登場人物
藤堂藤子(とうどう とうこ)
部員一人の奉仕活動部に所属する二年生。見た目に気を使えば、中性的で少し洒落にならない程の美形なのだが、そのつもりはないらしい。好意を寄せていた『とても仲の良い女友達』に突如突き放されてしまい、失意にいる。
やる気も元気も無い訳ではないのだが、どうにもあまり熱心にはならず、愛想を振り撒くのも苦手で人付き合いに不器用である。
美苗美知(みなえ みち)
離れてしまった『とても仲の良い女友達』家政部に所属する。
長い黒髪に清楚な出で立ち、それを鼻にかけない振る舞いと気遣いの出来る性格から皆に慕われる一年。
藤堂藤子とは出会って以来仲良くしていたが、一か月前から突然藤子を突き放すようになる。
姫宮姫子(ひめみや ひめこ)
家政部に所属していた一年。
藤子に無神経な質問をした挙句に奉仕活動部に入り浸るという、藤子の手に余る子。
どちらかと言えば男性に媚びたような振る舞い、容姿で居る為、非常に女性陣からウケが悪い。
可愛げがあり、藤子好みでもあるらしく、藤子自身も邪険に扱えない模様。
『あの子はレズビアンだから』
そのような噂が立つよりも前から、藤堂藤子(とうどうとうこ)の人間関係は贔屓目に見ても良好とはいえなかった。
確かに間違いではないのだ。藤子は女性が好きであるし、噂と寸分たがわぬ人格である。
彼女達の理屈に具体性は無いに違いない。純粋に『自分達とは違う性の価値観がある』というだけだ。虐めという程ではないかもしれないが、奇異な目で見られる事はしばしばある。
噂の出所は何処だっただろうか。
以前の藤子は、一人の後輩に執心していた。一年生で家政部の、美苗美知(みなえみち)だ。
一方通行という事は無く、美知は藤子とかなり親しい間柄にあった。それこそ、友人以上の関係にはあっただろう。普段から手は繋いでいたし、肩は抱くし、じゃれてキスする事もあった。
ただ、美知が果して自分を恋人と思っていたかどうかは、解らない。
藤子は美知との関係性の変化を恐れたとも言える。
何も告白せずとも、カミングアウトせずとも、こんなに親しくしているのだから不安要素を提示して相手を混乱させたくない、無用な溝を産みたくない、そう考えていた。
逆にそれがいけなかったのかもしれない。
もっと関係性をハッキリさせておけば、こんな問題にもならなかったのではないだろうか。もう一か月、彼女とは会話も交わせていない。
「藤堂さん」
ぼんやりと、離れて行ってしまった美知の事を考えていると、前の席の佐藤が声をかけてくる。
「なにかな」
「お客さん来てるけど」
佐藤が教室の出入り口を指差す。そこに佇む生徒に見覚えは無い。
「ありがとう」
佐藤はうん、とだけ言って、自分のグループに戻って行く。何かヒソヒソと話しているが、気にしていたら暮らして行けない。
藤子は席を立ち、出入り口へと向かう。
ここは二年の教室だ。その生徒の上履きは青で、一年を示している。
「何か用事?」
「あ、えっと」
第一印象は、お姫様、だろうか。
少し茶色めのロングヘアーにウェーブがかかっており、ずいぶんと小洒落ている。校則上は問題ないだろうが、それは眼を引くだろう。小柄だが、ブレザーも一サイズ小さいものらしく、女性らしく出る所が出て強調されていた。そして何よりその見目麗しい容姿もだが、どこか甘い匂いがする。
髪は短く大して特徴もない、顔立ちは兎も角全体で中性的、低女性ステータスな藤子からすると、かなりの落差を感じる。
「どうしたの?」
「え、と。これ」
そういって、お姫様は両手でもって藤子に何かを差し出す。一瞬ドキリとしたが、そんな色っぽいものをこんな公の場で出す訳もない。彼女が差し出したのは化学のノートである。
「さっき、化学の授業で、特別教室の、机の中に」
「あ、前の授業で……そっか。ありがとう」
前の授業は化学で、特別教室を使っていた。そこで忘れたものだろう。
「あの」
まだ何かあるのか、お姫様は少しだけ伏せ目がちで、不安そうに手を合わせている。
それから、周囲を伺い、誰もいない事を確認し、お姫様は藤子に顔を寄せた。何事かと耳を傾ける。
(あの、レズって本当ですか?)
最悪である。
藤堂藤子の恋愛事情
放課後になると、藤子は教室を出てわき目も振らずにとある場所に引きこもる。
部活動と言えばそうなのだが、現在部員は藤子しかいない。
文化部が纏めてある校舎の、本当に隅の方、明らかに部室というよりも準備室とても呼ぶような場所が、藤子の所属する『奉仕活動部』である。
昨年から生徒会が地域理事会の方針を受けて地域奉仕活動を拡大し、それに伴って先輩たち四名は全て生徒会自治委員会に引き抜かれた。
何故そんな統廃合の憂い目にあって尚存続しているかといえば、この部屋を他の部が使う予定が無い事、部費は最小限で構わない事、藤子卒業後は廃部する事、この三つを条件に存続している。
藤子がこの部に入ったのは、大した理由もない。
人数が少なく、上下関係が希薄であった為であるし、取り敢えず部活は所属しておかねばならないからであり、この部に対してそれほど大きな感情は抱いていないのだ。
一応、何かのコミュニティに加わっている、という大義はあったが、今となっては放課後、家に帰るまでの時間を潰す為の部屋を確保しているだけ、という状態だ。
やる事といえば、専らネットサーフィンか、読書か、連絡を取りもしない携帯を弄る程度である。
「おはようございます」
ドアを開き、一応挨拶して入り、パソコンの電源を立ちあげる。
椅子に腰かけ、肘を机について、パソコンを眺める。
部活は終了した。他にすることもない。
女子高生として――何か酷い欠落があるようにも思えるのだが、あまり難しく考えない事にしている。
元から友達が多かった訳ではないし、楽しい放課後など、美知が隣に居た時ぐらいで、実質三か月程度しか味わっていない。
焦って勉強するほど馬鹿ではないし、熱中してやるべき趣味もない。
それ以上考えるとやはり虚しいので、難しい事は無しにしたかった。
藤堂藤子はいつもこうだ。
無気力ではないが、かといってすることはない。
最後にムキになって何かに挑んだのは、なんだっただろうか。
「なんだったっけ」
その程度の認識だ、絞ったところで出てこないだろう。
ポーチから鏡を取り出し、前髪を弄る。美容院のオバ様からはちゃんと毎月来なさいと言われているのだが、どうも面倒くさくてついつい後回しにしてしまう。自分で切り揃えてはいるのだが、そろそろ整えないと、妖怪の正義の味方のようになってしまうだろう。
決して悪くない、いや、整えれば間違いなく光る容姿なのだが、本人に繕う気がないのだ。気を引くべき相手が居なくなってしまった事も拍車をかけているかもしれない。
「ごめんくださーい」
「ん」
そんな声が聞こえ、髪を弄る手を止める。奉仕活動部に来客はまず無い為、隣の部だろう。
改めて髪を弄り始めると、もう一度声が聞こえた。
視線をドアに向けると、ドアに嵌めこまれたガラス戸に、人影が映っているのが解る。
珍しい事もあるものだ。藤子は鏡を机に置き、来客に応対する。
「はい」
「あ、いた」
「ああ、お姫様」
「お姫様?」
「あ、いえ。こっちの話」
ドアをスライドさせた先に居たのは、昼間のお姫様であった。彼女は藤子の姿を確認し、小さく微笑む。
「どうしたのかな」
「教室に行ったら、いなくて。聞いたらこっちに居るって」
「うん。放課後は、大体。入る?」
「おじゃましまーす」
さて、どのような理由でわざわざこの子は現れたのか。
本来ならばあまり入れたくはないのだが、来客も久々だ。変に拒んで突っ返して、また噂を立てられては面倒である。
このお姫様はノートを渡す次いでと言わんばかりに、藤子がレズであるかどうかなどと質問するような、どうしようもない無神経さがある。ともすると、ココに現れたのもオトモダチとの会話のネタでも仕入れるような意味合いが強いだろう。
ちなみに藤子は『違います』と答えた。
「好きな所にかけて」
「はい」
お姫様は頷き、今まで藤子が座っていた席の隣に腰かける。パソコンが気になったのだろうか。
藤子もまた席に戻り、何か質問するでもなくパソコンの画面を覗いているお姫様を気にせず、検索サイトで『蟻の一生』などと検索する。
「……働き蟻なのに、働かないのもいるんです?」
「働かない蟻を選び、働かない蟻だけで構成した巣では、また働く蟻と働かない蟻に分かれるらしいよ」
「へー……」
なんだろう。
何をしているんだろう。
検索してはお姫様が質問し、藤子がそれに答える、を繰り返す。
そんな事を三十分も続けただろうか。やがてお姫様の質問が途切れる。
興味を失くしたのかと思い、藤子はワードを立ちあげ、奉仕活動部の活動内容記録を適当にねつ造し始める。
生徒会も、奉仕活動部が実質的な活動を行っていない事は承知であるからして、つまるところ生徒会が記録する『文化部の奉仕活動部の活動の空欄』を埋める為の補助作業でしかない。
「奉仕活動部っていうんですか? 部員は?」
「私だけだよ」
「そうなんだー。何する部?」
「何もしない部だよ」
「それでいいの?」
「なんか、良いって許可貰ったから」
「藤堂先輩一人なんだ?」
「そう。えーと、お姫様」
「お姫様、に見える?」
「ん……髪型とか、雰囲気とか、見えるかもね」
「名前も姫宮姫子なの」
キーボードを打つ手を止め、お姫様――姫子を見る。彼女は小首を傾げ、何? と言いたげだ。
「あってるかも」
「言われるー」
姫子は口元に手を当て、上品に微笑む。良いところのお嬢様なのかもしれない。
確かに、多くは無いがそういう子が居るのは知っている。
お馬鹿が入れる学校ではなく、品と言えば確かに、誰でも入れる私立校に比べればある方だ。
まあそれはともかく、と藤子は小さく頭を振る。
「そういえば、今日はどうしたの」
「あ、えっと。そうだった。あ、そうでした」
「タメ口でいいよ」
「うん。実はね、二年になんだか、女の子が好きな先輩がいるって聞いて」
だろうなあ、と小さく眉を寄せる。
どうせこんな話題だ。
女子校ともなると、一年に一度は似たような話題があがる。恋愛に飢えた獣達が、スケープゴートを欲するが如くである。そして無慈悲にも単なる噂ではなく実在してしまったのが、今年度の藤堂藤子だ。
嗚呼、邪険に扱いたい、などと考えながら、一応話を聞く。
「それで?」
「昼休みは、違いますって言われたけれど、二人きりなら話してくれるかなって」
「それを話して、私に何か得があるかなあ」
「どゆこと?」
「んー。とても最悪なケースだけれど。もし君の人格が腹の減った猫並に最悪で、私から聞きだした話を友達の内輪でネタにしながらファミレスでお茶をするような人だった場合、私に得があると思う?」
「あ、そういうー」
「まして、今日会ったばかりの人に、私は一体何を語れば良いのやら。逆に一つ聞きたいのだけれど」
「なに?」
「君、自分の性癖やら表沙汰にしたくないような話、逢ったばかりの人に話す?」
姫子は藤子の話を暫く考え、咀嚼し、そうか、と眼を見開いた。
騙されない。藤子は騙されない。イマドキ、そんな天然モノがいるわけが無い。
「しないね」
「でしょう」
「どうしたら話してくれる?」
そうくるか。流石に予想外だった。神経が太いのだろうか。
今のフリなら、大体は苦笑いを浮かべて退散するところなのだが、姫子は違うらしい。彼女にとって藤子の話は余程聞く価値があるものなのだろうか。
……実に面倒だ。女の子が好きで何が悪い。
「いや、話さないよ?」
「違うって言えば終わりじゃないのかな。そんなに否定しなくても」
誰の所為だ、という言葉を飲みこむ。
姫子は髪を弄りながら、しばらく中空を見つめ、何かを思い出したかのように改めて藤子を見る。
「そうだ、じゃあ、私の話を聞いてくれる?」
「話をでっちあげて、感傷に浸らせた上で語らせる、と?」
「あーん違う。そういうのじゃないってば。藤子、警戒心強くない?」
君はなれなれしいな、という言葉も飲み込む。
警戒心も強くなるだろう。噂の渦中におり、更にこのお姫様の所為で余計な噂が拡散したら目も当てられない。その場合、更に……今となっては疎遠だが、美知にも被害が及ぶやもしれないのだ。
ふと、美知の笑顔が脳裏を掠め、あまり人に見せたくない表情をしてしまう。
「うわ、嫌そう」
「そりゃ、嫌だよ」
「じゃあじゃあ、部員になったら話してくれる?」
「元の部活は?」
「辞める。どこかに所属してなきゃダメだって言われたから入っただけだもの」
「何処部」
「家政部」
よりによってそこか。何だか頭が痛くなってくる。
家政部を抜け、奉仕活動部に。どうあっても近い人間には話題になるだろう。奉仕活動部など、そんなマイナーな部にわざわざ入る、と言う事は、藤堂藤子との関係を疑われる。
疑われた挙句に、それが美知の耳に入る。
何だか酷く悲しくなってきた。
「お願いがあるのだけれど、姫宮さん」
「姫子でいいよ」
「姫宮さん。帰ってくれる?」
もう取り合いたくもない。この子に適当話して噂をばら撒かれるぐらいなら、ここでさっさと退けてしまった方が、リスク上負担が軽い。
「あ――う、うん。ごめんなさい」
そう、謝って、さっさと出て行けば、それで終わりだ。
何か、少し涙ぐんでいるような気もしたが、女の涙を女が信じる筈もない。
流そうと思えば、藤子とて出来る。
姫子は藤子に頭を下げ、小走りで部室を出て行った。
「……とはいえ」
いやだなあ、とは思う。
警戒心が強い自分も、何かと絡んでくるああいう輩も、人に気軽に相談出来ない自分も、気軽に相談出来ない話を聞きたがる輩も、全部嫌だ。
溜息を吐き、誰からも連絡の来ることのない携帯を開く。
フォトアルバムを眺めていると、ふと美知と撮った写真が残っていた事に気が付く。
拡大表示し、藤子は眉を顰める。
長い黒髪で、清楚な雰囲気。美人なのにそれを鼻にかけない彼女は、誰からも頼りにされていた。
自分は、彼女の何だったのか。
噂が広まった後か先か、その辺りから美知は急に藤子を突き放すようになった。
そこまで人の噂を気にするような子でも、人にとやかく言われたからと自分を曲げるような子ではなかったのに、本当に突然に、彼女は離れていってしまった。
藤子は彼女が好きであったし、機会があるなら、当然キス以上の事もしたいと思っていた。
だがやはり、明確でない自分達の立場は所詮仲の良い友達同士であり、美知は藤子がレズビアンである事を知らなかった。
……あれだけして、まさか藤子が、女性に気がないとは思っていないだろうが……。
ともかく離れて行った彼女とは、以来連絡の一つも取れない。学校内ですれ違っても、完全に目を逸らされる。
自分の何が悪かったのか。離れるならせめて、理由の一つも知りたかったが、手段はない。
(やめよやめよ)
携帯を閉じ、鞄の中に放り投げる。
珍客で滅入っている所、更に自分で追い打ちをかける必要もない。藤子は荷物を片づけ、パソコンの電源をおとし、部室を後にした。
いつもと変わらない帰路を歩きながら、ぼんやりと考える。
性格はいささか問題がありそうだが、姫宮姫子という子は、とても可愛い。きっと外に出ればモテるだろう。
藤子の視線は、どちらかと言えば男性寄りだ。
弟とどんな女の子が可愛いだろうか、という議論においても、だいぶ合致したのを思い出す。
いや、小難しい精神構造の差異を持っているとか、女でなければ絶対駄目、という訳でもないのだが、多少苦手な男性と、苦手ではない女性、並べられたら女性に目が行くというだけの話である。
自分は女であると自覚しているし、女で良かったとも思っている。そういう人間を、大々的に社会が認めてくれ、などと大仰に喧伝するつもりは無いのだが、流石に生き辛い空気になるのは困る。
しかし参ったな、と頭をかく。今後あの手合いに絡まれなければ良いのだが……。
「ん」
町の小さな商店街の並びに入り、ふと視線をあげる。
甘い匂いがしたからだ。
なんとも言い難い、お腹が減っている頃には嗅ぐに厳しい、魅力的な芳香だ。
そこそこ人気の洋菓子店で、駅へ向かう道すがらにある為、自分の通う学校の生徒も御用達である。
以前は良く美知と一緒にケーキを買ったりして『っぽく』していたのだが、別れて以来は時折一人で来ては、未練たらしく二人分のケーキを買って帰る。一つは弟用だ。
生クリームとカスタード、そして酸っぱい苺の誘惑が、脳内で巡る。
「いらっしゃいませー」
入ってしまった。ディスプレイを眺め、大して選びもせず決める。
「生クリームとカスタードのクレープケーキ二つ」
「はい。これ二つね」
感傷もあるが、そもそも甘いものが好きなのだ。これは弟にも好評で、たまに買ってきてくれとせがまれる。
可愛らしいラッピングケースに包まれたケーキを受け取り、中身が寄らないようにと両手で抱えて店を後にする。
店を出てほんの数歩、歩いた所で藤子は足を止めた。
(……姫宮洋菓)
そうだった。ここはそんな名前の店であったか。珍しいといえば珍しいが、無い事もない苗字であるからして、まさか彼女の実家ではあるまい。
ただ、彼女の雰囲気、それに何だか甘い匂いは、このケーキに似ていた。
(お菓子のお姫様か。あー、なんか、あー……頭痛いなあ)
もう少しデリカシーのある性格なら、手放しに可愛いとも言えるのだが、社交辞令抜きで女に可愛いと言っても引かれるだけなので、藤子は考えるのを止めた。
※
藤子にこれといった特技はない。ただ、身長はそこそこあるし、昔取った杵柄で体力も人並み以上はあるので、体育の授業は好きだった。
「藤堂さん、ネット前お願いしていいかな」
「うん」
バレーともなると、必ずネットの前に配置される。本職のバレー部相手ではとても太刀打ち出来ないが、藤子の入ったチームは、クラス合同の体育で大体上位に食い込む。
目立ってしまっているだろうか、そう思いつつも、身体を動かすのは好きなので、少し張りきってしまう。
その日も藤子は相手方が飛ばしてくるヘロヘロの球を打ち返す作業に終始し、6チーム中2位に収まる。
「藤堂さん、貴女、運動部入らないの?」
バレー部の監督である体育女教師が、藤子に向かって毎度そう話す。
「いえ、ガチガチなのは、苦手で」
運動は好きだが、上下関係が嫌いなのだ。なるべくなら平穏にありたい。ましてこんな噂を立てられる人物、二年の今更になって入部したところで皆も扱いに困るだろう。
いつも通り体育教師をやんわりといなし、その場を去る。
汗と制汗剤の匂いが立ちこめる、男子幻滅の更衣室でテキパキと着替えていると、隣のクラスの女子達が上半身裸のまま、何やら群がっていた。
「え、なにそれヤバイ」
「マジだって。いやほんとにい」
具体的に何がヤバいのか、主語を抜いてもコミュニケーション可能なほどヤバいのか。ああいう手合いは、まあ苦手な部類であるからして、藤子はまず近づかない。
「これバレたら停学じゃ?」
「停学だったとしても、バレたらガッコいれないでしょ」
……なんとなく、話の中から内容を探る。
バレれば処罰されそうなモノ……といえば、幾つかあるが、学校に居られなくなるほどとなると、大体限られる。それこそ犯罪に手を染めたとか、もっと具体的に、援助交際だとか。
あの子は売ってる、なんて話は良く有るが、ここで話されている内容を鑑みるに、それこそ証拠があるような状態なのだろう。
気分の良い話ではない為、藤子はさっさと着替えて更衣室を後にする。
「ん」
教室で鞄を取り、昼食をとる為に部室へと向かう途中、見慣れた姿があった。
長い黒髪を靡かせ、凛とした姿が目を引く生徒が、廊下の向こうから歩いてくる。
美苗美知だ。
立ち止まっていると、あちらも藤子に気が付いたらしいが、すぐ目を逸らして速足になる。
声をかけるべきか、否か。
数秒迷い、小さな唇が開く。
「美知」
が、彼女は一切取り合う事なく、そのまま脇を通り過ぎていってしまった。
これは、へこむ。
