以降何も口に入れていない。
 本当なら誰か来るまで寝ていたいのだが、休まりすぎた身体が睡眠を許容しないだろう。また暗い中要らない思考を巡らせる恐怖を感じた私は、直ぐに枕元の電灯のスイッチを入れる。
 ベッドの上で脚を抱え、中空に目をやり、飴玉を舐めながら呆然とする。また不幸な私を演じている。
『不幸な私』というのは、自己防衛の不完全形だ。
 誰かしらが心配してくれる。可哀想な私を慰めてくれる。しかし同時に鬱屈とした精神はどんどんと心を抉って行く。家族を失った訳でも、不治の病にかかった訳でもないのに、何もかもに絶望し、夢は無く、未来は無く、虚無的な空気に支配され、やる気もなく、上の空で、ただ毎日を無為に過ごすようになるのだ。
 引きこもっていた当初はそれで良かった。まだ外の誰かが心配してくれていた。だが高校も退学する形になり、身近なヒトはどこかへと消え、高校の時の嫌な思い出だけが自家中毒が如く拡充されて行くようになると、不幸な私も通用しなくなる。ではどうするか、それから先、どうやって自己を防衛するか。
 答えは簡単で、もっともっと何も考えないようにする事である。
 それが正答である筈はない。時間は有限であり、私も歳をとって行く。恐らくあのまま何の変化もなければ、感情の波によって産まれる躁を切欠に、鬱へ戻るその瞬間、ベランダから飛んだだろう。
 鬱だからとヒトは死なない。そもそもそんな事をやる気力もないからだ。まして私は私が一番大事だった。故の自己防衛によって齎された引きこもりである。
 そのような意味で、カナメは私の恩人であった。
 私は彼女に希望を見出し、それに縋りつき、未来を見ようとした。カナメがずっと健在ならば、それでも良かっただろうが、私は――持ちあげられすぎた。いや、勝手に盛り上がりすぎてしまった。
 カナメによって産まれ出た希望が今まさに地に落ちようとしている。同時に持ちあがった私の気持ちは、同じくして地面に叩きつけられようとしている。
 鬱ではなかなかヒトは思い切らない。
 だが、持ちあがった精神がまた不幸な私へと変化しつつある今は、その限りではないのだ。
 私には『辛うじて動く気力』があるのだから。
「……――」
 こんな弱い自分が許せなかった。
 こんな弱い自分を後悔ばかりして、決して未来に繋げようとしなかった自分が悔しかった。
 悔しさばかり溜めこんで何もできない私がもどかしかった。
 折角差し伸べられた手を満足に掴む事が出来なかった自分に腹が立つ。
 その腹立たしさをバネに出来ない、自分の弱さが許せなかった。
 思考回路の袋小路に差し掛かる。答えなんてものはない。ただただ、自虐に自虐を重ね、自虐を理解している自分を悔いて、弱い自分を祟るのである。
 私は、もっと馬鹿ならば良かった。
 何も考えず、流されて、言葉を意に介さず、あっけらかんとし、無意味に笑える人間ならば良かった。
「…………はは」
 歯を使って糸を解れさせ、繊維に沿ってシーツを破く。
 いつか見た自殺支援サイトの画像を思い出しながら、私は静かに準備を始めた。単純な作業だ。細く裂いたシーツを編むだけである。器用貧乏だけが取り柄の私には、造作もない。
 己の首を括る縄を編んでいると、やがて色々な事が脳内に浮かんでは消えて行く。
 一番古い記憶は幼稚園の頃だ。
 私は昔から器用だったし、美的センスもあったのだろう、誰の手も借りず一人で描いた絵が、市のコンクールで大賞を取った。皆はうんと褒めてくれた。父や母は当然、大人の人達が皆喜んでくれた。
 小学校の低学年の頃。
 勉強はそこまで得意ではなかったけれど、文章にセンスがあると褒められた。私の書いた短編小説は誉ある賞を受賞したらしく、未だに小学校の誇りとして誰でも閲覧できるようになっている。勿論皆褒めてくれた。私の未来を誰も憂いたりはしなかった。
 小学校の高学年の頃。
 初めて好きな男の子が出来た。大人しく、普通の子だ。私から何かアクションをかけた記憶はない。それは子供の淡い思い出としてただ保管されるだけの、儚いものだ。彼は直ぐ転校してしまい、私は母に泣き付いた。母はゆっくり私を諭し、慰めてくれる。いつか――ずっと貴女にふさわしいヒトが出来るからと、そのように言われたのが、何よりも印象深く残っている。
