2013年12月1日日曜日

私の幼い女王様 1、日々


 

 1、日々


 世界との隔たりを感じたのは小学生の頃だった。
 私はその頃から身が細く、骨と皮ばかり目立ち、クラスメイト達からは薄くて平たい五十センチ定規のようだと罵られ、両親からは病気を疑われ、教師からはネグレクトを心配された。
 元から太らない体質のようで、それは中学生になっても変わらなかった。生理も来るのが遅かったし、二次性徴期特有の女子の肥満も、私にはむしろ羨ましく思えたものだ。
 体型の変化が収まる高校生になってからは、その身の細さを女性に羨ましがられる一方、男性としては魅力を感じられない身体らしく、好きだった男の子に『棒きれが歩いているようだ』と陰口を叩かれて以来、私は過度な食事を取るようになった。
 過食と嘔吐を繰り返し、気がついた時には病院だ。
 胃液で喉が焼け、しわがれた声を自分で聞いた時、私は二度と喋ろうとは思わなかった。
 以降、学校には行かず、家に引きこもったままだ。
 社会に悪意など無く、世界は自分など気にしていない。そんな事は百も承知だ。ただ私はもう、人に見られたくはなかった。家にやってくる宅配便にすら逢いたくはなく、両親もここ一年顔を見ていない。
 両親の実家は裕福で、自分達が住んでいるマンションの一室を購入したのも二十代だ。
 私の部屋は直ぐベランダに出られるようになっていて、隣の部屋ともベランダは繋がっている。そこは既に木材とダンボールで塞いであるので、そちらから両親が来る事はない。
 父は殆ど諦めている様子だった。しかし母は懸命で、食事を持ってくる際は必ず五分程度、ドア越しに会話をするように努めてくれている。
 母は私と違って、とても女性的な身体をした人だ。
 胸が大きく、私を産んだ後も体型維持に必死だったようで、ウエストは引き締まり、お尻も魅力的らしく、良く親戚の人達に安産型であると言われながら、苦笑いしていたのを、良く覚えている。
 そして続いて紡がれるのが、私への罵りである。その都度母は怒っていたが、その表情はどこか諦めにも似たものが混じっていただろう。
 私はどんなに頑張ろうと太らないし、生理も不順だ。胸などまな板か洗濯板か、ストンと落ちた先には肋骨がある。皮から浮かびあがるそれを見る度に憎らしく、私は自分の身体をじっくり観察するような真似はしない。元から体毛も薄く、下腹部どころか脇も生えた覚えが無い。
 起伏はなく体毛も少ない身体は、まるで蝋人形かフィギュアである。苛立たしく、風呂場の鏡は割ってしまった。
 自身の姿を確認するものは部屋にはない。きっと頬もコケ、貧相な有様だろう。
 ただ、肌が真っ白、という程ではない。日光には当たるようにと母に言われ、私は一日一時間、必ず外に出るようにしているからだ。
 今日もその時間が迫っている。
 私はベランダの戸を開き、雨戸を引き下げる。人が二人並ぶのがやっとの広さしかないベランダに出ると、据え付けてある白塗りのガーデンチェアに腰かける。
 時刻は午後一時。秋の空は雲一つなく、宇宙が透けるようにして蒼い。
 このベランダこそが、私にとって唯一の外界との接点だ。
 閑静な住宅街にあるマンションの一室だ。昼間の音と言えば、子供がはしゃぐ声や、遠くからのテレビの音、時折聞こえる不愉快な50ccオートバイのエンジン音程度で、騒がしさはない。五階のここから人の姿が目に映る事も無い。外に出ると言っても、このベランダは所詮ベランダで、外の世界とは言い難い。
 しかしこれでも進歩したのだ。
 以前は陽の光すら嫌だった。理由は『代謝が良くなりそう』だからである。
 母がわざわざ買ってきた椅子に腰かけながら、青い空を望む。
 時折視界の端に映る鳥や飛行機を目で追いかけ、また戻してはぼんやりと一時間を過ごす。
 貧相な身体に宿った貧相な発想しかない私には、それ等に何かしらの文学的要素を感じたり、インスピレーションを齎されたりするような事も無く、ただ作業としてこの一時間を受け入れている。
 外はまだ恐ろしい。
 人の視線が怖い。
 喋った声がまだしわがれているのではないかと不安になる。
 彼等彼女等は、きっときっと私なんてものを意識しないに違いない。そもそも、当時通っていた学校では、そこまで否定的に扱われていた訳ではない。あの男子生徒とて、ネタの一例として私の名を上げただけだろう。
 全部解っている。
 みんな私には興味なんてないし、嫌悪感なんて持っていない。
 私の一挙動を気にしている奴なんていうのは、それこそ母のみだ。
 解っている。
 それでも、私には外に踏み出すだけの勇気が、自信が、身体が、無かった。
 いつものように、白痴が如く空を見上げていると、やがて隣の部屋のベランダ戸が開く音がした。時刻は一時半だ。この時間になると、隣に住んでいる家族の娘が一人でベランダにやってくる。
 その子はあまり身体が強い子ではなく、しょっちゅう早引きをして帰ってくる。四時間で授業を終えるのだという。
「いるの、竜子(たつこ)」
 火災時の避難用防火扉越しに、少女の声が響く。透き通っていて、小鳥がさえずるような声だ。
 彼女が呼ぶ強そうな名前は私の名前だ。祖父がつけたのだが、私では竜ではなく、精々肋骨の浮いたタツノオトシゴである。
「はい、神奈女(かなめ)様」
「私が出て来たら、ちゃんと挨拶なさい」
「済みません」
 強い口調で今年二十歳になる私を叱りつけるのは、カナメという小学校四年生、十歳の少女だ。この数年で久しぶりに出来た、肉のある知り合いである。
 友人と言えば専ら顔を合わせない、向こうに人がいるかどうかも怪しいSNSやチャット、ネットゲームでの友人である。自身を晒す必要が一切ない為、コンプレックスを抱える私としては有難い。それが社会的なコミュニケーションと言えるかどうかは別として、少なくともその薄っぺらい精神性を保つだけの役割は果たしてくれている。
 しかし隣に住むカナメは、実際に声を出さなければ会話が出来ない。キーボードでは喋られないのだ。
「今日は天気が良かったわ。少しはしゃいだら、直ぐ具合が悪くなって、まったく不便な身体だわ」
「御自愛くださいませ」
 彼女と滑稽なコミュニケーションを交わすようになったのは、今から三か月ほど前の事である。
 暫く空き部屋になっていた隣の部屋に越して来たのは、母と子の二人だ。
 お世辞にも安くはない家賃であるから、その家の年収を気にしてしまうのは仕方が無い事だろう。
 当然外には出ない私の情報は全て母からである。母の話では、髪が茶色で、化粧が濃く、明らかに夜のお仕事をしている人だという。ただ、色眼鏡を掛けて見ても、偏見に満ちた視点から観察しても、うちの母曰く相当の美人であるらしく、隣の部屋も『パパ』に買ってもらったのではないか、という事だった。
 そんなお水の女が引き連れていたのが、この加奈女だ。
 いつものように日課としてベランダに出ていたある日の事、左隣の部屋のベランダ戸が開け放たれた音を聞き、私は身構えた。聞こえて来るのは母子の声だ。
『今日からここで暮らすのよ。カナメはもう十歳だから、大人のレディだもの。一人で留守番も出来るわね』
『当然じゃない。ママは何も心配しなくていいわ。ママは忙しい人だもの』
『理解のある娘で助かるわ。ああでも、ここは五階だし、ベランダに出る時は気をつけてね』
『ええ。生憎低身長なの、ここは超えられないわ』
『ふふ。じゃあ、お隣さんに挨拶してくるから』
 あまりに異質な会話に、私は耳を疑った。
 会話内容自体は精査する必要も無く単純明快なのだが、十歳の娘は口調が妙に大人びており、演技がかっている。不思議な家族も居たものだなと、その日の日記に書き記したのは記憶に新しい。
 その日から毎日、カナメは学校から帰ってくる度にベランダに出ている様子だった。
 子供とはいえ相手は人間、私は恐ろしくてしかたない。外に出る度に、あちらが出てくるタイミングが被らないようにと願った。
 しかし、流石に毎日同じような習慣を持っていたら、被らない方が不自然だ。私が日光浴をしていると、とうとうそのタイミングが訪れる。
 私は隣のベランダ戸が開く音を聞いて身を固くした。自分は石造であると自己暗示をかけ、決して動かないようにと努める。
 けれども、私という人間はやはり上手く出来てはいない。そんな時に限って大きなくしゃみをしてしまった。同時に、災害避難用の隔て板の先から物音が聞こえて来る。
『誰かいるの?』
 当然私は答えない。子供でも人間との会話は恐ろしい。
『答えてよ。居るのでしょう。そっちに乗り込むわよ』
 乗り込むのだけは勘弁してほしかった。どうあってもそれは避けたかった。顔も身体も観られたくなどない。それならば、しわがれているかもしれない声を出した方がマシである。
『はい』
『いるじゃない。お隣さんね。最近越して来たわ、カナメよ。宜しくね』
『……タツコです。宜しくお願いします』
『何よ、大人っぽい声ね。年上よね、当然。他の大人と態度が違うわ、何している人?』
『何もしていません』
『あー。聞いた事あるわ、趣味でも強要された訳でもなく、家の中に居る人っているらしいし。貴女もその類かしら』
『御推察通りです』
『ここで何してるの』
『日光浴を』
『ああ、家の中にばかりいると、腐るものね。殊勝な心がけよ、タツコ』
『有難うございます』
『ここが貴女にとっての外の世界なのね』
 本当に不思議な子だった。
 突然話しかけて来たかと思えば、母親と会話するような調子を崩さず、私と対話する。とても年不相応な物言いと、年相応の声が酷いギャップを生み、私の中に不思議なカナメ像が形成されて行く。
 それから三か月、私達はこのベランダでこのような実の無い会話を繰り返している。
 立ち場として、常にカナメが上だ。私は彼女が学校で得て来た情報を有難く賜る立ち場にいる。年が十歳離れていようと、外に出ている彼女の方が断然偉いからだ。私はそんな卑屈な状況を、思いの外納得して受け入れている。
「ねえ、タツコ」
「はい、カナメ様」
「そろそろ、顔ぐらい見せてくれても良いんじゃないかしら。平安貴族の女性だって、三か月も男に迫られて毎日会話してたら、チラッと見せてくれるそうよ?」
 一体どこで得る情報なのだろうか。小学四年生にしては高尚で、そもそも私にはそれが正しいのかも解らない。
 彼女というのは実に不可思議な少女で、ゲームやアニメ、漫画と言った小学生が好みそうなものを一切知らない。母親に止められいるのかと思いきや、むしろ母はそれを買って来ては与えるものの、本人が好んで読んだりはしない様子だ。
 会話の内容は専ら学校での出来事と、恋愛と、人の死生と、哲学にもならない答えの無い問答だ。
 私も彼女も、未だ顔を合わせていない。カナメが覗こうと思えば、当然いつでも覗ける距離にある。隔て壁ギリギリに椅子などを置いて、ひょこっと顔を出すだけで、私の顔は窺えるだろう。
 けれど彼女は私が本当に嫌がるような事はしなかった。
「ごめんなさい、カナメ様。私は醜女(しこめ)で、枝のようにか細い身体です。とても人様にはお見せ出来ません」
「それは私が判断する事じゃないかしら。話では、貴女は自分の家の鏡を割って歩いたそうね。もう、暫く自分の顔も観ていないのでしょう?」
「貞子を知っていますか」
「ああ、昔のホラームービーね。最近もリメイクやオマージュが沢山あると聞いているわ、母から」
「正しくあのような姿です。カナメ様に怖れられてしまっては、私は一体誰とお話すれば良いのでしょう」
 そこだ。
 私はこんな状態を、今や楽しみに、それどころか生き甲斐にしている。相手は顔も観えない十歳児だが、それは確実に肉を持った人間であり、ここは外であり、会話はコミュニケーションであり、これは社会なのだ。
 今のところ、私にとっての社会はここにしか存在しえない。もしカナメが私の容姿を恐れて、二度とベランダに出てこなくなるような状況に陥ったとしたら、それは相当の後悔となる。
「いじらしい子ね。そんなに私に嫌われるのが嫌なの? たかが十歳児よ」
「たとい世間が貴女様を十歳児の子供と罵ろうとも、私にとっては掛け替えのない女性です。どうか、御容赦ください」
「私は悲しいわ、タツコ」
 それにしても、今日はヤケに食い下がる日だ。とりわけ聞き訳が良い訳でもないのだが、一度嫌と言えば直ぐ引き下がるのが常であっただけに、これは意外である。
 なんだか久しぶりに心臓が激しく動いている。今にでも、カナメが隔て壁の脇から顔をひょっこり覗かせてくるのではないかと思い、私は腕で顔を隠す。
「ねえ、タツコ」
「はい」
「貴女が自分の容姿を気にして、外に出なくなったのは聞いたわ。そして貴女が、そんなものは誰も気にしていないという認識を持っている事も、聞いたわ」
「はい、そうです」
「私が言うのもなんだけれど、このままではずっと変わらのではないかしら。タツコ、貴女は変化が恐ろしいの、それとも今に満足しているの?」
「解りません。少なくとも、貴女様とお話している時間が、私にとっての全てです」
「あら、嬉しい事を言うのね。でも騙されないわよ。ねえタツコ」
「はい」
「私はまだ十歳だわ。大人になるにはまだしばらくかかるの」
「左様ですね?」
「悲しくも家の中でしか生きられなくなった貴女を迎えに行くには、もう十年は必要だわ。その間もずっと引きこもっているのかしら。十年は長すぎやしないかしら。私が迎えに行くまでに、貴女はもう少し外に目を向けられないのかしら」
「――それは、その、どういった意味でしょうか」
 不覚にも、顔が赤くなってしまった。
 こんな子供に迎えに行く、などと戯れに言われて、乙女が如く胸を高鳴らせるなど、人間としてどうかしているとしか言いようが無い。挙句彼女は女の子だ。
 引きこもりすぎて感性が壊れてしまっている、そう判断されるかもしれないが、こんな気持ちを他人に抱くのは初めてだ。
 頬を撫で、鼓動を抑えるようにしていると、やがて、隔て壁の隙間から、小さな手が出て来る。
 手を伸ばして、その小さな手を握り締める。
「周りの人が、貴女の父が、どんなふうに言おうとも、私はずっと貴女の味方よ。いきなり変われなんていうのは酷だわ。けれども、少しずつ外へと眼を向けるよう、努力しましょう。貴女は私の可愛い下女よ。そしていつか、私に顔を見せて頂戴――ああ、そうそう。これ、わざわざ電気屋さんのプリント機で印刷してきたの、携帯写真」
 一度手が引き下がり、次に出て来た時、そこに握られていたのは一枚の写真だった。
 正面から撮られたもので、撮影者は母だろうか。
 受け取って眺めた瞬間、私の呼吸が止まる。
「どうかしら、良く撮れているわよね」
「……カナメ様、ですか」
「そうよ」
「お美しゅうございます。本当に、見惚れるほど」
 茶色がかった長い髪を前で切り揃え、お嬢様のような白いワンピースを着ている。撮影は夏だろうか。うっすらと日焼け跡が残っており、年相応のヤンチャさが見て取れる。
 大きな目に長い睫毛、主張しすぎない鼻に、ピンク色の唇にはリップがひかれている。
 しかしながら……そんな美しい容姿があっても、その身は異常に細い。
 十歳にしては妙に肉付きが悪く、脚などまるで腕から移植したようだ。
 その痩せ具合がどこか自分に似ており、私は虚しくなる。
「生まれつき心臓が悪いって話したわよね。あまりはしゃげないのよ。食べていない訳ではないのだけれど、食も細いったらないわ。そうね、下品にもいつか牛丼を一人でかっ込むような真似をしてみたいわ」
「カナメ様には似あいません」
「願望よ願望。それで、どう?」
「どう、とは」
「貴女の主人は貴女の眼鏡にかなうかしら。好ましいというのなら、直接見せてあげてもいいわ。当然、同時に貴女を見る事になるけれど」
「それは、その」
「貴女が一番信じているのは誰かしら」
「……母と、貴女様です」
「そうね。母は大事だわ。私も母が大好きなの。でも、母は身内よ。なんだかんだと、家族が一番可愛いの。だから、客観的な評価は下せないわ」
「――はい」
「私は他人よ。まず一番最初の他人から、評価を受けて見たらどうかしら。それが貴女の自信につながるかもしれない」
 言葉に詰まる。理路整然と語る彼女の論理的思考が、とても子供ではない。勿論彼女自身の打算も見受けられるが、話の流れとして自然であった。まさかこんな所に誘導されるとは、私も考えなかった。
 直接『主人』の御尊顔を拝んでみたい。今はただ、手を握る事しか出来ない小さい彼女を、この薄い胸板の中に収めて見たいと、そんな欲求が持ちあがる。
 自分はきっと間違った存在だ。今初めて顔を知った、隣に暮らす幼女に、畏怖と尊敬を抱いている。
 それは家族に抱くようなものではなく、確実に他人、人様に対する気持ちだ。
 三ヶ月間毎日、こうして語り続けたカナメという少女が、一体私のどれほどの割合を占めているかなど、解りきった事である。
 引きこもりでレズビアンで児童性愛者など、お笑いにもならない、が、私にとっての救済は彼女だ。
「少し、考えさせてくださいまし。タツコは、弱い人間故」
「知っているわ。だから、私を強い人間にして。弱い貴女を守れるような大人になりたいの。貴女を守るという決意が出来るだけのものが、欲しいのよ」
「勿体無いお言葉です」
「タツコ。私の可愛いタツコ」
「……はい」
「また、明日ね」
 そういって、彼女は部屋の中に戻って行った。
 気持ちはある。前向きになろうという意思だって、無い訳ではない。ただ、その一歩が、もはや既に枷なのではないかとすら、思えるのだ。
 その他人の、あの子に、否定されてしまったとしたら、否定しないまでも、否定する事を我慢されてしまったとしたならば、きっと私は二度と立ち上がる事が出来ないだろうから。


