2013年5月3日金曜日

心象楽園/School Lore エピローグ


 

 心象楽園/schoollore エピローグ 幻華庭園



 許可を得て持ち込んだタブレット端末を弄りながら、放課後の学院内を歩き回る。
 通り過ぎる生徒達の表情は、何処となく明るく見えた。そうだ、笑っていられる方が良い。
「あ、あの!」
「はい?」
 中央広場に向かって歩いている所を、一人の生徒に呼びとめられる。長い黒髪に大人しそうな顔付き、声も少し抑えめだが、精一杯振り絞って呼びとめた、という印象がある。少し離れた所では、この生徒の友人であろう生徒が二人、此方を見守っている。
 いつものだろう。杜花は感じの良い笑みを浮かべてから頭を切り替え、その生徒と向き合う。
「こ、高等部一年、宮坂道子といいます! と、突然お呼び止めして、も、申し訳ありません」
「大丈夫よ、そう気を張らないで。とって食べたりしないから」
「は、はひ。あの。わ、私その……け、欅澤、杜花御姉様を、お、おお、お慕いして、おりまして」
「ええ」
「そ、それで! その、わ、私を……杜花御姉様の、い、妹……妹に、してください!」
 言った! と後ろの二人が盛り上がる。杜花としては、一週間に三度はある出来事なので、残念ながら相手程緊張はしてあげられないが、その心中を察する。
「編入組ね。あまり見ない顔だから。道子というの。素敵な名前」
「は、はい。ありがとう、ございます……」
「本当なら、私を慕ってくれる人、皆の希望を叶えてあげたいのだけれど、その調子で行くと……学院生徒全部、私の妹になってしまうわ?」
「杜花御姉様は、その、とても魅力的でいらっしゃって……わた、わたし……」
 道子が涙ぐむ。渾身の告白がやんわりと断られたのだ、打たれ弱いお嬢様が被る精神的ダメージは相当のものだろう。しかしそこは欅澤杜花である。
「聞いて、道子」
 まず親しげに接してあげる。泣いているようなら顔をあげさせ、杜花の目を見せる。
「はい……」
 意気消沈する生徒の手を取り、優しく微笑みかける。
「私は、道子の事を何も知らないわ。姉妹は、家族なの」
 相手が納得出来るよう、相手が何を間違ったのか、何故妹に出来ないのか、その理由を述べる。
「家族……」
「そう。この閉鎖された場所で、仲良く楽しく暮らして行く為の家族。私は道子の事を何も知らないから、何も施してあげられないわ。解るかしら」
「はい……いきなり、ごめんなさい。ご迷惑……でしたね」
「いいえ。道子の気持ちはとっても嬉しいわ。こんな私に、貴女が尊敬出来るだけの何かを、見出してくれたのよね? 私は幸せ者だわ」
「あっ――」
「まず、お話しましょう。お友達からで良いかしら。私の事を知って、私が道子の事を知って、それでもお互い、家族になれると、そう思えるようになったら……きっと、ずっと仲良く出来るわ」
「じゃ、じゃあ。わ、わたし、杜花……さんに、杜花さんに、親しげに、御声をかけても、良いでしょうか?」
「ええ勿論。他の妹達を気にする必要もないわ。これから宜しくね、道子」
「あは――はい、あ、有難う存じます……」
 後ろの二人に微笑みかける。二人は杜花を見て、恐縮したように頭を下げた。この道子という子は杜花を尊敬のまなざしで観ていながら、踏ん切りがつかなかった所を、二人が背を押したのだろう。
「本当なら、もう少しお話したいのだけれど……今日は、少し用事があるの。本当にごめんなさいね。お茶会がある日は、必ず声をかけるわ。一杯お話しましょう?」
「はい! 失礼しました!」
 嬉しそうに、まるで華が咲いたような笑顔で道子が礼を言い、二人の下へと戻り、肩を抱き合っている。
 なんだか初々しい光景だ。杜花は……そんな光景を柄にも無く、心温まる気持ちで見守る。
「やあ、欅澤さん」
 過去ならば『らしからぬ』だが、今となってはそうでもない。そんな想いにふけっていると、いつもの声が聞こえた。
 ふと視線を向けると、彼女が手を振っているのが観えた。
「やってるねえ。前より格段に増えたね?」
「ええ。隊長さん。ごきげんよう」
「ごきげんよ。ん。その端末は?」
「許可を得ているものですから、ご心配なさらず」
「どれ……あ、ほんとだ、登録されてる。しかしこうして見ると、珍しいな。学院は電子機器ないし、凄い違和感だ」
「必要に迫られたので。隊長さんは警ら中ですか」
「そうさ。全く何事もないね、ここは。それが平和でいいんだけどさ。甘酸っぱい青春とか目撃出来るしねえ」
 ベリーショートの頭を掻きながら、三島二等軍曹はカカと笑う。
「最近は姉妹も増えてしまって。ところで、どうしました?」
「いやね。最近立ち合ってないからさ。格闘技は卒業かい?」
「色々ありまして、人を殴れる拳ではなくなったんです。鍛錬は続けていますよ。これでも、欅澤神道無心流皆伝ですので」
「そっか……。ま、ストレス溜まったら声かけてよ」
「ええ……でも、隊長さんは確か」
「ああ。三か月後だね。また大陸さ。枠に空きが出来たんだ。それが聞いてよ、たたき上げなのに特例昇格だってさ。准尉だってよ。少尉でもないのに小隊長任された。まさか将校様になれるとはねえ。有り得ない人事だが……ま、過去の戦績評価ってこって」
「死なないでくださいね」
「死なないさ。死ねないよ。それに、ドンパチじゃないんだ。小競り合いはあるだろうが、治安維持でね。一年やったら、また戻ってくる。その頃に君はいないだろうが、まあなんだ、少し寂しいな」
 そういって、彼女は恥ずかしそうにする。なんだかんだと、男勝りだが女性は女性なのだろう。そんな姿が何だかおかしく、杜花は口に手を当てて笑う。
「これ、連絡先です。帰ってきたら、是非、お茶でもしましょう」
「あらら。参ったね、行く前に約束すると死にやすいんだよ」
「死にませんよ」
「そうかな」
「ええ。絶対」
「――なあ、欅澤さんや」
「はい」
「陰毛一本貰える? 昔からのジンクスでね、弾よけになるんだ」
「生憎、処女じゃないんです」
「なんだ知ってたか。くっ――たははっ! そうかいそうかい!」
「隊長さん」
「なんだい」
「――いいえ。では、また」
「ああ、またな!」
 豪快に笑い、彼女はまた警らに戻る。
 ……面白い人だと、また彼女の笑顔が拝める事に、杜花は安心する。彼女に何も無くて良かったと、戻って来た三島を見て安堵したのは記憶に新しい。
 彼女の大陸入りは、恐らく七星の計らいだろう。そして彼女は余程の事が無い限り、死なない。七星が迷惑をかけた人間だ。七星はそのような人物を、捨て置いたりはしない。
 死なないだろうが、しかし、彼女の復讐劇は、死ぬまで続くのだろう。
「さて、と。次」
 端末を弄りながら、予測される時間の通りに動いて行く。次は生徒会活動棟裏だ。
「ここが本命……うわ、古い」
 普段、殆ど人が通らない場所である。生徒会活動棟の裏側で、殆ど雑木林のような所にポツンと一つ、目立たぬように倉庫があるのだ。
 あらかじめ借りていた鍵で扉を開け放つと、大量の埃が舞い上がった。
 口元を覆い、手で払いながら中に入ると、四十年前から取り残されてしまったような器具類、備品などが大量に積まれているのが解る。
 電気は通っている筈だ。しかしスイッチを入れても明りは灯らない。
 目を凝らして棚を見上げると、丁度備品の白熱球が見つかる。使えるかどうか怪しんだが、テキパキと付け替えてみると、あっさりと明りが灯る。
 しばらく倉庫の中にいると、ぞわりと背筋が震えた。
 倉庫の一番端、目立たない所に、その残滓は居る。
『……無事でいて……無事でいて……お願い、お願い……』
 目を凝らす。ボケていた輪郭がはっきりとし、それが欅澤花であると解った。
「……いつまで居る気ですか。何年そこに居る気ですか。終わってしまっているのに。二度も」
『――撫子、誉、きさら……私――私……』
 しばらくそのように呟き、彼女は何かに気が付いたように目を見開くと、そっと出口まで寄り、そこから出て行った。恐らく、救出に来た自衛隊の幻影でも見えていたのだろう。
 鞄の中からお祓いした塩と御札を取り出す。生きている人間、しかも自分の祖母の残滓を供養しようというのだから、滑稽極まり無い。
 しかも、大して効果も上がらないというのだから、やっていて憂鬱な気分になる。
「これでー……大体終わり、ですかね」
 杜花は取り出したチェックリストの最後の欄を埋め、端末を静かに閉じる。
 誠心誠意心をこめて、というのは難しい。
 純粋な気持ちで供養するにも、欅澤杜花は関わりすぎていた。
 あの一件から約一か月半。
 二週間後には入学式と始業式を控えている。
 驚くほど、何もかもが片付き、何一つ、大きな影響は無かった。以来兼谷とも顔を合わせて居ない。七星はダンマリを決め込み、杜花にアクションがかかる事もなかった。
 旧校舎での出来事は綺麗に隠ぺいされた。
 それこそ、当時旧校舎で何があったのか知る人物など、杜花周辺のみである。
 恐らく兼谷があの後学院内に潜伏している七星の人間を使い、後片づけしたのだろう。
 改竄機構は市子撫子データ損失と共に即時停止。
 旧校舎の損壊や被害者、血痕どころか髪の毛一本に至るまで、全てが綺麗に取り払われ、改竄機構のマザーコンプが置かれていたと思われる部屋に至っては、ご丁寧に埃まで塗して原状復帰させていた。
 改竄機構の残した爪痕といえば、矛盾である。
 暫くは市子の姿を見た、市子が居たという噂が大変多く聞かれたが、改竄前に丸ごと戻っている為、所謂影の噂と同一視されている。装置を用いて兼谷のESPデータから『そのように処置』したのかもしれない。自然と記憶から無くなるように仕向けられている可能性もあるだろうが……もう終わった事だ。
 兎に角、事件に関連して、学院に齎された変化はない。あるとすれば、杜花周辺ぐらいなものである。
「――あ、ダメだ」
 塩を巻いて御札を張った場所に、また花の残滓が収まる。
 腕から出血し、膝を抱える姿が物悲しげだ。
 花の場合は生霊、とでもいうか。生徒会活動棟の黒い影然り、学院各種に散らばる影を、なんとか鎮められないかと考えていたが、十件中十件、全て失敗に終わった。
 霊は見えてもオカルト主義者ではない杜花だが、『こういったもの』を鎮めるのはやはり、悔いを取り除いてやる必要があるのではないかと考える。
 撫子達の場合、悔いが多すぎて、どこに手をつけて良いやら解らない。唯一、散らばった彼女達の残滓が纏まって供養出来そうな場所はあるが、杜花はそこへ足を踏み入れる事を躊躇っていた。
 どこか成功すれば、と僅かな期待を抱いていたが、こうなっては赴く他なさそうだ。
「庭園、かなあ」
 サマーセーターに引っかかった埃を払い、頭に乗った塵を摘まむ。
 髪はだいぶと短くした。
 三島に持って行かれた所為もあるが、機能性は良い。少し長いボブカットと言ったところだが、ここまで短くしたのは、産まれて初めてである。
 流石に切りすぎると、親しい人から文句が上がる上、身長がある為に男らしくなってしまう。出来る事なら乙女で居たい。
 変化といえば。そうだ。
 杜花は妹を取るようになった。
 態度を改め、後輩達への接し方を変え、髪型も変えた所為か、杜花はますます声がかかるようになり、杜花の知らない所でライバルが出来、知らない所で衝突が起こりと、まずにぎやかになった。
 リスク管理という名の関係調整も、杜花はもうしていない。
 元から面倒であったし、多少問題が起きている方が楽しいのではないかと、杜花は最終学年にして、面白味を見つけ始めている。
 元市子の妹数人を含め、三十五人。欅澤派は学院最大の派閥である。
 ……皆、杜花を慕ってくれる子達だ。
 彼女達は、欅澤杜花がどれほど酷い人間なのかは、当然知らないだろう。
 たった一人の女性を追い求めて、挙句の果てに心中を図り、その母に重傷を負わせ、データとはいえ人と分類出来得るものを、二人も殺し、自らに恋する人を、自殺に追いやったのだ。
 知らない方が良い。
 知る意味もない。
 妹達に囲まれる欅澤杜花は、学院の代表であり、学院の華だ。
 彼女達は欅澤杜花の、その容姿に、その肉体に、その所作に、言葉に、声に、その上辺だけの精神性に、憧れを抱いていれば、それで良い。
 以前の杜花はそれが偽物だと思っていた。上辺だけの好き嫌いなど、この世で最も底辺の抱く思想であるとまで、思っていたのかもしれない。
 だが今は違う。そんなものも必要なのだと、繕うからこそ、その中から本物を見つける事が出来るのだと、解るようになった。
 杜花は……人間になるまで、十七年もかかったのだ。これから学ぶことも多い。
「あ。アリス。お仕事は?」
 生徒会活動棟の裏から抜け出て、入口付近に差し掛かったところで、とても目立つ金髪を見つける。天原アリスは杜花を認めると、それまで隣で話していた金城五月を他所に、満面の笑みを湛えて近寄ってくる。
「杜花様、おつかれさま。いつものですわね」
「ええ。裏手にお婆様が居ました」
「ダメでしたか」
「ダメでしたよ」
「今日はもうおしまいですの?」
「いえ。これから庭園を見に行こうと思って」
「あ、ではついて行きますわ。五月、先に戻っていて」
「――はい。おつかれさまです、会長」
 五月が丁寧に頭を下げ、一瞬だけ此方を見てから、去って行く。タイミングが悪かったか。
 アリスが自覚しているか否かは別にして、金城五月は平静を装っていても、アリスを気にしているのが丸解りだ。
 それもそうだろう。時間だけなら付き合いは杜花より長いのだ。
 五月も、杜花がアリスだけ見ているならば納得したかもしれないが、残念ながら杜花の人間関係は、周りの人間がとやかく言えるものでも、単純なもので構成されている訳でもない。それを気にしているのだろう。
「五月さんは良いんですか」
「はて?」