 中学校の二年生の頃。
 生理が止まってしまった。体重が軽すぎる、肉体的に弱すぎると指摘されたのは、思春期の私にはあまりにもショックだったのを、良く覚えている。母は食事を変えたり、体質改善を促す健康関連のグッズや、出所の怪しい医学博士の書いた本などを集めて必死になってくれた。父はこれに無理解で、暴言に近い言葉を吐かれた。あの時ほど、母が怒った姿を私は見た事がない。
 誰にも相談出来る訳がなく、酷く憂鬱な日々を過ごした。三か月もした頃にはまた戻ったが、やはり、体重や体調が改善するような事にはならなかった。
 思えば、私は中学のあの頃から、何一つ変わっていないのかもしれない。
 高校の頃。
 最初は思いの外順調であった。むしろ、私の周囲は明るく、世界は開けていたようにすら思える。私なる人物の没落は、本当に、たった一つの行動、たった一つの言葉で、回避できたのだろう。
 あの時、彼等の言葉を無視していたならば。
 もしくは、出て行ってぶん殴っていたのならば、今よりももっと、女の子でいられたのかもしれない。私はただの女の子としていられたのかもしれない。未練がましく、しかしどうしてもその後悔だけは消えなかった。
 普通の私、無難な道筋、当たり前の人生。そんなもの、本当に手に入れている人間がいるのだろうか。普通というのは、この上なく恵まれているのかもしれない。だから、つまるところ私の希望というものは、果てしない高望みだったのだ。
 何も映画のヒロインのような人生を望んだ訳ではない。
 白馬の王子様は現れず、代わりに現れたのは高級車に乗ったハスッぽい女の人である。
 まあそれだって、十分に幸運なのだろう。何せあの人は私の言う事を何でも聞いてくれる。私の事を一番に愛してくれる。彼女に縋りついていれば、私はきっと飢える事も憂う事も無い。未来の事は解らないが、当面幸せであれるだろう。
 だが、違うのだ。
 未来がどうとか、今がどうとか、そういう問題ではない。
 幾ら彼女が愛してくれようと、私は私の形が崩れてしまっては、それまでなのである。
 私を形成していたもの、私の存在理由は水木加奈女にあった。
 いつか、ハナエは私に信心について語っていた。
 信仰対象が儚く消え去るようなものであった場合、いざ終末を迎えた際、私の信心は宙に浮かび、それらによって齎される不幸を回避するべく逃げた先に、納得出来る絶対安住などないのだと。
 事実その通りだったのかもしれない。ハナエは確かに逃げ場所を用意してくれていた。彼女も私を愛してくれていた。しかし私はそれに上手く答えられていない。彼女の優しさが、私には安住足りえなかったのだ。
 求め求め、縋りつきながら『これじゃあない』と切り捨てる。
 ああ最悪だ。
 だから、もう、畜生、私は私を私で何度自己肯定しようとも、自分勝手のクズなのだ。
 もうやめろ、もう死んでしまえ。
 良いんだ、元から自分勝手なのだから、残されたヒトの気持ちなんぞ考える必要性がない。これから死に逝く人間が後の事など考えたって不毛なだけだ。
 私は私が大事だ。
 これ以上心を痛めつけて苦しむぐらいならば、もう本当に、何も考えられないよう、脳の活動を止めた方がマシである。
「……」
 編みあげたものを引っ張って確認する。どうせ私のような枯れ枝だ、そこらへんに引っかかったって首ぐらい吊れるだろう。何よりも器用な私が作ったのだ、簡単には外れまい。
 辺りを見回し、縄をかけられる場所を探す。しかしどうも取っ掛かりとなる部分が見当たらない。ベッドの縁に括りつけても首は締まるだろうが、ヘタレの私だ、苦しくなって外す可能性もある。
 私は紙袋に縄を放りこみ、部屋を出る。場所によっては患者がドアを開くとナースコールが発生する所もあるようだが、ここにはそのようなものもない。
 廊下に出て視線を巡らせる。探す必要もなかったか、私の部屋の直ぐ隣には非常階段がある。幸い難しい細工も無く開くようになっていた。