 ※


 目の前には、部屋の奥から引っ張り出して来た鏡があった。
 祖母から譲り受けた手鏡で、漆塗りのかなり使いこまれたものではあるが、どこか気品を感じさせるものである。当然それは伏せたままで、自分を映してはいない。
 私の部屋は六畳で、床はフローリングだ。南向きにベランダがあり、北はクローゼット、西にパソコンデスクがあり、東にベッドと、必要最低限のものしか置かれていない。そんな部屋の真中に座り、私は鏡と対峙していた。
 最後に自分の姿を確認したのは何時だっただろうか、いまいち記憶がはっきりしない程昔である。少なくともここ一年は見ていない。
 そもそも鏡なるものを意識するのも不愉快で、自身の姿を確認するものがこの世に有る事すら頭の片隅に追いやっていた。パソコンのディスプレイに反射防止フィルムが張ってあったのは幸いである。
 それだけ否定していながら、今更になって鏡などを持ちだしたのも、当然彼女の影響だ。
 もし本当に、彼女に自身の顔を晒さなければいけなくなった時、幾らなんでも数年ほったらかしの自身の顔をそのまま晒す訳にもいかない。焼け石に水ではあるが、一応は整えた状態にした方が良いだろう。
 幸い、これでも『こうなってしまう前は』普通に女子高生をしていたのだ、化粧だってしたし、そもそもは顔にコンプレックスを持っている訳ではなく、身体に持っているものである。
 ただやはり、暫く整えていない顔がどんなものなのか……それを確認するのは、勇気がいる。
 これも部屋の奥からほじくり返したものだが、高校入学当時の写真を持ちだした。額におさまった私は、これからの高校生活にそれなりの期待を持った表情で、母と父に挟まれ笑っている。
 この当時と同じ顔、だろうか。手で触っても解るように、恐らく少しヤツレているだろう。しかし流石に、まだ二十歳だ。心労こそあれど厳しい仕事に付いている訳でもないから、過労で酷い顔をしている訳もない。
 私は意を決して手鏡を握り締める。
 眼を瞑り、手鏡をひっくり返し、薄目でチラリと窺う。
 如何に。私はどんな顔をしていただろうか。
「――くっ……うっ……」
 右目をうっすらと開けて確認。まだ大丈夫だ。
 左目をうっすらと開けて確認。そこそこいけるだろうか。
 ゆっくりと両目を見開き、手鏡を確認する。
「……うん。少し、やつれてる」
 ヤツレている、が、そこまで酷くは無い。
 高校入学当時の写真を見比べればやはり肉は薄くなっているものの、道端を普通に歩いている同世代と比べた所で、きっとそん色はないだろう。恐らくそうだ。
 目の下に多少のクマも見受けられるが、これは隠し様がある。問題は化粧品だが……。
 生憎、高校当時のものがそのまま箱に詰められてクローゼットの中だ。数年前のものを使うのは憚られる。
『タツコさん』
 様々と想いを巡らせていると、ドアの向こうから母の声が聞こえた。私は手鏡を床に置き、そのままドアへと向かう。
「はい、お母様」
『お食事を持ってきました。今日は赤尾の煮付けなんですけれど』
「はい。好物です」
『――タツコさん?』
 母が不思議そうな声を漏らす。いつも通りにしているつもりだが、どこか違って聞こえるのかもしれない。
 母は常に甲斐甲斐しく、私の事を面倒見てくれている。その接し方はほぼ一定で、幼いころから変化は無い。私は母の優しさに触れる度に、自身の不甲斐なさを省みては虚しくなる。
 話し方もずっとこうだ。良いところの娘で、小学生からずっと女子校に通っていた。短大を出た後祖父の勧めで見合いをして、今の父と結婚した。
 家族関係は良好だった。
 母は甲斐甲斐しく、父は良く働く。しかしその家族に罅を入れてしまったのが、私なのだ、申し訳無い気持ちは当然あるものの、どうしようもない。
「どうしましたか、お母様」
『いえ。少し、声が明るく聞こえたもので。良い事がありましたか?』
「……ほんの少しだけ前向きになろうと思いました」
『それは、良かった。どうです、部屋から、出てみては』
「まだ、ちょっと」
『そうですか……何か、協力出来る事があったら言ってください。お母さんはタツコさんの味方です』
「有難うございます。あの、お母様」
『はい、なんですか』
「申し訳無いのですが、お化粧品を、買ってきて貰えませんか。薄めで細かいパウダーファンデと、アイブロウと、ブラウンのアイライナー。薄桃のグロスと……そのほか化粧水や日焼け止め、一式なのですが。あと、髪を切る用の、安いものでいいです、鋏と、すき鋏、それに、ええと、髪止めと、ワックスでいいかな、緩いものを……。自分で割っておいてなんですが、置き鏡があると、嬉しいです」
 そのように伝えると、暫く母からの返答は無かった。ドアの向こうから啜り泣く声が聞こえる。
 この二年半、外に出るような態度を一切見せなかった私が、あまりにも意外な発言をした為に驚いているのか、自身の努力が実りつつあると、そう感じているのか、解らないが、悲しい気持ちではないだろう。
『……パウダーや日焼け止め、化粧水なら私のものがあります。他の物は、今からですと近くのお店では、安ものになってしまいますが……それでもいいなら、直ぐにでも、用意しますね』
「お母様」
『ほんの少しでも進展しているのなら。貴女の気持ちが少しでも和らいでいるのなら。お母さんは無理強いなんてしません。また、貴女の可愛い顔を見せてくださいね』
「はい、お母様。ごめんなさい。愛しています」
『ええ。お食事して、待っていてくださいな』
 思わず涙がこぼれてしまい、私は袖で目元を拭う。私はこんなにも優しく、娘の事を考えている母を困らせ続けて来たのだ。
 母はどんな時だって私の味方だった。私が悲しい想いをすれば慰めてくれたし、良く出来れば褒めてくれた。
 ――どうしてこんな事になってしまったんだろう。
 ドアを開け、トレイに乗せられた夕食を引き取る。
 ご飯を食べながら、こぼれ落ちて来る涙が止められない。私の身体は栄養の一切を溜めこまないように出来ている。病気といえば違うし、貧血になるかといえば違う。兎に角肉にならないのだ。贅肉にも筋肉にもならない。口から入った栄養素は、脳味噌を動かす必要最低限だけを取り込み、殆どがそのままするりと大腸へと抜けて行く。
 どんな不規則な生活をしようと、とんでもない時間にお菓子を食べて甘い飲み物を飲もうと、体重が増える気配はなかった。
 その結果、過食と嘔吐による栄養失調、胃液で喉が焼け、歯が溶けるなどした。
 今鏡を見ると、栄養失調を起こしていた頃よりも断然健康に見える。生憎胸にも腹にも尻にも肉はないが、一番酷かった時期を考えると、私は健康そのものなのかもしれない。
 あの時、私は精神的にも弱っていた。勇気を振り絞って学校に出て行って、陰口を叩いた男の頬でも引っぱたいていたのなら、こんな事にはならなかっただろうに。
 でも駄目だ。それは過去であり、振り返れば苛立たしさと悲しさしか起こらない、不毛な記憶だ。これに立ち向かってよい事はない。精々頑張ったところで、トラウマで動悸が起こり、嘔吐するだけである。
 私は悪意に弱すぎる。そして身体が細すぎる。
(はあ)
 私は食器を片づけてからパソコンの前に向かう。高校当時から使っているものであるから、相当に型落ちしたものだ。とはいえ、有名メーカーの当時でいうフルスペックノートを購入した為、スペックに頭を悩ませた事はない。恐らくお願いすれば、明日にも新しいパソコンを買ってもらえるだろう。
 今考えると、こういう所が普通のお家とは違うのだろうな、とぼんやり考える。
 私は恵まれた方だ。
 インターネットでネットゲームやチャットを繰り返していると、自分と似たような境遇にありながら、もっと悲惨な状況下に身を置いている人物を見かける。それが嘘か本当か解らないが、いつ顔を出してもいる為、真っ当な職に付いていない事は確かだろう。
 私が知る内で一番酷い境遇の人物は「hanana」というハンドルネームの人物だ。
 hananaは私と同じぐらいで、引きこもり歴が五年を超えている。
 酷い視線恐怖症の持ち主で、以前はサングラスとマスクを掛けていれば外には出られたそうだが、今は完全に無理だそうだ。
 実家暮らしで父は酒乱、母は要介護、娘は引きこもり、身体が動く祖母が一人で面倒を見ていると言う。
 父はマトモな稼ぎがなく生活保護を受けており、母は意識こそしっかりしているものの、事故で下半身が動かなくなってしまった。軍人気質で気骨溢れた大黒柱であった祖父が他界してからというもの、ますます家庭内は悪化の一途を辿り、一寸先が正しく闇であるという。
 耳を塞ぎたくなるような状態にありながら、ネット上のhananaは実に元気が良い。

 hanana:竜ちゃんハッケンwwww
 ryu:おはよ

 チャットを立ち上げてログインすると、早速hananaが話しかけて来る。彼女は一日中複数のコミュニティに入り浸っており、複数のチャンネル、ネットゲームにログイン状態で居る。リアルラックと忍耐力が売りで、ほぼ無課金状態で高額アイテムをそろえるなどという真似をやってのける、ネット上での有名人物である。
 彼女はそれを鼻にかける為、当然慕う人間よりも敵の方が多い状態だ。
 私は比較的仲の良い部類に入る。そもそもネットゲームはサワリ程度でドップリはつからず、チャットの延長として用いている。なので、どことも争わないのだ。

 hanana:ねえ竜ちゃん、結局あのネトゲやらないの?
 ryu:んー。皆で狩りとか、拘束されて疲れちゃうし。
 hanana:装備あげるよ? レベリング手伝うし。
 ryu:リアルと一緒で無職キャラのままチャットしてればいいよw
 hanana:え、なにそれ怖い。ま、何? 私より復帰の望みありそうだから引き込もうとしてるんだけどww