通り過ぎて行った後姿に振り向くと、なおさら虚しい気持ちになる。
藤子は……諦め、部室に向けて歩みを進める。
「はあ……」
部員用の鍵がある為、わざわざ職員室に行く必要はない。渡り廊下を抜け、部活動校舎の一番端に位置する奉仕活動部部室にまで赴くと、藤子はドアに鍵を差し込もうとしたが、その手が止まる。
中に誰かの気配があった。
「……誰?」
ドアをガラリと開く。中に居たのは……姫宮姫子だった。
「あ、こんにちは」
「なんでいるのかな」
「鍵を借りたの。先生に」
「部外者に鍵は貸さないでしょう」
「入部したし」
さて、本格的に困ったと、藤子は頭を抱える。何でまたこんなに積極的にする必要があるのか、サッパリ解らない。彼女は自分の立場を、まず理解していないだろう。
「今から取り下げてきた方が良いよ」
「なんで?」
「ここは私一人」
「うん」
「そこに君が入部する」
「うん」
「私は噂の渦中」
「確かに」
「私達で二人きり」
「あー」
「君が困る事になると思うよ」
普通、あんな顔をして出て行って、翌日ケロッとして入部しました、なんてあるか。ないだろう。
「つまり、私が藤子と付き合ってるとか?」
「面白がる人はそう組み立てて適当述べるでしょうね」
「おっかしー」
「参った子だなあ……」
コロコロと笑う姿が、何とも能天気だ。
一先ず藤子はいつもの席に座り、鞄から弁当箱を取り出す。どう説得しようかと考えるにも、少々お腹が減っている。燃費は悪い方だ。
「藤子はお弁当なんだ」
「……そうだけれど」
「弁当系女子?」
「何何系とか、あんまり好きじゃないなあ。好きにさせてよって思う」
「私も。お姫様系ってなにーって。あ、それ美味しそう」
「姫宮さんは、パンなの?」
「姫子にしてよ」
「姫宮さん」
「むー、パンだよ、パン。実家が洋菓子店なんだけど、お父さんが趣味でパン焼くの」
なるほど、と頷く。姫子は確かに、なんだか甘い匂いがする。容姿も相まって、更に普通じゃない感を演出していた。やはりあの店の子だったのか。
果してこの子、クラスではどんな扱いなのか。
「……はいこれ」
「ありがと」
「それで姫宮さん。入部の件だけれど」
「うん。あ、おいひい」
「どうしても入るの? 入ったとしても、私喋らないけど」
「何を喋らないの? ……あ、そっか。そうだった。うん」
「目的頭にないまま、入部したの?」
「いやー。昨日、凄く冷たくされたでしょう、私」
「はあ、まあ、そうだね」
「冷たくされるの、嫌いなの」
「え、悔しかったから?」
「そうそう。それにさ、家政部ってさ、なんだかギスギスしてて、居心地悪いし。それに比べたら、ここは藤子一人じゃない? 一応部活入ってる事にもなるし」
「まあ、それは良いよ。でも、ついてくる噂が面倒だよ、間違いなく」
「させておけば良いんじゃない? 女の子が女の子好きでも、私別に何とも思わないよ?」
いやだから、まあ、そうなのだが。
「ねえ、姫宮さん。君ってもしかして」
「うん?」
「友達少ない?」
「あー、ほら、私、可愛いでしょう?」
眉を顰める。
確かに、可愛いのは間違いない。しかしそれを口にしてしまったら不味いのではないか。
「……」
「妬まれちゃってさー。媚びてるーとか、直ぐ股開くーとか、援交してるーとか、そりゃあもう」
「ちょっと待ってね」
パソコンを立ちあげ、ブックマークしてある所謂学校の裏サイトを覗く。スレッドでは伏せ字だが……姫子の事らしき誹謗中傷が書き連ねてあった。
挙句隠し撮り写真まである。
「……えっと」
「それ、町歩いてる時のお父さんとの写真だよ」
「反論しないの?」
「面倒くさい。何言っても、面白がる奴らは論理的に考えないよー」
……仰る通りで。
妬み嫉みの類は、皆で盛り上がって一人を批難出来ればそれで良いのだ。証拠も論理も、破綻していようと構わない。
藤堂藤子が最も嫌いなものの一つ『前後が成り立たない』話である。
だからそういう意味で、藤子の噂は大体正しい為に、反論のしようがないといえる。
「可愛いと、大変だね」
「あ、藤子も私の事可愛いと思う?」
「だってほら……私、女の子好きだし」
なんだか偽るのも馬鹿らしくなり、そう答える。
姫子は眼を暫く瞬かせてから、口元をゆるめてほんのりと笑う。
その表情は確かに、可愛すぎて、同性に嫌われるだろう。
「やっぱりそうなんだ。藤子って背高くてカッコいいし、モテるでしょ、同性に」
「何言ってるの?」
「客観的事実? 男日照りの続く不毛な女子校に咲く一輪の薔薇?」
「初めて言われたよ」
「そ、そうなの? え? 私、てっきり女性に迫られるのが嫌で、群れないようにしてるのかと」
どうやら、お互い感違いしている点が多々あった様子だ。
こればかりは反省せねばなるまい。
姫子のデリカシーの無さは責められて然るべきなのだが、無用な警戒心で彼女を責めた自分もまた同罪である。
そういうことなら、入部も吝かではない。一人で暇なのは間違いないのだ。
ただ、レズビアンのカップルだと噂される事だけを除けば。
「入部、いいけど、余計な噂付くよ」
「援交女って言われた上でレズビアン扱いってのも、なんか不思議」
「ああ、今更か……設定として複雑だねそれ」
「そうそう。ねえ藤子」
「何、姫宮さん」
「姫子だってば」
「姫子」
「えへへ。うん。あんね、私可愛いじゃない?」
「うん、まあ、口に出す事じゃないとは思うけど」
「で、私は藤子の事カッコ可愛いと思うの」
「はあ」
「じゃあもう本当に付き合えば矛盾もないんじゃない?」
「はあ……――はあ?」
この子は……何を言っているのだろうか。箸で掴んだきゅうり竹輪を取り落とす。
多少の動揺。あわてて手に取ったお茶のパックを強く握りすぎ、お茶がこぼれる。
「私と、君が?」
「うん。聞いたよ。美知と別れたんでしょう?」
何故それを知っているのか。心臓の辺りが、むず痒くなる。
もともと噂になったのは、二年の藤堂藤子が他人様とは違う性趣向の持ち主である、という事だけである。今のところ美知自身に被害が及んだとは聞いていない。
「家政部で?」
「うん。美知、友達だし」
「それ知ってて……それを話して、近づこうと、思うかなあ、普通」
「あ、もしかして、まだ美知の事好き?」
姫子は自分の髪を弄りながら、事もなげに言う。
美苗美知を、藤堂藤子は未だ好きなのだろうか。確かに彼女とは、具体性に富む付き合い方をしていたと思う。しかし互いに好きだと口にした事はないし、関係性も曖昧なままだった。
彼女は藤子を置いて離れて行ってしまったのだ。
今になって元の関係に戻ろうと思っても、そもそも美知は取り合ってくれないだろう。
気持ち云々、以前の話なのかもしれない。
「気持ちは、無い、訳じゃないけど。殆ど、片思いみたいな、感じだったし」
「そうなんだ? でもなんか変だなあ」
「それ、誰からの話?」
「美知だけど。レズの先輩に絡まれて困ってるって」
何か、自身の想いに罅が入るような音が聞こえる。あの子はそんな事を他人に口にする子だっただろうか。
だが、状況を鑑みるに、噂の出所が、まず怪しかった。
一緒にいた美知も同時に語られて然るべき所……何故か藤子だけが噂になったのだ。藤子は美知に被害が及ばない事だけを案じていたが、その考えがスッポリと抜け落ちていた。
たぶん、彼女がそんな事をする筈がないと、勝手に思い込んでいたからだ。
あんな綺麗な顔をして……やることが、エグい。
嫌な素振りなんて、一つも見せなかったくせに。毎日一緒に、笑いあっていた癖に。
心の奥では、気持ち悪いと、そう思われていたのか、自分は。
「あ、あれ。藤子?」
「――なに、なによ」
「あっと……えっと……は、ハンカチ、はい」
こんなに悲しい事があっただろうか。
こんなに虚しい事があっただろうか。
語らずとも、多少なりとも、心は通じていたと、そう思っていた彼女が性悪で、噂を作って遊んでいただけなど、考えるに辛い。
「で、でも。なんか変なんだよ」
「……変って」
「だって私、貴女達羨ましくって」
「羨ましい?」
「ほら、実家、洋菓子店でしょ。近くの。姫宮洋菓。貴女達、二人でケーキ、買ったりしてたよね?」
「……甘いの、好きだから」
「見てたの。嬉しそうにしてる二人。別れた後も、二人分、ケーキを買って行く藤子も。昨日も」
「それで?」
「うん。美知、嬉しそうだったもん。あんな顔、冗談で出来ないよ。藤子見る眼、恋してたもん」
……そうだ。
仲は良かった。お互いに、口にはせずとも、共有する時間が幸福であったと思う。この、どうにも煮え切らない感情の理由はそこにある。
三か月の間とはいえ、毎日顔を突き合わせていて、その笑顔が作りものであったかどうかなど、解るにきまっている。
美知は間違いなく、心から笑っていた筈だ。
「どうする? 美知に聞いてみる?」
「駄目」
「なんで?」
「……駄目。本当は、別の誰かが噂して、それが嫌で、離れたのかも、しれないし」
「薄情。美知ってそんなに性格曲がってたかな。薄情すぎるよそんなの。噂されたぐらいで、好きな人ほっぽり出して、困らせるなんて、変」
「証拠、ないし。それに、あの子との間に、問題も、起こしたくないの」
「好きだから?」
「どう、だろう」
「それじゃ困るの」
「何故?」
「何故って。だってこれから、藤子は私を見なきゃいけないのに、他の子見てたら困るでしょ」
どうやら付き合う事前提で話が進んでいるらしい。
藤子としては、当然可愛い子に好かれて悪い気はしないのだが、今は妙な空気にある。
姫子はジッと藤子を見つめてから、顔を緩めてにへらっと笑う。
「やだ、そんなに見ないでよ、恥ずかしい」
「いやいやいや……変な子だなあ、君は」
「ともかく、恋人同士という態でー」
「私、君の事何も知らないけど」
「暇でしょ?」
「まあ」
「フリーでしょう」
「一応」
「私も空いてる」
「うん」
「じゃあいいじゃない? ま、それに美知の反応も見れるかも?」
確かに、あるかもしれないが、普段の様子を見るに、本当に無関心かもしれない。
それに、形だけのカップル、というのもいまいちシックリ来ないし、不誠実な気がしてならないのだ。
「ま、よろしくね、藤子」
姫子は顔をほんのりと赤らめて、藤子に微笑みかける。藤子もまんざらではなく、その直接的に向けられる感情に、引け目を感じながらも好ましく思った。
※
小さい頃から、女の子同士の遊びには加わらなかった。
皆で楽しく遊んでいる所を、自分が参加した事で水を差すのではないかと、子供ながらに懸念を抱いていたのかもしれない。
例えばおままごと。仲の良い友達に誘われて参加しても、大体はお父さん役だ。その頃から身長があったし、幼稚園でも頭が一つ抜けていた。周りにはまるで優しいお兄ちゃんのように思われていたのかもしれない。生来醒め気味の空気が、同い年なのに周りとは違って大人に見え、頼りがいがあるように感じられたのだろう。
思い出せば幾つか、幼い頃より女の子らしく扱われた事がない節を思い出す。
小学校の時もだ。
皆で劇をやるというのに、何故かクラスの男子を差し置いて、王子様は藤子だった。
あまり目立ちたがらない藤子からすると、嫌がらせなのではないかと思えるほど、クラスの女子全会一致での取りきめである。挙句、オリジナル要素まで加えられ、台詞もだいぶ増やされた。
台詞も演技も大変だし、皆から何かと面白がられ、良い気分ではなかった。
中学生にもなると、また話が面倒になる。
今まで近くに居た、友達だと思っていた子達が藤子から離れて行ったのだ。幼心に抱く友情が、思春期を迎えた彼女達にとって、気恥かしいものになってしまったのかもしれない。
クラスの男子にデカイ女だと罵られた事がある。特別大きくはない。ただ、中学二年で165センチを超えていたので、確かに、周りの女子から比べると、一つ抜けてしまう。
そいつは、悪い奴ではないのだがお調子者で、良く女子にちょっかいを出しては泣かせてしまような奴だった。小学生じゃないのだから、もう少し落ち着いた方が良い、そう諭したのを覚えている。
男子VS女子に発展したのは、それが切っ掛けだ。クラスの女子は藤子を矢面に立たせ盾にする。男子達は男子達で、自意識を傷つけられたのが余程頭に来たのか、藤子に対する嫌がらせが始まった。
かなり直接的なものから、間接的なものまで。
藤子からすると、何もかも幼稚でくだらなく、相手にするのも面倒であった。
女子達は庇ってくれるのかと思えばそうでもなく、ただ傍観しているだけである。
クラスの女子の中でも、一際可愛らしい彼女……萌葱といったか。対立する中、彼女に被害が及ばなければ、それで良いとも思っていたのだろう、進んで状況を改善するような真似はしなかった。
そんな日々がどのくらい続いただろうか。
バレンタインの日、机の中にチョコがあったのだ。友チョコなんてものが流行り出して久しい中であるから、藤子も過去幾つか貰ってはいるが、それは綺麗にラッピングされており、包みを解くと中にはメッセージカードと、不器用ながら一生懸命作りました、という気迫が感じられるチョコが入っていた。
今思えば、何故それを教室で開けてしまったのか。
女の子らしい趣味もなく陸上に打ちこんでいる事、元から女の子同士で男の子の話はしない事、他にも要因があっただろう。しかしそのチョコはトドメで、早速男子達に槍玉にあげられた。
取りあげられ、馬鹿にされ、挙句メッセージカードの音読である。
どこの誰が、どのような想いで文字を綴り、そしてチョコを作ったのか。あれは間違いなく、真剣なものだった。
それを愚弄されたのが、藤子には堪らなく許せなかったのだ。
堪忍袋の緒が切れると言うが、正しく烈火のごとくだったかもしれない。調子に乗って机の上で発表会を始めるチビを引きずり降ろし、片手で地面に放り投げた。周りにいた取り巻きも同様、そのカモシカのような脚で蹴り飛ばし、都合三人を保健室送りにした。
勿論先生が仲介に入り、両親も呼ばれる。
こういう時、女子というのはやはり都合が良い。寄ってたかって女子生徒一人を馬鹿にして遊んでいた、など、どの両親も平謝りせざるを得ず、先生もイジメの事実を真剣に取りあげていなかったとして糾弾される事を避け、かなり穏便に済ませようとしていた。
肝心のチョコはどこへ行ったのか。ひと悶着あった後、藤子はそれを探しまわった。
搬出口でクラスのごみ袋の中身を漁り、チョコだけを発見した頃にはもう夕方だった。
なんだか悔しくて、頭に来て、理不尽で、こんな扱いをされたチョコが、これを作ってくれた人が可哀想で、申し訳無くて、帰り道、産まれて初めて声をあげて泣き晴らした。
(……結局、誰だったんだろう、あれ)
――ペンを置き、ぼんやりと黒板を眺める。黒板に書かれた数式は、まるで頭に入って来ない。
問題は、あの甘い匂いがする彼女であるし、まるで取り合ってくれない親しかった彼女だ。
周りを見渡す。見事に女子しかいない。それも当然、女子校である。
元から男に免疫はなかったし、特にあの事件は男なる生物に不信感を抱かせるに十分であった。皆それぞれ違うとは解っていても、同じ空間に男女半分、毎日詰め込まれると思うと、少々嫌気がさす。
特にあの事件の後は顕著で、絶対に共学へや行くまいと、そして馬鹿は勘弁してほしいと、少し上の女子校を目指した結果がこれである。
確かに男は居ないし、馬鹿も少ないのだが、如何せんこうなってしまっては、意味が無い。
平穏な女子校ライフは、もう何処にも無いのだ。
「はいここまで。このままHRするから、ちゃっちゃと終わらせて放課後だよ」
なんとも乱暴な物言いの数学教師兼担任の須賀だが、そのサバサバとした空気が人気の女教師だ。
大した議題も連絡もない為、HRは直ぐ終わり、周りのクラスよりも早めの放課後が訪れる。藤子はさっさと教科書を仕舞いこみ、部室へ行こうとしたところで、担任に呼びとめられた。
「藤堂。ちょっと」
「はい」
クラスメイトが帰宅準備をする中、藤子は手招きされて窓際に寄る。
二十後半の須賀は、その小奇麗な顔を少しだけ歪め、難しい顔をしている。
「先生、これでも家政部の顧問でな。なんだその顔。似あわないってか」
「いえ」
なんとなく、話題が解る。
「姫宮、あいつ奉仕活動部に移ったって聞いたが……なんでか解るか?」
「ギスギスしてて嫌だったのと、なんとなく入ったから愛着がない、と」
「ギスギスなあ。みんな仲良く見えるが。特にほら、美苗とは仲良かったし。まあ、引き止めるつもりはないんだがー……なあ藤堂」
「はい」
「あの噂と、なんか関係あるのか?」
「あの噂、というと」
「解るんじゃないか?」
恐らく、援助交際の話だろう。だから、こういう面倒な事になる前に、さっさと説明すれば良いものを、彼女はだいぶグズった。
基本、先生は退部の話はどうでもいいのだろう。つまるところ、近い人間から疑惑について話を聞ければ良いのだ。
「写真もあがってるとか」
「ああ」
「あれお父さんだそうです。死ぬほど趣味が悪いし、なんだか聞いてて頭に来る話ですよね、これ」
「いや。悪い。何もそういうつもりじゃなかったんだが、話題に上がったからな。そうか。じゃあそれはあいつの担任にも話しておくか。で、姫宮なんだがね」
「はあ」
「美苗とは仲が良いように見えたんだが、他からは嫌われてたかもしれんな」
「みんな仲良いっていったじゃありませんか」
「話す順序があるんだ。ほら、姫宮はオンナオンナしてて、如何にもだろう?」
「可愛いとは思います」
「そうか。で……そのな。お前さんの話も、あるわけだ」
「……人の性癖に文句をつけると?」
「否定しないのな。まあほら、いちゃついた所で子供が出来る訳じゃないが……ほどほどに、仲良くしてやってくれるか?」
「つまり、私にどうしろと」
「あいつが話したかどうかしらんが……ちょっと情緒不安定な子なんだ。いきなり部を抜けるっていうのも驚いたし、噂もあるし、その抜けた先にはお前さんだろう? なんとなく解ってくれ」
「先生としても酷く勘ぐっている訳ではなく、変な噂があるし、レズだのなんだのと噂にならないといいな。でも面倒見は良さそうだから、あの不安定な子と仲良くして欲しいな、という事」
「お前は頭が良くて助かる」
「……どうなんですか、教師として」
「そこを言われると辛いんだが、生憎親身に接してやるには、年齢も距離も遠いんだ。埋め合わせはするから、ま、宜しくな?」
「……面倒な事になったら責任とってくださいね」
「大人だからな。責任とるぐらいしか出来ないんだ。まかせた」
先生が小さく頭を下げる。
しかしなるほど。教師達も問題を放置している訳ではなさそうだ。
程良く仲良くしてくれ、と言われた場合どうすればいいだろうか。それ以前に、何故か彼女宣言されているのだ。此方としては、そんな中途半端にお付き合いしています、なんて口が裂けても言えないが、関係を整理する必要はあるだろう。
それに情緒不安定とは、初耳だ。
明るく笑顔の可愛い彼女も、他の人たちと接する場合、だいぶ態度が違うのだろうか……。
「……ああ」
確かに。思い当たる節がある。
初めてノートを持って来た時、だいぶよそよそしかった。もしあの雰囲気で生活しているのならば、可愛さも相まって虐めの対象になるやもしれない。
取り敢えず、だらだらと考えても仕方が無い。藤子は荷物をまとめて部室へと向かう。
鍵を取り出したが、中に気配を感じ、そのまま扉を開く。
中では姫宮姫子が、藤子の来訪を待ちわびていたらしく、直ぐ笑顔になり、しかも飛びついて来た。
「藤子、おはよっ」
「あのねえ、そんな恥も外聞もないラブラブ新婚夫婦みたいな御迎えやめて」
「えー。私、好きな人にはベッタリだし、尽くしまくっちゃうよ?」
「え、好きだったの?」
「嫌いならこんな事しないよ?」
取り敢えず、誰かに見られても面倒なので、後ろ手で扉を閉める。どうも離れたくないらしい姫子を引きずりながら、いつもの席についてパソコンを立ち上げる。
「えっへっへ。んー」