「そうなんですよねえ。これですもんねえ」
「あ、ああ。なるほど。杜花様の爛れた人間関係ですわね? あ、五月がお好み?」
「え? あいや、五月さん可愛らしいですけど、私のこと嫌いみたいですし」
「嫌いな訳ありませんわ。五月も杜花様の恋人になれば良いのに」
「あのですねえ」
「えへへ。囲い込みですわ、囲い込み」
 アリスは……杜花を、極端に心配している。
 あれだけの事があったのだ、警戒されて当然ともいえるが、アリス自身のアピールは勿論、アリスの杜花演出は拍車がかかり、挙句の果てに『ハーレムでも作れば良いんですのよ』と言い出し、挙句実行する始末である。
「杜花様が寂しくならないように、わたくし、全力バックアップですのよ。流石に十人二十人に死なないでとせがまれれば、幾らお馬鹿な杜花様でも死なないでしょう?」
「まあ、でも解りませんよ。私クズですし。あんまり広げるとほら、理解の難しい関係ですし、後ろから刺されますよ」
「杜花様は死にませんわよ。英雄は色を好むし、恋人なんて掃いて捨てる程いて丁度ですわよ」
「なんだろう、女性として反論したいのに反論出来る立場にいませんね私」
「存分にクズっぷりを披露してくださいな。私、それでも付いて行きますわ」
「ダメな子ですねえ」
「良いんですのよ。愛人三号はそのくらいの根気が必要ですわ」
 もう、死ぬ気なんて無い。
 杜花が幾ら言おうとも、アリスは信じてくれはしない。全ては自分の責任だ。必死に杜花を想ってくれる彼女に自分が出来る事といえば、死なない事であり、アリスに甘える事ぐらいである。彼女の平静と安寧を、たったそれだけで守れるならば、彼女の行いを否定する意味もない。
「アリス」
「んあ、おでこにキスは、頬より恥ずかしいですわ……」
「行きましょ」
「はいな」
 照れるアリスが可愛らしい。そしてそれが心に突き刺さる。これは楔だ。
 一歩間違えば、この子も早紀絵のようになっていたのだ。
 もう彼女の好意を、無視などしない。
 欅澤杜花は人間になり、責任が発生し、責任を取る義務があるのだ。そして、今までに無かった、実感がある。
「……」
「どうしましたの?」
「……実感が、湧くようになったんです。市子以外の子に、好かれているって、実感」
「良い事ですわ。じゃあ実感ついでにもう一度キスしてくださいまし」
「じゃあ、何回でも」
「な、何回もされると困りますわよ」
「……何故? アリスは、何が困るのかしら?」
 わざとらしく口調を変え、歩きながら、アリスの手を取り、小指を絡める。
 ああ、しかし根本的な部分で自分は変わっていないのだなと、ある意味安心する。可愛らしい彼女が恥ずかしそうに悶える姿を見ていると、心が満ちて行くようだ。
「え……えっちな、気分になりますもの」
 白萩の裏を通り、小路を抜けた所で立ち止まる。まず人の来ない場所だ。元からここに来る予定であるのだから、通って当然の道なのだが、アリスは人気が無い事を余計に気にしているのだろう。
 爛れているなと自覚し、しかし――自分はそんな人間なのだと、諦めもある。
「アリス」
「あ、も、杜花様」
「二人の時は杜花でしょう?」
「杜花。唇が、恋しいんですの。慰めて、くださいます?」
「ええ、勿論」
「えへへ……愛してますわ、杜花」
 いじらしい。愛らしい。
 欲深い欅澤杜花の一部が、間違いなく彼女で出来ているのだと自覚出来る。
 背に手を回して抱きしめ、間近にアリスを見下ろす。彼女は目を瞑り、小さく唇を突き出す。
 キスをしようとして顔を近づける。しかし、ふと止まった。
 アリスごしに見える小路の先には、杜花達が見続けた小庭園がある。丁度その出口、光の加減で誰かは解らないが、髪の長い少女のシルエットが見て取れた。
 恐らく彼女だろう。目を逸らし、アリスにキスをする。
「何か、見えましたの?」
「この学院にいる限りは、彼女の幻影を見続ける事になるんでしょうか」
 二子が『市子撫子データ』に宿ったものを『説明できない何か』と呼んでいた。
 データを魂だと捉える七星とて想定していない何かを、知らぬままに運用しているのだ。
 技術が幾ら発展しても、理解不能な現象は多々ある。
 科学は『こうするからこうなる』という事象を発見はすれど、それが『どうしてそうなるのか』が解らないまま使われる技術は思いの外多い。
 市子撫子データに宿ったデータ外の何か。数値化出来ない『何か』こそが恐らく、本当に魂と呼ばれるものではなかったのかと、杜花は今になって良く考える。
 杜花が時折『観て』しまうもの、学院に漂い続ける残留思念、そういったものも、恐らくはその類だ。
 アリスの手を引き、小路を先に進む。
 やがて開けた場所に出た。杜花達が抱く原風景……には程遠い、荒れ果てた庭園がそこにはある。
 これから本格的に春を迎えるであろう季節、明るい茶色の枯れた草花が辺り一面を覆い尽くし、その合間から新緑が芽を吹いている。
 剪定されていた背の低い木は蔦が絡まり雑木林の一歩手前である。花壇と思しき場所も、ただの雑草畑だ。
 庭園の真中には、確かにガゼボがある。
 だが、自分達の知る白く穢れない東屋では無く、木製で朽ちかけたものだ。廃墟的美しさならばまだしも、これではただの汚い裏庭だ。
「綺麗に見えてたものも、いざ現実で観てみると、酷いものですね」
「何故、今は感応干渉が、無いのかしら」
「維持していたのが、撫子の分霊(わけみたま)だったのでしょう」
「一柱の神様の魂を分けて、複数御祭するって奴ですわね」
「神とは言いませんけれど……いうなれば妖怪染みた力を持っていましたし。あ、私オカルト主義者じゃありませんよ?」
「あんな事を目の当たりにすると、超常的なものがあってもおかしくないと、思ってしまいますわ」
「維持する気が無くなったのか、する意味を失ったのか……」
 ガゼボの裏手に回る。そこには確かに、撫子達が残したであろう言葉が刻まれ、穴を掘った後が残っている。
 櫟の鍵の、鍵としての機能はあまり意味は無かったのだ。
 皆で探し、皆で予測し、皆で見つけて、鍵を開けるという、一連の流れを、撫子は欲したのだ。
 しかしそれは叶わず、そのままどうしてか、市子に受け継がれた。鍵が無ければ、こんな場所に至る事も無かっただろう。鍵は役目を果たし、中に入っていた手紙と共に、花に手渡してある。
「……」
 傷だらけになって実家に戻った杜花を見て、花は絶句していた。
 全てを説明した後に流した彼女の涙、こらえようのなかった慟哭は、今も杜花の耳に残っている。
 彼女は……ただただ、杜花に謝っていた。
 七星一郎の勧めで杜子を観神山医療センターに入院させた事。
 出生前の遺伝子改良手術の事。
 出生後の記憶を改良するメソッド=プログラムの事。脳改造手術の事。
 孫を、自分の後悔のはけ口にした事。
 それらを全部、彼女は語った。
 勿論、このようなものが引き起こされるとは、夢にも思っていなかっただろう。
 一生許しはしない。だが、杜花も花を責める事は出来なかった。
 彼女は今に至るまで、後悔に打ちひしがれ続けて来たのだ。
 最愛の人々を一時に三人も失い、まともな精神では居られる訳がない。彼女は当時、縋れる人間を探していたのだ。
 そこに現れたのが、利根河真だ。肉体関係もあったという。
 その後全てを振り切るようにして、花は結婚し、次代を繋げる決意をした。
「そうだ」
 呆けていた杜花の横で、アリスが何かを思いついたように手を叩き、懐からお守りを取り出す。見覚えのある生地で出来たそれは、ご利益が書いていない。
「以前花お婆さまに貰いましたの」
 そういって、アリスが今まで宝物が埋まっていた穴に、お守りを添えると、その上から土をかける。意味などないだろう。感傷的なものだ。ただ杜花は何も言わずそれを手伝い、埋め終えてから手を合わせる。
 もう二度と……このような事は。
 繰り返したくない。
 繰り返されて欲しくない。
 だが、七星一郎が妄執に取りつかれている限り、恐らくは……続くのではないのか。
 また何人もの『個人』ではない人間が、産まれるのではないのか。
「あっれえ? モリカ、アリス、何してんの? ってうわ、ここ汚いッ! 素だとこんななの!?」
「私も初めてみるわ。酷いわねこれ。一応草が刈られた痕があるのは、単に業者を入れてた所為ね」
 小路から此方に向かい、歩いて来る影がある。杜花は小さく手を振った。
「サキ、ニコ、どうしてこんなところに」
「こっちの台詞よ。御姉様が見当たらないって、寮の子が探していたから、私達が探しに来たの」
 小走りで近づいて来た二子を受け止める。
 彼女は笑顔で、杜花を見上げていた。せがまれる前に抱きしめ、額にキスをする。
「あ、ニコずるい。モリカ、私も、私も」
「はいはい」
 二子を押し潰すように抱きつく早紀絵にもキスをして、小さく微笑む。
 欅澤派の『三華』そろい踏みだ。
 聞こえは良いが、その関係性は己達の死生にも食い込むような、おぞましい人間関係である。
 姉妹、などという小気味よいものではない。確実に、相互依存の運命共有者である。
 二人の手を取り、ボロボロの東屋に腰かける。いつ朽ちるかと怪しいものだが、四人が座っても崩れない程度には頑丈なのだろう。
 左隣に座る早紀絵を見る。彼女は可愛らしく『なあに?』と小首を傾げる。
 彼女は精神性を拗らせた杜花の特効薬であり、最後の砦だ。
 中途半端な認識でしかなかった杜花の『自分』を、継続的に自覚させてくれる人物である。彼女の自殺未遂は、欅澤杜花という人物が何で構成されているか、最大級のインパクトで教えてくれた。
 もしあの時、少しでも遅れていたのなら。また、違った未来があっただろう。
 そしてその未来は恐らく、継続する事無く打ち切られたに違いない。
 早紀絵は自殺未遂の後、直ぐに意識を取り戻した。
 首をねん挫して暫く療養及びカウンセリングが続いたものの、一か月で元気に、首にコルセットを巻いて戻って来た。
 戻ってきて一番の言葉が『埋め合わせしてね』である。
 療養で余程たまっていたのか……それから一週間、早紀絵は杜花を離さなかった。
 欅澤杜花にして『もう限界』と漏らしたのは、それが初めてである。
「早紀絵の顔が面白かったのでしょう。御姉様、そんな淫売よりこっち見なさいな」
「口悪いなあ二子はぁ」
 右隣に座る二子に袖を引かれる。
 医療保健室に運び込まれた後、彼女は忽然と姿を消した。
 暫くは連絡も取れず、どうなるものかと心配していたが、どうやら強烈なESP発動での脳の酷使と不正な手順でのデリートが原因で、意識はしっかりしていたものの、暫くは寝たきりであったという。
 あんな事を約束した手前だが、流石に彼女の脳をいじれる訳ではない、どこかに入院させるにしても、どうやっても七星の掌の上だ。
 勿論奪還なども企てたが、二週間ほど連絡が無く、今度こそ七星一郎に直通電話をかけるか、とまで考え始めた頃、彼女はひょっこり顔を出した。
 学院においては、改竄前の情報に丸ごと戻っている為、二子の存在自体はあまり問題視されていない。彼女自身も、以前の二子そのものだ。
 ただ、少し、いいや、かなり、甘えたがりになって戻って来た。
 どこへ行くにも付きまとい、とにかく杜花を中心とした生活がある。挙句杜花への呼称が『御姉様』に変化し、寮生達は目を剥いていた。
「御姉様、少し寒いわ。抱きしめて頂戴」
「上着を着なさい」
「御姉様がいるから、いらないわよ」
「もう」
 猫のようにすり寄って来る二子に、満更でもない。
 いや、むしろ好ましすぎて、本当にいつ手をつけてやろうかと、悩むほどだ。
 流石にまだ幼いし……とは思ったが、杜花と市子が初めてを失ったのは、中学一年生である。
 市子が眼を覚ますまでの代替え品。
 その主軸足るもの。自分達を自分達と保つための依存関係だ。
「それにしても、ボロですわね」
「びっくりだよ。アレの影響があると、あんな綺麗に見えるのに」
「見せてみましょうか、お三方」
「……頼らない方が良いでしょう」
「そう? 御姉様が言うならやらないわ。んふふ」
 二子の頭を撫でながら、当時の情景を思い起こす。
 例え死が二人を別とうとも――
 ――ずっと一緒に居ましょう、と。
 杜花は市子と出会ったその日に、そう約束した。
 この小庭園は、更にその前からずっと、姉妹達の精神支柱であっただろう。
 事件から数カ月経ち、妹まで取るようになった杜花は、名実ともに市子の後継者だ。
 いつ目を覚ますかも解らない、もしかすればそのまま死してしまう可能性が高い庭園の主を待ち続ける杜花が、この庭園を荒れ果てさせたままで居て良いのか。
「整備しませんか。ここ」
 学院内を彷徨う撫子達の残滓を弔う意味でも、それが一番なのではないだろうか。
 感応干渉が消え失せたのも、この惨状を見せたかったのだと思えば、少しは納得が行く。
 杜花だけでは事務的になってしまう。もっと感受性豊かで、遺伝子共有者でもある彼女達を加える事で、杜花も、この子達も、そして撫子達もまた、納得の行く方向に持って行ける、そのような気がするのだ。
「あら。それは良い案ですわね」
「おっけい。先生に根回しするよ。必要なものもあるでしょ」
「この東屋、ガゼボというにはかなり『東屋』なのよね。業者入れましょ。学院長に言っておくわ」
「では、妹達を集めますね。うん。それが良い。温かくなってきましたし、外でお茶会も、悪くない」
 どうやら、意見は一致するらしい。
 四人で顔を合わせて、笑う。
 とかく自分達という人間は、立場こそありながら、纏まって何かをするような事は無かった。大体杜花の所為だが、全員が立場を改めた今ならば、そんな事も出来るだろう。
「頑張りましょう、ふふっ」
 なんだか――胸が熱くなる。自分はこんなにも幸せで良いのだろうかと、そう思うほどに。