 嘘か誠か。彼女はこういう事を平気で言う。私は彼女にだいぶ気に入られているらしく、兎に角良く弄られる。ネットゲームで一人狩りを楽しんでいても、彼女はどこからともなく現れて、敵を引き連れて私のレベル上げを手伝おうとするのだからどうしようもない。
 一度ハッキングを疑ったが、そんな形跡もない。
 顔の見えない相手というのは、無味乾燥であれば恐ろしくも何ともないが、いざそれが色を持って現れると、底知れぬ恐怖を味わう事になる。

 ryu:母上様に、メイクセット一式そろえて貰えるようお願いした。
 hanana:えーwww外出るの? 無理しない方がいいって絶対www外怖wwww怖www
 ryu:まだ出れないけれど。逢いたい人がいて。
 hanana:ネット彼氏?
 ryu:リアルだよ。女の子。
 hanana:うはwwビアンだったのwwwwwww
 ryu:十歳
 hanana:おまわりさんコイツです
 ryu:冗談wまあその、リハビリ的なもの。
 hanana:そっか。外は怖い大人が沢山いるから気を付けるんだよ。
 hanana:友達減っちゃうの悲しいけど。私嫌われてるし。このチャットだって前は沢山いたのにね。
 ryu:自重知らないからね、貴女
 hanana:知っててやってるから性質悪いんだねえwwま、頑張りなさい頑張りなさい。

 それからhananaの発言が途切れる。興味を失ったのだと思い、私はニュースサイトの閲覧を始めた。
 私が社会に出なくとも、世界は常に回って行く。そんな事誰もが解っていても、人間はやはり自身こそが主役だ。その乖離は激しい。
 私は世界から切り離されている。いや、切り離している。
 私が生み出すものは蝶の羽ばたきにも満たない社会影響であり、私が抱くものは空虚で無意味な、どこにも発散される事のない薄暗い感情のみだ。
『タツコさん』
 デスクに手を乗せたまま呆けていると、やがてドアの外から母の声が聞こえる。聞こえるなり私は立ち上がり、ドアの前に正座する。
「はい、お母様」
『用意しましたよ。化粧箱に全て入れておきました。私の使っていたものですけれど、ホットカーラーやドライヤーも用意しましたから、良かったらどうぞ』
「……有難うございます、お母様」
『いいえ。お洋服は……厚手のものを、明後日までには用意しておきますね』
「何から何まで、申し訳ありません」
『私は貴女の母ですから』
 用意されたものを一式受け取り、私は一緒に食器を差し出す。ほんの少し開いたドアの隙間から、母の嬉しそうな顔が覗けて見えた。私の視線に気が付いた母がふと此方を見る。即座に顔をそむけてしまった。
 母親相手に顔も見せないなど……解っていても、こればかりは仕方がない。
「何も、おかしくなんてありませんよ」
「――、ご、ごめ、ごめんなさい。すこし、少し、整えますから……その、近いうちに」
「まあ。本当ですか」
 機嫌がよさそうに食器を下げ、母がリビングに戻って行く。跳ねあがった心臓を抑えるようにしながら、私はドアを閉めて背を預けた。
 なんとも不甲斐ない。
 母でこの調子では、愛すべき彼女に見せる顔など本当にあるのだろうかと疑問を抱かざるを得ない。
 息を整えて、母から譲り受けた化粧箱と、他一式を確認する。
 滑らかな黄土色のナイロン袋に入っているのは化粧水、乳液と日焼け止め、化粧下地などだ。母のもの、とはいうが、あの人は年齢の割に若い為に、使っているものも若者向けだ。着飾れば三十前半といっても皆が頷くような人であるから、私とはデキが違う。
 一方のポーチを確かめる。
 此方に入っているのはリキッドとパウダーファンデのコンパクト。グロスが各色揃っており、アイブロウもマスカラも、注文通り薄めのものが入っていた。
 アイライナーとアイシャドウは使わないものの、筆やビューラーと一緒になってまとめてある。
 恐らく母が予備で持っていたものだろう。統一感は無いものの、私からすれば十分だ。
 両手で小さく抱えるぐらいの化粧箱はどこから持ってきたのだろうか。髪留めやピン、小さいヘヤアイロンや付け睫毛などの小物が揃えてある。
 私は久々の化粧道具を目の前にして、眩暈がした。あの頃はこれよりももっと大きな、自分専用のものを持っていたかと思うと、身が細い身が細いと言いながらも、結構自信を持って女の子をしていたのだなと、意識の違いを思い知らされる。
(あれから二年半か……)
 私が家からでなくなったのは、栄養失調からの回復後、暫く様子見という意味を含めて自宅療養を始めた頃だ。そして家から出られなくなったと気が付いたのは、それから三週間後である。
 普段通り制服を着て学校に行く。その当たり前が、私には出来なくなっていた。
(本当に出来る? 私に? 二年半も自分の部屋に居たのに?)
 ――化粧箱をパソコンデスクの上に置くと、そのままベッドに横になる。
 客観的にみれば大した事のない、しかし当時の私からするとあまりにも酷な、あの情景が思い浮かぶ。こうなると私は、布団を被ったまま思い返さぬようにと堪え、何者かに怯えるかのように身動きもとらず、じっとしている事しか出来なかった。



 ※


 日傘をさしながら、ベランダで外の景色を眺める。毎日変わり映えのない情景だけに、多少の変化でも直ぐ気が付く事が出来た。
 二本向こうの通りにあるマンションの六階に、新しい入居者が来たようだ。
 毎日同じ時間に通る筈の散歩のお婆さんが見当たらない、体調が悪いのだろうか。
 一本先のアパートの窓が全開だ。昼間からお盛んな事で、行為が丸見えである。良い身体の女性だ。
 同じ通りの右正面、三階建ての一軒家。奥さんが来客に応対して迎え入れるが、セールスマンには見えない。あそこは旦那様が単身赴任をしていた筈だから、恐らくそういう事だろう。
 私は双眼鏡を傍に置き、改めて椅子に座る。一時も過ぎた頃から、外を双眼鏡でのぞいて回っている人間があとどのくらいいるだろうか。もしかしたら、私も監視されているのかもしれない。
 でも許してほしいのだ。今のところ、私にはここしか外が無い。勿論誰にも言わないし、悪い事も良い事も、どこに漏れる心配もないのだから。
 やがて隣のベランダ戸が開く音が聞こえる。スリッパを引きずるような音で、直ぐカナメであると解った。
「おはようございます」
「ちゃんと挨拶出来たわね。おはよう、タツコ」
 カナメが隔て壁に寄りそう音が聞こえ、私もそちらに近づく。彼女も向こう側に椅子を置いているらしく、私達は壁を隔てて背中合わせをしている状態だ。何故こんな事をするのかと言えば、カナメの要請を受けたからである。
 手しか触れられないのは寂しいので、せめて壁ごしでも密着できるようにしたいという。気恥かしい話だが、少しマセタ甘えん坊と捉えれば可愛いものだ。問題は私がそうは思っていない事である。
「今日は何かありましたでしょうか」
「隣の席の恵子が、筆箱を忘れたのよ」
「はい」
「私は鉛筆と消しゴムを貸したのだけれど、シャーペンが良いというの」
「なんとも不敬な子ですね」
「仕方ないから私のお気に入りを貸したわ。戻って来たら芯が二本も減っていたけれど」
「ケイコさんはなんと」
「まあでも、笑顔を貰ったから、それでチャラよ」
「カナメ様は御心が広い方です」
 昨日はだいぶと変則的だった。普段はこうして、まず学校で何が起きたかを聞き、私が受け答えをする。その内容は重要視されず、私と彼女が会話をする切っ掛けこそが大事なのだ。
 会話自体を忘れかけていた私は、彼女のお陰で会話の他愛なさを思い出した。長い間引きこもっていると、『どういう話題で話しかけよう』なんていうくだらない妄執に取りつかれる事がある。
「タツコ、今日はどんな加減かしら」
「良好です。お気遣いありがとうございます」
「いいのよ。私も今日は調子が良いわ。元から昼上がりの日だったの」
「左様ですか。記憶が確かならば、昼で切りあげというのは、妙に楽しい気持ちになるものです。カナメ様は、他の子と遊んだりはしないのでしょうか」
「遊ぶとなると、ゲームをするでしょう。私はああいうの苦手なの。外ではしゃぎ回る体力もないしね。ああ、安心して頂戴。嫌われているとか、教室八分にされているとか、そんな事ないわよ」
「存じ上げています」
 身体が弱い彼女は、学校こそ行くものの、他の子と遊んだりはしない。彼女の話が本当かどうか、それを確認する術はないものの、いつも私に報告するカナメ像は、クールな一匹狼だ。時折周りと戯れてはそれを反省する節がある。
 早すぎる中二病、とも思ったのだが、彼女の意見はハッキリしているし、変に幻想を抱くような事はしない。口ばかりの自尊心かと思えば、そうでもない。一度通知表を見せて貰った事もあるが、体育以外は全て平均以上、特に算数と国語は得意な様子だ。
 彼女は周りと違う事を自覚し、それを体現しながら、周囲から邪険に扱われないよう振る舞っている。
「それに、貴女とお話しなきゃいけないわ。何よりの楽しみを、すっぽかせないでしょう」
「有難うございます」
 私は声色で彼女の機嫌と体調を把握する。
 彼女の言う通り、本当に調子が良く、機嫌も上向きである。こういう時はいつも、少しだけ鼻息が荒い。ただ興奮するようなものではなく、鼻から空気がスゥと抜けるようなニュアンスがどこかにある。
 顔が解らないと、こんな事ばかり気にしてしまう。
「私ね、少し考えている事があるの」
「どういった事でしょう」
「大人よ、大人。タツコは私よりも十歳年上で、法律上は大人よね」
「不甲斐ない大人ですが、法律上はそうです」
「そうそう。大人っていうのは、自身の生活を自身で支えられるようになってから名乗れという風潮があるけれど、そんなの核家族化した現代においての話であって、昔は複数人の親族で家を支えるのが当たり前だったでしょう。私この良く分からない大人の定義、凄く嫌いなの」
「現代では自立が大人の指標のようなものなので、仕方がない事だと思います。それにやはり、大人を名乗るなら、自身で食べていけるぐらいでないと、世間が厳しいですし、そのような先入観で育てられた現代人は、自身で食べていけない事を後ろめたく感じると思います」
「貴女はそうなってしまった経緯に詳しいかしら」
「いえ。自主自立は欧米的価値観であるという事ぐらいしか。日本は家長制度がありましたし。儒教国はそうかもしれません。それで、カナメ様はどこが不満なのでしょう」
「私はお父様がいないわ。だから大人の男というと学校の教師ぐらいしか知らない。でもそんな人達も案外子供っぽいでしょう。収入はあるかもしれないけれど、精神的にどうなの、と聞かれた場合答えられるのかしら」
「なるほど」
 細かい事は良く分からないが、兎に角大人というものの意味が漠然としているから、納得する答えが欲しい、もしくはそれで私と会話したい、というだけだろう。
 私もそんな議論しても答えが出ないようなものに対しての造詣など深くない為、上手く答えられるかは解らないが、カナメが納得しそうな理由はいくつか思い浮かぶ。
「近年まで女性が職についていなくても、扱いは家事手伝いでしたが……良く分からない社会学者がニートと名付けて、それが広まり、無職イコール社会的に一切地位の無い人、のようなイメージが先行してしまったように思います。私などは正しくごく潰しで、精神的にはどうか解りませんが、社会的には子供でしょう」
「じゃあ、貴女が家事手伝いをするようになれば、多少はマシに見られるかしら? 違うわよね」
「出来あがってしまったイメージというのは、そう簡単に取り払えるものでは有りません。私が手伝いをしたところで、大人として未成熟と見られたままでしょう」
「貴女の実家は良いところよね。見合い話とかないのかしら。流石に妻ともなれば、家に居ようと大人扱いでしょう」
「以前はありました。ただ、この通りですので。それに、男性は」