「んーって何」
「キスしないの?」
「しないでしょう。恋人じゃあるまいに。いや恋人でもそんなベタベタ恥ずかしい」
「美知にはしたでしょ」
「……いやだから、私は認めていないし、君だってそんな、適当に恋人見繕っても駄目でしょう」
「適当じゃないよー。藤子はね、運命の人なの」
アター、と自分の額を叩く。
運命の人は不味い。何が不味いって全部不味い。確かに見た目お姫様な彼女だが、まさかそんな居た堪れない残念自意識を抱えた人間だったとは思わなかった。
「とかだったらいいのになあ」
「……」
「あ、イタイ子だと思った? あははっ」
今日はだいぶご機嫌麗しいと見える。これぐらいの感情変化なら誰でも有り得るだろう。とはいえ、藤子は普段から感情落差が少ない。
「クールって、言いかえれば根暗って事だよね」
「言い換えるから不味いんじゃない?」
「でもほら、私は君みたいに明るくは出来ないし」
「あー。別に良いんじゃない? 私は藤子のキリッとした顔好き」
「他に表す表情が無いからかな」
「表情で思い出したけどね」
「うん?」
「家政部止めて、奉仕活動部に入るって美知に話したら、言葉にはしてなかったけど、物凄い顔で睨まれちゃった」
「なんでだろう」
「やっぱり気があるんだよ。まあ、もう渡さないけどね? ふふ。藤子、藤子ー」
「べたべた暑苦しいよ」
「こんなに可愛い子に縋られて暑苦しいとか酷い!」
「お、嫌われたかな」
「でもそんなのも好き」
「参ったな」
離れる気のない姫子を無視して、パソコンを弄る。生徒会に対する報告書は殆ど出来ているので、次に提出する報告書でもねつ造しようと考えていた。元から生徒会は奉仕活動部に仕事を回さないし、取り敢えずあるだけの部活動であるから、誰も文句はないだろう。
「ねえ旦那様」
「やっぱり男役なんだよねえ」
「何が?」
「昔から、何かにつけて配役を男にされるの」
「背高いし、髪短いし、顔つきも中性的だし、仕方ないんじゃない? ほらこっち見て」
「ん」
「ほら、これもう少し髪型お洒落にして、キリッとするとイケメン風味。でもやっぱり女の子って感じもあって、それがまた……ああ、藤子、可愛い」
「――見つめ合いながら、そういうのは止めてよ。マジっぽいし」
「マジだよーだ」
そういって拗ねると、漸く離れて窓際の席に腰かけた。酷く子供っぽいが、当然嫌という訳ではない。
むしろ、常にこのように迫られた場合、藤子はきっと抵抗虚しく流されるだろう。それほど彼女は可愛らしく、藤子好みである。その明るさとて、本来恋人同士だとするならば、許容している。
良く考えれば、タイプこそ違うが、美知も姫子もお姫様のような子だ。美知は和風、姫子は洋風である。
ただ、今は姫子と仲良くするのは宜しくない。
せめて、美知と話し合って、自分達の関係性を明確にした後でなければ、美知にも姫子にも失礼だ。
好ましく思われているのは、凄く、嬉しいのだ。
しかしそれにしても……姫子の奉仕活動部入部の知らせを聞いた美知が、何故姫子を睨む必要があったのだろうか。それは、まだ美知が少なからず藤子を思っていてくれているからか、それもと、何でそんな話をわざわざ私に聞かせるのか、という不快感からだろうか。
今まで話しかけても取り合ってすら貰えなかったのだ。なるべくならもう少し、情報を得てから彼女とお話合いがしたい。
「ねえ、藤子」
窓際で外を見ていた姫子が、振り返って藤子に話しかける。
「なにかな」
「部活動しないの?」
「しないよ、仕事ないし」
「生徒会自治委員会が、大半の仕事持ってってるんだっけ」
「そうだよ」
「折角部員も二人だしさ、二人で出来る範囲貰ってこようよ」
「止めた方が良いよ」
「なんで? 生徒会と仲悪いの?」
「んー。自治委員会の人は、元は奉仕活動部でしょう」
「うん」
「一人残るって話から、凄く揉めちゃってね。いや、私じゃなくて先輩同士が。なんだか解らないけれど」
「なんで揉めたの?」
「活動しない部を残しておくのもおかしいって事じゃないかな」
「いやー。ねえ、藤子さ」
「うん?」
「自分がどれだけ好ましい容姿か、考えた事ある?」
「ないけど。こんな男女、怖いでしょう」
「あはは。またまた。小さい頃から男役ばっかりだっけ?」
「そうだけど」
「ちょっと接し方に困ってただけで、みんなさ、憧れてたんじゃない? 背高いし、顔良いし、勉強も出来る。群れなくて、物静かで、なんかミステリアス」
「なんか面倒くさそうな人物像だね。誰それ」
「だから、藤子でしょう。先輩達もさ、藤子巡って喧嘩したんだって、絶対」
……。流石にそれは……とは、想いつつも。
確かに、容姿で虐められた記憶はない。中学時代の暗い記憶は、大半が男性からの嫌がらせだ。
「幼稚園の時、オママゴトはいつもお父さんか、妻の愛人役だった」
「酷いマセガキ……まあ、そう観られてたのかも」
「小学校の頃は、いつも周りに女の子がいて」
「周りに居るって変な表現」
「私からはあんまり。みんなが来るの。私、目立ちたくないのに、持ち上げられて、演劇だって王子様役だったし」
「いやあ……それは純粋に、好かれてたから、みんなで持ち上げただけだと思うけど……」
「中学の時なんて、小学校の時の友達は離れちゃうし、男子に虐められるし、女子は傍観してたし」
「それは酷いけど、なんで?」
「男子が子供すぎたから、大人になれって言ったら、女子の代表みたいにされて」
「小学校の友達が離れたのは、なんか解る」
「……え? 理由解る?」
「カッコいいな、凄く良い人だなって、純粋に近づけていた小学校時代だけれど、思春期に入って、そういう気持ちが冗談じゃなくなったんだと思うよ。ガチだと思われちゃうから」
「そ、そんなものかな。でも、皆が味方してくれなかったのは?」
「それは藤子が皆の代表として、男子に対抗する盾だから」
「そのままじゃない」
「うん。だからさ、頼もしくてカッコイイ貴女に、頼りたかったんじゃない? 別に女性陣から厭味を言われたり、嫌われたり、した訳じゃないのでしょう?」
「……う、うん。確かに。そうだけど。でも、薄情じゃない、なんだか」
「――藤子、クラスに好きな人、居た?」
「……うん。居た。気持ちも、伝えなかったけれど」
「それじゃないかなー。その子良く見てたでしょう?」
「確かに」
「女子たちの王子様の貴女が、もしかしたらクラスメイトの女の子の一人に恋心を抱いていたと知ったら、みな遠慮するかも」
「そんなもんかなあ」
「そーだよ。もう。藤子はカッコ可愛いってば。認めなよ」
「難しいよ。姫子の主観を信じるのは」
「もう……ま、いいか。他の悪い虫つかないならそれで」
どうやら納得したらしい。
姫子の話は乱暴だが、自分ももう少し友好的に接していたならばと考えると、後悔する点は多い。
中学の時とて、積極的に仲間作りなど、しなかったのだから。
「――そう、そう。そういえばさ、中学の時、チョコとか、貰わなかった?」
唐突に、姫子がそんな事を言い出す。話の流れと言えばそうだが、今までとは違ってテンションは抑え気味だ。
「ああ、貰ったね。女の子から。友チョコ」
「あ、うん。な、なんかさ。それで喧嘩になったりとか、なかった?」
「あー……あんまり、良い思い出は無いんだ」
「そっか。そうだ、チョコ好き?」
「甘いのは、大体。知ってるでしょう?」
「うん。じゃあ、今度作ってこようか。甘いの」
「女の子らしい……貰えるのなら、貰うよ」
「……えへへ。うん。楽しみにしててね」
姫子が顔を赤らめる。
その恥ずかしそうな顔は、明るく振る舞う姫子よりも、更に可愛らしく見えた。
そのように可愛さを振り撒かれると、藤子としても反応に困る。
「好きな人の為に何か作るって、素敵だと思うの」
「……そっか。うん。気恥かしい限り……その、さ、姫子」
「うん?」
「思いの外、色々考えてるんだね」
「ひどーい」
「ごめん。でもなんだか、ありがと」
「――うふふ。うん」
「もう帰ろっか」
「はーい」
帰ろう、と呼びかける人がいる部室は、久しぶりだった。いつもそこに座っていたのは、美知だったのだ。家政部に所属はしていたが、暇を見つければ奉仕活動部に顔を出していた。
詰まらない話をして、意味もなくじゃれて、ほんの少しだけ、いけない事もした。
今後姫子が奉仕活動部員となって、毎日顔を合わせて。
彼女の気持ちが本物で。
美知とも整理がついたら。
また、毎日に幸せが舞い戻ってくるだろうか。
きっと、周りからは色々と言われるかもしれないし、偏見で見られるかも、解らない。
だとしても、このままでは薄暗い未来しか見えない藤子には、一縷の希望に見えるのだ。
最初こそ酷い子だとは思ったが、話して見れば思いの外思慮深いし、良く頭を使う子だ。まだ、判断するだけの時間を付き合っていないからかもしれないが、藤子に抱き縋る姫子に、後ろ暗い空気は無い。
彼女が好きかと、そう言われれば疑問符も浮かぶ。ただ、きっと今よりは好転する。
恋人同士でなくても、仲の良い友達としてなら……。
(仲の良い友達として……結局、好きだっていう事もなく……)
……。
やはり、恐れているのだろう。けれど、もし、姫子が突破口になってくれたのなら、この何もかも中途半端な藤堂藤子を、少しでも変える切っ掛けになったのならば、自分は変われる気がした――
※
――しかし希望というものは、なかなか儚く出来ている。
所詮は自分の脳内で巡らせ至った最善の未来でしかない。他者がどう思っているのか、何を考えているのかなど、想像出来る範囲でしか想定出来ず、それを己の希望推定に組み込んで計算する事など、出来はしないのだ。
藤堂藤子は、椅子座って足を組み、此方を見下す美苗美知を前に、硬直する。
「……なんで」
「別に?」
――彼女と初めて出会ったのは、ある日の夕暮れだった。
その日も大してやる事は無く、奉仕活動部で昼寝をしていたのだ。すっかりと寝入ってしまい、気が付いた頃には陽が暮れようとしていた。
あわてて戸締りを済ませ、下校しようと下駄箱にまで駆けおりた時の事、生徒が困った顔をして下駄箱周辺を探しまわっていたのだ。
長い黒髪に少し切れ長の瞳。飾りっけは無いが、全体から清潔感が漂う。ほんの少し、春の花のような香りのする、下級生だった。
勿論、藤子の好みであった事もあるが、困っているのならば手を差し伸べる。何事があったのかと聞けば、ストラップを落としてしまったのだという。
ただのストラップならば問題ないかもしれないが、母からもらったものだというのだ。
『そんな、迷惑をかけますから』
『暇だし、気にしないで。こっちの隙間とかは探した?』
『……』
もしかしたら、その時は迷惑だったかもしれない。結局見つからず、その日はお互いバラバラに帰った。
翌日の放課後。彼女はまた下駄箱周辺を探していた。
何も言わず、藤子は手伝う。彼女も何も言わなかった。
そんな日が三日程続いただろうか。恐らく、ムキになっていたのだと思う。
また放課後に下駄箱へ行くと、彼女は居た。その手には、ストラップ、だったらしいもの。恐らく気が付かれず、踏まれて蹴られて、奥に追いやられてしまったのだろう。
『見つけてあげられなくて、ごめんね』
『……謝る事、ないのに』
『みせて』
ストラップの残骸を受け取る。どこかで観た事のある、ゆるいキャラクターが、無惨にも塗料がはがれ、ボロボロになっていた。
例え代えを用意したとて、意味は無い。プレゼントは気持ちが大半である。
聞けば、亡くなった母に貰ったものだという。では尚更だ。
「……なんで、美知が、部室にいるのかな」
「いちゃ、悪いかしら、藤子」
……。あの時は、それこそ、たった一か月前には、そんな表情は、しなかっただろうに。
どうにか、この子を笑顔にしたかった。代えが意味無しと解っていても、他に何か出来るほど、藤子は彼女と繋がりは無かったし、他のものを提示する事も考えられなかった。
翌々日、藤子は同じものを買い、彼女に渡した。彼女はキョトンとした顔でそれを受け取る。
『説明、出来ないのだけれど。たぶん、貴女は笑っている方が、素敵だから。こんなの、何の意味もないと、想うけれど……』
泣き顔しか知らなかった彼女は、藤子が今まで出会った事がない、美しい笑顔を向けてくれた。
『美知。美苗美知よ。貴女は』
『藤堂藤子だよ』
『……ありがとう。藤子。私、凄く、嬉しい』
あの笑顔に、やられてしまったのかもしれない。
あんなに優しい笑顔を見たことが無かった。
それから日々、藤子は美知の事ばかり考えるようになる。
まさか、貴女を好きになってしまいましたなんて、言える訳もない。彼女と友達になって、毎日を過ごしていれば、それで満足なのだと、自分に言い聞かせた。
美知はけれども、藤子の気持ちをどれだけ察してくれていたかは解らない。しかし、友達以上の事をしていたし、互いに一緒に居る時間は、この世で最も幸せであると感じられた。
そうだ……あの笑顔。
だから、美苗美知は、そんな、いやらしい笑い方なんて、しないのだ。
そんな、そっけない言葉は吐かなかったのだ。
まるで、彼女が別人に見える。
「……声をかけても、振り向きすら、しなかったじゃない」
「振り向く気分じゃなかったのよ」
昼。昼食を取ろうと部室に足を運んだ藤子は、部室前に佇む美苗美知と出会った。今の今まで、まるで振り向く素振りすら見せなかった美知が、何故部室で待っていたのか。
一先ず中には入れたが、美知はいつも座っていた窓際の椅子に腰かけると、的を射ない返答を繰り返すばかりであった。
「――どうして」
そう。ただ、どうして。それしか思い浮かばなかった。突如離れてしまった理由も、そしてまたいきなり現れた理由も、藤子には解らない。
「来たかったから来たの。ここ、静かでしょう?」
「違う。違うの、美知……何故……私を、避けたの。そして今になって何故、顔を出すの」
「――そうそう。藤子。姫子が入部したんですってね。寂しくなってしまったの?」
「どういう、事」
「寂しかったんでしょう。友達の居ない貴女だから、姫子を誑かして、部に引きこんだ。あの援交女、貴女に優しくしてくれる?」
「違う。あの子は、そんな事、しないよ」
「でも誑かしたんでしょう。私の時みたいに。そういえば貴女、ビアンなんですって?」
「……」
「なんとか言ったら?」
「……解った、言うよ」
もうたくさんだ。藤子は髪をかき上げ、美知を強く睨む。
「ええ」
「私は、貴女もあの子も、誑かしてなんていない。私は――君が好き」
「嗚呼――んふふ。うん、そう。それが聞き――」
「だった」
「――――…………え?」
「もう、私には関わらないで。変な噂立てられて、君も迷惑するでしょう。君と過ごせて、私は、凄く、幸せだったから。ありがとう、美知。ううん。美苗さん」
「あ、ちょ――ちょっと……何、言って……え、と、藤子?」
「それと、姫子の、変な噂、流さないでね。あの写真、あの子のお父さんだから」
背を向ける。扉を閉め、藤子は走った。
あんなに綺麗で優しい笑顔を湛えた彼女は、もう居ないのだ。きっと、普通以上の仲の良さを求める藤子が怖くて、それに合わせて付き合っていただけに過ぎない。
しかし、あんな罵り方、しなくても良いだろうに。
本気だったのに。誑かしたなんて、そんな事は絶対にない。藤堂藤子は、真剣に美苗美知が好きだった。
もう良いだろう。
もう許してほしい。
これが精一杯だ。
藤子は、確かに背が高いし、見た目も中性的だ。いつも女性達には、男として見られていた。
でも、違う。
藤堂藤子は、女の子なのだ。女性なのだ。
そんな、わざと傷つけるような事を言われて、心が荒まない訳がない。嫌にならない訳がない。
「うっく……うっ……ううぅ……」
嫌になる。自分が嫌になる。
何で女の子が好きなのか。何でこんな見た目なのか。
私が一体、何を悪い事をしたというのだと、嘆くほかない。
泣いている姿を見られるのも嫌だ。藤子はその快足で走り抜け、校舎の裏に逃げ込む。普段誰もこない用具室の裏に隠れ、壁に手を付く。
どうしたら、もっと上手く生きて行けるだろう。どうやったら、もっと笑顔で居られるだろう。
藤子は不器用だ。表情を表すのも、相手の機嫌を取るのも、兎に角、苦手だった。
何に打ち込む事もなく、得意だった陸上も止めて、もっと生きやすいだろうと思った高校でこれでは、一体、藤子の居場所はどこにあるのだろうか。
「……」
「藤子」
「……」
「藤子。大丈夫? 辛い? 痛い? 苦しい?」
泣きじゃくり、どのくらいの時間が経っただろうか。時計を見れば既に昼休みは終わっていた。
呼びかける声に顔をあげる。
「……姫子」
「うん。姫子だよ。悪い奴、やっつけて来たから。藤子は何も心配しなくていいんだよ」
「……やっつけた?」
「部室行ったら、美知が居たから。詰まんない事言うから、張り倒しちゃった」
「美知は」
「泣いてどっかいったよ。知らない、あんなの。藤子、大丈夫?」
「……駄目かも」
「独りだと辛い?」
「……うん」
「あは。うん。なんだか、しおらしくなっちゃって、可愛いんだ。大丈夫だよ。藤子は独りじゃないよ。姫子が居るから。独りじゃ寂しくても、二人なら大丈夫だよ。ほら、藤子」
姫子の胸に抱かれ、余計悲しくなる。ただ、虚しさとは違った。何時も抱える、空虚な感覚とは違う悲しさだ。姫子の胸が温かい。人とのつながりを、上手く紡げなかった藤子には、むしろ熱いくらいだった。
「独り、寂しいよね。私もそうだから。解るよ。藤子、一緒にいよ。藤子は、誰にも虐めさせないよ。私、絶対、守るから。ずっと男の子扱いされてきたんだもんね。甘える先が、無かったんだよね」
「……うん……うん……」
「そうだ……」
何か思い立ったのか、姫子は鞄から、一つの包みを取り出す。
どこかで観た事のあるラッピングだ。呆けた顔を向けると、姫子は笑顔で応えてくれる。
「開けてみて。約束してたよね、甘いの、作って来るって」
酷いデジャヴュを感じた。包みを開ける一つ一つの動作が、中学の時のバレンタインを想起させる。
包みを解き、箱を開ける。
中には、過去とは違う、良く出来たチョコレートと
あの時見たものと全く同じメッセージカードが入っていた。
「あ……あ、これ……」
「……ずっとね、知ってたの。藤子の事。小学生の時から見てたし、中学生になっても、貴女ばかり気にしてた。ずっとずっと、想い募らせて、告白する勇気もなくて。でも、陳腐だけどさ、何かプレゼントするタイミングがあれば、わ、わたし――想いを伝えられるかなって……思ってて……」
「……チョコしか、見つからなくて」
「うん。私、勘違いしたんだ。くだらないと、思われて、捨てられたのかもって」
「違う。違うの。私が不用意にね、教室で開けてしまって。それを取りあげられて、喧嘩になって……探したら、もう、捨てられた後で……チョコだけ、見つけたけれど、カードがなくて……ああ……そんな」
「誰かに、見られるの、嫌だったから」
「ずっと、気になっていたんだ。誰がくれたのだろうって。チョコ、美味しかったよ」
「食べたの? 塵に、捨てられてたのに。人が、良すぎない?」
「……ごめん、不器用だから、私」
「ううん。ううん。そんなことない。凄く、うれし、うれしくて……私が、意気地なしだったばっかりに、貴女に迷惑かけたの。ごめんね、ごめんね、藤子、ごめんね……」
「姫子」
「変わろうと、思ったの。もっと、女の子らしい方が、藤子に見て貰えるんじゃないかって。高校に入って、変わろうと思ったの。でも、近づけない。私は何でもない子だから。普通だから。それじゃ、見て貰えない。眼鏡外して、髪型も変えて。それでね、いざ、貴女に向かおうと、貴女に見て貰おうと思ったら……楽しそうに、美知とウチのお店に、買い物に来たでしょう。凄く、悔しくて、頭に来て。でも、どうしようもなくて……」
「……うん」