 
 アリスと一緒にプランを立て、早紀絵にはあちこちと走ってもらい、二子には権限外の権限を行使してもらう。一週間の清掃日程を構え、その間を妹達と生徒会の一部に協力してもらい、整備と草刈り。
 庭園の専門的な整備には業者を入れた。

『ニコ。いきなり業者さんを呼んでも、業者さん困りませんか』
『工費は全部領収書をウチで切って、少し包むよういってあるわ。お嬢様のお遊びに付き合うだけで、びっくりな収入が入るのだから、文句ないでしょう。作業は口頭で伝えるわ。アリスが』
『昔の庭園の全景図が出てきましたの。基礎はシンメトリのフォーマルガーデンですけれど、全部再現は叶わないでしょうから、此方の一部にイングリッシュを加えて、これを元に少しアレンジして……こんな感じで』
『作業道具は全部貸し出してくれるってさ。時間外の活動も許容。お堅い先生方も少し撫でたら可愛く頷いてくれたよ。あ、人手は断ったけど、良かったの?』
『妹達に回覧したところ、全員参加するそうです』
『え、川流院(せんりゅういん)のお嬢様も、五十鈴の長女も土弄りするの? そりゃすごいねえ』
『私はともかく、天原満田七星のお嬢様が土弄りなんて、まず考えられませんけど』
 権威、人脈、資本、などというものを、とにかく集約したのが、自分達であると痛感する。
 ともかく出揃うものは出揃い、作業は直ぐに始まった。入学式、始業式前には全てを終える予定でいる。
 林と林の真中にぽっかりと開いた空間だ、草を刈りこみ、植え込みを整えるだけで相当の労力を要する。
 普段土弄りなどしないお嬢様方は相当に苦心したようだ。しかしそれで『疲れた』と言わせては御姉様としての資質が疑われる。
 杜花のありったけの『御姉様力』とでもいうものを発揮し、とにかくモチベーション維持に努めた。

『はあ……なんであたくしが草むしりなんて……庭師に任せればよいのに……』
『川流院さん、お疲れかしら?』
『も、杜花御姉様、えっと。これはですね?』
『いいの。繕わずとも解るわ。ごめんなさいね、こんな事を手伝わせてしまって』
『と、とんでもない。で、ですけれど、何故庭師を入れませんの? 専門的な分野はお任せしているようですけれど。不思議です。良家の子女が……。あちらで汗水流しているのは、あのアリス様ですし。遊んでいるようで率先して指示しているのは、早紀絵様でしょう? 極めつけは……七星の二子様。とても、土弄りをするようには』
『川流院さんは、中等部三年からの編入生よね。自己率先は、ここの基本なのよ。今月から、貴女も白萩でしょう。なら、少しなれておかないと、苦労するわ』
『この庭園は、白萩の備え付けですのよね。ともすると、今までは手入れがなかったんですのね?』
『……今後、妹達で当番化するの。ここはね、今は荒れ果てているけれど……本当は、綺麗な場所なのよ。アリスやサキ、ニコも、複雑な思い入れがあるの。妹達の、特別な場所』
『あっ』
 一か月ほど前、新しく妹として迎えた、地方財閥川流院家のお嬢様だ。恐らく身の回りの事など、殆ど人任せだっただろう。
 手袋を外して手を握ると、苦労も知らないような白い指が、作業で擦り切れ、紅くなっていた。杜花は躊躇わず、その傷口を口に運び、小さく吸う。
 川流院は顔を真っ赤にして俯く。
『私達のワガママなの。良家の子女が、必死になってしまうような、理由がある。きっと良い庭園に生まれ変わるわ。あの子達も喜ぶ。貴女達新しい妹達にも、きっと気に入って貰える。可愛い貴女に手伝ってくれると、凄く、嬉しい』
『は、あ、は、はい……杜花御姉様……』
 とろん、と蕩けた顔をする川流院の髪を撫でつける。率先して妹に名乗り出た割には、こういった事に疎いようだ。初々しさが堪らなく、杜花の心をくすぐる。
『ふふっ。可愛らしい。貴女を妹に取って良かったわ』
『あ、あたくし、頑張りますわ』
『また、あとでね?』
『ひゃ、ひゃい……』

 杜花の思わせぶりな態度と、彼女達の褒めて貰いたいという欲求があいまってか、作業は順調に進む。
 草刈りなどしていると、やがて前景が露わとなってくる。
 白萩の裏から此方に続く小路を出た所から、真っ直ぐガゼボまで続く煉瓦敷きの道や、林の近くに打ち捨てられていた白いアーチ、その他園芸に用いただろう小物なども各種発見される。

『おねえさま、おねえさまぁ』
『どうしたの、五十鈴さん』
『りんこと呼んでくださいな、おねえさま』
『燐子?』
『はあい。あのですね、こんなものを見つけたんです』
『板……? あ、ソーラーパネルかな……』
『こんなものも』
『……旧百円硬貨』
『こんなのもー』
『ティーカップ? 質がよさそう。りんこは色々見つけるのが得意ね?』
『あふふっ』
 二か月前に加わった妹、五十鈴燐子は、小等部の三年生だ。
 とにかくことあるごとに御姉様への報告を欠かさない。妹達全員から妹扱いされる、まさしく妹の鑑である。
 そんな彼女が見つけて来るものは、本当に些細なものから、とんでもないものまで多岐に渡った。
『おねえさま』
『ええ、何を見つけたの、りんこ』
『これ、きらきらしてます』
 それは、おもちゃの宝石だ。
 ガラス製でひたすらに価値は無いが、杜花にとっては懐かしい代物である。
『これはどこにあったのかしら』
『あちらにー』
『ありがとう。りんこ。あとでご褒美ね』
『ほんとですか。やったあ』
 屈託なく笑う燐子の頭を撫でる。よくもまあ残っていたものだ。
 ここは撫子達の庭であり、そして自分達の庭でもある。当時失くしたと思っていたものが、こんな形で見つかるとは思わなかった。
 緑色のガラス宝石は、確か市子が持ってきたものだ。
『まあ、懐かしい』
『アリス。これ、貴女の誕生石に準えていましたね』
『そうそう。五月ですから、エメラルド』
『……ちょっと、二人とも。それ』
『ニコ。実はですね、これ市子が……』
『……それ、ホンモノじゃないかしら。十カラットはあるわよね……ていうか、七星の本家でガラス玉探すより、ホンモノ探した方が早いわよ』
『ちょっ……』
 恐らくこれ一つで立派な家が建つ。二子はいらないと言ったが、杜花はうやうやしく返還した。

 細かい出来事は多々あったが、入学式を控えた三日前には殆ど形が出来てしまった。もっとかかるものだと考えていただけに、自分達の抱えるモノの大きさを改めて実感する形となる。
 ボロボロだった木製のガゼボは一度解体して、使えそうな部分を選りすぐって塗装し、特殊樹脂製の白い西洋風ガゼボと組み合わせて据え付けた。
 芝生の植え代えまでは流石に間に合わなかったが、ガゼボを中心に円形で配置されたアーチや花壇、刈りそろえられた植え込みなどは、つい最近までここがただの裏庭同然であったとは思えない程の完成度である。
 進行自体に然したる問題も無く進んだように見えるが、作業をしている内、妹達から何度か不可思議な現象についての話題が上がっていた。