『あの棒きれみたいな女、どこの男が付き合うんだよ』
『触ったら折れそうだよな。ゴツゴツしてそう』

「……男性は、しばらく良いです」
「ま、そんな言葉が返ってくるんじゃないかと思ってたわ。結局男によって地位が決められるのよね。悲しい話だわ。でも、それをなんとかしようっていう女性が少ないのも事実じゃないかしら?」
「と、いうと」
「私の母は夜のお店で勤めていて、人気だから、色々な人からお話を聞くのよ。そこで会社のお偉いさんが『女性管理職を増やしたいのだが、なりたがる人がいない』というらしいの」
「……たぶん、責任が増えるからじゃないでしょうか。女性は安定志向になりがちで、抱え込む様な仕事をしたがるのは、ごく一部なのかもしれません」
「そういう考えって、どこから来るのかしら。常識? 教育? 社会情勢? 諦め?」
「複合的な要因が多いので、なんとも。勿論『家庭におさまる』という常識が未だ強いのは、あると思いますが。ええと、それで、大人というものですが。カナメ様はどのような人が大人だと思うのでしょうか」
「お母様は大人だと思うわ。あと、やっぱり子供がいると、大人と思えるわね」
「私などはどうでしょう」
「――ふむ。お友達、という事もないわ。同年代とも思えないけど、でも、大人って言われると、違うわね」
「つまるところ、結局、背負っているものが、あるか、ないか、ではないでしょうか。一概に何を背負っているか、なんてことは解りませんが、やはり守るべきもの、貫き通すべきものを持っている人は、違うと思います」
「大人は、大変ね」
 そういって、カナメは黙りこんでしまった。納得したのだろうか。
 こういった問題は、何かと衝突しやすい。他の誰かと議論しろ、なんて言われた所で私は逃げるだろう。チャットだろうと掲示板だろうと願い下げだ。カナメだからこそ付き合うものである。
「私はどうかしら」
 唐突にそのように言われ、私は視線を宙に泳がせた。
 カナメは……子供らしくないが、何かを背負うには小さすぎるし、小学生だ。
 しかしながら、彼女と会話していると、私は何とも水槽を漂うクラゲにでもなったような虚無感がある。私と彼女を比べた場合、何かを必死に背負おうとしているカナメの方が、余程大人なのだ。
「私よりも、大人だと思います。ただ、社会がそれを認めてはくれないでしょう」
「ふふ。貴女らしい答え。私、そういうカンジ、凄く好きよ」
「ハッキリとした答えの方が、好ましいのでは?」
「生憎外でハッキリしすぎると、煙たがられるものなのよ。社会適正は貴女の方が上ね」
 隔て壁の隙間から、細く小さな手が伸びる。私はそれを握り締めた。
 とても冷たい。私の手よりも幾許かは健康に見えるが、それでも他の子に比べてしまえば細いだろう。そんなか細く小さな手で、彼女は背負おうとしている。恐らくは、自身の誇りを、そして、私をだ。
 彼女は孤高だ。
 たった一人の家臣であり下女であり民である私を守ろうとする、ベランダの女王である。
 こうして手を触れる事すらも畏れ多い筈なのだ。
 私は常に、彼女から許され、与えられる立場にある。社会不適合者の妄想と罵られようと、意思薄弱者の逃避と言われようと、こればかりは、私は譲る気など一切ない。
 私という人間を認め、私の存在を保障し、私の精神衛生を守り、私に意味を与えてくれる彼女は国であり王であり、法を敷く神である。
 初めて出会って打ちのめされて以来、私の心は彼女に服従している。
 十歳児にして聡明で、誰よりも大人になる事を望んでいる彼女を、私は慕い続けたい。そしてなるべくならば、彼女の要請にも、答えてあげたい。民ならば、尽くさねばならない。
 今まではその奉仕は会話であり、問答であり、こうした触れあいであった。当然それでは足りぬと解っていても、私にはどうする事も出来なかったのだ。
 私は彼女の顔を直接見たことがない。彼女もまた、私を見たことがない。
「私は、立派な大人になりたいわ。貴女を虐げる人から守れる人間になりたいの。でも、その望みを叶えるには、時間がかかりすぎる。その間、貴女と離れてしまうかもわからない。貴女は泣いていたわ」
 思い出す。彼女に出会って一か月経った頃の事だ。
 彼女や母との会話で心が明るくなる半面、外に対する興味と同時に、嫌な思い出が想起されるようになった。それは上向きになる精神と対になり、下方へ修正しようとする。
 行動、言動が過去の出来事に結びついて想起される、人間である限りは避けられない脳の働きは、逃避中の私にとって絶大な威力をもって迫りくるのだ。
 ……あの日は酷い土砂降りだった。
 ベランダを超えてやってくる雨を傘で受けながら、私は隔て壁の端で蹲っていた。日に日に高まる自信と、それを押しつぶそうとする保身の心にもがき苦しむ。そんな日は部屋に引きこもっていれば良いものを、私は外に出ていた。
 おそらくカナメに救いを求めたのだろう。しかし、彼女はいつもの時間になっても現れなかった。
 降りしきる雨の空を眺めながら、思い出したくも無い過去を追想し始める。こうなってしまうと、どうする事も出来ない。呼吸が止まりそうになり、心臓がドクドクと脈打つ。
『なんでお前が』
『聞いてたのか』
『だってよ、瀬能、ほら、返事してやれよ』
『旗本さん……その』
 彼等との会話がリフレインし、脳と心臓が押しつぶれて一緒になってしまいそうだった。座っているのに眩暈がし、椅子から落ちそうになる。
 傘がベランダの床に落ち、雨が直接私の肌に当たる。
 頭を抱え、身悶えし、そのまま飛び降りたくなるような後悔と絶望が襲う。
 もう終わった事、などという慰めは何一つ意味はない。私のような人間は小さい事を何時までも、昨日の事のように覚えていて、思い返すたびに絶望的な気分になる。
 助けてほしい。ワガママである事は重々承知している。辛いのならば誰かに相談すればよかった。けれど私にはそんな甲斐性も無く、ただ笑顔で人様に振る舞う事しか出来なかった。
 己の細い身を呪う。
 己の小さい心を呪う。
 自責の重圧は決して消える事なく、終わる事なく、私を圧迫し続ける。
『タツコ、タツコ』
 そうだ。だから私には、救済者が必要だった。面と向かって慰める訳でも、同情する訳でなく、まるですっかり私の面倒くさい欲求を汲み取るような、そんな都合の良い救済者を求めていた。
『タツコ、泣いているのね。好きなだけ泣くと良いわ。私は決して慰めない。同情したりもしないわ。私にはそんな資格も経験も無いのだから。でも傍には居させて頂戴。私に出来る精一杯はこれしかないの。さあ、手を伸ばして。私の手を触れて。貴女の私はここにいるわ。今日は遅れて、ごめんなさいね』
 隔て壁の隙間から伸びる細く、神々しいその御手は、正しく福音である。
 私はただそれに縋りつく事だけを望みここに居た。
 彼女は安っぽい言葉で慰めたりしない。
 知りもしない辛さを分かとうともしない。
 彼女はそこに居て、私の存在を認めてくれる。
「タツコ、どうしたの」
「あ、えと。何でもありません。失礼しました、カナメ様」
「いいのよ。ずいぶん愛しそうに私の手を握るものだから、少しドキドキしたけれど」
 頬を撫で、意識を現実に振り戻す。私の手には確かな感触があった。
 人の手だ。それは幼く、細く、頼りなく見えるかもしれないが、私にとっては唯一無二の救済だ。この細い手が愛しい。この先にいる彼女が愛しいのだ。
「あの日の事を思い出していました。情けないお話です」
「馬鹿を言っちゃいけないわ。私は、貴女に必要とされる人間になりたいのよ。だからこれは、実に好ましい事だわ」
「有難うございます。本当に、有難うございます、カナメ様」
「ええ。いつでも言って。こんなか細い手が貴女の為になるならば……」
 何かを言いかけて、カナメは手を引いてしまった。多少不思議に思ったが、長い間壁に張り付いていたら、腕も疲れるだろうと納得する。
「……それで、最近はどうかしら。少しは、顔を見せる気になった?」
「お母様に、化粧道具とお洋服をお願いしました」
「まあ、本当に? 外に意識を向けるだけでも、余程の進歩だわ、貴女も賢明になったのね」
「近いうちに、はい。頑張ろうと、思います。顔は元から、視線恐怖症でも、ありませんし。ただ、ブランクがあるので、なんとも」
「……急いてしまったかしら」
「とんでもない。カナメ様のご厚意あってこその、私です。いつかはそのような日も来るのではないかと、考えていました。ただその、相変わらずあまり肌は晒せないので、ご容赦ください」
「ふふ。何も裸になれなんていってないわ? 見せてくれるというのなら喜んでみるけれど。ま、そう構えない事よ。私だって人様に見せられる程、健康的な身体はしていないわ。腕も脚も細いし、肋骨は浮いているし、今後胸なんて出るのかしら」
「お母様を見て、私も小さい頃同じような事を考えました」
「貴女のお母様、とても女性的で美人よね。お父様も美丈夫」
「逢った事が、あるのですか」
「ええ。貴女、私をどこの住人だと思っているの? ネットでも夢の国でもなく、隣の家よ?」
「左様でした」
 小さい笑いが起こる。あまりにも現実からかけ離れた彼女が、まるで別世界の生物のように思えてしまうのも、全てはこの隔て壁故だろう。
 この薄い壁の向こうには、身は細かれど可憐な乙女が居る。我が女王が坐しているのだ。
「少し、ワガママを聞いて貰っても良いでしょうか」
「何かしら。貴女から何か求めるなんて、初めてね」
「大変不敬な事だとは承知の上です。もし、私の精神が恐怖よりも貴女に対する敬愛が上回り、あらぬ行動をとってしまったとしても、許して貰いたいのです」
「それは、私と顔を合わせて、貴女が感極まってしまった場合の事、で良いのかしら」
「――はい」
「むしろ望ましいわ。そうして頂戴……今日は、この辺りで失礼するわね。タツコ」
「はい」
「……急かしてごめんなさい」
 スリッパを引きずる音、そしてベランダ戸が閉まる音が聞こえ、私は眼を瞑る。
 確かに彼女は最近急いていたかもしれない。だが、それが私に対する好意の現れであると考えると、酷く気恥かしい。私は両手でだらしない顔を隠す。
 もし、彼女に顔を合わせ、そして彼女が受け入れてくれたのなら、私にはもう、怖いものなど一つも無くなるのではないか、そんな期待がある。
 当然それと同等の不安もあるが、あの愛らしい彼女をこの両手に抱けるとしたならば、きっときっと、私は前に進める気がするのだ。
「これは」
 これは、どのような『よろこび』なのだろうか。
 どのような『不安』なのだろうか。
 私は、今後彼女と――どう在りたいのだろうか?