 鍵を外して外に出ると、冷たい夜風が私の肌を撫でる。階層が低い為眺めが良いとは言えないが、遠くの街明りは辛うじて見える。そもそも、これから死ぬのに目立っては困る。
 ただ、やはり、もう少し雰囲気が良い所が好ましいと、その時は思ったのだ。
 重たい身体を引きずり、階段を昇って行く。階段を上った先が処刑台とは、まさにそれらしいなと、漠然と考えた。
「……こんなに昇れるなら、別に縄じゃなくても良かったなあ」
 地上六階にまで上がると、それは相当な高さになる。一応転落防止用に非常階段は堅牢な作りとなっているのだが、人一人がはみ出す隙間ぐらいは存在した。
 何だか乾いた笑いが漏れる。
 あれほど自身を守りたがっていたのに、あれほど暗に助けを求めていたのに、いざここまで来ると、そんなものは一切合財何の意味もなかったのだと、実感出来た。あとは死ぬだけとなると、本当に気が軽くなるのかもしれない。
 毎日こんな気持ちで居られたのならば、私は苦悩せずに済んだだろうに。
 それと同時に涙が零れて来る。
 私とは一体何だったのだろうか。
 なんでこんなにも気持ちが軽いのに、こんなにも悲しいのだろうか。
 まだ私は私を保てると思っているのか。
 まだ私は私が幸せになれると思っているのか。
 そんな都合の良い話があってたまるか。
 ヒトは私よりもずっと努力している。
 あるヒトは、辛い仕事に従事し、上司の小言に耐え、取引先の怒号に頭を下げ、家に帰って溜息を吐く。
 あるヒトは、明日を生きる為に身体を売り、理不尽な要求に耐え、苦しくとも笑っている。
 あるヒトは、食べる事にも事欠き、笑顔も無く、小さな幸福も無く、ただ虚無的に毎日を生きている。
 あるヒトは、ままならない国家に産まれたが故に、生まれながらに地獄を味合わされている。
 相対的に見れば当然、私は幸福だ。
 明日食べる事に困らず、理不尽な要求を突きつけられる事はなく、むやみに身体を売る事はなく、当たり前にして居れば普通に生きていける国と家庭に産まれた。
 ただ、その対比に価値はおそらく、ない。
 どんなに恵まれた環境にあろうと、悲痛と苦痛と劣等感に苛まれ、後悔と羞恥に晒された身と心は、決して人間として生きるだけの強さを持ってはいないのだ。
 明日生きるだけでは、何一つ満たされない。
 自己に対する否定的意見は一切許容出来ない。
 その性質は寄生的で、責任を感じていると思うばかりで何一つ責任を取っていない。
 虚言こそないものの、その自尊心は異常に強く、弱さを繕っているだけで……本当は他人様の事など、何とも思っていないのでは、ないか。
 私は漸く気が付く。
 私は、明確な病気などではなかったのだ。その性質は、悉く精神異常者のそれである。
「なんて可哀想な私。なんて可哀想――ああ、こんな私を救わない世の中は、なんて酷い世界なんだろう」
 七階の踊り場まで来て、足を止める。
 涙で前が良く見えなかった。己の筆舌にし難い精神性に、また自己憐憫が襲う。
 もう何もかも支離滅裂だ。
「――じゃあ、私は何だったのかしら」
 そのような声が聞こえて来るのも、仕方が無いのかもしれない。
 私は顔を伏せたまま、それに答える。
「自分が一番好きだからです。何を犠牲にしようと、私が傷つかない方がよかった。隣で暮らしている十歳児が、楽しそうに声を掛けた来たんです。正直馬鹿らしくありましたが、演技しているうちに、それが真に迫ったと言いましょうか。まあ、何にせよ、貴女の為じゃない。私が楽しかったから」
「――良いじゃない、それで。何か後悔する事があった? 例えそれが何もかも、全部貴女の為だったとしても、相手も満足なら、それで良いんじゃないかしら」
「そうでしょうか。それは相互の利益に繋がったんでしょうか。それであの子は満足だったんでしょうか。私にはそれを確認する術がない。齎された言葉とて信用出来ない。それすら演技かもしれない。私はあの子に依存の限りを尽くしました。そう演じている事で、私の均衡が保てましたから。彼女は重たくなかったんでしょうかね。私がそれやられたら、ウンザリしますけど」