『も、もり、杜花御姉様?』
『どうしたの、命』
『あのあのあの……あっちにですね、人影、というか、なんか……見え……』
 新学期から高等部一年生となる川岸命が杜花に縋りつく。彼女の指差す方向には、人影が観えた。影のみである。良く眼を凝らすと、それは形を露わにした。
 髪の短い女性と、髪の長い女性。双方とも、少し前の制服を着ている。
『命は、ぼんやりとしか見えないかしら』
『は、はい。でも、なんだか、雰囲気がその、失礼な話ですけれど、早紀絵様とアリス様に、似ていて』
『由縁のある人達です。悪さはしませんから、そのままにしてあげてください』
『杜花御姉様は怖くないんですか? あ、私超怖いので、もっと手をぎゅってしてください』
『はい、ぎゅー』
『はぁぁ……落ち付くぅ。杜花御姉様落ち付くぅ。あ、ドキドキしてきました。逆にドキドキ』
『作業して頂戴、命』
 作業を始めて四日ほど経った頃からだろうか。『彼女達』が良く姿を現すようになった。
 彼女達は妹達の作業を見守り、手伝い、時には殆ど妹達の中に自然と混ざって作業をこなしたりするのである。感受性の強い子程姿かたちがはっきりするらしく、怯えた妹によく縋られる。
 川岸に関しては単に杜花に触りたいだけだろう。
 ともかく欲しいものが何故か近くに置かれている、皆と離れて作業していたら知らない妹が居る、設置中のガゼボを眺める黒髪の女性を観た、という妹達からすれば戦慄の、杜花達からすれば溜息モノの証言がある。
 庭園の感応干渉が無くなった理由が、ハッキリとしてくる。
 彼女達は、場所を探していたのだ。彷徨う必要が無くなる場所を。
『モリカ、このマーガレットとパンジーの株、どう配置するんだっけ』
『正面から見て右の花壇の、端ですね。美的センスが問われますから無茶苦茶にしないでくださいね』
『あ、そういう古式ゆかしい女子力的なものをサキちゃん問われても困るです。で、モリカ、隣の人だけど』
『気にしないでください。たぶん誉さんです』
『ああ、だよねー。アリスに雰囲気似てるなあ』
『顔赤らめましたよ』
『流石私。幽霊にも好かれちゃう』
 最終調整の段階に入り、そこからは杜花達と、近しいモノだけで手を加え始めた。
 杜花達四人、そして支倉メイや三ノ宮火乃子、末堂歌那多なども加わり、七人程度なのだが、いつも十人に増えたりする。
 杜花は元から何の抵抗もない。アリスはもう慣れていた。二子に関してはしょっちゅう花に絡まれるらしい。早紀絵も近くにきさらが来ては手伝いをするらしく、最早日常的な光景になりつつある。
 そんなある日の事である。

「御姉様」
「ニコ、どうしました?」
「うん。ガゼボの裏なのだけれど、撫子がずっと見つめているわ」
「……触らないであげてください。あるものが埋まっているので」
「供養するもの? あの子泣いてるのよ」
「悲しそうに?」
「わからないわ」
「――そう」
「……自由に、してあげられないのかしら」
「自由こそが、解放であるとは、限りません。あの子達は、学院に沁みついてしまった、何か。本人であるかすら怪しい、残滓」
「だったらせめて……そっか。御姉様は……」
「ここが、あの子達の楽園になれば、良いと思いました。私は元ヒトデナシで、人間リハビリ中の身です。私みたいな即物的な人間が、彼女達に施せるものは、やはり心ではなく、形あるものなんですよ、きっと」
「ふふっ」
「ニコ?」
「優しいのね、御姉様。私はあの子達を見ても、悲しいだけなのに」
「義務感ですよ。あの人の孫としての、義務感」
「あれだけの事があって、義務感だけで庭園を直そうと言い出すのは、難しいわ。貴女の深い部分、貴女が貴女たる部分が、きっとそうさせているのよ。欅澤杜花。貴女は、きっと本来優しくなれるよう、作られている。私は貴女を欅澤杜花として見るわ。だから貴女も、私を二子として見て」
 二子が手を差し出す。慣れない作業だ。小さく可愛らしい手は、汚れ、傷ついている。
 二子も感じていたのだろう。この庭園を手直しする意味が、どれほどあるのか。
 しゃがみ込んで二子の手を握り、自分の頬に宛がう。
「汚いわよ」
「構いませんよ。ニコの手ですから。こうして体温を感じていると、貴女の存在と、自分の存在が、ハッキリするような気がするんです。何も無かった私達には、こんなのが、お似合い」
 互いに器だ。今はその器同士が、傷口を舐めあっている。
 互いを個人と認識し、淡い姉妹の幻想の中に居る。
「……ニコ、そろそろあがってください。私は、少しここに居る。お夕食の前には戻ります」
「ん。貴女だけで良いのね」
「はい。じゃあ、またあとで」
「ええ。愛してるわ、御姉様」
 二子と別れ、杜花は整えた花壇の近くにあるベンチに腰掛ける。
 暮れて行く空を見上げながら、何時か見た、撫子達の悲劇に想いを馳せる。
 杜花には、大仰な国家観も社会観もない。ただ、少なくともあの出来事が、撫子達の人生を破壊し、利根河真の人生を破綻させたのだ。
 テロリズムに端を発した悲しみの連鎖に、何の恨みもない訳ではないが、欅澤杜花という個人で、どうにかなるものではない。
 ……それを、個人でどうにかしようとしたのが、利根河真だ。
 人間性らしさを全て捨て、国家強靭化、国土防衛、技術革新に尽力したのだ。全ては愛する娘と妻の復讐の為に、復活の為に。
 自分達十代の、世界も知らぬ乙女には与り知らぬ事であった。しかし杜花は、彼の妄執に付き合う形となった。産まれる前から、付き合わされていたのだ。
 彼は、欅澤杜花をどう考えているだろうか。
 自分で手を加え、撫子再現の為の駒にし、個人を奪い去った彼は、愛人の孫に、どのような感情を抱いていたのだろうか。
 そしてその人物に計画を壊され、どう思ったのだろうか。
 七星はダンマリを決め込んでいる。二子を通じての面会も叶わない。
 彼には説明責任がある。どうにかして引き出したいが……手段は限られる。
(今度こそ、電話してみようかな)
 胸のポケットから、三つの指輪を取り出す。『宝箱』におさまっていた、彼女達の名前が入ったものだ。
 今日は出ないか。
 そう判断し立ち上がって、庭園の全景を見渡していると、ガゼボの近くに四人の人影が現れた。
(……満足、して貰えてる、かな)
 新しく据え付けた街灯に照らされるガゼボの中で、彼女達は静かにお茶会を始めたのである。
 何一つ恐れはない。杜花が近くによると、中から撫子が手招きをする。
「だいぶ整いました。これなら、人も呼べるでしょう」
 彼女達は喋らない。
 ただ笑顔で、小さく頷く。生徒会活動棟で見せたような、強烈な印象はまるでない。
 そっぽを向いている花の後ろに立つと、三人は音も無く笑った。顔がそっくりな事、花に孫が居るという事実が、滑稽だったのだろう。
「伝えたい事があったから、あんな、口だけの姿だったんですよね」
 撫子は頷く。
 消える事も、去る事も出来ない彼女達を鎮める為に必要なものは、安息を得られる場所だろう。
 ここは今日から姉妹の庭だ。古い彼女達と、新しい自分達が見た原風景の再現に、悲願の成就があればよいと、そう思う。
「今日はお返しするものがありまして」
 そういって、杜花は三つの指輪を撫子に預ける。
 彼女は言わんとしている事が解ったのか、それを胸に抱き、涙する。叶う事の無かった、自らが閉ざしてしまった箱の中身だ。
 撫子は指輪を三人に配り、自らもまた、自分の物を取り出して、薬指にはめる。
「――みなさん、綺麗です。お似合いですよ」
 今思えば……彼女達が学院内を彷徨い続けていたのは、何も逃げまどっていただけではないのだろう。
 欲しかった想い出、ある筈だった未来を、探し求めていたのだ。
 毎日毎日、終わる事なく繰り返す悪夢と悲劇を、ただ残滓と、概念となり果てた彼女達は、どのような思いで過ごしたのだろうか。
 杜花も酷い目にあった。素直に祝福は出来ない。
 だが、当然彼女達に、罪はない。まだ法整備もなされておらず、同性同士の恋に偏見があった時代、複数の同性を好きになってしまった、悲しい人たちの末路である。杜花にそれを責める意味も権利も有りはしないのだ。
「市子と早紀絵……助けてくれて、有難うございました」
 杜花が頭を下げると、三人も上品に礼をする。
「お幸せに」
 彼女達の姿がかき消えた。
 その存在が失われた訳ではないのだろう。ただ、一つ区切りがついたのだ。
 彼女達の物語は、これで終わりだ。彼女達は死者であり、残滓である。終わる筈だった世界が継続してしまったに過ぎない。
 しかし、自分は続いて行く。欅澤杜花は、取り戻さなければならないものがあるのだ。
 それは、以前のような強烈な執着ではなく、自分という人間に線を引く為のものである。
「ニコ、いるんでしょ」
 背を向けたまま、杜花は言う。花壇の影から、帰った筈の二子が姿を現した。
 彼女は小走りで近づくと、杜花に縋りつく。
「七星一郎、逢えませんか」
「……難しいと思うわ。それに貴女、医療センターでも、門前払いだものね」
 観神山医療センターに、七星市子は眠っている。一度二子を供なって赴いたが、警備員に囲まれた。突破は容易だろうが、問題を起こして良い事はない。警備員に罪もない。
 ガゼボに腰かける。真新しい木の匂いに包まれながら、静かに目を瞑る。
「働きかけているのだけれど、一郎お父様は、応じない。兼谷は、暫く姿を見て居ないの。どこへ、行ったのやら。もしかしたら、別の妹の所に、いるのかも」
「また、繰り返すんでしょうか。もう既に、私のような子が、いるのかもしれませんね」
「悲願、だもの。その人生の全てを投げうって、利根河真は七星一郎になり、その全ての権力を用いて、撫子を蘇らせようと、している。次の器は、誰かしら。把握している十姉妹の内、市子姉様と私は直接兼谷の子だけれど、他はたぶんクローンだと思う。そうすると、器に問題がある……けど、どこまで、本当かも、私は解らないわ。十姉妹全員、兼谷の子かもね。何も性交する必要も、兼谷が母体である必要もない。精子と卵子があれば、幾らでも、実子が作れてしまう。もはや、培養よね。クローンより、酷いかも」
「皆クローンでしょう。でなければ、二子に固執はしない筈です」
 隣に二子が掛け、寄り添う。小さな彼女はジッと杜花を見つめた。
「まだ、ちゃんと謝っていませんでしたね。ごめんなさい。こんなに綺麗な貴女を、傷つけて」
「ううん。いいの。私は……あの家に居るよりも、何処に居るよりも、まだ、貴女に乱暴に扱われた方が、自分を自分だと自覚出来るから」
「ニコ」
「代替えで良い。私を見て。今、貴女は限りなく、私の抱いた幻想の欅澤杜花だわ」
 ……。
 久しぶりの感応干渉だ。杜花は否定せずに受け入れる。
 七星二子が、七星市子から話される『欅澤杜花』という存在について、どのような夢を見ていたのかが、負荷のかからない速度でゆっくりと流れ込んでくる。
 いつもは、触れるようなキスだけで終えていたが、今二子が望んでいるものは、違うだろう。察して、力を入れれば折れてしまいそうな身体を抱きしめ、深く、キスをする。
 幼く甘い、彼女の体温を感じながら、その指同士を絡ませる。舌を啄ばむたびに震える二子が、妙に艶めかしい。
「あの時一度、考えました。出会い方が違ったらって」
「一緒よ。どう出逢おうと一緒。姉様ばかり見る貴女に、私が嫉妬するだけ。そしてこれから、悩み続けるの。意識を戻さない姉様を想いながら、優しい早紀絵とアリスに挟まれて、私に纏わりつかれて、貴女を慕う妹達に囲まれて、泣いて、笑って、キスして、キスして――」
 もう一度キスして、口を塞ぐ。太股に手を滑り込ませると、二子は拒まず、それを受け入れた。
「ただ好きだ嫌いだと、言えるような普通の関係ならば、どれほど楽か」
「――うん」
「可愛いですよ。貴女は可愛い。とっても。貴女が可愛いから、私は貴女を守ります。彼等には、返しません。ずっと私を見ていてください。七星ほど贅沢はさせてあげられませんけれど、ずっと隣に居てください」
「最低な貴女の、隣にいるわ。私は責任が欲しいの。迷惑をかけた責任。果せるかしら……あっ」
「……部屋に、戻りましょう。ね、ニコ」
 期待と不安が入り混じったような二子の頬を撫でてから、手を繋いで庭園を後にする。
 どれだけ願っても届かないという諦めを感じながら、しかし、どこかで期待しているのだ。
 実験台にされた七星の子達が……個人になれる日を。