 ※



 私はベッドの下の収納からゴミ袋を取り出し、机の上に乗せる。母が持ってきた置き鏡は、確かリビングにあったものだ。そこそこの大きさがあり、バストアップまでしっかりと収まる。
 それを恐る恐る覗きこみながら、私はまず髪を切る準備を始めた。最後に切ったのは三か月前、工具鋏で適当に切り揃えただけであるから、その野性味あふれる頭髪加減は筆舌に尽くし難い。
 クローゼットから小さめのレジャーシートを持ちだし、それを自分の足元に敷き、ビニール袋の底に穴を開けて、頭から被る。
「……なんとも滑稽な」
 生憎美容院でチャラチャラとお姉さま方と会話しながら髪を切れるようなスキルは持ち合わせていない。不格好でも自分でやった方がマシだ。
 部屋の端からちゃぶ台を持ってきて広げ、置き鏡を据え、その前に座る。
 恐る恐る鏡を覗きこみ、徐々に耐性と姿勢を整える。
 カナメには貞子のようになっていると言ったが、あながち外れでもない。ゴムを外すと、私の髪は腰に届く程あり、何か河川敷の雑草地帯を連想させる。後ろ髪は後に回し、まずは前髪に取りかかる。
 眉を通り越しているならまだしも、量が多いのでこれは邪魔だ。
 慎重に鋏を縦に入れながら量を減らして行く。
 部屋には普段聞き慣れない、ジョリ、ジョリ、という音だけが響く。
 そんな事をしていると、酷く自分が馬鹿のように見える。どうせ外に出る気も無い癖に、体裁など整えてどうするつもりなのか。たった一人の隣に住む女児に顔を見せる為にやっているのだから、考えれば考えるほど何とも言えない気持ちになる。
 少し、梳こう。
 前髪を人差し指と中指に挟み、梳き鋏を入れて行く。あまり梳きすぎるとマヌケに見える為、これはほどほどだ。納得行く薄さにまで整えて、次は揉みあげに取りかかる。
 私は何かと器用だ。具体的なものに特化はしている訳ではないが、手作業で下手を打った記憶は無いに等しい。中学時代の美術だって家庭科だって、筆記も実技も満点だった。
「セミロングぐらいでいいよねえ……」
 傍らにある高校時代の写真を眺めながら、当時を再現するようにして伸びきった揉みあげを切り取る。パッツリと揃えてしまわないように、その手元は慎重そのものだ。
 ざらざらと頭から被ったゴミ袋を伝って、私の髪が床に落ちて行く。
「ん……器用で良かった……あー……」
 改めて鏡を見る。前側ならば何とでもなるが……やはり、後ろ髪はそうも行かない。精々梳いて減らす程度で、毛先を揃えるなんて真似は難しい。しかし他に頼るのも、引けてしまう。
 母にお願いすべきだろうか。しかしそれでは顔を合わせるどころの話ではない。ましてスッピンでは。いや、どちらにせよ、久しぶりに顔を見せる母にお願いするのは、気が向かない。
「うー……うー……」
 置き鏡とにらめっこしながら、自身の顔をまじまじと観察する。どうする。母にそこまで躊躇っていて、一体誰に顔向け出来るというのか。私はいつから顔面に対する視線恐怖症など患ったのか。閉鎖空間での自室警備はやはり精神を悪化させ続けるのだろう。
 身体どころか顔まで見せたくないとなれば、今後生きて行けない。未来など考えるだけでおぞましいものの、こんなちっぽけな恐怖感に身を捩り続ける人生など真っ平御免だ。
(大丈夫、少しヤツレただけ……母だって何とも思ってない。むしろ、ほら、おとといは嬉しそうにしてた。私の顔は怖くも酷くもない。私は普通。私は普通。私は普通私は普通――)
 散々と悩み、私はゴミ袋を被ったまま、手に鋏と櫛を持ち、顔に美顔パックを当てたまま、部屋を出る。
 リビングまでの距離が妙に遠く感じられた。私は母の後姿を確認すると、半身を壁に隠して声をかける。
「お、おか、お母様……お願いが、あります」
「――た、タツコさん? まあ、なんて格好?」
「す、済みません。可及的速やかに、この事態を解決したいのですが……」
 リビングでテレビを見ていた母は、その目を見開いて我が娘の奇行に驚いている様子だ。それもそうだ。鋏と櫛とゴミ袋を装備して顔面は美顔パックである。夜道で出会ったとしたら間違いなく走って逃げたくなるだろう。母も少し顔が引きつっている。
「え、ええ」
「後ろ髪を、少し切っていただきたく……」
「解りました。ええと、敷くもの……新聞紙ですね」
 母は頷くと、直ぐに準備を始める。私は敷かれた新聞紙の上に正座し、鋏と櫛を手渡した。
 まるでこれから首を切り落とされるかのような気持ちだ。
「どこまで切りましょうか。お母さんは、長い方が好きですけれど」
「セミロングくらいに……して頂けると、有難いです」
「かしこまりました、お客様」
 そういって母が私の髪に鋏を入れ始めた。ここ暫くでは考えられない大決断をした私は、ずっと心臓が早鐘の如く鳴り響いている。胸に手を当て、ゆっくり呼吸しながら成り行きを見守る。
「……懐かしいです。昔は私が切っていましたものね。洒落っ気が出てからは美容院ばかりでしたから、少し寂しかったんです」
「ご迷惑をおかけしています……」
「いいえ。それにしても、タツコさん」
「はい、お母様」
「――何か、心変わりするような事がありましたか。勿論、私はとてもうれしいのですけれど」
 母の疑問はもっともである。昨日まで毎日変わり映えのない引きこもりを続けていた私が、突然外に意識を向けるような素振りを見せ始めたら、誰だってそう思うだろう。
 ただそれはやはり外部的な感覚だ。
 内部的、つまり私やカナメの意識から行けば、意外とはいえひっくり返って驚く程でもない。純粋のそういった感情を口に出さず、母にも話さずいたからだ。
 二年半、殆どを家の中で暮らして来た私が抱く感情と言えば、両親や祖父母に対する罪悪感であり、世界から乖離して行く焦燥感であり、未来に対する漠然とした不安であり、思い通りにならな自分に対する憤怒に憎悪だ。
 外に出るくらい何ともない――そういった当然の意識の中に暮らしている人間からすれば、部屋から出ない人間の心理など理解不能だろう。私とて最初はそう思っていたし、引きこもり初期も、一か月もすれば落ち着くものだと考えていた。
 だが日数を追うごとに、薄暗い室内で育まれてしまった仄暗い感情が肥大化してしまうのだ。
 社会から離れてしまった自身を、周りがどう感じているのか。
 こんな細い身の人間は、外に出てまた嘲笑されるだけなのではないか。
 初期段階はこの程度だが、そういった意識が段々と外へ足を向ける気力を奪って行く。
 こんなに長い期間引きこもった人間、外に出た瞬間笑われるのではないか。
 暫く人と話していない。会話とはどうするものだったのか。
 発声を忘れた。冗談のようだが、本当に忘れた。
 そもそも、私の声は未だしわがれているのではないのか。自身で発した声を聞くのも怖い。
 相変わらず肉は増えない。むしろ減ってさえいると思える。
 肌はきっと真っ白だ。柳の下の幽霊も裸足で逃げ出すだろう。
 中期辺りから、自身に対する認識を極度に恐れ始める。周りの人間が全て敵に見えるのだ。私はこの辺りから父とも母とも会話を交わさなくなり、軽度の鬱状態にあった。
 幸いだったのは、それが重篤化しなかった事だろうか。
 躁鬱ではなく、低さを一定に保っている為、自殺など考えなかった事、引きこもりに偏重して例え夜でも外に身を晒すような真似はしたくなかった事、痛いのが極度に苦手だった事だ。
 結果自室に引きこもる幽鬼が出来あがった訳だが、大事にはならなかった。
 そして何より、母が諦めを抱きながらも、決して私との会話を途切れさせないよう努力してくれたのは大きいだろう。母との会話が、私の一応の人間性を保たせ、母の提案である日光浴が私の精神の加減を整えていたのだと思う。
 そして、彼女の存在だ。
「――隣の子」
「……ああ、水木さんの娘さんかしら」
「とても、良い子で。あの、お母様、私、声、変じゃありませんか」
「ええ。綺麗な声です」
「よかった。その、カナメさ……カナメちゃんは、とても大人びていて、良い子です」
「ベランダで会話しているのですか?」
「聞かないで貰えると……」
「そこで仲良くなったんですね」
「はい。まだ、顔を合わせた事はありません。でも、あの子がどうしても、私の顔を見たいと」
「そうですか……」
「お母様?」
「いいえ、なんでもありません。このぐらいで良いですか、タツコさん」
 母はそういって会話を止め、私に鏡を差し出す。私の器用さは母譲りだ。丁度好みの長さに切りそろえられており、私は少し嬉しくなって頷く。
「外に出るようになったら、もう少し延ばしましょう。お母さん、髪の長い子が好きなんです。機能的じゃないって、お父さんは言うんですけれど」
「お父様は、効率主義ですから」
「シャワー、使って流してください」
「はい。有難うございます、お母様」
「……ふふ。こんなに貴女と触れあったの、何時ぶりかしら」
 髪を梳いて整えてから、母は私を背中から抱きしめる。母のふくよかな身体が温かく、同時に虚しい。
 何故私はこの人の娘なのに、こんなにも貧相な体つきなのだろうか。父だってガタイが良いし、双方の両親もまたこんな体つきの者は一人も居ない。
 私は一体どこから来た人間なのだろうと、良く考える。
「骨ばっていて、痛いですよ」
「そんな事ない――そんな事、絶対にないです」
「――お母様?」
「貴女は、私の宝物です。私の可愛い可愛い娘なんです。卑下したりしないで。貴女はどこもおかしくなんてない――」
 母の啜り泣く声が、心臓を圧迫する。まるで臓腑を握り締められているようだ。全身の血管が開き、汗が噴き出す。
 母を泣かせてしまった。こんなにも優しい母を泣かせてしまったのだ。きっと今回ばかりじゃない。母は私の知らない所で、様々な重圧に耐えて、涙を流しているに違いない。
 ――何をする訳でない、何もしないからこそ――私は母を悲しませている。
 自然と流れた涙を拭おうと顔に手を当てると、美顔パックが床に落ちる。私はそのまま両手で顔を覆った。
「お、お風呂。お風呂に、入ってきます。お、お母様」
「うん……うん」
「私――私、頑張ります。まだ、時間は、かかるかもしれませんけど……わ、私、お母様、ごめんなさい。お母様に、笑顔で居て貰えるよう、頑張りますから」
「不甲斐ない母でごめんなさいね」
「そんな事有りません。お母様がいなかったら、私きっと、とっくにこの世に居ません」
 抱きしめる母の手をそっと退け、私は立ち上がって風呂場へと向かう。
 きっと限界が来ているのだ。
 母も、娘を支え続ける事に、きっと疲れきっている。
 明確な解決策は一つしかない。私がまた、当たり前のように外を歩む未来である。
 これは転機だ。
 母と、カナメに齎された、これを失ってしまった先には何も無い、それほどの、転機に違いない。
 将来への不安が明確な形を持って現れている。
 二十歳という区切り、ここを逃した先に、きっと私の幸福など存在しない。
(ほんの一歩でも、踏み出さないと)
 期待されているのだ。当然重たいが、この程度を背負えず生きていける訳がない。機会という機会を引きこもる事によって潰した私は、同時に自身も押し潰して来た。吐き気がするような将来なる漠然とした恐ろしいものから逃げる為であった筈なのに、それはまるで真綿で首を絞めるようなものである。
 丁度、その真綿も圧し切り、私の細い首は折れかかっているのだ。
 母に、カナメに、このたった二人に認めて貰うだけで良い。今はそれで良い。