「――そうねえ。おかしなヒトだとは思ったけれど、私は心地良かったわ。貴女みたいな馬鹿なヒトがいると、弱い自分を覆い隠せたもの。だから、互いにそれで良かったのだと思うわ。貴女の感情に偽りはないでしょう。例え全部自分の為だったとはいえ、それを苦に、貴女は今からその縄で首を括るのだから」
「結局誰の言葉も、私の感情すらも、信じられないんです。ハナエはそれを和らげてくれましたが、そんなものは、私の精神異常の隙間を多少埋めただけで、真人間に戻るようなものじゃあない。そもそも、こんなもの、きっと直せない。可哀想でしょう、何一つ信用していないんです、私」
「――不様ねえ。その不様さが、私は好みだったわ。なんて弱くて愚かで馬鹿な子なのかと思って。本当に、心の底から貴女を見下していたのよ。そんな見下される位置にいる貴女が、大好きだったの。愛していたわ。底辺をはいずり回って救済者を求める、自分では何一つマトモに出来ない塵っ滓」
「それを愛と呼ぶんですか……貴女は」
 顔を上げる。そこには何も無い。何もいない。私はただ、独りで喋っていたのだろうか。
 いや。
「――呼ぶわ。私は下々を愛でて、初めて女王なのよ、タツコ」
 八階に到達する。丁度頃合いの手すりを見つけ、そこに縄を括る。
「――愛しているわ、タツコ。私の短い生涯で、もっとも愛した貴女」
 踏み台は要らない。
 階段を上って高い位置に吊るし、下から跳ねて首を吊ればそれで済む。
「――貴女は、光だった。影に住んでいたのに、私には、光に見えたの」
 括り終えた。階段を降り、首つり縄を真上に仰ぐ。先ほどから人の気配はない。例え病院とて、見つかった頃には間に合わないだろう。中途半端になると、下半身不随なんて面倒な事になる。
 死ぬなら一発だ。
「――貴女には、幸せになって、貰いたいの。私の愛でた、一番愚かな貴女には」
 縄を掴む。首を振る。頭をひねる。
「勝手な――」
 首を掛ける為に跳ねあがるも、上手くかからない。
 飛び上がった拍子に、ポケットから何かがこぼれ落ちた。
「あっ――」
 鉄の足場だ、携帯が落ちれば、それ相応の音が鳴る。
 ガンッという音、そして同時に着信があった。落ちた拍子に静音設定が解除されてしまったのか、何の飾り毛も無い、無機質な着信音が非常階段に鳴り響く。
 同時に階下で鉄を叩きつけるような音が響く。ドアを開ける音だろうか、静かな病院では、あまりにもけたたましい。
「こっちか!! タツコ!!」
「あっ――あ、う、うそ――」
「上か!? おい、こら、タツコ!!」
「うそぉ……うそ、なんで、そう……」
 落胆だけが広がる。私はその場に座り込んでしまった。
「――馬鹿ねえ」
 耳元で、彼女の声が囁かれ、やがて消えて行った。私はただ呆然として中空を見上げている。
 ガツンガツンと、おおよそ女の子が立てない音を立てて、ハナエがやってくる。
 息を切らせ、顔を真っ赤にし、目元に涙を沢山溜めて、ハナエは私を掴みあげて立たせると、壁に押し付けた。
「はあ、はあ――、ふう。ああ、だからさ、もう。アンタさ」
「……――」
「タツコ」
「うん」
 瞬間、何が起こったのか良く分からず、また床にへたり込む。頬が異常なまでに熱かった。
 ひっ叩かれたのだろうか。非常階段に乾いた音が残響する。正しく目が覚めるような一撃であった。
「死のうとしたのか」
「うん」
「なんで死のうと思った」
「面倒くさくて」
「何が面倒だった」
「全部」
「具体的にどれだ」
「あの子が死ぬ事と、貴女を好きでいる事、貴女に好かれる事」
「私、そんなに迷惑だったか?」
「ううん……好きなの。凄く。それに、あの子も好きだったの。でも、何よりも、自分が一番好きだった」
「辛いか」
「……解らない。自分が嫌いな事も、自分が好きな事も、他人の言葉が気になる事も、他人を本来何とも思ってない事も、父も母も、アイツラも、あの子も、貴女も、何がどう大切で、どれを一番重視して、最良な自分は何かと考えて、でも答えは出なくて、ああもう、わけわかんなくて、それでも考えて、堂々巡りして、面倒くさくて、それが辛かったのか、それすらも、解らない」
「なんて悲しい生き物なんだ、アンタは」
「蔑んでくれるの?」