「ずっと、羨ましかった。貴女に見て貰いたかった。藤子に見て貰いたかった。言うね、こんなタイミングじゃ、まるで、ずるいけど。でも、私駄目だから。こんなタイミング逃したら、もう何も本当の事を言えなくなるから」
「うん、うん……」
「好き。藤堂藤子が好き。ずっと好きだったの。周りにどう思われようと、美知が突っかかってこようと、関係ない。私は藤子が好き。貴女と一緒に居たい」
姫子の真っ直ぐな瞳が藤子を捉える。
嗚呼これはと、喉元から発せられそうで、もう少しのところで、喘ぐ。
許されているのだ。
彼女は何もかも許してくれている。
ブラウンの瞳が、藤堂藤子の返答を待ちわびているのだ。
良いのか、言っても。
女の子を好きだと口にしても良いのか。
このお菓子のお姫様に求められて、そうだ、求められるならば、本当に自分は、男役を演じよう。王子様になってあげられる。
空虚で、熱量無く、実を伴わなかった想いは、今ここに結実しようとしているのだ。
逃す手があるか。こんなにも可愛い子に求められて。ずっと想われて。
「私――私も……」
好きになっても良いだろうかと、そう言った瞬間に、藤堂藤子は救われるのではないのか。
「す――」
心に決め、中途半端だった己を戒め、全ての救済に手を伸ばした、その時だった。
真横から物凄い勢いで、姫子がはじけ飛んだ。
「あっ」
何が起こったのか。意味が解らない。視線をゆっくりと向けた先には、黒髪の彼女が、お姫様に馬乗りになっていた。
「この――ッ! あんた、アンタはぁッッ!!」
「痛ッ! 何よアンタ!!」
「五月蠅い喚くな! 藤子に、何吹き込んだ!!」
「黙れ間抜け! いたっ、髪ひっぱらないで――!!」
それは一体どんな状態なのか。どうしてそうなる。
藤子はキョトンとしたまま、泥だらけで転げまわる二人を見守っていた。
そうだ、確か姫子は美知を張り倒したと言っていた。その報復か。往生際が悪い。
「美知!」
「藤子は黙ってて! コイツ、絶対、絶対許さない――ッッ!!」
「ハッ! 今更になって何言ってんだか! どけって言ってんの!!」
「言え! 今ここで! 『私の』藤子に、何吹き込んだ!!」
思いがけない言葉に、藤子が硬直する。どういう意味だ。何故今になって、美苗美知が藤子を自分の物だと宣言するのか。そして何故、彼女は泣き晴らしているのか。
奇声を上げ、掴み合う二人を暫く眺めた後、漸く身体が動いた。二人とも華奢だ。人を殴ったり、蹴ったりするようには出来ていない。
藤子は取っ組み合いをする二人の間に腕を突っ込み、一気に引きはがす。
「あっ」
「くっ――ッ」
「やめて。何が、どうして、こうなっているの。離れて、近づかないで。殴るなら私を殴って」
互いをぶちのめそうと構えた二人は、不満ありげにその手を降ろし、互いに距離を取る。
「そのクソ泥棒猫、一発二発殴らなきゃ気が済まないのよ!!」
「ハッ。鈍感で間抜けで意気地なしが、今更出てきても遅いってーの。ばーか」
「なあぁぁッ!! こいつぅ――ッ!!」
「美知、落ち着いて、殴ったりしたら駄目」
「だって!! 藤子! 貴女、そいつに騙されてるのに!」
「支離滅裂だよ。騙すって何。私をいきなり突き放したのは、美知でしょう」
「だから! それが!」
美知は息を荒げ、その腕を振り払うようにする。燃え上がる瞳は、姫子を捉えた離さなかった。
「……姫子、どういう事?」
「――違うの」
「違わないよ。美知は、余程の事が無い限り……少なくとも、私の記憶では、こんな、恥も外聞もなく、怒りを撒き散らしたりなんか、しないんだよ」
「……もう少しだったのに」
「……美知も、姫子も、擦り傷だらけだよ。保健室行こう」
「殴るのが先ッ」
「美知ってば!」
「うううううっッッ!! 藤子!」
「……なにかな」
「――ッ……いい。後で、話すわ」
「うん。……じゃあ、今は、解散しよ。放課後、部室に。姫子も、良い?」
「わかった。ま、大半達成したみたいなものだし、この際良いや」
制服の裾を払い、姫子は不敵に笑った後、藤子に微笑みかける。しかしその笑顔はどこかぎこちなく、いつもの美しさに欠ける。
「大好きだよ、藤子。大好き。ずーっと好きだったんだから」
その笑みは……そうだ。何かほの暗く、後ろめたく、とても、一緒に笑ってあげられる雰囲気にない。
藤子は小さく首を振る。姫子はそれを振り切って、立ち去ってしまった。
※
いつも軽やかに向かう部室への廊下は、異様に長く感じられた。
午後の授業は一切頭に入らず、右耳から左耳へと抜けて行くのをリアルに感じた。脳裏に浮かぶものは、怒号を撒き散らす美知と、喚き散らす姫子の、鬼気迫る表情である。
お互いに笑えば、それこそ華が咲き誇ったかのような美しさ、雅さがあるというのに、あれでは何もかもが台無しだ。
何故、こうなったのか。
そして恐らく、間違いなく、藤堂藤子も悪いのだろう。そうでもなければ、二人があそこまでいがみ合う必要性がない。
「……騙してたって」
何をどう騙すと、ああなるのか。聞きたくもないが、聞かずには済まないだろう。
階段を二つ降り、廊下の一番奥を目指す。遠目に、姫子の姿がうかがえた。そのやや影に、美知の姿も見受けられる。どうやら喧嘩せず大人しく待っていたらしい。
「良かった。喧嘩してなくて」
「藤子に迷惑がかかるもの」「藤子に迷惑かけたくないし」
「はあ?」「あ?」
「やめて……ほら、中入ろう」
二人をなだめすかし、部室の中に入れる。美知はズカズカと奥へと入って行き、いつもの窓際の席を取った。それを見た姫子は小さく舌打ちし、藤子がいつも座る椅子とは反対の椅子にドッカリと腰をかける。
なんとも、物悲しい光景である。
藤子は見なかったことにして、いつもの席に着き、パソコンの電源を入れる。
「……お話してもらうんだけれど、お互いが話している時に、チャチャを入れたりしないでね」
「ええ」
「はーい」
「じゃあ、うんと。美知からかな。何故、姫子に飛びかかったの」
美知は嫌そうな顔をし、暫く中空を見上げた後、口を開く。
「……ハメられたのよ。騙されたの」
「具体的に、どういう風に。それは、美知が怒り狂うほどの、理由があるのかな」
「当たり前でしょう。まず、もう、話しておくけれど」
「うん」
「私は、藤子が好き」
「――ええぇ……」
「色々、あったのよ」
姫子は、美知の話を素知らぬふりで突き通すのか、否か。話に関しては我関せず、といった様子で傍観している。
美知が言うには、何もかも全部、姫子が仕掛けた事だと言う。
「こいつは、親しげに私に寄って来たわ。感じも良かったし、私は愚かにも、友達だと思っていた。だから、悩みを打ち明けるようにも、なったの。そう、もとはと言えば、貴女の所為よ、藤子」
「……そんな気がしたけれど、でも、何故かな」
「そんなの決まってるでしょう。貴女が、何時まで経っても私に好きの一言も言ってくれないからよ。私、不安だったの。貴女は……その……カッコいいし、可愛いし……ほ、他の! 他の……子に、取られるんじゃないかって、そう思ったのよ。でも、貴女は何も言ってくれなかった。ただ、仲の良い友達か、それ以上ぐらいで、そこから先に、踏み込もうとしなかった。それが不安で、私は、友達だと思ってしまったコイツに、それを相談したの」
美知は袖で涙を拭いながら、そのように打ち明ける。美知にハンカチを差し出すと、姫子が嫌そうな顔をする。
「『藤堂さんの気持ちを確かめたかったら、一度突き放してみたらどうかな?』だって。私、その……うう……お、女の子同士の恋愛の相談なんて、誰にも出来ないと思ってたから、親身になって、話を聞いてくれたコイツが、本当に良い子なんだって、勘違いしたの。突き放している間は、兎に角藤子とは取り合わず、話もしないで、藤子が業を煮やしてやって来るのを、待って見ると良い、それで駄目なら、頑張って自分から告白しようって」
「――姫子を、疑わなかったんだ。そうだよね。うん。美知は、純粋だもの」
「……純粋。きっとそれは馬鹿者の隠語よ。それで、突き放している間の偵察は任せてって。家政部まで止めて、奉仕活動部に入って、その辺りから、おかしいって、思い始めたけれど――わ、私、こいつ、信じ切ってて……さっきは『舞台も整ったし、強い態度で出てやれば、絶対向こうから言ってくれるから』って、言われて……踊らされてるのが自分だって、知らなくて……危なかった」
自分の愚かさを口にして、それが身に沁みてしまったのか、美知は途端大人しくなり、椅子の上で三角座りをして、顔を膝に埋める。
藤子は視線を姫子に移した。彼女は、悪びれる様子もない。
「という、美知の話だけれど、姫子、何か反論はあるかな」
「反論はないよ、補足はあるけどね」
「――ずいぶん、余裕があるね。私は、このまま行くと、君を糾弾しなきゃいけないのだけれど」
「あはは。まあ落ち着いてよ。事の始まりは当然、私が貴女達の不愉快なカップリングを見つけた事。私の藤子が、なんか何処の馬の骨とも解らないクソムシに誑かされて、恋人ごっこを始めたのが、本当に頭に来たの。凄い気に入らなかったからさ、家政部に入って、コイツに近づいたのよ。少し優しくしたら、直ぐなついてきて。もーほんと、べらっべらと良く喋る喋る。で、話の中で漸く、藤子と恋人ごっこしてるって所まで漕ぎ付けて、悩みが無いかどうか聞いたら、泣き付かれちゃってさ。ウザイのなんの」
「姫子。もう少し、言葉は綺麗にならないのかな」
「うふ。藤子が望むならそうするね。美知はね、自分の性癖に悩んでたし、藤子がもしかしたら、美知とは遊びなんじゃないかって疑っていたの。なるべくなら、藤子から言葉が欲しい。好きって言ってもらえれば、踏ん切りがつくって。じゃあもういっそ、一度突き放して様子見れば良いって助言したの。助言っていうか、奪還作戦第一段階だけれど。で、そのあと藤子がレズビアンだって噂流したの。当然美知は怪訝な顔したけれど、逆境の中でも告白してくれるぐらいでないと、本物の気持ちじゃないんじゃない? なんて行ったら、まるで天啓でも得たかのように笑顔になってさ、いや、本当に騙し易い子でねー」
「解った。姫子、それだけ?」
「ううん。で、私は私で、ほら、美知は他の子に寝取られるんじゃないかって警戒してたから、私自身がレズじゃないって証明する必要があったでしょ。仮にも彼氏なんて、ていうか男なんて話すのも嫌だったから、援交してるって自作自演したの。あ、写真は本当にお父さんだよ。安心して、私の処女は、ちゃんと藤子のものだから。それから様子みて、貴女に近づいた。理由は何でも良かったのだけれど、都合良く藤子がノート忘れたからさ、それを届けたの。美知に対してどんな気持ちを持っているのか聞いて、安心した。やっぱりそこまで愛して無かったのよ。だからもう、このまま美知の悪い噂吹き込んでさ、さっさと気持ちを切り離して貰おうって思った」
「自分の体裁まで犠牲にして、こんな事までして……」
「こんな事じゃない!!」
突然、姫子が椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。姫子は目元に涙を溜め、藤子を見つめる。
「こんな事じゃないよ。私の体裁なんてどうでもいいの。藤子がそいつから離れて、き私を見てくれればそれでいいの。私の気持ちに、偽りなんて一つもない!」
藤子の息が止まる。その、半ば狂気に足を差し込んだような、自分勝手な発想にもそうだが、一切自分を疑わない、ましてそれを最善とすら感じて向けている、その視線に、多少なりとも恐怖を覚える。
今まで言いつけ通り、大人しくしていた美知が顔を上げる。そうして立ち上がり、姫子と対峙した。藤子はすかさずその間に割って入る。
「藤子、ごめんなさい。私が、愚かで、意気地なしじゃなかったら、こうはならなかったのに」
「ハハ。なったよ。なるように仕向けるもの。それにさ、もう結果出てるじゃない?」
「出てないわ」
「出てるよ。だって結局、藤子は貴女を無理矢理にでも振り向かせようとしなかったし、好きとも言われなかった。こんな明確な答えがあるもんですか」
「違う。藤子は優しいの。無理矢理したら、私が嫌がるんじゃないかって思ってたのよ。アンタに何が解る。アンタに藤子の何が解る」
「解るにきまってるでしょ。ずっと見て来たんだから。藤子好みの恰好もバッチリ的確だったし、もう殆ど、私に好きって言いかけてたもの」
「糞タヌキの糞ストーカーが」
「根性無し。何一つ自分で決断できない。藤子に、また男役を押し付けるんでしょ? 藤子は女の子なの。アンタは、馬鹿女達は、男の代替えとして藤子を見てるだけ」
「藤子が好きなの。性別云々じゃないわ」
「云々なの。男の方から声かけて貰うのが当たり前だと思って、しかもそれを藤子に押しつけて、藤子を悩ませて来たんでしょ。藤子がどれだけ自分の扱いを勘違いしてたか、考えた事無いでしょう。勿論積極的に女の子達の輪に加わらなかった事、鈍感だった事は、藤子にも非はあるでしょうけど、それにしたって酷い。女の子が好きな事を悩んで、頭抱えて、好きな人にも思い切った事言えない、そんな人の気持ちなんて考えた事ないの。ヘテロに毛が生えた程度の、『なんとなく』なのよ、アンタの好きなんていうのは」
それは、誰の気持ちを代弁したのだろうか。藤子か、それとも、姫子本人だろうか。
姫子の振りかざす論理は乱暴だ。しかし話の節々を捉えれば、その全てが非論理的で感情的だという事もない。
藤子は姫子に、ただならぬ恐ろしさを覚えながらも、けれど否定しきれない自分に気が付いた。
そんな言葉を受けた美知は、口をあんぐりと開け、熱弁する姫子をぼんやりと見ている。反論する気も起きないのか、圧倒されているのか、呆れているのか。
「……美知?」
「――と、藤子の、気持ちはどうなのかしら」
だろうなと、藤子は小さく頷く。
しかし、気持ちと問われた場合、そう簡単に答えられないような状態に持ち込まれている。
演技とはいえ、藤子の気持ちを疑うあまりに唆され、藤子の気持ちをズタボロにした美知。
その嫉妬から美知に取り入り、関係をブチ壊した上で自ら乗り込んできた姫子。
あれだけ高ぶった恋心も、美知の迂闊さに半ば砕け散っている。
本当に先ほどまで、この子さえいればと思った彼女は、嫉妬の怪物である。
男ならば、さてちゃんと決断しただろうか。男役を押し付けられる藤子は、それを演じねばならないのだろうか。
無茶を言うな。こんなもの、男女関係あるものか。二人とも、無茶苦茶だ。
「それで――そんなものをぶちまけられた私は、今ここにおいて、全ての決断をしろと……そう、言うのかな」
「私はそうは思わないよ、藤子。こいつは直ぐ、人の決断に頼るから。私の話なんていうのは、結局のところ、割って入って、道を正しただけ。でもこいつは、貴女を疑ってたの」
「違うの……違う……藤子……私――」
「――参っちゃった」
もうそれしか言葉が出てこない。疑念を抱いたまま美知に答えなど出してはやれず、まして意図して関係を破壊した姫子に何を言ってやれるだろうか。
藤堂藤子にも当然責任はあるだろう。あるだろうが、この流れにおいて、一体どれだけの責任を負担せよというのか。
嗚呼解った。
そうだ。
藤堂藤子は、きっと自分が思っている数倍、モテるのだろう。それは今をもって自覚しよう。そしてそれをこの二人は取り合ったのだ。
「二人とも」
諦めたように、藤子は小さく息を吐く。
「もう、私に、近づかないで」
美知が息を飲み、姫子が驚愕に顔を歪めた。しかし、そんな決断にもならない決断に対して、反論はなかった。この場ではどうしようもないと、誰もが思ったのだろう。
「出て行って」
他に話す事もない。二人にどう言葉をかけて良いのかなど知らない。自分の知らない所で、勝手に巡らせた思惑と謀略だ。
美知は項垂れ、先に部屋を出て行く。
「……辛い想いするよ。選んでおけばって、後悔するんだから」
捨て台詞を吐き、また姫子も去って行く。
――下手な事を考えなければ、良いが。
特に姫子は、あの調子では、何をするか解らない。自分の世界観を善として、他を貶める事を何とも思っていない節がある。情緒不安定とは聞いていたが、これはそんな生ぬるい話ではないだろう。
ドアを締め切り、藤子はいつもの席に腰を下ろす。何を考えるでもなく、なんとなく、ネットを始める。
今日のニュース、日々の事件、政治、経済、世界、掲示板に、まとめサイトと、ぐるぐるリンクを回る。
虚しい。
こんな虚しい気分は、産まれて初めてだった。
そして自分は、また何時かの自分に立ちかえるだけだ。美知はおらず、姫子も居ない、誰にも必要とされない世界だ。
この小さな部室で、同じような日々を繰り返す。
そこには愛も恋もないが、少なくとも争いごともない。
なんだこれはと、酷く悲しくなった。
携帯を取り出そうと思い、鞄に手を伸ばす。中を探ると、箱のようなものに手が当たった。
「……チョコ」
箱を開け、その古びたメッセージカードに目を通す。
女の子らしい丸文字で、その精一杯の気持ちが綴られていた。
『小学校の頃から、貴女が好きでした。女の子が女の子好きなんて、変な事かもしれませんけれど、私は自分に嘘がつけません。今日の放課後、校舎裏で待っています。2年1組、姫宮姫子』
あの時、怒りのあまり、あのチビが朗読するメッセージカードの内容など、まるで頭になかった。兎に角必死で、倒さなければいけないと、それだけで必死だった。
穏便に何事もなく、このカードを読んでいたのならば、藤堂藤子と姫宮姫子は、違う未来を歩んでいたのだろう。
彼女が嫉妬に狂う事も、無理に変化しようとした事も、己を犠牲にする事も、なかっただろう。
「そんなにまでして、私が欲しい?」
チョコを口に含みながら、考える。
確かに、姫子は無茶苦茶だ。だが彼女が奉仕活動部に来てからの言動を思い出すと、全てが全て『自分』だけを見据えたものだっただろうかと、不思議な点が見受けられる。
美知に対して藤子がまだどのくらい気持ちを持っているのか、探りを入れているのは、今となっては意図的であったと解るが、言動の節々に、美知に対する配慮があったように思えるのだ。
『貴女達は本当に、どれほど好きあっていたのか』純粋にそれが疑問であったかのような受け答えもあった。姫子は美知に対して、最初こそ逃げ道を用意していたのだろう。
どうしようも無く思うなら、自分から告白しろと、美知にも言っていた様子だ。
だからといって許されるような話ではないが、実質この出来事こそが、美知と藤子の中途半端な気持ちを露見させたのだろう。
「……王子様かあ」
手鏡を取り出し、髪を弄る。
デカイ女とは言われたが、男性にも女性にも、容姿で罵られた記憶はない。自分から近づかなかっただけで、邪険に扱われた思い出もない。ただ一人で、卑屈に、自分は嫌われているのではないか、気持ち悪がられているのではないかと、妄想していただけ、なのだろう。
自分で自分を褒めるのも、評価するのも苦手だ。
だが、あんな可愛らしいお姫様二人に取っ組み合いの喧嘩をさせてしまったのは事実だ。
多少、二人とも性格は、アレかもしれないが。
片や優柔不断の心配性。片や嫉妬狂である。
美しい薔薇には棘があり、鮮やかなものには毒があり、さて自分は何に分類されるのだろうかと、ぼんやり考える。
「……はあ。……もしもし、予約お願いしたいんですけれど」
携帯を取り出し、行きつけの美容院に電話する。
「ええ。そう。いつも男性受け持ってる、あの人、お願いします」
どちらかを取れば、どちらかが悲しむ事になる。
ならもう、いっそのこと、どちらも選ばないという選択肢を取るしかあるまい。どうせ藤堂藤子からすれば、今日の事で互いに醒めかけた関係なのだ。
しかしただ引き下がるのも頭に来る。
なら解った。
ではこうしよう。
「宜しくお願いします……はあ……は、ははっ」
藤堂藤子は、望み通り、王子様になれば良いのだ。風に吹かれ、右に靡き左に惹かれ――何も選ぶことなく、嫉妬だけ増やし続ける存在だ。
二人はそれを見たら、どう思うだろうか?