(たったそれだけでいいから、ほんの少しでいいから)
 服を脱いでバスルームに入る。ごく一般的な、シャワーと湯船がついた風呂場だが、唯一おかしい点といえば、鏡に暗幕がかけてある事だろう。私は私の体を見るのが嫌で、家の鏡を割った事がある。特に風呂場は念入りに細かく割砕いた前科があった。
 流石に風呂場に鏡がないのは不便なので、今は暗幕がかけてある。
 風呂というのは自身の細い身を直視してしまう為憂鬱だが、そうも言っていられないので、さっさとシャワーを被る。
 高校の頃から変わらず使っている、取り寄せ限定のシャンプーとトリートメントは、何だかその匂いを嗅ぐ度に昔の事を思い出す。良く油分を落とす、だとか、しっかり成分を沁み渡らせる、だとか、そういった事は考えず、切ったばかりの髪を洗い流す。
 しかし一瞬、不思議な事だが、自身の髪を流し終わった後、自然と鏡を探してしまった。暗幕のかけられた鏡を見つめてから、自身の腹部に目をやる。
 体が観える。客観的に見えてしまう。それは、止めよう。今、折角前向きな気持ちに水を差しかねない。
 ボディソープで凹凸の無い、いや、骨と皮で凹凸が出来た体を洗いながら、鏡を割った時の事を思い出す。
 そんな滑稽な真似をする娘を見ながら、父は何も言わず、淡々と割れた鏡を片づけていた。
 父は常に、私がこうなってからというもの、私に対して何も言わない。
 ただ無表情で、言葉の一つもかわさない。しかしそれは無言の圧力で、本心ではどのように思っていたのかは解らない。
 母も父については何も言わなかった。私がまともだった頃は仲が良かった二人も、私が引きこもると同時に父も仕事が忙しくなり、すれ違いが続いている。
 また、あの時のようになれるだろうか。大人の人間関係は、そんな簡単に戻ったりはしない。例え娘がまともになったところで、引き摺るだろう。
 けれど、切っ掛けにはなるのではないか。私がたった一歩踏み出すだけで、機会は産まれる筈だ。私はたったそれだけの事すらしてこなかったのだから。
 風呂からあがって体を拭き、着替えてから私は洗面台に向かう。普段なら通り過ぎるだけの洗面台も、今日はそうも行かない。
 化粧水を付けて顔を整えるなんて真似をしたのは久しぶりだ。
 幸いかどうか、肌が荒れるような生活はしていなかったし、日光浴をする間も日傘をさしていたのでシミ一つない。多少コケた頬を嫌々撫でながら、私は自室に戻る。
 部屋に戻ると早速置き鏡と睨めっこを始める。心なしか、昨日よりも顔が明るいような気がした。
 眉は昨日切り揃えた。産毛も剃ったし、輪郭を邪魔する余計な毛も切ったので、サッパリとしたものである。少し手を加えるだけで自分でも見られる顔になったという事実は、やはり嬉しい。
 ドライヤーをかけながら高校当時の写真と見比べる。痩せはしたが、その雰囲気は大差ない。
 乾ききった所で髪をピンで止めてから、私は顔を弄り始める。
 日焼け止めを薄く塗り、パウダーファンデを薄く叩くだけで発色が良くなる。左右に顔を振りながら調子を確かめ、昨日減らした眉をアイブロウで描いて行く。
 あまりインパクトの強い顔ではないし、濃い目の色が似あう顔でもないので、化粧は最低限だ。幾ら外に出るのが怖いとはいえ、顔が別人になってしまっては塩梅が良くない。
 アイシャドウとて最低限、マスカラはどうするべきか悩んでから、止める事にして、ビューラーで持ち上げる。睫毛は元から長い方だ。
 高校当時は外に出るとなると少し強く化粧したものだが、今となってはそれが滑稽だったのではないかと少し心配になる。
「グロス……は、うーんこれかなあ……」
 肌色に近いピンク。無難だろう。まさか真っピンクを付ける訳にもいかないし、私の顔には合わない。
 当時のメイク法を思い出しながらであるから、一つ一つ時間がかかってしかたない。勿論急かされている訳ではないけれど、これが二年半のギャップかと思うと少し憂鬱になる。
「……先に服着れば良かった」
 有る程度整えた後、自身がパジャマのままである事に気が付く。髪を後回しにして、私はクローゼットから高校当時に来ていた私服を引っ張り出して並べる。秋口であるからして、そこまで厚着は出来ないものの、私は肌を晒したくない。
 私の趣味、母の趣味は大体合致している為、自分で購入した服も、母が購入して来た服も、大体がどこかお嬢様風味で安っぽさがない。私の安っぽい顔から考えると多少ギャップはあるものの、高校当時はそれで満足していたので、クローゼットに収められているものは、シックだけれどワンポイントが強烈なものか、ヒラヒラが多いものか、どちらかだ。
 当時とはだいぶ意識の違う今、どれを選ぶべきか。
「これは……ウエストがはっきりしすぎ。これは、胸が。こっちはお尻。……あ、ワンピ」
 クローゼットとは別に据えられた服が数着ある。これは母が買って来たものだ。
 少し大き目で黒を基調にしたワンピース。スカートの縁と襟、袖に白い細目のフリルが付いている。ウエストこそ締まっていないものの、やはり胸は気になるので、これはパットで何とかしよう。
 ブラは……2サイズ大きいものだ。パットを固定出来るものを選んで胸に詰め込み、これを収める。昔から、これをするたびに虚しい気持ちになる。
 中に白いシャツを着て、そこにワンピースを被り、足のラインを何とかする為、膨張色の白ニーハイソックスを穿く。
「あ、案外いけるかな……こんなに整えたの、凄い久しぶりだし……」
 姿見がないのでいまいち全体像がはっきりしないものの、酷いものではないという確信があった。
 改めて置き鏡の前に座り、母が寄こした髪留めの中から、黒い鼈甲のものを選ぶ。桜の柄が幾つもちりばめてあり、恐らく祖母から譲り受けたものだろうと解る。
 年季が入っているものの、高級感があるのは流石良いところの娘だ。
「……う、む。全身が解らない」
 柔らかめの香水を薄くつけてから、自身の服を翻しつつ、どうなっているか確かめる。置き鏡では全体が観えない為、玄関の姿身を確認するしかない。
 私はそっと部屋を出て廊下を行き、母を気にしながら玄関にまで赴く。
 ぎゅっと目を瞑ったまま姿見の前に立ち、ゆっくりと開いて自身の姿を見定める。
「――うん。うん。うん――うん」
 どうだろうか。自身の記憶にある、あの頃だろうか。やはり細い。それは仕方ない。あの頃だって細かった。しかし、髪ぼさぼさでパジャマで疲れた顔をした私とは、かけ離れたものになっている。
「あら、タツコさ――」
「お、お母様」
「――ちゃんとお化粧も覚えていたんですね。服も、良く似合っています」
「は、はい」
「身体のラインが隠れるから、丁度良いと思ったのですが、どうですか」
「え、ええ。大丈夫です」
「……可愛いですよ。ほら、こっちに来て、良く見せてください」
 母に連れられ、リビングに赴く。
「え」
 そこには……朝になって帰宅した父の姿があった。
 私は息が止まりそうになる。私が化粧をしている間に帰って来たのだろうか。
 父は此方を見ると、その目を見開いた。
「タツコ、か」
「は、はい。お父様……その、あんまり、見ないでください」
「何を言うか。ミチ、これは?」
「外に出る努力を、するそうです。アナタ、見てあげてください。ほら、うちの娘は、こんなに可愛らしい」
「――」
 父の言葉が恐ろしい。
 父は私に対して、何も言わなかった。その無言の圧力が、恐怖以外の何ものでもなく、どんどんと怖れだけが肥大化していったように思える。
「タツコさんは、変なんかじゃありません。少しだけ臆病になってしまっただけです。あの時、私達はこの子を支えてあげられませんでした。もっと上手く立ちまわれていたのなら、娘を部屋に閉じ込めるような真似はせずに済んだ筈です。アナタも、それを後悔していたじゃありませんか」
「そう、だが」
「アナタのプライドが高いのは、知っています。でも、お願いです。今なんです。やっと顔を出してくれた、この子に、この子に報いるのは、今なんです」
 父と母の間に、どのような事があったのか、引きこもっていた私には解らないし、母もそれを語らなかった。ただ良好で無かった事は確かであるし、それは私が原因である事は理解していた。
 しかし、もっと明確な、具体的な、私と喋らなかった理由がある。
 父はプライドの高い人だ。
 生まれながらにして何不自由なく暮らしてきて、勉強も出来た。仕事とて順調である。
 家柄が良く、学歴が良く、妻は美しく、自身もまた美丈夫だ。
 そんな彼が受けた唯一の傷。
 人生における汚点、それが、私だ。
「……願いです。アナタ。この子を見てあげてください。アナタの子です。私達の可愛い娘なんです」
「――ミチ」
 その汚点を、外に晒したく、なかったのだろう。
「タツコ。久しぶりに、顔をみたな」
「……はい」
「その。母さんに似て、お前は美人だ」
「お、お父様?」
「俺は、お前にどう接してやるべきなのか、まるで解らなかった。言い訳でしかない。勿論解っている。だから許してくれとは言わん。俺は父親として、娘のお前に向き合おうとしなかった」
「お父様はその、良く出来たヒトですから」
「ああ。生憎劣等感なんぞ理解出来ん。それが元でな、部下にも嫌われっぱなしだ」
 何においても上の方上の方を歩んで来た父だ、下の考えを理解しろという方が無理なのかもしれない。まして二十歳になって引きこもる娘の精神性など、どれほど考えた所で共感は不可能なのだ。
 ただ父が懸命なのは、それを解っている事だろうか。
 だからこそ……余計な事を言わず、娘と会話すれば衝突か、傷つけるかどちらかだと理解した上で、あのような態度をとったのかもしれない。
「アナタ」
「だが。前を見るというのなら、引っ張り上げるぐらいの心持はある。やる気のない人間を幾ら盛り立てた所で意味がないというのは、誰でも解る事だ……いつでも言え、外に出たくなったら、働く場所ぐらい用意する。勉強がしたいのなら、夜間に通え。私に出来る事は、働き口の紹介か、金を出す事ぐらいだ」
 引きこもって以来、久しぶりに父の声を聞き、父の顔を見た。
 強い口調ではあるが、悪意はなく、むしろ自責すら感じさせるものがある。私をこうしてしまったと、心の底では後悔しているのかもしれない。
 全部私が悪いのに。
「ごめんなさい、お父様」
「いい。結果を出せ……いや、これがいかんのかな、すまん」
「ううん。そんなこと、ありません。私は、お父様が立派な人で、尊敬しています」
「タツコさんは、良い子ですから。ねえ、アナタ」
「――ああ。お前は可愛い、私達の娘だ、タツコ」
 私は、いま、一体、どんな立場に立っているのか、良く分からなくなってしまった。
 本当に、昨日まで部屋から出る事すら怯えていた人間だったのだろうか。
 門は常に開かれていて、周りの人達は元から何も拒んでなどいない。社会は私など気にしておらず、そんな悪意は満ちていない。
 全部解っていた筈だ。それを理解した上で引きこもっていた。なのに表へと出ようとしなかったのは、きっと自身のくだらない自尊心が、本当の意味で理解などしておらず、自分可愛いあまりに周りを犠牲にしてまでくだらない精神性を保とうとしただけなのかもしれない。
 父と母が、私の肩を抱く。
 折角化粧をしたのに、涙で流れ落ちてしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 
 