「そらそうだ。私より上だったら困るだろう。弱くて愚かで馬鹿なアンタを保護している自分が好きなんだ、私は」
「もう一度打って」
 ハナエは、無言でもう一発、私の頬をひっ叩いてくれた。
 じんわりとした痛み、熱さと同時に、悲しみと充実感が同時にやってくる。
 未知の感情だ。私はそういえば――誰かに何かをきつく叱られた事があっただろうか。まして、人に殴られるような事があっただろうか。記憶にはない。
「どうした、嬉しそうにして」
「もしかしたら、本当に、嬉しいのかもしれない。私、人にぶたれた事ないから。本気で叱られた事なんて一度もないの」
「そうか。それでアンタは満足なんだな。いつでも言え、いつでも叩いてやる」
「私」
「うん」
「価値を、自分で決められないんだと、思う。だからいつも考えが宙ぶらりんとしていて、浮ついてて、形がなくて、雲みたいで、そんな自分が嫌で、そんな自分が正しいと思う自分も嫌で――だから、私は、あの子にも、貴女にも、私の価値を勝手に決め付けてくれる価値観を、欲したのかも、しれない」
「そうか。じゃあ死ぬなよ」
「うん」
「アンタは私の。それで動かない。いいな」
「うん」
「元の所有者も、そろそろ逝くぞ」
「――うん。さっき、話したの」
「そうか。というかな、あの子が逝くってんで、呼ばれたんだ。電話出ないアンタが何しているのかと思ったら、こんな縄まで作りやがって、馬鹿、阿呆、間抜け、クソほど頭悪いなアンタは」
「ごめんなさい」
「ほら立て。いくぞ」
「――うん」
 私の手を引いたハナエは、階段を降りようとしたところで立ち止まる。振り返り、少し上がって私の作った縄を解き、それを紙袋に突っ込む。
「アンタの両親が心配する。これは、無かった事にするからな」
「……」
「アンタが死んだら、私がどうすればいいのか解らなくなる。アンタは、自分勝手な馬鹿で、もしかしたら、他人に全く必要とされていないと思ってるのかもしれないが、偉くでっかい間違いだ」
「貴女は――私が必要? 貴女は、美人だし、お金もあるし、私みたいなゴミクズを、わざわざ拾わなくても、隣には誰かが居て、必要としてくれるでしょう」
「信用ならんもん隣に侍らせて楽しいかよ。まあそういう意味で、今日は裏切られたぞ。人間追い詰まると何しでかすか解らないっての、すっかり忘れてた。お願いだから、死んだりしないでくれ。私に、あの女王様との約束を果たさせてくれ。私から、アンタを奪わないでくれ。どんだけアンタが愚かだって、私には必要なんだ。私の為だ。私のエゴで、死んで貰いたくないんだ。頼む、後生だ、タツコ」
 ハナエは、目元に涙を溜めて懇願する。私はきっと阿呆のような顔をしていただろう。生きてくれ、私と幸せになってくれと、涙ながらに欲されているのだ。私という存在が、人様の生命を握った瞬間だ。
「ごめんなさい」
 恐らく、その言葉は過去どのごめんなさいよりも、真に迫ったものだっただろう。産まれて初めて、ごめんなさいに含まれる意味合いが溢れる程の謝罪だった。
 私の為に必死になってくれる彼女の生命すら、犠牲にしようとしたのだ。
 理解と実感は別物である。どれだけ頭で解っていようと、物事の理を実体験無しに図る事は出来ないように、脳内で幾ら他人などどうでもよいと考えていても、その他人が目の前で泣き出しはじめては、理屈など吹き飛んでしまう。
 私の根元にある精神構造が変わったりはしないだろうが、今までよりもずっと深い感情を得られたような気がするのだ。
「オカルトとか、信じちゃいないが。お前、あの子に止められたぞ」
「……うん」
 階段を降り、カナメの病室へと足を向ける。今しがた逃げ出したというのに、今度は向き合わねばならないのだ。カナメが容体を悪化させなければ、私はハナエが止める間も無く死んだだろう。
 先ほど、私は何者かと対話した。
 オバケとか、幽霊とか、そんなものは生憎観た事はないが、死せる彼女がその精一杯を用いて私を止めたというのならば、私はそれをどう受け取るべきなのだろうか。
 妄想だったとしても、その妄想は何故齎されたのか。
 そんなもの、解りきっているのかもしれない。