 夕食後、杜花は職員棟にまで赴き、記憶にある番号から、彼に電話をかける。
 数コール後、彼は出た。
『お久しぶりです。『お父様』、欅澤杜花です』
『やあ杜花。元気にして居たかい。僕は相変わらず元気でね。ああ、兼谷も元気だよ』
『それは何より。ご連絡差し上げたのは、他でもありません。今度少し、お時間を頂けますか』
『ああ、何よりも優先しよう。何処でデートをするんだい?』
『三日後の日曜日、15時に、小庭園でお待ちしています』
『あそこかあ。懐かしいね。整備したと聞いたよ。構わない、赴こう』
『……では、お待ちしています』
『ああ、そうそう。杜花、二子とは仲良くしてくれているかい』
『ええ。もう、貴方に返す気もありませんので』
『はっは。そうか、では不味いかもしれないね。よし、スケジュールを調整しよう。逢えるのを楽しみにしているよ、杜花』
 飄々とした物言いは、相変わらずだ。彼は感情を表には出さない。何を考えているかなど、兼谷すら解らないだろう。
 しかし、ともかく、取りつけた。正月以来、彼に逢える。
 杜花はその時どうするだろうか。
 拳を握りしめる。杜花は通信を切り、静かに俯いた。



 どんなに努力しようとも、報われない現実がある。
 努力の量、質、伴わず、才能の有無、伴わず、全ては命運に任されている。
 一定評価ならば難しくは無いだろう。報われる為の努力と才能が全て無駄という事はない。だが、一定以上、もしくは常識の範囲外のものを望もうと思えば、そこは既に人間の領域ではないのだ。
 その望みを叶えようとする努力は、もはや世界への宣戦布告である。
 最良の選択肢を選ぼうと努力する事も、その内に含まれるだろう。自分が強大な何かの掌の上で踊らされている事実すら知らず、抗おうとする姿は、驚くほどに滑稽極まり無い。
 杜花達は箱庭の鳥だ。
 産まれたその日から誰かの意図の上にある。逆に言えば、それに気が付かない方が、幸せである事の方が多い。自分はこの箱庭の中でこそ、もっとも自由であると思えるならば、それ以上の幸福を求めたり、抗って傷つく事もない。
 しかし杜花は否とした。
 そして否として尚、菩薩をも凌ぐ大きな掌から、逃げおおせるなど叶わない。
 気が付き、傷つき、心を痛め、結局どこへも行けない、大人たちの恩恵無しでは生きられない、そんな虚しい生き物なのだと、実感する。
「モリカ、挨拶しないと」
「……うん」
 顔を上げ、庭園に集まった妹達を見る。
 何も知らない小鳥たちの王、欅澤杜花は、春の暖かい日和の中、一度空を仰いだ。
 己の内に収めるべきものを失って尚、生きてしまっている自分に対して、悲しみを抱く事すら、もう遠い過去のようだ。
 気持ちはある。
 だが、手を伸ばしても届かない彼女を思い続ければ、それだけ、自分を支えてくれるという彼女達を傷つけてしまう。
「今日は、集まってくれてありがとう。皆のお陰で、あの荒れ果てた庭園は、こんなに美しく生まれ変わりました。土弄りなどした事もないであろう、他の世界で生きている貴方達には、少し、大変だったかもしれませんね。でもきっと、そんな小さい努力でも、貴女達の糧になると、私は思っています」
 傍に居た川流院が、目元をハンカチで拭う。
 服の着つけとて、メイドに任せていたであろう彼女からすれば、これは余程の努力なのだ。
 与えられるままを与えられ、拒否する事もなく受け入れ続けて来た彼女達が、産まれて初めて、率先して皆と何かを作りあげたという事実が、嬉しいのだろう。
 そんな事で泣くなんて滑稽だと、想う人もいただろう。以前の杜花ならば、見えないところで鼻で笑ったかもしれない。
 だが、誇るものを失った杜花にとって、もうそんな事は出来ないのだ。
 杜花とて、所詮は小さい世界の王でしかない。
 小さい世界の、小さな出来事に涙を流す、それは、やはり美しいのではないだろうか。
「今から四十年程前の事です。詳細は教えてあげられませんけれど、とても悲しい事がありました。とても仲が良かった姉妹達は引き裂かれ、残された私の祖母は、それを抱えたまま、ずっと過ごしてきました。この庭園は、彼女達が引き裂かれて以来、放置されてきました。彼女達の悲しみと、私達のワガママと、貴女達の努力によって成り立つこの庭園ですが、辛い想いを含みながらも、きっと、新しい貴女達に、心に残るような景色を、授けてくれるはずです」
 小さくとも、子供であろうとも、しかし、未来を夢見るのは自由だ。
 結局巨大な枠組みの中に囚われた人間は、大なり小なり、拘束を余儀なくされる。絶望するも、希望を抱くも、心の持ちよう一つであると、そう考えねばならない。
 それを妥協であると罵るだろうか。
 自らも抜け出せない癖に、大口を叩けるだろうか。そもそも、実感すらしていないままに、罵れるだろうか。
 虚しいと実感しよう。
 誰かの恩恵無しには生きられないと、納得しよう。
 産まれる前から自由などなかったとしても、それを幸せだと思えた日常を、杜花は切り捨てたくは無い。
 この庭園は理不尽の縮図だ。
 小さな世界しか知らないお嬢様達が想い描いた、自由の園である。
 悲痛と、妥協と、幸福と、夢が混同する、希望と絶望のカタチだ。
「これから一年、私は家族と離れて暮らす貴女達の家族となって、支えになります。相談してください。夢を語ってください。希望を教えてください。明日の話をしましょう。昔の話をしましょう。恋の話をしましょう。そうしてくれれば、私は貴女達の華であれる。そうしてくれれば、私は――私は、幸せです」
 小さな拍手が起こり、杜花は深々と頭を下げた。
 初めて明確に、彼女達に対して、自分の立場を示したのだ。
「……挨拶はこれぐらいにして、今日は存分に羽を伸ばしてください。お菓子も私達で焼きました。召し上がってみてくださいね」
 今ならば、撫子の、市子の抱いた姉妹制度の意味が解る気がする。姉となって初めて、彼女達の寂しさを、分かち合える。
 子供にも大人にもなりきれない少女達が想い描く、未来への展望と、現状への不満。自分達は世界から隔離されているのだという不安と、同等に持ち合わせる特権意識。
 それら不都合な感情を、自分達が『妹』であるという事実が、全てを覆い隠してくれる。
 あらゆる境遇もあらゆる価値観も、姉の、欅澤杜花の下において、平等なのだ。
「御姉様、喋って喉が渇いたでしょう」
 白塗りのガーデンチェアに腰かけると、二子がお茶を差し出す。テーブルを囲んで座るのは、いつもの面子だ。他の妹達も、思い思いにお喋りを始める。
 自分達で手直ししたとはいえ、いざこうしていると、本当に『原風景』の中に居るようだ。
「杜花様」
「メイさん。お疲れ様。手伝ってくれて、有難うございますね」
「いーえ。ああでも、こうしていると、なんだかむずむずしますよ。遺伝子の記憶かな」
「……あれから、七星は、何か貴女に、伝えていましたか」
「ううん。私はやっぱり、末端だから。そういう意味で、クローンの中だと、一番自由なのかもですね」
「メイ。面倒をかけたわ。姉の代わりに、謝るわね」
「二子ちゃんは気にしなくていいんですよぅ。今後も、何一つ気にする必要はないです。二子は、ただ一人。貴女も、七星なんて気にしないで生きれば良いんです。どうせ気にしなくたって、真お父様は放っておきませんよ。そう。貴女は生きるに不自由しない」
「どうして、そんなこと」
「なんとなく、解ります。杜花様も、気にしなくて大丈夫です。彼は、そういう人ですから」
 それだけ残して、メイは他の卓に混ざってしまった。真意は読みとれないが、殊七星についての事実に、メイが嘘を話した事はない。杜花は二子と目を合わせると、静かに頷く。
 お茶会の後、彼に聞けば良い。
「ねえねえモリカ」
「はい?」
「妹全員大集合して解ったんだけどさ」
「ええ」
「あの子とあの子、私のお友達なんだけど」
「……手広い事で」
「ちなみにガチだからねー。気をつけてね」
「こう、あまり爛れさせたく無いんですけれど、私の派閥」
「側近の妹プラス私、三人も肉体関係があって爛れてないってのも」
「ああ、なんだか庭園が汚れる会話ですね。自分でしておいてなんですけど」
 アリスはにっこりと笑い、二子は顔を真っ赤にして俯く。
 早紀絵はそれが面白かったのか、楽しそうに笑う。流石に妹達は知るまいが、上層部はずぶずぶの、古式ゆかしい典型的日本型組織である。
 妹、としている間は良いが、早紀絵の指摘するように、妹が『女性』として近づいて来た場合、杜花はどう対処しようかと、いささか迷う。
 思わせぶりな態度は彼女達に大変好評なのだが、やりすぎると角も立つだろう。
「ま、私はモリカに何人愛人いても構わないし、私こんなだし。ああほら、一番最初の影のうわさを探しに、生徒会活動棟に行った時。あの時喋ったじゃない。モリカなら何でも出来ちゃうって。まさしくその足掛かりに今いる訳だわね。くふふっ」
「そうそう。杜花様は何一つ気にしなくて良いんですわ。ねえ、二子さん?」
「え? あ、う、うん。ええ。お、御姉様の、好きにすれば、良いと思うわ」
「で、二子やい。杜花とどうだったの? 凄かった?」
「さ、サキ。あのね、お茶会でそういう事……」
「御姉様その……ふ、普段よりもずっと優しくて……私、嗚呼……恥ずかしい……」
「ちょ、やめ、お願い、ニコ、そういう話やめ」
「くふふっ。流石御姉様は違うなあ、ねえアリス」
「凄いんですのよねえ。異性愛者の子だって、あれを受けたらとてもとても」
 レズビアンによるレズビアン称賛という、何か姉妹制度として破綻しているような会話に目を瞑る。彼女達がそれで良いなら、仕方ない。
 もう少し小奇麗なお話でお茶を濁したかったが、生憎と杜花周辺は花も恥じらうような乙女らしいお付き合い関係にない。
 ふと視線を感じ、目だけを動かす。近くの卓にいた川流院が、じっと杜花を見つめている。また別方向に目を向けると、元市子の妹であった岬萌も、杜花に視線を送っていた。
 どうも手遅れが多い。近いうち、人間関係が複雑になるのが目に見える。
 ……まあそれも、楽しいかと、元ヒトデナシの杜花は考える。
「見てる見てる。ほらあの子、あれは自人会党の鏑矢内務大臣の次女だね」
「あちらの子は、北条エレクトロニクスの創業者一族の子ですわね」
「あっちの子。あれ、七星自動車の社長の三女よ」
「あれ、モリカ。これ手籠にしちゃったら、相当面白いと思うよっ」
「あーあー。何故そんな悪の組織の大幹部みたいな真似。私自ら赴く事なんてありませんよ。私を何に祭り上げる気ですか、貴女達は」
「あははっ」
 からかわれ、仕方ない、と笑う。あながち冗談とも言えないのだ。
 杜花の持つ人脈はここにいる三人だけでも、悪用しようと思えば出来てしまうような立場だ。当然、そんな無粋な真似をするつもりはないが、権力の自覚なき権力ほど、恐ろしいものはない。
 卒業した後とて、その資質は問われるだろう。
 望まずとも、手に入れてしまうものはあるのだ。
「もーりーかー」
「……ぶふっ」
 さてそろそろ、皆に挨拶をして回ろうかと立ちあがった矢先、庭園の入り口から大きな声が聞こえる。他の卓に居た三ノ宮火乃子が、紅茶を吹きだして粗相した。隣でくっついていた歌那多が大ぶりに手を振る。
「杜花っ」
「か、風子先輩?」
「お嫁さん沢山募集し始めたって本当!?」
「どんなガセネタ掴まされてきたんですか、貴女」
 小走りで近づいて来たのは、三ノ宮風子だ。今年から大学生である筈の彼女が、何故観神山に居るのか。
「お姉ちゃん。東京の本家に戻ってたんじゃないんですか?」
「んなものはどうでもいいの。三ノ宮は任せたよ、火乃子……」
「そんなしんみり言われても。ああ、ごめんなさい、杜花さん」
「いえ。どうしたんですか、風子先輩」
「やだ。風子って呼んで。いやー、しかし集まったね。これ全部杜花のお嫁さん候補?」
「違いますよ妹ですよ」
「あ、妹取り始めたのね。え、ずるい。私もなりたい」
 風子に……あの時の記憶が、あるのかないのか。確かめる機会もなく、彼女とは別れてしまった。風子にとって悲痛でしかないであろう、杜花との別れだ。
 思い出さない方が、良いこともある。しかもあれは、杜花にとって今生の別れの挨拶であった。
「風子先輩。何故部外者がここに?」
「うわ、アリスきっつ。何、文化祭の事まだ根に持ってるの? お尻の穴の小さい子だねえ」
「下品な。だから苦手なんですのよ、貴女。杜花様、コレと取り合っていると穢れますわよ」
「まあまあ、アリスはどうでもいいのよね。で、なんかお茶会って聞いたけど」
「知ってるじゃありませんか」
「杜花が一端の御姉様になってさ、市子の後継いだって聞いたら、凄く逢いたくって。東京から飛んできたよ。うちのジェットで。ここ辺境すぎるよぅ。で、そうそう。杜花に言いたい事があって」
「な、なんですか?」
「私、やっぱり杜花が好き」
 杜花が、半笑いで固まる。
 アリスは硬化し、二子が食べていたクッキーを取り落とし、早紀絵は楽しそうに見守っている。
 それがこの卓だけに聞こえたならば良いが、風子は声が大きい。周囲に居た妹達まで、小さく黄色い声を上げる始末である。
「なんか、物凄いフられ方したような気がするけど、そんな事なかったぜ。もうさ、東京行ってもさ、寄って来るのはパッとしない女の子に男の子だし、大体私より弱いし、面白味もないというか、それでさ、悶々としちゃうのよ。杜花の事考えると。ああ、私、貴女好きなんだって」
「それは。アハハ。光栄なことですね、ええ」
「あらそう? じゃ、杜花私と結婚して。三ノ宮の苗字もなんか邪魔だし、欅澤にして」
「いやその」
「だーめですわ!」
「風子、あんまり七星を怒らせない方がいいわ」
「風子ちゃん先輩、必死で可愛いなあ。処女なんだろうなあ」
 側近三者三様、風子を囲む。
 早紀絵はどうでもよさそうだが、毛嫌いしているアリスと、降って湧いた天災のような扱いの二子は御立腹だ。
 三ノ宮風子の最大障壁である七星市子が居ない現在、彼女は恐れるものもないのだろう。まして卒業した身だ。しかしまさか、こんなところに、こんなタイミングで乗り込んで来る程行動力があったとは思わず、杜花も何だか、逆に愉快になって来る。
「風子」
「なあに?」
「お友達からで良い?」
「杜花のお友達って肉体関係込みなの?」
「あ、あのですねえ……」
「えっへっへ。良いんだ。疎遠になるのだけは避けたかっただけだから!! 乗り込んで来た甲斐がありました! ま、宜しく、お三方。あははっ」
「も、杜花様ぁ……」
「御姉様、私ソレなんか怖い」
「モリカ、私風子ちゃん先輩に手付けても良い?」
「ああもう、好きにしてください」
「あははっ。いやあ、七星一郎も、面白い話持ってくるもんだねえ。よかったよかった」
 どこからこんな話が漏れたかと思えば、そこからだったか。
 彼は本当に、後ろで手を回さないと気が済まないのかもしれない。いささかトーンダウンする皆を取り繕い、風子も卓に加え、実も無い話を始める。
 あんな断り方をされれば、記憶に残っていても不思議ではない。
 断っておいて、酷い話だと、想わない事もないが……相手の感情を押さえつけるような権利を、杜花は有していない。
(……えへへ……うん。これで良い。私、これが良い。あの時の事、気にしないで、杜花)
(風子?)
(なんとなく、なんか、良くわかんないけど、覚えてる。気が変わったのなら、気にしないで。むしろ、変わられると困っちゃうよ。これから、宜しくね)
(嗚呼私、周りからダメにされてる気がしなくもない……)
 ……それで彼女が幸福であるというなら、杜花は否定しない。全ては自分から発したものだ。これからする努力と言えば、彼女達に見捨てられないよう、最大限に愛をそそぐ事だろう。
 もう一度、心の中で自分は最低だと呟く。
 ただ、貶めるだけではなく、戒めだ。
 こんなにも好まれる自分を蔑んでは、彼女達の価値まで下がってしまう。
「あ、私戻らなきゃないんだ。いやもーほんと、ギリギリで来てるの! あ、お茶ありがと、ごちそうさまっ。杜花、またね。次は二人でいちゃいちゃしたいー」
「い、忙しい限りで。連絡、くださいね」
「うん。うふふーっ。じゃねっ」
 風子は、お茶を一気に飲み下し、颯爽と去って行った。その姿はまるで風である。ご両親も、こうなる事を見越して名前を付けたのではないかと思うほどだった。
「な、なんだったのかしら。台風? 御姉様、本当に良いの?」
「良いんですよ。私、彼女の事、好きでしたし」
「……まあ、はい。解りましたわ。杜花様がそう言うなら。ええ。それで、まあ良いとして、何故七星一郎氏が、こんなところで開かれるお茶会の話を?」
「呼んであります。お茶会後ですけれど」
「……やっぱり御姉様は特別扱いなのね。私すら、会話も出来ないのに」
「へえー。あれが学院に来るのかあ。神社で一度みた以来だねえ」
「それで、お願いがあります」
 居住まいを正し、三人に向き直る。七星一郎との面会だ。彼女達は、杜花がどのような行動に出るか、不安だろう。
 杜花の囲い込みはある意味……彼に手を出さない為の、防御壁である。
 想えばあの時、市子になろうとする二子にかどわかされぬ為と、杜花は二人に頼った。
 前科があるのだ。
 裏切ってしまった事実がある。
 しかしだからこそ、今度こそ、杜花は、ここにいる妹達、そして何よりこの三人の為にも、暴挙には及べない。
「……見守って、いて欲しい。私はもう、貴女達を悲しませたくないから」
 三人は、静かに頷いた。
 裏切れない。
 自分達は――運命共同体だ。