 
 ※



 その日、二年半ぶりに家族で食事をとった。
 父はテレビを見ながら食事をするような人でも、喋りながら食べるような人でもないというのに、今日ばかりは父が私に何度となく話しかけた。
 内容は父らしい。最近噂になっているSNSでの犯罪暴露をどう思うか、一体どんな精神性があったらそのような莫迦な行いをするのか、若い子達を指導するのに一番効果的な方法は何か、若者のコミュニティ形成が自分の頃とどう違うのか――大体は、若者に対する問題である。
 私は社会に属していないので体感的な意見は一つも言えないものの、客観的な立場から若者を見る若者、という意味を気にしていたらしい。
 まだ父と喋り慣れていない為、だいぶ途切れ途切れな会話となってしまったが、父はそれでも納得してくれた。母は終始、そんな話を横で聞きながら笑顔で居た。
 明日の朝食の仕込みをする母の横で洗い物をしながら、私はぼんやり考える。
 こんなにも、容易い事だったのだ。
 勿論、私は家族に恵まれていたからこそ、まだいささかの緊張はあるものの、こうして家族に顔向け出来ている。
 しかし恵まれているかどうかなど、一端離れた場所から窺わねば、思いの外解らないものなのである。
 世の中には筆舌に尽くし難い家庭環境を抱えた人々が暮らしている中、私という人間が幸いにも組み込まれた家族というのは、それらに比べれば驚くほど裕福で、幸福なのだろう。
 特に父だ。父は食事の後、問題があったとかでまた直ぐ会社に戻ってしまった。
 昔から厳しい人であった。ルールが守れない、社会不適合、そういった人間を悉く見下していたので、引きこもった私など、本当に害悪としか見ていないものだとばかり考えていた。
 当然腹の内など解ったものではないが、ちゃんとした言葉で、私という娘の立ち位置をハッキリと認めてくれた事は、私と、そして父にとっても幸いだっただろう。
 形だけだっていい。本心でどう思っていようと、構わない。どうあろうと、彼はちゃんと娘として、会話してくれたのだから。
「洗い物、終わりました」
「はい、ありがとう。お茶、飲みますか」
「頂きます」
 パジャマで、髪ぼさぼさではなく、整えて、化粧をして、着替えた状態で食卓にいる今が、不思議でならない。ブックスタンドに立ててあった女性誌を手に取って食卓で眺める、なんて行為を自然としていると、まるで高校生の頃に戻ったような感覚がある。
 そうだ。何も特別なものはない。私はあの時までちゃんと、女の子だったのだから。たった二年半で、その全てが崩れさる筈がない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 母からコーヒーを受け取り、フレッシュを二つ、角砂糖を三つ入れて掻き回す。昔からこういった飲料に混ぜる砂糖やミルクの量は多い。
 母が前に座り、機嫌の良さそうな顔を向ける。
「お父さん、ちゃんとお話してくれましたね、タツコさん」
「はい。……少し慣れませんけれど、でも、今までがまるで、嘘のように前向きです」
「お着替えしたり、お化粧をしたり。少しでも社会に関わろうという姿勢が、気持ちを盛り上げるのだと聞いた事があります。私は専業主婦ですけれど、こうして毎日お化粧もしますし、お洒落もします。それはやっぱり、いつでも外に出られる、という意識と自信が付くからですし、お父さんにブサイクな所を、見られたくないといった気持ちでもあります」
「お母様は元から美人です」
「気を抜くと、何時の間にか歳をとってしまうものだと、お母様から教わりました。私だってもう四十も前半ですからね。幸い、若いと言ってもらえますけれど」
「大変な事ですね、女性を、保っているというのは」
「はい。お父さんは体格が良くて顔も良い、私には勿体無いくらいの旦那様です。お見合いですから、ライバルが出現する間もなく結婚してしまいましたけれど、本当だったら取り合いになったでしょう。今だってそうかもしれない。だから、気は抜けませんよ」
「――お父様は、その。浮気とか」
「……んふ。あれで、奥手なんですよ。私が初めてだったそうです。私もでしたから、初夜はなんとも、気恥かしかったのを、良く覚えています……って、娘にする話じゃあありませんね」
「いえ」
「ただ、慣れというのは恐ろしいもので、普段だったらやらない事も、慣れて来ると意識が散漫になったり、ルーズになったり、マンネリ化してしまったり、するものです。だから、私はお父さんに飽きられないように、四方八方手を尽くしているんですよ。女性というのは、兎に角、面倒な事柄が多いんです」
「ごめんなさい。そこに、私の面倒事まで加えてしまって」
「……今日は、安心しました。お父さんからもちゃんと言葉を貰えた。本音かどうかは別としても、あの人は口にした事を曲げたりはしません。プライド、高いですからね。ねえ、タツコさん」
「はい」
「これから、少しずつ外に出る訓練をしましょう。人に見られても大丈夫となったら、学校に通えるようにするのも良いですし、就職というのならば、お父さんが何とかしてくれます。結婚だったら、恐らく、おじい様が直ぐにでも」
「あ、や、あ、そ、その……男性は、ちょっと」
 口にしてから、しまったと思う。コーヒーを一口してから、小さく母の顔を窺う。
「……やっぱり、男性が怖いんですね。いえ、解っていた事ではあります。過食の原因が原因でしたし」
「面倒な娘で済みません……」
「いいえ。貴女が一番幸せになれる手段を、探してください。私も当然、お手伝いします……そういえば、お隣の水木さんのお子さんですけれど」
「あ、はい。カナメさ……カナメちゃんですね」
「どうしますか。まだそんな遅い時間でもありませんし、この流れで、顔を合わせに行くのは」
 壁掛け時計に目をやる。時刻は七時半だ。恐らくカナメの母は働きに出ているだろう。カナメはあの年よりずっと幼い頃から夜は一人で過ごして来た。そんな環境が、今の『あんな』彼女を作りあげてしまったのだろうか。
 しかし、今か。それは、どうなのか。
 確かに、外に出て変な格好ではない。だが、二年半のブランクは、玄関から外へ足を踏み出す事を良しとするだろうか。
「勿論、無理強いなんてしませんけれど」
「い、いえ。折角です。少し、その、ええと、五分戻らなかったら、迎えに来てください」
「サバイバルに出掛ける訳でもないでしょうに……」
 そう、それが普通の感覚だ。けれど私からすれば、玄関の外に踏み出すなど未踏破のジャングルに装備なしで突っ込む様なものである。しかし、せめて玄関の外ぐらいには行けないと、今後お話にならない。
 私はコーヒーをぐいっと煽ってから、勢い良く立ち上がる。ゴミ袋をまとめてある箱からスーパーの袋を取り出すと、それをいつでも開ける状態にしてポケットに詰め込んだ。
「それは、何を?」
「精神的圧迫に堪えかねて、吐き気を催す可能性が」
「そう、ですか」
 母の心配そうな目線を背に受けながら、私は玄関にまで赴く。姿見でもう一度身嗜みを整えてから、下駄箱から高校の頃まで履いていた靴を取り出し、二年半ぶりに足を通す。
 玄関の扉に手をかける。自分でも驚くほどに、心臓がバクバクと音を立てていた。
 ノブを捻る。ほんの少し隙間風が入り、私の服を揺らす。瞬間閉じる。
「うわ……うわ……うわ……」
 外ならいつも出ていたではないかと、己を説得する。
 そうだ、ベランダと大差ない。ただ、もしかしたら帰宅した同じ階の人と遭遇するかもしれない、というだけの事だ。面識はあるかもしれないが、大丈夫、私の事など気にしていない。気にしていない。気にしていない。気にしていない。気にしていない。
 もう一度ドアノブを捻る。隙間風が入る。
「うう」
 ツバを呑みこみ、上がって来るものに耐えながら、私はドアを玄関戸を開け放った。
「……ッ」
 込み上げる。慌てて戸を閉め、ゴミ袋を顔の前に構える。
 先ほど食べた夕食が丸々出てしまった。酸っぱくて、臭くて、気持ち悪くて、嫌になる。
 過食していた頃が想起され、尚更嫌な気分になる。
 突如襲い来るフラッシュバックに、私は頭を抱えた。
「た、タツコさん」
「ぐぅー……うぅぅ……大丈夫です。大丈夫」
「大丈夫な訳がありますか、戻ってください」
「こ、これ。このままだとこれ繰り返さなきゃいけないんです」
「……と、いうと」
「これを、玄関の前に来るたびに繰り返して……『今日はダメだった……』『また明日がある……』なんて言い始めるに決まっているんです……私、そうやってずっと逃げて来たんですから」
「け、けれど。顔、真っ青ですよ。無理は……」
 背中をさする母の手のぬくもりが、今の自分にとっては恐ろしいほどの誘惑である。母の許しが全てを許してしまうからだ。
「お母様は、優しいです。凄く優しくて、綺麗で、ふくよかで、私の理想の女性です……私は、お母様みたいになりたかった。でもなれません。貧相で、小さい精神しか持ち合せて無くて、卑屈で、棒きれです」
「……」
「こんな人間です。でもお母様は優しいので、逃げ道を作ってくれます。それに頼ってしまう。でも、もう、いいんです。立ち止まる事に、手を貸さなくて、いいんです、お母様。なんかもう、本当に、嫌いなるぐらい滑稽ですけれど、私今、必死なので、今逃げると、どうせまた次の日次の日と先延ばしにします。先延ばしにして、玄関まで来て、また吐いて……そういうの、駄目なんだと思います」
「タツコさん……」
「玄関を出る出ないで、自身の将来とか、展望とか、そういうの語るには、虚しすぎますけれど……今、今出ます」
 ゴミ袋の口を縛り母に預けてから、口元を袖で拭う。買ってもらったばかりで汚れてしまって申し訳ないが、そんな事も言っていられない。
 今を逃すと、虚弱精神の私は同じ事を繰り返す。
 繰り返した先にあるものはいつもの諦めだ。
 どうせ私は玄関の外にも出れず、愛しい人に顔向けも出来ないような人間であると悪い方向に達観してしまう。
 それでは駄目だ。
 もう追い詰まっているのだから。
 追い詰まったのならどうにか、別の行き先を見つけねばならない。
 そしてその行き先は、また薄暗い穴倉のような部屋では駄目なのだ。
 いつまでもベランダの民では、カナメの期待にも沿えない。
 鼻を啜る。
 涙目になりながら、もう一度玄関戸を押し開く。
「くふっ……ぐっうう……」
 こみ上げて来るものを飲みこみ、開け放たれた戸の先に、足を踏み出す。もう一歩踏み出す。
 戸がバタンと閉じられた。
「うへ、うわ、気持ち悪い」
 秋の夜風に当たりながら、空を見上げて、そのように呟く。都会が近く、星も見えなかったが、気分は兎も角、いつもよりも、なんとなく綺麗に見えた。
「タツコさん……?」
 後ろで戸が開き、母が顔を覗かせる。私は顔をぐちゃぐちゃにしながら、一生懸命笑顔を繕った。
「外です……ベランダより、広い。ああ、誰か来そうで、おっかないです、お母様」
 視線を隣の部屋の玄関戸に向ける。ほんの数メートル先に、愛しい彼女がいるのだ。
 今、私は二年半ぶりに外に出ている。
 自身を雁字搦めにした妄執の鎖を思い切り引きちぎって外に出て来たのだ。
 代償は、何と易い事か、服一着と嘔吐一回だ。
「ははは」
 思わず笑う。
 私が外に居る。
 それが当たり前だったのに。
 私はちゃんと女の子をしていたのに。
 普通に恋して、普通に高校生をしていたのに。
 私の精神が、私の体が細いばかりに、こんな事になってしまった。
「私、私、お母様。私ね、女の子なんです。女の子、だったんです。何時の間にか、二十歳になって、法律上、もう大人になってしまって。でも、私は背負うものが一切無くて、ただ飯ぐらいのごく潰しで、社会的に一切認められていない、社会調査で引きこもり率を零コンマ引き上げているだけの、塵芥です……私、私、もう少し、女の子でいたかった。もう少し子供で居たかった。普通でいたかった。普通で、普通に、大人になりたかったよぅ……」
 膝から崩れ落ちる。もう限界だった。足が完全に嗤っている。
 折角新調してもらった服は嘔吐で少し汚れて、地面にしゃがみ込んだ所為で埃まみれになる。化粧をしたのに涙で流れ落ちて、口紅だって擦れただろう。
 今の自分を鏡で見られる自信がない。
「タツコさん。良く頑張りましたね。今は戻り……あら」
 母が私の肩に手を触れる。私も手を借りて立ち上がろうとした時、母の動きがピタリと止まった。
 誰か来たのだろうか。
 私は恐る恐る顔を上げる。
「――タツコ?」
 声のした方に咄嗟に目をやると、そこでは、十歳程度の小さな少女が、玄関戸から顔を出していた。
 隣の家だ。
 隣に住んでいる十歳の少女といえば、彼女しかいない。
 そしてそれは見覚えがある。ついこの前、写真を貰った、彼女しかいない。
「かな」
 思わずカナメ様、と言いかけて口を噤む。私は大急ぎで母にジェスチャーを送る。
「え、と。つ、都合が良かったですね、タツコさん。お母さん、中で控えて、ますから」
「す、すびません」
 小さな音を立てて戸が閉まる。私は顔を上げられず、地面に座ったまま彼女の反応を窺う。
 やがて彼女は玄関から出て来ると、私の傍によって、私の肩を抱く。
「なんてこと。まるで夢を見ているようだわ。隣で何事か物音がしたから出て来たら、タツコが居たの」
「か、カナメ様でいらっしゃいますか……わた、私、その、……ああ、カナメ様が穢れます。その手を解いてくださいまし」
「嫌よ。なんか、少しにおうけれど」
「うぐ……そ、外に出る時、粗相しまして……」
「そう。頑張ったのね。私に逢いたくて、出てきてくれたのかしら……顔をあげて。良く見せて」
 カナメの手が私の顔に添えられる。色々と人に見せられない状況だが、カナメに言われては仕方がない。素直に顔を上げる。カナメの顔が、実に良く見えた。
 言っていた通り、身は細く、まるで小学校の頃の私を見ているようだ。
 違う点といえば、私とは比べられない程、可愛らしいという事だろう。私が登山道に立てられた標識の棒きれなれば、彼女は高嶺に咲く山百合である。
「まあ。お母様に似ているわね。本当に身は細いけれど、貴女、何も変じゃないわよ? 服も似あってる」
「す、少し、頑張りました。ああ、お美しゅうございます。カナメ様。この気持ち、どう表せば良いのか、私では語彙が足りません……ああ、信じられない。カナメ様……カナメ様……」
 どうしようもなく涙がこぼれて来る。
 ここが外である事を忘れてしまうほど、私はカナメに夢中になっていた。
 いつも触れあっている彼女ではあるが、たった一枚の防火壁は悉く分厚かった。私のか細い腕ではそれを割る事も叶わないと思っていたのに、今こうして彼女の腕の中に私がある。
 なんと光栄な事だろう。
 なんと嬉しい事だろう。
 目の前にカナメがいる。私の愛した彼女がいる。私の愛しい女王様がいるのだ。
 私はそのまま、地面に頭を垂れる。
「……旗本竜子でございます。お初に、お目にかかります……」
「頭を上げて頂戴。こんなところ、誰かに見られたらそれこそ社会抹殺よ」
「し、しかしぃ……」
「いいから。タツコのお母様、タツコのお母様?」
 カナメが声を上げる。すると、玄関からひょっこり、バツの悪そうな顔をした母が顔を覗かせる。
 それも当然だろう。隣に住んでいる十歳児に頭を下げて許しを請う二十歳児が自分の娘なのだ。
「はい……」
「ごめんなさいね。色々と特殊なの。タツコのお母様。この子、少し預かっても?」
「え、ええ。た、タツコさん」
「は、はい……その、お見苦しい所を……その……なんと説明して良いか……」
「い、いいえ。お、お母さんはずっと起きているから、何時でも、戻って来て大丈夫です」
「解りました……その、後で説明しますので……」
「じゃあ、少し預かるわ」
 私はカナメに引きずられながら、水木家にあげられる。
 他人の家などいつぶりだろうか。高校生の頃も、あまり人様の家に上がり込んだりはしなかった。
 入ると直ぐに、人の家特有の、自分の家とは違った不思議な匂いを感じるものだ。カナメの家は恐らく母の所為か、少し香水の匂いが強いように思える。カナメに腕を引っ張られ、どこに連れて行かれるのかと思うと、洗面所に立たされた。
「私のメイクセットを貸すわ。あと、口もゆすぎなさい。ウエットティッシュは棚の上にあるから」
「ご迷惑おかけします」
「そんなの良いのよ、どうでも。そのままの顔見せるのが嫌なら、整えなさい」
「はい」
 洗面所の鏡と向かい合い、カナメから借りたメイクセットで目元口元を何とかする。小学生が持っているものにしては本格的なものが揃っているのは、母の影響か。
 母子家庭で母がお水ならば、そんな事もあるだろう。統計的にどう、なんて計れるものではないが、殊更体面を気にする職業であるからして、娘にも気は使うのかもしれない。それに、カナメは母を尊敬している。