 薄暗い廊下を進むと、看護師とすれ違う。以前見舞いに来た時取り次いでくれた人だ。彼女は私達の顔を見ると、静かに頭を下げる。ナースステーションでは数人が慌ただしそうに何かしらの準備に走っているのが観えた。
「死に目にあえなかったか。アンタがくだらない事してるから」
「うん」
 廊下の突き当たり、そこはドアが開いており、中から光が漏れていた。丁度最期の別れの時間なのだろう、医者が部屋から出て来る。会釈し、私達は病室に入った。
「澪さん」
「――あ、タツコちゃん……今しがた……」
「……カナメ様」
 ――今まで生きていた事が嘘のような、それはそれは、虚しい死体であった。
 見舞った時よりもさらに窶れ、以前の面影すらない。あの美しかった少女が、本当にただの物体となり果てていた。
 しかし、これは世辞ではなく、盲信から来る賛辞でもない。彼女の死体は威厳に満ちていた。
 両手を胸に組んだ彼女の姿はどこか神々しく、気高い。その顔も窶れてはいたが、どこか満足げなのだ。
 聖人もかくやという趣きに、私は胸が熱くなる。
 彼女は最期まで女王で居てくれたのだ。
「……澪さん。この写真。御遺影にしてあげてください。私の為に撮ってくれたそうなんです。凄く、良い笑顔なんです。私、この子に、この子に救ってもらったんです。この子が居たから、この子の為にと、外に出たんです」
 手帳から、カナメの写真を取り出して澪に手渡す。放心したような彼女はその写真を手に取ると、胸に抱いた。
「ごめんなさい。澪さん、嘘を吐きました。私、カナメ様を特別に思っていました。大人になったら、私の事を迎えに来てくれるって言ってくれたんです。私にはそれが希望でした。夢でした。未来でした」
 ただ、言葉を紡ぐ。
「最初は演技だったんです。でも彼女と会話を交わしているうちに、私は彼女に尽くす為に産まれて来たんだと思いました。何でもない私をずっと気にかけてくれていました。ずっと慕ってくれていました。私もその恩返しがしたかった。彼女に愛され、私も愛してあげたかった」
 ただ、言葉を紡ぐ。
「まさか、こんなにやせ我慢していたなんて、思いもせず。私は外に出て、引きこもりを治す努力をして、人間関係も、少しだけ広がって、別の女性に、好きだと言われて。カナメ様がありながら、他の女に靡くなんて不貞だと思っていましたけれど、私は私を愛してくれる人が皆好きでした。助けてくれる人が、好きだったんです。自分が一番大事だったんです」
「――タツコちゃん、貴女――」
「カナメ様が助からないと聞いて、私は私を守る為に、このヒト――ハナエに縋りつきました。優しい人だから。カナメ様を失う絶望すら和らげてくれるから。カナメ様は嫉妬どころか、ハナエに全て、預けてしまった」
 手を胸に組んだカナメに手を添える。
 その肉には、元から血が通っていなかったかの如く、温かみは感じられなかった。
 そうだ。
 水木加奈女なる突然変異の女性は、死んだのだ。
「カナメ様は、私を弄って楽しんでいただけだと思います。大人で引きこもりで不甲斐ない私を見下して楽しんでいたのだと。でも、冗談で、私をあんなに愛しそうに、抱きしめてはくれないと、思いました。冗談で、あんな顔をして、真剣に私を想ってくれはしないと。こんなにも酷い人間を、この子は慈しんでくれた――それは、何故です、何故、貴女は――」
 床に崩れ落ちる。
 もう耐えられなかった。
 悲しみはもっと後にやってくるとハナエは言っていたが、そんなものはヒトによるのだろう。あからさまな現実が私を貫くのだ。
 私の存在が、カナメを少しでも幸せに出来ただろうか。
 泣き縋る。たった数カ月、たった一度の触れあいで得た思い出が何度となく脳裏をかすめる。
 あの世界こそが最初の世界であった。
 あのベランダこそが私とカナメの許された場所であった。
「ああっ――あああぁっ――――なんでぇ――なんで貴女はぁっ……!!」
 好奇心と渇望によって生み出された王国が終焉を迎える。
 たった一人の女王と、たった一人の民が治めた王国は、今をもって崩壊したのだ。



 つづく 


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