 十四時三十五分。
 御祭の後にも似た、物悲しげな静けさだけがあった。
 全ての片づけを終え、既に庭園には四人しか残っていない。アリスは花に水をやり、二子はガゼボの中で本を読んでいる。恐らく、幻華庭園だろう。
 早紀絵は杜花と一緒に、何を話すでなく、ベンチに座っていた。
 早紀絵が、首の調子を確かめるように、小さく捻る。杜花は彼女の手に手を重ね、あの時の事を思い出す。
 背負い込むものがあろうがなかろうが、未来への憂いがあろうがなかろうが、たった一つの為に命を投げ捨ててしまう、その衝動。彼女の自殺未遂が、杜花の価値観を定めた。
 どれほど愚かだと自覚していようと、人間は衝動に突き動かされた場合、あってはならない選択肢を選んでしまう事がある。
 事前にあった出来事も、先の未来も全て考慮せず、目の前の絶望を受け入れてしまうのだ。
 いざ、七星一郎を眼の前にした時、杜花は彼を、きっと殴らずにはいられないだろう。
 衝動とは恐ろしいものだ。積み重ねた何もかもを無為にする。
 しかし人間が人間である限り、絶対的な衝動の制止など叶わない。
 幾ら訓練を積んでも、確実に冷静でいられる保障など、どこにもないのだ。
「痛みますか」
「ううん。大丈夫だよ。モリカこそ大丈夫かな。顔、少し蒼いけど」
「平気です。人とあって、お話をするだけですから」
「今まで不謹慎だなって思って、言わなかったけどさ。モリカの落ち込んだ顔、可愛い」
「皆に言うんでしょう?」
「バレたか。くふふ。うん。言うよ。みんな可愛い。みんな大好き。でも、やっぱり私は、モリカが一番。ごめんね、気の多い女で」
「私こそ。ああきっと、これから私も、サキみたいになっちゃうのかな」
「私とアリスは良いんだけどねえ。二子、やきもちやくだろうし。私達がさー、仲良くしてる所みると、あの子ね、すーごい膨れるんだよ。ま、それも可愛いのだけど」
「……ええ。ニコは、可愛いですね。小さい頃の、市子そっくり」
「そーだね。ほんと。そいえば、義理じゃなくて、本当に姉妹だったんだっけ。そりゃ、似るよね」
「あの姉妹達に、よくもまあ、振り回されたものです。掻き回したのは、私ですけど」
「兼谷はそれも織り込み済みだったじゃん。過去の圧縮再現だっけ。無茶だねえ」
「……全く」
 道を外れているつもりで、結局想定内であったのだ。
 あの出来事の想定外は、早紀絵の自殺と、撫子の暴走だろう。
 以降の欅澤杜花は、器でありながら既に元のものとは変わっていた。
 穴が開いた訳ではないのだ。受け入れる隙間だってある。市子専用だった器が、しっかりと他の物も受け入れられるようになったのだ。
 明日の無かった自分には、確実な未来がある。
「私の言葉、伝わったんだ。解るよ。モリカ。貴女の手が、凄く暖かい。今までのモリカも好きだったけど、私の事を見てくれるモリカは、もっと好き。モリカは、何でも出来る。何にでもなれる。私は、私達は、貴女の為に居る。そして、貴女は私達の為にいる」
「少し、先の事を話しましょうか。外出申請を出して、皆で外にいきましょう。そうだ、私、家電にもパソコンにも疎いから、教えてください」
「デート? みんなで? あ、じゃあホテルとか予約しよう。いいとこ。くふふっ」
「……貴女は本当に、馬鹿で、可愛いですね。思わず、頬を殴りたくなる」
「暫く殴られてないなー。じゃあそういうのも織り込んでおくかあ……アリスともかく二子がドン引きしそうだけど」
「大丈夫ですよ。あの子も素質ありますから」
「マジで。七星のお嬢様がさー、地面這いつくばるって、想像すると凄いね。あ、凄いわ。なんかコスプレさせようよ。羞恥心で顔真っ赤にする二子みてみたいー」
「ほんと、酷い会話」
「……何でもいいよ。モリカとこうして、くだらない話してるだけでも、幸福だもの。私達は、今、生きてる。身体が弄られていようが、社会を知らなかろうが、箱の中だろうが、拘束されていようが、私達は生きて、会話して、先の事も考えられる。やっぱり、幸せな事だよ」
 肩を寄せる早紀絵に、杜花も寄りそう。
 特に彼女は、一層気にかけてあげなければいけない。それが杜花に出来る贖罪だ。一生かけても、償わなければいけない。彼女に、幸せでいて貰わなければいけない。
 じわじわと、心の中に沁み入るような幸福感を噛みしめる。
「サキ、もう、どこにもいかないでね」
「うん。モリカも、どこにもいかせないからね」
「……いちゃいちゃとまあ、お熱いことで」
「いいじゃありませんの。二人が幸せそうで、私なんだか、ドキドキしますわ」
「貴女、外から見てるのも好きなのね?」
「二子さん、じゃあ、わたくし達もいちゃつきます?」
「え、いやその……」
 押しのけるようにして、アリスと二子が隣に座る。この二人も、なんだかんだと仲が良い。
 新しい庭園の乙女たちは、多少爛れているが、円満だ。撫子達が、櫟の君達が夢見た光景……にしてはいささか苦しいが、四人は心を読まれる事を、一切苦に思っていない。そも、隠し事の一つとて、ありはしないのだ。
 撫子達の不和は、他者感応干渉能力がその一端を担っている。
 それも当然だ。頭の中を覗かれて気持ちが良い人間などいない。きっと超能力なんてものは半信半疑ではあったろうが、疑心暗鬼の一つも覚えただろう。
 四人は既に、そんなものを思い悩む領域に居ない。浮気どころか、まるごと全員関係があり、早紀絵に関しては恋人を片手で数えられない。アリスが気の多い子であることぐらい誰もが承知である。
 とにかく、特殊なのだ。
 そして当時のように、同性同士の恋仲を、奇異の目で見る社会ではない。
 自分達は恵まれた環境に居る。不満を漏らすなんて真似をしては、撫子達に示しが付かない。
「さ、二子さん。キスしてくださいまし。アリス、全然大丈夫ですわよ?」
「し、しろと言われてするなんて、なんか、それ、私違うと思うわっ。もっとこう、なんというか、雰囲気とかあるでしょ、乙女なんだからっ」
「一理ありますわ。関係を長く続けるには、恥じらいが必要であると聞いた事がありますもの」
「そ、そう。ならそれでお願いするわ」
「アリス、ニコは抱きしめられると流される性質がありますよ」
「御姉様、人を単細胞生物みたいに表現しないで……あ、やだ、アリス、嗚呼」
「うふふ……なんだか温くてちっちゃくて可愛い……」
「アリスってロリコンだっけ。にしても二子ってばちょろい。顔真っ赤だし。モリカ、この子欲しい」
「どうぞどうぞ。共有財産なので」
「わあい」
「あ、アリス。良い匂いする……あ、ちが、ちがう。御姉様助けてっ」
 ――目を瞑り、開く。
 空を見上げ、戻し、立ちあがる。
 時計の針は、十四時五十九分を指していた。
「おねえさ……あっ」
 煉瓦敷きの小路を歩く。
 柔らかい風が頬を撫で、植えたばかりの花の香り、土の匂いが、鼻孔を掠める。
 ただ真っ直ぐを見て、歩く。
 庭園の入り口に現れた彼を目指し、歩く。
「……彼、一人、ですわね」
「わからんね。七星一郎は、ホントさ」
 庭園の中ほど。花壇と花壇の合間で、杜花が立ち止まる。