最初から平穏などというものを望むから悪い。人並みなんてものを望むからおかしくなる。
(……君達が悪い)
そう。彼女達が悪いのだ。
※
翌休日、藤子は街に出ていた。
身体の線を出したボーイッシュなパンツルックで、上着も女性モノではあるがかなり男性色を意識したものである。
『いえね、トーコちゃん。あなたそのままでも確かに美形なんだけれど、もう少しスッキリさせて、印象にも配慮したら絶対もっとカッコ良くなるとは思ってたのよ。でもね、あんまりほら、中性的にしすぎると、女の子としてどうなのかなー、と思って言えなかったんだけれど、急にどうしたの?』
『好きになった子二人をふったので』
『あらま――ほら、鏡見て、少し笑ってごらんなさい』
『こうですか』
『――か、カッコいいわねえ。ねえちょっとサナエちゃん、この子どう?』
『ちょっとアブノーマル踏み込むかもですね……ねえトウコさん、メルアド教えて?』
『ああ、良いよ。サナエは私みたいな子、好みなのかな……こんなかんじ』
『あうあうあうあ……』
『ちょっとトーコちゃん、洒落にならないわね』
美容室でのやり取りを思い出す。
美容室のオバ様も、あまり冗談にならない、と言う顔で居た。ちなみに美容師のサナエさんとは本当にアドレスも交換してしまった。流石に冗談……とも思ったのだが、一時間もした頃には公開出来る内容ではないメールが届いて、藤子もたじたじである。
まあこれは身内の話だ。流石にお世辞もあるだろう。そう考え、街に出て反応を見ようと考えたのだ。
駅前近くにあるモニュメントは、待ち合わせ場所であると同時に出会いを求める人にとって有名な場所だ。
自分にしても思い切ったものであると思うが、人から見た客観的印象など、自分ではどうにも測り難い。怖い人に絡まれなきゃいいな……などと考えて携帯を弄っていると、藤子に近づく影があった。
「やっほ。もしかしてお暇? なんか携帯弄ってるばっかりだったしー……うわ」
初対面にうわ、とは失礼だ。顔を上げる。二十代くらいだろうか、長い黒髪で、一見清楚にも見えるのだが、仕草と言葉の端々からお遊びに興じております、という空気が伝わってくる女性であった。
「えっと――女の子?」
「うん。そうだよ。ごめんね」
「うううん。ちがっくて。うっそ、すっごい綺麗な顔。あ、ほんとだ、良く見るとちゃんと女の子だ。へえー、一人でどうしたの?」
「……待ち合わせなんだ」
「あー。そりゃそうだよねえ。男でも女でもほっとかないよね。カレシ? カノジョ?」
「彼女」
「ふふ。そっかあ。モテるでしょう?」
「そうみたい」
「うんうんー。かっこいいってか、カッコ可愛い? すっごいタイプ」
「……あの?」
「あ、今のカノジョと別れたら教えてね。はい携帯出して、はい、アド交換終了ー」
「お姉さん、女の子でも大丈夫なの?」
「こんだけ美形なら全然愛せちゃう。あ、今度お茶しようねー。その先もする?」
「あ、あの……いえ……」
「やだ、紅くなるとかわいいー! 楽しみにとっとこ。またねー」
なんだか酷く遊ばれた気がする。大人の人は恐ろしい。
しかし、そんなに目を引くものだろうかと、自分が多少恐ろしくなる。手鏡を取り出し、改めて自分の顔を確認する。
髪の切り方一つで印象がガラリと変わる。だからこそ、一回一万も二万も出して皆髪を整えるのだろう。いつも伸びた分をカットするだけであったし、衣服も身につける物も、特に表情も、これといって意識していなかった。
声をかけてくれる人には申し訳ないが、やはり褒められれば気分が良い。
その昔から、誰にも相手にされなかったのだ。いや、厳密に言えば、薄暗い雰囲気に怖れを抱いていたのかもしれない。客観的に考えて、美人に素気なく拒否されたら、誰でも悲しい。まさか自分がその最もたるものであったとは夢にも――
「あ、良さそうな子いるよ、いっちゃん」
「ホントだ。ねえねえ、ボク――ぼく? あら? えっちゃん、この子女の子じゃない?」
「うっそ。ええと、ねえ?」
「なにかな」
「おお。おんなのこだー。いっちゃん、これヤバいかも」
「すんごい好み。え、モデルだっていないよ。もう女の子でもいっか?」
「ねえねえ、これから遊びに行くんだけどさ、貴女もどう?」
確かに、ここはそういう場所であるし、藤子も弁えてはいるのだが、こうも簡単に声をかけて来る子が多いのだろうか、免疫のない藤子からすると、恐ろし世界である。
何より先ほどの女性もそうだが、それにしたって性の壁が薄すぎる。
「ごめんね、待ち合わせてて」
「あらら。じゃあその子もどう? てかそれカレ? カノ?」
「カノジョ……」
「あっは。そうなっちゃうのかなー」
「あの」
「なになに? お姉さん達に何でも聞いて?」
「えと。自分で言うのも変な話なのだけれど、私ってそんなに、印象が良いかな」
「えっちゃん、この子眩しいー」
「眩しいかも。もしかして自信ないの?」
「あ、あんまり」
「カノジョも悲しむから、あんま自分の事蔑まない方が良いよー。てか刺されるよ」
「嫉妬怖いもんねー。気を付けなよ?」
「あはは! ほかあたるかー。じゃね、美形ちゃん」
「じゃねじゃねー」
彼女達が笑いながら去り、ほっと胸を撫で下ろす。迫る迫る。そして迫られる。彼女達が多少強引ならば、もしかすれば否定しきれないかもしれない。
しかし言質は取れた。嘘も偽りも無く、やはり自分は、好ましい容姿なのだろう。
(ちょっと楽しいかも)
それから一時間程その場所にいたが、一体何人に声をかけられただろうか。六割女性、四割男性といった割合だ。
しかし慣れない事はするものではない、喫茶店に入った頃には気疲れでぐったりとしてしまう。
(刺される、かあ)
幸い、刺されるような事態にはならなかったが、あの二人がもし自分を取り合って争い始めたら、と考えると身震いする。以前はそこまで想像にも至らなかったものの、自信過剰などと思っていては無責任なのではないかと思える。
あの二人は、今どんな気持ちでいるだろうか。
このような事に興じていて、一番得するのは本当に自分なのだろうか。復讐のつもりで、自分の身をかつてないほど追い込んでいるのではないのか。
(……)
そのような考え方は止めようと、思考停止する。まだ変わったばかりだ。
明日学校で、また反応を見よう。今回は年上の人ばかりだったのだ、同世代から見ると、また違った印象があるかもしれない。
心の奥底で、くすぶり始めた違和感を押さえつける。押さえつけた上で、皆の反応が楽しみであり、不安でもあった。
意識しすぎては疲れてしまう。心持ち軽く行こうと、その日藤子は家を出た。学校が近くなるにつれて、登校途中の同校生徒が増え始める。
目線が気になる。
いつもよりスカートを短くしている為、少しだけ股が涼しいし、制服も即席で詰めたので、多少窮屈だ。しかし校則には違反していないのであるから、堂々とするべきだろう。
「おはよう」
「はい、おは――お、おは……ようございまぅ……」
目の前に立つ小さな風紀委員は、顔を赤らめながら藤堂藤子を校舎内に通した。
校外、校内でそれなのだ、教室に入ればその反応は一目瞭然であった。
藤子が教室に入ると、空気がガラリと変わる。
前の席に座る佐藤は、目を見開き、口を開けたまま停止し、着席する藤子を見ていた。
「……あ、え、と。お、おはよ、藤堂さん」
「――おはよ、佐藤さん。どうしたのかな」
小さく微笑みかける。藤子の表情は、いつものムスッとしたものとは違い、華やかさがあった。佐藤はそれを受けて、ぷるぷると首を振る。多少顔が赤い。
「う、ううん。い、印象変わったね? 美容院?」
「少し髪が伸びてしまったから、スッキリさせたの」
「ふ、雰囲気も違うかな。制服」
「身が細いでしょう。だぶだぶだったから、詰めた」
「あ、脚、長いよね」
「昔陸上をやっていたから、筋肉質かもしれないけれど。まあ、一応女の子でしょう?」
「ふあ……あ、はい、あ、うん」
それっきり、佐藤は黙りこんでしまった。机にうつ伏せになりながら、何やらメールをしている。藤子は気にせず教科書を机の中に仕舞いこみ、頬に手をついて黒板を眺める。
視線をやれば、あちこちで藤子の話をしているクラスメイトが目に入る。
どうにも慣れないが、まあその内なんとかなるだろうと、楽観的に捉える。もう、阿呆観たいに卑屈で居るのも馬鹿らしい。皆がそう観るなら、ではそう居ようと思ったものを具現化しただけである。
「あーい席につけー……うわなんだそこのイケメン!?」
教室に入って来た担任の須賀が驚愕したらしく、出席簿を机に叩き落とした。
「先生、あれ藤堂さんです」
「え、あ、本当だ! どうした藤堂!」
「どうもこうも、髪切っただけです」
「そ、そうか? いや、うん。なんだ、えー、みんな変な気起こさないようにな! あ、委員長挨拶!」
教室に笑いが起こる。
思惑通り、悪いようには取られていないらしい。なら順調だ。
藤堂藤子は、これからこのような立場で暮らして行くのだ。少なくとも高校生活中に、もう誰も選ぶまい。誰も選ばず、思わせぶりな風だけ繕い、王子様で居れば良い。
まるで藤子を自分の物であると憚らなかったあの二人に、悔しい想いをさせてやれればそれで良かった。
抑えに抑え、気にする事も忘れてしまった、自分への不快感と不信感は、今日をもって終わりを告げるのだ。虚しい気持ちを一人で抱えもしないし、誰かと共有することもない。
何が私の物だ。
何が二人でいようだ。
一番寂しい時に、一番手を差し伸べて貰いたい時に、何もしなかったくせに。ましてそれを、利用しようとしたくせに。
最初こそ藤子当人にも、周囲にも違和感は付きまとったが、日が進むにつれそれは薄れ、一週間経つ頃にはすっかり『新生』藤堂藤子は定着していた。
一体どころに隠れていたのか、恐らくは態度を改める前から藤子を気にしていたであろう生徒達が、良く藤子に声をかけるようになった。藤子は決して卑屈にならず、無愛想にもせず、彼女達の言葉を笑顔で受け止める。突如の変化に驚きがあった空気も既になく、自身でも慣れ始めていた。
「一時期噂になってたけれど……藤堂さんって、本当に、女性が好きなの?」
「加奈ちゃんは、どう思うかな?」
「あ、う、うん。い、良いんじゃない? 私もその、藤堂さんみたいなの、カッコいいって思うし……」
「え、加奈ってそっちのケだったの?」
「ち、ちが……」
「那美ちゃん、そういう事言っちゃ駄目だよ。人は好きなものを好きでいれば良いんだよ」
「う、あ、うん。ご、ごめんね。違うの。と、藤堂さんなら、仕方ないかなーって……えへへっ」
「藤子さんって彼女居ないの?」
「生憎、特定の人って、懲り懲りでね。ああでも、本当に心から、好きだなって思える人なら、付き合ってもいいかな。みんなも可愛いし、彼氏とか居るんでしょ?」
「い、いないよ?」
「女子校だとほら、出会いもないしー」
「アタシも居ないよ」
それは、特別なものを面白がる心理と、男の代替えとなりえる同性への好奇心である。
彼女達が本当に女性だけが好きという訳ではないし、付き合ったとしても長続きはしないだろう。向けられる好意をいなしながら、藤子は心の中でほくそ笑む。
まあ、生憎と食い散らかす程の性経験はない。あくまで、藤子が弄ぶのは、こういった子達の淡い恋心であり、藤堂藤子という矛盾への追及に他ならない。
「せ、先輩」
「なにかな」
「あの、一年の、瀬能華絵って言います。あの、藤堂先輩。私その――」
その気持ちがどれほど本気かは、藤子は知る由もない。元から長く付き合う気はないし、話を受ける気もないのだ。校舎裏に呼ばれ、顔を真っ赤にして、胸に手を当て、必死に言葉を紡ぐ後輩を見ていると、罪悪感と共に一ミリずつ心が削れて行くのが解る。
「好きです。もうずっと――貴女ばかり見ていました」
どこか、姫子と重なり、藤子は辟易とした。
一か月も経つ頃には、もう二回もこうして告白に付き合っている。みんな、何を考えているんだろうか。相手は女、此方も女だ。行きつく未来は決して明るくない。家族には反対され、夢も希望も打ち砕かれるかもしれないのに、社会に不満を持ってルサンチマンを積み上げるだけかもしれないのに、一時の感情に流され、自身を崩壊させかねない告白であるという事を、彼女達は考えているのだろうか。
「ごめんね、華絵ちゃん。今は、特定の人とは、付き合えないんだ」
「――……そう、ですか」
「辛い? 痛い? 苦しい?」
「はい……」
「ごめんね。そうだ。まず、お友達から始めない?」
「あっ、と……それは」
「私、華絵ちゃんの事、良く知らないもの。重たい話かもしれないけれど……まるで何も知らない人とは付き合えないし、今後、もし付き合って行くのなら、色々と難しい問題をクリアしなきゃいけないんだ。挫折一つで躓いていたら、本当に好きなんて気持ち、信じられないんだ」
「……お友達、お友達でも、良いです」
「……私はファッションじゃない。私は男の代替えじゃない。私は――」
なん、なのだろうか。
藤堂藤子は、結局何になりたかったのだろうか。
「藤堂先輩?」
「ううん。そうだ、私ね、奉仕活動部って言う、マイナーな部にいるの。良かったら、遊びに来て」
「ッ――は、はい!」
本当に、この突然変異は何者になりたかったのだろうか。
藤堂藤子は、自分というものが希薄になるのを、感じざるを得なかった。
「……と、藤子」
声を掛けられ、振り返りもせず通り過ぎる。藤子の両側についた後輩が、訝しげに声をかけた美知に視線をやる。
「藤子様、あの方は?」
「さて。誰だったかな」
何事も無かったかのように適当に流し、いつもの部室に向かう。鍵は既に開いていた。不思議に思って中へ入ると、窓際の席に、彼女が腰かけているのが解る。
姫宮姫子はその見下すような目線を藤子に向けた。後輩二人には下がるように言って、藤子だけが部室に入る。
もう来るなと言った筈だ。今日に限って二人の顔を見るとは、嫌な日である。
「何してるの、貴女」
「それはこっちのセリフだよ。君はここで何してるのかな」
「それはどうだっていいの。貴女が何してるかって話してるの」
「なんだと思う?」
「ごっこ遊び。何ムキになってる訳?」
姫子が席を立ち、ツカツカと歩み寄る。姫子の表情は、怒りと悲しみ、そして虚しさを含んでいた。胸ぐらを掴まれ、藤子は突き放す事もなく、その腕に手を添える。
「変わろうと思ってね。もう、特定の人に好かれるのも、好くのも、懲り懲りなんだ」
「愛想振り撒いて、面白くもないのに笑って、好きでもないのに侍らせて、気を引くだけ引いて、あの子達、この後どうするのよ」
「別に。何も私はしてないよ。近くにいるだけだもの。まさか今後彼女達が何かしらを被った場合、補償しろとでも?」
「さ――最低。ホンキで言ってるの?」
「少なくとも――他人の君には、何一つ関係ないでしょう」
「あ、貴女――ッ」
姫子が手を振り上げる。防ごうとも思わなかった。こうして、彼女が負の感情を抱き、目元に涙を為怒りを撒き散らしていると思うと、むしろ心地良いくらいである。
そうだ。その筈だ。この子は、藤堂藤子を翻弄したのだ。美知と関係を絶つよう仕向け、挙句自分の思い出まで用いて自身を演出し、藤子に取り入ろうとした。
「姫子!!」
ドアがガラリと開き、美知が飛び込んでくる。間に割って入った彼女は藤子と姫子を引きはがす。
「美知!?」
「駄目、やめて、お願い……駄目よ、それは。姫子、行きましょう」
「ちょっと! 何勝手に――」
「いいから! 藤子、ごめんね。ごめん……ごめんなさい……」
美知が姫子を引っ張り、部室から出て行く。
その光景を眺めるでもなく、藤子は視線を窓の外に向けていた。
「あんた! 違うでしょう! そんなの、私が、悪かったとしても、そんなひねくれ方は無いでしょう!! 美知、離して!!」
やがて声が遠退いて行く。タイミングを見計らって、後輩たちが入って来た。彼女達二人は何事かと目を瞬かせながら、藤子に縋る。
「どうしましたの?」
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ。たぶん、これで良いんだと思う」
口ばかりで、しかし、その心に溜まる澱を取り除けないでいる。
悲しそうな姫子の表情に、必死な言葉。間を取り持とうとした美知の苦しそうな顔。
皆勝手だ。誰のせいだ。君達の所為じゃないか。
こんなにも悩んで、こんなにも苦しかったのに、美知が、姫子が手を差し伸べてくれて、その都度本当にうれしかったのに、疑われ、弄ばれて、平気な顔をしていてくださいとでも、お前達は言う気なのか?