(……凄い。人様の家に居る。しかもお隣さんの。カナメの。な、何してるんだろう、私)
 水で口を濯ぎながら、鏡を見て思う。
 今日は五、六年間で起こりそうな出来事が全て詰め込まれていた。そもそも私の二年半など、元から動きが無かったようなものなので、まるっきり空白である。
 化粧をして、身なりを整えて、母に顔を出し、父と話をして、家族で食事し、隣の家にあげられている。
 そんなの、どこの誰でも一日でやりそうなものだが、私はそういった一般には含まれていない。脳の処理がいまいち追いつかず、時折思考停止しそうになる。
 顔こそ見ずに話しているが、他人と向き合うなど、そもそも自分に出来るものだったのだろうか。
 ついさっきマンションの通路に出ただけで胃の内容物をぶちまけたクセに、人の家で口を濯いでいるのである。
 決意一つでこうも上手く進むものか。
 ……いや、と考える。
 やはり普段のリハビリが効いていたのかもしれない。そして何よりも、本当に直ぐ傍に、逢いたかった彼女がいる事実が、恐怖感による尻ごみよりも、前に進む事を是としたのだろう。
「カナメ様、あの」
「こっち。私の部屋」
「あ、は、はい」
 カナメに連れられ、彼女の部屋の前に立つ。扉には『かなめの部屋』という木製の可愛らしい表札がかけられている。
 部屋に入ると、そこは簡素な部屋だった。
 失礼な話だが、もっととびっきり非常識な部屋だとばかり考えていただけに、これは拍子抜けである。
 部屋の真ん中には折りたたみのテーブルが出され、お茶も用意してあった。相変わらず子供らしくない手際の良さだ。
 私はテーブルの前に腰かけ、小さく辺りを逡巡する。
 小学生が使うような木製の勉強机ではなく、金属パイプのパソコンデスクが部屋の右端にあり、ノートパソコンと勉強道具が一式並んでいる。
 左にはベッドがあってカナメが腰かけている。ぬいぐるみの一つも見当たらない。
 部屋の正面を占拠するのは本棚だ。原色が効いた漫画本は一切見てとれず、大体がハードカバーの学術書のようなものばかりである。本屋の人文書の棚を眺めているようだ。
 確かに、おかしさは無かったが、年相応かといえばだいぶ違うだろう。イマドキ漫画本の一冊も無い小学生の部屋があるものだろうか。受験戦争時代の子供でもあるまいにだ。
 しかもこれは母が強要したものではなく、本人の趣向に沿っている筈である。
 ひっそりとカナメを見る。彼女は、酷く嬉しそうに微笑んでいた。
「あの」
「なあに」
「ご機嫌が、宜しい様子で」
「当然よ。私のタツコが逢いに来てくれたのよ。これを喜ばないとしたら、私はこの世の楽しみなんてあったものではないわ」
「そんなに」
「そんなによ。あ、お茶どうぞ」
「あ、はい。いただきます……」
 味など解ったものではない。世間一般の女性で言えば、好きな人の部屋に初めてあげられた状態である。私とカナメの関係性がソレに当たるかといえば違うかもしれないが、愛してやまないという点で言えば同じかもしれない。
 カナメはいつもの調子だ。私は隔て壁の向こう側からする音で彼女の動作や仕草を推測するだけの生活を送って来たが、今まさに、視覚として目の前にある事実は、緊張と同じくらいの感動がある。
 カナメは視線を外す事なく、ずっと此方を見ている。顔は良い。もうなんだか慣れて来た。だが体の方はあまり視線を向けて欲しくはない。
「わ、私。楽しいでしょうか」
「楽しいわ。なんだかオドオドしてて。十歳児に窘められるってどんな気分?」
「解りません。緊張しちゃって」
「そう。そりゃ、そうよね。人の視線の無い生活を二年半も送って来たのだもの」
 そういって、カナメが立ち上がって傍に寄る。彼女は私の隣に座ると、床に置いた手に手を重ね、下から私の俯いた顔を覗きこむ。
 可愛らしい。陳腐だが、天使とはこの子の事かもしれないと、なんとなく思う。
 壁越しではない。彼女の体温が、全体で感じられる。あまり、私の体には触れてほしくないけれど、でも、けれど、カナメならば、そうだ――。
「あら、思いの外、否定しないわね。跳ねあがって避けるかと思ったのに」
「今、私は、カナメ様に、認められているでしょうか」
「うん? ああ、当たり前すぎて何とも思わなかったわ。そうね。確かに痩せてるけど、そのぐらいだったら別にあちこち何処にでもいるでしょ。あら、そっか。そうよね。私に認めて貰いたかったのだものね」
 頭がくらくらする。
 そうだ。今日は色々と在りすぎて、一番の目的を達成した事も流れの中に収めてしまっていた。
 カナメが、私の顔を見て、体を見て、普通に接してくれている。私はとうとうこの子に認められて、なおかつ、体にまで触れさせている。自分で観るのも嫌な体にだ。
 実感すると嬉しさと緊張で逆に吐き気がする。私はツバを三回程飲みこみ、不器用にカナメへ笑いかける。
「無理して笑う必要ないわよ?」
「あの、でも。私その、やっと、カナメ様のご希望に添えたかと思うと、嬉しくて」
「うふふ。そうね。良く頑張ったわ。私ね、凄くうれしいのよ。本当に、たった十年しか生きていないけれど、今までで、一番嬉しいの。貴女に逢いたかったわ。ねえ、タツコ」
「はい」
「抱きしめても良いかしら。嫌なら止めるわ?」
 この細い身を抱きしめるのか。触れるだけでは飽き足らず、抱きしめるのか。
 昨日母に背中から抱きしめられた時は大丈夫だった。ただ、あれは母だ。柔らかく温かく、私を一番に心配してくれている、母だからである。
 ではカナメはどうなのか。
 私はカナメに向き合い、手を握り締める。背中を冷や汗が伝うような気がした。
「怖いならやめましょ」
「い、いえ!」
「わ、びっくりした。大きな声出せるのね?」
「す、済みません。いえ。今日はその、出来る事は全部しようという覚悟でありましたので、その、ええと、是非、ああ、でも、私細いですし、骨ばってますし」
「そんなの私も一緒よ」
 何を思ったのか。カナメがワンピースをいそいそと脱ぎ始める。
 私が止める間もなく、彼女は裸になってしまった。
 何かこう、法律上、大変宜しくないような状況である気がしなくもない。しかしながら私にはそれを止める権利はない。彼女は自分の部屋で自主的に服を脱いだだけである。淫行ではない、決して。
「酷いものでしょう」
 彼女はそのように言う。私は息を呑んだ。
 ――病的である。
 例えるならば、白磁の花瓶だろう。それがシックリと来る。
 前後に凹凸は無く、ウエストは悲しく括れている。
 浮き出る肋骨が酷く生々しい。この体は脆弱に出来ているという事実を突き付ける。
 まるで幼いころの私――いや、それより酷いか。顔がコケていないのが不思議なほどである。
 そして、この胸に穿たれた傷跡。
 腹腔鏡手術痕か、かなり小さくはあるが、その白く肉の薄い身体では目立ちすぎる。
 だが――そのあまりの繊細さが、異様に美しく思えてしまうのは、彼女が彼女だからだろうか。
「そんな事ありません。美しいです、カナメ様」
「まあ。女児の身体を見てなんて言い草。貴女、ホンモノねえ?」
「あ、いや、その、そういった、意味はその」
「くふふ。いいの。有難う。きっと貴女ぐらいだわ、この身体に共感してくれる人は」
「あの、風邪をひきますから、服を」
「いいわよ、これで。それで、抱きしめても良いのかしら?」
「――はい」
 ここまでされては、嫌だとも言えない。此方が返答すると、カナメはゆっくり膝をついて、体重を預けて来る。どうしたものかと思ったが、私がアクションを起こさないのも無礼であるような気がしたので、その細い身の背中へと手を回す。
 本当に細い。私が力んだだけで折れてしまう、まるでガラス細工を胸に抱くような慎重さを要する。
 ただ、その身体は温かかった。手に彼女の体温が沁み込んで行く。子供は体温が高いというから、その所為かもしれない。
「ああ、本物だわ。本当のタツコが今、私の腕の中にいるのね。いえ、この場合、私が小さいから、貴女の腕の中にいるのかしら。でも、なんだかおかしいわ。酷くドキドキして、胸が苦しいの」
「ご、ご自愛くださいまし」
「違うわ。心臓の所為じゃない。こんなことってあるのかしら。おかしいわね、なんだか、本当に」
 抱きしめて、改めて彼女の懐の深さを知る。確かに、形としては彼女を抱きしめているのだが、その精神的な部分で言えば、私は彼女に抱きしめられている。
 母に抱きしめられた時は、劣等感ばかりが前面に出てしまっていた。母に対する想いは変わりないが、その肉体から来るどうしようもない否定感は、多少なりとも私を傷つける。
 しかしカナメは違った。彼女の骨ばって筋ばった身体は、けれども私を否定せず包み込んでくれる。同じくして不健康な身体をしているといった同類意識とはまた違う、言葉では言い表せない安心がある。
 抱擁とはこれの事を言うのだと、私は彼女の甘い香りを嗅ぎながら、ぼんやりとした頭で考える。
「こんな事、あるのですね」
「あるのね。驚くべき事だわ。タツコ、どう、怖い?」
「いいえ……まるで、元からこうする事が決まっていたような、安らぎがあります。何故、もっと早く、こうしなかったのかと、今になって疑問に思うほどに――不敬な私をお許しください」
「許すわ。全部許すわ。私は貴女に同情したりしないけれど、私は常に貴女の味方よ。子供で、頼りないけれど、こんな私が貴女を幸せに出来るならば、それほど幸福な事実はないわ」
「勿体無いお言葉です」
 カナメがそっと離れる。観れば、彼女は顔が赤かった。羞恥から来ているものだとすると、私もまた気恥かしい。
「カナメ様、服を……」
「少し暑いから、これぐらいが心地良いけれど」
「私が耐えられません」
「あらやだ、タツコったら。うふふ」
 いたずらっぽく笑ってから、服を着始める。
 彼女に受け入れて貰ったという高揚感、彼女の抱擁による興奮が、今まで悩んでいたものの大半を吹き飛ばしたような気がするのだ。
 勿論錯覚だろう。また次の日にはドアの外に出るのが辛いに決まっている。ただ、今までと違った未来が、可能性が、彼女によって齎されたのは紛うことの無い事実だ。
 決断のタイミングというのは常に難しい。
 正当ばかりを得ている人間なんて存在しない。特に私のようなこれと言って特徴もなく、酷い劣等感を抱えているような人間が選ぶ道は、一般人のそれよりも高確率で悲惨だろう。だが、今においては、これが一番正しい。常に恐怖と後悔を抱き続ける私にして、後の憂いを一切感じないのだ。
 こんな事は今まで無かった。
 カナメは着替え終わると、さも当然のように私の膝の上に乗り、その背を預ける。私また何の躊躇いもなく、彼女を背中から抱きしめた。
「これではまるで恋人ねえ」
「カナメ様は、良く、このような事をされるのですか」
「いいえ。初めてしたわ。母にもしないわよ」
「ではなぜ」
「んー。じゃあこうするわ。命令。椅子になりなさいな」
「え? あ、はい。どうぞ」
「したいからした、でいいわね」
「左様ですか」
 何でも良い。カナメが望む事を、今ならなんでも叶えられる。這いつくばって足を舐めろというのなら、むしろ喜んでやろう。私は元から捨てる程度のプライドなど持ち合わせてはいないのだ。
 この時間が酷く幸福であった。
 対話自体はいつもと変わらないが、声は近く、触覚があり、ぬくもりがある。カナメが質問し、私が適当な返答をする。カナメは難しそうな顔をして私に振り返り、私は小首を傾げてそれをまた適当にいなす。
 カナメはそれに満足し、笑う。私もそれに合わせて、笑う。
 腕が絡み、指が絡み、何時の間にか私達は、二人で床に寝そべり、向かい合っていた。その手は合わさったまま、ぎゅっと握りしめられている。
 満ち足りている。これが欲しかったのだ。私という脆弱な人間の、私の面倒な精神を、同情するでなく、悲しむでもなく、ただ受け入れて、温めてくれる救世主が欲しかったのだ。
「カナメ様」
「なあに、タツコ」
「凄く幸せです」
「そう。私は、貴女の心を支えるに足りたのね」
「貴女がいなければ、私はずっと引きこもったままだったに違いありません。貴女に一目逢いたくて、己を奮い立たせて、前を向きました。貴女が居たからこそ、貴女が私に言葉をかけてくれたからこそ、今こうしていられます」
「あんまり言われると、照れるわ。私は別に、純粋に貴女の顔が観たかっただけだもの」
「それだって構いません。あの、カナメ様」
「ええ、何?」
「私、貴女が愛しくてたまりません。どうしたらもっと、貴女に近づけるでしょうか」
「十分近いわよ。こうして手を握り合っているじゃない」
「――ずっとお傍に置いて頂きたいのです。私、可能な限り、全ての要求に答えられるよう、努力します。だから――あの、捨てないでください……」
 感極まっていた所為か、はたまたそれが本心だったからか。私も、良く分からないが、兎に角、彼女と離れるような未来が描けないでいた。
 相手は十歳児で、私よりも十歳下で、小学生だ。そんな女児の裸を見て美しいと言い、精神的依存ともとれる発言を繰り返し、あまつさえ捨てないでと喚く二十歳の私は、相当に気狂いだろう。
 挙句の果てに彼女は女の子だ。
 そこに性愛があるか否か、判断しかねるものの、当然『そうしても良い』と許されるのならば、私は喜んで『そう』するに違いない。
「前にも言ったわ。私は、必ず貴女を迎えに来る。大人になって、一人前になったら、本格的に貴女を召し抱えるの。私は働くわ。貴女はお家にいて、私に尽くして頂戴。やうやうしく扱いなさい。神の如く崇め奉りなさいな。それで貴女が満たされるのならば」
「是非、是非に。そうしてくださいまし」
「でも、時間がかかるの。働いて食べて行くまでに、時間が。大人になるには、時間がかかるの。だから、貴女はその間に、私に尽くす為の全てを学べばいいわ。するとなると、貴女はどうしても、外に出なきゃいけなくなる。そうでしょう」
「はい。御尤もです」
「死に物狂いで努力する。生き残る。戦うわ。だから貴女も、戦いなさい。貴女を笑う奴なんて、平手で引っ叩いてやればいい。貴女を邪魔する奴なんて、蹴散らしてしまえば良い。貴女を脅かす奴なんて、押しのけてやればいい。何も心配要らないわ。貴女には私がいるから。将来が不安? 未来が観えない? 辛くて苦しい世界では生きていけない? そんな憂いは抱く価値もないわ。貴女の価値は全て、私に集束するのだから」
 彼女という存在。彼女という保護。彼女という秩序。
 それ等の恩恵を受けて、私は生きていても良いのだという。
 閉塞感だけが支配した私の心に穴が穿たれたような気がした。カナメを慕う事で自分を保つといった保守的な価値の中には、同時にカナメを慕う事によって自身の未来に対する不安を解消するといった意味も内包されていたのだと、今になって気が付く。
 そうだ。
 この子さえ居ればよい。この子さえ認めてくれればよい。他の誰だって気にする必要がないのだ。
 水木加奈女を崇拝し生きる事によって、私の人生は灰色から輝かしいものへと変容する。
 この愛しい彼女の傍に居続ける事こそが、私なのだ。
「タツコ、泣いているの」
 熱いものが込み上げてきて、耐えられなかった。たった一人の人を、たった一つの物事を信じるだけで、こんなに幸福になれるなど、思いもしなかったからだろうか。
「ごめんなさい。お見苦しい所を」
「可愛らしい子。いいわ、幾らでも泣きなさい。あの時みたいに。あの時は、抱きしめてあげられなかったけれど、今ならこうしてあげられるもの。全ては、貴女の決意の賜物よ」
 それからの事を、私は良く覚えていなかった。
 私が溜めこんだ薄暗い気持ちの、その全てを吐き出すかのように、私は彼女の胸の中で泣き叫んだ。
 生まれつきのコンプレックス、好きだった人に言われた一言、結果普通ではいられなくなってしまった事、それから生み出された後悔の二年半、その全てをだ。
 カナメは終始私の頭を優しく撫でていてくれた。それが優しくて、嬉しくて、けれど、決して虚しい気持ちにはならなかった。人の優しさに触れる度に覚える劣等感の一切を感じなかったのだ。
 私は彼女の為に生きて行こうと、新たに決意するには、あまりにも十分だった。


 つづ


2 件のコメント:

  1. 楽しませていただきました。続きを読める日を待たせていただければ、と思います。

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  2. >匿名氏
    二話公開しました。完成品なので、日曜に定期で投稿します。是非読んでみてくださいねー。

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