「――やあ、みんな。お久しぶりだね」

 黒々しい髪をオールバックにまとめ、白いスーツに、紅いネクタイ。杜花よりも高い身長は、しかし、その存在感からかもっと大きく見えた。
 両手には、花束だ。
「良く、来てくれましたね、利根河真さん」
 杜花は、最高の笑顔で出迎えた。
 これ以上ない、とびっきりの、姉妹達にも見せないような、ことごとくわざとらしい、最大級の笑顔だ。
 相対する。
 彼こそが、姉妹達最大の支援者であり、最大の敵であり、国家の顔であり、他国家の敵である。
「フルネームで呼ばれたのは、久々だよ。いろんな事を、もう少し略式してみんなに教えるつもりだったのに、早紀絵君とアリス君がバンバン調べちゃうし、口の軽い子もいたしね。いや、良いんだ。別に隠している訳じゃない。好きなように呼びたまえよ」
「あちらへ。お茶でも飲みながら、ゆっくり。真さん」
「……ああ、良いね。君のお婆様にも、そう呼ばれていたんだ。忘れていた恋心が、また芽生えそうだ」
 三人が見守る中、杜花は一郎を連れ立ち、ガゼボに案内する。一郎に着席を促し、杜花も腰を掛けた。
 二子がティーセットを持って現れ、二人にお茶を出す。
 七星一郎は終始笑顔だ。それ以外の表情も感情も読みとれない。
 彼は、存在そのものが全てにおいて交渉材料だ。商談も掛け引きも、彼が動く、というその一点で全てが決まると言って良い。本来ならばこんな学院の、こんな辺鄙な場所に現れるような人間ではないのだ。
「お父様、その」
「ああ、二子。暫く連絡も取れなかったね。いや済まない。此方にも事情があってね。杜花とは仲良くやっているそうじゃないか。喜ばしいね。これからも良くして貰いなさい」
「はい――あの」
「今日は、杜花と話に来たんだ。済まないね、二子は、下がっていてくれるかな?」
「す、済みません……」
 二子が深く頭を下げ、後ろに下がる。
 傲慢な態度が目立つ二子も、七星一郎の前では大人しい猫のようだ。
 杜花は紅茶を一口してから、彼に問いかける。
「どうですか。だいぶ、綺麗になったでしょう」
「うん。最後に見たのは何時だったか。撫子はここをいたく気に入っていたね。市子もだ。これが、君達姉妹の原風景なんだね。まさしく私は男という異物だ。いるだけで申し訳なくなるよ」
「……一連の事に関して、真さんは何か、想うところはありますか」
「はっは。そうだね。正直、悔しいよ」
 彼は机に肘をつき、杜花から目を外して庭園を見渡しながら言う。
「時系列順に説明しよう。少し長くなる。いいかね?」
「ここで時間を気にするのは、真さんだけですよ」
「ふっふ。その呼ばれ方、むず痒くて堪らないな――ええと、あれはそう、知っての通り、大陸系の反日テロリスト団体『大華団』の末端組織による、観神山女学院占拠事件が、全ての発端だ。2010年代から大陸の情勢が不安定になり、国内不満を退ける為にその矛先を、我が国に向けて居たのは、恐らく勉強しただろう」
「ええ」
「大東亜戦争前後、日本国内に作りあげた共産主義コミュニティと、半島の政府を嗾けて小さなテロリズムを始めたのが、20年代だね。かの国は積み重ねて来た独裁のツケ、貧富格差が都市部でも爆発するようになっていた。どうにか国外に意識を逸らしたいと、強い共産党を演じる為に、実行部隊が活動し始める。『我々の組織力をもってすれば、極東の島国なぞ工作員だけで十分なんだぞ』などとね。当時既に内紛寸前であったしね。国内の反乱分子を抑止する目的もあっただろう。それが学校占拠事件が頻発した原因だ。一番最初の事件が彼等にとって成功に終わると、たびたび繰り返すようになった。日本人は大人しい。脅せば金を出すと。末端組織だ、本国から大々的な支援もない。あるのは武器ぐらいだね。破壊には金が必要だ。ただの破壊じゃなく、我が国の信用部分に対する破壊だ。しかし銀行を襲ったくらいではインパクトが薄い。ああ、銀行も襲ったが、もっと過激な方法が欲しい。センセーショナルに発信する必要がある。頻発した学校占拠事件の内の一つが、観神山女学院占拠事件だ」
「はい。大体の調べはついています」
「うん。私は当時七星の娘と結婚してね、子供を一人もうけていた。研究者としても実力を買われ初め、妻は美しく貞淑で、娘も、素晴らしい子に育った。私は彼女達を、心から愛していた。その身その心、その全てを彼女達に捧げ、必ずや幸福をもたらそうと、そして七星に尽くし、同時にそれは愛すべき日本国家の為になると、信じて疑わない、そういう人間だったんだ。その気持ちは今も変わらない。だがあの時、あの事件で、そう、恐らくは君達も思っているだろう。利根河真は、狂ってしまったと。占拠事件が起こっていると知ったのは、連日徹夜で、やっと休憩に入れたと、テレビを見た時の事だ。都合上電波の入らない研究棟にいてね。テレビを見ていると、直ぐに電話連絡が入って、私は観神山の研究所から飛んで行った。何時まで経っても解決が観えない、娘たちはどうなっているのか、まるで不安で、頭がおかしくなりそうだったのを、良く覚えているよ」
 一郎は乾いた笑いをもらし、頭をかく。
 事件が起こったのは、彼が本当に三十代の頃である。御歳七十七の、その見た目だけで、彼がどれだけの狂気を抱えているのかが、良く分かる。
「十時間にわたる籠城。やっと警察部隊が突撃したかと思えば、返り討ちだ。敵の装備を見誤ったんだね。それから更に七時間。とうとう習志野から特殊部隊が届いた。それらは、本当に手際よく、あっさりと事件を解決した。戦闘時に齎された実行部隊の被害は、実に三人だ。その中に生徒は含まれない」
「大覚醒、知らない訳ではありませんよね」
「ああ、そこまで推測したんだね。じゃあ偽る必要もない。完全に秘してあったものだからね。……撫子のESPは死に際にその強度を跳ねあげ、挙句透視能力まで発揮して、粗方のテロリストの脳幹を叩き切り、挙句死に際の恐怖と狂気を、学院にばら撒いた……ただ、もっと早く決断し、もっと早く解決していたのならと、想うよ。結果論だがね。当時の私は、撫子のESPなど、知る由もない」
「何も知らない貴方は、どう思いましたか」
「憎かった。大事な決断も出来ない縦割り政府も、私の娘を犠牲に追い込んだクソムシ共も、私は許せなかった。特に撫子の遺骸を見て、自分を失ったよ。あの子は美しい子だった。大聖寺誉もだ。二人は死後、その肉体を蹂躙されていた。撫子のESPに当てられて狂気に陥ったのか、内臓姦でも楽しんだのかね。臓器はあちこちに散っていたそうだ。そのテロリストは撫子達に重なるように死んでいたらしい。ああ、頭に来る。ともかく私はその時――世界の終わりを感じた。あんなに美しく、可愛らしかった我が子が、変わり果てた姿で目の前に現れたんだ。妻には見せられなかった」
「……娘を蘇らせようと思ったのは、その時でしょうか」
「いいや。もう少し先だね。妻も心を病み、自殺したあとだ。私は一人この世に取り残され、どうする事も出来ずに日々を過ごしていた。研究だけに身を打ち込み、狂わぬようにと、自我を保とうとしていたが、それにも無理があったよ。薬でもカウンセリングでも、限界が観えた。そんな時だ。娘の一周忌に、君の祖母、欅澤花に出会った。互いに深い闇を抱えていてね、娘が学院で日々をどう過ごしたのか、実家ではどんな子だったのか、どんな生活をしていたのか、学院ではどんな子だったのか、花と沢山話をした。それで気が晴れると思った。ただ――そう。花は、美しかった。今の君のように、美しい彼女も、心を埋め得る人を探していたのかもしれない。恥ずかしい話さ。彼女は十八、僕は三十後半だよ。しかし当時はそれでも良かった。互いに同じものを共有し、憎むべき敵を見据えていた」
「まさかとは思いますが、うちの母は」
「ああ、心配しないでくれたまえよ。杜子君は、ちゃんと君の祖父の子だよ」
「そう、ですか」
「彼女は、前を向くのが早かった。心情はどうあれ、彼女はしっかりと未来を見据えようとした。恐らく、復讐の為に。私は後ろを見てばかりだったよ。彼女の後悔を受けて、彼女を……幸せに出来ないだろうかと、考え始めた。私は、遺伝子工学の権威だ。ヒトゲノムの解析も新たな時代に突入しようとしていた、そんなとき、思ったのさ。――陳腐な話だが、どうにかして、妻と娘を蘇らせる事は出来ないかと。自分にはその知識がある。しかし資本が、施設が、人材が、つまり権力が足らない」
「……貴方は、七星で上に上がる事を目指した」
「必死だったよ。あらゆるライバルを蹴散らし、兎に角上を目指した。悪魔と罵られようと、構わなかった。愛すべき妻と娘、そして欅澤花と自分に、幸福を齎すには、何もかもを手に入れる必要があったからさ。私は、彼女達の笑顔の虜だった。美しい彼女達に、微笑んで貰いたかった。離れて行ってしまった花に、もう一度、振り向いて貰いたかったんだ」
 彼は、立ちあがる。
 ガゼボの柵に手をかけ、遠くの景色を眺めながら、言う。
「どんな汚い手段を用いても、この世の全てを敵に回しても、私はね、自分の欲求の為、美しいあの子達に、君達に振り向いて貰いたくて――かの国を十三個に分割し、複数の命を弄び、新しい命を弄び、全てを犠牲にして、全てを達成しようと、したんだ」
 振り向く彼の目元には、涙が浮かんでいた。
 掛ける言葉はない。
 四十年に及ぶ妄執の実行者であり、日本国王である彼に、一婦女子がなんと声をかけようか。
 同情はしないし、出来ない。するには被害を被り過ぎた。
 しかしだからと言って、否定も出来ない。
 彼は、復讐鬼として有り得た可能性の一つなのだ。
 杜花とて下手をすれば、似たような事をしたかもしれない。
 復讐しようと、幸福を得ようと、我武者羅に突っ走った結果に訪れた、人の身にして神となった、祟りである。
「撫子は、失敗に終わりました。あれは、目覚めさせても、また暴走するでしょう。貴方はそれでも繰り返すんですか。何度でも、何度でも、何度でも、悲しみを増やし続ける気ですか」
「魂の再縫合は、大きなリスクを伴う。その都度修正し、最適化する。あらゆるデータの結晶、過去、もっとも撫子に近づいた市子は、完成する筈だった。撫子の暴走とて想定内だった。二子はその為に実験台にもなったし、その為の修正プログラムも編み込んであった。しかし、ダメだったね――――兼谷はね、確実に利根河恵だよ。我が妻さ。だから、不可能ではないと、想うんだがね。やはりESPがネックだ。取り除いたものを造ろうか? しかしそれでは別物だ。そう、無くてはならない。また、幾つも検証する必要がありそうだね」
「おかしいと、思わないんですか。死者を蘇らせる行いを、疑問に思わないんですか」
「考えたさ。考えたよ。良い事か悪い事か、恵は成功してしまった。そう、出来る可能性があるならば追求してしまう。そういう人間になってしまったんだよ、私は」
「おかしいと思わなかったんですか。力を得、手段を得、妻のクローンを造り、魂を再縫合し、その結果を得て、更には娘に取りかかった。その間に、貴方は葛藤しなかったんですか。もう後には、下がれないんですか」
 カップを置き、立ちあがり、一郎の前に立つ。杜花は一度顔を伏せた後、彼を睨みつけた。
「貴方が愛したヒトの孫を弄っても! 被害者の遺伝子を冒涜しても! 娘のクローンを大量に作って、実験台にしても!! 貴方は!!」
「怒っているかい、杜花」
「冷静でいられるほど、私は人外ではない」
「ごもっともだ。告白しよう。君、早紀絵君、アリス君、更に、七十人程、既に亡くなった者を数えれば数百人程、遺伝子を弄り、状況を再現した子達がいる。日本の女子校のどこかに『御姉様』に従う『妹達』が、沢山いるよ。君達は、その中でも最も可能性が高く、期待が持てた――ケースナンバーA1だ」
「きさま――貴様……ッ」
「殴るかね? 日本国王を!! 七星一郎を!!」
 拳を握りしめる。
 護衛はいない。
 たかが若づくりの老人一人だ。
 杜花の力をもってすれば、一撃で半殺しである。
 ただそれは、それだけはいけない。
 それをやってしまえば、国を丸ごと敵に回す事になる。
 以前の欅澤杜花ではないのだ。杜花には既に、守るべきものがあるのだ。
 やめろ。
 ――やめろ。
 二子が目を瞑る。早紀絵が歯を食いしばる。アリスが、ただ祈る。
 目を思い切り瞑る。