「でも」
でも、この先が見えるのだろうか。高校卒業するまでとは言うが、どれだけ本気だろうか。虚飾で塗り固めた己は、自身を慕う子達に本当の気持ちを見せてあげられるだろうか。
本物とは何か。では自分は偽物なのか。所詮、代替えでしかないのか。
美知と姫子は、藤堂藤子の、何を見ていたのだろう。上辺だけで果して、あれほどしつこく付きまとうだろうか。まして姫子など、一体いつから藤子に好意を寄せているのか。
そして自分もまた、どれだけ遠ざけても、ふとした瞬間、彼女達の顔が脳裏に過る。
「……」
虚しい。
※
『この前はごめんなさい。もう一度あって、お話してください』
『ごめんね。私、貴女しか見えなくて、無茶をしました。一度あってお話しましょ』
この類のメールは、二人と別れたあの日から二人合わせて数十件に昇る。藤子は決して取り合わず、しかしメールアドレスを変える事も、電話番号を変えるような真似もしなかった。
「藤子様、メール?」
「うん。ちょっとね」
「あー、美知と姫子?」
「……まあ」
誰もいなかった奉仕活動部には、藤子を慕った数人が常駐するようになった。顔を出せば必ず誰ががおり、今までのような気分を味わう事もない。
ある種、ハーレムである。
誰にも特定の感情を抱いてはいないし、スキンシップ以上の事は何もしていない。仲の良さげな女の子の集団、であろう。やきもち程度はあるが、強烈ないがみ合いや取り合いもなく、日々平穏そのものだ。
メールを確認するだけして、携帯を仕舞う。
彼女達は今、どんな気分で藤堂藤子を眺めているだろうか。学校ですれ違っても、藤子は決して顔を合わせようとはしない。声をかけられても、当然無視だ。
その行いがどれほど美知と姫子を傷つけただろうか。
その行いが、どれほど彼女達に、弄ばれた人間の気持ちを理解させただろうか。
メールにはその旨が、良く記されている。
まして昨日の出来事は、離れようのない気持ちをそのまま表していた。
「先輩、お菓子食べます?」
「ん。それは」
「あ、近くの洋菓子店で買ったんです」
髪が短く、ボーイッシュな子が、笑顔でクッキーを差し出す。袋には姫宮洋菓の印字がある。
……彼女は、あの強烈なエゴを撒き散らした後、結局、対応として美知と変わらない方向性を選んだ。あの告白は狂気すら覚えたが、やはり一人の女の子である事には変わり無かったのだろう。
春の花の香りがする彼女と、お菓子の甘い香りがする彼女。
クッキーを受け取り、口に含む。
何か妙に、しょっぱかった。
「……藤子様?」
「先輩、どうして泣いてるんですか?」
「わかんない。解らないや……解らないよ……」
藤子を慕う子達が群がる。彼女達は口ぐちに藤子を労わるが、そのどれもに、何かとても、実の入っていない、空っぽの果物のような、残念さと味気なさがあった。
そしてきっと、それは間違いなく藤子の所為だ。彼女達に非は一切ない。
まさしく望んだとおりだ。
藤堂藤子は、誰にも本当の心を許さない、右に左に流れて流れる、王子様になった。
もしかしたらそうなる事によって、美知や姫子では見つける事の出来なかった想いや感情が手に入るかもしれないと、淡い期待を抱いていたのだ。
だが、このありさまである。
「ありがとう……大丈夫だよ、ごめんね、みんな」
誰にも声をかけて貰えず、男役を押しつけられ続けた藤子にとって、彼女達の声は温かく、同時に独りで居る時よりも、もっと空虚である。
「……藤子様。嫌なら、言ってくださいね?」
藤子の隣の子が、悲しそうに言う。彼女は比較的早い段階で藤子に声を掛けて来た。何を望むでなく、ただ藤子の隣に居させてほしいと、彼女はそう懇願した。
藤子は何の気も抱かず、彼女の申し出を受け入れた。藤子から彼女に対して、アクションの一つも起こした事はない。物静かで、笑顔が綺麗で、美術品のような子である。
そんな彼女の言葉は、重く、痛烈だ。
「美苗さんと、姫宮さん。最近ずっと落ち込んでいますし、学校も休みがちです。何があったのか、二人も、貴女も、話してはくれませんけれど、辛い事があったのは、解ります」
「……うん。でも、気にしないで、七海」
「その、私達、ですけれど」
「うん?」
「たぶん、気持ちは同じです。ねえ、加奈先輩、幸子さん」
「勝手に付いてきている、だけだし。勝手な物言いかもしれないけれど、先輩、なんだか日を追うごとに、暗くなってる気がするよ」
「話し合ったの。本当に、隣に置いてて貰えれば幸せだったけれど、何だか苦しめてるんじゃないかって」
「そ、そんな、こと、ないよ。私、ずっと一人だったし、みんなが居てくれると、凄く助かる。ごめんね。なんだか、色々考えてしまって」
「でも、藤子様、泣いてます」
そういって、七海が藤子の手を取る。主張がない子だっただけに、ここまで積極的なのは意外だ。それだけ、看過できないような落ち込み方をしていると考えるのが自然である。
「生憎、私達では、藤子様に何もしてあげられそうにありません。ほん、ほんと、なら……」
私達が慰めてあげられれば良いのに。
涙を流す七海を、加奈と幸子が気遣う。
……また泣かせてしまった。もっともっと、軽い気持ちで居て貰いたかったのに、藤堂藤子が抱えるものが深い場所に仕舞いこまれていて、彼女達では手を伸ばせないのが悔しいのだろう。
解っていた。こんな事をしたら、最終的に誰かを悲しませる事ぐらい。
でも、では、どうすればいい? また藤子の責任か?
藤子は不器用だ。そして、所詮付け焼刃の自覚であり、でっち上げの王子様なのである。
「ごめん、七海、幸子、加奈。少し、独りにさせて、ごめんね、みんな、ごめんね……」
察してくれて、いるのだろうか。彼女達は小さく頷きあい、藤子を心配しながらも、退出して行く。
ちょっと前の自分ならば、仲良くしてくれる子達に、きっと親身に接して、心を浮つかせたに違いない。
しかし今は違った。違ってしまった。それは何故か、解りきった事である。
「おーす、修羅場王子」
一人窓の外を眺めていると、無遠慮にも担任の須賀が部室に入ってくる。怪訝な表情を向けると、やれやれ、といった様子ニヤリと笑った。
付き合う気分ではないのだが、担任を邪険にも扱えない。
「どうしましたか」
「どーもこーもあると思うか?」
須賀は藤子の近くの椅子にどっかりと腰かけ、疲れたような表情を向ける。
「なんだお前、ハーレム王にでもなるのか?」
「なりませんよ」
「じゃああの有様はなんだ。部員でもないだろう。ここは大体、お前が一人で使う為に許可されてるような場所だ。お前の淫行の為のヤリ部屋じゃないんだぞ」
「……下品な先生」
「と、想われても仕方ないだろ。処女のくせにデカイ態度だな」
「……何が言いたいんですか」
なんとも品の無い須賀に、思わず声色に怒気が乗る。須賀はまるでそれを見越していたように、藤子を嘲笑った。
「姫宮と美苗から個別に話聞いたぞ」
喋ったのか。いや、須賀に迫られたのだろう。姫宮姫子の面倒を見てくれ、と言われた立ち場だ、こうなっては仕方あるまい。
「相当の修羅場だったみたいだな」
「あまり、プライベートに、入って来ないでください」
「そうもいかん。姫宮も美苗も休みがちなんだよ。無理矢理呼びだしてやっと吐かせたんだ。そしたら原因がお前、あいや、まあアイツ等だわな。で、中心になったのはお前だ。藤堂、どうする気だ」
「どうも、こうも」
「んまあ、姫宮の嫉妬で関係ぶっ壊されたってのは、解る。ただ後が宜しくないな。お前は今が最善だと思うか? 二人を打っ棄って、イメチェンして、んで他の女の子に囲われるような学校生活だ。未来があると思うか?」
「……」
お前のやっている事は刹那的で、目に余る。そういう事だろうか。
しかし、ではどうすればよかった。何が正しい選択だなんて、解る筈もない。あの状態ではどうしようもないからと、そう思ったからこそ、変えようと思ったからこそ、今があるのだ。
「モテる奴は辛いな」
「じゃあ、あの二人を、なんとかして、和解させて、いざこざを解決して、二人を普通に学校に来れるように、仕向けろと、そう先生は言う」
「言わないよそんなもん。若い雌の雌の取り合いなんて、誰が食えるか。犬は吐くし猫は背面跳びで避けるぞ」
「……なんか、言葉、きつくありませんか。私が何したって言うんですか」
「だから、もしこのままレズの王子様でも演じ続けるなら、もっと上手くやれって言ってんだ。お前危ういんだよ。傍から見てて痛々しい。そんなに自分の未来が見えないのか? だとしたら酷い話だ。お前は今の自分に、酷い事されて凹んでる自分ってのに酔っぱらってるだけ」
「何が言いたいんですか」
須賀は、一つ溜息を吐いてから、藤子の手を取りあげ、地面に引き倒す。
反応出来ない。
両腕を押さえつけられ、正面に須賀の小奇麗な顔が迫る。
「な――なに、え、や、やだ……」
「ほら、どうした? 楽しませてみろ、王子様やい」
「う、うそ。せんせ、やめ――やめてッ」
「……なんだ、本当にこんなもんで驚いてるのか。これじゃ続けられないな」
「何が……」
「お前は、そんなに大人数愛せるようにゃ出来てないって事。私が学生時代なんて、10人も恋人居たんだぞ」
「は、は?」
「当然全員女。ここの卒業生でな、私。そりゃあもう教師達に睨まれて睨まれて」
「ど、どいて、いや……ッ」
「……なんもするかよ。まあノリ気だったならやらない事もなかったけどさー」
そういって須賀は手を離し、藤子から退く。
驚きと悲しみと、そして責め立てられる自身の立場に、もはや混乱しかない。須賀はまた椅子に腰かけ、立ち上がる藤子を睨みつける。
「分相応弁えろ。身の程を知れ。お前は死ぬほど不器用だ」
「そんなの、知ってますよ」
「本当の心なんて、探ろうと思って探れるものじゃないんだ。付き合って、触れ合って、いろんな感情分かち合って、やっと見つけるものなんだよ。高々一人としか付き合ってなかったお前が、一体誰の気持ちを知ってるっていうんだ。確かに美苗は阿呆だし、姫宮はシンドイかもしれんが、話だけ聞いて、その心に一度でも触れてやろうと努力したか。どうせ逃げたから、こんな事になってるんだろ」
「それは――」
須賀の正論が、どうしようもなく藤子に響く。
あの時、何もかも面倒になってしまったのだ。
二人はきっと藤子を好いている。その二人が、もっと自分を好きになって欲しいと、見て欲しいと、歩み寄った結果なのだ。当然、手段も的外れだし、やった事は無茶苦茶だが、少しでも此方が汲み取ろうとしただろうか。
「せめて二人だ。お前の許容範囲は。ま、ただチヤホヤされたいだけで今を続けるってんのなら、もう何も言わん。ああちなみに先生、凄い頑張ったぞ。実は彼女が五人も居る」
「それは……教師として、どうなんですか」
「あっはっは。先生は器用だからな。私のようになれなんて無責任な事は絶対言わん。だが、どうだ。少しは未来も描けるだろう。同性が好きだからって別に、地球が破滅する訳じゃなし、国がぶっ壊れる訳でもない。レズバレすると変な常識にとらわれた奴の目はキツイかもしれんが、社会から淘汰される訳じゃない。ま、相手の家庭はどうか知らんが。取り敢えずお前一人程度の影響なんてものは実にシビアだ」
「でも……あの二人は」
「抉られたんだろ、色々。抉り返せば良い。その程度で離れる奴はそれまでだし、それでも離れないなら、そいつの心にこそ、やっと探りを入れられる段階だ。こんなタチの私が言うのも何だが、女は面倒だ。アソコ突っ込み合って満足する訳にはいかん。勿論まあ、それも必要っちゃそうだが……藤堂」
「……はい」
「たぶん、その自暴自棄は、未だアイツ等が好きだから、それを誤魔化そうとしてるだけだ。アイツ等も、一生懸命だったんだ。好きでお前に迷惑かけたんじゃない。せめてもう一度話し合ってくれ。お前も、美苗も、姫宮も、失意のまま整理もつかず、暗い未来しか描けず、今後を暮らして行くなんて真似を、教師としても、私個人としても、見過ごせない。この通りだ、藤堂藤子。お前しか何とも出来ん」
この人は、ずるい人だ。
きっと余程の女たらしで女スケコマシなのだろう。
好き勝手言って、正論吐いたかと思えば下品で、しかし誠意は伝えて来る。まさかこんなとんでもない人物であるとは、思いもしなかった。
しかし……人生の先輩は、本当に、この憐れな藤子達を心配しているのだ。
「やめてよ、先生。頭、あげて」
「……」
「……解ってたんです。私だって結局……あの子達二人が、好きだって事。変わってみたけど、変わりきれない。結局中途半端で、自分の不幸を噛みしめて、喜んでた、だけだって」
「藤堂、お前」
「それにこのままじゃ、私を慕ってくれる子達を、もっと悲しませる。また、美知と姫子みたいに、してしまうかもしれない」
「勿論、全部がお前の所為じゃない。慕うのも慕う奴らの勝手だ。でも、勝手に責任は出て来るんだよ。ノブレス・オブリージュ。高貴なるものの責務だ。お前は王族でも貴族でもないが、生まれながらに王子様になるように出来ちまった。同情する。が、避けては通れない」
「……好きなんです、あの二人が。選べなんてしないんです。馬鹿でも、嫉妬深くても、本当に良い子なんだって……知ってしまっているから」
……やはりきっと、あの二人が、好きなのだ。
どうすればいい。
何が正しい。
どの道を選んだら――藤堂藤子は、幸せな生活を送れたのだろうか?
「……安心しろ。全部間違った選択選んで、全部投げ捨てたくなったら、私に声を掛けろ。お前一人ぐらいは囲ってやれるぞ? 大丈夫だ、お前は責務があるが、私はお前を守る義務がある。担任は王子様より偉いんだ、なあ、藤堂?」
「ほんと、酷い人だね、晴菜は」
「――ッ……お、大人をおちょくるな、馬鹿」
須賀晴菜は、顔を真っ赤にして反論する。何だかそれが面白くて、思わず笑いが漏れた。須賀もまた、そんな藤子がおかしかったのか、二人で笑う。
「……うん。背中押してくれて、有難う」
携帯を開く。
文面を打ち、二人に同時に送信した。
寂しいからだろうか。
虚しいからだろうか。
本当の気持ちなんてどこにあるか解らないまま、抱えて暮らすのは不自由だからだろうか。
結局全部姫子の言う通りになってしまった。
「逢います、二人に」
責務を果たす為に。己から生まれ出た想いを、ただ捨て去らない為にも。
※
部室には誰も居ない。事前に、彼女達には今日は立ち入り禁止だという知らせを回覧してある。
「おはようございます」
一応挨拶し、後ろ手でドアを閉め、いつもの席に腰かける。パソコンの電源を入れ、部活は終了した。
なんだか暫くぶりで、乾いた笑いが零れる。
何もかも、最初から諦めていたのだ。そして諦めるふりをして、当たり前を羨んでいた。決して行動には移さず、ただ不満を不満とも思わないように、小さい頃から暮らして来た。
人と価値感が違うからと、一番自分を虐めていたのは、他でもない、自分自身なのだ。
当然大声で憚れば嫌われもしただろうが、何もそこまで卑屈になる必要などなかったのに、まるで自分が可哀想な人間であるかのように、きっと自己陶酔していたのだろう。
その人生の中でムキになったのは、三つ。
一つは、チョコを取りあげられた時。
一つは、男と同じ空間には居たくないと、必死に勉強した時。
一つは、美苗美知のストラップを探しまわった時。
どれも小さく、勉強以外は、はっきりいって必死とは言い難い。しかし藤堂藤子の感情を強烈に突き動かしたのは、この三つしかないのが、事実であった。
それは、己の諦めに甘んずる気持への反逆であり、人並みへの憧れだろう。
今はどうだろうか。
新しい自分を演じ、違う自分をさらけ出そうとする姿は、人様の目にどう映っただろうか。
あのお姫様達は、藤堂藤子をどう見つめていただろうか。
何をするでもなく、中空を見上げていると、やがて廊下の方で音が聞こえた。暫く無音の後、部室のドアが開かれる。
藤子は少しだけ覚悟し、気取られぬよう、余裕を繕う。
「……やあ」
入室して来たのは、二人同時だった。俯き加減の美知と、余裕の無さそうな姫子である。二人ともどこか疲れた顔をしているのは、錯覚ではないだろう。
「好きな所にかけてよ」
そのように言うと、二人は――争う事もなく、窓際ではない、別の席に腰かけた。二人には距離があるものの、以前のようないがみ合う空気にはない。
もう一か月半、藤子は二人を無視し続けて来たのだ。本当に藤子が好きだったとしたならば、その心労は計り知れない。当然それを気持ち良く思う心は無いが、彼女達がやった事は、つまりそういう事なのだ。
「……藤子」
沈黙の中、美知が小さく口を開く。
「なにかな」
「その――凄く……似あう。髪も、その、余裕な雰囲気も」
「うん、そうするようにしたから。どうかな、美知の理想って、こんなカンジ?」
「――……」
彼女はまた押し黙る。それも当然だろう。酷い皮肉なのだ。
「姫子はどう? 私は、貴女の王子様に、相応しい?」
「……違うでしょ。したくもないクセに、何意地張ってるの、藤子」
「そうだよ。別に、したくもない。こんなの。私は、王子様じゃないから」
「じゃあ、なんで」
「何でも何も。寂しいからだよ。今までの自分が嫌で、こんな私を取り合う君達が嫌で、でも、寂しいのはもっと嫌だったから、少し変わろうと思ったんだ。姫子だってそうでしょう」
「……そう、だけれど」
「中学の時の写真、後輩から貰ったよ。凄く地味」
「――、や、止めて。振り返りたくもないの」
「思い出したよ。いたね、君は。遠くから、私を見てた」
「うううぅ……」
「美知」
「……何」
「お母さん、生きてるよね。離れて暮らしているだけで」
「――!! あ、そ、くぅ……ッ」
「少し、君達から離れて、得るものは無かったけれど、知る事は幾つかあったよ。美知は美人だから、中学の時はだいぶ疎まれたみたいだね。そっけない雰囲気が拍車をかけた。良い所のお嬢様なのに、疎外されて来た。私に嘘吐いたのは、何故?」
「決まってるでしょう。藤子が、良い人そうだったから。友達に、なれると、思ったのよ」
「偽ってまで?」
「――な、何か! 何か、引き止める、理由が、欲しかったの。ストラップだって、直ぐに見つかったの。無傷だったわ。それを、自分で、傷つけて、貴女の気を、引いたのよ」
「……私は、そんなに、信用無かったかな」
「不安、だったの。もう――許してよ……」
美知が涙を流しながら、そう懇願する。泣かれたからと、嘘が帳消しになるわけではない。そんな嘘だって、あのままならきっと藤子は許容しただろう。問題はそのあとなのだから。
「姫子はこの雰囲気のまま。男嫌いで、女の子にも嫌われて……そういえば、お父さん、義理なんだね」
「し、調べたの?」
「うん。その男嫌い、もしかしたら、お父さんの所為かな」
「……私の事、いやらしい目で、見るのだもの。連れ子の私は、一生懸命、仲良くしようとしたのよ。でも、成長して、体つきが、良くなると、見る眼も変わって。それが、凄く、嫌だったの」
「今更だけれど、なんで、あそこまでして、私と美知と引きはがそうとしたの」
「嫉妬もあった。でも、美知の話を聞いていたら、もどかしかった。だから――美知が、どうにかしてでも貴女に告白したのなら、私は、引くつもりで居たのよ。でもそうはならなかったし、私はやっぱり貴女が好きだったから。いいえ。今だって、好きだもの」
「わ、私だって。こんな事に、ならなきゃ……うううぅ……ごめんってば、ごめん……もう、疑ったりしないわ。だから……」
みんな、寂しかったのだろう。
何か人と違うように見られ、妬まれ、嫌われ、高校に入って変わろうとしたのだ。
特に美知など顕著だ。彼女は以前まで地方に居た。恐らく、地元では変われないと考えて、遠い此方まで一人引っ越して来たのだろう。その目論見は功を奏し、彼女は面倒見の良い美人として、今までとは違う高校生活を出発させた。
ただ、その中でも、藤堂藤子に頼ってしまったのは、ただ友達が欲しかったわけではなかろう。
どうにか仲良くなりたかった。嘘を吐いてでも、傍に居て貰いたかったのだ。そしてそれは同時に、己の性への悩みにも繋がったのだ。
姫子はどうだ。その変化は全て藤子の為である。藤子が頼もしく見えたのかもしれない。男を嫌うと同時に、しかし頼りになる人はやはり欲しかったのだ。どうあってもそれは異性には向かない感情だったが、かといって自分を馬鹿にする同性も憚られた。
その途中に居る人間。藤堂藤子は、彼女にとって、輝きに見えたのだろう。
では、藤堂藤子自身はどうだ。
「私は、君達みたいに、重いものは背負ってはいない。ただ純粋に、幸せになりたいって、笑えるようになりたいって、思っていただけ。美知」
「……はい」
「君とお友達になれて、凄く嬉しかった。でも、告白したら、全部壊れてしまうんじゃないかって、不安だった。私こそ、貴女を疑ってた。ごめんね」
「ううん……いいわ。貴女は、何も悪くない」
「姫子」
「……うん」
「君のした事は、酷いけど。私と美知の関係が、不確かで危うかったのは、確かだよ。私だって、ずっと好きだった子が、他の子に取られたら、きっとムキになると思う。ちょっと、手段は不味かったけれど」
「ごめんなさい……」
「私の鬱屈して、卑屈な心を指摘してくれたのは、君。私の勘違いを指摘してくれたのも、君。好きで居てくれて、ありがとうね、姫子」
「うん……う、うぅ……」
そうだ。
藤堂藤子は、何も難しいものは背負っていない。ただ寂しく、人を求めたが故に、藤堂藤子に辿り着いてしまった彼女達と、共有するような価値感はない。
ただ幸せになりたいと願うならば、ではそのようにしようと努力する事だけが、藤堂藤子が背負うべきものなのである。
「もう、嘘はないね」
「ええ」
「うん」
「私は、幸せになりたいクセに、自分から幸せを遠ざけてた。求める事で生じる不具合が怖くて、リスクが恐ろしくて、何もしないでいた。私がムキになって、本気になったのは、君達二人の事だけ。多分、私を求めてくれる人がいる事が、嬉しかったから。多分、この人なら好きなれるんじゃないかって、想ったから。君達二人、やっぱり私、選べないよ」
「藤子?」
「え、と。え?」
「やっぱり好きなんだ。二人とも。こんな私を求めてくれて、必死になってくれる二人が、大好き」
正しく、今が四つ目の、必死な時だ。
藤堂藤子にはどちらかなど選べはしない。選べないなら選ばない、では、またあの時と同じである。藤堂藤子は不器用なのだ。とても、皆の王子様にはなってあげられない。
ならもう、両方選ぶ他ない。殴られる覚悟だ。嫌われる覚悟だ。
優柔不断の馬鹿者で、こんな女たらしには付き合えないと、そう判断してくれればいっそ清々する。それが怖いからこそ、選ばなかったのだから。
藤子は立ち上がり、二人に歩み寄る。美知はキョトンとしたまま、姫子も呆気に取られ、何も出来ないでいる。
もうどうにでもなれ。藤子にはこの選択の他にない。
立ち上がった二人の手を取り、交互にキスする。
美知は小さく悲鳴を上げ、姫子は……姫子は、むしろ顔を緩めた。
「二人とも、好きだよ、お姫様達」
「ちょ、ちょちょ、え、なんで、そうなるの! ふ、二人とか、お、おかしいでしょ!」
「――……あー、これは美知じゃ無理かなー。独占欲強そうだしなー。でも私の藤子が選べないって言うなら、仕方ないかなあ。あ、美知はダメなんだよね。こんな人愛せないものねー。あー、残念だね、藤子!」
「……そっか、美知」
「え、ええー!? あ、嘘!? ま、待って、待ってよ! こんな、こんな、ふた、二人ってえ! しかも、しかもこの性悪が、何で好きなのよ、藤子!!」
「何でって。さっき説明した通りだよ。姫子は、私の事、好きでいてくれる?」
「えっへへ。勿論。やった、藤子、幸せになろうね……?」
「あ、や、やだ! ちょっと、姫子あんた、藤子取らないで!」
「え、だって二人好きなんて嫌なんでしょ?」
「そうだけど! そんな、そんなのずるいし酷い!」
「だから別に、こんな酷い人好きにならなくてもいいよ、美知。私は藤子と幸せになるから」
「ちーがーう! 嗚呼、嘘でしょう……や、やだ、捨てないで藤子!」
「でも姫子といがみ合うなら、それは困るし、辛いでしょう?」
「くぅ……ぐぅぅぅ……ううううぅっっ!! うううううっっ!!」
美知は、どうやら葛藤で錯乱しているらしい。頭をふるふると振りながら抱え、藤子とドヤ顔の姫子を交互に見て、また唸る。
……一応、考慮はしたのだ。
どちらも嫌だと言うのならば、それで終わりだ。
しかしどちらかが残ると言うのならば、それで一本化である。
だがどちらも好きで、離れたくないと、そう業が深い事と言うのならば……藤堂藤子も覚悟せねばなるまい。
「……藤子、私、そいつが許せないの」
「うん」
「……だから、私に謝って、姫子。そうしたら、私も藤子と一緒にいる」
「何それ。アンタ、無茶苦茶言ってるの、理解してる?」
「ふん。だって、藤子が私の事好きだっていうんだもの。じゃあこっちだってなんか無茶苦茶な事言ったっていいじゃない!! 馬鹿!」
どうやら相当に混乱しているらしい美知だが……なんとなく、言わんとしている事は解る。
「姫子、美知に謝ってあげて」
「えー」
「姫子」
「あん。なんか藤子に名前で呼ばれると、ぞくっとしちゃう。いいよ、謝る」
そういって、姫子はあろうことか……その場に跪き、まさかの土下座である。
これには美知も、そして藤子も驚いた。
何せ、二人を好きだという藤子が嫌だというのならば、独占欲の強い姫子は美知をさっさと引き剥がすように苦心するとばかり、思っていたからである。
やはり、藤子の考えなど所詮、妄想でしかないのだ。
「済みませんでした。でも、解って、美知。私、藤子が、大好きなの。貴女達が、羨ましくて仕方が無かったの。私にも、藤子を、分けて。お願い、美知……」
「や、嘘。やめてよ。姫子、土下座なんて、ずるい……解った、解ったから……ああもう、藤子、最低」
「ごめんね」
「ううん。良い。大好き。だから、もう、許すから、姫子。この馬鹿と、幸せになるように、一緒に努力してくれる? なんかもう、いがみ合うのも考えるのも、疲れちゃったわ」
「――いいの、本当に」
「うん。だってこの馬鹿好きなんでしょう。優しくて、なんだか頼もしくて、時折馬鹿だけど、一緒にいると、笑顔になれるんでしょう?」
「うん。そうなの。少し皮肉言うし、警戒心強いし、何事もあんま熱心じゃないけど、ほら、真面目そうに考えてる時とか、横顔見た事ある?」
「ええ、あるわ」
「もうさー、ああ、解るでしょう、美知」
「解る。凄い解る。ぎゅってしたくなるのよねー」
「そう! あはは、なんだ、趣味があうね、美知」
「そうそう、それがあんまりにも良くて、写真も撮ってるの、姫子、見る?」
「あ、みるみる!」
「――あれ?」
何だろう、本人を目の前にして、勝手に何事かが進んでる感がある。
「あの、お二人とも」
「藤子今ちょっと黙ってて頂戴。藤子の事で忙しいの」
「そうだよ藤子、今美知と話してるの」
「……あー……」
藤子は、乾いた笑いをもらし、まあ一先ず乗り越えただろうかと、安堵のため息を吐く。
まったくもって酷い話である。
王子様はまるでピエロにでもなり果てたかのようだ。何だか盛り上がる二人を置いて、藤子は窓際の席に座り、窓の外を眺めながら、須賀の話を思い出す。
ここに来てやっと、二人の心に触れる段階なのだと、そう教えられた。
あれを見本にするのは、多少不安だが、少なくとも恋愛において、藤子は須賀の足元にも及ばない。
もしかしたらこれから、また幾度か衝突するかもしれない。また酷い目を見るかもしれない。美知も姫子も、それはそれは――、一筋縄で行きそうにない女の子だ。
「って馬鹿! 本人そこにいるじゃない!」
「うわほんとだ」
「頼むよほんと君達……」
「えーと、何、その、藤子。私『達』、貴女の事離さないから」
「そうそう。私とか超粘着質だからね」
「――えーと」
「藤子、キスして。ね? 久しぶりだし。あーん、もう、やっぱり好きなんじゃない、ほら?」
「あ、ずるい。私まだなのに。藤子、私にもー」
二人が迫りくる。
先ほどとは打って変わり、二人ともだいぶスッキリした顔をしている。そこまで想われていたのかと思うと、酷く気恥かしい。
『覚悟してね?』
どうやらきっと、間違いなく……受難は続くのだろう。
※
いや確かに、覚悟はしたのだ。
彼女達の想いも夢も、一緒に背負い込んで努力していこうと考えた。それこそが、藤堂藤子に出来る最初の決意であり最大の努力である。
あの和解以降、驚くほどに自分の精神衛生は改善され、世界が明るく見え始めた。心の中に薄暗いものを抱えた王子様では無く、二人のお姫様の王子様として、その責務を全うしようとしている。
しようとはしているのだ。だが状況がなかなどうして、難しい。
「藤子、自治委員会から清掃担当区分捕って来たわ」
「美知、その、穏便にしてくれたよね?」
「勿論よ。貴女に迷惑かけるような事、私しないわ?」
「そ、そう」
「んでもヤッカミなのか嫉妬なのか、いやがらせかって程押しつけて来たから、それは蹴飛ばしたわよ? あと、条件付きなの」
「何の条件?」
「一応奉仕活動部の拡張と活動の始動を許可するけれど、此方の条件ものめって生徒会長に言われて」
「なにかな」
「……ちょっとでいいわ。生徒会長とデートしてきて。キスまでなら許すわ?」
「はい?」
何かその、ちょっと、おかしな感じになってきている。
「あ、姫には内緒よ。あの子、この部の子とキスするのだって嫌がるし。まったく、不寛容よねえ?」
「いや、それは美知がなんか、ちょっとタガ外れて来ただけじゃ?」
「外れもするわよ! 見なさいほら!」
と、美知は部室内に留まる生徒達に指をさす。一人二人……六人程が部室で思い思いにくつろいでいた。全員奉仕活動部員である。
「こんなの聞いてなかったんだから! 何よもうコイツ等、あーあー、定例宣告。藤堂藤子は美苗美知のものです。以上」
「あ、ミチが出し抜いた」
「姫ちゃんに怒られるんだー」
「いいでしょたまには。姫はいっつも藤子にべったりなんだから。はいこれ、活動範囲と行程表」
「ええ、でも、生徒会長とデートって……休日に一日付き合えば良いの?」
「ええ。はいこれも、会長の電話番号とアドレス。すごいウキウキしてたわよ」
「ええと、みんな、今後の活動の為にも、少しばかり身売りしてくるのだけれど、大丈夫?」
部内の皆にお伺いを立てる。基本的に民主主義である。
反対零、欠員一。多数決により可決である。
「みんな、なんか心広いよね?」
『キスくらいなら別にねー?』
『藤子様はカッコいいから、仕方ないかも』
『御姉様はみんなの共有財産』
らしい。
株式会社のようなもので、株の大半は美知と姫子が所有している。ただ他のも大口で所有しているものがあり、その意見も無視できない状況だ。挙句足りないから発券しろとまで迫られている。
「じゃあ次の日曜日にしてと……ん。月曜は美知と姫子、火曜は華絵と七海、水曜はクラスの佐藤さんで、木曜は幸子と加奈、金曜は美知、土曜は姫子でー、えーと……三週間先まで埋まっちゃってるよ。日曜開けておいてよかった」
「これ、マネージャーいるわよね」
「女性による女性同士の交遊の日程管理の女性マネージャーってどういう事」
「仕方ないじゃない。あ、次の祝日は開けてるわよね」
「うん。バレンタンだし」
「その日はあの子に譲ってあげるわ。どう、寛容な私、藤子は好き?」
「毎度助かっております……」
「えへへ。いいの。今日、お願いね」
「――うん」
そのように美知に囁かれ、ぞくりとする。
この混沌とした状況下、美知は本当に上手く立ち回っていた。あれほど二人好きなんて有り得ないと絶叫した彼女よりも、むしろ一番最初に許容した筈の姫子が不満を漏らす始末である。勿論姫子については想定していたのだが、美知の転身は驚くべきものだ。
「あ、二人は今日エッチするの?」
「ここでそういう事言わないで、お願いだから、ね」
「……いいなあ」
「た、爛れちゃったなあ」
奉仕活動部が誰の為にあるのかと言えば、間違いなく学校の体裁や地域清掃の為ではなく、藤堂藤子が皆に奉仕する為の部、という状態だ。
なんとも、溜息は出るものの、そんなに悪くないと思っている自分がいる。
「おース、王子様、いやらしい事してないか?」
「あ、須賀先生」
相変わらずノックも何も無いらしい須賀が、いつもの様子で現れる。ニヤニヤと笑いながらであるから、確信犯だろう。
「しかし可愛い所ばっか集めたな、お前。だからお前の許容範囲なんて二人って言ったのに……ま、集まっちまうものは仕方ないな、いや、モテるのは辛いな、王子様や」
「弄らないでください。なんですか?」
「……いや、良いんだ。様子見に来ただけだから」
「なんですか、それ?」
「気にすんなよ。おうお前等、あんまり王子様困らせるなよ。ながーく愛人で居たかったら、王子様立てて、付かず離れず、たまに大胆にだ。いいか?」