『大人になると、守るものが増えるそうです。お父さんが言っていました。この人を怪我させたら、この人に酷い事をしたら、自分達まで大変になるって』

 殴られて、顔を腫らした、早紀絵の顔が脳裏をかすめる。
 そして杜花は、拳を解き放った。
「――ッ!」
 ガンッ、という鈍い音が庭園に響き渡った。
 杜花は……そのやり場の無い拳を、ガゼボの柵に叩きつける。
「……殺されるかと思ったが、優しいな、君は」
「――全てを投げ捨てるには、もう、背負い込みすぎました。私は貴方を殴れない」
「殺される覚悟で来たんだ。この花束は、自分の墓前でも捧げようと思ってね。解る。本来なら、地面に頭をこすりつけて、謝るべきなんだ。しかし出来ない。私が頭を下げるという事は、七星という国家企業が、大日本国という国家が、頭を下げる事になるんだ。私はもう、純粋に人に謝るには、あまりにも大きすぎるものを背負い込んでいる。言葉で謝罪する事しか、できない。済まない、杜花」
「許しません」
「そうだろうね」
「許しません。けれど、私達は結局、貴方の掌の上から、逃れる事が出来ない」
「――聞こう。欅澤杜花。悪い大人に反逆する、愚かな君の意見を」
「私は、私達は……何も知らず、ただ静かに、寄りそいあっていれば、それで幸せだった。けれどそれすらも、貴方が与えてくれたもの。私達の希望と絶望は、全て貴方が作りあげたもの。その過去を好しとして、今を否として、それでも私達は、逃れる事が出来ないでいる。私達は、市子に出会えて、幸せだった」
「市子が、本当に好きなんだね。撫子と、花としてではなく、市子と、杜花として」
「どうあっても逃れられないのならば、では貴方に縋りつくしかない。大きな枠組みの中で、自由に居させて欲しいと、滑稽にも叫ぶのが、私達です。貴方は許せない。でも、私は貴方を殺せない。ニコが、サキが、アリスがいる。私は、不自由の中で、自由の幻想を夢見て生きる、決意をしました」
「大人になるという事は、妥協するという事さ。辛いだろう、大人は」
「要求を伝えましょう。呑んでもらわねば困る」
「ああ。君達の被った苦痛に対して、有形無形問わず慰謝料を払おう。悪い大人の私には、それしか出来ないからね。土下座すら出来ないんだ。言いたまえよ。教えてくれ。君が望むものを」
「二子は、もう二度と、実験材料にはしないでください。この子は、私が責任を持ちます」
「……二子はどうかな」
 一郎が二子に向き直り、その強烈な視線を向ける。二子はわずかに怯えた素振りをした後、頭を振り、気丈に向き合う。
「私、お父様が、許せないわ」
「そうだろうね。君を、散々と弄り回した。君が、希望であったから」
「でも、お父様は、優しくしてくれた。私のお父様で居てくれた。それは、嬉しいの。だから、その過去について、私は何も、貴方を責めたりはしない。ありがとう、お父様」
「……では、どうするかね」
「私、御姉様と一緒に居るわ。お父様の代わりに、モリカに謝り続けるの。それで、私も幸せになるの。撫子ではなく、七星二子として。お父様。一郎お父様。私は、七星二子。二子よ!」
 涙ながらに、二子が叫ぶ。彼女は個人としての矜持を父に叩きつけたのだ。モリカの為に市子の代替えにはなろう。だが、決して自分を捨てたりはしないと。自分が望むからこそそうするのだと、二子は示した。
 一郎は、感慨深そうに頷く。
「……解った。二子には、一切手出しをしない。撫子の器になど、もうしないよ。ただ支援はするよ。何せ高級品しか知らない子だ。欅澤では養うに難いだろうからね。結晶を埋めている以上、メンテナンスも必要だ。つまり、君は懸念を抱く必要は一切ない。これ等の請求は全て明文化しよう。この世で最も重い、私のサイン付きだ」
「いい、のね」
「いいさ。二子。謝って許して貰えるようなものではない。それぐらいさせてくれ」
「……うん」
「では、次だ。何でも聞こう。大体の事はね」
「……次に、市子のクローンなど、造らないでください。吐き気がする」
「……ふむ。まだ存在しないよ。予定があれば造っただろうがね。解った。他にはあるかね」
「これは全て、承諾済みです。私も悪い子供なので、使えるものは使いました」
「市子の身柄、かな」
「引き渡してください。市子は、私達が守ります」
 ああ、と。一郎は頷いてから、手首に嵌めた端末を弄る。
 想定していただろう。むしろ、ここに呼ばれた最大の理由はそれしかないのだ。
「欅澤、満田、天原で、彼女の生命維持医療を折半するんだね。なるほど。まあ一般的な生命維持であるから、大した金もかからないよ。本当なら、頷いてやりたいところなんだが……そうもいかない」
「――どういう、ことですか」
 一郎は、花束を杜花に預け、ガゼボから出る。そしてそのまま、庭園の出口へと向かうのだ。
 まさかここにきて、それだけは出来ないなどと、言い始めるつもりか。
 これは権利上の問題など超越した位置にある問題だ。どうあろうと、呑んで貰わねば困る。
「どこへ行くんですか、真さん」
「交渉がこんなにも不利に進んだ試しがね、私は無いんだ。ここまで苦戦するのは、たぶん産まれて初めてだよ。私は常に勝ち続けて来た。負ける事なんて許されなかった。七星一郎とは、勝ち続けるからこそ、名乗れる名前なんだ。七星に負けは許されない」
「不戦勝にでもするつもりですか」
「はっは。敵前逃亡なんて、負けよりも惨めで愚かだよ。解るだろう。七星一郎という奴は、兎に角手を裏から回していないと、気が済まないんだ。人よりも十歩は先に、いなければいけない」
 一郎は足を止める事なく、庭園の出口へと向かう。
 何を考えているのか、さっぱり解らない。
 どうして今、そのような事をする必要があるのか。勝ちも負けもないならば、別の方法もあろう。
 二子、アリス、早紀絵が、杜花に寄り添う。
 ただ、この場を去ろうとする、七星一郎を止める手段が無い。
 追いかけて蹴り飛ばす訳にもいかない。
 自分達は、ことごとく、無力だ。
「……待って――待ってッ」
「ああ、そう。君達は、私の掌の上にある。如何に努力しようと、反逆しようとも、私の掌からは逃げられない、可哀想な小鳥たちだ。ただね、こんなにも美しく、こんなにも活き活きとして、こんなにも、私の心を無茶苦茶にする、愛しい君達にはやはり、ご褒美も必要だと思うんだ。杜花、君は不自由の中の自由を夢見たね」
「そうすることしか――出来ないから」
「宜しい。君は私を幾らでも恨みたまえよ。幾らでも憎みたまえよ。君にはその権利がある。そして私は、その美しい目線を受けて、それを愛でるんだ。私はやはり、この国の王であり、人を翻弄する怪物であると、自覚出来るからね。諦めない。何度でも繰り返す。ただし、区切りは必要だ」
 杜花は、目を細めた。
 庭園の入り口に、人影が映る。
 一人……いや、二人か。一人は、その手で何かを押している。
 一迅の風が吹き、庭園を撫でた。
 花弁が舞い散り、四人の目を覚ます。
「あ……あ、あ」
 入口から、二人の人間が現れる。一人は兼谷。彼女はその手で、車椅子を押している。
 杜花は花束を取り落とし、二子は嗚咽を漏らし、アリスは泣き崩れ、早紀絵は顔を覆った。
「ああ……あああ……ああああっ」
 杜花の足が前に出る。力が入らず、転びそうになる。それでも無理矢理立ち直り、前に進める。
「嘘……嘘嘘……嘘だそんなの……嘘だぁ……ッ」
「嘘じゃあないさ。私は君が好きなんだ。なるべくなら、笑顔でいて貰いたいんでね。出来る限りの全てを尽くした。私は、己が欲望を達成する為に、生きているんだ」
 庭園に姿を露わした兼谷が、杜花に一瞥した。事件の後遺症も観られない。
 彼女は達者な足取りで、車椅子を押して来る。
 車椅子に座っている人物は穏やかな笑顔で、その両手を広げ、杜花を待っていた。
 酷い世界だ。
 酷い現実だ。
 こんなくそっ食らえな世の中に、吐き気がする。
「いちこ……」
「もりか。ごめんね、まだ、うまく、声が、でなくて」
「市子……市子……ッ」
「彼女はナチュラルだ。サイバネすら使っていない。眠っている間ずっと、君の事だけを考えていたらしい、マッピングデータは、君の映像で埋め尽くされていたよ。悩みたまえ、迷いたまえよ。君は、その一生を費やし、君を慕う子達に、愛を注がねばならない。何かあれば、何時でも連絡してくれ。君が好きだ。幾らでも、力になろう。……兼谷、あとを任せた」
「はい。真さん」
「……くすぐったいよ、恵」
 七星市子が、目の前にいる。
 どうしたことだろうか。どうすればいいだろうか。
 箱庭の女王は、笑ってよいものだろうか?
「もりか。おはよう。なんだか、長い夢を、みていた、きがするの」
「うん……うん……」
「ごめんね……あなたを、束縛して。これからは……いいのかしら。みなで、仲良く出来るかしら。撫子が、夢見たように……わたし、努力、するわ。あなたが、他の子を好きでも、がまんできる、ように」
「うん――、うん。市子、私、わたしね……」
「いいわ。なにも、いわなくても。きて。抱きしめて。生きているって、実感させて」
 市子に縋りつく。もう、声も出ない。一生分の涙が、音もなく流れ落ちるだけだ。
 二子が、アリスが、早紀絵が、市子に群がる。
「姉様、姉様……ッ」
「御姉様……私……御姉様ッ」
「馬鹿市子……馬鹿……また杜花が、悩むじゃない……馬鹿……ばかぁ……ッああっ、ううぅぅッ」
「幸せに、なりましょう。わたしたちで……わたしたちなら……」
「……」
「なあに、もりか」
「――おかえりなさい」
「――うん、ただいま」

 歓ぶ他、無いのだろう。
 例えそれが与えられた幸せだとしても。
 夢見まで観た幸運を、欅澤杜花は否定出来ない。
 心象の幻想が渦巻く楽園に齎された、人工寓話を切り抜けた先に、そのような現実が待ち受けていたのならば、杜花は決して、否定出来ない。

「七星一郎――ッ」
「ああ、なんだい!」
「絶対に許さないから! くたびれて、五衰して! 野たれ死ぬまで、絶対に!」
「望むところさ。想い続けてくれ。それこそ、人が人を生かすという事だ!」

 庭園の乙女たちは、ただ涙する。
 理不尽な過去に後悔を抱きながら、来るべき未来に想いを馳せながら、
 明日の恋の為に。




 心象楽園/School Lore 了


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