『はーい』
「だ、そうだ。頑張れよ、藤堂。あ、全部投げ捨てたくなったらいつでも来いよ?」
「あ、ちょ……もう、なんなんだろ、あの人」
「良い先生じゃない? 理解があって……それより、ね。活動は少し先からだし、今日はさっさと帰りましょ」
「うん。解ったよ。みんな、今日は少し早目に上がるから、戸締りを宜しくね」
「お任せあれ。仲良くしていらっしゃいねー」
時折、藤子を取り巻く彼女達の理解がありすぎて、少し怖い事がある。皆が皆、藤子を好きだとは言うのだが、独占気味な姫子と美知に対して、ヤキモチはあれど強烈な嫉妬を現すような事は一度も無かった。
その点について、現在奉仕活動部を仕切っている美知に聞いた事がある。
『なんで彼女達は、あんなにあっけらかんとしてるのかな。美知も姫子も、凄く嫉妬するのに』
『勿論してるでしょ。ただ、彼女達だって私や姫とおんなじで、寂しいのよ。わざわざあそこに屯しているぐらいなのだから、他に行き場所もないんじゃない? まあ、正妻二人に愛人複数って、大きく構えてれば良いわ、貴女は』
『そんなものかなあ』
『愛人が五、六人居る程度、気にもならないくらい貴女が魅力的なんじゃない?』
『恥ずかしい事言うね?』
『貴女じゃなかったら私、あの時間違いなく、姫を殴り飛ばしてどっか行ったわ』
『最近自分が怖い』
『幸せで?』
なかなか藤子の価値観では理解し難い部分もあるのだが、そういうものらしい。当然あの中には、正妻を追い落とそうとする娘もいるだろうが、今のところその様子はない。
藤堂藤子という人間に付与された属性は、恐らく今後外れないだろう。元の出来が良い事以上に、物事は何でも人気で決まる。人の寄る所に人は寄るのだ。この高校生活が全てではないし、美知と姫子すら、何があるか解らないのだ。物事の節目、いざこざ、時間の流れで、淘汰される関係もあるだろう。
その時その時、藤子がどれだけ真剣に接せられるか、それに全てがかかっているのかもしれない。
「ほんと、家近いよね」
「そりゃあ、学校の目の前のアパート借りたのだもの」
学校の校門を出て直ぐの場所、何の変哲も飾りもない、当たり前のアパートが美知の自宅だ。
実家は地方の土地持ちらしく、寝ていたって食べるに困らないような家らしい。そこの娘がなんでアパートなのかと聞けば『高校生が一人マンションの一室を借りるなんて分不相応すぎるから、アパートにして』という美知の申し出を受け入れた結果らしい。
「……思ったのだけれど、藤子」
「なにかな」
「やっぱり、マンションにした方が、声、漏れないわよね?」
「げほっ……ま、まあそうだけど」
「二人居るとワンルームじゃ手狭ね。その内三人とかもあるし、騒音で追い出されるのも嫌ね。ま、そのうち変えておきましょ。はい、いらっしゃいまし」
「お邪魔します」
美知の逞しさと言ったらない。このままいけば間違いなく尻に敷かれそうだが、幸せそうな彼女を見ていると、それでも良いと思えてしまう。
もう何度となく上がり込んでいるが、相変わらずものが無く、質素な室内だ。小物の一つもないと言うのだから、女の子としてどうなのだろう。
「相変わらず物が無いね」
「いざって時物が多いと困るし、どうせ引き払うし、面倒が無くて良いわ」
そうだ、彼女は合理的だった。もしかしたら人間関係も、それに合わせたものなのかもしれない。あの事件に関してはかなり非合理なのだが、以前付き合っていた時から、彼女は何事も無駄なく、上手く済ませるのが得意であった。
「コーヒー? 紅茶?」
「紅茶」
「ん。今淹れるわ」
ベッドの近くに腰かけ、ぼんやりと窓の外を見る。もうそろそろ陽も沈みかけており、西日が強い。夕暮れに影を伸ばしたり縮めたりしながら、お茶を淹れる美知を待つ。
視線を移し、美知に向ける。彼女がお茶を淹れる後姿を見ていると、藤子の無茶な主張を押し通して良かったと実感する。凄く家庭的だ。
「はい」
「ありがと」
「……」
「どうしたの」
美知は座卓にカップを置くと、藤子の隣に腰かける。藤子も直ぐに察して、その肩を抱いた。
彼女は自分から直接触れる事を好まない。良く躾られてはいるが、お腹は空いたよと求める子犬のようだ。自分からスキンシップをする事に、恥じらいを感じているのだろう。
あんな事はあったが、彼女はお嬢様だ。
「手つき」
「うん?」
「手慣れたわね。駄目なヒト」
「そりゃまあ、毎日あの子達にくっついたり離れたりくっついたりしてれば、ねえ?」
「今日の藤子は、私のだから」
「そうだよ。今日の私は、全部美知のだよ」
「えへへ」
「可愛いね、美知。可愛いよ、凄く。良い子。キスしてごらん? 上手に出来るかな?」
「――うん」
スイッチが入る。もうこうなってしまったら、三時間は離さないだろう。完全に甘えモードだ。
手を合わせ、指を絡め、胸を合わせて、暫く見つめ合ってから、顔を真っ赤にしながら、唇をつける。彼女は自分から羞恥心を煽ってコトに及んだり、コトに及ばず、わざと自分で焦らしたりするのが、酷く好きだ。
「上手に、出来たかしら」
「……うん。美知はキスが上手だね」
「一番上手?」
「んー? 姫子もキス上手だから、今度二人で競ってみようか」
「駄目よ」
「なんでかな」
「あの子、貴女とキスすると、直ぐ身体求めるじゃない。眼の前で始められたら、困るわ」
「一緒にすれば良いんじゃない?」
「は、恥ずかし……」
「でも、恥ずかしいの好きでしょ?」
「――うん」
「美知も駄目な子だね、駄目な子」
「嫌い?」
「んーん。大好き。もっとする?」
「する。普段出来ないもの。一杯したい。いい?」
「いいよ。今日は美知のものだから、嬉しい?」
「……嬉しい。好き、大好き。藤子――触って、キスして、恥ずかしい事、して?」
そういえばこれから、夕食時だし、まだお風呂にも入ってないけれど、大丈夫だろうか。
そんな事を考えながらも、愛らしく求める美知に乗せられるまま、啄ばむようなキスを繰り返す。
美知の目が細まり、口元が緩くなる。そろそろ上着を――と思ったところで、美知が手を止めた。
「……そうだった。はいこれ」
「あのね美知、流れってあるじゃない?」
「ふ、服の中に隠してて、渡そうとしてたのだけれど、キスで飛んじゃったわ。そう、それに、これからご飯作らなきゃだし、お風呂もまだだし」
「いやね、私もそう考えたのだけれど、美知がデレデレだから……で、それは?」
「バレンタイン。当日は貴女忙しいでしょ。姫子もいるし」
「それもそうだね。うん。美知、ありがと」
「いーえ」
綺麗にラッピングされた小袋の中には、星やハートの形をしたチョコレートが幾つか入っている。どうやら手作りであるらしい。流石に何でも卒なくこなす彼女の作るチョコは、不揃いで不格好なものが一つもない。そのまま出されればお店のものと言われても疑わないだろう。
「流石に上手だね」
「姫ほどじゃないけれど。あっちは本職だし」
「あれでも、一つ不格好な……なんだろ、これ。ゆるいキャラが……」
「造形が無茶だったわ」
「ああ、あの。ストラップの」
綺麗に揃ったチョコの中に、一つだけ歪なものが混じっていた。キャラクターを型取りするのは骨が折れたのだろうが、しかしそれでも見れるものになっている。
藤子と美知が探しあったストラップについていたキャラクターだ。
「たぶんね、一目惚れだったの」
「まだちょっとモサっとしてる頃だけど」
「私、見る眼はあるのよ。現に貴女は素敵だわ」
「お恥ずかしい限りで」
「土地持ちって言っても田舎だし。こんなに人が沢山居る所でやっていけるかって、不安だったの。なんとか上手く溶け込めたし、友達も直ぐ出来たけれど、一人暮らしは慣れないし、夜は一人怖いし、漠然とした不安があったのよ。そう考えると、私ってやっぱりお嬢様育ちで世間知らずなのかしら」
「誰だって突然一人になったら、寂しいよ」
「そうかしら。それでね、やっぱり、頼れる人を眼で追っていたのだと思うの。紐が切れてストラップを落とした時、なんだか物凄く、虚しい気持ちになって。友達も今までと違っているし、きっと声をかければ誰かが助けてくれたかもしれない。そんな事解っていても、虚しくて、悲しくて。そしたら、そこに貴女がやって来た……何で手伝ってくれたの?」
「うっ……その……」
「不味い事あった?」
「こ、好みの子だったから」
「まあ不純」
「だって美知、凄く美人なんだもの」
「えへへ……ま、いいわ。そのあと私がやった事だって同じだし。貴女が来てくれて、凄くうれしかったし、頑張って探してくれる姿が、好ましかった。この人と親しくなりたいって……友達になって、友達以上の事、し始めちゃって……やっぱり私ね、男の人の代替えだって、思ってたのよ。そう思いたかったの。女の子、好きなんて、おかしいって、変に常識に囚われて、貴女を傷つけたわ」
「もう、いいよ。そんなに自分を苦しめなくても。美知が私を好きだって、そう思ってくれる事実だけが重要なんだよ。私もきっと意固地になってたの」
「……これからも、好きでいてもいいのね。あの子達は、きっと試練だわ。追い落とされないように、頑張らないと。でも、藤子は優しいから、手を差し伸べてくれるのよね。あの時みたいに。甘えてもいい?」
「いいよ。美知が寂しくならないように、私頑張るから」
「んふ。藤子、もう、いっか。ご飯とかお風呂とか」
「え、ちょっと」
「はい、あーんして」
……彼女は顔を紅くしながら、その好意を隠す事もなく、藤子に頼ってくれている。あざとい子だ。そうされては、藤子は決して否定出来ないし、この子を守ると決意せざるを得ないのだから。解ってやっているのだ、きっと。
でも、そんな彼女がやはり、愛しい。
美知は包みからチョコを取り出し、藤子の口の中にちょいと放る。チョコの上品な香りと甘さが広がると同時に、美知がそのまま藤子に覆いかぶさる。
抱きしめあいながら、互いの舌でチョコを溶かす。
なんとも、考える事が、気恥かしい子だ。好ましすぎて藤子は自分が嫌になる。
唾液が絡み、粘膜を舌で擦りつけていると、他の事はどうでも良くなってしまう。
「大好き。私の王子様」
キス魔の彼女はおそらく、満足するまで離してはくれないだろう。
※
何かしら正しい道を選ぼうとした場合、そこには相応の努力と葛藤が必要になる。当然、その努力報われず、間違った方向にばかり進んでしまうのが人間である。
では、正しい道を選ぼうとする努力を虚しいと知りながら、人間が何故止めないかと言えば、それはその先に希望が在るかもしれないと、夢を抱いているからだ。そして、後悔したくないからである。
藤堂藤子が選んだのは、そのような道だ。
「でね、そのチョコ誰にあげるんだって話になって、彼女って答えたらさ、お父さん、目まん丸くしてお母さん呼びだして!」
姫宮姫子は、なんだか興奮した様子で話す。腕をしっかり組んで商店街を歩く様を、珍しがっている人もいるが、当然姫子はお構いなしだし、藤子に至ってはそろそろ完全に慣れて来た。
「娘が同性愛者だったら、親として色々思うでしょう」
「で、お母さんはお母さんで、貴方の所為じゃない? という事になって、ありゃーっと」
「……ひ、姫宮家の家庭に罅入れちゃったかな」
「ううん。私お母さんに似てるの。まあ娘って言ったって年頃の他人でしょう? しかも愛した人に似てたら、男の気持ちも察してあげなきゃねえって話になってさ。いやー、私可愛いから仕方ないねえ」
「それで、お父さんは?」
「うん。罪悪感もあったみたい。当然だよね。それにほら、別に私、手出された訳じゃないし。確かにお父さんの所為で男の人苦手だけれど。それから三人で色々話し合ってね、私少し離れて暮らす事にしたの」
「そっか」
どうやら、父との問題は決着したらしい。彼女の選んだ道が正しいかどうかは解らないが、無理をして家族で暮らす意味無しと判じたのだろう。
藤子も姫子の父の立場に立って考えた場合、確かに姫子は可愛すぎて、間違いを起こす可能性も否定出来ないと思える。まして男性だ、間違った場合のリスクが大きすぎる。
難儀な生き物だと、多少同情する。
「そういえば、美知も引っ越すって話してたよ」
「ああ、やっぱりお嬢様に、あのワンルームは手狭だよね。あ、じゃあシェアしようかな」
「……喧嘩にならないかな?」
「私ね、藤子が幸せなのが、一番幸せ」
「それは、ありがとう」
「うん。藤子と美知が、中途半端な付き合い方してるって知った時、物凄く頭に来た。なんか、その中途半端さが、中学までの私を見ているようで、気持ちが悪かったの。意気地なしが、ふざけやがってーって」
「でも過激すぎるよ」
「凄く反省した。でも、あれがなきゃきっと、私は貴女と美知を恨み続けたし、貴女は私に一生振り向く事もなかった。意気地ありすぎたけどねえ」
「ちょっと怖かったの覚えてる」
「必死だったの。だから、ま、今の状況さ、嫉妬もするけれど、でもやっぱり貴女は好きで、貴女が好き美知の良いところも探そうと思って。そうする事で、貴女が幸せなら、それが良い」
「それでシェアなんて。私が言うのもなんだけれど、確かに、仲良くして貰えると嬉しい。その為には、出来る限りなんでもするよ」
「路上でキスしてって言っても?」
「節度はわきまえたいなあ」
「ま、するんですけどね」
全く容赦も手心もない。商店街の真ん中で立ち止まった姫子は、そのまま藤子の頭を捕まえ、自分の身長にあう高さまで下げると、唇をおしつける。
ここが大きな町なら別だが、生憎近所の商店街である。つまり姫宮洋菓の並びだ。ストーブを炊きながら将棋を打っていた定食屋の親父と喫茶店の親父が衝撃のあまり盤をひっくり返した。
藤子がパンツならまだしも、生憎互いにスカートであるからして、誤認はない。
「あ、やっほ、オジ様達。みてみて、彼女! ちょーかっこいいでしょ!」
「おう。幸せにな、姫子ちゃん」
「あんな可愛い子女に取られて、男どもはだらしねえなあ……おい、母ちゃん、燗つけてきてくれ」
「働け馬鹿親父ども!」
「お、おう」
「だらしねえなあ俺達は……」
うろたえるオジ様達を尻目に、バス亭に向かって意気揚々と歩き始める姫子を見ていると、妙に心強い。
彼女はもう、中学時代の姫宮姫子ではないのだ。自分に強い矜持を持ち、価値感を受け入れ、なおかつ、この先を歩むパートナー(愛人は多いが)を手に入れたのだ。
藤子のほんの片隅にある記憶。
競技トラックで、ただひたすらに前を向いて走り続ける藤子を、ずっと見つめる姿があった。
地味で、根暗そうで、話した所で会話の一つも続きそうにない彼女は、その胸の内に、ひたすら熱いものを携えていたのだろう。
近くのバス亭からバスに乗り、四つ程行った先にある繁華街に出る。
休日とバレンタインが合わさった結果、どこを見てもカップルだらけだ。こうなると、たかだか一組の女性が腕を組んでいた所で誰も気にはするまい。
以前から予定があった為、どこかお洒落なお店を、と提案したのだが即座に却下された。最初から行き先は姫子が決めており、目的地に着くまで内緒だという。
知っている場所だ。やがて見覚えのある路地に入ると、もう何処へ向かっているのかが直ぐわかった。
商店街ではあれだけ饒舌だった姫子は、街に出てからすっかり喋っていない。藤子の腕をひったくり、黙々と足を進める。
やがて路地を三つ入り、抜けた先には大きな建物と敷地が観えた。
藤子と姫子が通っていた中学校だ。
姫子に視線を向ける。彼女はジッと見つめ返し、やがて笑顔になった。
その足で校門にまで向かう。守衛の詰め所に顔を出し、姫子が愛想を振り撒く。
「守衛さん!」
「ん。はいはい。どうしましたか」
「だーれだ」
「んん? 卒業生かな」
「はいこれ、当時の生徒手帳」
「あ、ああ! はいはいはい! いつもトラックの整備してた子!」
「見違えた?」
「いやあ、もっと地味だったもんなあ。どうしたんだい?」
「んー。ちょこっとね、ほんと、二十分くらいでいいの。入れてくれる? あ、この子も卒業生なの」
「ん? なるほど。ちょいまちね、確認するから」
「……ああ、だったら、陸上部の田畑先生に」
「なるほど」
守衛が内線で職員室に連絡を取ったのだろう。電話をしながら、手でOKサインを作る。姫子の顔が余計に明るくなった。
「田畑先生に顔出してね。なんだか解らんが、想いで巡りかい? まだ一年じゃないか」
「女の子は一年でも凄く変わるの。ほら、ね?」
「はは。まったくだ。これ、入校許可書。文句言われたら出して」
「はーい!」
久々の中学校だ。あまり良い記憶は無い為、母校に顔を出すような真似は無かった。むしろ、忘れたい記憶ばかりがある。
嫌な思いも、辛い記憶も、全部全部吹き飛ばすようにして、藤子はただ走り続けた。
「さっき、守衛さんがトラックの整備って言ってたけど」
「は、恥ずかしい事言われちゃった」
「うん?」
「だ、だからね。その。藤子がいつも走ってるトラック、陸上部が帰った後、掃除したり、小石拾ったり、色々してたの」
「それは……私が、走りやすいように?」
「ほかの人の為にはしないでしょう?」
「……姫子って。なんでそんなに可愛いの?」
「あ、ちょ、やだ、まだ駄目」
頬にキスしようとした所、手で押しのけられる。余裕なく顔を真っ赤にするお姫様が可愛すぎて、ここが学校である事を忘れていた。
しかし、なるほど。確かに藤子が走り込みを行う際、一度だって不整備だった試しがない。常に綺麗に保たれていたし、破損部分は補修すら行われていた。業者がやっているものだとばかり思っていたのだが、この子は藤子の為に、毎日残ってそんな努力をしていたのか。
愛しい気持ちが、ますます強くなる。あの当時は、走る事で全てを許していたのだ。
「まず、これ。はい。バレンタイン」
「あら、あっさり渡すね」
「じゃあ私、離れてるから」
「……はは。うん」
そうだ。これがしたかったのだろう。姫宮姫子は、限りなく乙女なのだ。
姫子が校舎裏に消えるのを確認してから、藤子は包みを開けて中のメッセージカードを取り出す。
同じ文字、同じ文言。
当時の情景が、嫌な思い出が、上書き修正されて行く。
チョコの甘みを噛みしめながら、藤子は約束された場所に辿り着く。人気が無く、夕闇ががかり、いささか暗いが『初めて出会う筈だった場所』は、当時想定されていた時刻である。
その手を胸に抱き、まるで本当に相手を待ちわびるかのような仕草で彼女はいる。
心が強くなかったあの時。配慮が出来なかったあの時。藤堂藤子が自身の魅力を知らなかった時。
心を強くせざるを得なくなったあの時。配慮が無意味だと知ったあの時。姫宮姫子が変わろうと思った時。
「……来てくれたんですね、藤堂先輩」
「――君は?」
「はじめまして。姫宮姫子って言います」
――幸せはこれから作ろう。沢山悩んで、沢山苦労して、自分達が一番幸せだと思える世界を作ろう。藤子が、美知が、姫子が、そして慕ってくれる子達が、後悔して涙を流さない為にも。
「君のくれたチョコ、美味しかったよ」
「えへへ。その、藤堂先輩」
「……なにかな」
「大好きです。ずっとずっと好きでした。私と、お付き合いしてください」
ただ悲しくて、嬉しくて、バカみたいで、それが良くって、どうしようもなくて。
「ありがとう……私も、大好き。幸せにするよ。私のお姫様」
「うっ……うぅぅっっ」
「姫子」
「藤子ぉ……ッ」
声も出せずに泣きながら、来るべき未来を思い描き、二人は唇を合わせた。
藤堂藤子の恋愛事情 了
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